リサーチ・ジャーナル01 高山明「広場と演劇の交わるところで」

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Square 021 Research Journal Issue 01 スクエア 広場001 / 010 キーワード広場 演劇 パフォーマンス 都市 コミュニティ 東京 高山明Akira Takayama 演劇ユニットPort B 主宰演出家1969 年生まれ。演劇ユニットPort B 主宰。『サンシャイン62』、『東京オリンピック』 はとバスツアー、『個 室都市』シリーズ 東京、京都、ウィーン、『完全避難マニュアル 東京版』 2014 年よりフランクフルト、サンパウロ、 ニューヨークにて展開、『国民投票プロジェクト』 現在も継続中『光のないⅡ 福島 エピローグ?』、『東京ヘテ ロトピア』など、ツアーや社会実験的なプロジェクトを現実の都市空間で展開させる手法は、演劇の可能 性を拡張する試みとして国内外で注目を集めている。 2013 9 月に『一般社団法人 Port ポルト観光リ サーチセンター』を設立し、観光事業にも活動範囲を広げている。対談集に『はじまりの対話 Port B 国民投票プロジェクト』 現代詩手帖特集版思潮社がある。 広場と演劇の交わるところで

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Square

021

Research Journal Issue 01

スクエア[広場]

001 / 010

[キーワード]

広場

演劇

パフォーマンス

都市

コミュニティ

東京

高山明│Akira Takayama [演劇ユニットPort B主宰/演出家]

1969年生まれ。演劇ユニットPort B主宰。『サンシャイン62』、『東京/オリンピック』(はとバスツアー)、『個

室都市』シリーズ(東京、京都、ウィーン)、『完全避難マニュアル 東京版』(2014年よりフランクフルト、サンパウロ、

ニューヨークにて展開)、『国民投票プロジェクト』(現在も継続中)、『光のないⅡ(福島 ─エピローグ?)』、『東京ヘテ

ロトピア』など、ツアーや社会実験的なプロジェクトを現実の都市空間で展開させる手法は、演劇の可能

性を拡張する試みとして国内外で注目を集めている。2013年9月に『一般社団法人Port(ポルト)観光リ

サーチセンター』を設立し、観光事業にも活動範囲を広げている。対談集に『はじまりの対話─Port B

国民投票プロジェクト』(現代詩手帖特集版/思潮社)がある。

広場と演劇の交わるところで

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

Research Journal Issue 01

スクエア[広場]

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どれくらいの人が集まっているのだろうか。広場は聴衆で埋め尽くさ

れ、スポットライトに照らし出された鳩山由紀夫氏が最後の選挙演説

をしている。異様な熱気に、この場所から時代が変わるかもしれない、

という期待が膨らんだ。(反対側の池袋駅東口前では時の首相である麻生

太郎氏が演説をしていたらしい)。2009年8月29日、池袋西口公園の光

景である。選挙戦最後の演説はこの広場で行われ、翌日の衆議院

議員総選挙で民主党が政権交代を果たした。「広場」と聞いてまず

私の頭に浮かんだのは、あの日の池袋西口公園だった。

ただその時はじめて広場に関心をもったというわけではなく、私は一貫

して広場をテーマにしてきたと言ってよい。むしろだからこそあの場にい

たのだし、広場の見せた普段とは全く別の顔に、改めて興奮を覚えて

いたように思う。私がなぜ池袋西口公園にいたかと言えば、数ヶ月後

に始まる『個室都市 東京』という公演の準備のためだった。まず場所

を知らなければ話にならないということで、24時間×7日間、月曜日か

ら日曜日まで、時間や曜日ごとに変わっていく広場の地勢図をひたす

ら観察していた。『個室都市 東京』は『フェスティバル/トーキョー』と

いう演劇祭への参加作品で、そのメイン会場が池袋西口公園(この

広場内にある東京芸術劇場がメインの劇場だったという意味でそうなのだが)で

あるため、この広場の広場性それ自体をテーマにしようと考えた企画

であった。どんな作品だったか、簡単に説明したい。池袋西口公園[8月29日]の様子

photo: Akira Takayama

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

Research Journal Issue 01

スクエア[広場]

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池袋西口公園の真ん中に「個室ビデオ店」を一週間仮設する。も

ちろん本物の個室ビデオ店ではなく、その機能を模倣した個室ビデ

オ店のイミテーションで、店内の構造からシステムまですべて本物に

倣った。観客は陳列されたDVDを選び、個室ブースで好きなだけ鑑

賞できる。ドリンクバー飲み放題。カップヌードルなどの軽食もとれる。ラ

ンチのデリバリーもあった。24時間営業だから「宿泊」も可能。つまり

個室ビデオ店という、遊びや暇つぶしだけでなく、食や住を済ます避

難所としても機能する空間を作ったわけである(性欲処理の場という側面

は扱えなかったが)。ただDVDの内容は本物と異なっていて、池袋西口

公園内で30個の同じ質問を投げかける一問一答インタビューを行

い、それを一人につき一枚のDVDにする。陳列台に並んだDVDは300枚以上になった。暇をつぶす老人、通路代わりに使う学生やサラ

リーマン、たむろする外国人、そこで暮らす路上生活者、ナンパする人

にされる人、ダンスの練習をする若者たち、劇場に舞台を見に来る人

たち……等 、々池袋西口公園には多種多様な人たちが行き交い、

集い、常になにかが起きている。「ひろびろとひらけた場所。また、町の

中で、集会・遊歩などができるように広くあけてある場所。」というのが広

辞苑による広場の定義だが、池袋西口公園は、集会や遊歩の場とし

てはもちろん、飲み食い、おしゃべり、鑑賞、観察、出会い、避難、そして

生活の場として、多様な人 を々受け入れる場所になっている。こんなに『個室都市 東京』[2009]

photo: Masahiro Hasunuma

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

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『個室都市 東京』[2009]

photo: Masahiro Hasunuma

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

Research Journal Issue 01

スクエア[広場]

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広場らしい広場はなかなかないと思う。選挙活動の最終地に選ばれ

るだけのことはある。そこに渦巻く声を拾い集め、閲覧可能にするととも

に、内と外という境界線を持つ建造物をインストールしたことで、しかもそ

れが池袋西口公園そのものを抽象化した「個室ビデオ店」であったこ

とで、店の内にいても外にいても、そこが「広場」であるということが再発

見される仕組みになっていた。もう一つ、私が意識したのは目の前にそ

びえる東京芸術劇場である。その中で上演されている演劇を否定す

るつもりは全くないが、舞台の上で行われることだけが演劇なのではな

い。『個室都市 東京』もまた演劇であり、さらに池袋西口公園という広

場それ自体が演劇なのである。言ってみれば「個室ビデオ店」は広場

を異化し、広場=演劇であることに気づかせるための仕掛けであった。

広場で繰り広げられる人間模様がドラマ=演劇である、というような話

ではなく、広場こそが本質的に演劇なのである。それを理解するには

ギリシャ時代まで遡らねばならない。

『個室都市 東京』[2009]

photo: Masahiro Hasunuma

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

Research Journal Issue 01

スクエア[広場]

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シアター、テアーター、テアトル、テアトロ……、日本で「演劇」と呼ば

れるものの起源は、ギリシャ語の「テアトロン」である。この語はもともと

古代ギリシャ劇場のある部分を指していた。今の感覚で考えれば舞

台ということになりそうだが、実はそうではない。テアトロンとは客席を

意味する言葉だったのである。観客のいる客席が演劇を意味する語

として残り、いまだにその語が演劇一般を指している。私はそのことの

意味を重く受け止めたいと思う。つまり演劇とは客席であり、客席で

観客が見たり、聞いたりすることが演劇の本質なのだと。舞台上で行

われることはきっかけに過ぎず、それを受容した観客がなにを考え、ど

んな議論をし、どのように市民の意志を決定していくか、そこに重点が

置かれていたわけである。その意味で、演劇は政治的なイベントで

あった。女性や奴隷は排除され、観客は成人男性の「市民」のみで

あったが、彼らは「市民」の義務として、お金をもらって、仕事として、演

劇を見に行った。見に行ったというのは正確ではない。参加したと言う

べきだろう。劇場という場に集まり、イベントを共有し、そのイベントをネ

タにコミュニケーション空間を作る。これが演劇であるならば、「演劇」

より「芝居」と言うほうがテアトロンの語感に近いかも知れない。人々

が集い、芝に居る。これが芝でなく広場であっても十分成り立つに違

いない。受動的に舞台を受け入れるだけの場というイメージで固まっ

てしまった「客席」より、「広場」といった方がその語感をうまく言い表す

ように思う。というより、発想を逆転させて演劇を捉え直すべきなのだ

ろう。つまり、人 が々広場に集い、そこでなにかを見たり、聞いたり、考え

たり、議論したりするコミュニケーション空間が演劇なのだと。極端に

言ってしまえば、演劇とは「広場」を作る活動なのである。広場こそが

本質的に演劇である、と書いた意味はここにあったし、この考えは私が

やってきた演劇活動の根本につながっている。人がどのように集まり、

どんなコミュニケーションを行い、いかなるコミュニティを作っていくか。

そのための環境作りが、つまり広場をどうデザインしていくかが、私に

とっては演出であった。

広場をデザインすると書いたが、『個室都市 東京』の例を見れば明

らかなように、池袋西口公園は誰かにデザインされた広場で、私は

すでにそこにある広場の広場性を顕在化してみせたに過ぎない。広

場は異化されたかも知れないが、その可能性は拡張されてはいな

い。広場という概念も更新されてはいないだろう。もっと言えば、池袋

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

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西口公園という広場から演劇を捉え直し、演劇の可能性を拡張して

もらったと言ったほうが正確だと思う。では逆に、演劇から広場を捉え

直し、広場の可能性を拡張したり、その概念を更新したりすることがで

きるのだろうか。この問いに挑戦した別のプロジェクトを紹介したい。

翌年2010年の秋に作った『完全避難マニュアル 東京編』である。

『完全避難マニュアル 東京版』の入り口はインターネット上[http://

hinan-manual.com]にあった。特設ウェブサイトを訪問すると自動的に

アンケートが始まるようになっている。「目的なく山手線を一周したこと

がありますか?」、「待ち合わせでは人を待つ方ですか、待たせる方で

すか?」などのアンケートに答えていくと、「あなたに相応しい避難所は

大塚駅です」といった診断結果が出る。そのページに飛ぶと大塚駅

から避難所までの地図がダウンロードできるようになっているが、行く

先がどんな場所なのかは分からない。地図のナビゲーションに従い

実際に訪ねてみると、普通に生活していたらなかなか接することのない

コミュニティとの出会いが待っている。大塚駅の場合はイスラム教の

モスクであった。ほかに座禅の道場、路上生活者のコミュニティ、星

占い、手相占い、炊き出し、プラネタリウム、埠頭、若者たちのシェアハ『完全避難マニュアル 東京版』[2010]

photo: Masahiro Hasunuma

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広場と演劇の交わるところで

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『完全避難マニュアル 東京版』[2010]

photo: Masahiro Hasunuma

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

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スクエア[広場]

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ウス、いろんな世代が同居するコレクティブハウス、バックパッカーの

集うゲストハウスなどなど、正確なダイアグラムを刻み、東京を1時間

で一周する山手線的な時間からこぼれてしまったような時間を生きる

場やコミュニティが選ばれた。山手線29駅すべてにこうした「避難

所」を設け、参加者は好きな時に好きなだけ「避難所」を訪ねること

ができる。誤解のないよう説明を加えておくと、一般的な意味で都市

生活から取り残された人たちを「避難民」と呼び、そうした人たちが作

るコミュニティを「避難所」と名付けたわけではない。私たち参加者

が避難させてもらえるような場所を「避難所」に設定し、画一化され

た山手線的時間に従わなくても、むしろ従わない方が、豊かに生きて

いけるかも知れないというモデルの数 が々「避難所」だったのである。

実際このプロジェクトに参加してくれた「観客」は自らを「避難民」と

呼んだ。参加者は「避難所」を訪ね、誰かに出会い、なにかを見聞き

する観客であると同時に、「避難」の身振りを演じる“パフォーマー”で

あった。こうした「避難所」一つ一つが広場的な性格を持っていたこ

とは間違いないが、さらに注目すべきは参加者の“パフォーマンス”に

よって編まれていく29の「避難所」のネットワークである。一つ一つは

多様で、共通点など全くないように見える場所やコミュニティが、「避

難」という身振りで繋げられると、「避難所」というネットワークになり、あ

る種の「広場」を作っていったのだ。その「広場」を俯瞰で描写する

のは難しいが、ツイッターやFacebookなどのソーシャルネットワーク

を通して、それはある程度可視化されていたように思う。タイムライン

上に並んでいく膨大な呟きは、東京という都市にできた「避難民」た

ちのネットワークをリアルタイムで表現していた。彼らもそのことを意識

し、ソーシャルネットワーク上でコミュニティを作り、現実の都市のなか

にコミュニティを拡大していった。あるいはその往復運動のなかでコ

ミュニティが作られていったのかも知れない。一ヶ月の公演期間の終

わりに、私は「避難民」たちに招かれたのだが、そこは彼らが新たに

設置した30番目の「避難所」であった。

物理的に広場を作ることだけが広場のデザインではない。池袋西

口公園のように実体をもった広場だけが広場ではなく、『完全避難

マニュアル 東京版』のように演劇から広場を捉え直すことで、また、

参加者の動きによって広場が作り替えられることで、その可能性は広

がったのではないかと思う。少なくとも「広場をデザインする」新しい手

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広場と演劇の交わるところで

高山明│Akira Takayama

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スクエア[広場]

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法を発見した、と自分では思っている。それはともかく、インターネットが

これだけ発達し、ヴァーチャルな空間のいたるところに広場やコミュニ

ティが無限に増殖していく時代に、物理的な広場だけにこだわってい

る訳にはいかないし、ましてや劇場という特権的な場だけに広場/演

劇を閉じ込めるのは反動的ですらある。だからと言ってヴァーチャル

な広場さえあれば事足りると考えるのも極端に過ぎるだろう。現実に

都市はあり、様 な々コミュニティは物理的空間との関係のなかで存在

している。そのことを無視した出会いや集いやコミュニケーションはど

うしたって貧しいものにならざるをえない。リアルとヴァーチャルを行き

来するような「広場」が求められている。それはレイヤーとして現実の

都市に出現する「広場」だ。この「広場」は、参加者によって作り替え

られ、更新されていく“パフォーマティブ”な「広場」である。「広場」が

都市を舞台に“パフォーマンス”する、これが究極のイメージだが、この

イメージには未来の展開への密かな期待が込められている。それが

演劇であるというフィクショナルな枠組みは、「広場」の出現を促し、そ

の“パフォーマンス”を助けるであろう。やがて、時間の経過とともに演

劇という枠組みが忘れられ、「広場」が実在する都市の機能になった

とき、ついに「広場」は「嘘から出た誠」になる。“パフォーマンス”の真

価が問われるのはそれからだ。