翻訳:ジョン・サール『心・言語・社会』(1, 2, 4, 6章のみ)

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1 言語社会 ジョンサール

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John Searle, Mind, Language, Society (1998)

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1

心・言語・社会

ジョン・サール

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Ⱥ

2

John R. Searle

Mind, Language, and Society: Philosophy in the Real World

Basic Books, 1998.

(translation: optical_frog)

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3

目次 第1章 基本形而上学:実在と真理 ............................................................. 5

啓蒙のヴィジョン:実在とその理解可能性................................................... 5

哲学入門 ........................................................................................................ 9

デフォルトの見解 ........................................................................................ 11

実在と真理:デフォルトの見解 .................................................................. 14

実在論への 4 つの挑戦 ................................................................................ 20

懐疑主義,知識,現実 ................................................................................. 25

外在的実在論は正当化されているか? ........................................................ 29

無神論を超えて ........................................................................................... 31

第 2 章 ぼくらはいかにしてこの世界に適合しているか:生体現象としての

心 34

意識の 3 つの特性 ........................................................................................ 34

デフォルト見解どうしの衝突:心身問題 .................................................... 38

意識の還元不可能性 .................................................................................... 46

随伴現象説の危険 ........................................................................................ 48

意識の機能................................................................................................... 52

意識・志向性・因果性 ................................................................................. 53

第 4 章 心はどのようにはたらくか:志向性 ............................................. 55

意識と志向性 ............................................................................................... 55

志向性を自然化する:暗黙の常識と再び衝突 ............................................. 58

生物学的現象として自然化された志向性 .................................................... 63

志向状態の構造 ........................................................................................... 66

志向状態の型と内容を区別する ............................................................... 66

適合方向................................................................................................... 67

充足条件................................................................................................... 69

志向的因果................................................................................................... 70

志向性のバックグラウンド.......................................................................... 73

第 6 章 言語はどのようにはたらくか:人間の行為としての言語行為 ...... 76

言語行為:発語内行為と発語媒介行為 ........................................................ 77

「意味」のいろんな意味 ............................................................................. 79

意味とコミュニケーション.......................................................................... 83

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言語行為の諸型 ........................................................................................... 85

構成的規則と記号主義 ................................................................................. 89

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第1章 基本形而上学:実在と真理 Basic Metaphysics: Reality and Truth

啓蒙のヴィジョン:実在とその理解可能性

The Enlightenment Vision: Reality and Its Intelligibility

17 世紀の科学革命から 20 世紀の初期まで,教育ある人にならこの宇宙のあ

り方を知り理解することが可能だと信じられていた.コペルニクス革命からニ

ュートン的機械論,電磁気理論を経てダーウィンの進化論に到るまで,宇宙と

は,筋道が通っていて理解可能であり,知識と理解がたゆまず成長していくに

つれてしだいに把握しやすくなってゆくものだった.しかも,教育ある人間に

とってみれば,科学的知識は宗教的信念とカンペキに整合し,さらにはそれに

付随するものだとさえ感じられていた.こういうふうに信じられるには,2つ

の形而上学的な領域を区別する必要があった──心的・霊的なものと物理的・

物質的なものとが分けられたんだ.宗教が霊的な領域を,科学が物質的な領域

を,それぞれ司った.こういうふうに心と体とを区別することは,それ自体で

正当化できるように思われていた.これには長い歴史があって,その基礎の大

半はルネ・デカルトの仕事に由来する.彼は,みずからも大いに 17 世紀の科

学革命に関わっていた哲学者だ.19 世紀後半と 20 世紀初頭の偉大な「転倒的

subversive」革命家であるジークムント・フロイトとカール・マルクスにしても,

デカルト式二元論こそ退けながらも,みずからの仕事を 17 世紀以来つづく流

儀の科学に連なるものと考えていた.フロイトは,心の科学をじぶんは創始し

ているのだと思っていたし,マルクスは,じぶんは歴史と社会の科学を創始し

ているとみなしていた.

要するに,西洋文明のある時期には,宇宙は完全に理解可能であり,自然は

体系立てて理解できるだろうと見込まれていた.この二本立ての見込みが形を

とってあらわれたのが,西洋啓蒙主義の一連の古典的な立言だ.そこで,こう

した見込みを「啓蒙のヴィジョン」と呼ぶことにする.こうした楽天的ヴィジ

ョンがいちばん隆盛をみせたのは 19 世紀後半,とりわけ,ビスマルクのドイ

ツとヴィクトリア朝イギリスでのことだ.このヴィジョンをいちばん雄弁に示

しているのは,ドイツの数学者・哲学者のゴットロープ・フレーゲとイギリス

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の論理学者・哲学者のバートランド・ラッセルの 2 人だ.

20 世紀前半の数十年にはじまって,知識に関係するものであるなしに関わら

ず多くの出来事の挑戦を受けて,事物の本性とそれを認識する人間の能力につ

いての楽観主義は凋落してしまった.19 世紀的な知性への楽観的信頼をなぎは

らってしまったのは,ぼくのみるところでは知識の進展なんかではなくって,

第一次世界大戦の破局だ.とはいえ,啓蒙のヴィジョンに対する知的な挑戦も

たくさんあった.この実在世界は理解可能な道理があるということ,そして,

この世界を理解する能力がぼくらにはあるということ,これらの考えは両方と

もいろんな方面からの攻撃にさらされるようになった.第一に,相対性理論に

よって,空間と時間についての,また,物質とエネルギーについての根本的な

想定がゆるがされた.例えば,アルバート・アインシュタインによれば,もし

光の速度で地球とある星の間を 10 年で往復したとすると,じぶんは 10 歳しか

年をとっていないのに地球では 100年経っているというようなことがおきると

されている.そんな宇宙を,いったいどう理解したらいい? 第二に,集合論に

パラドクスが発見されて,合理性の牙城そのものである数学がゆるがされ,も

はや安全確実なものなどないように思われた.ラッセルのパラドクスに直面し

てフレーゲが言ったとおりだ.「あなたが発見した矛盾に驚愕して言葉を失いま

した.こう言った方がいいでしょうか,雷に打たれてしまったのです.わたく

しが代数を築き上げてゆく基盤として目論んでいたまさにそこを揺るがせてし

まったのですから」.この矛盾は,「わたくしの代数学の基礎を掘り崩したとい

うだけではなく,代数の基礎として唯一可能なものを,掘り崩した」ように思

われていた[1].第三に,フロイトの心理学は,合理性の改善へ向かう門口とし

てではなく,合理性が不可能だという証明として,受け取られた.フロイトに

よれば,合理的な意識は,不合理な無意識という海に浮かぶ小島にすぎない.

第四に,それと別の方面からクルト・ゲーデルの不完全性証明は数学に打撃を

くらわすものに思われた.数学の体系には,ぼくらには真だと思われるものの,

体系の内部では真であることが証明できないような言明がある.ゲーデル以前

には,数学で「真」と言えば,「数学的に証明可能」だということを含意するよ

うに思われていた.第五に,そして何より最悪なことに,物理的世界は決定論

的であり独立に存在するという伝統的な理解の仕方にとって,量子力学〔が提起

した物理世界の理解〕はとうてい馴染まないものと解釈できた.物理的世界はその

もっとも根本的な水準で非決定的であり,また,意識をもった観察者は,まさ

に観察する行為をとおして,観察されている当の現実を創り出している──量

子力学は,このことを示しているように思われた.第六に,20 世紀後期になる

1 原註.Gottlob Frege, Philosophical and Mathematical Correspondence (Chicago: University of Chicago Press, 1980), p.132. 〔『フレーゲ著作集 6 書簡集・付「日記」』,勁草書房,2002 年.〕

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と,科学の合理性そのものがトーマス・クーンやポール・ファイヤアーベント

といった論者たちの攻撃にさらされるようになった.彼らの議論によれば,科

学そのものが恣意性と非合理性に感染しているのだという.主要な科学革命は

たんに同じ現実を新たに記述したものではなくて,別の「現実」を創出するの

だ,ということをクーンは示したのだとみなされた.「革命の後」──と彼は言

う──「科学者たちは〔それ以前と〕別世界で研究するようになる」[2].また,

20 世紀でもっとも影響力ある哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは,

ぼくらの談話とはたがいに翻訳も通約もできない言語ゲームのつらなりだとい

うことを示したのだと,多くの人が受け取っている.ぼくらが携わっている言

語ゲームは,そこには合理性の普遍的な基準があって何もかもが誰にでも理解

可能となるような,単一の大きな言語ゲームなのではなくて,それぞれに独自

の理解可能性の基準があるような,一連の小さな言語ゲームなのだそうだ.

この退屈なリストをさらに続けてもいい.例えば,何人かの人類学者の主張

によると,普遍的に通用する合理性なんてなくって,文化が違えば合理性も違

うのだそうだ.おんなじような相対論は,まとめて「ポストモダニズム」とし

て知られる知的運動でひろくいきわたった.ポストモダニストは,じぶんたち

は啓蒙のヴィジョンに挑戦しているのだと思っている.

はじめに,ぼくの手の内をみせておこう:ぼくは,啓蒙のヴィジョンを受け

入れる.宇宙はぼくらの心とおおむね独立に存在しているし,進化による天分

がゆるす限界の埒内で,ぼくらは宇宙のありようを理解していくことができる,

と考えている.19 世紀以来で本当に変わったことというのは,べつに,黙示録

的なまでにゾクゾクするほど世界が理解不能になったなんてことじゃあなくて,

〔以前より〕もっと賢くなってもっとたくさんのことを知らなきゃいけなくな

ったという,どっちかというと退屈でパッとしない理由で世界が理解しにくく

なったということなんだ.たとえば,現代物理学を理解するには数学をいっぱ

い覚えないといけない.ここで,啓蒙のヴィジョンに対するこうした挑戦すべ

てに応えようと試みるつもりはない.それには何冊か書かなきゃいけなくなる

からね.ぼくの主な目的は建設的なものだから,そのかわりに,さっき挙げた

いろんな議論がぼくにとって大したことないのはなぜなのかを手短に述べたあ

と,「ポストモダニズム」式の挑戦のいろんな側面にもっと詳しく応答しよう.

第一に,相対性理論は伝統的な物理学を反駁したものじゃあなくって,それ

を拡張したものだ.それによれば,ぼくらは空間・時間について直観に反した

考え方をしなきゃいけないけれど,だからってこれは宇宙の理解可能性をおび

2 原註.Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, 2nd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1970), p. 135.(訳書:トーマス・クーン『科学革命の構造』第 2 版,中山茂=訳,みす

ず書房,1971 年.)

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やかすしろものじゃあない.ニュートン力学だって 17 世紀には逆説的に思わ

れたってことを,ここで思い出しておくといい.第二に,論理的パラドクスは,

意味論的なものも集合論的なものも,ぼくらがときにやる哲学的なマチガイ以

外の何ごとも示してはいないように,ぼくには思える.空間・時間・運動に関

するゼノンの有名なパラドクスは,べつに,空間・時間・運動が実在しないこ

とを示しているわけじゃない.それと同じで,論理的パラドクスは,べつに,

言語・論理・数学の核心部分に矛盾があると示しているわけじゃあないんだ.

第三に,フロイト心理学について言えば,これが人間の文化に何をもたらした

にしても,いまではもう科学理論としてまともに受け取られてはいない.文化

現象として存続してるけれど,これが人間の心理的発達や病理学について科学

的に有意義な説明になっていると思っているまともな科学者はほとんどいない.

第四に,ゲーデルの証明について言うと,存在論(なにが存在するか)と認識論

(どうやって知るか)とを区別する伝統的合理論の考え方にとって,これは一種

の支持になっている.真理とは,事実との一致・対応の問題だ.もしある言明

が真なら,それを真にするなんらかの事実がなきゃいけない.事実とは,なに

が存在するかって言う問題で,つまりは存在論の問題だ.証明可能性と検証は

真をみつけだす問題で,ということはどっちも認識論的な観念なわけだけれど,

それ自体としてはぼくらが見つけ出す事実と混同しちゃいけない.ゲーデルが

決定的に示したことは,数学的な真理は証明可能性と同一視できないってこと

なんだ.第五に,量子力学は,ある解釈をとるなら,啓蒙のヴィジョンにとっ

て深刻な難題になる.その解釈にぼくも賛成だ.ただ,ぼくはその意義をちゃ

んと評価するだけの専門的な能力をもちあわせていない.とはいえ,2つの主

張をここで区別しておきたい.ひとつは,量子力学はミクロ水準からマクロ水

準への関係に不確定性があると示しているという主張で,もうひとつは,観察

者と独立して現実は存在しないと量子力学が明らかにしているという主張だ.

ぼくが知るかぎり,ミクロ‐マクロの関係には統計的不確定性がある程度ある

ってことは現実についての事実として受け入れないといけない,というだけの

話だ.ところが,ぼくに理解できるかぎり,量子力学の出した結果には,観察

者が観察された現実を部分的に創り出すという結論をしいるものなんてまった

くない.そういうパラドクスは,じっさいの実験結果にあるんじゃあなくて,

そういう結果のいろんな解釈にあるんだ.そして,そんな逆説的で直観に反し

た解釈を強制するものなんて何もない.ただし,物理学者の中にはそういう解

釈を受け入れている人たちもいる.次に,合理性についての相対論──合理性

の標準は文化ごとに異なるという話──を証明しようという試みはどれも結局

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その反対に行き着いた.たとえば,人類学者たちは文化相対論を確立しようと

して,ヌエル族[3]は双子のきょうだいを鳥とみなしているとか,特定の儀式に

おいてキュウリはウシの頭である,などと語ってくれる.ところが,ヌエル族

がこうした事柄の意味づけをする方法を語る段になると,人類学者は,ヌエル

族がいかにしてぼくらの基準で.......

意味づけをするか,そしていかにしてそれらが

ぼくらに対して意味をなすかを語るハメになる[4].結局,部族文化における見

かけ上の非合理性は合理性の普遍的な....

基準によって理解しうるんだ.

啓蒙のヴィジョンに対するクーンとポストモダニストの挑戦については,あ

とでさらに述べよう.

本書は,混乱したこの現代を好機としてとらえて,とても伝統的な哲学的企

図を追求したい.いくつかの見かけは多様な現象に説明を与えて,それらの底

流にある統一性を示したいんだ.ぼくらは心的世界と物理世界という 2 つの世

界に生きているんじゃなくって──まして心的・物理的・文化的の 3 つでもなく

って──ひとつの世界に生きていると,ぼくは考えている.そして,そのひと

つの世界のいろんな部分どうしの関係を記述したい.哲学的にいちばんやっか

いな現実の部分のいくつかについて,その一般的構造を説明したい.とりわけ,

心・言語・社会の構造的特性を説明し,いかにしてこれら 3 者が結びついてい

るのかを示したい.そこでぼくが目的とするのは,啓蒙のヴィジョンに穏当な

貢献をすることだ.

哲学入門

Introducing Philosophy

この企図はやたらと野心的なものに聞こえるかもしれない.でも,少なくとも

ある重要な一点において,本書は哲学の「入門書」だ:既存の専門的な哲学の

トレーニングや知識を読者は必要としない.

この意味で入門的な哲学の本は,2 つの形のうち 1 つをとる.本書はそのい

ずれでもないから,まずは本書とそういう本との区別をつけておくのがいいだ

ろう.一方はたぶんいちばん一般的なタイプの入門書で,一連の有名な哲学的

問題に読者を案内して行く.たとえば自由意志とか神の存在とか心身問題とか

善と悪の問題とか懐疑論と知識の問題なんかだ.この手の本で近年の好例を挙

3 訳註.スーダン南部に住む種族. 4 原注.量子力学のこの逆説的な解釈を受け入れない物理学者の例としては,P.R.ウォレス Wallace『失

逆説:量子のイメージたち Paradox lost: Images of the Quantum』(New York: Springer, 1996)を参照.

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げるなら,トーマス・ネーゲルの『哲学ってどんなこと?』[5] だ.第二の種類

の入門書はこの学問のみじかい歴史だ.読者には主要な哲学思想家や思想が手

短に解説される.ソクラテス以前のギリシャにはじまり,最後にウィトゲンシ

ュタインや実存主義のような近年の著名人や潮流をいくつかとりあげる.この

種の本でいちばん有名なのは,おそらくバートランド・ラッセルの『西洋哲学

史』だ[6].ラッセルのこの本は学術的には弱いけれど,哲学的な思考を広める

という点では,他のもっと正確な歴史書よりもおおくのことをしたと思う.誰

にでも愉しく読めるし,少なくともいくらかは理解できる本だったからだ.ぼ

くは十代のころにこれを読んで,すごく印象に残った.ジミー・カーターは大

統領時代にベッド脇のテーブルにこれをいつも置いていたそうだ.

本書は大問題の探求でも歴史書でもない.それどころか,時代錯誤で,多く

のすぐれた哲学者たちが不可能だと考えるはずのタイプの本だ.本書は総合の

本であり,一見無関係だったり枝葉末節でしか関係がない多くの説明どうしを

総合する.ほくらはひとつの世界に生きているのだから,この世界のいろんな

部分がいかにしておたがいに関連しあっているのか,そして,そうした部分が

どうやってひとつのまとまった全体になっているのかを説明できるはずだ.こ

の「総合」・「総合的」っていうことばを強調しておきたい.というのも,ぼく

を鍛えてくれた人たちは「分析哲学」とよばれるものをやっていると自認して

いた人たちだし,ぼくもその一員だとみなされているからだ.分析哲学者たち

は,哲学問題を個別に取り出してはそれを部品に分析する.彼らがやってるの

は「論理分析」というやつだ.本書にも論理分析はたくさん入っている.けれ

ど,それと同時に本書はものごとを結び合わせもする.以前書いたことを土台

に,心・言語・社会的現実の特定の本質的部分がどうやって機能しているのか,

そして,それらがいかにして統一した全体をなしているのかを説明したい.

ぼくには,3 つの異なった目的がある.第一,心・言語・社会の本質とそれ

らの相互関係の両方について一連の理論的主張を提示する.第二,第一の目的

を達成することで,哲学的分析のあるスタイルを実地に示してみたい.哲学的

探求は,たとえば科学のような他の探求と違っているところもあるけれど,似

ているところだってある.そこで,ぼくはこの議論を展開していくみちすがら,

その似ているところをはっきりと示したい.第三,ついでに,哲学的なナゾや

哲学的な問題がどういうものかについて,いわば一連の観察をやってみたい.

これら 3 点をもっと簡潔に言うなら,ぼくは哲学をやりたいし,やってみるこ

5 訳註.Thomas Nagel, What Does It All Mean? (訳書:トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』,

昭和堂,1993 年.) 6 原注 7.Bertrand Russell, A History of Western Philosophy (New York: Simon & Schuster, 1945). 〔訳書:バートランド・ラッセル『西洋哲学史―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連に

おける哲学史』,全 3 巻,市井三郎=訳,みすず書房,2000 年.〕

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とでそのやり方を例示したいし,そして,哲学をやるってことの特別な問題に

ついていくつか観察を述べたい.この本の最後に,ぼくは哲学の本質について

いくつか一般的な結論を述べる.

みごと解説できたそのとき,読者には,ぼくが言っていることのほとんど全

部がずいぶんと自明な真理のように聞こえるにちがいない.あまりに自明なせ

いで,哲学ズレしていない読者──この本が対象としている読者──にとっては,

ときにいぶかしく思えるはずだ:なんでこの人はわざわざこんなことを言って

いるんだろう,とね.これに答えるなら,ぼくが出す主張はどれも,いちばん

自明なものでさえ,論争の的どころか怒鳴りあいの的ですらあるし,典型的に

は何世紀にもわたってそうだったんだ.それはどうしてか? 哲学をやりはじめ

るとき,真理だとだれもが知っていること──たとえば,現実世界があるとか,

世界についてなんらかの種類の知識をもちうるとか,典型的に言明は世界の事実と

対応しているときに真となりそうでないときに偽となるとか──を否定するよう

ぼくらはほとんど容赦ないまでに駆り立てられる,それはどうしてなのか? ウ

ィトゲンシュタインの考えでは,哲学的な間違いにぼくらを導くのは,主とし

ては言語のはたらきについての誤解であり,また,科学の方法を不適切な領域

にまで拡張したり過剰に一般化したりするぼくらの傾向だ.ぼくの考えでは,

これらはたしかに哲学的間違いの発生源の一部ではあるのだけれど,しかし,

あくまで一部にすぎない.あとで他の発生源も指摘していく.それは,ウィト

ゲンシュタインが挙げるのよりも有害な発生源,自己欺瞞や権力への意志とい

った発生源だ.

ともあれ,自明に思えるものはたいていそれを述べたあとにしか自明に思え

るにすぎないのだから,自明に聞こえることを言うのにも価値はある.述べる

前には,何を言う必要があるのかは自明じゃあない.だから本書はなんの障害

もない道を坦々とすすんでいるかのような印象を与えるかもしれない.それは

錯覚だ.ぼくらはジャングルの細い道を進んでいる.その道を指し示し,ジャ

ングルのどこを避けるべきかを指摘することが,ぼくの説明方法だ.あるいは,

同じことをぼくの意図よりも仰々しい言い回しで言えば,ぼくは真理を述べ,

それからそれと競合するいろんな謬見を述べる.競合する謬見があるから,こ

の〔自明に思える〕真理は哲学的な関心事となる.

デフォルトの見解

The Default positions

哲学的な問題の大半については,コンピューターになぞらえてデフォルトの見

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解とでもいうべきものがある.デフォルトの見解とは,ぼくらがあらためて考

える以前にとっている見地で,そこから離れるには意識的な努力と説得的な論

証が必要になる.いくつかの主要な問いに関するデフォルトの見解を挙げてみ

よう:

・ぼくらの経験・思考・言語と独立に存在する現実世界がある.

・その世界には,感覚とりわけ触覚と視覚をとおして直接にふれることがで

きる.

・言語のいろんな語,「ウサギ」とか「木」といった語には,典型的に,ほど

よく明確な意味がある.その意味のおかげで,語は,世界内のいろんな実

体を指示したり話題にするために使える.

・典型的に,言明は,もののあり方つまり世界内の事実に対応するかどうか

によって真偽が決まる.

・因果関係とは,世界内の対象や事象どうしの関係すなわち一方の現象=原

因が他方の現象=結果を引き起こす関係のことだ.

日常生活でこういう見地はごく当然のものとされているから,「見解」──あ

るいは仮説とか意見──と呼ぶのはぜんぜんミスリーディングかと思う7.たと

えば,シェイクスピアはすごい戯曲家だったという見解をもっているというの

と同じイミで,ぼくは現実世界が存在するという見解..

をもっているわけじゃあ

ない.こういう当然視された前提は,思考と言語の〈バックグラウンド〉とぼ

くが呼ぶものの一部だ.山カッコをつけているのは,この語が準-専門用語とし

て使われているのを示すためだ.意味はあとで説明する.

哲学史の大部分はデフォルトの見解への攻撃で成り立っている.偉大な哲学

者たちは,しばしば,みんなに当然視されていたことを斥けたことで名を知ら

れている.そういう攻撃は,手始めにデフォルトの見解のパズルと逆説を指摘

する.〔すると〕デフォルトの見解をとりつつ他の望ましい信念を保持するのは

ムリにみえる.だからデフォルトの見解を捨て去ってなにか新たに革新的な見

解に置き換えられなきゃいけない,となる.有名な例としては,因果関係は世

界内の事象間の実在的な関係だという考えに対するデイヴィッド・ヒュームの

反駁,知覚と独立に物質的世界が存在しているという見解に対するジョージ・

バークリー司教の反駁,世界を直接知覚によって知りうるという見解に対する

7 否定でもないのに「ぜんぜん」とあるのは,サールが “at all” を肯定文で使っているのに合わせたた

め.

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デカルトそのほか大勢の反対がある.もっと最近だと,ぼくらの言語の語には

確定した意味があるという見解をウィラード・クワインが反駁したと多くの哲

学者はみなしている.また,真理の対応説──ある言明が真であるのはそれを真

にするなんらかの事実・状況・事態が世界内にあるからだという見解──を反駁し

たと考えている哲学者もいくらかいる.

ぼくは,一般にデフォルトの見解は正しいしそれに対する攻撃はハズレだと

思う.いま挙げた〔反駁の〕例すべてについて,これは当てはまるはずだ.もし

哲学者たちが指摘したとおりデフォルトの見解が偽なのだとしたら,そういう

見解が何世紀あるいは何千年にもわたる人類史の荒波を生き延びることなんて,

ありそうにない.ただ,デフォルトの見解のすべてが正しいわけでもない.た

ぶんいちばん有名なデフォルトの見解は,ぼくらはみんな 2 つの異なった実体

から成り立っていて,一方に肉体,他方に心または魂がある,というものだ.

生きている間は両者が結びついているけれどお互いに独立していて,肉体が死

滅した後も心または魂は分離して存在し続けるとみなされる.この見解は「二

元論」と呼ばれる.ぼくの考えでは,この見解は間違っている.理由は第 2 章

で述べよう.〔二元論のような間違いもあるにせよ〕しかしながら,一般にデフォル

トの見解の方がいろんな対案よりも正しそうだ.ぼくの職業はすばらしいもの

だけれど,悲しいことにもっとも有名で尊敬されている哲学者たちがしばしば

荒唐無稽この上ない理論を唱えている.

ぼくがここでデフォルトの見解と呼んでいるものは常識的に「常識」と呼ば

れるものだと考えたくなるかもしれない.それはマチガイだ.「常識」はあんま

り明瞭な観念ではないけれど,ぼくの理解するかぎり,たいていは,広く支持

されていて普段は疑問に付されない信念のことをいう.くっきりと線引きはで

きないけれど,ここでデフォルトの見解と呼んでいるのは常識よりもっと根底

的なものだ.相手に丁寧に接してほしいなら自分から丁寧にしなきゃいけない

というのは常識の問題だ.この手の常識は,外界の存在だとか因果関係の実在

性といった基本的形而上学の問いについてどんな意見も持ち合わせていない.

常識というのは,大方のところ,共通の意見のことなんだ.〈バックグラウンド〉

は,そういう意見以前のものだ〔=常識のような意見をどうこう言えるためには〈バッ

クグラウンド〉がないといけない〕.

哲学でいちばん興味をそそる問いのなかには,2 つのデフォルトの見解が正

面衝突したり論理的不整合をきたすところから生じるものがある.たとえば,

因果的決定論を除外するような自由意志がぼくらにはあるかのようにみなしつ

つ,同時にじぶんたちの行為にはぜんぶ決定論的な説明があるみたいに話した

り考えたりするのはありふれたことだ.本書は,いろんなデフォルトの見解を

吟味して,特にそういう見解どうしの衝突に注意を向ける.この章では,実在

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と真理の観念に関わる一群のデフォルトの見解を取り上げる.

実在と真理:デフォルトの見解

Reality and Truth: The Default Position

認知的な〈バックグラウンド〉を形成するデフォルトの見解のなかでもいち

ばん根底的なのは,実在と真理に関する一群の前提だ.典型的に,行為したり

考えたり話したりするとき,そうした行為・思考・ことばがじぶんたちの外に

ある事物に繋がっている特定のあり方を当然視している.このことをぼくは一

群の言明で言いあらわすけれど,〔だからといって〕本当に話したり考えたり行為

している際に何かの理論を念頭においているんだと受け取られると誤解になっ

てしまう.実在と真理に関してぼくが提示する一群の言明は,理論または一群

の理論として扱うこともできるけれど,〈バックグラウンド〉が機能していると

き──いわば,そのつとめを果たしているとき──理論は必要じゃない.ぼくの

いうような前提は,理論に先立つんだ.

ともあれ,たとえば次のような種類のことをやったり考えたり話したりする

とき,ぼくらはたくさんのことを当然視している:クギを打つとき,レストラ

ンでテイクアウトを頼むとき,実験を行うとき,休暇のお出かけ先を選んでい

るとき,などだ.こういうとき,次のことが当然視される:人間やその思考・

言語から完全に独立して現実世界が存在していて,この現実世界内のモノや事

態についての言明の真偽は事物がその言明どおりのあり方をしているかどうか

によって決まる.だから,たとえば休日の旅行先を検討して夏場のギリシャは

イタリアより暑いかどうか考えているときだったら,ギリシャやイタリアとい

った土地を含む現実世界が存在していることとか,気温のちがいがあることと

かを,ぼくはたんに当たり前とみなしている.さらに,旅行案内書に夏場のギ

リシャは平均気温がイタリアより高いと書いてあるのをみた場合なら,この本

の言っていることが真となるのは本当に夏場のギリシャの平均気温がイタリア

より高いときに限られることをぼくは理解している.なぜかといえば,そうい

う言明が真であるのは言明と独立に何かがあって,それのおかげで,またはそ

れゆえに,言明が真となるときであり,そしてそのときに限られるからだ.

これら 2 つの〈バックグラウンド〉前提には長い歴史とよく知られたいろん

な名称がある.ぼくらと独立に存在する現実世界があるという第一の前提を,

「外在的実在論」と呼ぶことにしたい.「実在論」と呼ぶわけは,現実世界の存

在を断定しているからで,さらに「外在的」をつけているのは他の種類の実在

論から区別するためだ──これ以外の実在論としては,たとえば数学的対象に

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ついての実在論(数学的実在論)や倫理的事実についての実在論(倫理的実在論)

などがある.第二の見解,すなわち言明が真であるのは世界内の事物がその言

明に述べられるとおりのあり方をしているときであり,そうでなければ偽であ

るという見解は,「真理の対応説」と呼ばれる.この理論にはいろんなヴァージ

ョンがあるけれど,基本的な考えは同じで,言明が真であるのは世界内の事物

のあり方に言明が対応している,一致している,あるいはそれを記述している

ときであり,そうでないときには偽であると考える.

心と独立な世界内の現象のなかには,水素原子,テクトニック・プレート,

ウイルス,木々,銀河などがある.こうした現象の実在性は,ぼくらから独立

している.人間そのほかの意識をもつ主体が登場する以前から宇宙は存在して

いたし,ぼくらが退場した後も長く存在しつづける.

すべての現象が心と独立なわけじゃあない.たとえば,お金,資本,婚姻,

戦争,フットボールの試合,カクテル・パーティーなんかは,どれも意識をも

つ人間主体にその存在を依存していて,その点で山や銀河や分子などと異なる.

思考・感情・意見・言語・言説・テクストといったあらゆる表象から全面的

かつ絶対的に独立した現実世界が存在する──この外在的実在論の基本的主張

はまったく自明で,合理性さらには理解可能性の本質的条件でもある.だから,

この見解への疑問を提示したりいろんな批判を論じないといけないことにぼく

はちょっと困惑してしまう.なんでまともなアタマをもっている人間が外在的

実在論を攻撃するんだ? いや,じつのところこれはややこしい問題なんだ.あ

とで詳しく論じよう.ここでは,外在的実在論への攻撃は単体で成り立ってい

るわけじゃあないと言っておこう.哲学では,こうした攻撃は,デフォルトの

見解を構成する他の〈バックグラウンド〉前提の特性への攻撃と連携する傾向

がある.ぼくらは実在論に賛同して思考・ことば・経験は直接に現実世界と繋

がっていると一般に想定している.つまり,木々や山といった対象に目を向け

るときに,たいていぼくらはそれらを知覚すると想定する.話すときにはたい

ていぼくらは言語と独立に存在する世界内の対象を指示することばを使うし,

考えるときには実在する事物についてしばしば考えると想定される.さらに言

うと,すでに言っておいたように,そうした対象についてぼくらが述べること

は,世界内の事物のあり方と対応するかどうかによって真偽が決まる.しばし

ば否定されるこの思考と言語の指示理論と真理の対応説という根底的な哲学的

見解は,こんなふうに外在的実在論に支えられている.真理の対応説や思考と

言語の指示理論を否定したい論者たちは,たいていの場合,外在的実在論を是

認しなきゃならないのは厄介だと考える.〔そこで〕彼らはこれについては何も

言わないことにしたり,これを斥ける理解しがたい理由をもちだす.じっさい,

絶対的かつ客観的かつ全面的にぼくらと独立に存在する現実世界なんてないと

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正面きって言う論者なんて,めったにいない.そう言うひともいる.いわゆる

現実世界は「社会的構築物」だと言ってのけるひとたちはたしかにいる.でも,

外在的実在論のそういう直接的な否認はまれだ.反実在論者たちがとるもっと

典型的な手は,ぼくが伸べたようなデフォルトの見解への挑戦になりそうな論

証を提示して,しかるのちにじぶんたちが擁護したい他の見解はその挑戦によ

って正当化されると主張することだ.そこで持ち出されるのは,社会的構築主

義とかプラグマティズムとか相対主義とかポストモダニズムとか,いろいろな

名称のついた見解だ.

反実在論者たちの直面している状況は,こんな論理構造になっている:

1. 外在的実在論が真であると仮定する.すると,ぼくらとぼくらの利害

関心から独立に現実世界が存在する.

2. もし現実世界が存在するのであれば,現に世界のあるがままのあり方

がある.事物が世界に存在する客観的なあり方というものがある.

3. もし現実の事物のあり方というものがあるのなら,それがどんなもの

かを言えるはずである.

4. もし事物のあり方を言えるのであれば,ぼくらの述べることは事物の

あり方を述べるのに成功または失敗する程度に応じて客観的に真か

偽となる.

各種の主観主義や相対主義を奉じて 4 つ目の命題を棄却しようとする人たち

は,1 つ目の命題に困惑する.この命題は棄却されねばならない,あるいはと

きに彼らが言うところでは「疑問に付され」ねばならない,と彼らには感じら

れる.

外在的実在論への攻撃は,ちっとも新しくない.何世紀も過去にさかのぼる

んだ.おそらくいちばん有名なのは,物質的な対象とぼくらが考えているもの

が本当は「観念」の集まりにすぎないという,バークリー司教の主張だ.彼が

言う「観念」とは意識の状態を意味する.「観念論/唯心論 idealism」とか「現

象主義」と呼ばれるこの伝統は,まっすぐ 20 世紀まで続いている.この見解

が「観念論/唯心論」と言われるようになったのは,唯一の現実は語の特別な

意味における「観念」〔=意識のあり方〕のそれだと断言しているからだ.おそ

らくあらゆる時代でいちばん影響力がある観念論者はゲオルグ・フリードリッ

ヒ・ヘーゲルだろう.観念論の基本的教義はこうだ──突き詰めていくと,現

実はぼくらの知覚その他の表象と独立に存在する何かの問題ではなくて,その

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現実は知覚その他の種類の表象によって構成されている.あることを知ってい

ると主張するなら独立に存在する現実に一致しなければならない,と考えるの

ではなくて,観念論は現実の方をぼくらの表象に一致すべきものにする.観念

論でいちばん洗練されている見地は,イマニュエル・カントの哲学に見出され

るとぼくは思う.カントは,彼の言う「現象世界」──椅子とかテーブルとか木々

とか惑星などの世界──は完全にぼくらの表象から成り立っていると考えた.他

方でそういう現象世界の背後にはもうひとつの世界,「物自体」の世界もあるん

だけれど,この世界にぼくらはアクセスできないし,それどころかそれについ

て有意味に語ることすらできない,とカントは考える.ぼくらが経験しそこに

生きている経験的な世界は,じつのところ,体系だったみかけの世界,つまり

ぼくらにとってこう現れているという世界だ.だから,他のいろんな観念論と

同じようにカントの見解でも,テーブルや椅子や山や隕石の世界は,空間・時

間・因果関係の世界と同じく,ただの現れの世界なんだ.カントがバークリー

をはじめとする他の観念論者たちとちがうのは,彼らは現れ──もしくはバー

クリーの言い方だと「観念」──だけが唯一の現実だと考えたのに対して,カン

トは現れの世界の背後にそれと別の物自体の世界があって,それについてぼく

らは知識も何も得られないと考えたところだ.

どうしてこんなにも大勢の有能な哲学者たちが,ヴァージョンはいろいろ異

なるにせよ,観念論に惹かれたんだろう? 観念論の優れている点のひとつに,

ぼくらには世界の真のあり方を知ることができないという懐疑論の挑戦に応え

られるということがある.じっさい,歴史的な経緯を言えば,観念論はデカル

トが展開したような懐疑論に応えようとしたいろんな失敗からでてきたんだ.

あらゆる形の懐疑論は,どんな主張も可能なかぎりすべての根拠をもっていて

もなおぼくらは根本的にまちがっている可能性が残るという主張に依拠してい

る.外界が存在しているという可能な限り全ての根拠を完璧にそろえていても

なお,錯覚にまどわされる可能性は残る.邪悪な悪魔にだきされているかもし

れないし,じぶんは水槽の中の脳みそ[8] なのかもしれないし,あるいは夢を見

ているのかもしれない,などなど.観念論者たちは,証拠と現実との溝をなく

してしまうことでこの問題を解く.証拠が現実にひとしいものとされるんだ.

すると,幻影や虹や幻覚のような実在しないものを,「現実世界」を構成するも

のから区別するのは単純な話になる.幻影というのは,それ以外のみかけ

現象と適切

に整合しないみかけ

現象にすぎない.だけど,幻の知覚にもそうでない知覚にも,ぼ

くらの表象を超えるところはない.ようするに,観念論の主張は,現実と現象

8 原註.「水槽の中の脳みそ」は哲学者のつくった空想譚で,そこでは,あらゆる経験をしているのにじ

ぶんは培養液の水槽に浸かった脳みそでしかない.経験は電気的に脳を刺激することで人工的につくり

だされる.

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の溝──懐疑論を可能にしている溝は,なくしてしまえるというものだ.現実

は体系的なみかけ

現象から成り立っている.

しかし,正直に言ってしまうと,あらゆる形の反実在論が執拗に主張される

のにはもっと深い理由があるんだとぼくは思う.このことは 20 世紀にはっき

りした:反実在論は力への衝動を満たしてくれるんだ.「現実世界」のなすがま

まにされなきゃいけないなんて,すごくイヤなことに思える.ぼくらの表象が

ぼくらにだけ適合せざるをえないなんて,ひどい話に思える.これが,現代版

の反実在論をとって真理の対応性を却下する人たちが,たいていそれと対峙す

る主張に鼻白む理由だ.たとえばリチャード・ローティは皮肉めかして「ある

がままの現実そのもの」に言及している[9].

50 年前には観念論は死に絶えたように思われていたし,バークリーからヘー

ゲルにいたる線に代表されるヴァージョンではいまでもおおよそそのとおりだ.

ところが,最近になって,実在論の否定が新たな形であらわれた.ローティが

言うように,「観念論によく似ているように思われるものが知的に尊敬に値する

ものになりはじめた.」[10] これにはいくつかのヴァージョンがある.典型的に

はどれもよく言ってあやふやなしろもので,「脱構築主義」・「エスノメソドロジ

ー」・「プラグマティズム」・「社会的構築主義」といったラベルがついている.

ぼくはかつて,著名なエスノメソドロジストと討議したことがある.その人は,

天文学者たちがその研究と言説をとおしてクエーサー

恒星状天体やその他の天体の現象を

創り出したのをじぶんは示したのだと主張していた.「いいかい」とぼくは言っ

た.「月夜にぼくと君が散歩に出かけたとしよう.ぼくが『いい月夜だねぇ』と

言って,君がそれに賛同する.ぼくらは月を創り出しているわけ?」──彼は

言った,「そうですよ.」

20 世紀の後半になって,懐疑主義をめぐる懸念は反実在論を動機づける点で

はあまり影響がなくなった.現代版反実在論を駆動しているものをつかむのは,

あまり簡単じゃないけれど,もし,広く異なるいろんな主張に一貫している底

流を取り出さないといけないと言うなら,それはときに「遠近法主義

perspectivism」と呼ばれるものだろう.遠近法主義というのは,現実についての

ぼくらの知識はけして「無媒介」とならず,つねに一定の視点,特定の好みの

集合,あるいはもっとひどいことに,政治グループや主義主張への傾倒のよう

な邪な動機によって媒介されている,という考え方のことだ.世界について無

媒介の知識をもちえないので,おそらく現実世界なんてないし,おそらくそれ

について語るのさえ無駄なことだし,また,関心をひくことですらない〔と遠

9 Richard Rorty, “Does Academic Freedom Have Metaphysical Presupposition?” Academe 80, no. 6 (November-December 1994): 57 10 Richard Rorty, Philosophy and the Mirror of Nature (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1979), p. 275.〔訳書:リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』,産業図書,1993 年.〕

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近法主義は考える〕.こんなふうに,20 世紀後期の反実在論には内気で逃避的な

ところがある.「内気」で「逃避的」と言うときにぼくが意図しているのは,デ

フォルトの見解についてぼくが立てているあけすけで荒削りであからさまな断

定との対比だ:ぼくらと完全に独立した現実世界が存在する.山や分子や木や

海や銀河などなどの世界だ.これと対照的な見解をいくつかみてみよう:ヒラ

リー・パトナムはこう書いている,「もし隠喩的なことばを使わざるを得ないの

であれば,こんな隠喩にしよう:心と世界は連携して心と世界を作り上げてい

る」[11] ジャック・デリダはこう書いている,「テクストの外部は存在しない (Il

n’y a pas de hors textes)」[12] リチャード・ローティはこう書いている,「《事実の

問題》というこの考えは,なしで済ました方がいいものだとぼくは思う」[13] ネ

ルソン・グッドマンは,ほかでもなく特定の種類の境界線を引くことによって

ぼくらはいろんな世界をつくるのだと主張している.

さて,このように他でもなく特定の星たちを選び出してつなぎ合わせるこ

とで我々は星座をつくり,他でもなく特定の境界線を引くことで星たちを

つくる.空に星座や他の対象が浮き彫りにされるかどうかを指図するもの

などなにもない.我々は,見出したものをつくり出すのだ.それは北斗七

星でもシリウスでも食べ物でも燃料でもステレオ・システムでもいい.[14]

デフォルトの見解へのこういう挑戦に対して,どう返事を述べたらいいんだ

ろう? もっともありふれた形の論証のうちいくつかに答えるけれど,その前に

断っておかないといけないことがある.実のところ,実在論を否認しようとい

う衝動をもたらしているのは論証ではないんだと,ぼくは思っている.現代の

文化史と思想史の問題として,実在論への攻撃は論証によって駆動されたもの

じゃあない.というのも,論証というのは多かれ少なかれ明らかに弱みのある

ものだからだ.その理由はこのあと詳しく説明する.さきほど示唆しておいた

ように,実在論否認の動機はむしろ一種の力への意思であって,それはいろん

なところに顔をのぞかせている.大学においては──とりわけいちばん悪名高

いのはいろんな人文学においてだけど──もし現実世界がないなら科学は人文

学と同じ足場に立っていることになる,とみなされている.どちらも独立の現

実ではなく社会的構築物に関わっている,というわけだ.現実世界に直面しな

11 Hilary Putnam, The Many Faces of Realism (La Salle, III.: Open Court, 1987), p.I 12 Jacques Derrida, Of Grammatology (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1976), p.158.〔訳

書:ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』,現代思潮新社,1996 年.〕 13 Richard Rorty, “The Priority of Democracy to Philosophy,” in Merrll Peterson and Robert Vaughn, eds., The Virginia Statute for Religious Freedom (pp. 257-82), (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), p.271. 14 Nelson Goodman, Of Mind and Other Matters (Cambridge: Mass: Harvard University Press, 1984, p.36.

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きゃいけないという制約やくびきからすっかり解放されて,この想定からポス

トモダニズムや脱構築主義などがいろんな形をとって容易に発展してくる.も

し現実世界がただの作り事なら──社会の周縁化された諸要素を抑圧するべく

設計された社会的構築物なら,じゃあそんな現実世界なんて放り出してぼくら

の望む世界を構築してやろうじゃないか,というんだ.これこそ,20 世紀の終

わりにでてきた反実在論の背後にあってそれを駆動している実際の心理的な力

なのだとぼくは思う.

とはいえ,すぐさま付け加えるべき論理的な論点が 2 つある.第一に,反実

在論の心理的な起源を指摘することは,反実在論を論駁することにはならない.

実在論に反対する論証に正しくない起源があるのを暴露することがその論証を

反駁することになると考えるのは,発生論的な誤謬だ.それだけでは〔反論と

して〕不十分だ.第二に,実在論に対する反論が提示されたからには,ぼくら

はこれに詳しく応答しないといけない.というわけで,はじめよう.

実在論への 4 つの挑戦

Four Challenges to Realism

さっき言ったように,実在論に対するもっともありふれた現代的な反論は遠

近法主義だ.その論証はいろんな形をとるけれど,そこには共通している底流

がある.それは,特定の視点から特定の前提において特定の相貌のもとに特定

の立場でしか,ぼくらは現実世界には接触できないし,表象できないし,関わ

れない,という考えだ.もし現実に無媒介に接触できないのだとしたら,現実

について語る意味はないし,それどころか立場や相貌や視点と独立した現実な

んてないのだ,と論証は続く.こういう遠近法主義のうまい言明はブライアン・

フェイの書いた社会科学の哲学に関する教科書にみつかる.(余談だけど,文化

に起きていることは,特権的な思想家の著作よりも大学院生向けの教科書をみた方

がよくわかる.教科書というのは,ごまかし方が上手じゃないんだ.)

遠近法主義は現代の知的生活の主流を占める認識論的なモードだ.遠近法

主義とは,あらゆる知識はその性質においてかならず遠近法的だという見

解のことだ.つまり,知識の主張やその判断は,つねに一定の枠組みの中

でなされるのであり,世界を記述したり説明するための概念的な資源をそ

の枠組みが提供する.遠近法主義によれば,誰も現実をあるがままにそれ

自体として直接に見てはいない.そうではなく,人はじぶんなりの立場か

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ら自分自身の想定と先入見をもって現実に接近する.[15]

これでは,もっとも素朴な実在論への攻撃にすらならないように思われる.

これが言っているのは,現実を知るためにはある視点から知るしかない,とい

うことだけだ.この文章の失点は,ともあれ現実をあるがままにそれ自体して

知るにはどの視点からでもなく知る必要があるという点にある.この想定は正

当化されていない.例えば,ぼくの目の前にはイスが直接に見えるけれど,も

ちろんぼくはそれをひとつの視点から見ている.ぼくはイスをひとつの視座か

ら直接に見ている.「あるがままにそれ自体において現実を」知ることについて

語るのが理解可能なことではあるかぎりにおいて,イスが見えるのでそこにイ

スがあると知っている場合に,ぼくはそれをそれ自体においてあるがまま直接

に知っている.つまり,いまの定義でいう遠近法主義は,べつに,ぼくらには

現実世界への直接の知覚的な接触ができると言う認識的客観性の説とも実在論

とも矛盾しているわけじゃあない.

決定的なほころびが見えるのは,フェイがさらに言葉を続けて,遠近法主義

は独立に存在している事実の知識を得るのは不可能だとしている,と述べると

きだ.論証はこう進む:

注意しよう.現象それ自体が事実なのではなく,事実とは特定の記述のも.......

とでの現象.....

なのだ.事実とは,流れゆく事象の連なりから選り分けて起き

たことや存在するものを取り出す言語的に有意味な単位のことだ.しかし,

そうすると,そもそも史実が存在するためにはそれを記述するための語彙

がなければならない.状況を記述したり心に浮かべるための語彙が先立っ

て存在していなければ,事実などない.

さらに次の段落にはこうある:

簡潔に言おう:事実は概念図式に根ざしている.[16]

この引用文まるごとが,現代哲学で外在的実在論への反論に使われる論証に典

型的なものにぼくには思える.まるでダメな論証だ.たしかに,事実を記述..

たり言明..

するのに語彙は必要だ.だけど,ちょうど現実をつねにひとつの視点

から一定の相貌のもとでしか見ていないという事実があっても現実の直接知覚

がないことにはならないのと同じように,事実を述べるのに語彙がないといけ

ないとか事実を同定したり記述するのに言語が必要だという事実からは,ぼく

が記述したり同定している事実が独立して存在していないということは出てこ

15 Brian Fay, Contemporary Philosophy of Social Science (Oxford: Blackwell, 1996), p. 72. 16 Ibid., p. 73

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ない.大西洋に塩水があるという事実は,誰かがあの海を大西洋だとしたり,

その物質を水だと同定したり,その化学成分のひとつを塩だと同定するずっと

前から存在していた事実だ.もちろん,こういう同定をするためには言語がな

いといけないけれど,だからどうだって言うんだ? 事実は,明らかに言語とは

独立に存在している.フェイの提示しているこの論証は,誤謬だ.事実を同定..

すること....

が本質的に言語や概念に関わるなら同定される事実.......

の方も本質的に言

語に関わらざるを得ないというのは,使用‐言及の誤謬だ[17].事実とは言明を

真にする条件であってもそのことばでの記述と同一じゃあない.ぼくらはこと

ばをつくりだして事実を述べたりものを名づけたりはするけれど,だからとい

ってぼくらが事実やモノをつくりだしていることにはならない.

第二の論証は,遠近法主義による論証に関連していて,概念的相対性の立場

によるものだ.それはこんなふうに進む.すべての概念は,ぼくら人間によっ

てつくられている.現実を記述するのにぼくらがもちあわせている概念には,

なんら不可避的なところはない.しかし,と反実在論者は続ける.適切に理解

されるなら,ぼくらの概念の相対性は外在的実在論があやまりだと示している.

というのも,じぶんたちの概念をとおしてしかぼくらは外在的な現実に接触で

きないからだ.概念構造が違えば,現実の記述も異なる.そして,こうした記

述は互いに整合しない.たとえば,「この部屋にはいくつのモノがありますか?」

とたずねられてとして,ある概念図式にしたがえば,部屋のいろんな家具も数

えいれることになるかもしれない.ところが,また別の概念図式にしたがえば,

あれこれの家具を区別せずにひとまとまりの家具として扱うことになり,「この

部屋にはいくつのモノがありますか?」という質問への答えはちがうものにな

る.最初の概念図式で答えると,部屋には 7 つのモノがあると言える.2 つ目

の概念図式だと,モノは 1 つだ.じゃあ,現実にはいくつのモノがあるんだろ

う? 反実在論者は,この問いに答なんてないと言う.なんらかの概念図式に相

対的にしかこの問題の事実はない,したがってなんらかの概念図式と相対的に

しか現実世界というものはない,というわけだ.

この論証をどう考えたものだろうか? 著名な哲学者のなかにもこの論証を

それぞれ違ったかたちで提示しているひとがいる.言いづらいけれど,これは

ひどく脆弱な論証だとぼくは思う.ひとつの数え方では部屋に 7 つのモノがあ

り,また別の数え方では 1 つしかない.でも,現実世界にとってぼくらがどっ

ちの数え方をとるかなんてどうでもいいことだ.どちらの数え方も,ひとつの

17 使用‐言及の誤謬 [use-mention fallacy] は,言及された語の特性を使用された語の特性と混同する

ときに成り立つ.もし「『バークレー』は 5 文字でできている」と「バークレーはカリフォルニアの都市

だ」と述べたとして,そこから,カリフォルニアには 5 文字でできた都市がある,と推論するのは誤謬

だ.最初の文では語が言及されているのに対して,2 つ目の文では語は都市を指示するのに使用されて

いる.

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世界についてそれぞれ異なる真の記述をつくる.問題があるようにみえるのは,

「1 つしかモノがないと同時に,しかし 7 つのものがある」と述べることが見

たところ不整合なせいだ.けれど,いったんこういう主張の本質を理解してし

まえば,不整合なんてなくなる.どちら〔の記述〕も整合的で,しかもどちら

も真なんだ.日常生活にはそんな例がたくさんある.ぼくの体重はポンドなら

160 で,グラムなら 72 キロだ.で,現実にはぼくの体重はいくらだろう? 答

えを言うと,160 も 72 も,採用する計量体系によって真になる.じつのところ

問題も不整合もありはしないんだ.

外在的実在論に対する第三の反論は,科学史からの論証だ.この論証はトー

マス・クーンの『科学革命の構造』に起源をもっているのだけど,どうもクー

ン本人はこの形の論証を受け入れたことはなかったんじゃないかとぼくはみて

いる.クーンの説明によると,科学は知識を着々と蓄積していくことで進歩す

るわけではなくって,一連の革命によって進歩するのだという:このとき,科

学をやるための既存のパラダイム

枠組みが特定のパズムをうまく解けないために捨てられ

て,科学革命の結果として別の枠組みに取り替えられる.ここに見られるのは,

あるがまままの現実そのものについての知識の着実な集積ではなく,それぞれ

に独自の枠組みをもったいろんな言説の連続だ.科学は独立に存在する現実を

記述するのではなく,その進展につれて次々に新たな「いろんな現実」をはて

しなく創り出しつづけている.ブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウールガ

ーに言わせれば,「そこに‐ある‐こと [outthereness] は科学的著述の原因..

ではな

く結果..

なのだ」[18] ということになる.さっき述べたように,クーンがこういう

反実在論的な論証を受け入れているというのは疑わしいけれど,ただ,ある意

味でニュートンがアリストテレスとは別世界で研究していたと彼が考えていた

のはたしかだ.

この論証をどう考えたものだろう? ここでも再び,もっとも素朴なかたちの

デフォルトの見解がこれによって疑わしくなることはまったくないように,ぼ

くには思える.ぼくらと完全に独立して存在する現実世界があって,自然科学

の課題はこの現実世界の仕組みを解明することだという見解は,ゆるがない.

科学の進展はきまぐれでときに大きな変動を起こすというクーンの考えが全面

的に正しいとしよう.革新的な理論は旧来の語彙には翻訳不可能で,異なる理

論の信奉者たちは互いに相手の無理解をさらけ出してしまうとする.で,なに

が帰結する? ぼくの考えでは,外在的実在論に関しておもしろいことはなんに

も帰結しない.つまり,現実世界を説明しようとする科学の試みがかつて思わ

れていたほどには合理的でも累積的でもないというのが事実だとしても,べつ

18 Bruno Latour and Steve Woolgar, Laboratory Life: The Construction of Scientific Facts, 2nd ed. (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1986), pp. 180-82.

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にその事実によって,科学者たちが記述しようと誠実に試みている現実世界が

あるという想定が疑わしくなるわけじゃあない.

外在的実在論に対する第四の反論は,このクーン的な論証に関連していて,

証拠によって理論が決定されないことから論証する.地球が太陽系の中心だと

いう考え方から太陽が中心だという考え方への移行,天動説から地動説への移

行を考えてみよう.ぼくらはべつに,プトレマイオスの天動説はまちがいで地

動説が真だと発見したわけじゃあない.そうではなくて,ぼくらが前者を放棄

したのは後者の方が単純で日食・月食や視差などについてもっとうまく予測が

できるようになるからだ.絶対的な真実が発見されたわけじゃない.そうじゃ

なくて,質的には実際的な理由のために,べつの語り方を採用したんだ.これ

はなぜかというと,理論は証拠によって「過少決定」されているからだ.理論

に適切な修正をほどこしてやれば,利用できる証拠すべてに整合するように両

方の理論を保持できる.こういう科学的「発見」の歴史に示されているのは,

もし真理が名指すことになっているのが心と独立な現実との対応関係であるな

ら,そんな現実がない以上は対応関係もないから真理なんてないことになる,

ということだ.

この論証とコペルニクス革命の例に触れたのは,ぼくが 1950 年代に哲学科

の大学院生だったころ,この話題で鍛えられたからだ.いまの論議はそれから

ほぼ半世紀前も経っている.なのに,いまだにろくな論証になっていない.天

動説から地動説への移行は,べつに,独立に存在する現実を否定するものじゃ

あない.その逆に,この論議がぼくらに理解可能....

なのは,そんな現実がある..

想定したときに限られる.この論議とその重要性が理解されるのは,それが実

在の物体──植物とか太陽とか惑星とか──とそれらの現実の相互関連性とに

ついての論議であると想定したときに限られる.地球や太陽といった物体が心

と独立に存在していると想定しないと,そもそも何が争点なのか,地球が太陽

の周りを回っているのか太陽が地球の周りを回っているのかという論議で何が

争われているのかすら理解されない.それどころか,単純性やよりよい予測が

意味をもつのは,ただ,それらを現実世界についての真実に到達する手段とみ

なしているからだ.現実世界なんてないと考えるなら,べつに,美学的その他

の理由で気に入っていることを言ってもかまわないだろう.美学的な理由でな

いとしたら,単純性を好む理由はなにかあるだろうか? しかし,より単純な体

系の方がもっと事実に対応していそうだと想定されるのは,プトレマイオスの

天文学はその理論の穴や不整合を取り繕おうとして信じがたいほどややこしく

なっているとぼくらが考えるからだ.この論争とその落着は,現実世界の存在

とその世界について真実を述べようとする一連のますます上首尾な試みとして

の科学を支持するものであって,否定するものではない.のちに相対性理論が

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発展し,太陽や惑星が絶対空間に存在しているという説が放棄されたのは,さ

らにこの点を例証している.

2 つの理論いずれにも整合する証拠にもとづいて一方を選び取るとき,ぼく

らが選ぶのは,この理論の選択とは独立に世界のあり方を述べている理論の方

だ.よく知られているように,クワインは,じぶんが原子物理学がいう分子の

存在を受け入れるのは,まさに措定という点においてホメロスの神々の存在を

受け入れるのと同等だ,と論じた[19].それはそうだけれど,だからといって,

電子やゼウスとアテナが存在するかどうかがぼくら次第だということにはなら

ない.ぼくら次第なのは,存在すると述べている理論を受け入れるか斥けるか

だ.ぼくらの承認・拒斥と独立に,電子やゼウスが存在するかどうかによって

理論の真偽は決まる.

哲学史に親しんでいる読者は,いったいぼくが懐疑主義に答えるつもりがあ

るのかどうか,いぶかしんでいることだろう.たしかに,現実世界についてこ

うした主張ができるためには,現実世界についての知識をえられると主張でき

ないといけない.こうした知識の主張が妥当となるためには,まず,現実世界

について知る可能性について懐疑主義的な疑いに応える必要がある.そこで,

心と独立な現実が存在するという見解に対する反論として歴史的に主たるもの

に目を転じよう.

懐疑主義,知識,現実

Skepticism, knowledge, and Reality

哲学史において,ぼくらと独立に現実が存在しているという見解に対する反

論でいちばん有名でいちばん一般的なのは,この見解では現実は不可知になっ

てしまうという主張だ.かくして──と論証は続く──永久にぼくらの知識を

こえた物自体の世界というものがあるという見解を受け入れざるをえなくされ

る.だけど,そんな現実を想定するのは致命的かつ空疎だ──致命的だという

わけは,これでは懐疑主義の絶望を余儀なくされるからで,空疎だというわけ

は,独立に存在している現実についてどんな仮説も立てられないからだ.バー

クリーによると,物質が存在するとしてもそれを知りようがないし,存在しな

いのなら全ては同じままにとどまる[20].

19 Willard Van Orman Quine, “Two Dogmas of Empiricism,” in From Logical Point of View (Cambridge: Oxford University Press, 1998). 〔訳書:W.V.O. クワイン『論理的観点から―論理と哲

学をめぐる九章』飯田隆=訳,勁草書房,1992 年.〕 20 George Berkley, A Treatise Concerning the Principles of Human knowledge (Oxford: Oxford University Press, 1998).

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バークリーによるこの論証を公正に扱うには何冊か本を書かなきゃならなく

なるだろうけれど,ここでは簡潔に述べる.哲学において,懐疑的な論証はい

つも同じ形式をとっている:なんらかの領域に関してひとは可能なかぎり最良

の証拠をもちうるけれど,それでもなお間違いの余地がある,というんだ.〔た

とえば〕他人のふるまいについて,あたうかぎり最良の証拠を持っていてもなお,

なおその人の心的状態について間違っているかもしれない.過去については,

あたうかぎり最良の証拠を持っていてもなお,その未来については間違ってい

るかもしれない.じぶんの知覚経験について,あたうかぎり最良の証拠を持っ

ていてもなお,外在的世界について間違っているかもしれない.そうなるのは

なぜかと言えば,夢を見ているかも知れないし,幻覚を体験しているのかもし

れないし,じぶんは水槽の中の脳なのかもしれないし,悪霊によって体系的に

だまされているのかもしれないから,というわけだ.こういうタイプの懐疑主

義は(これら全てがというわけじゃないけれど)よく知られているようにデカル

トにみられる.もっと急進的な懐疑論者は,さらに次のステップへと進む:十.

分な..

証拠がないばかりか,厳密に言うとまったく証拠がない.........

,と言うんだ.な

ぜなら,手持ちの証拠は一方の領域に属し,立てている主張はまた別の領域に

属すからなのだという.ふるまいについての証拠は手元にあっても,立ててい

る主張は意識についてのものだ.感覚についての証拠は手元にあるけれど,主

張は物質的な対象についてのものだ.こういう過激な形の懐疑主義はデイヴィ

ッド・ヒュームにみられる.ここで例にとりあげるのは,現実世界または「外

在的世界」とときに呼ばれるものの存在を支持する証拠についての例だ.いっ

たい,じぶんが本をみていること,イスに座っていること,外の木々に雨が降

り注いでいるのを見ていることを,疑えるものだろうか? この懐疑的哲学者は

第一歩としてこんな問いを出した:厳密に言って,君が木を見ているときに知

覚しているのはいったいなんだろうか? 答えはこうだ.「君は独立に存在して

いる物理的対象を知覚しているんじゃあなくて,じぶん自身の知覚,みずから

の意識的経験を知覚している.」

ぼくらは木々や家といったものをじっさいに見ているという常識的見解は簡

単に反駁できるとみなされている.いちばん有名な2つの反駁は,科学からの

論証と幻覚からの論証だ.自然科学には威信があるおかげで,20 世紀のあいだ,

科学からの論証の方がより説得力をもちつづけている.論証はこう進む:

君が木を見ているときにどんなことが起きているか科学的に考えてみると,

こんなことがわかる:光子が木の表面で反射して,そいつが網膜の光受容細胞

にぶつかった結果,一連の神経発火が生じる.この神経発火は網膜細胞の 5 つ

の層から外側膝状核をへて,視覚野にいたる.こうした一連の神経発火により,

脳のどこかで視覚経験が引き起こされる.ぼくらが目にしているものすべては

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文字どおり,直接に,脳内の視覚経験そのものなわけだ.これを指す名称はさ

まざまで,「感覚与件」や「知覚対象」,あるいは最近だと「記号記述」(symbolic

description) などと呼ばれている.ただ,その基本的な概念は同じで,知覚者はじ

っさいに現実世界を見ているわけではない,ということだ[21].

この論証は,ぼくには間違っているように思える.いかにしてぼくが現実世

界を見ていることになるのか因果的に説明できるという事実からは,ぼくが現

実世界を見ていないなんて結論は出てこない.それどころか,これは一種の発

生論的誤謬だ.ぼくが「2たす2は4」をなぜ信じているのか因果的に説明で

きる(ぼくは 1 年生の先生によってそう条件付けされているわけだ)という事

実からは,「2たす2は4でない」ということはわからない.同じく,ぼくが木

を見ているにいたる因果的な説明(光子がぼくの網膜にあたって一連の神経発

火を引き起こした結果として視覚経験が生じている)ができたとして,そのこ

とからはぼくが木を見ていないとはわからない.一方で「ぼくは直接に木を知

覚している」と断定し,他方で「物理的・神経生物学的な一連の出来事がぼく

の中に《木を見ている》と記述される経験を生み出している」と断定したとこ

ろで,この 2 つは不整合をきたしはしない.

第二の論証は,錯覚論法 (argument from illusion) だ.この論証にはいくつもの多

様な形があるけれども,ここではその全てを取り上げはしない.それらに共通

の骨子はこうだ:この世界の対象や事態をじぶんが本当に見ているいわゆる「真

性の」場合となんらかのまぼろし・幻覚・妄想などをみている場合とを区別す

る方法はないけれど,この世界の事態と対象をぼくらが直接に知覚していると

考えるひと,すなわち素朴な知覚実在論者 (perceptual realist) はこの事実を取り扱

えない.したがって知覚実在論はまちがい,というわけだ.ぼくが知るかぎり

いちばん単純なバージョンのこの論証はヒュームにみつかる.素朴な知覚実在

論はあっさり反駁できると彼は考えたので,わずか数センテンスでかたづけて

いる.もし今までに「自分は世界を直接に知覚している」と考えたことがある

なら,片方の目を指で押してみればいい.〔そうしたらものがダブって見えるけ

れど〕もし現実世界を見ていると想定したなら,これで世界は二重になってし

まったと考えなくてはいけなくなる[22].つまり,もし知覚実在論が正しくてぼ

くが現実世界を見ているのだとしたら,ぼくがダブったものを見ている度に世

界は二つになっていることになる.けれども,当然ながらぼくは倍増した世界

をみているわけじゃない.目の前のテーブルは 2 つあるわけじゃない.ただ,

目玉を押さえると両目の焦点が合わなくなって2つの視覚経験をしているだけ

21 原註.Francis Crick, The Astonishing Hypothesis (New York: Scribner’s/Maxwell Macmillan International, 1994), pp.32-33. 22 David Hume, A Treatise of Human Nature, ed. L. A. Selby-Bigge (Oxford: Clarendon Press, 1888), pp.210-11.

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だ.

錯覚論法には多くの変種がある.ぼくのみるところ,その多くは J. L. オー

スティンの古典的な著書である『知覚の言語』で手際よく攻撃されている[23].

ここではその詳細には立ち入らないで,その論証の一般的な形式とそれがまち

がいである理由について一言述べることで満足しておこう.

錯覚論法の一般的な形式はこうだ:もし素朴な知覚実在論が正しく,この世

界の事態と対象を直接に知覚している場合があるのだとしたら,世界に存在す

るモノや事態をあるがままに知覚している場合とそうでない場合とで経験の性

質が区別できないといけない.ところが,この 2 つの経験は性質によって区別

できないので,一方の場合にあてはまる分析はもう一方にもあてはまってしま

う.そして,真性でない〔あるがままに知覚していない〕場合,ぼくらは現実

世界を見ているわけではない.あるいは,あるがままを見ているわけではない.

だから,いわゆる真性な場合にも,ぼくらは現実世界を見ているわけでもない

しあるがままを見ているわけでもないと言わざるを得ない.

さて,こんなふうにむき出しなかたちにしてみると,この論証の基本的な構

造がまちがっていることがみえてくる.目の前にある物体を見ていると言える

には,経験そのものの内的な性質ちがいのみによって真正の経験と物体を錯覚

している場合とを十分に区別できるのでないといけないなんてことは,単純に

正しくない.ここで錯覚を例に挙げている眼目は,経験そのもの──経験の質

的な特徴には錯覚の場合を申請の場合から区別するものなんてないということ

だとぼくは理解している.でも,なんでそんなものがあるはずってことになる

んだろう? 視覚経験を引き起こしているのは,感覚レセプタに始まって脳のど

こかで終わる一連のニューロンの発火なわけだから,見るべき物体がないにも

関わらずまったく同じ一連のニューロン発火がまったく同じ視覚経験を引き起

こすことは十分に想像できる.もしこれが正しいなら,脳内の単一の経験だけ

にもとづいて物体を本当は見ていない場合と現に見ている場合とを区別するの

は不可能だ.でも,単一の経験だけを問題にしなきゃいけない理由があるだろ

うか? 通常の場合,ぼくは自分が肉体をもってこの身の回りの世界にあるさま

ざまな物事に関わっている行為者だってことを当然視している.どんなもので

あれ単一の経験がぼくにとって意味をなすのは,他の経験のネットワークに組

み込まれているからであり,世界と関わっていくのに当然視された能力の〈バ

ックグラウンド〉によって成立している.もしこれが正しければ,単一の経験

をそれ自体で考えてみたところで,真正の知覚と錯覚とを区別するのには不十

分だ.もう一度言うけど,どうしてそんな話になるんだろう? 錯覚論法の基本

23 J. L. Austin, Sense and Sensibilia (Oxford: Oxford University Press, 1962).〔『知覚の言語―センス

とセンシビリア』丹治信春・守屋唱進=訳,勁草書房,1984 年〕

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構造はそもそもの前提から間違っている:ぼくが現実世界に実在する物体をみ

ている場合があると言えるためには真正の知覚とそうでない知覚とで視覚経験

の質的な特徴にちがいが必要とされるという仮定がまちがっているんだ.よっ

て,この論証は前提が偽だから妥当じゃない.

ぼくらが知覚しているのは自分の知覚そのものだという考え方を斥けてみる

と,あとは外在的実在論を否認する認識論的な根拠はなにも残らない.

外在的実在論は正当化されているか?

Is There Any Justification for External Realism?

ここまでは外在的実在論に対する挑戦に答えてきた.けど,外在的実在論は

それ自体として正当化されうるんだろうか? ぼくらの表象から独立して世界

に実物が存在しているという見解に正当化を求めるのは意味がないとぼくは思

う.なぜなら,正当化のどんな試みも正当化しようとする対象を前提するから

だ.現実世界を見つけ出そうとする試みは,事物には一定のありようがちゃん

とあると前提している.このため,外在的実在論のことを時空間に物質的な事

物が存在するという見解,山や分子が存在するという見解として描き出すのは

間違っている.仮に,山や分子なんてなかった,物質的な事物なんて時空間に

存在していなかったとしよう.このとき,そういったことが世界のありように

関する事実となるわけで,これは外在的実在論を前提している.つまり,現実

世界に関するあれこれの主張の否定は,ぼくらの主張と独立に事物に一定のあ

りようがあると前提しているんだ.

いままで,あたかも観念論だとか実在論だとかのいろんな問題が互いに競合

する論争や論証の対象であるかのように語ってきた.たしかに哲学史をみると

まさにそんな感じに見えるけれど,その見方は間違っているとぼくは思う.ぼ

くの考えでは,もっと深いレベルではこうなっている:外在的実在論は理論な

んかじゃない.世界がそこに存在しているというのはぼくらが抱く「意見」じ

ゃない.そうではなくて,たとえば惑星の運動だとかのあれこれの事柄につい

てそもそも意見や理論をもつのが可能となるにはこの外在的実在論が必要なん

だ.たとえば太陽系の太陽中心説の利点について議論するときには,事物の現

実のありようがあるってことは当然視しないといけない.そうでないと議論は

はじまらない.議論しようっていう項目そのものが理解不能になってしまう.

で,事物には一定のありようがあってぼくらの表象から独立しているというこ

の想定が外在的実在論だ.外在的実在論はあれこれの対象の存在に関する主張

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ではなくて,そうした主張を理解するときの前提だ.いろんな“論争”がいつ

もキリがないように見えるのはまさにこのためだ.ダーウィンの進化論に関す

る議論なら多かれ少なかれ決着のつけようはある.けれど,現実世界の存在に

関する議論はそういう具合には決着がつけられない.そうした決着には現実世

界の存在が前提されるからだ.とはいっても,これは実在論が証明不可能な理

論だってことを意味しない.そうじゃなくて,実在論は理論ではなくって理論

を立てるのを可能にする枠組みだってことだ.

実在論に対するいろんな挑戦は,その額面どおりの論証とはちがうものに動

機づけられているように思う.ああいった挑戦の動機は,知的なものでなく,

より深いところにあるのではないだろうか.さきほど示唆しておいたように,

言語を話し意識をもち創造的な能力をもちあわせているこのぼくらが,くだら

ない,馬鹿げたこの慣性的な物質世界に従属しなきゃいけないってことを忌々

しく思う人たちはたくさんいる.なんでこの世界に対応しなきゃいけないんだ,

“現実世界”をぼくらが創り出したものとみなしてはいけない理由なんてある

のか,僕らの方に世界が対応するべきじゃないか,というわけだ. もし現実が

すべて“社会的構築物”なら,主導権をもつのはぼくらであって世界じゃない.

実在論の否認を動機づけているのはあれこれの論証じゃなくて,力への意志で

あり支配力願望であり根深く執拗なルサンチマンだ.このルサンチマンには長

い歴史がある.さらに 20 世紀後半には自然科学に対するルサンチマンと嫌悪

がこれに加わった.科学は,その地位,一目瞭然の進歩,力とお金,そして危

害を及ぼしうる圧倒的な能力ゆえにルサンチマンと嫌悪の対象となった.この

感情に油を注いだのがクーンやファイアアーベントといった思想家たちの著述

だ.彼らは科学神話の破壊者とみなされている.衆目によれば,こうした思想

家たちによって科学は独立した現実に関する客観的知識をもたらすのではなく

多かれ少なかれ非合理な言語的構築物,一連の“パラダイム”を提供している

のを明らかにしたとされている.科学者たちはそうしたパラダイムの内部で

“パズル解き”に従事していて,矛盾と不整合からあるパラダイムが捨て去ら

れると科学者たちは次の新しいパラダイムに乗り換えてまたパズル解きにいそ

しむ,というんだ.ようするに,独立に存在する現実世界の客観的な知識を自

然科学がもたらしてくれるという見取り図──誰でも自然科学でなんらかの訓

練を受けたひとなら知っているとおり自然科学で当然視されているこの見取り

図は,いまやおおいに攻撃を受けている.科学は現実についての客観的知識を

もたらしていないと述べた次のステップでは,さらに進んで,そんな現実なん

てないという発言がでてくる.あるのは社会的構築物だけだ,というんだ.

すでに述べた点をここであらためて強調しておく必要がある:反実在論の動

機は一般に力への意志であり,とりわけ科学嫌悪だという言明でぼくが意図し

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ているのは診断であって反駁ではない.意図しているのが反駁だとしたら,発

生論的誤謬になってしまう:ある見解の因果的な起源を説明すればその見解が

偽だと示すのに十分と考える誤謬だ.

無神論を超えて

Beyond Atheism

ちょっと大げさな言い方をすると,究極的な現実とは化学と物理学によって

記述される現実だ.完全に正確ではないにせよ場に存在する“分子”とでも簡

便に呼ぶことのできる実体から成り立っている世界の現実だ.この見解そのも

のは実在論ではないけれど,実在論的な〈バックグラウンド〉において世界の

あり方がどんなふうに判明していくのかに関する主張となっている.実在論と

は,「事物には一定のありようがある」という〈バックグラウンド〉前提のこと

だ.物理学という分野にはいくつもの理論がある.そうした理論は,それぞれ

にこう言う:これが事物のあり方だ.反実在論者たちは,この〈バックグラウ

ンド〉前提に挑戦するとき,理論よりもその理論の地位に挑戦する.〔反実在論

によれば〕ぼくらから独立した事物のあり方なんてないのだから物理学には事

物のあり方を言えるわけがない.物理学もまた,ひとつの社会的構築物にすぎ

ないというわけだ.

きっとこう言う人がいることだろう,「で,神サマはどうなのよ?」 もし神

サマが存在するなら,まちがいなく彼こそが究極の現実ということになる.物

理その他はみんな神サマに左右される.初期条件の創造によって左右されるだ

けでなくて,その後の存在の継続も左右されることになる.

もっと前の世代だったら,本書のような本は伝統的宗教に対して無神論的な

攻撃か有神論的な擁護のどちらかが書かれていただろう.あるいは,少なくと

も,著者は分別を示して不可知論を宣言しなくちゃいけなかっただろう.ぼく

とよく似た精神でものを書いた 2 人の著者,ジョン・スチュアート・ミルとバ

ーとランド・ラッセルは伝統的宗教に対して論争的で雄弁な攻撃をしかけた.

いまでは,誰もそんなことはしない.神の存在について疑問をなげかけるのは

ちょっと趣味のよろしくない所行とみなされている.宗教の問題は性的好みの

問題のようなものだ:おおっぴらに議論すべきことではなくて,議論する人間

には朴念仁しかいない.

で,どうなっただろう? 大半の人たちは,西欧と北米の教養ある層では宗教

的信仰は減少してきたとみているように思う.たしかにそうなのかもしれない.

でも,宗教的な渇望の方はいままでどおり強力で,あらゆる種類の奇妙な形を

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とってあらわれているようにぼくには思える.ぼくらのように社会の教育ある

メンバーにとって,世界は脱神秘化されてきている.あるいは論点をもっと正

確に言うと,世界にぼくらが見いだす神秘は,もはや超自然的な意味のあらわ

れとして受け取ったりはしなくなっている.不思議な出来事があっても,ぼく

らは神サマが奇跡という言語で言語行為を遂行してるだなんて考えたりはしな

い.不思議な出来事とは,たんにぼくらには理解されない出来事にすぎない.

この脱神秘化の結果どうなったか.ぼくらは無神論を超えて,以前の世代にと

って問題になったこともまるで問題にならないところにまできた.仮に神サマ

が存在すると判明したとしても,ぼくらにとってそれはたんに自然の一事実と

いう点で他となんのちがいもない.この宇宙の基本的な 4 つの力──重力・電

磁気・強い原子力と弱い原子力──に,5 つめの力として「神サマの力」が加

わるだけのことだ.あるいは,それよりもありそうなことを言えば,他の 4 つ

の力を「神サマの力」がとる形式とみなすようになることだろう.それでもな

お,これも神サマ物理学とはいえやっぱり物理学には変わりない.もしそんな

超自然的なものが存在したとしても,それも結局は自然的なものとなるまでの

話だ.

2 つ例を考えてみると,ぼくらの視点の変化がみえてくる.ヴェニス大学で

客員教授として教えていたとき,ある美しいゴシック教会によく歩いていった.

マドンナ・デッロルト教会だ.もともとの計画では,この教会はサン・クリス

トフォロ教会という名称になるはずだった.ところが建設中に隣の果樹園で聖

母像がみつかり,これは天から降ってきたのにちがいないということになった.

教会建設地に聖母像が天から降ってきたという奇跡譚によって,この教会の名

称は「果樹園の聖母の教会」に変わることになった.この話の要点はこれだ:

今日,もしどこかの建設地の近くで聖母像がみつかったとして,それが天から

降ってきたと言い出す人はいないだろう.もし聖母像がヴァチカンの果樹園で

みつかったとして,それでもやっぱり教会の権威者たちは天から降ってきたな

んて主張はしないだろう.そんな話はぼくらにとってありえないことだ.なぜ

なら,ある意味でぼくらはあまりにものを知りすぎているからだ.

もうひとつ例をあげよう.こっちもイタリアの話だ.フィレンツェ大学で教

えていたとき,ぼくの教区の教会──という呼び方でいいだろうか──は,都

市を見下ろす丘にある聖ミニアート教会だった.フィレンツェでもっとも荘厳

な教会のひとつだ.さて,この名前の由来は? 聖ミニアートは,この都市の

歴史で最初のキリスト教殉教者のひとりだ.彼は 3 世紀,AD250 年に皇帝デキ

ウスの治下でローマ当局により処刑された.闘技場でライオンをけしかけられ

たのをどうにか生き延びたものの,その後に首を刎ねられてしまった.断頭さ

れたあと,彼は立ち上がって首を脇にかかえ,闘技場の外へ歩いていき,川を

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渡り,町を出て行った.彼は頭を抱えたままアルノ川の南にある丘を登り,頂

上に着くとそこに腰を下ろした.教会が建っているのはその 場所だ.今日の

ガイドブックを開くと,この話がどこか申し訳なさそうに書かれてある.ある

いは大半のガイドブックでは触れられてもいない.この例で言わんとしている

のは,ぼくらがこの話を信じていないってことではなくて,そもそもありうる

こととして真に受けたりしないってことだ.

世界の脱神秘化を証拠立てる最近の例には,もうひとつ,トリノの聖骸布の

検証がある.処刑されたキリストの姿が写し出されているこの奇跡めいた布き

れは,教会当局によって放射線テストにかけられほんの 700 年前のものと判明

した.その後の証拠はもっと以前のものであることを示した.その正確な日付

がいつなのか,いまだはっきりしないままだ.この件の要点は,しかしどうし

てぼくらは奇跡よりもテストの方を信じた方がいいと考えているのかというこ

とだ.どうして神サマの奇跡が炭素 14〔による年代測定〕で調べがつくはずだっ

てことになるんだろう?

世界は脱神秘化されて,宗教がもはやかつてのように公的に問題とならない

ところまできている.この事実が示しているのは,ぼくらがみんな無神論者に

なってきているというより,無神論をこえてそうした問題がぼくらにとってち

がった意味をもつようになってきたということだ.

気の短い読者は,いったいぼくは神の存在についてどんな立場をとるつもり

なのかいぶかしんでいるかもしれない.実のところ,この問題について最良の

発言はバートランド・ラッセルが述べていると思う.ぼくが大学院生として出

席していたディナーでのことだ.この場面はいまや伝説となっているし,別の

機会にぼくがいなかったときにも同じようなことはあったから,いま思い出せ

るかぎりで実際に起きたことを記そうと思う.

オックスフォードの知的意欲に富む学部生の集まりであるヴォルテール協会

(Voltaire Society) は,定期的に 2 年ごとくらいで,その公式の後援者であるバート

ランド・ラッセルとの食事会を催していた.さっき述べた機会に,ぼくらはロ

ンドンまで出て行って,あるレストランでラッセルとディナーをもった.彼は

その頃 80 代半ばで,著名な無神論者として評判を得ていた.ぼくらの多くは,

いったいラッセルが魂の不滅についてどんな考えをもっているのか,どうして

も聞いておきたいと思っていた.そこで,彼にこう切り出した:「神の存在につ

いて,仮にあなたが間違っていたとしましょう.死後の話がぜんぶ正しくて,

真珠の門についたあなたは聖ペトロに審査を受けることになったとしましょう.

あなたは生涯ずっと神の存在を否定してきたわけですが,なんと言いますか,

その……「彼」に?」 ラッセルはまったく躊躇せずに答えた.「ああ,ぼくな

ら『彼』に向かってこう言うね,『あなたの出した証拠は不十分でしたな!』」

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第 2 章 ぼくらはいかにしてこの世界に適合しているか:生体現象としての心 How We Fit into the Universe: The Mind as a Biological

Phenomenon

意識の 3 つの特性

Three Features of Consciousness

さっきの章では,ぼくらの意識と独立に事物のありかたがあるという考えを主

に取り上げた.この見解をぼくは「外在的実在論」と呼んでいるわけだけど,

これは理論や意見とは考えられない.そうじゃなくて,これは〈バックグラウ

ンド〉の想定,すなわち多種多様な志向的ふるまいの遂行において当然視され

ているものを指している.たとえば,ぼくらがものを食べたり歩いたり車を運

転したりするときにこれは当然視されている.また,おしゃべりをしてるとき

にも大方の場合に外在的実在論は当然視されている.じっさい,ぼくらと独立

な世界にあるモノや事態に関する──少なくともそうだとされている──おし

ゃべりは全てそうだ.説明・言明・記述・命令・要求・約束などなど,これら

現実世界に関するおしゃべりでは,外在的実在論が当然視されている.

第 1 章の終わりになってようやくこの世界における「事物の現実のありかた」

についてぼくらは語りはじめた.ここにいたって,ぼくらはもはや哲学的な分

析の問題には関わってはいない.そうではなく,ぼくらが論じてるのは現代科

学の成果の一部についてだ.この世界の仕組みについてぼくらが知るかぎりで

は現代科学には手っ取り早い命題が 2 つある.これらはあってもなくてもいい

ものじゃない.たしかに,最終的には間違いだったと判明することだってある

かもしれないけど,20 世紀末の時点ではぼくらの文明の教養ある人々によっ

て深刻な疑義をもたれてはいない.その 2 つの命題とは,物質の原子理論と生

物の進化論だ.この 2 つの理論にもとづくと,次のことが言える:厳密ではな

いにせよ力の場の「粒子」とでも便宜的に呼べるものからこの宇宙のすべては

成り立っている.これら粒子はしばしばシステムを構成している.そのシステ

ムの境界を設定するのはその因果関係だ.システムの例をあげると,山脈だと

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か,氷河だとか,木々だとか,惑星だとか,動物だとか,分子だとか,そうい

うものだ.こうしたシステムのなかには,炭素をもとにできた有機的システム

もあって,そうした有機的システムには長い期間にわたって進化を遂げて今日

種として存在するさまざまな生体がいる.本書の論述が物理・化学・生物学の

話に接点をもつのは,まさにここだ──こうしたタイプの有機的システムの一

部が神経システムを進化させ,その神経システムはぼくらが「心」と呼ぶもの

を進化させてきた.人間や動物がそうだ.心という概念には,どこか混乱して

いて困りものなところがある.でも,T.S.エリオットが言うように「話をする

には言葉を使うしかない」ね.英語(日本語)だとこの「心」って言葉には他

の選択肢がない.ただ,後でいくらか他の用語を提案するつもりだ.そっちの

方が「心」って概念よりも便利だとわかる,といいな.

いちばん重要かつ本質的な心の特性は意識だ.「意識」という言葉でぼくが言

わんとしているのは感覚や注意の状態のうち,典型的には夢もみないほどの眠

りから朝めざめたときにはじまりまた就寝するまでずっと続くやつのことだ.

意識がなくなるケースを他にあげると,死んじゃったときとか昏睡状態におち

いったときとかに「無意識」になる場合がある.意識のあらわれ方にはとても

多くの形態や種類がある.そういったいろんな形式のなかにあって意識の本質

的な特性というべきはその内的・質的・主観的な性質だ.ただし,これらの言

葉は特別な意味で使っている.このあとすぐに説明しよう.

と言いつつ,まずは意識的な経験にはとてつもなく多くの種類があるってこ

とを思い出しておこう.たとえば,次のような経験がたがいにちがってるって

ことを考えてほしい──バラの香り,ワインの味わい,腰の痛み,唐突に蘇る

10 年前の秋の日の記憶,読書,哲学的問題を考えること,所得税を気に病むこ

と,ばくぜんとした不安でいっぱいになって夜中に目覚めること,高速道路で

他の車のひどい運転ぶりに急に腹が立つこと,性欲でいっぱいになってしまう

こと,みごとな仕上がりの料理をみて食欲をおさえられなくなること,どこか

ここじゃないどこかに行きたくなること,行列にならんでいて退屈すること─

─.こうしたことはどれも意識の形態だ.いまあげたのは他でもなく意識には

いろんな種類があるってことを例示するために選んだものだけど,じっさいの

意識的な経験の種類を網羅するにはとても及びもつかない.それどころか,ぼ

くらがこうして起きて生活してる間,ずっとぼくらは 1 つか複数のなんらかの

形態の意識にある.その意識状態には,ぼくらが目を覚まして送っている生活

のすべての種類が含まれる.

でも,こんなふうに多彩で種類がたくさんあるにも関わらず,すべての意識

状態には共通の特性が 3 つある:内的であること,質的であること,そして主

観的であること,この 3 つだ.ただし,これらの用語は特別な定義で使われて

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いる.それぞれの特性を順番に考えていこう.意識的な状態やプロセスは,ご

く日常的な空間を表す意味で「内的」だ.というのも,これらが生じているの

はぼくの体のなかであり,それもとくにぼくの脳の内部においてだからだ.意

識はぼくの脳を離れて存在できない.これはちょうど水の流体性を自ら切り離

せずテーブルの固形性をテーブルから切り離せないのと同じことだ.意識は必

ず有機体かなんらかのシステムの内部に生じる.また,意識はもう一つ別の意

味でも内的だ.どういうことかというと,さまざまな意識状態はそうした状態

の連なりの一要素としてのみ存在する.痛みや思考といった意識状態は,ひと

が意識をもって暮らしているそのひとこまとしてのみ生じてくる.こういった

意識状態はどれをとってみても他の状態との関連においてのみ同一性をもつ.

たとえばずっと昔にやったスキーレースのことをぼくが考えているとして,こ

の思考はまさにこの思考であるのはそれ以外のいろんな思考・経験・記憶がお

りなす複雑なネットワークにその位置を占めているからだ.ぼくのあれこれの

心的状態はたがいに内的に関連しあっている.ひとつの心的状態が他でもなく

特定の性質をもったその心的状態であるためには,他の状態と特定の関係にな

いといけない.その点において内的なんだ.これはシステム全体が現実世界に

つながっていないといけないのと同じだ.たとえば,スキーレースをやったの

を本当に覚えているなら,じっさいにぼくがスキーレースをやったということ

がないといけないし,ぼくがスキーレースをやったことによっていま現在の記

憶を引き起こしているのでないといけない.このように,ぼくの意識生活を構

成する一連の複雑な意識状態がこの〔意識の〕存在論── ぼくの意識状態の存

在そのこと──に関わっている.

意識状態が「質的」だというのは,どの意識状態をとってみてもそれぞれ

に独特な感じがあって,特定の定性的な特徴があるという意味だ.トマス・ネ

ーゲルが何年も前にこの論点を出している.いわく,どの意識状態をとってみ

ても,そこにはその意識状態らしさがある[24].〔たとえば〕赤ワインを飲むとき

にはそれならではの感じがあって,音楽を聴くときの感じとはずいぶんちがっ

てる.その意味でいうと,家であることとか木であることにはそういう感じな

んてない.ああいうものには意識がないからだ.

最後に,これがぼくらの議論にとっていちばん大事なことなんだけど,意

識状態はつねに人間や動物といった主体によって経験されるものだっていう意

味で主観的だ.したがって,意識状態には「一人称のオントロジー」とでも言

うべきものがある.つまり,意識状態はそれをもっているなんらかのエージェ

ントだか有機体だか動物だか自己だかの視点からみてはじめて存在するってこ

24 Thomas Nagel, "What It Is Like to Be a Bat," in Mortal Questions (Cambridge: Cambridge University Press, 1979), pp. 165-80.

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とだ.意識状態は一人称モードで存在してるわけだ.なんらかのエージェント

──すなわち「主体」──によって経験されないかぎり痛みは存在しない.山

みたいな客観的な実体は三人称モードで存在してる.こうしたものの存在は主

体による経験に依存してない.

意識状態が主観的であることからいろんな帰結が出てくる.そのひとつは,

ぼくの意識状態はぼくからはアクセス可能だけどあなたからはアクセス可能じ

ゃないかたちになっている,というものだ.ぼくは自分の痛みにアクセスでき

るけどあなたはぼくの痛みにアクセスできないし,あなたは自分の痛みにアク

セスできるけどぼくはアクセスできない.いま言った「アクセス」ということ

ばでぼくが言わんとしてるのは単に認識的なアクセスのことだけじゃあない.

単にぼくが自分の痛みのことをあなたの痛みよりももっとよく理解できるって

だけのはなしじゃない.その反対に,妬みとか嫉妬みたいに感情によってはそ

れを経験しているエージェントよりも他人の方がうまく理解できることだって

よくある.そうした状態の多くについては,ときにぼくらは自分自身の感情よ

りも他人の感情の方がよくわかっていたりする.ぼくが他人の状態とは異なる

じぶんの状態にアクセスできるっていうのは,主として認識的なアクセスを言

ってるんじゃない.たしかに主観性には認識上の帰結もともなうけど,たんに

ぼくがいかにしてじぶんの状態を知るかっていうはなしをしてるんじゃなくて,

ぼくの意識状態はどれもぼくという主体によって経験されてはじめて存在しう

るってはなしをしてるんだ.そのため,ぼくの意識状態はどれもぼくの意識生

活を構成する一連の状態の一部をなしている.これは意識状態の内的性格を論

じたときにみたとおりだ.

よくある議論で,主観的であるがゆえに意識を科学的に説明することはでき

ない,主観的であることで意識には科学的な探求の手が届かないのだ,といっ

た主張がなされることがある.でも,この論証はダメな三段論法に依拠してし

まっている.その三段論法に誤謬があるのを示せば,主観性についてもっとよ

く理解できるだろう.論証はこう進む:

1. 科学は定義により客観的だ(主観的じゃなくて)

2. 意識は定義により主観的だ(客観的じゃなくて)

3. したがって,意識の科学はありえない.

この論証は誤謬をおかしている.それは「主観的」・「客観的」ということば

の曖昧性の誤謬だ.これらの単語には異なる意味があるのに,それがこの三段

論法では混同されている.いちばんありふれているであろう「主観性」の概念

と「主観的」・「客観的」の区別で読むと,言明が客観的だと言えるのは,ひと

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の感情や態度や偏見から独立に真偽がわかるときだ.ある言明が認識的に主観

的となるのは,その真偽が本質的に観察者の態度や感情に左右されるときだ.

こうした語義を──それと客観性と主観性のこういう区別を──「認識的な客観

性」・「認識的な主観性」とよぶ.すると,「レンブラントは 1609 年に生まれた」

という言明は認識的に客観的だということになる.ぼくらがどう感じようとこ

の言明は事実問題として真偽がわかるからだ.「レンブラントはルーベンスより

も優れた画家だ」という言明だと,そんなふうに認識的に客観的じゃない.そ

の真偽はいわゆる好みや意見の問題だからだ.その真偽は観察者による態度・

好み・評価に左右される.これが認識的な意味での客観・主観の区別だ.

でも,これらのことばにはそれとちがう語義だってあるし,それにともなう

別の区別もある.それがぼくのいう存在論的オントロジカル

な語義だ.認識的な語義は言明に

適用されるけど,存在論的な語義は世界内のいろんなタイプの事物の存在様態

のありようを指す.山や氷河は「客観的な存在様態」をしている.その存在様

態が主体による経験に依存していないからだ.でも,痛みやむずがゆさ,それ

に思考や感情なんかは,「主観的な存在様態」をしてる.なんらかの人間主体・

動物主体により経験されることではじめて存在するからだ.さっきの論証の誤

謬は,意識の状態は存在論的に主観的な存在様態をしてるからというので認識

的に客観的な科学では研究できないと想定しているところにある.でも,この

結論はでてこない.ぼくの踵の痛みは存在論的に主観的だけど,「JRS はいま

踵に痛みがある」っていう言明は認識的に主観的なわけじゃない.これは単純

な(認識的に)客観的な事実であって,(認識的に)主観的な意見の問題とはち

がう.だから,意識の存在様態が主観的だからといって,意識の客観的な科学

ができなくなるってことにはならない.たしかに科学は認識的に客観的で,科

学者たちはだれの感情や態度や偏見からも独立な真実を発見しようとしてる.

けれど,そういう認識的な客観性はべつに存在論的な主観性を探究の領域から

はずしてしまうわけではないんだ.

デフォルト見解どうしの衝突:心身問題

A Clash of Default Positions: The Mind-Body Problem

意識は何世紀にもわたって哲学者たちにとって形而上学の難問だとみなされて

きた.何から何まで力の場の物理的な粒子から成り立っているこの世界に意識

的なシステムが含まれているなんて,いったいどうして可能なんだ? 意識を物

質的・物理的な現実から区別される別物の神秘的な種類の現象だと考えている

と,伝統的に「二元論」とよばれてるものを余儀なくされるようにみえてしま

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う.これは,この宇宙には基本的に 2 種類の異なる現象または実体があるって

いう考え方だ.でも,二元論を否定して,意識には還元し得ない主観的なもの

があるってことを否定しようとすると,今度は唯物論に追い込まれてしまうよ

うに思えてくる.ここまで記述してきた意識,ぼくらがみんな現に経験してる

この意識が,じつは存在しないって考えなきゃいけなくなる.もしきみが唯物

論者だったら,一人称の主観的な存在である意識なんてものはホントは存在し

ないって言わなきゃいけない.多くの唯物論者たちは意識の語彙を使い続けて

いるけれど,その言葉で彼らがなにか別のことを意味してるのは明らかだ.こ

れら 2 つの見解──二元論と唯物論──のどちらも,今日にいたるまで哲学で

割とよくある立場だ.

二元論には 2 つの変種がある.実体二元論 (substance dualism) と性質二元論

(property dualism) だ.実体二元論に言わせると,この宇宙には根本から異なる種

類の事物がある.物質的な事物と非物質的な心の 2 種類だ.この見解は古代に

さかのぼるけど,いちばん有名な提唱者は 17 世紀のルネ・デカルトだ.じっ

さい,彼にちなんで実体二元論はデカルト的二元論なんて呼ばれてたりする.

性質二元論は,事物には形而上学的に異なる 2 種類の性質があるんだと考える.

体重が 3 ポンドだとかの物理的な性質と,痛みがするといった心的な特性とが

ある,というわけだ.あらゆる形式の二元論は,2 つのタイプがお互いに排他

的だっていう見解で共通している.心的なものは心的であるがゆえに物理的で

はありえないし,物理的なものは物理的であるがゆえに心的ではありえないっ

てことだ.

今日の哲学者の多くは,いまでもなんらかの形の二元論を固持してる.ただ,

たいていの場合,それは実体二元論じゃなくて性質二元論の方だ.彼らも,こ

の物理世界の物理的な性質の「彼方に」意識のような事物が存在してると信じ

てるわけじゃない.唯物論には変種がたくさんある.ここでその全部を列挙し

ようとは思わない.そのなかでももっとも有名な例をいくつかあげておくこと

にしよう.

� 行動主義 (Behaviorism) に言わせると,心は行動や行動の傾向に還元さ

れる.たとえば,痛みがするのは痛いっていう行動をとったりそうい

う行動をとる傾向にあるってことだ.

� 物理主義 (Physicalism) に言わせると,心的状態はたんに脳の状態のこと

だ.たとえば痛みがするのは C 線維が刺激されてるってことだ.

� 機能主義 (Functionalism) に言わせると,心的状態はその因果関係で定義

される.機能主義によれば,脳であれ他の何であれ,物理システムの

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状態が入力刺激やそのシステムの他の機能状態および出力行動としか

るべき因果関係にあるとき,その状態は心的状態だとされる.たとえ

ば,痛みがするというのは,末梢神経終末への特定の刺激が引き起こ

した状態にあり,それが今度は特定の行動を引き起こしたり特定の種

類の機能状態を引き起こしたりするということだ.

� 強い人工知能論 (Strong Artificial Intelligence) に言わせると,心は脳または

なんらかの種類のコンピュータで実行されてるコンピュータ・プログ

ラムにすぎない.たとえば,痛みがするっていうのは痛みのコンピュ

ータ・プログラムが実行されているというだけのことだ.

こんな具合にいろんな種類があるけど,ぼくが知ってる現代の唯物論はどれ

も共通の目的をもっている.それは,なんらかの形の物理的・物質的なものに

還元することによって心的現象全般をお払い箱にすること,とりわけ意識をお

払い箱にすることだ.いま言及した唯物論はどれも「~にすぎない」理論

("nothing but" theory) になっている:どれも,たとえば痛みが内的・質的・主観的

な心的現象だってことを否定し,その反対にそれらが行動だとかコンピュータ

の状態だとか「にすぎない」と主張する.

実体二元論・性質二元論どちらの二元論も,そしていろんな形はあれど唯物

論も,とうてい正しいとは思えない.ぼくらが「心的」・「物理的」・「心」・「身

体」といった古風で時代遅れな語彙でいまだにこういった問題を立ててそれに

答えようとしているのは,いかにして問題を定式化して答えるかって点で根本

的な概念のまちがいをやっちゃってることの氷山の一角にちがいない.一方で

は,どんな形のものであれ,二元論だと意識のあり方や存在はまったくの神秘

になってしまう.たとえば,意識と物質的世界の因果的な相互作用をどう考え

るっていうんだろう?心的な領域を措定しておきながら,二元論はそれがぼく

らが生きてるこの物質的な世界とどう関連してるのか説明できない.他方で,

唯物論は明らかに間違ってるように思える:唯物論は結局のところ意識の存在

を否定することになり,そうすることでそもそもの問題を生じさせていた現象

の存在を否定することになる.ここからの出口はあるだろうか? 前門には二元

論のトラ,後門には唯物論のオオカミがいるわけだけど,この 2 つの間に対案

はあるんだろうか? ある,というのがぼくの考えだ.

こうした議論がデフォルトの見解どうしの衝突だということははっきりして

いることだろう.それぞれの見解を衒いや飾りのないかたちで紹介しておいた

けれど,やりかたしだいでとても魅力的な考えにみせることだってできる.一

方では,ぼくらに心と体があるのはあたりまえに思えるし,少なくともぼくら

の生活に身体的な性質と精神的な性質があるのは当然に思える.他方で,世界

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が全面的に物理的な粒子とその物理的性質から成り立っていて,粒子からなる

大きな組織の物理的性質もそこに含まれるのは周知のことだとも思える.

心身問題の根強さや対立し合う見解それぞれの魅力は,衝突し合うデフォル

ト見解どうしの背後にある力をみてはじめて理解できる.二元論は常識に合致

しているようにみえる.デカルト本人が言ったように,ぼくらの誰もが意識的

な経験をしていて,それがぼくらをとりまく物質的世界とはちがってるってこ

とはかんたんにわかる.ぼくらの誰もが内的な思考・感情・痛み・こそばゆさ・

かゆみ・視覚を経験している.それに加えて,客観的に存在している 3 次元の

物質的なモノの世界,イスやテーブルや木々や山や滝の世界もある.これほど

異なるものが〔物理/精神の〕他にあるだろうか?

さらに,ぼくらの意識的な自己と身体との関係を考えてみると,自己には身

体の他になんにもありはしないだなんておぞましすぎてとても考えられないよ

うに思える.ぼくの体がこわれちゃったら自分がもう存在しなくなるんだなん

て,おそろしくてとても考えられないように思える.いつの日かこの自分が存

在しなくなるんだっていうことを勇気を振り絞って受け入れたとしても,自分

が深く愛し賞賛している人たちがいつか必ず消え去ってしまうんだってことは

それよりもずっと受け入れがたい.これほど素晴らしい人たちも,その身体は

けっきょく他のものと変わらない物質的なものなのであってみれば,いつかそ

の身体の衰退と破壊による不可避の死によってあっさり無に帰してしまうのだ

──そんなことはおそろしくて思い浮かべることもできないように思える.よ

うするに,二元論はぼくらの経験のこのうえなく自明な解釈に合致するばかり

か,生存への深い希求の想いを満たしてくれるんだ.

ぼくは二元論は〈西洋〉文化の特殊な産物かもしれないと考えていたんだけ

ど,ボンベイ〔ムンバイ〕でひらかれたシンポジウムで講演したとき,同じ壇上

にダライ・ラマがいて,驚くことに彼もある種の二元論を信じているってこと

を知った.「私たちの誰もが心と体をもっています」と彼は講演を切り出した.

他方で,唯物論もものすごく説得力がある.もしぼくらが知っていることが

ひとつあるとすれば,それはこの世界が何から何まで力の場の物理的な粒子か

ら成り立っているってことだ.もし意識的な現象みたいなものが実在するとし

て,そんなものが物質的な粒子の世界に適合するだなんて,どうやったら考え

られるだろうか? 分子のあいだをぼくらの魂が出入りしてるとでも言うのだ

ろうか? あるいは,なんらかの形而上的な糊で魂が脳にくっついて,死ととも

に魂は離れるとでも考えるのだろうか? 科学からこの世界についてぼくらが

知ったことにぼくらのこの存在の説明が両立する方法はただひとつ,すべては

物質的なのだと認めることのように思える.物質的な現実以外にはなんにもあ

りはしない──物質的な現実「をこえた」ものなんてない,というわけだ.

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これは解決不可能にみえる哲学的難問でよくあることだ.ぼくらの前に 2 つ

の相反する選択肢が提示されるのだけど,どちらも放棄できないようにみえる.

でもどちらかを選ばないといけないんだと言われる.このため,その主題の歴

史は双方の陣営による戦いとなる.意識と心身問題の場合だと,二元論と唯物

論のどちらかを選ばなきゃいけないという話になってる.二元論は心的なもの

の還元不可能性を主張し,唯物論は意識は還元可能だから消去可能にちがいな

いと主張して心はなんらかの純粋に物理的な存在だという考えを追求する.伝

統的に理解されているように,どちらのデフォルト見解にも,率直に言って馬

鹿らしい含意が伴っている.つまり──これもまた見かけ上は解決不可能な哲学

的問題にありがちなことだけど──ぼくらの出発点となる立場は常識的に思え

るものの,その含意を考えはじめると,その立場には受け入れがたい帰結があ

るのが見えてくる.たとえば,ぼくらは誰もが心と体をもっているという常識

的に受け入れられているデフォルトの見解も,その含意を伝統的なかたちで取

り出してみると,ぼくらの意識は物理的世界から自由にたゆたっていて日常的

な生物としてのぼくらの生活の一部をなしてはいないということになってしま

う.唯物論のデフォルト見解は,この世界は何から何まで物質的または物理的

な実体からできているというものだ.いつも唯物論者たちがやっているように

その含意を取り出してみると,還元しえない心的なものとしての意識は存在し

ない,ということになる.唯物論者たちは,なんだかんだと遠回しな言い方を

繰り返したあげくに,結局は意識の存在を否定することになる.とはいえ,彼

らにしても大半はこんな風にはっきり言うのは気まずくてためらってしまう:

「意識は存在しない.いかなる人間も動物も意識的だったことなんてない.」

そのかわりに,彼らは「意識」を定義し直して,内的・質的・主観的な心的状

態を指さないようにする.「意識」という言葉で三人称の現象,ぼくがいう意味

で内的でも質的でも主観的でもない現象を言い表すようにしてしまうんだ.意

識は身体のふるまいだとか脳や情報処理の計算的状態だとか物理システムの機

能的状態だとかに還元される.この点で典型的な唯物論者がダニエル・デネッ

トだ.デネットにとって意識は存在するんだろうか? 彼はけっしてそれを否定

はしない.じゃあ意識ってなんだ? いや,そいつは脳で実行されてるコンピュ

ータ・プログラムどもだよ,と彼はこたえる[25].

こういう答えじゃダメだ.意識は内的・主観的・質的な一人称の現象だ.意

識を説明しようというのにこれらの特性をとりこぼしているなら,それは意識

とちがう別物の説明でしかない.

この問題を解く正しい方法は,どちらの選択肢もしりぞけることだとぼくは

25 fn.2 Daniel Dennett, Consciousness Explained (Boston: Little, Brown, 1991). (訳書:『解明される

意識』,山口泰司=訳,東京:青土社,1998 年)

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思う.二元論も唯物論も間違った仮定を立ててしまっている.その主要な間違

った仮定は,もし意識が本当に主観的・質的な現象ならこの物質的・物理的な

世界に含まれてるはずがない,というものだ.それどころか,17 世紀以来のこ

の用語の定義を踏まえると,この仮定は定義により真になる.デカルトによる

「心」と「物質」の定義の仕方によれば,両者は相互に排他的となる.もしあ

るものが心的ならそれは物理的ではありえない;もし物理的なら心的ではあり

えない,というわけだ.ここでぼくが言わんとしてるのは,こうした定義は捨

て去るべきなのはもちろんのこと,さらに伝統的な範疇の「心」・「意識」・「物

質」・「心的」・「物理的」といったものも捨て去るべきだってことだ.哲学の論

争で伝統的な解釈で使われてるこうした範疇は不要なんだ.

伝統的な定義にこだわったらどんなことになるか,考えてみるといい.意識

は脳において生じる生物学的な過程であり,ちょうど消化が胃やその他の消化

器官で生じる生物学的な過程であるのと同じだ.すると,意識は物質的である

ようにみえてきて,ぼくらは唯物論的な説明を手にすることになる.でも,ち

ょっと待てよ.意識は一人称の存在であって,だから物質的ではありえない.

だって,物質的なモノや過程なら必ず全て三人称の客観的な存在なんだから.

すると,意識は心的な存在にみえてきて,ぼくらは二元論の説明を手にするこ

とになる.

こういう定義を受け入れると矛盾が生じてしまう.解決するにはこういう定

義を捨ててやればいい.生物学でいろんなことがわかったおかげで,いまやこ

ういった定義が事実に合わないことが知られている.事実を思い返すこと,じ

ぶんが実際に知ってることを思い返すことはいつだっていいことだ.ひとつの

事実として,ぼくらの意識状態がすべて脳の過程により引き起こされているの

がわかっている.この命題はあっさりわかるしろものじゃあない.ここには多

くの哲学者たちの関心をひいた神秘がある──いったいどうやって脳の過程が

意識を引き起こすっていうのか.それに,神経生物学者たちはもっと深刻な神

秘に直面している──いったいどうやって脳の過程がじっさいに意識を引き起

こしているんだろうか.ただ,この議論を続ける前に,まず受け入れておかな

きゃいけないことがひとつある.それは,脳の過程は現に意識を引き起こして

いるってことだ.すると,次の問いが残る:脳の過程により引き起こされるこ

の意識ってのはいったい何なのか? そして,意識と脳の過程を結ぶ因果関係

があるということは,二元論を採らざるをえなくなるってことじゃないのか?

──つまり,物質的な脳の過程が原因となり,非物質的で主観的な意識の過程

がその帰結となっているってことじゃないのか?

二元論と唯物論のどちらかをとらなきゃいけなくなるとは,ぼくは考えない.

思い出してほしい.意識もまた他と同じく生物学的な現象だ.たしかに意識に

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は特殊な特性がある.とりわけ,さっき述べたように主観性という特性がある.

でも,だからって意識が脳の上位レベルの特性じゃないってことにはならない.

この点は,消化が胃の上位レベルの特性であり,流体性が血液を構成する分子

のシステムの上位レベルの特性だっていうのと同じことだ.ようするに,唯物

論に応答するには,それが意識が実在してるのを無視してるってことを指摘し

てやることだ.二元論を論破するには,意識が自然界に属さない非生物学的な

もののようにみせてしまう〔伝統的な〕範疇の体系を受け入れるのを拒否するこ

とだ.

さっき言ったように,二元論は〈西洋〉哲学だけにみられる理論だとは考え

ない方がいい.もっと広くうったえかける力があるってことは,ダライ・ラマ

みたいな〈東洋的〉宗教人もこれを信じていることからうかがい知れる.でも,

それはそうとして,二元論はいわば「多文化的」なんであって,普遍的なわけ

じゃない.アフリカ人の友達の発言に深い印象をいだいたことがある.彼の母

語であるアフリカのとある言語では,ぼくらが考えているような「心身問題」

を述べることもできないと言うんだ.いまぼくがやろうとしているのは,〈西洋

的〉な概念範疇を見直して,この問題がもはや伝統的に提示されてきたような

かたちでは規定できないようにあらためてやることだ.意識はその主観性も全

部込みで脳の過程によって引き起こされるってことを認めよう.そして,意識

状態そのものは脳の上位レベルの特性なのだと認めよう.ひとたびこれら 2 つ

の命題を認めてしまえば,形而上学的な心身問題なんて消え失せてしまう.こ

の伝統的な問題がでてくるのは,心的なものと物理的なモノ,心と物質,魂と

肉といった相互排他的な範疇の語彙を受け入れている場合だけなんだ.もちろ

ん,意識は生物学的な現象の中にあって特殊なものではある.意識は一人称の

存在であって,だから三人称の存在に還元されることもそれによって消去され

ることもない.でも,これだって自然の仕組みに関するひとつの事実なんだ.

これは,特定の脳の過程により意識的な状態・過程が引き起こされるという神

経生物学的な事実だ.ここで提案しているのは,伝統的について回ってくる形

而上学的な習わしを受け入れることなく,こういう事実を認めた方がいいって

ことだ.

脳は生物学的な器官であり意識は生物学的な過程だと言っても,もちろん,

非生物学的な物質をもとに人工の脳を作って意識を生じさせたり意識をもたせ

たりするのは不可能だと言ってるわけじゃないし,そう仄めかすつもりもない.

心臓も生物学的な器官だし,血液を循環させるのは生物学的な過程だけど,血

液を循環させる人工の心臓をつくり出すことはできる.原理上,意識を生じさ

せる人工の脳を生み出すことができない理由なんてありはしない.ここで強調

すべき要点は,そういう人工の脳にしても内的・質的・主観的な意識状態を生

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み出しているじっさいの人間や動物の脳の原因を模倣しなきゃいけないってこ

とだ.たんに出力となるふるまいを似せるだけでは足りない.

以上の論点は次の命題に要約できる.

1. 意識は内的・質的・主観的な状態・過程により成り立っている.した

がって意識は一人称の存在となっている.

2. 一人称の存在であるため,熱・流体性・固体性といった他の自然現象

で典型的なやり方で意識を三人称の現象に還元することはできない.

3. 意識は結局のところ生物学的な現象だ.意識的な過程は生物学的な過

程だ.

4. 意識的な過程は下位レベルの脳の神経的過程により引き起こされてい

る.

5. 意識は脳の構造において実現している上位レベルの過程により成立し

ている.

6. 僕らが知るかぎり,原理上は同じく意識を引き起こし実現させる人工

的な脳をつくれない理由はない.

ともあれこのとおり.これが意識と脳の形而上学的関係についてのぼくらの

説明だ.二元論や唯物論の問題はどこにも生じたりしない.古くさい範疇にな

りさがっただけのことだ.

こうして意識は「自然化」される.じっさい,この見解にぼくは「生物学的

自然主義」というラベルをつけている:「自然主義」とするわけはこの見解だと

心は自然の一部になるからで,「生物学的」とつけるわけは心的現象の存在を説

明するやり方が生物学的だからだ──この点は,たとえば計算機的・行動的・

社会的・言語的なものと対比される.

この手法は哲学を進歩させる方法のひとつだとぼくは思っている.どっちも

説得力があるデフォルト見解どうしの衝突により生じる問題みたいに,手のつ

けられない問題に直面したら,その問題を座して受け入れないこと.その問題

の背後に回りこんで,その問題が提示する選択肢の裏にある仮定がどんなもの

か見てやるんだ.いまの場合では,ぼくらは与えられた選択肢を選んで問いに

答えるかわりに,その問題を乗り越えた.....

んだ.問題は心的なものの分析として

正解なのは二元論なのか唯物論なのか,というものだった.その答えはこうだ:

伝統的なかたちで捉えるなら,どちらもちがう;修正したかたちなら,両方と

も正解だ.よって,「二元論」だとか「唯物論」だとかの語彙を棄却してやり直

すのが最善の策となる.すると答えは命題 1-5 で与えられる.この見解をさら

に手短に要約するには,こう言ってもいい:意識は脳の過程により引き起こさ

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れるものであり脳システムの上位レベルの特性なんだ,と.

ここまでの道のりを振り返ると,まずこの世界の仕組みについてわかってい

ることを確認することからはじめた.いまの場合だと,意識を構成している状

態や過程は存在論的に主観的であり,脳の過程により引き起こされていて,脳

において実現している,ということがわかっている.次に,こうした事実の知

識から浮かび上がってくる全体像は,伝統的に提示されている選択肢の二元論

と唯物論のどちらとも整合しないのを見た.そこで次のステップで,こう訊ね

たわけだ:この 2 つの理論に共通の仮定のせいでそもそもの問題が解決不可能

にみえている,その仮定はなんだろう?で,その答えは,デカルトと同じくこ

の 2 つの理論は心と体,物質と意識,といった範疇は相互に排他的だと仮定し

ている,というものだった.そこで解決策は,こうした範疇をお払い箱にする

ことだ.すると,哲学的な立場のとり方に関係なく,既知の知識をみんな受け

入れることができるようになる.

意識の還元不可能性

The Irreducibility of Consciousness

科学的還元の標準的モデルによると意識は主観的なために三人称の現象に還元

できないとされるのはさっき述べておいた.でも,正確に言ってそれはどうい

う理由なんだろう?この問題は次のように立てられる:ぼくが言い続けている

ようにもし意識がふつうの生物学的な現象であって細胞の有糸分裂や減数分裂,

消化なんかの同類なんだとしたら,有糸分裂や消化と同じように意識がミクロ

の現象にどう還元されるのか言えるようになるはずだ.たとえば消化の場合だ

ったら酵素やレニンだとか炭水化物の分解だとかの話をすっかり語ってしまえ

ば,あとはもう言うべきことはなにもない.ああいったこと以外に消化にはべ

つに追加の特性なんてありはしない.もちろん,こういった過程はクォークや

ミューオンといったさらにミクロな要素のふるまいが記述される.突き詰めて

いくとやがてもっとも根源的な量子的現象にたどりつく.でも,意識の場合だ

と事情はちがっているように思われる.視床やいろんな大脳のレイヤーにおけ

るニューロンの発火という観点,あるいはそれをいうならクォークやミューオ

ンの観点で意識の因果的基盤をひとたび説明してしまっても,そこにはまだ現

象が残されるからだ.意識の場合,神経生物学的な基盤について完全な因果的

説明をやり遂げた後にも還元しえない主観的な要素が残る.どうなってるんだ

ろう? これだと性質二元論が余儀なくされるんじゃないか?

この問いに答えるには,科学的還元についてもうちょっと述べておかなきゃ

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いけない.科学的な還元にはほんとにいろんな種類があって,この概念はさっ

ぱり明確じゃない.とはいえ,さしあたりの用には,2 種類の還元を区別して

おけばいい.それぞれ「消去的な」還元,「非消去的な」還元と呼ぶ.消去的な

還元は,ある現象はほんとは実在してない幻想だってことを示すことでこれを

お払い箱にする.たとえば,日の出や日の入りの現象を説明するとき,ぼくら

はある意味でこれらを消去している.日が沈んだり昇ったりするのは幻覚だっ

てことを示しているからだ.太陽は実際には山の向こうに沈んだりしない.そ

うじゃなくて,地軸で地球が回転してるせいで,太陽が沈むようにみえてるん

だ.

流体性や固体性みたいな特性の非消去的な還元はこれとちがう.固体性は格

子構造で分子が振動運動していることによって因果的にすっかり説明しきれる.

ひとたび分子がそういう風に運動しはじめると,物体は他の物体を通さなくな

る.ある物体が他の物体を支えたりする.個体性はミクロの要素のふるまいに

よって因果的に説明できる.そうであればこそ,ぼくらは因果的なふるまいで

固体性を再定義できるんだ.固体性を分子の運動に還元することは,非消去的

な還元だ.テーブルはたんに固そうにみえるばかりじゃなくて,ほんとに固い.

さて,ここが勘所だ.意識についてはどっちの手もとれない.なんで?意識

に消去的な還元をするわけにいかないのは,消去的な還元の定型はその現象は

幻覚に過ぎないってことを示すことにあるからだ.でも,意識に関するかぎり

「幻覚」の存在はまさに実在そのものだ.つまり,もし自分が意識をもってる

ようにみえるとしたら,まさにそのとおりだってことだ.意識には,こういう

「みえる」ことの連続の他になにもありはしない.この点で,意識は日の入り

とちがっている.ほんとはちがうのに山の向こうに日が沈むような幻覚がする

ことはある.でも,それと同じ要領で意識がないのに意識があるような幻覚が

するなんてことはありえない.意識の「幻覚」は意識に同じだ.

でも,固体性をミクロな物理的基礎意識に還元できるのと同じく意識をミク

ロな物理的な因果的基礎に還元したっていいんじゃないの?いや,主観性を脇

に置いてその原因だけを語ろうってことだったら,そうやって還元できるとは

思う.たとえば,「脳視鏡」でひとの脳をのぞいて,「しかるべきニューロンが

発火してるってことは彼は肘に痛みを感じてるんだな」とわかるくらい,医学

的な洗練を遂げることはできるかもしれない.科学の目的で言えば,肘の痛み

を特定の種類のニューロンが脳のしかじかの場所で発火することとして定義す

ることだってできるかもしれない.でも,それだとなにかがとりこぼされる.

意識の概念にとって本質的ななにかだ.その取りこぼされるものとは主観性だ.

意識は一人称の存在で,それゆえに三人称の現象の場合みたいには意識を還元

することはできない.それだと本質的な特性がとりこぼされてしまう.ここで

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注意してほしいのは,固体性を分子運動に還元する場合にもひとが固体にふれ

るときの主観的な経験はとりこぼされるってことだ.そうやって主観的な経験

を取り払ってやるのは,それがべつに固体性の概念にとって本質的な物ではな

いからだ.でも,意識の主観的な経験を取り払うわけにはいかない.そもそも

意識の概念をもつことは要点は他でもなく主観的な一人称の現象と呼ばれるこ

とにこそある.たしかに意識は生物学的な現象ではあるんだけど,その主観的

で一人称の存在様態ゆえに,客観的な三人称の現象に還元するのは不可能だ.

消化や固体性みたいな三人称の現象を還元する場合と事情がちがう.

随伴現象説の危険

The Danger of Epiphenomenalism

議論の方便としてここまでの話は正しいものと仮定しよう:意識は脳における

下位レベルの生物学的過程により引き起こされていて,意識それ自体は脳シス

テムの上位レベルの特性だ.伝統的な哲学者はいまだに二元論のいろんな範疇

に固執しているから,すぐさま次のような反論を出してくる:その見解だと,

意識は随伴現象にちがいないとされる.彼らが言わんとしているのは,意識は

なるほど脳の過程により引き起こされたものだとして,でもそれ自体は何も引

き起こせないのだ,ということだ.意識は脳から垂れ流されて消えゆく余分な

ものであって,それ自体はなんにもできはしない,というわけだ.それどころ

か──こうした批判者がさらに攻撃的に論じ立てて言うには──ここまでの説明

からは,意識は一種の残りカスであって因果的に機能して何かを産出すること

がないのだという.よって,たとえばあなたが腕をあげるとき,それは自分の

意識的な決定によって腕が上がることが引き起こされたのだと考えるだろう.

でも,じっさいには運動皮質のニューロン,神経伝達物質(とくにアセチルコリ

ン),終板,筋繊維といったことのレベルで詳細に語るべき因果的なストーリー

があるのは周知のとおりだ.そして,神経生理学レベルのこうしたストーリー

さえあれば,べつに意識に言及しなく経って腕が上がったことを因果的にすっ

かり説明することができる.だから,ぼくが提案しているような実在論的な意

識の説明だと意識は随伴現象とみなさなきゃならなくなる.この世界の出来事

に意識はまったく無用かつ無関係だと考えなきゃいけなくなる,というわけ.

随伴現象説にどう応じたものだろうか? ひとつの案はすぐさま思い浮か

ぶ:人間や動物の意識みたい精緻で豊かで構造化されているものが,生物の歴

史で起きた他のどんなことともちがって現実世界になんにも因果的なちがいを

もたらさないなんてことは,奇跡みたいにありえない話じゃないか.進化から

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ぼくらが知ったことからすると,随伴現象説が正しいってことはありそうにな

い.これは随伴現象説への決定的な反論にはならないけど,そう考えると少な

くとも随伴現象説の考え方はいぶかしいものに見えてくるはずだ.じゃあ,答

えはなんだろう? ここでも,問いの背後に回って,こう訊ねるといい:「随伴

現象説による異議で前提となっているのは何だろうか?」

因果関係の標準的なモデル,子供がもっとも早期に経験する因果関係にして

もっとも原初的な因果関係の概念──それは,ある物体が別の物体に物理的な

圧力を加えるという概念だ.子供の初期発達についてのピアジェの研究[26] に

よると,子供のいちばん原初的な因果関係の概念は「押し-引き」の概念だ.物

体は別の物体を押したり引いたりするし,子供もものを押したり引いたりする.

こうやって子供はいちばん基本的な因果関係の概念を獲得する.子供が世界の

仕組みについてもっと理解するようになると──そして,もっと大事なこととし

て,世界の仕組みについて科学的に理解するようになると──因果関係について

もっともっと豊かに拡張された捉え方をするようになる.ここにいたって,因

果関係は一般にあることによって別のことが引き起こされるということなのが

わかるようになり,すると,たんに積み木がくずれる原因がわかるだけじゃな

くて,戦争や経済的不況の原因だとか精神障害の原因や大衆文化の変化の原因

についても語れるようになる.ようするに,因果関係はたんなる押したり引い

たりの問題じゃなくてあることが別の出来事に関与しているということだ.

ここでちょっとばかり,意識が実生活でどんなふうに機能してものごとを引

き起こしているか考えてみよう.ぼくが腕をあげる.ぼくの意識的な労力によ

って,腕が上に動くのが引き起こされる.ぼくの !意識的な! 労力が腕の位置の

変化を実際に生み出す.改めて考えないときには,ぼくらはこうしたことが実

生活で起きてるのを疑ったりしない.いったいどうしてそんなことが生じうる

んだろう,こうして経験される因果関係が「科学的世界観」とどう整合するん

だろう,と懐疑的・哲学的に疑いを抱き出すとき,ぼくらは因果関係のものす

ごく素朴な概念と二元論の残滓とを混ぜ合わせているんだと思う.押したり引

いたりのビリヤード・ボールみたいな因果関係から出発すると,心的状態が物

理的な変化を引き起こすのが不思議にみえてくる.さらに,二元論者といっし

ょになって「心的」なものは「物理的」な世界に含まれないと考えたりすると,

いっそう不可解にみえてくる.

でもこうした仮定をどちらも捨て去ったとしたらどうだろう.独立に知られ

ていることから出発したらどうなるだろう.心は体に影響するし体は心に影響

するっていう事実を出発点において,そこからはじめたらどうだろう.つまり,

26 fn.3 Jean Piaget, The Child's Conception of Physical Causality (New York: Harcourt, Brace & Co., 1930).

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まずは誰もが自分の経験から知っていることから出発するんだ──意識とそれ

以外の物理的な出来事には因果関係があるっていう仮定からはじめよう.たと

えば,腕を上に上げようと意識的に意図するとき,ぼくの意識状態がぼくの腕

を上にあげるし,なにか固いものにぶつかるとき,その物体の衝撃が痛みの感

覚を覚えさせる.少なくとも暫定的に出発点でこうした事実を受け入れておい

て,それから事実を正確に反映するようにぼくらの概念地図を描き直していこ

う.

こんなふうに事実を反映するべく概念地図を描き直すのは哲学や科学で理解

が深まっていくときによくあることだ.ニュートン力学に対して初期になされ

た批判は,原因となる力としての重力が「離れたものへの作用」を含意してい

るように思われるというものだった.離れたものへの作用〔という概念〕のおか

しさを避けるには,重力は惑星体どうしを結ぶヒモなのだとみなさなくてはい

けなくなっているようだ.今日,こういう批判をするひとはいない.ぼくらは

因果関係についてもっと豊かな概念をもつようになっている.これには他と並

んで力の場という概念も含まれる.ある惑星が因果的に他の惑星に作用するに

は両者を物理的なものがつないでいないと互いに引き合うことができないなん

て仮定されることは,もはやない.

とはいえ,ここでもこんなふうに反論する人はいることだろう.「心が体に影

響するだなんて,いったいどうすれば可能なんだ?」 つまり,この批判者が問

題視してるのは,直観的に随伴現象説がまちがってる気がするってひたすら言

い張ってるだけじゃ不十分だってことだ.「間違ってるって感じられるとして,

その根拠はあるのか? 心-体の因果関係が可能となるように概念地図を描き直

したとき,それはどんなものになると考えられるんだ?」

ぼくらは最初のステップとして因果関係はあるものが別のものを押したり引

いたりすることだっていう仮定を捨て去った.すべての因果関係がビリヤード

ボール風の因果関係なわけじゃない.2 つ目にして最後のステップは,物理シ

ステムで因果関係がどんなふうにはたらいてるか思い出すことだ.たとえば車

のエンジンのふるまいを考えてみると,因果関係として実在する記述のレベル

が分かれているのに気がつく.あるレベルだと,ピストンやシリンダー,プラ

グの火花,シリンダー内部の爆発といったことについて語れる.もっと低次の

レベルになると,電極間の電子の流れや炭化水素の酸化,金属合金の分子構造,

それに CO や CO2 といった新たな化合物の形成などについて語れる.これら

2 つはエンジンのふるまいの記述としてまったく異なるレベルだけど,2 つの

記述の間に不整合なんてありはしないし,上位レベルの記述を随伴現象だとか

因果的に実在しないと考える理由もない.もちろん,自然界のすべての事物は

必ずもっとも基本的なレベルまで掘り下げられるにちがいない──つまり,ク

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ォークやミューオン,原子内部のレベルだ.どんな因果的なレベルもそれより

基本的なレベルへさかのぼっていくと最後は素粒子のレベルにいたるのは事実

だけど,それはべつにより上位のレベルが因果的に実在しないことを示してる

わけじゃない.ようするに,心的なものを随伴現象とする説はピストンやシリ

ンダーを随伴現象とする説より強力なわけじゃないんだ.より下位のレベルで

因果的な説明ができるからといって,より上位のレベルが実在しないという話

にはならない.つまり,意識が因果的に作用するってことを暫定的に受け入れ

るとして,そのことは意識のレベルでの説明がもっと基本的な物理現象のレベ

ルにもとづいていると指摘されたところで揺るがされはしない.なぜなら,ど

んな物理システムをとってみても,より上位のレベルでの因果的説明はより下

位のレベルでの基本的なミクロの物理的説明にもとづいていると言えるからだ.

ピストンの固体性はその合金の分子的ふるまいで説明できると指摘してみても,

だからピストンの固体性は随伴現象なんだっていう証明にはならない.それと

同じで,意図はニューロンやシナプスや神経伝達物質で説明できるからといっ

て,だから意図は随伴現象なんだっていう証明にはならないんだ.

随伴現象説への応答を要約すると,随伴現象だという論証には 3 つのまちが

いがあると言える.

1. 心的なものは物理世界に含まれないという二元論の仮定

2. すべての因果関係は,物理的なものが互いに押し合うというビリヤー

ドボール風の因果関係のモデルになっていないといけないという仮定

3. どの因果関係のレベルをとってみても,そのレベルのはたらきをもっ

と基本的なミクロの構造で説明できるなら,その上位のレベルは因果的

に実在しない随伴現象であって有効でないのだ,という仮定

いまあげた 3 つはどれも正当化されないし,それどころか間違っているとぼ

くは思う.ひとたびこの 3 つが間違っていると指摘してしまえば,意識は随伴

現象だという根拠はなくなってしまうだろう.

ここで,ぼくの立場を完全にはっきりさせてしまいたい.ぼくはべつに,随

伴現象が間違いなのは論理の問題だと言ってるんじゃない.論理的な可能性と

しては,心的状態が完全に随伴現象であってなんら因果的な役割を担っていな

いと判明することだってありえなくはない.そういう可能性は論理的には考え

られる.でも,ぼくらが知るかぎり,意識的な心的状態がぼくらのふるまいを

生じさせる上で因果的に機能しているのは,この世界の仕組みに関する平板な

事実だ.世界のありようが実はそうじゃないって判明することだってありえた

けど,実際にはこっちの方が事実と判明してる.ぼくがやろうとしたのは,こ

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の事実を疑う根拠をとりさることだ.意識は随伴現象にちがいないと考える根

拠をとりさろうとしてみたのであって,随伴現象説が論理的におかしいと証明

したわけじゃない.この説はまちがってるとぼくは思ってるけど,それは経験

的にまちがってるってことであって,論理的なおかしさの問題とはちがう.も

しほんとに随伴現象説が正しいと判明したら,それは世界史におけるもっとも

偉大な科学革命となって,現実に関するぼくらの考え方をすっかり変えてしま

うことだろう.ここでぼくが目指したのは,随伴現象説が正しいにちがいない

と考える理由をとりさってやることだ.

意識の機能

The Function of Consciousness

すると,こんな問いがでてくる.意識が進化で果てしてきた役割ってなんだろ

う? その進化における価値はどんなものだろう? 意識はなにをやってるんだ

ろう? 意識があると生存にとって有利なことってなんだろう?

この問いは,挑発的・修辞的な口調で問われることがある.意識なんてなん

にもならないんじゃないか,意識はただ乗りしてるだけなんじゃないか,意識

がなくったってぼくらは進化してこれたんじゃないか,なんて示唆してるかの

ような口ぶりだ.これはずいぶんとおかしな示唆だ.だって,ぼくらの種が生

存していく上で必要不可欠にやってることの多くは,意識を必要とするんだか

ら:食べたり,交尾したり,子供を育てたり,食べるものを狩ったり,苗を育

てたり,ことばをしゃべったり,社会集団を組織したり,病気を治療したり─

─こういうことを昏睡状態でできるわけがない.ああいう挑発が示唆してるの

は,こういうことを意識なしでやれる方法を進化させた存在をなんらかのかた

ちで想像できるってことだ.

まあ,SF やファンタジーなら,好きなように想像すればいいよね.でも,現

実世界では,人間や高次の動物は典型的に意識的な活動によってものごとにあ

たっている.光合成以外の方法で栄養をつくる植物を想像することはできるけ

ど,だからって光合成が進化でなんのはたらきもしていないなんて話にはなら

ない.この現実世界では,植物は生存のために光合成を必要としてるし,人間

は生存のために意識を必要としてる.

意識が進化の上でなんの役割も果たしてないっていう主張には,なんだかも

のすごく不可思議なものがある.意識がそういう役割をいくつも果たしている

のは自明だからだ.この件について懐疑的な人たちはこういう懐疑的な批判を

するとき,いまなお心と体の二元論を仮定してるんだとぼくは思う.それはこ

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ういうことだ.ある表現型の性質が進化の上ではたす役割を検討するとき,ふ

つうはそれ以外の性質は一定のままにして................

その性質がなくなった場合を想像し

て,そのときどうなるか考える.植物が光合成をできなかったり鳥が飛べなか

ったりするのを想像すると,他の性質は一定のままにしておくことで,こうい

う性質の進化上の利点がわかる.さて,意識でこれをやってみよう.ぼくら全

員が昏睡状態になってぐったりと助けもなく横たわっているのを想像して欲し

い.これじゃそのうち絶滅するのがわかるだろう.でも,懐疑論者はそんな風

に想像しない.懐疑論者は,ぼくらのふるまいは同じままで,意識だけが差し

引かれるのを想像するんだ.でも,それは他の性質は一定のままにしておくっ

てこととちがう.実生活では,ぼくらが生存するのを可能にしているふるまい

の多くは意識的なふるまいだからだ.実生活では,意識だけを差し引いてふる

まいをそのままにしておくことなんてできない.できると仮定するのは,意識

は物理世界の一部をなすありきたりな存在じゃあないと仮定することだ.つま

り,それは意識について二元論的な説明を仮定することになる.意識の進化上

の役割に関する懐疑論は,こんなふうに,意識はもはやぼくらが暮らすこの物

理的・生物学的世界のありきたりな一部ではないと前提してるんだ.

意識・志向性・因果性

Consciousness, Intentionality, and Causation

ここまで,意識はあれと同じく因果的に機能するかのように語ってきた.たと

えば,爆発がビルをなぎ倒すのとかね.でも,典型的に,意図や欲求みたいな

意識状態はそれが引き起こす出来事を表象することで機能する.たとえば,ぼ

くが水を飲みたいと欲すると,ぼくは水を飲む.このとき,結果である「水を

飲むこと」は原因である「水をのみたい」という欲求によって意識的に表象さ

れている.この種の心的な因果関係をぼくは「志向的因果関係」と呼んでいる.

その理由は第 4 章にでてくる.ここでは,意識的な存在がもっている特性,す

なわち,この世界のものや事態を表象し,その表象に基づいて行動する.............

という

驚くべき特性について述べておきたい.意識的な現象のすべてではないまでも

ほとんどに共通の特性として,この世界内の物体や出来事や事態を表象すると

いうものがある.それどころか,ここでの議論にとって一番重要な意識の特性

は,世界内の物体や事態をみずからに表象するというぼくら人間の能力と意識

との間には本質的な関係があるということだ.この特性は,知覚と意図に限ら

ず,信念と欲求,希望と恐れ,愛と憎しみ,誇りと恥にもそなわっている.こ

の特性には哲学で専門用語がついている:それが「志向性」だ.志向性は心の

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特性で,これによって心的状態は世界内の事態に差し向けられたり,それにつ

いて表したり,指し示したり,目指したりする.面白いことに,物体はべつに

存在してなくてもぼくらの志向状態で表象されるのに差し支えない.たとえば,

サンタクロースなんて存在しないけど,子供はサンタクロースがクリスマスイ

ブにやってくると信じることができる.

すべての意識状態が志向的なわけじゃないし,すべての志向状態が意識的な

わけでもない.たとえば,不安や上機嫌といった意識的な感情だと,次の問い

への答えがなかったりする:「君は何が不安なの? 君はなにが上機嫌なの?」

こういうのは意識の非志向的な形態だ.もちろん,意識的じゃない志向性の形

態もたくさんある.ぐっすり眠っているときにも,ぼくは信念や欲求,希望や

恐れをいだいている.完全に意識をなくしているときにだって,ビル・クリン

トンが合州国大統領だとぼくは信じていると言うのは正しい.このとき,この

信念は無意識な形態で存在していることになる.このときにもぼくは志向性を

もっているけれど,もはや意識的ではない.

ただ,すべての意識状態が志向的なわけでなくすべての志向状態が意識的な

わけでもないとはいえ,ここには本質的なつながりがある:志向性は意識の観

点でしか理解できない.意識的じゃない志向状態もたくさんあるけど,そうい

う状態にしても潜在的には意識的になりうる.

このあと続く 2 つの章では,意識の構造と志向性の構造を探求する.

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第 4 章 心はどのようにはたらくか:志向性 How the Mind Works: Intentionality

ここまでのところ,心にかんする議論の大半は意識にかかわっていた.こん

なふうに心にばかり集中したせいで,心というのは本質的に内に閉じた主観の

場なんだというふうに思えてしまうかもしれない.でも,話は反対で,進化の

うえで心がはたしてきた主要な役割は,ある仕方で環境に──とくに他の人た

ちに──ぼくらを繋げることなんだ.主観的な状態によって,ぼくはぼく以外

の世界へと繋がっている.この関係一般を名づけて「志向性 intentionality」

という.そうした主観的な状態には,信念や欲求,意図や知覚とならんで,愛

や憎悪,恐怖や希望などがある.繰り返すと,「志向性」はこうしたさまざまな

ものの一般名称で,世界内のものごとへ/について心が差し向けられる形式を

いうんだ.

「志向性 intentionality」は不運な語だ.そして,哲学において不運な語の

おおくがそうであるように,これもまたドイツ語圏の哲学者たちに由来する.

差し向けられてあることというイミでの志向性が,たとえば「今晩映画にいく

つもりなんだ I intend to go to the movies tonight」というイミでの「意図

すること intending」に関係あるような印象が,この intentionality という語

のせいで生じてしまうんだ.(ドイツ語にはこんな問題はない.映画に行くつもり

という場合の日常的な語義には Absicht という語があって,これは

intentionalität の発音と似ても似つかない.) というわけで,英語でいう意図

intending は,他にもたくさんある志向性の形式の1つでしかない,というこ

とはおぼえておいたほうがいい.

意識と志向性

Consciousness and Intentionality

意識と志向性の関係はどんなものだろう? 前章でふれたように,意識されな

い志向性もあるし志向的でない意識もある.けれど,意識と志向性とがかぶっ

ているのは偶然じゃない.その関係はこういうものだ:非意識的な脳状態を心

的状態として理解しうるのは,それが原則的に意識状態をひきおこしうると理

解する限りにおいてだ.たとえばクリントンは合衆国大統領だというぼくの信

念は,意識的にも無意識的にもなりうる.たとえば,ぐっすり眠っているとき

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にだって間違いなくぼくにはこの信念があると言える.ところで,完全に無意

識のとき,この主張に対応する事実は何だろう? そのときじっさいに存在して

いる事実は,純粋に神経生物学的な観点から記述できるぼくの脳の状態を含む

事実だ.とすると,その状態にかんする事実のどういう部分が,クリントンは

大統領だというぼくの無意識の信念になるんだろう? 心的状態を成り立たせ

られそうな唯一の事実は,その状態を原理上は意識的な形で引き起こせるとい

うことだ.無意識なときにさえ,その無意識な心的状態というのは意識的なも

のになりうるたぐいのものだ.「原理上は」と言い添えないといけないのは,抑

圧だとか脳の外傷だとかのせいで意識にのぼらせられないようなたぐいの状態

があることも認めざるを得ないからだ.でも,ある状態がまぎれもなく無意識

の心的状態であれば,それは少なくとも意識化できるたぐいの状態でないとい

けない.だから,ここで必要な区別はこうだ.一方は脳の非意識的な状態であ

り,たとえば神経伝達物質のシナプスクレフトへの分泌がこれにあたる.もう

一方は脳において実現している無意識の心的状態で,たとえばクリントンは大

統領だという信念を睡眠時にもっているというようなことだ.さて,ぼくが完

全に無意識なとき脳におきている現実は非意識的なものしかないとすると,そ

ういう非意識的な状態のどういうところが心的状態を成り立たせているんだろ

う? 唯一の解答はこうだ:脳の非意識的な状態のうち,ある特定のものには意

識的な心的状態をひきおこすことができる.

要点をはっきりさせるには,こんなふうに類比すると助けになるだろう.コ

ンピューターの電源を切ると,画面のコトバやイメージは消えてしまう.でも,

なにかとんでもない間違いでもしないかぎり,文字や画像はなくなったりしな

い.ちゃんと磁気トレースの形でコンピューターのディスクに保存されている.

この磁気トレースのどういうところが文字や画像を成り立たせているんだろ

う? 電源オフのときには,それらは文字やイメージといった形をとっていない.

どんなに強力な電磁レンズを使っても,ハードディスク上には文字や画像はみ

えやしない.それでもなおそれらが文字であり画像であるという事実を成り立

たせているのは,電源を入れたらその磁気トレースを文字や画像に変換できる

という事実だ.たとえば CPU がいかれたりしてそういう変換ができなくなっ

てしまったときにも,これは変わらず正しいままだ.コンピューターについて

述べるとき,よくファイリング・キャビネットの譬えが使われるけれど,これ

とコンピューターは似ていない.ファイリング・キャビネットに文章や写真を

しまう場合,それらは元の形のまま変わらない.さて,無意識の心的状態とい

うのは,ファイリング・キャビネットで原型をとどめる文章や写真とは似てい

ない.それよりも,画面にあらわれていないときのコンピューターの文字や画

像に似ている.そういう心的状態には,まったく別の,心的でなく意識的でな

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い形があるけれど,それでもなお,それらは無意識の心的状態だ.無意識なと

きには純粋に神経生物学的な観点から記述される状態と過程しかないことがあ

るとはいえ,それでも,そうした無意識の心的状態は,意識的な心的状態と同

様に因果的に作用しうるんだ.

無意識についてのこういう捉え方は,認知科学で支配的な見解に反するもの

だ.たとえば,チョムスキーの信じるところだと,子供は自然言語をまなぶと

きに普遍文法にある一群の無意識的規則にしたがっているけれども,そうした

規則は子供が意識にのぼらせることのあるようなものではないそうだ.これら

の規則は,普遍文法の「計算的な」規則だ.言語学者には,専門用語をつかっ

てこのルールを定式化しうる.言語学者には,こう言うこともできる:子ども

は「ムーヴα〔αを移動せよ〕」の規則[27] にしたがっているものの,しかしだ

からといって子どもが彼/彼女じしんにむかって内心「αを移動せよ」と考え

ているものと想定されているわけではない.じつのところ,べつに子どもは「α

を移動せよ」と考える能力をもっているとすら想定されていないんだ.そうじ

ゃなくて,「ムーヴα」という定式化は,言語学者が脳内のプロセスを表示する

方法で,そのプロセスを意識に上らせるのは子供にも他の誰かにもできない.

子どもの脳で起きていることは,純粋に計算的なこと,0と1の連続だ.つま

り,0と1に機能上等価な神経上のなにかが脳内で処理されている,というこ

とだ.けれども,そうしたプロセスは,意識に上らせられるようなものではな

い.

無意識な心的状態で行動が因果的に説明されるという見解,つまり,心的で

あるものの意識的に機能するものではないような状態があるという見解は,一

貫していないように思う.この見解が一貫していないのはなぜかというと,こ

んな問いに答えられないからだ:どんな事実をもってすれば,そういう脳のプ

ロセスを「心的」だと言えるのか,そういうプロセスには志向的な心的状態の

特性があると言えるのか? それじたいはまったく心的でなく意識されない脳

のプロセスは,まぎれもない無意識的な心的状態とどうちがうのか,意識され

ないときにも脳の状態であるというのに? ようするに,非意識的な脳のプロセ

スと区別されたものとしての心的状態だと言えるためには,無意識的な心的状

態は「意識的に思考可能」でないといけない.

人間の認知を説明する上で,ここのところはものすごく大事だ.純粋に心的

な状態は,意識しているときにもしていないときにも同様に因果的に機能する.

たとえばこんな規則を考えてみよう:「道路の右側を走行せよ」.こういう規則

は,意識的にも無意識的にも因果的に機能する.けれども,無意識の規則随順

27 訳注.「Move α」とは,生成文法の用語で,文の任意の要素αをほかの位置へ

と移動させる規則をいう.

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は,意識的な規則随順と同様に規則の志向的な内容に従うということでないと

いけないし,また,リアルタイムで作用しないといけない.〔つまり〕規則が作

用する時間と,その規則に支配されたふるまいの時間は,同時だ.認知科学で

は,原理上でさえ意識的になりえない規則を想定するような説明があるけれど,

通例そこではこうした特性は保持されない.

志向性を自然化する:暗黙の常識と再び衝突

Naturalizing Intentionality: Another Clash of Default Positions

心・言語・社会といった込み入った現象が自然界の一部であって惑星・原子・

消化などと同列だということ,これを示すのがこの本ぜんたいの目的だ.志向

性の場合,この問題は段違いに難しいと思われている.というのも,「ついて性

aboutness〔=なにかについてであること=志向性〕」がいかなるイミであれ世界

内の物理特性でありうるだなんて,どうにも理解しかねるからだ.たとえばジ

ェリー・フォーダー Jerry Fodor は,よくある戸惑いを表明して,こう書いて

いる:「もし,ついて性が実在しているなら,それは〔ぼくらが「ついて性」と

して理解しているものとは〕まったく別の何かでないといけない」[28].志向性が

じつは「別の何か」だと示したいという衝動は,ぼくらの知的生活にひろく感

染している消去的・還元的な衝動の一部だ.それが目指すのは,現象の説明と

いうよりは,そうした現象をあまり面倒のない事物に還元して厄介払いしてし

まうことだ.それで,たとえば色彩だったら光の反射率に還元して,赤色は 600

ナノメーターの一般的飛程内での光子の放出であって「それ以外の何ものでも

ない」と述べ立てる.

志向性をより基本的なものへと還元する衝動を理解するには,こんなパズル

を考えてみるといい.クリントンは合衆国大統領だとぼくが信じているとしよ

う.他のどういうものでありうるにせよ,この信念はぼくの脳の状態だ.さて,

ここにパズルがある.ぼくの脳の状態──ニューロンとシナプス結合の布置と

いったものによって成り立っていて神経伝達物質に活性化される──は,どう

して他の何かを象徴しうるんだろう? いったいどうして,ぼくの脳の状態がは

るばるワシントン DC に到達して何百万といる中からひとりの人物〔クリント

ン〕を選び出すなんてことができるんだろう? まったく,どうしたらぼくの脳

の状態がなにかを象徴し,なにかについてのものとなり,なにかを表象するこ

とができるんだろう? ワシントンまで数千マイルを一条の志向性が送り返さ

28 Jerry Fodor, Psychosemantics: The Problem of Meaning in the Philosophy of Mind (Cambridge, Mass.: MIT Press, 1987), p.97.

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れるとでも考えることになるのかな? それはまたずいぶんな話だよね! それ

に,太陽が照り輝くと一条の志向性がぼくから太陽へと 9300 万マイル向こう

まで送り返されるんだ,とまで考えることになると,なおさらゲンナリしてこ

ない? ここで注意.こういうことはちょうどコトバがなにかを表すのと同じよ

うなものだ,と言ってみてもムダだ.それだとただ神秘を一歩後退させただけ

にしかならないからだ.だからクリントンについてのぼくの信念がクリントン

を表すのは「クリントン」という語がクリントンを表すのと同じことと言って

みてもしかたない.コトバがクリントンなり何なりを表せるのはどういうこ

と? 唯一ありうる答えは,コトバがクリントンを表せるのは,クリントンを表

すようにぼくらが志向的に言葉をつかっているから,というものだ.でも,そ

うなるとふりだしの問題にとどまっていることになる.コトバを発したり紙に

印をつけるだけで,はるかかなたのものを指示できる,いや,およそ何事かを

指示できるのは,どういうことだろう? ぼくが産み出す音は他のどういう音と

も同じようなものだし,紙の上の印はただの印でしかない.一帯どんな離れ業

をやってのけたら,こうも驚くべき能力を音や印に与えられるんだろう? つま

るところ,問題はこうだ.心の志向性を説明しようとして言語の志向性にうっ

たえてみてもうまくいかない.なぜならその言語の志向性はもともと心の志向

性に依存しているからだ.口から発せられる文を使うのと同じ仕方で使うから

脳内の信念には志向性があると考えるとしたら,そこにはホムンクルスの誤謬

が生じる.ぼくの頭の中に小人がいて,ちょうどぼくが文に志向性を与えるの

と同様にそいつが信念に志向性を与えるんだ,などと考えないといけなくなっ

てしまうんだ.

この問題を解こうと試みてこれまでに哲学者たちが述べたことの大半は,悲

惨なまでに無力だとぼくは思う.ダニエル・デネットが言うには,ホムンクル

スの誤謬は実のところ誤謬ではない.というのも,知能の小人に替えて,〔知能

を構成するネットワークの上位から下位へと向かうにつれて〕だんだん単純バカ

になるホムンクルス

小人たちの一団をもってくればいいからだそうだ[29].〔また,〕フォーダー

が言うには,志向性とはぼくらの脳内にあることばや記号の「トークン化」を

引き起こす客体の問題にすぎない[30].ここではこうした解答をこまごまと批判

しない.ぼくとしては,まったく異なった説明を展開する方に時間をつかいた

いからね.さて,手短に言おう:デネットの解答はうまくいかない,なぜなら

ホムンクルスの誤謬をなおも残しているからだ.その「〔下位に行くほど〕だんだ

ん単純バカになる」小人たちにしても,その小人としての課題をこなすには,

やっぱり志向性を必要とする.〔他方で〕フォーダーの解答がうまくいかないの

29 Daniel Dennet, Brainstorm (Vermont,: Bradford Books, 1978), pp.122-24. 30 Fodor, Psychosemantics, pp.97-127.

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は,志向性を説明するのに志向的でない因果関係をもってするのは常に不十分

となるからだ.志向性がなくったって因果関係はつねに成り立つ[31].たとえば

牛たちのいる景色それだけによってぼくのくしゃみがおきたとしよう.牛の効

果をぼくがくしゃみという形式に「トークン化」していることには,志向性が

ない;これはただのくしゃみだ.なにしろくしゃみは何ごとも象徴しないのだ

から,くしゃみは牛も象徴しない.仮に,馬が牛にみえたからというので,と

きとして馬がぼくのくしゃみを引き起こすとしてみよう.すると,馬の効果が

くしゃみという形にトークン化されることは,牛の効果のトークン化に反事実

的に依存していることになる:もし牛がくしゃみを引き起こさないとしたら,

馬はくしゃみを引き起こさなかっただろう.この事例はフォーダーの志向性の

条件すべてを満たしているけれど,ここに志向性はない.

じゃあ,志向性を「自然化する」正しい道筋はどんなものだろう? その第一

歩として理解すべきことは,ここまでの問いの立て方が事態をみるうえでまる

っきり間違っていた,ということ.①孤立した志向的状態──クリントンは大

統領だというぼくの信念──をとりあげる,②それを脳の状態に同定する,③

そしてこうたずねる:どうしたらこの脳の状態がこうした〔志向的であるという〕

特性をもちうるんだろう? これは哲学的パズルの典型だ:こういうパズルを解

くには,それまで立てていたふつうの前提を抜きにして問題をみつめないとい

けない.

志向性の議論にみいだされるのは,つまるところ,心身問題の議論にみられ

たのと同じく,出来合いの見地がたがいに齟齬をおこしているということだ.

この齟齬は微妙なものだが,たしかに存在する.出来合いの見地の一方によれ

ば,ぼくらに本来的な志向状態があるのはたんに端的な事実にすぎない.たと

えば信念は世界内の事物や事態についてのものだ.ところが,もう一方の出来

合いの見地によると,すみずみまで物理的存在者のみから成り立っている世界

においては,物理的存在者がそれ以外の何かについてのものとなるなどありえ

ない.現代哲学がこの問題の解決にあたってとる標準的な方法は,物理的存在

者どうしに何か他の関係をみつけだして,その関係に志向性を還元してしまう

ことだ.いまのところ流行っているのは因果関係だ.つまり,あるモノが他の

何かについてのものとなりうるのは,それに対して特定の因果関係にあるから

だ,というわけだ.

これはいかにも哲学らしい問題で,解決不可能に思える.ぼくらに提示され

ている2つの選択肢は,どっちもそれじたいとしては受け入れがたく思えるし,

かといって,いずれも放棄できないようにみえる.それでも一方を選ばないと

31 【訳註】つまり,志向性とは,因果関係より以上・以外のなにごとかだということ.

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ダメだというんだ.かくして,この主題の歴史は両サイドからの応酬となる.

意識や心身問題の場合だと,二元論か唯物論かの選択が迫られた.二元論の主

張だと心的なものは還元不可能とされ,唯物論の主張では純粋に物理的・物質

的な心の説明を支持して意識は還元可能であって除外できるとされた.心身関

係の場合にぼくらがとった解決策は,哲学において出来合いの見地が衝突して

いる場合にとられる解決法としてはいかにもありがちなこととして,問題の背

景にさかのぼって両サイドが立てている仮定を吟味してみるというものだった.

心身問題の探求で得られた教訓は,論争しているひとたちの仮定を疑わずに受

け入れてはいけないよ,ということだ.

これらの教訓を志向性の考察に適用する前に,重要な区別をしておかないと

いけない.この自明な区別ができずにいることが,志向性に関する諸説の哲学

的な混乱を生んでいるんだ.人間や動物が本来もっている志向性から,語・文・

絵・図・表などの派生的な志向性をわける必要がある.さらに,これら両方と

もに,志向性の隠喩的な帰属から区別する必要がある.これは,志向性を有し

ていると文字どおりに主張するものではなくて,純粋な「かのように」なんだ.

これら3種類の言明でなされている主張を考えてみよう.

1. わたしはいまとても飢えている.

2. フランス語で “J’ai grand faim en ce moment” は,わたしはいまとて

も飢えている,ということを意味する.

3. 庭の植物は養分に飢えている.

これら3つの言明はすべて,飢えという志向的な現象に言及している.ただ,

3つの帰属の性質はかなり異なっている.1つ目は内在的な志向性をじぶんに

帰属している.もしわたしに帰属されたこの状態にあるなら,他人がそのこと

をどう考えようと関係なく,ぼくはこの状態にある.2つ目の言明もまた,文

字どおりに志向性を帰属しているけれども,ただしこのフランス語の文の志向

性は内在的なものではない.そうではなくて,フランス語話者の内在的な志向

性から派生したものだ.当の文はフランス人によって他のことを意味されたか

もしれないし,また,まったく何も意味しなかったかもしれない.この点で,

その意味は文に内在的なものではなくて内在的志向性を有した行為主体から派

生したものなんだ.すべてのことばの意味は,派生的な志向性だ.(これについ

てはさらに第 6 章で.)

3つ目の言明はどういう志向性をも文字どおりには帰属させていない.ぼく

の庭木にあらわれている「飢え」は純粋にたとえだ.庭木は栄養が足りなくて

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しおれていて,ぼくがその状態を人間や動物になぞらえて記述しているわけだ.

庭木はまるで志向性を有しているかのようにふるまうけれども,ほんとは志向

性なんてなくて,ぼくの方で庭木に帰属させているんだ.こんなふうに,真性

の志向性には内在的なものと派生的なものという 2 種類があって,しかし「か

のように」の志向性は第三の志向性ではない.「かのように」の志向性の帰属は

隠喩的だ.あるモノに「かのように」の志向性があると言うのは,まるで志向

性があるかのようにそれがふるまうと言っているだけのことで,じっさいには

有していない.

内在的な志向性と派生的な志向性の区別は,もっと根本的な区別の特別な場

合だ.それは,【a】力・質量・重力牽引のように観察者から独立な........

世界の特性

と,【b】ナイフ・いす・英語文などであることのように観察者しだいの特性の

区別だ.内在的な志向性は観察者から独立だ──観察者がどう考えようと関係

なくぼくは飢えの状態にある.派生的な志向性は観察者しだいだ──観察者・

使用者などとの関係においてのみ,たとえばフランス語の文はその意味をもっ

ている.

こうした区別は,あとで論じるほかの問題にとって大事なんだけれど,さし

あたってぼくらは内在的志向性を標的にする.すべての派生的志向性は,内在

的なものから派生している.このことは強調しておかないといけない.という

のも,このごろおおくの著者が,派生的志向性と「かのように」の志向性を同

列にあつかって,それらによって内在的な志向性を説明しようと試みているん

だ.それでたとえばコンピューターの演算の派生的志向性が人間の脳にある内

在的志向性のモデルとして扱われたりするし, またときには,人間どうしによ

る内在的志向性の帰属を理解するさいの正しいモデルに「かのように」式の帰

属がもちだされることすらある[32].ぼくが唱えている基本的な説というのは,

いま認知科学で標準的で正統的な説とは異なっていて,次のようにまとめるこ

とができる.ぼくらに物理学・化学・生物学のカンペキな知識があるとしよう.

すると,しまいには,特定の特性は現実世界のリアルで観察者に独立な内在的

特性として確立されることだろう.物理学なら,たとえば重力や電磁気がそこ

に含まれる.生物学なら,たとえば有糸核分裂・減数分裂・光合成がそこに含

まれる.そこでぼくの主張は,ここに意識と志向性もまた含まれるだろう,と

いうものなんだ.意識と志向性は心の特性ではあるけれど,観察者に独立のも

のだ.というのは,もしぼくに意識があるなら,あるいは,ぼくが飢えのよう

な志向的状態にあるなら,そうした特性は,ぼくの外部にいるだれがどう考え

32 この傾向のおそらくいちばん極端なヴァージョンが,ダニエル・デネットの『志

向的構え Intentional Stance 』(ケンブリッジ,マサチューセッツ:MIT Press,1987 年)にみられる.

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ようと存在する.言語の文のように部外者がそういうものだと考えない限りは

そういうものにならない,というのとはちがうんだ.ここまでの章で,意識が

いかにして自然の生物学的現象なのかを示すことで,ぼくらは意識を自然化し

た.いまぼくの課題は,人間や動物の内在的志向性がいかに自然界の一部であ

るのかを示すことによって志向性を自然化することだ.

生物学的現象として自然化された志向性

Intentionality Naturalized as a Biological Phenomenon

じゃあやってみよう.単純な例からはじめよう.生物学的にいちばん原初的な

形式の志向性は,飢えや渇きといった身体的な必要に関与する欲求だ.これら

はいずれも,欲求の形式であるために志向的だ.飢えは食べたいという欲求で,

渇きは飲みたいという欲求だ.渇きがどのようにはたらくのだろうか.〔生体の〕

システム内に水が欠乏しているために腎臓がレニンを分泌し,そのレニンは「ア

ンジオテンシン」とよばれるペブチドを循環させてアンジオテンシン2をうみ

だす.この物質は脳に入ると視床下部のある部位を攻撃する.これによってそ

の部位のニューロンの発火が増える.さらにこのことによって,この動物自身

がなにか飲みたいという意識的な欲求を感じるようになる.

さて,心的なものと物理的なものという説明上のギャップである心‐身の溝

をまたいでいる以上は,こんなことは起こりっこないなんて,どうか言わない

でほしい.ナマの生物学的事実として,こういう神経生物学的プロセスによっ

て飢えや渇きといった意識的な志向的状態が引き起こされることをぼくらは知

ってる.これが自然の作用ってものだ.視床下部が決まった種類の渇きを引き

起こすということには,さらに証拠があって,それは腫瘍で視床下部が圧迫さ

れている患者たちはいつでも渇きを感じるってことだ.どんなにいっぱい飲ん

でもこの人たちの渇きは癒されない.また,関連する視床下部の部位が傷つい

てしまった患者たちはけして渇きを感じない.

もうひとつ注意したいのは,こういう意識的な志向的現象を手にすると進化

の上でものすごく有利だってこと.痛みを意識的に感じられると進化の上で有

利になる──なぜって,その生き物は痛みを引き起こす身体のケガに抵抗し避

けようとするし,キズがあればその痛みをやわらげようとするからね.それと

同じことで,渇きを意識的に感じることで,生き物は生存を左右する水をとり

こもうとするようになる.

ちょっと但し書き:ぼくがやってる説明は標準的な神経生物学の教科書にあ

る説明なので,もっとものごとがわかっていけば,こんなのはヘンテコで古臭

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くってあまりに単純なものにみえてくるだろう.たしかに視床下部に起きるこ

とそれ自体では意識的状態にはたりそうにない.脳の他の部分とのあらゆる種

類のつながりがないといけない.でも,さっきの例の要点は,こういう説明に

よって神経学的に──したがって自然主義的に──特定の形式の志向性を説明

しうる..

ってことだ.

志向性の形式についてひとたびこういう生物学的説明が与えられれば,他の

考えを唯一可能なもののように思わせていた一連の仮定をつきくずす楔を打ち

込むことができる.ひとたび,どうして渇きが自然の生物学的な志向性の形式

たりうるのかがわかれば,同様の説明を視覚や触覚のような感覚様態に拡張す

るのはたいしてむずかしくない.じっさい第 1 章では,視覚の場合について,

光子が網膜にぶつかることから順を追ってついに脳内に視覚経験が引き起こさ

れる様子をスケッチしておいた.神経生物学の標準的教科書だったらどんなも

のでも,視覚についての章をもうけて,末梢神経の刺激がどのようにして視覚

経験を引き起こすにいたるのかを解説している.もちろん,視覚経験を引き起

こす脳のプロセスについて最終的な答えをもちあわせている,なんて言いたい

訳じゃあない.この問題への答えをぼくらは知らないし,近い将来に答えが見

つかるということもなさそうだ.いまの話の要点は,たんに,答えの形式..

をぼ

くらは知っている,ということだ.脳内の因果的な仕組みを探し求めている,

ということを知っているんだ.

さて,ここが要点だ.ひとたびじっさいの視覚経験にまでたどり着いたなら,

求めていた内在的志向性はそこにある.少なくともぼく本人にとって目の前に

コンピューター・スクリーンがあるように思えないかぎり,いま現に起きてい

るこの..

視覚経験はありえない.

でも,懐疑的な人はこうたずねることだろう.視覚経験に関するどんな事実

をもってすれば,その経験がコンピューター・スクリーンをみているように思

われるという経験だと言えるんだ? これがどんなにおかしな質問か,注意して

ほしい.唯一ありうる答えは,こういうものだろう:この視覚経験にはまさし

くこの志向性があるということは,世界の中の意識的な出来事としての当の経

験に内在的なものなんだ.目の前にコンピューター・スクリーンが見えている

というように思われる,ということは,この視覚経験をすることの一部だ.こ

ういうふうに,志向性を自然化しようと駆り立てること,そして,自然化の唯

一の形式は還元だという思い込みは,二重にまちがっているんだ.第一に,た

んなる物質がいかにして〔他の物事を〕指示しうるのかと不可解に思うのはま

ちがいだし,また,このことの土台にはもっと根深いまちがいがあって,それ

は,いかなるものであれ.........

〔他の物事を〕指示しうるのはいったいどうしてなの

かと不可解に思うことだ.この後者のまちがいの背後には論じるべき考えが隠

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れている.それは,何かを内在的に指示しうるものはおそらくなにもないだろ

う,という考えだ.第一のまちがいを取り除くには,心身問題の解決法を拡張

してやればいい:たんに,問いの背後にさかのぼってそれが前提にしているあ

れこれのことをみればいいんだ.そこでみつかる前提は,次のどちらかだ.ま

ず,志向性は神秘的で不可解だというもの.もうひとつは,志向性は現実には

他の何かであって,消去的還元によって還元可能だというものだ.このまちが

いへの答えは,心身問題への答えと同じく,提案を2つとも棄却するというも

のだ.

でも,第二のまちがいに答えるには,心身問題の解決法のさらに先に進んで,

内在的志向性に特有ないくつかの特性をみないといけない.例えば,ぼくらの

意識的な視覚経験を,石とか木とか消化と同じような現象にすぎないものであ

るかのようにあつかうとすると,視覚経験が指示しうるということが奇跡に思

えてくる.でも,自然の過程ではあるものの,もちろんこうした経験には特有

の特性がある.志向性があるということは,こういう状態の内在的なことなん

だ.視覚経験がまさにこの視覚経験として成り立つためには,その経験の志向

性は,目の前にその物体がみえるように思えるというものとならざるをえない.

では,どうしてここのところが当たり前になっていないんだろう? どうして,

みんなはこのことを無視したり否定したがったりするんだろう? 理由は2つ.

第一に,志向性について,内在的・派生的・「かのように」の区別をつけそこな

っているということがある.語や文のもっている派生的志向性から出発すると,

あるいはもっとひどい場合には志向性の隠喩的帰属のような「かのように」の

志向性から出発すると,指示や「ついて性」は神秘的なものに思えてしまう.

まちがいなく,現象に志向性を刻印するホムンクルスがいないといけないはめ

になる.まちがいの出所の二つ目は,意識がことの中心にあることを無視閑却

してしまうことだ.もし,意識は本質的に志向性とつながりはないと考えるな

ら,因果関係か何かによって意識を分析しようと試みることになる.ここから

抜け出すには,まず意識的な形式の内在的志向性から出発することだ.そうす

れば興味深い問いがありうる:この「クリントン」という語がクリントンをあ

らわすのはどうしてだろう? この語には,ともかく,派生的志向性がある.そ

うすると,派生されたのなら,その派生の性質や志向性の形式にかんしておも

しろい問いがでてくるわけだ.でも,こういう問いはおもしろくならない:こ

の意識的な視覚経験がものをみているように思われるという事例になっている

のはどうしてだろう,とかね.つまり,視覚経験としての特性をすべてそなえ

た視覚経験が一方にあり,そして,そうした特性についての神経生物学的・心

理学的な説明が与えられれば,ものを見ているように思われるのはいかにして

かと言うことに関して,そこから先に興味ある哲学的な問いはありえない.な

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ぜなら,特定の人物への指示関係が「クリントン」なる語に付け加えられるの

とはちがって,見ているように思われるということは,べつに,視覚経験に付

け加えられているわけじゃあないからだ.この経験は,端的に,ものを見てい

るように思われるという経験なんだ.

一方に内在的志向性,他方に派生的または「かのように」の志向性とを区別

しようと,さっき提案した.また,意識の優先性についても主張した.これら

は,人畜無害なものじゃあない.こうした考えによって,ぼくらは,2つの暗

黙裡の標準的立場を乗り越えられるようになるんだ.

志向状態の構造

The Structure of Intentional States

ここまでは,志向性についていまひとつあいまいな用語で語ってきた.ぼく

が定義する志向性とは,心的状態のある特性のことで,その特性によって心的

状態は自己以外の事態へと差し向けられる.ちょうど,矢を放っても的をはず

れることがあるように,もっと言えば,的もないのに矢を放ったっていいよう

に,志向状態は対象に差し向けられていながらずれてしまうこともあるし,ま

た,そもそも対象がないために完全に差し向けられそこなうこともある.子ど

もは,デパートが雇った人間を〔本物の〕サンタ・クロースだと信じることが

あるし,また,お化けなんてものはいないにもかかわらずウチにお化けがいる

と信じているひともいる.でも,そうしてみると,志向性というのはなんて奇

妙な関係だろう.存在してもいないものにだって志向性は差し向けられるなん

て.こんなことがどうして可能なんだろう?

志向状態の型と内容を区別する

The distinction Between the Type and the Content of Intentional States

志向状態の構造を理解するには,考察をはじめるにあたって基本的な区別をい

くつかつけておく必要がある.まずなにより,およそ志向状態──例えば信念・

欲求・希望・恐れ・視覚・行為を遂行する意図など──については,状態の内容

と状態の型とを区別する必要がある.例えば,ぼくらは雨がふることを望んだ

り,雨がふることを心配したり,雨がふることを信じたりすることがある.ど

の場合にも,内容は同じ──雨がふること──だけど,その内容があらわれて

いる志向性のあり方は異なっている.こういう内容とあり方の区別は,知覚か

ら意図的行為にまであてはまる.雨がふっていると信じることができるのと同

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じく,雨がふっているのをみることもできるし,また,映画にいくのを望むこ

とができるのと同じように,映画に行くのを意図することもできる.いまの例

では,どれも,内容は命題全体になっていて,だからそういう内容には例えば

真理条件がある──ぼくの好んでいる言い方をすれば,「充足条件 conditions of

satisfaction」があるんだ.

真理よりも一般的な観念が必要だ.というのも,信念のような志向状態は真

か偽になりうるけれど,他の欲求とか意図のような志向状態は,満たされるか

満たされないかだったり実行されるかされないかで,これら全部をもらさずお

さえる観念が必要なんだ.ちょうど,今夜じぶんは映画に行くことを信じるこ

とがありえて,だから真か偽である状態でありうるのと同じように,今夜映画

に行くことを欲求したり,今夜映画に行くことを意図する,ということが可能

だ.でも,欲求や意図は真や偽にはならない.信念には今夜映画に行くという

ことの真理条件が対応しているのとまったく同様に,欲求には今夜映画に行く

ということの満足条件が対応している.そこで,こういう信念や欲求といった

志向状態には「充足条件」がある,と言うようにしよう.この用語は,信念の

真理条件・欲求の満足条件・意図の実現条件などなどを網羅する.充足条件が

あるというのは,命題を内容とする無数の志向状態の一般的な特性で,真理条

件はそのなかの特殊な場合だ.

真理条件とそれ以外のいろんな充足条件とを区別したところで,志向状態の

構造がもっている次の特性に話をうつそう.

適合方向

Direction of Fit

志向性によってぼくたちを世界へとつなげること、これが注目すべき心の特性

だ。ここに志向性の本質がある──ぼくたちを世界へとつなげる、心ならでは

の仕方がそれだ.それと同じくらい注目すべき事実として,志向状態の世界へ

のつながり方は,志向状態の型によっていろいろ異なる,ということがある.

志向状態の型によって,その命題内容が現実世界へとつながれるときの,いわ

ば適合の義務が,違ってくるんだ.信念や仮説が真だとされるか偽だとされる

かは,世界のあり方がほんとうに信念の表すとおりなのかどうかによる.そこ

で,信念には心から世界への適合方向がある,とぼくは言う.〔信念と〕独立に

存在している世界に一致するということは,信念というもののいわば義務だ.

他方で,欲求や意図には心から世界への適合方向はない.なぜなら,欲求や意

図が満たされない場合,その内容に世界が一致していないことのいわば責任は,

別に信念や意図にあるわけではなくて,世界の方にあるからだ.「適合方向」と

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いう用語は J.L.オースティンがつくったものだけれど[*33],その区別をいちばん

うまく説明する例を出したのは G.E.M.アンスコムだ[*34].アンスコム・タイプ

の例では,女性が男性にあるリストをわたす.単語が書いてあって,「ビール」・

「バター」・「ベーコン」とある.男性はリストをもってスーパーマーケットに

行き,リストの品目に一致するようにカートにものを入れる.世界〔のありか

た〕をリストに一致させようとするのは,この男性の責任だ.お買い物という

形で,男性は,世界がリストの品目に適合つまり一致するようにつとめるんだ.

じゃあ今度は,男性が探偵につけられているとしよう.探偵は,男性がカート

にいれたものを書き留めていく.探偵は「ビール」・「バター」・「ベーコン」と

書きとめる.だからレジに着いたときには男性と探偵はおんなじリストをもっ

ているわけだ.ところが,二人のリストの役目はまるきりちがう.探偵のリス

トには,独立に存在してる世界に一致する責任がある.彼のリストは,ただも

のごとのありかたを表すとされている.夫のリストの役目は,彼が世界をリス

トの内容に一致するように変えることができるようにすることだ.夫のリスト

の眼目は,現実を記述すること・ものごとのあり方を表すことにはなくって,

現実を変えてリストに一致させることにある.夫のリストには,世界からリス

トへの適合方向がある.探偵のリストには,世界からリストへの適合方向があ

る.リスト(または言葉)から世界への適合方向を達成したりしそこねたりす

ることを言い表すための特別な語彙が,ぼくらの言語にはある:「真」または「偽」

と言われる.真や偽は,ようするに言葉から世界への適合方向の達成の成功や

失敗を名指しているんだ.

この区別をはっきり理解するには,失敗の場合がどうなるか思い描くといい.

家に帰った探偵が,失敗したことに気づいたとしよう.例の男性が買ったのは

ベーコンじゃなくてポークチョップだったんだ.これを訂正したかったら,探

偵は単に「ベーコン」という単語を消して「ポークチョップ」と書き入れたら

いい.そうしたらリストは的確にリストから世界への適合方向を達成する.で

も,夫の方は,家に帰ると奥さんに「このおバカ.リストには「ベーコン」っ

て書いてあったでしょ.あなたポークチョップを買ってるじゃないの」と言わ

れてしまうわけだけど,この男性は,状況を訂正するのに,「だーいじょうぶだ

よぅ.「ベーコン」ってのを消してさ,「ポークチョップ」って書き込むから」

と言ってもしょうがない.こういう区別をする理由は,探偵とちがって男性の

方は,世界をリストに一致させる責任があるからだ.リストと世界の関係で成

33 ジョン・L・オースティン “How to Talk: Some Simple ways,” in Philosophical Papers, ジェイムス・O・アームソン,ジェフリー・ウォーノック編(オックスフ

ォード:Clarendon Pres, 1979 年) 34G・E・M・アンスコム,Intention(オックスフォード:Blackwell, 1959 年)

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り立つことは,言語と世界についても成り立し,もっと言うと,心と世界につ

いても成り立つ.リストから世界〔の方向〕と世界からリスト〔の方向〕の違い

は,もっと一般的な言葉から世界と世界から言葉の違いの一例であり,また同

じく,心から世界と世界から心の違いの一例でもあるんだ.違いは明確になっ

たかな.ぼくの考えでは,ここは,志向性についてのどういう理論にとっても

肝心なところなんだ.信念や知覚や記憶は心から世界への適合方向をもってい

る.というのは,そういうもののねらいはものごとのあり方を表すことにある

からだ.欲求や意図には,世界から心への適合方向がある.そのねらいは,も

のごとのあり方を表すことにあるんじゃなくて,ものごとがどうあって欲しい

かとかものごとをどうするつもりかを表すことにあるからだ.

かくして,志向状態に関するぼくらの一般的説明には2つの特徴がある──

〔1〕命題内容と志向状態の型との区別,それと,〔2〕方向の違いという考え

と込みでの適合方向という概念だ.さて,ここでこれら2つの特徴それぞれに

ついて,いくらか複雑なところを述べよう.まず最初に指摘する複雑さは,志

向状態は,全部が全部,完全な命題を内容とするわけではない,ということだ.

たとえば,ある男性がメアリーを愛していたりビルを嫌っている場合,そうい

う志向状態の内容はメアリーなりビルなりを指示していて〔だから命題ではな

く〕,また,彼が持っている態度は愛だったり嫌悪だったりするわけだ.もうひ

とつ,ことを複雑にしているのは,志向状態のもっている適合方向は,なにも

世界から心か心から世界のどちらかというわけではない,ということだ.たと

えば,友達をなじって後悔してる場合や天気がよくてうれしい場合だと,志向

状態の命題内容がすでに充足されていることが前提になっている.つまり,友

達をなじったのは事実だし,また,天気がいいのも事実だ.こういう場合,「ゼ

ロの適合方向 null direction of fit」がある,と言う.信念のねらいは心から世界

への適合方向が達成されることであり,欲求のねらいは充足されて世界から心

への適合方向が達成されることにある.それとちがって,喜びや悔いにはそう

いう種類のねらいはない.ただ,充足されたりされなかったりする命題内容が

あるところはどれも同じではある.こういう違いを説明するのに,ぼくは単に

ゼロの適合方向とだけ言うんだ.

充足条件

Conditions of Satisfaction

ここまでの志向性に関するいろんなポイントを統一しよう.それには,志向的

にものを成り立たせている特性を記述すればいい.この特性については,充足

条件の観念をとりいれた際に,みじかく触れておいた.志向性を理解するとき

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のカギになるのが,充足条件だ.志向状態が充足されるのは,世界のあり方が

志向性の表わしているとおりになっているときだ.信念は真や偽となりうるし,

欲求は満足されたりされなかったりするし,意図は実現されたりされなかった

りする.どの場合にも,志向状態が充足されているかどうかを左右しているの

は,命題内容とそれが表す現実とがぴったり一致しているかどうかということ

だ.

充足条件があるということが,命題内容をもつ志向状態の一般的な特性だ.

もし,志向性の分析にスローガンがほしかったら,それはこんなものになるし

たらいいとぼくは思う:「汝,充足条件をもてそれを知らん」.ある志向状態が

正確に言ってどういうものなのかを知りたければ,どういう条件のもとで充足

されたりされなかったりするかを問うほかない.愛とか嫌悪といった志向状態

は完全な命題内容をもたないから,充足条件がない.そういう志向状態も,そ

の一部を構成している志向状態にはちゃんと命題内容があって,だから充足条

件もちゃんとある,とぼくは思う.だから,例えば愛すると言うことで言えば,

相手に関する〔命題内容をそなえた〕信念や欲求を抜きにしては,愛しようがな

い.そして,そういう信念や欲求は,あるひとが相手に対して抱いている愛の

大部分を構成するものだ.だから例えば,表面上は愛には充足条件がないけれ

ど,あるひとを愛しているということを現実に構成しているものの大部分は,

充足条件をもったひとそろいの志向状態なんだ.恥や自負のように命題内容は

あるけれど適合方向のない志向状態は, その大部分を信念や欲求のように適合

方向のあるものが構成している.だから,適合方向のない志向状態にも,ちゃ

んと充足条件はある.たとえば,レースに勝ったのを自負している場合,ぼく

は少なくとも(a)じぶんがレースに勝ったことを信じていて,しかも(b)

レースに勝ったことをのぞましいと思っているなり事実であってほしいと思っ

ていなければならない.

志向的因果

Intentional Causation

すでに言っておいたように,志向性とは心の特性で,志向性によって心は世界

のなかのモノや事態を表象する.ところで,ぼくらの心は,絶え間なく世界と

因果的にふれあっている.モノをみるとき,ぼくらがみているモノがその視覚

的経験を引き起こしている.昔の出来事を思い出すとき,その過去の経験がい

ま現在の記憶を引き起こしている.体を動かそうと意図するとき,そういう意

図が体の動作を引き起こしている.どの場合にも,因果的な部分と志向的な部

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分の両方があることがわかる.志向性がはたらくために欠かせないこと,そし

てまたぼくらがこの世界で生き延びるために欠かせないことがあって,それは,

事物を表象する心の能力と因果関係とがちゃんとかみあうということだ.この

かみあわさりの形が「志向的因果 intentional causation」だ.この形式の因果は,

ヒュームのいうようなビリヤード・ボール式の因果とはまるきり異なってい

る:〔志向的因果の場合に〕原因と結果がああいうふうにはたらくのはなぜかと

いうと,原因の方は結果の表象であり,結果の方は原因の表象だからだ.どん

なふうにはたらいているか,いくつか例をあげよう.水を飲みたいとき,水を

飲みたいというぼくの欲求によって,ぼくは水を飲む.ぼくの心的状態,つま

り(水を飲むということへの)欲求が,ぼくが水を飲むということを現実のもの

にする.この場合,欲求は,充足条件を引き起こし,かつ,表象している.因

果的にはたらく場合にだけ充足されるということが,志向状態そのものの充足

条件の一部になっているときもある.それで,例えば腕をあげようと意図する

とき,その意図が必要としていることは,たんにぼくが腕をあげるというだけ

ではない.そうじゃなくて,腕を挙げるという意図の充足条件の一部になって

いるのは,当の意図がぼくの腕を挙げさせる,ということだ.だからぼくは,

意図は因果的に自己言及的だと言うんだ[*35].こういう意図が充足されるのは,

意図そのものがそれ以外の充足条件を引き起こすときに限られる.ぼくが,腕

を挙げるという意図を実現させるのに成功するのは,(a)ぼくが現に腕を挙げ

て,かつ,(b)腕を挙げるというぼくの意図がぼくの腕をあげさせるとき,こ

のときだけに限られるんだ.

こういう因果的な自己言及がみられるのは,なにも意図のような「意思的

volitive」状態だけではなくて,知覚や記憶のような「認知的 cognitive」状態にも

あらわれる.例えば,ぼくが現実に木をみているとき,そこで成り立っている

ことは,そこに木があるということを充足条件にしているぼくの視覚経験だけ

ではなくて,そういう充足条件をもった視覚経験そのものをそこの木が引き起

こしているという事実もないといけない.記憶の場合もこれと同じだ.ヴァル・

ディゼール Val d’Isère でスキーレースをしたことを思い出しているとき,その記

憶の充足条件になっているのはほんとにぼくがスキーレースをやったというこ

とだけじゃなくて,スキーレースをやったという出来事が充足条件をもった記

憶を引き起こしているということも充足条件になっていないといけない.知覚

や記憶のように因果的自己言及をする認知的な〔志向〕状態の場合,心から世

35 因果的自己言及の考えは古くからあるもので,少なくともカントにまでさかのぼ

る.ぼくの知るかぎり,用語が最初に使われたのは,ギルバート・ハーマンの「実

践理性 Practical Reason」,Review of Metaphysics 29, no. 3(1979 年 3 月):

pp.431-63 においてだ.

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界への適合方向と世界から心への因果関係がある.記憶や知覚の心的状態が世

界に「適合する」のは,その適合方向をもった状態を世界が引き起こすときに

限られる.意図のような意思的状態の場合,方向は逆になる.腕を挙げるとい

うぼくの意図が世界に「適合する」のは,適合するような出来事をその状態じ

たいが世界に引き起こすときだけで,それはつまり,ぼくが腕を挙げるという

出来事が当の意図そのものによって引き起こされるときだけに限られる,とい

うことだ.

志向的因果は,人間の行動を説明する際にこのうえなく重要だし,だから自

然科学と社会科学のちがいを説明するときにも必要不可欠だ.人間の行動は,

理性を基盤にして成り立っている.だけど,理性で行動を説明できるのは,理

性と行動の関係が論理的かつ因果的なときに限られる.だから,合理的な人間

行動を説明するときには,かならず志向的因果の道具立てが用いられる.例え

ば,ヒトラーのロシア侵攻を説明するために,「彼は西部に〈レーベンストラウム

生活圏 〉を欲

していたんだ」と言う場合を考えよう.この説明がぼくらにとって意味をなす

のはなぜかというと,次の点を想定しているからだ.(a)ヒトラーは西部に〈生

活圏〉を欲していたということ,(b)ロシアに侵攻すれば〈生活圏〉が手に入

ると彼が信じていたということ,(c)a・b から,志向的因果により,ロシア

に侵攻する彼の意思決定と意図について,最低限必要な因果的説明が与えられ

るということ,そして,(d)ロシアに侵攻するという意図が,志向的因果によ

って,ロシア侵攻の最低限必要な原因となっていること.

ここで強調すべきことがある.こういう説明は,決定論的な形式をとってい

ないんだ.行動の志向的説明からは,べつに,その行動がかならず起こらざる

を得なかったということは導かれないし,その行動がなされるほかなかったと

いうことを決定するのに志向的因果で十分だということにもならない.それに,

実践の上でも志向的因果は決定論的ではない.例外は病理的な場合ぐらいだ.

自分自身の行動を説明するのに,信念と欲求がぼくの行為を動機づけた,と述

べる場合,それ以外にやりようはなかったということはふつう含意されない.

どうするべきかについてじぶんの欲求と信念をもとに推論するときは,たいて

いの場合,信念と欲求という形をとったじぶんの意思決定の原因とじっさいの

意思決定のあいだには溝があるし,また,意思決定と行為の遂行とのあいだに

も溝がある.このことの例外としては,中毒・強迫観念・常軌を逸した激情と

いった病理的な形式がある.選挙で誰に投票するか決めるとき,その行動の志

向的な説明からは因果的な十分条件はでてこない.これと対照的な場合として,

ヘロイン中毒者がある.ヘロインを欲していて,かつ,そこにあるクスリをヘ

ロインだと信じていれば,彼はそのクスリを飲む.この場合,この中毒者は他

にどうしようもないので,このことの〔志向的〕説明は因果的な十分条件をも

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たらす.こういった〔意思決定と因果関係との〕溝は,通例,「意思の自由」と

よばれている.これに対応する脳内の溝がないかぎり,いったいどうして意思

の自由がありうるのかという問題は,哲学において未解決なままにとどまる.

志向性のバックグラウンド

The Background of Intentionality

志向状態は,ひとつひとつ単独では機能しない.たとえば,ぼくが「クリント

ンは合衆国の大統領だ」と信じたり,「次の週末にはスキーに行こう」と意図し

たり,「今年の所得税が去年より低くなるように」と望んだり,といったことが

可能となるには,ほかにもたくさんの志向状態をもっていないといけない.そ

ういう志向状態をもつために必要なものとしてどんなのがあるかというと,た

とえば,合衆国は共和国だという信念とか,家から行ける範囲にスキー場があ

るという信念とか,合衆国には市民に対して所得税の制度があるという信念な

どが挙げられる.そればかりか,こういった信念やその他の志向状態に加えて,

世界と関わるのを可能にする許容能力や前提をぼくは一揃いそなえていないと

いけない.こういう許容能力・能力・傾向・習慣・性質や,当然視された前提,

それに「ノウハウ」などを,ぼくは「バックグラウンド」とよんできた.そし

て,この本をとおしてずっと前提にしている〈バックグラウンド〉の一般命題

は,こういうものだ:およそ,ぼくらがもっている個々の信念・希望・恐れな

どなどの志向状態が現にこうして機能しているのも,世界とのかかわりを可能

にするノウハウの〈バックグラウンド〉に照らしてこそなんだ.

この点を理解するには,たぶん,実生活での志向状態をとりあげて,その志

向状態がうまくはたらくのにはほかにどんな志向状態を前提にしないといけな

いかを考えてみるのが一番だろう.ちょうどいまぼくは,本屋さんに行って何

冊か本を買い,それからレストランに行ってランチにしよう,という意図をも

っている.この複合的な意図は,とてつもない形而上学的な仕掛けを前提にし

ている.この仕掛けの一部は,信念と欲求という形で表に表れている.たとえ

ば,決まった種類の本だけをぼくは求めているし,近場で一番いいレストラン

はある特定のお店だと信じている.でも,こういう意識的な考えの下には,巨

大な仕掛けがあって,これはあまりに根本的なのでたんに信念や欲求とみなす

わけにいかない.たとえば,歩き方を知ってるし,本屋さんやレストランでは

どうするものなのかも知ってる.足元の床がぼくをささえてくれることや,ぼ

くの体はばらばらに飛び散ったりせずにひとかたまりの物体として動くはずだ

ということをぼくは当たり前に思っている.また,本屋さんの本は,食べられ

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ないけどともかく読めるものだし,レストランの食事は読めないけれど食べら

れるはずだ,というようなことを当然視している.いろんな状況への関わりか

たを知っているので,ぼくは,食べ物を耳じゃなくてに口もっていって食べる

ことができるし,本をおなかにこすりつけるんじゃなくて目の前において読む

ことができるんだ.こんなサイエンス・フィクションの世界だって想像はでき

る:そこでは,物事がすっかりちがっていて,ものを食べるときには目でスキ

ャンするし,本を読むときには噛み砕いて飲み下すんだ.でも,ぼくは,べつ

に「自分はしかじかの世界に生きており,そういう世界には生きていない」と

いうような「仮説」を抱いているわけじゃあない.そうじゃなくて,ぼくは,

膨大な形而上学を当然視しているんだ.

〈バックグラウンド〉の一部は,すべての文化に共通だ.たとえば,誰だっ

て頭を上にして歩くものだし,食べ物を耳にいれて食べる人はいない.そうい

う普遍的な現象を,ぼくは「深い〈バックグラウンド〉」とよぶ.でも,それ以

外の〈バックグラウンド〉の前提は,文化によってさまざまだ.たとえば,ぼ

くの文化では,ブタやウシは食べても芋虫とかバッタは食べないし,食事の時

間帯は決まっている.そういう事柄についてだと,文化は多様だ.それで,〈バ

ックグラウンド〉のなかでもこういう特性を,ぼくは「局所的な文化実践 local

cultural practices」と呼んでいる.もちろん,深い〈バックグラウンド〉と地域

的な文化実践とをはっきり線引きしてわけることはできない.

目下の探求について,強調しておきたいポイントがある.志向性は,ほかと

分離した心的能力としてはたらくものではないんだ.志向状態が現にこうして

はたらいているのは,〈バックグラウンド〉の能力がひとそろい前提になってい

ればこそだ.〈バックグラウンド〉は,ある重要な意味において,前‐志向的だ.

本を買ってそれからランチにしようという意図がこれからしようとすることを

決定しうるには──つまり,その充足条件を決定しうるには──,当の意図の一

部でもなければその他の志向状態の一部でもないような能力がたくさん必要に

なる.こういうふうに,志向性とは,〈バックグラウンド〉の能力をふまえては

じめてはたらく思考のプロセスなんだと考えると,探求の地平がたくさん開け

てくる.これはこの本の守備範囲を超えているけれど,でも,言及しておいて

いいことだ.たとえば,普段ぼくらは,合理性というのは,合理性の規則に意

図的に従うことなんだと思っている.ぼくの考えだとそうじゃなくて,合理的

な思考と行動の能力は,その大部分が〈バックグラウンド〉の能力なんだ.さ

らに言うと,神経症を,ぼくらは不合理な信念と欲求の問題だと思っていたり,

また,抑圧された信念と欲求の問題だと思うことだってよくある.神経症のお

おくはこのタイプだけれど,なかには〈バックグラウンド〉の神経症もある.

たとえば,自他に対してあまりに厳しく接する患者がいる.これは,たんに彼

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が不合理な信念と欲求をもっているというだけではなくて,じぶんの経験にた

いする構えのせいで,柔軟で適応的で創造的なやり方で人に接することができ

なくなっているんだ.

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第 6 章 言語はどのようにはたらくか:人間

の行為としての言語行為

How Language Works: Speech Acts as a Kind of

Human Action

ここまでの章で論じてきたことのなかには,くらくらくるような現象がいくつ

かあった.1つは,物理的な分子たちだけで成り立っている世界に意識が存在

しているということだった.もう1つは,世界のなかで〔心からみて〕むこう

にある対象や事態へと心がみずからをさしむけうるということ.3つ目は,心

はたがいに協働して客体的な社会的現実をつくりだすことができるということ

だった.この章で論じるのは同じくらいおどろくような現象で,それは人間が

ことばでコミュニケーションしているということだ.

言語ってふしぎなものなんだな,と手っ取り早く気づいてもらうには,たぶ

ん次の事実を思い起こしてもらうのがいちばんだろう.ぼくらの顔の下側には,

ふいご...

みたいに開閉する穴ッぽこがある.そこからはときたまいろんな音がで

る.ほとんどの場合,その音は喉頭にある粘膜に覆われた声帯をとおってきた

空気がひきおこしている.物理的なことだけを考えれば,こういう物理的・生

理的な現象がうみだす一時の音響なんて,まったくありふれたものだ.けれど,

これには並外れた特性がある.ぼくの口からでてくる一息の音響は,あるとき

には言明をなしていると言えるし,他にも,質問・説明・指図・忠告・命令・

約束…などなど,そのときどきで数多くのものでありうる.さらに,口から出

てきたものは,真や偽であると言えるし,退屈だの・どうでもいいだの・面白

いだの・オリジナルだの・馬鹿げてるだの・単に無意味だのと言える.そう,

何が驚くと言って,ぼくらはあんな一息の音響からこれほど多彩な意味を取り

出していて,しかも,たんに弁舌と言辞の現象だけじゃなくて政治的・文学的

などなどの文化的な現象もそこに含まれているじゃないか.どうしてこうなる

んだろう? どうしたら物理学から意味論にたどりつけるんだろう? ──とい

うのが,ぼくがこの章で論じる問いだ.

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言語行為:発語内行為と発語媒介行為

Speech Acts: Illocutionary Acts and Perlocutionary Acts

普通の発語状況でこういう一息の音響を発すれば,そのたびにぼくは言語行為

を遂行したのだと言われる.言語行為はいろんな型をとる.音を響かせること

で,ぼくは言明をしたり・ものを尋ねたり・命令したり・ものを頼んだりもす

れば,さらには科学的な問題を説明したり・未来の出来事を予言したりする.

こういうたぐいのことを名づけて英国の哲学者 J・L・オースティンは「発語

内行為 illocutionary act」といった.発語内行為は,人間がことばでやるコミュ

ニケーションの単位として最小かつ完全なものだ.ぼくらがお互いに話したり

書いたりするときはいつだってこの発語内行為を遂行している[36].

発語内行為こそがまさにここでの分析対象なんだけれど,発語内行為が聞き

手にもたらす効果もしくは帰結と区別する必要がある.たとえば,何かするよ

う命令することで,きみに何かをさせるかもしれない.きみに論述することで

説得するかもしれない.言明してきみを確信させるかもしれない.お話を語り

聞かせてきみを楽しませるかもしれない.これらの例でペアになっている動詞

のうち,1つ目は発語内行為に言及しているけど,2つ目は発語内行為が聴き

手に及ぼす効果に言及している.つまり,説得する・確信させる・何かをやら

せる,といった効果だ.この専門用語をつくったオースティンは,ことばによ

るコミュニケーションからでてくる帰結に関わるこれらの行為を「発語媒介行

為 perlocutionary act」と命名した.というわけで,まず区別されるのは,〔①〕

ぼくらの分析対象である発語内行為と,〔②〕発語内行為であれなんであれ行為

が聞き手にあたえる帰結または効果である発語媒介行為だ.典型を言うと,発

語内行為は意図的に遂行されないといけない.もし約束したり言明する意図が

なかったのなら,きみは約束ないし言明をしなかったんだ.でも,発語媒介行

為なら意図的に遂行しなくていい.そうする意図がなくったって,あることで

誰かを説得したり,何かをさせたり,うんざりさせたり,楽しませたりするか

もしれない.発語内行為はかならず意図的だけど発語媒介行為は意図的であっ

たりなかったりする──この事実は,発語内行為がコミュニケーションにおけ

る意味の単位であることの帰結だ.話し手が何かを口にし,その口にしたこと

で何かを意味しつつ,彼の意味することを聞き手に伝達するときには,上手く

できていればひとつの発語内行為を遂行したことになる.発語内行為と意味と

意図はみんなお互いに結びついている.そのいろんな結びつき方をこの章では

36 J.L.Austin, How to Do Things with Words (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1962).

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説明する.

発語内行為と発語媒介行為の区別に加えて,その発語内行為のなかで行為の

内容とその行為のタイプとを分ける必要がある.この区別は,ちょうど,ぼく

らが第 4 章で区別した志向的状態の内容と志向的状態のタイプとにそのまま対

応している.わかりやすい例をあげるなら,以下に示す文の発話どうしの違い

を考えるといい:

部屋から出て行ってください.Please leave the room.

部屋から出て行くの? Will you leave the room?

部屋から出て行く.You will leave the room.

これらの発話には共通部分がある.つまり,きみが部屋から出て行くという

命題の表現がそれぞれに含まれている.〔他方で,〕どの発話にも他の発話と異

なっている部分がある.1つ目は要請,2つ目は質問,3つ目は予測だ.ぼく

らの志向性理論が区別している〔α〕志向的状態の内容と〔β〕志向的状態のタ

イプに対応して,〔α´〕発語内行為の内容と〔β´〕発語内効力または──同じこ

とだけど──発語内行為のタイプとを区別する必要がある.分析にあたって,

発語内行為の構造を F(p) と表そう.F は発語内効力を表し, p はその命題

内容を表す.こうしておけば,言語行為のうち,その発語内タイプまたは発語

内効力を構成する部分とその命題内容を構成する部分とを分けられる.

ここまでのところを考慮にいれてみると,章のはじめよりも分析対象をいく

らか正確に限定できる.いまや,問いはこういうものだ:どうやったら音声か

ら発語内行為が得られるんだろう? 一見したところ,この問いは言語哲学の土

台にある伝統的な問いと異なっているように思えるかもしれない.その伝統的

な問いとは:「言語は現実にどう関連しているのだろう?」であり「意味とは何

だろう」だ.だけど,ぼくの考えだと,そういう伝統的な問いは根っこのとこ

ろでぼくの問いと同じものだ.というのも,「音声からどうやって発語内行為の

タイプを得られるのだろう?」という問いは実のところ「どうやって心はただ

の符号なり音声なりに意味を授けているのだろう?」という問いと同じなのだ

から.この問いに答えられれば意味の概念を分析できるし,さらに,その意味

の概念を使うとぼくらは言語がいかにして現実に繋がっているかを説明できる.

言語が現実に関連しているのは意味のおかげだけれど,その意味というのはた

だの発話を発語内行為にしたてる特性だ.発語内行為は語のとても特別なイミ

で有意味で,そのタイプの有意味性によって言語は現実に繋がっている.こん

なふうに,適切に理解さえすれば,底のところで3つの問いは同じものなんだ.

繰り返すと,「意味とは何だろう?」・「言語はいかにして現実に繋がっているん

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だろう?」・「発語内行為の本性は何だろう?」の3つだ.あとでみるように,

これら3つの問いは全て次のことに関わっている:いかにして心は志向性を音

声や符号に担わせ,そのことによってそれらに意味を授け,また,そうするこ

とで現実へと繋がらせているのだろうか?

「意味」のいろんな意味

The Meanings of “Meaning”

よく知られているように,英語〔日本語〕において,《mean〔意味する〕》・

《meaning〔意味〕》・《meaningful〔有意味な〕》といった語はあいまいだ.以

下のような文にこれらの表現があらわれていることを考えてみよう:

1. You mean a lot to me, Mabel. 〔きみはぼくの大事な人だよ,メイベル.〕

2. Life became meaningless after the Republican defeat. 〔共和党

が敗北して,人生が無意味になってしまった.〕

3. The meaning of historical events is seldom apparent at the

time of the event. 〔歴史的な出来事の意味はその出来事のさなかにはめっ

たにわからない.〕

4. I didn’t mean to hurt you. 〔きみを傷つけるつもりはなかったんだ.〕

5. The German sentence “Es regnet” means “It’s raining.” 〔ドイ

ツ語の“Es regret”と言う文は「雨が降っている」という意味だ.〕

6. When Friedrich said, “Es regnet,” he meant, “It’s raining.” 〔“Es

regret”といったとき,フリードリヒは「雨が降っている」を意味していた.〕

1から4までの文の“meaning〔意味〕”については,言語学でいうイミで

の「意味」を理解する上で不可欠なイミでの意味ではない,とだけ言っておこ

う.ぼくらの探求の目的にあわせて,文5と6だけに照準を合わせたい.とい

うのは,これらが例示しているタイプの意味こそ,この章でぼくがもっとも関

心をもっている意味だからだ.

文5・6にみられるタイプのちがいを記述する定番の正しい区別は,一方を

文の意味または語の意味とし,他方を話者意味または発話意味とすることだ.

文や語には,ある言語の部品としての意味がある.ある文の意味を決定するの

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は,そのなかの語とそれらの統語的な配列だ.けれど,話し手がその文の発話

で意味することは,ある範囲内に限定されこそすれども,全面的に彼または彼

女の意図の問題だ.「ある範囲内に限定される」と言わなくてはいけないのは,

何でも言えるわけでも何でも意味できるわけでもないからだ.〔たとえば〕「2

たす2は4だ」と言っておいて,シェイクスピアは戯曲家としてだけでなく詩

人としてもじつにいいと意味することはできない.少なくとも,たくさんの場

面設定を補わないとそんなことは意味できない.文の意味は全面的にその言語

の規約の問題だ.ところで,文は話すための道具だ.だから,言語は話者意味

を制限するものの,それでも話者意味こそがことばの意味の一次的な形式なん

だ.なぜなら,文の言語的意味のはたらきによってその言語の話し手は発話で

文を使ってなにごとかを意味しうるのだから.言語のいろんな機能を分析する

ぼくらの目標にとって,話し手の発話意味こそが意味の一次的な観念だ.

ここから先で,「意味とは何だろう」という問いを検討するときに発している

問いは,「話者意味とは何だろう」という問いだ.この章のここまでの議論をふ

まえると,この問いはこう言いかえられる:「口から発せられた音声や紙の上の

符号でしかないものに話し手が意味を担わせうるのはいかにしてだろう?」

たしかにこれはおおむね無害な問いにみえる.けれども,まさにこの問題を

めぐって哲学の伝統では膨大な議論がずっとつづいているんだ.この問いは簡

単だとかぼくの答えは異論の余地がないといったような印象は読者にあたえた

くない.とはいえ,さしあたっては伝統的な論争を端折って,この問いそのも

のへの正しい答えだとぼくが考えるものを単刀直入に示すことにする.

意味を理解する上でのカギはこれだ:意味は派生的な志向性の形式である.

話し手の思考にある原初的または本来的な志向性が,語・文・符号・記号など

などへ移されるんだ.そうした語・文・符号・記号は,有意味に発話されるこ

とで,話し手の思考から派生した志向性をもつようになる.すると,規約によ

る言語的意味だけでなく,意図された話者意味をもことばがもつようになる.

ある言語の語や文にある規約的な志向性を利用して,話し手は言語行為を遂行

できる.話し手が言語行為を遂行するとき,そうした記号に彼の志向性を担わ

せる.正確にはどんなふうにするのかって? 前に志向性を論じたときにみたよ

うに,充足条件──ぼくが説明したイミで──が志向性を理解するカギだ.志向

的な現象である恐怖・希望・欲求・信念・意図といったものには,みんな充足

条件がある.だから,話し手が何かをしゃべって何事かを意味するときには,

彼は志向的な行為を遂行しているわけなんだ.彼が音声を作り出すことは,そ

の発話において彼の意図の充足条件の一部にふくまれている.だけど,彼が有

意味な発話をなす場合には,彼はそうした音声や符号に充足条件を課す.有意

味な発話をなすとき,だから彼は充足条件に充足条件を課しているわけだ.

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ここのところが意味の本質的な特性だから,もっと詳しく説明しよう.たと

えばドイツ語の話し手であるフリードリヒが意図的に“Es regnet”と口に出し

て,それを意味するとしよう.ここで彼はいくつかの充足条件が組み合わさっ

たひとつの行為を遂行している.第一に,彼はこの文を発話することを意図す

る.その発話は彼の複合的な意図のうち,発話するという意図の充足条件だ.

だけど,第二に,彼はたんにこの文を発話しようと意図しているだけではなく

て,そのことを意味している.つまり,雨が降っていると意味しているんだよ

ね.だから,そのこと自体にも発話は充足条件を要求している.この発話が充

足されるのは,雨が降っているときだけに限られるんだ.この充足条件は真理

条件だ.フリードリヒが発話したときに彼が意図的に表象したとおりの世界に

なっているかどうかによって,その発話は真か偽になる.だから,フリードリ

ヒの意図には少なくとも2つの部分があったわけだ:その発話をなすという意

図と,発話が特定の充足条件をもつという意図だ.ところで,発話じたいが意

図の前半の充足条件だということは,意味するほうの意図は充足条件に充足条

件を課すような意図だということだ.さらに,もし彼が聞き手に伝達しようと

意図していたら,彼は言語行為の遂行における意図に3つ目の部分を加えるこ

とになっただろう.つまり,雨が降っているとじぶんが言明していることを聞

き手が理解するという意図だ.だけど,この第3の意図──伝達意図──は,

さっきの2つの意図が聞き手に認識されるという意図にすぎない.伝達意図の

充足条件は,聞き手が次のことを理解するということだ:話し手が意図的に文

を発話したということ,そして,その発話には話し手が意図的に課した充足条

件〔e.g.「雨が降っている」〕があるということ.伝達については次のセクション

でもっと論じよう.

意味の議論がこの章でカギとなる論件だから,これについての見地が完全に

発話する 話し手が発話する

有意味に発話する がある充足条件をもつ

充足条件1:

充足条件2: 発話

意図1:

意図2:

がある充足条件をもつ 充足条件1

「「「「充足条件充足条件充足条件充足条件にににに充足条件充足条件充足条件充足条件をををを課課課課すすすす」」」」

つまり;

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はっきりするように,もうひとつ例を出して順を追ってこの問題をみていこう.

ぼくがドイツ語を勉強しているとする.シャワーをあびたり雨の日の散歩途中

なんかにしょっちゅうぼくは“Es regnet,es regnet,es regnet”と練習には

げむ.そういう場合,ぼくはたんに発音の練習をしているだけだ.つまり,本

当のところぼくは雨が降っているなんて意味していない.すると,一方では何

かを口に出してそのことを意味していて,他方で何かを口に出しつつもそのこ

とを意味していないわけだけれど,このちがいは何だろう? 第4章のスローガ

ンを思い出すなら,充足条件のちがいに着目すればいいはずだ.すると,言う

ことと意味することという2つの意図には充足条件にかなりちがいがあるのが

わかるだろう.意味することなく何かを言うとき,ぼくの意図の充足条件は,

たんにその意図がある特定の発話を引き起こすというだけのことだ.その特定

の発話とは,ドイツ語の発音規則にあっているような発話のことだ.だけど,

ぼくが口に出したことを意味している場合,その充足条件はどういうものだろ

う?

たとえばぼくがちょっとだけドイツ語を知っていて,誰かに“Wie ist das

Wetter heute?”と尋ねられたとしよう.これは「今日のお天気はどう?」とい

う意味だとぼくにはわかる.それでぼくはこう答える:“Es regnet”.さて,こ

のときぼくが意図していることは,さっきドイツ語の文を作り出したときと共

通しているけれど,それに加えて意味するという意図も含んでいる.意味する

という意図はどういうものだろう? すると,ついうっかりこう言いたくなる.

この意味するという意図は,ぼくが“Es regnet”と発話するときほんとうに雨

が降っているというものだ,とね.だけど,これはあまり正しくない.だって,

何かを言って,しかもそのことを意味していても,不誠実 insincereでいること

は可能だから.ようするに,ウソをつけるってことだ.だから,何かを言って

そのことを意味できるのはどうしてなのかを意味の意図で説明して示すときに

は,ウソをついていようと誠実であろうと意味するという意図は同じものであ

りうる必要がある.

まえに志向性を説明したとき,志向的状態には充足条件があるのをみた.意

味するという意図は,発話が付加的な充足条件をもつような意図だ.だけど,

発話はそもそも発話をなすという意図の充足条件なのだから,意味するという

意図は,この充足条件──発話そのこと──が充足条件をもつという意図にな

る.後者の充足条件は,この場合だと真理条件だ.ぼくが“Es regnet”と言っ

てそのことを意味するときに意図しているのは,ぼくの発話“Es regnet”が真

理条件をもつということで,ということはつまり,そう口に出して意味すると

きにぼくはそのことの真にコミットしているわけだ.これはウソをついていて

もいなくても成り立つ.ちがうのは,うそつきの方はコミットメントを維持し

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ていないという点だ.だから,意味するという意図は,こういう意図だという

ことになる:“Es regnet”と言うときには,まさにその発話をなすという意図

の充足条件に加えて,発話そのことが充足条件をもっている.ぼくが何かを言

って意味するとき,その言ったことが真だということにぼくはコミットしてい

る.これは,ぼくが誠実だろうと不誠実だろうとかわらない.

意味とコミュニケーション

Meaning and Communication

ここまでは意味するという意図について述べてきた.しかしもちろん,実際に

天気についての質問に答える場合に意図することは,たんに真理条件その他の

充足条件をもつというイミで発話を有意味にすることにつきない.この質問に

答えるとき,ぼくは聞き手に答えを伝えようと意図する.そうやって有意味に

話そうとする意図は,聞き手に意味を伝えようとする意図と混同しない方がい

い.ふつう,話すときに目指していることはようするに聞き手に何か伝達する

ことだけれど,その伝達しようという意図は意味するという意図と別物なんだ.

意味の意図とは,じぶんの発話が真理条件かなにかの充足条件をもつというも

のだ.

そうしてみると,伝達意図とはなんだろう? この問いに答えるにあたって,

ポール・グライスの着想にちょっと手を加えて借用しよう[37].グライスは的確

にもこう理解していた.ひとに伝達するときに,ある理解を相手につかませよ

うとするじぶんの意図を相手にわかってもらえるなら,まさにその理解が相手

に生じることになって,ぼくらの伝達はうまくいく,と.この点で伝達は人間

の行為のなかでもとりわけ独特で,ある効果をつくりだそうというじぶんの意

図を相手にわからせてしまえば,まさにその意図された効果を生み出せる.こ

れは人間の行為全般にはあてはまらない.かならずしも,じぶんがあることを

しようとしてるんだと他人にわからせるだけでその行為に成功してしまう,と

はかぎらないんだ.たとえば,競争に勝とうとか合衆国大統領になろうという

ときに,ぼくのそういう意図がみんなにわかってもらえたら〔それだけで〕競

争に勝てたり大統領になれたりする,なんてことはありっこない.ところが,

雨が降っていると誰かに伝える場合だと,相手が次のことさえ認識してくれた

らすぐさま達成できる:〔1つは〕ぼくが何かを伝えようとしているということ,

そして,〔もう1つは〕その伝えようとしているのが正確にどんなことかという

37 Paul Grice, “Meaning”,Philosophical Review (July 1957): 377-88.

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こと.たとえば,雨が降っていると相手に伝えようとしているぼくの意図が相

手に理解させるだけで,雨が降っていると伝えられる.

どうしてこれがうまくいくんだろう? 伝達しようと意図するとき,ぼくは理

解をつくりだそうと意図している.ところで,その理解は,相手がぼくの意味

するところをつかむことで成り立つ.だから,伝達しようとする意図とは,つ

まり聞き手がぼくの意味するところを認識する──ぼくのことをわかってくれ

る──のを意図することだ.“Es regnet”と言う・そのことを意味する・雨が

降っていると相手に伝達するよう意図する──これらのこと全体は,ようする

に,意味しようとする意図を聞き手が認識するよう意図することだ.伝達意図

はどういう意図かというと,ぼくの意味するところを相手に知らせようとする

意図を相手に認識させることによって,その知識を聞き手のうちに産み出そう

というものだ.だから,一連のステップをふんで“Es regnet”と発話するとき,

ぼくの話者意味と伝達意図はようするにこうなる:ぼくがこの文“Es regnet”

を発話するときにともなう意図は,

1. 規約的な意味をもったドイツ語の文をぼくは正しく発話する;

2. ぼくの発話には充足条件がある.つまり,雨が降っているという真理条件

がある;

3. 意図2を聞き手が認識し,しかも,聞き手が意図2を認識するのは意図1

の認識とドイツ語の規約についての知識によってである.

もし聞き手が意図1・2を認識すれば,意図3が達成されたことになる.つ

まり,もし,聞き手がその言語を知っていて,その言語の文をつくりだそうと

するぼくの意図〔意図1〕を理解し,しかもぼくはたんに文を発話しているだ

けでなく言ったことをぼくが意味している〔意図2〕のだと認識するなら,雨

が降っていると聞き手に伝達すること〔意図3〕に成功したことになるだろう.

ここで注意.この分析は,ぼくが真理を述べているかウソをついているかと

いう問題,誠実か不誠実かという問題とは独立だ.べつにウソをついていたっ

て,雨が降っているという言明は成功する.ここでのカギはこうだ:もしウソ

をついているとしても,なにかを言ってしかもそのことを意味していれば,そ

の言ったことが真であることにぼくはコミットしていることになる.だから,

言ったことがマチガイだとじつは信じていても,本当だという方にコミットす

ることもできるんだ.

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言語行為の諸型

Various Types of Speech Acts

ここまでに提示してきた言語分析では言語行為が基本単位になっている.この

章の前半で言語行為の例をいくつかだしてきた:言明,命令,約束,などなど.

ところで,そうしてみるとこんな疑問が湧く.言語行為にはいくつの型 typeが

あるんだろう? 充足条件にかぶせる充足条件には何種類あるんだろう? 言語

には無数に多様な用法がある.冗談を言ったり,物語を語ったり,やりかたを

指示したり,レシピを教えたり,ややこしい科学的説明だの数学の定式だのを

つくったり,詩とか小説を書いたり,いろんなことができる.ところが,ぼく

にはこう思えるんだ:ことを発語内行為にしぼってみると,ぼくらにできるこ

との数は限られている.なぜかというと,すでにみたように,発語内行為の構

造は F(p) ──F は発語内効力を表し p は命題内容を表す──なのだから,いま

の問い「発語内行為にはいくつの型があるのだろうか」は,「F にはいくつの

型があるんだろうか」という問いと同じなんだ.命題内容は無限に多様であり

うるけれど,ここはいわば〔F と p とを〕因数分解してやればいい.なぜなら,

すでにみたように,同じ命題内容が異なった型の発語内行為に生じうるからだ.

これで,問いはもっと狭く「F にはいくつの型があるんだろうか?」になった.

〔ところが,そうすると〕こんなふうに思えてしまうかもしれない──発語内行

為を名づけているいろんな動詞に着目すればいずれ問いに答えられるんじゃな

いか,と.英語〔日本語〕だと,state〔言明する〕,promise〔約束する〕,plead

〔懇願する〕,pray〔祈る〕,contract〔契約する〕,guarantee〔請合う〕,apologize

〔謝る〕,complain〔ぐちる〕のような動詞がそれだ.だけど,実際にやって

みたら,気が遠くなるほどいろんな動詞がでてきて,まるで発語内行為には無

数に多様な型があるような気がしてくるだろう.

この問題を乗り越えるには,特定の共通した特性に注目してみるのが1つの

手だ.これには,「発語内目的 illocutionary point」という考えを導入する必要が

ある.ある言語行為の発語内目的とは,行為の型によってきまる行為の目的も

しくは目標のことだ.それで,たとえばひとが命令するときの理由はさまざま

に異なっているし,急いでいる度合いもいろいろではあるけれど,正しく命令

として記述されるようなものであるかぎりは,まさに命令であることによって,

聞き手になにかをさせる試み attemptとして成り立つ counts as.約束をする場合

でも,約束する理由はひとそれぞれだし,その〔約束の義務の〕強さにもいろ

んな度合いがある.けれど,約束であるからには,まさに約束であるゆえに,

聞き手のために何かをしてあげるという話し手の義務にコミットする──義務

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を引き受ける──こととして成り立つ.注意深い読者が気づいているとおり,

第 5 章で使いまくった「として成り立つ」という例の言い回しが,今度は発語

内行為の議論に出て来ている.これは偶然ではない.発語内目的という考えは,

言語行為の構成的規則によってある発話がどういうものとして成り立つかを捉

えるものなんだ.だから,発語内行為を遂行することは,あるタイプの地位機

能 status function を課すことだ.

さらには,ある言語行為の発語内目的は第4章で説明した志向性の理論に関

連する.発語内目的は,次の2つをともに決定する.〔①〕適合方向と〔②〕そ

の言語行為を遂行するときに表出される志向的状態とだ.だから,たとえば約

束する場合,その約束したことをするという意図を必ず表出することになる.

きみのパーティに出るよって約束したら,パーティに出るという意図をぼくは

必ず表出してしまう.つまり,言語行為と同じ命題内容をともなった志向的状

態をぼくは表出するわけだ.しかもその志向的状態──パーティに出るという意

図──は,その言語行為にかかる誠実性条件だ.ということは,要約すると,

発語内目的という考えには自動的にもれなくついてくるものとして,〔①〕適合

方向という考えと〔②〕言語行為の誠実性条件をなしている志向的状態という

考えの2つがあるわけだ.

ここで話をもとに戻して,ぼくらの問いを言い直そう.「F にはいくつの型が

あるのだろう,つまり,発語内行為にはいくつの型があるのだろう?」をさら

に限定すると「発語内目的にはいくつの型があるんだろう?」という問いにで

きる.発語内目的という考え,それと,それが含意している誠実性条件と適合

方向という考え.これらをぼくらの分析ツールとしてうけとるなら,こういう

ことになるとぼくには思える:発語内行為を遂行することでできること〔=発

語内目的〕の数は限られているし,それらは心の構造で決定される.こう言っ

てもいい.充足条件にさらに充足条件を課すことで心が意味をつくりだしてい

るからには,その心の限界しだいで意味の限界も決まる.では,その限界とは

何だろう?

発語内行為には,5つの,きっかり5つの型がある:

1.第一に,確言型 assertiveの発語内行為がある.確言型言語行為の目的は,

その命題が真であることに聞き手をコミットさせることだ.ここで命題は世界

内の事態を表象しているものとして提示される.いくつか例を挙げると,言明・

記述・分類・説明がある.確言型にはぜんぶコトバから世界への適合方向があ

る.また,確言型の誠実性条件はつねに信念だ.どの確言型〔の発語内行為〕

も信念を表出する.確言型かどうか同定するいちばん単純なテストは,その発

話が字義どおりに真か偽になりうるかどうかを問うことだ.確言型はコトバか

ら世界への適合方向をもっているから,真か偽でありうる.

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2.第二の発語内目的は指示型 directive だ.指示型の発語内目的は,その命

題内容に一致するように聞き手に振舞わせることだ.指示型の例には,命令・

指令・要請がある.その適合方向はつねに世界からコトバへ向かい,表出され

る心理的な誠実性条件はつねに欲求だ.どの指示型も,その指示された行為を

聞き手がするという欲求を表出する.命令や要請といった指示型は,真や偽と

なりえない.ただ,従われたり・背かれたり・応じられたり・聞き入れられた

り・拒否されたりは,されうる.

3.第三の発語内目的は,拘束型 commissiveだ.どの拘束型も,命題内容が

表す一連の行為に責任もって着手することへの話し手のコミットメントだ.拘

束型の例には,約束・誓い・公約・契約・保証がある.脅迫も拘束型の1つだ

けれど,他とちがって,聞き手にとっての利益に反しているし聞き手のためで

もない.拘束型の適合方向はつねに世界からコトバへ向かい,表出される誠実

性条件はつねに意図だ.たとえばどの約束や脅迫も,何かをするという意図を

表出する.約束や誓いは,〔指示型の〕命令や指令と同じく真や偽でありえない.

そのかわり実行されたり・守られたり・破られたりされうる.

4.発語内目的の第四の型は,表出型 expressive だ.表出型の発語内目的は,

たんにその言語行為の誠実性条件を表出することにある.表出型の例には,謝

罪・感謝・祝い・歓迎・追悼がある.表出型の場合,典型に関しては,その命

題内容はゼロの適合方向をもつ.なぜなら,命題内容が真だということがたん

に当然視されているからだ.もしぼくが「きみのこと殴ったのを謝るよ I

apologize for hitting you」とか「受賞おめでとう Congratulations on winning

the prize」と言えば,ゲンコツや受賞はぼくによって当然視されている.だか

らぼくは命題内容と現実との一致を前もって決めてかかっている.つまりその

ことを前提 presupposeしているわけだ.ただし,誠実性条件の方は表出型それぞ

れに異なる.たとえば,謝罪が誠実なのは,謝罪していることがらについて話

し手が本当にすまないと感じているときにかぎられる.お祝いが誠実なのは,

話し手が聞き手を祝っていることがらについて喜ばしく感じているときにかぎ

られる.

5.発語内行為の最後の型は,宣言 declarations の型だ.宣言の場合,発語

内目的は,世界が変化したと表象することで世界を変化させることにある.遂

行発話 performativesは,他の宣言型と同じく,ある事態が生じたと表象すること

によってその事態を生じさせる[38].おなじみの例としては,「汝らは夫婦とな

った I pronounce you man and wife」,「ここに宣戦布告する war is hereby

38 【訳註】遂行発話とは,特定の発語内行為を名づける動詞(遂行動詞)の現在時

制形式を主節に用いた文の発話をいう.たとえば,I PROMISE you that S や I TELL you that S がこれにあたる.

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declared」「お前はクビだ You are fired」,「辞任します I resign」がある.こ

うした事例には二重の適合方向がある.というのも,まず世界を変えるから世

界からコトバへの適合方向があるし,また,そのときに世界が変化したと表象

するからコトバから世界への適合方向もある.宣言型が他の言語行為のなかで

も独特なのは,この言語行為の首尾よい遂行だけでじっさいに世界に変化が引

き起こされるところだ.いったんぼくが首尾よく二人は夫婦だと宣告したり宣

戦布告したりすれば,いままで存在していなかったそうした事態が世界の中に

存在しはじめる.一般に,そうした宣言が可能なのは,第5章で述べたたぐい

の言語外の制度が存在しているかぎりのことだ.

宣言以外の約束や命令といった言語行為をじぶんは遂行しているのだとただ

宣言するだけでそれを遂行できることに注目.たとえば,「きみに会いに来るっ

て約束するよ I promise to come and see you」という遂行発話において,話

し手はまず宣言を遂行する.じぶんは約束しているというその宣言によって,

約束するわけだ.しかしながら,まさにこの事実によって,彼の発話は約束を

うみだしてしまう.彼が「約束する」と言うことでこれが表している事態──

話し手が約束しているという事態──がうまれ,これが確言と約束をともに構成

し,結果として約束となる.だから,ここには発語内目的の3つの型があるわ

けだ──宣言・拘束・確言の3つが.

言語行為の全部が全部,意図された話者意味を字義どおりに表す文を発話し

て遂行されるわけではない.塩をわたすようひとに頼むとき,べつに「塩をわ

たすようお願いします」とか「塩をわたして」と字義どおりに言ってもいいけ

れど,ふつうは「塩をとってもらえるかな Can you pass the salt?」とか「お塩

をとってもらえますか Could you pass the salt?」とか「塩がほしいのですが

I would like the salt」とか「お塩をとってくださいますかWould you pass the

salt?」とか「塩に手はとどきますか Can you reach the salt?」と言うものだ.

こういう事例では,別の言語行為が遂行されることによって間接的に言語行為

が遂行されている.それでこれらは「間接言語行為 indirect speech act」とよ

ばれている.このように文の意味が体系的に意図的な話者意味と異なる事例に

は,他にも隠喩・換喩・反語・揶揄・誇張・謙遜 understatementといった種類が

ある.

発語内行為のすべての型は,志向性の議論ですでに予示されていた.志向性

の限界が意味の限界で,これは,言語でやれることの数は限られているという

ぼくらの志向性の分析から帰結する.ぼくらの志向性の分析では,適合方向は

3つしかない:〔①〕確言に特徴的な心から世界への方向,〔②〕指示型と拘束

型に特徴的な世界から心への方向,〔③〕表出型に特徴的なゼロ方向.だったら

どうして世界からコトバへの適合方向ではひとつの適合方向に2つの異なった

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型の言語行為があるんだろう? 約束と命令をまとめてひとつにできそうなも

のだ.〔それにはたとえば〕約束はじぶん自身への命令と考えたり,命令を聞き手

に課せられた約束と考えてもいいのではないだろうか.だけど,拘束型におい

て話し手が引き受ける義務はとても特別だし,また,話し手と聞き手は一般に

言語行為状況の全体においてとても重要なので,聞き手に基づく世界からコト

バへの適合方向と話し手に基づく世界からコトバへの適合方向を区別するほう

が便利だ.また,人間の心が単独ではもっていない可能性が言語によってひら

かれる.それは,宣言の遂行において2つの適合方向を組み合わせる可能性だ.

考えるだけでは事態は産み出されえない.ところが,前章での制度的現実にか

んする分析をふまえると,遂行発話をもちいて制度的現実をつくりだすことは

どうして可能なのかわかる.ぼくらは,ある事態がすでにうみだされたと表象

することによって,その事態をつくりだせる.このときコトバから世界への適

合方向と世界からコトバへの適合方向とが結合される.たとえば,会議の司会

が「会議を休止します the meeting is adjourned」と言えば,会議が休止にな

ったのが真だと表象することでこの発話は会議が休止された事態をうみだして

しまう.さらにものものしいものだと,議会が宣戦布告する場合,戦争が存在

するとたんに言うだけで〔布告の〕文章は戦争状態をつくってしまう.

このように,的確に理解されるなら,志向性についてのぼくらの分析は言語

の可能性と限界とを示すものだとぼくは信じる.

構成的規則と記号主義

Constitutive Rules and Symbolism

ここまでのところ,あたかも志向性と言語とが別々のことであるかのようにぼ

くは語ってきたけれど,もちろん現実の人間にかんするかぎり,言語を獲得す

ることでぼくらの志向性の可能性はとてつもなく拡張される.動物や前言語的

な子供にも志向性の原初的な形式ならもちうる.彼らも信念・欲求・知覚・意

図ならもちうる.だけど,ひとたび子供が言語を習得すると彼の志向性の能力

はとてつもなく向上し,一種のブートストラップ効果で,向上した志向性によ

って言語の理解も向上する.これによって志向性が〔さらにまた〕向上する.

子供の心理言語学的な発達にかんするどんな教科書もこの現象示している.じ

つのところ,一方に心があって他方に言語があるというのではなくて,心と言

語はたがいに高めあい,成人について言えば,やがて心が言語的に構造化され

るにいたる.

まず思考があって次に話し手はそれをコトバにこめるのだ,なんていう思い

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込みはよくない.それではあまりに単純化しすぎなんだ.よほど単純な思考を

のぞいて,ものを考えるうえで言語はかかせない.コトバがなくても,雨が降

っている,とか,お腹すいた,と信じることはできる.だけど今年よりも来年

はずっと雨がよく降るだろう,とか,飢えた感じがしているのはべつに体内に

食べ物がないわけじゃなくて砂糖が欠乏してるせいだな,というようなことを

信じるためには,コトバかコトバと同等の記号的な装置をつかって考えないと

ムリだ.子供の考える能力と話す能力は,足並みをそろえて発達する.どんな

ふうに? 子供はまず前言語的な単純な志向性から出発する.次いで,単純な語

彙が学習されて,もっと豊かな志向性がもたらされる.するとさらに豊かな語

彙が使えるようになって,さらに豊かな志向性が可能となって──というよう

なブートストラップの過程が続く.ごく単純な思考をのぞいて,子供は考える

ために言語を必要とする.また,ごく単純なものをのぞいて言語行為を遂行す

るうえで,子供は,規約的な文意味をもった文をそなえた規約的言語を必要と

する.

コトバに規約的意味を担わせるのも,言語行為の遂行において話者意味を〔発

話に〕担わせるのも,前章で説明したイミにおいて地位機能 status function を担

わせている.〔つまり〕コトバの意味でも話者意味でも,言語使用者は何らかの

物理現象にある機能を担わせているんだ.その物理的現象はコトバだったり音

響だったりする.このように地位機能 が〔物理現象に〕課されるとき,言語使

用者は「C において X は Y として成り立つ X counts Y in C」の式にしたがって

いる.「雨が降っている」という文をなしている語の規約的意味も地位機能 の

事例だし,また,特定の状況でこの文を発話して雨が降っていると話し手が意

味する話者意味の場合も地位機能の事例だ.

言語もまた制度的事実の問題だというこの事実は,あたかも言語はたんに人

間の制度のひとつにすぎないかのように聞こえることだろう.ところが言語は

特別で,これには説明が要る.あとで説明すると第5章の最後でぼくが約束し

たのは,制度的事実の構成において言語は特別な役割をもっているということ

だった.ぼくの信じるところでは,言語こそ根底的な人間の制度だ.どういう

ことかというと,〔一方で〕貨幣・政府・私有財産・婚姻・ゲームといった言語

以外の制度には言語が必要──少なくとも言語に似た記号体系が必要──だけ

れど,〔他方で〕言語が存立するためには他の制度が必要とされないんだ.

言語にはたくさんの特性があるけれど,法助動詞があったり[39] 統語部門に

39 【訳註】もちろん法助動詞という文法的な形式のない言語もある.ところで,法

助動詞を使うと,たとえば事態の可能性や必然性といったことについても語れる.

だから,ここでサールが言語の特性として考えているのは法助動詞そのものではな

く,可能性について語りうるということの方だろう.

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無限の生成力があったりといった特性は,いまぼくが論じている現象ではない.

いま論じているのは言語のとても特殊な特徴で,これをぼくは「記号化

symbolization」とよんでいる.あるモノを使ってなにかべつのものごとを象徴

する・表象する・表出する・記号化するという能力が人間にはある.言語のも

つ記号化の特性,これこそ制度的事実が不可欠の前提としているものだとぼく

はみている.

その主張の論証.地位機能の定義の一部として,モノの物理的特性だけでは

地位機能は遂行されえない.ナイフやイスは,それぞれの物理的特性によって

物理的機能を遂行できる.だけど,ひとや紙切れが大統領や紙幣の機能を遂行

するには,身体や紙の物理的特性だけではムリだ.地位機能を遂行するには,

あるものがしかじかの地位機能をもっていると集合的にみなすこと・認識する

ことが欠かせない.だけど,もうそうだとすると,その集合的な承認や認識に

かかわっている行為主体たちには,そのモノがその位機能 をもっているとみず

からに表象してみせる方法がないといけない.どうしてかって? なぜなら,X

の物理特性からYという地位機能を読み出す手立てはないからだ.ナイフやイ

スだったら,その〔ものを切ったり座ったりという〕機能を遂行するための性質

が物理特性に備わっている.ところが貨幣や大統領の場合となると,モノXに

あるのはたかだか当のモノXとしての特性だけだ〔から,Xの物理特性からYの

機能は得られない〕.地位機能Yにたどりつくただひとつの途は,そのモノXが

その地位をもっていると表象することなんだ.

典型について言えば,ぼくらはコトバで地位機能を表象する.「これはお金だ」

とか「彼は大統領だ」と考えられないといけない.でも,まさかあらゆる地位

機能を表象するのにじっさいの言語のじっさいのコトバをつかわないといけな

いとは言わなくていいだろう.なぜなら,当然だけど有意味なコトバというの

はそれじたいが地位機能をもったモノだからだ.すると,コトバが意味をもつ

ために,このコトバにはしかじかの意味があるということじたいを表象するの

に別のコトバをもってこなくてもいいようにする必要がある.そうでないと,

ひどい無限背進におちいってしまう.さらに言うと,じゅうぶんに発達した人

間言語をもっていない文化にだって共有された地位機能があってもおかしくな

い.そういう場合は,地位Yを記号化するのにX項じたいがもちいられる.こ

このところが肝心な点で,X項をもちいて地位Yを表象する限りにおいて,ぼ

くらはX項を記号的に使っていることになる.つまり,そのX項を言語的な装

置として使っていることになる.

たとえば,境界線として機能する石ころの列を考えてみよう.この石ころの

列は境界線の指標的 indexicalな記号だ.「指標的」でぼくが意味しているのは,

まさしく石ころの列が現れていることによって石ころの列が当の特性〔境界線〕

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を表象しているということだ.石ころの列は,その境界線上にあることで境界

線を表している.〔つまり,このとき〕石ころの列が境界線という地位機能を象

徴・表象しているから,石ころの列は言語的な装置として機能しているんだ.

このことと類比的に,コトバは,その意味を表すことによって,意味するとい

う機能を遂行する.

ここで,ぼくが言っていることと言ってないこととを,ぜひとも完璧にはっ

きりさせておきたい.文や言語行為が有意味になるのと同じ要領ですべての制

度的現実はともあれテクスト的 textualまたは有意味なのだなんて,ぼくは言っ..

ていない....

.そんなのはマチガイだろう.文や言語行為が有意味だというのは,

意味論を有しているという厳密なイミでのことだ.これらには真理条件その他

の充足条件がある.さっきみたように,言語行為の場合,意味は充足条件に充

足条件をかぶせることの問題だ.でも,貨幣や大統領はそういうふうに有意味

なわけではない.というのも,それじたいでは充足条件をもっていないからだ.

厳密な意味でいうと,志向的な意義は,文や言語行為とともに地図や図表とい

った特定の種類の制度的装置がもっている特別な特性だ.

じっさいにぼくが言っているのはこういうことだ:X項の物理特性そのもの

には地位機能がない以上,地位機能をX項に課すということは,本質において,

記号化するということだ.X項が Y 地位 を産み出せるのは,そのX項にその

地位機能があるとぼくらが表象できるときだけに限られる.

制度的現実を作動させるさいに言語がはたしているもうひとつの役割につい

て言っておいたほうがいいだろう.あるモノじたい〔e.g.太郎〕に地位機能〔e.g.

警官〕がみてとれなくてもその地位があるのがみんなに認識できるようにする

ために,なんらかの装置〔e.g.警官の制服〕が必要になることがよくある.そう

した目的には「地位標示 status indicator」とぼくがよぶものが使われている.わ

かりやすい例だと,結婚指輪・制服・バッジ・パスポート・運転免許証がそう

だ.これらのなかにはべつにコトバを使わないものもあるけれど,全て言語的

なものだ.これらはみんな充足条件をもっているから,さっき説明したイミで

言語行為だ.〔たとえば〕結婚指輪をはめていたり警官の制服を着ていたりする

のは,「わたしは結婚しています」とか「ぼくは警察の一員です」と述べるたえ

まない言語行為なんだ.

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心 言語

社会