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I 問題の所在 スウェーデンの普遍主義的福祉政策の形成期 において,ミュルダール夫妻(夫グンナーと妻 アルヴァ)が大きな役割を果たしたことは広く 知られている.1934 11 月に出版された夫妻 の共著『人口問題の危機』は,400 頁余りの学 術書であったにもかかわらず,翌年にはベスト セラーとなった.彼らはラジオにも出演し,ス ウェーデン国民に強力な思想的影響を与え 1.グンナーは 1935 年から 38 年にかけて人 口委員会 2の主要メンバーとして 17 もの報告 書の作成に携わり,政策提言の多くが同時期の 国会で採択された 319 世紀末からスウェーデンは出生率の低下 を経験していた.産業化の進んだヨーロッパ諸 国における共通の傾向であったが,スウェーデ ンでの下落は著しかった.1910 年には,保守 派(自由国民党)政権が避妊具の広告・販売を 制限する法律を制定し,歯止めをかけようと試 みた.しかし,効果は上がらず,「スウェーデ ン人が消滅する」という危惧が広まった.他方, 労働運動を代表する社民党では,新マルサス主 義が支配的であった.生活水準の維持向上のた めには,産児制限に基づく人口抑制が望ましい という考えが浸透していた.1930 年代に入る と,大恐慌の影響がスウェーデンに及ぶ.31 年には失業率が 25%を超えた.32 年には経済 危機にほぼ無策であった保守派に代わって社民 党が政権につき,経済改革や社会改革が始まる. ミュルダール夫妻は,スウェーデンが独自の経 済社会システムを構築していくスタート地点に いた.社民党員となっていた彼らは,人口論議 を広範な社会改革への梃子にしようとした. 夫妻は何を説いたのか.人口をめぐって対立 するイデオロギーのなかで,彼らは両者を架橋 するような新しい見地を切り開き,普遍主義的 福祉政策への合意形成を図ったといえる 4.彼 らの基本的立場は,「自発的親性 voluntary par- enthood」の原則に沿うものであった.親になる・ ならない(子どもをもつ・もたない)について の個人の選択の自由を認める立場から産児制限 を推奨した.しかし同時に,親になろうとする 自由を妨害するような経済的・社会的困難は除 去されなければならないということを強調し た.出生率低下は望ましい目標とはされなかっ た.夫妻は「予防的社会政策」という概念を提 示し,諸困難が顕在化する前に普遍主義的福祉 を施す必要を訴え,そうした方策のみが民主的 国家において出生率低下に歯止めをかけうる適 切な手段であると主張した.ここにおいて,人 口政策は社会政策と等値されたのである 5こうしたミュルダール夫妻の人口政策論の内 容については,相当程度の研究が進んできてい る.わが国でも早くからその概要は少なからず 紹介されていた 61930 年代・ 40 年代のスウェー 1930 年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール 「消費の社会化」論の展開藤田 菜々子 『経済学史研究』51 1 号,2009 年.Ⓒ 経済学史学会.

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I 問題の所在

 スウェーデンの普遍主義的福祉政策の形成期において,ミュルダール夫妻(夫グンナーと妻アルヴァ)が大きな役割を果たしたことは広く知られている.1934年 11月に出版された夫妻の共著『人口問題の危機』は,400頁余りの学術書であったにもかかわらず,翌年にはベストセラーとなった.彼らはラジオにも出演し,スウェーデン国民に強力な思想的影響を与えた1).グンナーは 1935年から 38年にかけて人口委員会2)の主要メンバーとして 17もの報告書の作成に携わり,政策提言の多くが同時期の国会で採択された3). 19世紀末からスウェーデンは出生率の低下を経験していた.産業化の進んだヨーロッパ諸国における共通の傾向であったが,スウェーデンでの下落は著しかった.1910年には,保守派(自由国民党)政権が避妊具の広告・販売を制限する法律を制定し,歯止めをかけようと試みた.しかし,効果は上がらず,「スウェーデン人が消滅する」という危惧が広まった.他方,労働運動を代表する社民党では,新マルサス主義が支配的であった.生活水準の維持向上のためには,産児制限に基づく人口抑制が望ましいという考えが浸透していた.1930年代に入ると,大恐慌の影響がスウェーデンに及ぶ.31

年には失業率が 25%を超えた.32年には経済

危機にほぼ無策であった保守派に代わって社民党が政権につき,経済改革や社会改革が始まる.ミュルダール夫妻は,スウェーデンが独自の経済社会システムを構築していくスタート地点にいた.社民党員となっていた彼らは,人口論議を広範な社会改革への梃子にしようとした. 夫妻は何を説いたのか.人口をめぐって対立するイデオロギーのなかで,彼らは両者を架橋するような新しい見地を切り開き,普遍主義的福祉政策への合意形成を図ったといえる4).彼らの基本的立場は,「自発的親性 voluntary par-

enthood」の原則に沿うものであった.親になる・ならない(子どもをもつ・もたない)についての個人の選択の自由を認める立場から産児制限を推奨した.しかし同時に,親になろうとする自由を妨害するような経済的・社会的困難は除去されなければならないということを強調した.出生率低下は望ましい目標とはされなかった.夫妻は「予防的社会政策」という概念を提示し,諸困難が顕在化する前に普遍主義的福祉を施す必要を訴え,そうした方策のみが民主的国家において出生率低下に歯止めをかけうる適切な手段であると主張した.ここにおいて,人口政策は社会政策と等値されたのである5). こうしたミュルダール夫妻の人口政策論の内容については,相当程度の研究が進んできている.わが国でも早くからその概要は少なからず紹介されていた6).1930年代・40年代のスウェー

1930年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール―「消費の社会化」論の展開―

藤田 菜々子

 『経済学史研究』51巻 1号,2009年.Ⓒ 経済学史学会.

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デン人口論議の通史的研究として Hatje(1974)がある.ミュルダール夫妻の活動のもっとも包括的で詳細な研究は Carlson(1990)によって出された.社民党の政治戦略の一環として検討したのは Tilton(1990)や宮本(1999)である.夫妻が優生学や断種法に関与したことへの近年の批判は二文字・椎木(2000)によって整理された7).当時のスウェーデン人口統計は同時代の Thomas(1941)のほか,Kälvemark(1980)に詳しい. 本稿の目的は,従来の諸研究を踏まえつつも,経済学史研究としての新たな視点による分析を提供することである.1934年の共著により,人口論はミュルダール夫妻

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の議論として研究されることが一般的であるが,彼らの思考は必ずしも一枚岩ではない.『人口問題の危機』の役割分担は,グンナーが歴史,理論,経済,統計に関わる章を担当し,アルヴァが家族,子ども,特殊プログラムの提案であった(Carlson 1990, 69).1940年にグンナーは『人口』を,1945年にアルヴァは『国民と家族』を改めて別個に出版しており,そこには彼らの成熟した分析と思想が表れている8).本稿では,グンナー(以下,ミュルダールと記す)の人口論に注目し,いかなる経済学的主張が含まれているかといった点を中心に検討する. 本稿の構成は以下のとおりである.第 II節では,ミュルダールが直面したスウェーデンの人口問題の状況を簡潔に示す.出生率低下が注目されるなか,イデオロギー的対立があった.第 III節では,ミュルダールによる出生率低下の原因分析とそれに基づく保守派批判を明らかにする.第 IV節では,なぜミュルダールが出生率低下を回避すべきと考えたのか,新マルサス主義批判を支えた経済理論的考察について検討する.第 V節では,ミュルダールの人口政策論で唱えられた「消費の社会化」に注目し,その含意を明らかにする.最後に第 VI節では,スウェーデンの福祉政策およびミュルダールの

経済思想の展開における人口論の位置と意義を示し,以上の議論を総括する.

II スウェーデンにおける出生率低下と 2つのイデオロギー

 19世紀後半から,産業化の進んだヨーロッパ諸国では出生率の低下が観察された.スウェーデンでは比較的遅くに産業化が始まったが,1870年代以降には急速に進行した.1870

年には約四分の三の人口が農業従事者であったが,1910年には半数を割り,1930年代後半には三分の一に満たなくなった.産業化とともに都市化が進んだ.1900年に 21.5%であった都市人口は,35年には 34%に達した(Carlson

1990, 1―2).しかし,農村部は全般的に貧困であり,都市の住環境は過密で劣悪であった.1840年から 1930年にかけて,総人口の約四分の一が北アメリカへ流出した. 出生率が低下し始めたのは 1880年代からである.死亡率が改善されるなか,出生率の低下が 進 ん だ. 粗 出 生 率 は,1901―05 年 に は26.1‰,16―20 年には 21.2‰,26―30 年には15.9‰であり,33年には 13.8‰を記録した(2).1925年には人口再生産率が 100%を割り(Myrd-

al, A. 1939, 725),1938年には約 75%となった(Myrdal 1940, 45).1930年代前半から,スウェーデンはヨーロッパで最低レベルの出生率をもつ国となった9). Kälvemark(1980, 50)によれば,1930年代のスウェーデンにおける出生率と結婚率に関する諸特徴は,5点に整理できる.第 1に,出生率が急激に下落し,人口再生産率が 100%を大きく下回っていることである.第 2に,地域間で出生率に差があること.北部では高い出生率が保持されていたが,南部は低い出生率であった.関連して第 3に,都市と農村では,小さくなりつつあるが,出生率に差があること.出生率低下は都市部で顕著であった.第 4に,所得や社会的地位といった社会経済的変数と出生率

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の間には,概して負の相関関係があること.つまり,高所得層における低出生率,低所得層における高出生率という傾向があること.第 5に,結婚の一般化・早期化である. 要するに,20世紀に入って新たに起こってきた現象は,緩やかな結婚率の上昇であり,それにもかかわらず出産を回避する者が増えるという大衆の行動であった.そして,その傾向は都市部に顕著に見られた.ストックホルムにおける 1935年の人口純再生産率はわずか 39.4%であった(Glass [1940] 1967, 315)10). さて,当時のスウェーデンにおいて,人口に関するイデオロギーは大きく二つに割れていた11).一方の考え方は,同国において人口問題を初めて大きく取り上げた理論的パイオニア,ヴィクセルに由来するものであった.経済的困窮を背景として,ヴィクセルは新マルサス主義を強力に唱えた.その発端は,1880年 2月 19

日にウプサラで行ったアルコール依存症についての講義である(Carlson 1990, 7; 都留[1964]2006,97)12).そこで彼は,貧困こそが人間を飲酒に走らせるのだとし,貧困からの脱出法として産児制限を提唱した.人口問題への熱烈な関心から経済学研究へと進んだヴィクセルは,「人口問題は,あらゆる社会の諸問題のなかで,最も重要でありながら,同時に最も軽視されてきたものである」(Wicksell 1910 /訳 49)と述べ,『国民経済学講義』の第 1章に人口論を据えた13).その主張は以下のとおりであった.

いわゆる過剰人口が,すなわち一国にその扶養能力を超える住民のいる状態が,存在するかしないかについて,相当無意味な論争がなされてきた.そして最も重要な問題点が,可能な最大人口ではなくて最適人口に関するものであること,つまりそれ以上の人口増加それ自体によっては,もはや平均的な福祉の増加が起こらずに,その減少が起きてしまうという,そのような水準〈の人口〉に関するも

のであること,この点が問題にされずにきたのである.私自身が徐々に到達した確信によれば,わが国においてもヨーロッパの全ての国々においても,現実の人口は,とっくに最適水準を大幅に超過してしまっているのであり,したがって福祉を向上させる道は,これ以上に人口を増加させることに存するのではなくて,むしろ数十年をかけて,精力的に人口を減少させつづけていくことに存するのである.(訳 90)

 ヴィクセルが問うたのは,「どのようにして必要な〈人口〉制限を達成しなければならないのか―死亡率を増加させることによってか,それとも出生率を低下させることによってか 」(訳 96)という二者択一であった.若干の反論を認めつつも,彼は後者の選択しかありえないとした.となると,次なる問題は,出生率を低下させる手段である.もしマルサスと同様に,晩婚や非婚を提唱するならば,私生児や売春の増加に結びついてしまう.それを是認することはできない.ならば,残された手段は,「もっとりっぱな,もっと自然な,そしてもっと人間らしい,生活方法」(訳 98)となる.早婚しても,平均 1家族につき 2~3人の子どもにとどめるようにするという方法が提唱された. ヴィクセルがこうした新マルサス主義の人口論を展開したとき,一般的関心はほとんど得られなかった.しかし,出生率低下と時を同じくして,その考えは労働者階級を中心に受け入れられていき,スウェーデンでは 1911年にマルサス主義連盟が設立された(Glass [1940] 1967, 320).出生率低下は,高度な文化あるいは生活水準の上昇の指標とみなされるようになった.こうして,新マルサス主義の人口論は,マルクスの相対的過剰人口論とも相俟って,社民党に浸透した. 他方,新マルサス主義からの挑戦を受けるまで支配的であった思想は,保守的出産奨励主義

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であった.保守派は,伝統的家族像を理想とみなし,非婚や避妊を罪悪と考えた.結婚した女性の雇用には反対であり,女性にはもっぱら家事と育児の役割を求めた.彼らにとって,脱貧困の手段として産児制限を推進する新マルサス主義は,女性解放運動と同じく,嘲笑の対象であった(Carlson 1990, xvi).加えて,保守派にはドイツの民族主義的な優生学の影響も受けて,人口問題を民族の「質」という観点から論じようとする議論もわずかながら含まれていた(宮本 1999, 72). 19世紀末から保守派は人口減少を憂慮し,独身税や無子・少子夫婦への課税などの提案を国会に提出した.しかし,とりわけ 1910年の反産児制限法の制定は,彼らの考え方をよく表すものであったといえよう.保守派は,出生率低下の原因を近代化や産業化に伴う諸個人のモラルの低下にあると見ていた.伝統的な価値規範に代わり,過度の贅沢,個人主義的エゴイズムといった一般的性質が生じてきたとし,そうした「有害」な人々の性質や行動を法律で押さえ込もうとしたのである. 2つの対立するイデオロギーに対し,ミュルダールは,出生率低下の持続的傾向が観察されるなかで,旧来の保守的出産奨励主義も社民党が掲げる新マルサス主義もともに限界を呈していると考え,両面批判を行った.保守派に対しては,出生率低下の原因は主として経済面・社会構造面にあるとの認識を示した.保守派の戦略は,所得や文化レベルの高い階層が産児制限をし,低い階層はしないというような,保守派にとってより深刻なジレンマをもたらしているにすぎないとも指摘した(Myrdal 1940, 93).他方,新マルサス主義に対しては,出生率低下および人口減少は歓迎されるべき現象ではないとし,出産を奨励する必要を訴えた.出生率低下は決して好ましい経済的帰結をもたらすものではないという考えからであった. ミュルダールの人口政策論は,これら両面批

判から導き出される.そこで,次の第 III節では出生率低下の原因に関する彼の保守派批判を,第 IV節では出生率低下の経済的帰結に関する新マルサス主義批判を明らかにし,そのうえで政策論の検討に入ることにしよう.

III 出生率低下の原因―保守派批判―

 1929―30年にアメリカで研究生活を送っていたミュルダール夫妻は大恐慌に直面した.これが転機となり,彼らは政治活動に取り組むことを考え始めた.1929年 10月 29日,師であったカッセル宛の手紙において,ミュルダールは将来の研究計画に関してこう書いている.「人々の生活により直接的に関わるような仕事をしたいと考えています」(Appelqvist and Andersson

2005, 86).1931年に帰国した夫妻は社民党に入党する.もともとミュルダールは保守的な政治信条の持ち主であった.しかし,社会民主主義に傾倒していたアルヴァからの影響があった.有力な政党からの選択でもあった14). ミュルダール夫妻の社民党入党に先立つ1930年夏にはストックホルム万博が開かれ,スウェーデンでは機能主義的デザインが勃興した.帰国した夫妻は,急進派の建築家たちと知り合い,住みよい住居について議論する機会を得た.この経緯から,ミュルダールは「人々の生活により直接的に関わるような仕事」として,まず住宅問題に接近した.建築家オーレン(Uno

Åhren)とともに,社会相メッレル(Gustav

Möller)に会いに行き,スウェーデン第 2の都市イェーテボリの住宅問題調査と住宅政策案の提出を委託するよう要請した.この要請は断られたが,大蔵相ウィグフォシュ(Ernst Wig-

forss)が調査委員会の設置を認めた.1933年秋には,改めてメッレルにより社会住宅委員会が設置された.それは後に人口委員会の下部組織となる.ミュルダールは,都市の労働者階級が住む過密で低質な住居とそれが家族生活に与える影響について調査することで,人口問題へと

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関心を広げていった15). とはいえ,それ以前からも,ミュルダールは人口問題に少なからず注目していた.それは経済学の方法論的・理論的関心からであった.経済学に潜む政治的偏向について論じた『経済学説と政治的要素』(初版 1930年)の第 6章はもともと人口論に当てられていたが,彼は完成稿でそれを削除して注記にとどめたとされる.経済学での人口の扱われ方への批判は本の中の一章では書ききれないと考えたからであった(Carlson 1990, 40).ミュルダールは,「人口問題に関する経済論議はいついかなる場合も,経済的思考の確立された体系のどの部分よりも,おそらく政治理念や利害といった意志的要素の支配を受けている 」(Myrdal 1938, 200)と認識していた.彼の見方によれば,マルサスの人口論は,すべての人間は平等に生まれ平等の権利をもつという急進的思想が登場したことに対する保守的反動の所産であった. ミュルダール夫妻は,1934年の夏にノルウェーの別荘で『人口問題の危機』を書き上げた.グンナーは 1931年には『経済学説と政治的要素』で削除した人口論を『ティーデン』(社民党誌)に公表しようとしていたが,保守派のものと見紛うばかりの新見解であったため,編集長であったウィグフォシュに拒否されていた(Jackson 1990, 76).夫妻はそのときの論文を下敷きにして議論を深めた. ミュルダールは,出生率低下の背景を分析し,その原因を次のように特定した.すなわち,強制的不妊手術や自発的妊娠中絶の件数は増えていない.したがって,主原因は,結婚した夫婦が自らの意志に基づき,産児制限のテクニックを用いて子どもを多くつくらなくなったことである(Myrdal 1940, 49―50).環境要因としては,劣悪な住環境や若年層への失業の集中が考えられる(Myrdal and Myrdal 1935, 141―75).しかし,問題はそうした困難のみではないだろう.過去にはより厳しい状況でも出生率が高かったから

である.現代の問題は過去とは異なる.人々が出産を避けるのは,女性の労働市場への進出などもあって生活水準を上げるのが可能であるのに,もし子どもをもつならば,それが不可能となってしまう構造があるからである(Myrdal

1940, 55). ミュルダールによれば,出生率の低下は,保守派が主張するような個々人のモラルの問題とみなされるべきではない.社会構造の問題として捉えられるべきなのである.もはや子どもは労働力の担い手や勢力顕示の手段とはみなされないし,将来的にも老親の扶養者としての役割をそれほど期待されていない.子どもをもつことは経済的負担の増加を意味し,機会費用の増加をも意味するから,人々が産児制限に励むのである.個々の夫婦において「多子貧困」か「少子富裕」かの選択が生じており,後者を選択する,あるいは選択せざるをえない夫婦が増えつつあるというのが問題の真相なのである. しかし,次節で詳細を論じるが,もしすべての者が後者を選択し続けたら,それが拠って立つ基盤そのものが崩壊するというのがミュルダールの展望であった.ここには,個人的利益と集団的利益のコンフリクトという問題が存在しているのであり,集団的利益の確保こそが国家が人口政策を発動させる理由に他ならない.しかしまた,人口政策論におけるミュルダールの「政治的前提」とは民主主義の遵守であった(32).人口政策は,個人の自由という民主主義の規範を損ねることなく,私的態度にどう影響を与えうるかという視点から論じられなければならない.したがって,避妊の抑制を強要する方策,女性を家事労働に専念させる方策は,彼の立場と合致するものではなかった.個人の生活スタイルを強制的に過去に戻すことはできないのであり,「家族は国家への服従ということではなく,自らの幸福のために子どもをもつべき」(Myrdal 1938, 204)なのである.こうした自発的親性原則の貫徹は,当時のナチスドイツ

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の出産奨励策はもちろん,フランスなどの保守的出産奨励策の方針とも異なった.ミュルダールは,避妊法をいっそう普及させることによって「望まれない子」の出生を減らさなければならないと主張したのである16). こうしたミュルダールの保守派批判の見地は,概ねアルヴァと共有されていた.彼らがともに見出したのは,人口減少か,それとも社会改革か,という二者択一であった(Myrdal and

Myrdal 1935, 17).彼らは後者を選択した.産児制限のテクニックをよく知っている市民が,自ら進んでより多くの子どもをもとうとするように,社会を変えなければならない.保守派が問題視した諸個人のモラルは,社会改革の後に議論されるべき内容であった(Myrdal 1940, 218).

IV 出生率低下の経済的帰結 ―新マルサス主義批判―

 ミュルダールは,出生率低下はモラルの問題であるとする保守派の見解を退けた.彼は民主主義理念に基づいて産児制限を認め,さらにはいっそう普及させるべきと主張した.しかし,彼は人口減少には反対であった.人口減少を歓迎する新マルサス主義とは対照的に,出産を奨励すべきという点については保守派と意見を同じくした.では,なぜ彼は人口減少を回避しなければならないと考えたのであろうか. ミュルダールが人口減少を食い止めようとしたのは,主に 2つの不安があるからであった.第 1は,後年の彼の国際主義者ぶりからすると意外にも思われるが,国民主義的理由である.これは当時の不安定な政治情勢を背景に,ある程度ヨーロッパ諸国に共通して人口問題への関心を引き起こした理由であったが,スウェーデンでは領土拡張という軍事的野望よりも移民を誘引するかもしれないという恐れから人口問題への関心が高まった.ミュルダールは,スカンディナビアからの移民は北欧統合への前進とし

て望ましいとしたが,より可能性が高いのは南・東欧からのスラブ系民族の流入であるとし,それはスウェーデンの伝統文化を脅かすとともに,賃金引下げなどの悪影響を引き起こすと考えた(Myrdal 1938, 203―04).ただし,彼はこうした国際事情は主要論点ではないとも述べている(Myrdal 1940, 86). したがって,ミュルダールが第 1の不安と同等以上に重く考えていた,あるいは次第に重視するようになったのは,第 2の不安の方であったといえよう.それは経済学的考察による不安,すなわち,出生率低下が引き起こす需要および供給の減退であった.この点については,『人口』の第 6章「人口減少の効果」で詳しく論じられている.それはアルヴァの人口論には見られない彼独自の議論展開である17). 同章において,ミュルダールは,マルサス以来,経済学における人口論議は過剰人口の脅威に関するもののみとなってきたこと,ならびに,特定時点の人口量や年齢分布の経済的効果に関する静態的分析がなされてきたのみであったことを批判し,新たに求められるのは,通時的な人口変化がいかなる経済的効果を及ぼすかについての動態的分析であると主張することから議論を始めた(130).彼は,産児制限が普及してきたこと,生産に関わる技術進歩には減速が見られないことから,マルサス人口論における悲観的・保守的結論がもはや現実にそぐわないものとなったと考えていた(132―35). ミュルダールは,経済学における既存の人口理論を辛辣に批判した.批判対象となったのは,J. S.ミルに始まり,エッジワース,シジウィック,ヴィクセルによって展開され,キャナンに至るまでの最適人口理論の潮流である(26, 139―43)18).それらの一般的特徴は,人口増加のもたらす相反する 2つの効果―分業・協業・組織化の進展による収穫逓増と資源の希少性による収穫逓減―を区別し,両者の相互酌量によって平均生産力ないし平均生活水準が最大と

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なる点を最適人口とみなすことであった.これに対し,ミュルダールは収穫逓減の妥当性を疑った.先進諸国は資源不足には悩まされておらず,技術知識の蓄積による持続的経済発展の見通しの方が適合的であると考えたからである.そして,そう考えるならば,量的な最適人口は確定しえない.また,そもそも現実には技術などの各要素は変化しているのであるから,最適人口も常時変化するはずである.結局,彼の評価において,最適人口理論とは現実の分析や政策提言には役立たない「思考の空想上の虚構物」(143)でしかなかった. ミュルダールにとっての主要な関心は,出生率低下とそれに継起する人口減少が引き起こす経済的効果についてであった.この問題に対して彼は,出生率低下は短期的には好ましい経済効果をもたらす可能性があるが,中長期的には必ずやそれを凌ぐほどの悪影響を与えるという展望を示した. 出生率が低下したからといって,即座に人口減少となるわけではない.ここにタイムラグが生じる.ミュルダールは,多産から少産への移行期では,生産年齢人口に対する被扶養者人口の割合が小さくなるだろうから,生活水準を上げる効果がありうることを指摘した(149)19).しかし,彼も認めているとおり,この効果は持続しえない.出生率低下が下止まりし始めると,やがて分母たる生産年齢人口の相対的減少が生じてくるからである.人口年齢構造が安定的になるに従い,その有利性は失われていく.また同時に,絶対量の問題として,総人口の減少も生じてくるはずであるからである. そして,彼は続く段階をこう予測した.「人口増加傾向から人口減少傾向への変化,あるいは一般的に人口減少傾向による主要な動態的効果は,生産(および消費)の増加率の下落であるに違いない」(150).この表現は幾分不明瞭であるが,まずは消費面での影響が出ると論じられた.人口減少による生産下落効果は,当面

の間,技術進歩によって打ち消される可能性が少なからずある.また,それは労働人口に関連するので,現在の出生率低下による直接的影響が出てくるのは 15~20年後と見積もられるからである(151). さらに見通しは続く.こうした人口減少に基づく消費需要低下傾向は投資をも減少させることになろうというのである.彼は 2つの理由を挙げて説明した. 第 1に,投資リスクが高くなるからである.住宅建設を事例に説明がなされている.人口が増加しつつある街ならば,住宅の過剰建設はそのうち需要が追いつくと予想されるためにさほど問題とならない.しかし,人口が一定もしくは減少しつつある街では,そうした投資の失敗は損失に直結する.企業が抱えるリスクは大きくなり,投資意欲は小さくなる.こうした状況は多かれ少なかれ資本投資全般に当てはまるという.「市場規模の拡大が停滞すると,資本主義的企業全般においてリスクが増大し,その帰結として,私的投資を妨げる作用をもつことになるのである」(154―55). 第 2の理由は,投資誘因の減少である.再び住宅が事例とされている.先進諸国では生活水準が向上してきたのであり,人々はそれに合わせて新たな財を購入してきた.しかし,人口減少の状況では,この流れがスムーズにいかなくなる.例えば,住宅の買い替えである.人口減少下では,これまで暮らしてきた住居の価格が下落することで,人々が既存の住居にとどまりがちになることがスウェーデンの実証研究から確認できた.こうした事象も資本投資全般に妥当するとされる.より高い生活水準を提供するような資本財への需要,一般的に新規需要が減退する(157). こうして人口減少は,投資リスクの増大と投資誘因の減少という 2つの作用を通じて,私的投資総量の低落傾向をもたらすと考えられた.人口が減少しつつあるときは生産力向上のため

藤田 1930年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール  83

の投資拡大の必要も少ない.ミュルダールの結論的展望は次のとおりであった.すなわち,人口減少下では,「貯蓄と投資のアンバランスの常態的リスクが増大」するのであり,「もし人口低落傾向が投資を妨げるならば,進歩は止まり,失業と貧困が増加するであろう」(158)20). この時期,ミュルダールはストックホルム学派の一員として『貨幣的均衡』(初稿 1931年,ドイツ語版 1933年,英語版 1939年)を完成させつつあった21).そこで彼は,ヴィクセルの不均衡累積過程の理論に基づいて,投資と貯蓄の事前的(ex ante)一致問題として貨幣的均衡を論じ,また,貨幣的均衡状態であっても必ずしも完全雇用状態とはならない可能性があると示唆した.ミュルダールの力点は価格形成問題に置かれ,雇用最大化を貨幣政策の目標とすることに疑義を呈してもいたが,失業対策についての彼の見解は『一般理論』のケインズと概ね共通していた.ミュルダールは 1932年に失業委員会の委員に任命されており,翌年には政府予算案付録として拡張的財政政策を説いた覚書を,34年の最終報告書にも付録として「財政政策の効果」を提出している22).ここでの人口論もそうした貨幣理論研究や失業委員会の関心と密接に関連していると考えられよう.「欠陥はむしろ需要面にある」(Myrdal 1940, 136)のであり,人口減少は失業と貧困をもたらす.これがミュルダールにおける新マルサス主義批判の中心的主張であった. ミュルダールは出生率低下が供給面の動態にもたらす影響についても考察を残した.出生率低下に伴って,総人口に占める高齢者の割合が高まっていくが,労働年齢層内部での主要な効果として,若年層の昇進の機会が制限され,労働意欲・労働生産性が減退すると論じた.また,人口減少は「アメリカン・ドリーム」の喪失という広範な社会心理的停滞を引き起こすと予測された(162). 以上のような展望に立脚し,ミュルダールお

よび人口委員会が政策目標としたのは,定常人口の確保であった.実際の状況を鑑み,せいぜいそれが現実的な数値目標であろうと考えられたからである23).しかし,出生数からして,幼児死亡率が仮に 0%となったとしても,その到達は無理であった.婚姻外出生が好ましくないとすれば結婚率の上昇が必要であり24),新マルサス主義のいうような「2子システム」ではなく,「3子システム」が必要とされた.さらに不妊症の存在を考慮すれば,「4子システム」でさえも目指されなければならないとされた(176).こうした数値目標に近づくべくミュルダールが考えた人口政策については,節を改めて検討することにしよう.

V 消費の社会化

 ミュルダールは,前節で述べたような人口減少下で展望される失業と貧困を回避できるかどうかは,まずは投資減少傾向に対する政府の対応策にかかっていると考えた.投資リスクを減らしうるか.新規資本財への投資誘因を増大させうるか.前者においては,個々の企業行動をコーディネートするような中央計画や投資コントロールが有効とされた.後者については,そうした新規投資を後押しするための補助金や現物補助,あるいは公共投資という手段が提示された.政府による投資管理の必要が明白に語られた(Myrdal 1938, 206; Myrdal 1940, 159)25). しかし,ミュルダールの人口政策論の主眼は,投資の管理に置かれたのではなかった.なぜなら,それはあくまで人口減少に対する受身的な処方箋であり,いうなれば,人口趨勢を所与とした,人口政策とは切り離された経済政策にすぎなかったからである.第 II節で見たように,彼は出生率低下の原因を分析しており,その趨勢自体を反転させうるような社会改革の必要を訴えていた.この視点から,彼が投資以上に管理する意義を論じたのは消費であった. 第 III節で言及したように,ミュルダールは

84  経済学史研究 51巻 1号

出生率低下問題を個人的利益と集団的利益のコンフリクト問題と認識していた.この問題をより広く社会保障の必要から考えると,状況はこう把握できる.社会が保障すべき対象はほぼ老年層と幼若年層で占められる.大概の人は「自分もまた年をとる」と考えており,老年齢において保障を受ける「権利」をもつと考えている.しかし,すべての大人が子どもをもつわけではない.避妊法も普及している状況では,子どもをもつことは個人の「選択」であり,その養育は個人の「義務」とみなされがちである.加えて,大人は選挙権をもつが,子どもはもたない.その結果,老年層への保障は多数派の政治的支持を得て充実しやすいのに対し,出産奨励策や育児支援策といった幼若年層への保障は軽視されがちとなる. 老年層をも含めた保障コンフリクト問題の解決策は 2通り想起できる.一つは,老年層への社会保障を撤廃し,個々の家族が老年層の保障を担うとする方法である.いわば,「個人」レベルへの利害集約である.しかし,これでは老年層・幼若年層ともに無社会保障となり,ここでの人口問題の解決につながらず,多数派の支持も得られそうにない.したがって,より現実的で目指されるべきはもう一つの方策となろう.それは,子どもの養育負担を国家が賄うという可能性である.幼若年層向け社会保障をも充実させる.こちらは「集団」レベルへの利害集約である.ミュルダールはこの方策の含意,つまり「独身者や無子家族から有子家族への所得移転」を人口政策の一般的方法とみなした(Myrdal 1940, 201). こうしたミュルダールの人口政策論は,「消費の社会化」(Myrdal 1973, 42 /訳 45)の概念で適切に捉え直すことができる26).彼は,「消費の主要部分の社会化・国有化」(Myrdal 1940, 209)を提唱した.主要部分とは,出産と育児に関わる部分である.「子どもに関する費目を個々の家計から国家予算へと移転させること」

(209)と説明されている.社会化・国有化とは,そうした消費を量・質ともに社会的に管理して向上させることを意味する.中心となった考えは,育児は国家全体の責任であり,両親のみの責任ではないというものであった(Tilton 1990, 156).従来から主張されている階級間の垂直的分配に加え,家族規模間の水平的分配をいかに組み込むかという問題が新たに問われた.彼は,所得階層に関係なく,すべての子ども・家族に対する無料サービスを提供することで水平的分配を達成するとともに,そのシステムが所得に応じた課税で支えられることで垂直的分配をも達成するという解決策を示した. 「消費の社会化」は「予防的社会政策」の一環である.「予防的社会政策」は,イェーテボリの住宅問題調査を背景として,「社会政策に関するミュルダールの政治的マニフェスト」と位置づけられる 1932年論文「社会政策におけるジレンマ」において示された(Appelqvist

and Andersson 2005, 88; Hirdman 2008, 172―74).従来の社会政策と比較すると,理念・政策目標の転換は 3点あった.治療から予防へ,消費から生産へ,援助から協力へ,である(Myrdal

1940, 208).彼は,治療的社会政策の第一義的意義を認めつつも,新たに予防的な社会政策の施行に踏み込むべき新時代が到来しているとし,所得調査によらない北欧的な普遍主義的福祉の基本思想を明確にした.なかでも際立った主張は第 2点目であったといえよう.「予防的社会政策」とは,社会による人的資本27)への積極的投資を意味するので,経済的効率性を得るためにも有効な方策であると唱えられた(207).つまり,「経済にプラスとなる社会政策」という新規性ある思想が盛り込まれたのである.「消費の社会化」もその一例として提言されたものと見ることができる.ミュルダールの正確な表現によれば,それは「経済的合理性と効率性,新進世代のための国内の連帯と責任感によって理由づけられる,国民的消費の民主的・協調的

藤田 1930年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール  85

組織化」(207―08)であった. 人口問題にかかわる具体的政策提案において,ミュルダール夫妻は現金給付よりも現物給付にこだわった28).その理由もこの社会政策転換の遂行に関連し,主に経済的効率性の追求に基づくものであったといえる.彼らは次のような 3点を主張したからである(Carlson 1990, 88).第 1に,現金給付の場合,子どもの育成に適切に使用されず,親の都合で使われるかもしれない.幼若年層への人的資本投資の役割を果たさない可能性がある.第 2に,親は子どもの発育過程をよく理解せず,現金を非効率的に使うかもしれない.第 3に,個々の家庭による育児よりも,国家による大規模な育児支援システムの方が,「規模の経済」が働くために効率的である.ただし,この第 2・第 3の理由はアルヴァが強調したことであった29). グンナーは独自に第 4の理由を挙げている.それは,現物給付の方が農業政策,住宅政策,そして何より景気・失業に対する政策(雇用政策)とより合理的に統合できるとの考えであった(Myrdal 1940, 210).1930年代前半,農村の荒廃に対し,彼は価格支持政策や穀物から畜産・野菜への生産シフトなどによる農業経営の合理化計画を提案した.イェーテボリの住宅問題調査において,彼は人々が良好な生活習慣や住環境を選び取る能力をもたないことに驚き,公共機関による現物給付の有効性を説くようになった(Carlson 1990, 53, 57).現物給付案としての栄養食品の配布は,過剰生産という農業部門の悩みを緩和する意味もあった30).家族向け住宅建設は雇用創出策を兼ねていた.出産・育児関連の公的サービスを整えることも,医療・教育分野を中心とした雇用創出策となろう.現物給付によってこそ,政府は消費の量のみならず質・構造まで管理できるうえに,それがなければ失業状態あるいは無駄な過剰生産に陥っていたはずの要素を家族や子どもの潜在的ニーズに振り向けられるのである(Myrdal 1938, 210).

 「消費の社会化」はフランスなどで既に導入されていた家族手当の方針とは明らかに異なる.現物給付重視の初め 3つの理由を見れば明白なように,それは人口の量的増大だけでなく質的向上をも目的としていた.ミュルダールは次のようにさえ述べている.「どの国においても,児童福祉は依然としてかなり不足しているので,われわれは人口政策のすべてを質的目標に向け,量的目標はそうした改革における広範で一般的な余分の議論として用いることができる」(204).こうも断言した.「改革は主として,幸福,健康,育ちつつある世代の生産的資質への投資として動機づけられており,この視点からして,たとえ量的効果がわずかであったとしても同意されなければならない」(214).質とは,階級や人種の問題ではない.幼若年層へのよりよいケアを通じて,その身体的・情緒的・道徳的状態の改良をも含めた広義の労働生産性を向上させる必要を説いたのである. 「消費の社会化」は,人口問題についてのミュルダールの社会政策的な理想追究と経済学的把握とが帰一した重要な論点である.ミュルダール夫妻の考えは保守派批判および「予防的社会政策」の提言において一致していた.しかし,「消費の社会化」の提唱はミュルダールの発案と見てよいであろう.「消費の社会化」の含意は,第 1に,出生率低下を反転させうる社会改革の意図を含む予防的社会政策=人口政策であった.第 2に,投資の管理とともに彼が示した需要管理・雇用確保の経済政策であった.そして第 3に,人的資本への投資,つまりは長期的な生産性向上を目指す供給管理の経済政策であった.ミュルダールの思考において,「消費の社会化」という人口政策は,理想社会を構築するための手段としての社会政策,需要・供給両面の向上から経済成長を目指す経済政策,それら両者の結節点であった. ここにおいてミュルダールは,「平等主義的社会改革と経済成長のトレードオフ」という通

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念に背を向けている.彼は,「消費の社会化」の先に,より全般的な社会工学ないし計画化の可能性を考察する必要があるとし,それを将来の研究課題と位置づけていた(Myrdal 1940, 210―13).第 2次世界大戦後,彼は先進資本主義諸国研究として,福祉国家を制度的基盤とした平等と高成長の好循環の存在を説くようになるが,その思想的淵源は 1930年代人口論に見出すことができる.

VI 結 論

 人口委員会の報告提案に沿って,スウェーデンでは 1936年に公的雇用,39年には民間雇用においても,結婚・出産・育児を理由に女性を解雇したり減給したりすることは処罰対象となった.1937年国会は「母と子の議会」と呼ばれた.都市での家族向け住宅の建設,妊婦個人への出産手当,結婚ローン,孤児や母子世帯・父子世帯への扶助,子どものいる家族への減税などの法案が相前後して国会で採択された.1938年には,1910年以来の反産児制限法が撤廃された.ミュルダール夫妻が火をつけた人口論議は,「女性の状況を改善し,職業生活と家庭生活の両立を支援することをねらいとした家族政策」(丸尾・塩野谷 1999, 189)の形成へと結びついた. しかし,これらの政策はミュルダール夫妻の思想を完全に反映したものではなかった.彼らの政策案を社民党のリーダー格のなかで初めて受け入れたのは,首相ハンソンである(Tilton

1990, 16).1928年にハンソンは,「誰か他人を見下したり,その犠牲で利得を得たりする者のいない,そして強者が弱者を抑圧したり略奪の対象としないような良い家」としてのスウェーデン建設を謳い,「国民の家」というスローガンを打ち出していた.「国民の家」は伝統的家族理念などの旧来型価値観を残すものであったが,ミュルダールはその路線に賛同していた.しかし,実際の福祉施策を取りまとめたのは,

必ずしも彼と意見を共有していたわけではない社会相メッレルであった(Myrdal 1982, 188; 宮本 1999, 68―70, 79―83). 1937年に制定された出産手当は,スウェーデンの普遍主義的福祉政策の第一歩として高く評価される.人口委員会は所得調査なしの給付を提案したが,メッレルは年収 300クローナという緩い所得制限をつけて実施した.夫妻には現物給付への執着があったが,即座には実現できず,実際の法制定過程としては結局,メッレルが推していた現金給付による福祉施策が先行していくことになった.1938年春,戦時体制のなかで「改革の休止」が決定されると,無料の学校給食やデイケアセンターの提案は留め置きとなった.ミュルダールは苛立ち,アメリカ黒人問題の調査依頼を受ける主因となった.1941年,いったん上向いた出生率が再び低下傾向となったことが認識されると,「第 2次」人口委員会が招集された.しかし,彼はすでにその場を去っていた31). 1930年代,ミュルダールはアルヴァとともに社会工学を強く志向しており,その可能性に悲観的ではなかった32).『人口』は,アメリカではいまだ出生率が高いが低下傾向にあることを指摘し,ヨーロッパの経験を社会工学にいかに活かせるかという観点から論じたものであった(Myrdal 1940, vii―xiii).「テクノクラート的な社会工学にミュルダールが夢中になったのは,彼が世論のコンセンサスは社会問題にもっとも科学的かつ合理的なアプローチを支持するところに見出せるという自信をもっていたことと軌を一にしていた」(Jackson 1990, 71).しかし,夫妻が期待を寄せたトップダウン式の社会工学は実際のスウェーデン政治で広範に受け入れられるものではなかった.また,ミュルダール自身の考えも変化していった.アメリカの黒人問題や南アジアの低開発問題に取り組む中で,彼はしだいにその困難を思い知ることになる.

藤田 1930年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール  87

 本稿では,ミュルダールの提唱した人口政策が「消費の社会化」の概念に集約されることを指摘した.彼は,アルヴァとともに,出生率低下は社会構造に問題があるから生じていると論じて保守派を批判し,社会改革の必要を主張した.他方,彼独自の考察は,出生率低下の経済的帰結に関するものであった.ミュルダールは,人口減少が消費と投資の減少を引き起こし,それが失業と貧困を生じさせると展望することで,新マルサス主義を批判した.両面批判から彼が導出した対策案は,まずは投資の管理促進策であったが,それ以上に重視されたのは「消費の社会化」であった.ミュルダールにおいて,「消費の社会化」は,人口増加,家族規模間の経済的平等,女性の出産・育児および労働条件の改善,完全雇用,需給両面からの経済成長という諸目標に一挙に接近しうる人口政策・社会政策・経済政策の一体化案であったからである.彼が「平等主義的社会改革と経済成長のトレードオフ」説に批判的態度をとるようになったのは,この人口論からであった. 残された大きな課題が展望できる.それは,1930年代の出生率低下がヨーロッパ全体の問題であったことに関係する.ミュルダールと同年代のヨーロッパ諸国においては,広く人口論議が行われていた.とりわけ重要となってくるのが,『一般理論』を皮切りとしたケインズ経済学の登場であり,ケインズ自身,1937年に「人口減退の若干の経済的帰結」と題する論文を発表していることである.この論文とミュルダール『人口』第 6章との間には重なる理論的主張が多く見出せる.本稿では,スウェーデンの歴史的背景とミュルダール(夫妻)の人口論を中心に論じたが,ストックホルム学派とケインズ経済学の関係,および,1930年代以降の先進各国の福祉国家化の歩みと諸特質の分岐を考えるならば,ミュルダールとケインズの人口論,あるいは,イギリスとスウェーデンの福祉政策形成に関する比較などは,稿を改めて検討され

なければならない重要問題であろう33).[付記]本論文の作成過程における匿名レフェリーおよび編集委員会,山田鋭夫教授(九州産業大学),小峯敦教授(龍谷大学)からの助言に深く感謝する.もちろん,ありうる誤りは著者の責任である.本研究は科学研究費補助金(19830052)「ミュルダール福祉国家経済思想の研究― 1930年代スウェーデンを中心に」の助成を受けたものである.

藤田菜々子:名古屋市立大学大学院経済学研究科

1) Glass([1940] 1967, 316―17)によると,『人口問題の危機』は 1937年半ばまでに 16,000部の売上げがあった.人気小説でもめったに到達できない部数であり,「スウェーデン大衆の思考に爆弾を落とした」と言われるほどに,世論の大変化を引き起こした.1935年にデンマーク語版,36年にノルウェー語版も出版された.1935年早くからラジオ放送も始まった.

2) 1936年の選挙に先立って,社会相メッレルが設立した調査委員会である.スウェーデンでは政策形成における参加制度として,内閣が重要な案件に関して調査委員会を設置する.所轄の大臣は諮問状によって趣旨を明確にして人選する.農民党のウォリン(N. Wohlin)が委員長となり,国会議員や医師,ジャーナリストが含まれていたが,G.ミュルダールおよび専門委員であった A.ミュルダールの影響力が強かった.グンナーはこの委員会と国会のパイプ役として1935年には上院議員に選出された(宮本 1999, 64, 87).アルヴァは同時期に女性労働委員会委員でもあり,その 1938年の最終報告書は人口委員会との協力を含んでいる(Myrdal, A. 1939, 723).

3) 報告書の内容の詳細と実際の法整備の進行状況については,Myrdal(1939)を参照. 母子に対するケア,家族税制,結婚ローン,出産手当,不妊・断種,避妊,堕胎,栄養,子どもの衣服への公的補助,女性の労働条件,地方の人口減退,人口に関する社会倫理,就学前レクリエーションなどについてまとめられ,1938年 12月18日付で最終報告書が出された.Hirdman(1994, 74)によれば,1936年の「性に関する報告書」

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がもっともミュルダール夫妻の考えを反映している.

4) カールソンは次のように特徴づけている.「イデオロギーにおいて,彼らはまさに[保守的]出産奨励主義とナショナリズムを新マルサス主義,社会主義,フェミニズムと和解させようとした」(Carlson 1990, xvi, [ ]内は引用者による).

5) この点を詳しく論じた研究として,南(1969)と杉田(2007)を参照.南(1969, 119―22)は,人口政策と社会政策の関係について初めて論じたのがミュルダール夫妻,とくにアルヴァであるとしている.杉田(2007)は,ミュルダール夫妻と高田保馬の人口論を比較し,前者の特徴を人口政策と社会政策の一体化にあるとしている.

6) 小田橋(1941),河野(1941),室(1972)を参照.なお,Myrdal(1940)の日本語訳は 1943

年に出版されたが,現在においては旧字体・旧文体で読みづらく,容易に入手できないため,以下本稿ではその訳文に必ずしも従わず,内容言及の際も原著の頁数のみ記載する.

7) 米本ほか(2000, 117―25)も参照.スウェーデンでは 1934年と 41年に断種法が制定された.34年法は不妊手術に同意できない(意味を解しない)精神障害者が対象であった.夫妻が関与したのは後者である.41年法は人口委員会報告提案に基づき,自己申告あるいは第三者申告による不妊手術を認める内容であった.1934年から 76年までの約 6万件の不妊手術の背後に夫妻および社民党がいて扇動したというのが批判である.確かにアルヴァには消極的優生学の妥当性を明言するなど極端な主張があった(Myr-

dal 1939, 740).ただし,「ミュルダール夫妻は,どの集団がより多くの子どもをもつべきかという問題に対して,階級的,人種的,宗教的,民族的区別をしなかった」(Jackson 1990, 77)のであり,彼らが幼若年層の教育環境改善を通じた人間の「質」的向上を主目的にしていたことは著作の随所に見出せる.さらに,「この段階では,福祉国家のコストを抑制するというよりまず福祉国家への合意を形成することがその第

一義的な関心であった」(宮本 1999, 85)との指摘もある.この問題はミュルダール夫妻の人口論の評価にとって重大であり,ある部分彼らは批判を免れないであろう.しかし,本稿の関心は他にあるので,これ以上の言及は控える.

8) 『人口』は,1938年にハーヴァード大学で行ったゴドキン講演(4回連続)の内容をまとめたものである.グンナー単著の人口論文としてはMyrdal(1938)もある.アルヴァの『国民と家族』は『人口問題の危機』の発展内容を英語圏に伝えるべく書かれた大部の著書である.

9) Kälvemark(1980, 39)によるスウェーデンの粗出生率の計測値も概ね Carlson(1990)と一致している.また,1931―35年時の他国の粗出生率は次のとおりであった.ベルギー:16.8‰,デンマーク:17.7‰,ドイツ:16.6‰,イングランド・ウェールズ:15.0‰,フィンランド:19.5‰,フランス:16.5‰,イタリア:23.3‰,オランダ:21.1‰,ノルウェー:15.2‰,スイス:16.4‰.

10) スウェーデンの首都におけるこの数値の異常ともいえる低さは以下のデータとの比較対照によって鮮明になろう.1930―32年のロンドンにおける人口純再生産率は 68%,パリ近辺区域における同期間のそれは 76.6%で 1936年には66%であった(Glass [1940] 1967, 63, 95).

11) その他少数派の立場として,マルキスト出産奨励主義,人種優生理論家,フェミニストのイデオロギーも存在していたとされる.ミュルダールと同時代のスウェーデン人経済学者は,ダヴィドソン,ヘクシャーが保守的出産奨励主義者であり,カッセルやオリーンも控えめながらその立場にあった(Carlson 1990, 16―17).

12) ヴィクセルの新マルサス主義に関する論文の詳細については橋本(2000)を参照.

13) ただし,「人口の理論」が第 1章を占めたのは 1901年の初版のみであり,1911年の第 2版以降は表題が記されるだけとなった.代わりにヴィクセルは 1910年に独立した小冊子として同内容を出版した(Wicksell 1910).1913年に出版されたドイツ語版では再び第 1章に「人口の理論」が据えられたが,1934―35年に L.ロビ

藤田 1930年代スウェーデン人口問題におけるミュルダール  89

ンズ編で出版された英語版では削除された.本稿ではWicksell(1910)の英訳を底本としてなされた橋本訳を転載した.元本が入手困難のため,訳頁のみを記載する.

14) 初期ミュルダールの保守的政治信条については,石原(1998, 101),Carlson and Jonung(2006, 535),Hirdman(2008, 29),Jackson(1990, 48)を参照.

15) 住宅問題ほどではないにせよ,農業問題も人口問題への取り組みと関連があった.この点については第 V節で再度言及する.同時期にミュルダールはバッジェ(Gösta Bagge)率いる研究プロジェクトに参加して生活費調査に取り組んでもいた(Mydal 1933 a).カッセルの退官記念論文集に「産業化と人口」(Myrdal [1933 b]

1967)を寄稿していることからも,当時のミュルダールが人口問題への関心を深めていることが推察される.

16) ミュルダールは,産児制限のさらなる普及の余地があると考えていた.彼の調査によれば,約 7分の 1の出生が婚前であった.人々が望むとおりに産児制限できるようになっていくならば,将来的にはさらに出生率が低下する可能性がある(Myrdal 1940, 50―53).

17) アルヴァも出生率低下の経済的影響について言及しているものの,その議論はきわめて簡潔であり,しばしばグンナーによる文献への参照が指示されている.例えば,Myrdal, A.(1939, 729)は,人口減少の消費,生産,そしてとくに投資への影響について,人口委員会「性に関する報告書」の G.ミュルダールと S.ヴィクセルの議論を,またMyrdal(1945, 86; 259)は,まさに Myrdal(1940)第 6章を参照指定している.

18) ミュルダールが批判したのは静態的な最適人口理論であった.中山・南(1959)では,キャナン以降の議論展開をも新たな動態的最適人口理論として包括的に捉えており,ここに他ならぬミュルダールの議論も含まれている.ミュルダールはキャナンの動態論への移行を認知していなかった可能性が高い.

19) これは「人口ボーナス」の指摘であるといえよう.従属人口指数が 50%を割っている状態で,

経済学的に非常に有利な人口学的状況である.いずれ「人口オーナス(負担)」の時代に移るとされる(河野 2007, 26).

20) 出生率低下に伴う貯蓄の変化については積極的に論じられておらず,従来の水準が保持されると想定されているようである(Myrdal 1940, 164).

21) この間,部分的な変更が重ねられた.変更過程の詳細と批判的分析を示した研究として,Palander(1953),平瀬(2004)を参照.

22) 失業委員会の活動の詳細はWadensjö(1991)を参照.予算案付録とは,大蔵相ウィグフォシュに依頼されて作成した 1933年 1月予算案の付録 III,45頁である(Myrdal 1933 c).失業委員会最終報告書付録は 279頁になる拡張版であり(Myrdal 1934),1939年にも関連する短い論文が出された(Myrdal 1939 b).ストックホルム学派とケインズ経済学との関係についての研究は膨大に存在するが,スウェーデン側の事情にも通じた研究として Hansen(1981)を参照.失業委員会最終報告書にはケインズ的なモデルが明確に示されていたとの指摘も含まれている.

23) Carlson(1990, 69)によれば,グンナーは出生率の可能な限りの上昇を望んだが,アルヴァは新マルサス主義の教義に固執した.出産奨励主義に対する夫妻の力点には相違がある.彼らは定常人口の必要という点において意見が一致した.

24) ミュルダールは,婚姻外出生を好ましくないと見ていた(Myrdal 1940, 185).

25) ここに金利引下げという手段は言及されていない.Barber(2008, 28―30)は,マクロ経済安定策としての金融政策について,ミュルダールが限界を見ていたことを指摘している.また,後述の「消費の社会化」論にも表れているように,おそらく彼は投資の量のみならず質も重視していた.

26) 「消費の社会化」は「産業の社会化(国有化)」と混同されてはならない.スウェーデン社民党においても,1920年代から 30年代にかけて産業の国有化にこだわらない新たな社会主義理念が生まれていた(宮本 1999, 42―50).

90  経済学史研究 51巻 1号

27) 実際,Myrdal(1940)は「人的資本 human

capital」という語を用いて説明している.28) 現金給付では,主に家族手当が念頭に置かれている.現物給付の提案例には,妊婦や児童向けの無料医療ケア,分娩ベッド数の増強,保育所・託児施設の整備,栄養食品の提供,家族向け公営住宅の建設,教育制度改革などが含まれていた.

29) 児童心理学者でもあったアルヴァは,個々の家庭の方針に基づく育児・教育よりも公務員の専門性を高く評価し,集団的保育構想をも披露していた.

30) こうした配慮は,社民党が 1932年に政権を掌握した際,議会多数派を形成するために農民党と同盟(赤緑同盟)を結んだという政治戦略的背景も関連しよう.

31) 第 2次人口委員会最終報告書は 1946年に出され,47年には所得調査なしの児童手当(児童1人当たり 260クローナ)の導入が決定された.「垂直的再分配への関心が復活し,選別主義的な福祉への誘因が生まれるなかでも,出産手当において端緒についた普遍主義的な家族政策の枠組みは崩れなかった」(宮本 1999, 91).垂直的再分配は,ほぼ同時期に導入された所得調査つき住宅手当で確保された.また同じく 47年には,所得比例拠出・均一給付とする国民年金法案も通過し,翌年施行となった.

32) スウェーデンないしミュルダール夫妻における社会工学志向については,Eyerman(1985),Hirdman(1997),Milner(1997)を参照.

33) この点に関する導入的議論として藤田(2008)を参照.

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