2009年フィリピン台風災害調査報告key words: typhoon, flood disaster, metro manila, agno...

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河川災害シンポジウム, 2010 3 2009 年フィリピン台風災害調査報告 STUDY ON TYPHOON DISASTER HAPPENED IN PHILIPPINES 2009 大石哲 1 Satoru OISHI 1 正会員 博 () 神戸大学 教授 都市安全研究センター(〒 657-8501 神戸市灘区六甲台町 1-1Typhoon disaseters that happened in Philippines in the year of 2009 has been investigated by both interview and field survey. The result of investigation of inundation in the Metro Manila and flood in the Agno River Basin is reported. The hydrological aspect and social economical aspect are also written as well as the eect of climate change by using GCM calculation. Key Words: Typhoon, Flood Disaster, Metro Manila, Agno River Basin 1. 概要 2009 8 月から 10 月にかけて 3 つの台風がフィリピ ンを襲って,ルソン島を中心に多くの人命が奪われた. 2009 8 月に台風 8 号(アジア名 Morakot)により フィリピンでは死者:22 人,行方不明者:4 人,負傷 者:18 人,被災者:192,211 人,避難者:11,216 人の被 害があった(フィリピン政府 8 10 日発表).台湾で は,この台風で 3000mm 以上の雨が一週間に降り,600 人以上の犠牲者が出ている. その被害が癒えるまもなく,9 月末に台風 16 号(ア ジア名 Ketsana,フィリピン名 Ondoy)がフィリピンの ルソン島南部を襲った.この台風の特徴としてはルソ ン島に近い海上で発生した後にルソン島に上陸したこ と,大量の雨をもたらしたことが挙げられる.この台 風によって,フィリピンではマニラ首都圏を中心とす るルソン島南部において浸水深の深い氾濫災害などが 発生し,死者: 464 人,行方不明者: 37 人,負傷者: 529 人,被災者: 4,730,153 人,全壊家屋:26,956 戸,半壊 家屋: 127,614 戸の被害があった(フィリピン政府 10 25 日発表).公共施設の被害額は 4,200 百万フィリピ ンペソ(以下,ペソ)であった.死傷者や家屋被害の 数が多いのはマニラ首都圏を直撃しているためである. さらに 9 月末から 10 月初旬にかけて台風 17 号(ア ジア名 Parma,フィリピン名 Pepeng)がルソン島北部 を襲った.この台風の特徴としては,フィリピン北部 に停滞して,ルソン島に 3 回も上陸したことが挙げら れる.この台風によって,フィリピンではルソン島北 部において土砂災害を中心に死者:465 人,行方不明 者:47 人,負傷者:207 人,被災者: 4,478,284 人,全 壊家屋:6,038 戸,半壊家屋:50,780 戸の被害があった (フィリピン政府 10 25 日発表).公共施設の被害額 6,253 百万ペソ(個人・農業をあわせて 27,300 百万 -1 調査団メンバー 所属 名前 団長 神戸大学 大石哲 団員 首都大学東京 河村明 北見工業大学 渡邊康玄 京都大学 米山望 中部大学 武田誠 高知工業高等専門学校 岡田将治 (株)シーエーアイ 畔柳剛 日本工営(株) 加藤佑介 東京大学大学院博士課程 新田友子 京都大学大学院博士課程 木島梨沙子 山梨大学大学院博士課程 Ratih Indri Hapsari JICA 長期エキスパート 加本実 ペソ).その台風で 5, 910km 2 の流域面積を持つアグノ 川流域が大きな被害をうけた. 土木学会では,水工学委員会から調査団の派遣を決 め,11 月までは国内において種々の情報収集を行い, 11 29 日~12 4 日に現地調査を実施した.調査は, フィリピン ルソン島南部のマニラ首都圏(台風 16 災害)とルソン島中部のパンガシナン州を流れるアグノ 川流域(台風 17 号災害)で行った.調査団のメンバー を表-1 に示し,調査日程を表-2 に示す. 本稿では,調査の事前・事後調査解析も含めてマニ ラ首都圏とアグノ川中流域の 2009 年台風災害の状況を 報告する.また,以後 2009 年の台風 8 号を T2009-08 などと称する.

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Page 1: 2009年フィリピン台風災害調査報告Key Words: Typhoon, Flood Disaster, Metro Manila, Agno River Basin 1. 概要 2009年8月から10月にかけて3つの台風がフィリピ

河川災害シンポジウム, 2010年 3月

2009年フィリピン台風災害調査報告STUDY ON TYPHOON DISASTER HAPPENED IN PHILIPPINES 2009

大石哲1

Satoru OISHI

1正会員 博 (工) 神戸大学 教授 都市安全研究センター(〒 657-8501神戸市灘区六甲台町 1-1)

  Typhoon disaseters that happened in Philippines in the year of 2009 has been investigated by both interviewand field survey. The result of investigation of inundation in the Metro Manila and flood in the Agno River Basin isreported. The hydrological aspect and social economical aspect are also written as well as the effect of climate changeby using GCM calculation.

Key Words: Typhoon, Flood Disaster, Metro Manila, Agno River Basin

1. 概要

2009年 8月から 10月にかけて 3つの台風がフィリピンを襲って,ルソン島を中心に多くの人命が奪われた.

2009年 8月に台風 8号(アジア名Morakot)によりフィリピンでは死者:22人,行方不明者:4人,負傷者:18人,被災者:192,211人,避難者:11,216人の被害があった(フィリピン政府 8月 10日発表).台湾では,この台風で 3000mm以上の雨が一週間に降り,600人以上の犠牲者が出ている.その被害が癒えるまもなく,9月末に台風 16号(ア

ジア名Ketsana,フィリピン名Ondoy)がフィリピンのルソン島南部を襲った.この台風の特徴としてはルソン島に近い海上で発生した後にルソン島に上陸したこと,大量の雨をもたらしたことが挙げられる.この台風によって,フィリピンではマニラ首都圏を中心とするルソン島南部において浸水深の深い氾濫災害などが発生し,死者:464人,行方不明者:37人,負傷者:529人,被災者: 4,730,153人,全壊家屋:26,956戸,半壊家屋:127,614戸の被害があった(フィリピン政府 10月25日発表).公共施設の被害額は 4,200百万フィリピンペソ(以下,ペソ)であった.死傷者や家屋被害の数が多いのはマニラ首都圏を直撃しているためである.さらに 9月末から 10月初旬にかけて台風 17号(ア

ジア名 Parma,フィリピン名 Pepeng)がルソン島北部を襲った.この台風の特徴としては,フィリピン北部に停滞して,ルソン島に 3回も上陸したことが挙げられる.この台風によって,フィリピンではルソン島北部において土砂災害を中心に死者:465人,行方不明者:47人,負傷者:207人,被災者: 4,478,284人,全壊家屋:6,038戸,半壊家屋:50,780戸の被害があった(フィリピン政府 10月 25日発表).公共施設の被害額は 6,253百万ペソ(個人・農業をあわせて 27,300百万

表-1 調査団メンバー

所属 名前団長 神戸大学 大石哲団員 首都大学東京 河村明〃 北見工業大学 渡邊康玄〃 京都大学 米山望〃 中部大学 武田誠〃 高知工業高等専門学校 岡田将治〃 (株)シーエーアイ 畔柳剛〃 日本工営(株) 加藤佑介〃 東京大学大学院博士課程 新田友子〃 京都大学大学院博士課程 木島梨沙子〃 山梨大学大学院博士課程 Ratih Indri Hapsari〃 JICA長期エキスパート 加本実

ペソ).その台風で 5, 910km2の流域面積を持つアグノ川流域が大きな被害をうけた.

土木学会では,水工学委員会から調査団の派遣を決め,11 月までは国内において種々の情報収集を行い,11月 29日~12月 4日に現地調査を実施した.調査は,フィリピン ルソン島南部のマニラ首都圏(台風 16号災害)とルソン島中部のパンガシナン州を流れるアグノ川流域(台風 17号災害)で行った.調査団のメンバーを表-1に示し,調査日程を表-2に示す.

本稿では,調査の事前・事後調査解析も含めてマニラ首都圏とアグノ川中流域の 2009年台風災害の状況を報告する.また,以後 2009年の台風 8号を T2009-08などと称する.

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表-2 調査日程

日 調査項目他9月 26日 ONDOYマニラを襲う10月 2日 調査団形成開始10月 2日 フィリピン政府

National State of Calamity宣言10月 3日 PEPENG バギオ,~8日 パンガシナン州を襲う

10月 28日 防災研究フォーラム採択10月 29日 防災科学技術研究所と打合せ11月 11日 河川環境管理財団より受託11月 29日 調査団 マニラへ向かう11月 30日 パンガシナン州で調査12月 1日 パンガシナン州政府にて情報収集

12月 2日~4日 マニラ首都圏調査12月 5日  調査団 帰国12月 11日 防災科学技術研究所と打合せ

1月 12日~13日 測量データ取りまとめ

2. 水文学的側面

(1) フィリピンの台風事情フィリピンでは年間を通して熱帯低気圧(TD),台

風(TS, STS, TY)が発生している.そのうち破壊的な台風の襲来は 10月と 11月がピークである.過去 59年間の Philippines Area Responsibility(PAR)の台風発生数と上陸数 1)を見ると年平均発生数は約 20個,最も多く発生した年は 1993年で 32個,最も少なかった年は1998年で 11個であった.平均上陸数は約 9個,最も多く上陸した年は 1993年の 19個,最も少なかった年は1955年,1958年,1992年,1997年の 4個であった.今回の台風災害の水文気象学的特徴の一つに T2009-

17(PARMA, PEPENG)が 3回も上陸したことがある.そのベストトラックを図-1に示す.1950年からのデータによると,過去にフィリピンに上陸して旋回した台風は 5個,経路を変えて 2度以上上陸した台風は 22個であった.過去の旋回台風の例を表-3に示す.そのうち破壊的であったのは T1993- 20(FLO, KA-

DIANG)であった.この時には事前の台風により浸水するほどの雨があった直後に T1993- 20がフィリピンを襲い,さらに次の台風の影響で T1993- 20が引き返して再上陸するという構図であった.バギオで斜面崩壊がおき,マニラ首都圏でも 3週間から 1ヶ月程度の浸水被害があった.また,T1971-32では数日前の台風Gloriaとあわせて

死者・行方不明者を出しており,T1986-15では継続時間が 22日で台湾・ベトナム・中国・フィリピンに被害をもたらしている.

図-1 T2009-17のベストトラック.

表-4 雨量観測点情報

流域 雨量観測点 水位観測点(地点) (地点)

アグノ川 13 3カガヤン川 12 7パンパンガ川 26 8

マニラ首都圏 7 9

フィリピンで最も人的被害が大きかった台風はT1991-25(THELMA, URING)で 1991年 11月 4日から 6日にかけてゆっくりとフィリピンの南部諸島を通過し 6,304人 2) の犠牲者を出した.実際には 8,000人が亡くなったともいわれている.

(2) T2009-16および T2009-17の水文学的側面ルソン島の中部以南における雨量観測所および水位観

測所の数を表-4に示す.うち,アグノ川流域・カガヤン川流域・パンパンガ川流域はフィリピン気象局(PAGASA)が管理していて,その全ての水位観測点は雨量も観測している.マニラ首都圏では 1地点だけが水位と雨量の両方を観測している.

PAGASA Synoptic観測点で測定されたT2009-16の雨の記録としては,ケソン市の Science Gardenにおける速報値によると 9月 26日の時間雨量最大が 92mm/hr,同日の 1日雨量で 522mm(図-2),マニラ市の Port Areaの 1 日雨量が 304mm であった(図-3).同日のマニラ首都圏庁開発局(MMDA)の Effective Flood ControlOperation System (EFCOS) 観測データも入手しているが,上述した雨量より少なく観測されている点が多い.図-4に,JICA調査「マニア首都圏中心地域排水機能向上調査(2004)」によって整理された日雨量データを確率紙上にプロットしたものを示す.今回の日最大雨量は Science Gardenでは 100年以上の確率,Port Areaでは 20年確率に相当することがわかる.

T-2009-17はルソン島中部を中心に大量の雨をもたらし,バギオ市の日雨量最大が 10月 8日に 685mm,10月 3日~8日の 6日間で 1,794mmに達していて,しか

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表-3 過去の旋回台風

年 番号 国際名 フィリピン名 災害1966 30 Lorna no data1971 32 Faye 死者不明者1976 05 Olga Didang1985 24 Fyae Tasing no data1986 15 Wayne Miding 最も持続時間が長い台風1993 20 Flo Kadiang 長期浸水2007 24 Hagibis Lando no data

図-5 San Roque Damにおけるハイエトグラフ.

図-2 Science Gardenにおけるハイエトグラフ.

も 3日と 8日の 2回のピークがあった.サンロケダム地点のハイエトグラフを図-5に示す.日雨量最大は 10月 8日の 245mm/dayであり,10月 2日~9日の 8日間雨量は 489mmであった.

3. マニラ首都圏調査

(1) 浸水被害状況マニラを流下するパシグ・マリキナ川の被害は 3通り

に分けられる.1番目はロザリオ堰から上流でプロヴィ

図-3 Port Areaにおけるハイエトグラフ.

デントヴィレッジを含む流域(計画流量は 2, 900m3/s,

実際の流下能力 1, 400 m3/s と推定されている)に

5, 770m3/sがきたもの,2番目はロザリオ堰からマン

ガハン放水路およびラグナ湖の周囲で主として Squater(非公式建築物居住者)が被害にあった,3番目はロザリオ堰からマニラ湾までのパシグ川流域では毎年のように内水氾濫が生じているが,今回は従来とは異なる規模の被害があった.ロザリオ堰から上流でプロヴィデントヴィレッジを

含む流域では堤防を越えて,あるいはパラペット堤が破堤してマリキナ川の外水が住宅地に浸水した.浸水

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図-4 Science Garden(上)と Port Area(下)における 24時間雨量の確率分布.

の様子は図-63)に示している.一番浸水深が深い部分は6mもある.このあたりには高級住宅街もあり,例えばフィリピンの「セレブ女優」Cristine Rayesさんの自宅もこの地域にあった.地上から 2階の屋根までの高さが7mある住居の 2階の屋根で立ち往生している彼女の姿がテレビにスクープされ,12時間後に人気男優RichardGutierrezさんらによってドラマのように救出された.このあたりでは水位が首高でも人間が歩いて避難で

きる程度に流速が弱い場所もあったが,道路名を示す標識が流水でひしゃげていたり,溺死体が電信柱に引っかかっていたという証言が得られるなど流速が速かったことを示す情報もある.図-6に今回の調査で測量した結果の氾濫水深と現地

調査結果 3) を比較したものを示す.全般的には一致しているが,いくつかの点では今回の測量による水深の方が大きく算定されている.これは見つけた洪水痕跡

図-7 浸水しているバイク店,場所を特定し測量した.

線の違いなどを反映していると言える.測量結果で最も分かりやすい場所はサント・ニーニョ橋で水位痕跡が橋の下にあり,右岸道路面(堤防天端)と水位痕跡の差が 2.1mあったため右岸では堤防天端で 2m以上の水深の外水が流出していることが分かった.また,今回の調査では被災時の写真から場所を特定

してその場所の浸水深測定を行った.例えば図-7の場所はケソン市内のバイク店である.その場所を看板に書かれている住所などから特定して現場をつきとめて測量した.その結果と,現地コンサルタントによる氾濫数値計算を比較した.写真の時点での水位が約 2m,聞き取りによる最大浸水深が約 3mであったところ,計算では浸水していないと表現されていた.氾濫計算に用いられた地形情報などが不明であるが,今回の調査で SRTM4) の地形情報と比較したところ,この地点は周囲より数mだけ低く水平規模も数 10mスケールの窪地にあり,ごく小さい都市河川が近傍を流れていた.このような微小な地形変動や小規模河川の影響を受けて大規模な被害が発生していることがわかった.ちなみにこのバイク店は被害をうけて移転している.

(2) マニラ首都圏における問題点図-8の写真に見られるように,マニラ首都圏には多く

の Squater(非公式建築物居住者)が生活しており,その多くは川沿いや湖沿いのバラックに住んでいる.バラックには電気もあり無線 LANのアンテナまで設置してあるところもある.それらの Squaterでマンガハン放水路に住む人々の住居のうち,今回の災害で完全に家屋が流出したところはそれほど多くはない印象であった.堤外にあって水位が 1階の屋根ぐらいまで来ていたことを考えると,流速はそれほど早くはなかったようで

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図-6 プロヴィデントヴィレッジ付近の浸水.NMRIA(等浸水深塗)と調査団(値)の測量結果の比較.

あり,上流の非公式建築物自体が減勢工の役割をしていたとも考えられる.堤外地にある非公式建築物の中には未だに水が引いていないところも多く,そこの住民は図-9に見られるような避難地で生活していた.この避難地は屋根付きの公共バスケットコートであった.災害発生後 2ヶ月を経過して,この避難地に生活している人たちはマニラ首都圏庁などから住居をあたえられ,移住することがようやく決定したと聞いた.被災直後には棺のすぐ隣で子供が食事をとっているといった状況であり,食事や日々の生活必要物資はNGOなどから提供されたが,多くの場合,健康な者や避難地以外からそれらの物資を漁りに来る者が大部分を取得してしまって,真に必要とする人々にはなかなか行き渡らなかったようである.

マニラ市を流下するマリキナ川では,パラペットによってかさ上げされた堤防を越えて,外水が住宅街に流れ込んだ.そのため,1時間以内に水位が足首から胸まで到達し,さらに 1階部分をこえる水位になったところも多い.図-10はそのような場所における洪水痕跡を示している.多数の住宅街では,流速も激しく,逃げ遅れて溺れて亡くなり,死体は別の住宅街に流れ着くといったこともあった.住民たちは 3階建て以上であればその部分に逃げ,2階建ての場合には天井と屋根を壊して,屋根に上がり雨の中で一夜を明かしたとのことであった.

マニラ首都圏では下水道はほとんど整備されていないことから,洪水後の伝染病の大発生が懸念された.そのため,ある病院においてインタビューを行ったとこ

図-8 堤外地に建てられたバラック.バスケットゴールの下にまだ水が見られる.

ろ,主としてネズミを媒介として Leptospirosisと呼ばれるスピロヘータに感染することによって高熱を出す伝染病(レプトスビラ病,ワイル病)が発生して,22人がその病院に運ばれ,そのうち 2名が亡くなったという.マニラ首都圏の 15病院のデータ(10月 27日現在)によると 2,158人が罹患し 160名以上の人が亡くなっている.

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図-9 マンガハン放水路の避難所.筆者がインタビューをしている.

図-10 マリキナ川沿いの住宅地の洪水痕跡.2.5m程度.

4. アグノ川流域調査

(1) アグノ川流域の概要パンガシナン州はマニラから北に 150kmほどの地域

で州面積が 5, 368km2,人口が 2,434千人程度(2000年現在)の州であり,河川長 221kmのアグノ川が東から西に流下しリンガエン湾に注いでいる.アグノ川の右岸側にはリンガエン市を含む都市および農地が存在している.この地域は主として農耕に利用されているが、毎年

の台風や集中豪雨により常襲的な洪水被害に悩まされている.さらに,南方に位置するピナツボ火山噴火による泥流(ラハール)の堆積で河床が上昇し,洪水被害をより受け易くなっている.そこでフィリピン政府は,10年確率洪水に対応してアグノ川右岸のパンガシナン平野の被害を軽減する目的で,Agno River Flood ControlProject (ARFCP)を開始した.まず,フィリピン政府は,ARFCP実現のための財政

援助を日本政府に要望した.この要望に対して,日本政府は JBICの第 20円借款でARFCPの Phase Iとして,Package IVの アグノ川下流 (L=54km) と Sinocalan川上流区間の緊急復旧作業への支援に同意した.このプロ

図-12 村の避難地.村長(右端)が案内してくださった.

ジェクトは,アグノ川緊急復旧プロジェクト (PH-P155)と呼ばれている.詳細設計を検討する事前工事として1997年 5月に行われ,本復旧工事は 1998年に開始され,2005年 5月に完成した.

ARFCP Phase IIはパンガシナン州およびタルラック州にまたがるアグノ川上流の洪水災害の減災と,プロジェクトによって被害を被っているポポントスワンプの住民の減災を目的として,当初は 2002年 4月から 2006年 7月の期間ではじまった.最終的には 2010年 2月までの完成となっている.Phase II終了後には図-11に示すようにサンロケダムに流入する計画流量 2, 600m3

/sをピークカットし,closure dike地点で 3, 850m3

/sになったうち 2, 900m3

/sをポポントスワンプに貯留させるものである.ポポントスワンプ(168km2)は農地として使われていて,住民もいるが住民たちは移転によりコミュニティが分断されるよりも「洪水と共に生活する」ことを選択した.そのかわり,洪水時に避難できる場所の建設を要望し,危険度の高い 24箇所に対して,図-12に示すような避難所を建設した.今回の T2009-17ではサンロケダムへのピーク流入量

が 5, 000m3/s以上あり,ピーク流入時にはサンロケダ

ムはいわゆる「ただしがき操作」で流入量と同程度を放流していたので 10年確率の計画規模では災害を防ぐことはできなかったと考えられる.実際のアグノ川中流域の流下能力は約 2, 300 ∼ 4, 400m3

/sであるといわれている.

(2) 破堤被害状況今回の調査では図-13 に A~E で示す 5 点について

破堤状況調査を行った.破堤状況調査にはライカ社製のレーザー式簡易測量装置を用いた.測量した結果を表-5に示す.この中で,D地点および E地点では落堀があった.特に E地点下流側について説明する.E地点下流側

の落堀を破堤した堤防側から見た様子を図-14に示し,平面図を図-15に示す.この場所では堤防天端では浸食痕跡がなく堤内側には浸食痕跡があったことが不思議

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図-11 ARFCP Phase IIの流量配分.

であった.浸透がおこったか,たとえば,堤防へのアクセス道路を作るために破堤以前に堤防を人為的に掘削する活動が行われていたと考えている.堤外の陥没は植生の様子から今回の災害で発生したものではないと考えられ,また高水敷幅が局所的に狭いところがあった.E地点上流でも堤外側に洗掘壁が存在することから単純な流水による洗掘ではなく,すべりなどの発生が推定される.

D地点と E地点の上下流を村本 5)による破堤長さ (B)と洗掘長さ (L)の関係にあてはめると L = 2.1 ∼ 2.7Bの関係がなりたっていた.

(3) アグノ川における減災行動と問題点パンガシナン州の住民は T2009-17で多大な被害をう

けたが,この州においては,災害の規模に比べて人命被害は少なかったといえる.中流では流下能力が 2, 300 ∼4, 400m3/sであるところに 6, 000m3/s以上の洪水が来たため,堤防からの越流や破堤があった.特に破堤したところでは,極めて大きな流体力を受けて家が破壊され,あるいは多数の家が流亡した.落堀の陥没深さは 10mに及ぶこともあった.このような物的被害に対して,パンガシナン州

(Province)では死者が 63 人(州政府発表)と比較的少なかった.これは,10月 3日からの最初の台風上陸がもたらした雨によって上流のサンロケダムではすでに満水位である 280mを越えていたために,被害があった 10月 6日以前に市(Municipal)や村(Barangay)に対して避難場所の確認と,緊急時の連絡体制の確保を要請していたことによると考えられる.また,村の避難

施設(図-12)が高台に設置してあり,州全体では 137の避難施設が用意されていた.村長は村に住む住民のほぼ全てを把握しており,ラジオによる市長からの避難勧告に基づいて適切に住民を避難させることができた場合が多かったことが,奏功したと考えられる.今回の洪水で該当地区のほぼ全員がテレビや冷蔵庫

などの電化製品を失い,かなりの割合の住民が住居を失った.彼らは一同に政府による耐久消費財や住居の補償は全く期待していないことを言っていると同時に,自身と家族がこうして生きていることに対しては神に感謝し,喜びを表していた(図-16).まずは人命を第一に考え,適切な情報伝達と避難が重要であると強く感じたものである.一方で,経済的には大損失を受けた.例えば,アグ

ノ川プロジェクト管理事務所では泥流が事務所を飲み込み,所内のパソコン,地図,資料が全て泥に埋まってしまいデータが失われた(図-17).所員も事務所の天井裏の壁の上に逃げて一夜を明かしたという.パンガシナン州のショッピングモール (SM City)も 1階部分が冠水して千名以上の人々が孤立し,ショッピングモールの復旧には 50日程度を要した.このように,避難勧告を聞いてあらかじめ定められた

避難所に避難した人々と,そのような情報がなくショッピングをしていた人,オフィスで被災した人の間の情報伝達の違いについては今後検証されるべきであろう.パンガシナン州知事はサンロケダムからの放流が被

害を拡大させたとの見方をし,訴訟を検討していると10月 12日の Philipine Daily Inquirer 紙が伝えている.その後,訴訟は取り下げられた.報道によれば,台風 17

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図-13 アグノ川流域全体と破堤調査地点(A~E).

図-14 E地点下流側の落堀を破堤した堤防側から見た様子.

図-15 E地点下流側の落堀周囲の測量結果.

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表-5 破堤状況調査

地点 破堤長さ 堤防高 天端幅 その他[m] [m] [m]

A 15 1.0 ∼ 1.5 川幅 45mB 38.5 2.7 6.5C 600程度 堤内側 洗掘深  2m

堤内側 洗掘長  250mD 117 3.7 堤内側 洗掘幅  59m

堤防盛土量 32k立米E上流 55.5 4.8 詳細は別図E下流 34 5.8 詳細は別図

図-16 家が全壊した女性(右から 2人目)にインタビューする筆者.

号が 10月 8日から 9日にかけて勢力の絶頂にあったとき、サンロケダムは 3, 150m3/sから最高で 6, 000m3/sを放水したことが被害を拡大させたとのことである.この件に関するフィリピン国会上院のサンロケダム

の放流に関する委員会委員を務めるフィリピン大学ディリマン校のG. Tabios教授によるとダムの治水容量は水位 280m(マニラ湾平均低水位基準)から 290mにあるが,その間の操作規則は明確に定まっていなかったことが問題であるということであった.また,ダムの放流にあたっては複数の組織をまたがった情報の共有や調整が必要であったがその体制がうまくいっていなかった可能性もある.

5. 全球気候モデルを用いた将来の台風予測

気候変動の影響によって将来の台風像がどのようなものであるかも興味深かったので,全球気候モデル GCM206) を用いて A1Bシナリオのもとで現在気候(1979~2003年)と将来気候(2075~2099年)のフィリピンににおける台風の変化を調査した.計算条件としては 180kmメッシュの大気・海洋結合

図-17 アグノ川プロジェクト管理事務所の被災したパソコン.

モデルの結果の海面温度(SST)を境界値として 20kmメッシュの高解像度大気大循環モデルにより大気を計算し,5kmおよび 1kmメッシュの雲解像モデルで詳細な台風の計算を行ったものである.まず,PAGASAの台風記録との比較によってモデル

による台風の再現性を議論すると,現在気候の再現によって再現される台風は実際の台風の約半数程度であることが分かった.次に現在気候と将来気候の台風の個数およびフィリ

ピンに上陸する個数を比較すると,現在気候では年平均12個程度発生して 6個程度上陸すると再現されているところ,将来の発生数は年平均 9個程度になり,フィリピンへの上陸数は年平均 1個程度になると予測された.一方,台風の強さの平均は表-6に示すように将来気

候の場合の方が強い台風になると予想されている.特に将来気候で推定される最大降水量をもたらす台風は旋回を繰り返しながら 14日間継続し,最大積算雨量が2,955mmになるというものもある.図-18に現在気候と将来気候で計算された最大降雨強

度や積算降雨量を示す.現在気候で計算するより,将来気候で計算する方が降雨強度および積算雨量が大きいものが算定されている.現在気候で計算されたもの

Page 10: 2009年フィリピン台風災害調査報告Key Words: Typhoon, Flood Disaster, Metro Manila, Agno River Basin 1. 概要 2009年8月から10月にかけて3つの台風がフィリピ

表-6 フィリピンエリアに発生する台風の強さ

変数現在気候 将来気候平均値 平均値

最低気圧 931hPa 902hPa最大風速 51m/s 67m/s

積算降雨量 積算降雨量変数 最大台風 最大台風

現在気候 将来台風最低気圧 961hPa 925hPa最大風速 12.4m/s 15.7m/s

時間雨量最大 109mm 96.2mm積算雨量 1396mm 2956mm

図-18 現在気候(上)と将来気候(下)で計算された最大降雨強度や積算降雨量.

と比較すると,将来気候で計算される台風で最大降雨強度が大きいもの(図の上側の点)と積算雨量が大きいもの(図の右側の点)は異なっており,将来は短時間に大量の降雨をもたらす台風と,継続時間が長い台風に分けて襲来することが予測されているといえる.

6. おわりに

このように,今回の台風によってフィリピンのルソン島では多大な被害と犠牲を出した.しかし,住民は

それらを乗り越えて復興に向けて力強く足を踏み出していることが感じられた.一方で,ハザードに対するインフラの意義とその限界などについて十分な調査をしておき,適切な手段で全ての関係者がその情報にアクセスできることが,これからの災害に対する備えとして必要であろう.

謝辞:本研究は,土木学会が河川環境管理財団の委託を受けて実施したものであります.一部の団員の参加には防災研究フォーラムの援助を受けました.学生さんの参加は東京大学,山梨大学,日本学術振興会の支援を受けています.解析に際しましては神戸大学都市安全研究センターと中部大学の支援を受けています.ここに記して感謝の意を表します.また,調査団員およびフィリピン調査にご協力いただいた全ての方々にも感謝の意を表します.最後に,本稿の 2節は調査団員の河村・木島の,3節は米山・武田の,4節は渡邊・岡田の,5節は木島の解析結果に基づいていることを明記いたします.

参考文献1) PAGASA. http://kidlat.pagasa.dost.gov.ph/cab/cab.htm

2009.2) Swiss Reinsurance Company Ltd. Natural catastrophes and

man-made disasters in 2008: North America and Asia sufferheavy losses Sigma No.2 , 38pp. 2009.

3) NATIONAL MAPPING & RESOURCE INFORMATIONAUTHORITY. FLOODED AREAS IN EASTERN METROMANILA TS ”ONDOY” - 26 SEPTEMBER 2009, Depart-ment of Environment and Natural Resources, Goverment ofPhilippines, 1p., 2009.

4) Rodriguez, E., C.S. Morris, J.E. Belz, E.C. Chapin, J.M.Martin, W.Daffer, S. Hensley. An assessment of the SRTMtopographic products.Technical Report JPL D-31639, JetPropulsion Laboratory, Pasadena, California, 143 pp., 2005.

5) 村本嘉雄. 洪水時における河川堤防の安全性と水防技術の評価に関する研究,文部省科学研究費自然災害特別研究研究成果, 1986.

6) 気象研究所 野田 彰.高精度・高分解能気候モデルの開発,人・自然・地球共生プロジェクト.

(2010.2.5受付)