四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌...

14
稿 " 西 稿

Upload: others

Post on 25-Aug-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

教長の和歌

の世界

はじめに

教長と俊成

の貫之受容

教長と俊成

の業平受容

教長と俊成

「あはれ」観

晩年

の生と死

おわりに

〔抄録〕

藤原教長は平安末期の動乱期を生きた歌人であり、私家集

『貧

道集』を残している。その和歌の詠風に盛りこまれた世界を通じ

て、教長にと

っての和歌はいかなるものであ

ったのかをみていく

のが本稿の目的である。その方法として、やはり同時代を生きた

藤原俊成

の庶機する詠風をみ、貫之、業平の受容

の相違、「あは

れ」観を通じ、比較することにより俊成とは対極的に位置するで

あろう教長の和歌の世界が浮かびあがってくる。人生の悲嘆をぼ

かすことなくリアリズム的な手法で謳いあげる時、教長の和歌は

他の追随を許さない迫力と存在感があるといえよう。

キーワード

"教長、貧道集、俊成 西

教長は平安末期

の動乱期に崇徳院の近臣として生きた歌人であり、

『貧道集』という歌集を残している。保元

の乱に巻きこまれ劇的な人

生を生きた教長はどのような和歌を詠んでいるのか、それは同時代を

生きた他の専門歌人とはまた自ずから詠風が、庶機する和歌の世界が

異なるはずである。そこで本稿では教長の和歌の特性を浮かびあがら

二三

Page 2: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要

第二十五号

(一九九七年三月)

せるために、専門歌人として生きた俊成との比較を試み、さらにその

上で、深く教長の和歌と人生の関係をみてみたい。

教長

と俊

の貫之

受容

教長と俊成はともに

『古今集』を尊重し、その中でも貫之をそれぞ

れ、『古今集註』『古来風体抄』でとりあげている。以下、二人は貫之

のどの歌を評価しているのかをあげる。

教長は治承元年

(=

七七)六十九歳

の九月十二日から二十四日ま

で、守覚法親王に

『古今集』の講釈をした。その聞書が

『古今集註』

として残

っている。本来全講であるが、現存する京都大学所蔵の孤本

 

 

 

には

の全

い。

、現

る教

『古

て、

の和

に対

る考

一端

の中

でも

の歌

庶機

いた

。次

に具

にあ

てみ

ゆき

ふり

のめ

の雪

(春

・九

)

ハル

ハ、

ハル

コト

ヲ、

メト

ハル

・リ

テ、

ヲ、

ハナ

テ、

ハナ

・キ

ハナ

ル、

ハジ

ハリ

ヘリ

ノ本

フベ

ヲホ

タ、

ユキ

ノウ

アリ

テ、

ハナ

・キ

ニト

二四

テ、

ハナ

メリ

コレ

ニア

ラズ

④蔀

ニナ

テ、⑤

ソラ

ニシ

ユキ

ミ、

◎ヤ

マト

ハア

ロモ

シカ

コト

・ク

リ。

の④

「さ

のな

ごり

は水

に浪

たち

(古

・89)、

「桜

る木

た風

で空

(貫

・跚)、

「しき

ぬ唐

ろも

へず

てあ

(古

・㌫)

こと

であ

る。

つせ

にま

の家

で、

へて

のち

いた

れば

の家

のあ

かく

さだ

にな

やど

いひ

いだ

て侍

れば

にた

るむ

の花

てよ

いさ

ふる

のか

にほ

(春

・42)

コノ

ハ、

ミナ

コト

バレ

テ、

ロモ

エズ

コト

ニカ

クサ

ニナ

ンヤ

ル、

エル

クキ

テ、

ハズ

アリ

ヒタ

ヲ、

ルナ

コト

ニシ

ベキ

コト

ニナ

に月

の見

ふた

つな

Page 3: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

のは

いつ

(雑

・跚

)

マノ

ニ、

ツキ

ハイ

ニ、

ヨリ

モイ

ハ、

フタ

ツ月

ルカ

ヘルナ

。文

のナ

の歌

の註

で教

「ハジ

ハリ

ヘリ

ノ本

シ。

ヲホ

ユキ

ノウ

アリ

テ…

ニヨ

リ。

コト

・ク

リ」

「コノ

ハ、

ニア

バレ

テ、

レタ

ルト

モミ

エズ

コト

ニカ

ニナ

ンヤ

ハア

ル」

「文

って

いる。

  

 

また

『古今集』の躅番のよみ人しらずの註においても

ノ、

コド

モイ

ヘル

ニ、

コト

ヨク

、心

モア

マリ

アレバコソヨケレスエノヨノウタヨミ、サモナクシテ

と、やはり

「コトバモツヨク」と述べている。

公任は

『前十五番歌合』において、貫之の代表的秀歌として、先に

①の教長の註で述べている例歌の

一つである⑧と同じ歌の

「さくら散

る木

のした風は寒からで空

にしら

れぬ雪ぞふりける」

(一番の左)を

あげている。このことは清輔の歌論書である

『袋草子』にも

「貫之桜

散歌、古今集并後撰

一、而四条大納言為二貫之第

一秀歌

一」と言

ってい

 

 

る。清輔は教長と共に俊成の

『正治奏状』で

「教長と申候し者。私の

打聴に捨遺古今と名づけて、集撰たる事候き。其時清輔。彼につぎた

る者にて、かたはらにそひ候て、もろともに仕

て候し。誠にみ苦しき

事にて候き」と厳しく批判されている六条家の専門歌人である。また

教長の和歌の世界

(西村)

顕昭も

『顕昭古今集註』七四七番

(月やあらぬ……)において

「貫之

が歌などのやうにたしかに」と述べている。定家の

『近代秀歌』では

「貫之、歌の心たくみに、たけ及びがたく、ことば強く姿おもしろき

様を好みて、余情妖艶の体を詠まず」と述べている。

以下みてきた中で教長の貫之評価

のその根本は公任の貫之評価と呼

応していることが和歌史的にうかがえる。教長は貫之の歌を

「文章ノ

ナラヒカクノゴトシ」「心

ミナコトバニアラバレテ、カクレタルト

ロモミエズ」「タシカニョメリ」「ハジメヲハリカケアエリ。ウタノ本

トイフベシ」という所を最も評価し、教長の庶機する和歌観がうかが

える。

さて、次に俊成は貫之の歌をどのように受けとめていたかを

『古来

風体抄』の中よりあげてみる。

しがの山越にて石井のもとにて物

いひける人に別れける時よめ

むすぶ手のしつくににごる山の井

あかでも人に別れぬるかな

(古今

・離別

・姻)

此歌むすぶてのとおけるより、しつくににごる山の井といひて、あ

かでもなどいへる、大かたすべて言葉ことのつ"き、すがた心かぎ

りなく侍るべし。歌の本体はた"此歌なるべし。

「歌

の本体はた"此歌なるべし」と言

いき

っている。俊成はまた

『民部卿家歌合』『慈鎮和尚自歌合』で次のように述べている。

歌は必ずしもをかしきよしをいひ、事のことわりをいひ切らむとせ

ざれども、ただよみあげたるにも、うち詠じたるにも、余情あり

二五

Page 4: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要

第二十五号

(一九九七年三月)

て、景気うかび、なにとなく優

にも艶にもあはれにもをかしくもき

こゆることのあるべし

また、『六百番歌合』における判詞

で俊成は次

のように述べている。

小萱原吹き来る秋の夕風に

心みだれと鶉鳴くなり

(鶉

・二十番)

あまり慥かになりてかやうによむべしとならば歌道そんじ侍りなん

や。ただあはれなどこそいはめ

ありし夜の袖のうつり香消え果

てて

又逢ふまでのかたみだになく

(稀恋

・一〇番)

逢ふまでかたみだになしといひはてたるぞ

憂きといへるよりも無念にみゆ

俊成は

「あまり慥かにかやうによむべしとならば歌道そんじ侍らん

や」「いひはてたるぞ……無念にみゆ」「ただあはれなどこそいはめ」

と言

っている。これは先にみた教長の庶機する和歌の理念である

「心

ミナコトバ

ニアラバレテ、カクレタルトコロモミエズ」「タシカニヨ

メリ」と対極にあるといえるであ

ろう。

教長

と俊

の業

平受容

『貧道集』の歌の中に明らかに

『古今集』

の業平の歌をふまえてい

る次の和歌がある。

ことにあたりてあづまのかたにまかりけるに、おほいなるかは

二六

のほとりにゆきてひもくれがたに、わたしもりはやわたらなむ

といそがせば、

いとものがなしくてふねにのらんとするに、こ

のかはをばなにとかなつくるととふに、これなむすみだがはと

いふは、むかし在中将のいざこととはむみやこどりとよみけむ

を思ひいでられて、きしかたゆくすゑものあはれなることかぎ

りなくてよめる

①すみだがはいまもながれはありながら

またみやごとりあとだにもなし

(貧

・雑

・躅)

の歌は

『伊勢物語』第九段をふまえている

くに

ふさ

おほ

武蔵

の國と下つ總との中に、

いと大きなる河あり。それをすみだ河

といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなくとをくも

来にけるかなとわびあ

へるに、渡守

「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」

といふに、乗りて渡らんとするに、皆人物わびしくて、京に思ふ人

はし

しぎ

なきにしもあらず。さるおりしも、白き鳥

の嘴と脚と赤き鴫の大き

いを

さなる、水のう

へに遊びつ・魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆

人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん宮

こどり」と

いふを

・て、

名にし負はばいざ事とはむ宮こ鳥

わが思ふ人はありやなしやと

(古今

・羇旅

・姐)

右の教長と業平の詞書と歌は共にその状況

の様が酷似している。保元

の乱で崇徳院にくみした教長は広隆寺

のあたりで敵につかまり、出家

し、観蓮と号する。そして上皇方

の有力な人物として常陸に遠流され

る。

=

五六年、八月三日、教長四十八歳

の時である。人生

の最大

Page 5: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

失意の時、教長は心の中を絶唱す

るかのように、業平の歌と呼応して

詠んでいる。歌物語である

『伊勢物語』の手法が、あまりに深い感慨

を受け、それを表現する時に、教長にと

って最適であ

ったと想像でき

る。以下、『貧道集』より、常陸

に流されたその一連

の和歌をあげて

みる。

とほきくにへつかはされる時、ひとの許

へ云遺はせる

②おちたぎ

つみつのあわとはながるれど

うきにきえせぬみを

いかにせん

(貧

・雑

・謝)

おなじみちにてのりかへにかげなる馬の侍りし、たつね侍りし

かばあしをやみてさがりたると申し侍りしかば

③日のひかりてらしすてたるうき

みには

かげさへそはずなりにけるかな

(貧

・雑

・躅)

かくてひたちの国までによそかあまりにまかりいたりぬ、いた

らんずるところはしたのうきしまとなんまうす、うみのほとり

にふねにのりける時よめる

④ひを

へてもすぎしみやこのつづきぞと

おもふきしべをけふぞはなるる

(貧

・雑

・跏)

ひたちにまかりて侍りしおり、京に侍りける人のもと

⑤われながらしらですぎけりいかでかく

うきにたえたるみとはなりけれ

(貧

・雑

・跚)

教長の和歌の世界

(西村)

①から⑤までの和歌と詞書から教長

の呻吟が聞こえ

てくるようであ

る。特に詞書におけるその時の状況説明が効果的である。自身

の状況

と心情とをあますところなく写実的に表現するために、具体的に自身

の置かれた状況を

「タシカニ」表現しているところに、切迫してくる

真実味があり、読む者の心を打

つ。かくして教長は七年間を常陸で送

る。そして応保二年、三月七日、教長五十四歳

の時、赦免され、召

還。その後しばらく在京する。・ところが長寛二年、教長五十六歳

時、崇徳院が松山にて崩御し、ほどなく教長は高野山に登り、隠遁す

る。その頃に詠まれた歌が以下あげる三首である。

京やすみうかりけん、ゐなかなるやまでら

へまかるみちにしつ

のかきねなるむめのかうばしければよめる

いなしきもかきねのむめのかをるかは

はなのみやこにかはらざりけり

(貧

・春

・77)

京やすみうかりけむ、ゐなかなる山でらにまかりて、みやこを

思ひいでて人の許につかはしける

⑦すみなれしおもひのいへをあくがれて

さらぬわかれのかどでをぞする

(貧

・雑

・鰯)

修業に出で侍るとてともの許へ云ひつかはしける

⑧のちにとはんことはいのちとききしかど

のこりすくなきみをいかにせん

(貧

・雑

・脳)

二七

Page 6: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要

・第二十五号

(一九九七年三月)

⑥⑦⑧の詞書は

『伊勢物語』の八段の

「京や住み憂かりけん、あづ

の方に行きて住み所もとむと」

や、九段

「身をえうなき物に思

(ひ)なして、京

にはあらじ、あづまの方に住むべき國、求めにとて

行きけり」や、十

一段の

「あづま

へ行きけるに、友だちどもに、みち

より

いひおこせける」や、五十九段の

「京を

いか"思ひけん、東山に

住まむと思ひ入りて」等と呼応す

る。先の①から⑤までと同じく教長

は京を離れ田舎の山寺にこもる決意をし、京を去る時、そのあり様を

詞書に、自身の心情を

「京やすみうかりけん……」と述べ歌を詠んで

いる。それは

『伊勢物語』に多分

に傾斜して叙述している教長の手法

がうかがえる。

次に、俊成はどうであろうか。『古来風体抄』に業平の朝臣の歌と

して日

やあらぬ春やむかしの春ならぬ

我身ひと

つはもとの身にして

(古今

・褂)

月やあらぬと

いひ、春やむかしのなど

つ"ける程のかぎりなくめで

たき也。

と述べている。この歌は

『伊勢物語』の第四段にみえる。

ひんがし

おほきさい

たい

むかし、

の五條に

大后

の宮おはしましける。西の對に住む人

(り)けり。それを本意にはあらで心ざしふか

・りける人、行き

とぶらひけるを、む月の十日ば

かり

のほどに、ほかにかくれにけ

り。ありど

ころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりけれ

もつ

しと

・な

んあ

る。

の年

のむ

に、

の花

かりに、去年を戀ひて行きて、立ちて見、ゐて見れど、去年に似る

べくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふ

せりて、去年を思

(ひ)

いでてよめる。

月やあらぬ春や昔

の春ならぬ

わが身ひとつはもとの身にして

かへ

て、

のほ

のぐ

に、

にけ

右の業平の歌は

『古今集』

の序に

「在原業平は、その心あまりて言葉

たらず」として説明されている。恋歌の余情のたちのぼる

一首

であ

る。俊成はまた、自讃歌中の自讃歌として次の

一首を自身の代表歌と

してあげている。

百首歌たてまつりける時、秋のうたとてよめる

夕されば野辺のあきかぜ身にしみて

うづら鳴くなりふか草のさと

(千載

・秋

・跚)

俊成が

『慈鎮和尚自歌合』で

「伊勢物語に深草の女の鶉となりてい

へることをはじめてよみ侍りし」と述べているごとく、百二十三段

以下のくだりがみえる。

むかし、をとこありけり。深草にすみける女を、やうく

あきがた

(ひ)

・る歌

みけ

へて住

し里

いな

いと

"深草

野と

やな

うづら

野とならば鶉

となりて鳴きをらん

かりにだにやは君は来ざらむ

Page 7: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。

「野とならば……」の歌は今は通

って来なくな

った人を恋

い続けるあ

われで寂しい、しかも艶なる女の情趣を詠んでいる。俊成はその歌を

本歌として

「夕されば……」

の歌を詠みこんでいるのである。先

「月やあらぬ……」といい、俊成

『伊勢物語』受容は恋歌の情趣に

あふれたものをその根底にすえている。

先にみた、教長の

『伊勢物語』受容は、俊成と異なり、恋歌的な様

相はみられない。教長は自身の危機的状況にある立場や心情を述べる

時、『伊勢物語』の描写方法なり内容を大

いに参考

にしている。同じ

業平を評価する時の視点は教長と俊成において、その対極にあるとみ

てよかろう。

長と

俊成

「あ

はれ

」観

これまで、教長と俊成における貫之と業平の受容態度を比較するな

かで、それぞれの求める歌風がかなり異なる、むしろ対極的にあるこ

とをみてきた。それではその二人は、「あはれ」をどのよう

に、何に

もののあはれを感じているかに視点をあて、両者の違

いを明らかにし

てみたい。

『貧道集』に次

の二首がある。

山寺にてむつき

のついたち

によめる

はるくればはなにこころを

つげ

しかど、

いまははちす

のむかへそま

(貧

・春

・悦)

教長の和歌の世界

(西村)

おなじ日のあかつきにきつねのなくをききてよめる

きく人のさかゆといへばよをさむみ

なくなるき

つをあはれとそきく

(貧

・春

・憫)

二首を合わせて考えると、教長がどういう状況のおりに、きつねの

なくのを

「あはれ」と感じていたのかがうかがえる。今ははちすのむ

かえを待

つばかりの老齢の深くおりた

った

一月

一日のあかつきに聞こ

えたき

つねの声、その寒

い朝に教長の胸に響くのは、正月を迎えて花

に心を向ける例年の新春の嬉しさではなく、どこか自身の姿と重な

てみえる寒

い野にいるき

つねの声である。そのきつねのなくのを

「あ

はれ」と聞

いている。

それでは他にき

つねを歌材として詠んだものにどういう歌があるか

以下あげてみる。

つね

①さしなべにゆわかせこども

いちひつの

ひばしよりこむき

つにあむさん

(万葉

・燭、末木

・㎜)

きつね川、未国

文応元年七社百首

四石清水

民部卿為家

②とにかくに人の心

のき

つねがは

かげあらはれん時をこそまて

野干

百首御歌、獣

土御門院御歌

二九

Page 8: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要

第二十五号

(一九九七年三月)

③き

つねだにかげをうかがふ山河

氷の上をふみてのみ行く

(夫木

・㎜)

百首歌、獣五首中

藤原為顕

④華を見る道のほとりのふるぎ

つね

かりのいうにや人まよふらん

(夫木

・説)

六帖題、新六一

信実朝

⑤人も見ばあなしらじらしおいぎ

つね

いとどもひるのまじらひなせそ

(夫木

・窺)

十題百首御歌

後京極摂政

⑥ふるさとの軒

のひはだは草あれて

あはれき

つねのふし所かな

(夫木

・跚)

寂蓮法師

⑦相坂

の夕

つけどりをもとむとや

つかをはなれてき

つねなくなり

(夫木

・跚)

前中納言定家卿

つかふるきき

つねのかれる色よりも

ふるきまどひにそむる心よ

(夫木

・鵬)

また

『伊勢物語』第十四段に

⑨夜も明けばき

つにはめなでくたかけの

三〇

まだきに鳴きてせなをやり

つる

以上十首である。①と⑨はき

つねに湯をかけようとしたり、水槽

ぶちこんでやろうと、むしろ危害を加えようとする対象とな

ってい

る。②③④⑤は現代

のき

つね観に似、人をだます狡猾なき

つね

のイ

メージが浮かびあがるような歌である。⑥⑦はそれまでの歌と印象が

異なる。ふるさとの草荒れた様子を描写するために素材としてきつね

を詠みこんだり、夕

つけ鳥を求めて鳴くきくねの姿を詠み、これまで

のように揶揄の気持ちは全くな

い。

以上、①から⑦ま

での歌と教長

の歌とを比較してみる時、教長

「きく人のさかゆといへばよをさむみなくなるき

つをあはれとそきく」

は同じき

つねを素材にしつつも、その描こうとする情趣は他に追随を

許さぬほど深

い。

また教長が

「もののあはれなることかぎりなく」と詞書で述べてい

る箇所がある。

ことにあたりてあづまのかたにまかりけるに、おほいなるかはのほ

とりにゆきてひもくれがたに、わたしもりはやわたらなむといそが

せば、いとものがなしくてふねにのらんとするに、このかはをばな

にとかなつくるととふに、これなむすみだがはといふは、むかし在

中将のいざこととはむみやこどりとよみけむを思ひいでられて、き

しかたゆくすゑものあはれなることかぎりなくてよめる

(貧

・跏の

詞書)

右の文章は先の教長の業平受容のところで、この詞書

の背景、つまり

教長の状況を述べたように、保元

の乱の後、常陸に流されていく途

Page 9: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

上、隅田川を渡る時に詠んだものである。この先見知らぬ東

の土地で

暮らさねばならない悲嘆の極みの中、今後どうなるかわからない我が

人生、またこうやって流されてゆくことにな

ったいきさつを思

い起こ

すに

つけ、あはれなること限りな

く身に迫る。深

い嘆きの吐露であ

る。以

上、二首の歌を通して言えることは、教長が

「あはれ」を歌に詠

む、その動機は、自身の心の底を見すえる時、悲哀とともに我が人生

をふり返り返る姿であるといえようか。また素材としてきつねを詠み

こんでいる歌もあり、教長の特異性がうかがえる。

さて、次に俊成をみてみると、

『長秋詠草』に次の歌がある

左大将の家に会すとて歌くはふべきよしありて

恋せずは人は心もなからまし

物のあはれもこれよりそしる

(恋

・糊)

俊成は、恋する心こそが物のあはれを知ると言いき

っている。俊成の

「物のあはれ」観が如実にうかがえる

一首であり、このことはまた、

先に貫之、業平の頃でとりあげた俊成の庶機する和歌観の根底に流れ

る考えと呼応している。俊成が

『古来風体抄』でとりあげた貫之

「むすぶ手の……」、また業平の

「月やあらぬ……」の二首は共に恋の

情趣が俊成

いうところの

「ただよみあげたるにも、うち詠じたるにも

余情ありて、景気うかび、なにとなく優にも艶にもあはれにもをかし

くきこゆる」歌であろう。恋する心こそがなにとなく優にも艶なる余

情をたちのぼらせてゆく契機とな

る。俊成の和歌観の眼目億恋歌にあ

るといえよう。

教長の和歌の世界

(西村)

以上、教長と比較するとその両者

の違

いは歴然としていることがわ

かる。

歴史上の人物として、社会

の動乱に巻きこまれ否応なくすさまじい

現実の波を身にかぶり生きねばならなか

った教長は、俊成

いうところ

「なにとなく優にも艶にも」の歌は体質的に詠めなか

ったのではあ

るま

いか。教長の

「あはれ」観は、自己の現実に立脚した求心的なま

なざしの中で

「心ミナコトバニアラバレテ」「タシカ

ニ」詠んでいく

詠風にこそあ

ったと

いえよう。,

晩年

の生と

教長が最晩年に詠んだ歌は、教長の人生の総決算として和歌との関

係を集約して示していると思われる。次にあげる二首はその中でも特

に和歌に対するありようを表白している。

齢及七旬、情迷六義、然而猶携君之風骨、養我之露命、再遇中

興之節、将動下愚之性而己

①としよれるおもてのなみもわすられて

こころはわかのうらにかへりぬ

(貧

・雑

・嬲)

静蓮が許より申しつかはせる

いはててみやまがくれにすむまでも

わかのこころのうせぬかなしさ

へし

ゴニ

Page 10: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要、第二十五号

(一九九七年三月)

②くちはててたにのそこにはむも

るとも

わかきのはなをいかがわすれむ

(貧

・雑

・螂)

教長は治承四年、七十二歳頃に亡くなる。

①の詞に

「齢及七旬」にあるところから、この歌は教長の七十歳頃の

和歌に対する思

いを述べているとみてよい。教長

の心はその最晩年

「和歌の浦」により所を求めており、その姿勢は②

のところで静蓮が

「和歌

の心

の失せぬ悲しさ」と詠

んでいるのとは対称的である。

教長は静蓮との、その贈答歌の返しに

「朽ち果てて谷の底に埋もれよ

うとも和歌の木の花をどうして忘れようそ」と、どんなに老齢が自分

を朽ち果てさせようと和歌の心だけは忘れまい。むしろよりどころと

して積極的に和歌を受容し、最後まで和歌の花を教長の人生に咲かせ

ようとする決意のほどが感じられ

る。

  

 

これは教長の

『古今集註』の四七番の歌の註に

「然則以和哥戯論之

奇語、翻盍爲菩提涅盤之良縁」とあるところから、平安末期

の狂言綺

 

 

語観を教長も持

っていたことがうかがえる。『和漢朗詠集』に

願くは今生世俗

の文字

の業狂言

綺語

の誤りをも

って、飜して當来

はく

世々讃佛乗の因、轉法輪の縁とせむ

とある。教長もまた謡らぐことなく和歌をも

ってして

「菩提涅盤之良

縁」「當来世々讃佛乗

の因轉法輪

の縁とせむ」としたのである。

その教長がどのような歌を詠んでいるか、次にあげてみる。

述懐

③かぞふれば身はななぞぢを

へぬれども

またみどりごのこころなりけり

(貧

・雑

・兜)

三二

東山辺にて無常歌とてよめる

つひに行く道とはよそにききしかど

われにてしりぬき

のふけふとは

(貧

・雑

・讎)

無常不嫌人

⑤よのなかにあるかひあるもかひなきも

いつくはつひにとまるためしは

(貧

・雑

・刪)

ここちそこなひてたのものしげなくおぼえけるにほととぎすの

なくをききて

⑥しでの山われはこゆまじほととぎす

ただここにてを声を

つくしてよ

(貧

・雑

・㎜)

年おいぬれど

いままでまかりかくれぬをなげきて

つゆのみのいままでいかにきえざらん

あけぬくれぬとおきぬふしぬと

(貧

・雑

・脚)

をはりのためにとしめたりけるやまざとのあひたがふことあり

てたちさりけるときよめる

つゆむすぶくさのいほりもあくがれて

おきどころなきみを

いかにせん

(貧

・雑

・鰯)

Page 11: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

へまかりけるに船岡のほとりをすぐるに、たかき

いやしき

かどものひまなきをみて

⑨みな人のはてはよもぎふこけのした

さかえしやどはいつくなるらん

(貧

・雑

・盥)

九月尽をよめる

⑩おいはててはてはやまひにしづみぬる

わがみもあきもかぎりなりけり

(貧

・秋

・謝)

としもおいやまひおもくなりぬればしつかなる山ざとたつねあ

るきてよめる

いまはとてつゆのすみかをたつぬるや

うきをはなるるかどでなるらん

(貧

・雑

・嬲)

としもおいやまひもせはしく北山のほとりにこもりをるころに

人人きたれる、なごりむつかしきことども

のありければよめる

いまはとてたちまじろはぬみやまべも

まさき

のかづら猶ぞくるしき

(貧

・雑

・矚)

やまひおもくて、さすがに

いきばかりはかよひてひさしくなり

にけりをり、もといひなれたることなればかくなんよめりける

いきもせずしにもやられぬも

のゆゑに

なにときえやらぬつゆのいのちぞ

(貧

・雑

・嬲)

教長の和歌の世界

(西村)

かくてみまかりにけりとそ

以上、③から⑬までの歌を続けて読んでみると、ひと

つひと

つの歌が

次から次

へ響き合

い、個々の独立した歌というよりはまるで歌物語の

様相が感じられる。

③は七十歳にな

っても今だ

「みどりごのこころ」を保

っている初々し

い精神性を持

つ教長がそこにいる。だからこそ、①

で詠まれたよう

に、齢が七旬に及んでも和歌の世界に喜びを持

って遊び、和歌の花を

咲かせる水々しい気持ちが止むことなくあふれてくるのであろう。

④は

『伊勢物語』百二十五段の

「わづらひて、心地死ぬべくおぼえけ

れば、

つゐにゆく道とはかねてき

・しかどきのふ今日とは思はざりし

 

を」を本歌としている。ここでもやはり、教長が業平歌を受容する時

は、恋歌でなく、まさに無常を感じさせる死を見つめる歌である。③

でみたようにどんなに

「みどりごの心」を持

っている教長も肉体的に

迫りくる死を諦念を持

って向きあわねばならない年齢にいることを自

覚し、「きのふ、けふ」、

いつ死んでもおかしくない覚悟に近い心情を

詠んでいる。

⑤そしてそれは、どのように充実した生きがいのある人生を経てきた

人もそうでな

い人も誰も

ついにはこの世に生き続けた人のためしはな

いと、さまざまな人生の背後にある死を見

つめている。

⑥は病気になり不安にな

っている時に聞くほととぎすの声。それは死

へと導くように聞

こえてくる。「ただここにてを声を

つくしてよ」

とほととぎすに呼びかける教長のせ

っば

つま

った心の声が、ほととぎ

すのひと鳴きと共に聞こえてくるような歌である。三

Page 12: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

佛教大学大学院紀要

第二十五号

(一九九七年三月)

⑦は⑤⑥

の歌でみたきたように、すでに死を迎える心の諦念が出来て

おり、「き

のふ、けふ」「あけぬくれぬ」「おきぬふしぬ」と、日々

々と死をみつめ、むしろ待

っている姿は④⑤⑥

の死

への心

の準備を

していた段階を

一挙に飛び越え、

しかも

「まかりかくれぬをなげ

て」

いる教長である。

⑧はどこか自身の終生の場所とし

て山里の庵に身をひそめようとした

のであろうか。ところが、そこで人と

「あひたがふことありてたちさ

り」「おきどころなきみを

いかにせん」と、死

の淵に立

っていても、

'

安らいで死ねる場所すら見

つからない嘆きが詠みこまれていて哀切で

ある。

⑨そして、教長のまなざしは船岡山

の、「みな人

のはてはよもぎふこ

けのした」である

「たかき

いやしき

つかどものひまなき」人の最終的

な行き場所である墓に心が向けられる。

⑩九月の終り、教長はまさに

「老

いはてて」「病に沈み」「わがみも秋

も限りなりけり」と、季節の終りと自身の終焉を重ねている。

⑪は

「老

いもやま

いもおもくなり」、「いまはのつゆのすみかをたつ

ね」、「うきをはなれる」場所を求めて山里を歩く教長である。

⑫はその老

いと病

いが⑪では

「おもく」あ

ったのが、この世から追

たてられるかのごとく

いよ

いよ

「せわしく」なる。この辺の描写は写

実的である。

⑬は教長の辞世の歌である。「さすがにいきばかりはかよひてひさし

くなりにけるをり、もと

いひなれたることなれば」と、息もたえだえ

であるなか、自らの命をみ

つめて謳

いあげる教長

の最後

の歌、「いき

三四

もせずしにもやられぬものゆゑになにときえやらぬいのちぞLは、死

との激しいせめぎあいの中で命

の果ての果てまで見極めてゆこうとす

る生と死の境界線上で詠んだ歌であるだけに、教長の臨終の場面が浮

かびあが

ってくる気がする。

以上④から⑬までの歌をみてみると、教長のすさましいまでに自己

の命を見

つめ

つくそうとするリアリズ

ム的な気概が感じられる。老

の行き着き先である病いと死は何者ものがれることは許されない。等

しくこの世との訣別にあた

って向きあわねばならない人生

の実相であ

る。教長はその命の辿り着く風景を詞書をたくみに駆使し、

一刻

一刻

へと旅立

っていく様子を和歌に昇華している。「以和哥戯論之奇語、

翻盍爲菩提涅盤之良縁」をまさに教長は生きき

ったといえるであろ

A Oお

教長は俊成に

『正治奏状』で

「教長も清輔も源氏を見候はず」と評

されている。それは教長の

『貧道集』全体の印象を思うとき、やはり

まぬがれえな

い事実であろう。「よみあげたるにも、うち詠じたるに

も、余情ありて、景気うかび、なにとなく優にも艶にせあはれにもを

かしくもきこゆること……」からは全くかけ離れ、その対極にあると

ころの

「心

ミナコトバニアラバレテ、カクレタルト

コロモミエズ」

「タシカ

ニ」詠んでいる歌が多

い。

それは

一つの、もとよりのその人の歌人としての資質が詠風に反映

Page 13: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教

いく

は誰

って

いえ

の体

に関

る。

はり

一つ言

こと

の歌

の人

よう

の詠

に反

いく

こと

いな

い事

であ

ろう

の人

の乱

って、

っさ

さま

に暗

の心

たく

る時

よも

「何

にも

つこと

った。

『伊

の中

いく

、老

いと

いた場

に教

の臨

いく

より

にく

っき

の心

に、

に活

した

であ

る。

の和

は悲

の叫

らす

に最

の存

のぼ

って

ってく

る。

て表

る手

では

て表

であ

る。

に私

は平

の動

の和

の意義

があ

ると

註(1)

『佛教大学大

学院紀要』第

二十

四号

「藤

原教長論

-

古今和歌集

検証を中心

に」

で発表した論文

に詳しくそ

の辺

のとこ

ろは述

べている

(2)

しほ

の山

さし

での磯

にすむ千鳥

君が

み代

をば

やち

よとそ鳴

(賀

よみ人しらず)

(3)

『正治初度

百首』

の出詠

者と

て後

鳥羽

に定

家を推

薦す

るため

『正治

二年

俊成

卿和字奏状』を著

した。ここで俊成は定家

の推薦

の理由

とし

『源氏物語』

にす

でに堪能

である

ことを強調し

ている。'

(4)ち

ると

みてあ

べきも

のを梅

の花

うた

てにほひ

の袖

にとま

れる

(春

・素性法師)

「コノウ

タ、詞

ツ"ヤ

ニ、心

ヒロキ哥

ナリ。……不空羅

一巻

教長

の和歌

の世界

(西村)

二利益

ノ不

思議

ヲトク

ニ、

タト

エバ人

アリテ麝香

ヲトリ

テ、

ニク

テス

テツレド、

ソノカテ

ニト

マレルガゴ

トク、経

の利益

コレヲ謗ズ

ルヲ

モ縁

トシ

テ、ホ

コサ

ント

・ケリ。

モノ

・香

ノウ

ツル

コト、

ノゴト

シ。梅

ノチ

ルト

バカリ

ミルベキ

ニ、

カクウタ

テソデ

ニト

マレ

ヨメリ。然則

以和哥戯論

之奇語、

翻盍爲菩提

涅盤之良

縁。況乎大

遍之戒香者

一春梅花之

芬芳也。

一色

一香無

非中道

之故、豈此議

哉。

(5)

『栄

・疑』

の藤

原道長

が行

った法

華経

の講

ついて、

「殿ば

ら、

僧達

、経

の中

の心

を歌

に詠

み、文

に作

せ給

ふ……又願

はくは今

生世

俗文

の業、き

やうけ

んき

へよ

の誤

をも

て、か

へし

て当来

々讃

仏乗

の因、転

法論

の縁と

んなど

し給

ふも尊

面白

く」

とあ

る。ま

あら

『梁鹿

秘抄』

の法

文歌に

「狂言綺語

の誤ち

は、佛を讃む

る種

とし

て、麁

き言葉を如何な

るも、第

一義とか

にぞ

るな

る」とあり。

それそこんなんこ

そむ

『沙

石集』序

にも

「夫

語ミナ第

一義

に背

ズ。然

レバ狂言綺語

いら

せんごん

ノアダナ

ルタ

ハブレ

ヲ縁ト

シテ、佛乗

ノ妙

ル道

に入

シメ、世間

浅近

ノ賤

キ事

ヲ譬ト

シテ、勝義

ノ深

キ理

ヲ知

シメント思

フ。」とあ

る。

(6)

『古

今集』

跚番

の詞書

では

「病

て弱

くなり

にける時」と

あり、

『伊

物語』

のわ

づらひ

て、心

地死

ぬべくお

ぼえ

ければ

の方がイ

ンパ

クト

が強

い。

(に

しむ

よう

)

(一九

一〇月

一六

日受

)

三五

Page 14: 四 三 二 一 藤 の て 道 お 晩 教 は 原 が 集 藤 〔抄 わ …...教 長 の 和 歌 の 世 界 は じ め に 一 教 長 と 俊 成 の 貫 之 受 容 二 教