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2019 年度福島視察報告 文責:組合員活動グループ 丹羽 祥太
【1】はじめに 東日本大震災・福島原発事故から 8 年 9 ヶ月が経過しました。
テレビや新聞等のメディアで被災地の現状を伝える頻度が下がり、震災・原発事故の風化が危惧さ
れています。
被災地の福島県では、未だに故郷に帰還できない方や、仮設住宅で暮らしていらっしゃる方が多く、
さらには、住宅が部分破損した方への補償が不足していること、被災者や復興に携わっている方のスト
レス問題など、様々な困難に直面しています。
そうした現状を踏まえて、実際に現地の実情を知り、被災者の想いを肌で感じ、自分事として考えて
いくために、以下の 3 点を主な目的として視察してまいりました。
【2】目的 (1)コープふくしま様の組合員・職員の方々と交流し、被災地を訪ねて、震災当時の様子や現在のコー
プふくしま様の取り組みについてお話をお聞きし、鳥取県生協組合員にその様子を伝え、今後の支
援や暮らしのあり方について考える機会とします。
(2)実際に現地の視察を行なうことにより、原発被害の甚大さをあらためて学ぶと同時
に、今後のエネルギー政策について考える契機とします。
(3)被災地での宿泊、観光、買い物など、「買って支える」という視点での具体的支援につなげます。
【3】概要 (1)日程:12 月 7 日(土)~8 日(日)
(2)参加者
鳥取県生協:大人 4 名、高校生 1 名、事務局 1 名(計 6 名)
コープふくしま様:松崎美智子様(生活文化グループ)、宮澤恵美子様(理事)
(3)その他
今回の福島視察は、「災害復興支援・応援積立」を活用させて頂きました。
※ハローコープの「表紙商品ご利用 1 点につき 1 円支援」を 2018 年 10 月 1 回~2019 年 3 月 3
回の期間(第 2 弾)と 2019 年 4 月 1 回~9 月 4 回の期間に積立。
【4】視察報告 12 月 7 日(土)
(1)富岡町夜ノ森周辺視察 羽田空港からジャンボタクシーで福島県へ向かい、いわき市でコープふくしま様と合流して、富岡
町に向かいました。
行く途中で、除去土壌等を積んだ「中間貯蔵輸送車両」というダンプカーが走っていました。この
放射性廃棄物は、双葉町の施設に運ばれるとのことで、富岡町では 1 日に約 500 台が走るそうです。 道中で、コープふくしま様から放射線測定器をお借りして、富岡町に到着してから車内で測定をし
ました。私は窓側の座席で、0.233 マイクロシーベルトを検出しましたが、通路側の席の方は 0.1 マ
イクロシーベルトと、車内でも窓側と通路側で差が出ることが分かりました。 富岡町に到着してから車窓を眺めていると、住民の方が住んでいる家とそうでない家とが分かり、
住んでいない家の方が多かったです。中には、母屋だけを取り壊して、新居だけを残している家もあ
るそうで、初めて見る光景に「これが震災・原発事故がもたらした被害なのか」と感じました。
夜ノ森周辺では、車内から風景を見ましたが、民家・アパート・学校・車などが震災・原発事故
当時のままの状態で存在し、まるで別世界に来たような印象を受けました。春になると綺麗な桜が
咲く並木通りですが、その先は帰還困難区域でバリケードが設置されており、「かつての人々の生
活が戻る可能性は低い」事を考えると、とても辛い気持ちになりました。
(中間貯蔵輸送車) (放射線測定器) (新居だけを残した家)
(夜ノ森の桜並木)
(廃墟と化した商店・アパート)
(2)富岡町子安橋周辺視察(第二原発を遠くに見る)
夜ノ森の視察後に、福島第二原発を遠くに見ることができる子安橋に向かいました。
橋からは、富岡町の復興に向けての工事が進められている事が確認できました。近くに、富岡漁港
がありますが、津波で被災して新たに改修工事がおこなわれ、今年完了して、7 月に帰港式が行われ
たとのことでした。しかし、漁をおこなう日に制限があること、市場もなくなり、漁獲量も減少して
いる等の問題を抱えており、完全に復興したとは言い難い状況であることを学びました。
遠くには、福島第二原発が確認できます。周辺はかつて住宅地でしたが、全て津波の犠牲となった
そうです。震災、津波、原発事故が襲った事を考えると、住民の方々は絶望せざるを得ない状況だっ
たのであろうと想像しながら視察しました。
東日本大震災の震災遺産として、富岡町の公園に展示されていたパトカーは 2019 年 3 月に撤去さ
れましたが、富岡町が現在建設中(2021 年に完成予定)のアーカイブ施設で展示されるそうです。
パトカーは、写真(子安橋からの富岡町の風景)で確認できる、黄色いショベルカーの辺りで住民の
方を避難誘導中に被災されました。津波が押し寄せて来る中、海から近くの場所で最後まで住民の
方々を守るために活動された警察官のお二人を今後も語り継いでいく必要があると感じました。
(3)富岡駅周辺視察
約 2 年前に完成した富岡駅とその周辺を視察しました。もともと別の場所に存在していました
が、津波で駅舎が流され現在の場所に新たに建設されたとのことでした。
富岡駅はJR常磐線が走っています。震災・原発事故の影響で富岡と浪江の区間が運休していまし
たが、2020 年 3 月頃に再開され全線開通するそうです。
駅周辺は、復興支援住宅やホテルが建設されており、コープふくしまの松崎様も「この辺りは復興が
進んでいる」と仰っていました。ホテルは、復興作業に充たられている方々が宿泊されるそうです。
(子安橋) (子安橋から確認した第二原発)
(富岡漁港) (子安橋からの富岡町の風景)
(4)北崎様との交流
東京電力廃炉資料館のフリースペースで、県外に避難されていて、富岡町に帰還された北崎様と
交流をさせていただきました。
私の、「県外から地元に帰還された方の想い、苦悩などのお話を拝聴したい」との想いから、コー
プふくしま様に調整をしていただき、今回北崎様との交流が実現しました。
北崎様は、地元の自治会⾧をされておられ、様々な取り組みを通して、富岡町を復興させていこう
と尽力されていらっしゃる方です。最初は、埼玉県に避難されていましたが、その後に福島県郡山市
に移られ、復興住宅で生活をされていたそうです。しかし、地元に一時帰宅されていた時に、北崎様
のお父様が「ここに残りたい」と言われた事をきっかけに帰還されました。
北崎様が暮らしていた集落は震災前 38 世帯あったのが、震災後は 5 世帯だけになってしまった
事、6畳 2 間の復興住宅での暮らしについて、富岡町は震災後の2年間で自死が多かった事、避難
されている方と一般の方との間で格差が出てきていることなど、様々なお話を拝聴させていただき
ました。
また、富岡町の人口は震災前には 10500 人でしたが、震災後は約 1100 人になってしまい、その内
5割が地元の方で、残りの5割は「富岡町に住んでみたい方」、「復興作業にあたられている方」等の
県外からの移住者であるというお話を拝聴し、衝撃を受けました。
さらに、「富岡町は、令和3年に帰還困難区域が狭まる予定だが、まだまだ汚染物質は沢山ある」、
「汚染水が入ったタンクの置き場がない。海洋放出の件で大阪が声を挙げていたが、安全なら地元に
流すし、わざわざ大阪へ持って行かない。あれはパフォーマンスでしかない。」と仰っていた事が印
象に残っており、これが実際の現地の声なのだと思いました。
中でも最も印象に残っている事が、「‟安心“という言葉を軽く使わないで欲しい」と仰っていた事
です。政府や行政はよく「安心」という言葉を使うが、実際はまだまだ危険な地域は存在し、避難さ
れておられる方々の不安は払拭できていないと仰っていました。とても響いた言葉で、住宅等の復興
だけではなく、心の復興もまだまだ進んでいないと強く思いました。
〝自分たちの地域は自分たちで守り、
早く多くの避難者さんに帰ってきて欲しい"
という北崎様の想いが強く伝わった交流会でした。
(富岡駅) (富岡駅前のホテル)
(5)東京電力廃炉資料館見学
東京電力が、原発事故の反省と教訓を社内外に伝承することを目的に 2018 年にオープンした「東
京電力廃炉資料館」を見学しました。
最初に、シアターホールに案内してもらい15分間の映像作品を観ました。最初に謝罪から始ま
った作品は、震災時に福島原発内でどのような事が起きていたのか、実際にどの様な対策を施したの
か、現在の廃炉作業はどのように行っているのか等の内容でした。
その後、館内の展示品の見学をしました。「記憶と記録・反省と教訓」、「廃炉現場の姿」というテ
ーマで各ゾーンに展示品があり、「原子力発電について」、「津波到達時の中央制御室の様子」、「廃炉
作業の映像」、「作業服の展示」等、24 の展示品がありました。
館内を見学して、震災発生時から水素爆発するまでにどのような事が起きていたか、廃炉作業がど
のように行われているのか等を詳しく学ぶ事ができましたが、「被災された方々はここに来られるの
だろうか」、「来られたとしても、どのような気持ちで観られるのだろうか」と感じました。実際に、
被災者さんと思われるご高齢の夫婦が、資料館の職員に⾧時間怒っておられる姿を目撃し、取り返し
のつかない事故を起こした事への責任はあまりにも大きく、一生かかっても償いきれないのではな
いかと感じました。
(6)大熊町・双葉町を車窓から視察
浪江町に向かう道中で、大熊町・双葉町を車窓から視察しました。
帰還困難区域となっている国道沿いの住宅の前には、バリケードが張り巡らされており、さらに
は、グリーンのシートで覆われた多くの汚染廃棄物、廃墟となった有名チェーン店やドラッグスト
ア、ホテル等が立ち並ぶ風景を目の当たりにして、異質な空気を感じ、胸を締め付けられるような光
景ばかりでした。
理事の宮澤様が、「ここを最初に通ったときは、本当に辛くて涙が出た」と仰っていた事が印象に
残っており、原発事故が故郷を変貌させ、人々の生活を奪った事を目の当たりにしました。
(外観) (館内の展示品)
(車窓からの大熊町) (車窓からの双葉町。右は汚染廃棄物)
(7)浪江町請戸周辺視察
震災直後に、高地に避難して生徒全員が助かった事で知られている請戸小学校とその周辺を視察
しました。
辺りは草原で何もなく、「こういう所なのか」と思いながら視察していると、「かつては住宅地で、
全て津波で流された」という事を伝えられ、衝撃を受けました。塩害で枯れた木や、高台に建てられ
たというお墓についてのお話をしていただきながら視察しました。
小学校を視察すると、如何に津波の被害が大きかったのかが分かりました。辺りを見回して、「本
当に住宅地があったのか」と信じられませんでした。当小学校は今後、震災遺構としての保存・活用
されるそうです。
(8)浪江駅視察
初日の最後に、浪江駅を視察しました。
ホームを覗いてみると、前回の視察のときはまだ設置されていたという鉄板や、柵などが撤去さ
れており、富岡駅との間での試運転も行われるとのことで、復興に向けて着実に進んでいる印象を受
けました。
(請戸小学校周辺の風景) (塩害で枯れた木々)
(視察風景) (請戸小学校)
12月8日(日) (1)塩屋崎灯台視察 2日目の初日に、美空ひばりの碑で有名な塩屋崎灯台を視察しました。 道中では、震災後に作られた防潮堤や、津波で流された住宅地などを確認しました。 灯台に登ると、綺麗な景色が一望できました。しかし、灯台から一望できる沿岸部はかつて津波に遭
い、多くの方々が犠牲となりました。犠牲となられた方々は、渦を巻いた波にさらわれた事から、服が脱げ、ご遺体の多くが裸の状態で発見されたとういうお話を拝聴して、何とも言えない感情が込み上げてきました。
美空ひばりの碑と、その前にある物産館は灯台が建つ岬の影響で波が消され、奇跡的に助かったそうです。灯台を視察後に、物産館を訪問させていただき、店主の方と交流をさせていただきました。店内で、津波が襲ってきた時の写真を拝見したり、当時の心境などのお話しを拝聴しました。また、津波で犠牲となった当時小学校4年生の鈴木姫花さんが描かれた、コンクールで入賞した塩屋崎灯台の絵がハンカチとなり販売されており、収益は震災遺児の為にいわき市に寄付されるそうです。
物産館のすぐ近くに、3日前に除幕式を行ったという震災の記憶碑が建立されており、そこで記念撮影を撮りました。
(2)福島県環境創造センター(こみゅたん福島)見学
こみゅたん福島は、放射線や環境問題を身近な視点から理解し、環境の回復と創造への意識を深
めていくことを目的に福島県が建設した施設です。
放射線に関する展示品、震災当時の新聞記事の一覧、福島第一原発の事故後の模型、日本に2台し
(塩屋崎灯台) (岬の頂上からの風景) 記念碑・物産館の前の風景。この付近は、津波の被害を免れましたが、泥のよ うな波が押し寄せたそうです。
(記憶碑。中央には、鈴木姫花さんの絵が飾られていました。) (記念撮影)
かないという「360 度全球型シアター」等が備えられています。
放射線や放射能の強さなどを測定する機械、内部被ばくを予防するための知識紹介、自然界に存
在する目に見えない放射線の飛跡を観察する装置「霧箱」の観察、360度全球型シアターで人類の
歩みについての上映などを通して、放射線、放射能、放射性物質について、福島県のあゆみ等を学び
ました。そして、放射線には様々な種類があり自然に発生していること、私たちの生活の中でも、レ
ントゲンや放射線治療などの医療で放射線を使用している事の知識を、分かり易い内容で展示して
ありました。
東京電力廃炉資料館では、放射線について、内部被ばく予防について、これからのエネルギーにつ
いて等の展示がなかったので、そこがこみゅたん福島との大きな違いであると感じました。
【5】参加からの感想 ●⾧男と同じ年月のお付き合いになる生協さん。その生協さんのツアーに参加するのも、福島を訪れ
るのも初めてでしたが、とても有意義なものになりました。
東北を訪れた事も、原子力発電への知識も浅かったのですが、自分自身の想像を超えるお話や景
色にただただ驚くばかりでした。
特に印象に残っているのは、塩屋崎灯台を描いた鈴木姫花さんの絵です。明るい色彩と笑顔の人々。
辛く悲しい出来事の中にも、暖かさを感じるものでした。
自分自身で訪問してみて、あまりにも大規模過ぎる災害に、個人でできる事が僅かすぎて無力感
もありますが、少しずつ再生復興している点もあり、嬉しく思いました。1人1人ができる事は限
られていますが、忘れずにいたいと強く感じました。
(新聞記事一覧) (放射線について、除染について等の展示) (再生可能エネルギーについての展示)
(震災発生時からの経過時間) (霧箱) (福島第一原発の模型)
●人生で2度目の福島訪問でした。現在、大学 3 年生である私は、東北大震災について授業で学ぶ
機会があり、元々興味を持っていました。
実際に、福島原発についての詳しい説明や現地の景色を見ることで、可視化できない放射線の影
響を感じることができました。特に警戒区域の辺りを車で移動しながら見えた人がいなくなった
町の景色が印象に残りました。話には聞いていましたが、一本の道路を境に、入って良い悪いが決
められていて、その道路のせいで帰りたい、一目家の姿を見たいと考えている人々がいるかもしれ
ない事実があり、除染活動が進むことを願うばかりでした。
「心の復興」という言葉が9年目を迎えようとしている今、重要になってくると思います。皆が傷
を負い、それでも明日を見て生きていくからこそ、我々の良い意味でのおせっかいが必要である
と。それは、難しい事ではなく、話を聞く、実際に訪れてみる、事実を受けとめて明日を共に見て
いく、そんな関係性を築くことが大切なのだと改めて思いました。ありがとございました。
●たった 2 日間のツアーでしたが、様々な学びがあったのに加えて、参加者同士の交流もありとて
も楽しかったです。感想というよりはレポートのようになってしまいました。
【参加した理由】
高校生の時に三回東北を訪れ、東日本大震災で起こったことやその後の復興の動きについて
学んできた。それまでは津波の被害について学ぶことが多く、原発事故についてはあまり知る機
会がなかった。今回母からの紹介でこのツアーを知って、被災地の中でも福島に出向き、津波そ
して原発によって人々にどのような影響が出たのか、そして今の現状について学びたいと思い
参加した。
【富岡町と桜】
富岡町に入ってみて驚いた。そこで目にしたのは、明らかに人が入っておらず敷地内に雑草が
生えてしまった、沢山の建物だった。帰還困難区域が解除された地域でも、家屋や店が八年前の
当時のままの姿をしていた。これは昨年浪江町に行った時も目にした光景だ。放射線などの影響
から、もとあった住処に戻ってくる人は少ない。一方、かつての自宅に帰りたくても帰れないと
いう人たちもいる。
富岡町で有名なのが夜の森の桜トンネルだ。街のパンフレットや駅の売店などでも桜の写真
をみた。写真だけでもきれいなのが分かったし、何より地域の人の桜に対する特別な想いが伝わ
ってきた。きっとこの桜並木は地元の誇りなのだろう。
しかし、この桜並木の途中には帰還困難区域のバリケードがあり、桜のトンネルを最後まで
抜けきることはできなかった。春、夜ノ森では桜まつりが行われるが、今は近くで観られる桜は
4 分の1ほどしかないのだという。帰還困難区域とそうでない地域を隔てているのはバリケード
だけ。すぐ向こうに見えるのに、行くことができないもどかしさや葛藤を住民の方々は抱え続け
ているのだと思った。ただ、バリケードの向こう側でも毎年変わらず桜は咲き続けている。桜が
まちを励まし、勇気づけてくれていると信じたい。
【北崎さん】
廃炉資料館の横にあるコミュニティスペースで北崎さんという方にお話を伺った。北崎さんは
自治会⾧をしていて、震災後は郡山市に避難していた。北崎さんはとても親しみやすい人で、奥さ
んが嫉妬するほど住民に優しいのだそうだ(笑)住民の頼りになる存在なのだろうなと思った。
震災前は 1 万 5000 人だった富岡町の人口は 1100 人にまで減少した。令和 3 年くらいには帰還困
難区域が狭まる予定だというが、実際帰ってくるかと言われれば分からない。仮設住宅を閉めたい
ということで昨年 10 月に全員が仮設住宅を出た。新しい家を建てたり、復興住宅に入ったりと行
先はそれぞれ。中でも復興住宅はとても生活しやすく、家族を亡くし一人になったお年寄りの方な
どは家を建てたりすることはなく復興住宅に入ることが多いようだ。
ここではシビアな話もいくつか聞いた。北崎さんの周りでは震災二年目くらいでの自殺者がと
ても多かったのだという。一時期「死」が身近にあるという異常な状況が続いていた。震災では数
えきれないくらいたくさんのものが失われた。大切な家族やふるさとを奪われ、これからどうして
いったらいいのか…。先の見えない日々に、住民の方々は相当なストレスを抱えていたと思う。
【廃炉資料館】
廃炉資料館は、東京電力が福島第一原発事故の反省と教訓をもとに建てた施設だ。元々は小中学
生向けのエネルギーに関する学習施設だったのを廃炉資料館にしたのだそうだ。私は、それまで原
発の被害が深刻であるということは知っていたものの、当時の東電の細かい状況をはっきりとは
知らなかった。シアターでの映像では震災時原発で何が起こったのかについて時系列で詳しく学
ぶことができた。
映像の中には、東電が原発事故を起こしたことについて謝罪する場面があった。これがとても
印象的だった。また、資料館の中では住民と思われる方が⾧い間話していて、若手の職員が話を聞
いているのを見た。東電は数十年かけても完全には解決できないような、取り返しのつかない事故
を起こした。この事実は変わらないけれど、ここで働く東電の方は組織の一員としての義務とはい
え心身共に大変だろうと思った。
廃炉資料館や福島県環境創造センターでは放射線や原子力発電の方法について子どもにもわか
りやすいように展示していた。放射線の知識は、震災の教訓と共に子どもたちに教えていくべきこ
とだと思う。
ただ、大学生の私でも放射線や原発の仕組みを理解するのは簡単ではなかった。放射線の仕組み
は専門的な理系分野で難しいのに加え、目に見えないため線量計がないと放射線量も分からない。
正直に言ってすべての世代の人が完全に理解できるような内容ではないと感じた。そのような分
かりにくいものを容認して、故郷の土地を企業に任せるのはリスクが大きいと個人的には思って
しまった。
今回実際に福島に行ったからこそ気づけたことが多くあった。これからの福島はどうなってい
くのか。震災から 8 年経っても問題は山積みだ。それでも、地域の人々は力を合わせて、少しずつ
復興に向けて進んでいる。私もそんな福島の人を様々な形で応援したいと思う。
●福島県に行ったことは、今まで一度もなくて、今回の福島訪問ツアーで初めての訪問になったの
ですが、とても楽しかったです。ただ、楽しかっただけではなく、震災の悲惨さをこの目で見て知
ることができました。
2011 年3月 11 日の東日本大震災から8年と9ヶ月が経ちましたが、その傷は全く癒えていない
ことに気付かされました。特に、沿岸部にあった小学校をひと目見ただけで、いかに被害が大きか
ったかが、実感できました。だってコンクリートだけになった校舎以外、周りに何も無いんですも
の。丹羽さんがおっしゃっていましたが、小学校があるのに見渡す限り更地で、あそこが住宅街だ
ったなんて信じられないです。今回の訪問ツアーで、私が知りえなかったたくさんの事を知ること
ができました。この貴重な体験を、いつまでも忘れないようにしたいと思います。
【6】今後の取り組みについて
今後も、鳥取県生協の「東日本大震災復興支援における基本方針」を基に以下の取り組みを進め
てまいります。
①今後もコープふくしま様との繋がりを大切にしていき、来年度の訪問ツアーを計画していきます。
②「くらし・地域復興応援募金」、「ふれあい便」の取り組みを継続して、コープふくしま様・福島生
協連様の復興活動を支援していきます。
③この度の視察内容を、平和通信「LOVE&PEACE」やホームページ等で報告して、組合員・職員に
広め、福島の現状を知っていただく取り組みを進めてまいります。
④1 月 31 日(金)に東部支所で開催される東部エリア会主催「原子力防災を知る!ための学習会−
被災地を想い、鳥取県原子力防災ハンドブックから学ぶ−」で、この度の視察報告をおこないま
す。
⑤とっとり震災連絡協議会様や冒険あそび場 IWAMI 様等の他団体と連携して、復興支援に向けた
取り組みを進めてまいります。
【7】最後に
この度、初めて福島県を訪問させていただき、被災地の現状を把握することができました。
帰還困難区域や津波被害の痕跡など、初めて見る光景に衝撃を受けました。特に、富岡町・大熊町・
双葉町の、震災・原発事故直後から何も変わっていない帰還困難区域の街並みには言葉を失い、自分事
として、故郷や生活を奪われた被災者さんの気持ちを考えると、とても辛い気持ちになりました。
コープふくしま様では、ガラスバッジを使用しての外部被ばく測定、食事に含まれる放射性物質の量
の測定、甲状腺についてなど、放射能に向き合った学習会を多く開催され、放射能についての知識習得
に取り組まれています。また、地元新聞社の新聞では、各地の放射線量や福島第一原発付近の海洋モニ
タリング結果が毎日記載されています。
そうような現状を踏まえて、福島の方々は日々、放射能の恐怖と隣り合わせで生活されていると実
感しました。
福島民友に掲載されている
各地の放射線量データ
コープふくしま様は今までに、様々な活動を通して被災者さんを支援してこられましたが、震災直
後は、「何で生協なのに来ないのだ」、「放射能が家に入るから玄関を開けるな」など、様々な事を言わ
れたそうです。また、家族や身内が東京電力で働いておられる方は、いじめに遭ったり、仮設住宅で土
下座をさせられたりしたそうで、福島県内では、家族や身内に東電の社員がおられる家庭は必死で隠
れ、生協の組合員の中でも、そうした方は「絶対に誰にも言わないで欲しい」と言われるとの事でした。
そうしたシビアな話を聞いて、原発事故は故郷、生活を奪っただけでなく、人々の感情、人間関係ま
でも崩壊させたのだと痛感しました。
しかし、コープふくしまの皆様や初日にお話を拝聴した北崎様をはじめ、懸命に前を向いて復興に
励んでいる方も多くいらっしゃるという事も学びました。また、高速道路、富岡町の駅周辺、漁港、
浪江駅など、着実に復興が進んでいる所も視察して、国全体で、この復興をさらに加速していく必要が
あると感じました。
北崎様が、「帰還困難区域から避難されている方と、一般の人との間で格差が出てきており、国から
の支援がなくなったら困る」と仰っていましたが、そうした問題を解決していき、被災者さんが人間ら
しい、普通の生活をおくれるようにしていくことが重要であると感じました。
新聞やテレビ等のマスメディアで、東日本大震災・原発事故について取り上げられる頻度が少なく
なった昨今、絶対に風化させてはならないという想いがより一層強くなりました。
2 日間の視察にご同行して、様々な事を教えていただき、大変お世話になった松崎様、宮澤様、お忙
しい中、時間を作ってお話をしていただきました北崎様に心から感謝すると共に、今後、ふくしまの皆
様の想いを多くの方に伝え・広めていく取り組みを進めてまいります。
以上