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ISSN 0388 - 4007 平成 29 年度(2017)年度 皇學館大学教育学会年報 第 39 号 皇學館大学教育学会 Ⅰ.最優秀卒業論文要旨 明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励 ― 永山盛輝の教育施策に焦点をあてて ― (2) Ⅱ.優秀卒業論文要旨 学校現場における吃音支援の在り方 一ノ瀨 ( 16 ) 母親の育児不安と育児自己効力感の関連性 ― 子どもの発達段階に着目して ― ( 24 ) 友人からの賞賛が子どもの主張性に及ぼす影響 ― 自尊感情に着目して ― ほの花( 32 ) コミュニケーションにおける「流暢さ」と文法的「正確さ」を 共に育てる英語指導 ( 40 ) 保護者からみた信頼できる保育者とは ― 保育者の専門性との関連 ― ( 48 ) Ⅲ.ゼミ選出卒業論文要旨 ( 57 ) Ⅳ.彙 (143) 教育学会活動報告 (144) 平成 29 年度修士論文・卒業論文題目 (145) 教育学会規約 (156)

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  • ISSN 0388 - 4007

    平成 29 年度(2017)年度

    皇學館大学教育学会年報第 39 号

    皇學館大学教育学会

    目 次

    Ⅰ.最優秀卒業論文要旨

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励―永山盛輝の教育施策に焦点をあてて― 宮 澤 謙 吾( 2 )

    Ⅱ.優秀卒業論文要旨

    学校現場における吃音支援の在り方 一ノ瀨 朋 子( 16 )

    母親の育児不安と育児自己効力感の関連性―子どもの発達段階に着目して― 椙 尾 一 日( 24 )

    友人からの賞賛が子どもの主張性に及ぼす影響―自尊感情に着目して― 前 川 ほの花( 32 )

    コミュニケーションにおける「流暢さ」と文法的「正確さ」を共に育てる英語指導 水 谷 玲 那( 40 )

    保護者からみた信頼できる保育者とは―保育者の専門性との関連― 矢 田 実 優( 48 )

    Ⅲ.ゼミ選出卒業論文要旨 ( 57 )

    Ⅳ.彙 報 (143)

    教育学会活動報告 (144)

    平成 29 年度修士論文・卒業論文題目 (145)

    教育学会規約 (156)

  • 目 次

    Ⅰ.最優秀卒業論文要旨( 1 )

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励―永山盛輝の教育施策に焦点をあてて―宮 澤 謙 吾( 2 )

    Ⅱ.優秀卒業論文要旨( 15 )

    学校現場における吃音支援の在り方一ノ瀨 朋 子( 16 )母親の育児不安と育児自己効力感の関連性―子どもの発達段階に着目して―椙 尾 一 日( 24 )友人からの賞賛が子どもの主張性に及ぼす影響―自尊感情に着目して―前 川 ほの花( 32 )コミュニケーションにおける「流暢さ」と文法的「正確さ」を共に育てる英語指導水 谷 玲 那( 40 )保護者からみた信頼できる保育者とは―保育者の専門性との関連―矢 田 実 優( 48 )

    Ⅲ.ゼミ選出卒業論文要旨( 57 )

    市田 敏之(教育行政学ゼミ)

    全国学力・学習状況調査分析と都道府県間の学力格差の実態―「つながり」という視点から捉える学力格差問題―川 村 祐 介( 58 )

    小木曽一之(身体運動学ゼミ)

    フィンランドの就学前教育は日本の「小 1プロブレム」の改善に有効か西 川 愛 美( 62 )

    小幡 章子(児童文化学ゼミ)

    2 歳児の保育に役立つ絵本の選び方に関する考察山 本 彩 華( 66 )加藤茂外次(美術ゼミ)

    図画工作科の在り方とその考察―鑑賞指導の充実と提案―土 屋 知恵美( 70 )

    叶 俊文(体育運動方法学ゼミ)

    3 ポイントシュートの練習効果と認知的側面について石 田 大 貴( 74 )小孫 康平(教育方法学ゼミ)

    黒板を用いた授業の課題と活用方法についての一考察杉 木 雄 一( 78 )佐藤 武尊(コーチング学ゼミ)

    一流中学生男子柔道選手における体力に関する研究大 木 雅 人( 82 )杉野 裕子(算数・数学教育ゼミ)

    思考力・表現力を高める算数のノートについて水 谷 友香理( 86 )高橋摩衣子(音楽教育ゼミ)

    特別支援教育に音楽を活用することで児童生徒に及ぼす効果について坂 風 花( 90 )

    中條 敦仁(国語教育学ゼミ)

    『ちいちゃんのかげおくり』の国語授業提案―国語教育と平和教育を区別する―横 山 優( 94 )

    中松 豊(生物学ゼミ)

    包囲化された異物のクリアランスに関する研究秦 美 咲( 98 )

  • 中村 哲夫(体育・スポーツ史学ゼミ)

    小学校体育科における運動領域の分類についての研究―昭和52年と平成20年の学習指導要領を中心として―木 本 大 貴(102)

    野々垣明子(教育哲学ゼミ)

    放課後における空間の重要性―ボルノーの空間論を手掛かりに―東 浩 司(106)

    深草 正博(社会科学ゼミ)

    在日教師とは―自分を考える―洪 和 樹(110)

    元塚 敏彦(体育科教育ゼミ)

    フラッグフットボールにおける戦術難易度に関する研究松 場 充 右(114)山本 智子(特別支援教育ゼミ)

    ワーキングメモリに着目した子ども理解の一考察竹 下 孝太朗(118)吉田 明弘(児童福祉・保育ゼミ)

    生活困窮者自立支援制度における子どもの学習支援について―学習支援が子どもの居場所づくりに果たす役割―児 玉 美 咲(122)

    吉田 直樹(発達心理学ゼミ)

    幼児期における身振りの視点と認知的役割取得能力との関連性横 打 彩(126)渡邉 賢二(教育心理学ゼミ)

    親子関係からみる子どもの社会性と学級生活満足感―性差に着目して―池 村 美 穂(130)

    渡邊 毅(道徳教育ゼミ)

    郷中教育と学舎の研究―その史的展開から考察した現代的意義の探求―中 村 美乃里(134)

    豊住 誠(英語教育ゼミ)

    小学校英語と中学校英語の連携山 﨑 温 子(138)

    Ⅳ.彙 報(143)

    教育学会活動報告(144)平成29年度修士論文・卒業論文題目(145)教育学会規約(156)

  • Ⅰ 最優秀卒業論文要旨

  • 明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励― 永山盛輝の教育施策に焦点をあてて ―

    宮 澤 謙 吾

    は じ め に

    明治初期、学制の頒布により全国に学校が配置され、民衆は学校への就学が義務づけられた。しかし、従来の寺子屋などと比べて、学制に基づく学校教育は欧米を模範としており、教育内容は民衆が必要とした実用的な知識からはかけ離れたものであった。また、学校建設・運営費用や学費は、原則として民費負担で賄われることとなった。このため民衆は学制に対して強く反発し、全国的に学校焼き討ち事件が発生するという状況であった。

    新しい教育制度に対して民衆の不満が募る中、筑摩県(現在の長野県中・南信地方、岐阜県飛騨地方ほか。明治 4〔1871〕年創県、明治 9〔1876〕年廃県 ― 筆者註)で施された学校設立と就学督励を主軸にした学事振興は、広く民衆に受容され、わずか 3 年間に約570校の学校が県下に設立された。就学率についても、他県と比べると高かった。当時に成果を上げたこの教育施策は、筑摩県初代権令 1 )である永山盛輝(1826-1902)によって着手された。「教育権令」 2 )と称された彼の施策に関する記述は、多くの文献で見受けら

    れる 3 )。しかし、その施策の展開過程や地域に及ぼした影響、新潟県に転出した後の筑摩県の状況については研究の余地が残されている。彼の施策については、江戸時代に普及した寺子屋の存在を無視することはできない。幕末から時代が大きく転換した明治初期に、彼は筑摩県の学校教育の土台を築いた人物である。当時の学事振興の実態を再考することは、信州教育の出発点を理解する上でも重要な研究課題であると考える。

    本稿では、はじめに近世期信濃国の民衆教育機関の普及状況について概観する。次に明治初期の筑摩県における永山の教育施策の内実について検討する。さらに民衆が彼の施策をどのように受容したのかを分析すべく、設置された学校の中から都邑部(人口が多く、栄えた村 ― 筆者註)の開智学校と、山間部の麻績学校の設立過程を考察する。これらを通じて、明治初期に展開された彼の施策の実態および成果について実証的に検証する。

    第1章 近世期信濃国における民衆教育機関の発展

    本章では、筑摩県発足以前にこの地域で発展した民衆教育機関(特に寺子屋)に着目したい。この寺子屋の普及は、永山の施策と密接な関わりがある

    ― 2 ―

  • からである。近世期の教育は、「藩立の教育機関としての藩校と、私的教育施設である私塾・寺子屋の二重構造」 4 )であった。藩校は主に武士階級の子弟が通う施設であったため、ここでは民衆教育を担った寺子屋に焦点をあてて、その普及状況について概観する。

    筑摩県地域について、明治以前は信濃国と呼ばれていた。信濃国は2000メートル級の山々が連なる内陸国であった。文化の中心地である江戸や京都からは遠く隔てられていたが、中山道や甲州街道等の主要街道が交錯しており、江戸時代には他藩との文物の交流は頻繁であった。このため、善光寺門前町などの都邑部は商業都市として栄え、また養蚕業の発達により、都邑部だけでなく山間部の村へも貨幣経済が浸透した。当時の民衆は、五人組条目や法度によって治められ、若者組も慣行だけでなく掟書によって律せられていた。そのために、民衆は読み書き算術などの知識・能力を必要とした。

    社会・経済構造の変化に伴い、信濃国の民衆は教育の必要性を理解するようになったと言われている 5 )。そのうちに寺子屋や私塾が設けられるようになった。起源は不明であるが、少なくとも16世紀には寺子屋、17世紀には私塾が開かれていたようである 6 )。当初の寺子屋は、城下町・門前町や街道沿いに分布しており、師匠は僧侶や武士、医者などの有識者が務めていた。

    表 1 身分職業別師匠数(1845-64年)

    民衆が識字能力を必要とするようになると状況は変化した。『長野県教育史』(総説編一)の「開業年代別師匠数」 7 )によれば、宝永から延享年代を境にして寺子屋の師匠数は増加の傾向を見せている。17世紀半ばから幕末にか

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励

    ― 3 ―

    身分職業

    修験者

    詳計

    水内 210 75 24 9 12 1 19 2 3 1 356高井 99 68 10 3 9 1 19 3 3 215更級 122 41 12 15 9 2 13 1 215埴科 47 15 7 3 22 2 6 1 103小県 120 48 15 1 11 8 203佐久 77 15 9 4 4 6 1 1 117諏訪 96 14 5 4 43 15 1 1 1 180伊那 240 41 14 8 26 8 28 2 1 20 388筑摩 170 20 19 3 21 4 8 8 253安曇 149 24 7 3 6 4 5 1 15 214計(名) 1330 361 122 53 163 22 127 5 11 50 2244百分率(%) 59.3 16.0 5.4 2.4 7.3 1.0 5.7 0.2 0.5 2.2 100

  • けての具体的な資料は残っていないが、この推移から近世末期にかけて信濃国全域で寺子屋が普及していったと思われる。

    19世紀半ばの状況について、「表 1 身分職業別師匠数」 8 )によれば、近世末期の全師匠数は2244名であり、そのうちの1330名(59,3%)が農民出身である。僧侶や武士だけでなく、教養のある農民が増加したことで寺子屋師匠数は増加したと考えられるだろう。それと同様に、寺子屋数も増加を続けた。明治19(1886)年 3 月に文部省が行った「私塾寺子屋遺漏取調べ」によると、全国の私塾・寺子屋の総数は15560であり、諸国の平均数は389であった。それに対して信濃国は1466(私塾125、寺子屋1341)であり、全体の9,4%を占め、私塾・寺子屋の普及率は全国1位であった 9 )。

    以上のように、近世期の信濃国において民衆は教育を必要と捉え、多くの寺子屋が各地域で営まれていた。街道の発達による京都・江戸文化の流入などの諸条件のもとで、経済活動を行う際に識字能力や算術の知識を民衆は必要とするようになった。その求めに応えることができる有識者層が多かったことが、信濃国で民衆教育機関が普及した要因であったと考えられる。

    第2章 永山盛輝による学事振興政策

    廃藩置県後の地方行政区画整理により、旧藩の松本・高遠・飯田および飛騨高山を管地として、明治 4 年11月20日に筑摩県は発足した。長官には元伊那県大参事である永山盛輝が任命され、筑摩県参事となった(明治 6〔1873〕年 3 月 9 日に権令に昇進)。彼は「人材教育は政治の大本であり、民生殖産の源泉である」10)と考え、教育を県政の柱とした。明治 5 (1872)年 1 月に松本で開庁すると、彼はただちに有志金による学校設置計画の立案と上申を命じた。 2 月20日に「学校創立告諭書」を出し、その中で教育報国を説いて、学校の振起こそ急務であると述べている。この告諭書について、学制頒布(同年 8 月)以前に示されている点は特筆されることである11)。

    告諭書と同時に「学校入費金差出方取計振」を示して、「学校元資金」12)への加入を民衆に奨励している。永山も率先して100両を出資し、県庁官員46名もこれに続いた。支庁にも加入金帳を回して、各村にも加入金上申書の様式を示して勧誘した結果、提出期限の 3 月25日を過ぎた 4 月 5 日時点には加入金総額13700両(民13000、官700)に達した13)。彼はこの資金を元に、庁下周辺から漸次遠隔の地域に学校を設立する計画を進め、手始めに県学(藩校にあたる表記を「県学」と変更した ― 筆者註)、小校(筑摩県では郷学校を「小校」と表記した ― 筆者註)がそれぞれ庁下(松本)と安曇・筑摩(以降「安筑」と表記する)両郡に設置されることとなった。

    4 月19日には安筑地方の有力者45人を、専ら学事の周旋に当たる者として学校世話役に任命し、翌日には世話役を招集して会議を開いた。この会議で永山は、庁下に県学 1 校、安筑地方に小学10カ所を設立する原案を示して、

    ― 4 ―

    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

  • 学資金の調達や学校位置その他を協議させた。この協議を経て、明治 5 年 5月 5 日に廃寺になっていた松本の旧藩主菩提寺全久院を補修して県学が、 6~ 7 月中に小校10校が設置された。学校加入金は総額の半分を県学に、残りを小校10校に分割して使用された。その後、筑摩県は毎戸籍区 1 小区に 1 小校を設置する方針を立て、学校世話役の任命を 5 月に諏訪郡、6 月に伊那郡、7 月には飛騨まで拡げた。 8 月には学制の頒布(筑摩県では 9 月に布達)により、旧来の公学・私塾が廃止され小学校の設置が義務づけられたが、筑摩県では旧来の小校の設立をそのまま推し進めている。

    永山は学制に先駆けて小校の設置を促進していた。これを可能にした理由の一つとして、彼が大蔵省の元官僚であり、政府が企図していた教育制度を把握していたことがあげられる。彼の告諭書と学制の理念は共通する内容が多く、彼は学制頒布後に小校を小学校に移行できることを想定していたと思われる。国の方針を先取りして学校設立に取り組んでいたと言えよう14)。

    小校について、明治 5 年 8 月に27校、11月に58校、明治 6 年 2 月には78校になった。しかし永山は、 2 月24日の布達で「邑に不学の戸なく、家に不学の人なし」15)に至っていないとして、努力をしないようなら相当の処分をあえて辞さない意向を示した。これと合わせて、「学術磨勵弊習停止の論立」を出し、青壮年が閑暇を歌舞伎・手踊り等に費やす徒事を戒め、演劇は祝祭日に限って業者の興行を申請した者に限って許可をした。改善されなければ、戸長および関係者を厳重に処分するとした(明治 7〔1874〕年10月12日には取締が強化され、祝祭日の興行も禁止された)。

    彼は上記の論立を出した後、学事振興の努力が足りないとして 3 月 3 日に各町村の責任者である戸長副戸長を叱咤したほか、20日には旧来の私塾・寺子屋を廃止し、その生徒を小校に通うよう奨励した。その際、寺子屋の師匠は小校の教員や学校世話役に任命された。当時は教員不足であり、また欧米からの新しい授業法(一斉授業法)を伝習するため、師範講習所(主に初等・中等学校の教員養成機関 ― 筆者註)が県学の敷地内に設置された。

    10月には学区取締・戸長・学校世話役に対して、「就学ノ者ヲ勧誘」16)することに尽力すべきと厳命した。明治 7 年 4 月には、農繁期に「農事ノ多忙ヲ以テ一旦学事ヲ廃業」せざるをえない者のため夜学校を開設して就学率の向上を図ったほか、「僻陬陋巷ノ貧民ソノ学齢ニ膺リテモ空シクココニ従事スルヲ得ズ(中略)徒ニ就学ノ期ヲ誤リ遂ニ学事ヲ不問ニ措ク」ことが無いよう貧困による学齢不就学者の授業料を免じ、教科書を学校から貸与するとした就学方策がとられた17)。

    施策の推進により、小校が次々に設置された。その総数は「表 2 筑摩県中学区域表」18)によると、明治 7 年 9 月には、573校に達した。これら小校は、地域に偏りなく設置されるように考慮されていたと思われる。

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励

    ― 5 ―

  • 表 2 筑摩県中学区域表(1874年 9 月当時)

    表 3 筑摩県校舎種別校数(1875年)

    「表 3 筑摩県校舎種別校数」19)を見ると、校舎に旧寺院を利用したものは全体の44.1% を占めている。旧寺院とは、廃仏毀釈によって生じた廃寺と寺院を教場にした寺子屋を含んだものである。前章で述べたように、寺子屋は信濃国において広く普及したが、その教場は民家だけでなく寺院を使用することが多かった。永山は、旧寺院を校舎として再利用することで、急速に学校設立を進めていったと考えられる。これらは彼の学校設立の基盤となったと言えよう。

    本章で述べたとおり、筑摩県では学制に先駆けて学校設立と就学督励が推進された。この施策について、永山の手腕のもと積極的に取り組まれ、創県から 3 年で約570校が設置されるに至ったのである。ところで、彼の施策について、民衆から表立った不満が見られなかったことは特筆できることである。同県においては、学校焼き討ちなどの事案は起きなかった。こうした史実からも、民衆は彼の施策を受容していたと言えるだろう。

    ― 6 ―

    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

    中学区 区 域 計

    第17番(松本本部)

    筑摩郡 第 1~ 5大区(松本・東筑摩地方、但し南部は第18番中学区)

    安曇郡 第 9~12大区(南安曇・大町/北安曇地方)

    272小学区,198校,187村180,724人

    第18番(高島本部)

    諏訪郡 第13~15大区(岡谷・茅野・諏訪地方)伊那郡 第16~17大区(上伊那の伊那・高遠以北)筑摩郡 第 5~ 6大区(塩尻・筑摩地・宗賀・贄川・奈良井)

    164小学区,135校,98村119,239人

    第19番(飯田本部)

    伊那郡 第18~24大区(上伊那の春近以南、下伊那)筑摩郡 第 7~ 8区(木曽地方・新開・開田・王滝以南)

    236小学区,135校,253村158,536人

    第20番(高山) 大野・益田・吉城郡

    156小学区,105校98,460人

    筑摩県全管 4中学区828小学区,573校556,939人

    校舎種 新築旧民家 旧寺院

    旧社 旧舞台 その他 計借用 公有 借用 公有

    本 校 181 56 30 143 89 6 18 6 529支 校 26 25 11 34 22 5 0 2 125

    計 20781 41 177 111

    11 18 8 654122 288

    百分率(%) 31.7 18.7 44.1 1.7 2.8 1.0 100

  • 第3章 永山盛輝および筑摩県官員による管内巡回

    筑摩県内の民衆は、永山が打ち出した教育施策を受容していた。その要因として、民衆に対して教育の重要性を直接説いて廻った管内巡回の影響があったと思われる。本章では、永山と官員による管内巡回の実態に焦点をあて、その取り組みについて検討する。

    管内巡回について、明治 6 年 5 月から明治 9 年 8 月に筑摩県が廃県に至るまで、15回実施された。「表 4 筑摩県官員視学巡回一覧」 20)によれば、当初の目的は学校設立の促進・元資金積立の勧奨であったが、教育の普及をみて就学の督励や学事進否の状況把握、学業の進歩をはかるための試験褒賞に力点が置かれるようになった。初年度は学務掛官員によって行われたが、次年度から権令あるいはその代理者も巡回するようになった。明治 7 年には文部官員による巡視も行われた。県は明治 6 年 8 月に「官員巡回心得」を表わしている。それによれば、官員の言説は太政官布告(学事奨励に関する被仰出書)に基づくこと、毎小区かならず小学校を設立するという目的をたてること、学校永続の基礎を確立することといった説諭の趣旨が記されている。

    永山の巡回は、明治 7 年と明治 8 (1875)年である。彼は 2 回の巡回で行程700㎞以上を歩き、県全域の学校視察を実施した。同行した長尾無墨(生年不明-1894)が記した『説諭要略巻之一』によると、彼は明治 7 年に諏訪・伊那両郡の230校を60日間かけて巡回している。その際、彼は長尾のほか師範講習所の教師である飯田正宣と、予科生徒の10歳以下の児童 4 人を同行させた。立ち寄った学校では、試験褒賞の実施、就学督励と元資金加入の説諭、学校検査を行ったほか、同行の生徒を相手に授業をしてみせた。授業を行ったのは、「『何ホト口ヲ極メテ説諭スト雖、氷訳スルニ至ラ』ない『山間ノ頑民』」に対して、学校に通う生徒の所作を実際に「目下ニ指シテ示」す狙いがあったからであった21)。

    権令自らが管下を巡回して、民衆を鼓舞激励した熱意と努力は格別の物であった。彼が学校を訪れると、「満村喜ヒ叫ヒ。乳ノミ子ニ袴ヲ着ケ。母ガツレテ校ニ登セ。或ハ半里トモ通ヘヌ小児ニ袴ヲ着セテ翁背負テ、校ニ着ケ。皆試験ヲ受ルトテ。後村前村呼応。甚賑ヤカナリ」 22)と民衆は挙って学校に見物に向かった。永山および官員は、「いわば『開化の使者』として地域住民に歓迎」 23)された記述が多く残されている。

    同行した金子尚政(筑摩県師範学校初代校長)は、巡回の様子を次のように語っている。すなわち、「学校巡視で永山権令に同行するのは、真平ごめんである。授業の時なども長官はまばたきもせずに凝視し、一挙手一投足も見逃さないのである。一校の巡視が終われば休むひまもなくまた次の学校である。それこそ心身のすりへる思いであった」24)。こうした回想からも、彼は相当な熱意をもって管内巡回をしていたことが推察できよう。

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励

    ― 7 ―

  • 表 5 筑摩県学費納金一覧(1873-1877年)

    ― 8 ―

    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

    年 度 学費納金総額 寄付金(利子を含む) 寄付金が占める割合明治 6 (1873)年 36,683円51銭 20,180円80銭 55.01%明治 7 (1874)年 162,413円32銭 112,780円39銭 69.44%明治 8 (1875)年 196,472円94銭 158,259円91銭 80.55%明治 9 (1876)年 293,354円59銭 217,951円69銭 74.29%明治10(1877)年 279,592円87銭 208,146円71銭 74.44%

    出発年月日 派出官員 巡回地 目 的明治 6(1873)年

    5 月13日(28日間)5 月18日

    学務掛 杉浦義方

    学務掛 長尾無墨

    安曇・筑摩郡

    諏訪・伊那郡

    ・元資加入献金勧奨・学校設立説諭

    10月12日10月20日

    本山盛徳杉浦義方

    筑摩郡諏訪郡

    ・学事進否の状況検査

    明治 7(1874)年

    1 月21日2 月 6 日

    原 卓爾杉浦義方

    伊那郡安曇郡

    3月22日(60日間)

    権令 永山盛輝長尾・生徒 3名他

    諏訪郡・伊那郡230校

    ・各学校検査・元資蓄積説諭・正則教授の普及・試験褒賞

    5月31日 参事 高木惟矩原・生徒 3名他

    安曇郡

    7月 3日 大属 渡辺千秋杉浦・生徒 3名他

    筑摩郡

    9月18日来 文部省七等出仕可能久宣

    本県 長尾・渡辺他

    諏訪郡・伊那郡↓

    飛騨へ(随員杉浦義方)

    ↑筑摩郡・安曇郡

    ・学事監視

    9月21日発 文部省書記桜井忠徳本県 杉浦・原他

    明治 8(1875)年

    8 月31日(11月まで)

    権令 永山盛輝 安曇郡・筑摩郡101校

    生徒進歩の景況検査のため大試験―賞典―1 等賞「物理揩梯」2等賞「大日本細見図」3等賞「西算雑題百種」

    七等出仕渡辺千秋原・昆野、教員他

    伊那郡

    明治 9(1876)年

    2 月 7 日 参事 高木惟矩官員 2名・教員 3名

    諏訪郡

    6月 参事 高木惟矩 安曇郡

    表 4 筑摩県官員視学巡回一覧

  • 表 6 学齢児童就学率(1873-1877年)

    (数値の単位は「%」である。)

    ここで巡回の成果を確認しておこう。「表 5 筑摩県学費納金一覧」 25)によれば、明治 7 年と明治 8 年に届け出された寄付金の割合は、当該年の学費納金総額の69.44%と80.55%を占めている。さらに「表 6 学齢児童就学率」26)

    によれば、この年の就学率は、全国平均を 2 倍以上上回っている。表 5 ・表6 の数値から、管内巡回は永山が施策を推し進める上で大きな効果があったと理解できるであろう。管内巡回を通じて、筑摩県の民衆が教育の必要性を理解した結果、学費納金および就学率の向上につながったと考えられる。

    県下全域を巡回した永山だったが、 2 回目直後の明治 8 年11月 7 日付で、新潟権令に転出することになった。筑摩県で発行されていた信飛新聞には、同月29日に彼が松本を出立する際、教員・生徒に見送られ、民衆に愛惜された様子が記されている27)。筑摩県では永山および官員によって、全域の巡回が行われた。諸資料に見られたようにその効果は明確であった。管内巡回は、彼の施策が成果を上げる要因の一つであったと言えよう。

    第4章 都邑部と山間部の学校設立過程

    永山が推進した学事振興政策について、民衆の側はそれをどのように受容したのであろうか。本章では、この点について検討するため、彼の計画によって設置された学校を事例として取りあげる。先に指摘したように、地域に偏りなく約570校が設置された。その中から、都邑部と山間部に設置された学校に着目して、その設立過程を検討する。これら事例の検討を踏まえて、施策受容の実態について考察する。

    第 1節 開智学校の設立過程本節では都邑部の学校から、松本庁下にある開智学校の設立過程を検討す

    る。学校設立計画により県学として設立され、永山の方針が色濃く反映していることが、同校に着目する理由である。同校を通じて、松本の民衆が彼の

    明治初期の筑摩県における学校設立と就学督励

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    年 度筑摩県

    (明治 9年より旧長野県と合併) 全国平均

    計 男 女 計 男 女明治 6 (1873)年 39.47 59.74 17.33 28.13 39.90 15.14明治 7 (1874)年 65.96 81.26 47.50 32.29 46.17 17.22明治 8 (1875)年 71.57 82.67 57.64 35.19 50.49 18.55明治 9 (1876)年 63.23 80.67 43.51 38.31 54.16 21.03明治10(1877)年 60.14 80.36 37.11 39.87 55.97 22.48

  • 施策にどのように対処したのか述べることとする。開智学校は、学校創立告諭書に基づき、当初は県学として出発した。明治

    5 年 4 月20日の会議で、彼が示した原案通り庁下に県学 1 校、安筑地方に小校10校の設置、そして生徒負担の束脩(入学金)と月謝(授業料)は、県学は有償、小校は無償とすることが決定された(学制頒布後は、いずれも有償になった)。この会議で、校舎は廃寺であった南深志大手町の旧藩主菩提寺全久院を補修して仮用することとされ、図書・備品類は松本・高島・高遠・飯田の旧藩校のものを利用することが決定された。会議から 2 日後に彼は、県学開校の村触れを出し、その中で入校願書の雛形を示して、皇漢洋学の選択を記載したほか、「五月二日ヨリ開校、士民一統入校差許」すので、「開化文明之時勢、人材教育之御趣意厚奉戴シ」就学するように奨励した28)。この村触れには、一家で 3 人以上入校した場合、束脩・月謝ともに 3 人目以降は免除するとされており、就学を奨励するための配慮が見られる。

    会議から 2 週間後の 5 月 5 日、県学は開校された(予定より 3 日遅れた)。その支校(分校のこと ― 筆者註)として宮村町長松院、伊勢町浄林寺、本町正安寺、下横田町恵光院の4カ所が設置された。また教育方針として、古今の学を通して実行・実践を重んじ、「尽忠報国実ニ日東ノ人タルニ愧」 29)じない人物を養成することが掲げられ、学校創立告諭書の趣旨が反映していた。すなわち、国家有用の実践的人材の育成が重んじられたのであった。

    しかし、学制の頒布により政府から府県設置の公学廃止が示され、明治 6年 4 月に県学は廃校となった。これに際して永山は、松本市町の区長・学区取締・戸長・学校世話役に対して、「当県学之儀、今般学制ニ照準シ、更ニ第三大学区筑摩県管内第一中学区第一番小学ト改称シ、不日(ママ)開校候」 30)

    と通達し、県学を学制に沿った形に改め、開校することとした。同年 5 月 6日、筑摩県学は第三大学区筑摩県管内第一中学区第一番小学開智学校と改められ、元全久院で開校した。 7 月25日には開智学校附設の第四番女学校も開設され、同校は筑摩県が進める「開化政策・学事普及の拠点」31)である中心校・模範校として出発した。

    翌年の明治 6 年には、生徒数・教員数が大幅に増加したほか、学校費用収入の78.25%が民衆からの寄付によって賄われた32)。明治 7 年 2 月 9 日には、生徒の増加に伴い学校元資金が不足し、教員の月給の1.25%を徴収する処置をとるほどであった(明治 8 、 9 年も同様の処置をとった)33)。このように、入学者が予想に反して多く集まったことから、開智学校は広く民衆に受け入れられていたと推察できよう。同校について、開校 2 年後には生徒が増えて手狭になったため、松本町民の拠出金7255円22銭 4 毛と、県官・教員の奇特金358円38銭 5 厘を用いて明治 8 年 4 月に校舎新築に着工した。

    工事には 1 年を要し、元資金利子を工費に繰り入れるなどして総工費11,128円34銭 8 毛をかけて新校舎は建設された。こうして「文部省ノ開成学

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    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

  • 校ニ倣」った洋風新校舎は落成して、明治 9 年 4 月 2 日に新築開校式が挙行された34)。永山は転出する直前まで建築現場に出向き、自ら監督したとされている。同校を「本県七百小校ノ宗標」35)たらしめようとした意気込みを窺い知ることができるエピソードである。

    彼の計画により最初に設置された県学は、学制頒布後に開智学校と改められた。束脩と月謝は受益者負担であったが、学校元資金が不足するほど生徒数が増加した。学校費用収入の約 8 割が民衆からの寄付によって賄われており、同校の経営は民衆によって維持されていた。民衆による施策の理解と協力がなければ、同校の建設は実現しなかったであろう。

    第2節 麻績学校の設立過程本節では山間部の小校から、座光寺村にある麻績学校の設立過程を検討す

    る。明治初期、廃寺や寺子屋を校舎として運用した学校が多かった。その中で、先駆けて校舎が新築された事例であることが、同校に注目する理由である。都邑部と異なり、官員の目が届きにくい地方の山間部において、どのように学校設立に至ったのか述べることにする。

    近世期の信濃国において、民衆娯楽とりわけ歌舞伎は同校の設立と密接な関わりをもっている。検討する前段として、民衆娯楽と座光寺村の関わりについて触れておく。同村の周辺地域について、旅芸人によって伝わった歌舞伎が、民衆に娯楽として浸透していた。歌舞伎興行を行う旅芸人は頻繁に往来する訳ではなかったため、たまに上演される歌舞伎を見様見真似で民衆が演じていた。地狂言と呼ばれるこの行為は民衆の間で流行し、地狂言を行うための舞台が多くの村で建設され、舞台総数が全国 3 位となるほどであった36)。地狂言が盛んである一方で、舞台建設に多くの時間と資産をつぎ込んだ結果、破産して舞台が使われなくなることもあった37)。

    座光寺村でも同様に、歌舞伎は民衆に親しまれ、村では歌舞伎を模した「獅子曳き」が神社祭典の余興として行われてきた38)。しかし、村に歌舞伎舞台が無かったため、近世末期には獅子曳きが毎年行われる麻績神社に舞台建設の要望が民衆から出されるようになった。

    明治期に入り、村で舞台設置についての会議が行われた。明治 4 年 2 月の村寄合で建設が決まり、舞台用材として耕雲寺の立木が買収された。これをきっかけにして村の若者達が舞台を造るためと、同年10月 8 日未明に高岡の社木22本を無断で伐採する事件が発生した。社木の伐採は重大な罪であり、12日には 3 人の若者(平七、児三郎、作太郞)が呼び出しを受けて出頭質問されている。若者の処分やその後の経緯は記録に残されていないが、この 3人は後に学校世話役に任命されている。村人が舞台建設を切望していたことが分かる一件である39)。

    この事件が契機となり、村人の舞台建設の気運はさらに高まり、個人の山

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  • や地所から大木が次々と寄付された。しかし、明治 5 年 2 月、学校創立告諭書が布達されると、村は学校設立を迫られることとなった。舞台建設の資金は集まっていたが、それは使用せず、村役人が村中から寄付を集め、如来寺を校舎に小校が開かれた。ところが、児童数が多く狭いため、新しい学校の建設が必要となった。告諭書と校舎狭隘により、学校建築の必要に迫られた村役人は、舞台と学校を同時に建設するのは困難であると苦慮し、話し合いの末に舞台建設は中止された。この決定は、管内巡回以前のことであるため、民衆は永山の施策の趣旨を理解していたと考えられる。

    こうして学校建設は進められたが、社木伐採を犯した若者達の意を汲み、今村真幸(村役人)によって歌舞伎舞台と学校を折衷した建物の建設が提案され、舞台を備えた麻績学校が明治 7 年 4 月に開校されるに至った。開校式には永山も参列して、麻績学校を「一郡ノ一大学校ト云(『説諭要略巻ノ一』第24回)」と評価している。座光寺村民は、悲願であった歌舞伎舞台の建設を取りやめ、その資材を充てて麻績学校を建設した。山間部の民衆も教育の重要性を理解し、永山の施策を受容したと考えられる。なお、同校は舞台を備えた校舎として建設されたが、「学術磨勵弊習停止の論立」が出されたことで、彼の在職時には舞台として使用されることはなかった。

    本章では、都邑部および山間部に設置された学校の事例検討を行った。事例数は限られていたが、明治初期に新築された学校の設立過程において、地域の民衆による理解と協力は不可欠であった。都邑部・山間部を問わず、民衆は永山の施策を十分に理解かつ受容していたと思われる。本稿で論じてきたように、彼による学事振興の推進だけでなく、民衆の側も施策を受けとめ、両者が相互に学校設置に力を尽くしたことにより、永山が県政の柱とした学校教育の普及・就学督励の成果があがったと言えるだろう。

    お わ り に

    本稿において、筑摩県初代権令の永山盛輝による学校設立と就学督励の実態について考察を試みた。彼が県政の中心とした教育政策とそれを受容した民衆の実態について実証的に検討した。明治初期、彼の方針と指導のもと諸政策が積極的に推進された。学校の普及については、寺子屋や廃寺を校舎として再利用したことで、県下全域に学校が設置された。相次いで論立を示し、さらに管内巡回を行うことにより、民衆は教育の必要性を理解して彼の施策を受容した。多様な活動を通じて、学事振興の成果があがった。永山の取り組みは、各地で行われた教育施策の中でも、短期間で成果をあげた一つの事例であったと言えよう。

    ところで、彼が新潟県に転出した後、筑摩県の教育事情は変化を見せるようになる。転出後の状況についても少し触れておこう。永山転出の翌年である明治 9 年、庁舎が火災で消失した事件が起因となり、筑摩県は旧長野県と

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    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

  • 合県して長野県となった。その際、異なっていた政策は統合され、管内巡回は長野県に引き継がれた。表 6 のように合県を境に就学率は低下して、各地で学校の運営が難しい事態に陥った。開智学校では生徒数が減少したほか、各村で学校元資金の利子の未納が相次ぐなど深刻な状況であった。財政難により、学校維持のため教師15名を解雇したほか、敷地の一部を売却するほどであった。その後、長野県の就学率は 6 割前後を推移し続け、筑摩県時代の成果は永山の転出とともに下火になっていった。

    こうした顛末からも、学事振興を進めた永山の手腕のほどを窺い知ることができる。明治初期の筑摩県において学事振興が進められ、成果をあげたのは彼の功績であり、それを疑う余地は無いであろう。

    註1 )「権令」とは、明治 4 年11月27日、権知事を改称して県においた地方長官のこと

    である。県の行政事務を管理し、法律命令を執行する。編集委員会『日本国語大辞典 第二版』第 5 巻、株式会社小学館、2001年、1233頁を参照。

    2 )近藤幹夫『明治20・30年代における修学年齢の根拠に関する研究 ― 三島通良の所論をめぐって ― 』風間書房、2010年、59頁。

    3 )図書については、『長野県教育史』第 1 巻(総説編一)長野県教育史刊行会、1978年、川村肇編『就学告諭と近代教育の形成 ― 勧奨の論理と学校創設 ― 』東京大学出版会、2016年など。論文については、多和田真理子「『学制』にもとづく小学校設立における校舎の確保 ― 筑摩県の事例より ―」『相模女子大学紀要』.C、社会系、2013年、中野谷康司「明治 8 年筑摩県権令永山盛輝の一考察 ― 高山町煥章学校の新築を中心として ―」『岐阜県歴史資料館報』岐阜県教育文化財団歴史資料館(通号20)、1997年など。

    4 )『長野県教育史』第 1 巻、 1 頁。5 )同上書、 1 、90-92、101頁を参照。6 )同上書、93頁を参照。7 )同上書、96頁の同資料を参照。8 )同上書、98頁より筆者が作成。9 )下伊那の教育史研究会『下伊那の寺子屋』南信州新聞社出版局、2003年、15頁。10)中村一雄『復刻 説諭要略』信濃教育会出版部、1965年、 5 頁。11)学制の基本理念は、太政官布告第214号に示されている。その中で、人民に対し

    て学校への就学を義務づけた。また、全国を 8 区域に分けて大学区とし、それを32学区に分けて中学区とし、これを210に分けて小学区とする学区制を導入したほか、教員養成機関としての師範学校と学費に関する規定を定めた。成田克矢『日本近代教育史』株式会社講談社、1977年、49-51頁を参照。

    12)学校元資金とは、学校設立・維持のための資金のことで、筑摩県では有志の者に出資を募った。有志の者が身分に応じて加入金を出せば、その時点でその金を加入者自身に預け、年々その利子として加入金の 1 割 5 分にあたる現金を納めるというものである。この加入金のことを「学校元資金」と言った。重要文化財旧開智学校史料集刊行会『史料開智学校』第 5 巻(設立と維持 2 )電算出版企画、1995年、556頁を参照。

    13)『長野県教育史』第 1 巻、234頁。

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  • 14)同上書、246頁を参照。15)飯田市立座光寺小学校開校百年記念事業実行委員会『座光寺学校百年史』上郷町

    黒田飯田共同印刷株式会社、1974年、49頁。16)『長野県教育史』第 1 巻、607頁。17)同上書、607頁を参照。18)中村、前掲書、 9 頁より筆者が作成。19)多和田、前掲論文、79頁より筆者が作成。20)中村、前掲書、14頁と『長野県教育史』第 1 巻、331頁より筆者が作成。21)川村、前掲書、356頁を参照。22)唐澤富太郎編『図説 教育人物事典―日本教育史のなかの教育者群像―』下巻、株

    式会社ぎょうせい、1984年、238頁。23)川村、前掲書、357頁。24)近藤、前掲書、59頁。25)『長野県教育史』別巻 1(調査統計)、1975年、2-9 頁より筆者が作成。26)同上書、別巻 1 、764頁と成田、前掲書、56頁より筆者が作成。27)有賀義人ほか編『復刊 信飛新聞』復刊信飛新聞刊行会、1970年、222-223頁。28)『長野県教育史』第 1 巻、238頁を参照。29)同上書、240頁。30)同上書、241頁。31)編纂委員会『信州大学教育学部松本小学校百年史』信州大学教育学部附属松本小

    学校百周年記念事業委員会、2005年、6 頁。32)本文中の「78.25%」という数値は、筆者が資料より算出した。『長野県教育史』

    別巻 1 、54-55頁を参照。33)生徒数増加による学校元資金の不足は、その利子を即座に徴収できないために生

    じた。学校元資金は、毎年 7 月と12月に加入金の 1 割 5 分を納める制度であるが、入学生徒からは半年もの間、利子を徴収できない。このため、入学生徒数が前年と比べて急増すると、学校元資金が不足するという状況に陥った。『長野県教育史』第 1 巻、237頁と『史料開智学校』第 5 巻、556頁を参照。

    34)同上書(『長野県教育史』第 1 巻)、517頁を参照。35)同上書、517頁。36)『飯田・下伊那業書 3 建造物編 2 農村舞台』飯田市歴史研究所、2012年、14頁。37)飯田地方の歌舞伎や地狂言などの文化・芸能については、次の著書に詳しい。神

    辺靖光『明治の教育史を散策する』梓出版社、2010年。38)『私たちのふるさと座光寺』編集委員会、2009年、86頁を参照。39)座光寺学校沿革史編集委員会『座光寺学校沿革史』座光寺小学校開校九十周年記

    念事業実行委員会、1965年、31-32頁と『北原家年代記による近世座光寺年表』座光寺公民館、1974年、30-32頁を参照。

    謝 辞本稿の執筆にあたって、飯田市立図書館、飯田市歴史研究所、売木村市役

    所、飯田市教育委員会職員の皆様、座光寺小学校前校長山崎嘉英様より、文献および保存資料の閲覧と蒐集に際して、格別の配慮を賜りました。末筆ながら、深く感謝の意を表します。

    (卒論指導教員 井上兼一)

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  • Ⅱ 優秀卒業論文要旨

  • 学校現場における吃音支援の在り方

    一 ノ 瀨 朋 子

    は じ め に

    本研究を行った動機は、私自身が吃音について、無知であったためである。将来、小学校の教員になることを目指している私は、学校現場で吃音のある子どもに出会ったときに、どのような支援ができるのであろうと考えた。今のまま、吃音について何も知識がなければ、何も支援をすることができない。それどころか、自分の間違った対応で子どもを傷つけてしまうかもしれない。

    そのため、本研究では、吃音のある子どもとその周りの子どもへの支援方法を検討することを目的とする。

    第1章 吃音

    吃音とは何か。吃音の定義は諸説あり、確立されていない。一般には、「発音障害の 1 種」で、「発音の際に、第 1 声が容易に出ない、繰り返す、引き伸ばすなど円滑に話せない状態」、また、「発語筋肉・横隔膜筋・声帯などの発作的痙攣による」と定義されている( 1 )。

    例えば、「と、と、とまと」のように最初の文字を繰り返したり、「とーまと」と音を引き伸ばしたり、「・・・とまと」とことばが出でこないブロック(難発)という症状がある。さらに、「とまと、とまと」のような語句の繰り返しや、「えーと」「あのー」のようなことばの挿入、ことばの言い直しや中止といった症状がみられる。

    他にも、音を出すためのきっかけの働きとして、随伴運動がある。この随伴運動とは、ことばが上手く出てこないため、首を振ったり、手で足をポンと叩いたり、顔をゆがめたりするなど、ことばのつかえに伴って体のどこかが動くことを指す。随伴運動をすることによって、ことばを出すきっかけを作り、どもらずに話そうとしているのである( 2 )。

    吃音の発症の時期は、 2 歳から 4 歳が最も多く、幼児の20人に 1 人は、症状の重さの違いはあれ、少なくとも吃音の症状が発症している( 3 )。しかし、幼児吃音の80%は、何もしなくても、自然に吃音症状が消えていく。だが、小学校就学時に、まだ吃音の症状が残っていると、その後自然治癒をする確率は低いとされている。

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  • ところで、なぜ吃音は発症するのか。現在、その原因が解明されていない。そのため、さまざまな見解がみられる。大きく環境的要因と遺伝的要因の 2つの要因が挙げられているが、近年の研究では、吃音を発症する原因は、遺伝的要因が大きいとされている。しかし、親が吃音である子どもが必ずしも吃音になるわけではない。つまり、遺伝的要素を持っていたとしても、それが表に現れるかはさまざまであるということである。そこに、話し方をからかわれたり、吃音が原因でいやな思いをしたりなどの心理的、環境的要因が加わることで、発症に至る場合もある。また、発症していたものが、そのような環境的要因が症状を悪化する場合も、大いに考えられる。したがって、吃音の発症の原因は、1 つではなく、様々な要因が組み合わさる「相互作用」ではないかと考察する。

    そして、吃音に対する有効な治療法もわかっていない。しかし、吃音を「治すもの」、「治さなければならないもの」という考え自体が、吃音をマイナスに捉えているのではないだろうか。治さなければならない、けれどなかなか治らない。それが、ストレスやフラストレーションとなり、「自分は何をやってもだめなのだ」というような自己否定に向かってしまうのではないだろうか。そのため、ここでは、吃音を「治す」という基本概念から、吃音を受け入れ、「うまく付き合う」という概念の転換を提唱する。

    吃音は、言語障害の 1 つとされているが、厚生労働省からは障害と認定されていない( 4 )。ADHD や LD などの発達障害、自閉症など、他の障害に比較すると、いわゆる普通に近い状態である。以前より軽くなった人や治ったという人さえいるため、そのうちに自分も治るのではないかという期待を持ってしまう。日本吃音臨床研究会会長伊藤伸二氏も、「吃音は、治すのではなく、うまく付き合う」と考えるひとりである。しかし、治るか治らないかの境界線をずっと行ったり来たりしているということは、とても苦しく辛いものである。つまり、「症状が軽いゆえに、悩みは深いともいえる」のである( 5 )。

    そこで、私は吃音のある子どもが吃音とうまく向き合っていくための観点の 1 つとして、「知る」ということがキーワードになると考えた。この「知る」には、 3 つの意味があると考えた。 1 つ目は、吃音について知ること、2 つ目は、自己の吃音の特徴について知ること、そして 3 つ目は、自分自身について知ることである。

    1 つ目の吃音について知ることは、子ども自身の心の安定や不安を和らげることができると考えた。得体の知れないものが自分の体の中で起こっていると思うと、誰でも不安になってしまう。そのため、まずは、家族や学校の先生と共に、吃音の症状や性質について、勉強していくことが大切であると思う。また、これは吃音に限ることではない。

    学校現場における吃音支援の在り方

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  • 2 つ目の自己の吃音の特徴を知ることについてである。吃音の性質について知ることと、自己の吃音の特徴について知ることは、違う。吃音の一般的な性質を知った上で、自分の中にある吃音がどのような特徴を持っているのかを知る必要がある。話しにくいことばや場面は十人十色である。例えば、

    「ア行とタ行で始まることばが話しにくい」や「家ではどもらないが、学校ではどもる」などの様々な場合が考えられる。

    3 つ目の自分自身について知ることである。ここでいう「自分」とは、「自分の特徴や長所、短所、性格、行動様式などを含む自己概念」のことである。吃音のある子どもは、自身の話しにくさや周りの人から自分の話し方をからかわれることで、吃音にマイナスイメージを持ってしまう。そして、頭の中で「自分=吃音=悪いもの(恥ずかしいもの)」という考えになり、自己否定に陥りやすい。吃音はあくまでも自分の中の一部であり、すべてではない。自分の吃音以外の面にも目を向けさせるということも、自分を知る上で必要である。「話すのは苦手だけど、走るのは誰よりも速い」や「絵を描くのが上手である」などの自分に自信を持つことで、自己肯定感が高まり、自分の存在を認めることができる。このようなことから、自分自身について知ることで、吃音のマイナスイメージからの脱却をして、吃音とうまく付き合う第1 歩になるのではないだろうか。

    これまで、吃音、また自分の吃音の特徴について知ることの重要性を述べてきた。この、自分で知ったことを、友達やクラスメイトに自分から話していくことで、周りも吃音やその子について知ることができる。周りに知ってもらうことによって、本人にとっての過ごしやすい環境を作ることができる。

    第2章 学校現場における吃音支援

    吃音のある子どもは、実際にどのようなことに苦労をしているのだろう。それは、やはり話すことであろう。そして、授業であれば、話す機会の多い国語の時間ではないだろうか。自身も吃音がある佐々木和子氏は、小学校の頃、国語の時間の教科書の音読が、特に苦痛だったという。以下の文が体験談である。

    私が吃り始めたのは 3 歳の頃だそうです。すでに小学校 1 年生の時から、本読みができない、発表するのはいやという思いを持っていました。それでも 4 年生くらいまでは、吃りながらも話そうと努力していました。しかし、国語の本読みで、私が一生懸命つっかえながら読んだ所を次の子に読み直しを求めた担任の先生の態度から、私の努力は報われないものであることを知りました( 6 )。

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  • また、佐々木氏は、「その後、私の吃る姿が友だちからのからかいの対象になり、吃りに強い劣等感や嫌悪感を持つようになり、本読みだけでなく、発表や朗読など、人前で話すことを一切拒否するようになった」と続けている。つまり、教師と周りの子どもの 1 つの行動が、吃音のある幼き氏をひどく傷つけたということである。氏は、この担任教師の心無い行動と周りの友達のからかいで、吃音を悪化させてしまったのである。

    また、現在、多くの通常学級で行われている支援は、「ゆっくり話したらいいんだよ」、「落ち着いて話せば大丈夫だよ」と声をかけるなどである( 7 )。しかし、実際は逆である。吃音のある子どもは、「どもるのではないか」という不安から緊張しているのである。したがって、緊張するからどもるのではない。不安だからどもるのである。教師は、この不安を取り除く方法を考えなければならない。

    そのため、まずは、教師が吃音について、詳しく知らなければならない。知るということは、前章でも述べたように、吃音の特徴を知ることだけではなく、「その子」の吃音について知ることでもある。その上で、「その子」に合った支援方法を知り、初めて支援をすることができる。

    また、吃音のある子どもに対し、深く考えず、「どもってもいいんだよ」と教師が言う。この言葉は、子どもを「どもってはいけない」という呪縛から、解き放つことのできる言葉であると思う。しかし、心にもなく言ってよい言葉でもない。教師の楽観的な対応や精神論は、逆に子どもを傷つけることになることがある。教師は、吃音のある子どもから、「私と同じようにどもって話してよ。どもってもいいんでしょ」と言われた時、その子と同じように、どもった話し方をする覚悟があるか、ということである。その子には、今、どもってもいいとは思えない現実がある。そのことを教師は理解しなければならない。そして、本当に吃音のある子どものことを考えるのであれば、

    「どもってもいいんだよ」というような安い言葉がけより、その子が心から「どもってもいいんだ」と思えるためには、どうすればよいかを考えるべきである( 8 )。

    同時に、吃音のある子どもを取り巻く、周りの子どもへの指導も大切になるだろう。教師は、どんな場合であっても、からかいを行っている子どもを絶対に許してはならない。すぐに、からかっている子どもに指導をする必要がある。この指導の仕方ひとつで、話し方をからかわれた子どもが、これからクラスで積極的に発言ができるか、できなくなるかを左右するからである。ここでのからかった子どもへの指導がうまくいき、からかいがなくなれば、吃音のある子どもも、クラスで気持ちよく過ごすことができる。うまくいかなければ、「次話したら、また笑われてしまう」と話すことが怖くなり、クラスでも常に話し方を気にしながら過ごさなければならなくなる。そして、

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  • 人とコミュニケーションを取ることにも恐怖感や苦手意識を持つようになり、友達関係にまで影響してしまう恐れがある。

    さらに言えば、これは、吃音に限ることではない。このからかいを教師が見て見ぬふりでもしようものなら、クラスで様々な差別やいじめが発生する。例えば、走るのが人よりも遅い、計算をするのが遅い、というだけで周りから馬鹿にされ、差別を受ける。クラスの雰囲気がそうさせるのである。このような状況を防ぐために、教師は、日頃から、「いじめや人の嫌がることは、絶対に許さない」という姿勢を示すとともに、もし、そのようなからかいを見つけたならば、すぐに指導をする必要があると思う。

    現状として、クラスメイトにからかわれている、差別をされるという事実があるならば、吃音のある子どもがクラスの中で頼りにできるのは、担任教師ただ 1 人なのである。それは、唯一クラスのいじめを遮断することができるのが、教師だからである。周りの子どもへの指導がされていなければ、教師がいくら授業での支援を工夫したところで、本人のクラスでの居心地の悪さは、何も変わらないのである。そのため、子どもが過ごしやすい環境を作るには、まず、クラスの雰囲気づくりからだといえよう。

    また、言語障害児のための特別支援学級のような場である「ことばの教室」についても、少し触れておく。ことばの教室とは、授業についていけない子どもが、1 週間のうち、あらかじめ決まった時間( 1 時間から 2 時間)だけ、ことばの教室に通い、それ以外の時間は、自分のクラスで授業を受けることができるということである。支援として最もよく行われていることは、本人の話すことに対する不安と緊張の軽減である。基本的に、指導は 1 対 1 で行われ、ことばの発音の指導を必要とする子ども、コミュニケーションの指導を必要とする子どもを対象としている。このように、ことばの教室は、子どもの話す意欲と自信を育てる場として活用されているのである。

    また、ことばの教室は、保護者の不安を取り除く場としての存在でもあると考える。どの保護者も、自分の子どもが、周りの子どもと何か違うところがあると、不安になるのが保護者である。そのため、まずは、ことばの教室で、保護者にできることは何かを考えることが必要である。

    ことばの教室で保護者にできることは、保護者に吃音の正しい知識を提供することである。そして、保護者の日頃の悩みや苦労をとにかく聞くことである。子どもは、保護者に相談することができても、保護者は、自分の悩みをなかなか相談できる場があまりないように思う。保護者が不安であると、子どもも不安になる。自分のことで、悩み困っている親を見ると、罪悪感と自己嫌悪にみまわれる。しかし、保護者自身が、自分の悩みを聞いてもらえたと実感することによって、心にゆとりが生まれ、子どもにも、ゆとりを持って接することができる。保護者が子どもの良さを知り、それを認め、「あな

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  • たには、こんな素晴らしいところがあって、お母さんはそんなあなたが大好きだよ」と伝え続ける。これは、保護者だけでなく、教師にとっても大切なことである。保護者や教師からこのような言葉がけを受け続けることで、子どもも、吃音に立ち向かうエネルギーになるのではないだろうか( 9 )。

    すなわち、保護者を支援することは、子どものことも支援するということなのである。そのため、ことばの教室は、子どもの不安を取り除くとともに、保護者の悩みを相談できたり、日々の苦労をほめたり、励ましたりできるような場であるべきであると思う。

    第3章 吃音支援のこれから

    言うまでもなく、自己肯定感の育成が必要となっているのは、吃音のある子どもだけではない。すべての子どもに必要なことである。実際に、小学校で、自己肯定感の低下が一因となるいじめや不登校の件数は、現在も増え続けているという現状がある(10)。

    そして、吃音のある子どもが過ごしやすい環境を作るには、まず、クラスの雰囲気づくりからだということは、すでに第 2 章で述べた。クラスの良い雰囲気づくりを行うためには、クラスの子どもたちの自己肯定感を育むことだと思う。したがって、吃音のある子どもはもちろん、その周りの子どもたちも含めた自己肯定感を育む支援について考える。

    子どもの自己肯定感を育む上で大切なことは、「間違いや失敗を認め合える」クラスの雰囲気づくりだと考える。このようなクラスを作るためには、子どもが「何を言っても認めてもらえる」と思えるような担任教師の言葉掛けや、クラスの雰囲気が必要である。そのために、教師は、「できた・できなかった」ではなく、「挑戦したことが素晴らしい」といった子どもの意欲や努力、「やるか・やらないか」という視点で、子どもを評価することが大切であると思う。

    できないことでも立ち向かって努力する姿や意欲を評価することができる。そのため、例え、吃音やその他の障害がある子どもが、他の子どもが当たり前にできることができなかったとしても、その姿勢や頑張りを褒めることで、自己肯定感を育むことができ、次もやってみようという意欲につながる。また、吃音のある子ども自身も、どもっても、からかわれたり、まねをされたりすることがなければ、詰まりながらも頑張って最後まで話してみようと思えるのではないだろうか。さらに、周りの子どもたちが、吃音について理解をしてくれたり、できないことを手伝ってくれたりすることで、吃音のある子どもの心の負担の軽減につながり、自己肯定感を育むことができるのではないだろうか。私は、このような環境が、吃音のある子どもが心の底

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  • から「どもってもいい」と感じることができる環境になるのではないかと考えている。そのため、まずはクラスの雰囲気づくりが大切になるのである。

    では、教科の中でどのように実践していくかを考える。吃音のある子どもの多くが、苦手とする国語を取り上げて考える。吃音には、他者と声を合わせて読むと、自分の声のみに注意が向かなくなり、どもりの症状が出にくくなるという特徴がある(11)。この特徴から、教科書を音読する時には、斉読法を用いることが有効であると考える。これによって、吃音のある子どもの 1人で読む不安もなくなる。また、自分の読んでいる声だけを、みんなに聞かれるわけでもないので、周りの目を気にする心配もない。慣れてきたら、隣の人や近くの人とペアやグループを作って音読をする。さらに、音読以外の活動でも、ペアやグループで行うこと、これにより、自分の意見を発表したいけど、自信が持てないときには、グループの誰かに一緒に発表することができる。教師が、このような授業の工夫をすることによって、吃音のある子どもの国語の授業への苦手意識も少なくなるのではないだろうか。

    しかし、必ずしも、吃音のある子どもにとって、斉読法が良いとは限らない。もしかしたら、どもってでも 1 人で読みたいというかもしれない。そのため、教師が方法を決め付けるのではなく、子どもと相談をしながら、その子に合った方法で支援をしていかなければならないと思う。

    私は、11月の末に、愛知県の岡崎市で開催された「愛知きつおんフォーラム in 岡崎」に参加をした。これは、言語聴覚士の方が講師となり、吃音のある子どもを持つ保護者や吃音のある人、また、幼稚園・小中学校の先生、吃音に関心のある人を対象に、行われたものであった。そこで、吃音のある小学 4 年生の女の子が、自分の吃音に対する思いや、実際に経験した辛かったことなどを話す時間があった。ここで、彼女がクラスメイトに自分の吃音を知ってもらうために行ったことを紹介した。それは、吃音の特徴を文字と絵で分かりやすくまとめた紙芝居であった。「詰まったり、言葉を繰り返したりするのは、わざとではありません。だから、私の話し方をまねしないでください」としっかりとした声で話している姿が、とても印象的であった。

    クラスで紙芝居を行ってからは、以前まであったからかいやまねがなくなったそうだ。彼女は、自分で吃音のことについて、クラスメイトに話し、自ら過ごしやすい環境を作ったのである。人前で話すことが難しければ、彼女のように話す以外でも、何でもいいと思う。相手に理解を求めるばかりではなく、理解をしてもらうために、自分のことを周りに表現する力が、大切になってくるのではないだろうか。また、そうさせる教師の雰囲気づくりが必要であると考える。

    これらを行っていくことによって、吃音のある子ども、また、その周りの子どもの自己肯定感を育んでいきたいと考える。

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  • 本論文では、学校現場における吃音支援の在り方を様々な視点から述べてきたが、このことを良い機会として、吃音への理解が広がり、支援の形がさらに良い方向へ向かっていくことを期待する。また、このように、国を挙げて、吃音についての理解啓発を促す配慮に取り組んでいくことで、もっと社会に、吃音の認識が広がってほしいと思う。そして、吃音のある子どもたちが、高校や大学と卒業して、社会に出た時にも、過ごしやすい環境になることを願いたい。

    お わ り に

    本研究を行い、吃音は、まだ解明されていないことが多く存在するということがわかった。これから、教師が吃音について正しい理解を持ち、支援していくことで、すべての子どもが、過ごしやすい環境づくりが進められていくことを願う。

    ( 1 )『広辞苑 第六版』岩波書店、2008年、688頁。( 2 )廣嶌忍・堀彰人『子どもがどもっていると感じたら』大月書店、2004

    年、15頁。( 3 )菊池良和『吃音のことがよくわかる本』講談社、2015年、18頁。( 4 )厚生労働省「労働者災害補償保険法施行規則 別表第一 障害等級表」

    なお、意思疎通が全くできない場合や、構音障害などのその他の障害も併せ持つ場合は、医師の診断書により、身体障害者手帳の申請をすることができる。http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken03/index.html

    ( 5 )水町俊郎・伊藤伸二『治すことにこだわらない、吃音との付き合い方』ナカニシ出版、2005年、35頁。

    ( 6 )同、43頁。( 7 )菊池、前掲書、76~77頁。( 8 )北川啓一『吃音のこと、わかって下さい』岩崎書店、2013年、188頁。( 9 )・(10)牧野泰美「吃音のある子どもの自己肯定感を支えるために」『特

    殊教育学研究』2007年、所収、67頁。(11)水町・伊藤、前掲書、56頁。

    (卒論指導教員 深草正博)

    学校現場における吃音支援の在り方

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  • 母親の育児不安と育児自己効力感の関連性― 子どもの発達段階に着目して ―

    椙 尾 一 日

    【問題・目的】

    近年、育児に不安を感じる親が増加している。市販の離乳食、衛生的でかわいいものが多い既製のベビー服、ミルク作りに最適な温度が保てるポット、蛇口さえひねればいつでも赤ちゃんに最適なお湯が出てくるといった現代の日本における子育ては祖父母の時代では考えられないような便利さが享受されるようになった。このような進歩にも関わらず、なぜ現代の若い母親は子育てに辛さを感じるのだろうか。その理由としては、時代によって大家族は珍しくなったことである。子育ては家族や地域社会における人間関係の中で行われてきた。しかし、核家族が中心となっている近年、我が国における都市化や核家族化、地域の繋がりの希薄化が進んだ結果、育児を取り巻く環境は大きく変化し、育児を助けてくれる人や相談できる人が親のそばにいないといった育児の孤立が問題となっている(内閣府,2013)。さらに少子化に伴い、多くの親は実生活の中で乳幼児に接する機会が少ないまま大人になるため、親として子育てに不安や戸惑いを抱えていると言われており、家庭及び地域における子育て機能の低下が問題になっている(文部科学省、2005)。

    育児不安とは、「育児ないし育児行為から喚起される漠然とした恐れの感情である」と住田(2001)は述べている。しかし、その内容は一様ではなく、様々な定義がなされている。まず、この育児不安について最初に扱った牧野

    (1982)によると、「子どもの現状や将来、或いは育児のやり方や結果に対する漠然とした恐れを含む情緒の状態また無力感や疲労感、或いは育児意欲の低下などの生理現象を伴ってある期間継続している情緒の状態、或いは態度を意味する」とされている。また、宮元・舟越・中添・時岡・森・渋谷(2000)は「育児に伴う自信の無さや不安、子どもと関わることの疲労感、育児からの逃避や社会からの孤立感」と定義し、手島・原口(2003)は「母親を煩わせる子どもの行動や態度を育児ストレッサー、それによって引き起こされる母親のストレス反応を育児不安とする」と定義している。そして、住田(2001)は育児不安を「育児についての不快感情」、「子どもの成長・発達についての不安」、「母親自身の育児能力に関する不安」、「育児負担感・拘束感による不

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  • 安」と 4 つに分類して定義している。このように育児不安についての定義もその内容も様々であり、母親の不安の状態に言及するもの、具体的な不安の対象に言及するもの等、様々な視点から考えられている。またその後も、育児不安などに関する研究が進められ、それらを概観すると、「育児において子どもの現在や将来、自分自身の育児の仕方等について過度に恐れや葛藤を含む情緒の状態」が定義の中心をなし、その状態はいくつかに分けられるとしている。様々な定義がなされている中で本研究では住田(2001)の定義を支持する。

    乳児期から幼児期への移行にあたる生後 2 、 3 年目は一般的に子どもの反抗や自己主張が激しくなる時期として知られている。発達心理学の諸理論では、この時期は子どもの自我発達の転換期、あるいは親子(特に母子)の関係性に質的変化が生じる時期として位置付けられてきた。Dunn(1988)によれば、母親の禁止に対する子どもの反抗の回数は、生後18ヵ月から24ヵ月の間に倍増し、子どもによる怒りの表出は、生後24ヵ月頃に最も顕著であるという。これは、親子間の意図の対立が 2 歳前後の時期に最も激しくなることを示している。 0 ~ 3 歳児の母親を対象とした、繁多・菅野・白坂・真栄城(2001)の研究によれば、子どもの年齢が上昇するに伴い、子どもとの相互作用を楽しむ、子どもを虐待する(体罰や脅し、無視などの対応)、子どもの性格受容が難しくなる、といった 3 つの傾向が強くなったという結果が示されており、また親の育児生活へのストレスが 2 歳時点にピークになることも示された。このように 3 歳までの時期には子どもの年齢要因が親の育児感情や育児行動に影響しているとされている。

    多くの研究から育児不安を感じる原因が述べられており、親にとって育児不安は、誰しもが直面する感情であると考えられる。そして母親の認知する育児不安は子どもの発達段階によっても、そのストレスの程度や内容が変化すると言われている(牧野、1982;日下部、1999;川井・庄司・千賀、1995、2001)。

    日本小児保険協会(2011)が行った 1 歳児から 6 歳児の母親を対象にした子育てに関する横断研究によると、子育てへの自信について、「自信が持てない」と回答したのは、1 歳児で23.0%、2 歳児で23.0%、3 歳児で24.6%、4 歳児で23.0%、 5 ~ 6 歳児で21.4%であり、「何とも言えない」という回答を含めると、各年齢で半数以上の母親が育児に自信を持っていると言えない状況であったと報告している。4 歳児から 6 歳児の母親であっても 2 割の母親が、子育てに自信が持てないと回答しているということは、子どもの成長・発達につれて育児に関する母親の自信が増すのではないことを示しているとも報告している。

    Bandura(1977)は自己効力感を「ある結果を生み出すために必要な行動

    母親の育児不安と育児自己効力感の関連性

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  • をどの程度うまく行うことができるかという個人の確信である」と定義している。近年、この自己効力感の概念が育児の領域に適用され、育児自己効力感として注目されている。この育児自己効力感とは、「親としてどのくらい有能かつ効果的にふるまうことができるかという程度に関する親の期待」である(Teti & Gelfand,1991)。つまり、育児役割においてうまくやっていくことができるという、親としての能力に対する自信であると考えられる

    (Coleman & Karraker,1997)。乳幼児期の子どもを持つ母親の育児自己効力感に関する研究によると、育児自己効力感が高い母親ほど育児負担感が低いことや、育児に対する情緒的支援を感じていても育児自己効力感が高くなければ育児負担が軽減しないことなどが報告されている(金岡・藤田,2002;金岡,2011)。

    0 ~ 3 歳児の時期の中で母親の育児不安がピークに達する時期が 2 歳前後という先行研究が示されている(加藤・津田,2001)。

    今まで世話をすればよかった時期から、様々なことを教えていかなければならない時期となり、しつけ的な行為が必要となってくる時期になるからである。またイヤイヤ期にも入り、生後まもなくのまだ意思が明確にならない時期から、反抗期と呼ばれる時期になるに従い育児不安がピークに達するのである。

    先行研究(加藤・津田,2001)では 0 ~ 3 歳児までの発達変化と育児不安との関連性はあるが、 4 ~ 6 歳児の発達変化と育児不安との関連性の先行研究はあまりなされてきていない。そこで、 4 ~ 6 歳児の育児は 2 歳児でピークに達した育児不安がどのように変化するのか検討する必要があると考えられる。小 1 プロブレムなどの、就学の準備と適応のための新たな課題に向き合う時期でもあるため、育児不安が募るのか、また、 4 ~ 6 歳の子どもは日常生活動作の自立が進み、保護の度合いが減少し、親の手から徐々に離れていく時期のため、ある程度落ち着いていくのか検討する必要があるだろう。

    また、育児の自信は子どもの成長・発達につれて育児に関する母親の自信が増すのではないことを示していると報告されている(日本小児保健協会,2011)。しかし、子どもの発達段階において、自我が芽生えイヤイヤ期に入り自信が無くなったり、また、子どもが育つ中で自分の子育てが上手くいっているのか不安になったりと育児の自信は発達段階において何かしらの変化は出るのではないかと思われる。そのため本研究では、育児不安同様、子どもの発達段階によって母親の育児の自信がどのように変化するのか検討する。

    子どもの発達段階の分け方として、①9カ月~1歳 5カ月、②1歳 6カ月~2 歳11カ月、③ 3 歳~ 4 歳、④ 4 歳 1 カ月~ 5 歳、⑤ 5 歳 1 カ月~ 6 歳というように分類した。①は親と子の生活リズムも安定し、生活に慣れてくる。分からなさは減少し、「気持ちがいい」、「お腹がすいた」などの子どもの内

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    皇學館大学教育学会年報 第39号(2017年度)

  • 的状態を推測しやすくなり、子どもが大人の働きかけに反応するようになるため、お互いが通じ合う感覚を強く感じることもできるようになる時期である。②の時期の親の関わりは見守るだけではすまなくなってくる。子どもの

    「これがしたい」という思いは強くなり、親は常に子どもの要求を受け入れることが難しくなってくる。子どもは言葉を使って自分のやりたいこと、したいことを大人に伝えようとし、いわゆる“反抗期”が本格化する。何を言っても「いやだ」、「だめ」という反抗は親にとって厄介なもので、親も冷静に見守ることが難しくなる時期である。③、④の時期になると、何に対しても反抗することは少なくなってくるが、ことばを使って自己を主張し、大人とたくみにやりとりをするようになる。また、自分の内的な世界を意識し始める時期のため、親が何か尋ねても、「内緒」や「教えない」ということも出てくる。自分の知っている言葉で、一生懸命自分の感じたことを表現する時期になってくる。⑤は小学校入学というターニングポイントの直前の時期である。自分の子どもが保育園や幼稚園と違った学校生活で、他の子どもとうまくやっていけるのか、勉強についていけるのかということが親にとって大きな関心になる時期である。この分類方法は菅野(2004)の論文を参考にして行った。

    【方 法】

    1 調査対象者三重県内の私立保育園に通う 0~6 歳児までの母親を対象に質問紙を配布

    し、130名から回答を得た。内訳は、0 歳児が15名、1 歳児が22名、2 歳児が25名、3 歳児が19名、4 歳児が23名、5 歳児が26名であった。三重県内の私立幼稚園に通う 2~6 歳児までの母親を対象に保育園同様母親に質問紙を配布し、252名から回答を得た。内訳は、2 歳児が15名、3 歳児が80名、4 歳児が85名、5 歳児が72名であった。

    2 質問紙の構成1)フェースシート対象者の年齢と妊娠の有無、また対象者の子どもの年齢と性別、子どもを

    中心とした家族構成について尋ねた。

    2)育児感情尺度山川・柏木が作成した育児感情尺度は下位尺度「夫からの孤立感」15項目、

    「否定感情」 8 項目、「肯定感情」 6 項目、「社会参加」 4 項目で構成されている。本研究では、下位尺度の「肯定感情」 6 項目を選択し使用した。回答

    母親の育児不安と育児自己効力感の関連性

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  • は感じる程度を、「 4 よくある」「 3 ある」「 2 ない」「 1 まったくない」の 4段階評定( 1 点~ 4 点)で求めた。

    3)育児不安感情尺度育児ストレスを測定するために平石(1990)、滝聞・坂元(1991)、戸田(2000)

    を参考に27項目を朴(2006)が作成したもののうち、本研究では、 9 項目を選択し使用した。回答は感じる程度を、「 4 よくある」「 3 ある」「 2 ない」

    「 1 まったくない」の 4 段階評定( 1 点~ 4 点)で求めた。

    4)育児自己効力感尺度田坂(2003)が作成した育児自己効力感尺度では下位尺度「子どもへの積

    極的関わりの自信」 6 項目、「子どもを安堵させる自信」 5 項目、「子どもに自己統制させる自信」 3 項目の合計14項目で構成されている。回答は感じる程度を、「 6 非常に当てはまる」「 5 あてはまる」「 4 ややあてはまる」「 3 ややあてはまらない」「 2 あてはまらない」「 1 全くあてはまらない」の 6 段階評定( 1 点~ 6 点)で求めた。

    【結 果】

    1)基礎的データ育児肯定感情尺度について、平均値(SD)は、3.36(.39)、α=.79であっ

    た。育児不安尺度について、平均値(SD)は、2.38(.11)、α=.74であった。子どもへの積極的関わり自信の尺度について、平均値(SD)は、3.74(.72)、α=.87であった。子どもを安堵させる自信の尺度について、平均値(SD)は、4.27(.71)、α=.87であった。子