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ゼミ論文 日本語と英語の他動性の違い 学籍番号:97129370 獨協大学外国語学部英語学科4年 国際コミュニケーションコース 210 氏 名 : 中 山

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ゼミ論文

日本語と英語の他動性の違い

学籍番号:97129370

獨協大学外国語学部英語学科4年

国際コミュニケーションコース 210 番

氏 名 : 中 山 仁

Abstract

The theme of this graduation thesis is “The Difference of Transitivity”.The thesis

aims at the explanation of the acceptability differences between several types of

constructions of Japanese and those of English concerning transitivity.

I t will be useful, to begin with, to make a distinction between two types of

language: what Ikegami(1981) calls the “DO” language and the “BECOME” language.

Verbs of the former may be characterized, approximately, as having the property of

transitivity and those of the latter having the property of intransitivity. The following

serve to illustrate this distinction.

English verbs, like “run” and “swim”, imply the notion of “GO”, but their

Japanese equivalents do not imply “GO” but “DO (with the concept of intransitive verb)”.

Besides, English verbs, like “burn” and “count”, predicates the notion of “ACTION” and

“ACCOMPLISHMENT of EFFECT”, but their Japanese equivalents predicates only

“ACTION.” Moreover, Ikegami(1982) distinguishes two types of languages, as English is

“HAVE” language and Japanese is “BE” language. So influence trying to work on the

recipient is strong in English verb compared with Japanese one.

Second, the topic is the difference of English and Japanese causative/passive

structure. In case of English, “agent” always tends to be showed even if the agent is not

life like “medicine” and “key”. It is got as if they are life. In case of Japanese, “agent” is

not necessarily showed even if the agent is life. In addition, English causative/passive

structure is “direct,” but Japanese accepts “direct” and “indirect” structure. That is, the

power to the recipient that the agent has is strong in English but is weak in Japanese.

Third, the point is that Japanese transitivity and English transitivity. Though the

former tends to lower own transitivity, the latter tends to heighten itself.

Finally, the difference of culture is important things. People in western Europe has

an aggressive and a positive nature, while people in Japan has a passive and a negative

nature. Western Europeans tend to claim their own rights and justice. On the other

hand, Japanese tend to emphasize the cooperation and not to assert the own things. It is

thought that this fact is relation to the difference of English and Japanese transitivity.

As a result of these arguments, this thesis asserts that English transitivity is

stronger than Japanese transitivity. In short, English and Japanese have the great

differences.

謝 辞

今回この卒業論文を作成するにあたり、大変多くの方からご指導・ご協力をいただきま

した。私の所属する演習指導教員でもあり、卒業論文の主査としてご指導、ご助言をいた

だきました府川謹也先生、副査としてアドバイスをくださった阿部一先生には心より御礼

申し上げます。

また、同じ問題に興味を持ち、今まで共に勉学に励んできた府川ゼミの先輩や後輩の方々、

そして、何よりも常に苦楽を共にしてきた同輩のみなさん。多くの人に恵まれたからこそ、

この卒業論文を書き上げることができました。ありがとうございました。

最後に、大学生活4年間を支えてくれた両親に、4年間の集大成としてこの論文を捧げ

ます。

平成 12 年1月

中山 仁

目 次

Abstract・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

謝 辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

目 次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

0. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

1. 他動性(transitivity)とは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 2. 「する」的な言語と「なる」的な言語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

2.1 「する」ということと「なる」ということ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

2.2 日英語の「運動の動詞」の違い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

2.3 日英語の「行為の動詞」の違い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

2.4 「BE 言語」と「HAVE」言語-存在と所有の表現-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

2.5 状況中心と人間中心の表現・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

2.6 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

3. 使役と受動 3.1 使役構文とは何か?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

3.2 無生物主語の使役構文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14

3.3 直接使役と間接使役・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

3.4 直接受動と間接受動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

3.5 日英語の受動文の好み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

3.6 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

4. 日英語の他動性の傾向 4.1 日本語の他動性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

4.2 英語の他動性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

4.3 他動性の程度の段階・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

4.4 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

5. 文化的な考察 5.1 西欧人の積極性・日本人の消極性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

5.2 自己主張の文化・自己滅却の文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

5.3 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

6. おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24

参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25d

0. はじめに

日本人が英語を学習する方法の1つとして、出てきた英文を日本語に訳し、日本文とし

て理解するやり方がある。一方我々が英文を書くときには、まず日本文を考え、その上で、

その日本語に対応する英語を使って文章を作っていくのが、いちばんオーソドックスな書

き方であろう。つまり、英語を使う場合には常に「英語→日本語」あるいは「日本語→英語」

という流れのもとに理解が働いていることは、明白な事実であると思われる。このような

流れの中では、英語の表現と日本語の表現が一致していることが大前提となる(そうでなけ

れば、英語を理解するのに日本語を経由することなど出来ないはずである)。しかし、実際

には両言語の間には大きな差があることがわかった。次の例を見てみよう。

(1) a. I persuaded him to go.

b . 私は彼に行くように説得した。

(2) a. But he wouldn’t go.

b . しかし、彼は行かなかった。

(1),(2)ともに、それぞれ英語と日本語は一致するものである。a の英文が与えられれば b の

日本文のように訳すであろうし、その逆も然りである。では、(1)に(2)をつなげるとどうで

あろうか。(*は容認されないことを表す)

(3) a. *I persuaded him to go, but he wouldn’t go. (池上 1981 : 268)

b . 私は彼に行くように説得したが、彼は行かなかった。(ibid)

(3b)は、日本人にとって理解するのは容易である。私という人物が彼に説得を試みたけれど

も、彼はその説得に応じなかったわけである。ところが、その日本文に対応すると思われ

た(3a)のような表現は、実は容認されないという事実にぶつかった。なぜ、このような違い

があらわれるのか。日本語と英語にどのような差異が見られるのか。ここが、筆者が興味

を持った点であり、本稿もここからスタートする。

この点を考えるために、日英語のあらわす「他動性の違い」ということについて考察する。

その上で、他動性に関わる「受動文」や「使役文」を使って、日英語それぞれの持つ特徴を「他

動性の違い」の面から考える。また、なぜそのような違いがあらわれるようになったのか、

文化的側面からも理解を深めていきたい。

1. 他動性(transitivity)とは何か。

まず「他動性」とは何のことなのかについて触れておきたい。他動性とは「行為の主体がそ

の行為によって行為の対象にどの程度の影響を与えるか」ということである。もっと端的に

言うと、「主語」として表されているものが「目的語」として表されているものに対して、そ

の行為を通じてどの程度影響を与えるか、ということである。

(4) a. Mary sang. (池上 1991 : 89)

b. Mary sang to the baby. (ibid)

c. Mary kissed the baby. (ibid)

d. Mary kissed the baby awake. (ibid)

(5) a. 子どもがお金をなくす。(山梨 1995 : 240)

b . 次郎がドアを開ける。 (ibid : 239)

c . 太郎がグラスを割る。 (ibid)

(4)は英語の他動性の例であるが、a の「Mary が歌った」という行為に対して、b では「赤

ちゃんに対して(to the baby で表される)」という行為の対象が前置詞句で明示されているこ

とから、a よりも b のほうが他動性は高くなる。c になると、Mary が kiss をした相手(the

baby)が kissed の直接目的語としてあらわれている。さらに d では、kiss をしてさらに

awake させるというより強い影響を the baby に与えている。このように、a から順に他動

性は高くなっていく。

同様のことが(5)でも当てはまる。a はなくしたお金自体に影響があるわけではない。b で

はドア自体には影響はないが、ドアが動いたという点で a よりも他動性は高くなる。c にな

ると、グラスは割れてしまうのだから、当然グラスに与える影響は大きい。よって a から

順に他動性は高くなると言えるのである。

2.「する」的な言語と「なる」的な言語

池上(1981)は、英語は「する」的な言語であり、日本語は「なる」的な言語であると述べてい

る。これらはどういうことなのか。

2.1 「する」ということと「なる」ということ

(6) a. Winter has come.

b. 冬になった。

c . ?冬が来た。

(6a)は、Winter という名詞を一種<もの>的に捉え、Winter というものがこちらへ向かっ

てやって来た、というふうな表現の仕方である。つまり、Winter が<行為者>として行為を

行ったことが明示されているのである。これが「する」ということである。それに対して(6b)

では、「冬になった」という事実以外、例えば誰が冬になったのか、何が冬になったのか、

という(6a)にある Winter のように<行為者>をあらわすものが存在していない。日本語では

「冬になった」という事象を<こと>的に捉え、<行為者>をあらわさず全体の状況を注視する

ことで「なる」ということを表している(この<もの>と<こと>という捉え方については池上

(1981:256-261)を参照)。その証拠に(6c)では、(6a)同様「冬」を<行為者>として捉えているわ

けだが、「冬が来た」という表現を日常に使用するかと問われれば、頻度は低いであろう。

このことは、日本語が「なる」的な言語であるということを示す1つの例になる。

この「する」ということと「なる」ということに関して、安藤(1986 : 257)は「<スル>的な言

語は、<個体がある行為をする>というふうに、行為者を際立たせて――つまり、文のテー

マにして――表現しようとする言語であるのに対して、<ナル>的な言語は、行為者を表面

に出さずに、あたかも<自然の成行きでそうなった>とうふうに表現する言語であるという

ことになる。」と述べている。ただし、安藤(1986)が述べているように<スル>と<ナル>の関

係は絶対的な対立ではなく、相対的な対立であることを念頭に置いておく必要がある。

ところで、なぜ日本語が<なる>的、つまり行為者を表面に出さないことを好むのかとい

う問題には、歴史・文化的背景があると思われる。日本人独特の「控えめを美徳とする」文

化が影響しているのではないか。このことは後で述べる。

2.2 日英語の「運動の動詞」の違い

次の英語の表現とそれに対応する日本語訳を見ていこう。

(7) John ran to the station. (池上 1981 : 263)

(8) John swam to the shore. (ibid)

(7) a. ?太郎は駅へ走った。(ibid)

b. 太郎は駅へ走って行った(来た)。 (ibid : 264)

(8) a. ?太郎は岸へ泳いだ。 (ibid)

b. 太郎は岸へ泳いで行った(来た)。 (ibid)

池上(1981)はこれらの「運動の動詞」の日英語の違いについて、次のように述べている。

英語と日本語の「運動の動詞」におけるこのような違いを説明する1つの方

法は、英語の「運動の動詞」は本質的に<場所の変化>をあらわすものであり、

従って場所的な方向を示す副詞句と自然な形で結びつくことができるのに対

し、日本語の「運動の動詞」とよばれるもののうちの少なくともあるものは、

運動を<場所の変化>としてよりは行為、動作の過程として捉えており、従っ

て場所的な方向性を示す表現とは意味的に合致しない。

つまり、(7)の表現は run という動詞が場所の変化をあらわすので、同じく場所の変化を

表す前置詞句 to the station(この場合、「駅へ」という方向を示す)と同じ文中に存在して

も、何ら問題はない。それに対して(7a)の表現では、「走る」という動詞が場所の変化をあら

わさないので、「駅へ」という場所的な方向性を表す表現と同じ文中に存在することは、意

味的に困難なのである。したがって、「行く(来る)」という方向性を表す動詞の手助けを得た

(7b)のような表現は、意味的に容認が可能になる。(8)についても同様のことが言える。

ここで言えることは、英語の run, swim といった動詞は、動作主として働く個体の場所

の変化をあらわす意味成分としての“GO”を含んでいるのに対し、日本語の「走る」「泳ぐ」

は他へ向けられていない自動詞的な行為を表す“DO”という意味成分を基本にしている、

ということである。ここで言う“DO”は本来の「する」という積極的な動作主概念ではなく、

「音がする」などの表現にあらわれているような弱められた意味である。(池上: 1981)

ここでの考察として、英語の場合は“GO”という概念を含んでいることから、他者への

働きかけ(つまりは、その場から先へ移動しようとする力の行使)を行っていると考えら

れる。従って、他動性という点から考えれば、この場合英語は他動性が高い言語であると

言えるだろう。それに対して、日本語の場合は自動詞的な“DO”という概念を持っている

ことから、他者への働きかけは少なく、よって他動性が低い言語であると言えそうである。

2.3 日英語の「行為の動詞」の違い

前節では「運動の動詞」に関して、英語のほうが日本語に比べ、より他動性が高い言語で

あることを見た。では「行為の動詞」についてはどうであろうか。

10

(9) a. *I burned it , but it didn’t burn. (池上 1996 : 172)

b. 燃やしたけど、燃えなかった。(ibid)

(10) a. *I counted them, but it was impossible. (ibid)

b. 数えたけど、数えられなかった。(ibid)

(11) a. *I helped John (to) solve the problem, but he couldn’t (solve it). (ibid)

b . 太郎が問題を解けるよう手伝ってやったけど、太郎は解けなかった。(ibid)

なぜ(9a)(10a)(11a)に見られる英語の表現は容認できないのに、(9b)(10b)(11b)に見られる

日本語の表現は可能なのであろうか。

これも日英語の特徴の違いに起因する。池上(1981・1996)は、「ある意図的な行為がなさ

れる場合、その行為によってある結果が意図されていることがある。その種の行為を表す

動詞には、意図された結果の<達成>までをもその意味範囲の中に含むものと、<行為>だけ

を表して意図された結果の<達成>まではその意味範囲に含んでいないものとがある。」と述

べている。そして、ほとんどの場合は前者が英語であり、後者が日本語である。

英語で“burn”と言えば、それは「燃やす」という行為から始まり、燃えている過程を経

て、燃え尽きたという<結果の達成>を含むのである。したがって(9a)に見られるように、

but it didn’t burn という表現は不可能になる。「燃え尽きた」はずのものが「燃えなかった」

というのは意味的に合致しないからである。それに対して、日本語で「燃やす」と言っても、

それはその<行為>を表すだけであり、実際に燃えたかどうかまでは含意しない。つまり(9b)

のように「燃やす」という行為のあとにそのものが燃えたか燃えなかったかまでは意味的に

含まれていないわけである。(10)(11)も同様のことが言える。

ここで見てきたように、英語と日本語の「行為の動詞」は、それぞれの含意する意味範囲

に違いがあることがわかる。すなわち

英 語の動詞・・・<行為>+<結果の達成>

日本語の動詞・・・<行為>のみ

と言える。

しかし、全ての動詞についてこのような差がみられるわけではない。池上(1996)は次の4

つの可能性を指摘している。その中で、Ⅳについては例が見つからない。

Ⅰ.英語の動詞も日本語の動詞も<意図>の<達成>を含意する。

Ⅱ.英語の動詞も日本語の動詞も<意図>の<達成>を含意しない。

Ⅲ.英語の動詞は<意図>の<達成>を含意するが、日本語の動詞は必ずしもそうでない。

Ⅳ.日本語の動詞は<意図>の<達成>を含意するが、英語の動詞は必ずしもそうでない。

(12) a. *I killed him, but he didn’t die. (池上 1996 : 113)

b. *彼を殺したけど、(彼は)死ななかった。 (ibid)

11

(13) a. I invited him, but he didn’t come. (ibid : 214)

b. 彼を招待したけど、(彼は)来なかった。 (ibid)

(12)がⅠの場合、(13)がⅡの場合である。そしてすでに見た(9)-(11)がⅢの場合である。

そして「他動性」の観点から見れば、英語のほうが行為の受け手に対して、行為のみなら

ず結果までをも表してしまうことから、与える影響は大きいということが言えよう。それ

に対して日本語は行為のみにとどまることから与える影響は小さい。従って、ここでも英

語のほうが他動性が高く、日本語のほうが低いということが考えられる。それはⅣの例が

見つからないということからも述べることができよう。

2.4 「BE 言語」と「HAVE 言語」-存在と所有の表現-

池上(1982)は所有の表現に関して、言語類型学的に2つの型が存在し、1つは<所有>を

表す特別の語を有している言語であり、もう1つは<存在>を表す語でもって<所有>の概念

を表現する言語である、と述べている。前者を「HAVE 言語」、後者を「BE 言語」と呼んでい

る。

(14) a. Alysa has two children.

b . アリッサ(に)は、子どもが2人いる。

b’. With Alysa, (there) are two children.

(14a)は、Alysa を2人の子どもの所有者として捉え、have の行為者として捉えているの

に対し、(14a)に対応する(14b)の日本語の表現では、アリッサは子どもが属する場所として

捉えられていて行為者ではない。そして英語では所有の表現だった have を「いる」という存

在の表現で表している。つまり、上で言われているように、存在を表す語「いる/ある」でも

って、子ども2人が属しているという所有を表しているわけである。

(15) a . 部屋には2つ窓がある。 (池上 1996 : 169)

b. The room has two windows. (ibid)

また逆に(15a)で日本語で表されるような存在を表す表現を英語に直すと、所有を表す英

語の動詞 have が使われる。つまり、日本語では<存在>→<所有>であったものが、英語で

は<所有>→<存在>を表すという、全く逆の現象が起きている(池上 1996)。「部屋」は場所を

表すものであるが、(15b)の the room は、場所ではなく「窓を持っている」行為者とでも言う

12

べく捉えられているのがわかる。

ここまででわかることは、日本語は「いる/ある」などの存在の表現を好むことであり、し

たがって日本語は「BE 言語」であると言える。一方、英語は「持っている」などの所有の表現

を好むことから「HAVE 言語」であると言える。他動性の面から考えると、同じ所有や存在

を表す表現も、英語では行為者を表現して、行為を受ける対象に対して何らかの影響を与

えることを表現しているのに対して、日本語では行為者を明示せず、したがって影響を受

ける対象に影響を与えるものがないということになる。よって、ここでも英語の表現のほ

うが他動性が高く、日本語は低いということが言える。これは have が形式的な意味での他

動詞であり、be が同じく自動詞であるということからも必然的に考えられることであり、

次の章で考察する使役文に have が使われることからも、やはり BE 言語(日本語)に比べて

HAVE 言語(英語)の他動性の高さを表すものと言えよう。

2.5 状況中心と人間中心の表現

安藤(1986)、石綿(1990)は、日本語と英語の発想の違いの著しいものの 1 つとして、「英

語の人間中心表現」と「日本語の状況中心表現」をあげている。

(16) a. I can see a ship in the distance. (安藤 1986 : 267)

b. 遠くに船が見える。 (ibid)

(17) a. What do you hear? (ibid)

b. 何が聞こえますか。 (ibid)

(18) a. They gave us chicken. (石綿 1990 : 96)

b . 今夜のご馳走は鶏肉だった。 (ibid)

(16),(17)のように、英語では人間が中心であり、自分の感覚や感情を述べるのに主語とし

て行為者が表れるのに対し、日本語は状況が中心であるために、自己の感情すら状況が中

心となり、行為者である<私>が表面には出てこない。(安藤 1986 : 267)

(18)では、英語では人間から人間への行為として表現されているのに対し、日本語ではそ

のような人間を表現の表面には出さず、「ご馳走が鶏肉だ」ということを表現の中心に据え

ている。(石綿 1990 : 96)

つまり、英語では表現の中心に人間を立て、それが何らかの行為をすることを表現して

いるのに対して、日本語ではそのような人間は状況の中に取り込まれ、行為者たる人間が

表現の中には表れない傾向がある。言語類型学的に言えば、英語は SVOC 型、日本語は SV

型と言える。(安藤 1986 : 268)

これらのことから、日英語の他動性を考えることができる。つまり、行為者を主語とい

13

うかたちでしっかり表現する英語は、当然与える影響が大きいということであるから、他

動性も高いといえる。それに対して、人間が表現上消えてしまう日本語では、いくら状況

の中に人間が取り込まれているとは言っても、やはり英語に比べると、他動性が低い言語

であると言わざるを得ないであろう。

2.6 まとめ

この章では、「する」的な言語と「なる」的な言語という観点から日英語の他動性の違いを

考察してきた。英語と日本語は一見対応しているようだが、その意味範囲や性質が違うた

めに差異がはっきりと、しかも一貫性(英語のほうが日本語よりも他動性が高いということ)

を持って現れた。また英語が、影響を与える行為者を際立たせるのに対して、日本語は行

為者を表さない性質も見受けられた。このことは次の章の「使役構文」のところでさらに考

えていく。

3. 使役と受動

3.1 使役構文とは何か?

西村(1998)はここで扱う「使役」というものについて、「使役動詞を述語動詞とする(「使役」

の意味が述語動詞によって表現される)構文を使役構文と呼ぶ。ここでいう「使役」とは英語

の“causation(「因果性」あるいは「因果関係」)”の意味を含むものである」と述べている。し

たがって次のような例も使役構文となる。

(19) a. I opened the door. (西村 1998 : 120)

b . 私はドアを開けた。(ibid)

(20) a. Mary killed John. (ibid)

b. 花子は太郎を殺した。 (ibid)

(19),(20)の文はそれぞれ次の文を含意している。

(19’) a. The door opened. (西村 1998 : 120)

b . ドアが開いた。 (ibid)

(20’) a. John died. (ibid)

14

b . 太郎が死んだ。 (ibid)

つまり(19)の文が発話された時点でそれは(19’)の文の意味を含意している。(19)の行為が行

われた結果(19’)が起こるという、因果関係を表しているので、これらを使役構文と呼ぶのは

妥当であるといえる。

3.2 無生物主語の使役構文

(21) This medicine will make you feel better. (西村 1998 : 137)

(22) What makes you think so? (ibid)

(23) What took you to Alaska? (ibid)

(24) That explains it. (ibid)

(25) Cancer kills thousands of people every year. (ibid : 141)

(26) This key opens the door. (ibid : 150)

上の例文は全て無生物を主語とした使役構文である。これらを対応する自然な日本語に

直すと次のように言えるであろう。

(21’) この薬で、気分がよくなるでしょう。

(22’) どうしてそうに思ったのですか。

(23’) どうしてアラスカへ行ったのですか。

(24’) それでわかりました。

(25’) 癌で毎年何千人もの人が死亡しています。

(26’) このカギでドアが開きます。

英語の表現では影響を受ける受け手に対して、影響を与える行為者(動作主)がはっきりと

明示しているのに対して、日本語では行為者があいまいである。このような違いがあるに

もかかわらず、それぞれの言語においてはこれらの表現は普通に受け入れられる表現であ

る。この違いはどこにあるのか。

まず英語の表現から考えていこう。(21)において、使役行為者(動作主)が受け手である you

に対して影響を与えていることは明らかである。通常何らかの影響を与えることが出来る

のは、人間(もっと広くは有生であるもの)であることが条件であるように思われる。何らか

の影響を与えるには、そのための動作が必要になるからである。しかし、ここでの this

medicine はその意味の通り「この薬」であり、有生であるとはとても思えない。(25),(26)に

おいても同じことが言えるし、(22),(23)にいたっては what というおよそ何を表すのか検討

15

のつかないようなものまでが主語(つまりは使役行為者(動作主))として表され、それが容

認されている。英語の表現はこれらをどのように理解しているのか。

英語ではこれらの無生物を、自らの力で受け手に対して働きかけて影響を及ぼす主体(使

役行為者)として見なしている。西村(1998)ではこのような無生物主語の使役構文の解釈の

仕方を「擬人化(personification)の一種」であると言っている。(21)において、this medicine

は、その薬自体が影響を与える主体と考えられ、その力で受け手に影響を与えるという解

釈である。(22)の what は「何か嫌なことがあった」というような気持ちがあたかも使役行為

者のように受け手に対して影響を与えているし、(23)の what にしても、西村(1998)の指摘

の通り、「どこか遠くにいきたいという気持ち」が擬人化され、その気持ち自体が使役行為

者であるように捉えられている。(24)の that も何か資料を読んだり、相手の発話内容を聞

いたりして得た内容を使役行為者として理解している。(25),(26)も同様である。

このように英語の使役構文には、人でないものまでをも擬人化して、影響を与える使役

行為者化し、表現するという傾向がある。このことは、本来ならば直接影響を与えるはず

のないもの(例えば薬や気持ちなど)が受け手に対して影響を与えていることを表現してい

ることから、意味範囲が物から人へと拡張されている。つまり英語が他に影響を与える他

動性というものが高い言語であるということをあらわすものであろう。

では、日本語の表現はどうか。(21’)では、英語で使役行為者として人であるかのように表

されていた「薬」を、使役行為者ではなく、気分をよくするための手段(あるいは原因)として

表している。その他の例文も、全て英語のように擬人化された使い方ではなく、手段・原

因としてあらわされている。すなわち英語で影響を与えていたものが、日本語になると背

景化され、直接の影響を及ぼすような表現ではなくなってしまうということになる(使役構

文ではなくなってしまう)。英語のように意味範囲が人へと拡張されることはない。村木

(1991)は「日本語では非使役文のほうが普通で自然な文であり、使役文は有標で特殊であ

る。」と述べている。したがって、日本語のこれらの表現は他動性が低い言語だということ

が言える。

興味深いのは、(21)-(26)までの英語の表現が全て他動詞としてあらわされているのに対し、

それに対応する(21’)-(26’)の日本語の表現は全て自動詞であらわされている点である。また

日本語ではその行為者すら明示されてはいないのである。「スル」的な言語の英語では、行

為者が変化を引き起こし、何らかの影響を与えるという捉え方を好むのに対して、「なる」

的な言語の日本語では、変化そのものを重視し、行為者すら明示しないという捉え方を好

むという、対立的なものを示していると言えよう。(西村 1998 : 158)

3.3 直接使役と間接使役

次に直接使役と間接使役の例について見てみよう。直接使役というのは使役行為者が直

16

接、被使役者に対して何らかの影響を及ぼすこと。間接使役というのは、使役行為者と被

使役者の間に介するものが存在する使役文である。

(27) a. John built a new house. (池上 1996 : 173)

b. 太郎は新しい家を建てた。(ibid)

(28) a. John cut his hair. (ibid)

b. 太郎は髪を刈った。(ibid)

(29) a. I drove her home. (池上 1982 : 98)

b. 私は彼女を車で家へ送った。(ibid)

(27a,b)の文はともに直接使役も間接使役も含んでいる例である。すなわち、ジョンある

いは太郎が自分で努力し、働いたお金などで家を建てたという場合(直接使役)と、大工さん

などに頼んで家を建てさせた場合(間接使役)の2通りの解釈が可能である。しかし(28),(29)

は違うようだ。まず(28b)の例では、太郎が自分で髪を切ったという直接使役の解釈と、床

屋さんなどで切ってもらったという間接使役の解釈が可能である。ところが(28a)の例では、

John は自分で自分の髪を切った、という直接使役の解釈しか取り得ないのである (池上

1996 : 173)。(29)でも同様のことが言える。(29b)の日本語の表現が、私が自分で運転して

彼女を家へ送ったという直接使役の意味と、あるいはタクシーなどで送ったという間接使

役の意味も取れるのに対し、(29a)の英語の表現では、私が運転して彼女を家へ送ったとい

う直接使役の意味にしか取れない。

以上見てきたように、英語は直接使役の文が中心であるのに対し、日本語は直接使役も

間接使役も可能である。直接使役の構文は、使役行為者が直接、被使役者に対して影響を

与えるわけであり、間接的に影響を与える間接使役よりも他動性が高いことが言える。日

本語が間接使役の意味を取り得るのは他動性の低いことの証しであり、英語が直接使役し

か取り得ず、また次の例のように、間接使役の意味を表す場合には have を使った使役構文

(have+NP+V-ed)を用いることも他動性の高いことの証明になるだろう。

(28) a’. John had his hair cut.

3.4 直接受動と間接受動

3.3 で使役構文による直接使役と間接使役の違いから日英語の他動性の違いを考察した

が、受動文ではどうであろうか。

(30) a. The teacher was criticized by the student. (鷲尾 1997 : 7)

17

b. 教師が学生に批判された。 (ibid)

(31) a. *The teacher was criticized his article by the student. (ibid)

b. 教師が学生に論文を批判された。 (ibid)

(30)が直接受動、(31)が間接受動の例である。鷲尾(1997 : 12)は、直接受動が与えられれ

ば、原則として常に、対応する能動文を作ることができる、と述べている。

(30) a’. The student criticized the teacher.

b’. 学生が教師を批判した。

一方、間接受動である(31)に対応する能動文を作ることはできない。(31a)が容認されな

いのは、criticize という動詞に関係がある。criticize は意味上の主語と意味上の目的語を1

つずつ取れば意味が完結するが、(31a)の場合は意味上の目的語と解釈し得る項が2つ(the

teacher と his article)含まれているために、この文は不適格と考えられるのである(鷲尾

1997 : 12)。対照的なのは、(31b)のように日本語では対格目的語を伴う間接受動の形式が許

されることである。

では(31b)に対応するような英語の表現はないのかと言えばそうではない。次のように

have を使った表現が可能である。

(31)a’. The teacher had his article criticized by the student.

鷲尾(1997)はこの文を「HAVE 受動文」と呼んでいる。さらに、この形式(have+NP+V-ed)

が常に許容するのは<使役>の解釈であり、<受動>の解釈は一定の条件下でのみ許されるの

であるから、潜在的に可能な使役の解釈を無視して、これを「受動文」あるいは「受動構文」

と呼ぶことはできない、とも述べている。すなわち、この形式は使役の意味を含んでいる

ということが言えよう。

ここまでで言えることは、日英語とも直接受動の表現は存在するが、それよりも影響力

の下がる間接受動の表現は日本語にしか許されない。また間接受動を英語で表現しようと

すると have を使って使役構文的に表現することになり、使役構文のところで見たように、

影響力は上がると考えられる。この点から、受動文に関しても英語は他動性が高く、日本

語は低いということが考えられるだろう。

3.5 日英語の受動文の好み

3.4 で、日英語の受動文の違いを考察したが、そもそも両言語で受動文は頻繁に使われる

18

ものなのか。石綿(1990 : 59)は、「英語と日本語の表現を比較すると、英語のほうが受動表

現をよく用い、日本語は英語に比較して受動表現を用いない」と述べている。次の例を見

てみよう。

(32) a. 彼はびっくりするだろう。 (石綿 1990 : 59)

b. He will be astonished. (ibid)

(33) a. 彼は手に大火傷をした。(ibid)

b. His hand was badly burned. (ibid)

(34) a. 王が死んだという知らせがあった。 (ibid)

b. We are informed that the king was dead. (ibid)

石綿(1990 : 61)は、他にフランス語や現代標準アラビア語の例を出し、「言語によって受

動文を好んで使う言語とそうでない言語とがあることが考えられる。英語は受動文を好ん

で使う方の言語であり、日本語はそうでない方の言語である」と述べている。

英語の方が受動文を好み、日本語の方が受動文を好まないのはなぜだろうか。筆者はこ

こでもそれぞれの言語のもつ「他動性」との関連性を考える。受動文は、もとの肯定文の

目的語の位置にあったものを際立たせるために、それを主語の位置に持ってきて、作られ

るものである。際立たせられたものは、当然、動詞や副詞などから強い影響を受けること

になる。一方、もとの肯定文の主語が、受動文になると省略されてしまう(~by 以下は省略

されることが多い)のは、それがあまり大きな意味、あるいは影響力を持っていないからで

あろう。

この「際立ち」について言えば、当然際立たせられた方が影響を受けるわけであり、他

動性が高いということが言えるのではないか。前節まで、一貫して英語の方が他動性の高

い言語であるということを述べてきたわけであるが、ここでもそうに考えられる。すなわ

ち、受動文を好む英語は、他動性の高い言語であるからそのような傾向が生まれ、受動文

を好まない日本語は、他動性の低い言語であるからこのような構文を好まない、と言うこ

ともできよう。

3.6 まとめ

この章では、日英語の使役構文・受動構文について考察してきた。その中で英語のほう

が(無生物のものをあたかも有生のように捉えるというふうに)より意味拡張の範囲が広く、

また直接影響を与えようとする傾向が強いこと。そして日本語の場合は、英語の上記のよ

うな拡張性はなく、また間接的であるということ。このことは「する」的と「なる」的からも

19

考えられる。このように日英語の使役構文・受動構文を比較した場合も、他動性は英語の

ほうが高いことがわかった。では、なぜこのように言語によってはっきりと他動性に差異

が生じるのか。この後では、日本語・英語それぞれに焦点を当てながら、両言語のもつ特

徴を考えていく。

4.日英語の他動性の傾向

4.1 日本語の他動性

日本語は「なる」的な言語であり、「BE 言語」であり、そして他者への影響を与える力をな

るべく弱くあらわす言語であることを今まで見てきた。では日本語には他動性についてど

のような傾向が見られるのか。

(35)沸かしたけど、沸かなかった。(池上 1981 : 270)

(36)?水を沸かしたけど、沸かなかった。 (ibid)

(37)*湯を沸かしたけど、沸かなかった。 (ibid : 271)

まず、日本語は英語と違って動詞の目的語が統語論的に義務的な要素ではない。したが

って、行為の影響を被る対象をあらわす目的語が動詞に伴わなければ、当然他者への影響

力は弱くなる。また日本語は、(35)のように行為の主体を表すはずの主語の表示すら義務的

ではない。行為の主体を表す主語が明示されなければ、当然他者へ与える影響も弱まるわ

けである。これらのことから、日本語は他動詞でありながら、自ら自動詞化して他動性を

弱めてしまう傾向がある(池上 1981・1996)。

4.2 英語の他動性

英語は「する」的な言語であり、「HAVE 言語」であり、そして他者への影響を与える力を(時

には意味的な拡張をしてまでも)強くあらわす言語であることを今まで見てきた。では英語

にはどんな傾向があるのか。

(38)a. Mary rocked her baby (in the cradle). (池上 1981 : 274)

b. Mary rocked her baby into sleep. (ibid)

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(39)a. John deceived Mary. (ibid)

b. John deceived Mary out of her money. (ibid : 275)

(38a),(39a)ともに対象へ影響を与える他動詞を含んでいる。(38b),(39b)では、対象に対し

て働きかけるだけの文から、その働きかけによってある結果へと陥られたことまでをも意

味している。つまり、行為の主体が対象に与える影響(他動性)が a よりもさらに強まってい

ると言える(池上 1981)。

ここで日本語と比較してみると、日本語で(38b)を表現すると「メアリーは赤ん坊を揺すっ

て眠らせた。」という意味である。英語では他動詞+前置詞句であらわせていたものが、日

本語では「揺らす」+「眠らせる」というように、動詞を2つ必要としている。つまり、それ

だけ英語の他動性を日本語であらわすには動詞を多く使う必要があり、これも日英語の他

動性の強弱をあらわすものとなると考える。

(40) a. Mary sang to the baby. (池上 1981 : 277)

b. Mary sang to the baby to sleep. (ibid)

(41) a. John danced with Mary. (ibid)

b. John danced Mary weary. (ibid)

(40),(41)は自動詞が対象に働きかけ、その結果他動詞的な意味を持ち、他動性が強化され

ている例である。ここでも、英語では自動詞が結果として他動詞的に使われ他動性を強化

させているのに対し、日本語に直すと(40b)「歌を歌って(聞かせて)眠らせた」というように、

動詞を重ねて使う必要がある。このことから、英語がいかに他動性の強化への指向性が強

いか(池上 1981)、また日本語が他動性に関しては英語よりもいかに弱いかが考えられよう。

4.3 他動性の程度の段階

(池上 1981:277)は、他動性の程度が強くなっていく段階を次のように規定している。

Ⅰ 自動詞(行為が行為者にとどまり、影響は他に及ばない場合、動詞は行為の対象とな

るものの表示を伴わない。)

Ⅱ 自動詞+前置詞句(行為が他の対象に影響を及ぼすが、その影響が部分的にとどまる

場合、行為の対象となるものは、行為の指向性を表す前置詞を介して動詞と関係

する形で表示される。)

Ⅲ 他動詞+目的語(行為が他の対象に影響を及ぼし、その影響が全体的である場合。行

為の対象となるものは、動詞の直接目的語として表示される。)

Ⅳ 他動詞+目的語+前置詞句(行為による全体的な影響の結果として、対象がある状態

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にされる場合、行為対の対象となるものは動詞の直接目的語として、結果として

の状態は前置詞句として表示される。)

(42) a. I sang.---------------------------Ⅰ (池上 1981 : 278)

b. I sang to the baby. -----------Ⅱ (ibid)

c. I sang the baby to sleep.---Ⅳ (ibid)

(43) a. I struck at him.---------------Ⅱ (ibid)

b. I struck him.-------------------Ⅲ (ibid)

c. I struck him dead.-----------Ⅳ (ibid)

(44) 沸かしたけど、沸かなかった。(=(35))-------Ⅲ→Ⅰ

ここに見られるように、英語では他動性の低い段階から高い段階へと向かおうする傾向に

あるが、日本語では(38)に示したとおり、他動詞でありながら自動詞的に働こうとする傾向

がある。つまりⅢの段階から事実上Ⅰへと弱まってしまうのである。

4.4 まとめ

この章では、英語と日本語それぞれにスポットを当て、他動性について考察してきた。

英語が他動性をより強めようとしている言語であるのに対し、日本語は他動性を弱めよう

とする傾向にあることがわかった。両言語の示した特徴は対照的であり、したがって英語

と日本語を比較したときにも、さまざまな表現の場で大きな違いとなってあらわれたと考

えられるだろう。

ではなぜこのように他動性への指向が対照的なのであろうか。次の章では、文化的な側

面からこの問題を考察する。

5.文化的な考察

5.1 西欧人の積極性・日本人の消極性

安藤(1986)は西欧人と日本人の行動様式について、前者は<我>が積極的にまたは攻撃的

に<汝>に働きかけていく趣があるのに対して、後者は物事が「自らなる」のをよしとする傾

向が強い、と述べている。これはまさに「する」的と「なる」的に対応すると言えよう。

22

(45) You must eat this cake. (安藤 1986 : 282)

(46) a. お口に合わないかもしれませんが…。 (ibid)

b. 何もございませんが…。 (ibid : 283)

(45)は日本人ではまず発話しないような表現である。ともすると、ケーキをおしつけられ

ているような印象をもってしまう場合もあるかもしれないほど、強い積極的な表現である。

しかし、西欧人にとっては、こうに言うことでケーキのよさを自信を持って最大限にアピ

ールし、「食べて欲しい」という出し手の大きな願いが込められているように思う。これは

まさに積極的な働きかけであり、「する」的な言語にふさわしい表現と言えるだろう。

一方、(46)のような表現は、日本人にとっては日常よく聞く表現であり何の違和感も覚え

ないが、西欧人には偽善的に響くのではないかというほど実はへり下った、消極的な表現

である(安藤 1996)。食べる前から積極的に働きかける西欧人と違い、日本人は相手が好む

かどうか、いやむしろ、相手に好まれないことを考えての表現であると思う。つまり、相

手がおいしいと言ってくれればそれでよいが、あまりそうでなさそうな場合を考慮しての、

かなり消極的な働きかけ(それは働きかけとはいえないようなもの)であろう。また、筆者自

身にも経験があるが、仮に本当に好みに合わなかった場合でも、「おいしいです。」とは言う

が、「おいしくありませんね。」などと言ったことはない。「ちょっと甘いですね。」など、

自分の気持ちをおし隠した表現はありうる。このことは積極的に自分の気持ちを表す西欧

人の表現に比べ、日本人の消極的な気持ちの表し方をあらわしているのではないか。

安藤(1986 : 284)は、この両者の行動様式について、次のようにまとめている。

結局、西欧人の行動様式が「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」だとするなら

ば、日本人の理想とする行動のパタンは、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

であると言えようか。

西欧人の「進んで他者へ働きかけようとする積極性」が、英語という言語が持っている「他

動性を強める」という傾向に影響を与えており、その一方、日本人の「相手を優先とし、自

分はあまり働きかけようとしない消極性」が、日本語という言語が持っている「他動性を弱

める」という傾向に影響を与えている、ということが推測できよう。

5.2 自己主張の文化・自己滅却の文化

5.1 の積極性 vs 消極性に対応するようにこの自己主張と自己滅却は存在する。すなわち

23

西欧人は自分の権利を主張するのに対し、日本人は集団の利益を尊重する。安藤(1986 :

285-287)はこの自己主張・滅却について、「Yes/No」と「すみません」を例にだして説明して

いる。それによると、まず英語の Yes/No は自分の言わんとする文が肯定か否定かを予告す

るものであって、話し手中心(speaker-oriented)の語であるが、日本語のハイ/イイエは、相

手の発言の真意に対する反応として用いられるものであって、聞き手中心(hearer-oriented)

の語である。西欧人は自分の気持ちを述べるのに対し、聞き手の気持ちを重視するのが日

本人である。

「すみません」は詫びを表す語である。日本人がすぐ「すみません」と言ってしまう傾向が

あるのに対し、西欧人は自分に非がある場合でさえ、まず「すみません」と言うことはない

と言う。「すみません」と言うことは、自己を否定することになるからである。ここにも自

分を主張する文化(自分を主張するならば、自己否定の表現をなかなか使わないことにも納

得できる)と、自分を滅却する文化の違いを見て取ることができる。また日本語の「すみませ

ん」は転じて「ありがとう」の意味で使われる場合もあり、これも相手本意の表現である日本

語ならではの表現であろう。

このように話し手中心であり、自己を主張する西欧人の文化は、動作主を明示する傾向

の強い英語と関連があり、また聞き手の気持ちを重視したり、自己否定の表現を使いやす

い日本の文化においては、どちらかというと動作主の明示を必ず必要とはしない日本語と

関連があると言えるのではないか。

5.3 まとめ

この章では、西欧と日本の文化に焦点を当てて、なぜそれぞれの言語に他動性の指向へ

の違いがあるのかを考えた。言えることは、自分を強く表現し、また積極的な行動様式を

もつ西欧人の言語(ここでは英語ということになる)であれば、他者への影響をより強くあら

わし、また動作主をしっかりと明示する英語と合致することになり、他動性の程度をより

強めようとする傾向が、西欧人の人間性の中にもあることがわかる。一方、自分をあまり

表現せず、消極的な行動様式をもつ日本人の文化が、他者への影響をあまり表現せずに、

他動性を弱めようとする傾向のある日本語を作りだしたと考えてみてもいいであろう。

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6.おわりに

今まで「他動性」という概念を軸として、日本語と英語の言語の面からの違い、そして文

化的な違いを考察してきた。英語が「他動性」をより強く拡張していこうとする言語である

のに対して、日本語はなるべく他動性を弱くしていく言語であった。そして、その違いは「す

る」的な言語と「なる」的な言語として、相対的な対立を示していた。池上(1991 : 114)が指摘

しているように、英語と日本語で他動性に差が見られる場合、その差は常に英語の表現の

ほうが他動性が高いという形であらわれてくる。ではなぜこのように言語によって他動性

の指向性が異なるのかを文化的な側面からいくつか考察した。「西欧人の積極性」に対して

「日本人の消極性」がそのまま英語と日本語の差になっているように思われた。

では、およそ察しがついていると思うが、ここまで考察してきたことを踏まえて「0.は

じめに」の(3)を考察してみよう。

(3) a. *I persuaded him to go, but he wouldn’t go.

b. 私は彼に行くように説得したが、彼は行かなかった。

(3)は本稿の「2.3 日英語の行為の動詞の違い」で説明される。英語の動詞は<行為>に<結果

の達成>を含むので、persuade した時点で he は persuade されていなければならない。し

たがって、その後に「説得を受け入れなかった」という表現は意味的に理解されないことに

なる。一方日本語は<行為>のみを表すので、<結果の達成>は含意されない。したがって、

「説得し」て、そのあとに彼が説得を受け入れたかどうか、までは含まないのである。し

たがって、意味的に理解されるのである。

もちろん、(3a)も次のような文ならば当然容認されるであろう。

(3) a’. I persuaded him to go, and he would go.

この場合は<行為>+<結果の達成>を表す persuade に対して、he は persuade されている

ので、<結果の達成>を見事にあらわしている。すなわち意味的に理解されるので、容認さ

れるということになるだろう。

ここまでの考察で、日本語と英語に大きな違いがあることが明らかとなった。本当の英

語を学習する上でも、このような違いを理解し、それぞれの傾向を知っておくことは必要

なことだと思われる。対応すると思っていた日本語と英語が実はそうではないという事実

をこれからさらに注意して考えていく価値がありそうである。

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参考文献

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Emil Rodhe (1897) Transitivity in Modern English (北畠経夫・宮田幸一 訳(1960)『他

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