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1923 年関東地震における大震火災 神田和泉町・佐久間町はなぜ焼け残ることができたのか? 震災豫防調査會報告第百号(戊) 関東大地震調査報文 火災篇(1925.3.31.) 中村委員報文附図東京市火災動態地図より

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  • 1923年関東地震における大震火災神田和泉町・佐久間町はなぜ焼け残ることができたのか?

    震災豫防調査會報告第百号(戊) 関東大地震調査報文 火災篇(1925.3.31.) 中村委員報文附図東京市火災動態地図より

  • はじめに「神田和泉町・佐久間町はなぜ焼け残ることができたのか?」前ページに掲げさせて頂いた『震災豫防調査會報告第百号(戊)関東大地震調査報文火災:東京市火災動態地図』を見れば,誰しもが抱く疑問であろう.この地図で,神田から両国にかけての地域を切り取ったのには訳がある.隅田川の対岸には2万坪の広大な敷地(被服廠跡)があって,そこに家財道具ごと避難して安堵していた4万人もの人々が,やがて襲ってきた広域火災に伴う大旋風の犠牲になると云う,もう一方の大事件があったことを忘れてはならないと考えるからである.関東大震災とりわけ大震火災について,筆者が以前から注目

    していたのは『震災豫防調査會報告第百号』と共に,吉村昭氏の『関東大震災』の存在が大きかったが,以前に『震災が地域社会に及ぼす影響』なる論説を1986年に「建築防災(建防協,機関誌)」に連載させて頂いたことで,考察を終えたつもりになっていたようである.つい最近になって,竜ケ崎地震や関東地震に興味を抱かれた

    研究仲間のN氏から,関東大震災当時に機能していた和泉町ポンプ所が現在も健在であること,司馬遼太郎氏の著書の中にも神田和泉町・佐久間町の住民が一丸となった消火・防火活動についての記述があることを教えて戴き,改めて神田和泉町・佐久間町を訪ねてみることにした.

    いくつかの成果以前に現地を歩いた時には,街並みがすっかりビル街に入れ

    替わっていたので,当時の面影は皆無であると勝手に思い込ん

    でいたが,今回もう一度現地を歩いてみて,新たに勉強させて頂いた点が幾つかあった.それと併せて,関連の資料や文献も整理して,以下のように纏めさせて頂くことにした.まず次ページの,1923年関東地震における東京市の推定震度

    分布と焼失区域との比較から,焼失区域が分布している東京市の東半分の地域は地震の揺れが大きかった地域とよく対応しており,揺れが小さかった地域では出火しても延焼せず即時消火された割合が多かったことが理解できる.これは当然の結果とも云えるが,2つの図を比較することによって一段と説得力が増すように思われる.「神田和泉町・佐久間町はなぜ焼け残ることができたのか」

    との当初からの疑問について,吉村氏が「その地域は,江戸時代の大火にも難をまぬがれたという事実が語り伝えられていたので,住民たちの間には焼けぬ土地という信念があった.そのためかれらは積極的に火流と戦い,それを阻止することに成功したのだ」と結論づけているのに対し,司馬氏は「“火もとは佐久間町だ”というと,江戸じゅうがふるえあがったらしい.むかしからの不評判に,全員が腹をたてていたにちがいなく」と庶民派らしく解釈しており,両者には微妙な違いが見られる.佐久間四丁目の「町名由来板」によれば,江戸時代の火災で

    町の一部が防火のための火除地に定められ強制移住させられることになったが,人々は河岸に隣接したこの地から離れられず,奉行所に願い出て,たき火をしないことや建物の間を空けるといった条件付きで火除地の使用許可を得て,爾来,この界隈は商人や職人の町として発展を続けたとのことである.現在でも実際に現地を歩いて,それらの痕跡を探すことは可能である.

  • 1923年関東地震における東京市の推定震度分布(左)と焼失区域(右)

    1:被服廠跡2:浅草公園3:神田和泉町

    佐久間町

    A:相生橋(不通) B:永代橋(普通) C:新大橋 D:両国橋E:うまや橋(不通) F:吾妻橋(不通) G:白ひげ橋

    焼失区域

    出火地点

    同(即時消止)

    飛火地点

    旋風の発生地点

    延焼方向

    消防部署所在地■

    注記:今村明恒が余震観測の本郷との対比から関東地震の際の震度分布を推定したもの[震災豫防調査會報告第百号(甲)より]

    注記:中村清二が震災直後に実施した詳細な大震火災の焼失区域図を筆者が一枚の地図にトレースし直したもの.[震災豫防調査會報告第百号(戊, 火災篇)における附図東京市火災動態地図より]

    東京市の東半分が焼失.しかも焼失区域はほぼ地震の揺れが大きかった地域と対応している.揺れが小さかった地域では出火しても延焼せず即時消火された割合が多かった.

  • 燒殘リ中ノ最著シイノハ神田區和泉町佐久間町ノ大地域,淺草公園,石川島佃島一帶等デアルガ,今代表者トシテ神田區和泉町佐久間町ノ燒殘リニ就テ,更メテ説明ヲ加ヘテ見ヤウ.此ハ實ニ見事ナ燒殘リデ震災後暫時ノ間ハ東

    京ノ大焦土ノ中ニ「アフリカ」ノ砂漠ノ中ニ在ルト云フ「オアシス」ノ觀ヲ呈シタ.他所ノ人ハ奇蹟トシテ驚キ町内ノ人ハ土地ノ誇トシテ喜ンダ.今此地域ヲ見ルニ其東北隅ニハ内務省衞生試礆所三井慈善病院ガアッテ其耐火構構造ガ防火ニ有利デアッタ.東側ニ於テハ火ハ淺草藏前ノ方カラ眞正面ニ攻メ寄セテ來タガ然シ幸ニ此ノ火ハ餘リ優勢デ無ク,而モ將ニ到着セントスルトキニ風向ガ急ニ變ジテ火流ハ北進シタ.此ノ北進シタ火流ガ更ニ一轉シテ東カラ西ニ向フモノトナッテ此地域ノ北側ニ平行ニ進ンダ.北側ノ道路ノ向側ニハ三ツ輪研究所,郵便局,市村座劇場等ノ煉瓦建築ノ一列ガアッテ,此自身ハ後ニハ燒ケタガ尚防火壁トシテ効能ガアッタ.南側ハ神田川デ,川向フニハ煉瓦造ノ家ヲ隔テゝ大道路アリ其向フニ木造ノ家ガアッタノダガ,木造ノ家ハ大體南ニ向フ火デ燒ケタノデ,何等ノ心配ハ無カッタ.西側ニハ其南半ニ秋葉原貨物驛ガアッテ其構内ノ神田川ニ通ズル「ドツク」ハ豐富ナル水利ヲ供給シタ.故ニ此部分ハ火ガ西カラ東ヘト正面カラ攻擊シタガソレニモ拘ラズ見事ニ消防シ得タ.西側ノ北半ハ火流ノ方向ガ北カラ南ニ向ッテ甚好都合デアッタ.

    震災豫防調査會編:震災豫防調査會報告第百号(戊) 関東大地震調査報文 火災篇,1925.3.31.

    2.大地震ニヨル東京火災報告,委員 中村清二第4篇 焼残 pp.129-130

    且ツ此一帶ノ地ハ幕府時代ノ火事ニモ其厄ヲ免カレタコトガアルト云フ事實ヲ語リ傳ヘテ,土地ノ人ニ不燒ノ地ト云フ信念ガアルノデ,非常ナ決心デ消防ニ努力シタト云フコトデアル.要スルニ此所ノ燒殘リハ種々ノ原因ガ極メテ有利ニ助ケ合ッタノデアル.奇蹟ト云フ語デ表現サレル様ナ偶然ノ出來事又ハ神祕的ナ事實デハ斷ジテ無イ.東京市ノ大部分ヲ焦土ニシタ彼猛火ノ中ニ,

    尚上記ノ如キ燒殘リガ點々存在スルノヲ見,又一方消防ニ勉メタ所デハ多ク其効ヲ奏シテ居ルノヲ見ルト,吾人ハ人ノ力ノ偉大ナルニ驚カザルヲ得無イ.(以下略)

    震災豫防調査會報告第百号(戊) 関東大地震調査報文火災篇(1925.3.31.) 中村委員報文附図東京市火災動態地図より,日本橋図幅の一部を転載.

    関東大震災(1923)における神田佐久間町・和泉町の防火活動についての記述集

  • 関東大震災の焼失図を見ると,東京市の大半は焦土を示す朱色がべったりと塗りつけられている.が,その中に浅草観音境内,石川島,佃島,神田区和泉町,佐久間町一帯が焼失をまぬがれたことがわかるが,殊に和泉町,佐久間町の地域が,広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区をしめす白地のままであるのがひどく奇異なものに映る.この一区画の焼け残りは,関東大震災の奇蹟とさえ言われた.震災後,大焦土と化した東京市の中で,その

    地域に家並が残されている光景に,人々は驚きの眼をみはった.それは,広大な砂漠の中に出現したオアシスのようだと表現する者さえあった.和泉町,佐久間町の見事な焼け残りは,好条件に恵まれてはいたが,住民たちの努力によるものであった.環境条件としては,町の東北隅に内務省衛生

    試験所,三井慈善病院があって,それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした.また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所,郵便局,市村座劇場等の煉瓦造りの建物が一列に並び,それらは後に焼けたが防火壁の役目を果した.さらに南側は神田川で,対岸に煉瓦造りの建物が並び,その向う側には広い道路が走っていたので,火流を防ぐことも比較的容易であった.それに水道は杜絶したが,神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドックがあって,水利に恵まれていたことも幸運だった.しかし,住民たちが,四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり,火と戦った

    吉村 昭:関東大震災,文春文庫,pp.103-106,1977.8.25.

    ことは大きな賭であった.もしも防火に失敗すれば,町内には炎がさかまき,全員焼死することが確実だった.最初に火が起ったのは和泉町の三ツ輪研究所

    で,隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが,水道の水が断たれていなかったので,住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた.午後三時頃になると,本石町方面から火が迫り,神田川をへだてた地区と東龍閑町,豊島町一帯を西から東に焼きはらった.丁度佐久間町二、三,四丁目は,その大火災の風下にあたっていて,重大な危機におちいった.住民たちは,神田川の水をバケツリレーで汲上げ,極力消火につとめた.そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが,住民は一致してこれを消しとめた.また他の一隊は,神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき,道路の南側で火流を阻止することに成功した.日が没し,町の周囲には大火炎が乱れ合った.

    午後十一時頃,神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた.その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き,秋葉原駅構内をなめつくして和泉橋の袂まで燃えてきた.そのままでは平河町が焼けつくされてしまうので,住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ,ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた.さらに,朝五時頃,浅草左衛門町,向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので,それに面した家屋を破壊し,西側に火が移るのを防止した.

  • している.この焼け残り区域の住民たちが,消防署の助力もなく,独力で消火に成功した事実は賞讃の的になった.その地域は,江戸時代の大火にも難をまぬがれたという事実が語り伝えられていたので,住民たちの間には焼けぬ土地という信念があった.そのためかれらは積極的に火流と戦い,それを阻止することに成功したのだ.(以下略)

    二十時間にわたる火との戦いで,住民たちの疲労は濃かった.足腰も立たず土に座りこむ者が多かったが,その日の午後三時頃,最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた.住民たちは,声をはげまし合い和泉町方面に集った.少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに,老人,婦人も加わり,あくまでも町を死守しようとかたい決意のもとに大火炎の迫るのを待ちかまえた.その時,町内の帝国喞筒株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した.それは,同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった.住民たちは,同社重役の快諾を得てポンプを借受け,まず火の迫る以前に同町の西側に注水した.やがて,火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた.住民たちは,ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し,また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし,全力をあげて消火につとめた.火との戦いは八時間にも及び,その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した.その結果,千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである.この奇蹟的ともいえる和泉町,佐久間町の焼

    け残りは,すべて住民の努力によるもので,消防署は防火活動に全く従事していない.警視庁発行の「大正大震火災誌」の「消防活動」の項にも,「神田区従事隊ナシ」という文字が記されている.そして,その事情として,神田区内

    の各所から出火した火災が拡大したが,区内の消防隊はすべて隣接の区に出動し,また「隣接消防署ノ諸隊モ各方面ノ防禦ニ任ジタレバ,來リテ防火ノ衝ニ当リ得ルモノ一隊モナク,遂ニ和泉町及ビ佐久間町ヲ除クノ外,区内ノ全部ヲ挙ゲテ焦土ト化シ,更ニ本郷区半部ヘモ延焼スルニ至リシハ,惟レ消防機関ノ不備ニ原因セリトハ云エ誠ニ痛恨ノ情ニ堪エザルナリ」と慨嘆

    1923年関東地震における東京市の大震火災の状況と神田和泉町・佐久間町の防火活動

    瀬尾和大・佐間野隆憲:震災が地域社会に及ぼす影響 その1.-関東大地震(1923)における事例研究-,建築防災(財団法人 日本建築防災協会 機関誌).1986年9月号 の[関東地震の時系列ダイヤグラム]より火災に関する部分を転載.