メンデレーエフの元素周期表誕生150年 - jst

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講座 特別企画:国際周期表年 2019(周期表 150 年) 262 化学と教育 67 6 号(2019 年) 1 水素は H 2 ,酸素は O 2 のように「2 原子分子」の形で表 すことは,今では中学校からの化学で教わるが,この表現 法を考えたのはイタリアの物理学者アメディオ・アヴォガ ドロ(Amedeo Carlo Avogadro,1776~1856)であった。 このため,水素と酸素が反応して水ができる反応は,2H 2 +O 2 → 2H 2 O と書かれるようになった。しかし,アヴォ ガドロの法則 *1 でもよく知られるアヴォガドロのこの考 え方は,その後忘れ去られてしまった。その眠りを覚ま し,再評価したのはイタリアの有機化学者スタニズラオ・ カニッツァーロ(Stanislao Cannizzaro,1826~1910)で あった。彼は 1860 年にドイツのカールスルーエで開催さ れた国際化学者会議で,水素や酸素は「2 原子分子」で表 現しようと語り,当時研究者によりばらばらであった「原 子量」の求め方を統一して整理しようと提案した。その国 際会議に出席し,カニッツアーロの講演を聴き感動したロ シアからの留学生であったドミトリ・イヴァノヴィチ・メ ン デ レ ー エ フ(Dmitri Ivanovich Mendeleev,1834~ 1907)(1)は,帰国後,元素の新しい整理法「周期 律」 *2 を 1869 年 2 月 17 日(現行の太陽暦では 3 月 1 日) に発見し,それに基づいた「元素周期表」を 3 月 6 日(太 陽暦では 3 月 18 日)にロシア化学会で発表した。さらに, 彼は当時未発見の元素の存在とそれらの化学的性質を予言 して書き加えた。しばらくして,そのうちの 3 元素が自然 界から発見され,原子量や化学的性質がほぼ一致したため 「元素周期表」は世界的に認められるようになった 1~4) 2019 年は「周期律」と「元素周期表」の誕生から 150 年 を迎える記念の年にあたり,IUPAC では「国際周期表年 2019」として,各地で記念のイベントなどが開催されてい 4) 2 メンデレーエフの生涯 メンデレーエフは,官僚制と農奴制を基盤としたロシア のロマノフ朝(1613~1917)第 15 代ニコライ 1 世の時代 の西シベリアのトボリスクで,14 人の子どもの末っ子と して 1834 年に生まれた。トボリスク中学校を卒業すると, 高等教育を受けさせたい母の強い願いにより 16 歳でペテ ルブルク高等師範学校に入学した。しかし,母はその後す ぐに亡くなった。メンデレーエフは,母の遺言「幻想に囚 われてはいけない。頼るべきものは実行である。ひたすら に求むべきは神と真理の知慧であり,いつもそれを望むが よい。」 1) を座右の銘として,これを生涯忘れることはな かったという。メンデレーエフの真実を求める心は,この 頃形成されたようである。 卒業後,教師や講師を勤めた。18 世紀以後,ロマノフ 2019 年は,ロシアの化学者メンデレーエフがはじめて「周期律」を発見し,「元素周期表」を発表した 1869 年から数えて 150 を迎える記念の年である。わずか 1 枚の紙に収まる元素周期表は,今や私たちの生活にとけ込み,物理,化学,生命,産業や日々の 生活を考える科学のバイブルとなっている。18 世紀のはじめから,多くの元素の発見や性質の解明にはヨーロッパを中心とする科学 者が貢献してきた歴史があった。しかし,元素を合理的に整理し理解できる組織図は,ヨーロッパ近代科学を目指すロシアの化学者 により達成されたことは驚異的なことと思われる。その不思議はどこにあったのであろうか?「元素周期表」誕生 150 年を記念し て,メンデレーエフの天才の秘密と努力,そして周期表を不滅とした人々の英知の成果を紹介する。 メンデレーエフの元素周期表誕生 150 年 SAKURAI Hiromu 桜井  弘 京都薬科大学 名誉教授 1 メンデレーエフ 35 歳 最初の周期表を構成したころ 〔島尾 永康「ドミートリー・イヴァノヴィチ・メンデレーエ フ」和光純薬時報 vol. 76, No. 2, p. 24(2008)より〕

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講 座

講座 特別企画:国際周期表年2019(周期表150年)

262 化学と教育 67巻 6号(2019年)

1 は じ め に

 水素はH 2,酸素はO 2 のように「2原子分子」の形で表すことは,今では中学校からの化学で教わるが,この表現法を考えたのはイタリアの物理学者アメディオ・アヴォガドロ(Amedeo Carlo Avogadro,1776~1856)であった。このため,水素と酸素が反応して水ができる反応は,2H 2+O 2 → 2H 2O と書かれるようになった。しかし,アヴォガドロの法則 *1 でもよく知られるアヴォガドロのこの考え方は,その後忘れ去られてしまった。その眠りを覚まし,再評価したのはイタリアの有機化学者スタニズラオ・カニッツァーロ(Stanislao Cannizzaro,1826~1910)であった。彼は 1860 年にドイツのカールスルーエで開催された国際化学者会議で,水素や酸素は「2原子分子」で表現しようと語り,当時研究者によりばらばらであった「原子量」の求め方を統一して整理しようと提案した。その国際会議に出席し,カニッツアーロの講演を聴き感動したロシアからの留学生であったドミトリ・イヴァノヴィチ・メン デ レ ー エ フ(Dmitri Ivanovich Mendeleev,1834~1907)(図 1)は,帰国後,元素の新しい整理法「周期律」 *2 を 1869 年 2 月 17 日(現行の太陽暦では 3 月 1 日)に発見し,それに基づいた「元素周期表」を 3月 6日(太陽暦では 3月 18 日)にロシア化学会で発表した。さらに,彼は当時未発見の元素の存在とそれらの化学的性質を予言して書き加えた。しばらくして,そのうちの 3元素が自然界から発見され,原子量や化学的性質がほぼ一致したため「元素周期表」は世界的に認められるようになった 1~4)。2019 年は「周期律」と「元素周期表」の誕生から 150 年を迎える記念の年にあたり,IUPACでは「国際周期表年2019」として,各地で記念のイベントなどが開催されている 4)。

2 メンデレーエフの生涯

 メンデレーエフは,官僚制と農奴制を基盤としたロシアのロマノフ朝(1613~1917)第 15 代ニコライ 1世の時代の西シベリアのトボリスクで,14 人の子どもの末っ子として 1834 年に生まれた。トボリスク中学校を卒業すると,高等教育を受けさせたい母の強い願いにより 16 歳でペテルブルク高等師範学校に入学した。しかし,母はその後すぐに亡くなった。メンデレーエフは,母の遺言「幻想に囚われてはいけない。頼るべきものは実行である。ひたすらに求むべきは神と真理の知慧であり,いつもそれを望むがよい。」 1)を座右の銘として,これを生涯忘れることはなかったという。メンデレーエフの真実を求める心は,この頃形成されたようである。 卒業後,教師や講師を勤めた。18 世紀以後,ロマノフ

 2019年は,ロシアの化学者メンデレーエフがはじめて「周期律」を発見し,「元素周期表」を発表した 1869年から数えて 150年を迎える記念の年である。わずか 1枚の紙に収まる元素周期表は,今や私たちの生活にとけ込み,物理,化学,生命,産業や日々の生活を考える科学のバイブルとなっている。18世紀のはじめから,多くの元素の発見や性質の解明にはヨーロッパを中心とする科学者が貢献してきた歴史があった。しかし,元素を合理的に整理し理解できる組織図は,ヨーロッパ近代科学を目指すロシアの化学者により達成されたことは驚異的なことと思われる。その不思議はどこにあったのであろうか?「元素周期表」誕生 150年を記念して,メンデレーエフの天才の秘密と努力,そして周期表を不滅とした人々の英知の成果を紹介する。

メンデレーエフの元素周期表誕生150年SAKURAI Hiromu

桜井  弘京都薬科大学 名誉教授

図 1 メンデレーエフ 35 歳 最初の周期表を構成したころ〔島尾 永康「ドミートリー・イヴァノヴィチ・メンデレーエフ」和光純薬時報 vol. 76, No. 2, p. 24(2008)より〕

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講座

263化学と教育 67巻 6号(2019年)

朝が近代化政策を進める中,外国旅行の制限が解除され,メンデレーエフは 1859 年から 2年間ヨーロッパ留学の機会を得て,パリ(ルーニョの研究室)とハイデルベルク(ブンゼンの研究室)で近代化学を学んだ。帰国後しばらくして,1867 年にペテルブルク大学の化学教授に就任し,「一般化学」を 23 年間教授した。就任した翌年から『化学の原理』を執筆しはじめ,元素の整理法を考えた。1869年,35 歳で「周期律」を発見し,「周期表」を発表した。その中で予言した未知元素の存在と化学特性が的中して,周期表はまたたくまに世界中に知られる存在となった。1882 年には英国王立協会から,デービーメダルを授与されたが,1890 年の学生運動に連座して大学を辞職した。メンデレーエフはこれまで,技術百科事典の出版,コーカサスやドネツの油田の調査や気球観測など産業などにも貢献してきたため,1893 年には度量衡管理局所長に就任した。メートル法導入などロシアの単位問題の解決などに努め,14 年間勤めた。革命の足音が聞こえ始める 18 代ニコライ 2世の時代の 1907 年に 72 年の生涯を閉じた(図 2)。亡くなる前年には,ノーベル賞候補に挙げられたが,残念にも受賞できなかった 1-4)。

3 化学と天賦

 メンデレーエフが学んだ高等師範学校の理学部は数理学科と博物学科にわかれていた。メンデレーエフは化学に興味を持っていたが,博物学科に進学し,動物学を学び,ペテルブルク県のげっ歯類(ネズミ,ウサギ,リスなど)の調査を行い,高く評価された。その後,鉱物学と化学の教授の指導を受け,鉱物分析に取り組んだ。メンデレーエフが発表した最初の学術論文は,「フィンランド産褐簾石 *3

の化学分析」(1854 年)(図 3)であった。続いて,「輝石の化学分析」も発表した。鉱物の化学分析に関するこの 2論文と卒業研究では鉱物分析の発展として鉱物結晶の同形現象について研究した。これらの取り組みにより,メンデレーエフは化学を専攻することを決定的にしたと,梶 雅

範は述べている 2)。 さらにこのころ「広範な分野の知識を把握し,統一する能力を身につけ,思考を急激に飛躍させ,無関係に思われる事実と理念とを不意に近づける能力を獲得した」とメンデレーエフの教え子チュガーエフは天才の秘密を回想している 1)。こうして,メンデレーエフの周期表創生への道は,高等師範学校時代にすでに芽生えていた。

4 元素周期表創生への道

4.1  周期律の発見 1867 年にペテルブルク大学の化学の教授に就任したメンデレーエフは,一般化学の教科書『化学の原理』を執筆しはじめ,当時知られていた 63 元素の整理法に取りかかった。そのきっかけをメンデレーエフは次のように語っている 1)。「周期律についての私の思考を発展させるのに決定的瞬間を与えたのは,1860 年のカールスルーエ国際化学者会議とその席でイタリアの化学者カニッツァーロによって原子量が明確にされたことで,これが研究上の支点となった。その意味で彼はまさしく私の先駆者であると思う。彼が提言した原子量の変化は…新しい調和をもたらすもので,原子量がふえると元素の性質が周期的に変わるという考えが,当時すでに私の脳裏に浮かんできたのである。そしてこの方向に研究を進めなくてはならないと確信した。」 発見された元素を合理的に整理して理解を深めようとする試みは,すでに 19 世紀の初めから始まっていた。1817年ころドイツの化学者ヴォルフガング・デーベラーナー(1780~1849)は「三つ組元素」説 *4,1862 年にはフランスの地質学者エミール・ペギエ・ド・シャンクルトア(1820~1886)が「地のらせん」説 *5,1863 年にはイギリスの分析化学者ジョン・ニューランズ(1837~1898)が「オクターブ則」説 *6,1864~1869 年にはアメリカのグスタフ・ヒンリスク(1836~1923)が 11 本の放射状の線か

図 2 メンデレーエフの生涯

図 3 メンデレーエフを化学へと導いた褐簾石(産地 Arendal, Aust-Agder, Norway)

(京都大学総合博物館所蔵,写真提供 白勢 洋平 博士)

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講座 特別企画:国際周期表年2019(周期表150年)

264 化学と教育 67巻 6号(2019年)

らなる「元素図」 *7 を,1862~1868 年にはドイツの化学者ユリウス・ロータル・マイヤー(1830~1995)が元素の化学的性質,元素単体の密度,原子の体積や融点などを用いて「元素表」を発表した 1, 3, 4)。 しかしメンデレーエフは,1869 年に「三つ組元素」と「地のらせん」説を重視し,当時知られていた 63 元素を原子量順に,イギリスの化学者エドワード・フランクランド(1825~1899)が提案した原子価を考慮して並べると,一定の周期で配列できるという「周期律」を発見した。周期律にもとづいて周期表を組み立てただけでなく,未発見元素の予言,原子量の修正や元素の配置の改善などを繰り返して決定的な周期表を完成した。1869 年 2 月には,メンデレーエフは 1枚の紙に印刷した「原子量と化学的類似性に基づく元素表試案」を多くの化学者に配布し(図 4),1871 年には論文『化学元素の周期律』をドイツ語で出版した 1-3)。

4.2  周期表の意義 メンデレーエフが 1869 年に周期表を発表したときには,ロシア国内のみならず海外からも,それに疑義を唱える否定的意見が寄せられたが,メンデレーエフは,それらに対して周期表の意義をていねいに語っている。

 「元素表は教育的な意義をもち,またさまざまな事実を整理し,関係づけることによってその研究をたやすくさせるばかりでなく,類似元素を発見して元素研究に新しい道を示すという点で純然たる科学性をもつ。」さらに「いままでわれわれは未知の元素の性質を予言するなんの手がかりももたず,その元素のどれかが足りないか,あるいは存在しないかを推定することもできなかった。」 1)

 メンデレーエフは高等師範学校で学び研究した精神をいつまでも忘れず,周期表の教育的意義,科学性,そして予言可能性を語り,多くの事実の総合と俯瞰的思考により,近代ヨーロッパの科学者たちがなし得なかった挑戦に成功し,世界の歴史を変えたのである。 この功績により,まだノーベル賞がなかった時代の1882 年には,ロンドン王立協会から,デーヴィー賞がメンデレーエフとマイヤーに授与された。

4.3  周期表の評価 メンデレーエフは,周期表に空白を設け,当時まだ未発見の元素 16 個の存在と原子量などを予言したが,そのうちの 9個の元素が発見されている 3)。予言から 20 年もたたない間に,3 元素が発見された(表 1)。メンデレーエフはその喜びを次のように語っている。「1871 年に未発見元素の性質決定に周期律を適用することについて論文を書いたときはその周期律の結果が実証されるまで生きのびることはなかろうと思ったが,実際はそうではなかった。私は論文の中で三つの元素―エカホウ素,エカアルミニウム,エカケイ素―のことを書いておいたが,それからまだ 20年もたたないうちにこの元素が三つとも発見されたのを知ってとてもうれしかった。」 1)

 最初に発見されたのは,エカアルミニウム―ガリウムであった。フランスの化学者ポール・エミール・ルコック・デ・ボアボードランが 1875 年に閃亜鉛鉱から発見した。このとき,メンデレーエフは周期律に基づいて,ボアボードランが最初に報告した元素の密度の誤りを指摘した。ボアボードランは再実験し,自らその値を訂正した。1879年には,スウェーデンの分析学者ラース・フレデリク・ニルソンがガドリン石およびユークセン石から新元素を発見

図 4 メンデレーエフが 1869 年に初めて発表した周期表 現在使われていない元素名Di(ジジミウム)が書かれている。Di は,1885 年に Pr と Ndの混合物であることがわかった。

表 1 メンデレーエフにより予言され発見された元素

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講座

265化学と教育 67巻 6号(2019年)

し,スカンジウムと命名した。ニルソンはメンデレーエフの予言を知らなかったが,ほぼ同時に新元素を発見したペール・テオドール・クレーベがスカンジウムはメンデレーエフの予言したエカホウ素であること明らかにした。続いて,1885 年にドイツのクレメンス・ヴィンクラーが銀鉱石のアージロード鉱からエカケイ素に当たる新元素を発見し,ゲルマニウムと名づけた。 こうして,メンデレーエフが予言した元素の中からガリウム,スカンジウムそしてゲルマニウムが発見され,周期表の価値が国際的に評価されることとなった。 その後,貴ガス元素 *8,レアアース元素 *9 や放射性元素の発見があいつぎ,周期表は一時窮地に追い込まれたが,貴ガス元素には新しい枠を設け,レアアース元素や放射性元素は正確な原子量が決定されるにしたがって表に加えて,周期表の基本的な形を変えることなく発展し続けた。 メンデレーエフは,1902 年に,放射能を発見したアントワーヌ・アンリ・ベクレルと 1898 年にポロニウムとラジウムの 2個の放射性元素を「ピッチブレンド」 *10 鉱石から発見したピエールとマリー・キュリー夫妻を訪ね,放射線元素の存在を自ら確認して,翌年,周期表を改訂した(図 5)。メンデレーエフの事実に向う誠実さがあらわれている。

 メンデレーエフは,元素にはなぜ周期性があらわれるかについては説明できなかったが,次のような示唆的な言葉

を残している。「単体および重合体の周期的可変性はある高度の法則に従うものであるが,その性質,いわんや原因をつかむ手段はいまのところまだない。それはたしかに原子と粒子内部の内部力学の原則にかくれている。」 1)

 原子構造がまだ解明されていなかった時代に,メンデレーエフは原子の内部の粒子の存在を想像していたようである。

4.4  不滅の周期表 メンデレーエフの没後,アントン・ファン・デン・ブルックによる原子番号の提案,フレデリック・ソディーによる同位体 *11 の発見,ヘンリー・モーズリーによる元素の特性X線の波長と原子番号との関係性の発見(モーズリーの法則) *12,さらにはニールス・ボーアによる水素原子の構造模型などが提案された。その結果,周期表中の元素の原子番号と原子量が逆転する矛盾が解消された。さらに元素の周期性が最外殻電子 *13 の配置により明らかにされ,メンデレーエフの悩みは完全に解決された。 1913 年に提案されたボーアの原子模型や原子発光現象のエネルギー的解釈は,原子の最外殻電子の考え方を導くこととなった。1927 年には,ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンは,水素原子がなぜ水素分子H 2 になるかを考え,2個の水素原子核が最外殻の 2個の電子を共有することにより安定的に結合できると結論した。この共有結合の考え方は,アーヴィン・シュレーディンガーの「分子軌道理論」へと発展した。シュレーディンガーの波動方程式を解いて得られた「原子番号とイオン化エネルギーの相関性」は,元素は周期性をもって周期表に並べられていることを明らかにした 3)。メンデレーエフが悩んできた元素の周期性は物理学的に解決されたのである。 さらに 1930 年に入ると,状況が変化した。アメリカの物理学者アーネスト・ローレンスがサイクロトロン *14 を発明した。これを使って,イタリアのエミリオ・セグレとカルロ・ペリエは,モリブデンに重陽子をぶつけて,メンデレーエフが「エカマンガン」とよんだ 43 番元素「テクネチウム」を合成し,人類初の「元素合成」に成功した。その後,多くの超ウラン元素や超重元素が合成された。101 番元素以後の元素はベータ壊変しないことが分かり発想の転換が求められ,線形加速器 *15 が導入され,新しい元素が合成されていった。 1937 年のテクネチウムの発見にはじまる人工元素の合成研究は約 80 年の歴史を経て,2016 年のニホニウム誕生までに発展し,現在は 118 元素を配置した堂々たる元素周期表が完成している(図 6)。 1955 年に発見された 101 番の人工元素は,メンデレーエフを讃えてメンデレビウム *16 と名づけられ,メンデレーエフの名前は永遠に残されることとなった(図 7)。 今後,元素はさらに合成されていく可能性はあるだろう

図 5 1903 年に改訂された 71 元素を含む周期表図 4のたて型周期表からよこ型に変更された。

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講座 特別企画:国際周期表年2019(周期表150年)

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か?すでに 119 番,120 番元素の合成が試みられている。さらにどれくらいの元素が合成されるかが,フィンランドのペッカ・ピューコックにより計算されている(図 8)。この結果によれば,172 番元素までが合成可能らしい。今後の合成研究の発展が期待される。

5 お わ り に

 元素周期表は,これまで多くの人々に元素を知る楽しさや喜びを与えてきた。そして,多くの人々が周期律と元素周期表を讃える言葉を残している。最後に,そのいくつか

を紹介する。 1930 年,アメリカ化学会長であったウィリアム・マクファーソンは,文学に秀でた学生に化学のコースをとって得る意味をたずねたところ,人生哲学を組み立てるにあたって周期律が大変役立ったと述べた感想を紹介している。「この若者は,宇宙には秩序というものがまったく欠如しているように思って混乱していたのです。ところが彼は周期律を勉強しはじめて宇宙の秩序についての明白な証拠を受け入れるようになったのです。なぜなら,未知元素

図 6 元素周期表の完成史

図 7 メンデレビウム(「一家に 1枚周期表」2019 年第 11 版,文部科学省,化学同人より) 図 8 ピューコックによる 172 番元素までの拡張元素周期表

(羽場宏光,現代化学 2019,575,42 より)

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講座

267化学と教育 67巻 6号(2019年)

の存在だけでなく,未知元素の性質までも予言することができるのは,秩序をもった宇宙以外にはありえないことです」(ウイークス/レスター著 大沼正則監訳『元素発見の歴史 2』,朝倉書店 1989)。 アクチニウムに始まる元素を「アクチノイド系列」と命名し,この系列に属する 9個の人工元素の合成に成功したグレン・シーボーグ(1912~1999)は,1969 年のメンデレーエフ記念大会で,次のように讃えた。「最も深く感動するのは,メンデレーエフが原子構造,同位体,元素順序番号と原子価との関係,原子の電子的性質,原子構造によって決まる化学的性質の周期性のような,いまでは一般に認められた概念を知らないのに,過去百年間科学の多大な成果にもかかわらず目立った変更をいささかも受けなかった元素周期表をつくることができた,ということである」 1)。 神経内科医であり,映画「レナードの朝」の原作者でもあるオリバー・サックス(1933~2015)は,『タングステンおじさん 化学と過ごした私の少年時代』で周期表をまるで化学の花園と讃えた。「周期表はまるで庭のようで,子どものころ夢中になった“数の花園”を彷彿とさせた。けれども数の花園と違い,それは実在し,世界を読み解く鍵になっていた。私は陶然としながら,何時間もこの素敵なメンデレーエフの花園をさまよい,いろいろなものを見つけ出した」(斉藤隆央訳,早川書房 2003)。 イタリアの化学者・作家であり,小説『これが人間か』でよく知られているプリーモ・ミケーレ・レーヴィ(1919~1987)は,『周期律―元素追想』で,周期表は韻をふむ一篇の詩としてとらえた。「物質に打ち勝つとは,それを理解することであり,物質を理解するには宇宙や我々自身を理解する必要がある。だから,この頃に,骨を折りながら解明しつつあったメンデレーエフの周期表こそが一篇の詩であり,高校で飲み込んできたいかなる詩よりも壮重で高貴なのだった。それによく考えてみれば,韻すら踏んでいたのだ」(竹山博英訳,工作舎,1992)。 周期表は,チャールズ・ロバート・ダーウィンによる「進化論」とアルベルト・アインシュタインによる「相対論」と並び,人類の 3大科学財産である。「進化論」は分厚い書籍をよみ,「相対論」は難しい論文を読まなければその真髄を知ることはできないが,「周期表」はわずか 1枚の紙に書かれている。この 1枚の周期表は,少なくとも地球上のあらゆる人々と物理,化学,生命,産業や日々の生活を語り合うことができる素晴らしい共有の財産である。

参 考 文 献

1) G. スミルノフ,木下高一郎 訳,メンデレーエフ伝 元素周期表はいかに生まれたか,講談社,1976.

2) 梶 雅範,メンデレーエフ 元素の周期律の発見者,東洋書店,2007. 3) E. R. Scerri,渡辺 正 訳,周期表 いまも進化中,丸善出版,2013.

4) 桜井 弘,現代化学 2019,574,17.

用 語 解 説

*1 アヴォガドロの法則:一定の温度と圧力のもとでは,同じ体積のすべての気体は同じ数(アヴォガドロ数)の分子を含むという法則.1811年,イタリアのアヴォガドロが提案した.

*2 周期律:元素を原子量の順にならべると,その性質は変化していき,性質のよく似た元素が周期的に現われるという法則.1913 年にイギリスのモーズレーにより原子番号の順にならべる法則へと改良され,周期律に物理学的意味が与えられた.

*3 褐簾石Allanite-(Ce):希土類元素を多量に含む,緑簾石グループに属する鉱物.化学組成は,(Ce,Ca,Y,La) 2(Al,Fe +3) 3(SiO 4) 3(OH).単斜晶系で,褐色または黒色をしている.比重 3.5-4.2,硬度 5-6.5.1810年にスコットランドの鉱物学者トーマス・アランにより発見され,アランにちなんでAllanite と命名された.

*4 三つ組元素:化学的性質のよく似た 3個の元素の組があり,それぞれの組の元素は原子量や化学的性質が等差級数を示すなど,規則性があることをドイツのデーベラーナーが見つけた.たとえば,(Li,Na,K),(Cl,Br,I),(S,Se,Te),(Ca,Sr,Ba)などが知られている.

*5 地のらせん:1回転 16 目盛の原子量のらせんの図に元素を配置すると,縦に似た性質の元素が並ぶことを発表した.グラフには化合物などを含めたため,また,鉱物学者の発表であったため化学者たちに当時は認められなかった.

*6 オクターブ則:元素を原子量順に並べると 8番目ごとに似た性質の元素が現われるため,音楽のオクターブにちなんで名づけられた.

*7 元素図:元素を自転車のスポークに似た放射状の線 11 本に配置し,非金属と金属に分類した図.

*8 貴ガス元素:周期表第 18 族の He,Ne,Ar,Kr,Xe,Rn の 7 元素をいう.118 番元素Ogも 18 族元素として扱われているが,詳しい物理的化学的性質はまだ不明である.Heは 2個,その他の元素は 8個の最外殻電子を有し,安定な電子配置をもっている.このため,化学的には不活性で化合物をつくりにくい.

*9 レアアース元素:希土類元素ともいう.Sc,Yとランタノイド元素 15個を加えた 17 個の元素をいう.そのうち Pmは,天然に存在しない人工元素である.レアアースは,現代の生活に欠かせない重要な役割をしている.

*10 ピッチブレンド:日本語では瀝青ウラン鉱といい,主成分は酸化ウランUO 2.微晶質の閃ウラン鉱で,ウランの主要鉱物.ぶどう状の形をして,ピッチ(コールタール)のような黒色をしている.

*11 同位体:原子番号すなわち陽子数が同じで,質量数が異なる,すなわち中性子数が異なる原子または原子核を互いに同位体という.

*12 モーズリーの法則:特性X線(各元素に固有な線スペクトルを持つX線)の波長の逆数の平方根が,特性X線を放出する元素の原子核の電荷,すなわち原子番号の一次関数となることを示した法則.1913年に,イギリスのモーズリーが発見した.

*13 最外殻電子:原子構造で,電子殻は内側から順にK,L,M,N,O,P殻から成り立ち,一番外側の電子殻にある電子を最外殻電子という.原子核からもっとも遠いため,原子核との結びつきが弱く,安定性が低く,他の原子と反応しやすい.

*14 サイクロトロン:加速器の一種で,向かい合わせた直流電磁石の極の間に,中空円板を二つ合わせた形の電極を置いて高周波をかけ,イオンを磁場の作用で回転させながら電場で加速して高エネルギーの粒子線をつくり出す装置.原子核の人工変換や放射性同位体の製造などに用いる.1932 年に,ローレンスが発明した.

*15 線形加速器:多数の電極を直線上に並べ,適当な高周波電圧を加えて次々と電子や陽子などの荷電粒子を加速する装置.直線加速器,リニアック,ライナックともいう.

*16 メンデレビウム:原子番号 101,元素記号Mdの元素.周期表第 3族のアクチノイド元素で,かつ超ウラン元素のひとつ.1955 年に,ギオルソ,シーボーグらにより,サイクロトロンを用いて,原子番号 99 のアインスタイニウム 253 にα 粒子をぶつけて,101 番元素 256 を合成し,メンデレーエフにちなんでメンデレビウムと名づけた.

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