日 分 ず 陀 人 仏 蓮 第 大 者 土 て が 仏 は 法 は 一 …...究 史 の 起 点...

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  • 源信を見なおす

    論義の視点から

    〔抄

    録〕

    源信は、『往生要集』とともにあり、浄土宗や浄土真宗によっ

    て盛んに研究され、法華經中心の比叡山から、遁世した一途な浄

    土信仰者の如く見られてきた。しかしこのイメージは、浄土信仰

    者側から見た視点であり、論義の歴史の中で源信を検討すると、

    大きく異なる。源信は、

    厳三昧院を核とした横川の中心地、首

    厳院周辺に居続け、数々の論義書を残し、天台教学の確立に向

    けて研究を深めた。そして自分の自信作や、教義上の問題などを

    何度も宋に送るなど、論議の対象を中国や印度に向けた。源信を

    こうした視点から再評価する必要がある。

    キーワード

    円仁、良源、藤原師輔、源信、論義

    第一章

    源信の忘却と再発見

    日蓮は『撰時抄』(一二七五)において、次のように言った。

    仏法日本に渡て七百余年、一切経は五千七千、宗は八宗十宗、智

    人は稲麻のごとし、弘通は竹葦ににたり。しかれども仏には阿弥

    陀仏、諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候は

    ず。此名号を弘通する人は、恵心は往生要集をつくる、日本国三

    分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往生講の式をつくる、

    扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然選択をつくる、本朝一同の

    念仏者1

    日本に仏教が伝わって七〇〇余年が経つが、阿弥陀信仰ほど広まっ

    たものはない。恵心(源信)が『往生要集』を作って、日本の三分の

    一の人々が阿弥陀信仰となった。永観が『往生十因』を作って、日本

    の三分の二が念仏者となった。そして法然が『選択集』を作って、日

    本のすべての人が一同に念仏を唱えるようになった。日蓮は、浄土教

    が広まる源流として源信を考えていたのである。そして法然は、『往

    三五

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 生要集』の注釈書の四冊を書き、往生要集を重視している。初期の法

    然の伝記である醍醐本『法然上人伝記2

    』には「往生要集爲先達、而入

    浄土門。」とあり、法然や、「法然伝」の編者及び享受者も、源信の

    『往生要集』が、浄土思想の先達であり、また浄土信仰入門の書と考

    えていたことが分かる。

    法然以後、浄土宗第三祖の良忠の『往生要集義記』を始めとした注

    釈書が多く作られている。『仏書解説大辞典』によると、『往生要集』

    の注釈書七十五本を数えることができる。時代別に分類すると、平安

    期に二本、鎌倉室町期に十四本、江戸期に三十二本、近代に九本であ

    り、残りは未詳である。宗派別に分けると、天台宗が二本、浄土宗が

    十四本、浄土真宗三十九本で残りは宗派を確定できない。日蓮宗や禅

    宗・真言宗には全く無い。ここから推測できることは、平安期に天台

    の註釈が少し現れたが、鎌倉に入って、法然が四本の註釈をして以後、

    浄土宗が『往生要集』の註釈を積極的に始め、江戸時代に入ると浄土

    真宗が極めて精力的に『往生要集』の註釈をしていることが分かる。

    法然が『往生要集』に注目することで、その後の浄土宗や浄土真宗に

    おいて『往生要集』の研究が盛んになった。しかし『往生要集』は、

    法然が「十七條御法語3

    」で「初心人ノタメニヨキ也」というように、

    浄土教に入るための入門書的な扱いである。教線拡張に積極的であっ

    た浄土宗や浄土真宗において積極的に註釈や教化用の冊子が多く作ら

    れていった。一方、天台宗は、中世末期になると、浄土宗や浄土真宗、

    そして禅宗の曹洞宗に押され、信者も寺院も多く転宗していった。そ

    うした中で天台教学自体も衰退していった。しかも『法華経』中心の

    天台教学の中での『往生要集』は、やはり教学の中の一部分でしかな

    く、しかも法然のいうように入門的な一書でしかなかったのであろう。

    天台宗による『往生要集』註釈が多くはなされなかったのは宗派衰退

    と教学の中心ではなかったからである。

    近代に入ると、廃仏毀釈の影響で、仏教界全体の衰退と危機が叫ば

    れ、教学の近代化が急がれた。その中でいち早く大学の充実を図った

    のは、経済基盤の大きい浄土真宗や曹洞宗・浄土宗などであった。そ

    うした中で、各宗派の教祖の近代的解釈がなされるようになる。そう

    した状況で、教組でない源信は忘れ去られた存在となる。

    明治から昭和初期までの仏教史概説書に、「源信」のはっきりした

    姿はない。例えば明治十七年(一八八四)大内青巒『日本仏教史略』

    や田島象二『日本仏法史』には、源信はほとんど登場しない。明治三

    二年(一八九九)東京帝国大学で講師をしていた村上専精が発表した

    『日本佛教史綱』は、「第十七章

    恵心檀那の二僧都及び慧檀兩流の異

    義」に源信の略伝が出ている。しかし、大正八年(一九一九)に東京

    帝国大学の史料編纂係をしていた辻善之助が、『日本仏教之研究』を

    刊行し、帝国学士院恩賜賞を受賞し、一躍世に知られ注目された。こ

    こには全く源信は登場しない。昭和に入って九年発行の山田文昭『日

    本仏教史之研究』において「第二期

    平安時代天台真言の時代」「第

    五章

    浄土教の漸興」があるが、全体一〇五行の内、源信と往生要集

    については九行だけである。

    戦後に入って、ランケ流の実証主義を更に徹底した辻善之助が大著

    『日本仏教史』全十巻を発表した。この研究は、その後の日本仏教研

    三六

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 究史の起点となる。この中で「源信」を次のように評した。

    佛教が平安時代に至つて大に日本化したことの一面については、

    既に前に述べた如くであるが、その最も著しい例は、浄土教の発

    達である。即ち浄土教の発達は、佛教の日本的特色を帯びるやう

    になった最も著明な現象である。而してその発達を最もよく代表

    するものは源信その人である4

    平安時代の浄土教発達の原点として「源信」を評価したのである。

    ところが、それに続く昭和三二年(一九五七)の大野辰之助の『日本

    仏教思想史』や昭和四二年(一九六七)の家永三郎・赤松俊秀・圭室

    諦成らが監修した『日本佛教史』でも、源信はそれほどに評価はして

    いない。源信は、明治以降、このように忘れられた存在であった。

    同じ昭和四二年、石田瑞穂が『悲しき者の救い

    往生要集

    源信

    という書を筑摩書房の「日本の仏教」シリーズ五巻目に出版した。こ

    のシリーズはどれも新鮮なタイトルであったが、とくに『悲しき者の

    救い』は、日本人の抒情的な感覚に訴え注目された。この三年前(一

    九六四)に東洋文庫から『往生要集

    日本浄土教の夜明け』という

    『往生要集』の現代語訳本を出版している。その解説で、横川に隠遁

    した源信が書いた『往生要集』の影響について詳しく解説し、『往生

    要集』を「日本浄土教の夜明け」と位置づけた。

    そして三年後、印象的なタイトルで多くの読者を魅了した『悲しき

    者の救い

    往生要集

    源信

    』が書かれたのである。そして源信は若

    くして、広学竪義で活躍し、華々しい名声をとどろかせていたが、そ

    の時の布施を老母に贈ったとき、世俗になじんだ学生より、多武峰に

    かくれた清貧の増賀聖のようであって欲しいと返事を送ってきたこと

    を動機として、名声に訣別を告げて隠遁した僧として源信を描いて見

    せた。この石田瑞穂の二著によって「源信」は、「日本浄土教の夜明

    け」に立つ人物として、「名声を捨てて横川に隠遁した遁世僧」とし

    て、印象深く再発見されたのである。

    ちょうどこの頃、「遁世論」が注目を集め始めた頃である。石田瑞

    穂が『往生要集

    日本浄土教の夜明け』を出した翌年、大隅和雄が

    「遁世について5

    」を書いて注目を集めた。その冒頭部分で、

    仏教の初期においては出家と遁世は同一のことであった。しかし

    日本では出家と遁世は別のことを意味した。鎌倉時代の無住は、

    人間の生活形態を在家、出家、遁世の三段階で考えた。それは中

    世においては一般的なことであった。(中略)遁世は平安時代末

    にあらわれ、時代が下るにつれて増加しているのである。このよ

    うな遁世はいかにして生まれたのであろうか。

    と、問題を設定し、そして遁世を名づけて、「二重出家」といい、遁

    世を規定して次のように言った。

    寺院は宗教的であるよりも世俗的であり、僧位僧官は現世の延長

    であることを意味する以外の何ものでもなかった。寺院で行なわ

    れる修法も現世の効験を祈る呪術的なものであったし、寺院の経

    済的基盤とその経営も世俗化を余儀なくした。したがって自由な

    信仰を持ち、仏教本来の教えに日覚めた僧侶は、一旦出家して入

    った寺院から、さらに重ねて出離をとげることによってはじめて

    宗教的な実践を行なうことができると考えたのであった。僧官を

    三七

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 辞して横川に隠棲した源信をはじめ、既成の教団から離脱して修

    行し説法した僧は

    平安時代中期以降多く見られるようになり、

    俗世→寺院→

    遁世という型でとらえられるのである。

    ここで「僧官を辞して横川に隠棲した源信」は、遁世僧の典型であり、

    はじめとされたのである。それ以後、遁世論が活発になる。桜井好朗

    が『隠者の風貌』を出版したのも昭和四二年(一九六七)であった。

    ここで遁世者を次のようにいう。

    隠者は遁世者ともいう。けがれた世を逃れてかくれる者の意であ

    る。仏徒とは限らぬが、日本のばあい彼らの間から多くの遁世者

    がでている。遁世は出家とちがう。たとえば世間を厭い出家した

    ものの、寺院自体が世俗化しており、それにもたえられなくなっ

    た者がついに山野にひとりかくれ住むという、したたかな行為が

    遁世である。

    この遁世者の流れは、貴族的な浄土思想から本格的に始まるとした。

    その最初として慶滋保胤をあげ、源信の『往生要集』は、遁世へのい

    ざない、隠遁の理論的支柱となった感があるとした。

    このように源信は、『往生要集』によって注目され、江戸時代まで

    評価されたが、近代に入って、ほとんど注目されないようになった。

    そして戦後、特に石田瑞穂の著書によって、再発見され、「日本の浄

    土教の夜明け」に立つ人物としそこで「名声を捨てて横川に隠遁した

    遁世僧」としてイメーシされたのである。

    私は、「論義」の視点から、またその「論義」を大きく変革させた

    源信の師である良源の視点から「源信」を考えた時、この二つの「源

    信」の評価は、大きく変更を余儀なくされると考えている。そこでま

    ず「名声を捨てて横川に隠遁した遁世僧」としての源信、次に「日本

    の浄土教の夜明け」に立つ源信という評価を検討する。

    第二章

    良源の遁世と、円仁の遁世

    まず源信の師である良源の遁世について考えてみたい6

    。良源は延喜

    十二年(九一二)生まれである。琵琶湖の北方の東浅井郡虎姫町辺り

    に生まれた。十二歳で比叡山西塔理仙に師事し、上山した。十七歳の

    時、師が没し、座主尊意につき受戒する。翌年には叡山内の論義で活

    躍し、更に勉学を深めてゆく。そうした頃に、承平五年(九三五)延

    暦寺根本中堂より出火、唐院など四十余宇を焼失する大火災を経験す

    る。その二年後、良源は、興福寺維摩会の勅使房番論義で名をあげ、

    摂政藤原忠平の知るところとなる。六〇歳となり病勝ちの忠平は、若

    い良源に後世の弔いを依頼した。そうした依頼に応えるべく、更なる

    研鑽をする。世は将門や純友が東国や西海で承平天慶の乱を起こした

    頃である。そんな天慶五年(九四一)大和国の当麻の郷に源信は生ま

    れた。良源は三一歳である。

    それから七年後、天暦三年(九四九)に藤原忠平が没した。良源に

    とって忠平は、まだ若く未熟な自分を見出し認め、その将来を期待し、

    ゆくゆくは強力な後援者となってくれるはずの人物であった。その忠

    平が没したことは、良源にとって一つの危機であった。良源は即座に、

    すべての公務を辞め、横川に隠棲した。横川

    厳院に隠り、三〇〇日

    護摩を修した。藤原齊信撰の『慈慧大僧正傳7

    は次のように語る。

    三八

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 煩累。隠

    厳院。修

    三百日護摩。一心不退。不

    身命。

    此間、可

    本山座主

    之趣。夢中告

    之。和尚云。諸佛利生。可

    人願。我不

    現世榮進。何有

    斯告

    哉。其後静而思

    之。稻

    幹喩経云。勤求

    菩提。即成

    現世悉地

    云云

    其文

    慰労耳。

    「煩累」を抛なげうってといっている。すなわち公務や社会的な関わりすべ

    てを抛って、横川

    厳院に隠遁したのである。そして三〇〇日間、一

    心不退に身命を惜しまず、忠平のために護摩を修した。その間に本山

    座主となる夢を見る。自分は現世の栄達を思っていないのに、なぜこ

    んな夢を見るのかと思う。後で静かに考えると、『稻幹喩経』の言葉

    が思い出された。努めて正覚を求めて行を修していれば、現世に悟り

    の境地が得られるという文言である。これかなと想い慰めたという8

    この頃の横川は円仁開創以後、衰退し、幾つかの堂塔は残っていた

    が、殆ど人のいない状態であった。そんな横川の首

    厳院に籠もって、

    藤原忠平の後世安穏を弔った。後世安穏を弔うとは、忠平がこの世へ

    の執着なく、安穏にあの世に旅立つことを祈るのである。従って忠平

    の供養の数々と子孫繁栄とを共に祈るのである。忠平の「遺託」によ

    って息子藤原師輔は、良源を師としたので、その子孫繁栄も祈られた。

    横川首

    厳院とは、円仁が天長八年

    八五一)病のため余命はないと

    考え、最後の修行を比叡山最北の未開地横川に求め、禅定の境地のま

    ま死ぬことを求めて入定の修業に入った地である。巨杉の洞の中で修

    行をし、庵で休む日々を送る。三年が過ぎ、ある時妙薬を口にする夢

    を見る。すると奇跡的に回復し、感謝して法華経八巻六万八千字を書

    写し、それを安置する小塔を建てた。これが根本如法塔、庵が首

    院である。円仁はここを中心に横川の開発をし、幾つもの堂塔を建て

    た。しかし円仁没後の比叡山は、円珍一派の時代となり、横川は全く

    顧みられず荒れ放題になっていた。『慈恵大僧正拾遺傅9

    』によると

    慈覺大師入滅後。住持之僧纔爾

    三人。鎭朝僧都爲

    校。以

    延峯

    補任預

    職。件法師異例者也。雖

    住人

    庵。其詞云。造作不

    住者不

    承引。爲

    紹隆。主人未

    此由。

    横川に住んでいるのは、「纔わずか爾のみ三人

    」とある。延峯という僧が管理

    していた。この僧は異例の法師で、横川にやってきた僧がいても、草

    庵を結ばせなかった。それは「紹隆」のため、すなわち円仁の志をう

    け紹つぎ、この横川を隆さかんにする人物を待っているのである。その人物

    はまだ現れない。そこに、あらゆる公務を抛って、この人のいない横

    川に良源が現れる。その志を知り、即座に定住を認めた。良源は首

    厳院で、忠平の後世ために護摩供養をした。そしてその近くに庵を結

    んだ。そして定心房と名付けた。

    良源は、円仁と同年代で、円仁の隠棲した場所に隠遁したのである。

    円仁はこの横川で復活再生し、その後渡唐を果たし、あの『入唐求法

    巡礼行記』を書いた。良源も、同年代で横川に隠遁し、忠平供養護摩

    を修し、夢の如くに、後に天台座主に上り詰める。円仁にとっても、

    良源にとっても、この横川は、人のいない遁世適地であり、再生復活

    の場所であった。源信の場合はどうであろうか。

    三九

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 第三章

    源信の遁世と時期の検討

    源信は、天慶五年(九四一)大和国の当麻の郷に生まれた。良源は、

    三十一歳ですでに興福寺維摩会、勅使房番論義で名をあげ、藤原忠平

    に認められ、更なる勉学に励んでいる頃である。その忠平が没し、強

    力な後援者となるはずの人物を失う。その忠平との約束であった後世

    弔いの供養のため、煩累を抛って、天暦三年(九三九)八月、横川に

    遁世三〇〇日の護摩供養。すると翌年五月、忠平の霊を安穏ならしめ

    る報が届く。村上天皇の御子誕生。母は忠平の息子師輔の娘安子であ

    る。ちょうど三〇〇日の護摩供養が終わった頃である。師輔はこれで

    良源の絶大な後援者となる。七月には、皇太子となる。そして良源は

    師輔の強い懇請により、東宮護持僧に任じられる。天暦八年(九五

    四)には、師輔が横川の

    厳の峯にやってきて、良源を仰ぎ敬って、

    その近くに法華三昧堂建立を発願した。その落慶法要において、一門

    の繁栄を祈願したのである。そしてこの法華三昧堂を良源に託し、多

    くの僧侶が勤めることを補償した。(『慈慧大僧正傳』)こうして師輔

    の絶大なる信頼を得ることとなった。法華三昧堂以外に、首

    厳院・

    真言堂の造営がなされ、横川は若い良源の弟子たちが一気に増えてい

    った。四〇代の良源の所には十代二十代の若い僧たちが集まる。もち

    ろん良源の住房定心房も、立派に造営され、経蔵も付設充実させ、若

    い住僧の修行勉学への充実を計った。こうして横川は比叡山の中で最

    も若さと意欲に充ちた場所となった。こうした時期に、源信が横川に

    登り、良源のもとで出家をするのである。その時十五歳ほどである。

    師輔は第十子尋禅を良源のもとで出家させ、一門の繁栄祈願の継続

    を託す。そして天徳四年(九六〇)に没す。その遺領十一箇荘が、尋

    禅の師良源に委託された。これが横川の将来にわたっての繁栄の基礎

    となるのである。もちろん比叡山全体の復興充実にも力を発揮し、東

    塔にある根本中堂の造営を始めとして、経蔵の充実も図っている。こ

    うした比叡山全体の充実の中で、南都を巻き込んだ応和の宗論が行わ

    れる。この法相・三論・華厳の学侶と若い比叡山の学僧たちとの激し

    い論義が行われた応和三年(九六三)の時点では、源信は二二歳の若

    輩であった。そして康保三年(九六六)ついに良源は天台座主となる。

    五五歳と若い天台座主であった。ところが三ヶ月後、東塔周辺の三十

    一宇が焼失する大火災が起こる。すぐに再建を始める。良源に委託さ

    れた師輔の資産が助けとなる。更にこの年、広学竪義が勅許される。

    そこで東塔の大講堂の再建が急がれる。そして自坊横川定心房での、

    広学竪義に向けての特訓が始められる。東塔・西塔・横川のそれぞれ

    の院房で、経蔵で、広学竪義に向けて勉学を始める。そして安和元年

    (九六八)初めての広学竪義が行われた。「広学」とは、天台だけでな

    く真言・法相・華厳など広く学を極めること。「竪義」とは、探題と

    いう出題者が、問題を出し、それに対して竪者が義を立てて、自分の

    考えを主張する。この論義を何度かくり返し、それを聞いた証義者が

    一定のレベルに達しているかを判定し及第を決する。こうした論義に

    よって若い学僧を鍛えていくのである。

    天延元年(九七三)六月、源信が広学竪義に登った。その時の探題

    博士は禅芸、七二歳の博識の学侶である。その時の様子を『延暦寺首

    四〇

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 厳院源信僧都伝10

    』は次のように伝える。

    天延年中。以

    其翹楚。預

    廣學竪義。少僧都禪藝。爲

    探題博士。

    問答之間。有

    疑難

    得否未

    判。翌日於

    梨房。再精

    義理。

    逐振

    及科之芳名。干時春秋卅二矣。山上院内。講経法曾之筵。

    論義決

    。智辮抜群。

    源信の立てた独自の義は、七二歳の禅芸も知らない理論で、判定がで

    きず、翌日は自房で、諸経諸論による精査の後、及第の判を決するこ

    とができたという。まさに「論義決択、智弁抜群」の源信であった。

    時に三二歳である。翌年、宮中の論義に抜擢され、東大寺の学僧

    と論義した。両者の論義は激しく、夜中までに及んだという。そして

    それを聞いた聴衆は、源信を称えたという。

    『首

    厳院廿五三昧結縁過去帳』にある「源信伝」は、小原仁11

    によ

    ると、弟子であり同朋でもある覚超によって、源信の没年寛仁元年

    (一〇一七)から、覚超没年の長元七年(一〇三五)の間に執筆され

    た最初の源信伝であるという。そこに、次のように記している12

    住山修學、學業既成、爲

    佛道英雄、論義決

    、世

    絶倫、時赴

    公請、有

    得物、撰

    貴贈

    母、母泣報云、所

    送之物、雖

    喜、遁世修道、我所

    願也、

    母言、永絶

    萬縁、隠

    居山

    谷、修

    浄土業。

    源信は、比叡山に入り、学業はすでに完成の域に達し、仏道の英雄で

    ある。論義で自らの理に決し、世に絶倫といわれた。ところが、公の

    恩賞を頂き、それを母に贈る。すると母は、泣いて一報をよこす。贈

    り物は喜ばない訳ではないが、遁世修道こそが我が願いだという。そ

    の母の言葉に従い、あらゆる縁を断って、浄土の業を修したという。

    「論義・学業」と「遁世・浄土」を対比的に描いている。『今昔物語

    集』は、これを原型にして、感動的な説話に成長させている。手紙部

    分は「所

    送之物、雖

    喜、遁世修道、我所願也」というものだ

    が、それが次のようになっている。

    母ノ返事ニ云ク、「遣セ給ヘル物共ハ喜テ給ハリヌ。此ク止事無

    キ学生ニ成リ給ヘルハ、無限ク喜ビ申ス。但シ、此様ノ御八講ニ

    参リナドシテ行キ給フハ、法師ニ成シ聞エシ本意ニハ非ズ。其ニ

    ハ徴妙ク被思ラメドモ、嫗ノ心ニハ違ヒニタリ。嫗ノ思ヒシ事ハ、

    『女子ハ数有レドモ男子ハ其一人也。其レヲ元服ヲモ不令為ズシ

    テ比叡ノ山ニ上ケレバ、学問シテ身ノ才吉ク有テ、多武ノ峰ノ聖

    人ノ様ニ貴クテ、嫗ノ後世ヲモ救ヒ給へ』ト思ヒシ也。其レニ、

    此ク名僧ニテ花ヤカニ行キ給ハムハ、本意ニ違フ事也。我レ、年

    老ヒヌ。「生タラム程ニ聖人ニシテ御セムヲ心安ク見置テ死ナバ

    ヤ』トコソ思ヒシカ」書タリ13

    贈ってくれた品物には感謝します。貴方が立派な学生となったことも

    とても喜んでいます。しかし、公的で盛大な行事への参加をしてまわ

    るようなことは、嫗の本意とは全く異なるものです。嫗には女の子は

    何人もいるが、男の子はたった一人。それを元服もさせずに比叡山に

    上げたのは、学問をして才を身につけ、多武峯の増賀聖人のようにな

    り、嫗の後世を救ってほしいと思ったからです。このように名僧とし

    て華やかに生きていくことは、私の本意とは違います。私も年老いて

    しまいました。生きている内に、あなたが聖人となっていらっしゃる

    四一

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • のを見て、心安らかに死を迎えたいものです。我が子が清らかな聖僧

    となることを願う母であった。それに対する

    源信の返事は、

    「源信ハ更ニ名僧セム心無ク、只、尼君ノ生キ給ヘル時、如此ク

    止事無宮原ノ御八講ナドニ参テ、聞カセ奉ラムト思フ心深クシテ

    ギ申シツルニ、此ク被仰タレバ、極テ哀レニ悲クテ、喜シク思

    ヒ奉ル。然レバ、仰セニ随テ山籠リヲ始テ、聖人ニ成ヌ、『今ハ

    値ハム』ト被仰レム時ニ可参キ。不然ザラム限リハ山ヲ不可出ズ。

    但シ、母ト申セドモ極タル善人ニコソ御マシケレ」ト書テ遣リツ。

    源信は名僧のように振舞おうという心はありません。母君が生きてい

    る間に、私の説法を聞いていただきたいと思いましたが、母のおっし

    ゃったことはしみじみと心に響き、うれしく思います。だから仰せに

    従って、山籠りを始めて、聖人になります。今度会いましょうとおっ

    しゃる時がくるまで、山を出ませんと誓った。

    『今昔物語集』はこの後も、手紙の交換があり、死ぬまで我が子が

    山を出ることなく聖僧となることを念じつつ、往生を遂げていく母。

    そしてそれを予感し、山を急ぎ下る源信。そして最後の別れを迎える

    様子が、劇的に語られる。『今昔物語集』は、「名僧」と「聖僧」を対

    比し、山を出る僧と山を出ない僧とを対比し、最後の劇的な再会と母

    の往生に結びつけている。この話は確かに、『首

    厳院廿五三昧結縁

    過去帳』の話を原形として構想されたものであろう。この説話に対し

    て、速水侑は次のようにいっている14

    広学竪義及科以後、講経法会の莚えんにつぎつぎと召され、得意の境

    にあった源信が、母の箴しん誨かいに深く感じ隠遁したという、これら伝

    記や説話の事実を否定するものではないが、その年次を特定する

    のは無理であろう。むしろ、天元三年の延暦寺根本中堂供養のこ

    ろを境にして源信の心境に変化がおこったとするならば、この供

    養法会を契機に表面化した山内の派閥抗争の影響も無視できぬの

    ではあるまいか。

    速水侑は、源信の隠遁の事実は、明確にできない。ただこの根本中堂

    供養の頃を境に、公的法会に名前が出ない源信がいる。それはこの供

    養会を契機に表面化した山内の派閥抗争の影響ではないかという。平

    林盛得は、源信を「煩わしい寺院運営や行事面から除外しているのは、

    むしろ良源の配慮15

    」とする。それに対し小原仁は次のようにいう。

    私は、この話は実話であろうと思っている。覚超は生前の源信か

    らさまざまなことを聞いていたに違いない。両親や姉妹のこと、

    ふるさと当麻のことなど、折に触れ語ったことをいくつも記憶し

    ていて、この話も『過去帳』源信伝に挿入したのだろう。この話

    は『源信僧都伝』にも踏襲されているが内容に変化はない。しか

    し『今昔物語集』になるとこれに尾鰭がつく16

    『過去帳』の話は実話で、『今昔物語集』は、尾鰭を付けた創作か、敷

    衍であるという。そして実際に遁世し、その時期については、源信の

    論義の名声を確立した

    然との論義が、天延二年(九七四)三三歳の

    ことであり、源信の母の叱咤激励による遁世は、この後としている。

    遁世の時期についてのもう一つの説は、『今昔物語集』で、そこで

    は、「三條ノ大后ノ宮ノ御八講」の後としている。この「三條ノ大后

    ノ宮」とは、朱雀天皇皇女で昌子内親王のことで、冷泉院妃となられ

    四二

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • た。『小右記』に、「長徳二年(九九六)八月十六日太皇太后法花八

    講」が記録されているので、この後に源信は遁世したというのが『今

    昔物語集』の説である。従って源信遁世説に関して、具体的に年代を

    設定している説は、天延二年(九七四)三三歳の後の頃とする小原説

    と、長徳二年(九九六)五十五歳の後とする今昔物語説の二説である。

    この二つの遁世の可能性について考えてみる。

    第四章

    源信の遁世説の再検討

    天延二年(九七四)の頃、三三歳の源信はどこに居ただろう。前年

    に広学竪義に合格したばかりである。師の定心房で必死に論義への対

    策を練っていたであろう。従ってこの頃の源信は、定心房か、その近

    くにいたと思われる。定心房は、良源の住房であるが、師輔の帰依を

    得て、横川に多くの僧が住むことを保障したので、そうした若い僧を

    育成するために、充実した経蔵と広い食堂が附設され、論義の場も設

    置されている場所である。論義の対策を練るには最良の場所である。

    師の良源が、自分の師である理仙の本覚房を出るのは、三九歳である。

    源信は恵心僧都と言われるように、後に恵心院に住む。恵心院とは、

    兼家が比叡山に登って来て、良源に父師輔に倣って一院建立を願った

    時、慈覚大師が卜した勝地「恵心」を推薦し、永観二年

    九八三)、に

    建立されたものである17

    。源信四二歳。源信が住むのは良源の指示によ

    ろうが、これより後であろう。ただこの恵心院も、定心房のすぐ近く

    である。若い論義僧の威勢のよい声が聞こえてくるほどの距離であり、

    経蔵・食堂に近く勉学に好都合の場所である。

    源信は、貞元三年(九七八)の六月会の論義の竪義者に選ばれた厳

    久に、竪義で必要な因明について教えてほしいとの依頼を受け、二月

    には『因明論疏四相違略註釈』(以後『略註釈』)三巻を書いている。

    論義の竪義者は、前年度の竪義終了時に指名されることが多いので、

    この前年には厳久から依頼を受けていたであろう。この著に「首

    院源信」と記した。首

    厳院とは円仁が建て、良源が整備した横川の

    定心房を含む建物群をいう。すなわち源信は、定心房か、その辺りに

    いた事になる。この『略註釈』の中で、次のようにいっている。

    先師慈恵大僧正。善解

    法義。心無

    偏党。往年於

    大衆賢哲前。

    始許

    此解。爾來山家多有

    依憑。然南京学者。確乎不

    改18)

    師良源の説を提示し、天台(山家)はその説によっているのに、法相

    (南京)の学者は改めないことを主張している。すなわち、『略註釈』

    の中で、師である良源を尊重し、後輩厳久の依頼に全力で応えている。

    このころの源信は、師との関係や、学生仲間の関係を重視し、親密で

    あったことが理解できる。それなのにどこに閉じ籠もるというのであ

    ろう。しかもほとんど移動せず、経蔵があり勉学の適地定心房を含む

    厳院の範囲内にいた。天延二年から貞元三年の頃の源信は、若い

    学生達の密集地である首

    厳院と言われる範囲を出ていないし、師の

    良源との関係、学生仲間との関係も、学問を通じて良好であり、小原

    のいう天延二年(九七四)以後の遁世はあまり考えられないのである。

    因明という論理学で最も難解な因明入正理論の中の四相違について、

    中国でも南都でも見解の違いが示される重大問題である。源信はこれ

    に集中し、自信をもって『略註釈』書き上げた。こうした学問への集

    四三

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 中の背後には平林盛得のいう「良源の配慮」が考えられる。平林盛得

    は、良源の四哲と言われる学僧を検討し、次のようにいう。

    源信等を煩しい寺院運営や行事面から除外しているのは、むしろ

    良源の配慮であったように思われる。横川が研学の中心となり、

    良源の弟子たちが数多くそこから巣立ったのにはこうしたいわば

    学究派ともいうべき僧侶を寺院事務から解放したところにあるの

    ではなかろうか19

    源信は、「良源の配慮」によって、役職から開放され学究に邁進でき

    たというのである。良源は比叡山の大火災からの復興と学問の活性化

    に論義を導入し、勅許を果たし、比叡山の学問興隆の礎をなした。し

    かし良源には著作が少なく、学問的確立を果たしていない。そうした

    比叡山の学問的確立を源信に託したのである。そして周囲の学僧たち

    も厳久のように源信に期待していたのである。

    源信は、後に恵心院に住み、恵心僧都とも呼ばれるが、この恵心院

    は、『比叡山護国縁起』によると、藤原兼家が叡山に登って来て、良

    源に父師輔に倣い、一院建立を願う。良源は、感動し、慈覚大師が卜

    した勝地「恵心」を勧め、実現したのが恵心院である20

    。供養は永観元

    年(九八三)に良源によって行われた。源信が恵心院に住むのは、こ

    れ以後である。これも「良源の配慮」であろう。源信が『往生要集』

    を書き始めるのは、末文に、「永観二年申申冬十一月、天台山延暦寺

    厳院、撰集斯文」とあり、恵心院建立の翌年である。もし『往生

    要集』が恵心院で書かれたとすると、これも「良源の配慮」と言えよ

    う。ここには「首

    厳院」にて書いたとあるが、恵心院は定心房に近

    く、若い学僧の勢いある論義の声が届くほどの距離にあり、首

    厳院

    の範囲である。源信は師の良源の定心房で育ち、良源が広学竪義によ

    って道筋は付けたが、なし得なかった学問興隆を首

    厳院で実現して

    ゆく。そしてやがて恵心院に移るが、ここは経蔵や食堂を付設した定

    心房に近く、首

    厳院の範囲内である。このように源信は、首

    厳院

    といわれる範囲を出て、遁世した形跡はないのである。

    次に、『今昔物語集』の説、長徳二年(九九六)五十五歳遁世説に

    ついて考える。母の願いは「山籠り」で、その時期について「三條ノ

    大后ノ宮ノ御八講」の後としている。『小右記』に、「長徳二年(九九

    六)八月十六日太皇太后法花八講」が記録されている。従ってこの後

    に、源信の母は、源信に聖僧としての「山籠り」を願ったということ

    になる。ところが同じ長徳二年(九九六)五月に源信は若い頃に書い

    た論義書『六即義私記』に奥書を付し、捨てがたい愛着を見せている。

    年少時以

    事縁

    之。今長徳巻?

    申歳夏五月略見

    之。文義謬

    訛不

    注?)

    乎放火中。而依

    一兩要文

    並載

    先徳之所

    。暫留

    之。伏以見者捜

    取其要文

    之後。早可

    破却

    厳沙門

    記云

    云 21)

    「年少の時に、事の縁有るに依って之を草す」とあり、長徳二年(九

    九六)五月にこれを見直したところ、文義に誤りが多いので火の中に

    放ろうと思うが、六即義の要文や先徳の言が引かれているので、留め

    る。これを見た者は、要文を写した後、早く破却すべしと書かれてい

    る。年少の頃に論義の準備の書として書いたものだが、それを論義を

    志す後続の学僧の為に残すというのである。

    四四

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 同じ年、『続本朝往生伝』「沙門寛印」の伝に「源信僧都、宋人朱仁

    聡に見まみえむがために、学徒を引きて越前の国敦賀の津に向へり」とあ

    り、それがこの年だと速水侑はいう22

    。宋人朱仁聡とは、永延二年(九

    八八)に、『往生要集』と師の良源の『観音讃』、慶滋保胤の『往生極

    楽記』などを宋の仏教界に送り届けてくれた人物である。その人物と

    会うために敦賀の港に、学徒を引き連れて行っているのである。四年

    前の宋の慈恩門徒に送った『略註釈』の評判を聞くのも目的であった。

    この『略註釈』は、竪義者に選ばれた厳久の依頼で書いたものである。

    しかも論義の根幹にある論理学因明の中でも最も難解なテーマであり、

    相当の自信作である。その評価はこの時は聞くことができなかったた

    めに、翌年の長徳三年(九九七)に再び書写している。さらにこの年、

    宋の源清の著作について、批判文(破文)を、天台の学侶八名と分担

    して書くこととなっている。

    このように、長徳二年(九九六)五十五歳遁世説のころは、論義書

    の整理著述・学侶八名との共著の作成、宋の朱仁聡との会見など、極

    めて忙しい日々を送っている。ここでも全く円仁・良源のような遁世

    は考えられないのである。

    このように源信遁世に関する二つの説、即ち天延二年(九七四)三

    三歳の後の頃とする小原説と、長徳二年(九九六)五十五歳とする今

    昔物語説は、ともに論義書の著述や整理、学生との交流や対外との交

    流など忙しく、遁世の可能性は極めて少ないのである。

    母の手紙の話はどうであろうか。『過去帳』の母の願いは「遁世修

    道」であり、『今昔物語集』では山を出ずに学問専念を願っている。

    これらの母の願いにおける「遁世」は、山から出ない意味だけであり、

    大隅の「二重出家」や、桜井の「山野にひとりかくれ住む」という遁

    世を意味してはいないのである。比叡山を出ずに学問一途に生きるこ

    とを願っているのである。即ち母の手紙を、独り隠れ住み浄土一途の

    遁世と結びつけたのは、浄土信仰者の曲解である。実際の源信には独

    り隠れ住むような遁世の可能性は考えられないのである。

    第五章

    源信と、比叡山「論義」

    天台の論義には、「義科」といわれる論題がある。その「義科」に

    は、「十六算題」というものが、論義の代表的問題として重視されて

    きた。それは以下の十六である。①六即義、②四種三昧義、③三観義、

    ④被接義、⑤名別義通義、⑥教相義、⑦十如是義、⑧二諦義、⑨眷属

    妙義、

    三周義、

    即身成仏義、

    三身義、

    嘱累義、

    仏土義、

    仏性義、

    十二因縁義である。天台が重視した十六算題に対し、源信

    は十三算題について論義の模範解答書である「私記」を書いている。

    この時期最も多くの「私記」を作り、それを現在も引き継いでいるの

    である。これらはすべて、先の『六即義私記』の奥書にあったように、

    論義を志す後続の学僧の参考書として残されたものである。『六即義

    私記』に奥書を付した翌年には、三十七歳の時に書いた『略註釈』も

    書写している。この頃源信五十五歳、今まで書き溜めた論義書の整理

    をしていた風がある。即ちそうした立場に立っていたのである。こう

    した論義の視点から源信を見てみると、遁世は全く考えることはでき

    ず、天台の論義を始めた良源の後を継いで、論義を確立した人物とし

    四五

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • て評価すべきであることが見えてくる。

    この『略註釈』は、『因明入正理論疏』を根幹に置き論じている。

    この理論はインドの陳那によって確立された『因明正理論』で、自分

    の主張を正しく成立させる「能立」と相手の主張を論破する「能破」

    の二つの論争技法を基本とする。源信はこの『略註釈』の中で、数論

    説や勝論説での法相宗系の解釈を誤りとし、師の良源の因明説を正し

    い理解として主張している23

    。こうした自信作を、宋の論義の中心であ

    る慈恩門徒に送って、その批評を乞おうというのである。この時は送

    ることができず、四年後の長保三年(一〇〇一)に、新たな論義関連

    の注釈書『纂要義断注釈』を加えて、慈恩門徒に送っている。即ち日

    本の法相宗を批判し、宋の本家の法相宗門徒に、論議を仕掛けたと言

    える。

    翌年の長保四年(一〇〇二)には、『天台宗疑問二十七条』を今回

    は宋の天台宗山家派に送っているが、この天台宗の疑問点二十七問に

    ついて、速水侑は次のようにいう。

    問目の多くは良源以後隆盛をきわめた天台の公的竪義の場におけ

    る算題に関係するものだったのである。したがってこれら問目は、

    源信自身が分らなくて知礼に個人的にたずねたのではなく、当時

    の日本天台の論義の場で解釈の分れていた諸点について、源信が

    一山を代表する形で天台山家派に裁決を求め、これに対して、当

    時明州延慶寺にあたった知礼が代表して答えたものである24

    即ち、源信は良源の論義の後を受け継いで、日本天台の論義を確立す

    るために、論義における問題点をまとめ、日本天台の代表として、本

    家の中国宋の天台に質問状を送り、論議を仕掛けたのである。

    日本天台の論義を扱う代表としての源信は、実はもっと早くから始

    まっていた。それは良源が自分の住房定心房で始めた論義の運営管理

    は、良源亡き後、天台座主となった尋禅が管理運営していたが、それ

    を源信に委ねたのが、天暦元年(九九〇)である。この頃から源信は

    日本天台の論義を確立した人物として存在していたのである。

    では比叡山の論義創始者の良源が、源信に論義確立者として期待す

    るようになったのはいつごろからだろうか。源信の自信作『略註釈』

    は、三十七歳の時のものである。それより早く書いたものとして、先

    に挙げた『六即義私記』がある。その奥書に「年少の時に、事の縁有

    るに依って之を草す」とあった。この「年少の時」というのはいつご

    ろのことであろうか。『略註釈』を書く前の天延二年(九七四)五月

    一〇日、源信は円融天皇の御前で、

    然と論義をしている。時に三十

    三歳である。白熱の論義をし、勝つのである。源信を推薦したのは、

    禅芸である。禅芸は、比叡山円珍派の老大家である。従って、既に源

    信はその才能を注目されていて、比叡山代表として円融天皇の御前で

    論義するに足る人物であったのである。この一年前に禅芸は、比叡山

    の広学竪義において、探題として源信に問題を出題している。その時、

    出題した禅芸が、源信のその独自の解答に対して得失を判断できず、

    判定を翌日に延ばしたという。『延暦寺首

    厳院源信僧都伝』は、こ

    の話の後に「山上院内。講経法会之筵。論義決択。智弁決択25

    。」と記

    している。「論義決択」とは、論義において正しい結論をはっきりと

    出すことであり、智弁においても疑いに対して決然と正しい判断をす

    四六

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • ることである。比叡山山上での法会で、そうした評判を得ていたとい

    える。この時三十二歳である。この広学竪義は、良源が勅許によって

    安和元年(九六八)に始めて開いたものである。この時、源信は二十

    七歳である。この初めての広学竪義の竪者に良源が選んだのは、千観

    が指導した円珍派の覚円であった。しかも問題出題は、やはり円珍派

    の禅芸を指名した。初めての広学竪義が円珍派に占められたことに対

    して、横川の円仁派は猛烈に抗議したが、良源は「我が円仁派に、誰

    かこの役を勤めることができる者はいるか」と一喝、大衆は口を閉ざ

    したという話が、『雑談鈔』にある26

    。この時、源信二七歳。この円仁

    派の大衆の中に源信は当然いたが、名乗り出ることはできなかった。

    また認められてもいなかった。良源が天台座主になったのが、二年前。

    この頃から、良源は広学竪義に向けて厳しい指導を本格化したと考え

    られる。源信二十五歳である。源信がおそらく初めての論義書として

    書いた『六即義私記』の奥書「年少の時」を考えると、上限がこの広

    学竪義への指導が本格化する康保三年(九六六)二十五歳から、下限

    は自分が竪者に選ばれた天延元年(九七三)三十二歳の間ということ

    になる。しかし三十歳を越えて「年少の時」とは言いがたい。やはり

    初の広学竪義が円珍派に独占され悔しい思いをした二十七歳前後二年

    ぐらいを想定するのが適当である。年齢的には二七歳だが、出家して

    から十二年、即ち法齢十二歳であるので、まだ「年少」といえる。こ

    の時、悔しい思いでいたのは、源信はじめとした円仁派大衆ばかりで

    はない。良源も悔しく思っていたであろう。円仁派、即ち横川からも、

    優れた論者が出ることを望んでいた。平林盛得は、この時良源が円珍

    派だけを選んだのは、円仁派の「向学心をあおる点にあったとも考え

    られる」といった27

    。それから五年、広学竪義に及科し、翌年には宮中

    の論義に円珍派禅芸から推薦される程の実力を持ち、論義に関して良

    源の後を継ぐ人物として認められていった。良源が、源信に論義確立

    者として期待するようになったのはこの頃であろう。

    宮中での論義の後から、公務についた記録が暫く見られないのは、

    比叡山再建と管理維持に忙しい良源に替わって、論義の理論的確立を

    源信に期待し、公務や役職につけなかったからであろう。千観は、広

    学竪義に向けて多くの論義書を書くために円珍派の比叡山千手院から

    離れて箕面に移ることで、役職公務を逃れた。しかし源信は良源の絶

    大な権限と円仁派の期待を背負って、役職公務から外したのではない

    か。それは遁世ではなく、学者としての才能を見込まれて、研究所に

    送られた人物のように、である。

    源信は、宋に送った『往生要集』や『因明論疏四相違略註釈』には、

    「天台首

    厳院沙門

    源信」と記した。しかし論義書のほとんどは

    「恵心

    源信」と記した。また「恵心僧都源信」と記す著も多い。天

    台首

    厳院とは、円仁が建てた横川中堂をいうが、後にその周辺を指

    すようになる。そして良源の住む定心房、四季に論義修行をするので

    四季講堂ともいうが、ここも首

    厳院である。源信は自ら「年少」と

    記した『六即義私記』は、この定心房で書いたであろうが、それにも

    厳沙門」と署名した。そして良源の、最大の支援者藤原師輔の三

    男兼家を願主として永観元年(九八五)に建てたのが恵心院である。

    良源はここを源信に任せたのであろう。良源が住む四季講堂から三分

    四七

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 程のところに恵心院はある。四季講堂で論義が白熱すると聞こえそう

    な距離である。しかも四季講堂には経蔵、即ち図書館が併設している。

    更に食堂も併設している。恵心院は、学僧源信にとって、実に良い場

    所である。ここで源信は『往生要集』を書き、対外的な名として「天

    台首

    厳院源信」と署名、横川で修行する学僧向けの論義書は「恵心

    源信」と記した。ここが論義研究所である。

    そして良源亡き後、師輔の息十男の尋禅が天台座主となり、四季講

    堂における論義修行の指導は源信が行った。更に四季講堂の論義を執

    行維持するために設けられた志賀郡の八町の田の管理も源信に委ねら

    れた。こうして源信は名実ともに比叡山論義の確立者となった。

    石田瑞穂は「日本の浄土教の夜明け」に立つ人物として源信を評価

    したが、実は江戸時代に浄土宗や浄土真宗の僧が、次々と源信の『往

    生要集』の注釈書を書き、日本の浄土教の初めとして評価したことの

    現代版であり、天台の側から、または論義の歴史の中で源信を考えて

    みれば、日本天台の論義を確立した人物と評価することができる。

    第六章

    源信像を「論義」を軸に再検討

    円仁は、天長八年(八五一)三八歳の頃、病のため余命はないと考

    え、最後の修行地を誰もいない未開地横川に求め、禅定の境地のまま

    死のうと遁世し、入定の修業に入る。そして奇跡的に病が癒え、その

    後渡唐を果たし、『入唐求法巡礼記』を書き、横川に理想の修行地を

    計画した。しかし未完のまま、世は円珍派の時代となり、放置される。

    良源は、天暦三年(九四九)に強力な後援者となってくれるはずの

    藤原忠平が没し、良源の将来に暗雲がよぎる。良源は即座に、すべて

    の公務を辞め、横川に遁世した。そこは円仁の建てた堂塔の幾つかが

    残っていたが、ほとんど住む人のいない森の中であった。そこで良源

    は忠平の後世安穏を祈って、円仁が残した首

    厳院の中で三〇〇日護

    摩を始めた。後に忠平の息子師輔の強力な支援を得て、多くの堂塔を

    建立し、比叡山を復興させ、若くして天台座主となり、横川を天台の

    論義道場の中心地として発展させ、多くの学生の育成の場とした。

    では源信は、どうであったろうか。若い天台座主であった良源が開

    発した横川の地は、良源の若い弟子たちが溢れ、活気に充ちた場所で

    あった。源信出家の頃から、次々と堂塔が改築新築され、その中では、

    若々しい読経の声が響き、勢い良く論義する声に弾んでいたであろう。

    横川は、円仁や良源の頃には、ほとんど人のいない遁世に適した地で

    あったが、源信の頃は、活気に充ちた地であった。源信は、二〇代三

    〇代は、良源の住房定心房にいた。論義で活躍し、著述を始めた頃は、

    「首

    厳院源信」と名告っているので、横川の中心地首

    厳院の近く

    にいた。横川には八つの深い谷がある。そこに入ると、人の気配のな

    い暗い森が広がる。鎌倉期の祖師たちは、こうした地に遁世した。源

    信は二十五三昧会や、涅槃会に参加するときは、こうした谷に下りて

    いったが、そこでも横川の中心地を意味する首

    厳院を名前の前に付

    しているのである。源信がまだ広学竪義に出る前の天禄二年(九七

    二)三〇歳の時に、横川は東塔から別季帳を立てて独立するが、その

    理由は首

    厳院にいる僧の人数が二〇〇人を越えたことである28

    。即ち

    厳院周辺の横川中心地は、良源の若い弟子たちの密集地帯である。

    四八

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 三〇歳の源信は、若い学生の中堅として、論義に勉学に切磋琢磨して

    いたのである。かくして源信が首

    厳院を名前の前に付している限り、

    円仁や良源のような遁世はあり得ないのである。

    厳院とは、『首

    厳経』に基づく名前である。『首

    厳経』は実

    は二種類がある。一つは『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首

    経』で略して『首

    厳経』といい、中国において浄土・禅で重視され

    た経典であるが、法相では偽経とされたものである。しかし源信のい

    う『首

    厳院』は、今一つの『首

    厳経』である。正しくは『首

    三昧経』という。これは、あまり浄土信仰とは関係がなく、思想的に

    は『法華經』や『維摩経』に近い経典である。円仁は横川に最高の三

    昧を求めて遁世し、そこを首

    厳院とした。また良源が師輔の藤原氏

    の繁栄を願って天暦八年に建立したのは「

    厳三昧院」という。こう

    したことから源信が名乗った「首

    厳院」は『首

    厳三昧経』に基づ

    くと言えよう。経典によると首

    厳三昧は、あらゆる三昧の頂点にあ

    る三昧である。「首

    厳三昧」と聞いただけで、悪魔も魔女も神変神

    力で変化し、菩提心を生じさせてしまう不可思議力をもつという。こ

    うした強力なイメージを持つ「首

    厳」を名前の前に付けるのは、あ

    る権威を感じさせる効果がある。中国宋の教団に対して、日本天台の

    厳という言い方は、日本で頂点にあるという感じを押し出してい

    る。横川の東の谷や、坂本の郷に浄土信仰を広めに行くのに、「首

    厳」は、かなり権威主義的に感じる。それに対して「恵心」は、控え

    めで、身近に感じさせる。

    師の良源が永観元年(九八三)恵心院を建立し供養したが、翌年病

    のため坂本に下山し、翌年には没してしまう。これ以前に源信は、恵

    心院を引き継いだのではなかろうか。

    恵心院をよほど気に入ったのであろう。良源の住んだ定心房や、併

    設されている経蔵に近く、著述のための資料を見つけるのに誠に好都

    合な場所である。良源は、円仁の意志を継いで、横川の堂塔僧坊を建

    て、僧を育て、儀式を充実させ、公的論義を創始したが、横川そして

    比叡山全体の復興に邁進した良源には、著述はあまり残っていない。

    教学的な可能性については独自な方向性を示しているが、深められて

    いない。良源は源信に、こうした教学的完成を期待した。源信の豊か

    で深い思想的才能を見て、横川に法華経を中心にしつつ、密教と浄土

    を含めた総合的な教学の完成を期待した。源信が最も多く著述をして

    いる頃、一切の役職と無縁でありつつ、横川の中心地に居続けること

    ができたのは、良源がそれを認め、周囲もそれに期待しているからで

    ある。後輩の竪義僧が、論義の注釈書の作成を依頼してきたり、浄土

    に関する意見を求めてきたりしていることからも、そのことがよく分

    かる。また宋に著作を送る時も、自分の著述だけでなく、師の良源の

    著述や、同僚の僧の著述を一緒に送っていることからも、周囲の期待

    や注目が感じられる。そして実践には論義を根底においたのである。

    多くの論義書を書き、論義の基本にある因明の根幹の問題を論じ、法

    相唯識を批判し、晩年には「唯識三年倶舎八年」といわれる難解な倶

    舎を相手取って天台の教学と対決させる大論文『大乗対倶舎抄』を書

    いている。このように良源の期待を見事に源信は成し遂げているので

    ある。良源は論義の良き源であり、良源の信頼に応えたのが源信であ

    四九

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • る。円

    仁は『入唐求法巡礼行記』を書き、今や世界的に有名である。源

    信は自身で自分の自信作『往生要集』を中国に送り、それが評価され

    た。しかしそれ以上に評価を求め執着したのは『因明論疏四相違略註

    釈』である。この中で日本の因明集団である法相宗を批判し、その本

    家である中国慈恩門徒即ち中国法相宗に、その評価を迫ったのである。

    その評価について何度も問い質している。更に、『天台宗疑問二十七

    条』は、まさに日本天台の代表として、多くの学僧の疑問をまとめて、

    本家である中国天台宗山家派代表知礼に送ったものである。

    また源信は、中国天台宗山外派にも、日本天台宗の批評を送ってい

    る。こうした行動に対して、劉建は、「天台宗山門・寺門の碩学を動

    員し、中国天台宗山外派の論説に対して大規模な批判を繰り広げた」

    といった29

    。源信は中国法相宗の慈恩門徒に対し、中国天台宗山家派に

    対し、そして中国天台宗山外派に対しても論争を挑んだのである。

    源信の論義は、ここで終わらない。晩年の寛弘二年(一〇〇五)に

    『大乗対倶舎抄』を完成させているが、これは、龍樹と並び称される

    インド仏教の代表的思想家ヴァスバンドゥ(世親)の著書『倶舎論』

    を相手取っている。ヴァスバンドゥの業績は唯識の体系的確立者でも

    あるが、それ以前に書かれた『倶舎論』は、漢訳三十巻の大著である。

    大著であるだけでなく極めて組織的で体系的、かつ巨大で複雑な要素

    のからみ合いを持ち、大海とも密林とも形容される大著である。それ

    は四、五世紀のインドの最大の仏教部派であった説一切有部の思想を

    解説したものである。二世紀頃の龍樹が、一切は空といったのに対し

    て、一切は有であるというのである。ただ人間には正しく見ることが

    できない。刹那に見ることができるだけである。「三世実有・法体恒

    有」という言葉で表現している。有るのは、とうとうたる法の流れで

    ある。こうした立場から、須弥山宇宙の巨大な構造、そして無数の宇

    宙の循環的生滅を論じ、その中に存在する諸天から人間、そして地獄

    までのあらゆる存在が業によって輪廻する実態の分析、そして輪廻の

    根幹にある無数の煩悩の分析に至る壮大な構成である。源信はこの小

    乗の『倶舎論』ほどに体系化された大乗の論書はないと序文で嘆く。

    そこで『倶舎論』約六〇〇頌に対して大乗論書を引用対説し、小乗の

    『倶舎論』と大乗思想との違いを明らかにしようとした。源信が『倶

    舎論』に対比対論した大乗論書は、一切空を大乗仏教の根幹として理

    論化したナーガルジュナ(龍樹)の論書や、その空を根幹として唯識

    を発展させたアサンガ(無着)ヴァスバンドゥ(世親)の唯識論など

    である。即ち『大乗対倶舎抄』は、インドの論者を相手に論じている

    のである。『倶舎論』との対比を十二巻にまとめ、更に二巻を加え、

    そこで大乗思想を論じ、最後に小乗の仏教理解よりも、大乗思想の実

    践的優位性が高いと主張している。

    源信の論議の目は、中国から更にインドに向けられていたのである。

    当時は、天竺・震旦・日本が世界であった。特に天台は三国意識が強

    い。「三国」の文献初例は、弘仁一〇年(八一〇)に書かれた最澄の

    『内證仏法相承血脈譜』である。これは中国で生まれた天台思想は、

    インドからの相承がないとの南部六宗の批判に対し「三国」を経由し

    て相承したものであることを主張したものである。前田雅之はこれを

    五〇

    源信を見なおす(久保田

    實)

  • 評し「自らの欠損を補塡しつつ、仏教世界の中で正統的な位置を主張

    するために、三国が捏造された疑いは拭いきれない30

    」といった。そし

    て天台の三国観は、安然に至って「三国諸宗興廃有

    時、九宗並行唯

    我天朝」と、三国の中で九宗もの仏教が栄えているのは日本だけだと、

    『教時諍31

    』で言い放った。安然の師である円仁は、承和五年(八三八)

    に最後の遣唐使として入唐している。そして会昌の法難に遭遇した。

    三武一宗の法難といわれる廃仏の中で最大にして徹底した廃仏である。

    大寺院は四六〇〇、小寺院は四〇〇〇〇を廃毀、還俗させた僧尼二十

    六万人という。隋唐の仏教遺産である経典類も多く廃棄散逸した。こ

    うした中を円仁は必死で、法難を逃れながら法を求め、多くの経典類

    を持ち帰った。そして未曾有の経験を『入唐求法巡礼行記』に記した。

    円仁の晩年の弟子である安然は、円仁の話や『巡礼行記』を読み、中

    国仏教の衰退を前提に、『教時諍』の発言をしている。また天竺の情

    報は、三九九年出発の法顕の『仏国記』、六二九年の玄

    の『大唐西

    域記』、六七一年出発の義浄の『南海寄内法伝』で知れるが、前二著

    には大乗仏教寺院の記録はあるが、最新の天竺事情の記録した『南海

    寄帰法伝』には、明確な大乗仏教寺院の記録はない、また唐の最末期

    には新しい経典の伝来も減り、中国の翻訳事業も衰退する。これらが、

    天竺大乗の衰退を印象づけ、同時期の護命の「我此日本大乗世界」の

    発言32

    や、安然の三国発言となっている。

    遣唐使の廃止も同時期であり、その後、唐は崩壊する。やがて宋と

    なり、天台を中心に仏教界の交流が起こる。しかしその様相は、従来

    と変わっていた。その様子を福原隆善は「唐代では日本側から積極的

    な求法の態度のあらわれはあるが中国側から日本へ積極的に交渉を求

    めることは稀薄であった。ところが宋代になると中国側の日本に対す

    る意識も高くなり、日本天台に対する評価も高まってきて、中国側か

    らの積極的な働きかけがみられる」とし、中国山門派・山外派との交

    渉を分析している33

    。中国からは散逸した経論を求める依頼もあり、物

    心両面で対等、それ以上の交流が行われた。こうした状況の中で天台

    を中心に、新たな三国観が広がっていくのである。上島享によれば、

    九世紀後半のこの安然の三国観が、日本の優位性を主張する三国世界

    観の起源となり、それが『三宝絵詞』によって深められ、『今昔物語

    集』に継承され、十一世紀に神国観と結びつき確立するという34

    。天台

    を中心に広がっていく三国観から見れば、源信のとった行動、即ち中

    国慈恩門徒に著述を送り、その評価を迫り、中国天台宗山家派に質問

    状を送り、中国天台宗山外派に対しても論争を挑んだ行動は、世界に

    自分の著述を、名前を発信することである。その源信の論議の意識は、

    晩年に至って、天竺=

    インドのヴァスバンドゥ(世親)とナーガルジ

    ュナ(龍樹)・アサンガ(無着)とを『大乗対倶舎抄』によって対比

    対論させ、ついにその翌年、この大著を前提に『一乗要訣』を著すの

    である。勿論、天台の法華一乗が法相唯識を越えて最も優れているこ

    とを主張するのである。これは護命や安然と同じ視点から、大乗全盛

    の過去の天笠に論争を挑んでいるのである。

    このように源信は、仏教の学者としての世評を悉曇(中国)に求め、

    天竺(インド)をも視野において、当時の世界的な規模(三国世界)

    に論議を求めたと言えよう。こうして「名声を捨てて横川に隠遁した

    五一

    佛教大学大学院紀要

    文学研究科篇

    第四十五号(二〇一七年三月)

  • 遁世僧」というイメージは、次のように書き換えられねばならない。

    「源信は、日本天台の論義を確立し、その評価を求めて、世界に発信

    し続けた論議僧」と。

    〔注〕

    1)日蓮『撰時抄』『日本思想大系14』岩波書店一九七〇

    2)醍醐本『法然上人伝記』『法然上人傅の成立史的研究

    第三巻

    研究

    篇』(法然上人傅研究会編(臨川書店)一九六一

    3)「十七條御法語」『昭和新修法然上人全集』浄土宗宗務庁一九五五

    4)辻善之助『日本仏教史』全一〇巻岩波書店

    一九四四

    「浄土教の発

    達」の冒頭に源信を持ってきている。

    5)大隅和雄「遁世について」『北海道大学文学部紀要』一三号一九六五

    6)良源については、弟子たちが資料を集めて、没四十六年後に、藤原

    斉信が編纂した『慈慧大僧正伝』(『大日本史料一ノ一一』「応和三年

    八月二十一日の条」)を基本とする。

    7)藤原斉信撰『慈慧大僧正傳』(『大日本史料一ノ一一』)

    8)不空訳『稻幹喩経』同本異本が五本ある。内容的には、基本的に同

    じ。良源が思い出したという「勤求菩提。即成現世悉地」という文

    言はないが、想定できる内容はある。

    9)梵照撰『慈恵大僧正拾遺傅』(『大日本史料一ノ一一』)

    10)大江佐国『延暦寺首

    厳院源信僧都伝』『恵心僧都全集』第五

    比叡

    山図書刊行所一九二八

    11)小原仁『源信往生極楽の教行は濁世末代の目足』ミネルヴァ書房二〇〇六

    12)覚超『首

    厳院廿五三昧結縁過去帳』「源信伝」『恵心僧都全集』第

    比叡山図書刊行所一九二七

    13)「源信僧都母尼、往生語第三十九」『今昔物語集』巻十五

    岩波書店

    一九五一

    14)速水侑『源信』吉川弘文館人物叢書一九八八

    15)平林盛得『人物叢書

    良源』吉川弘文館一九七六

    16)小原仁

    同著

    第三章

    「抜群の智弁」

    17)清水擦「藤原兼家の恵心院」『延暦寺の建築史的研究』中央公論美術

    出版

    二〇〇九

    18)源信『因明論疏四相違略註釈』天元元年『大正新脩大蔵経』(九七

    八)(N

    o. 2276

    Vol. 69

    )大蔵出版

    19)平林盛得

    前提書

    20)「延暦寺護国縁起」寛和二年十月二十日寛和官符

    『大日本仏教全書』

    巻一二六

    21)佐藤哲英「六即義私記の研究|青蓮院藏鎌倉古鈔本(再治本と未再

    治本)に基きて|」『龍谷学報』第三一七号一九三六

    22)速水侑

    前提書

    23)『大蔵経全解説大辞典』雄山閣一九九八「因明論疏四相違略註釈」の

    項。

    24)速水侑

    前提書

    25)大江佐国

    前提書

    26)簗瀬一雄編『雑談鈔』碧冲洞叢書、第41輯

    一九六三

    27)平林盛得

    前提書

    28)『大日本史料』第一編之士二「真門孝雄氏所蔵文書」

    29)劉建「日宋仏教の交渉について

    |天台典籍の復還を中心に|」『ア

    ジア学科年報』2

    二〇〇八

    30)前田雅之「三国観」『今昔物語集を読む』吉川弘文館

    二〇〇八

    31)安然「教時諍」『大正新脩大蔵経』(N

    o. 2395

    Vol. 75

    )大蔵出版

    32)護命『大乗法相研神章』大正新脩大蔵経

    No.2309

    Vol.56

    33)福原隆善「日宋天台浄土教の交渉|源信の源清記に対する見解を中

    心に|」『叡山学院研究紀要』五号

    叡山学院

    一九八二

    34)上島享「神国観と三国観―中世日本の世界観」『日本中世社会の形成

    と王権』名古屋大学出版会

    二〇一〇

    (くぼた

    みのる

    文学研究科仏教学専攻博士後期課程)

    (指導教員:

    川内

    教彰

    教授)

    二〇一六年九月二十八日受理

    五二

    源信を見なおす(久保田

    實)