さよなら ハドソン · いて「mz...

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さよなら ハドソン

ハドソンがファミコンに参入した時

書籍版 前書き

これは、2012 年の春に解散になった、老舗ソフトハウスだっ

たハドソンがファミリーコンピュータに史上初のサードーパー

ティとして参入するまでの物語だ。

もとは僕のブログで書いたものに加筆・訂正などを加え、また、

出来るだけ、資料なども加え、出来るだけ正しい歴史になるよう

に努力したつもりだ。

例によって、いったい何人の人が面白いと感じるのか全く分か

らない本なのだけど、まあ作りたいものを作るのが同人誌である。

ということで、ともかく作ってから、ほしい人がいるかは、考え

ることにした。

また、この本には、元ハドソン社員の方々、具体的には野沢勝

広さん、中本伸一さん、飛田さんを始め、小林さん、本迫さん、

笹川さん、桜田名人、星君、など多数の方のインタビューが含ま

れている。

フェイスブックやさまざまな手段でのインタビューに快く、答

えてくださった元ハドソンの方々には本当に感謝したい。

岩崎啓眞

電子書籍版 前書き

実は、この本は電子書籍版を出すつもりはなかった。

だけど facebook で元ハドソンの方に、物理本を送るから住所

を教えてくれ…とメッセージを送ったところ、返ってきたメッセ

ージが…

「え? 電子書籍じゃないの? 電子書籍版くれよ」

…もうそういう時代なんですね…と言いたくなってしまった

よ、うん。

そんなわけで、電子書籍版を作ることにした。

ところで、いままでのこのシリーズを買ってきてくれた人には、

少し困るかも知れない変更を行うことにした。

それは PDFのレイアウトを変更したことだ…って、このテキス

ト読んでいる人はもうわかっているだろうけれど(笑)

というのも、いままでの電子書籍版は 4.3インチ以下の具体的

には iPod touch の第4世代でも読めるようにテキストを大きめ

にしていたのだけど、試しにそのフォーマットに、この本のテキ

ストを流しこんでみたところ全く情報量が足りず、ストレスフル

な出来だったので、今回は7インチクラス、もしくは 10 インチ

のタブレットで快適に読めるように全面的にレイアウトをやり

直した。

今までのシリーズだとタブレットではちょっと文字が大きい

印象があったけれど、この新しいフォーマットではかなり密度が

高い印象になっているはずだ。

おかげでページ数的には少なく見える、書き手としては実に嬉

しくない効果もあるのだけれど、やはり情報量には代えがたい。

ちなみに5インチクラスのスマートフォンでは目がチカチカし

ない程度には読めるはず。

このあたりは妥協と調整の嵐で、1行 30文字かそれとも1行 28

文字か、何度も調整しまくって、自分的には5インチクラスのス

マートフォンなら、目がチカチカしない程度にはなんとか読め

て、かつ情報密度もあるってバランスがとれたと思っている。

ちなみにリファレンスにしているのは、今の自分のスマホ、

Xperia Z、Nexus 7、iPad 3(初代レティナ iPad)。

と、まあ、イロイロと思う所があり、出来上がった電子書籍版

だけど、最後まで楽しんでいただけると幸いである。

また電子書籍版では、物理版でインタビューした方に加え、川

田名人、北出さんなどにもお話を伺うことが出来た。

おかげさまで歴史資料としての正しさが物理板と比較して、若

干向上した。

本当に感謝したい。

岩崎啓眞

目次

1970年代後半、マイコンブーム ................................................. 7

1978 年、MZ-80K ...................................................................................... 9

BASIC というプログラム言語 ................................................................. 22

1982 年、東京事業部 ............................................................................... 24

1982 年、X1 と HU-BASIC ...................................................................... 27

MSXとホームコンピュータとファミリーコンピュータ .......... 37

1983 年に MSX が見てた夢...................................................................... 38

ああ、夢のホームコンピュータ ............................................................... 41

80 年代前半のホームコンピュータ........................................................... 47

シャープと任天堂とハドソンと ................................................. 54

副社長と連れション ................................................................................. 55

ファミコン開発環境を作る ........................................................ 74

イマドキのサードパーティ ...................................................................... 77

開発機を作ろう! ..................................................................................... 80

ハドソン参入、そしてコンソール時代の幕開け ....................... 91

1983 年冬、任天堂から許可を得る .......................................................... 92

ロードランナースタート .......................................................................... 97

黄金時代の始まり .................................................................... 105

ハドソン初期作品スタッフリスト ........................................... 114

ハドソンと BEEPがなくなった日 .......................................... 127

さよなら、ハドソン ................................................................. 130

後書き ....................................................................................... 135

電子版あとがき ........................................................................ 140

文 岩崎啓眞

表紙・挿絵 あいざわひろし

1970年代後半、マイコンブーム

全ての始まり - パソコン黎明期

これは 1983年春に始まり、1985年9月に終わる、ハドソンが

ファミコンのゲーム市場に、史上初のサードパーティとして参入

したときの物語だ。

たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力

を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。

ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中

に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは

分かるのはいやだ」といわれてしまったので、ブログで最初に名

前を出してしまった野沢勝広さん以外は、一部はっきりわかって

しまう箇所を除いて、ハドソン関係者、ということで伏せておき

たい。

でも、ファミコンの話をするまえに―――

物語はマイコン黎明期、映画スターウォーズが日本で公開され

た年、1978年から始まる。

公開当時はただの『スターウォーズ』。

エピソード4とかは、後からつけられた。

1978年、MZ-80K

1978年の年末にシャープは 198,000 円で、MZ-80K というセミ

キットマイコンを発売した。

セミというのは一部組み立てる必要があるから。

ちなみに組み立てにはハンダごてが必要だった。で、僕がコン

ピュータを買うときに使っていた京都のヒエン堂とニノミヤ無

線はどっちもこの組み立てサービスをやっていた。

京都のヒエン堂とニノミヤ無線は当時、京都の寺町(京都市の電

器店街)にあった大きめの店、2つ。

このハードは右

の写真を見て分か

るとおり、オールイ

ンワン、つまりモニ

タ・キーボード・デ

ータレコーダが全

部ついていて組み

立てるだけで、誰で

もモニタつきマイ

コンが使えるよう

になるという、もの

すごく初心者にとって嬉しいハードだった。

とはいってもキーボードのボタンを全部逆につけた、なんて悲喜

劇もあったらしいのだけど。ちなみに僕はこれの組み立てをヒエ

ン堂で手伝わせてもらってワクワクしてた。

しかも競合する日立のベーシックマスター(BASIC MASTER)と

比較して値段が圧倒的に安かったので大ヒットし、1979 年に発

売された PC-8001(NEC)と市場を二分するハードになる。ここに

1981年に富士通が FM-8を発売して割って入り、パソコン御三家

と呼ばれるようになるのだけど、それは余談。

右の写真がベーシ

ックマスター。

1978 年に発売され

た、日本で最初の筐体

の中にマイコンが入

って、キーボードと一

体になっている、今で

言うパソコンの形を

したコンピュータ。

オフィス前提の一

体型のハードはこれ

よりも前にあったけ

れど、ホビー向けとし

てはこれが史上初と

思っていい。

ちなみに最初はレ

ベル1BASIC ってのが

搭載されて発売され、1 年ほどでレベル2BASIC に更新されたっ

て記憶がある。

お値段はというと、本体だけで 228,000円。

MZ-80K は、白黒モニターと専用データレコーダつきで、これ

より安かったのだから、いかにいい設定だったか分かる。

なお、データレコーダと書いているのは、当時はプログラムや

データを保存するメディアはオーディオカセットテープだった

から。プログラムを音声データに変換⇒オーディオカセットテー

プに保存って手続きだったわけだ。

ところで、そろそろオーデ

ィオカセットテープを見た

ことがない人がいそうな気

がするので、左側に写真を載

せておく。

デジタルデータをアナロ

グの音に変換して、左のテー

プに録音して保存するのが、

当時の主流だったのだ。

当時、このカセットに保存するときの速度は「ボー(baud)」って

単位で表現されていた。

そして 300ボーなら大雑把には 300ビット/秒、1秒 30バイトち

ょっとぐらいの速度で保存することが出来た。

これは通信速度を表す単位なのだけど、光回線の 100メガは実は

100メガボーにほぼ等しい。なので光で 100メガでインターネッ

トにつないでいると、当時の 33 万倍程度の速度で通信している

ことになる。

加えて書くと、この保存する方法にはいくつか有名な手順があっ

た。例えば 300 ボーのカンサスシティスタンダードだの、1200

ボーのサッポロシティスタンダードだのなんて具合。

ちなみにスタンダードとかいったって、いまみたいな標準化手続

きがあったわけじゃなくて、どっかの町に学生が集まって「これ

でやってこーよー」って話し合ったってレベルだ。

カセットテープ

そして最初に MZ-80K 用のソフトを売り出した…つまり、ソフ

トを商売にしたのがハドソンだった。

ハドソンより前に日本でマイコン用のソフトを製作して売っ

ていた会社、今で言うソフトハウスがあったのか僕は知らない。

ただ、ヒエン堂で読んだマイコン誌にハドソンの広告が載って

いて「MZ 用のゲームを売る人たちがいるんだ」と思った記憶が

あり、それより前に

は、ソフトを売る人

を見たことがなか

ったので、ハドソン

のソフトの広告は

僕が見たほぼ最初

のソフトの広告な

のも間違いない。

なお広告が掲載

されたのは 1979 年

9月号。夏休みの真

っ最中で、右のよう

な広告。この広告が

ハドソンの初広告

だったらしい。

この広告を見てしばらくしてヒエン堂にハドソンのゲームが入

ったわけだけど、それを見て「こんなのなら俺も簡単に作れるよ」

と思ったし、実際に別に難しくなく作っていた。まあこのころは

全員が素人だったのだから、それも当たり前だ。

1979年 8月に出た広告

余談気味の話を書くと、当時のハドソンは結構『I/O』および

『マイコン』誌と仲が良かった。

というのも、野沢さんが最初に作ったコンパイラ『FORM』や、

ハドソンの開発環境についての記事はだいたい『I/O』誌に掲載

されていた(中本さんと竹部さんの連名の記事が多かったはず)。

そして加えて、ハドソンのソフト広告に近い号に宣伝として

『アルデバラン PART 1』(後の MZ-700などのレイホープ研究所)

のソースが『マイコン』誌に掲載されていたので、この推測には

ほぼ間違いはないと思う。

話を続けると、この『アルデバラン PART 1』は三部作という

ことになっていたのだけど、パート2までしか記憶になく、パー

ト3はどうなったのだろうと思っていたら、パート2が出た後、

アルデバランは一度絶版になった後『レイホープ』に名前が変わ

って再販されたということだ。つまりパート3はなかったってこ

とだ。

『マイコン』誌は、当時発売されていた4つの雑誌『RAM』、『I/O』、

『ASCII』の中では地味な雑誌だったと思うが、僕が初めてプロ

グラムを覚えた TK-80BS のプログラム(F-15 ゲームというタイ

トルだったと記憶している)が結構掲載されていたので、個人的

にはお気に入りだったり、変に恩を感じていたり。

雑談交じりに書くと、当時の僕らのマニアのイメージとしては

I/Oはハードに強く、ASCIIはソフトに強く、マイコンはビジ

ネス系の記事が良く載っている(といっても、当時のマイコンで

やれるビジネスだからタカのしれたレベルだけど)。

RAMは…当時の愛読者の方には悪いが、僕らマニア仲間の間では、

ミソッカス扱いされていた。

そしてまた、この『アルデバラン PART1』は、ハドソンの創業

初期の傑作ゲームだったりする。

右の画面が、当時、

マイコン誌に掲載

された『アルデバラ

ン』のプレイ画面。

ロボット(右に小

さく見えるキャラ

クタ)がプレイヤー

の操作するキャラ

クタになる。

このロボットを

使って、左側のエリアの中にいる人を救出していくのが目標。

実はこのロボットは人を押すことしか出来ないという設定で、

後のシンキングラビットの大傑作ゲーム『倉庫番』のモトネタに

なったのではないか? と少し思うアイディアが入っていたり

する。

と、『アルデバラン』の余談を書いた所で…では、当時、ハド

ソンはどんなソフトハウスだったのだろうか?

ゲームもシステムソフトも、一部ハードも、およそマイコンに

関わるモノなら、なんでも作るソフトハウスだった。

といっても、ハドソンが変わっていたわけじゃない。

当時のソフトハウスはみんなそうで、ハドソンもその一つだっ

たというだけだ。

アルデバラン MZ-80K版

例えば『フラッピー』(人によっては『ヴォルガード』とか『頭

脳戦艦ガル』かも知れない)で有名だった db-SOFT は db-BASIC

だのワードプロセッサだのを出している。

また、例えば、MZのソフト、特に MZ-80B/2000以降の 3Dグラ

フィックスゲームで有名だったキャリーラボは、そういったゲー

ムも出しながら、WICS、BASE といった開発系のツールも製作・

販売しているし、さらに書くと、そういった開発系ツールを雑誌

に発表していたりするし、結構一時有名だった JET88という名前

のワープロも出していたりする。

当時のキャリーラボ主力メンバーのプログラマ達は、後にキャリ

ーラボを退職し、アルファシステムを創業。

ハドソンにやってきて、僕とともに『凄ノ王伝説』、『イース』、

『天外Ⅱ』などを作ると同時に平行して、さまざまなゲームをハ

ドソンに供給して強力なソフトメーカーとして有名になってい

く。そして『天外Ⅱ』が縁となって、桝田省治さんと『リンダキ

ューブ』、『俺の屍を越えて行け』などをコンビを組んで作ってい

くことになる。

それも当たり前だった。

なぜなら、当時は Windowsだの linuxだの MAC OSなんてモン

は言うにおよばず、原始的な DOSもなければツールもない。

せいぜいメーカー製の BASICがある程度だ。

海外で史上初のホビー用 OS、CP/M がようやく発売されていた程

度。また標準化されたハードウェアは"S-100"バスという、拡張

バスが存在した程度。

そして当時の雑誌にはソフトではゲームと並んで「アセンブラ

の作り方」や「BASIC の作り方」、つまり「どんな風にして、あ

なたのコンピュータでシステムソフトを自作するか?」が連載と

して載っているのが当たり前だったし、加えて書くなら「16 キ

ロバイト RAMボードを安く作る方法」や「1万円以下で作れる安

定化電源」なんてハードの作り方の記事が回路図までついて掲載

されているのもごくごく普通だった。

つまり、ゲームを作るどころかコンピュータを使うための必要

最低限の道具から自分で揃えるのが当たり前の時代だったのだ。

電源を作るのは冗談じゃない。

僕が初めてコンピュータと付き合いだしたとき、質のいい電源は

数万円するのが当たり前で、これをいかに安くするかはマイコン

を趣味にしている人間にとって、とても重要な事柄だった。

I/O誌に掲載されていた FORMの記事

ライターが野沢・中本・竹部さん。豪華だ。

だからハドソンは、キャリーラボや dB-SOFT と同じように

MZ-80用の『野球拳』も売りつつ、H-DOSという DOSや、FORMと

いう Tiny Fortran、PALL って名前の Tiny PASCAL といったシス

テムソフトも作って、売っていた。そしてこれはごく当たり前の

ことだった。

つまり、まとめると、1979 年ごろに創業したハドソンは、日

本でほぼ最古のソフトハウスの一つで、MZ から商売を始めたの

で、シャープと仲が良く、かつ当時のソフト屋らしく、システム

もゲームも作れるソフトハウスだったわけだ。

なお右にあるのが、

MZ-80K 用のハドソン

の『野球拳』で、ほぼ

間違いなく日本初の

アダルト系のソフト。

まあ、これにハアハ

ア出来たらさすがに

驚いてしまうのだけ

ど、誰が書いたのか不

明だった。

これが、今回、ハドソ

ン関係者に確認した結果、誰がこのプログラムを書いたのか判明

した。

■ハドソン関係者

野球拳を書いたのは工藤裕司さんです。

なんてこったい、作者は工藤社長だった。

MZ-80K用野球拳

余談ついでに、この『野球拳』は、ハドソンがパソコン用のゲ

ームを販売している間、様々なマシンに移植されていたのだけど、

同じ『野球拳』というタイトルでありながら、これほど中身が違

うゲームも珍しい。

下の二つの画面は MZ-700版と FM-7/8版。

これ、両機種明らかに MZ-80K 版とは別物で、しかも、なんつ

ーか、これを同じタイトルで売るのはどうなんだと思ってしまう

差だ。

FM 版もタイリングの技術の登場前で、なおかつデジタル8色

なので、肌色が白だったりとひどいものだが、それでも MZ-700

版よりよほど嬉しいのは間違いない。

では、この創業~1982 年ごろのハドソンはどんな風にしてソ

フトを開発していたのかというと、こんな感じ。

■ハドソン関係者

あの当時は SDKなんて無いから PCから CPUを抜き取って ICEを

突っ込んで BIOS を解析してキー入力やらグラフィックアクセス

を解析して作成していたね

SDKはソフトウェア・デベロップメントキットの略。通常はハ

ードウェアメーカーや OS メーカーが提供してくれる「そのハー

ドや OS でソフトウェアを開発するために必要なツール」がまと

まっているもの。

BIOSは”Basic Input Output System”の略。基礎的な入出力、

例えばキーボードからの入力とか、必要最低限のディスプレイへ

の出力とかを司るプログラム。

■ハドソン関係者

メーカーからは大した資料が来ないから解析してましたね

だから社内にある PCはほとんど CPUが抜けるようにソケットに

なっていた

解析した結果からソフトを書いて、M80&L80 で HEX ファイルを

吐き出して ICEで流し込んで実行というようなスタイルでした

M80は MACRO-80。L80はそのリンカ。

マイクロソフト御謹製の傑作アセンブラ。CP/M 用。Z80/8080

のどちらのバイナリも出力できる…って互換だから当たり前だ

けど。

これの延長に MS-DOSの傑作アセンブラ MASMがある。

そして ICE はインサーキット・エミュレータ(In-Circuit

Emulator)の略で、ハードウェアを開発したりデバッグしたりす

るとき、さらにハードにすごく密着したソフトを開発するときに

使うツールだ。

と、書いても、

ICE なんて使った

経験がある人はも

はやレアだと思う

ので、この当時、

とても有名だった

ヒューレットパッ

カード( HP)の

HP-64000の写真を

右に掲載しておく。

この機械のプロ

ーブをパソコンの CPUの代わりに刺すことで、実際にコンピュー

タをエミュレーションしながら動かすことが出来た。

つまり、ハドソンでは ICE

を使って、ハードウェア&

ハードに近いソフトを直接

デバッグできる環境にして、

中身をハックして開発して

いたわけだ。

これは実は当時としてみ

ると、先進的ではあるけれ

ど、また反面当たり前の話

だった。

HP64000本体

HP64000のプローブ

というのも、当時はどのハードメーカーもまともな開発キット

もくれなければ、整理された内部資料なんてものものなかった。

だから個人なりメーカーなりが内部を自分らで解析するのが当

たり前の時代だった。

そして、このころの技術者はソフトもハードもできるのが当た

り前だったので、だいたい自分たちでこういうムチャなことをや

って解析するのが当たり前だった。

だいたい僕だってソフト屋だけど、回路図どころか実際の基板

の配線を見て、ある程度動作を推測することが出来たぐらいだ。

当時は積層基板なんてなくてせいぜいがスルーホールの両面で

しかなかったので、簡単に回路図を読むことが出来た。

それどころか積層基板が技術力の宣伝になった時代もあった。

まあ役割が未分化でも成り立つほどにハードもソフトも原始

的で、そしてソフト屋はハードがわかり、ハード屋はソフトも書

ける時代で「俺ハード得意だからハード触るね」、「わかった、じ

ゃ ICE動いたらソフト解析するよ」の世界だったのだ。

また今書いた解析…ぶっちゃければリバースエンジニアリング

した結果が本になって PC-8001 完全解析みたいに売られている

のがまた普通だったりした。

BASIC というプログラム言語

ところで、コンピュータ言語 BASICは、この本の半分ぐらいで、

ずっと関係し続ける、非常に重要なキーワードなので、ここで、

簡単に解説しておきたい。

BASIC はコンピュータの言語のひとつで、”Beginner’s All

purpose Symbolic Instruction Code”、すなわち「初心者向けの

汎用記号コード」とでもいうところの頭文字をとったものだ。

これはダートマス大学で作られた「FORTRANを覚えるための学

習用言語」が大元なのだけど、言語の仕様が比較的小さいこと、

インタープリタなのでコンパイラのように複雑な実行環境が必

要ないことが組み合わさって、Tiny BASICという名で 70年代後

半にマイコンに移植される。そしてこれが大流行して、マイクロ

コンピュータの言語は BASICという流れが出来上がる。

マイクロコンピュータに実装された初期の BASICとしては、Palo

Alto Tiny BASICが非常に有名。

この Tiny BASICは2キロバイト(漢字にして 1024文字)で動く

ようにできているプログラムだが、登場当時のパソコンでは8キ

ロバイトもあれば、メモリはすごく多い方だった。

実際、例えばマイコンブームを巻き起こしたので有名な TK-80は

標準実装メモリは 0.5キロバイト(漢字にして 256文字)。

このサイズを見れば、Palo Alto Tiny BASIC の2キロバイトは

結構な容量なのがわかるだろう。

だからマイコンをテレビにつないで、2キロバイトの BASICを動

かすのは、当時のマイコン野郎のひとつの夢だった。

加えてマイコン黎明期は、実用アプリを売っているわけでもな

いし、インターネットもなければ、ゲームも売ってない。

だからマイコンを購入(自作)しても、自分でプログラムを勉

強して書くぐらいしかやれることがなかった。

つまり、マイコンホビーってのは、自分でプログラムを勉強し

て、書いて、自作ゲームを遊んだりすることだったのだ。

そして 70年代末~80年代前半は、マイコン(パソコンという

言葉はまだ主流ではない)には BASICが搭載されているのが当た

り前、それでプログラムを書くのが当たり前というホビーマイコ

ン観が当たり前の時代だった。

これが 80 年代半ば~後半になるとフロッピーが標準装備にな

り、ソフトが整備され、表計算で仕事するとか、ゲームを買って

遊ぶのが当たり前になっていき、こういったプログラムして遊ぶ

というホビーマイコン観はマイコンという言葉とともに急速に

失われていくことになる。

1982年、東京事業部

余談を挟んだが、ハドソンは、当時のマイコンブームの波に乗

り、事業を拡大して、1982 年に東京事業部を作り、開発の中心

をどちらかというと東京に移しつつあった。

■ハドソン関係者

私が入社した頃は麹町に会社があったのだけど、なぜか DEC の

PDP-11があったり、86用のかなり大きな開発機 MDS80?があって

竹部さんが JRC(日本無線の出していたパソコンがあった)の

Hu-BASICを作ってました

その当時としてはかなり最先端の機材がありました

その頃ソフトバンクが出来た頃で孫さんが来ていて話したこと

があります

ちっちゃいオッサンだな、と思っていたのだけどねw

この証言にある DECの PDP-11は一時無敵を誇った DECのミニ

コン。

右の写真が PDP-11。

写っているのは、あ

の UNIXと Cを作ってし

まったケン・トンプソ

ン&デニス・リッチー

である。わざわざ選ん

でみた。

PDP-11

ミニコンはミニコンピュータの略。

なによりミニなのかというと、大型機より小さいからミニコンピ

ュータ。略してミニコン。

そしてミニより小さいからマイクロコンピュータ。

それが略されてマイコンだったのだ。

そして、1982 当時、麹町にあった東京開発側には中本伸一氏

(ソフト)、岡田節男氏(ハードに関する当時のハドソンの責任

者)、竹部隆司氏(ソフト)の3人がいて仕事をしていて、札幌

開発側に野沢勝広氏(ハード・ソフト両方)、菊田政昭氏(当時

はペーペーの若手だったらしい)などがいるという体制だった。

当時のハドソンのメンバーの名前がある程度分かる人なら分か

るが、どちらかというと東京のほうがメインといって間違いでは

ない陣容だ。

中本・岡田・竹部氏の3人の中で竹部さんだけはほぼ僕は知ら

ない。

というのも、竹部さんはこのあとハドソン USAが大きくなった

とき、支社長(?)としてアメリカに赴任してしまうのだ。

話によると中本さんとは対照的に静かで緻密なタイプだった

らしい。

また、この東京開発は、僕がハドソンで仕事をしていた 88 年

ごろには、一時仕事を出来るように開発室として使える場所はあ

ったし、実際いろいろなタイミングで使ったが、常駐で開発部が

いるような場所としてはなくなっていた。

中本さんは、当時僕に「二つに分かれてるとよ、不便なことが

多くてよぉ、札幌にまとめたんだべさ」と言っていた。

会社が大きくなってどっちにも人数がいると面倒くさいこと

が多いので、本社の北海道側に全開発スタッフを集めたのだろう。

当時はバブルのど真ん中で、東京での事務所の維持費などがバカ

らしく高くなっていた、というのも理由の一環だったのではない

か、とも思う。

なお桜田元名人の話によって判明したのだけど、東京開発は 87

年初頭にはまだあり、これが 87年いっぱいで札幌に集められた、

ということらしい。

そして 87年初頭には竹部さんはまだ東京にいたらしく、『リンク

の冒険』のタイトルのラスター処理についてちょっとした離れ業

を見せたらしい。

笹川敏幸氏(後のハドソンのサウンドのトップ。『迷宮組曲』の

プログラマとしても有名)、飛田雅宏氏(後に AS、LK といった

PC エンジンの開発システムを作る。桃太郎シリーズのプログラ

マ)のあたりも、このあたりでハドソンに入社している。

飛田さんの話では、ずっと東京にいるつもりで、札幌への転勤も

最初は 2-3年の話だったはずなのに、気がついたら 20年以上も

いるハメになったと言っていた。

1982年、X1 と Hu-BASIC

こんな仕事をしていた当時のハドソンのヒットシステムソフ

トの一つに、さきほど名前が出てきた"Hu-BASIC"(ヒューベーシ

ック)というソフトがあった。

これは名前のとおり、当時流行していた"BASIC"言語の方言の

一つで、ハドソンオリジナルだ。

最初のバージョンは MZ-80 シリーズ用に作られたソフトだっ

た。

一番最初の Hu-BASICは中本さんによって書かれたらしい。

僕はこれをヒエン堂でベンチマークを取って「期待したより遅い

なあ」とボヤいてた。

今の人にはわからないだろうから、注。

ここで書いたベンチマークは、BASICの速度を測るためのベンチ

マークテスト。

アメリカの BYTE誌に掲載された有名な BASICの速度測定テスト

があり、これが当時の日本のマイコンでの速度を測る時の標準的

なテストになっていた。

これはもちろん、ハドソンが MZ-80シリーズを中心に活動して

いたのもあるが、もう一つの理由として、MZ シリーズは最初に

カセットテープからロードするソフトを自由に選べるクリーン

コンピュータ、つまり BASICだけじゃなく「テープからロードす

るソフトを変えるだけで他のいろいろなソフトを自由に使えま

すよ」というのがウリだったのが大きかった。

少し詳しく説明すると、当時のパソコンは最大で 64 キロバイ

トのアドレス空間を使うことが出来る8ビット CPUが普通。

この 64キロバイトのアドレス空間の中に VRAMだのいろいろな

ものを入れなければならないので、プログラムに使える範囲は最

大 48キロぐらいになるのが当たり前だった。

そして 48キロバイトで 32キロバイトの BASICを搭載してしま

うと、プログラムはたったの 16 キロバイト程度しか書けないこ

とになる。

さらに BASICが ROMだったりすると、一気にフリー領域が圧迫

される。実際、1979 年に発売される大ヒットパソコン PC-8001

はシステム領域が 32 キロバイトを占めていて、プログラム領域

は最大 32キロで、結構厳しいものがあった。

つまりシャープのクリーンコンピュータ(他の言語でもいけま

っせ)は、当時のマニアのハートには結構グッとくるアイディア

だったのだ。

分かる人に注。

当時はバンク切り替えの概念がほとんど存在しないのでこのよ

うなことになった。

実例を挙げると、例えば APPLEIIでは 10KBASICを使うと、48キ

ロのメモリのうち 10キロが BASICに、2キロほどがシステムに、

16キロバイトが VRAMに使われ、実際にプログラムエリアとして

使えるのは 20キロ弱程度になっていた。

バンク切り替えを大々的に導入したのは PC-8801 あたりからに

なる。

そのクリーンコンピュータの思想を活かして、シャープの純正

BASICの代わりにウチのをどうぞとやっていたのが、ハドソンの

"Hu-BASIC"だったわけだ。

加えて"Hu-BASIC"はシャープの純正 BASIC、"SP-XXXX"シリー

ズより、全体に高性能だった。

初期はバグが多かったり、低速だったりと、問題も多かったが、

バージョンアップでバグも減り、速度も向上したのに加え、当時、

有名だったマイクロソフト BASIC と文法の互換性が高く、MZ に

BASIC で書かれたゲームを移植するときは SP シリーズより楽だ

ったのもあって、評価が高かった。

これまた今の人にはわからないだろうから注。

BASICには恐ろしくたくさんの機種独特の表現があり(これを方

言と表現した)、ある機種向けに書かれたプログラムを他の機種

に移植する上で、それが困難になることが多かった。

そしてマイクロソフトの BASIC は当時メジャーだったがシャー

プの機種には搭載されておらず、PC-8001 や FM シリーズのプロ

グラムリストをシャープ純正の SP-XXXX シリーズに移植するた

めにはかなりの努力が必要だった。

対して、マイクロソフト BASICと似た文法を持っていたハドソン

の"Hu-BASIC"では、移植が比較的簡単だった。

だから便利と感じる理由が十分にあったわけだ。

この Hu-BASIC を持っているハドソンに、当時矢板にテレビ事

業部があったシャープが、ある企画を持ってくる。

それはテレビ事業部でパソコンを作るから、Hu-BASIC を標準

で搭載しないか? というものだった。

もちろん、ハドソンにとってもいい話なので、渡りに船でハド

ソンはハードのレベルから協力していくことになる。

そのパソコンが 1982年秋に発売された X1だ。

そして当たり前のことながら、X1 のハードレベルから開発に

つきあったことで、ハドソンは X1 のことならなんでも知ってい

るソフトハウスになっていた。

■ハドソン関係者

X1は SHARPからたくさん開発機がきてたよ。試作機もきてた。

右が X1の製品版。

X1 は高速で性能のいい

専用カセットインターフ

ェース、さらにテレビも見

られる専用モニタなどを

備え、加えてカラーバリエ

ーションもある、当時とし

てはとても洗練されたハ

ードウェアだった。

なお、これの後継が、有

名な"X68000"になる。

左は X1 の初代

Hu-BASIC の起動

画面。

見て分かると

おりcopyright表

示がシャープ・ハ

ドソンになって

いる。

そしてハドソンは X1を主流に置いたこともあって、X1の開発

環境を強化していく。

■ハドソン関係者

あの頃の CP/Mは X1で動かしていたのだけど、HDDをつないでい

岡田さんがアメリカから買ってきたと思ったけど SASIの 5MBだ

ったと思う

確か 50万円だと言っていたように思う

5インチフルハイトの HDDを X1に繋いで開発していましたね

その頃の X1の FDは 1Dだったから 320KBかな?

それに比べると 5MBはとんでもなく大容量で高速でした

I/O データーの外部 RAM ボードを RAM-DISK にしてもっと高速化

して使ったりもしていましたね

と、こんな感じだった。

ちなみに当時の X1の FDは 2Dで 320キロバイトだと思われる

ので、記憶違いだろうけれど、修正はせずに残していある。

そしてハドソンは X1 で最初にゲームを開発し、次に他の機種

に移植するやり方でゲームをリリースするようになりはじめる。

ところで、ここで曖昧な話が一つ出てくる。

最初期の X1 で発売されたゲームは、実は純粋にアセンブラで

書かれていたわけではなく、BASICコンパイラが使用されていた

というのだ。

わからない人がいると困るので注。

コンパイラは高級言語で書かれたプログラムをマシン語(アセン

ブラ)に翻訳するアプリケーション。

当時は BASIC が主流だったのでそれのコンパイラが書かれたの

だと思われる。

■ハドソン関係者

思い出したけど X1のゲーム開発初期は BASICをマシン語にコン

パイルしてたよ(本迫さん開発のコンパイラ)。それだと多機種

に移植できないからフルアセンブラで書くようになった。そこか

ら ICEを使い始めたね。

これが本当かどうかフェイスブックで本迫さんに確認できた

ので、確認したのだけど…

■本迫さん

x1のコンパイラ?そんなのあったかな?

さらに確認していくと…

■ハドソン関係者

BASICのコンパイラは本迫さんじゃなくて野沢さんだったような

気がします

野沢さんはコンパイラ作るの好きでしたから

コンパイラを使っていたのは札幌開発だけで、東京では最初から

アセンブラでしたね

あれれれ?

…というわけで、今度は野沢さんに確認をしてみたところ…

■野沢さん

X1の BASICコンパイラ? その前の HuBASICコンパイラは中本が

らみだったけど...

ただ、X1のころは本迫が活躍していた時期ですね。

本迫に聞いてくれ。

なんとループしてしまった。

真相は藪の中である…

まあ、それはともかくとして、ハドソンはコンパイラを使って

複数のハードに対応するより、アセンブラで書いたものをそうし

たほう方が楽という結論に達して、フルアセンブラのゲームを販

売していく方針に進む。

これは当時 Z80を使っていたハードが多かったので、ソースレベ

ルでの互換性をとりやすかったし、単純なゲームが多かったの

で、うまく入出力ルーチンを作れば、簡単に移植できる、という

目算があったのだと思われる。

この一番最初のフルアセンブラのゲームを書いたのが中本さ

ん。書いたソフトはキャノンボールで一晩で書き上げたらしい。

■ハドソン関係者

中本さんが一晩で作ったというのはキャノンボールとカエルシ

ューターだったと思います(ターゲットは X1)

その時に transパッケージというのを作ったような気がします

PCEで言う所の BATを1フレーム前と現在の2枚持って差分で変

化分だけキャラクタ単位に書きなおすという方法です

X1の PCGがベースのソフトだから移植は楽でした

トランスパッケージとキー入力ルーチンさえあればそのまま移

植できました

Z80のアセンブラを 6809や 8086のアセンブラコードに変換する

ようなフィルタを使って移植してました

あの当時はひと月に2タイトル作って各 X1, PC88, FM7, L3他に

移植していたから移植込で 10本位は作っていたことになる

PCGはゲームマシンの背景画面のようなモノ。

Programmable Character Generator の略。書き換え可能なキャ

ラクタのことで、一時、パソコンに PCGを入れ、ゲームのクオリ

ティをあげる時代があったり、これをソフト的に実装した APPLE

の Super Textなんてのがあったりした。

BAT は Background Attribute Table で、ゲームマシンの背景画

面のこと。PCエンジンの用語。

■ハドソン関係者

ハドソンは、ファミコン開発直前、いわゆるマイコンのソフト開

発をしていた

売り文句の一つとして「オール マシン語」だった。

開発基本ターゲットはX1で他PCではX1をシミュレートす

るライブラリが有った

このライブラリのおかげで移植がZ80系で半日 FM-7など

の09系でも1日で出来た

09系には Z80->6809 のソースコンバータなるものがあった。

これはヘクターが作ったもの。

でぜにらんど・サラトマ・まる狂シリーズとか。

そのときの開発環境は、X1にFDDユニットを付けた CP/M80

マシンであった。

アセンブラは何を使ったかは覚えていない。

エディタは WordMaster を使っていた。

ファミコン開発開始あたりから、このシステムは使われなくなっ

た。

当時、オールマシン語(全部アセンブラで書かれているという

意味)は、高速&技術の代名詞みたいなものだったので、それを

ウリにしつつ、移植作業自体はシステマチックに行うことで、当

時、出すと売れるハードウェア全部にソフトを出す…ということ

をしていたわけだ。

わからないであろう人に注。

Word Masterはマイコン初期時代に圧倒的な人気を誇ったエディ

タ。そして、これの延長に初期のワープロとして圧倒的人気を誇

った Word Starがある。

言い換えるなら、X1 の互換ライブラリを使って、X1 からコン

バートでオールマシン語(アセンブラで書かれているって意味程

度)のソフトを移植していたわけだけど、これを簡単というなか

れ。今のマルチ展開と同じで、互換ライブラリを作るためには、

ハードのことが詳しくわかっていなければならないし、互換ライ

ブラリの出来がしっかりしてないと話にならない。作るうえで結

構高い技術力が必要で、面倒くさい代物だ。

しかし、いずれにしてもこのやり方で、ハドソンはソフトを大

量生産可能にして、あらゆるマシンに自社のゲームを移植する体

制になっていく。

■ハドソン関係者

ICEをさしてゲームを新しい機種で動かすのは面白かったね。各

自が勝手に好きなマシンに移植して動けばそのまま発売してく

れたんだ。PASOPIA、MZ-700 , PC-8001mk2は簡単だった。PC-6001

は割り込みがあってきつかったな。FM-7 は一行ずつコードを書

き換えたもんだよ。

そして、1982年末から 83年にか

けてホームコンピュータ元年…と

呼ばれた年がやってくる。

MSX とホームコンピュータとファミリーコンピュータ

見果てぬ夢、ホームコンピュータ

1983年にMSXが見てた夢

ハドソンが東京に支社を作り、X1 に Hu-BASIC を作った 1982

年と、その次の 1983 年はホームコンピュータが極めて注目され

ていた年だった。

というのも、1983 年は多数の家電会社が結束して、ホームコ

ンピュータの(世界)共通規格として、MSXが華々しくデビュー

したホームコンピュータ元年になるはずの年だったからだ。

このホームコンピュータの登場により、ホームオートメーショ

ンや教育ソフトの世界が花開き、ハードメーカーもソフトメーカ

ーも統一規格 MSXによって幸せになる…はずだった。

現実はまるで違う方向に行ってしまったけれど、統一規格 MSX

で、ホームオートメーションや教育が出来るようになる…とまで

はみんな思ってなかったけれど、来るべきホームコンピュータ時

代の第一歩が印されると思っていたのは確かだ。

では、なぜみんなそう思っていたのか?

ほとんど何もかも自作で作らなければいけなかったマイクロ

コンピュータ黎明期(1974-78)を過ぎ、1979-83はマイコンが飛

躍的に性能を伸ばし、テレビに接続して、カラーでグラフィック

を出し、音を出すぐらいぐらいなら比較的低価格(といっても数

万円以上だけど)で発売出来るようになった時代だ。

そして作って、数年も経っていない僕の愛機が途方もなく古臭く

見えるようになって悲しかった時代でもある

飛躍的にといっても、恐ろしいことにこのあとも飛躍的に進化

しつづけている現在形だけど…テレビにつなぐのも難しかった

のがテレビに普通に繋がり、カラーでグラフィックが出せるよう

になるのは「ない」が「ある」になったわけで、とても劇的なジ

ャンプといえるだろう。

同じレベルで劇的なジャンプはコンピュータの歴史の中でも

95 年の Windows 95、インターネットの一般化、スマートフォン

ぐらいしかないのではないか、と思われるほどの巨大ジャンプだ

と思う。

これが飛躍的に簡単になった背景にはビデオ専用の半導体とオ

ーディオ専用の半導体が売り出されたことによる。

有名なのはサウンドでは TI(テキサスインスツルメンツ)の作

ったチップで 76489ってのと、GIの AY-3-8910ってチップ。

ビデオでは TMS9918って MSXで使われた LSIがものすごく有名。

そしてパソコンがご家庭にあるテレビに普通に繋げるように

なり、こぎれいな箱に入れても低価格で作れるようになったこと、

加えて、当時、マイコンによる家電製品の制御が流行していたの

などが組み合わさって「未来はホームオートメーションだ!」だ

の「家計簿もなにもかもホームコンピュータでやる時代が来る」

だのといった予測が盛んにされていた。

そして、そのイメージの中にある「ご家庭に一台あって、テレ

ビに繋がっていて、ホームオートメーションや家計簿やエンタテ

イメントをやってくれるコンピュータ」を、ホームコンピュータ

と呼び「これからはホームコンピュータの時代だ!」ということ

になっていた。

ホームコンピュータ、つまりおうちにあるコンピュータという

表現はアメリカでは 1960 年代にすでに登場し、実際的にホーム

コンピュータと呼べるものが登場したのは、かの有名な APPLE II

ということになっている。下は 1977 年の Byte 誌に掲載された

APPLE II の宣伝。

このあたりは電撃王に書いたエッセイ「ああ、夢のホームコン

ピュータ」を読んでもらうと、かなり雰囲気がつかめると思った

ので、次のページから転載するので、まあ読んでみてほしい。

BYTE誌に掲載された HOME COMPUTERの宣伝