いわゆる moderate realism について -...

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(57) いわゆる moderate realism について 木 村 誠 司 はしがき 筆者は、生来珍奇を好み、空想の世界に遊ぶのが常であった。それ故、現実 観に乏しく、すべてにおいて確実性がない。本稿も、文献という現実から遊離 した空想の産物かもしれない。以下は、見知った文献をネタに、勝手なストー リーを展開した駄文である。 moderate realism とは、ドレイフェス(G.Dreyfes)氏が命名したチベット、 ゲルク派(dGe lugs pa)のダルマキールティ(Dharmakrti)解釈のことであ る。ドレイフェス氏は、1989 年の国際チベット学会で、この解釈に触れ、 1992 年に原稿化し (1) 、さらに、1997 年に大著 Recognaizing Reality Dharmakrti’s Philosophy and Its Tibetan Interpretation『実在の確認 ダルマキールティの哲学 とそのチベット的解釈』を出版した。以降、氏の提唱する moderate realism は、 幾多の研究者に注目されるようになった。 さて、moderate realism とは、そもそも、どういう意味なのであろうか?「穏 健な実在論」とでも訳せるこの語の思想的ニュアンスは何か?ドレイフェス氏 は、moderate realism extreme realism「過激な実在論」を対峙させている。そ して、この extreme realism はインドのニヤーヤ学派等の立場としている (2) 。ドレ イフェス氏は、この辺の経緯をこう説明している。 ダルマキールティは何らかの普遍が実在し得る可能性を考慮しているとは思えない。「普 遍が実在し、個物とは別物である」と主張するニヤーヤ学派との論争に限れば、ダルマキー ルティの戦略は「普遍は個物とは別物と認めながら、如何なる実在性も払拭することであ る。」 (3) ところが、ドレイフェス氏によれば、ゲルク派では、「ダルマキールティは、 普遍にも一定の実在性を認めている。」という趣旨の解釈を示しているのであ 駒澤大學佛敎學部硏究紀要第 69 號 平成 23 年 3 月 - 246 -

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(57)

いわゆるmoderate realismについて

木 村 誠 司

はしがき

筆者は、生来珍奇を好み、空想の世界に遊ぶのが常であった。それ故、現実観に乏しく、すべてにおいて確実性がない。本稿も、文献という現実から遊離した空想の産物かもしれない。以下は、見知った文献をネタに、勝手なストーリーを展開した駄文である。

moderate realismとは、ドレイフェス(G.Dreyfes)氏が命名したチベット、ゲルク派(dGe lugs pa)のダルマキールティ(Dharmak rti)解釈のことである。ドレイフェス氏は、1989年の国際チベット学会で、この解釈に触れ、1992年に原稿化し

(1)、さらに、1997年に大著 Recognaizing Reality Dharmak rti’s

Philosophy and Its Tibetan Interpretation『実在の確認 ダルマキールティの哲学とそのチベット的解釈』を出版した。以降、氏の提唱する moderate realismは、幾多の研究者に注目されるようになった。さて、moderate realismとは、そもそも、どういう意味なのであろうか?「穏

健な実在論」とでも訳せるこの語の思想的ニュアンスは何か?ドレイフェス氏は、moderate realismと extreme realism「過激な実在論」を対峙させている。そして、この extreme realismはインドのニヤーヤ学派等の立場としている

(2)。ドレ

イフェス氏は、この辺の経緯をこう説明している。ダルマキールティは何らかの普遍が実在し得る可能性を考慮しているとは思えない。「普

遍が実在し、個物とは別物である」と主張するニヤーヤ学派との論争に限れば、ダルマキー

ルティの戦略は「普遍は個物とは別物と認めながら、如何なる実在性も払拭することであ

る。」(3)

ところが、ドレイフェス氏によれば、ゲルク派では、「ダルマキールティは、普遍にも一定の実在性を認めている。」という趣旨の解釈を示しているのであ

駒澤大學佛敎學部硏究紀要第 69 號 平成 23 年 3 月

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いわゆる moderate relismについて(木村)(58)

る。(4)例えば、ゲドゥンドゥプ・ダライラマ 1世(dGe‘dun grub, 1391-1475)は「普

遍はそれ自体は事物ではないが、普遍が非事物である必要はない。」と述べているそうである。

(5)また、「spyi(普遍)は実在するが、spyi mtshan(普遍相)は

実在しない。」などとも発言したようである。(6)さらに、ケードゥプジェー(mKhas

grub rje,1385-1438)は、「この解釈は仏教論理学・認識論の如何なる権威的テキストとも矛盾しない。」と論じている、

(7)ということである。これが、moderate

realismといわれるものの正体である。ニヤーヤ学派ほど過激ではないが1種の普遍実在論には変わりはない。だから「穏健な実在論」なのであろう。これに反する動きも当然あった。これを、ドレイフェス氏は、同じチベッ

ト,サキャ派(Sa skya pa)の anti-realism「反実在論」と呼ぶ。(8)一見したところ、

こちらのダルマキールティ解釈がオーソドックスなように思える。事実、ドレイフェス氏も、自著で、こう評価している。それらの思想家〔=サキャ派〕は、新しいアイデアを提示しても、ダルマキールティ自身

の考えと近接した形で、それら〔のアイデア〕を守ることを心がけた。(9)

つまり、サキャ派の解釈は、正統的なダルマキールティ理解である、と看做しているのである。反対に、moderate realismに対しては、否定的な見解を表明している。多くのチベットの思想家が採用した moderate realismは、ダルマキールティの概念論とは、

全く異なっている。それ故、歴史的観点からすれば、異端である。(10)

では、現在流布しているダルマキールティ解釈、すなわち、彼の普遍論に対するオーソドックスな見解とはどのようなものであろうか? moderate realismに対するドレイフェス氏の懐疑的な評価は正しいのか?その真偽を探るためにも、現代の研究者の見解が必要である。いくつか拾い出してみよう。長崎法潤氏は、ダルマキールティのテキスト出版も行った信頼できる学者である。

(11)まず、

氏の見解を見てみよう。長崎氏は、インド思想全体を俯瞰し、ダルマキールティの属する仏教論理学派の普遍論にコメントしている。次のようにいう。一般者〔=普遍〕の実在性を批判し続けたのはディグナーガ(Dign ga陣那四八○―五四

○頃)をはじめとする〔ダルマキールティなどの〕仏教論理学者である。仏教の認識論に

おいては一般者〔=普遍〕の実在を認めない。牛が知覚されるとき、その時、その場所で

のみ見ることのできる特殊な色や形を本質とする牛の独自相が認識されるのであり、牛性

という一般者〔=普遍〕の存在は知覚されない。さらに牛の独自相を認識した直後に牛の

一般相をとらえる概念知が生ずるが、そのような一般者〔=普遍〕は実在するものではな

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いわゆる moderate relismについて(木村) (59)

いと主張し、概念には必ず対応するものが実在するとするニヤーヤ、ヴァイシェーシカ学

派の説を論駁した。(12)

ここからは、確かに、moderate realismに対する懐疑は芽生えてくる。しかし、もう1人の学者の見解と照らし合わせると、やや、奇妙な印象を抱かざるを得ないのである。赤松明彦氏は、ダルマキールティの普遍論に精通した学者である。氏は、ダ

ルマキールティの普遍論の形成過程を論じ、以下のように述べている。思惟作用全般の対象領域とされる一般相は、多くの個物に共通する共通性=普遍であって、

しかもそれは思惟作用によって仮構された概念に他ならず、実在ではない。これが彼〔=

ディグナーガ〕の認識論における基本的な考えである。…ダルマキールティは以上のよう

な〔ミーマーンサー学派の〕クマーリラの論述を批判しつつ非常に精緻な〔1種の普遍論

たる〕アポーハ論を展開した。それは基本的にはディグナーガの所説を継承したものであ

るが、彼独自の発展をも見せている。…彼はその論述の中で、概念知の形成過程を詳論し、

概念が外界の実在する個物を拠り所として生じてくることを明らかにするのであるが、こ

こに彼の概念論の独自性を見ることができる。すなわち、彼は、概念が外界の実在を拠り

所とすると論じることによって、概念に実際的な真理性を与えようとしたのである。…上

述のように、ダルマキールティは、認識作用及び思惟作用を実在との関連の中でとらえよ

うとしている。これは、ディグナーガには見られなかった傾向である。(13)

この記述から、moderate realismの可能性を感じる人がいても、驚くに当たらないように思われる。また、moderate realismを適用できないのは、厳密にいえば、ディグナーガであってダルマキールティには適用可能なのではないのか、という感想を持っても不思議ではない。ここに言われている実在への志向は、moderate realismの萌芽ではないのだろうか?とすれば、moderate realismは、それほど突飛なダルマキールティ解釈ではないことになろう。結局、不思議なことに、moderate realismは、長崎氏の論述を見れば不可、赤松氏の所説では可と、看做し得るのである。ドレイフェス氏は長崎氏寄りということになる。長く moderare realismを追求している吉水千鶴子氏は、次のような感想を漏らしている。筆者は特にチベットのゲルク派において顕著となった普遍の実在(the existence of

universals)〔= moderate realism〕を認めるアポーハ論解釈の歴史的思想的発展に関心を寄

せてきた…もちろん仏教徒による普遍実在論がダルマキールティ論理学の正当な解釈とし

て主張されるに至るには様々な要因があった。翻訳上の問題、言葉の上での誤解も多々指

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いわゆる moderate relismについて(木村)(60)

摘されている。しかしながらその発生が既にインドにおいてあったと推定される以上、我々

はダルマキールティ自身の議論にどのような解釈の可能性があるか吟味せねばならないで

あろう。彼の論理学が常に実在に基盤を求めるものであるならば、あるいはそのような道

筋が生まれたのも自然なことであったのかもしれない。(14)

吉水氏の見解は、中庸を得た客観的なものであるようだ。氏の見解も、当然ながら、ドレイフェス説を視野に入れたものである。あえて、名は出さないが、ドレイフェス説への単純な同意はしていないように見える。他にも、チベット論理学に詳しい福田洋一氏は、ドレイフェス説を全面否定して、次のようにいう。いずれの点からも、チベット論理学が普遍実在論〔= moderate realism〕と特徴付けられる

余地はないと思われる。(15)

さらに、以下のような示唆的な見解を、続けて述べている。ゲルク派の解釈は長い時間をかけて、多くの学僧が詳細な論争をしながら検討を加えてき

たものであり、われわれのように俄仕込みの研究者が一朝一夕に否定することは極めて難

しい。せいぜいサンスクリット語原文から理解されることと異なっている、ということが

言える程度であり、ゲルク派のように解釈できる可能性がないと考えるよりは、我々の理

解が浅はかである可能性を検討してみた方がいい場合が多いように思われる。また、サ

キャ派のように、我々のサンスクリット語原文からの理解に一致するような解釈は、わざ

わざ検討する価値は少ないとも言えるであろう。同じ思想を前にして我々の理解から遠く

隔たっているからこそ、それが我々に思索の機会を与えてくれ、より深い理解へと導いて

くれる可能性があると考えられるのではないだろうか。(16)

ここで、福田氏は、ゲルク派の moderate realismがダルマキールティ解釈としては、正しいものか、どうか?判断保留にすべきである、としているようである。また、ゲルク派の特異な時間論について貴重な研究を続けている根本裕史氏は、ドレイフェス氏の moderate realismを含む提言に見直しを迫って、こう述べている。こうしたゲルク派の解釈を Dreyfus(1997)のように、実在論的であると見なして否定的

に評価することも不可能ではない。だが、本稿で明らかにしたように、ゲルク派の学者達

は、微視的な視点だけでなく巨視的な視点に立った上でも「無常」や「刹那」の理論を確

立しようとした結果、以上のような独特の解釈を打ち出しているのである。彼らの「刹那」

解釈と時間論をそうした試みとして積極的に評価することもできよう。(17)

こうして、到底、充分とはいえないが、過去の業績を筆者なりに、辿ってみた。

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いわゆる moderate relismについて(木村) (61)

moderate realismについていくつかの知見は得られた。しかし、結果的に、返って混乱を招いたかもしれない。残念ながら、今の筆者に、moderate realismを判定する能力などない。以下では、幾ばくかの情報を付け加え、博雅の是正を仰ぎたいと念じるのみである。

やっかいなのは、ダルマキールティの真意が、どの部分にあるか?判然としないことである。どこに力点が置かれて論じられているか、で理解の仕方も変わる。ドレイフェス氏が明確な反対学派としたニヤーヤ学派との論争にしたところで、観点が違えば、ダルマキールティとニヤーヤ学派の差異が何もないように見える場合があるのである。例えば、ダルマキールティは添性(ati aya)という概念を導入した。集合した原子に加わるプラスアルファが添性である。御牧克己氏は、次のように述べている。この「添性を生じた原子の集積が知識の対象である」という理論が、認識論上の諸問題

を一応解決するに至った経量部の最も整備された段階での原子論であると考えられ、こ

の理論はしばしば他学派の原子論、特にニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派の全体性

(avayavin)批判の際に用いられている。(18)

この他学派批判に用いられたキーワード添性は、実は、ニヤーヤ学派が認める全体に等しいとする批判が下されたのである。状況を整理してみよう。ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派は、因中無果論(asatk ryav da)である。これはサーンキャ学派などの因中有果論(satk ryav da)と対立している。宮本啓一氏は、以下のように、簡潔に説明している。サーンキャ派のこの因果論は、いうまでもなく、結果は原因の中にあらかじめ存在してい

ると主張するものである。これに対してヴァイシェーシカ派は、原因の中にはまったくな

かったもの(無)が結果として生ずるという因中無果論を主張する。「原因の力能」( akti)

あるいは「原因の本性」(svabh va)を想定せざるをえなかったとはいえ、かれらはあくま

でも原因と結果はまったく別なものであると主張しつずけた。(19)

この力能と添性は、随分と似ているように思われる。この点を鋭く突いたのがヴァーチャスパティミシュラ(V caspatimi ra)である。彼はいう。これについて、他学派〔のダルマキールティ〕は、〔『量評釈』Pram av rttika「知覚」

pratyak a章第 223偈で〕述べていた。「もし、共に生じた添性を有するたくさん〔の極微〕が、

別個に、認識の原因だとしたら、何の矛盾があるだろうか。感覚器官等のように。」これも、

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いわゆる moderate relismについて(木村)(62)

他ならぬ〔古の〕注釈家〔であるウッディヨータカラ(Uddyotakara)〕が「もし特殊性が

生じるなら」と述べたことで、他学派〔のダルマキールティ〕は排斥されたのである。実際、

〔ウッディヨータカラによって〕確実なことが証明されているので、諸々の集合体(bh va)

に、全体という確かなもの(avayavidravya)の出現と別に、極微の添性が他にある、ので

はない。

atr ntare ha sma-ko vã virodho bahava sa j t ti ay p thak/

bhaveyu k ra a buddher yadi n mendriy divat//iti

etad api v rtikak taiva yady upaj tavi e iti vadat par stam/na khalu

sth iryasiddhau bh v n m avayavidravyotp dam

antare sty anyo’ti aya param un m/

(Ny yadar anam with Vatsy yana’s Bh ya,Uddyotakara’s V rttika,V caspati Mi ra’s T tparya k

& Vi van tha’s V tti ed.by T. Nyaya-Tarkatirtha,1985,rep.of 1936-44,Calcutta,p.502,ll.15-18)

筆者には、全くヴァーチャスパティミシュラのいう通りに思える。(20)どちらも結

果にプラスアルファを認めているからである。因中有果論批判という視点に立てば、ニャーヤ学派との差異が消え去るような印象を受けるのは筆者一人ではあるまい。ダルマキールティの真意はどこにあるのか、混乱するであろう。さらに、戸崎宏正氏の報告を知れば、なお一層、ダルマキールティの真意は謎に包まれて見えるのである。戸崎氏は、こう述べている。「法称の「極微の積集が所縁である」という説は、世親・陣那によって破せられたその説

を採用したものといわざるをえない。…このように、「極微の積集が所縁である」という

外境論説(―慈恩によれば、経量部説―)が、『唯識二十論』、『観所縁論』に論破されて

いるにもかかわらず、その説をー「極微の積集」に卓越性(ati aya)〔=添性〕を認める

ことによってー再び採用しているのである。(21)

つまり、世親(Vasubandhu、ヴァスバンドゥ)、陣那(Dign ga, ディグナーガ)という有力な先人の意向に反して、ダルマキールティ(法称)は、添性を導入したというわけである。ニヤーヤ学派寄りに、全体にも、一定の存在性を付与した、と見られてもおかしくないであろう。しかしながら、ダルマキールティの全体観を詳しく追った船山徹氏は、こう述べている。いずれにせよ、仏教知識論学派〔=ダルマキールティの流派〕は全体など無用の長物であ

るとして、全体を実体視する立場と真っ向から対立するのである。(22)

全体は、添性を採用したダルマキールティにとって、最早、無用の長物ではない。それを暗示するかのような記述がある。ドレイフェス氏に異端的とされた

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いわゆる moderate relismについて(木村) (63)

ゲルク派の論理学書に、その記述が見られる。ゲルク派の開祖ツォンカパ(Tsong

kha pa,1357-1419)は、『量の大備忘録』Tshad ma’i brjed byang chen moという 1種の講義録を残している。そこには、こうある。〔『量評釈』の二諦と〕『倶舎論』(mDzod,Abhidarmako a)で説かれた二諦と設定法は一

致しない、つまり、そこ〔=『倶舎論』「賢聖品」m rgapudgalanirde a第 4偈〕では、壷

等は破壊によって、その〔壷の〕認識は廃棄可能である〔そういったものを〕世俗諦と

位置付ける。(23)一方、ここ〔=『量評釈』「知覚」章第 3偈〕では、〔目的達成能力のある

(arthakriy samartha,don byed nus pa)〕(23)-a

自相によって成立しているものを勝義として成立し

ていると位置付ける。(24)故に、そこ〔=『倶舎論』〕では〔全体たる壷が、部分に破壊可能

であるという観点から、その壷は〕世俗の実例であると説明されるけれど、ここ〔=『量

評釈』〕では、〔目的達成能力を持つという観点から、同じ、全体たる「壷」を、〕勝義の

実例であると位置付けるのである。

mdzod nas bshad pa’i bden gnyis dang ‘jog tshul mi gcig ste/de nas bum pa la sogs pa bcoms pas

de’i blo ‘dor du rung ba la kun rdzob tu bzhag la/’dir rang gyi mtshan nyid kyis grub pa la don dam

par grub par bzhag pas der kun rdzob kyi mtshan gzhir bshad kyang/’dir don dam pa’i mtshan gzhir

bzhag pa yin no// (The collected works of rJe Tso -kha-pa Blo-bza -grags-pa,vol.22,Pha,34a/2-

3,folio.218)(25)

この記述は、先程の船山氏の見解とは、正反対である。ここでも、現代流の解釈とゲルク派のそれとが、噛合っていない例が見られるのである。だからといって、ゲルク派は誤解している、と言い切れるだろうか?この記述をどう評価するか、も大きな問題であろうが、筆者は、こう理解している。恐らく、二諦は、部分と全体というテーマに置き換え可能である。そのようなテーマが、一貫して、存在し続け、ヴァスバンゥとダルマキールティが異なった解釈を示したのであろう。『量の大備忘録』は、そのテーマの重要性を深く認識していたので、上記のような発言をしていると思われる。『量の大備忘録』では、二ヤーヤ学派の存在には触れていない。しかし、想像を逞しくすれば、ニヤーヤ学派の攻勢に会い、ダルマキールティが、新機軸を打ち出した、という推測さえも描けるように思われる。その新機軸こそ、添性であり

(26)、目的達成能力であったので

はないか(27)。とにかく、添性を巡っても、新旧の様々な見解が渦巻き、どれがダ

ルマキールティの真意なのか、判断に苦しむのである。このような錯綜した事態が、moderate realism考察の際も起こると予想される。全貌を把握出来ない今、筆者が取った手段は、吉水千鶴子氏も着目した偈、

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いわゆる moderate relismについて(木村)(64)

即ちmoderate realismの鍵ともいえる『量評釈』Pram av rttika第 1章「為自比量」sv rth numana章第 40偈とその注釈を瞥見して、やや実験的な仮説を展開してみることである。

(28)予定されている紙数の関係もあり、以下、簡単な仮説の提示

に止まらざるを得ない。

この第 40偈は、実は、ドレイフェス氏にとっても、すこぶる重要な意味を持つ。彼は、同偈に対するシャンカラナンダナ( ankaranandana)注をmoderate realismの震源の 1つとしているからである。その注は、以下のようなものである。〔ダルマキールティの偈中の〕「すべての集合体(dngos,bh va)」とは、単に、可視的なもの(gsal

ba,vyakti)(29)にとどまらず、普遍でもある、という意味なのである。

dngos kun te/gsal ba ‘ba’ zhig tu ni ma zad de/spyi yang yin no zhes bya ba’i don to// (Tshad ma

rnam ’grel gyi ’grel bshad,デルゲ版、No.4223,Pe.152b/6)

ドレイフェス氏は、こう述べている。「そのような文言は、以下のことを示している。普遍のゲルク派的見解は、オリジナルたるインドモデルの改竄ではなく、インド発の思想的発展である。」

(30)ところが、吉水氏は、「筆者が見た限り彼

〔=シャンカラナンダナ〕がこの書で普遍実在論を唱えた形跡はない。」と反論している。

(31)一体、どちらの言い分が正しいのだろうか?肝心のその偈を見て、

自分で判断する他によい手段はないようである。では、その偈とは、どのようなものであろうか。以下に、まず、梵文とチベット語訳を示そう。sarve bh v svabh vena svasvabh vavyavasthite /

svabh vaparabh vabhy yasm d vy v ttibh gina /

(R.Gnoli ed.The Pram av rttikam of Dharmak rti,Roma,1960,p.24,ll.18-19)gang phyir dngos kun rang bzhin gyis//rang rang ngo bo la gnas phyir//

mthun dngos gzhan gyi dngos dag las //ldog pa la ni brten can//(デルゲ版、No.4216,274b/6)難解である。これを吉水千鶴子氏は、こう訳している。すべての存在するものは、本来のあり方として(svabh vena)それぞれ固有の svabh vaに

定まっているが故に、同種、異種 [ と考えられているもの ] からの(svabh vaparabh vabhy

m=sajat y bhimat d anyasm c caPVSV25,14)異なり(vy v tti)をもつ。(32)

筆者は同じ偈を

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いわゆる moderate relismについて(木村) (65)

すべての集合体は、素材(svabh va,rang bzhin)によって、自己の独自性(svabh va,rang

ngo bo)に落ち着いているので、自己〔と同類の〕集合体(svabh va,mthun dngos)や他の

集合体(parabh va,gzhan dngos)から、〔全く〕別異であることには、根拠がある。

と訳してみたい。賢明な方なら、吉水氏の訳と拙訳を比べ、その違いにすぐ気が付くであろう。bh vaを筆者は、「集合体」と訳し、吉水氏は「存在するもの」とする。吉水氏の訳語が、常識的であることは明白である。また、吉水氏が副詞的に「本来のあり方として」と訳した svabh vena(rang bzhin gyis)を筆者は「素材によって」と訳した。また、吉水氏が原語を表示するに止めた第 2の svabh va(rang ngo

bo)を「独自性」とした。すべて、吉水氏の訳し方が、常識的である。なのに、なぜ、特殊な訳し方をしたのか?その第 1の理由は、筆者は、この偈の背景にも、「二諦」や「部分と全体」等の議論が潜んでいると感じたからである。第2の理由は、筆者が長年追っているチベット語訳による svabh va解釈が、ダルマキールティ理解にも有効ではないかと思ったからである。そのチベット語訳による解釈を試してみたくなったのにも、情けない話だが言い訳がある。実は、従来の解釈が、筆者にはあまりにも、難解すぎたからなのである。吉水氏はこの偈を考察する問題点をこう披瀝している。ただ解釈上厄介な問題は次の点である。この前後の議論が論理学的文脈と存在論的文脈、

あるいは概念レヴェルと実在レヴェルを往復するものならば、bh va,svabh vaという語を

どのように解釈するのか。(33)

この論理学的文脈や存在論的文脈、概念レヴェルと実在レヴェルがはなはだ、筆者にはわかりにくいのである。勿論、これが、ダルマキールティの世界的権威シュタインケルナー(E.Steinkellner)氏の提言であること位は承知している。(34)この提言は、日本の代表的ダルマキールティ学者桂紹隆氏にも受け入れら

れた。桂氏はこう述べている。かつてシュタインケルナー教授は、svabh vaの解釈として、存在論的な文脈では「因果効

力」、論理学的な文脈では「概念」と厳密に訳しわけることを提案したことがある。(35)

斯界の権威の提言が、筆者にはピンこないのである。勉強不足といえば、それまでだが、はたして、その区分は有効なのだろうか?そう強く思うようになったのは、20世紀初頭の著名な学者シチェルバツキー(Th,Stcherbatsky)の次の言葉に触れてからである。説一切有部とその反対者との争いは、我々の実在論と観念論という概念にはほとんど無関

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いわゆる moderate relismについて(木村)(66)

係な問題について、全く異なる面で行われたのではないか。(36)

ここにあるのは、現代人による恣意的な理解が、本当に正しいのか?という切実な疑問である。我々は、アプローチの仕方からして間違っているのかもしれない。そんな疑念が広がった。そこで、svabh vaのチベット語訳を試してみたくなったのである。

svabh vaは、『倶舎論』や『量評釈』において、1.rang bzhin, 2.ngo bo nyid, 3.rang

gi ngo boの 3種に訳し分けられている。『倶舎論』での用例調査は、ほぼ終了した。その結果、1の rang bzhinは「素材」、2の ngo bo nyidは「複数のものの共通な性質」、3の rang gi ngo boは「独自性」「単独性」という明確な使い分けがあることが推測された。これを『量評釈』にも適用してみようと思い立った。チベット人の智慧を借りて、ダルマキールティを解釈してみよう、というわけである。

(37)その試みの 1つが、先ほどの拙訳である。少なくとも、現段階では、

筆者は、先の訳に基ずく解釈が腑に落ちる。つまり、svabh va(rang bzhin)を「素材」と理解して、第 40偈には、素材形成論とでも呼ぶべき内容が説かれている、と考えている。素材は、究極的には原子に至るのであろうが、それは「可視的」ではない。可視的つまり gsal ba(vyakti)になった状態を「集合体」(bh va,dngos

po)と筆者は考えたい。その「集合体」は、知覚の対象だが、概念化すれば、普遍(spyi,s manya)と称してもかまわない。素材に形成された「集合体」は、素材に比べれば、2次的存在にすぎない。しかし、素材に基ずくという点で全く架空のものではなくなったのである。「集合体」は、概念化する人間がいれば、普遍となるし、いなければ、ただの「集合体」のままである。先のシャンカラナンダナの注釈も、そう考えれば、納得出来る。そして、ここに「素材」という部分と「集合体」という全体の問題が絡んでいると思われる。筆者には、部分と全体は、個物と普遍のアナロジーのように見える。チベット人が著した最初期の『量評釈』注釈において著者ウユクパ(’U yug pa,?-1253)は

(38)、第 40偈

の注でこう問題を鮮明化している。また、〔因中有果論たる〕サーンキャ学派(grangs can)は、普遍と個物は同一と主張する。

一方、〔因中無果論たる〕ニヤーヤ学派(rig pa can)は、別異と主張するけれど、普遍か

らすれば、〔多数の個物の中に、普遍が〕同一なものとして混合している、〔と主張してい

る〕と、伝えられる。この 2つを批判する解説として〔同じく因中無果論ではあるが、二

ヤーヤ学派の新造説( rambha-v da)とは異なる〔素材〕形成論(sa gh ta-v da)を説く

ものとして(39)、ダルマキールティの第 40偈を〕理解するべきである。

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いわゆる moderate relismについて(木村) (67)

de yang grangs can ni spyi dang bye brag gcig tu ’dod la rig ba can tha dad du’dod kyang spyi’i sgo

nas gcig tu’dres zhed zer te’di dag dgag pa ’grel par shes par bya’o//(Tshad ma rnam ’grel kyi ’grel

pa rigs pa’i mdzod『量評釈注正理蔵』Dehli,1982,vol.1,Ma,24a/4-5,p.47)

恐らく、ダルマキールティの意図は、まずは、サーンキャ学派批判であった。部分と全体、個物と普遍を、別物とすれば、その批判は達成される。これは簡単であったろう。次に、同じく別物とするニヤーヤ学派との差異化を明示する必要があった。彼は、素材という部分の存在性を強調し、全体や普遍の素材形成論を主張してみせたのである。つまり、部分と全体の間に存在性の強弱を打ち出した、と思われる。「添性」や「目的達成能力」導入により、全体・普遍に一定の存在性は認めたものの、それは、真の存在たる素材に依存している限りにおいてのものであった。同じ因中無果論同士でもあり、添性を認めた経緯等もあり、これを批判するのは難しかったであろう。もし、こういう見取り図が、許されるならば、ダルマキールティの立場を moderare realismではなく、「素材形成論」material formationとでも呼んだ方が、無難ではないだろうか?最後にゲルク派のケードゥプジェーとサキャ派のコラムパ(Go ram pa,1429-1489)の『量評釈』注を比べてみよう。ダルマキールティ解釈を廻っても、対立していたとされる両者の注釈を比較することは無駄ではあるまい。ケードゥプジェーはこう注釈する。「作られたもの」「無常」は同じ素材(rdzas=dravya)

(40)だけれど、「作られたもの」たる素材

と「無常」たる素材の概念(ldog pa)は異なっているので、誤りはないのである、と示し

たものが〔例の第 40偈である。〕「すべての集合体は、分別〔思考、rtog pa,vikalpa〕によっ

て構想されただけではなく、素材によって他のものと混じらず、自己の独自性に落ち着い

ているので、同種の集合体・異種の集合体からの異なり〔たる概念〕には根拠がある。

byas mi rtag rdzas gcig yin kyang byas pa’i rdzas dang mi rtag pa’i rdzas ldog pa tha dad pa yin pas

skyon med do zhes ston ba ni/gang gi phyir dngos po kun rtog pas btags pa tsam ma yin par/rang

bzhin gyis gzhan dang ma ’bres par rang rang gi ngo bo la gnas pa’i phyir/rigs mthun kyi dngos

po dang/gzhan rigs mi mthun gyi dngos po dag las ldog pa la ni brten pa can yin no//(rGyas pa’i

bstan bcos tshad ma rnam ’grel gyi rgya cher bshad pa’i rigs pa’i rgya mtsho『広大なる論書量評

釈の詳細な説明 正理大海』東北 No.5505,Tha,65a/3-4,p.745)

ここには、概念の実在は説かれていない。概念の基盤が、人間の思考にあるのではなく、素材にある、という素材形成論が説かれているにすぎない。コランパの注釈も見てみよう。

- 236 -

いわゆる moderate relismについて(木村)(68)

音声等のすべての〔集合体〕〔たる〕自相が論題となっている。自己と同種の集合体や多種の

集合体から異なった多くの概念に根拠がある。なぜなら、〔音声等は、〕妄想されずに(sgro

ma btags par)素材によって、他のものと混じり合わず、自己の独自性に落ち着いている

からである。この理由により、多くの概念それも、他の排除という間違いのない認識によっ

て、分析される、と示されたのである。

sgra la sogs pa’i rang mtshan kun chos can/rang dang ris mthun pa’i dngos po dang gzhan rigs

mi mthun gyi dngos po dag las ldog pa’i ldog pa du ma la ni brten pa can yin te/gang gi phyir na

sgro ma btags par rang bzhin gyis gzhan dang ma ’dres par rang rang gi ngo bo la gnas pa’i phyir/

gtan tshigs ’dis ldog pa du ma de yang gzhan sel phyin ci ma log pa’i blos ’byed bar bstan la/

(rGyas pa’i bstan bcos tshad ma rnam ’grel gyi rnam bshad kun tu bzang po’i ’od zer『広大な

る論書量評釈の解説 普賢光』The collected Works of Kun-mkyen Go-ram-pa bsod-rnam-seng-

ge,1979,vol.1,TBRCの電子テキスト Ka,21a/2-4)(41)

正直にいって、この 2注釈にそれほどの差異があるようには見えない。どちらも、素材形成論を語っているのではないだろうか。両者の解釈をさらに精密に追ってみる必要がありそうであるが、今は、そこまでの余裕はない。本稿は、ダルマキールティ解釈の多様性をよいことに、1種の珍説を示したものに過ぎない。moderate realismを出汁にして、妄想を語ったともいえるだろう。筆者自身は本稿執筆の機会を得て、研究の方向性を見つけた、とは思っている

(42)。ただ、願わくば、多くの先行業績を傷つけることのないように祈るば

かりである。

(1) G.Dreyfus,Universals in Indo-Tibetan Buddhism, Proccedings of the 5th Semonar

of the International Association for Tibetan Studies Narita 1989,vol.1,Naritasan,199

2,pp.29-46、また、仏教徒の普遍実在論に関する先駆的な研究としては、Eli.

Franco,On the Interpretation of Pram asamuccaya(vritti)I,3d,Journal of Indian

Philosophy vol.12,No.4,1984,pp.389-400がある。フランコ氏は「この小論の主な

目的は、ある仏教論理学者達が、普遍・本質等を実在と看做し、彼らが、『集

量論』第 1章、第 3偈に基ずいて発言していることを指摘するものである。」

(p.389、ll.3-5)と述べて論じている。フランコ氏の論文は、Lok yata(順世

外道)に属する Jayar i作 Tattvopaplavasi haの研究に基ずくものである。Eli

- 235 -

いわゆる moderate relismについて(木村) (69)

Franco,Perception,Knowledge and Disbelief A Study of Jayar i’s Scepticism(Alt-Und

Neu-Indische Studien 35)Stuttgart,1987,p.438の注 186参照。わが国では、金倉

圓照「インド唯物論の新資料と仏教」『インドの自然哲学』1971年、pp.300-

312で、Tattvopaplavasi haが紹介されている。金倉博士はこの著書のタイトル

について「全体としては「元素の卓越したる破棄」というに近い義趣となろう」

(p.301)と述べている。普遍実在論についての、最近の研究としては、野武美

弥子「観念に基ずいた普遍実在論に対するシャーンタラクシタの批判」『仏教

における祈りの問題』2005,pp.169-188がある。氏はこう述べている。「ダルマキー

ルティの論では往々にして様々な問題が平行して扱われているために、普遍実

在論に対してどのような批判を行っているのか、その全体像は見えずらくなっ

ている。」(p.182)本稿では、このようなダルマキールティの錯綜した議論に1

つの実験的な解釈を施したものにすぎない。また、ここに示した先行研究を本

稿で活かすことも、残念ながら出来なかった。

(2) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.35,l.1。

(3) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.32,ll.18-21。

(4) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.35,ll.4-11。

(5) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.33,ll.4-5。

(6) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.33,ll.23-27。

(7) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.33,ll.35-36。

(8) 前掲注(1)のドレイフェス論文 p.39,l.23。

(9) G.Dreyfus, Recognaizing Reality Dharmakirti’s Philosophy and Its Tibetan Interpretati

on,Albany,NY,1997,p.444,ll.13-15.

(10)前掲注(9)のドレイフェス本 p.445,ll.25-27

(11)S.Mookerjee and Hojun Ngasaki,The Pram av rttika of Dharmak rti with English

Translation of the first chapter with Autocommentary and elaborate Comments

(k rikasI-LI),1964.

(12)長崎法潤「概念と命題」『講座・大乗仏教 9-認識論と論理学』昭和 59年、pp.342-343,〔 〕内は筆者の補い。

(13)赤松明彦「ダルマキールティのアポーハ論」『哲学研究』54、昭和 55年、pp.964-967〔 〕内は筆者の補い。

(14)吉水千鶴子「Pram av rttika I 40の解釈について」『印度学仏教学研究』47-2, 平

成 11年、p.927,〔 〕内は筆者の補い。

- 234 -

いわゆる moderate relismについて(木村)(70)

(15)福田洋一「ゲルク派論理学の実在論的解釈について」『東洋の思想と宗教』

17,2000,p.(35)、〔 〕内は筆者の補い。福田氏は、前掲注(1)のドレイフェス論文を批判している。

(16)前掲注(15)の福田論文、p.(36)。

(17)根本祐史「ゲルク派における刹那の解釈と時間論」『南都仏教』89,2007、p.20。

根本氏は前掲注(9)のドレイフェス本を批判している。

(18)御牧克己「経量部」『岩波講座・東洋思想 第 8巻、インド仏教1』p.237。

(19)宮本啓一「 rambhav da覚え書き」『平川彰博士古稀記念論集 仏教思想の諸問

題』、1985,p.592。

(20)これについて、船山徹氏は「要するに、経量部が諸原子のみを認める場合の

不都合を解消しようとして「原子の集合体には添性(ati aya)が生じるのだ」

と〔ダルマキールティが〕主張するならば、もはや〔ニヤーヤ学派が〕全

体を認めるのと変わらないのではないか、と言うのである。」と解説してい

る(船山徹「部分と全体―インド仏教知識論における概要と後期の問題点」

『東方学報』62,1980,p.611、〔 〕内筆者の補い)。筆者は、二ヤーヤ学派に

関しては、全くの門外漢である。そのため、とんでもない誤訳を犯している

のかもしれない。識者のご叱正を賜れば、幸いである。また、戸崎宏正『仏

教認識論の研究』上巻、昭和 54年、p.319及び注(83)も参照。その注でも

指摘されているが、このヴァーチャスパティミシュラによる引用の帰属は、

D.N.Shastri,Critique of Indian Realism-A Con ict between Ny ya-Vi e ika & Buddhist

Dign ga School,Agra,1964,p.250、ll.5-10で報告されていたことがわかる。なお、v rtikak ra「ヴァールッティカの作者」をウッディヨータカラとするか、ダル

マキールティとするかで、刊行者と本著者に意見の相違があることが、同書

p.250の注 23で述べられている。ヴァーチャスパティミシュラについては、金

倉円照「哲人ヴァーチャスパティミシュラ」『インド哲仏教学研究 III インド

哲学篇2』昭和 51年、pp.261-318参照、ヴァーチャスパティミシュラの学殖は

「「一切の教説を自らの教説とする者」(sarvatantrasvatantra)という称号に如実

に反映していると見做すことが出来る」といわれるほどのものである。金沢篤

「ヴァーチャスパティの年代論」『東洋学報』68-3・4,1987、p.02参照。また、ヴァー

チャスパティミシュラの年代については、山上證道『ニヤーヤ学派の仏教批判

 ニヤーヤブーシャナ知覚章解読研究』1999,pp.8-19でも考察されている。同

書には「インド正統論理学派における「全体」の概念」pp.399-418も収録され

- 233 -

いわゆる moderate relismについて(木村) (71)

ている。また、最近の研究として、平野克典「Vyomatiにおける全体説―部分

と全体とのあり方を巡る質疑応答―」『印度学仏教学研究』55-1,2006,pp.318-323

がある。

(21)前掲注(20)の戸崎本 pp.38-39。

(22)前掲注(20)の船山論文 pp.608-609

(23)櫻部建・小谷信千代『倶舎論の原典解明 賢聖品』1999,pp.61-65に詳しく内容

が説明されている。チベットにおいても、『倶舎論』の偈と釈を別個に扱って

いることは、白館戒雲(ツルティム・ケサン)「アビダルマ研究に関わるチベッ

ト文献からの二、三の情報」『加藤純章博士還暦記念論集 アビダルマ仏教と

インド思想』2000,p.72参照。それを勘案して本稿訳では「「賢聖品」第4偈」

と補い、「第 4偈と釈」とはしなかった。

(23)- a arthakriy の arthaは「目的」ではなく 「結果」「対象」であると、金子宗

元「‘Arthakriy samartha’の解釈を巡ってー『量評釈』「現量章」第三偈を中心

としてー」『曹洞宗研究員研究紀要』28,1997,pp.45-73で論じられている。筆者は、

何の論証もなく、「目的」という訳語を採用している。しかし、ここの文脈でも「目

的」と訳す方が適切であると思っている。なぜなら、ダルマキールティは、実

際的な場面での、「効用」「能力」を想定して、ati ayaや arthakriy を導入せざ

るを得なかった、と筆者は考えているからである。その場合、arthakriy は「目

的達成能力」と訳すのが適切であると判断する。いずれ、この問題も扱うつも

りである。後注(26)の天野宏英氏の添性に関するコメントも参照されたい。

(24)前掲注(20)の戸崎本 pp.61-66、松本史朗「仏教論理学派の二諦説」上・中・

下『南都仏教』45-47、1980-1981参照。チベットにおける問題については、金

子宗元「『量評釈』「現量章」第三偈のチベット訳を巡って」『日本西蔵学会会報』

44,1999,pp.31-39がある。同論文はチベットの主な論理学書を比較したものであ

るが、『量評釈』と『倶舎論』との関連には触れていない。

(25)吉水千鶴子「ゲルク派による経量部学説理解(1)二諦説」『成田山仏教研究所

紀要』21,1998,pp.67-68の注(17)にも同じ箇所の訳がある。他にチャンキャ

(lCang skya,1717-1768)の『学説綱要書』の同趣旨の記述の訳もある。吉水氏

の論文は、厖大な資料を提示する示唆的なものである。拙稿「『量の大備忘録』

に関するメモ」『駒沢大学仏教学部研究紀要』68,2010,pp.198-187も参照、なお、

本稿では mtshan gzhiを「実例」と訳したが、チベットの mtshan nyid,mtshan

gzhi,mtshon byaを巡っては、検討すべき点が多いため適切な訳語となっていな

- 232 -

いわゆる moderate relismについて(木村)(72)

い可能性を否定出来ない。それについては、福田洋一「初期チベット論理学

における mtshan mtshon gzhi gsumをめぐる議論について」『日本西蔵学会会報』

49,2003,p.16参照。

(26)天野宏英氏は添性について以下のようにコメントしている。

なぜ上述の如き概念と機能をもつ ati ayaなるものを想定しなければならな

かったかーについて、上来の考察から推測しうる一つの理由は次の如くで

ある。即ち、法称の実在観によれば、実在は特殊(vi e a)のみから成って、

全く他との共通点をもたず、しかも有効作用をなすもの(arthakriy -k ritva)

として一定の果を生ずる効力を有するもの(kary -kriy -k ritva)である。こ

のような実在観によれば、多数の実在が集合し協力して一つの果を造るとい

うこと(多因一果説)は不可能であろう。しかし経験的には(yath dar anam)、

このことは認められている。とすれば、この事実を如何に説明するかという

ことが問題となってくる。ここに、ati ayaなるものが想定・依用されるに至っ

た理由の一つがあるのではないであろうか。(天野宏英「ati ayaについて」『池

田未利博士古稀記念東洋学論集』昭和 55年、p.56)。

(27)筆者が言いたいことは、ダルマキールティ解釈に『倶舎論』は欠かせないとい

うことである。前掲注(24)の金子論文のような『量評釈』「知覚」章第 3偈

の考察も、『倶舎論』を視野に入れるとより明確になるのではないか、と考え

ている。

(28)前掲注(14)の吉水論文はその偈そのものの考察である。また、同氏の「ゲル

ク派による経量部学説理解(2)普遍実在論」『仏教文化研究論集』4,2000,pp21-

23に同偈が言及されている。

(29)ここで、筆者は gsal ba(vykti)を「可視的なもの」bh vaを「集合体」と訳し

ているが、常識的な訳語ではない。吉水千鶴子氏は gsal baに「個別の存在」

という訳を与えている。(前掲注(25)の吉水論文、p.4)また、福田洋一氏は

「自らの具体例」と訳す。(前掲注(15)の福田論文、p.25)ドレイフェス氏は、individualsと訳す。(前掲注(8)のドレイフェス本、p.197,l.39)、また、前掲注

(1)のドレイフェス論文 p.31の注(10)には、gsal baに対するコメントがある。

さらに、新井一光「後期唯識思想史の一断面」『インド論理学研究 I 松本史

朗教授還暦記念号』平成 22年、特に、pp.164-169には、vyaktiが精密に論じら

れている。新井氏は「現れ」と訳す。

(30)前掲注(9)のドレイフェス本、p.197,ll.40-42, 原文は p.509の注(39)に提示さ

- 231 -

いわゆる moderate relismについて(木村) (73)

れている。

(31)前掲注(14)の吉水論文 p.924の注(9)、〔 〕内は筆者の補い。なお Chizuko

Yoshimizu,D ya and Vikalpya or Snang ba and bTags pa associated in a Conceptual

Cognition,Dharmakirti's Thought and its Impact on Indian and Tibetan Philosophy

Proceeding of the 3rd International Dharmak rti Conference, Hiroshima 1997 ed.by S

Katsura,1999,pp.463-464の注 19にも詳しく論じられている。

(32)前掲注(14)の吉水論文、p.928。

(33)前掲注(14)の吉水論文、p.928。

(34)E.Steinkellner,Wirklichkeit und Begriff bei Dharmak rti Winer Zeitchrift für Kunde

Südasiens(WZKS)15,1971 

,-do-On the Interpretation of Svabh vahetu,WZKS.18,1974参照。

(35)桂紹隆「ダルマキールティ論理学における術語 svabh vaについて」『仏教とジャ

イナ教』2005.p.526。

(36)Th.Stcherbatsky,The Central Conception of Buddhism and the Meaning of the Word

”Dharma” 1923,p.4,ll.26-29金岡秀友氏の訳本『小乗仏教概論』、昭和 38年、p.12

参照。また、櫻部建氏は、同じ文言を引用し、「よく注意して、この “実在 ”

ということばを用いなければならないと思う」(櫻部健『仏教の思想 2 存在の

分析〈アビダルマ〉』昭和 44年、p.46)と述べて、注意を喚起している。なお、

同じような問題意識が、前掲注(20)のシャストリ本でも論じられている。シャ

ストリ氏は、idealismと realismに完全に一致するサンスクリット語はない、と

述べ、強いてあげれば、vijñ na-v daと b hy rtha-v daであるとしている(p.46)。

また、「sarv sti-v da(説一切有部)という語は、仏教サイドにおいてすら、普

通の意味では realismを意味しない」(p.46,ll31-33)などとも述べている。シャ

ストリ氏の提言は pp.46-48で確認出来る。重要と思われるが、ここでは、簡単

な紹介だけしておきたい。

(37)3種の訳語については、拙稿「倶舎論における svabh vaについて」『駒沢短期

大学仏教論集』8,2002,pp.1-18,「中論における svabh vaについて」『同』9,2003.pp.39-75,「ツォンカパの自相説について」『同』10,2004,pp.1-14,「唯識文献にお

ける三性と三相について」『同』11,2005,pp.1-126,「ツォンカパと祈り」日本仏

教学会編『仏教における祈りの問題』2005,pp169-189参照。筆者は、「ダルマキー

ルティの svabh vaについて」『駒沢大学仏教学部論集』40, 平成 21年、pp.404-

392において、1度、訳語の適用を試みたが、その時はまだ考察不足であった

- 230 -

いわゆる moderate relismについて(木村)(74)

ことを素直に認めたい。チベット語訳の適用と『倶舎論』との関連を重要視する、ということは、その時点でも認識していたつもりだったが、svabh vaに対

する的外れの現代語訳を与えたり、部分と全体の問題が『倶舎論』から『量評

釈』までも貫通するものであることは、充分理解していなかった。以下で、示

すように、svabh va(rang bzhin)は、すべて「素材」と考えるべきであると、

今は思っている。svabh vapratibandhaという大変問題視されている術語も「素

材(svabh va)〔に形成される集合体(bh va)から〕反対〔に素材が推理される〕

関係」と捉えている。なお、極最近、その術語を歴史的・批判的に論じたもの

に、金沢篤「svabh vapratibandhaを読むーインド論理学・仏教論理学研究史の

一滴―」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成 22年、pp.59-99

がある。金沢論文 p.81では、筆者が svabh vapratibandhaに与えた訳語「svabh va

結合」に対する批判を示している。これは、全く金沢氏の批判通りで、pratiの

語感を無視した非論理的な訳語であった。なお、今西順吉「因中有果の論証

法」『印度学仏教学研究』17-1, 昭和 43年、p.505では、注 21の原文からすると、pratibandhaに「反対」という訳を与えている。

(38)ウユクパの『量評釈』注についての最初の言及は、シチェルバツキーであろう。Th.Stcherbatsky,Buddhist Logic,vol.1,1962(rep.of 1930)p.56。「この作品はチベッ

ト人に非常に高い評価を得た」とある。ツォンカパも強い影響を受けたようで

ある。そのことについては、拙稿「ツォンカパと『量評釈』「量成就」章 k,222ab

について」『駒沢大学仏教学部研究紀要』48, 平成2年、pp.127-123参照。石濱

祐美子・福田洋一『聖ツォンカパ伝』2008年、p .54も参照。なお、前掲注1)

のドレイフェス論文 pp.39-40には「ウユクパは普遍の実在論的見解を取ったと

して有名である」と述べられていて、サキャ派における彼の特異なダルマキー

ルティ解釈が論じられている。

(39)前掲注(19)の宮元論文 p.594では 「 rambhav daには「新造(?)説」という

たぐいの訳語を与えるべきである。」 とある。説得力ある訳語なので、それに

従った。sa gh ta-v daを「〔素材〕形成論」としたのは、筆者の思い付きである。

ちなみに、シチェルバツキーは、sa gh ta-v daを pluralismと訳す。前掲注(36)

のシチェルバツキー本、p.67.ll.17-18, 金岡訳本、p.147。いずれにしろ、筆者は

この辺のインド思想に暗いので、さらに検討を重ねたい。また、素材たる原子(=

極微)が認識される場合には、説一切有部(Sarv stiv din)と経量部(Sautr ntika)

という仏教内部の見解の相違も重要である。加藤純章『経量部の研究』平成元

- 229 -

いわゆる moderate relismについて(木村) (75)

年 p.177では「有部では一極微を実有なる法(dharma)とするのではない。例

えば「青色」という色法は、多くの極微から成り、他の「赤色」などと区別さ

れ得る単体をいうのである。これを眼識がそのまま認識するのである。これに

対し上座〈=経量部〉は、構成要素であるいちいちの極微のみを実有とするか

ら、認識の場においてこれをまとめあげて「青色」にする力を眼識に与えざる

を得ない。」(〈 〉 内筆者の補い。)と述べている。これ等も、ダルマキールティ

の普遍論を考える上で、極めて大切な発言であると思う。筆者は、ここでの対

立を止揚する形で、素材形成論が編み出された、と考えている。注(20)の山

上本は、このような議論が広範囲な見解を背景にしているとしてこう述べてい

る。「つまり、ニヤーヤがヴァイシェーシカより継承した実在論の骨幹として

全体説を組織化するにあたっては、同じ問題にふれて仏教側の諸潮流すべてと

の対論を経なければならなかったわけである。」(p.400)

(40)rdzas=dravyaも素材と訳した。Monier-Williams の Sanskrt-English Dictionary

の dravyaの項には 「the ingrediants or materials of anything」 とある。また、佐々

木現順氏は、「dravyaとは一体如何なる概念であろうか。それは dru(流れる)

を語源としたもので、 液・素材を意味する dravyaとなる。」(佐々木現順『仏

教における時間論の研究』、昭和 49年、p.121)と述べている。通常「実」など

と訳すがこの訳語には種々な問題がある。特に『倶舎論』を視野に入れた場合、

問題は広がる。有意義な指摘を紹介しておきたい。佐古年穂「『倶舎論』にお

ける dravyaについて」『江島恵教博士追悼論集 空と実在』2001,pp.37-50では、dravyaに関して、以下のように述べている。

このように、説一切有部は、dravyaを「独自のあり方をするもの」とみなし、

「存在要素(dharma)」という語では十分に示すことのできない個別性を強調

する場合にこの語を用いているのである。それに対して経量部 /世親は、「実

体性」を強調して批判を加えている。ここに両者の大きなズレが生じている

ものと考えられる(p.47)。

なお、筆者は、本文で提示したヴァーチャスパティミシュラの文中では、

dravyaを「確かなもの」と訳している。また、rdzas(dravya)については、現

銀谷史明「毘婆沙部(bye brag smra ba)における存在の分類」『日本西蔵学会会報』

47,2002,pp.3-17でも問題視され、次のような貴重な報告がなされている。

毘婆沙部の存在論についてのゲルク派の見解には、rdzas yodは rdzas su yod

paの単なる省略形なのではなく、指示対象を異にする概念であるという認識

- 228 -

いわゆる moderate relismについて(木村)(76)

があったわけである。(p.14)

同氏は rdzas yodを「実体存在」rdzas su yod paを「実体として存在するもの」

と訳す(p.14)が、筆者は、佐古氏のいうように「実体性」を意味する訳語では、dravyaの理解は不十分である、と考えている。しかし、インド哲学で一般的に

使用される場合、そして説一切有部で使用される場合などの違いを認識した上

で、dravyaは論じられなければならない。それには、筆者はあまりにも、知識

不足である。dravyaについては、今後、考察することを約して、今はこれ以上

論じない。

(41)本テキストは、四津谷孝道氏のご好意により、披見することが出来た。記し

て、謝意を表明します。また、チベットの『量評釈』研究において、主な注釈

書の内容科段を示した勝れた業績があることも、付け加えておきたい。Yoichi

Fukuda & Yumiko Isihama,A comparative Tables of sa-bcad of the Pram av rttika

found in Tibetan Commentaries of the Pram av rttika,Toyo Bunko,1986。

(42)前掲注(27)でも触れたが、今後の『量評釈』の研究は、『倶舎論』等のアビ

ダルマ文献を視野に入れなければ、成立しないように思う。そのような認識は、

筆者自身、極最近持ち始めたものである。その点を鋭く指摘した見解に秋本勝

氏のものがあるので、以下に紹介しておきたい。

おそらくダルマキールティの存在の定義はヴァスバンドゥ、サンガバドラ、

スティラマティに至る三世実有の議論の展開過程のなかで生まれたものであ

ると筆者は考えたい。(「仏教における存在の定義」『櫻部健博士喜寿記念論

集 初期仏教からアビダルマへ』、2002,pp.33-34)

また、船山徹氏は「仏教理論の基盤というべき説一切有部の教説」と述べている。

(船山徹「カマラシーラの直接知覚論における「意による認識」(m nasa)」『哲

学研究』569、平成 12年、p.105)このような理解は研究者の共通認識として

当然のものなのかもしれないが、筆者自身は、恥ずかしながら、今まで、充

分わかっていなかったのである。もっとも、前掲注(20)の戸崎本には「阿

毘達磨の所説と現量の定義「現量除分別」との会通」と題して pp.294-327に

詳しく論じられている。また、梶山雄一『仏教における存在と知識』1983、p.36

には、「このような経量部の刹那滅論はすでに『倶舎論』にもあらわれるが、

これをひきついだ仏教論理学者によって、仏教哲学最大のトピックの一つと

して、時代とともに精密さを加えて、くりかえし論証されることになる。か

くして、経量部の刹那滅論はその背後に三時に恒存する法体を全く予想しな

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いわゆる moderate relism について(木村) (77)

い、徹底したものとなっている。」とあり、『倶舎論』と仏教論理学の近親性

は古くから、自明のことであったのである。それに気付かなかったのは、筆

者の迂闊さを露呈しているだけのことかもしれない。

               2010年 11月 20日 脱稿

補注1)

脱稿後、重要な論文を知り得たので、ここに紹介しておきたい。谷沢淳三氏は、

仏教論理学の実在論的傾向についてこう述べている。「〈知覚〉という根本的な

〈知識を与える手段〉(pram a)においては、〈実在〉を映し出しているという

考え方がはっきり出ているのである。このように、彼らにとっては、日常世界

での真理観は上述のようにプラグマティックなものであるが、実在を鏡や写真

のように映し出す〈知覚〉の方が高い立場での真理を把握すると考えているの

である。」(谷沢淳三「我々は実在を映し出すのか」『江島恵教博士追悼論集 

空と実在』2001,p.237)また、別の論文では、「実は、ダルマキールティにとっ

て〈本性〉とは、何らかの意味で複数の固体に〈共通〉のものが考えられてい

るのだろうか。しかしそうであれば、彼はもはや非実在論者とは言えないこと

になる。実際、ここでのダルマキールティの言明を見ていると、彼が唯名論

者、あるいは概念論者であることは忘れそうである。あるいは、彼の哲学には

実在論的傾向が実はあると言うべきなのかも知れない。」(谷沢淳三「アポーハ

論は何を説いているのか」『人文科学論集〈人間情報学科編〉』(信州大学人文

学部)32, 平成 10年、p.13)他に、筆者が披見し得た同氏の関係論文には、「ダ

ルマキールティに見る仏教論理学派の知覚論の直接実在論的傾向」『インド仏

教仏教学研究』9,2002,pp.17-28、’Perception in Indian Philosophy-Is Nirvikalpakam

Pratyak am Possible?’『南アジア研究』7,1995,pp.1-13がある。谷沢氏は、仏教論

理学に対する通念を鋭く批判している。高々、100年余りの仏教論理学研究に

おいて、すでに通念の瀰漫があることは驚きである。なお、谷沢氏の論文収集

に当たっては、池田道弘氏のご協力を得ました。ここに記して謝意を表明いた

します。        

 2010年 11月 25日

補注2)さらに、大事な研究の見落としがあったので、追加したい。大田心海氏

は「仏教側では、これらのインドの正統派の普遍論を総括して普遍実在

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いわゆる moderate relismについて(木村)(78)

論 vastus manyav daあるいは語義肯定論 vidhi abd rthav daと呼ぶ」(大田

心海「ダルマキールティ(法称)著『正しい認識に関する評釈―自己推論

章』および自註・和訳(一)第 95偈~第 106偈」『佐賀龍谷短期大学紀要』

31,1985,p.176と述べる。太田氏は出典を記していないが、筆者は普遍実在

論に相当するサンスクリット原語を氏によって、始めて確認出来た。大田

氏には、一連のダルマキールティ『量評釈』第1章の英訳・和訳がある。

                      2010年 11月 26日

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