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高梁市備中町平川
史跡紫 城 祉
すけちか
平安時代の終わり、元暦年中(1184)藤原資親、そして室町時かもんのすけみなもとのたかちか
代のはじめ、建武3年(1336)平川掃部介源高親によって開基つねちか
された城である。初代高親から倫親まで10代、 260余年に亘り
本城に於いて君臨したのです。
標高602mの山頂に築かれ、東南から北西にかけ、 250mの範囲いこうきゆうしゆんようがい
に遺構があり、急峻な地形をいかし要害として優れた城である。(るわほi)きりどるい
山頂には郭や堀切そして土塁も残り、残存状態もよく当時をしの
ばせてくれます。
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(中央山頂が城祉)
平川の歴史をかたる会
後援 平川コミュニティ協議会
紫城祉全景(後北)一● ._/I ′
とるい
この城は主郭・二の壇・三の壇からなり、三の壇の南肩には土塁があり、こくちほi)きi)
その中央には虎口が、又そこに至る道は急勾配で、細い道と堀切を渡るとはしみはりヤくら7=い
狭い土橋がある。南東端及び北西100ml声どの二カ所に見張り櫓台があつらもんからめてもんいこう
り、又そこに通ずる道は、二の壇の西側に裏門(溺手門)等遺構と思われきゆうLゆん
るものがある。特に北・東側は急峻で真下に成羽川ダム湖が見える。こようがい
うして山の地形を有効に活かした要害である。
紫城平面図
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三の壇から右側二の壇
土橋から三の壇へ
紫城の各支城金護山城祉(下郷宮側)
城主 平川景親
大原田城祉
北丸之城祉(前北)
津 一 皐・ザ増
迎撃〕t-i i I.:-;二転城主 江草右京・
これらの支城をもって、この地に一大
城域を形成し、各支城の武将達も心を一
つにし、戦いに備えていった。天文9年
の尼子軍との戦いで勝利したことは、歴
史的にも有名である。
山根城祉
城主 物部郷
平川の歴史をかたる会高梁市備中町平川TEL 0866-45-2343