リサーチ・ジャーナル01 桜井圭介インタビュー「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」...
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Square
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Research Journal Issue 01
スクエア[広場]
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[キーワード]
広場
ダンス
演劇
パフォーマンス
東京
吾妻橋ダンスクロッシング
桜井圭介[吾妻橋ダンスクロッシング キュレーター]
聞き手:野村政之[アサヒ・アートスクエア運営委員/こまばアゴラ劇場・劇団青年団制作]
桜井圭介│Keisuke Sakurai[音楽家/ダンス批評/ 吾妻橋ダンスクロッシング主宰]
1960年生まれ。批評活動、そして吾妻橋ダンスクロッシング、清澄白河SNACのキュレーションを始め、
さまざまな方法でダンスにかかわり続ける。音楽家としても、遊園地再生事業団、ミクニヤナイハラ、ほう
ほう堂、地点、砂連尾理+寺田みさこ等、舞台作品での協働も多い。著書に『西麻布ダンス教室』『ダンシ
ング・オールナイト』。http://azumabashi-dx.net
─
野村政之│Masashi Nomura[こまばアゴラ劇場・劇団青年団]
1978年生まれ。劇団活動~公共ホール勤務を経て、2007年よりこまばアゴラ劇場・劇団青年団に在籍。
アサヒ・アートスクエア運営委員、桜美林大学非常勤講師、舞台芸術制作者オープンネットワーク事務局
などを務めるほか、若手演出家の舞台公演に様々な形で参加。主な参加作品:ままごと『わが星』[2009]、
サンプル『自慢の息子』[2010](以上、ドラマトゥルク)、TPAM in Yokohama 蓮沼執太×山田亮太『タイム』
[2012](プロデュース)、平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)ロボット版『森の奥』[2010]、岡崎藝術座『(飲め
ない人のための)ブラックコーヒー』[2013](以上、制作)など。
「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
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│INTERVIEW│「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
Research Journal Issue 01
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この10年間、アサヒ・アートスクエアという「広場」を拠点に、日本のパ
フォーマンスシーンを牽引してきた「吾妻橋ダンスクロッシング」。あら
ゆるジャンルの最先端パフォーマンスを“X”(クロス)させるこの実験的
なイベントをキュレーションしてきた、桜井圭介さんが「これまでの10
年とこれから」を、静かに、そして熱く語った20000字インタビュー。[収録:アサヒ・アートスクエア ロングパーティー「フラムドールのある家」 2013年
8月24日/テキスト+構成:野村政之]
─
野村─吾妻橋ダンスクロッシング(吾妻橋DX)は、2004年7月
の初回から、先週8月17日の「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナ
ル!」まで、10年間に渡ってほぼ毎年、1 -2回開催されました。毎回8, 9組のアーティストやグループが10 -20分のパフォーマンスを行う
ショーケース型のイベントが12回、単独公演や派生型のイベントも含
めると約20回開催して、私が集計してみたところではのべ132組が
参加。最多出場はボクデス(小浜正寛)の11回、ほかにも康本雅子さ
ん、チェルフィッチュなど、またダンスや演劇だけではなく、音楽家や
現代アートのアーティストまで幅広く、バラエティに富んだアーティスト
が参加していました。先週の「ファイナル!」では総集編というか普段
の2回分のボリュームでしたね。桜井─そう、2枚組コンピレーションアルバムっていう感じね。野村─DISC1、DISC2で合計19組がパフォーマンスとインスタ
レーションを行って、フードも合わせると20組が参加して最後を飾りま
した。終えて1週間経ちますが、10年間の吾妻橋DXが終わった現
在のご感想としてはいかがですか?
桜井─まだ実感が湧いてきてないんですけど、とりあえず、「終わっ
た……」という感じですねぇ……疲れた(笑)
野村─毎回いつも終わったら「出しきった」みたいな感じなんですか?
桜井─いつも「あそこはこうしておけばよかったな」と、後悔とか反省
はけっこうありますよね。今回もいっぱいあるんだけども、いつもは3日
間4ステージくらいやるので期間中に微調整したりして消化するところ
が、今回は初日が楽日で1日限りだったので「あれ? あっという間に
終わっちゃった!」ってね、そういう感じはしてますね。
野村─今日は、終わったばかりのタイミングではありますが、10年
間の吾妻橋DXを振り返りながら、いろいろなことをお話できればと思
います。
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│INTERVIEW│「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
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桜井─はい、よろしくお願いします。
野村─まず、ざっくりした質問をいくつか用意してますのでそれを
お伺いしていきます。
1 0 年間でもっとも印象に残っているパフォーマンス
野村─なかなか選びにくいとは思うんですが、いかがでしょうか。
桜井─100以上のパフォーマンスがあって、どれも印象深いという
感じなんですけど。あえて1つ選ぶとするならば、2007年にやってもらっ
た、Chim↑Pomの『スーパー☆ラット』っていう、例の「リアルピカ
チュー」の作品[1]。これはインスタレーションで……だからパフォー
マンスじゃないんですよ。これは後の話にも出てくると思いますが、「『ダ
ンスクロッシング』といいながら、ダンスあんまりないよね」とか「ダンス
じゃないじゃん」とかいうことを常に言われてきて、そのこととも繋がるん
だけども、この作品はそもそもパフォーミング・アーツじゃない、ライブパ
フォーマンスじゃないわけですよ。にもかかわらず、やってもらってよかっ
たし、自分にとっても吾妻橋DX全体にとっても、重要な位置を占める
ような作品だったなと思います。
野村─どういうところが、吾妻橋DXというものとクロスしたと思って
らっしゃるんですか?
桜井─吾妻橋DXには「グルーヴィーな身体」をダンスだけじゃ
なくてあらゆる表現の中に見ていく、という基本的なスタンスがあって。
そういう意味で、とにかくこの『スーパー☆ラット』は「踊って」いる、っ
ていうね。「この表現は『ダンス』じゃん!」って言ってもいいな、と思っ
たんですね。インスタレーションを吾妻橋DXという公演の中でや
るようになったのはChim↑Pomのこの作品が最初だったんです
よ。この前まではインスタレーション展示ってことは無かったんです。
Chim↑Pomのこの展示をきっかけに、インスタレーション展示を毎
回やってもらう、ということになっていったんですね。
野村─吾妻橋DXという企画自体にショックというか、転回をもた
らした作品だと。
桜井─そうですね。そう思う。
野村─あえてもう1つ、2つ挙げるとどうですか。桜井─えーと、……チェルフィッチュにダンス作品として委嘱をし
た『ティッシュ』という作品。『クーラー』[2]の後に、その続編みたいな、
Chim↑Pom「スーパー☆ラット」展示風景2007 ©Chim↑Pom / Courtesy ofMUJIN-TO Production, Tokyophoto: *******
[1] Chim↑Pom『スーパー☆ラット』Chim↑Pomは卯城竜太・林靖高・エリイ・岡田将孝・稲岡求・水野俊紀の当時20代の6名が、2005年に東京で結成したアーティスト集団。時代のリアルに反射神経で反応し、現代社会に全力で介入した強い社会的メッセージを持つ作品を次 と々
発表。『スーパー☆ラット』(2006)は渋谷セ
ンター街に生息するクマネズミを捕獲し剥
製化。さらに黄色に染めシッポをギザギザにすることで「リアル・ピカチュウ」を捏造せんとしたもの。[2] チェルフィッチュ『クーラー』演劇作家:岡田利規によって創作され、「トヨタ・コレオフラフィーアワード2005」のファイナリストに選出されたダンス作品。受賞とはならなかったものの、派遣社員2人のたわいのない会話に付随する身体の動きから
構成される本作を、ダンス作品として評価するかどうかが当時話題となった。
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あの方法論でもう一つなにか、ということでティッシュ配りの話なんです
けどね。街角で武富士のティッシュを配る。その配る手付きがダンス
じゃん、という(笑)。
野村─なるほど。
桜井─そして、武富士といえば、ジャズダンスのCMがあるでしょ。
それで「私は今日はティッシュ配り担当で、私は踊り担当」みたいな
どうでもいい話なんだけど(笑)、話のクダラナさと動きの挙動り具合で
かなりグルーヴィなパフォーマンスになってると思いました。それから、こ
の10年間の後半は何度も参加してもらっていた飴屋法水さんに、最
初にお願いしてやってもらった『顔に味噌』という作品。いろいろな在日
外国人のひとたちをフィーチャリングした作品で、これもすごくよかった
ですね。
野村─すごくいろんな種類の外国の人の自己紹介を交えたパ
フォーマンスでしたね。
桜井─「自分のことを語る」ということ、それと宮澤賢治の『よだか
の星』を絡めたパフォーマンスでした。プロの俳優ではない人や日本
語がちゃんと喋れない外国人によるパフォーマンスなんだけど、そこに
は僕が吾妻橋を始めたころに盛んに言ってた(ダンスにおける)「コドモ
身体」[3]と同質のものがあると思いました。
それから、もう一つだけ。やっぱこれも全然ダンスじゃないんだけど、遠
藤一郎は後期吾妻橋DXの重要なパフォーマーですね。美術家で
ある遠藤くんのパフォーマンスは普段はライブ・ペインティングなんだ
けど、吾妻橋DXではまずその武器を自分から手放しちゃう。1年目は
それでも壁に水で描いてたけど、3年目の今年の3月の時はもう完全
に「エア」で。そこにはほんとうに「なにもない」のかもしれない。それくら
い「徒手空拳」そのもののようなパフォーマンスでした。いいのか悪い
のか、僕にも判断出来ない(笑)。
出したかったけど出せなかった!
野村─僕、今回このトークセッションに当たって、全ての吾妻橋
DXの参加アーティストを集計してみたり、桜井さんがパフォーマンス
について書かれているテキストを読みなおしたりしてみたんですけど、
「この人、出ていてもいいのに出てないな?」と思ったり、各回のライン
ナップから感じられる“揺れ”が面白いなと感じたところがあったんで
[3] コドモ身体2000年代前半のダンスに関する批評の中で桜井圭介さんが多用したキーワード。参考:桜井圭介「『コドモ身体』ということ」http://www.t3 .rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html
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チェルフィッチュ『ティッシュ』2005年photo:石塚元太郎
飴屋法水『顔に味噌』2009年 photo:濱田良平
遠藤一郎『元気いっぱい』2010年photo:横田徹
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す。だとしたら、桜井さんが出したいと思ったけど、結果的に出せなかっ
たアーティストも居たんじゃないか、ぜひ聞いてみたいなと思ったんで
すが。
桜井─まず、オファーをしてすごく出てもらいたかったんだけど、いろ
いろなタイミングとか先方の都合で残念ながら実現しなかった、そうい
うケースだと…金森穣さん[4]ですね。
野村─え! そうなんですね。桜井─絶対こういう人が吾妻橋DXに居るのがいいことだな、と
思って、2005年とかわりと早い時期にオファーしたんです。実現しな
かった一番残念なアーティストですね。
野村─そんなことがあったんですね…。
桜井─ちょうど金森さんが日本に帰ってきて、新潟のりゅーとぴあ(新
潟市民芸術文化会館)の芸術監督(舞踊部門)になった頃で。僕らが吾
妻橋を中心としてやろうとしていた、日本型コンテンポラリーダンスとは
全く違う、ヨーロッパの正統的な/グローバル・スタンダードな最先端
の表現ということをやってきた人が、日本に帰ってきて活動を始めた、
と。だから水と油みたいなものなんだけれど、あのころ金森さんの方も
黒田育世に作品を委嘱することを始めてたので、こういうのがミックス
するというか、出逢うことが日本のダンスシーンにとって絶対的に重要
だと思ったんですね。振り返ってみると非常に残念だったなと。
野村─もし金森さんが出てたら、僕自身としては吾妻橋DXのイ
メージ、色合いが変わるなと思いますね。
桜井─うん、「合流する」ということがあったらよかったな、と思います
ね。金森さんのほうもその後「我が道を行く」という感じになっていくの
で、「もしそういうことが起こってたら」ていう「歴史のif」じゃないですけ
ど、そんなことを思いますね。
野村─まさに「歴史のif」ですね……。ほかにはどうですか。桜井─自分の問題として、吾妻橋DXをこういうショーケースの
フォーマットにしちゃったので、なかなかこのフォーマットの中にはうまく
はめられない、僕がお呼びして「自信が持てない」と思った人が何人
かいて、一番その中で大きな存在としては、手塚夏子[5]ですね。
野村─はい、そうですよね。
桜井─手塚夏子のような表現がダンスシーンのなかで非常に重
要だということは間違いないんだけども、その表現をこの並びのなかに
入れていくということの自信がいつもなくて。
[4] 金森穣10代で渡欧し、スイス・ローザンヌのルードラ・バレエ学校でモーリス・ベジャールに師事。その後、ネザーランド・ダンス・シアターでダンサーとして活躍。帰国後、2004年から新潟市民芸術文化会館「りゅーとぴあ」舞踊部門芸術監督に就任し、国内唯一の公立劇場専属舞踊団である「Noism」を設立。新潟を拠点に国内外各地で活動を行っている。[5] 手塚夏子1996年よりソロ活動を開始し、既存のテクニックによらない独自のダンススタイルの追
求を続けている振付家・ダンサー。代表作に「私的解剖実験」シリーズ(2001年─)など
がある。
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野村─桜井さんの自信がなかったということなんですか?
桜井─そう。うまくはめられる自信があって、アーティストのほうもこの
フォーマットに入ってくることにちゃんと価値を見いだせるようなプログラ
ミングができればいいんだけれども、それができなかった。僕も一度、
「やってみるか」っていうことにして、本人もやるといったんだけれども、そ
の後話し合いをするなかで「やっぱりやめる」ってなったことがあって。
それはやっぱり僕が「いつもと違うアプローチでやるべきだ」と手塚に
言って、そこは手塚も同意したんだけれども、「どういうアプローチがい
いのか」というところで、非常に大雑把に言ってしまうと「もっとPOPにや
ろうよ」みたいにオーダーしたのね。「やっていることは同じなんだけれ
ども、POPにコーティングする」というか「見え方をPOPに」というよう
なことを言った段階で、「あー、やっぱ無理!」という感じになっちゃったと
いうね…。
野村─手塚夏子さんのダンスというのは、とても吾妻橋的な部分
を持っていると思うので、「何で出なかったんだろうな」と思ったし、いま
のお話は、本質的に「吾妻橋DXとは何なのか」ということに関わって
いるような感じがしますね。
桜井─ほんとうにそう。あとは神村恵[6]。神村さんもうまい具合に
プログラムできないな、と思って。まあ清澄白河でSNAC[7]始めた
のも、そういう部分を補完したいと思ったから、というのもあるんですね。
吾妻橋では出来ないアプローチを実験する場所という、ね。神村さん
のソロもシリーズで継続中だし。
野村─ちなみに、吾妻橋DXでは、基本的に桜井さんの側のサ
ジェスチョンがあって、それを受けてアーティストがやる、という形で続
いてきたということなんでしょうか?
桜井─全ての人にそういうふうにしたというわけではないんだけれど
も、なるべくそういう関わり合いのなかで参加してもらいたいというのは
ありましたね。特に、自分にとって大事な人ほど自分が二の足を踏むと
いうことは、けっこうあったかもしれないですね。「ここに出るということが、
逆にマイナスになっちゃうということがあるのは嫌だな」とは、いつも思っ
ていましたね。
一番大変だったのは××年
桜井─ 10年やったんですけども、後半に行くに従ってどんどん苦
[6] 神村恵2000年よりオランダに滞在、帰国後の2004年よりソロ活動、2006年より「神村恵カンパニー」としても活動を行っている振付家・ダンサー。[7] SNACChim↑Pomなど作家のマネジメントのほか幅広い活動を行っている「無人島プロダクション」と「吾妻橋ダンスクロッシング」が共同でプロデュースする小規模なアート
スペース。展示やトークセッションのほか、ダンスや演劇の公演も行われている。http://snac.in/
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しくなっていった感じで。だから、2007年の3月に前半の総決算みた
いな感じで「The Very Best of AZUMABASHI」という公演をやっ
たんですけども、なぜその時にベスト盤みたいなものを作ろうと思った
かというと、だんだんこの後やばくなっていくというふうな予感があって、
「今までのなかのものをもう一回ちゃんと見せたい」「充実した時間の
果実をそこで一回やりたい」というふうになった。これの後がどんどん
大変になっていったという感じはありますね。
野村─「苦しくなるな」という予感、というのはどういうところから出て
きたんですか?
桜井─それは、僕の個人的な問題でもあるんだけれども、段 と々自
分がいいと思うダンスが……。2004年のときは、ジャンルとしてもちゃ
んとダンスの人がラインナップされていて、そのなかにダンスじゃない表
現も混ぜていく、ということだったんだけど、ある時からダンス以外のパ
フォーマンスのほうが面白くなってきちゃって。自分的には、ダンスをもっ
と面白くラインナップしたいと思っていたんだけれども、それがうまくでき
ない感じがしてきて……、ぶっちゃけダンスが面白くなくなってきちゃった
という、ある意味非常に個人的な問題が出てきたということですね。
僕は、ダンスは好きなので、ジャンルとして大事なので、そのダンスが
「こんなに面白いんですよ」ということが言いたいんだけれども、それ
が言えるような感じじゃなくなってきちゃった、という。
野村─それがラインナップにも現れているんですね。「ダンスだ
け」から「ダンスに他のジャンルの表現も加える」になって、そして「い
ろんな表現があってそのなかにダンスがある」になる、という流れが、
10年間のなかにあったと。桜井─だって、なんで吾妻橋DXを始めたのかといえば、2004年
当時、「今ダンスがすごく面白いからガーッと打ち出していきたい」と思っ
たから、なんですね。その上で「ダンスが他のいろんな表現と接続可
能であるということも証明したい」と思った。そういうことなんですよね。
2 0 0 4 年=吾妻橋 D Xの始まり
野村─ここからはいくつかの年で切って、時系列に沿ってそれぞれ
のタイミングで振り返っていきたいと思うんですけれども。今少しお話が
ありましたが、まず、2004年の7月に、最初の吾妻橋DXが開催される
わけですが、その時に考えていたのはどんなことだったんでしょうか。
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桜井─ほんとに、これはまさに今、日本の新しいダンスが雨後の筍
のように出てきて、それがすごく新しい、面白いと思った。自分がダンス
を見始めてからそれまでのことを考えても、こんなに面白くなっているこ
とはなかった、というくらい面白かったので、「閉じたところではなくもっと
いろんなところに開かれた形で見せていきたいな」というふうに思った
んですね。だから、自分の何かをするということではなくて、そこに在る
人達を広く見せたい、ということだったんです。
野村─僕の個人的な話をすると、2004年というと、演劇やりながら
絶望のどん底に居たというか、「今このときに演劇やってるって何がある
んだろう?」というような焦燥感があったときで、一方で「ダンスのほうは
どうも盛り上がっているっぽいぞ」と。まだそのときは僕自身、演劇とダ
ンスを別のものだと分けて考えていたので、ダンスに注目していくという
「吾妻橋ダンスクロッシング 2004」フライヤー
「The Very Best of AZUMABASHI」フライヤー
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こともなかったわけですけど。
と同時に、2004年はチェルフィッチュが『三月の5日間』を発表した
年で、ここからある意味「演劇の新しい時代が始まった」という認識
があって。それが後から知っていくと、チェルフィッチュは2000年代
始めのコンテンポラリーダンスの豊かさというものをすごく吸収して、
それを自分たちの作品として結実していたんだな、ということがあるわ
けですよね。
僕自身はその時代のダンスに実際立ち会っていなくて、よく知らな
いんですけど「コンテンポラリーダンスのシーンがかつてなく面白
かった」ということは桜井さんの目から見てどういうふうなことだったん
ですか?
桜井─それは、「90年代の日本のダンスがどうだったか」ということ
との比較で考えると、基本的に「欧米のダンスをある種フォロー/模
倣していく」というようなスタンスが強かったわけです。もちろんコンテ
ンポラリーダンスは同時代ダンスなので、共有する部分もあると思う
んだけれども、基本的には、客観的に見るとまず、フォーサイス[8]とか、
ローザス[9]とか、そういう画期的な欧米のダンスというものがあって、
そこに追いついていく、っていうふうな感じだったと思うんですよね。
ところが2000年代になって出てきたことというのは、そういうある種の
ワールド・スタンダードとか欧米的なダンスの概念からはみ出していく
ような、まったく独自の方法でダンスというものが沸き起こっていった、と
いう感じがして。それは自分でもびっくりしたし、「そうか、こういうやり方
をすれば日本の新しいダンスというものが出てくるんだな」というふうに
思ったんですよね。
野村─桜井さんが日本の新しいコンテンポラリーダンスとの出逢
いというといつぐらい、例えばどんな人によって目を開かれたということに
なるんですか?
桜井─それはもうやっぱりNibroll[10]です! 2000年頃。いきなり
出てきて、アッと驚いたという。
野村─それで日本のコンテンポラリーダンスを見ていったら、続々
と新しい表現、面白い切り口が見えてきたということですか。
桜井─ 2004年の時点で、ものすごく豊かな、豊穣な感じになって
るなと思ったんですね。それで、もちろん僕の中では、その中にチェル
フィッチュも入っているんです。
野村─なるほど。「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!」のチラNibroll(矢内原美邦)『チョコレート』2004年 photo:横田徹
[8] ウィリアム・フォーサイス1949年アメリカ生まれ。フランクフルト・バレエ団芸術監督を務めた後、ザ・フォーサイス・カンパニーを結成。ドイツ・ドレスデンを拠点に世界的に活躍するコンテンポラリー
ダンスの先導的振付家の一人。[9] ローザス1983年結成。振付家のアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが芸術監督を務めるベル
ギーを代表するダンスカンパニー。[10] Nibroll1997年結成。振付家・矢内原美邦を中心に、 映像作家、音楽家、美術作家とともに、舞台作品を発表するダンス・カンパニー。吾妻橋DXには、矢内原と映像作家・高橋啓祐による美術ユニット「O�-nibroll」での参加と合わせて4回参加している。
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シのテキストに沿わせると、その頃のダンスは「なんじゃこりゃ? こんな
の見たこと無い」という表現、ということですよね。僕の印象では、ファイ
ナルの今回まで、この「なんじゃこりゃ? こんなの見たこと無い」というとこ
ろに関して、吾妻橋DXのキュレーションは一貫してこだわっている、と
いう感じがします。それが、今は「ダンス」という領域を超えちゃっている
というわけですね。
桜井─そう。必ずしもダンスではない。
野村─でも2004年の頃は、ダンスということのなかではあったとい
うことなんですね。
桜井─そう。だから自分のなかでも、いろんな表現があるなかで
「今ダンス来てるじゃない?」「今はダンスでしょ」というふうに思ってた
んですね。
2 0 0 7 年 =「T h e Ve r y B e s t o f A Z U M A B A S H I」と
「H A R A J U K U P E R F O R M A N C E +」
野村─次は2007年ですが、3月に「The Very Best of AZUMA-
BASHI」が開催されて、12月に第 1回目の「HARAJUKU PER-
FORMANCE +」が桜井さんのキュレーションで開催されていま
す。2005,6年は年に2回吾妻橋DXが開催されてるんですけども、2007年はこの内の1回が原宿で開催されたというような感じで、現在
「HARAJUKU PERFORMANCE +」は小沢康夫さん[11]がキュ
レーションをされていますが、第1回目は桜井さんだった。CINRA.NETに掲載されている対談[12]で、小沢さんが、このとき桜
井さんに「吾妻橋DXに対して原宿っぽいものをやってくれないか、と
依頼した」という話と「吾妻橋が『X』だから、原宿は『+』でいいじゃ
ないか、という話があってこういう名前になった」という逸話を語られて
いました。あと先ほどのChim↑Pomのインスタレーションのことも含
めて、この年がすごく転機になっていくタイミングなんですよね。
桜井─そう思いますね。2004年からの吾妻橋DXというのは2000年の始めからの流れでやっていて、2000年代前半にものすご
い勢いでコンテンポラリーダンスがそれなりの成果をおさめたと思う
んだけれども、その後ですよね…。
野村─ちなみにこのとき、「原宿っぽいもの」と「吾妻橋っぽいもの」
というのは桜井さんの中ではあったんですか?
[11] 小沢康夫コンテンポラリーダンス、現代美術、現代演劇、メディアアート、音楽など既存のジャンルにとらわれない独自の視点で企画プ
ロデュースを行うプロデューサー。日本パフォーマンス/アート研究所代表。[12] CINRAのインタビュー 原宿「ラフォーレ原宿でパフォーマンスの祭典 小沢康夫×桜井圭介対談」(2012/12/13)
h t t p : / / w w w . c i n r a . n e t /interview/2012/12/13/000000.php
「HARAJUKU PERFORMANCE +」フライヤー
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桜井─(笑)それはなくて、自分のなかではある種、派生していくとい
うか。僕、地名でタイトルつけるの好きなわけですよ。『西麻布ダンス
教室』[13]とかね。これはラフォーレ原宿が会場なので、ふつうに「原
宿ダンスクロッシング」でもよかったわけだけれども、ラフォーレのほ
うが同じ名前だとちょっと……ということだったので、「HARAJUKU
PERFORMANCE +」とつけた。でも基本的には「吾妻橋的なるも
の」をいろんなところに広げていく、という気持ちだったですね。
ただ、今から振り返ると「ダンスクロッシング」じゃなくて
「PERFORMANCE +」にしたというのは、やはりもうその時にすでに
「ダンスだけだと賄えない」という自覚はあったのかもしれない。
野村─……なるほど!
桜井─このときに、ダンスが6割のダンス以外のパフォーマンスが4割くらいになったと思うし。野村─そうかそうか。「パフォーマンス」というふうにするともっと
広く……
桜井─もっと広がりがある。
野村─そうですね。演劇も入るし、パフォーマンスアートも入るし、サ
ウンドアートも入るかもしれないという。
桜井─「HARAJUKU PERFORMANCE +」やったら逆にフィー
ドバックして吾妻橋も「AZUMABASHI PERFORMANCE +」に
変えちゃってもいいかなと思ったりもしたんだけど(笑)
野村─たしかに、2008年以降、実態としてはそうだったかもしれな
い。……皮肉なもんですね。要は2009,10年の吾妻橋DXに添え
て桜井さんが書いたり言ったりされているものを読むと、「ダンス」って
いうことにものすごく縛られていくというか、悩んでいて、2009年吾妻橋DXのチラシでは「ダンス」のところに罰点がうってある。桜井─そう。それは……、そうでした(笑)
野村─そういう悩みに陥っていくというタイミング。
桜井─そうですね。
野村─この頃、ダンスシーンの状況というのをどう認識されてた
んですか? たとえば「ファイナル」のちらしに書かれているテキストだと
「いわゆる定型に陥っていった」と書かれているんですが。
桜井─えーと……2000年代前半のダンスに対する僕の理解で
は、とにかく「『いわゆるダンス』というものからダンス自体が限りなく逸
脱していくことによってダンスが更新されていく」というふうな好循環が
[13] 『西麻布ダンス教室』桜井圭介/押切伸一/いとうせいこう著(1994年刊)。欧米の先進的なダンス~日本の舞踏までさまざまなダンスの見方を提
示する、桜井圭介さんの講義をまとめた本。
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桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
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あったと思っています。つまり、「いわゆるダンス」というか、人が「こうい
うものがダンスだろう」と見ているような表現、様式、スタイルから「逸
脱していく」ということを引き受けながらダンスを更新していく、ということ
があったと思うんですよね。それが段 と々「ダンスってダンスだよね」
みたいなトートロジーというか、「こんなことやってたらダンスじゃなくなる
よ」っていうことで、「ちゃんと踊ろうよ」ということになっていった、というよう
な僕の印象があるのね。「普通のダンスでちゃんと踊るというのが大
事です」ということになっていった印象ですね。それは僕はあまり賛同
できないと。そうじゃないでしょ、と。
だからスタイルとしてのダンスということに固執していくと、そうなっていく
のかなぁと。それはある種の復古主義というか反動というか、そういう感
じがすごくしたんですよ。
野村─僕も2000年代後半、この頃になると演劇を中心にして、ダ
ンスもちらちら見ていました。印象としてですが、ある種の「ダンスとは
何か」シンドロームにかかっちゃって考え過ぎちゃってる感じのものと、
「ダンスってこういうものですよね」というのに分かれていて、例えば突
出して「ダンス」から逸脱していたとしても、それを受け取れないというよ
うなことがあったと思ってるんです。
「ダンスとは何か」を通って、逸脱していくことは大事なんだろうと思う
んですけど、桜井さん的にはどういうものをもっとも「ダンス的」だと考え
ていたんですか?
桜井─「ダンス」と言うならば、そこには「グルーヴ」がないといけな
いな、とは思うのね。つまり当時「踊らないダンス」ということで「頭でっ
かちだ」という批判が起こって、たしかにその批判には一理あるんだけ
れども、そこに「グルーヴ」さえあれば、「ダンスだ」っていうふうに言える
というところはあると思う。そこのところは非常に難しいね。「ダンスのこと
を考えるダンス」「メタダンス」は重要だと思う。ただ、そこにグルーヴ
がないと「ああ、頭でっかちなダンスね」ということになってしまうと思うん
ですよ。
野村─このあたりの話と関連して思い浮かぶのが「トヨタ・コレオ
グラフィーアワード」[14]の推移のことなんですが、2002年から2006
年まで毎年開催だったアワードが、2007年に1年休みがあって、2008年からは2年に一回の開催になり、審査の方向性も変わってい
きます。ダンスの状況として関連が強くあるんだろうと思うんですが、ど
うですか。
[14] トヨタ・コレオグラフィーアワード若手振付家の登竜門といえるアワード。公募からファイナリストに選出された数組が、一般公開の最終審査会で作品を上演し、「次代を担う振付家賞」(グランプリ)と「オーディエンス賞」が決定される。
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桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
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桜井─これは色んな場所で何度も言ってることですが、2005年
に『クーラー』で岡田利規がファイナリストにノミネートされましたが、
受賞には到らなかった。もし、トヨタアワードが彼にグランプリを出し
ていたら日本のダンス・シーンは今とは違う状況になっていたと思う
わけです。僕から見ると、それまでなんだかんだ言ってもダンスシー
ンを牽引していく役割を担っていたトヨタアワードが決定的に日和っ
たということですね。トヨタアワードは「2000年代の日本独自のダン
スの勃興の最大の果実であるチェルフィッチュ」を選ばない、という
選択をしたんです。
2 0 11年 =震災をどう受け止めたか
野村─次は2011年。「この10年間」という意味でここは聞いてお
きたいと思いました。
震災が起きて、僕自身も自分の活動を反芻するタイミングにならざる
を得なかったし、実際、住む場所を変えたり、というようなリアクション
を起こしたアーティストも居た中で、桜井さん自身は吾妻橋DX、ない
しはご自身のアートに対する考え方として、どういうふうに受け止めて、
吾妻橋DXでどういうふうに表現されたんでしょうか。桜井─ 2011年の地震が起こった時に、公演の予定は決まってた
んですね。地震が起こった後に「やるのか?」「やるべきなのか?」という
ことは考えましたね。それで「震災の後にやるとしたらどういうふうなこと
ができるのか」ということは考えたんですよ。
当時のパブリシティの中で文章にも書きましたけど、まず自分自身が、
震災の後の表現の可能性と不可能性みたいなことはすごく考えて。
僕も音楽をつくっているし、自分自身が表現者の端くれであるという気
持ちはあるので、そういうときに何ができるかということは考えました。そ
れで、表現者としての自分というのはそのとき、「震災とか原発事故に
対する応答というのは出来ない。ちょっと無理」と思ったんですよ。夏
のTPAM in 横浜のサマーセッションのときに宮沢章夫さんと三田格
さんのトークのモデレーターをやったんですけれども、それを企画した
時思ったのは、自分が今外に向かって意識的に行なっていること、つま
り「表現」として、何をしてるのかと考えたら基本的には「デモに行く」と
いうことだなと。とにかく「デモに行く」ということが自分にとってすごく大
事な行為だったんですよね。だから「〈表現〉としてのデモ」というセッ
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桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
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ションをやったんです。つまり、アーティストが何ができるか、といった
ら、デモに行ったりとか、被災地にボランティアに行ったりとか、普通の
人と同じ条件でやる、そういうことしかないんじゃないの? というくらいに
思ったんです。
それで、吾妻橋DXを2011年にやるのかやらないのか、どういう表現
が可能かとかいろいろ考えて、その結果として、殊更に反原発とかそう
いうような批評的なスタンスの公演としてやるとか、そのためにそういう
表現をする人たちを集めてやる、ということはしたくなかったんです。「い
つもの吾妻橋/ 2011年の震災の前の吾妻橋DXで、自分がここで
やっていることは何なのか/自分が観たいパフォーマンスが何なのか」
ということを今一度見直そうと。
加えて、震災後の世の中の「空気」というものを考えた時に、僕が一
番嫌だったのはなんだったかというと、自粛とか、ふざけたことをしたり
することを戒めるような同調圧力があったこと。つまり、「こういうときに歌
舞音曲は不謹慎である」というような空気がありましたよね。それは昭
和天皇が崩御したときもそうだった。「こういう非常時にふざけたことを
やってるとは何事か」というような空気があったんです。もうとにかくテ
レビつけてもテレビ東京だけがふざけたことをやっている、他はみん
な同じという。だから、そういう空気に対する違和感というのは自分に
とって大事で、やっぱりふざけたくなっちゃう。それはある種の心と体の
反動だと思うんですけど、「こういうときだからふざけたい」というふうに
思ったんですね。それで「じゃあ、いつもの吾妻橋DXでやればいい
んだ」と思ってプログラムを組みましたし、実際「吾妻橋的な人がライ
ンナップされたなぁ」と思ったんですよ。
……ところが、蓋を明けてみると、いわゆる震災後の日本人の様 な々
症例や症候としてのパフォーマンスが出てきた。「こんなことになると思
わなかった」というような……やっぱり2011年ならではのパフォーマ
ンスがすごくありましたよね。
その中の一番大きなものは、□□□の三浦康嗣くんの「スカイツリー
合唱団」というのがあって、
野村─僕はそれに出演していました。
桜井─そうだった。普通のきれいな合唱曲(『合唱曲 スカイツリー』)
を彼が作ってきて。「ダンスクロッシングの中に合唱かよ」というのはま
あいいんですよ。それは全然どうでもよくて、要は、そのきれいな歌の
内容が、「放射線の雨が降る」っていう非常に辛い歌詞で。僕はやっ
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てもらってもよかったと思ってるけど、「こういうものが出てきちゃったよ」
と。賛否両論だったけれども。
野村─なるほど。桜井さんの意図とは別に、そういう、震災のものを
受け取った表現が作品としては出てきちゃった、と。
桜井─そうそう。
野村─ベクトルがあっちゃこっちゃいってるようなそういう感じの公演
になったと。
桜井─そう。
野村─ちなみに、三浦康嗣さんの『合唱曲 スカイツリー』には、僕
は企画段階から相談にのっていました。主に僕が提案したのは「舞
台上で合唱する」と「三浦さんは作詞・作曲をする」というところです
ね。それでしばらく何にも連絡がなくて、本番があと10日くらいになった
ときに突然、「練習やります」ということで連絡がきて、行ってみたらその
「放射線の雨が降る」という歌詞の歌だった。
「放射線」というのは、単に原子力のそれというだけではなくて、「放射
線/環状線」という東京の都市の道路の構造みたいなことでもあるん
ですけど。
桜井─あと、2010年に「車AB」という三浦くんと快快の篠田千明スカイツリー合唱団 2011年 photo:聡明堂
「吾妻橋ダンスクロッシング 2011」フライヤー
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のユニットがやった『スカイツリー』という作品があって、それのスピン
オフという意味もあった。
野村─たしかその「1年の時間の経過を出したい」みたいなこと
は三浦さんの意志にあったと思いますけどね。だから、僕は曲と歌詞
を知って、合唱団で十数人が出演するというときに「それぞれの人が
この歌詞を歌うっていうのが納得できるのかな?」という不安みたいな
ものが、最後まで、あったといえばありました。桜井さんのキュレーショ
ンと各アーティストの作品の関係と同じで、「三浦さんはそういう曲を
書いたけど、じゃあみんな歌うの?」というジレンマは、2011年のそれ
だなと思う。
桜井─基本的には自分がすべてをコントロールするつもりでやっ
ているわけではないので、いつでもそういうことは起こるんだけれども、
ほんとに思ってもみない形でポロっと出てきちゃったなぁ、という感じで。
自分でもそれをどういうふうに評価していいのかということが未だにわ
からない。その後、三浦くんがスカイツリー合唱団をよそでやるときに
行って、自分も合唱団の一員になって歌ったりしたけれども、自分でも
咀嚼できないくらいのもので、いいとか悪いとかではなく、出るべくして
出てきた表現だなと思いますね。車AB(三浦康嗣×篠田千明)『スカイツリー』2010年 photo:横田徹
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「グルーヴィーな身体」「最先端の表現」
野村─続いて別の角度から、吾妻橋DXのキュレーションについ
て考えてみたいと思います。吾妻橋DXのほぼすべてのチラシ、パブ
リシティのキャッチコピーとして毎回「グルーヴィーな身体」と「最先端
の表現」というワードが打ち出されていて、先ほども「ダンスにはグルー
ヴがなければ」ということを仰っていました。この2つのキーワードにつ
いて、吾妻橋DXが終結した今の時点からから見返してみて、桜井さ
んがどう語られるのか、というのを聞いてみたいんですけど。
桜井─「グルーヴィーな身体」の「グルーヴィーである」ということは、
ふつうにリテラル(字義通り)に「生き生きとした身体」あるいは「血沸き
肉踊る身体」「ノリノリの身体」とか、そういうことでいいと思うんですけ
れども。ある種のmotionがemotionを引き起こす、そういうものとし
ての身体ということは「ダンス」というからには手放せない、ということで
すね。そして、そういうものはダンスだけではなくて、舞台表現/身体を
使った表現にはあって、そこを観たいということです。
野村─「パフォーマーのmotionが、オーディエンスのemotion
を引き起こす」ということですね。
桜井─そうですそうです。それをなるべく拡大解釈してきた、というと
ころはあります。先ほども言ったけど、ジャンルとしてのダンスというのは
自分にとっては大事なんだけど、それ以上に大事なのは、「ダンス的
な表現、ダンス的な身体というものがあらゆるところにあるんだ」というと
ころですね。
野村─「ダンス的」というのと「グルーヴィー」というのは同じこと、と。
桜井─そうです。で、これは「音楽的な身体」という言い方もできま
す。自分の中ではそのへん全部イコールで繋がってるんですけども。
野村─それと「逸脱」ということがすごく繋がってるのかなと思い
ますが。
桜井─音楽用語で言うと、「グルーヴ」とは何か、ということは厳密
に言える。つまり、まずビートとかカウントがありますよね。そこに規則正
しく正確に刻まれていくものがあって、その上にメロディとかフレーズが
乗っていて、これが突っ込んだり、もたったり、とか揺れるでしょ。ここにグ
ルーヴが生まれる、とそういうことなんですね。
野村─突っ込んだり、もたったりして「よい」、ということですね。
桜井─はい。音楽もそれによって成り立ってると思ってるから。規則
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正しくではなくて、規則正しいビートの上に、いろいろなうねりがある。
野村─だから、「ふざけてもいい」みたいなことですよね。
桜井─うん、「ふざけてもいい」。軍隊行進曲ではないので。規則
正しく歩くための音楽ではないので。
野村─なるほど。「吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!」のチラ
シ裏面にある木村覚さんのテキストが非常に内容が濃くて興味深
かったんですけど、タイトルにも「ふざけることの不可能性」と書いてあ
るように、「ふざけられること」みたいなことが桜井さんにとっては非常に
重要なんだなと感じています。
桜井─はい、ふざけられなかったら生きている意味が無い(笑)。あ
まりにも窮屈でそれは無理、ということですね。
野村─その表明がダンスとしてできればいいのではないか、という
ことですね。
桜井─うん。だから今、風営法の問題[15]がありますよね。ダンス
を自由に、いつでもどこでも踊る自由というのは絶対必要だし、学校で
教えられてやるようなものじゃないんですよ。だから僕は、風営法の話
と、学校の体育教育の中でダンスが組み込まれていくというのが、表
裏一体のセットになっていると思っていて、そういうのはちょっと許しがた
いんです。
野村─……で、「最先端の表現」ということなんですけれども。僕
の認識だと、この10年間、表現が多様化していった結果、「最先端」
というような言い方がだんだん難しくなっているような印象があるんで
すけど、どうですか。
桜井─これもね、こんなものはただのキャッチコピーだと思ってもらっ
てもいいんだけれども、自分の話でいうと、「深い表現」というものにプラ
イオリティを置くか、「見たこともないものに出逢いたい」ということにプラ
イオリティを置くか。どっちも大事なんだけれども、自分にとってどっちが
大事かっていうと、「見たこともないもの」を観たいんだよね。何か深め
ていくとか円熟していくとか、自分が見つけた方法を極めていくことの
大事さというのはもちろんあるんだけれども、それよりも日々 新鮮な気持
ちで生きていきたいな、というのが強いんです。
野村─……ということは「見たことない」=「最先端」ということなん
ですか。
桜井─そういうことです。そして、そういうことは、古びていくとか、消
費されてしまうということはもちろんあるんだけれども、でも、そのとき輝い
[15] 風営法の問題1948年に売買春防止の目的で制定された風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正
化等に関する法律)を根拠に、クラブやライブハウスなどにおけるダンスを規制する動きが
近年高まっている。詳細:Let’s Dance 署名推進委員会 http://www.letsdance.jp/
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ているものはそこにあるだろう、というふうなことなんですね。
野村─先ほどの手塚夏子さんの話とちょっと交差したかな、と思っ
たんですけど。手塚さんの表現って、何がしかの意味で非常に深め
られたものだというふうにも見れると思うんですけど、それをそのままや
るんではなくて、それに対して「吾妻橋ではもうちょっとPOPに」という、
言ってしまえば乱暴なオーダーを出して、
桜井─ふふふ、そうそう(笑)
野村─「見たことがないものとして、そのパフォーマーの良さが表出
しないかな」というようなトライを桜井さんが仕掛けたいんだな、という
ことで。
桜井─要するに、いろんなことを極めていこうとするとデリケートに
なっていく。繊細なところに入っていって、ちょっとしたことで良さが損な
われていく、という危険性がありますよね。それでいうと、吾妻橋DXの
ようなフォーマットというのは乱暴ですから、そういうパフォーマンスには
そぐわないのかもしれないとは思うよね。でも、その乱暴なフォーマットと
か雑な環境のなかでもできる強度、というのは必要だとは思っていま
す。「繊細さ=ひ弱さ」ということではよくないのではないかと。
「ガラパゴス」と「国際性」
野村─先のCINRA.NETでのインタビューのなかで、桜井さん
が「日本のガラパゴス性が面白いんだ」ということを仰っていて、国際
的なアーティストが評価されたり、フェスティバル /トーキョーが始まっ
たり、国際的なプラットホームが増えているなかで、「ガラパゴスがい
い」という断言はすごくユニークだなと思ったんです。
桜井─「ガラパゴス」ってどういうことかというと、「他のところでは見
られないようなヘンな形でいろんなものが繁茂していく」ということです
よね。理想をいえばそういうふうな形で、グローバル・スタンダードとか
にとらわれないで勝手にいろんなことをやってる面白いものが出てきて、
それを他の国の人たちが見て、「面白い!」ということで国際的に流通
していくということがあれば、それが一番面白いと思います。「向こうの
フォーマットに合わせたんで、これ売れるんじゃないですか」というのは
あまりよくないな、ということですね。
野村─そういうことなんですよね。そもそも僕が疑問をもったのは
「ガラパゴスなものが面白い」と言いながら、チェルフィッチュにしろ、
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contact Gonzoにしろ、吾妻橋DXでピックアップされたものが海外
でも上演機会があるということになっている点だったんですが。
桜井─それはすごくよかったですよ。向こうに合わせたわけではな
いものが、出て行って評価されるというのが、やっぱりいいですよ。
この 1 0 年間で変化したこと変化しなかったこと
桜井─自分に関しては「ダンスを盛り上げていく」というような気
持ちがあったんだけれども、段 と々必ずしもそうではなくて、「面白いこ
とのほうが大事だ」ということになっていったので、ダンスについてはス
タンスが変わりましたね。それでも「グルーヴが大事」ということだけ
は変わらなかったんだけれども、それも2011年以降は、「楽しければ
いいのか?」ということを日常的に考えるようになっちゃったので、ほんと
にノーテンキなものを称揚するっていうことが、自分でもちょっと辛いとこ
ろがあって。自分が分裂してるよね。本当はふざけ倒したいんだけど
も、ふざけることのエネルギーとか、本当にふざけ倒すっていうことが
一番大事なのかどうかというのは、すぐにわかんなくなっちゃいますよ
ね。だから、震災以降はほんとに「よくわかりません」という感じです
ね。全然自信をもって「こっちのほうでやっていくんだ」という感じはなく
なっちゃってるんで。
野村─吾妻橋DXやっていたこの10年間というタームでの、ダン
スの状況はどうですか。
桜井─ダンスの状況は、ほんとに2004年の感じの状況とは様
変わりして、ちょっと違う状況になってますよね。さっきも言ったように、
いわゆる「ダンス」回帰っていうか「ダンスは踊ってなんぼでしょ」っ
ていうね。
野村─たとえば、テクニック重視ということですか?
桜井─そういう面もあるし、「ほんとに小さな動きにもそこにダンスは
ある」みたいな話ではなくなってきて大味になっていく、ていうかね。わ
かりやすくなっていっているとも言えるし、誰が見てもダンス、という溌溂と
したダンスがメジャーな位置にあるんじゃないですかね。わかりやす
いとか、親しみやすいとか。
野村─これは何なんですかね。演劇に照らして考えると、ある意味
「物語回帰」というか「演劇っぽい演劇」でいい、というような気持ちとい
うのは、僕自身、震災の前後から持っていて。今聞いていて「そういうこと
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と軌を一にしてるのかな」というのも思いましたけれども、僕自身、なんでそ
れがそうなのかについては掘り下げられてなくて、分裂はしてますね。
桜井─ああなるほど。それ、僕の場合、ダンスだと、繊細なダンスと
かストイックなダンスに惹かれるってところはありますね最近。それこそ
お能とか上方舞とか。泣けるダンス(笑)。
「N E O 吾妻橋ダンスクロッシング」を考えてみる
野村─……と、ここまででだいたい振り返りはお終いということ
で、ここから先は会場の方から感想などもいただきながら、それを種に、
「NEO吾妻橋ダンスクロッシング」を考えて、なにかいいアイディア
があったら頂きたいと思っています。
まず先立ってひとつお伺いすると、桜井さんは開催側ですけど、ここで
あえて客観的に「吾妻橋DXの役割」って何だったと思いますか。桜井─うーん、間違いなくいえるのは、「クロッシング」は、かなりでき
たと思います。つまり、いろんな表現が一堂に会して、同じ平面に並んだ
ものを受け取ってもらう、っていうことですね。普通にいえば、「ジャンル
の垣根を壊す」というか。演劇の人にはダンスも見てもらいたいし、ダン
スの人も演劇面白いよ、っていうそういうクロッシングはかなりできたと
思いますね。ジャンルに籠るということじゃなく、お客さんがいろんなものを
同じ「表現」として受け取るというふうなことがいいんじゃないかなぁ、と思っ
ているので、そういうことはかなりできたんじゃないかと思いますね。
野村─本当はダンスとか演劇ってもの自体が曖昧なものなのに、
ダンスのお客さんならダンスしか観ないし、演劇のお客さんなら演劇
しか観ない、というふうに、その人たちが「ダンス」「演劇」と決めたもの
しか観ない、という「観客の分断」を混ぜこぜにしながら、表現も更新
していくということがやりたかったし、それはできたと。
桜井─できた。ただ、当初の目的のうちのひとつの「ダンスを盛り
上げていく」っていうことは頓挫しましたね。(笑)
野村─ダンスを盛り上げていくことに今後も、桜井さんの関心があ
るんでしょうか。
桜井─いや、こだわりはものすごくあるね。ダンス、だって俺好き
だから。
野村─ダンスにこだわりはありつつも、盛り上げていくことはできな
いだろうと?
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桜井─無理矢理盛り上げるというのは本末転倒なので。2004年
に始めた時は、「こんなに状況が面白いから、これを転がしていけば
もっと大変なことになるんじゃないか」みたいな山師的な発想だったけ
ど、今はそうはなっていないから、無理矢理盛り上げるというのはなか
なか辛いものがありますね。
野村─仮に、僕が次の吾妻橋DXを提案するとしたら、ここ数年
の様子からして思っていたことでもあるんですけど、ここ(アサヒ・アートスク
エア)の空間でやるということが一つの枷になっているのかなと。一つの
空間に舞台と客席を作ってしまって、ショーケースという形で同じ舞台
の上に乗っけていくということだと収まりきらないくらいに、桜井さんの取
り上げたいものが「流出」しちゃってるというか。そういう感じがあるから、
「空間を考え直したほうがいいのかな」と思っていたんですけど、あん
まりそういう感じでもないんですか?
桜井─たとえば小沢康夫さんが横浜でジョン・ケージ的な同時
多発的なパフォーマンスをやったの[16]とかはものすごく面白かった
んだけども、あれは会場がものすごく大きいからできるんだよね。同じ
大きな会場の中のパフォーマンスが緩い形で繋がってるのか繋がっ
ていないのかわからない状態で、しかも一日中やっているというのは、
可能性がありますよね。ショーケースの、同じ時間に集まって客席も組
んで、というやり方はかなり制約があるとは思いますね。
野村─桜井さん自身は、吾妻橋DXをやりながら制約とは思って
なかったんですか?
桜井─思ってたところはあるよ。ただそれはマンパワーとか物理的
な問題で。最低8組くらいは並べたいので、そのときに一組15分に
なってくるわけですよね。でも何日もやるんだったら、1日2組で1時間
ずつの作品とかもできるわけだよね。そういう形ではなく圧縮してやっ
てきたので、違う形でということだったら、いろいろ可能性はあると思うん
ですよね。短いものがいい、というのは必ずしもそうではないし、一堂に
会するということでなくて毎日日替わりでやるということもあるだろうし。
野村─やり方はいろいろある、とすると、桜井さんの展望が重要に
なってきますね。
桜井─それは、ない。だから困ってる(笑)。だから1回リセットすると
いうことになってるんだけどね。このやり方はちょっと限界という感じで、ど
ういう違ったやり方がいいのか、というのを考えなきゃいけない、というこ
となんですね。
[16] ジョン・ケージ的な同時多発フォーマンス
2009年10月に横浜の新港ピアで行われた『停電EXPO』。出演は梅田哲也、神村恵、contact Gonzo、捩子ぴじん、堀尾寛太。「注目の若手アーティストたちによる、光と音と映像、身体とメディアをめぐる実験的パフォーマンス。21世紀の映像と芸術のあり方を問う」(告知より)
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野村─もしオーディエンスの皆様から何かあれば、いただけると話
が広がるかなと思いますがいかがでしょうか。
桜井─ぜひ、知恵を授けてほしいのです。(笑)
会場①─今日よかったと思うのは、ダンスというものに対して、桜井
さんが今なぜ憂鬱か、というと「ダンスが好きだからなんだ」ということ
が伺えたことでした。好きだから、こだわってるから憂鬱にならざるを得
ない、と。個人的には「べつにダンスってことにこだわらなくていいじゃ
ん」とも思うんですが、桜井さんはたぶんそこを煩悶されていくんだろ
うなと思いました。
そこでひとつあるのは、吾妻橋DXに来ていたお客さんも「なんとなくイ
ケてるっぽいから観に来よう」という人がいると思うんですけど、吾妻橋
DXが「グルーヴィー」ということを打ち出すなかで、そのお客さん達に
どのくらい「グルーヴィー」ということが伝わっていたのかというと、ちょっと
疑問に思うところがありますよね。まあこれは、批評家の問題でもある
んですけど、このチラシに木村さんが書かれているようなことを、もっと
言っていったほうがいいんじゃないか、と。なので桜井さんは「ダンス
批評家をやめた」とか言わないで(笑)、ダンス批評家として「グルー
ヴィー」ということを言いつづけていく、ということをやっていってほしいと
思います。
先週の「ファイナル!」でも、観て、その場ではよくわからないものがある
わけです。その場で面白いか面白くないかでいうと正直あまり面白く
ないんですけど、それが蓄積していくなかで、「豊穣さ」につながる部
分というのがあるとも思います。なので、その場の瞬間反射的な面白さ
とかを追求する必要はそこまではないし、ショーケースだったら8本と
かうちで1本でも面白いのがあればそれでいい、みたいなところがある
と思うんです。
そういう意味で、ダンスに限らず、パフォーマンス全般のことで最近す
ごく危機感があるのが、パフォーマンスを記述するボキャブラリーが
煮詰まっているんじゃないか、ということです。書くということのなかで、も
のすごく摘み取られていく。その部分で「ボキャブラリーを豊かにして
いく」ということは、大変だと思うんですけど、桜井さんにぜひやっていっ
てほしいと思いました。
桜井─ありがとうございます。たしかに、とりあえずお客さんの満足
度みたいなことは、プレッシャーとしてはここ何年かありました。そうする
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│INTERVIEW│「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
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と、自分のラインナップもガーッとショーアップしたものに走りがちで、そ
こをもっとゆったりとしたものに、みたいなことが大事だっていうことはわ
かってても、つい迂回しちゃう、という感じが自分の中でもあって。「こうい
うフォーマットじゃないものをやりたい」っていうのはそういうことなんです
ね。うん。
会場②─フォーマットということに関連してお聞きしたいんですが、
桜井さんが手塚さんをキュレーションされて「POPな形で」というと
き、あるいはこれまで10年間の吾妻橋DXにおける「POP」というの
はどの程度のことを設定していたんでしょうか。
というのは、アサヒ・アートスクエアは、フィリップ・スタルク[17]が設計し
た個性的な建物で、ある種のハイソサエティ/ハイカルチャーな匂い
があって、言ってみれば、人によっては敷居が高い感じの場所である
のは確かだと思います。「ガラパゴス化させる」ということでいうと、吾
妻橋DXは10年に渡って、見事にこの独特の空間の中で特殊な進
化をしてきた成果があると思うんですが、一方で、より広いPOPさとい
うことでいうと、この外にはあまり出て行かなかった。KENTARO!!の
水上バスパフォーマンス(2010年)や、河童次郎の「河童橋ダンスク
ロッシング」(2007年)が外に出てみたというのはあるけれども、どうしても
この黒い建物の中に入ってしまうという感じがあって、野村さんがさっき
仰ったようなことは、私も同じような感想があります。ここは外に広い空
間があるし、できるんじゃないかなと。
あと、ショーケースでやるときに、もちろんキュレーターとして桜井さんが
選んだということで一定以上の質や評価が与えられているんですが、
一方で、コンペティションのような形を作って、かたくるしくなく、ふざけ
ながらも、お客さんを含めて巻き込んでいくというのもいいんじゃない
か。隅田川花火大会みたいに、毎年一回そういうのがあったらいいと
思います。
あと「POP」のことについての雑感として言うと、10年間のチラシをぱっ
と見て、最初の数年間は五月女ケイ子さんのイラストが使われてま
すよね。そのテイストは今、台東区でいとうせいこうさんが総合プロ
デューサーを務める「したまちコメディ映画祭」[18]のほうに受け継が
れている。あちら側は、台東区のバックアップを受けながらですが、ボ
ランティアスタッフとか、コミュニティを巻き込んでいく感じがあります。
こういうことを参考にして、ガラパゴスでありながらも「面白いものあるか
ら寄っといで」みたいな感じができると面白いのかな、と思ったんです
[17] フィリップ・スタルク1949年パリ生まれのデザイナー。建築・インテリア・プロダクトデザインなど様 な々分
野を手がけている。アサヒ・アートスクエアが含まれるスーパードライホールはスタルクが
デザインした。[18] したまちコメディ映画祭2008年から毎年秋に開催されている国際コメディ映画祭。
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│INTERVIEW│「吾妻橋ダンスクロッシングの10年とこれから」
桜井圭介│Keisuke Sakurai × 野村政之│Masashi Nomura
Research Journal Issue 01
スクエア[広場]
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がいかがでしょうか。
桜井─それでいうと、僕個人の能力のキャパシティとか人徳の問
題があって……、一人じゃ無理なんだなおそらく(笑)。今も「実行
委員会」とは名乗っているんだけれども、本当の意味での実行委員
制みたいな感じの体制にして、いろんなところに伸ばしていくことがあ
るべきなんだろうな、とは思いますね。自分がリーチできる範囲がこの
くらいしかない、というのが僕の場合の限界。もちろん、「プロジェクト
FUKUSHIMA!」[19]とか、寺山修司の『ノック』みたいなことをやり
たいとは思うよね。でも、そういうことをやるためには、そういう組織を作っ
ていかなきゃいけないから、だから、僕自身が開かれて行かないと次
の10年はできないですね(笑)
野村─「POP」について、もう少し言うとどうでしょうか。桜井─「POP」というのは「大衆的」ということではなくて、いわゆる
「POPミュージック」の「POP」ということなんだけれども、わかりやすい
とか親しみやすいということは、俺はやっぱり自分の限界でできない。
やりたくない。だからもうそこですでに限界を見えているといえばそうな
んだけど(笑)
野村─ある意味矛盾してるということですね。
桜井─万人受けということは全く考えてなくて、でも「わかるやつに
はわかればいい」みたなのもすごく嫌なので、そういうつもりも全然ない
んだけれども。
野村─ちょうど時間が来ました。今日のお話をお聞きしていて、やっ
ぱり、やってきたことの成果や可能性はまだまだあるなかで、やろうとし
てることに対して、いまこの企画を構成している形やチーム体制の点
で耐用年数が来た、ということでしかないのかな、というのは強く感じま
す。吾妻橋DXのようなことにはもっとやれることがあると思うし、ただ電
池切れというだけで、桜井さんには、一回充電して頂いて、もう一回存
分に放電してもらえればいいんじゃないかな、と。
桜井─充電します。……はい、頑張ります。
野村─前向きに、吾妻橋DXの次の形を待ちつつ、今日のお話は
これで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
桜井─どうもありがとうございました。
[19] プロジェクトFUKUSHIMA!2011年3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を受け、同年5月、遠藤ミチロウ、大友良英、和合亮一ら福島出身/在住の音楽家、詩人を中心に、「福島の今」を発信していくべく立ちあげられた企画。http://www.pj-fukushima.jp