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17
1 チェに於けるアクラテス (下) 五六 (五六) i チェに於げるソクラ ス, イ象 (下) -・・・4 . J コニ _..・ 』園田畠 _._ 一八七六年の後牟に至るや、 1 チェは決定的にワ 1 グ、不ルから離脱したのである o 恐らく一一 1 チェの最も烈しい反 浪漫的勝蒙期は一八七六年から七八年にわたる三ヶ年であらう o 彼は後年(一八八六年泰).との時期を評し て火のやうに 語ってゐる o それは「若い魂が愛してゐたものに封ずる唐突な驚停と猪疑、若い魂 V と稀せられてゐたものに J9 る侮蔑の閃き、放浪、具一郷、疎外、冷却、町町、凍結を求める煽動的 に謝すふ憎悪、恐らくは今まで崇び愛して・??とろへの涜神的員一みかかり たことについての荒恥の炎、同時にまたゐのれがそれを策したどいげかどどの歓 ずる身傑」である 一般の 常識 からすれば、 (「人間的な司あまりに人間的なるもの」序一一一三ニ )0 との時期のニ 1 チェはソクラテスに謝して何らかの同情をいだかざるをえないはやである。 1 チェによれば、ソクラテス製紙は「人間 ととろが賓際は、それを 虹訳書 きするととばは 全然見出され ' いのである が最も幸一附に生きるととができるやうな世界と人生との認識はどんなものであるか、といふ問ひ 11 出ずる」ととによ って「仲砂に於けふ 一中和一昨併や」となる o ソクラテス撃派に於て「脅威子 は科壌と別れ レ、その「幸一隅の見地に よって科 . d t

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一一1チェに於けるアクラテス像

(下)

五六

(五六)

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イ象

(下)

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コニ

_..・』園田畠

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一八七六年の後牟に至るや、

ニ1チェは決定的にワ

1グ、不ルから離脱したのであるo

恐らく一一

1チェの最も烈しい反

浪漫的勝蒙期は一八七六年から七八年にわたる三ヶ年であらうo

彼は後年(一八八六年泰).との時期を評し

て火のやうに

語ってゐるo

それは「若い魂が愛してゐたものに封ずる唐突な驚停と猪疑、若い魂の八義務Vと稀せられてゐたものに

おJ9る侮蔑の閃き、放浪、具一郷、疎外、冷却、町町、凍結を求める煽動的な、放ちな、火山のごとく震動する欲望、愛

に謝すふ憎悪、恐らくは今まで崇び愛して・??とろへの涜神的員一みかかりと眼差し、恐らくは今しがたまでしてゐ

たことについての荒恥の炎、同時にまたゐのれがそれを策したどいげかどどの歓呼、勝利をあらはず陶酔的な内心の歓呼

ずる身傑」である

一般の常識からすれば、

(「人間的な司あまりに人間的なるもの」序一一一三ニ)0

との時期のニ

1チェはソクラテスに謝して何らかの同情をいだかざるをえないはやである。

一一1チェによれば、ソクラテス製紙は「人間

ととろが賓際は、それを虹訳書きするととばは全然見出されな

'いのである。

が最も幸一附に生きるととができるやうな世界と人生との認識はどんなものであるか、といふ問ひ

11出ずる」ととによ

って「仲砂に於けふ一中和一昨併や」となるo

ソクラテス撃派に於て「脅威子は科壌と別れレ、その「幸一隅の見地によって科

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向学的研究の血管は結紫された。

リシヤ人のもとでは、念速に前進するが、また同程度に念速に後退もする。機械金捜は高速度を以て運動してゐるが故

そして現ムつでも依然さうなのである」(「人間的」第一部、第一章、七)、そしてまた「ギ

一一個の.石が車輪の中に投げ込まれるや、機械はたち刊ととろに破裂してしまふのだ。とのやうな有は例へばソクラテ

ス.であった。とれまで素晴しく規則的であったが無論あまりに速す智た杵撃的科撃の護展は一夜にして破壊されてしま

った。もしプラトンがソクラテスの魅惑から免れてゐたら、われわれは、永遠に失ってしまった哲準的人間のもっとすぐ

れた類型を登見しえたかもしれない」といふのが、「人間的」日

ニlチェの感懐なの

である(向上、第五掌、一一六ご。

右のやうな廻りくどい表現からも、彼のソクラテス評債は、その底流に於て従来と同一なるととが看取される。彼は

依然としてぐ。50wg丘町

2の智慧にとどまってゐる。とのやうな智慧は今や反浪漫的な立場から科撃とみな

ただし、

される。すなはち、ソク

ラテス

は歴史的議展の因子として、従来と異る論擦と不竣の本能とを以て桓否せられるのであ

る。ととではソクラテス

の具健的形姿は殆んど問題になってゐない。グイモニ

オン

は幻莞と解せられ、さちにかかる幻

四月比は現代的唯物論に於ては耳疾とみなされてゐる。

にもかかはらや、

叉しでも「

フアイドン」のソクラテス像が第七章

の最後に浸透してゐる。

世人一般のいふととろによれば、彼を八罰する〉ため

にだ

の身濯の女たちはどんな仕草をするであらうか。彼女らは突き叫び、恐らくその思想家の沈みゆく太陽のごとき沈着さ

を棄すであらう。曾っ

てアテナイの牢獄で行はれたやうに。《治tA1

にふれさせる

「世の中にはいろんな種類の毒人萎がある。そして遇常、運命がとの毒液の夜そ自由精紳の辰口

機舎をみつけるのである。そのとき彼

クリントン、誰かにそとの女ども左あっちへ漣

れてゆかせてくれ!》と終にソクラテスは一一一一回った」(向上、七章、四三七)

0

とのソクラテスはニ

1チェそのひとの傾商で

あるととは疑ふ絵地がない。ととろでニ

1チェがかかる感激の瞬間にソクラテスを自己の生のための傾面として用ひる

といふととは、

果寛ソクラテスの現賓の形姿に常時親愛を感じてゐた誇撲でなければならない。そして彼が自己をソク

ラテスと共に「自由精神」(註。司

5m企丸一これは

「おのれ歩づ

からを所有するに至った自由になった粉糾」〈この人をみよ〉

の謂

ニ!チェに於けるソクラテ

ス像

(下)

五七

(五七〉

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...

ニ!チェ

K於けるソクラテス像

(下)

五八

(五八)

であって、ゾ

rvρrry安川川精神の同意司誌でないことは注意せら

るべきである。

ニ!ナェ

の内・間給制に

いてはまた偽か-故

めて論ず

るはずである)

の名のもとに総抱するといふとと、

絞がソクラテスを精紳の豊かな

(m223一ny一一既山内、十一容一

O五貰)ひと

として稀讃するといふととは、

すでにソクラテスとの例人的関係に於ける確然、たる特同を一示すものであらう。

「人間的な、あまりに人時的なるもの」第二部「随想箆一一一一ロ集」

225仰の宮内包包空白

mgg仏

ω匂忌nyf

一八七九年三月)に

於ては、直接にはソクラテスについて何事もふれられてゐない。しかしとの問題にとって重要なととは、

ワーグ、不ル的・

浪浸主義の担否である。

雲霧のごときもの、努力中のもの、脱げに感やノるものと交るとむかむかしてくるのだ」

(「防相似筏言集」一一)O

「ひとは往え概念の榊表f1・)に関してもぜいたくになるものであるo

その場合学透明なもの、

感ぜられる。

Jはしげに限発め」はじめ、途に再三間りだしたのが、「漂泊三λの影」もしくは「曙光」(玄

Q33一

の「自我への復時」を、「最高の種類の快癒」を告げる、

一八七九年十一一月)もやはり伴家的、諦観的、懐疑主義的である。

が、そとには既に身近なものや皐純なものに封ずる悦びとか、快方に向へる病人特有の朗かさといったやうなけはひが

一八七九年から一八八

O年にかけての月日はニトチエの「生涯で最も陽光のとぼしかったを

彼に否感なく「忘却をふ叩レいと時期であったが、

「襟泊者とその影」

32きち母ミロロ仏

85rg5R

(「この人を

やがて彼の

「歎してゐた一番底の自己が、

ゆっくり

J

一八八O年七月)

である。それはニ

lチェ

いはば

-71手ェ自身に

謝する一隅菅の書となったのである

(「この人をみよ」)0

-一八七九年「随想後一言集」稜刊後、健康悪化のため同年六月十四日パ

1ゼル大皐そ鮮任した

-71チェは、爾来一所不

伎の生活を-僻むとととなるのであるが、

ゆる粗野な慾撃からの解放、あらゆる痩類の外的な才都合の民中に於ける自主性と共に、かかる不都合のもとで生きろ

との常時を-一

1チェ自身に悶服せしむれば、それは「資際、生の最小金、あら

るといふ自負心。恐らくは、

いくばくかの犬儒主義、

いくばくかの〈桶〉(註。ディオゲネスの)、

しかし同様に旅かに多

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11 、

叫、

くの気紛れな幸一崎、

気紛れな快活さ、

多くの静けさ、やや垢抜けした愚鈍、隠された熱狂」の時であった。そして「と

れらすべてが最後に大いなる精紳的強化を、健康の瀬崎唱す愉悦と充賓とを生ぜしめた」のである(「人間的」序

一一一一口、四)。ま

ζ

とに、「人間的な、あまりに人間的なるもの」第二部は、最も身近なもの、

魂の一千安だけに限られたるもの、

快活で

すぐ懐疑的となる自由精神、すなはちソクラテスとニ

lチエの「自己」との現資的一致左表明する唯一の書である。

「ソクラテ

スもまた自らを紳の使徒であると感守る。しかし、との場合にもまた、あのいやな非常に不遜な八一紳の使徒

などといふ〉概念を緩和するととろの、どのやうなちょっとした軽快な皮肉と冗談好きとが感知されうるかは、私には

分らない。彼はそのととを感激口調なしに諮ってゐる。虻と馬についての彼の比倫は・素朴で坊主臭みが訟い。彼が自分

に課せられてゐると感歩るやうな本来宗教的な任務、ずなはち一柳が真理を諮ったかどうかを知るために、幾百もの方法

ととでとの使徒が彼の一柳に局を並べる場合のあの大謄な率直な身振りを推論せし

によって神を試験するといふととは、

める。かやうに紳を試験するといふことは、曾って考へ出された敬慶と精神の自由とのあひだに於け

J

る最も精妙な和解

/声 、、

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ロロくゆ""'(

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のロ-(t

の一つである」(「漂泊者とその影」七二)。とのすぐ後に、かかる「不滅な八一柳と人との

V仲介賢者」

百三ゆ吋毛色

ω&

に封ずる断乎たる告白がきとえる。「ソクラテスっ

Jーもし寓事がうまく運ぶならば、ひとは、道徳的i

理性的に精進向上せんがためには、聖書よりもむしろソクラテス

の同想録を好んで手にとり、そして'モンテ1ニユとホ

ラティウ

スとが、最も素朴で最も不滅の仲介賢者たるソクラテスを理解するための先駆者・ないし道棋として利用される

やうな時代がくるであらう。さまざまな材開学的な生き方の大道はすべて彼のととろに戻ってくる。それは諜覚、理性と

習慣とによって硲立せられた、そして悉くその主限が生きる悦びゃ沿のれ自らを愉しむととに向けられてゐる生活法で

ある。

ζ

のととから、ソクラテスに於ける最も濁自なるものが、すぺ宅の気質に関興するととであったといふととを推

キリスト教の創始者よりも、その一悦ばしい箕面白さといふやうなもの、沿よび人聞の最

論しうる。

ソクラテスは、

一警の精神献況そなずかの悪戯にみちた智慈の鮎で長所をもってゐる。その上彼の方が一唐ナぐれた分別をもってゐた」

ニ!チェ

K於けるソクラテス像

(下)

豆大」

(五九)

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ニ!チェに於けるソクラテス像

(下)

六O

(六O)

(向上、八六)と。

ととろで、かやうなソクラテスへの愛は、間早に進歩的科撃の理想としての枠蒙主義への偏向を示すも

のである、と解してはならない。とのととは明白に担否せられる。

「司祭と教師と、粗雑なものであれ洗煉されたもの

であれ、各種の理想主義者たちの崇高な楳勢慾は、すで

に子供に設きすすめて、不一く別例のもの、ずなはち会人資に奉

仕をあらはず手段として、銭魂の救済、関家の職務、作ふん子炉小川町出、もしくは名誌と財産が重要であり、

!

61

、、』'、、

公札」羽

一日二十四時間内の側人の大小の必要は

純蔑すべきものどうでもよいものである、

一方、各側人の

と数へとむのである。

ソクラテス

は、就に人間的なるものの

とのやうな閑却に謝して人間のためにその全力を翠げて抵抗し、そしてホ

メロス

ととばを以てあらゆる一会慮や熟慮の現賓の範閣と綿慢とを忘れないやうに注意するのを好んだo

人民に重大なととはV

と彼はいったo

八良きにつけ悪しきにつけ私が家の中で出逢ったととである

Vと」(向上、六一一の新語)O

との筒所は、

く特殊な時期に属してゐるとはいへ、

恐らく

ュ1チェとソクラテス

との最も親和的な関係を示唆するものであらう。し

ふき一

1チェがととで愛するととろのものは、科撃の完成者としてのソクラテス

では-なくて、まさに例性的に沿のJJ

んさはしきととを潟すととろの本能の人間としての自由精神であるo

蛍時の-一1チエはたしかに来、だ英雄的規想に謝び

立つほどに強くなってはゐないのであるo

とはいへ、

ワーグ、不ルの繋縛を脱したのち

には、健康の快復を感wしてゐると

とは事費である。い

かなる「理想」も、それが生

々しい現在や現資生活を生気と愉慌でみたしえないか

vcり、無用の長物

である、といふ極め℃重要な反浪漫主義的洞察に到達したのであるo

けだし、かかる洞察なしにはツアラトクストラの

いまや彼は、

成立は不可能であったであらう。

性についての何ものかが興

へられてゐるのである

0

・それは紋が

そンず1ェュに於ても穫するととろのもの

ととろで、彼が「自由精神」とよぶととろの、かかる男性的な懐疑主義に於て、事費

-一1チェとソクラテスとの親近

'は以前な採

求、欣然とゐのれみづからに限るとと、

一一切の外的結果を気軽に諦めるとと、格がしがたい汗動心

である。かかる

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・・・川劇""

士心操に執昔一泊したニlチェは、歴史的ソクラテスの像を胸に船めつつ、卒静と治癒を憧れるあの苦悩州の時代を生きたので

との感情は彼の慰めとなり、それは嫉妬なき愛であった。そして彼が自己本旅の意志と目標にめざめ、かかる志

操から離股したときも、もはやソクラテスの人格に挑むべき理由は全然・なかった。なぜなら問者の目指す方向は類似面

ある。

によるも封立面によるも交叉するととろがないからである。

ニーチェが「パイロイト」なる理想に順隠せんと欲した時

期に於ては、恐らくソクラテス

なる人物が都合よき論難の封象と見えたかもしれない。ととろが事賓は、彼の格闘した

封手の名はワ

lグ、不ルであってソクラテスでは・なかったoeそれ故われわれはととに於て再び強調せねばならない。《従

来ニ

lチェの敵慨心は専ら一般的夜精神的現象に謝して向けられたのであり・、同時にその、象徴としてソク

ラテス

が幾分

悉意的に選ばれたのである》と。

ソクラテスの典担を慰蒋とし支柱とした心身快復の時期に於ては、

ニーチェ

の描くソクラテス像もまた調和の様相を

呈するに至った。ずなはち人格と教設とは合一する。けだし、ニ

lチェは倫理設よりも倫理的態度を傘しとするからであ

「漂泊者とその影」に於ける均賓のとれたソクラテス像は、プ

ラトンの感動的、英雄化的見解よりもクセ

る。とまれ、

ノフォンの描潟により多く基いてゐるととは明かである。

さきに

mmげた断章

(前稿l「人文供究二巻九放」ii

あまりに人間的なるもの」気閣に於けるソクラテス像の位置を測定せしめるも

との事資は、

一ニ三真九l十二行)と符合し、「人間的な、

のである。

「曙光」に於ては、

と同様、

ニーチェ

ソクラテス

の形姿についてのととばは全然見出されないのであるが、とれは「漂泊者とその影」

の謝ソクラテス閥係の特徴を一示すものであるo

ずなはち、われわれの日常の考へて感じ、意欲の根源

を這求し、

の探求的な人間的態一度に於て、ソクラテスなる

「自由精神」の像

に一致する書一物はないであらうo

しかしながら、かかる彼のソクラテス的態度に由る結果はる一く非ソ

クラテス的である。開者の歴史的位置は謝滅的である。ソクラテス

はソフ

ィストや容貝殻主義者に比して「堅聞な基礎」

「自己疎外の道徳」を否定するとの「晴光」ほど一、ニ

1チェ

ニ!チェに於けるソク

ラテス像

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-一!ナ品

K於けるソクラテス像

Q')

六一一

会ハ一一)

に於て、

ニ1チェは浪漫的感情の充浴に迷はされた文化の柵をぶち壊し、

ニ1チェはソフィストと或種の関係をもっ。しかし本質に於ては、両者の近似はとうてい問題にならないので

剰へ費誇主義までも利用する。

ζ

の限り

を求める。

ある。例へば、

「古代ギリシャ人は節度、

沈勇、

公正そして一般に思慮といふ道徳を極めて必要としながら、

それに謝

して少い能力しかもってゐなかった」

からではあるが、

「それをるまりにもしばしば失ひがちであった」彼等には「ゾ

クラテスのかかる四主徳をきく芹があった」(「略先」第三香、

はニ

1チェとソフィストとの懸一隔をよみとるととができるのであるo

それにもかかはらや結論として、

一六五)といふソクラテス容認のととばの中にも、われわれ

ニ1チェは決定

「的↑賞、に省、非の、道

fr_"徳め.主の、義感、者情、と」し

て道ク歯t冗~

主義者ソ

クブ

lf(.

謝時する

といはざるをえないであらう。

1チェ

によれば、道徳は

であり、

かかる感情は

「かの経験、そのものに関係し‘ないで、

限習の古さ、一柳裂さ、

確かさに闘係

するo」従ってそれは「人々が新しい経験を積み、

慣矧内を修正するととに反封ずる。

すなはち道徳は新しくより良き慣

習の成立に反謝するo

道徳は人を思昧ならしめる」(同上、

第一害、一九。

その他、第一

番一ニO、第二番一

O六、一O八、第四番

ご八九、三四三参照。

なほ十一容二三二頁にも「個人道徳は、・・・・ソクラテスと北ハに始る」とみえる

)0

「曙光」

は珍しく

「火薬の

匂を帯び」ない「愛ナペき匂」の潔へる室田であるo

そとには「砲現(内

mg05ロωのぎな)的でない論断

(ωηFZS的な」(「こ

の人をみよ」)手段が作用し、従ってソクラテスに謝しても何ら興奮とか情熱とかいふ気配のみとめられない異例の著作

であるo

平静な、そして

ii彼に可能なる限りで!!客観的思想家たる蛍時のニ

1チェは、まさしくソクラテス風の道

徳設を不吉な錯誤とみてゐるのである。

「愉しき拳問」(口広

Erzny命名53ωのど均一

な突破口が開かれた。

一八八二年九月)はすでにツアラトクストラ閤内にあるo

とれによって新た

「青年期の民ただ中に於けるとのやうな荒涼、疲態、不信心、凍結といったもの、日小池常な筒所

に於℃挿入されたとのやうな老若毛;・・」〈第一一版、序一)

がニ

lチェ

の背後に棋はってゐた。

「抵劣な趣味、

民理への、

li

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八どんな犠牲を梯つでも民理のために〈

N戸

Y4Z芯ロヨ〕えgMJaω)〉

というこのやうな意志、民理への愛に於けると

のやうな子供らしい妄想」(同上、序回)は彼の厭ふととろとなった。

従ってとの時代のニ

1チェにとっては、啓蒙主義

や科撃とともにソクラテスへの愛も消え失せざるをえないは?である。ととろが事責はまさに反封であるo

彼の探求街

動は充分に警やされてをhy、従ってソクラテスとの理論的封立は不問に附されてゐるのであるo

ニ1チェの愛するプラ

トジ的ソクラテス像が新たに匙ってくるo

好ましい諏刺が幾重にも現れたのち、最後に次のやうな断章がつづくo

-. 死

にゆくソクラテス。!!私は彼が震し、一一一口ひ

そして一一

一一口はなかった一切のととに於てソクラテスの勇敢と叡智を讃美

する。最も思びあがった若者たちか孔も鞍探せしめ鳴咽せしめた、

内回・

アテナイの郷撤好きな惚れっぽい怪物にして誘拐者た

るとの人物は、同早に曾って存在したものの中での最も賢明な僕舌家であったばかりではない。彼は沈軟に於てもまさに

同程度に偉大であった。私は、彼が生命の最後の瞬間に於〈も無口であってくれたら、と思ふ

011恐らくそのとき彼

.

は霊どもの高失な秩序の中に入れられて然るべきであったらうo

それがよし死であれ、憤怒であれ、敬慶であれ、悪意

であれ11何か或ものが、かの瞬間に於℃彼の口を解きほぐしたのである。彼はいった。《沿沿、

クリトン。私はアス

クレピオスに雄難一一仰の借りがある》と。

V。生とは病気であるVといふ意味にひびく。そんなととがありうるだらうか!

との笑ふべき怖るべき八最後の言葉〉は耳の利くひとには〈沿治、

クリト

陽気に、そしてあらゆる人々の眼前

でさながら兵士のごとく生きた彼のやうな男は、

厭世家であった!

彼はまさしく生に射してただいい顔をしてゐ

ソクラテスは生といふ病に

'‘

たにすぎぬ。そして一生涯色村のれの最後の判断、九仰のれの内なる感情を隠してゐたのだ!

かかってゐたのである。しかもなほ彼はそれの復讐をしたのだ

ージュされ

敬度であってしかも演紳的な、

た、ぞっとするやうなあの言葉を以て!

ソクラテスのやうなひとでもやはり復讐せねばなら・なかったのだらうか?~

彼のあり余る徳性に於ては、

一グV

イγの雅量はあまりにも少なすぎたのか?

ああ、友よ!

われわれもまたギリ

シヤ人を超克せねばならぬ!」(一二四O)0

われわれは、

ソクラテスが死によっ℃生の最後の祭典左腕ったのは決して皐

ニーチェに於けるソクラテス像

(下)

-L..... ノ

(六一ニ)

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ニ!チェに於けるソクラテス像

(千)

六凶

(六問)

なる厭世主義によるものではなかったといふととを、

ととで答へる必要もあるまい。

けだしニ

1チェ

は歴史J

的に解科し

ないからである。

彼は極度に灼熱した行情詩めく寓意の・なかに自己の魂を露はにするのである

o

彼は苛酷な伐の俗厭に

打克ったo

彼はツア一フトタストラに於て、高次なる秩序を、ギリシャ人の克服雪期待する。従来ニ

1チ;は、かべぺ

切えたる。ハ

トスと深刻なる後愁を秘めつつ、治のれみづからを語ったととはないのであるo

かつまた、彼がまさKカカ

る感動的気分の中で「饗宴、「フアイドロス

」沿よび「フアイドシ」のソクラテスを自己の仮面として選ぶといふとと

司骨

とのとととそ、

ェーチェ

日ソクラテス関係の綾心を照破するものである。

-71チェ精神に於げる極度の例性的放電たる「ツアラトクストラ」(〉TO

必3nypEE3f第一部一八八三年、第二

部一八八三年夏、鈴三部一八八三

l一八八凶作〈冬

V、第四部一八八四

l一八八五年〈冬〉)

に於

ては、

ソクラテスの名を見出す

ととはできない。さらにその遺稿につ

いても同様であるが、

しかし「債値純換」

(CBJ〈

25m)に属する時代の若干の

断片

(Cロ35忠良znzmmmgωハ

HqC53号

gm円切

NO二一十三、十四巻)

にはソクラテスが現れてゐる。明かにツアラトクスト一フ

はニ'iチェ

の風格とソク

ラテス的なるものとのあひだには木質的に大きな懸隔があるo

それ故ととで問題となるのは、かかる懸隔

の本質の-なかにあるのかどうか、もしくは

-71チェは木質的類似にもかかはらやかかる懸隔を阪求するにす

vc-ないのかどうか、

ととであるo

前にも見たごとく、

ソクラテスに謝する

ニ1チェの本来的な苦情は、

理性根擦に基いて行鴬し、徳性を目

的と幸一雨とに合致せしめ、

「下賎な」

(立岳会ω07)

滞殺を導入し、そして情念左恭力的に抑医するといふととにあった。

反之、コーチェの行臓はパトスに支へられ、いはゆる保理に基くものではない。仰を導くものは、一一撲もしくは目的で

あるよりはむしろ空想像もしくは幻想であったo

被は僻m誇法的でなく、感際的盤的であるo

彼は木A

目的に貴族性を愛す

さらにまたツアラ

トク

ストラは車に樹立者から生れた阪諮一像または理想であるのかどうか、といふ

HtshgJd

,A叶

abJb白ド同

1t1

,炉hqJdtAJF's

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lltfI耽

'qrJ弘lhH,

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一,

avνF庁

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'E『一

a由

~

A 1、

KH

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‘.ュ

dp

hd・4LFlIPH

るむとれが一一lチェの本質であっ

て、彼の閥的五像ではないのである。右のごとき封蹴性は、

の展、史的形姿に

よりはむしろその教設に関りあふものである。それ故、ソクラテス形姿へ

のニ1チェ

いふまでもなくソクラテス

の愛が

「ツアラト

タストラ」時代に動揺し始めたため

ニIチェは「ヅアラトクストラ

」に於てはソクラテス

を不問に附したのである、と

いふ主張には賛意を表しがたいのである。何故なら、

「ツアラ

トタ

ストラ」直後二八八五年)

の或る第一一一一ロによって、彼

は依然として

ソクラテス形姿に封し庁療の愛をいだいて

ゐるととが誇せられるからであ

る。

s

彼のイロ一一ーは特に、

「惟ふにソク

ラテスは深い

ひとであった

一般の人

々と交際するととができるために皮相を装ふ必要に出づるものであ

った〉と感ぜられる」

(Cロ35伊豆停ygω2ω仏

2

C53

ュgmωN280M〈

穴口広ロニ

-E50ユ民,

gf十三谷、一一一ニ七頁)

0

しか

しながら、

ひとたび

ツアラトク

ストラ像を確立したのちの

ニlチェは、もはや仮面としての

ソ〆ラテス

を必要とせやノ、

従って

ソクラテス

形姿へ

の関心を]喪失するに

至ったのは、けだし蛍然

の成行であらうo

反乏、人間精神の褒展過程に於

けるソクラテイズム

の意義を問ふ歴史的関心が撞頭し、

「債値樽換」の思想やその計劃に於て要請されるやうな客観的

研究が前景に現れ出るのである。

「善惑の彼岸」

Q853〈Oロの三ロロ〈円切αωσ

開学者は必然的に明日の、また明後日の人間として、

一八八五l

一八八六年)に於けるかの有名な一言葉、「私はいつもかう思ふ。哲

いかなる時代であれ、その時の

〈今日

〉といふものと衝突したであ

らうし、叉せねばならなかったであらう、と。」

を以て始る断章の次の筒所は特に注目せらる川へきである。「ソクラテス

の時代、ずなはち疲持困態せる本能の人間ばかりうようよし、自分でよいと

思って己惚れてゐた

lfかれらは口癖に

〈幸一隅〉をいひ、潟すととといへば快楽を逐一ふといふぐあひだった、しかもな段、かれらの生活からしてもはや何らさう

いふことをいふ様利もとっくになくなってゐるのに、

相務らや'品目-ながらの華麗なととばを

口にしてゐた

保守的な古

代アテナ

イ人たちのあひだでは、

恐らくイロ一了!なるものが魂の偉大さにとって必要であったらう。あの老いたる瞥者

.ニ!チェ

K於けるソ

クラテス像

(下)

六五

(六五)

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ニ!チェ

K於けるソクラテス像

(千)

六六

(占ハム~)

マあり賎民であるソクラテス

の意地悪な旅費さが。

ずなはち、

彼は依併なく八高貴なる者たち〉の肉と心臓とを穿った

のであるが、

治のれみづからの肉を切りつけるととも憤るととろがなかったのだ。

しかも五分はっきりと、

〈僕の前で

は治芝居はょしてくれ!

との貼

われわれはみな一や等なんだから!〉と諾ってゐる一瞥によって。

しかし今日では

情勢は逆である。

ヨーロッパに於ては、

ただ畜群的人聞のみが繁炎し柴光に浴し、

〈様利の平等〉があまりにも安易に

かくしてニ

1チェは、現在左志向するい阜れ

た歴史的態度を以て、

の問題を客観的に考量するのであるo

彼によれば、

プラトシ的事や吾、異理の逆倒で

jJ

「骨骨砂佐、一切の生命の根本一保件そのものを否定」するものであるo

そして彼は「診断者」として次のやうに自問

〈不正の平等Vに礎化せしめられる今日に於ては」

(「善悪の彼岸」一一一一一)

O

とのやうな病患が、

古代のあの最も美しい植物ともいふぺきプラトンにとりつくとと

κなった

あの意地の悪いソクラテスが彼を損ったとでもいふのだらうか。果してソクラテス

は青春の破壊者でもあ

する。

「一

一髄どとから、

のだらう?

は?と

ったのだらうかo

まさしくあの芯人参を岬らねばならぬだけのものはあったのであらうか」(「善悪の彼岸」序)と。

また、プラト

ン的ソクラテス

は完全にプラト

γの仮面であり、

プラトン

はソクラテスに

「何かい阜れた高貴なものを解繰

し加味しようとして、あらゆる手段を悲して特に彼自身をそこに盛込まうとした」最も奔放なる解持者であった、と言

ひ放つ一一

1チェは叉してもいみじくも反問する。

「もし八前にプラ

トシ、後にもプラト

ン、民中はキマイラ

Vでなかっ

たとしたら、プラトン的ソクラテス

は一懐何者であったのか」と(向上、

または

一寸

.‘

一九O参照)

0

事費、「信仰と知事芭

然の本能と理性」といふ古来の道徳的問題は最初ソクラテスなる人聞のうちに字まれたのであるo

それは、キリスト教

の出現するはるか以前に、すでに人間の精神に労痕をもたらした問題であったo

との問題に於て映出されたニ

1チェの

ソクラテス像として、「善悪の彼岸」に於ける次の筒所は特に味讃せらるべきであらうo

天某の性向でもあり、卓越した熊誇法的理論家の性格からでもあったが、

「ソクラテス自身は1

1彼の欝.

先づ理性の側に興したのであった。

ソクラテスは、事費、蛍時の高貴なアテナイ人たちの小才の利かぬ無能さを噺笑ずる以外に、彼の生涯をかけて、何を

-OH久h険

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- 両

J

i

p

a

!,

アテナイ人はずぺての高貴な人間と問機、やはり木能的に動かされる人間であり、決し℃

自分の行潟の理由について充分とれを明瞭に説明することのできぬ人間であった。結局ソクラテスは静かな心の中で秘

しとげたといふのであらう。

かに自己をも噸笑してゐるのだ。彼は自身の卓越した良心と自己審判とに照してみて、被もまたアテナイ人たちと同じ

無能と苦難とを背負ってゐるととをみとめざるをえなかった。何のために一様自分自身を自然本能から遊離させる必要

があるのだらう!

と自身に問ひかつ答へるのであった。自然本能の正しさをもみとめ、また理性をもみとめたらよい

得してゆか必ばならない。

ではないか。

l!ひとは本能の命やるままに行っていい、しかし充分正しい理性をあげて本能を媛けるやう、理性を設

まさにあの偉大な脱出川にみちた反語家の犯した員の銑誤であっ

とんな風に考へたととは、

た。ソクラテスは自己の良心を、

一一穫の自己欺臓を以て満足するととろまで欺いてゐたのである」〈向上、

一九一)0

ら一聯の諮一一一一ロの中に、われわれは初期のニ

lチェ

にはみられない彼の歴史的態度に於ける客観性をみとめうるのであ

る。いふまでもなく、

一一1チェは道徳一家に封立してゐる。がしかしかかる封立は、

アクラテスの意見の中に様カ意志の

萌芽までもみとめようとするほどに、極端なものではない

、、、、、、、、、

買に「(ソクラテスによれば)善きことに報ゐることができないのは恥+つべきことだ。

(註、

CBJく22ロmUNg-|関口]き吋ロロ円山内戸ロ

218c一十四谷、

一一四

従ってギリシャ的友情のゆ

Kは〈無邪気な受容〉

ニーチェは却ってソクラテスを懐疑家としてモシテ

1ニユと並立せしめてゐる

からである。「断乎たる八諾Vと八否Vと

ill彼(懐疑主義者)にとってはとれは道徳に反するととだ。逆に、彼は上

品な諦念をふりまはして、彼のいふ道徳を祭典するととは何より好むととろなのだ。例八苦ばモンテ

1一一ュとともに彼は

《私に何が理解できるといふのだ》と。或ひはソクラテスのやうに《私は、私が何一つ知ってゐはしな

「ニ

1チェがその断章記録

.

なるものは存しない」とある)0

何故なら、

-、

いふだらう。

u、

といふことを知ってゐるのだ》といふだらう」(「善悪の彼岸」ニO八三

かかる傾向は、

(}八八五l六年)

の中から彼の主著のために議定してゐた詳細な諸・要黙の目録」(十六巻、四四八貰)

の中の一様題とし

て一、

簡潔に集約されてゐる。「ソクラテス以後のギりシヤ折口撃は病気の症候であり、従ってキリスト敬の準備であるこ共他の

ニーチェに於けるソクラテス像

〈下)

六七

(六七)

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1チェ

K於けるソクラテス像

(下)

t

・、-ノ.ノ

(六八)

1

黙では、

ソクラテスがこの時代に於て論議の謝象となるととはは仰であるo

ととろが、

一八八七年の暮に去るや、

との問

題に謝する新たな闘心があらはれ始める。そして一八八年九月に完成された「偶像の鴻明」

(OORgegロ55m)に於て

は、「ソクラテスの問題」(りμωHJoヴWBbωωor35)が一章を成してゆたかに民間せられるo

とれは第二の'激越な反ソ

ととに現れるソクラテスもまた一つの紳話的映像であるととは、をく「悲劇の誕生」と軌

クラテス態度の爆殻である。

を一にするo

しかしながら、

道徳主義に料到する非道徳主炎、キリス

ト敬の先駆者ソクラテスに反抗する反キリスト教者

それは、

青年の熱狂から註り出たもののやうな益想の心像ではなくして、

会く意識的な作物であり、強

ニーチェ。

いて耳左傾けしめんとする改革者特有のあの強制注意志、

いな、愚鈍な大衆に向って放つ怒読なのであるo

それは、ま

さに生死左賭しての

闘争ではあるが、しかし英雄的気負ひではない。ととに於て以前の謝ソクラテス論難は摩給され高

ソクラテスはギリシャの血統ではなく、罪人であり、放務者であり、仰偉の意地悪さと幻聴にとりつかれて

揚される。

ゐるの、た、

といふニ

1チェ

の狂気めく痛罵。

そして

「ソクラテスにあっては、

一切が誇張されてをり、

喜歌劇歌手

(σ口同0)

であり、戯叢である。

一切が同時に陰険で、民意があって、地下的である」

(「偶像の持切」

の紛訟にとそあてはまるものであるo

ソクラテスの問題、四)

といふ場ムローそれはもはやソクラテスによりは、むしろニ

1チェ

ニーチェはとと

で有名な逸話を引いてゐるo

彼は以前の著作に於てもとの逸訴をソ

クラテス

論議の糸口として利用したのであったo

が、それをかくも誇大に解精したものはなかったのであるo

「人相に心得のある或る外園人が、

アテナイを遇ったと

き」、

しかし彼は慾監のすべてを克服したと附け加へたのであるo

とのととからニ

1チェは、ソクラテスをあらゆる悪徳と食

慾;知とみなし、さらに理性によるソクラテスの自己療法は自由意志によるものではなく、切羽詰った欣態に於ける

最後の手段、すなはち病室的な救助策であった(向上、九、一

03、と断じてゐるo

われわれはとのやうな見解に同

調するわけにはゆかないo

たしかにソク一プテスの宵像は粗野な感能的左側動をあらはしてはゐるo

が、それは決して搾

彼はソクラテスの顔から邪悪な食慾者を讃みとったといふととであるo

ソクラテスはその人の一言を是認したが、

-L1pfじ1

tιiblv畑γ,

ワHvb.-、,djdf

AUU6ρ

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d司

J

的でもなければ庶準的に抑慰されたもの

でもない。プラトンの「饗宴」では、彼は最も多.く飲み、最も終日勿に思ひ切る

ととのできる酒客である。道徳者同州の憤怒とい

ったやうな痕跡もなく、朗らかな皮肉を以て、

彼はアルキピアデスの無

'吸な求愛をはねつける。

「クセノフォン」では、被は沿のれの遺徳的使命をかへりみるととなく

あまりに愛想よく

際どいしぐさだったので、

遊女をからかってゐる。との場合直ち

にわれわれの脳仰にひらめくのは、「ツアラトクストラ」に於けるかの「貞潔」についてのととぼである。「まととに、

クセノフォン

はそれを見抜くととができ・なかった

世には深底から貞潔な人々'が存在する。彼らは汝らより衷心から柔和であり、汝らより好んでゆたかに笑ふ。彼らは貞

潔につ

いても笑ひ、そして問ふ、

《何ぞや、貞潔とは?

貞潔とはい蜘慢では友いか?

しかし、

との・制愚がわれわれを

訪れ来ったのだ、われらが往いて訪ねたのではない。われらはとの客人に宿令と心情とを提供した。いま、かれはわれ

心ゆくままに滞mmせんととを!》(ツアラトゥストラ銘一部「貞潔についてL)0

跡、はくば、かれ、

らの許に依ってゐる。

とれにふさはしきものとして、われわれはソクラテス以外の何びとの名を泉・げるととができるであらうか。それにもか

ニ1チェが次のごとき結論に郎著したのは、徹底的な反ワ

1グ、不リアン、反キリスト者としての不可避的な

宿命といはざるをえない。

「ソクラテス

一つ

の誤解であった。

すぺての改善道徳は、

キリス

ト教のそれもまた、一つ

の誤解であった・・・・最もまぶしい白日の光、どんな代債を支掛っ

ても理性的で斬るとと、

明るく冷たく、用心深くて意

識的で、本能のない、本能に抵抗してゐる生白慨が、一つの病気、一つの別な病気にす

vc-なかった

ilそして、「徳」、

「健康」、主的への似路では・なかった・・・諸々の本能を針手に戦はざるをえないといふとと!とれがデカダンスの定式

である。

生が上昇してゐるかぎり、

幸一附邸木能である

011」(「偶像の薄明」ソクラテスの問題、十

ご。

かはらやノ、

/

われわれは「偶像の滞明」に於けるとの厭ふぺき紳詩を真面目にとる必要はあるまい。

に責任の重い問題の渦中にあっても「快活さそ失はないといふととは断じてつまらぬ婆蛍ではない。しかも快活さにも

ニ1チェ自身は、陰惨な板度

まして必要なものがどと

にあらう。

いかなるものでも、陽気さが輿らないゃうでは、物にならない。カが有り除ってこ

ニ!チェ

K於けるソクラテス像

(下)

六九

〈六九)

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ニ!ナェに於けるソクラテス像

(千〉

七。

(七

O)

そはじめてカの誇様である」(「偶像の海明」序ω出口頭)として、「陽気」と「快活」

を櫛ってゐる。が、かやうなととばは、

との著作の極度に張りつめた調子からすれば、何か血川仰い皮肉と感ぜられ喝ないであらうか。

「偶像の薄明」は

-71チェ

ところが、

彼にあっては、

破滅の直前まで州日能の般的附らしきものは全然みと

の決定的破滅の四ヶ月前に書かれてゐる。

「一一切債他の改債L

められない。

従ってこの著作の旗開策は、

かの

「力

への意志」

っくニ目。N戸吋

YFの伊円〉

のそれに似て、

(C55円吉ロ肉と-qtqο2ゆ)を、志向するものに外ならないのである。しかし、

かかる希有の奔放性と温度の刺戟とはまさし

く破滅の前兆である、とみるのは来して不蛍な見方であらうか。

賓際、

「カへの意志」の思索とともにニ

1チェ

の不挨

1チェ

の切迫した生命の息づきがきとえ

の精神から産み沿とされていった一八八八年のいくつかの著作の中には、

車なる生理問時ナ・ないし病理撃のみではとなし

る。従って、

一八八九年の初め突如ニ

lチェ

を襲ったトリノ何頭の悲劇は、

えない問題をも長示してゐるのではあるまいかo

われわれはそとにもっと深い象徴的な意味を讃みとらねばなら友い。

《肉髄はどの程度まで精神の高揚を、意志の強度をゆるすか》といふ人類全慨に諜せられた普遁的問題と

それは賓に、

とれは結局、人間存犯の金生存に、名人の主燃性に闘はる致命的危問ひを意味する。

との場

して受取らるべきである。

「われわれは更に一-歩を進めよう。ある道徳のほ似精を破

合ただちにわれわれの脳裡を掠めるかの「曙光」

のととば

って新しい登山を興へょうとする抑へがたい衝動に駆られたかのすぺての卓越した人々は、絞らが賓際に狂気でない場

は、いみじくも沿のれの運命を議

合には、自己を狂気げいするか或ひはそのふりをするより外-なかった」今川崎光」十四)

一示するかのごときひびきを漂はせてゐるではないか。

そとではいはゆる「ギリシャ的明朗性」に封

の最初の「一切債値の債偵特換」であった「悲劇の誕生」

ずる「債値博換」が試みられてゐる||以来、ニ

1チェは修生

gNO山け肉食忌、もであったo

ととそ、彼の古典文献撃に生命を吹込む唯一の態度であったo

従つ℃彼のソクラテス像の意味もかかる惑から解糠さ

1チェ

との

d

ロNSZO官邸、もといふと

• e

れわがばならないo

彼がかくも「時代離れのした」経験に至ったのは、依が「ギリぃ

V

ヤ古代の数八子」であったからであ

LP

1

1

1

1

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る。彼は銑に初期に於て古典文献撃の意味を明昨に揚言した。

「古典文献撃にして、現代に於て八反時代的にV

ν、

ふととろは、

時代に逆ひ、そのととに

よって時代の上に

、望むらくは叶然るべき時代のために

作用するといふ意味を

‘・

さし措い

て、はたしていかなる意味をわれらが時代に沿いて有するやを、

害について」序一一一同のい笠間)0

かくして彼はその稀有なる紘資性の本能に支へ

られた確信によって、

に民向から反抗を試みたのであるo

とのととから彼の反ソクラテス態度の意味も明かにされうるのであり、その論維の

箭は常にソ

クラテスにまつはる諸々

の偶像に向って放たれたのである。もとより、

私は知らないのである」

(「AK釣する耀史の別

時代に

偶像的世界意識

-一1チェとソクラテ

スとの関係は短

い公式に

よって表はすととはできない。が、放て一昨一一一目する・ならば、

ニ1チェは、

プラ

トンやクセノ

フォジから体承され

たソクラテス

の生きた人格を、

自己の内心の最も美し

い隠された髄験と希望のために仮商として選びだしたのである。

世界の一切償値の債値特換を敢行する

にあたっ

て、

-一lチェ

の攻撃の目棋に擬せられたものは、

ソクラテス

ではたくて

アイスキユ

ロス

とワ1グ、不ル

(またはニ

!チエ)といふ「人類の最高範例」

25ZηZZコ司

551戸尽与問冨

gωの

uzt)の中

想的倫相列島ナをではなくて、

とのやうな庚く見聞かれた歴史的眼差の中にニ

1チェはソクラテイズム

をも

一湿の「墜

とのととは、

自我中心的な自虐的態度から結来ずるものではなく、むしろ《ソクラテス

の幣誇法や思

本能的に竪

Mmな

42morgtF2を現代の治癒聞として用ふ

べきである》とする

ニーrチェ精

間に介在する人間

一般である。

. 6

落」とみてゐる

J

一柳の客観的論殺となる。

以上、われわれは

一つのニ

lチェ像を織成するために、

-一1チェに於げるソクラテス像の後展を逐うてきた。結局わ

の相を見出すであらう。

ソクラテスへ

の本能的な愛やソクラテイズムの認識的批判の表現として描かれたかかるソクラテス

像に二つ

一は、

プラ

トンたよぴクセノフォンによる体一水的ソ

クラテス像、他は、

れわれは、

ニ1チェ自身の婆術的

加工

による紳詩的ソクラテス像である。との問者はしかし時により必やノしも椴別しがたく、

却っ

て屡z

相互に混交して

ニ!チェ

に於けるソクラテス像

(下)

七一

(七一)

l •

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'

ニ1チェに於けるソタラテス像

(下〉

七ニ

〈七ニ)

ゐるのである。

1チェ

の無意識的な矛府であるといふよりは、むしろ紋の詩人的木質の現れとみるぺき

とのことは、

であらう。勿論、被のソクラテス像は詩人としての意識的フィクショ

ンとみなしうるととも事費である。が、それにも

まして

ニ1チェ

の内なる「明日の、明後日の」限に映じたソクラテス像はm単なるフィクションではなく、却ってそれが

とれをェ

1チェ精神の外か

ととにわれわれは、み

-一1チェ

のソクラテス像は、

ニ1チェの「現賓」だったのでは・なからうか。

いひか

へれば、

γみればフィクショシであっても、その内かレみればフィクショ

ンでない、といへるであらう。

づから

フイロ

グフィ

1レンの源泉に立つ一一

1チェ濁自の詩人性をみとめうるのであるo

しかも倖承的ソクラテス像を曲

解したかのごとく装ひっつ、

敢てソクラテス神話を創作したととろにとそ、

被の思想に全般的に存在する矛盾の必然性

の著作活動の初め

・最初のものは、「悲劇の誕生」

に於ける詩人的陶幣の雰間無の中に、最後のものは、

精紳生情の葉氏刊の中に。前者はワ

1グネル心醇の中に、後者は憤

が、ひいては彼の哲撃の悲劇性が感知されうるのである。奇しくも二つのソクラテス紳訴が一一

1チェ

と終りに立ってゐるo

恰もニ

1チェ自らの生活慌験に於げるがごとく、

象徴的に。

川ひと噸篤の中に。

一は、自己の偉大さを既に約束しつつ米、だ全く浪漫的理想に献身しながら、他は極度に自意識を高揚

しつつ既に破局を兆し・ながら。

要之、

であったごとく、

彼の封

反キリスト者たるニ

1チェは決して

hpロけんICMM

比三己ω

では・なくて〉ロ

atcZ山田宮巳5戸

ソクラテス関係は

kpE円

lmwOH同

ggmであるよりはむしろ怜同氏ー∞ow円三段

58であったといってよいであらう。しかした、だ

ゾクラテメの数への一特殊部分についてのみ、非道徳主義者ニlチェは道徳家ソクラテスの敵手であったのである。従

のソクラテス

像は、

アレグサンドレイア的近代的人間の技巧的紳訴の象徴とし℃

1チェ

って、放て額一一一一周する・ならば、

の役割を演じたものとい・ひうるであらうo

(山冗)

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