上原記念生命科学財団研究報告集, 28...

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91. ピロリ菌感染者に対する個別化医療の導入 松田 浩一 Key words:PSCA,SNP,癌,胃十二指腸潰瘍 東京大学 医科学研究所 ヒトゲノム解析センター 緒 言 ピロリ菌感染は,50 歳以上の日本人の 50~70%に認められ最も多い病原性感染症の一つである.ピロリ菌感染は胃 癌や胃十二指腸潰瘍の原因となるが,生涯罹患率は胃癌で8%程度,消化性潰瘍で 10~15%程度であり全ての感染者 がこれらの疾患を発症するわけではない.また,これまでの疫学研究により十二指腸潰瘍の患者は胃癌のリスクが低い 事が知られていた.このようにピロリ菌感染後の疾患発症には個人差があるが,その差にはピロリ菌株の違いや食事・ ストレスなどの環境因子に加え,宿主側の遺伝的な素因が関与していると考えられている.近年ゲノムワイド関連解析 という手法によって,様々な疾患の感受性遺伝子が明らかとなっている.これまで我々の研究グループは感染症の重症 化に関わる遺伝子の探索を行い,慢性 B 型肝炎や HCV 陽性肝癌の関連遺伝子を報告してきた.今回我々は十二指腸潰 瘍の疾患感受性遺伝子を同定する目的で,1,043 人の十二指腸潰瘍患者及びコントロール 21,694 人について,約 60 万 ヶ所の Single nucleotide polymorphism (SNP) の遺伝子型を決定した.両群間で遺伝子型の頻度を比較検討した結果, Prostate stem cell antigen (PSCA) 及び ABO 遺伝子が十二指腸潰瘍の発症と強い関連を示す事を明らかとした 1) PSCA 遺伝子領域で最も強い関連を示した SNP(rs2294008)は開始コドンの 26 塩基上流に存在し,T アレルを持 つ人では9アミノ酸長いポリペプチド鎖をコードする新たな開始コドン(ACG→ATG)が出現し,N 末端にはシグナ ルペプチドが予測された.実際に,T アレルを持つ細胞株では,PSCA タンパク質は糖鎖付加を経て GPI アンカー型 の分子として細胞膜上に局在する事が実験的に証明された.一方 C アレルを持つ細胞株では PSCA タンパク質は膜へ の局在を示さず,細胞内で速やかに分解された.膜型 PSCA は細胞増殖を活性化する事で,損傷を受けた十二指腸粘 膜の修復を促進する一方胃癌のリスクを高めると考えられる.一方細胞質型 PSCA の場合,分解された断片が細胞外 に提示され免疫系が活性化する事で,胃癌のリスクを低め潰瘍を発症しやすくする可能性が考えられる. これらの成果を元に,我々は宿主側の遺伝因子の解析を通して,疾患の発症メカニズムの解明や,リスク予測システ ムの構築による予防や早期発見,さらには治療薬の開発につなげることを本研究の目的とする. 方法および結果 1.PSCA 遺伝子多型の疾患リスクに及ぼす影響 胃潰瘍 4,288 症例,膀胱癌 545 症例,肺癌 2,005 症例及びコントロール 16,567 名の解析の結果,PSCA 多型が疾患発 症リスクと関連する事を明らかとした 2) .またリスクアレルは,膀胱癌,肺癌は胃癌と,胃潰瘍は十二指腸潰瘍と一致 していた. 1 上原記念生命科学財団研究報告集, 28 (2014)

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91. ピロリ菌感染者に対する個別化医療の導入

松田 浩一

Key words:PSCA,SNP,癌,胃十二指腸潰瘍   東京大学 医科学研究所  ヒトゲノム解析センター

緒 言

 ピロリ菌感染は,50 歳以上の日本人の 50~70%に認められ最も多い病原性感染症の一つである.ピロリ菌感染は胃癌や胃十二指腸潰瘍の原因となるが,生涯罹患率は胃癌で8%程度,消化性潰瘍で 10~15%程度であり全ての感染者がこれらの疾患を発症するわけではない.また,これまでの疫学研究により十二指腸潰瘍の患者は胃癌のリスクが低い事が知られていた.このようにピロリ菌感染後の疾患発症には個人差があるが,その差にはピロリ菌株の違いや食事・ストレスなどの環境因子に加え,宿主側の遺伝的な素因が関与していると考えられている.近年ゲノムワイド関連解析という手法によって,様々な疾患の感受性遺伝子が明らかとなっている.これまで我々の研究グループは感染症の重症化に関わる遺伝子の探索を行い,慢性 B 型肝炎や HCV 陽性肝癌の関連遺伝子を報告してきた.今回我々は十二指腸潰瘍の疾患感受性遺伝子を同定する目的で,1,043 人の十二指腸潰瘍患者及びコントロール 21,694 人について,約 60 万ヶ所の Single nucleotide polymorphism (SNP) の遺伝子型を決定した.両群間で遺伝子型の頻度を比較検討した結果,Prostate stem cell antigen (PSCA) 及び ABO 遺伝子が十二指腸潰瘍の発症と強い関連を示す事を明らかとした 1). PSCA 遺伝子領域で最も強い関連を示した SNP(rs2294008)は開始コドンの 26 塩基上流に存在し,T アレルを持つ人では9アミノ酸長いポリペプチド鎖をコードする新たな開始コドン(ACG→ATG)が出現し,N 末端にはシグナルペプチドが予測された.実際に,T アレルを持つ細胞株では,PSCA タンパク質は糖鎖付加を経て GPI アンカー型の分子として細胞膜上に局在する事が実験的に証明された.一方 C アレルを持つ細胞株では PSCA タンパク質は膜への局在を示さず,細胞内で速やかに分解された.膜型 PSCA は細胞増殖を活性化する事で,損傷を受けた十二指腸粘膜の修復を促進する一方胃癌のリスクを高めると考えられる.一方細胞質型 PSCA の場合,分解された断片が細胞外に提示され免疫系が活性化する事で,胃癌のリスクを低め潰瘍を発症しやすくする可能性が考えられる. これらの成果を元に,我々は宿主側の遺伝因子の解析を通して,疾患の発症メカニズムの解明や,リスク予測システムの構築による予防や早期発見,さらには治療薬の開発につなげることを本研究の目的とする.

方法および結果

1.PSCA 遺伝子多型の疾患リスクに及ぼす影響 胃潰瘍 4,288 症例,膀胱癌 545 症例,肺癌 2,005 症例及びコントロール 16,567 名の解析の結果,PSCA 多型が疾患発症リスクと関連する事を明らかとした 2).またリスクアレルは,膀胱癌,肺癌は胃癌と,胃潰瘍は十二指腸潰瘍と一致していた.

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 上原記念生命科学財団研究報告集, 28 (2014)

表 1. PSCA 多型と疾患発症リスク

PSCA 多型と胃潰瘍,肺がん,膀胱がんとの相関解析を行った.

2.また肺癌組織において PSCA の発現を Tissue array で検討した結果,PSCA の発現が上昇していることが示された.

図 1. 肺癌組織での PSCA の発現.Tissue Microarray にて PSCA の発現を,肺癌及び正常肺にて検討した.

3.PSCA 遺伝子多型が胃癌・十二指腸潰瘍の発症を制御するメカニズムの解明 また PSCA 分子の発癌,潰瘍形成における生理的な意義を明らかにする目的で,PSCA の機能解析を進めた.その結果,膜型 PSCA は細胞外で切断を受けて分泌される事が明らかとなった.一方,細胞質型の PSCA は分泌されなか

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った.PSCA は様々な癌で高発現することから,現在 PSCA の ELISA による測定系の構築を進めており,癌マーカーとしての有用性の検討を予定している.

図 2. 膜型 PSCA の培養上清中への分泌.HEK293T 細胞に膜型 PSCA 及び細胞質型 PSCA の発現ベクターを導入し,cell extract 及び培養上清中のPSCA 蛋白を western blotting にて検出.

 またさらに新規のピロリ菌関連予後因子の同定を目的として,胃内視鏡検査受診者から胃粘膜,血液の収集を開始した.これまでに 100 症例の収集が進んでおり,胃病変の有無や除菌効果,ピロリ菌の薬剤耐性などの情報を蓄積している.これらの患者は,半年後の follow up 内視鏡を予定しており,今後時系列で予後情報を収集する予定である.

考 察

 ピロリ菌は日本人だけでなく途上国を中心に多くの人種で感染が広がっており,世界の全人口の半数以上が感染している最も多い病原性微生物の一つである.今後,途上国でも平均寿命が伸びるに従い胃癌の発症者数の増加が見込まれるため,ピロリ菌感染者に対してどの様な予防・検診システムを構築していくかは重要な課題である.我々を含めた最近の研究成果により,宿主側の遺伝因子が疾患発症に大きく影響する事が明らかとなった.これらの知見を基に効果的な疾患発症リスク予測システムが構築され,さらに胃癌及び潰瘍の治療薬が開発されれば医学的なインパクトは非常に大きいと考えられる. 日本ヘリコバクター学会では全てのピロリ菌感染者に対し除菌を推奨しており,実際に除菌によって胃癌の発症リスクを下げられる事が明らかとなっている.しかしながら,医療コストの問題などによりピロリ菌の除菌が保険適用されているのは消化性潰瘍と早期胃癌内視鏡治療術後の患者のみで,現状では予防的な除菌治療は認められていない.今回の我々の成果により個々のピロリ菌感染者の疾患発症リスクが予測可能となれば,高リスク群に医療資源を集約する事で,より大きな効果が期待できる. また PSCA は膵がん,前立腺癌を含む様々な癌で高発現が報告されており,PSCA を標的とした抗体薬の開発も試みられている.しかし,抗体を治療に用いる場合,標的タンパク質の細胞膜への局在が必須であり,その為には PSCA遺伝子多型を用いて患者の選別が必要となってくる.欧米人においては膜型の PSCA を持つ人の頻度は半分以下であり,この事がこれまでの PSCA 抗体を用いた臨床試験で良好な治療効果が得られなかった原因と考えられる.今後遺伝子型を基に治療対象患者を絞り込む事によって,治療効果の改善が見込めると期待できる.分子標的治療薬においては,腫瘍組織における標的分子の発現や遺伝子変異の有無などが治療対象患者を選択するためのバイオマーカーとして

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用いられてきたが,遺伝子多型が抗癌剤の治療効果と関連するという報告はほとんどない.PSCA 遺伝子多型は,ピロリ菌除菌による疾患予防だけでなく,PSCA を標的とした薬剤開発を考える上でも重要な因子と考えられる. 発癌に影響を与える環境因子は様々なものが知られているが,ヘリコバクター・ピロリ菌は喫煙に次いで第2番目の癌死亡の要因であることが国立がんセンターの報告で明らかとなった.胃癌は日本人において最も多い癌であり,ピロリ菌の除菌によってその発症リスクを顕著に減らせるにも関わらず,医療コストなどを理由に対策が遅れているのが現状である.今後ピロリ菌の検査と遺伝子型測定を組み合わせることで,効果的な胃癌・消化性潰瘍の予防プログラムの確立と,疾患の早期発見・新規の治療薬の開発につながると期待できる.今回の研究によって得られる成果は,実際の臨床応用に向けて非常に意義が高いものとなると期待できる.

共同研究者

本研究の共同研究者は,東京大学医科学研究所ゲノムシークエンス解析分野の谷川千津助教,抗体ワクチンセンターの醍醐弥太郎特任教授である.最後に,本研究にご支援を賜りました上原記念生命科学財団に深く感謝いたします.

文 献

1) Tanikawa, C., Urabe, Y., Matsuo, K., Kubo, M., Takahashi, A., Ito, H., Tajima, K., Kamatani, N., Nakamura,Y. & Matsuda, K. : A genome-wide association study identifies two susceptibility loci for duodenal ulcer inthe Japanese population. Nat. Genet., 44 : 430-434, 2012.

2) Tanikawa, C., Matsuo, K., Kubo, M., Takahashi, A., Ito, H., Tanaka, H., Yatabe, Y., Yamao, K., Kamatani, N.,Tajima, K., Nakamura, Y. & Matsuda, K. : Impact of PSCA variation on gastric ulcer susceptibility. PloSone, 8 : e63698, 2013.

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