2 4ゼネストと総合労働布令 -沖縄保守勢力・全軍労の動向を...

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大阪市立大学 『人権問題研究J14 .2014.pp.149 -171 ISSN1346-454X 24ゼネストと総合労働布令 -沖縄保守勢力・全軍労の動向を中心に一 成田千尋本 はじめに 24 ゼネストは、 1%8 11 19 日の戦略爆撃 B52 C 以下852)墜落爆発事故を契機に、 B52 常駐化か ら l 年となる 1%9 2 4日を期日と して、復帰前の沖縄で島ぐるみともいえる規模 で計爾されたス トライキである。墜落爆発事故 は沖縄住民を恐怖に陥れ、約140 団体を結集し た「いのちを守る県民共闘会議(以下共閉会議)J が組織され、 rB52 撤去、原子力潜水艦(以下原潜) 寄港盟止、 一切の核兵器の撤去」をスローガン に、全島的なゼネスト体制が構築された。ただし、 ゼネストそのものは本土折衝を行った屋良朝苗 主席の回避要請などを受けて土壇場で回避さ れ、 県民総決起大会に代替され、幻に終わった。こ のため、「復帰優先主義や合法主義の呪縛を完全 に脱却し切 っていなかったがゆえ」の挫折であ り、「復帰運動、復帰思想の敗北であった」とま で非難され 1) 、革新勢力内部の亀裂を生むなど、 機々な問題を残すことにな った。 本研究の目的は、日米両政府の圧力によ って 挫折したとされるこのストライキ闘争の内実 を、新たな史料に基づい て再検討すること であ る。沖縄の住民運動に焦点を当てた先行研究に おいて は、ゼネス トが回避された原因は、 日米 両政府の圧力を受けた屋良主席が共闘会議に対 し行ったゼネスト 回避要請と、共闘会議の中核 となることが期待された全沖縄軍労働組合(以 下全軍労)に対する米軍の切り崩し工作だとさ れてき た2 )。これらの研究は、沖縄の保守と革 新が対立しているということを前提として、革 新勢力の動向のみに焦点を 当てており、当時沖 縄を統治していた琉球列島米国民政府 CUnited StatesCivil Administrationof theRyu k. yu I slands ,以下USCAR)がゼネスト回避に果たした役割 についても、十分に検討されているとは言い難 い。また、米国側の一次史料を用いて考察を行っ た研究 3 ,でも、当時は未公開の史料も多かった ことから、国務省の文書が検討の 中心とな って おり、沖縄現地の状況は十分に検討されていな い。 さらに、ゼネストが回避される過程で大き な意味を持っていた総合労働布令 ( Comprehensive La bor Ordinance; 以下CLO) の公布についても、 公布された時期が全軍労がゼネストに参加する 前日であ ったことから、米軍 による強権的な切 り崩し工作の一環として捉えられ、 1960 年代後 半から活発化した全軍労闘争との関わりについ ては追究されてこなかった。 これに対し本稿は、 1990 年代後半から公聞が 始ま ったUSCAR 渉外局、公安局の文書を使用し、 これまで検討対象とならなかったUSCAR 及び沖 縄の保守勢力の動向と、それらが屋良主席に与 えた影響を明らかにすることを目指している4)。 USCAR 文書には、 USCAR が米本国に対し日常的 に行っていた沖縄の情勢報告、高等弁務官 ・民 149

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大阪市立大学 『人権問題研究J14号.2014.pp.149 -171 ISSN1346-454X

2・4ゼネストと総合労働布令

-沖縄保守勢力・全軍労の動向を中心に一成田千尋本

はじめに2・4ゼネス トは、 1%8年11月19日の戦略爆撃

機B52C以下852)墜落爆発事故を契機に、 B52

常駐化からl年となる1%9年2月4日を期日と

して、復帰前の沖縄で島ぐるみともいえる規模

で計爾されたス トライキである。墜落爆発事故

は沖縄住民を恐怖に陥れ、約140団体を結集し

た「いのちを守る県民共闘会議 (以下共閉会議)J

が組織され、 rB52撤去、原子力潜水艦 (以下原潜)

寄港盟止、 一切の核兵器の撤去」をスローガン

に、全島的なゼネスト体制が構築された。ただし、

ゼネストそのものは本土折衝を行った屋良朝苗

主席の回避要請などを受けて土壇場で回避され、

県民総決起大会に代替され、幻に終わった。こ

のため、「復帰優先主義や合法主義の呪縛を完全

に脱却し切っていなかったがゆえ」の挫折であ

り、「復帰運動、復帰思想の敗北であった」とま

で非難され1)、革新勢力内部の亀裂を生むなど、

機々な問題を残すことになった。

本研究の目的は、日米両政府の圧力によ って

挫折したとされるこのストライキ闘争の内実

を、新たな史料に基づいて再検討することであ

る。沖縄の住民運動に焦点を当てた先行研究に

おいては、ゼネス トが回避された原因は、 日米

両政府の圧力を受けた屋良主席が共闘会議に対

し行ったゼネスト 回避要請と、共闘会議の中核

となる ことが期待された全沖縄軍労働組合 (以

下全軍労)に対する米軍の切り崩し工作だとさ

れてき た2)。これらの研究は、沖縄の保守と革

新が対立しているということを前提として、革

新勢力の動向のみに焦点を当てており、当時沖

縄を統治していた琉球列島米国民政府 CUnited

States Civil Administration of the Ryuk.yu Islands

,以下USCAR)がゼネスト回避に果たした役割

についても、十分に検討されているとは言い難

い。また、米国側の一次史料を用いて考察を行っ

た研究3,でも、当時は未公開の史料も多かった

ことから、国務省の文書が検討の中心となって

おり、沖縄現地の状況は十分に検討されていな

い。さらに、ゼネストが回避される過程で大き

な意味を持っていた総合労働布令(Comprehensive

Labor Ordinance;以下CLO)の公布について も、

公布された時期が全軍労がゼネストに参加する

前日であったことから、米軍による強権的な切

り崩し工作の一環として捉え られ、 1960年代後

半から活発化した全軍労闘争との関わりについ

ては追究されてこなかった。

これに対し本稿は、 1990年代後半から公聞が

始まったUSCAR渉外局、公安局の文書を使用し、

これまで検討対象とならなかったUSCAR及び沖

縄の保守勢力の動向と、それらが屋良主席に与

えた影響を明らかにする ことを目指している 4)。

USCAR文書には、 USCARが米本国に対し日常的

に行っていた沖縄の情勢報告、高等弁務官 ・民

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f人権問題研究J14号

政官と琉球政府主席 ・保守政党幹部の会談録な

どが含まれているため、 USCAR及びそれと接触

した人々が、当時の状況をどう捉えていたかを

知ることができる。また、崖良の動向を明らか

にするために、 USCAR文書の他、 2010年から公

開された 「屋良朝苗日誌Jを主に史料として使

用する。「屋良朝苗日誌」には、その日にあった

出来事や屋良の心情が細かく 書き込まれており、

屋良の当時の状況に対する見方を知ることがで

きる。これらの史料を組み合わせることで、基

地をめ ぐる沖縄社会の複雑な様相を、より詳細

に明らかにすることができると考えている。

また、 USCAR総務室の文書には、フ ァーラー

CCarleton H. Faler) USCAR労働局長がゼネスト

後に国務省の関係者にあてて書いた、 CLO公布

に至る経緯を説明する手紙5)が含まれていた。

この手紙と、国務省文害、全箪労闘争に関する

文献から、 CLOの起草 ・公布と全主要労闘争の関

わりについても明らかにしていきたい。

以上から、本稿では 2・4ゼネストが計画され、

回避に至るまでの過程を、保守勢カと金軍労の

動向に着目しながら叙述していく 6)。第一宣言で

は、米国のベトナム戦争本格介入以降の沖縄の

情勢変化、第二章では三大選挙で革新勢力が勝

利するまでの過程、第三章では852墜落爆発事故

からゼネストが計画される過程、第四章ではゼ

ネストが回避される過程を扱う。史料はUSCAR

文書の他に琉球立法院会議録、新聞などを使用

する。

第 1章激動の始まり第 1節全軍労の結成と布令116号撤廃の固い

まず、 全軍労の構成員であった米軍関係の職

場に雇用される基地労働者が、どのような法的

地位に置かれていたかについて確認したい。

沖縄は、太平洋戦争末期、米軍の占領開始と

ともに軍事支配下に入札 1952年4月28日の対

日平和条約発効以降も、同条約の第三条に基づ

き、 USCARの施政権下に置かれることとなった。

USCARの下部機関として、 1952年4月1日に立

法、司法、行政を行う住民機関である琉球政府

が設立されたが、その権能はUSCARが許容する

枠内にとどめられていた7)。 一般の労働者につ

いては、 1953年に琉球政府が制定した労働三法

を中心とする 「民労働法j体系が適用され、立

法院は基地労働者もこの適用下に置くことを意

図していた。しかし、 USCARは布令116号の公

布によ って、基地労働者をその適用から除外し

た。

布令116号の正式名称は、 「琉球人被用者に関

する労働基準及び労働関係法Jであり、基地労

働者の集団的労働関係と個別的労働関係の二つ

を一本の布令で規律するものであった。個別的

労働関係については、一般の労働者に適用され

ている労働基準法の規定を若干手直ししたもの

であったが、集団的労働関係については、反組

合的規定をもっ米国のタフト ・ハートレー法を

骨子としており、団体交渉権、争議権を認めな

いなど、同法以上に基地労働者の権利を厳しく

制限していた。それに加え、基地労働者は米軍

が一方的に制定した人事規則によっても権利を

規制されていた 8)。このような状況を改善する

ことを目指して、 1961年に6単純2638人からな

る全沖縄軍労働組合連合会が結成された。組織

は12単組6624人に拡大し、 1963年に全軍労に改

組され、その後も拡大を続けた9)。

最初に布令116号の撤廃を求めたのは、 1964

年9月に組織された沖縄県労働組合協議会 (以

下県労協)であった。県労協は、分裂した全沖

縄労働組合連合会に代わる沖縄の労働組合の中

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2・4ゼネストと総合労働布令

失組織として結成され、全箪労も準備段階から

参加していた。役員選挙では、委員長に沖縄全

逓委員長の亀甲康吉が選出され、全寧労委員長

の上原康助も副議長となった。県労協の運動方

針には、最初から布令116号の撤廃が掲げられた

ため、全軍労も1966年 8月の第6回全箪労定期

大会で初めて同布令の撤廃を求める決議を採択

するとともに、当時祖国復帰運動を推進する運

動母体であった沖縄県祖国復帰協議会 (以下復

帰協)への加盟を決定した。布令116号について

は、国際自由労働連盟が見直しを求め、 1966年

7月に疏球政府労働局がUSCARに布令116号の修

正を求める意見容を提出するなど、内外から批

判が寄せら.tLるようになった。USCAR労働局は

1966年10月から11月の間に同布令の見直しを行

い、新たにCLOの起草を開始した刷。

その後も、全軍労は積極的に布令116号の撤廃

を推進した。復帰還動が高揚し、米軍の強権的

支配が後退していく中で、全軍労はより能動的

になり、労働基本権奪還のために活動するよう

になった。1967年 9F1の第8固定期大会では、

布令116号及びその他の諸法規の撤廃を強力に推

進することが確認され、組合代表を米国に派遣

して沖縄の基地労働者の実態を訴え、賃金政策

変更をはじめとする懸案事項について強力な折

衝を行うことも決定された。折衝の結果につい

ては第2章で述べるが、この決定に従い、 1968

年2月20臼から、春闘の一環として上原委員長

を含む4人の代表が米国に派遣され、布令116号

の撤廃とともに、各種労働条件の改善を、米国

政府の関係機関に直接要求した11)。

第2節 ベ トナム戦争激化と保守勢力の劣努化

同時期、沖縄では852の常駐化が大きな問題と

なっていた。852が沖縄で初めて問題となったの

は、米国がベトナム戦争への本格的な介入を開

始した、 1965年のことだった。 2月に米軍が北

爆を開始し、 3月から沖縄駐留部隊がベトナム

へ発進すると、沖縄では戦争に巻き込まれるの

ではないかという不安が高まっていった。この

ような中で、台風避難の名目で嘉手納基地に飛

来した852が、 7月29日に直接ベトナムに出撃し

たのである。852の初飛来は、基地の使用を容

認する立場を取っていた与党沖縄民主党にも衝

撃を与えた。これまで沖縄が補給基地以外に使

われるというはっきりした証拠はないと主張し

ていた同党の前提が崩れたためである。民主党

は7月30日早朝に松岡政保行政府主席も含め会

議を行って方針を決め、定例議会では、超党派

で「戦争行為の即時取り止めに関する要請決議J

を起草したl針。 その内容は、沖縄が第二次世界

大戦で受けた戦争の惨禍から説き起こし、 「沖縄

の米箪基地がベトナムへの出撃基地となり、沖

縄が直接戦争の渦中に巻き込まれていることは、

県民に直接戦争の不安と恐怖を与え、単に沖縄

の安全ばかりでなく本土の安全をも脅かす重大

問題となっている」として、米軍に戦争行為の

取り止めを強く要請するものだったl九 民主党

の長嶺秋夫議長が閉会の辞で、ベトナムからの

報復爆撃の可能性への不安に触れ、松岡主席も

沖縄の発進基地としての使用は好ましくないと、

遺僚の意を示したl剖。 戦争に巻き込まれること

への不安は、保守の側にも共有されていたとい

える。

ただし、民主党が852発進に反対した背最には、

立法院議員選挙に悪影響を与えることへの懸念

もあった。 8月にUSCAR渉外局が那覇市選出の

民主党議員など4人に対し、 852が選挙に与える

影響について意見を聴取した結果では、 3人が

852の発進が継続すれば選挙に悪影響が出ること

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「人権問鱈研究J14号

を懸念していた。また、同月USCAR渉外局と非

公式会談を行った民主党の桑江朝幸政調会長は、

852に反対しなければ住民からの支持を失うた

め、最大限の票を得る ためには慎重に行動する

必要があるとして、民主党が852に反対すること

をUSCARが黙寵するよう要請した15)。

ここで指摘しておきたいのは、政党の支持層

は、地域によ って明確な違いがあるということ

である。端的に言えば、基地の多い中部、那覇

は革新政党 (社大党、社会党、人民党)支持層、

南部、北部、離島は民主党支持層が多数を占め

ていた。嘉手納基地の門前町であるコザ市を基

盤としていた桑江は、ベトナム戦争激化に伴う

様々な基地被害の発生を革新政党などが利用し

ていると見て、それが選挙に影響することを恐

れていたと考えられる。

ベトナム戦争の影響が明確に表れたのが、嘉

手納基地をはさんでコザ市と隣接する嘉手納村

であった。嘉手納村は、戦後嘉手納基地拡張に

伴い北谷村からの分村を余儀なくされた。総面

積の約85%が米軍用地に接収され、村民のほと

んどが直接 ・間接的に基地に関係があるサービ

ス業などに従事しており、中部の中では保守色

が強い村だった。 しかし、同村は、米国のベト

ナム戦争への本格介入に伴って基地使用が活発

化したことから、甚大な被害を受けるようになっ

た。1965年5月にKC135ジェット給油機が墜落

して村民 1人が死亡し、 5月末から 6月にか

けて嘉手納基地鉱張工事に伴う砂塵被害が発生

した。また、離発着やエンジン調整に伴う爆音

が激化したため、 7月には保守派とされていた

奥間敏雄村長が会長となり、爆音防止対策期成

会が結成された。翌年になっても爆音被害は解

消されず、さらに村内の井戸が基地からの航空

燃料及び洗剤によって汚染されたことが問題と

なった。嘉手納村議会は1968年 l月16日に初め

て基地撤去を決議し、 17日には、他地区に先駆

けてできた復帰協嘉手納支部なども、初めて米

軍基地撤去を要求する県民大会を開催した。た

だし、この時点では、奥簡は県民大会への参加

には否定的な姿勢を示していた16)。

第3節 852の常駐化と日本政府の対応Ji)

県民大会か ら間もない1968年 1月21日、北朝

鮮ゲリラによる青瓦台襲撃未遂事件が発生し、

23日には北朝鮮が米国の情報収集艦プエプロ号

を傘捕した。米国と同盟関係にある韓国がベト

ナム派兵を行ったことなどから、続固と対峠す

る北朝鮮が韓国への挑発行為を頻繁に行うよう

になり、朝鮮半島情勢は1966年以降悪化の一途

をたどっていた。1966年後半に国防総省で852の

追加配備が計画された際、沖縄への配備は政治

的に微妙な問題を含むとして避けられ、 1967年

からタイのウタパオ基地が南ベトナムへ出撃の

起点となっていた。しかし、プエプロ号事件後、

米国政府は朝鮮半島情勢悪化への抑止装置とし

て、 852を沖縄に配備することを決定した。

プエプロ号事件後、沖縄からジェ ット戦闘機

が派遣されたこともあり、中部の基地周辺は緊

張に包まれていた。2月5日に10機の852が沖縄

に配備されると、台風避難の時とは違い、米箪

が国防総省の指示であるとして沈黙を守ったこ

とから、沖縄住民の不安は一層高ま った。 1月

30日からベトナムでテト攻勢が始まり、ベトナ

ム情勢も悪化していたため、米戦略空軍などは

沖縄配備の852をベトナムに転用することを主張

した。 しかし、駐日大使館、 USCARなどが地元

のネガテイプな反応を報告し、国務省なども消

極的な姿勢を示した。ここでは嘉手納をベトナ

ムへの852出撃基地として使用する決定はまだな

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2・4ゼネストと総合労働布令

されなかった。しかし、 2月15日からベトナム

の状況のさらなる悪化のために、嘉手納からの

852が決定される。

沖縄では、 B52配備に対する反発が強ま り、 2月

9日に沖縄原水協 (社会党系)主催の852撤去要求

抗議大会が開かれ、 10日には立法院が f852爆撃

基地化に反対し問機の即時撤収と一切の戦争行

為の即時取止めを要求する決議Jを全会一致で

採択した。沖縄自民党l却の大田昌知議員ですら、

会議で発議者代表として、 「沖縄が核装備が可能

と言われるこのB52爆撃機の出撃基地として使用

されることは耐え難い、たとえいかなる理由が

あるにしろ許容しがたい」ものだと述べた19)0 14

日には奥間村長が、嘉手納空軍基地司令官と会

見し、 B52の即時撤収を要請した。司令官はB52

配備の目的を明かさず、 852撤収要請にも応じな

かったため、翌日には臨時村議会が全会一致で

852撤去決議を採択した。2月17日には立法院の

与野党代表が、高等弁務官に対しB52の撤去要請

を行い、翌日原水協 (人民党系)による「ベト

ナム侵略戦争、朝鮮への軍事挑発反対、基地撤去、

852撤収要求抗議集会Jが聞かれた。23日からは

自民党議員が中心とした立法院代表団が、日本

政府にB52徹去、国政参加、施政権返還要請を行

うために上京した。

この問、日本政府は米国政府から、プエブロ

号事件の解決のための協力を求められていた。

ただ、日本政府は沖縄と日本で盛り上がってい

る852撤去運動にも対処しなければならず、当

初米国や韓国への支持を明確に表明しなかった。

東郷文彦外務省アメリカ局長は、 2月12にオズ

ボーン (DavidL. Os加m)駐日米公使に、沖縄住

民の不安を取り除くように配慮してほしいと申

し入れを行った。東郷は後でこれは2月10日の

立法院決議にどう答えるかという報道陣の質問

に対し、木村俊夫官房長官が米国に申し入れを

行うと答えたために行ったものだと釈明した加。

だが、このことは米側の感情を悪化させ、ラス

ク (DeanRusk)国務長官は、ジョンソン (u.

Alexis Johnson)駐日大使への 「親展J電で、日

本の対応への不満をぶちまけた。この結果、パ

ンデイ (WilliamBundy)国務次官補、ジョンソ

ン駐日大使らが日本政府に対し、沖縄に同情的

な態度を見せてはならず、朝鮮半島情勢に対し

積極的な態度を示すべきだと働きかけた。

このために、上京した立法院代表団は、非常

に冷淡な扱いを受けることになった。 2月27日

に代表団が佐藤栄作首相に申し入れを行った際、

首相は議員団に沖縄住民の不安を鎮めるよう求

め、抗議した人民党の古堅実吉議員に、「抗議に

来るなら出ていけ」とすら発言した。沖縄では

怒りが高まり、 27日に原水協 (社会党系)が嘉

手納でB52撤去などを求める県民大会を開催した

のに続き、 3月3日に嘉手納村代表を含めた代

表団が上京し、再びB臼即時徹去を申し入れた。

しかし、三木外相らは再び即時綴去はできない

と答えた。代表団は失望し、「政府がもっと対米

折衝を進めない以上、われわれ自身の運動の力

で問題を解決するほかはないJと報道陣に語っ

た。ただし、本土自民党との関係を強めていた

沖縄自民党は、本土折衝後態度を変えていった。

第2章 852問題と三大選挙

第 1節保守勢力の変化と運動の停滞

上京していた立法院代表団は、 2月29日に沖

縄に戻り、 3月4日に松岡主席、桑江幹事長、

大田政調会長ら沖縄自民党幹部と、 アンガー

(Ferdinand T. Unger)高等弁務官の会談が行われ

た。これはアンガーが申し入れ、自民党も「双

方の理解を深める」というかたちで応じたもの

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f人縮問題研究J14号

だった。代表団は上京の際に駐日大使館にも申

し入れを行っており、アンガーは事前にジョン

ソン大使からの電文で、その内容を知らされて

いた。電文によれば、大田は沖縄の人々が核も

搭載可能な852を恐れており、 I分でも l秒でも

沖縄に駐留する時間を短くするのが望ましいと

感じているとして撤去の見通しを求めた。これ

に対し、ジョンソンは f852を沖縄に駐留させた

状況がなくなれば、852は撤去されるJという答

えを繰り返しただけであった制。

この会談は852についての協議だと報道されて

いたが、 USCARが陸軍省に送った電文21)による

と、 1968年11月に行われる主席・立法議員選挙

についても協議が行われていた。これまで主席

はUSCARが任命していたが、住民の自治権拡大

要求の高まり により、 1965年から立法院議員に

よる間接選挙制となり、 1968年2月に初めて公

選が認められた。主席 ・立法議員選挙は、後に

那覇市長選挙と併せて三大選挙と総称され、内

外から注目を集めることになる。

桑江は、 852の配備が選挙で自民党に不利に働

くことに懸念を示し、琉球政府と沖縄自民党に

事前に852を配備するという内密の通告があれ

ば、住民の反応、は違っていたと不満を述べ、 852

への不安には根拠がないことを住民に説明する

ようアンガーに迫った。アンガーは、事前協議

は米国の基地自由使用の権利を減じるとして拒

否し、逆に自民党幹部らに住民の不安を鎮める

ことを求めた。しかし、桑江は852問題を取り上

げなければ、野党が他の活動を拒否し、立法俣

の機能が麻縛するかもしれないと主張した。ア

ンガーは理解を示したが、最善を尽くした後、

米国を最も傷つけないやり方でそうするよう促

した。また、アンガーは選挙のため、佐藤首相

か駐日大使館を通じて、本土の自民党に沖縄自

民党への支援を求めることをこの会談で表明し

た。型日自民党は、西銘順治那覇市長を主席選

の候補とすることを決定した。

その後、沖縄自民党は地方自治体での852撤収

要求決議に反対するなど、野党への対抗姿勢を

見せるようになった。3月19日にUSCARが陸軍

省に送った電文で、 USCARは沖縄で立法院野党

の撤去要求活動、自治体での852徹去決議キャン

ペーンやオルグ活動、 852に関する持続的な報道

などが衰えず続いているにもかかわらず、自民

党は反対派に対して確固とした方針をとってい

ると評価していたm。ただし、嘉手納村では爆

音の回数や時間が1967年12月の約3i音になって

いることが明らかとなり、 3月30日に聞かれた

嘉手納村定例議会では、自民党議員から「爆音

防止に関する決議案」が提出され、字句調整の

上満場一致で可決された幻}。

この問、日本政府も852問題を鎖静化させよ

うと苦慮していた。3月28日からは、首相の諮

問機関である沖縄問題等懇談会の調査団 (大浜

信泉座長)が、沖縄を訪れた。議査団の派遣は、

佐藤首相が原水協代表団とのやりとり の中で独

断で発言したことであったため、駐日大使館は、

調査団が852問題に巻き込まれ、緊張を増幅させ

ることを懸念していると日本政府に伝えた。東

郷アメリカ局長は、日本政府は852問題を鎮静化

させたいと願っていると繰り返し、大浜が問題

を起こせば最も当惑するのは日本政府であるの

で、どのように対処すべきかできる限り助言す

ると米国側を安心させようとした。実際、この

調査団には日本政府から筋書が与えられていた。

米国から852の配備に関する 「内輪話」を得たよ

うに見せ、 852はベトナムの上空援護を行うた

めに一時的に沖縄にいるという結論を提示する、

というものだった.24)。

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2・4ゼネストと総合労働布令

しかし、調査団の派遣は日本政府の思惑通り

にはならなかった。復帰協や野党は大浜と会う

ことを拒み、地元紙は、大浜と日本政府がB52撤

去に積極的な姿勢を見せずに、沖縄人の不安を

和らげようとしていると痛烈に批判した。立法

院軍関係特別委員会は、 4月5日に 「沖縄にお

ける米軍852戦略爆撃機に関する調査団派遣要請

決議案jを全会一致で可決した。これについて

USCARは、日本政府を強く批判する野党の決議

案の調子を自民党が和らげたことを評価したが、

別の調査団が来なければ状況は厳しいと陸軍省

に報告した加。 4月12日には原水協主催の抗議

県民大会が開かれ、中部のコザ、北谷で復帰協

の支部が相次いで結成され、 4月28日の「沖縄

デーJには数百人の本土代表も含め十数万人が

集まり、戦後最大の規模となった加。 5月1日

のメーデーでは、シュプレヒコールのーっとし

てB52徹去が繰り返された初。

第2節 嘉手納村の苦悩

沖縄でのB52撤去運動の高まりに、日米両政府

はB52の存在が選挙等に悪影響を及ぼすことを恐

れた。米国政府内では、 4月から 7月にかけて、

選挙前にB52を撤去することができないか検討が

行われ、佐藤首相も選挙前のB52撤去を推奨し

た。だが、軍部は軍事的考慮の重要性を根拠とし、

強硬に反対を続けたお1。

ただし、沖縄ではその後原潜寄港による那務

軍港の放射能汚染の問題などに関心が移り、 三

大選挙の準備もあって、 B52問題は住民運動の主

要なテーマからは外れていった。選挙に向けて

革新側は復帰運動を先導してきた沖縄教職員会

の屋良朝首会長を統一候補とすることを決定し、

革新三政党と教職員会、県労協などが革新共闘

会議を結成し、準備を進めていた。嘉手納村で

は昼夜関係なく爆音が鳴り響き、養鶏業への被

害や、小学校に設置された「冷房付き」防音教

室で、児童が冷房病や近眼になるといった問題

が発生していたが、以前のような運動の盛り上

がりは見られなくなった。 5月末に地元紙の記

者からインタピューを受けた嘉手納の住民は、

「毎日こうして852と対峠している私たちの気持

ち、だれがわかって くれるというのだ。いま私

が痛感しているのは嘉手納一那覇間の距離が遠

いということだ。もっと嘉手納に足を運んで852

をハダで感じ、根強い遠動を展開するーこれ以

外に方法はないのでは」と語った矧。

7月3日に、沖縄に駐留している852が北爆に

参加したと報道された。この時は、立法院で野

党が再び IB52即時撤収要求決議」などを作成

し、軍関係特別委員会で協議が行われた。しかし、

沖縄自民党は 「現在、ベトナム和平交渉が進行

中であり、この段階で一方が不利になるような

決議は効果の面から疑問Jだとして、 「ベトナム

和平決議」にすることを主張した。これはB52常

駐の原因となっている戦争行為を停止させるよ

う日米両政府に働きかけるものだった刻。 自民

党は7月19日に強行採決を行い、即時徹去を求

める野党の決議を、賛成少数で否決した。

8月に行われた村長選挙の際に、嘉手納村は

再び注目を集めた。選挙には自民党側から現村

助役の古謝得善、革新側が革新共闘会議から嘉

手納支部会議長の平安常慶が出馬し、保革の一

騎打ちとなった。それに加え、基地公害に苦し

む嘉手納村は、基地問題がどの程度有権者に受

け入れられるかを測る指標と され川、三大選挙

の前哨戦として与野党幹部が乗り込んでの激し

い選挙運動が行われたのである。自民党嘉手納

支部は、「復帰体制づくりをいそげJと題した小

冊子却 を発行し、「無計画な祖国復帰は住民生活

155

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156

『人権問題研究J14号

を破滅に追いこむJとして基地に関係する収入

の資料を逐一挙げ、野党の基地徹去、即時復帰

政策を批判し、本土との一体化に向けた同党の

復帰体制づくりの優位性を説いた。一方、嘉手

納革新共闘会議は「即時復帰をかち取るために」

との小冊子を出し、米国機関による沖縄支配の

不当性を説き、沖縄と本土の較差を数字で示し

ながら、 「土地を寧用地に提供することが農民の

利益になるという自民党の考え方は全く無責任

きわまる暴言で絶対に許せないJと逆襲した33)。

25日に行われた投票では92.97%という高い投票

率を記録し、約千百票差で古謝が当選した。

選挙の結果に、沖縄自民党本部は、 「一体化策

が受けたJと喜んだ。ただ、 当の古謝は自分の

政策は党の方針とは区別された独自のものであ

り、基地問題についても、「あくまでも本土並み

を主張するが現実性のある政策をかかげ、党の

方針とは区別された政策が住民に受けたものと

思う」と語った。また、就任直後のイ ンタビュー

では、就任して第一番に手掛けることとして、

基地司令官に r852の撤去と嘉手納基地内駐機場

を村から遠くに移転するよう強力に申し入れるj

ことを挙げた刻。 同じ自民党でも、嘉手納支部

と党本部の関では、基地に対する認識に大きな

差が生まれていた。

選挙後、基地被害に苦しんでいるのに自民党

候補が当選したことに対し、近隣市町村から琉

球新報の 「声J欄に批判も寄せられたお}。それ

に対し「基地があるために苦しいことがあるの

は事実だが、なお基地の存在を認めなければな

らない村民の生活をわかっているのかJとする

村民からの反論も掲載された謝。 古謝も 「声J

の欄で政党人より嘉手納村民であることを強調

し、「一切の基地被害を、私は絶対に認める考え

はない」とした37)0 9月になると、爆音のため

に精神障害に陥って那覇に移った一家の例など

が報告されるなど、嘉手納の被害は深刻化して

いた38)。

USCARは嘉手納村長選挙を分析し、古謝の勝

利は、革新側よりも政策が優れていたためであ

るが、同時に革新側と同様に強く 852反対、基地

問題の改善を主張したからであることを指摘し

た。その前提に立ち、 9月に国務省に選挙前の

852の徽去を再び訴えた 。国務省もまた、選挙

への影響を懸念し、 852の撤去を再度国防総省に

訴えた湖。 しかし、この要望は受け入れられる

ことはなかった。

第3節全ヨE労の革新化と革新政権の成立

この閥、全箪労は、住民運動の高揚を背景と

して、革新勢力との連携を強めていた。全箪労

代表の米国派遣後、全軍労は春闘への本格的な

取り組みを始め、 1968年4月7日には第11回臨

時大会で春闘の具体的行動計画を決定した。こ

の際に、闘争方針として初めて10割年休行使が

掲げられ、投築総数209票のうち賛成185票の絶

対多数で、年休行使が決定されたω。全軍労は、

最悪の事態を回避するためには、軍側が組合の

春闘要求に対して20日頃を期限として具体的に

回答する以外ないと、4月11日に軍側に強く念

押しした。そして、 4月17日には、 4月24日に

10審j年休を行使することを決定した。

全軍労代表の渡米を前にして、USCARはCLO

の草案と、四軍統ーした交渉機関の設置につい

ての案を米本国に伝達していた。アンガー高等

弁務官と本国政府との交渉の結果、交渉機関の

設置が4月21日に認められた41)。 アンガーは4

月228に、高等弁務官を中央権限者とした全軍

合同労働委員会 (JointServices Labor Committee;

以下JSLC)を設置することを発表し、これに基

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2・4ゼネストと総合労働布令

づき 4月23日に全箪労とJSLCの初の団体交渉が

開かれた。ただし、 JSLCはその日から発足した

ばかりであり、全箪労の要求に対し具体的な回

答を与えなかったため、全箪労は初の年休行使

決行を決定した421。

4月24日午前6時から、県労協傘下の組合員

も加え、約3千人が69ヵ所の米軍ゲート前でピ

ケを張り、午後3時からの「年休勝利総決起大会J

には、約 1万5千人の組合員が参加し、集会後

は米軍司令部に大規模なデモを行った。これに

対し米軍は基地に影響がないとして報復措置は

とらず、団交再開の用意があることを明らかに

した。その後、 9回にわたる交渉で全軍労の賃

上げ要求がある程度受け入れられ、 5月24日に

JSLCと金軍労との間で春闘妥結項目の覚書が交

わされた。

一方、 CLOは分量と複雑さのために、米本国

で「忘れられた」状態となっていたが、ファー

ラ -USCAR労働局長は、新布令の改善の理由が

沖縄の労働不安(Jaborunrest)にある と解釈され

ない期間に、 CLOを公布しようと計画しており、

ストライキを防ぐためのよりリベラルな交渉と

管理が必要であると、本国政府を説得するため

の努力を続けていた4310 しかし、 JSLCが賃上げ

を理由に軍雇用者の解雇や労働時間の短縮、配

置換えなどを 6月以降に始めたため、 全面時間

短縮措置を一方的に通告された全軍労エックス

チェンジ支部が就労拒否を行い、7月16日から

は48時間全面年休行使を行うなどして、労使関

係は悪化した。米軍は年休行使に対し、軍側が

一方的に決めた人事規則を楯に、停職処分を含

む厳しい処分に出た。全軍労はJSLCと交渉を重

ね、最終的に8月1日に、「了解の覚書」を締結

することで合意した。この内容には、労使協約

を締結するための交渉期間中は、全軍労が年休

行使戦術やその他のデモなどの統一行動をとら

ないこと、それを前提として、年体行使を行っ

た組合員に対する処分を一時保留にすることも

含まれていた刊。

三大選挙が近づくと、全軍労は10月の第12回

定期大会で、県労協の選挙闘争方針に沿って即

時無条件返還、 852撤去、基地・安保条約反対な

どを掲げる屋良朝苗革新統一主席候補を支持し、

立法議員選挙でも、革新側候補の勝利のために

積極的に取り組むことを決定した。当時、基地

労働者の数は5万人余りと大幅に増加していた

ため、米軍は組合が政治闘争を行うことは組合

員の利益を見捨てるものだと宣伝した。また沖

縄自民党は、全軍労の非組合員を中心とした fi中

縄寧労働組合jを育成し、全箪労に対抗しよう

と試み、 USCAR労働局はこの加盟者が少なくと

も1500人はいると見ていた。しかし、全箪労の

積極的な教宣活動もあり、同組合は大きな勢力

にはならなかった4針。

結局、選挙は852が発進し続ける中で行われ、

本土の与野党も介入し、激しい選挙戦となった。

本土の自民党は3回に分けて72万ドルを送金し、

USCARは表向きは中立を保ったが、西銘が不利

とみられた嘉手納基地周辺や、生活が厳しい離

島に高等弁務官資金をつぎ込んだ船。 しかし、

11月12日に、 3万票余りの差をつけて屋良が当

選し、嘉手納村でも崖良がわずかながら西銘を

上回った。立法院選挙は全32議席中自民党が過

半数の18議席を占めたが、全体的な得票数で見

れば革新側が保守を上回り、中部では革新側が

I議席を増やした制。また、後日行われた那覇

市長選挙でも、 1事新共闘の平良良松が圧勝した。

現状打破を求める声は、抑えがたいものとなっ

ていたのである。

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f人権問題研究J14号

第3章ゼネスト体制の構築第 1節 852墜落爆発事散の衝撃

選挙から 1週間後の11月19日未明、嘉手納基

地からベトナムに向けて発進しようとしていた

l機の852が離陸に失敗し、爆発炎上した。搭載

していた爆弾が次々に爆発し、 1時間にわたっ

て基地内で火災を起こし、付近の住民を恐怖に

陥れた制。 嘉手納村議会は村長の要請で当日朝

に臨時会議を聞き、米国に対し「人類の不幸の

根源である852と一切の軍事基地を即時撤去する

よう強く要求Jするとした決議を、全会一致で

採択した制。 嘉手納在住であった上原全箪労委

員長は、当日朝に、県労協として「最大限の抗

議行動を組もうJと亀甲県労協議長に訴えた制。

夜には抗議のために嘉手納村民大会が関かれ、 5

千人が集まった。

一方、駐日大使館は国務省からの指示を受け、

当日近藤晋ー外務審議官とともに、日本政府の

立場として、日本政府が 「抗議」していないこ

とを明確にする報道指針を作成した。木村官房

副長官はそれに従い、閣議で「米側に対し、こ

の穫の事故を再び起こさないよう強く注意を喚

起したいJと述べた5130 日本政府は、ここでも

米国に積極的に852撤去を求めることはしなかっ

た。

翌日、嘉手納基地に隣接する知花弾薬庫に核

が貯蔵されていることが報道され、嘉手納村民

の不安と恐怖は全県的なものへと広がっていっ

た。対立していた人民党系と社会党系の原水協

は、復帰協とともに i852即時撤去、原潜寄港阻

止共闘会議」を結成して共同することに合意し

た。このような状況の中、立法院では、沖縄自

民党も852撤去の立場を取ることを決めた問。 古

謝村長と会見した嘉手納基地司令官が i852の事

故は交通事故と同じようなものだωJと発言し

たことは、住民の怒りにさらに輸をかけた。県

労協幹事会は同日、県民の命を守る闘いを組織

するため、 852の撤去に目標を絞ってゼネストを

組むことを確認し、単組委員長会議では県労協

全加盟組合がこの闘争に参加することを申し合

わせた制。

852徹去を求めてまず立ち上がったのは、嘉手

納村教職員会を中心とした女性たちだった。852

事故が基地の周辺児童・生徒らに与えた衝撃は

深刻だった。沖縄自民党議員の一部は、嘉手納

での852撤去運動に対し、古謝村長が必要以上

に852問題を主張しているとし、また同党の女性

に働きかけ、自民党嘉手納支部の女性が852反対

運動に参加しないよう圧力をかけた刻。 しかし、

11月30日、自民党婦人部幹部も含む女性約700人

が総決起大会を行い、ただ1人の男性として古

裁も参加した。大会では、 日米両政府と琉球政

府あてに f村民の何物にもかえられない生命と

平和を守るために、このような爆発事故を起こ

した米軍当局に、心の底からの怒りと不信をこ

めて抗議すると共に、絶対にその存在を許せな

い852と一切の核兵器を即時鍛去するよう民族の

繁栄と永遠の平和を希求する婦人の立場から強

く要求する紛Jと決議し、デモが行われた。女

性だけのデモ行進は沖縄では戦前戦後を通じて

初めてであり、中学・高校生代表も含まれてい

ナ,.5才},、 。

12月2日、爆発事故現場とほぼ同じ場所で、

852が芝生に突っ込みながら停止するという事故

が起き、住民に墜落爆発事故の恐怖を再び呼び

起こ した。米軍は 「正常な着陸ではなかったが

事故とはいえないjと発表し、被害は一切無かっ

た。 しかし、当日学生が無届デモや抗議集会を

行い、 12月4日には嘉手納村教戦員会が、 7日

に12時間職場放棄のストライキを行う、と宣言

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2・4ゼネストと総合労働布令

した。同会は村役所、 PTA会長、自治労嘉手納

支部、復帰協嘉手納支部にもスト決行を伝える

とともに協力を申し入れ、各組織とも 1852徹去

のためなら反対する ことはできないJとの姿勢

を示した。スト宣言は、墜落爆発事故が沖縄戦

の記憶を 「まざまざと呼びさまさせたjとし、「毎

日性こりもなく、尊い人命を殺りくするために

嘉手納基地を使わせていることは、私たち自身、

ベトナム戦争に協力していることになりはしな

いだろうかJとの加害者意識に立つものであっ

た。また、日本政府が沖縄の怒りを無視してベ

トナム戦争に協力していることに対し、「いまや

我々は、日本政府のこの現実に対して、『裏切

られたj、f失望した』 という弱々しい泣きごと

を言っておれない。日本政府の弱腰をつきあげ、

村民の生命、財産を守り、子どもらの幸せを実現

するために、我々の底からのカで、米国の厚い

壁を突き破る以外に道はないと確信する掛」 との

強い決意が示されていた。12月6日には嘉手納

村爆音防止対策期成会を解消して、村役所、村

議会、各種団体で構成した嘉手納村基地対策協

議会が結成された。 7日に行われた教臓員スト

ライキには、村外からの支援団体も含め、 2千

人以上が参加した。同日、 「いのちを守る県民共

闘会議J(以下共闘会議)が、革新共闘会議構成

団体を含めた140団体で結成され、 852の即時撤

去、原潜寄港の即時中止、沖縄からの一切の核

兵器の即時撤去を決議した。議長には、亀甲県

労協議長が選出された。

第2節ゼネスト気運の高まり

全軍労も参加するゼネストが計画されたことか

ら、 JSLCはストライキを防止するためのシナリ

オの作成を開始した。11月29日の時点のシナリ

オは、以下の返りだった。①'JSLCが全軍労幹部

に会い、ストライキを避けるよう説得する。②

A.民政官が屋良主席に会い、ストライキを回避

させるよう説得する、 8.JSLCがプレス・リリー

スで 「了解の覚書Jの撤回を示して全軍労幹部

を非難する、 C全軍労幹部の愚か (poor)な判断

を強調するピラを全ての寧の職場に配る (0は手

書きで書き加えられているが、読み取れない)。

②の全てに失敗すれば、民政官が全軍労の幹部

に会って説得を行うS910

シナリオは、 12月4日に完成した。JSLC議長

は高等弁務官にこのシナリオを伝達し、 シナリ

オは全ての関係機関に手引きとして使用される

予定であり。また、USCAR労働局が適切な時期

に県労協幹部に会い、ストライキを中止または

最小限にすることが望ま しいと説得すること、

市民の不安や基地の防護に関連する他の作戦計

画 (OPLAN)やシナリオをただちに見直し最新

化することが望ましいと付け加えた刷。 USCAR

公安局は、ゼネストについての情報収集に乗 り

出した。

また、 USCARは屋良次期主席にもゼネストの

回避を積極的に働きかけた。11月27日に屋良・

アンガー会談が聞かれた際、アンガー高等弁務

官は、ゼネストは、法と秩序を破壊し、沖縄の人々

の生活を危険にさらすとの懸念を示し、屋良に

主席としての特権と影響力を使って、 852反対運

動を確立された民主的な方法に制限してほしい

と要請した。12月 1日から主席に就任した屋良

が、 12月6日に本土に出発する前にカーペンター

(Stanley S. Carpenter)民政官を表敬訪問した際、

カーベンターも同様の要請を繰り返した。屋良

は法と秩序を守る重要性には同意したが、日米

の指導者は852問題に対する沖縄の人々の感情の

深さを理解しなければな らず、人々に選ばれた

代表として、自分は彼らの感情を表現する必要

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160

『人権問煙研究J14号

があると述べた61)。

屋良は12月7日から上京し、本土政府首脳そ

の他関係機関に対して就任挨拶を行うとともに、

852の徹去などを要請した。 しかし、 11日に行わ

れた愛知・ジョンソン会談では、愛知撲ー外相

が沖縄住民の不安を伝えたが、ジョンソンが「米

政府は沖縄を852の恒久基地にするつもりはな

い、周聞の情勢が許せば漸次撤去するjと従来

通りの説明を行ったのみだったω。

沖縄では12月14日には「いのちを守る県民大

会Jが関かれ、初めて琉球政府各局長が参加し

た他、沖縄自民党の星克立法院議長もメ ッセー

ジを送った。県民代表団は「本土同胞へのアピー

Jレ」を携えて17日から上京し、各民主団体の他、

衆参両院の 「沖縄及び北方問題に関する特別委

員会jでも852撤去を訴えた。しかし、国会では

声に耳を傾ける者は少なく、また、佐藤首相に

も面会を求めたが会うことはできず、保利茂官

房長官は 「集会の指導者は、あおりたてないで

ほしいJと述べたため、代表団は本土への不信

感を強め、 「ゼネスト決行以外ないJと次第に考

えるようになった。

12月23日には立法院臨時議会が開かれ、 B52即

時撤去要求決議と即時撤去に関する要請決議案

(日本政府宛)が議題となった。発議者として趣

旨説明に立った古堅議員は、これは立法院議員

32名の意思が完全に統ーされている案だと言っ

ても過言ではないと最初に述べ、 23年にわたる

米国支配と軍事基地から受けてきた苦しみをと

うとうと語った。そして、 11月19日に採択され

た嘉手納村議会決議を、沖縄県民の願いを表し

ているのではないかとして読み上げた。日本政

府宛の決議については、日本政府が米国の852沖

縄常駐に協力し続けていることに対し、「沖縄は

日本の領土だと、我々沖縄県民は日本国民であ

ると、我々にも憲法によって保障されている生

命と安全を確保する権利があるし、我々にも平

和を望む権利があるし、我々にも恐怖から免れ

て生活する権利があるという立場に立ってJ強

い要求をしようという内容なのだと説明を付け

加えたω。決議は両案とも全会一致で可決され、

原潜寄港即時取りやめ要求決議も採択された。

そして、その後も権威をもって調査を行うため

に、軍関係特別委員会が再設置された。

第三節屋良によるゼネスト回避交渉

ゼネストへの気運が高まる中、屋良は不安を

抱えていた。後に屋良は回想録の中で、自分に

はゼネストがどんなものかわからなかったと述

懐している。fゼネストは852撤去を迫つてのス

トであるが然し民間内にゼネストを断行すれば

直接に影響と被害を受けるのは民間自体ではな

いのか。852の撤去に責任のある米軍に直接打撃

を与えるのではなくて責任のない民間同志に被

害を与え合うということになればその時に起こ

る損失被害については誰が責任を負い得るか刷)J。

行政責任者となった屋良には、全県民的な視野

に立った判断が求められていた。

USCAR公安局の文書によれば、屋良は12月28

日に共闘会議執行部と協議し、ゼネストを避け

る方法がないのかと尋ねた。 しかし執行部は、

現在の状況ではスト回避は不可能であり、執行

部はスト計画に対する態度が 「生ぬるい」と批

判さえされていると答えた。屋良は、執行部が

与野党の立法議員、市町村の様々な組織、沖縄

経営者協議会 (以下沖経協)などに支援を頼み、

852徹去のための全島規模の運動を行うことを提

案した。これに対し執行部は、彼らも852撤去の

ためにゼネスト以外の方法を使うことに関心が

あるが、他の方法は使い果たされており、それ

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2・4ゼネストと総合労働布令

ゆえに日本政府が彼らを援助するように要求し

ているのだと答えた。ただ、屋良が軍や警察と

の直接対決を避けることの重要性を強調したた

め、共闘会議側も l月初旬に高等弁務官と852問

題について協議し、屋良の提案のように様々な

団体に協力を求めることを約束した紛。

1969年 1月6目、共闘会議幹事会は852常駐

から l年となる 2月4日にゼネストを実施し、

嘉手納で10万人集会を行い、嘉手納基地を包囲

するかたちで軍用道路に座り込むことを決定し

た。USCAR公安局はこのことを詳細に報告し、

USCAR渉外局は公安局の報告を分析し、県労協

と教職員会はストライキに参加する予定だが、

全軍労が参加するかどうかは五分五分の見込み

であり、共闘会議幹部は米国や琉球政府との対

決を避けるようあらゆる努力をする見込みであ

る。また、 学生や他の過激派が集会を利用して

混乱を引き起こすことや、全箪労のゼネストへ

の参加が、米国に対し最も深刻な影響を与えう

ると 1月8日に陸軍省に報告した倒。

屋良は l月4日から再び上京し、沖縄の復帰

体制づくりのための財政援助とともに852撤去、

原潜寄港阻止を臼本政府に要請した。同時期に、

安里積千代社大党委員長、平良良松那覇市長ら

も屋良とは別に上京し、 852撤去を訴えた。ジョ

ンソン大使の国務省宛の電文によれば、この時

屋良は、彼のゼネスト回避の要請が信頼性や効

果を持つためには、日本政府が852徹去のために

真剣に交渉しているという示唆が最低限必要だ

と述べた。ただし、 1月11日の記者会見で、屋

良は 「日本政府は真剣に交渉しているJと述べ

たが、これについてジョンソンは、日本政府は

沖縄返還に向けての自らの姿勢を公式化する過

程にあり、沖縄での事態が自らの立場を害しな

い限り、米国を支持することも妨害することも

考えられないとしていた刷。

第4章幻のゼネスト第 1節時機を失したCLO公布

l月11日に行われたCLOの公布が、この状況

を大きく変えていくことになった。CLOに対す

る反響について述べる前に、 CLOが公布される

までの経緯をみてみたい。

第 2章で述べた全軍労との 「了解の覚書Jが

交わされて以降、米国政府関係機関とUSCARの

聞で、 CLOの規制を緩和することについて意見

交換が行われた。この結果、労働者の争議権を

直接明確に否認する規定はなくなったが、明確

なスト権も設けられなかった。また、陸軍省は

基地の安全を強化するための制限を強める文章

を付け加えた。CLOを公布する期日は12月5日

までに 3度にわたって延期され、 12月9日から

は全軍労組合員の一部が年末手当を求めてスト

ライキを行ったためさらに延期された。米本国

から公布が承認されたのは12月24日だった脚。

USCARIま12月26日に、陸軍省の同意を得て、

ストライキの影響がない1969年 1月10日がCLO

公布に適切だと決定した。琉球政府がCし0を翻

訳して広報に載せる余裕を持たせるため、施行

期日は同年 1月25日とされた。ファーラーは、

公布の前に日本政府関係者などにCLOについて

の説明を行うため、年明けの l月3日に日本に

向かった。ファ ーラーが日本政府関係者などに

説明を行っている問、ワーラー (8inionWaller)

労働局次長が沖縄で屋良主席や琉球政府労働局、

全軍労に対する説明を行う手筈になっていた。

屋良が上京中であったことが、この計画を在

わせた。ファーラーは東京で屋良に説明を行お

うとしたが、屋良は琉球政府労働局長の不在を

理由に説明を受けることを拒んだ。このため、

161

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162

f人権問厩研究J14号

屋良への説明は、彼の帰任後である 1月10日か

11日に実施されることになった。この問、ファー

ラーは 1月9日、 10日に日本政府、総評などに

CLOの概要を説明した。 CLOの全文は渡されず、

改善点が強識されたため、屋良と全箪労に対し

て説明が行われた直後の布令の公布に異議を唱

えた機関はなかった。総理府は、沖縄でゼネス

トが計画されている最中の公布に対して疑問を

示したが、ファーラーは 「ゼネス トは起こらな

いだろうJと考えていた。

屋良が1月11日の朝に帰任すると、ワーラー

が屋良に対し説明を行った。しかし、屋良は、

他の予定があるとして、説明を最後まで聞かず

に席を立った。この時の説明も英文をもとにな

されたため、屋良は布令を翻訳し、労働局で検

討してから再ひ(USCARと協議するつもりだった

ようである。ワーラ}は説明を続けたいと要請

したが、琉球政府職員はそれ以上CLOに興味を

示さなかった。ワーラーは同日午後に全軍労役

員にも説明を行い、スト権を確立しなかったこ

とについては、「人権と労働権の否定Jだと非難

された。しかし、 USCARは説明が終わった後に

CLOを公布した倒。

CLOが公布されるとともに、沖縄では反発が

巻き起こった。公布の期日が全箪労がゼネスト

参加意思を決定する臨時大会の前日であったこ

と、正文とされる英文のみが公布され、これま

での慣例であった日本語訳文が付されなかった

ことが、反発を強める一因となった。CLOは最

低賃金の引き上げや年間25割のボーナス支給な

ど、布令116号より改善された面もあった。だ

が、布令の適用範囲の拡大や争議権の否認、政

治献金の制限など、反組合的な面が強ま ったこ

とが非難の対象となった。中でも問題とされた

のは、第10条「非合法活動Jで、 「すべての人は、

箪または重要産業の活動を妨害する目的、ある

いはその効果をもっピケ、集会、またはデモを

行うことを明白に禁止されている。いかなる入、

労働組織、または労働組合の代表といえども、

被用者がその職場に行くことをいかなる手段に

よっても妨害してはならず、また軍事基地や指

定重要産業の活動、あるいは米国政府の管理下

にある土地で遂行される仕事を妨害する目的、

あるいはその効果をもっ一切の行動に従事しで

はならないJと規定されたことであった。公布

直後にUSCARが、ここでいう 「すべての人jは、

基地労働者だけでなく文字通り全ての人を意味

すると言明したことから、この法案はゼネスト

を中止させようとするものだと受け取られたの

である加。

全軍労は、 1月12日の臨時大会で、 240人の代

表中223人の賛成でゼネストへの参加を決定し

た。 1月138に屋良とアンガー高等弁務官の間

でゼネス トに関する非公開会議が行われる予定

であった。しかし、 全軍労幹部の圧力を受けた

屋良は、 CLOに対する労働者の感情を伝えるた

めだとして、この日にアンガーと会議を行うと

公表した。 3時間にわたる会議で、屋良はCLO

が琉球政府や労働組合幹部の事前了解を得ずに

公布されたことに不満を示し、施行延期を求め

た。アンガーは、 CLOはゼネストとは関係がな

く、また米国政府内での検討を経て施行期日が

決定されたため、彼に期日を変更する権限はな

いとこれを否定した。ただし、ゼネストについ

ては、回避が望ましいということで意見が一致

しており、屋良はここでも、日本政府カ{s52問題

等に対して米国と議論を始めようとする動きが、

ゼネストを回避する理由となりうると述べた。

USCARは1月14日に全軍労の上原委員長らとも

接触し、ゼネスト回避の可能性について尋ねた

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2・4ゼネストと総合労働布令

が、上原らも852の撤去について日米両政府が協

議することが、ストライキの回避に十分な理由

となるとした加。

第2節 CLOの施行延期

屋良は l月16日にも、カーペンター民政官と

CLOについて協議した。屋良の目的は、 CLOの

徹回あるいは施行延期を米国政府に伝達するよ

う、カーペンターに公式に要請することであっ

た。カーペンターは、 CLOは布令116号よりも優

れていると強調し、公布の期日はゼネストとは

無関係だと繰り返したが、米国政府に屋良の要

請を伝達すると約束した刻。 また、屋良は 1月

17日から沖縄を訪問した「沖縄及び北方問題に

関する特別委貝会」調査団に対しでも、「ゼネス

トや布令問題を落っかせる道はたった一つ 本

土政府の出方にあるJと説明した。知念朝功副

主席、イ中松庸霊安琉球政府労働局長らと前日に昼

食を共にした際、「本土政府に動いてもらう他は

ない」ということで意見が一致し、屋良はこの

線で折衝を進めると決めていた問。

CLOに対する批判が強まる中、カーペンター

は沖縄自民党幹部とも協議した。カーペンター

は、米国の施政権は円滑な基地の運用のために

あり、施行期限の延期は彼の権限外であり、ま

た革新勢力を利するであろうため好まないとし

たが、西銘総裁もCLOの施行延期を求め、人々

との協力も重要だと指摘した。 カーペンター

は、自民党がCLOについて好意的な立場を取る

よう重ねて求めたが、翌日立法院では、 CLO

への抗議のために 1月22日に立法院臨時会議を

開くことが、自民党も同意の上で決定された。

カーペンターは渉外局のスナイダー (RichardE.

Snyder)ともCLO対策について協議したが、ス

ナイダーはボールは日本政府の側にあるが、大

使館に日本政府に働きかけるよう要請するほど

ではないと考えていた制。

ゼネストの期日が近づく中、 852撤去に対して

は冷淡だった日本政府も、 CLO公布に対しては

積様的に動き、 l月17日にはCLOの条項につい

ての質問票を提出した。ただし、この背景には、

反対運動を抑えるためにCLOについて可能な限

り良い解釈を行いたいという意図があった問。

CLOに対しては、県労協が 1月17日に 「布令撤

廃要求労働者総決起大会」を開催し、総評など

の労働団体や本土の社会党、民主団体なども一

斉にCLOの不当性を指摘し、米側への抗議と撤

回を要求する行動を起こすなど、沖縄、本土双

方で激しい抗議行動が行われていたのである。

この閥、 USCARによるCLO施行延期の提案に

ついて、国務省、駐日大使館、陸軍省などの問

で電文を通じての意見交換が行われた。駐日大

使館のオズボーン公使は、 USCARの案に賛成

し、また米国政府と日本政府が対立していると

受け取られないため、牛場信彦外務次官に自ら

が働きかけることを提案した。オズボーンは翌

日牛場に会い、 CLOの施行延期を伝え、施行猶

予期間に日本政府がCLOについての論評を独占

しないことを勧め、牛場は理解を示した。この

時、オズボーンは施行延期が反対運動の勝利で

あるという印象を薄めるため、日本政府との 「協

議jの後に施行延期が決定されたと報道される

ことを日本政府が望んでいると察し、日本政府

との協議後であると理解されるよう、 1月23日

にUSCARが施行延期の声明を出すことを推奨し

.J-..i61 I~ 。

カーペンターは、 I月23日に再び屋良に会い、

CLOの施行が延期されることになったと伝え

た。この措置は琉球政府、労働組合、政党など

がCLOに対する意見をUSCARに提出する機会を

163

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164

『人権問信研究J14号

与えるためであり、 CLOがゼネストと関係なく、

ゼネスト弾圧の目的もないということを認めさ

せる米国側の誠意の証拠だとされた。意見の提

出期限は3月1日だった。カーペンターは同時

にゼネストの防止あるいは穏健化を屋良に要求

した。屋良はCLOの公布については、ゼネスト

と無関係であると分かったと報道陣に伝えると

コメントした。ゼネストについては、彼と琉球

政府の主要メンバーがゼネスト防止のためあら

ゆる努力を払っているが、この努力が報道陣に

は漏れないようにしてほしいと述べたmo翌日、

CLO施行延期の反応を分析したUSCAR渉外局

は、復帰を望む現在の雰囲気 (reversionmood)

では、 USCARがどんな重要な布令を公布しでも

面倒なことが起こるだろうと指摘した加。

第3節矛盾の表面化

このCLO施行延期を前後して、次第に島ぐる

みの気運は崩れ始めた。 1月218に、コザ市の

コザ商工会議所は、 「ゼネストの影響が大きいか

らあくまで回避すべきだJとして「ゼネスト反対」

を決議し、立法院等へ要請を行うことを決めた。

また、本土の自民党も回避に全力を上げ、地元

情勢の説明を求められた沖経協議会専務が、急

ぎ上京した。共闘会議はゼネスト態勢を盛り上

げるため、 24日に総決起大会を開催し、約2万

人が与儀公園に集結、デモ行進を行った。しかし、

嘉手納でも貸し住宅組合や商庖街がゼネストに

反対を表明し、同日ゼネスト反対の棟情舎を嘉

手納村当局等に提出した。趣旨は「狭い嘉手納

に十万人もの人が集まり、デモをした場合、生

活が破壊され経済混乱を引き起こすので、嘉手

納で行う政治的ゼネストには反対するJという

ものであり、 B52撤去については「高度な政治問

題として本土政府や米国に抗議することに賛成」

するとしていたが、嘉手納でゼネスト反対の意

思が示されたことは、波紋を呼ぶことになった。

また、沖縄自民党議員は、屋良主席、共闘会議

幹部にゼネス ト中止を訴え、 B52撤去には賛成だ

が、ゼネストは「基地撤去と70年の安保廃棄闘

争を指向する政治闘争だJとして、 27日に取り

やめを要求する声明を出したm。

嘉手納村では、 1月28日に臨時村議会が開か

れ、陳情容をどう扱うかが議論された。会議で

は、陳情の趣旨は明らかだとする自民党議員と、

全島に影響を与えるため慎重に扱うべきとする

野党議員との簡で意見が対立した。4時間にわ

たって議論が続けられたが、妥協点は見出せな

かった。古禽村長は、 B52を即時撤去を望む気持

ちに変わりはないが、ゼネストに対しては村の

行政責任者として推奨も反対もできないという、

板挟みの状態となった。最終的に、自民党の賛

成多数で陳情警は原案通り採択された。自民党

が譲歩しなかった理由の一つには、 「ゼネスト取

りやめの声明Jを出した自民党本部の意向があっ

たとされた。村内でもストに関しては賛否両論

に分かれていたが、最も爆音被害を受けている

屋良地域では、村議会の態度に不満と不信感さ

え見せた制。 しかし、嘉手納で意見が分かれた

ことは、結果的にゼネストに影響を与えること

になる。次に、共闘会議幹部および屋良主席の

行動を見てみたい。

1月24日の共闘会議総決起大会で選出された

亀甲議長ら代表団は、 26日から上京し、政府関

係者、国会、各政党にB52即時撤去を要請し、総

評をはじめとする労働団体などに、 2・4ゼネ

ストへの協力を訴えた。一方、日本政府もこの

状況には危機を感じていた。外務省はゼネスト

回避のために米大使館にB52について申し入れを

行うシナリオを作成し、愛知外相の承認を得た。

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2・4ゼネストと総合労働布令

千葉一夫外務省北米第一課長は27日に米大使館

を訪れて協力を要請し、大使館がこれには害は

ないとして拒否しなかったので、翌日牛場外務

次官がシナ リオ通りにオズボーン公使に申し入

れを行った。オズボーンから国務省宛の電文に

よれば、牛場はこの際、記録外の発言だとしな

がら、最近の沖縄からの訪問者は全て、ゼネス

トの勢いを緩和するためには、852について何か

する必要があると日本政府に対し主張したと述

べた81)。 つまり、これはゼネスト回避のための

演技ではあったが、一方的に日本政府が演じた

ものではなく、屋良をはじめとする沖縄からの

要請に応じたものでもあったのである。ただし、

愛知外相らと会談した亀甲は同日午後7時、 「政

府の回答は回避の条件にならないJとして、県

民共闘と県労協の両事務局に 「ゼネスト突入準

備指令Jを出した。

第4節ゼネスト回避

相次ぐ困難に、屋良は体調を崩すほどに思い

悩んでいたが、再度政府に申し入れを行うこと

を1月25日に決意した。同日大山朝常コザ市長、

安里社大党委員長らと会談した席で、大山が基

地依存業者との対立を避けるためとしてゼネス

トに強く反対し、スト回避で意見が一致したこ

とがき っかけだった。行政当局者としてゼネス

ト回避のためにできることは、ゼネスト回避を

組織に指示する ことではな く、「ゼネスト敢行の

要因を除くべく 最大の努力をな しある撤去の見

通しをたてて組織責任者に回避要請をする以外

にはないjというのが屋良の考え方であった劇。

屋良は27日にページ空軍司令官、 28日に新し

く渚任したランパート (James8. Lampert)高等

弁務官にも852について意見を聞いたが、回避材

料になるものは得られなかった。上京した屋良

は、撤去のメドとなる期日を引き出そうと、 29

日に床次想二総務長官、愛知外相、佐藤首相 ら

に会ったが、これも同 じ結果だった。床次、愛

知らは問題となっている852、CLO、原潜のうち、

852以外は日本政府の要請によって解決の方向に

向かっていることを強調した。だが、屋良は求

める回答を得られず途方に暮れ、また自分を説

得するだけの発言もなくス ト回避を要請する政

府首脳らに失望していた。ただ、その夜屋良の

宿舎を訪ねた共同通信の高橋実が、木村官房副

長官にもう 一度会うことを勧めた問。 翌朝木村

の自宅を訪ねた屋良に、木村は 「タイの基地が6

月に完成、 パリ会談、ベトナム戦はおそくとも 7

月に終わる。そうすると852基地はおそく とも6、

7月までには徹去だろうとの見通し制Jを伝えた。

同日、屋良はオズボーン公使とも会談を行っ

た。屋良は852やCLOの問題は日米両政府間での

議論によってのみ解決できるとして、沖縄の人々

の感情を米国政府に伝えるよう要議し、ゼネス

トを避けるために米国が最大限に協力すること

を求めた。また、 852がタイ の基地へ移駐する

ことが事実かどうかただした。オズボーンは米

国政府に屋良の要請を伝えることを約束したが、

タイ基地との関連については何も知らないと答

えた。しかし、東京折衝を終えた屋良は翌日の

記者会見で 「本土政府が前向きの姿勢を見せて

いる ことは確かで、ゼネスト回避の確たる手が

かりはつかめなかったが、信頼できる人たちの

話を総括してみて 6、7月ごろにはタイの基地

に移駐するという感触を得たJと発表した紛。

1月31日に琉球政府で緊急局長会議が聞かれ、

屋良は午後 l時半に共闘会議幹部らを招き、「忍

びがたきを忍んでゼネストを回避してもらいた

いJと要請した。会議で回避を要請する ことが

決まった理由には、立法院多数派の自民党の意

165

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166

『人権問題研究J14号

向や、地元の嘉手納村で村民の意思統ーができ

ていないなど、県ぐるみの取り組みがなされて

いないことも含まれていた制。 さらに、局長会

議は 「回避要請の首席メッセージJをまとめ、

午後8時過ぎに亀甲に手渡した。

この問、 30日に沖縄に帰任した亀甲 ら県民代

表の報告を受けた県労協幹事会は、 「現時点では

ゼネスト回避の条件はない」として、屋良の帰

任後、交渉経過を聞いて具体的なスト戦術を検

討すると決定していた。ただし、この時点で全

軍労は米軍から激しい切り崩し攻祭を受けてい

た87)0 CLO公布翌日である 1月12日に、全軍労

がゼネスト参加を決定したためであった。当時

全軍労空軍支部執行委員であった宮域邦治氏に

よれば、米軍は、 「ゼネストは反米闘争であり、

政治ストで違法である。参加したら解雇だ。こ

れは基地司令官の命令だjと通告し、参加する

かどうかのアンケート を職場で強要した。当初

はゼネストの気運が盛り上がっているために、

従業員は回答することを拒否し、用紙を丸めて

捨てていた。すると、米軍は事務所に 1人ずつ

呼び出し、通訳を交えた米兵2人が r(アンケー

トに)署名しなさい。しないなら解雇だjと脅

迫したという制。 また、野戦用のベッドや食料品、

医薬品を持ち込み、スト不参加者の泊まり込み

準備を進め、畳間は管理職を使ってゼネス トは

違法なストだとの警告を繰り返した。組合員は

このような米箪の攻撃と全軍労のオルグ活動の

関で板挟みとなり、参加をあきらめる人も出て

きた。全軍労は最終的に、 l月30日に聞かれた

中央闘争委員会で、ストに突入すれば組織が崩

壊しかねないと判断し、不参加を決定した紛。

1月31日の夜、全箪労の不参加と屋良の回避

要請を受けた県労協幹事会は、紛糾の末、 2月

1日未明にゼネスト回避を決定した。亀甲はこ

の決定を携えて午後からの共闘会議幹事会に臨

んだが、幹事会も回避派と決行派に分かれて紛

糾し、 2月2日の未明にようやくゼネストを回

避し、嘉手納総合グラウンドで県民大会を開催

し、デモを行うことで決着を見た制。嘉手納村

では rB52撤去運動がすり替えられた」とするゼ

ネスト賛成派と、 rB52撤去の方向は同じであり、

県民大会でもよい」とするスト反対派の両論に

分かれた。古謝村長は 「ゼネストが回避された

からといってB52徹去運動がすり替えられたと

は思わない。米国はメンツを重んずる国であり、

我々がゼネストを回避したんだという心情をく

み取ってほしいJとして、早急なB52撤去への期

待を語った91)。

2月4日、嘉手納総合グラウンドで県民総決

起大会が開催され、参加を見合わせた団体があっ

たにもかかわらず、土砂降りの雨の中多くの人

が集まり、宮古、八重山でも決起集会が持たれた。

屋良はこの集会について、「県民のB52撤去につ

いての思いつめた気持ちを表したもので、きわ

めて意義は大きい。この県民の気持ちを日米両

政府とも率直に認識すべきだ鉛」 と述べた。し

かし、沖縄の人々の思いをよそに、 B52はその日

も出撃を続けた。

おわりに

ここまで、米国がベ トナム戦争に介入した後、

沖縄の情勢が変化し、 2・4ゼネス トの計画 ・

回避に至るまでの経緯を、沖縄保守勢力と金寧

労の二つの組織に焦点を当てながら述べてきた。

ベトナム戦争が激化するにつれ、生活のために

基地に依存せざるを得なかった嘉手納村、全lI!

労の人々も、墓地への反発を強めるようになっ

た。それは、三大選挙で革新主席が誕生する一

つの要因となり、またB52墜落爆発事故後、両者

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2・4ゼネストと総合労働布令

がゼネストにも積極的に関わったことなどから、

ゼネスト気運は島ぐるみの規模で盛り上がって

いった。一方、沖縄自民党はこのような中で劣

勢化し、当初は住民運動の高揚から、ゼネスト

にも公然と反対することはできなかった。

しかし、 CLO公布は、 USCARの意図にかかわ

らず、 ゼネストに対する米軍の強権的な弾圧だ

という印象を沖縄の人々に与えた。嘉手納村を

含めた米軍と関わりの深い商工業者などは、こ

の措置とそれに対する住民の反発の強さから、

ゼネストが実行された場合の影響の大きさを憂

慮し、ゼネストに反対する姿勢を見せるように

なった。沖縄自民党は、自身も反対したCLOを

米軍が撤回するという譲歩を見せたことで、「ゼ

ネスト取りやめの声明」を出すに至った。また、

全窓労も、ゼネスト参加決定後の激しい米軍の

切り崩し攻撃から、参加に消極的となっていっ

た。このような状況の中で、屋良主席はゼネス

トに対する米軍 ・警察の弾圧や沖縄内部の混乱

を恐れ、数度にわたって日本政府に対処するよ

う働きかけを行い、日本政府を動かしたのであ

る。

従来屋良がゼネスト回避のために動いた理由

として言われてきた、 「復帰が遅れるJというこ

とは、屋良にとってはそれほど問題ではなかっ

たと思われる。屋良及び彼を支持した人々は、 2・

4ゼネスト直前の古堅議員の発言にあるように、

「我々にも憲法によ って保障されている生命と安

全を確保する権利があるし、我々にも平和を望

む権利があるし、我々にも恐怖から免れて生活

する権利がある」という、日本本土と差別なき

扱いを求める思いを日本復帰にかけていたと考

えるからである。ゼネストという手段が生活の

ために基地に依存せざるを得ない人々に被害を

与え、混乱をもたらしかねないと判断したこと

が、回避の理由になったのだろう。基地が戦争

に使用された時、それは戦争の当事者だけでな

く、基地に隣接して暮らしている人々にも、大

きな苦しみをもたらすことになる。 しかし、生

活のためには基地に依存せざるを得ない。その

矛盾が、 2・4ゼネスト回避に至るまでの過程

に端的に表れているのではないかと考える。

最後に、 2・4ゼネストの過程で問題となった、

852配備とCLOの帰趨と、 今後の課題について述

べて本稿を終わる ことに したい。2・4ゼネス

トが回避された後、米国政府内では、再び852撤

去が論議された93)。 しかし、米統合参謀本部は

配備継続を主張し続け側、また、同年 4月に北

朝鮮による米軍偵察機撃墜事件が起きたことな

どから、実際tこ852の常駐体制が解かれたのは、

1970年9月であった9ヘ しかし、 CLOは、米国

では 2月以降も再公布するための検討が行われ

ていたが、 1969年8月に、実質的な廃案である

無期延期となった則。 CLOが廃案となった背景

には、自民党も含めた烏ぐるみの反発があった

と考えられる。

ただし、 1969年11月に1972年の沖縄返還が合

意された後、米軍は財政悪化を理由に全軍労の

大量解雇を行った。この大量解雇の背景や、 そ

れに対する全軍労の解扇撤回闘争について、今

後検討していきたいと考えている。

また、 2・4ゼネストと対照的な例として考

えられるのが、 1970年12月20日未明に起きたコ

ザ暴動である。これは、米兵による自動車事故

を発端として集まった住民たちが、 80台余りの

米軍事関を焼き、 一部は嘉手納基地に突入した

という、自然発生的に起きた大事件だった。こ

の暴動には、運動の中心となっていた革新側の

指導者はほとんど参加しておらず、米軍から利

益を得ていた基地関係染者が、むしろ積極的に

167

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168

『人繕問題研究J14号

参加し て い た こ とで 知られている。彼 ら を 動 か

した背景や、この事件が与えた影響についても、

今後検討してい きた い。

本京書Z大学大学院文学研究科惇士後期諜程

1;;主1

1 )新崎盛畷 I戦後沖縄史J(日本野齢社、 1976年)、327頁.

2)我郎政男 r60年代復帰還動の展開j宮里政玄編『戦後沖

縄の政治と法J(東京大学出版会、 1975年)、 新鯖盛海、

前縄書、中野好夫・新筒!ilR軍『沖縄載後史J(岩波書庖、

1976年)、平良好利 I戦後沖縄と米軍基地一 「受容Jと

「拒絶jのはざまで 1945 -1972年J(法政大学出版局、

2012年)など.

3)宮里政玄 I日米関係と沖縄ー1945・1972年J(岩波.底、

2000年).

4)本稿を執筆するにあたって主に参照したUSCAR文・1草、 "FilesConcerning B・52・s.1967苧 1970・

[U81100993B] ([]内は沖縄県公文書館の資料コー

ド. 以下問)、 “ReferencePaper Files. General

Strike (4 Feb 1969) " [U81101123B]、"(00019・

006) Public Safety Administrative Files. 1969・

[0000084115]である.

5) Letter from Carleton H. Faler to Mr. George P.

Delaney and Mr. Robert Walkinshaw. February 19.

1969. [∞00000787]沖縄県公文書館 ("Reference

Paper Files. 1 969・[0000000787]に所収入

6)本君臨の執筆に先立ち、 f出稿「沖縄返還交渉と朝鮮半島情

努-B52沖縄配鎗に着目してJr史称J97 (3) (2014

年5月)で、沖縄返遺愛渉と朝鮮半島情勢の格関関係に

ついて、 B52沖縄配備の背景やその影容に焦点を当てて

検討した.同じ時期を検討対象としたことから、行論の

ためにやむをえず本穫で同じ表現を使った初分があるこ

とをお断りしておく.

7) 1957年までは民政副長官が沖縄現地における最高責任

者であったが、 1957年6月 58から高等弁務官制が段

置され、高等弁務官が.高責任者となった.

8)寒地成憲 『沖縄における墓地労働者の法的地位一新 「総

合労働布令Jが意図するものJrt世界J280 (1969年3

月)、 269-276頁参照.

9)上原康助『基地沖縄の苦随一全軍労闘争史J(倉j広、

1982年)、 77、110頁.

10) Letter from Carleton H. Faler to Mr. George P.

Delaney and Mr. Robert Walkinshaw. February

19.1969 (出典は主主5参 照 )、Airgramfrom

American Embassy in TOkyo to the Department

of State. Subiect: GOJ Study: "Details Leading

to Promulgation of Comprehensive Labor

Ordinance", February 4. 1969. [0000111462]沖

縄県公文・鎗 {この文.は、日本政府労働省が日本政府

内での回覧のために作成した原文を、駐日大使館が翻訳

したものである.原文の日付は記されていないとあるが、

駐日大使館の電文の臼付が2月48であるため、それ以

前に作成されたことは間違いない).

11)上原、前掲書、 167・168、198・199、216.218頁.

12) High Commissioner of the Ryukyu Islands to the

Department of the Army. HC-L05211 08. July

1965. [U81100993B] 沖縄県公文書館. なお、

USCARから陸軍省に宛てた電文は、陸軍省を過して国

務省に伝達されていた.

13)立法院会隊録、第28回定例第35号 f般争回避に関する

決議方に関する陳情J1965年7月30白書量照。

14) High Commissioner of the Ryukyu Islands to the

Department of the Army, HC-L0521405. August

1965. [U81100993B]沖縄県公文書鎗.

15) Memorandum for the Record. Subiect: B52

Bombers Flying from Okinawa to Bomb Viet Cong

Positions. 3 August 1965. ibid.; Memorandum

for Civil Administrator. Subiect: Conversation

between LO and Legislator Choko KUWAE

Concerning Local Reaction to US B52 Raid which

Emanated from Okinawa. 6 August 1965. ibid.

16)沖縄嘉手納村役所鍾 f嘉手納村の現況J(沖縄嘉手納村役

所、 1969年)、 9頁、 r~帝王求新報J 1968年8月11日、

嘉手納町企画渉外様編『嘉手納町と基地J(嘉手納町役窃、

2010年〉、226頁、『朝日新聞J1968年 1月17日.

17)本節については、成田、前縄諭文第 1.をil照.

18) 1967年12月の第5回党大会で、沖縄民主党から沖縄自

民主党に改称.

19)立法際会.録、第36固定例 第3号 rB52忽量産相理墓地

化に反対し問機の即時撤収と一切の総争行為の即時取止

めを要求する決緩案J参照。

20) Telegram from American Embassy in Tokyo to

High Commissioner of the Ryukyu Islands. Tokyo

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2・4ゼネストと総合労働布令

6107. March 3. 1968. [U811009938]沖縄県公文

.館.21) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC-LN

806707. 7 March 1968. ibid.

22) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC・LN

806709. Subject: 8・52s.19 March 1968. ibid.

23) 1か月の燭奮の回数は2280固 (70ホン以上)、時間に

して70時間21分18秒 <r涜琢新報J1968年 3月14日)、

『琉球新報J1968年 3月31日.

24) Telegram from American Embassy in TOkyo to

High Commissioner of the Ryukyu Islands. Tokyo

6406. Subject: OHAMA Study Mission and 8・52

Problem. 13 March 1968. [U811 009938]沖縄県

公文書館、 8ackgroundfor Talking Points: 8-52s.

16 March 1968. ibid.: Telegram from American

Embassy in Tokyo to High Commissioner of the

Ryukyu Islands. Tokyo 7663. Subject: OHAMA

Mission to Okinawa March 28・31.27 March

1968. [0000000782]沖縄県公文・鎗.

25) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC・LN

807701. Subject: 8・52legislative resolution. 6

April 1968. [U811009938]沖縄県公文書館.

26) r環Eま新報J1968年 4月16日、17日、f朝日新関j

1968年 4月29日.

27) r琉球新報J1968年 5月 1日.

28) 宮里、前~.、 283、 286頁.

29) r琉まま新報J1968年 5月9目、 19目、26日

30) r務球新報J1968年 7月11B.

31) r液E重量高報J1968年 8.f116日.

32) Election Leaflets ([U811012138]沖縄県公文・鎗}

に所収.

33) r琉球新報J1968年8月25日.

34) rJ.市E求新報J1968年8月26日、27日.

35) r涜球新報j声「悲しい怒喜劇役者たちJ(1968年8月

30日)、 f嘉手納村長よ莫の自を見聞けJ(1968年9月

4日)、 「もう嘉手納村民に同情しないJ(1968年9月 6

B)、「嘉手納村民よJ(1968年 9月17日).

36)U車E壁新報J:声f一体化は絶対に必要J(1968年9月3日)、

「賢明だった嘉手納村民J(1968年 9月12日).

37) n車線新報l声 f基地被害は絶対認めないJ1968年9月

27日.

38) r沖縄タイムスJ1部 8年9月12日.

39) Telegram trom High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. Subject:

Kadena-Son Election in Retrospect目 30August

1968. [U811 009938]沖縄県公文書館、Telegram

from High Commissioner of the Ryukyu Islands

to American Embassy in Tokyo. HCRI 825802.

Subject: 8・52on Okinawa. 14 September 1968.

[U811ooo138]沖縄県公文書館、 Letterfrom W.

G. 8rown to Paul Nitze. Deputy Secretary of

Defense町 October3. 1968. [0000111462]沖縄県

公文書館.

40)上原、前縄書、 230・232頁.

41) Letter from Carleton H. Faler to Mr. George P

Delaney and Mr. Robert Walkinshaw. February

19.1969 (出典は注5参照).

42)上原、前掲書、 234-237頁.

43) Letter from Carleton H. Faler to Mr. George P.

Delaney and Mr. Robert Walkinshaw. February

19.1969 (出典は注5参照).

44)上原、前掲書、 249-257頁.

45)向上、 262頁、 HCRI-LAB.OLDP Proposes 2"" Union

of Military Employees. March 20. 1969.

46)富里、前掲書、 287頁、『琉球新報J2012年 1月27日.

47) r策球新報J1968年11月21臼.

48)村民の重軽傷16入、絞舎、住宅等365件の被害が出た (屋

良箆編纂望書員会.r嘉手納町屋JUまJ(字屋食共栄会発行、

1994年)、 659頁).

49)嘉手納町繊会事務局所蔵、1968年第8回嘉手納村纏会(臨

自寺会)会緩録第 1号重量照。

50)涜E主新報社編『世普わり裏面史J(疏球新報社、1983年)、

560頁.

51) Telegram from American Embassy in Tokyo to

the Department of State. Tokyo 13960. Subject:

B・52Accident Okinawa. 19 November 1968.

[U81100993B]沖縄県公文書館、 Telegramfrom

American Embassy in Tokyo to the Department of

State. Tokyo 13967. Subject: Okinawa: Kadena

8-52 Crash. 19 November 1968. ibid.

52) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC-

LN 832801. Subject: 8・52Accident -Political

169

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f人権問題研究J14号

Effects. 22 November 1968. ibid.

53) r涜琢新報J1968年11月22日.

54)務琢新報社編、前掲書、 560頁.

55) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. Subject:

8・52Accident-Political Effects. 27 November

1968. [U81100993B]沖縄県公文書館.

56)嘉手納村全婦人大会 fB52核載略爆軍機の墜落爆発事故

に対する抗機と核兵器即時鍛去を要求する決自慢J1968

年11月30目、f嘉手納基地関係資料J[R10000560B]

沖縄県公文書館.

57) r朝日新聞J1968年12月 18.

58)嘉手納教事量員会 fB52墜落爆発への筑穫とB52徹去に

対するス卜宣言J1968年12月4日 (宮平良書 f古稀

を迎えで あの日 あの時金力役漂J(宮平良聖書発行、

2008年)所収入

59) Telegram from JSLC to High Commissioner.

Subject: General Strike. November 29. 1968.

[0000084115]沖縄県公文書館.

60) JSLC to HICOM. Subject: Strike Scenario.

December 6. 1968. ibid

61) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC-CA

834404. December 6.1968. [U81100993B]沖縄

県公文書館。

62) f愛知外務大臣、ジョンソン駐日米大使会議概要J1968

年12月12目、0600-2010ー00038、外交配録公開

(4) No.4-H22・017).

63)立法院会議録第38団信時第 1号 fB52般略..援の

即時撤去に関する要請決腹案J1968年12月23日.

64) fB521こからむ混乱Hr激動八年」廃食事月酋回顧録 原稿j

[0000112865]沖縄県公文書館、 4・5頁.

65) PSDI・1/69.Subject: General Strike Plans by

KENROKYO and Others. January 2. 1969.

[0000084115]沖縄県公文書館.

66) Telegram from High Commissioner of the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC-LN

900809. Subject: General Strike. January 8.

1969. ibid.

67) Telegram from American Embassy in Tokyo to

the Department of State. TOkyo 216. Subject:

Okinawa: B・52・s.SSN・s.and the General Strike.

January 11. 1969. [U81101123B]沖縄県公文書

鎗.

68) Letter from Carleton H. Faler to Mr. George P.

Delaney and Mr. Robert Walkinshaw. February

19. 1969 (出典は注5参照).以下、注釈がない限

りは上昔日の文書による.事実関係については、下記の

文書からも同織の内容が確認できた.Airgram from

American Embassy in Tokyo to the Department

of State. Subject: GOJ StudyグDetailsLeading

to Promulgation of Comprehensive Labor

Ordinance". February 4. 1969 (出典は注10参照).

69) Ibld.J屋良朝酋日誌Jl969年 1月11日[0000099334]

沖縄県公文S鎗.

70)布令の群細については望書勉成憲「沖縄 1総合労働布令』

と r2・4ゼネストJJr日本労働法学会臆J34 (1969

年10月)、 86-87頁、同 「新『総合労働布令jの問題

点ー布令116号との比鮫を中心としてJrジユリストj

419 (1969年 3月158).60・63頁参照.

71) Memorandum for record. Subject: Meeting of

High Commissioner and Mr. Chobyo Yara. Chief

Executive. Government of the Ryukyu Islands. 13

January 1969. [U81101123B]沖縄県公文書館、

Conversations with Kosuke Uehara-(President

Zengunro) on 14 January 1969. re: Okinawan

General Strike to Protest presence of B・52's.

January 15. 1969. Ibid目

72) Telegram from High Commissioner of the RyukYu

Islands to the Department of the Army. HC-CA

901705. Subject: CA Meeting with Yara on CLO.

January 17. 1969. ibid.

73)前掲、「厘良朝箇日陰J1969年 1月16日、 17日.

74) Telegram from High Commissioner 01 the Ryukyu

Islands to the Department of the Army. HC-CA

901714. Subject: CLO: CA's Discussion with

OLDP President Nishime. OLDP Legislators

Nagamine. Yamakawa. Oshiro. January 17. 1969.

[U81101123B]沖縄県公文書館、 Telegramfrom

High Commissioner of the Ryukyu Islands to the

Department of the Army. HC・LN902008. Subject

Extraordinary Session GRI Legislature 22 Jan to

Consider Anti-CLO Resolution. January 20. 1969.

ibid.; Memorandum for the Civil Administrator.

Subject: General Strike. January 18. 1969. ibid.

75) Telegram from American Embassy in Tokyo to

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2・4ゼネストと総合労働布令

the Department 01 State. Tokyo 393. Subiect:

Comprehensive Labor Ordinance. January 17.

1969. [0000111462]沖縄県公文書館.

76) Telegram Irom American Embassy in TOkyo to

the Department 01 State. Tokyo 468. Subiect:

Okinawa: Comprehensive Labor Ordinance.

January 21.1969. ibid.: Telegram from American

Embassy in Tokyo to the Department 01 State.

Tokyo 499. Subiect: Okinawa: Postponement

Effectuation 01 Comprehensive Labor Ordinance.

January 22. 1 969. ibid.

77) Telegram trom High Commissioner 01 the Ryukyu

Islands to the Department 01 the Army. HC-

LN 902315. Subiect: CA Meeting with Yara:

Postponement Effective Date CLO. January 23.

1969. [U81101123B]沖縄県公文書館.

78) Telegram Irom High Commissioner 01 the Ryukyu

Islands to the Department 01 the Army. HC-LN

902504. Subiect: Reaction to Postponement 01

Effective Date 01 CLO. January 24. 1969. ibid.

79) r琉球新報J1969年 1月21目、 23日、 288.

80) r琉球新報J1968是正 1月28日、 30目、 31日.

81)宮里、前掲書、 297頁、 TelegramIrom American

Embassy in TOkyo to the Department 01 State.

Tokyo 667. January 28. 1969. [U811 01123B]

沖縄県公文書館.

82)前縄、 f屋良靭箇日箆J1969年1月25目、前掲、 rB52

にからむ混乱J、6・7頁.

83)前婦、 rB521こからむ混乱J、29-30頁.

84)前婦、「震良靭箇白髭J1969年 1月30日.

85) Memorandum 01 Conversation. Subiect:

General Strike and B-52・s.January 30. 1969.

[U81101123B]沖縄県公文書館、屋良朝苗 f激動八

年一屋良靭茜回願録J(沖縄タイムス社、1985年)、38頁.

86) r琉球新報J1969年 1月31目。

87)琉球新報社編、前婦響、 568頁.

88) 2012年10月2目、宮減邦治氏に対する筆者のインタ

ビュー {録音は筆者所蔵).

89)琉球新報社編、前燭書、 569頁.

90)悶上、 581・583頁.

91) r疏球新報J1969年2月3日.

92) r朝日新聞J1969年 2月48.

93) Letter Irom U. Alexis Johnson to David Packard.

February 11. 1969. [U90006067B] 沖縄県公

文司書館、 LetterIrom U. Alexis Johnson to J. P.

MacConnell. February 11. 1969. ibid.

94)成田、前掲ra文、 69頁

95) B52は復l帰後も、住民の反発を引き起こしつつ、平成22

年までで35固にわたって飛来を繰り返した (沖縄県嘉手

納町役場基地渉外線編 『嘉手納町と基地J(嘉手納町

役場、 2010年)103頁)。

96) r朝日新聞J1969年8月27日.

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