1919年のデューイと日本 -...

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5 1919 年のデューイと日本 北 村 三 子 はじめに ジョン・デューイは紛れもなく 20 世紀のアメリカを代表する思想家の一 人だが、その思想の全体像は日本では案外知られていないのではないだろう か。もっとも、『民主主義と教育』(1915)がアメリカで出版された時、関心 を持ったのは教育関係者だけで哲学者はほとんど興味を示さなかったそうだ から、自分の専門と直接関わらないものに無関心なのは日本に限ったことで はないのであろう。 デューイは、バーモント大学の学生だった頃から、哲学は「生命の研究」 (life-study)であり、「生命を追及していくこと」(a life-pursuit)だと 考えてきた。人間という生物の一員である自分に起きつつあることを深く探 求し、自己欺瞞に陥ることなく人生を歩んでいきたいと思っていたのである (1) 。もちろん、成長や経験の再構成を意味する教育はデューイの哲学の核心 をなすものではあるが、人間の経験と関わる全てがその研究の射程に入るの であり、デューイの「専門」が教育哲学だということにはならない。 そもそもデューイの哲学は、現実の人生を締め出し専門領域に閉じこもり つつあった学問への批判を含むものだったのである。日本の教育学はデュー イの教育哲学に相応の理解を示してきたが、それでも、研究者自身の自己解 放のためにデューイの哲学全体から学ぼうとする姿勢はあまりなかったので

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5

1919 年のデューイと日本

北 村 三 子

はじめに

ジョン・デューイは紛れもなく 20 世紀のアメリカを代表する思想家の一

人だが、その思想の全体像は日本では案外知られていないのではないだろう

か。もっとも、『民主主義と教育』(1915)がアメリカで出版された時、関心

を持ったのは教育関係者だけで哲学者はほとんど興味を示さなかったそうだ

から、自分の専門と直接関わらないものに無関心なのは日本に限ったことで

はないのであろう。

デューイは、バーモント大学の学生だった頃から、哲学は「生命の研究」

(life-study)であり、「生命を追及していくこと」(a life-pursuit)だと

考えてきた。人間という生物の一員である自分に起きつつあることを深く探

求し、自己欺瞞に陥ることなく人生を歩んでいきたいと思っていたのである

(1)。もちろん、成長や経験の再構成を意味する教育はデューイの哲学の核心

をなすものではあるが、人間の経験と関わる全てがその研究の射程に入るの

であり、デューイの「専門」が教育哲学だということにはならない。

そもそもデューイの哲学は、現実の人生を締め出し専門領域に閉じこもり

つつあった学問への批判を含むものだったのである。日本の教育学はデュー

イの教育哲学に相応の理解を示してきたが、それでも、研究者自身の自己解

放のためにデューイの哲学全体から学ぼうとする姿勢はあまりなかったので

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駒澤大學 教育学研究論集 第 26 号 2010 年

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はないだろうか。確かにデューイの実験学校の試みは大正新教育や戦後教育

改革に直接間接に影響を与えたが、主要な関心は教育方法に向けられ、その

根底にある哲学まで届くことはほとんど無かったのである。

デューイが取り組んだのは、ヨーロッパ世界の根底にある二元論の克服だ

った。それは古代ギリシャ哲学に始まり、キリスト教、カントへと続くもの

で、ロマン主義も構造的にはその亜種であるとデューイは見ていた。またそ

れは、近代の科学技術とモラルとの分裂を引き起こし、第一次世界大戦にお

いては機械が兵器として人間を襲うまでになっていた。

1910 年代後半から日本を訪れるまでの間、デューイはこの問題に極めて

個人的な形で直面させられることになる。アメリカの参戦を支持したとも受

け取られる論文をきっかけに教え子たちから思想や人間性を攻撃されたから

である。しかしその時期には、デューイを支えるとともに新たな展望を開か

せるような、ニューヨークの様々なアバンギャルドたちとの交流も生まれた。

このような日本訪問に先立つ時期のデューイの経験とは具体的にどのよう

なものであったのか、また、その経験が彼に日本をどのように捉えさせるこ

とになったのだろうか。デューイの伝記的研究のいくつかとデューイ自身の

著作からそれを探ってみたい。デューイの著作は決して読みすいものばかり

ではないが、その意図するところや世界観は日本人に馴染みやすいものであ

ると筆者は感じている。こうした問いを立てることで、デューイの哲学を研

究することの新しい意味が見えてくるかもしれない。

大戦期のデューイについて本稿で主として参考にした伝記的研究は次の通

りである。

Steven C. Rockefeller, John Dewey :Religious Faith and Democratic

Humanism, Columbia University Press, 1991.

Tomas C. Dalton, Becoming John Dewey: Dilemmas of a Philosopher and

Naturalist, Indiana University Press, 2002.

また、注の LW、MW は以下の略である。

John Dewey: The Later Works, ed.by Ann Boydston, Southern Illinois

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1919 年のデューイと日本(北村) 7

University Press, 1991.

John Dewey: The Middle Works, ed.by Ann Boydston, Southern Illinois

University Press, 1991.

1.『ドイツ哲学と政治』出版の波紋

第一次世界大戦は 1914 年に始まる。アメリカは初めは中立を守ったが、

1917 年のドイツの無制限潜水艦作戦の開始を機に参戦した。アメリカの進

歩主義的知識人たちは、ドイツ的な軍国主義・帝国主義から民主主義とその

文化を守る戦いとしてこの戦争を受け止めていた。同時に彼らは、旧世界と

は異なる彼ら自身の民主主義的精神と文化を形成しようとしており、旧世界

の戦争に巻き込まれればそれを危険に晒すことになると感じていた(2)。

1915 年、デューイは『ドイツ哲学と政治』で、ルター、カント、フィヒ

テ、ヘーゲルと続くドイツの軍国主義的・帝国主義的ナショナリズムの思想

的系譜について論じた。そして、国家(state)と文化(culture)とを同一

視し、国家を意識と真理を体現する至上の存在と見なし、しかも、ドイツ国

家の絶対的な卓越性を主張するヘーゲル派の哲学の危険性を訴えた。また、

そうした考え方は権威主義的な教育システムにも表れており、科学を(精

神)文化から切り離すとともに、科学的発見を国家の利益のためだけに利用

したので、判断力を奪われたドイツ国民は、他の文化的な価値や伝統に対し

不寛容になったと指摘した(3)。

デューイはカントの二元論もこの傾向性に与するものだと見たが、それは、

彼の若い信奉者たちを当惑させるものだった。加えて、デューイは、プラグ

マティックな立場から、全ての力の行使を認めないトルストイ的な平和主義

を批判したので、若いリベラルな進歩主義者たちの間ではデューイへの信頼

は急速に失われていった。教え子の一人ランドルフ・ブーン(Randolph

Bourne)は、1917 年に「偶像達の黄昏」(Twilight of Idols)を『セブン

アーツ』に寄せ、デューイは軍事政策の過剰よりも平和主義の行きすぎを懸

念していると、その失望を表明した。

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とは言え、デューイは戦争を必ずしも支持したわけではない。デューイは

もともと結果を顧みない戦争や経済競争には反対であり、学校を軍事訓練の

場とすること、言論統制、排除などにも強く抵抗した。そして、暴力的でな

い力の行使として、ウィルソンの国際連盟のアイディアを支持したのである。

パリ講和会議は 1 月 18 日から 6 月 28 日までだったので、講和条約が結ば

れた時にはデューイはすでに日本を離れ中国に滞在していたことになる。彼

は、この会議で、連合国側が、ウィルソンの「勝利なき平和」という呼びか

けを顧みることなく、ドイツが再び立ち上がれないほどの多額の賠償金を要

求したこと(アメリカは多額の戦費をイギリスやドイツに貸し付けていた)、

また、アメリカの国際連盟への加入をアメリカ議会が認めなかったことにひ

どく幻滅した。そして、民主主義の実現には民主主義的方法しかなく、いか

なる戦争も諸国民の民主主義の基盤を破壊するものでしかないと確信するに

至るのである(4)。

2.プラグマティズムへの不信感の高まり 第一次大戦期には、ブーンもそうであるように、プラグマティズムの影響

を受けて育った世代が社会的に活動を始めていた。彼らの多くはリベラルな

プロテスタントであり、高等教育の拡大や専門化の進展は明るい未来をもた

らさないと感じ、プラグマティズムは霊的(spiritual)再生を遅らせるの

ではないか思い始めた。プラグマティズムは技術的な力とナショナリズムに

屈し、個人の自由を危険にさらし、共同体的生活を侵食するものに見えたの

である。

ブーン、マーガレット・ノーンバーグ、ウォルドー・フランク、バン・ウ

ィック・ブルックスなどの、文化批判雑誌『セブンアーツ』(後『ザ・ダイ

ヤル』)の寄稿者たちはデューイの教え子であり、その教育観を受け入れた

が、他方で、デューイは美的なものへの関心が狭く、道徳的に破綻している

と批判したのである。彼らは、金銭とテクノロジーだけしか信仰しないアメ

リカ、経済発展だけを際限なく追求するアメリカを嫌悪した。そうした状況

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を克服しようとして、彼らは、ニーチェやフロイトに倣って、人間は衝動的

な存在であり、その創造的洞察力ともいうべき想像力を理性の抑圧から解放

すべきだと主張したのである。

当時、知能テストなどの心理テストが子どもの性向の分類や、兵士の分類

に使われ始めていた。プラグマティズムの実験主義はそうした動きを批判す

る視点を欠いている、とブーンは見た。デューイも関わっていた Bureau of

Educational Experiments が生徒は観察中その創造性を損なわれるわけでは

ないとし、基礎研究と応用研究とのバランスを取ろうしていただけなのに対

し、ブーンは、生徒たち自身が実験の主体であるべきだと主張した。そして、

教育は人類の最も創造的な本能や衝動や欲望を組織的に禁止したり抑圧した

りするように設計されており、デューイのプラグマティズムも人間の非合理

性を否定するが故に創造性を育てることができないと批判した。彼が求めた

「実験的理想」とは、子どもたちが、法律や規範に縛られることなく、本能

の展開としての無尽蔵な経験とそれに相応しい機知とを手にする可能性を追

求することであった。

一方、デューイはこうした考えを非現実的だと見た。理性と欲望を切り離

したり、科学と文化とを切り離したりすれば失敗を招くだけだと考えたから

だ。そもそも、ブーンたちが提起した問題は、ドイツ観念論の理想主義やそ

の反動としてのロマン主義に通じるものであり、若き日にデューイが対決済

みのものであった。その対決の結果、デューイは、自然から超越したものと

されてきた「霊」(spirit) や「精神」(mind)を、自然に根差すものとして

定義し直したのである。

テクノロジーの発展や消費社会化の進行の中で人々は意味や価値を失って

いくという若い世代の問題提起に対しても、デューイは現代の情報社会化に

対する西垣通の情報学のような捉え方をした(5)。彼は、彼らが魅力を感じて

いる精神分析に見られる、意味や理論の過剰を懸念したのである。そして、

そうした情報過多に対し、自然に根差す人間の知性を豊かにしていく方法の

不足を問題にした。

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アメリカの政策を批判したため『セブンアーツ』は 1917 年に廃刊に追い

込まれた。『ザ・ダイヤル』がその寄稿者達を引き受けようとしたが、デュ

ーイは編集者にそうしないよう要請するなど、ブーンの不当な批判に抵抗し

た。二人の間の対立は、ブーンがインフルエンザでその生涯を閉じる 1918

年まで続いた。

3.詩作・哲学的対話・身体との対話

若い世代とのこうした確執はデューイにはつらいものであった。加えて、

温かく親密だったアリス夫人との関係にもひびが入り、子どもたちの問題も

加わって、1915 年から 1918 年のデューイ(50 代の終盤)の心身は大きな危

機に見舞われていた。

しかしながら、この苦悩の時代は、デューイの感性が解放され、その哲学

がさらに鍛えられていくための新たな出会いももたらした。それは自然、詩、

そして、正統派アカデミズムの周辺にいる人々、つまり、富裕な絵画コレク

ター、アルバート・バーンズ、ユダヤ系ポーランド移民で『ハングリー・ハ

ート』(1915 年)という小説の著者、アンジア・イェジールスカ(Anzia

Yezierska、高校教師であった彼女は 1917 年からデューイの政治哲学の講義

を聴講した。デューイの日本訪問の少し前まで、二人は恋愛関係にあった)、

また、オーストラリア出身の姿勢や身体運動の研究者、F・マサイアス・ア

レクサンダー(6)、加えて、特異な市井の弁証法哲学者スカッダー・クライス

(Scudder Clyce)との出合いである。

自然の中での生活と詩作は、デューイの悲しみを癒し、安らぎをもたらし

た。イェジールスカは彼の感情を解放し、クライスはデューイを、自らの世

界観を再確認させるような深い内省へと引き込み、アレクサンダーは、精神

と身体との関係を変えることで心身のストレスから解き放たれる可能性をデ

ューイに感じさせた。これらは、若い批判者たちの間に浸透しつつあった精

神分析とは異なるやり方で、デューイに自己解放をもたらした。ことにアレ

クサンダーの技法は、意識の活かし方に気付かせ、近代文明の見方を深化さ

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せるものであった。ここでは、日本とデューイの出会いにおいて特に重要だ

ったと思われる、詩作およびクライスとの交流、アレクサンダー・テクニー

クを取り上げることにする。

<詩作>

1909 年、デューイはロングアイランドのハンチントンに農園を買い、花

や野菜の世話をしたり散歩したりすることに静かな喜びを見出した。そして

まもなく主に自分のために詩を書くようになった。それらの詩は、コロンビ

ア大学のデューイのオフィスの机の引き出しやごみ箱から見つかっており、

100 篇近い詩のほとんどは 1911 年から 1918 年の間に書かれている。

詩は、子ども、愛、自然などに関わる多様なテーマを扱っているが、その

中には、無垢で自由で希望と夢に満ちていた子ども時代を喪失した悲しみや、

意識や思考の発達に伴って自己が引き裂かれる悲しみ、生命の炎が弱まって

しまった苦しみなどが歌われると同時に、無条件に抱きとる母の愛、穏やか

で温かく輝きに満ちた女性の愛を求めるものが含まれていた。そして、二元

論を超えた統合を象徴する次のような一節も含まれている。

…満ちつつある月が昇り、

そして穏やかにその魔法の道を進んで行った、

海を横切って。その銀色の沈黙の調べに、

夜と昼が、大地と空が、世界と私が溶けていった。

柔らかく輝く灰色の月光の中を硬い陸と流動する海が溶けていった。

無為の魔法に魅了されて、

和解した生と死が寄り添って眠った(7)。

バーモント大学は、神学的にはリベラルな大学だったが、デューイがドイ

ツ哲学の指導を受けたトリィは、知的には汎神論を支持しながらキリスト教

的信念も捨てきれずにいた。デューイはもともと非常にリベラルで慣習的な

性格のキリスト教信仰の中で育ち、宗教は科学と一致するように変わってい

くものだと思っていた。従って、彼にはトリィのような葛藤は無かったが、

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それでも、自己と世界、身体と魂、神と自然を分け隔てるニューイングラン

ドの思考習慣が浸み込んでおり、彼が「内なる裂傷」と呼んだ、痛みを伴う

内的抑圧を生じさせていた (8)。デューイはドイツ観念論の直観という概念

には親しみを感じることはできなかったが、主観と客観、物質と精神、聖な

るものと人間との総合を掲げるヘーゲルの哲学に魅力を感じたのは、それが

彼の内部にも潜んでいる二分法を破壊してくれると思えたからである。

他方で、デューイはヘーゲルの理想主義的な発想は拒否していく。後年の

自己分析によれば、彼の内には、彼自身の経験、つまり、もっと具体的で自

然なものに立脚したいという思いが、それへの恐れとともに潜在していた。

若い頃の彼の論文は図式的で明快だったが、それは、むしろ防衛的な反応で

あり、心から満足できるものではなかった。幸いにもデューイはやがて、生

物進化論の力を借りながら、ドイツ哲学を道具主義的に再解釈できるように

なる。そして、おそらくこの時期の詩作を通して、彼は意識の発達に伴って

抑圧されてきた子ども時代の情動的な経験を再統合することができたのであ

る。

後年、デューイは宗教の本質を動的な自然の全体性とその一部としての自

己への信頼として論じることになるが、この時期、彼はまさしくそうした経

験をしていたのである。デューイは中国の仏教寺院の法要に大いに寛ぎを感

じたと手紙に書いているが、汎神論的な自然観はこの時彼の内に深く根付い

たのである。

<クライスとの対話>

自然や詩作といった象徴的なレベルで行われた情動的な経験の再構成と並

行して、反省的言語を用いた自己理解の過程が進行した。その伴走をするこ

とになったのがクライスであった。クライスは、人間の思考、科学、宇宙な

ど、大きく解き難い問題を探求するのが好きであったが、1915 年(一説で

は 13 年)、原稿出版の手助けを求める手紙をデューイに送った。そしてそれ

以降 1920 年代まで、12 年間に亘って、二人の間に濃密で個人的な内容の手

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紙が取り交わされた。

文通が始まって間もなく、クライスは、情緒的に不安定で「狂人」だと言

われていること、自分をコントロールしてくれる人を待ち望んでいたことを

デューイに告げた。それでもデューイは忍耐強く哲学的な事柄についてアド

バイスを続け、意見交換はお互いの個人的な問題にまで及ぶようになった。

デューイは、問われるがまま、それまで他人に語ることはなかった自分自身

の人生や感情や考えをクライスに書き送るようになったのである。

クライスはデューイに偉大な救済者を期待していたので、話題はしばしば

宗教的なものになった。彼はデューイに一元論を認めさせようとしたが、宇

宙が初めから調和的なものであるという考えも、絶対主義的観念論の「最終

目的」といったものも、デューイは認めようとしなかった。そして、「私は

無限の多元主義者であり・・・そして私の宗教は実現されたものではなく、

未来や可能性に対する態度にかかわるものである」と述べている(9)。デュー

イにとって、世界は多元的な相互作用からなり、常に再統合されていく連続

的プロセスである。そして彼は、個別的事象の生起は偶然的でありながら総

体としては信頼しうるものとして世界を捉えたのである(「個別的な物事に

関しては無神論者であるが、一般的な物事には大きな信頼をもっている。」)。

「宇宙」や「世界」と呼ばれる「広大でぼんやりとした連続体」にクライ

スは、「絶対的なもの」、「全体」、「神」といった語を当てたがったが、デュ

ーイはそれも拒否した。なぜなら、美的あるいは神秘的な経験において生じ

るそうした「全体」の情動的な感受が永遠性や完全な平和や安らぎを人に感

じさせるとしても、それはあくまで、個々人の経験であるからである。

1915 年、クライスは不幸な結婚生活を訴え、離婚できなければ自殺する

と報じた。デューイは自殺を思いとどまるよう説得するとともに、それ以降

彼に手紙を書くのをやめた。彼らの交流は、クライスが再婚した 1919 年に

再開されたが、1927 年、二人の手紙を公刊しようというクライスの提案を

デューイが拒否したことで、最終的に終結した。

クライスは 1928 年に自分の手紙だけを出版したが、そのタイトルは『デ

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ューイの抑圧された心理』というものであった。クライスによれば、デュー

イの関係論的な論理は彼の性格の曖昧さの症状であり、その弱さのために、

デューイは、全ての違いは普遍霊(universal spirit)の下位部分であり、

一時的なものにすぎないというクライスの主張を理解できなかったのである。

二人のやりとりの中で、デューイ自身も自分がはっきりしない性格であるこ

とを認めていた。しかし、彼はそうした自分を受け入れた上で、自分の進ん

できた方向は概ね間違っていなかったと思っていたのである。

おそらくは面識がないまま続いた二人の交信はこのように奇妙なものであ

ったが、それでも、デューイがそれまでの自分の経験を受け入れ、その哲学

をさらに洗練させていく契機にもなったのである。

<アレクサンダー・テクニーク>

クライスの態度は、人がどのように思考習慣の拘束を受けるかを示す一例

であるが、デューイ自身がそれまで意識することのなかった自分の習慣、具

体的には身体と精神の分裂に気付いたのは、アレクサンダー・テクニークを

通してであった。

シェークスピア俳優だったアレクサンダーは、演技中にあえぎ声になり、

ひどい時には声が出なくなるという症状に見舞われた。原因を探そうと、彼

は自分が声を出している時の姿勢や筋肉の状態を何ヶ月もかけて研究した。

そして、それは声帯だけの問題ではなく、相互的につながり合いながら働い

ている体の全ての部分の協調作用の不調和に原因があると気付いていった。

そうした全体のつながりの中で、とりわけ頭、首、のど、声帯と呼吸器の誤

った使い方が有機体全体に不必要な緊張を引き起こしていたのである。彼は

さらに、良い協調がどのようにしてもたらされるかを苦労して研究した。そ

して、良い状態を目指そうとする性急な努力はかえって有害であることを知

る。今までにない新しい経験を生み出さねばならないのだから、今までのや

り方や考え方をしないということが重要だということに気付いたのである。

そして、この全体として身体を用いるやり方は身体的健康だけでなく、心の

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健康に役立つことも分かった。彼は、立つ・座る・起きる・横になる・呼吸

をするといったシンプルな活動に注意を払い、そうした活動の際に、頭・

首・背中が正しい関係になること(alignment)が重要だと考えた。また、

現代では、競争的なスポーツ、人前でのスピーチ、人間間のコミュニケーシ

ョン、性関係など、特別の努力を要する状況が増えたために多くの人たちは

フラストレーションに陥っており、筋肉の緊張が高く、調和を欠いた、悪し

き身体活動の習慣に無意識に従っていると見たのである。

1901 年から 1930 年代までアレクサンダーはイギリスを生活拠点としたが、

1914 年にはニューヨークでも活動を始めた。1916 年、アレクサンダーの評

判を耳にし、著作を読んだコロンビア大学哲学科の教授ウェンデル・ブッシ

ュが彼を夕食に呼び、デューイを含むコロンビアの同僚もそこに同席した。

アレクサンダーの技術と考えに関心を持ったデューイは、まもなく、アレク

サンダー・テクニークを学び始めた。それは、アレクサンダーとその兄弟の

下で、35 年以上も続いたのである。

アレクサンダーと出合った頃、仕事疲れと大戦期の諸々の葛藤とが重なっ

て、デューイは神経が緊張し、抑うつ的だった。首がこり、目も悪くなって

いた。アレクサンダーのレッスンはそうしたデューイの心身に大きな効果が

あった。それは彼に安堵感と慰めを与え、生命や成長のあらたな感覚も与え

た。デューイはその困難な時期、自分をより良くコントロールする方法に出

合ったのである。

しかし、その学習はデューイにとってやさしいものではなかった。彼は

「無能で、臆病で、上達の遅い生徒」であった。思考が行為を支配してしま

う習慣的なやり方を抑制するのに非常に苦労したのである(10)。身体化され

た技法は、できるようになるまで、それがどのようなものか知ることができ

ない。体の各部分の動きが望ましい協調関係に入らなくてはならないのだが、

そのためには今までの動きのつながりが解体され、新たに再構成されねばな

らない。例えば、座るといったごく簡単に思われる行為でも、習慣となって

いたやり方を解体し、良い座り方を構成しうる一連のステップへと組み立て

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駒澤大學 教育学研究論集 第 26 号 2010 年

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直さなければならない。デューイはそうなるまで待っていることができなか

った。目的追求的に思考を働かせないということがなかなかできなかったの

である。しかし、レッスンを重ねるにつれて、呼吸が楽になり、ものの見方

が改善され、新しい証拠によって観念を変化させることもより容易になって

いった。アレクサンダーの言う心身の統合(the unity of the mind-body)

の原理が現実のものだということを実感したのである。

1918 年、アレクサンダーの『人間の卓越した相続財産』(Man’s Supreme

Inheritance)にデューイは序文を寄せた。その中で、彼は、アレクサンダ

ーが有機体の科学的知識に基づく確かな自己制御の方法を開発したと明言し

た。また、人々は広大な宇宙の全構造の中で最も素晴らしいもの、つまり人

間身体を認めることを恐れており、しかも自分が恐れているということも知

らずにいるのだ、と述べている。さらに、精神的・道徳的な人生のための素

晴らしい道具でもある身体への敬意(「宗教的な態度」とも言っている)が

もっと一般的になったら、人類に緊急に必要とされている意識制御を可能に

するための良い環境ができるだろうと述べている(11)。

デューイのこの発言は、全体としての人間を看過して発展した近代文明の

歪を念頭に置いたものである。デューイによれば、その克服に必要なのはロ

マン主義やその流れにある精神分析のように「子ども」を神話化することで

はない。子ども時代の意識に捉われない自発性は喜ばしく貴重なものだが、

そのままの形ではそれは生き延びることはできない。意識制御の技術こそ、

それをより高次な形で生き延びさせることを可能にするのである。

このデューイの序文は、ブーンとの最後の一戦を誘発した。ブーンは早速、

アレクサンダーの本に対する批評、「身体の溺愛」を『ニュー・リパブリッ

ク』に載せ、攻撃に出た。

ブーンは、この本にはアレクサンダーの稀にみる生理学的な「直観」に加

えて、身体を再教育することによって、人間をその無意識の筋肉の悪い習慣

と自己表現を妨げるものから解放する技術が示されていると述べた上で、批

判を始める。ブーンによれば、その技術はアレクサンダーの直観に頼ってお

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り、信頼できない、また、アレクサンダーがそれを宇宙的な進化の哲学と結

びつけ、その意識のガイダンスと制御が人類の進化の次のステップへと繋が

るとするのは信じがたいことである。そして彼は、学校の子どもたちが皆そ

の方法を学ぶまで待っていなければならないとしたら進化の次の段階の到来

は非常に遅れることになるだろうと揶揄した。

この批判はデューイにも向けられたものだが、そもそもブーンはもはや人

類の進化などは信じなくなっていたのである。彼には、人間は、天国と地獄

の間、理性と本能との間、達成と不毛との間で苦悩する惨めな存在でしかな

い。この戦争で、政治家も操作される大衆と同様に盲目で無力であることが

はっきりした。意識のコントロールなどで新しい人間の知性の時代が始まる

などとは彼にはとても信じられなかったのである。

ブーンは、身体のバランスの統合が心の統合と調和を生みだすのに役立つ

ことは認めたが、アレクサンダーの技法については、「身体の末端器官

(end-organs)のコントロールを通じて心理的結び目を解き放つという、転

倒した精神分析の一種」だとしている。つまり、デューイの哲学と結びつく

ことがアレクサンダーにとって誤りだと言ったのである(12)。

この書評は、デューイに、「書評者に応えて」という短文を『ニュー・リ

パブリック』に書かせることになる。そこで、デューイは、文明人、ことに

指導的な立場にある知識人や専門家たちが身体の他の部分からあたかも切り

離せるかのように「脳」を文明化しようとしているが、その一方で、文明の

この新しい段階に合わせて筋肉の協応あるいは習慣が形成されており、彼ら

は、それを知性によって制御できずにいる、述べている。加えて、アレクサ

ンダーの直観は経験の積み重ねによるものであり、十分実験的であること、

その技法は、大人には再教育であり、続く世代の子どもには積極的・建設的

に働きうるものであること、そして、意識制御の技法は、人間の動物として

の遺産と知性というとりわけ人間的な能力とを調和させる方法として、信頼

に足るものであると述べている(13)。

第一次世界大戦が始まって、近代世界への幻滅が広がっていく時代に、デ

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駒澤大學 教育学研究論集 第 26 号 2010 年

18

ューイは進歩主義的オプティミズムの新しい基盤を求めていた。そして、ア

レクサンダーの技術にその答えを見出したのである。(今日的に言えば、そ

れは、近代社会の記号の洪水の中でもそれに流されずに自らの生命情報に従

って生きることを、また、多元的な世界で全体としての自己を準拠枠とする

ことを、肯定するものであった。)

1918 年、訪日に先立ってデューイはカリフォルニア大学で社会心理学に

関する講義を行った。それをもとにして 1922 年に刊行された『人間性と行

為』は道徳判断を主題としており、そこにはアレクサンダーの影響がかなり

見てとれる。習慣とそれを変えていく上での意識によるコントロールの問題

が取り上げられ、現代の AA(アルコーホリック・アノニマス)の原理と同

じような意識の仕組みが語られている。習慣を変えるためには自力で変えら

れるという意識を捨てなければならないが、それは、それまでの自分(自分

の経験)をありのままに受け入れるということと同じである。デューイの言

う知性もそれ抜きには働かないのである。

デューイの理解によれば、「道徳的」と「知性的」は同義であるが、それ

は、近代的意識の抑圧から身体とその感受性が解放され、全体としての人間

の行為に意識が十分統合されるようにならなければ実現されないものであっ

た。そして、アレクサンダー・テクニークはそのための経験科学的方法であ

り、それゆえ最も分裂のない、あるいは自己欺瞞のないやり方であった(14)。

4. 日本での経験 1919 年 2 月 9 日から 5 週間、デューイは日本に滞在した。その間、小野

栄次郎(日本興業銀行副頭取)や渋沢栄一らの尽力で、東京帝国大学哲学科

で講演が行われた。「現在の哲学の位置―哲学の改造の諸問題」と題するも

ので、2 月 25 日から 3 月 21 日までの火曜と金曜に行われ、主な聴講者は、

東京帝大その他の大学および高等師範学校の教員と学生であった(15)。その

時配られた英文のシラバスが残されているが、その内容はおおよそ次のよう

なものである (16)。(1920 年に『哲学の改造』として出版されている。)

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人間は欲望と想像力をもつ存在である。希望や恐れ、成功や失敗から生

まれる詩的・宗教的信念が人々に共有され、伝統や権威となったとき、哲

学が始まった(第 1 講)。そして、自然に関する知識と人間の行為の結果

に関する知識とが、それまでの信念と大きく乖離していくギリシャ時代に

哲学が発展した。プラトンやアリストテレスが反省的思考から生み出され

た永遠で調和的な世界に真実性を見出したように、古代ギリシャでは理想

的な世界を観想することが哲学の仕事になった。それ以降、哲学は、自然

科学的な技術から離れて、もっぱら社会的・人間的あるいは道徳的なもの

になった(第 2 講)。そうした「観想の哲学」は、共同的で組織的な研究

によってのみ知識はもたらされるとしたベーコンによって乗り越えられた。

近代工業の発展の中で信仰が批判され、良心の自由が広がり、人間の理性

と思考力への信頼が増していった(第 3 講)。

こうしてアリストテレスから中世に至る自然観、すなわち、自然は閉じ

られており(有限性)、階層的に構成されている異質な諸部分からなる全

体という自然観(そしてそこには固有の運動と成長の形式をもつ不変の種

が含まれている)は、近代の、無限に開かれた、同質的なものからなる統

一的な自然、という観念にとって代わられた。不変なものより活動や変化

が重要になり、貴族政治がデモクラシーに、全ての従属者たちが個人へと

変わったのである。近代科学は観察や実験を基にした真理の探究方法だが、

その真理はもはや超越的・絶対的なものではなく、次の観察や実験のため

の仮説である。そして、こうした無限に続く科学的実践は、現代では道徳

的、社会的領域にも拡大されるようになった(第 4 講)。

経験と理性の概念も変化した。古代ギリシャでは、感覚経験にもとづく

経験は不確かで理性だけが真理を把握できるとされたが、そうした発想は

カントにまで引き継がれた。一方、人間の感覚経験だけを認め、生得的な

理性を認めないイギリス経験論の認識論は、懐疑主義に陥った。しかし生

物学の影響の下に成立した現代心理学は、環境を修正する調整的な活動と

しての経験が本質的に能動的で創造的なものであるとし、理性を「知性」、

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つまり、過去の経験を用いて未来の経験を形成してゆく力、に置き換えた

のである(第 5 講)。

この理性から知性への移行は、論理、倫理、教育、社会哲学上の変化を

引き起こした。論理は人の自然的・社会的環境への態度と関わるものだが、

まず、行為とともに思考が存在する、ということが認められねばならなら

ない。また思考には、実験的観察から得られた事実から問題や仮説を導き

出す帰納的推理と、知性的な方法の発見のためにそうした事実を一般化し

たり抽象化したりする演繹的推論とが含まれなければならない。そして理

念は行為を促進する道具であり、その結果をみながら柔軟に活用すべきも

のである(第 6 講)。

全ての状況は個別的なものであり、倫理においても、目的や善はそれぞ

れの特殊な状況を離れては存在しない。一般的なものは特殊な状況を理解

するのに役立てるものであり、理念は状況の可能性の感覚なのである。幸

福は所有や到達点にあるのではなく、能動的に状況を乗り越えていくこと

の中にある。失敗はさらなる学びに繋がるものである。教育も、道徳や社

会的目的が実現される方法というだけではなく、成長や発達と同一のもの

とみなされるのである(第 7 講)。

社会哲学な面では次のようなことが言える。個人も社会も固定したもの

ではなく、制度や法律や統治は、個人を形成する能力を解き放ち、成長さ

せるものでなくてはならない。社会も、その成員が経験を共有できるよう

な相互的な関係を結ぶことによって成長するものである。組織は人間同士

の繋がりに従属しなくてはならない。政治的国家も多くの社会

(association)の一形態にすぎず、それぞれの社会が固有の価値を持っ

ている。国家は究極的なものではなく、道具的なものである。個人の力が

解放され活用されなければ、社会は固定的で不毛なものとなる。また、人

格は責任を果たすことによってのみ発達する。そして責任は人が物事の決

定に参加しなければ制約されたものとなる。イギリスの個人主義は自由そ

れ自体を目的としているが、一方ドイツの政治哲学は、法律と国家を絶対

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的なものと見なしている。知性と手を結ぶこうした諸変化は人間の情動的

な性質と想像力に深く根差すものなので、宗教的色彩を帯びている。その

ため、観念性においては古典的哲学の方が優れているように見える。しか

し、人格やコミュニティの宗教的価値は自然のものである(第 8 講)。

講義内容は哲学科の教授たちと相談したと言われているが、以上のように、

哲学史をふまえた上で、生物学的な知見に依拠して始まった実践的な現代哲

学を語るものであり、日本の社会や教育への批判的提言ともなるものであっ

た。それが聞き手にどのように受け止められたかは資料が無いので分からな

いが、初めは 1000 人もいた聴講者は 3 回目には 500 人になり、最後には 3、

40 人になったと言われている。

早稲田大学の田中玉堂、帆足理一郎、田制佐重のように後にデューイの翻

訳する人々や、後に日本デューイ学会を作った岡部弥太郎など、一定の共感

者はあったものの、ドイツ観念論の影響の強い日本では、総体的には、デュ

ーイの講演は理解されなかったのであろう。デューイが当時日本の状況をど

のように捉えていたかは、「日本のリベラリズム」(1919 年)からある程度

うかがうことができるが、それについては後で触れよう。

講演と並行して、デューイ夫妻は劇場、博物館、寺院、神社、学校などを

訪問した。その中で、学校と寺院についてデューイがどのような感想を持っ

たかをここでは見ておこう

デューイは女子大学(東京女子大学の前身)の体育館で槍とおそらくは長

刀と思われるもの(old Samurai woman’s sword)の稽古を見た。教えてい

たのは、しとやかで猫のように敏捷な 75 歳の女性で、彼女は他の少女より

もずっと優雅だった。「今や私は身体文化と見なされるこの古いエチケット

や諸儀式を大いに尊敬する。あらゆる瞬間が完全でなくてはならない。そし

て、それは意識のコントロールなしには不可能である。それらに比べれば、

近代的な子どもたちの体操の練習は哀れなものでしかない(17)。」と、デュー

イは子どもたちに宛てた手紙に書いている。

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柔道の達人の模範演技を見たときも、デューイは、「それはアートである、

ここでは意識のコントロールという観点から学ぶのが良いと思う」として、

アレクサンダーにハリソンが書いた『日本のファイティング・スピリット』

を図書館から借り出すよう伝言している。また「柔道では呼吸はいつも腹か

らであり、また日本人は、頭を後に投げ出すようにして起き上がる。軍隊に

おいても、彼らは昔の侍の禅の教え通りに深い呼吸という、間接的な方法を

とっている」と書いている。「頭を後方に投げ出すように起き上がる」とい

う意味は良く分からないものの、おそらく、胴体と頭の協調的な動きを言っ

ているのであろう。また、「間接的な方法」というのは、観念的に捉えた目

標を目指して性急に行動するのとは異なる、身体的に合理的なやり方を指し

ていると思われる。

このようにデューイが日本古来の身体文化の質の高さを理解できたのは、

もちろん、彼がアレクサンダー・テクニークを実践していたからである。そ

してそれが、彼の生活や思想をその基盤において支えるものであったからで

ある。そして彼は、次節で触れるように、日本の伝統的な身体技法や礼儀作

法に、自然と調和した、他者に開かれていると同時に自律的な人間のあり方

を感じ取ったのである。

しかし、禅僧との出会いでは、身体文化についてはあまり得るところはな

かったようである。デューイは鎌倉の円覚寺と建長寺を訪れて、両寺の住職

であった臨済宗の老師、釈宗演と 2 時間あまり話をしている。釈は 1883 年

のシカゴ世界宗教会議に日本の仏教界を代表する一人として参加し、弟子の

鈴木大拙の通訳でスピーチをした他、バートランド・ラッセル夫妻の招きに

応じて、1905 年、1906 年とアメリカを訪問し、カリフォルニアを中心に禅

の指導に当ってもいた。

デューイの印象では、釈は学者的であったが、同時に人当たりの良い魅力

的な人物であった。デューイによれば、釈の話は概ね道徳的だが、高度に形

而上学的で何か捉えにくい、ジョサイア・ロイスを思い出せるようなものだ

った。しかし、一点だけロイスより釈の方が現代的であったのは、神は人間

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の道徳的な理想で、人間が成長するにつれて聖なる原理も成長する、と述べ

たことである。デューイはその時、仏像は見たが、公案や瞑想の練習などは

しなかった。もっとも、1950、60 年代になるまで、西洋人は、禅の身体的

実践については一般に関心を持たかったので、仏教者は汎神論や道徳の話は

しても、座禅などを勧めることはほとんどなかったらしい (18)。アレクサン

ダーの影響で、デューイは呼吸法など意識をコントロールする身体的技法に

関心があったのだが、その点では、この出会いは余り実り多いものでなかっ

たかもしれない。

5.「日本のリベラリズム」 デューイが来日した時、日本でもデモクラシー熱が高まっていた。保守の

拠点と見られていた帝国大学でも自由主義が語られ、学生もリベラルな雑誌

を出すようになっていた。5 年以内に革命が起きるだろうという噂さえあっ

た。しかし、デューイには、それは楽観的すぎる見解に思われた。デューイ

の言う「自由主義」や「民主主義」は、一人ひとりの人間がより豊かな自己

に向かって歩み続けることであるが、そういう方向に日本が向かっているよ

うには見えなかったのである。何がそれを阻止していると彼は見たのだろう

か。

1919 年、デューイは『ザ・ダイヤル』に「日本のリベラリズム」という

エッセイを寄稿している。彼はそこで、知識人の問題と経済的要因を論じた

後、根本的な阻害要因として教育を取り上げている(19)。

<知識人の問題>

デューイは、当時のデモクラシー運動の盛り上がりだけに注目するのでは

なく、もう少し深いところにある日本社会の構造的な問題を捉えて、次のよ

うに言っている。

日本人の中にはデモクラシーは知的な流行の一つでしかないという意見

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がある。ドイツが単に不名誉な敗北を喫したのではなく内からの革命によ

って崩壊し、アメリカはデモクラシーという素晴らしい言葉を持って登場

したので、専制主義は流行遅れで今やデモクラティックなスタイルだ、と

いう訳である。そういうことはあるが、今よりもっと反動的な時代にも日

本には真にリベラルな思想家や教師はいた。最良の西洋的な考え方は日本

社会に確実に浸透しており、第一次大戦中も、勇気のある僅かな人たちは、

この戦争は二つの体制の間の戦いなのだからドイツを範とする政治や教育

方法をとる日本がドイツを敵とするのは異常なことだ、また、ドイツはそ

の専制的で軍国主義的ゆえに打ち負かされなくてはならず、日本も世界の

異物にならないためにはドイツ的な政治や統治方法を止めるべきだ、と考

えていた。

もっとも、ほとんどの人々はドイツとの戦闘の最中でさえ、ドイツ的制

度・思想・理念を守ろうとし、極東でのドイツの影響力を排除するという

目的においてだけ日本はドイツの敵だと考えていた。そして、戦時にもか

かわらず、日本の政治家や官僚が知的・道徳的・政治的なドイツ主義の宣

伝をしており、軍隊では新兵に、連合国の制度に比べてドイツの制度、こ

とにその軍国主義が優秀であると教え込んでいた。

このように、デューイは、日本の近代化のプロセス全体を視野に入れなが

ら、日本のデモクラシーの成長はドイツ主義の浸透によって妨げられている

と見たのである。そして、デモクラシー運動がそうした構造的な問題を解決

できないうちに、日本社会を覆っていたデモクラティックな気分は、デュー

イが離日する頃には早くも弱まり始めたのである。愛国心の昂揚のためであ

る。

パリ講和会議ではイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本が参加

して、ウィルソンの 14 カ条を基礎に、領土問題や賠償問題のほかに国際連

盟、民族自決、国際労働法、国際通商などについても議論された。その席上、

日本は人種差別問題を提起し、国際連盟規約にも盛り込むように要求したが

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(アメリカは、1917 年から日本人に対しても他のアジア人同様、移民を禁

じていた)、これは山東問題をぼかすためだなどとして他国から相手にされ

なかった。日本は労働法に関する議事には全く消極的であったが、日本の新

聞はもっぱら移民問題だけを報じた。その結果、日本人は、連合国の平等と

人間性尊重の宣言は偽善的なものだったと受け止め、デモクラシーへの熱い

思いが冷めてしまったのである。

つまり、提案を拒否されたことによって、日本では、リベラルな人々まで

も愛国心を掻き立てられてしまったのである。愛国心は民主主義思想の成長

の阻害要因であると見るデューイは、日本の愛国心は地球上のどの国にもま

して深刻で、とりわけ民衆は盲目的、狂信的であり、新聞も危険なほどに無

責任であると述べている。

しかしながら、デューイによれば、日本が尊敬されるためには陸海軍が強

力でなくてはいけないと教えたのは西洋の帝国主義に他ならない。日本人の

技芸や繊細で優美な礼儀正しさでは外交に勝てず、指導的な国家の一つとは

認められないと教えたのである。したがって、世界が軍事的な力とは異なる

力を基盤に国際的正義を実現しようとするまでは、日本のデモクラシーも発

展することはない。

ドイツ主義と愛国心に加えて、リベラルな観念や制度の形成を妨げている

もう一つの原因として、デューイは日本の知識人特有の自己分裂を指摘して

いる。日本人は物的・技術的・科学的な発見とそれらに直接関わる限りでの

考えや方法を西洋に求め、一方で、自分達の特異な道徳と政治的遺産を最高

のものとして無傷のまま守ろうとしているが、こうした無理な二重生活のた

め、日本人はどこでも生命的・精神的緊張を示しているのである。日本の信

じがたいほどに反動的な初等教育によっても西洋の観念の影響を遮断するこ

とはできず、ドイツの崩壊に伴う昨今の自由の観念の解放のように、伝統的

な観念は徐々に駆逐されていく。このような二重生活はそもそも実現不可能

なのである。

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<経済的要因>

デューイは日本の当時の企業や労働運動がデモクラシーの成長とどのよう

な関係にあるかも分析している。

第一世界大戦期に日本は農業国から工業国へと変化した。工場法は

1916 年にようやく実施されたが、大戦期の物価上昇に賃金が追い付かず、

各地で労働争議がおきた。米価も高騰し、米騒動が各地に広がった。官僚

主義や軍国主義の支持者が多い小役人、警官、小学教師でさえ給与を上げ

るよう要求するようになった。社会主義やデモクラシーへの関心が広がっ

ていく中、1918 年には藩閥内閣にかわって政党内閣が生まれた。しかし、

その政党も三井、三菱などの大財閥と結びついており、大企業の利益が国

家の利益だと考えていた。新聞も平民的視点を欠いており、国際連盟の理

想の下に蠢いているのはシベリアと中国の利権をめぐる各先進国とその資

本の思惑であるということまでは報じなかった。個人の上昇志向を国家の

発展の原動力として聖化してきた日本では、従順な労働者に対し大企業は

その福祉に一定の貢献をするというような、パターナリスティックな関係

が成立していった。

このように日本の状況を把握したデューイには、日本に「革命」と呼びう

るものが起きるとは考えられなかった。彼の見るところでは、西洋諸国から

自由に様々なものを取り入れた 1870、80 年代までは日本はもっと柔軟だっ

たが、1880 年代には西欧世界は帝国主義化してゆき、日本も薩長閥の専制

体制のもと、軍国主義化されたドイツにならって国民を主権者としない憲法

を作り、若い日本人を従順にするように仕組まれた全国的な初等教育を作り

上げた。中等・高等教育も国家への奉仕能力の形成に特化され、こうしたこ

とが相まって自由主義の進展が抑えられていったのである。日本をめぐる状

況がもう少し異なれば、日本は本物の、模倣でない国家になりえたかもしれ

ないが、日本の自由主義の発展はこうして 30 年休止してしまったのである。

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<教育の問題>

このように、デューイは日本のデモクラシーの発展を妨げているものとし

て、ドイツ的な政治システムや教育制度を問題にした。ナポレオン戦争の影

響以来、ドイツ国民はヨーロッパ諸国の中でとりわけ愛国心が強かった。そ

して、先述のように、デューイはドイツ哲学をその専制主義・軍国主義を支

えるものと捉えていた(『ドイツ哲学と政治』)。そのドイツの政治と哲学と

を日本がそっくり真似ているようにデューイには見えたのである。

フィヒテによく表れているように、ドイツでは初等教育学校は国家のため

の組織であり、国民道徳(国家宗教)の注入の場であった。デューイによれ

ば、日本も同様である。

日本はもともと多極的で緩やかな統合体であったが、開国によって国内

的に、もっと霊的な結合の絆を必要とするようになった。そこで、もとも

と日本にあった神政の伝統を利用して国家宗教を作り出し、それと整合す

るドイツ的な憲法を作った。

神道があまりにもキリスト教と異なるので、西洋人はともすればその政

治的な効力を見損なってしまうが、神道と結びついていたその儀礼は情動

への浸透性に富んだ強力なものであり、小学校の歴史や修身の授業を見れ

ば、外国人でもいかに組織的に天皇カルトが行われ、それがどれほど完全

に全ての生徒の意識下の精神器官(the sub-conscious mental

apparatus)の一部となっているかが分かるだろう。日本人が成長してそ

れを捨て去ることは、西洋人が子ども時代の神学的教えを成長後に捨て去

ることと同じであろう。その情動的な後遺症を捨去ることはほとんどでき

ないのである。

その神話は三つの「神話」から構成されている。まず、日本人の完全な

人種的純粋さの観念であり、共通の血・共通の出身、つまり、日本の文明

を築いた神々が日本人の共通の祖先であり、その神々の直系の子孫が国を

統治しているということである。二つ目は、最初の天皇以来、その王朝が

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2500 年にわたって途切れることなく続いているということである。三つ

目は、現在の日本も未来の日本も、その全ては聖なる国家建設者たちとそ

の子孫の諸徳の賜物ある、ということである。

これらは事実に反するものであり、教育のある人々はそのおかしさに気

付くことができる。しかし、大学教師は教室でだけ歴史的真理を語るにす

ぎない。そうした事実を知識人たちが公表し監獄に入れられたり死刑にな

ったりしたと聞くまでは、日本にデモクラシーが到来したと信じることは

できないのでないか。

このように、軍事上および経済上の利害に操られる政治と非常に反動的な

教育が日本の民主化を阻む巨大な壁であるとデューイは見た。それでも彼は

日本人がそれを乗り越えていく可能性も信じた。「日本のリベラリズム」の

中で、デューイは、日本の大学生の代表団が、日本の中国政策には全く共感

できないということを中国人に表明するために、そして敵は共通であり、日

本の軍国主義的な専制政治であると表明するために、北京に来ていたと書い

ている。日本は、第一次世界大戦で、政治においても商業においても科学技

術においても自国が孤立しているということを身にしみて感じ、それがデモ

クラシーの現在の広がりをもたらした、そして、パリでの帝国主義的な和解

の仕方は疑いなく日本のデモクラシーの阻害要因であるが、世界が明らかに、

そして大きなスケールでデモクラシーを無視しない限り、日本も着実にその

方向に進んでいくだろうと述べている。「日本人の柔軟性・適応力・実践的

な知性」と「日本人のマナーや慣習に体現されているある種の社会的デモク

ラシー(20)」を認めるデューイは、流血やカタストロフィックな混乱なしに、

やがて日本にもその変化が訪れると考えたのである。

おわりに

本稿では、デューイが日本とどのように出会ったのかを知るために、日本

訪問とそれに先立つ大戦期の著作物と伝記的研究を見てきた。その作業を通

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じて窺えたデューイは、筆者にとって大いに共感できる存在であった。

西洋の二元論に対する批判は今日ではありふれたものである。しかし、デ

ューイは思想のレベルにとどまらず、行動のレベルでもそれがいかに自分を

分裂させているかに気付いていった。一方、もともと汎神論的な風土である

日本では、二元論に関する議論は一般に切実なものと受け止められてこなか

った。だが、少なくとも近代の日本に生きる私たちにとって、デューイの戦

いは重要な意味を持つのである。戦前のドイツに範を仰いだ日本の社会体制、

教育、そして帝国大学を支配したドイツ観念論哲学の後遺症は、後遺症とも

意識されないままに今日も続いているからである。教育について言えば、ノ

スタルジックな旧制高校賛美、実生活から切り離された高尚なものとしての

教養観、文科系と理科系の分離、受験学力への執着、公立初等・中等学校で

の国旗国歌の強制、などはそうした例であろう。

日本の教育学者のデューイの受容の仕方を検討したケンタロー・オークラ

は、及川平治・梅根悟・森昭と辿りながら、経験から学ぶということは人間

性にかなうことだと認める彼らが、同時にそれでは日本固有の文化や歴史が

伝わらないと危惧したと述べている。そして彼らは、シュプランガーの、共

同体の文化や歴史を経験を通じて自分のものにする、という考え方を採用し

たのである (21)。

デューイは、日本の近代化の歪みを帝国主義化する世界との関係で捉えた。

そして世界が武力を捨てることなしに、日本の民主主義化は達成されないと

した。そのデューイが、日本の身体文化や礼儀作法に社会的デモクラシーの

表れを指摘し、それが武力行使の対極にあると見たことは特筆されるべきだ

ろう。とはいえ、日本の伝統には良いものがある、と単純に評価したわけで

はない。アレクサンダー・テクニークによって開かれた身体との関係は、前

述のように、デューイの生き方と思考の基礎とされており、脳を含む身体の

統合とそれと環境との統合とが同時に成り立つようなあり方が道徳的である

とするデューイから見れば、西洋的な技術と日本的な道徳という二元論は誇

りとすべきものではなく、自己分裂であり、それに気付かないとしたら自己

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欺瞞でしかないだろう。

デューイにとって、身体の発見は、自然破壊をもたらした近代技術文明を

真に人間を成長させる文化へと変えていくための礎石であった。それは、理

性対感情、科学対芸術といった従来の境界を取り払い、思考を定義し直すデ

ューイのその後の試みとともに、エコロジカルで、多元的な、等身大の文化

を形成しようという今日の動きに繋がるものである。

ブーンのデューイ批判は、戦後のポストモダンの批判と重なっている。か

つて、フーコーやアリエスの影響を受けながら、筆者も身体的なもの、感情

や感性的なものを近代理性の抑圧から解放すべきだと思った。そしてそれが

できた時「内なる子ども」を回復することができると思った。しかし、それ

は方法を欠いた夢想にすぎなかったのかもしれない。一方デューイは、前に

述べたように、子どもの経験を統合するには心身の関係を変えることが必要

であり、それには意識制御の技法が役立つことを身をもって知ったのである。

アレクサンダー・テクニークは良く知られているとは言えないが、日本に

も指導者は何人かいて、本も複数出版されている。そして、同様に、人間の

自然を解放するような良質な「体操」は、一つ一つの教室の規模は小さくて

も、今の日本にはいろいろある。筆者もおよそ 20 年「イケダ自然体操(22)」

を主宰する古田潤子氏の指導を受けながら自分の身体との対話の仕方を学ん

できた。そして、デューイと似たようなことを経験し、それがどれほど心身

の安定をもたらし、自分を自由にするかを感じてきた。

デューイは維新以降の日本の歩みを西洋世界や中国との関係で捉えていた

が、今や私たちは、当時よりもさらに広汎で複雑なグローバルな繋がりの中

で生活し、環境破壊や暴力といった人類共有の問題に直面している。他方で、

近代化で大分失われたとはいえ、デューイが日本で出合った武道や禅をはじ

め、多種多様な身体文化・技術がまだ日本にはある。デューイの哲学は、そ

うしたものを今後の日本の社会に、また世界にどのように活かせるかを考え

る上で良い手がかりとなるであろう。

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(1) Dewey,“From Absolutism to Experimentalism” 1930, in LW 5: 147-160. (2) Dewey,“In a Time of National Hesitation”1917, in MW 10: 256-259. (3) Dewey, German Philosophy and Politics, 1915, in MW 8: 135-204. (4) Dewey,“Freedom”, 1937, in LW 11: 247-255. なお、第一次大戦期のデューイ

の考え方について補足しておくと、彼は、戦争は避けるべきだが、もし避けら

れない時には、戦時中に起きる出来事のうち平和の建設に役立つものを促進す

べきだとし、国際連盟の設置にも「命を賭す価値」を認めた(Dewey,“The

Future of Pacifism” in New Republic, July28, 1917)。遠回しな言い方であ

るが、それは、彼がアメリカの参戦を支持したと受け取りうるものであった。

(5) 西垣は「機械情報」、「生命情報」、「社会情報」を区別し、「生命情報」を中心に

据えて情報を捉えなおすことで相対主義的な情報学を乗り越えようとした。デ

ューイは生命が意味を生み出すと考えたが、それは、生物中心的な西垣の「生

命情報」の概念と類似している(西垣通『続 基礎情報学「生命的組織」のため

に』NTT 出版、2008 年)。もっとも、ここでは、デューイは人間の意識が生み

出す過剰な情報を問題にしており、西垣の視点とはずれがある。 (6) Alexander は、「アレグザンダー」とカタカナ表記するのが普通であろうが、そ

の技法がフランス語風に「アレクサンダー・テクニーク」と称されているため、

本稿ではそれに倣うことにした。たとえば、ジェレミー・チャンス(片桐ユズ

ル訳)『ひとりでできる アレクサンダー・テクニーク』誠信書房、2006 年、な

どを参照されたい。 (7) Rockefeller, Jon Dewey :Religious Faith and Democratic Humanism, 318-

319. (8) Dewey,“From Absolutism to Experimentalism”, 1930, in MW 5: 147-160. (9) Rockefeller, Jon Dewey :Religious Faith and Democratic Humanism, 328. (10) Dewey, “Introduction”to The Use of the Self , 1932, in LW 6: 317. (11) Dewey, “Introductory Word” to F. Matthias Alexander’s Man’s Supreme

Inheritance, 1918, in MW11: 351-352. (12) Randolph Bourne, “ Making Over the Body: Review of Man’s Supreme

Inheritance by F. Matthias Alexander”,1981, in MW 11: 359-360. (13) Dewey, “Reply to Reviewer”, 1981, in MW11: 353-355. (14) デューイは、精神分析はマルクス主義と同様に理想主義の変種であり、人間に

真の自由をもたらすものではないとしたが、フロイトやユングと時代の苦悩は

共有していた。彼は、『人間性と行為』で精神分析を意識した議論を展開しただ

けでなく、その後、不安の問題を扱った『確実性の探求』や芸術を主題とした

『経験としての芸術』を発表するなど、フロイトと似たような軌跡を辿ってい

くのである。

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(15) 田浦武雄『デューイとその時代』玉川大学出版部、1984 年、40-43 頁。 (16) Dewey, “Syllabus of Eight Lectures on ‘Problems of Philosophic

Reconstruction’ ” 1919, in MW 11: 341-349. (17) Jon Dewey and Alice Chapman Dewey, ed. by Evelyn Dewey. Letters From

China and Japan, E. P. Dutton & Company, 1920.(BiblioLife, 2010.) 他の日本

からの手紙も同様。 (18) Rockefeller, Jon Dewey :Religious Faith and Democratic Humanism,,

Chap.7-Note94, 608. (19) Dewey, “Liberalism in Japan”, 1919, in MW 11: 156-173. 5 節の3つの引用

は、テキストの直訳ではなく、筆者によるその要約である。

(20) 日本からの手紙でも、デューイは、「この国が、どれほど気取りから自由である

かを知るのは驚き」であり、「我々が知らないソーシャル・デモクラシーがそこ

にはある」と述べている(Jon Dewey and Alice Chapman Dewey, ed. by Evelyn Dewey. Letters From China and Japan, p.38.) 。また、デューイは日本滞在中

に町の人々との交流に努め、一般の大人たちが普段から非常に礼儀正しいこと、

また、子どもたちの間には弱い者いじめや喧嘩がほとんどないことに感銘を受

けた。そして、「彼らはこの世で最も高度に文明化された国民になろうとしてい

る。おそらく余り開化されすぎたかもしれないが」と述べている(ジョージ・

ダイキューゼン、三浦・石田訳『ジョン・デューイの生涯と思想』清水弘文堂、

昭和 52 年、287 頁。)。とはいえ、デューイは中国滞在中に日本への失望を募ら

せていった(Dewey, “On the Two Sides of the Eastern Sea”, 1919 in MW11:174-179)。もっとも、彼が評価したのは近代に生き延びていた日本の身

体文化であったことを考えれば、そうした反応も不思議ではないであろう。

(21) Kentaro Ohkura, “Dewey and the Ambivalent Modern Japan” in ed., Thomas S. Popkenwitz, Inventing the Modern Self and John Dewey, 2005, Palgrave MacMillan, 278-299.

(22) 古田潤子『くつろいで、くつろいで、とことんくつろいで イケダ自然体操』

樹心社、2006 年、にその内容が紹介されている。なお、イケダというのは古田

氏の旧姓である。