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TRANSCRIPT
淨
土
布
薩
式
の
檢
討
井
川
定
慶
一、法
然
上人
の著書
法然上人は天台宗から別れて專修念佛
一行の淨土宗門を開創されたのであるが、承安五年
(=
七五)の春、比叡
山を下りて京洛に念佛の法門を初めて説かれた時と、選擇本願念佛集を撰述せられた時、そしていよいよ御往生せ
られる直前の
一枚起請文を書き記される時とを比較すると、念佛義に自ずと思想史的變遷のあ
つた
ことを認めばな
らない。また、極めて親しい門弟に心を許して説法せられる場合と、舊宗派の學匠を前にして説法せられる場合と
には、また.綏急
の度があつたことを察知すべきである。
コト
ヲシテ
印ち、選擇集奥書の末尾に
「埋手
壁底剛莫レ遺昌窓前嚇恐爲レ不レ令雪破法之人
墮於惡道
也」と付言せられていること
は、選擇集の本旨を現在の段階では廣く公表したくないという警戒心が潜んでいて、上人の念佛宣布に當
つて親疎
二段構えのあ
つたことがうかがえるのである。
そこで同じ法然上人から念佛義を聽聞しても、また受法した門弟であ
つても、其の面接の時代と機會との差異に
よ
つて、受けとる念佛義に異
つた解釋があらわれる。またうけとる門弟側の先入觀と自主的釋義の加味とによつて
淨土布薩式の檢討
・
一七
一八
更
に
一段の差異も生ずる。上人の門弟の中に
一念義と多念義、諸行本願義と
一向義というように封蹠的な流派が出
來
る所以である。
而して是れら門弟の次代そして三代とうけ
つがれる間には、お互に自らの流派こそ上人の正統を傳持するもので
あ
ると主張する競爭意識が高まつて來る。そしてそれが爲めに、或時は上人の傳記を自流に都合
のよい有利なもの
に編纂もするし、或時は上人の著書に對する註釋末疏もその線に沿うてつくり上げられ、時には僞撰
の著書まで出
てくるのである。
上人の滅後
に於て上人の遣著を編輯する意圖は第
一、上人の教義を後世に傳持することであるが、第二、上人の
著書に云うところが師ち我が門流の説くところと
一致することを證明せんが爲めでもあつた。
此の第二の意圖が
一歩前進すると上人の名をかりて
「御法語」を
つくり
「著書」を自らの流派に都合のよいよう
に僞作することになる。現在
「法然房源空」の名によつて書かれている淌息文や著書が多數に遺されているけれど
も、其の
一々について傳來を吟味し、其の内容を分析し檢討せなけれぱならないのである。
上人の著書を輯録する佛教經典目録の中に、上人の弟子覺明房長西の編にかかる
『淨土正依經論書籍目録』があ
る。そこには淨土三部經釋や選擇念佛集など八部を擧げている。上人面授の長西が上人在世の資料
を以て記
J
1111¢
して
いるから、其
の内容は信憑に値ひするし、また吟味してみて矛盾を感ぜしめない。然し同じ長西の名になつている
淨土正依經論書籍目録の
『付録』に、上人の述作として金剛寶戒章、本願義疏、淨土布薩式二卷、圓頓十二門戒儀
一卷、略戒儀
一卷、三聚
一心戒
一卷、大原十二問答
一卷、西方發心抄
一卷、初重卷物、師秀説相等
の十九部を採録
し
ているが、此の
『附録』は長西のものでなくして後世何人によ
つて付加せられたかさえも到明せず、隨
つて其の
」々については吟味を必要とするのである。
二、
淨
土
布
薩
式
淨土布薩式にあつては其の奧に上人の弟子聖覺の記述として
ト ズ
ノ
ソ
ノ
ハ
ノ
ニ
是受戒儀
者、先師上人最後
述作也。凡
上人
作
者邏擇集、金剛寶戒章兩部二卷、依熏
谷
先師叡空上人相傳之道理
述鵠
レ
ノ
ノ
ニ
綽禪師之教想
釋昌天台之戒法↓是
昔教也。今限二光明院
一師一所"逋彌陀本願義疏、一乘戒儀廣本上下二卷、略本
一卷是也。
ノ
ノ
ノ
此
外假字
書物滄息等皆依昌黒谷
教相輔也
とあり、其の意味するところは選擇集などは黒谷叡空上人相傳であ
つて天台宗流のものである。ところが淨土開宗
以後の上人は全く
「偏依善導」に轉向せられているから同じ上人の述作でも前著と後著と選別すべきであ
つて、是
の
『淨土布薩式』こそが最後の述作であり、上人の偏依善導(光明院)に基く本懷のものであると強調しているので
あ
る。
そして淨土宗八租了譽聖冏は其の著
『顯淨土傳戒論』並に
『選擇傳弘決疑鈔直牒』に淨土布薩式を上人の自作と
している.印ち
.霈
土傳戒論』(璽
握
齷
+)には
ラ
ヲ
チ
リモフ
ノ
ノ
ニ
シ
自
製金剛寶戒章二卷並淨土布薩式二卷淺略戒
一卷
乃成昌
天下戒師嚇其上以宗脉戒脉兩宗亟
現在
付二屬聖光上
食
南岳蓑
裟
畿
鼠
支藝書戒災
量
轗蟻
とあ
り、叡空より傳持の妙樂戒儀は支證であ
つて金剛寳戒章、淨土布薩式、淺略戒
一卷の方が本筋
の戒脉となされ
ている。また、嶷
鈔直牒豢
+
(還
譴
、)には
淨土布薩式
の檢討
一九
二〇
自駕..金剛靉
章二卷淨土布薩式二管淺略戒儀
一貧
.言翼戒墜
者略彼+二門戒氈
製之
と、ここでも殆んど同じ意味のことを記しているのである。
然し乍ら此の了譽の上人自作説に對しては江戸時代より疑難あり、近世に至
つて盆
々排斥濃厚の度を加えらる。
而して了譽の上人自作読を書き出す所以のものは、當時の佛教界を大觀して隨他扶宗の意圖に基く創作ではなかろ
う
かと考えられるのである。
さて、恥薩はもと安居と共に婆羅門教徒の行事であ
つたのが佛數
々團に採用され、毎牛月の末日
(十四日又は十
五日、或は廿九日または三十日)に大衆を集め戒法を修習し、若し戒を犯したものがあらば直ちに懺悔滅罪せしめ
たものである。初めは集會を行い上座をして法門を説かしめたのが.後世になると説戒する事に變
つた。其れらの
事は四分集
㎝随聖マ
五葎
窪
毳
Y+誦集
惱
睾
巴梨
拿部)によれぱ委し譱
されている.
また、布薩はもと梵語
dづ9く9ωp昏9が巴利
d冨ω9昏鋤
に變じ、更に梵語の原形を失
つて
Posadhaとなり、音
譯して布沙他、布薩陀婆等と表記され、略して布薩という。智度論、玄應音義、行事鈔等に意譯し
て善宿、長養、
淨住等とな
つている。
元亨釋書によると天卆勝寳八年八月詔して諸寺に布薩が行われた。是れが我が國最初の修法とさ
る。今の淨土布
薩式の内容を吟味すると、佛教通有の
「布薩」を後世的な読戒として授菩薩戒儀に基き、其れを更
に淨土教に引合
せ
ている。そして本書が法然上人の製作であるというについては、大體次のような經緯が
ついている。
上人は承安五年春、善導大師の觀經疏の指南によ
つて聖道門の教(天台宗等)を擱いて專ら淨土門
の念佛
一行に歸
し
たのである。ところが上人は其の淨土創開以前既に黒谷叡空上人より慈覺大師が中國より傳來せられた大乘圓頓
菩薩戒を相承している。そこで上人が今や聖道門を捨てて淨土門に歸入せられる爲めには此の天台流の圓頓戒も捨
てられた筈であるという・而して夫
霪
土開宗するに丁つて善羮
師が夢にあらわれて婁
した(響
砥黠傳)と
いうならば、善導は佛數の通規である戒法についても念佛に相應しい善導流の戒法を以て傳えているべきであると
解するのである。
江戸時代と兮
、岸了は塗
布驤
略癈
塗
卷
(續淨土宗全
書卷一五
)に、輪超は布靉
辨正薐
論四卷(課
卷)に於て
共に淨土布薩式の上人自作を主張している。云わく上人傳によると、承安五年春と建暦元年正月と二度に亘
つて善
導
、法然の二祀は夢の中にあつて對面對談している。最初は念佛門を主にして戒法は密傳し、最後は
一向專修の戒
貯
の顯傳にあつた。そこを聖覺が奧書に
「上人最後の述作」という。そして此の淨土布薩式は長西の淨土正依經論
書籍目録の付録にも載つているし、淨土宗の二租鎭西辨長を經て111.E記主良忠に傳授された事が望西樓了恵の記主
傳にも明記されていると論證するのである。然し後読する如く異論がある。
また、智證大師請來目録の中に
「大乘布薩法
一本善導」というのがある。それによ
って上述の善導大師から上人
へ淨土布薩式を指授せられた読の裏付けにしようというのである。
三
、淨
土布薩
式
に樹
す
る疑難
淨土布薩式が上人自作なりというが果してそれでよかろうか。
(一)
長西録附録
長西録
の正録には淨土布薩式二卷が載
つていなくて
『付録』に採録されて
いるのであるが、
この
『付録』は長西のものでなく後世の作であり、おくれて附加されたものであるから證據としては極めて價値
の
淨土布薩式の檢討
一=
二二
低
いものである。
(二)
善導指授
上人と善導との夢中封談について諸種の上人傳が殆んど
一様に傳えているが、總て夢物語であ
つて其の内容について念佛相承という事は想察せられるが、念佛
「戒」相承若しくは淨土布薩の相傳という記事は
古
いところにはないのであ
つて、其の記事のあるのは淨土布薩式の奥書と江戸時代にな
つて淨土布薩式の上人自作
を主張する人
々の著書以外には見出せないのである。
(111)
1向專修の戒
佛組統記卷四九には念佛戒を読いているが、唐善導が淨土門別途の念佛戒を説いたかどう
か傳記に遺されていない。上記の智證大師請來目録に載する
『大乘布薩法』はもと南都に傳つたようであるが、今
は佚書であつて果して何を記していたか分らない。其の名から推して大乘教通有の布薩法であつて、淨土特有の布
薩法式ではない。從
つて念佛と戒法との交渉をもつていたかどうか、或は四分律五分律等にある小乘布薩に對して
物
したものか、後世に行われる孚月布薩式に類するものであ
つたかも知れない。
故に以上二點を以て、善導が法然上人に淨土教的戒法を授けたとは云い得ないのである。
(四)
三雜
主蛋
望西樓了恵道光が其の師である記責
忠を傳した中に
(饕
講
臣瞰賭
頁)
自昌去年九月一至岑
茲七月一以昌大師九帖書、論註・安樂集・要集・選擇集・圓頓戒儀・布薩式等一悉傳受畢
とあるけれども、堊
良督
身が覆
傳弘嶷
鈔卷五に自ら傳して
(淨全七ー
一六二頁)
弟子護
犀
九唄
へ日羹
幅寺靄
堯轟
響
紐二箇缶
観經,域蒙
疆
念鼇
禮震
暑
論蓼
樂
羨
攀
轢
影
蜜
生搴
並。+二門戒儀二。讀鳳書
粂
般袰
堯
師一ム、丸
竃
未昌流布我
不薗鼠
/
今準λ軌
霧
所レ授也
云々
む
と
いつて布薩式は載せていない。夂鎭西の聖光房辨長は本書が撰逋されたという建暦元年
(==
一)より七年前の
元久元年に上人の許を辭して九州に歸
つているから上人が辨長に面授せられた筈もなく、從
つてそれを次の弟子た
る記主良忠
(第三祀)に授ける事もあり得ないのである。然るに江戸時代以降、この淨土布薩式を根據として布薩相
承を唱うるものは、後に述べるが如き理由の爲めに記主良忠の相承を必要條件として記主良忠傳を改作し、年代か
ら考えて明かに傳授していない筈の二租鎭西辨長に迄傳授の事實を假托しているのである。而かも承安五年春、善
導が上人の夢中に出現した事を以て布薩戒の密傳となし、以後上人の傳戒は文献には明かに
「圓頓戒」とあるに不
抱、妻
は今の布靉
であ
つたと説惷
(績淨卷
一五、岸了の
淨土布薩戒便蒙等
)ぞ
の捏造説であり、論法の逸脱である.
然し111,E良忠の布薩相承を證明する爲めに淨土布薩戒相承傳書には、同じ望西樓了惠の撰傳に
一層の加筆のあと
がある.邸ち了吟撰
.塗
布靉
授法目録考』所収の本霜
桑
山艱
之事の條下(驤
崎叢
)に
寳治二年患
上洛.演読塗
三都經幕
墜
乘饗
受レ之耋
可麗
裹
犠
帝於「仙洞唱迚器
受希鑒
鸛
三單
香衣號主人薤長己酉育
騨手詣
寺幅又箜
乘佛戒李
本皆以鼠亂淨嬰
票
自建治二年丙子
九月居一手洛
陽後宇多帝叡爾塗
宗之義臺
露
欝
魑紫衣及萱
冫
と叙べているが、此の記主良忠傳は、望西樓了惠撰述
の最初の原本でないことについては、次の如く斷つている。
ルニ
記主傳作者道光了惠上人之正本鎭藏
于光明寺嚇然
爲書寫一被レ借用
于増上寺嚇時延寳四丙辰秋増上寺方丈回祿、同州
ニ
ノ
玉繩二傳寺什寶
正本之寫有レ之、光明寺第四十六世公譽靈圓上人更摸寫彼本一而爲昌寺簟
焉、又有印刻
本之言甚誤嚇依レ
之以昌鎌倉前代不出善本樋貞享二年孟春梓行雪云々此云昌鎌倉不出善本崗者了惠之本歟公譽之本歟難レ知レ之
云々
印ち、了惠
の記主良忠傳の原本が増上寺で燒失したので他の寫本によ
つて複製したと云つているが、他に傳
つて
淨土布薩式の檢討
二三
二四
いる流布本と比較すると當初の記主傳に淨土布薩戒相承の記事を付加したことになつている。編者
は了惠そのまN
の名であるが内容はすつかり改竄せられたものとなつている。
以上考究するところによつて淨土布薩式が法然上人自作という論據は甚だ危いのである。望月信亨博士は法然上
人全集の序に、現今傳わ
つている淨土布薩式を疑難し乍らも
或は上入自作の布薩式は亡逸して今傳わらず
と上人に布薩式の述作があ
つたかも知れぬと聊か思いを殘されているが如何であろう。上人には然
るものなしと言
明すべきではなかろうか。
四、金
剛寶
戒章
及
び十
二門戒
儀
と
の比較
゜
淨土布薩式と同じく十二門戒儀を内容となし、而かも上人の撰と稱するものに金剛寶戒章三卷がある。三卷の内
題
は各別で金剛寳戒訓授章、同釋義章、同秘決章とな
つている。上卷訓授章は第七門授戒以外は大體妙樂の十二門
戒儀によつて居り、中卷釋義章には金剛寶戒を釋し十戒を十念に四十八輕戒を阿彌陀佛の四十八願
に當てて念戒
一
致
を説き、下卷秘決章に至つては幸西、證空、信空、源智、行空、寂西、隆寛、聖覺の八名が交互三十番法然上人
に問いをかけ上人が
一々決答を與えられているという表現である。
其の幸西の問に答えられている中に
「念以蠱描念爲
レ念、佛以強心佛一云レ佛」というのは指方立相の立
場ではなく、
隨
つて上人の念佛義ではない。又證空の持戒念佛と破戒についての問に答える中
「同聽五人受得之軸了」とあるのは遣
北越邪人書の五人を想起させ、また拾遺古徳傳の信座五人のことも思い浮べられて、鎭西流には爰當でな
いようで
あ
る。
然し南北朝頃迄上ぼせらる粘葉綴の古寫本
『金剛寳戒章』三卷が龍谷大學圖書館に藏せられていて、
『天台黒谷
金剛寶戒章』と題し、其の内容は現本と多少の異りあるも大同で、下卷第二十間以下缺尾となつて
いるのが惜まれ
る。寫本がかくの如くであれば其の原本のつくられた時代が推測される。或は漢語燈録の中で否定する金剛寶戒密
傳
の書で鎭西の聖光暴
長が夫
に問
い合せた二箇麌
問
(九卷傳
卷三下)の墮
ではなかろ・・かとの読もあるが、再考す
ると其れは金剛寶戒密傳であり、此れは金剛寶戒章であるから果して彼此同
一なるや否や俄かに斷定しがたいので
あ
る。下卷の問答が穩かでな
いというので、本章の僞作者を北越邪人系と見なし、華頂山學僣義山
の翼讃や了詳の
辨御滄息集は共に法本房行空に疑
いをかけている。また念戒
一致と證空が出ているところから西山義の影響だと見
られる點もあるが今直ちにその何れとも邸斷し難いのである。
ところが現今流布
の寛永版、元祿版の上卷訓授章第七門授戒の條に、本戒相承を述
べ來
つて現行本には
「叡空
授二
源空上人源簔
湛空上ム
難
購
ぜ
云々」の記事あるも上掲の龍谷大學藏の古寫本にはそのと、、うが無いのを見
ると、源空
・湛空相承の記事は後世の付記挿入であろうが、それは
一面本章の傳持系統を知りうる資料ともなりう
る。湛
空は卿名大納言律師公全で、上人と同日に流罪の舩路につき、後ちには嵯峨二奪院に隱棲した正信房なのであ
る。法水分流記に所謂る嵯峨門徒の祺とな
つている。圓頓戒の相承については上人より直授であるというのと、上
人の最初の弟子法蓮房信空よ董
に傳授したというのと二繋
存する
(撒欝
黜三)。嵯峨二鐃
境内の
、空公夫
行業碑Lを再檢討すべきである。二説あるにしても圓頓戒を上人より直接か間接かに相承していることには
一致し
淨土布薩式の檢討
二五
二六
で
いる。ところが其の正信房湛空が本章に於て金剛寶戒相承の嫡流となつているが、それほど重要な存在の湛空が
下卷
の秘決章には門弟として名を連ねていないのである。師弟
の關係を結んだ師僭信空の名がある
のみ。もし湛空
の分を師の信空に攝して代表せしめるならば、相承のところで叡空
・源空
・信空
・湛空と次第せしめておくべきで
あ
ろう。かかる不統
一のあるは或は下卷の秘決章が上卷中卷とは別個に流行していたものか、また別
の考えでは上
卷
の訓授章が或る時期に湛空の嵯峨門流の手に育成され、同じ法然門下の大乘圓頓菩薩戒相承に樹抗して特異の金
剛寶戒相承を誇るための作爲で湛空を上人直授の相承者として挿入しているであろうかということである。
さて、上人が叡空より相承の圓頓菩薩戒の定本について考えるに、授菩薩戒儀というものにも第
一庭儀の廣本、
第
二堂上軌則、第三机上法式と三種類があり、嫡流は第二の堂上軌則印ち妙樂の十二門戒儀に擬し
て撰せられた圓
頓
+二門穰
(黒谷古本
と新本
)とされ鎭西流農
派は大體に於てこれを相承しているのである。四+八簿
にいう津戸三
郎
に三聚淨戒を授けられたというのは、十二門戒儀の中
の第七授戒の項中にいう三聚淨戒であるか、或は今では逸
本
とな
つて名のみ傳わる
『三聚
一心戒』
一卷(長西録の付録所載)に基く授戒であつたか。然し恐らく前者であろう。
上人が圓頓戒を相承せられるに際して用
いられた定本として古くから知られているものに、上記
の授菩薩戒儀の
111;(第
1庭儀の廣本、第二堂上軌則、第三机上法式)と三聚
一心戒とがあるが、更に金剛寶戒章、淨土布薩式も圓戒相
承
の爲めに上人によつて作られたというのである。
授菩薩戒儀、金剛寳戒章、淨土布薩式の三者の内容を檢討するならば、十二門戒儀が骨子であ
つて大同少異であ
る。上人の門弟が流派を立てるに至つて他流派と異つた特別の戒儀を傳持している誇りの爲めに或
は名を變え、或
は内容に前後廣略をつくり、或は系譜を添加して後世になつて比較するとお互に異つたものにな
つてしまつたので
あ
ろう。
金剛寳戒というは
「戒」を詳細にいつた戒の廣名である。そして寶戒章上卷の内容は上既に述
ぶる如く、十二門
戒儀で授菩薩戒儀とさまで異る處がな
いのである。ただ其の中卷の釋義章にお
いて戒の釋義を
一流
の念佛義に合せ
て解釋し、更に下卷
の秘決章に至つて特異の念佛義を上人の口を藉りて述
べしめて、暗
に鎭西派
に對抗せしめてい
るのみである。また、淨土布薩式は金剛寳戒章や鎭西派の圓頓戒と念佛關係の読明を更に進めて、事頓
・理頓の法
盆
を示そうとして縁由をつくり上げている。そして上人最後の述作と云つているのは淨土布薩式
の權威を高めよう
と
いう意圖に他ならない。
五、淨
土布薩
式
の内容
具名は淨土宗頓教
一乘圓實大布薩法式と稱す。今其の大科十六門を標出し、便宜の爲め授菩薩十二門戒儀に樹比
せしめることにしよう。
授
菩薩
戒璽
繋
)
一、
開
導
二
、
三
歸
三
、
請
師
四
、
懺
悔
淨土布薩式
の檢討
淨
土
布
薩
式
一、
鳴
鐘
集
衆
ノ
ニ、
諸
衆
生
可
レ住
二和
合
念
哨
三
、
灑
水
四
、
燒
香
五、
發
願
(爨襯欝傑薇黎)
二七
二八
五、
癸
心
六、
問
遮
七、正授戒
八
、
證
明
九
、
現
相
一〇
、
説
相
二
、廣
願
一二、
勸
持
ヨ
麟鞭控墅
5
六
、
發
心
6
七
、
問
遮
(七
アリ)
4
八
、
孅
悔
九
、
入
壇
受
戒
ヨ
へ
ま
り
アリ
・二、譱
葺
講難
8
一二、
證
明
9
=
二、
現
瑞
-〇
一四
、
説
相
(略
述
十
重
禁
戒
)
11
一五、
普
廣
廻向
12
一亠ハ、
受
冖持功
値ゆ
(事
頓
・理
頓
)
△
大師
十
徳
(善
導
)
△奥
書
塗
布薩式の+六門の7
の解説癢
を遯けて省略するが
蘿
鶤
黏
繁
歡
酸
、)、
その中で大科+四門説相
の第三不婬戒の條下にあ
つて委しく華嚴經の無量の魔女の例を引き
一夜婦人を近づけるを許し、再往僭侶にも妻帶
を許し、これを
「秘釋門」といつている。翻ち
設雖爲昌僭形蔕昌斈
著印豪
.職
リ更
不レ可レ成画
家.旦
恒愧身
心ポ
修藻
鶴低可レ愁爺
璽虫
人《
以非瓦
丘往海
フヤ
ヲ
ラント
ノ
ヲ
テ
ニ
ク
ブ
ヲ
行旨邪
婬
剛耶
。欲
レ知旨
其
深
義
一者
値
・明
師
幅須
レ學
秘
釋門
哺也
矣。
とあり・妻妾を許すを以て深秘.義となし、冤許せざるは淺略.義となるわけである。また、大科第+六門篝
功徳門
ハ
ノ
を事頓門と理頓門とに分ち、その理頓門においては外典を引用して陰陽二道の關係を詳述し
「一切諸法
無レ不二陰陽
和貪
神明非他
一即本有
一心.之性相也」とて陰陽交會を深秘秘釋といつている。
明治維新前にあつては眞宗以外の僭で妻帶は許されていないから是を讀む普逋の僭として實に奇異の思いをした
ヲ
ノ
ことであろう。南楚は
『布薩式辨正』の中に
「着↓如來獅子皮国作昌野干
鳴一」とさげすんでいる。
事頓より理頓に説き進み、そこでは通例禁忌せられていることを迄も許して如來の大慈悲を誇張
し人心を収めよ
う
とするねらいは眞宗の蓮如が強く排斥した如道
一派
の非事法門に逋ずるところがある。此の事頓
.理頓の功徳門
は後世に於て添加せられたものではなかろうか。それにしても何時
の頃まで遡りうるであろう。
六、
淨
土布薩
戒
の創定
淨土宗第八祀了譽聖冏は二藏二頓の到釋をなして盛んに隨他扶宗の弘宣蓮動に盡し、其の弟子酉譽聖聰は更に三
法輪の到釋を追加して師説を租述して餘すところがない。今の淨土布薩式にいう事頓門、理頓門
の用語が聖冏の到
釋
に似通
つて居り、本書が上人自作であることを聖問
・聖聰の著書に初めて重要覗せられるのであ
つて、冏
.聰二
師
と本書との間に何らかの脈絡があ
つたのではなかろうか。
ところで江戸中期以降明治末年近くまで、淨土宗において僣侶
の能化傳法の最宀冐回位に布薩戒相承というのがあつ
た
のである。大乘圓頓戒
の究竟は念佛であるということを傳える儀式である。その内容は
「傳法」
に屬する爲め公
開を避けるとしても、布薩戒相承は淨土布薩式によつて發案されたものであろうが、傳法の内容は淨土布薩式の内
淨土布薩式の檢討
二九
三〇
容
に全く異
つていたのである。然らば何時如何にして布薩戒相承という傳法が興
つたのであろうか。
法然夫
は
、口傳な-して塗
の法門を見るは往生の得分霓
失うな-L(四十八卷傳
卷二十一
)と云つて
いる。
其の云う
ところは必ずしも密室密傳ではなく、志ざすところは充分に會得のゆくまで納得させ、誤解
の起らぬようにという
念願から發した上人の法語であろう。ところが上人滅後になると門流幾
つかに分れ、念佛
の解釋に異解をなすもの
が盆々ふえて行くのである。二祗になつた鎭西の聖光房辨長が
『末代念佛授手印』を述作して、上人の念佛を所謂
「鎭西義」と逋稱せられている念佛義に決定し、それを三祀、四祀がそれにならい、更t八租了譽聖冏
に至
つて、
「五重相傳」若しくは
「宗脉相承
」
の基本を大成するのである。そしてそれに罕行付隨するのが戒脈相承であり、
そ
の内容は圓頓戒であ
つた。是等宗脉並みに戒脈を相承するには相當
の修行を積
み重ねた資格を必要條件としてい
る。師曾は弟子の分際を見ぬいて初めて傳授を許すということにな
つていた。それが規則づくめ
の江戸時代に移り
宗門法度がつくられると、
一層形式的になり嚴重に取扱われることになるのである。
五霜
傳の璧
なることは元和條目
(鰈四)を初め、其の後定められた寛斈
牽
燦
會議之決議、貞享三年寺
裝
行定書、山、葆
七年知恩院より末寺への法度
(第三條
)には、
通常+護
にて出家し修學五年にして蚕
は饗
さ
れる。また、能化の分際になる宗脉戒脈の相承及び璽書傳授については
一暦嚴重に制定されている。印ち、元和條
目第五條に
一、淨土修學不レ至干
五年「者不レ可レ有ヨ兩脈傳授↓於璽書許亘
者雖レ爲
器̀量之仁}不
レ滿三
十年一者堅不苛
"令昌相傳「事
とある。然し布薩相承については何の制約も記述もなく、漸く享保十八年十月縁山(増上寺)在籍
の所化及び府内寺
院
への觸書に初めて璽書と並べて布薩が法臈滿二十年にして相承することが見えるのである。印ち
も
も
む
法臈滿二十年之僣者如舌
來定法璽
書布薩相承究嵩宗門之蘊奥↓隨レ縁於レ令昌寺院住聯
者應其請一對在
家簡許花
他五重
且布薩之血脈帖候事、爲寺
院住持之職分乏
處近來不レ守其
法乏
僭間
々有
レ之、剩雖レ令昌寺院住職輔恥薩未凱相傳哨殀.不レ得二
璽書之許可凶漫對レ他化他五重布薩之血脈相授候事、甚以不如法之至、法賊之
一人難
レ遁候、然二十年以上之僭者寺院住
職之法臈候間、未相傳之曾者豫得其意舌
法之通漸々御附法可レ被レ致成就一候。附年滿成就之望無之學席永在湛之僭茂
於昌其臈滿一者可レ究「宗蘊H專候、但縁輪扇間兩席之間其心掛可7有レ之候
、
上にいう五重と宗脈とは本來同
一のものを二分し、また璽書傳授は宗脈の奥傳となされて來たのである。そこで戒
脈
の奥傳にして而かも宗脈印ち念佛門との關係
のより密なるものを制定して、最高位において傳授
すべき氣運が到
む
來
して布薩戒傳授が生れるのである。布薩は上述の如く元來説法に始まり後ちに説戒に落着くのであるが、恥薩蜘
な
る塾語は穩當を欠いているようである。そこで瓔珞庵敬首は既に布薩翻名義を著して難じている。
さて淨土布薩戒相承勸募の觸書が璽書と並べて
「古來之定法」として茲に初めてお目見えるするのであるが、そ
の創定は何人によりて如何なる動機からなされるのであろうか。此の想定をなす前
に淨土布薩式に對する疑難と辯
護との兩方に分けて薯
と其の著晝
を略ぼ年代順に擧げ三
よう.(鞴
纛
騰
劉
額は〉
在
×寛莞
年仲春
到
。寛文七籍
曇
九日
31
↑〇
一兀祿
十
年
四
月冖佛
生
日
罅↑。・正懸
驚
雛
淨土布薩式
の檢討
南
楚
(西山派)
輪
超
(三河大樹寺)
帥
幾
鑾橘蟹難
上)
同冬布薩式興隆、同十七年入寂
浄
逵
繕麟鸞)
布薩式辨正
一卷
布薩式辨正返破論四卷
淨土布薩廣略戒儀決
{醒聽鸚揮蜷塗卷
一三
三二
25年6年10年7年18年
享保十八年十月、増上寺にて布薩戒相承觸書……四十世慈空利天代
×元文五年
龕睡籖
疆
脹
月再治)}
○寳暦三年三月轉昇
○安永亠ハ年十二月冖
△寳暦頃
辱
敬
首
(淨土宗)
大
玄
(増上寺)
了
風(繕麟鑾
了
吟
承
智
察
書
要
信
(諮
鞴
寺)
布薩翻名義
一卷
宀布薩戒講義二卷
圓布顯正記並餘説二卷
淨土布薩廣戒儀畫規
一卷
{淨土布薩略戒儀畫規
一卷
淨土布薩戒授法目録考
一卷
淨土布薩戒本傳考二卷
布薩帳中箋
傳
法
ハ布薩
二至
テ究
竟
スト
説
ク
モ、
冏
鑑
、
岸了
ノ見
解
ヲ批
判
セリ
靉
淙鼬難
不諍箪
瑚覊
、)
右の表示によると鎌倉光明寺から増上寺や知恩院
へ轉昇した法主が淨土布薩式を上人自作と認めて大いに辯護す
るというよりも寧ろ進んで宣揚していることが察知せられる。
また、上述
(野
艶
圧魏)の㌍
第三雜
責
忠傳を改作して、良忠に布靉
袈
のあつ、、とを添記したのが鎌
倉
光明寺第四十六世公譽靈圓であつて、貞享二年
(=ハ八五)春、上梓となつている。そして囹鑑は光明寺第五十六
世から享保十
一年三月に増上寺第三十九世に轉昇したが、縁山志卷十には
中絶の爨
を興隆す。同年冬より布襞
を興行せらる
難
り
とあるように・冏鑑は増上寺に入寺するや先きに撰述した淨土布薩廣略戒儀決に基
いて布薩式を増
上寺に持ち込ん
だ恐らく最初であろう。それが機縁愈よ熟して次の第四十世利天代の同十八年十月になると、上掲
の如く法臈滿ニ
ヘ
へ
む
十年のものに
「如舌來定法一璽書布薩相承究一宗門之蘊奥こ
とな
つて、宗脈の奥傳たる璽書に戒脉
の奥傳たる布薩と
が並び相承せしめられるようにな
つて行くのである。
ところが増上寺第四十五世を
ついだ大玄は、布薩相承を排斥している。鄙ち、縁山志卷十によ
ると
寳暦三酉年
(;
五三)+月+八日縁山に升主し大曾正に任す
韓
描
この嚢
出不の傳戒廢寥せるを悲憤し
つとめ
て舊範に復し法式ひたすら十二大門による。夂戒光を光輝し律場を創起せんとし
云々
と記さる。大玄の著書
『布薩戒講義』を通讀すると、
「鎌倉光明寺に第三祗記主の自筆の淨土布薩式二卷のあるこ
とについて、其
の眞僞をあやしみ乍らも、それを僞書とは斷定せず淨土布薩
の大略を
一應説いては
いるが、
『圓布
顯正記』になるとなかなか馥
セ
、その下の第三+六巒
傳法の章
の末に
(續淨全卷
一五
ー五五三頁
)
要を取て云はば元祗、鎭西、記主、冏師
の本義に過ぐべからず。又當山は諸山の本なれば彌
々右
四租の本義を以
て傳法の樞鍵とすべし。爾るに布薩の
一法は四祖の釋義に
一向見
へぬ事なれば、當山にても他山にても取り擧げ
難き物なり
と布薩を
ハッキリ排撃して舊來の十二門戒儀に復して傳戒の作法となしているのである。
此れに對して了風は鎌倉光明寺
(第六±二世)から知恩院
(第五+二世)に昇轉して來たのは、大玄
の縁山入りより
少
し前の寳暦三年三月十四日であるが、了風は淨土布薩廣略戒儀盡規などの著述をひつさげて大いに布薩戒を宣揚
したのは東
の増上寺大玄に相樹比している感
を抱かしめる。而かも弟子の了吟や智察は了風の滅後
も引續き長く布
薩戒を提唱しているのである。
淨土布薩式の檢討
三三
三四
江戸時代に入つて傳法の本據ともいうべき増上寺にあ
つては、其の後も葺
し來る大僭正の意嚮
により布薩相承
は
一塰
退し・靆
遷を經乍らも幕政期を遏こし、明治
(天
交
1)初年制定
の淨土宗傳法條令には布薩相承が認
められ・明治の末年に至つて宗規上より布薩
の名を淌して宗脈戒脈
の上には璽書傳授のみが存する
のであるが、お
もえば布薩相承は浮沈斷綾
の運命をつづけたものである。
七、結
語
淨土布薩式二卷は金剛寳戒章と共に法然上人自作の著であるとは信じ難
いのである。然し若し上人作
の佚本とし
て
の淨土布薩式があつたとしたら、現存の淨土布薩式の内容とは異つていたに違
いない。古く天台宗で傳持されて
來
た大乘圓頓菩薩戒の正統を法然上人が黒谷叡空より傳授していたからこそ、上人と同門の間柄であつた法蓮房信
空が改めて上人の弟子となつて圓戒を授かつて弟子となり、九條兼實公も玉葉に度々記す如く圓頓戒を授かつてい
る
ので、上人の圓戒相承は史實であり、淨土宗の歴代また此の圓戒を相承して來たのである。ところが鎌倉末期か
ら南北朝期に入ると、舊來の天台や眞言よりも淨土宗は鎌倉や京都に風靡している禪宗の面授相承
に對抗する爲め
の宗風を築く必要に
一層迫まられて來るのである。
ここに於て了譽聖鬪は
「五重相傳」を大成して二租封面を高調し、淨土宗の三國傳來
の宗脉を確立するのである
が・それと冊時に戒脉にあ
つても亦淨土宗獨自の相承系譜をつくらんとして善導より法然
へと直授
せしめようとし
て法然房源空著述名の
『淨土布薩式』を持ち出し、その奥書に聖覺
の名による證言を付記して權威
を持たさしめ、
それを自らの著書
『顯淨土傳戒論』や
『決疑鈔直牒』に上人自作の著として記入したものと考えられる。淨土布薩
式
の第十六門受持功徳に事頓
・理頓の項目のあるは上述の如く聖冏の到釋用語に相通ずるもので、聖冏が僞作した
も
のか、或は其れに近い關係にあ
つて作られたものを聖冏が採用したものかと考えざるを得ないのである。
次に鎌倉光明寺が布薩相承
の根源となつたことである。光明寺は三租記主良忠
の開基で關東に於
ける淨土宗
の本
據となり、
一時は關東總本山を稱號し名實とも優勢で傳法にあ
つても
「本山傳」といつて
一種の誇りを他に對して
抱
いて來たのである。ところが了譽の弟子の酉譽聖聰が増上寺を開創して漸次勢力を増し、其の後ち徳川幕府と特
別
の縁故を持
つようになると、増上寺はたとえ
「末山傳」と稱せられ乍らも實力は光明寺を凌ぎ、子弟教養
の場と
し
ての
「檀林」としても増上寺は勢力拔群とな
つたのである。そこで格式では光明寺が上位であ
つたに不抱、住職
は増上寺より光明寺
へ轉昇せず光明寺より好んで増上寺
へ轉ずるを希望する有樣であ
つた。そこで光明寺では増上
寺始め他の十六檀林にはない傳法を以て誇りとなさんとして、
「布薩相承」というものを戒脉の奥傳におくように
創定して獨自の傳法根本道場としたのではあるまいか。その定本に了譽時代より世に出てい乍らさ
ほどに重要覗さ
れていなかつた
『淨土布薩式』を特に選び用い、その價値を添える爲めに光明寺開山記主良忠の傳記までも淨土布
薩式を元祀、二組そして三祀にと次第相承したかの如く改作したのではあるまいか。
かくて江戸中期に至ると光明寺の住持は布薩相承は法然上人より相承した極上の戒法と考
へ奪重し、増上寺や知
恩院
へ轉昇しても其れをそのまま持ちこんでそこで高揚するようになつたものである。尚ほ、三祀良忠(然阿)の弟
子性阿の奮
派に布靉
が流傳していることである。
響
、要信の
.布薩帳中箋』偏
謹
酵
五)に三州富
(現
豊橋市)悟眞寺の什物中にあ
つたという傳授次第である。云はく
源罕辨阿然阿性阿持阿持冬唱名良董良寒岌傳蓮醤
毒
岌運岌蓄
葦
岌禾岌番
癸
示裹果夫正五暦丁丑
淨土布薩式
の檢討
三五
三六
七月廿九日
と。惟うに藤田派でも法然上人が善導大師より直授せられたとなし、上人
の布薩戒なるものを傳え聞
いてとり入れ
系譜のみ遡
つて、源空、辨阿(二祀)、然阿(三祀)、性阿(派祀)、持阿と傳
々した如く
つく
つたものであろうが、ま
た別の觀點からみて天正五年
(一五七七)に既に悟眞寺に於て布薩戒が相承せられていたことの證據
にはなりうるの
である。
も
へ
以上述べる如く淨土布薩式が了譽聖冏の頃に僞作されて布薩戒傳授となり、其れが鎌倉光明寺本
山で發展して、
それが増上寺に移されて布薩相承という淨土宗傳法の最高位にまで押上げられたのである。そして普及もしまた排
斥
にもあ
つている。善導大師より法然上人
への直授戒脉であるということは淨土宗にとつてまことに隨他扶宗とし
てよき教宣にはなるけれども、其
の淨土布薩式の内容が淨土宗本來の宗義に合致し兼ねるところから江戸時代に既
に反撃をうけているが、近世になり
『淨土布薩式』
の上人自作読に疑いを抱くことが盆々濃厚にな
つて、途に布薩
相承の名を滄すこととなつたのであるが、とまれ現存
の
『淨土布薩式』は書誌學的また淨土宗學的に考究して法然
上人の自作ではないと斷定するものである。(昭和三五・六・一七)