平成30年度版 - ehime prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広...

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平成30年度版

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Page 1: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

愛 

媛 

感動ものがたり

「感動のエピソード」

「愛顔の写真」

平成30年度版

広 告

愛え

顔がお

とは

人と人との助け合い

支え合いの根底にある「愛」と

困難にくじけることなく挑戦し

道が開けた時にこぼれる「笑顔」が

結ばれて生まれた言葉

愛媛県は

「愛え

顔がお

あふれる愛媛県」を

目指しています

3

愛媛県知事 

中村 

時広

本事業は愛媛県が提唱する「愛え

お顔」を全国に広く発信

し本県の知名度向上と愛媛ファンの獲得につなげるとと

もに「愛顔あふれる愛媛県」の実現に向け機運醸成を

図るために実施しているもので今回で5回目を迎えます

今年度はエピソード部門に46

都道府県と四つの国か

ら2496作品写真部門についても45

都道府県から

5349作品もの応募をいただきました厚くお礼申し

上げます

エピソード部門は芥川賞作家で「千の風になって」の

作曲家でもある新井満さん若手俳人のトップランナーと

して活躍中の神野紗希さんそして私の3人が最終審査を

行い写真部門では本県出身の世界的写真家である白川

義員さんにも御協力いただきそれぞれ受賞作品を選考し

ました

知事賞をはじめとする各賞に選ばれました皆さん誠に

おめでとうございます拝見した作品はどれもぬくもり

と感動に満ちた力作ぞろいで選考には大変苦労いたしま

した中でもエピソード部門で知事賞に輝いた二つの作

品は作者が経験した心温まる偶然の再会視力が失われ

る不安をかかえた高校生の前向きに生きる強い決意がえが

かれたもので審査委員一同胸を打たれました

今回の受賞作をまとめた本作品集を多くの方々が御覧に

なりたくさんの「愛顔」が大きな輪となり全国各地へ

広がりますことを切に願っております

終わりに応募いただきました方々をはじめ本事業に

御協力を賜りました関係者の皆様に深く感謝を申し上げま

「エピソード部門」一般の部

「知事賞」

あんまり似てないな

幾原  

正智(徳ensp

島ensp

県)

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田  

良弘(大ensp

阪ensp

府)

10

「優秀賞」 緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北ensp

海ensp

道)

12

電車の中で

城田 

由希子(奈ensp

良ensp

県)

14

父の笑顔

澤谷  

真琴(東ensp

京ensp

都)

16

「入 

選」

愚痴の五重奏

今野  

芳彦(秋ensp

田ensp

県)

18

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香ensp

川ensp

県)

20

愛情という名の視力

井上  

優加(大ensp

阪ensp

府)

22

告白のあとで

福島  

洋子(長ensp

崎ensp

県)

24

声援

武智  

早苗(愛ensp

媛ensp

県)

26

「佳 

作」

公園へ行くわけ

山花   

薫(京ensp

都ensp

府)

28

約束

山田   

修(神奈川県)

29

私の還暦祝い

森井  

朱美(奈ensp

良ensp

県)

30

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

31

イス取りゲーム

佐藤  

陽子(岡ensp

山ensp

県)

32

はじめてのありがとう

小池   

司(東ensp

京ensp

都)

33

代打は祖母 相野   

正(大ensp

阪ensp

府)

34

こどもの日 牧田   

恵(鹿児島県)

35

爺ちゃん頑張りよるよ

神野  

洋平(愛ensp

媛ensp

県)

36

歳の離れた私の弟

山本  

詩文(愛ensp

媛ensp

県)

37

目  次

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 2: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

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愛え

顔がお

とは

人と人との助け合い

支え合いの根底にある「愛」と

困難にくじけることなく挑戦し

道が開けた時にこぼれる「笑顔」が

結ばれて生まれた言葉

愛媛県は

「愛え

顔がお

あふれる愛媛県」を

目指しています

3

愛媛県知事 

中村 

時広

本事業は愛媛県が提唱する「愛え

お顔」を全国に広く発信

し本県の知名度向上と愛媛ファンの獲得につなげるとと

もに「愛顔あふれる愛媛県」の実現に向け機運醸成を

図るために実施しているもので今回で5回目を迎えます

今年度はエピソード部門に46

都道府県と四つの国か

ら2496作品写真部門についても45

都道府県から

5349作品もの応募をいただきました厚くお礼申し

上げます

エピソード部門は芥川賞作家で「千の風になって」の

作曲家でもある新井満さん若手俳人のトップランナーと

して活躍中の神野紗希さんそして私の3人が最終審査を

行い写真部門では本県出身の世界的写真家である白川

義員さんにも御協力いただきそれぞれ受賞作品を選考し

ました

知事賞をはじめとする各賞に選ばれました皆さん誠に

おめでとうございます拝見した作品はどれもぬくもり

と感動に満ちた力作ぞろいで選考には大変苦労いたしま

した中でもエピソード部門で知事賞に輝いた二つの作

品は作者が経験した心温まる偶然の再会視力が失われ

る不安をかかえた高校生の前向きに生きる強い決意がえが

かれたもので審査委員一同胸を打たれました

今回の受賞作をまとめた本作品集を多くの方々が御覧に

なりたくさんの「愛顔」が大きな輪となり全国各地へ

広がりますことを切に願っております

終わりに応募いただきました方々をはじめ本事業に

御協力を賜りました関係者の皆様に深く感謝を申し上げま

「エピソード部門」一般の部

「知事賞」

あんまり似てないな

幾原  

正智(徳ensp

島ensp

県)

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田  

良弘(大ensp

阪ensp

府)

10

「優秀賞」 緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北ensp

海ensp

道)

12

電車の中で

城田 

由希子(奈ensp

良ensp

県)

14

父の笑顔

澤谷  

真琴(東ensp

京ensp

都)

16

「入 

選」

愚痴の五重奏

今野  

芳彦(秋ensp

田ensp

県)

18

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香ensp

川ensp

県)

20

愛情という名の視力

井上  

優加(大ensp

阪ensp

府)

22

告白のあとで

福島  

洋子(長ensp

崎ensp

県)

24

声援

武智  

早苗(愛ensp

媛ensp

県)

26

「佳 

作」

公園へ行くわけ

山花   

薫(京ensp

都ensp

府)

28

約束

山田   

修(神奈川県)

29

私の還暦祝い

森井  

朱美(奈ensp

良ensp

県)

30

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

31

イス取りゲーム

佐藤  

陽子(岡ensp

山ensp

県)

32

はじめてのありがとう

小池   

司(東ensp

京ensp

都)

33

代打は祖母 相野   

正(大ensp

阪ensp

府)

34

こどもの日 牧田   

恵(鹿児島県)

35

爺ちゃん頑張りよるよ

神野  

洋平(愛ensp

媛ensp

県)

36

歳の離れた私の弟

山本  

詩文(愛ensp

媛ensp

県)

37

目  次

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 3: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

愛え

顔がお

とは

人と人との助け合い

支え合いの根底にある「愛」と

困難にくじけることなく挑戦し

道が開けた時にこぼれる「笑顔」が

結ばれて生まれた言葉

愛媛県は

「愛え

顔がお

あふれる愛媛県」を

目指しています

3

愛媛県知事 

中村 

時広

本事業は愛媛県が提唱する「愛え

お顔」を全国に広く発信

し本県の知名度向上と愛媛ファンの獲得につなげるとと

もに「愛顔あふれる愛媛県」の実現に向け機運醸成を

図るために実施しているもので今回で5回目を迎えます

今年度はエピソード部門に46

都道府県と四つの国か

ら2496作品写真部門についても45

都道府県から

5349作品もの応募をいただきました厚くお礼申し

上げます

エピソード部門は芥川賞作家で「千の風になって」の

作曲家でもある新井満さん若手俳人のトップランナーと

して活躍中の神野紗希さんそして私の3人が最終審査を

行い写真部門では本県出身の世界的写真家である白川

義員さんにも御協力いただきそれぞれ受賞作品を選考し

ました

知事賞をはじめとする各賞に選ばれました皆さん誠に

おめでとうございます拝見した作品はどれもぬくもり

と感動に満ちた力作ぞろいで選考には大変苦労いたしま

した中でもエピソード部門で知事賞に輝いた二つの作

品は作者が経験した心温まる偶然の再会視力が失われ

る不安をかかえた高校生の前向きに生きる強い決意がえが

かれたもので審査委員一同胸を打たれました

今回の受賞作をまとめた本作品集を多くの方々が御覧に

なりたくさんの「愛顔」が大きな輪となり全国各地へ

広がりますことを切に願っております

終わりに応募いただきました方々をはじめ本事業に

御協力を賜りました関係者の皆様に深く感謝を申し上げま

「エピソード部門」一般の部

「知事賞」

あんまり似てないな

幾原  

正智(徳ensp

島ensp

県)

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田  

良弘(大ensp

阪ensp

府)

10

「優秀賞」 緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北ensp

海ensp

道)

12

電車の中で

城田 

由希子(奈ensp

良ensp

県)

14

父の笑顔

澤谷  

真琴(東ensp

京ensp

都)

16

「入 

選」

愚痴の五重奏

今野  

芳彦(秋ensp

田ensp

県)

18

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香ensp

川ensp

県)

20

愛情という名の視力

井上  

優加(大ensp

阪ensp

府)

22

告白のあとで

福島  

洋子(長ensp

崎ensp

県)

24

声援

武智  

早苗(愛ensp

媛ensp

県)

26

「佳 

作」

公園へ行くわけ

山花   

薫(京ensp

都ensp

府)

28

約束

山田   

修(神奈川県)

29

私の還暦祝い

森井  

朱美(奈ensp

良ensp

県)

30

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

31

イス取りゲーム

佐藤  

陽子(岡ensp

山ensp

県)

32

はじめてのありがとう

小池   

司(東ensp

京ensp

都)

33

代打は祖母 相野   

正(大ensp

阪ensp

府)

34

こどもの日 牧田   

恵(鹿児島県)

35

爺ちゃん頑張りよるよ

神野  

洋平(愛ensp

媛ensp

県)

36

歳の離れた私の弟

山本  

詩文(愛ensp

媛ensp

県)

37

目  次

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 4: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

3

愛媛県知事 

中村 

時広

本事業は愛媛県が提唱する「愛え

お顔」を全国に広く発信

し本県の知名度向上と愛媛ファンの獲得につなげるとと

もに「愛顔あふれる愛媛県」の実現に向け機運醸成を

図るために実施しているもので今回で5回目を迎えます

今年度はエピソード部門に46

都道府県と四つの国か

ら2496作品写真部門についても45

都道府県から

5349作品もの応募をいただきました厚くお礼申し

上げます

エピソード部門は芥川賞作家で「千の風になって」の

作曲家でもある新井満さん若手俳人のトップランナーと

して活躍中の神野紗希さんそして私の3人が最終審査を

行い写真部門では本県出身の世界的写真家である白川

義員さんにも御協力いただきそれぞれ受賞作品を選考し

ました

知事賞をはじめとする各賞に選ばれました皆さん誠に

おめでとうございます拝見した作品はどれもぬくもり

と感動に満ちた力作ぞろいで選考には大変苦労いたしま

した中でもエピソード部門で知事賞に輝いた二つの作

品は作者が経験した心温まる偶然の再会視力が失われ

る不安をかかえた高校生の前向きに生きる強い決意がえが

かれたもので審査委員一同胸を打たれました

今回の受賞作をまとめた本作品集を多くの方々が御覧に

なりたくさんの「愛顔」が大きな輪となり全国各地へ

広がりますことを切に願っております

終わりに応募いただきました方々をはじめ本事業に

御協力を賜りました関係者の皆様に深く感謝を申し上げま

「エピソード部門」一般の部

「知事賞」

あんまり似てないな

幾原  

正智(徳ensp

島ensp

県)

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田  

良弘(大ensp

阪ensp

府)

10

「優秀賞」 緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北ensp

海ensp

道)

12

電車の中で

城田 

由希子(奈ensp

良ensp

県)

14

父の笑顔

澤谷  

真琴(東ensp

京ensp

都)

16

「入 

選」

愚痴の五重奏

今野  

芳彦(秋ensp

田ensp

県)

18

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香ensp

川ensp

県)

20

愛情という名の視力

井上  

優加(大ensp

阪ensp

府)

22

告白のあとで

福島  

洋子(長ensp

崎ensp

県)

24

声援

武智  

早苗(愛ensp

媛ensp

県)

26

「佳 

作」

公園へ行くわけ

山花   

薫(京ensp

都ensp

府)

28

約束

山田   

修(神奈川県)

29

私の還暦祝い

森井  

朱美(奈ensp

良ensp

県)

30

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

31

イス取りゲーム

佐藤  

陽子(岡ensp

山ensp

県)

32

はじめてのありがとう

小池   

司(東ensp

京ensp

都)

33

代打は祖母 相野   

正(大ensp

阪ensp

府)

34

こどもの日 牧田   

恵(鹿児島県)

35

爺ちゃん頑張りよるよ

神野  

洋平(愛ensp

媛ensp

県)

36

歳の離れた私の弟

山本  

詩文(愛ensp

媛ensp

県)

37

目  次

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 5: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

「エピソード部門」一般の部

「知事賞」

あんまり似てないな

幾原  

正智(徳ensp

島ensp

県)

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田  

良弘(大ensp

阪ensp

府)

10

「優秀賞」 緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北ensp

海ensp

道)

12

電車の中で

城田 

由希子(奈ensp

良ensp

県)

14

父の笑顔

澤谷  

真琴(東ensp

京ensp

都)

16

「入 

選」

愚痴の五重奏

今野  

芳彦(秋ensp

田ensp

県)

18

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香ensp

川ensp

県)

20

愛情という名の視力

井上  

優加(大ensp

阪ensp

府)

22

告白のあとで

福島  

洋子(長ensp

崎ensp

県)

24

声援

武智  

早苗(愛ensp

媛ensp

県)

26

「佳 

作」

公園へ行くわけ

山花   

薫(京ensp

都ensp

府)

28

約束

山田   

修(神奈川県)

29

私の還暦祝い

森井  

朱美(奈ensp

良ensp

県)

30

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

31

イス取りゲーム

佐藤  

陽子(岡ensp

山ensp

県)

32

はじめてのありがとう

小池   

司(東ensp

京ensp

都)

33

代打は祖母 相野   

正(大ensp

阪ensp

府)

34

こどもの日 牧田   

恵(鹿児島県)

35

爺ちゃん頑張りよるよ

神野  

洋平(愛ensp

媛ensp

県)

36

歳の離れた私の弟

山本  

詩文(愛ensp

媛ensp

県)

37

目  次

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 6: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

「エピソード部門」高校生以下の部

「知事賞」

願い事

松浦  

佑美(愛媛県 

高校生)

40

「特別賞」

大好きな町

大石  

美優(愛媛県 

高校生)

42

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤  

陽菜(広島県 

高校生)

44

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

45

民泊ありがとう

市山   

茜(愛媛県 

高校生)

46

「入 

選」 おばあちゃんの日記

別宮  

彩音(愛媛県 

高校生)

47

笑顔の手紙

芳谷  

華林(愛媛県 

高校生)

48

失ってわかる宝物

蔭平  

莉奈(愛媛県 

高校生)

49

誰かの支えに

髙野  

未祐(愛媛県 

高校生)

50

どん底の私を救った笑顔

東   

竜希(愛媛県 

高校生)

51

「写真部門」

   

『一般の部』

「知事賞」

ピカピカの1年生

小野  

早苗(神奈川県)

54

「白川義員特別賞」

無限の愛

山﨑   

唯(熊ensp

本ensp

県)

54

「河原学園賞」

命の輪廻~笑顔の会話~

中森  

理紗(愛ensp

媛ensp

県)

54

「優秀賞」

鯉のぼりのように

中村  

天津(京ensp

都ensp

府)

55

握手

佐々木 

順哉(埼ensp

玉ensp

県)

55

楽しく笑う

井田  

金久(三ensp

重ensp

県)

55

「入選」

大好き赤いブランコのある公園 杣本  

宜之(愛ensp

媛ensp

県)

56

初めての雪 渡邉  

久枝(愛ensp

媛ensp

県)

56

この頬のぬくもりずっと忘れない

岩渕  

友香(三ensp

重ensp

県)

56

わーいこいのぼりまでジャーンプ

宮谷 

美由香(愛ensp

媛ensp

県)

57

わーっはっは

石﨑  

美恵(愛ensp

媛ensp

県)

57

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

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「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

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「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

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「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 7: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

   

『一般の部』

「愛媛県商工会議所連合会賞」孫と折り紙

法隆  

直史(埼ensp

玉ensp

県)

59

「愛媛広告協会賞」コミカルファミリー

忽那  

博史(埼ensp

玉ensp

県)

59

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「愛媛県獣医師会賞」b

est p

artn

er

坪井  

琉華(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県情報サービス産業協議会賞」夢の書道パフォーマンス甲子園

山戸  

祐璃(愛媛県 

高校生)

59

「愛媛県歯科医師会賞」94回目の秋の訪れ

小笠 

友理子(香川県 

高校生)

60

「愛媛県理容生活衛生同業組合賞」笑賀男(えがお)

唐澤  

賀伊(長野県 

高校生)

60

「愛媛県IT推進協会賞」あぁ美味しアッぷっぷー

中野  

殊実(兵庫県 

高校生)

60

「愛媛県経済同友会賞」ヨッシャーいくぞ

村島  

大晴(沖縄県 

高校生)

60

   

『小中高校生の部』(小学生未満含む)

「知事賞」

おとうととおいかけっこ

山本  

言葉(愛媛県 

小学生)

58

「白川義員特別賞」

ぼくの宝物

窪田  

宜久(愛媛県 

小学生)

58

「河原学園賞」

仲良しファイブ

玉井  

未留(愛媛県 

高校生)

58

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 8: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

「エピソード部門」 一般の部

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 9: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

88

「知事賞」

あんまり似てないな

 

幾原 

正智(徳島県)

 

父が子供好きを公言してたので近所の赤児持ちの母親達がほとんど勝

手に私の家に自分が出かけたい時は赤んぼ置いてゆくようになった

父と母は働いてるので一番早く学校から帰って家にいる17

才の私に赤児

を押しつけてゆくのだ隣りに住む医者の娘の安や

こ子ちゃんの子守りが一

番手こずってとにかく抱いたりおんぶして歩き回らないと泣きわめく

ベッドには置けないのだ大変ばかりではたまらないのである時楽しみ

を覚えた安子ちゃんに甘いペロペロキャンデーなめさせたあとレモン

をなめさせるすると今まで笑っていた顔がすっぱーい

という顔をす

る又キャンデーなめさせるとものすごく可愛い顔で笑うその笑顔と

すっぱーい顔の対比が見たくって何度もくり返した今から思えばひど

い事をしたもんだ後悔しきり2

年ほどたって私の家も安子ちゃん一

家も別々の土地へ引っこした62

才の時私は背中と腹の度々の激痛に見

99

舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
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      • 表4
Page 10: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

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舞われた胆のう炎という診断で薬で胆石取れないかと薬ばかり飲んで

逃げ回っていたがとうとう命の危機レベルに悪化して手術をするはめに

なった担当は病を初めから診てくれていた女医で手術室に入ると「が

んばりましょうね」と言ってくれた10

秒くらいで麻酔が効いて眠りに

落ちると5

分くらいで女医の声で「大丈夫ですか起きて下さい」と体

をゆすられて起きた自分では5

分眠ったと思っていたのだが2

時間30

分ほどたっており手術は終わって私の胆のうはなくなっていた女医に

「お世話になりました」というと女医は「私も赤ちゃんの時はお世話に

なりましたとなりのお兄ちゃん安子です」とニッコリ笑った46

の歳月飛びこえて一気に思い出した女医さんの名前初診から聞いてい

たはずなのに病気のことで精一杯で思いつかなかったのだ「赤ちゃん

の頃の笑顔とあんまり似てないな」と言うと「あたり前です」と言われ

たおかしくて大笑いしたら傷口がかなり痛かったあれから一年安子

ちゃんのメスで私は元気だ

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 11: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1010

「特別賞」

お婆さんの当たりクジ

松田 

良弘(大阪府)

 

子供の頃近所の駄菓子屋にちょっと変わった〝当たりクジ〟があり

ましたそれはお菓子を買わなくても挑戦できるものでクジに当たる

と店主のお婆さんが漫画の本を一冊貸してくれるのでした当たりを

決めるのはお婆さんでその当たりの判定基準というのが〝今日誰

が一番笑っているか〟というものでした

 

私達は毎日笑ってお店に入りましたお婆さんの目は抜かりがないの

で私達はお店の中だけではなくお店に入る前から笑顔でいました

友達と喧嘩をした日親や先生に怒られた日サッカーの試合に負けた

日それが引きつっていても私達はとにかく笑っていましたそうし

ていると不思議と気持ちが和らいできていつの間にか自然な笑顔に

なっていくのでしたそして見事にクジに当たると漫画の本まで読め

てずっと笑顔でいられるのでしたクジに外れても悲しい顔は出来ま

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 12: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1111

せん明日の審査は今から始まっているからです

 

「笑顔でいるだけで人は幸せになれるどんな時でも笑顔でいよ

う」

いつもお婆さんは私達に誰よりも素敵な笑顔で声を掛けてくれました

後になって知った事でしたがお婆さんが貸してくれる漫画はお婆さ

んの亡くなったお孫さんが集めていたものだったそうです笑顔が絶え

なかったお孫さんの姿をお婆さんは私達に重ねていたのでしょうか

 

あの頃お店に通っていた仲間達はみんなそれぞれに色々な人生を歩

んできましたがどんな困難な場面でも笑顔で乗り越えてきました

それはあのお店のあのお婆さんの〝愛顔〟の当たりクジのおかげだ

と思います一日を笑顔で過ごしていれば小さくても幸せな毎日を送

れる事をお婆さんは教えてくれました

 

いつも愛顔が溢れていたお婆さんの駄菓子屋は今でも私達の心の中

で営業中です

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 13: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1212

「優秀賞」

緩やかな坂道で

今北 

亜希子(北海道)

 

「よいしょよいしょ」

 

緩やかな坂道に差し掛かると自然と声が漏れ出てきて自転車をこ

ぐ脚にも力が入ってくる大きく肩で息をしながらそのまま自転車を

こいでいるとふいにとんとんとんと誰かに背中を押されたリズ

ムよくとんとんとんとんとんとん背中を押しているのは小さな可

愛らしい手だ

 

三歳の息子を幼稚園に迎えに行き自転車の後ろに乗せて家に帰る途

中であるその途中にある坂道で息子はいつも背中を押してくれる

母の息づかいを子どもながらに感じとんとんとんと背中を押して手

伝ってくれているのだ

 

息子に優しく背中を押されているとふいに私は思い出した自分が

幼稚園に通っていた頃のことをだ息子と同じようにかつて私も母

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 14: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1313

の自転車に揺られ送迎をしてもらっていた母の自転車は心地良く

十五分程の道中が楽しみでならなかった特に帰り道は幼稚園まで母

が迎えに来てくれた喜びと相まってなんとも言えない至福の時間で

あった赤信号で自転車が止まる度に母の腰に手を回しぎゅっと抱き

ついた母はこちらを見て嬉しそうに笑ってくれたそれを見てまた私

も嬉しくなった

 

hellipふと我に返ると私と息子は緩やかな坂道を登り切っていた私

は息子を見つめて「とんとんとんって手伝ってくれたんだねありが

とう」と言う息子はこれでもかというぐらいの愛顔を見せて「いっ

しょにのぼれたおかあさんだいすき」と言って私の腰にぎゅっと

手を回し抱きついてきたたまらなく可愛い幼かった頃の自分と母

親になった自分どちらも幸せな時間を母や息子と共有しているその

ことに喜びと愛しさを感じずにはいられない母が私の愛顔を守って

くれたようにこれからは私が息子の愛顔を守っていかなくてはと春

の陽射しの中で思うのであった

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 15: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1414

「優秀賞」

電車の中で

城田 

由希子(奈良県)

 

おしゃべりに夢中の高校生数人が電車を降りた車内は一変して静ま

り返っただがその静けさはつかの間だった一歳ぐらいの女の子が

目を覚ましたのかぐずり始めたのだ私は向かいのベンチシートを見

たお母さんが必死にあやしているが泣き声が大きくなってくる周

りの乗客たちは泣き声の方向をちらちらと見る迷惑そうな表情を隠せ

ない今にも誰かが「うるさい」と言い出すのではないかと私は内心

ドキドキしていた

 

女の子は手足をばたつかせ全身で不機嫌を表現している何とか助

けたいと思うがなす術がない泣き声はますます大きくなりお母さ

んは汗だく女の子の声とお母さんのあやす声だけが響くそろそろ我

慢の限界か誰かが怒り出すかと思った矢先女の子の泣き声が少し小

さくなったさすがに泣き疲れたのだろうと私はホッとした

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 16: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1515

 

ところが女の子は私の座っている座席の方を見てなんと「キャッ

キャ」と笑い出したのだその視線を追うと私の隣から六人離れた席

に座る中年男性に行き着いたその男性が女の子に向かって「いない

いないばあ」を繰り返していたのだそれも声を出さずに

 

その男性は実は私の夫だった乗車したとき隣り合わせの席が空い

ておらず別々に座ったのだ女の子は先ほどの泣き声よりも元気な

声で笑うそれがどんどん大きくなっていくきっと笑いのツボに入っ

てしまったのだろう夫の顔を期待して見つめ何度も「いないいない

ばあ」を笑顔で催促する周りの乗客は女の子と夫を交互に見ては声

を出さずに笑うお母さんも汗を拭きつつ夫に会釈をしながら笑う

 

私からはよく見えないがきっと家族にあきれられているあの変顔を

披露しているのだろう私は心の中で夫に「頑張れ」とエールを送り続

けた

 

数分後女の子は夫に手を振りながらご機嫌で電車を降りていった

再び静まり返った車内で夫はしきりに汗を拭いていた

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 17: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1616

「優秀賞」

父の笑顔

澤谷 

真琴(東京都)

 

父は昭和五年生まれで当時は『地震雷火事親父』と言われ

るくらい父親は怖い時代だったそんな時代に父は息子である私の兄

によく言い聞かせていた

「いいか女ってものには怒っちゃいけないんだ男は怒鳴ったり暴力

を振るったりしちゃいけないそんなのは弱い男がするもんだ」

 

お陰で私は父にも兄にも怒られず大変勝気で陽気に育った地震も

雷火事も怖いが親父は怖いどころか常に優しかった

 

幼い頃は父の帰宅に気付くと玄関に飛び出していった三つ指ついて

お出迎えではない子犬のように飛び付くのだ父は満面の笑みで私を

高く抱き上げる電灯の高さまで上がるたびに

「今日も電球に届いた」

と嬉しくて父の笑顔と電球の灯りがまぶしかった父は心の安全基地

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 18: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1717

で明るい光だった

 

そんな父が八十歳を過ぎて認知症になり様々なことを忘れていくよ

うになった離れて暮らす私のことは名前を忘れ次第に存在も忘れる

ようになっていった

 

今は癌の終末期で入院しているお見舞いに行って顔を見せると娘の

存在は思い出すようだ生気のない顔に反射的に笑顔が浮かぶ娘の名

前もエピソードも思い出せない父だが感情が蘇るらしい可愛いと思っ

ていた感情が

 

父の手を握ると私の手を見てか細い声で囁く

「お前はよく働いているなえらい」

「どうして」

「こんなに日に焼けている」

 

言葉に詰まる認知症ってなんだろうたくさんのことを忘れるのに

なんとか私を褒めようとする父

 

幼い頃に電灯と一緒に輝いていた父の笑顔がそこにはあったいつも

この笑顔で安心したのだ病床にあっても人を励ませるということを今

私は震える心で学んでいる

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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Page 19: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1818

「入選」愚

痴の五重奏

今野 

芳彦(秋田県)

 

今日は暑くて庭の草毟りも中止だ

 

向こう三軒両隣も畑仕事に動きが見えず婆さん連中が我が家に集い

茶飲み会になる

 

菓子をパリパリ頬ばりながら亭主への愚痴五重奏が響いてくる

 

連れに先立たれ一人身の方もおられここぞとばかりに口を開く

「家に居ると寂しくて朝採りのキャベツに胸の内をさらすと楽になる

逆らわず黙って聞いてくれるからねえそれが玉葱だと切っている内に

貰い泣きしてしまうの」と笑う

 

向かいの婆さんは「家の亭主加齢臭の消臭剤を振りまいてどう消

えたかと聞くのそれで死臭は遠ざかったわよと答えたら憤慨よ未だ

死には縁遠く長生きするから大丈夫という意味なのに錆びた脳では裏

心が読めないのね」と亭主をコケにするので回りにクスクス笑いが広が

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 20: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

1919

 

一通り愚痴を吐いて解散一人身の婆さんがもう少し居させて欲しい

と茶を催促する

 

被っているニットの帽子何故か記憶に残っていて老脳を探ると亡

くなった御亭主とペアの帽子だと気付きそれを話すと「あら気付いて

くれて嬉しいでもこれは爺さんの帽子よ」と恥じらい「私の帽子は

綻びが出て処分し押入れに仕舞っていた爺さんのを使っているの何

も香りがしないけれど私の心には爺さんの残り香が伝わるのこのズ

ボンも爺さんのでウエストサイズは何とか合うけれど裾は二十セン

チも切って繕ったのよスマートだったのね」と自慢気に語り照れ笑う

「薄い年金の身だし使える物は利用しないとねえ三回忌も過ぎたし形

見のお披露目ね」ズボンを何度も擦る仕草に夫婦の糸の太さが感じら

れ眩しく見えた

 

お付き合いには心の車間距離が大切で守ってこそ笑顔の五重奏にな

りある人には励みの応援歌ある人には御詠歌となり私は黙って浸

りそれを心の栄養にしている

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 21: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2020

「入選」 

かあちゃんの分まで

中村 

千代子(香川県)

 

いつもどおり姉を見舞った数日前から目も開けなくなり眠り続け

ている枕元で大好きな白梅が咲いているのも知らない

「今夜が危ないです覚悟しておいて下さい」

 

回診に来た主治医に告げられた

 

その日私は新品のデジカメをバッグに入れていた退職祝いに親

しい仲間たちから貰ったものだ

「かあちゃん写真撮るよ」

 

姉に語り掛けた幼い頃から母代わりをしてくれた姉のことを私は

いつもかあちゃんと呼んでいた

 

かあちゃんは何の反応も見せずじっと目を閉じたままだ顔は大き

く腫れあがり元気な頃の面影もない

 

使い方もよく分からないまま姉の寝姿を何枚か撮った最後の写真

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 22: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2121

になるかも知れないと思いながらシャッターを押した

 

医師の言ったとおり夕方から降り始めた雪に連れていかれるように

姉は亡くなった

 

私が撮った写真はやっぱり最後のものとなった

 

あれから十数年が過ぎ来年は十三回忌を迎える先日アルバムを

見ていて驚いたあの最後の写真よく見ると姉はかすかに笑ってい

るではないか

「かあちゃんこっち向いて」

 

カメラを向けて声を掛けた私の方をじっと見ていたのだ目も少し

開けている意識を失くしてはいなかったのだ私を喜ばせようと思っ

て一生懸命カメラの方を見てくれたのだろうか涙が出てきた

 

私にとってあの微笑みは姉ちゃんのとびっきりの愛顔に見える生

前あまり笑うことのなかった人だから尚更そう思える

 

姉ちゃんは私に言いたいことがいっぱいあったのかもしれない言

葉の代わりに微笑みを残してくれたような気がする

 

かあちゃん私ねこのごろ毎日笑ってるんよかあちゃんの分まで

笑って暮らすね

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 23: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2222

「入選」愛

情という名の視力

井上 

優加(大阪府)

「目が見えんくても心の中で見えるんよ」

ゆかちゃんのことが大好きやからね

あの頃わからなかった祖父の言葉の意味が最近になってやっと

わかるような気がする

一九九七年冬当時私は五歳同居する祖父は目が見えなかった

年々体のあちこちが不自由になってその頃は一階の自室にほぼ寝たき

り主に二階で過ごす私達と生活の場を共有することはほとんどなかっ

ただからきっとおじいちゃんは寂しいに違いない子ども心に決め

つけた私はその日一日を祖父の部屋で遊んで過ごすことに決めたの

だった一階に行き「来たよ」と声をかけると祖父が嬉しそうに声

を出す「おじいちゃんの顔かいてあげる」と色鉛筆を広げる私に祖

父は「おじいちゃんもかいてみよか」と微笑んだ「えー」五歳の子

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 24: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2323

どもは不信感を隠そうともしないきっとかけないだろうそう思った

「茶色黒茶色」祖父が色を言う私が色を渡す風で窓がガタガタ

揺れるがカーペットで温かい鉛筆が紙の上を滑るさらさらという音

と遠くに二階のテレビの音が響いていたふと思いついて私はこっ

そり祖父が言ったのとは違う色を渡し始めたもちろん祖父は気づかな

い笑いを堪えていると「できた」と声がかかった本当に上手な女

の子だった目や鼻の位置もぴったりで色もほとんどはみ出していな

いただ些細な悪戯のせいで髪の一部が赤く唇は青かった私は興

奮して祖父のことを褒め称えた目が見えないなんてきっと嘘だすご

いすごいと騒ぐ私に祖父は心の中で見えるのだと言った「ゆかちゃ

んのことが大好きやからね」と照れたように笑っていた

祖父が亡くなったのはそれから三年後だった今あの絵はない

たぶん捨ててしまったのだろうあの笑い声ももう聞けない

けれどここにはなくとも私の心には今もはっきりとあの絵のことが

見えている理由はずっと前から教えてもらっていた

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 25: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2424

「入選」告

白のあとで

福島 

洋子(長崎県)

「わわしALS(筋萎縮性側索硬化症)いう難病じゃいつかは動

けなくなるんよ」

 

うずくまり畳にこぶしを叩きつけるN先輩号泣するその姿に呆然

と立ち尽くす私

 

二十八年前の晩秋の夕暮れ古い木造アパートでの出来事だ

 

当時私は広島の大学へ通う二年生数日前研究室対抗の学部祭で一年

上のN先輩の演出で創作劇を上演し見事入賞その賞状を届けに自転

車で彼の部屋を訪れたのだ

 

気さくだがちとおっさんくさいN先輩九州出身同士だからか気が

合い色気抜きの兄妹みたいな関係だった

「先輩ン家の冷蔵庫キャベツばっかじゃん」

 

勝手に上がり冷蔵庫を開けた私ところがいつもの陽気な切り返し

がなく拍子抜けしたところに冒頭の告白その日は大学病院の定期検

査で想像以上に数値が悪かったらしい

「先輩

helliphellip

何言いよるん 

嘘じゃろ」

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 26: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2525

「ほんまじゃ最近踵が上がりにくいんよ」

 

ぽつぽつと涙ながらの説明数年前に病気が判明し大学を受け直

したこと〈キャベツ親父〉とからかわれるほどキャベツ好きなのは病

気の進行を遅らせるビタミンEが豊富だからであること

― e

tc

「サイクリング部も研究室行事も精一杯楽しんどるけどいつまで普通

に暮らせるか

helliphellip

「helliphellip

hellip

 

ショックで何も言えずにアパートを後にした私帰る途中広島では

おなじみの匂いが鼻腔をくすぐった

 

三十分後再び先輩の部屋を訪れた私

「先輩皿二枚出して」

 

ふたりでつついたのはまだ湯気の上がるアツアツのお好み焼

「お前どうせ買うならホタテとかイカがどさーっと入った高いヤツに

せえ」

「一番安いブタ玉そばでもキャベツがぶち``

入っとるんじゃけえ贅沢言

わんの」

 

腫れぼったい目を細めいつものようにわははと豪快に笑ったN先輩

 

あれはまさに最高の〈愛え

顔がお

 

いま彼は二児の父として仕事もバリバリの現役病気は進行中だが

たくましく人生を楽しんでいる

 

そうあのときと同じ愛え

顔がお

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 27: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2626

「入選」声

武智 

早苗(愛媛県)

「頑張れ頑張れもとき」

「がんばれがんばれじいちゃん」

平成十六年八月三十一日初めて坊っちゃん球場で読売ジャイアン

ツが試合をすることになり野球が大好きな父が私の四歳になる息子

を連れて試合を観ていた時のことでした

父はその当時アイドルのように大人気だったジャイアンツの元木大介

がバッターボックスに入るのを見て「頑張れ頑張れ元木」と声援

をおくったのですがそれを聞いた孫が「がんばれがんばれじいちゃ

ん」と声援し始めたのでした父は最初孫が何故このようなことを

言い始めたのか不思議でたまらなかったといいますしかしすぐに気

がついたそうですそれは「元木」と「元幹」を孫が勘違いしたという

ことです

息子は元気の元と木の幹で「もとき」という名前です私のお腹の

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
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    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 28: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

2727

中にいるときから産院で「この子は未熟児で産まれる可能性が高い」

と言われ元気で木の幹のようなしっかりとした大きな子に育って欲し

いと願いつけた名前でした

じいちゃんが自分を応援してくれていると思い自分もじいちゃんを応

援しようと大きな声で声援した息子を誇らしく思いました

あれから十四年たった今今度は本当に

「頑張れ頑張れ元幹」

と一塁側スタンドから大勢の人が息子を声援してくれました夏の愛媛

県高校野球大会背番号「1」をつけた息子は坊っちゃんスタジアム

のマウンドに立ちました苦しい場面ではより大きな声で「頑張れ

頑張れ元幹」と声援してもらい灼熱の暑さとプレッシャーとでフ

ラフラになりながらも精一杯力のかぎり九回を投げ抜きました結

果は負けてしまいましたが「応援ありがとうございました」と頭を下

げに来た時の満面の愛顔は清々しいものでしたたくさんの人に応援

してもらった経験は息子にとってかけがえのない宝物になった夏でし

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 29: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

28

 

我が子が小学生の頃休日だというのに朝早くから近く

の公園へ行くのです

 

私はこっそり後をつけました公園には誰もいません

すると子は公園に散らかったゴミを拾い集め屑箱に入

れている場面を目にしましたそれからひとり黙々と逆

上がりの練習を始めました

 

私は声を掛けず気付かれないよう物蔭から密かに見守

ることにしましたきっと子は体育の授業で出来なかった

のですだから朝が苦手でも公園へ行き人が誰も来な

いうちに練習をhellip

 

運動の下手だった私も同じような経験がありました我

が子に遺伝してしまったのかスポーツが得意でない私に

似たことを可哀想に思いましたでも子は違っていまし

た出来るまで繰り返し頑張っています

「諦めるな 

頑張れ 

俺を超えろ 

子の思いをどう

か叶えてください」と私は天に祈りました

 

私は腰を掛けていた周りの草に目が止まりました四葉

のクローバーを偶然にも二つ見つけたのですきっと良い

ことが起こりそうな予感がしました

 

暫くして我が子の喜ぶ大きな声がしました

「出来た出来た」

その様子を見ていた私は嬉しさのあまり感動してしまいま

した思わず飛び出し我が子を抱きしめていました

 

突然私が現れたので子はびっくり子は嬉しそうに私

に言いました

「僕逆上がり出来るようになったよ 

今やるからパパ

見ていてね」

 

二人に笑顔がこぼれました四葉のクローバーは優しい

心の子と頑張っている子への贈り物だったのです

「佳 作」

公園へ行くわけ

山花 

薫(京都府)

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 30: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

29

「佳 作」

約束

山田 

修(神奈川県)

 

どうしても大学に行きたかった学校の推薦で就職した

が間も無く辞めたやっぱり諦め切れなかった

 

「入学金を貯める」家族の反対を押切り重労働を始めた

道路工事建設現場港湾の荷降ろし屈強な男達に交じっ

て働いた早朝深夜の猛勉強昼間の重労働に耐えやっ

との思いで合格通知を手にした

 

「お金が足りない」愕然とした

特待生に成れば入学金程度で済むと思っていただが

合格した大学は入学後の成績で選考する制度だった

 

「足りない分は出すぞ」父が言った

精一杯の笑顔だったが辛かった筈だ私にはもう後が

なかった甘えた

父は定年で退職していたがまた働き始めた息子の思

いに応えようとした

私は特待生を父に約束した奨学金を貰い勉強とアルバ

イト懸命に頑張った

 

やっと自分の途に戻っただが一年も経たない内に

父が突然に逝った話をする間もなかった

 

二年生の春父が喜んでいる夢を見た笑顔で何かを

言っていた

数日後大学の掲示板に大きく書かれた私の名前があっ

た特待生に選ばれたのだ

 

授賞式は万感の思いだった飛んで家に帰り賞状と報

奨金を母に渡した母は嬉し涙で仏壇に供え「約束で

したね」父に報告した姉二人も笑顔で駆け付けて来た

 

「あっあっ」春風が吹抜け賞状を飛ばした捜し

に出たが直ぐに近所の人が届けに来てくれた噂が広が

り皆が集まって来た地域に一体感があった頃だ

「偉いな良かったね」笑顔が満ちた

 

母はお茶を配りながら嬉しそうだった

私は母の笑顔が嬉しかった父との約束を果たし重かっ

た気持ちが晴れた

 

突然の春風は父が皆に自慢したくて誘ったのかも知

れない

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 31: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

30

「佳 作」

私の還暦祝い

森井 

朱美(奈良県)

 

とうとう還暦を迎えたでも実感もなく何の感慨も

なく通り過ぎようとしていたところが三姉妹の一番

上の姉が還暦祝いをしょうと言ってくれた姉達の還暦

は華やかに祝いの席を設けてたくさんの方々の祝福を

受けた

 

しかし私は至って地味そんな晴れがましいことは

不釣り合いでも姉は全て段取りを考えて食事の席を

用意してくれたので喜んで出席した

 

こうして姉妹三人だけの還暦祝いが始まったいつ

も隅っこにいる私が今日は主役なんだか落ち着かな

い祝いの色紙まで頂いて恥ずかしいような嬉しいよ

うなふわふわした気持ちでいたすると姉が「これ

は母からや」と言って金封筒とカードをくれた何気

なくそのカードを開くと母の歪な字が目に飛び込ん

で来た「これお母さんの字お母さんの字」と叫ぶと

同時に涙が溢れた母はもう字が書けなくなっていた

会話すら難しく声が出ないだから私はひどく驚いた

すると姉が「二年位前もう字が書けなくなるなあと

思い私への還暦祝いのカードを書いてもらったのよ」と

優しく説明してくれた

 

それを聞き余計涙が止まらなくなったタイムカプ

セルのような母の字を見て感激しその字を二年前から

用意してくれた姉涙が止めどもなく溢れ出て恥ずか

しげもなく「わーんわーん」と大声で泣いたこ

んなこと初めて自分のことで嬉しくて声を出して泣

いたのは私のことをこんなにも考えてくれた姉「母の

ような深い愛情を注いでくれてありがとう」と言いた

いのに言葉にならずただ泣いていた九十一歳の母

の言葉は〝六十歳おめでとういつもありがとう生き

ていてね元気でいて下さい又来てね待っています〟

母の声が聞えて来そうこんな素敵な還暦祝いをありが

とう私は幸せです

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 32: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

31

 

火葬場で母の収骨に居合わせた皆が驚いたなんと大腿

骨が二本崩れもせず水まきホースくらいの太さで並ん

でいる二本とも骨壺に入りきれずにょきっと顔を出す

やむなくこんこん叩いてやっと蓋をすることができた

百二歳の愉快さ骨太級の人生だったが骨になっても周

りに愛顔を生み出す底力を見た気がした

 

母とのかかわりでは笑いが絶えない私の結婚が決まっ

て招待状を送ったとき

 

「あら親を招待するんだったら普通は往復のチケッ

トと新しい草履くらいは送り付けてくるものよ」と言う

 

「逆でしょう親なんだからお祝いのダイヤとかくれ

てもいいんじゃない」と反論「そうだわねじゃあダ

イヤモンド三キロくらいでいいかしら」と母が切り返

した

 

毎年春になると母は秋田の山菜を送ってくれたある

ときお嫁さんが写した写真が一緒に入っていた早速電

話で

 

「けっこう美人に写ってる」と伝えると

 

「あなたたち娘四人に美貌を全部上げちゃったからこ

ちらが空っぽになったと思ったでしょうところがどっ

こい自分の分はまだまだちゃんと残してるのよ」との

たもう

 

四年位前まだらボケになっていた母を見舞ったこと

がある

 

「明日横浜へ帰るからね」

と言って電気を消そうとすると母が

 

「あのねあなたもああだのこうだのいろいろご託を

並べたりしないで適当な人がいたらお嫁にもらっても

らいなさいね」と母は目の前の私を何歳だと思ってい

たのだろう七十四歳の四人の孫もいる私ではなくて

母が見ていたのは嫁の貰い手がなくて母の心を悩ませ

続けた問題娘だったのだ母に抗わずに「分かったそ

うするよ」と答えたあの時代の心配をここまで抱えて

くれていたのかと母の愛情の深さに打ちのめされたこ

れもまた骨太級である

「佳 作」

骨太の母

長谷川 

真弓(神奈川県)

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 33: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

32

 

昼過ぎの電車に空き席はなかった

 

私は臨月のお腹を突き出したまま仕方なく吊革を握っ

た私の前には男子高校生が二人腕組みをして寝ていた

 

初めての妊娠は思ってもみなかったほどハードだった普

通の動きができない階段の上り下りもお腹を手で支えない

と万有引力に負けて下腹が裂けるようで恐いそれでも側か

ら見ると妊婦は微笑ましい光景に映るのか年配の男性など

は「今はいいけれど生まれたら大変だよ」などと呑気なこと

を言う

 

電車の震動のせいか三の胎児がさっきからお腹を蹴っ

ている背骨と太ももがずしんと重いお腹がどんどん張っ

てくるのが分かるこれはちょっとまずいことになったと

思ったその時高校生の横に座っていたおじいさんが怒鳴っ

 

「コラお前ら立て」寝ていたはずの高校生二人は威勢

よく飛び上がった仰天している私におじいさんは「座りな

さい席が空いたよ」とスッキリした笑顔で勧めた

 

二日後私は無事に女児を出産したその女児も今では

小学生の母になっている

 

その日の電車は混み合っていた八十歳位の姿勢の良い

女性が私と孫の前に立った

 

私は席を譲るべきか迷った声を掛けて逆に迷惑がられ

たとよく聞くからだ私の隣には若い男性もいるどう

しようぐずぐず考えていたら横に座っていた小学生の孫

が「どうぞ」と席を立った

 

「あら優しいのねえありがとう」嬉しそうに微笑ん

で女性はそっと座った

 

すると隣にいた若い男性が「はい座って」と孫に席を譲っ

た孫は「イス取りゲームみたいだね」とニカッと満足そ

うに笑った

 

周りにいた人達もゆったり微笑んでいる混んだ電車が

快適に思えた

「佳 作」

イス取りゲーム

佐藤 

陽子(岡山県)

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 34: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

33

「佳 作」

はじめてのありがとう

小池 

司(東京都)

私にとっての愛顔それは娘の三歳の誕生日に妻と娘が見

せてくれた愛の溢れる笑顔だ

その頃私の娘は周りの子に比べて言葉を覚えるのが遅く

簡単な会話をするのはまだ難しかったしかし言葉は喋

らずとも娘は喜怒哀楽の表現がとても豊かで私たち夫婦

は娘の成長をゆっくり見守っていこうと考えていたそれ

でも妻は周りの子を見て時折娘の成長の遅さに不安を

感じていたという

娘が三歳を迎えた日私たちは娘の好物のハンバーグを

作って誕生日祝いをしたハンバーグを食べ始めた娘は

笑顔で「あー」と言って私たちに笑ってみせた私は美味

しそうで何よりと笑顔を返したのだが横で突然妻が咽び

泣いたのだ聞くと妻は先日娘の友人の誕生日会に参加

した際両親にお礼を言う娘の友人の姿を見て自分の娘

がまだ話せないことにとても不安になったというそのこ

とを娘の誕生日に思い出してしまい堪えきれずに泣いて

しまったのだ

私は妻をなだめようとするがずっと不安だったのだろう

しばらく泣き続けてしまったすると娘は席を立って母

に駆け寄ると彼女の頭を撫でながらにこりと笑ったそ

してゆっくりと言ったのだ「ままあーと」と妻は

驚いた様子で娘を見て何と言ったのか聞いたすると

娘は満面の笑みでもう一度今度は正確にこう言ったのだ

「ままありがとう」それを聞いた妻はまた泣き出した

しかしその表情はとても嬉しそうだった妻は娘を強く

抱きしめて同じように「ありがとう」と返したそして

私にも「ぱぱありがとう」と笑顔を見せてくれた娘に

私もまた泣きながら彼女を抱きしめた

そのときの私たち家族の表情はとても愛に溢れた笑顔

だったなぜなら人生で初めて娘から感謝をされた特別

な日の特別な愛顔だったからだ今でもその愛顔を忘れ

ていない五歳になった娘は今も私たちに笑顔で言う「今

日もお疲れ様ありがとう」と

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 35: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

34

「佳 作」

代打は祖母

相野 

正(大阪府)

「おばあちゃん強いねおいくつ」

「へえ七十六ですねん」

私と祖母がいつものビアガーデンで飲んでいると近

くの席の人が声をかけてきた

親を失った私を一人で育ててくれた祖母だが老いて

も酒を飲む姿が私は好きではなかった特に好きなビール

を飲むと饒舌になり肴は私のことそれも嫌だった

 

ある夏祖母がビアガーデンで生ビールを飲んでみたい

と言ったTVのCMで知ったらしい連れて行くと大

ジョッキを二杯近く空けて周りの注目を浴びたそれ以来

毎年二人の行事になったが七十六歳のこの夏はさす

がにジョッキは一杯だけに減り祖母は珍しく昔の話を始

めた

普段思い出話は殆ど口にしない祖母の波乱の人生

には懐かしい場面より辛く悲しい物語のほうが多く詰

まっていたからだ

「あの人はお酒がダメやったから飲むのは私の役目

やった」

初めて知った酒が飲めない明治の政治家の妻として

夫の代わりに数々の酒席でグラスを重ねてきたことを

「でも冬の夜はホットウイスキーを一杯だけ作って二

人で飲むのが楽しみやった」

ここではいつも早く失った夫や子の思い出を夜空に

浮かべ心の奥に溜めていた涙とともに飲み乾していたの

かもしれない

孫の私は酒の肴ではなくたったひとつの自慢だった

のだ

祖母は席を立つとき突然「タダシありがとうな」

と言ったこのささやかな望みを叶えていることかそれ

とも久しぶりに思い出を口にできたことなのか

そのときの祖母は今まで見た中で最も柔和な愛顔を

浮かべていた

「長生きしてやおかん」と私が耳元で言ったとたん

祖母の目尻から涙がこぼれた

私の母だった祖母しかしこれが二人の最後のビア

ガーデンになってしまった

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

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住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

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住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
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      • 表4
Page 36: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

35

 

ある日夫が登山を始めた凝り性の夫はすぐに山道

具のイロハを吸収しあっという間に道具をそろえた「一

緒に行こう」と水色のザックをプレゼントされ私はま

るでランドセルを買ってもらった小学一年生のようにうき

うきとした気持ちになった

 

山デビューの日は五月五日のこどもの日だった雲ひ

とつない晴天だった私は早起きしておにぎりを握り

沢山の玉子焼きをタッパーに詰めた真新しい登山ウェア

に身を包み私たちは雄々しい山の麓に立った意気揚々

と歩いていたのはほんの最初だけだったあとはゼイゼ

イ息を切らしながらごつごつした道をひたすら歩いた

汗が流れ全身雨に濡れたようにびっしょりになる

私たちには子どもが出来なかった軽い気持ちで不妊

治療を始めたが治療の成果は出なかった先が見えず

出口もなく暗い山道に迷いこんだようだった子どもを

連れた家族を見ては途方にくれた私はこどもの日が

嫌いになり私たちは治療をやめた

登山では普通の生活では絶対に感じることのない苦

しさを味わうそんな中で小さな花をみつけたりすっ

と開けた木々の間にきらきら光る湖が見えたりすると心

の底から感動がわき上がる先を歩く夫が振り返って私

が追いつくのを待っていてくれたり岩場で手を貸してく

れるのも何だかいい

何度も休憩をはさみながら三時間ほどで山頂につ

いた「ついたー」と歓声をあげ思いっきり深呼吸をす

るこどもの日とあって山頂は家族連れでいっぱいだ

私たちは二人見晴らしの良い岩の上に腰かけ風に吹か

れながら塩気の効いたおにぎりをほおばる「美味しいね」

同じセリフを何度も言い合った夫の笑顔が眩しかった

瞬く間に時は過ぎ幾つもの山を二人で登った夫の

背中を眺めながら息を切らして山道を歩く辛かったこ

どもの日を特別な日に変えてくれたことに感謝しながら

「佳 作」

こどもの日

牧田 

恵(鹿児島県)

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 37: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

36

「佳 作」

爺ちゃん頑張りよるよ

神野 

洋平(愛媛県)

 

私の祖父の職業は歯科医師でしたそして私の職業も歯

科医師です

 

小学生の頃年に一度歯科検診のために学校にやって来

る祖父は私の自慢でした小さい頃の祖父との思い出と言

えば歯科医院の院長室で一緒に見た相撲中継仕事終わ

りに大音量のラジオで応援した阪神タイガース長期の休

みに行った旅行賑やかで楽しい思い出とともに今でも祖

父の笑顔を時々思い出します

 

私の成長をいつも優しく見守ってくれた祖父の口癖は

長生きはせんでええけど洋平のまではせないか

んなあでした

 

洋平が小学校を卒業するまでは学校歯科医続けないかん

なあ

 

洋平が中学校を卒業するまでは生きとかないかんなあ

 

高等学校を卒業するまでは

 

大学の歯学部に入るまでは

 

歯科医師になるまでは

 

節目節目はいつも祖父の笑顔とともに迎えてきました

 

そして歯学部を間も無く卒業する頃祖父は心筋梗塞

で倒れました歯科医師になったことを祖父に報告したい

その気持ちで歯科医師国家試験の勉強に励みました当時

国家試験の合格発表は卒業から数ヶ月遅れで行われてお

り日に日に状態が悪くなる祖父を前に祖父の回復と試

験の合格を祈るしかありませんでした病院の集中治療室

でチューブに繋がれ意識がなくなっていく祖父ただた

だ合格発表の日をまだかまだかと一緒に待ち続けました

 

ようやくやってきた合格発表の日祖父に吉報を無事届

けることができました朦朧とする意識の中手を握り返

し最期の笑顔を見せてくれたような気がします

 

爺ちゃん今も仕事頑張っとるよ笑顔でこれからも見

守ってねそして素晴らしい職業に導いてくれてありが

とう

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 38: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

37

「佳 作」

歳の離れた私の弟

山本 

詩文(愛媛県)

 

私には十歳年の離れた弟がいる私が小学四年生の時に

生まれた弟母が病気がちだったため私はよく弟の面倒

を見ていたおしめを替えたりミルクを飲ませたり一

緒に公園にでかけたり夜泣きもあって寝不足で学校に

行ったこともあったそして母が闘病の末天国へ旅立っ

たのは今からちょうど十年前の事弟は当時小学五年生

母の最期ベッドに駆け寄り祖母が「今日からはばぁちゃ

んとねぇちゃんでこの子を太らすけんな安心おしな」

と母に言ったそれを聞いた弟は「ばぁちゃんでも姉ちゃ

んでもいかんお母さんじゃないといかんのじゃおかあ

さんじゃないといかん」と病室中に響き渡る声でわんわ

ん泣いたそれが私たち家族と母との最期だった

 

私はその後結婚して現在二児の母となった第一子が

生まれたとき夜泣きが大変でこんな時近くに母がいて

くれたらなぁと一度だけ考えたことがあるでも私は

小学生のころから弟の成長を身近に見ていたのでその経験

が役に立った先が見えていた母は私が将来困らないよう

に子育てを少しずつ教えてくれていたのだと分かったそ

してこのために弟は十年もたってひょっこり生まれてき

てくれていたのかもとその時全てが感謝に変わった

 

そしてそんな弟もまた私の二人の子どもをよく面倒を

みてかわいがり遊んでくれる結婚してから六年間私

の実家で同居していたので生まれた時から子どもたちを

よく見てくれてお風呂にも入れてくれたり今でもよく

遊びに連れ出してくれるこれもまた彼が父親になった

とき近くに母がいなくても困らないように母が仕組んだこ

となのかもと思わずにはいられない

 

弟は母の死の直後母のような人を一人でも救いたいと

医者の道を志したたやすい道ではなかったが家族みん

なで助け合ってきた今日も彼は研修医として目を輝か

せながら愛顔で研修先の病院へ出かけて行った

住 友 金 属 鉱 山 株 式 会 社 別 子 事 業 所

住 友 化 学 株 式 会 社 愛 媛 工 場

住友重機械工業株式会社愛媛製造所

住 友 共 同 電 力 株 式 会 社

住 友 林 業 株 式 会 社 新 居 浜 事 業 所

三 井 住 友 建 設 株 式 会 社 四 国 支 店

住友グループ

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「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 39: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

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4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 40: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

「エピソード部門」高校生以下の部

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 41: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

4040

「知事賞」

願い事

松浦 

佑美(愛媛県 

高校生)

あれは私が小学生の時その日は七夕に近く姉と一緒に願い事

を書いていたその時姉が私に言った「ゆみ目が良くなりますよ

うにって書いたら」私はこう言った「書かんよ 

だってもう良くな

らんもん」

私はあきらめていたのだ自分の目がまだ良くなると思い続け

期待していたらそうならなかった時に一番悲しくなるのは自分だから

いっそのことあきらめていた方が楽だしかし数年後私の視力は何

の前触れもなく予想を超えて一気に低下してしまった今まで見えて

いたきれいな風景は見えにくくなり花も触らないと分からなくなった

どうしてこんなに早いの 

何で私なの 

そんな考えが頭の中をグル

グル回った

そんな自分を救ってくれたものがあるそれはサウンドテーブル

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 42: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

4141

テニス視覚障がい者のための卓球だ視力があってもなくても感覚

だけでできるそれが一つの希望になった今は私の左目はほとんど

見えず右目も裸眼で文字を読むことができなくなった今日もちゃん

と見えるだろうか不安になる時がある自分に負けそうになる時は

昨年愛媛県で開催された全国障害者スポーツ大会のことを思い出す大

会前は大きなプレッシャーを感じ家に帰ると泣いていたしかし私

は自分と闘ったあの時二セット連取されもう後がないという試合で

あきらめずに最後まで戦ったそして勝利した試合が終わって泣き

ながら笑ったあの時自分に勝ったのだからきっと大丈夫絶対に乗

り越えられるそう思えるようになる

いつか完全に私の目が失明してしまい悲しくて苦しくても私

は見えていた記憶と一緒に光と音の世界を生きていくだから今は

できるだけ長く見えていたいと思うようになったこれからも私には

高い壁があると思うしかし私はそれを乗り越えていきたい乗り越え

た壁は自分にとって今までとは違うものに見えているはずだから

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 43: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

4242

「特別賞」

大好きな町

大石 

美優(愛媛県 

高校生)

 

西日本の記録的な大雨により町全体が茶色い泥水に浸かった私は

ただただスマホを眺めることしかできなかった自分が歩いていた道が

消え友達とご飯を食べていた店が消えおいしい晩ごはんのための材

料を買うスーパーが沈んだ私はずっと夢の中にいる気分だった

 

祖父と祖母が住んでいる家が床上浸水の被害にあった私も少しの間

住んでいた家だったのでとても悲しかった水がひいたあと片づけに行

くことになった家は近所の方と一緒にあらかた片付いていた

「これを機会に戸棚も整理しよう」

と祖母が言った私と弟は祖母のコレクションがたくさん入った戸棚

の中身を全て取り出すことにした濡れて開きにくくなった引き戸を無

理やりこじ開けると中からたくさんのものが出てきた多趣味な祖母

は本や画材裁縫道具習字道具などいろんなものを持っていた

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 44: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

4343

「ばあちゃん物が多いよ」

そう言いながら取り出していると祖母が取り出した物をひとつひとつ

手に取ってエピソードを話してくれたそのエピソードは全て家族に関

するもので中には私の父のエピソードもたくさんあった父の卒業ア

ルバムが出てきたときは三人で見入ってしまい笑いが絶えなかった

 

最後に畳をはがし終えて帰ろうとしていたとき「二人が来てくれて

本当に助かったありがとう」と言ってくれた私は心の底から嬉

しかった自然と三人で笑っていた

 

町を通っていてもたくさんの方々が活動している姿を目にするしか

しマイナスな表情をしている人を見かけないみんなしんどくても会話

をしながら笑っているそんな光景を見て本当に胸が熱くなる今はし

んどい時かもしれないけれどこれを乗り越えた先には「もっと笑顔の

あふれる明るい大洲市」があると私は信じている

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
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    • 61
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Page 45: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

44

 

私は高校一年生まで松山で家族と暮らしていたが高校

二年の春単身で広島へ引っ越した理由は私が高校で不

登校になり学校へ行けず留年が決まったので広島の通信

制高校へ転校することにしたからだ自分のことを誰も知

らないところでやり直したいという気持ちが強く松山に

いられなくなった私を受け入れてくれたのが広島のおじい

ちゃんとおばあちゃんだったこうして新しい家族との三

人暮らしが始まった

 

おばあちゃんは私が知っている人の中で一番の心配性

だ私がバイトや学校で帰りが遅くなるととても心配する

なので私は少しでも心配をさせまいとこまめに連絡をいれ

て帰る時間を知らせるするとおばあちゃんは自分で私

が乗っている団地のバスの時間を計算してバス停まで迎え

に来てしまうおばあちゃんは足が悪くて何かにすがらな

いと歩くのが大変なので私はそんなおばあちゃんがひと

りで手を後ろで組んで歩いてきてしまうことをとても心配

しているのだがやめてくれないバスが見えると嬉しそ

うに手を振って私が降りてくると運転手さんにぺこりと

頭をさげるそして帰りは私の腕にすがって一緒に帰る

家に帰ると私が晩ごはんを食べているのを嬉しそうに眺

めときどき私の頭をなでて私がごちそうさまと言うと

安心して大きないびきをかきながら寝てしまう

 

私が来てからおばあちゃんの生活は大きく変わっただろ

うもう七十をこえているし体に負担がかからないか心

配だが私は優しいおばあちゃんと一緒にいられてとても

幸せだいつかおじいちゃんが私が来てからおばあちゃ

んがよく笑うようになったと言っていたおばあちゃんは

いつも私に幸せをくれてありがとうと言ってくれる私は

おばあちゃんの笑顔を見るたびに一緒にいられる時間に

感謝して大切にしようと強く思うのだ

「優秀賞」

おばあちゃんの笑顔

近藤 

陽菜(広島県 

高校生)

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 46: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

45

「優秀賞」

キャプテンのポケット

花山 

実紗希(愛媛県 

高校生)

 

先輩たちとまた一緒に野球がやりたくて続けた四年目

私は公式戦には出場できないと分かっていたが一緒に練

習してきたチームメイトを少しでも近くで応援したくて

夏の大会の女子選手のベンチ入りの許可をお願いする手紙

を高野連に出した三回目の手紙でやっと返事があったが

女子選手のベンチ入りは認められなかった

 

監督にはノックの補助はできると聞いていたがやはり

だめだったと伝えられた背番号すらもらえなかった失

望しかけていた頃母がユニホームを着た小さな私の人形

をつくってくれた母が先輩たちにお願いして小さな私

の人形をベンチに入れてくれることになった

 

大会当日私は小さな私の人形をキャプテンに渡した

それから私はスタンドでグランドにいるチームメイトを

マネージャーたちと一緒に応援した結果は負けてしまっ

たけれど力を出しきったと思う

試合後のミーティングが終わるとキャプテンが小さ

な私の人形を持って私に話してくれたそれはキャプテ

ンが試合の間ずっと小さな私の人形をポケットに入れて

プレーをしてくれていたということだった私はとても嬉

しかったベンチ入りを諦めていた私だったが先輩たち

と一緒にグランドでプレーできたんだと思い涙が止まら

なかった

 

小さな私の人形は少し汚れていたがそれが先輩と一緒

に戦った証だと思った私は本当に良い先輩に巡り合えた

と思うキャプテンには感謝してもしきれないほどだ嫌

な出来事が一生忘れることのできない最高の思い出に

なった私は夏の大会を先輩たちと一緒に戦ったんだと

少し汚れた小さな私を見るといつも誇りに思う

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 47: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

46

「優秀賞」

民泊ありがとう

市山 

茜(愛媛県 

高校生)

 

えがおつなぐ愛媛国体で鬼北町は女子バレーボールの

会場となった私の住んでいる地区は民泊に名乗りをあげ

た知らない人が自宅に泊まることに窮屈さを感じていた

両親は仕方なくと言った様子で畳の貼りかえや布団の洗

濯をはじめた両親と同じくあまり乗り気でなかった私は

何も手伝わなかった

 

地域の人々は楽しそうに準備をしていた北宇和高校も

町内各所に飾るための花の栽培を早くから行っていた選

手の食事を作る調理班は何度も実習し小学生は歓迎の旗

を手づくりしていた

 

迎えた当日大分県のチームが到着したいろいろと文

句を言っていた両親だったけれどそれが嘘のように笑顔

で高校生二名の選手を迎え入れていた「なんだ本当は

楽しみだったんじゃん」思わず私は苦笑した

 

初戦の結果は勝利勝ったことを聞くととても嬉しく

なった二回戦からは家族と一緒に応援に駆けつけた

身動きできないほどの人で埋まった観客席応援団に混ざ

るようにして試合を見る両親も同じ地区の人も大盛り上

がりで応援席の温度が瞬く間に上昇するのを肌で感じた

勢いに乗った大分は見事決勝戦に進出した遠く離れた他

人の家に泊まり不自由な思いをしながらも自分の持てる

力を全力で振り絞る選手たちぜひ優勝してほしいという

気持ちが芽生えていた

 

決勝戦は白熱した勝負となったが惜しくも敗退選手

はみんな涙を流していてそれだけ想いが強かったのだと

悟った涙は出てこなかったけれど心は鉛のように重く

なった選手はもちろん地域も一体となって燃えた国体

いつまでも胸に残る思い出となった

 

会場で選手を見送った腫れぼったい目をしていながら

も選手たちは笑顔を見せていた気づけば私も笑ってい

たお互いに笑顔を向けながら最初で最後の別れを告げ

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 48: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

47

 

私の祖母は元気だ生け花に俳句大正琴に朗読そし

てカローリングhellip八十歳近くになった今でも習い事や趣

味がたくさんあり学生の私と同じぐらい祖母の毎日は忙

しく充実しているそんな祖母はここ二十年毎日一日

たりとも欠かさず日記をつけている

 

小学四年生のことだ私はその日記を見てみたいと思い

本棚に並べられた日記の一冊を手にとったそれは私が生

まれた年のものだっためくってみると友人との会話の

内容やその日あったイベントなど様々な事柄が記されて

いたそんな中私の生まれた日七月七日のページを見

て私はとても感動した

 

「平成十二年七月七日孫が生まれた織り姫様のよ

うな優しくて可愛い女の子これからよろしくね」

 

昔の出来事を語ってくれることはあったが実際に形に

残った祖母のその時の思いを見るとおさえられない感情

がどっとあふれた

 

「私」という存在の誕生を待ちわびていた人がいたこと

に感慨深い気持ちになった

 

他のノートも見てみると幼い頃の私がわがままを言っ

たこと弟とケンカをしたこと一緒にプールへ行ったこ

と現在までの私との日々が淡々とつづられていた

 

それを見て以来私も日記を始めた学校であった楽し

かったことやつらかったこと悩み事や友人との思い出

日々の出来事を簡単に書き留めているこれから先十数

年数十年と年を重ねいつか私も「子どもを出産した」

「孫が生まれた」と書く日が来るかもしれないと思うと少

し楽しみだいつか昔のページを繰り「おばあちゃんは

あなたが生まれたときこう思っていたんだよ」と孫に

日記を見せるいつかの日まで私は日記を書き留めてい

こうと思う

「入 選」

おばあちゃんの日記

別宮 

彩音(愛媛県 

高校生)

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

広 告

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広 告

「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 49: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

48

 

私は学校の活動としてあるプロジェクトを進めていた

作成した企画書が選ばれ実践することが決まったのだ

初めは自分の案が認められ期待を背負うことに誇りさえ

感じていたしかし現実はそう甘くない寝る間を惜し

んで考えた案はたった一言でいくつも消えていった交

渉のため休日は様々な機関を走り回り街行く人に声を

かけたスーツ姿の大人だらけの場所に制服姿で一人乗

りこむ心細さといったら冷たく断られた時には全身の

血が止まったような気さえしたのであるまた私は部活

動の部長も務めていた後輩たちの指導スケジュールの

調整など山のような仕事に私の体はボロボロだったそ

のうち何をやっても上手くいかなくなりそんな自分に嫌

気がさした期待に応えるどころか当たり前のことすら

できない両親ともぶつかり私の居場所はどこにもない

私って誰かに必要とされているのかな夜な夜なそんな

考えが頭から離れず枕を濡らす日々が続いていた

 

ある日の放課後私は教室で一人帰り仕度をしていた

ひらり小さな紙が机の中から一つ二つ三つhellipそれ

はクラスメイトからの手紙だった大丈夫お疲れさま

無理しないで皆心配しているよそこには私への励ま

しの言葉がたくさん書かれていた胸が熱くなった私は

独りではなかった皆私を見てくれていた私の居場所

はこんなに近くにあったのだ

 

そして今私は表彰台に立っている私の研究レポート

が入賞したのだあの時の皆の言葉が無かったらきっと

ここに立つことはできなかっただろうカメラのレンズに

幸せそうに笑う私が映るこの笑顔はボロボロだった私

に皆がくれた宝物だ私は手紙を通して人の温かさを知っ

た今度は私が誰かの笑顔を守ろうもう私は独りじゃな

い帰ったら思い切り笑顔で言おう

「皆ありがとう」

「入 選」

笑顔の手紙

芳谷 

華林(愛媛県 

高校生)

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

広 告

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 50: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

49

 

私の祖母は今年亡くなった私にとって祖母は第二の

母でもあった祖母から教えてもらったことは多く今ま

でもこれからも役に立つことばかりだ祖母は背が低く

腰がまがっていたでも元気で優しく沢山の人から慕わ

れていた朝早くから道の駅に出すお弁当や巻き鮨を作り

終わると畑仕事朝から夜まで働きじっとしていること

ができない働き者な祖母だった

 

保育園に通っていた頃両親が共働きのため祖母の家にい

ることが多く祖母は母のかわりとしておやつや夕食を

毎回作ってくれた祖母の作った小米や丸もちは私の好物

で祖母と一緒に食べる夕食は私にとって大好きな時間

だった家事でいそがしい時でも手をとめてわがままを聞

いてくれたり遊んでくれたりした嫌なことで悩んでい

た時はアドバイスをしてくれ何でも知りたがる私に沢山

の知識を教えてくれたそれは今までも役に立ちこれか

らも役に立つ必要なことだ

 

私が祖母から教えてもらったことで一番心に残っている

ことは「一番じゃなくていい普通でいいいつも笑顔で

いなさい」という言葉だこの言葉に私は沢山救われた

「普通でいい」という言葉には一番を取らなくていいが

真中にはいろそれより下に下がるなという意味がある

勉強や習い事の時私はこの言葉に救われている行き詰っ

た時思い出し一番じゃなくても上位を狙おうと思える

だからやる気が出るし長続きもする「いつも笑顔でいな

さい」という言葉には印象が大事周りの雰囲気を良く

する悩んでいる時自分を励ます下を向かないなどの

意味がある

 

祖母は私を言葉で応援してくれ背中を押してくれてい

た失ってわかる宝物これからも私に力をくれもっと役

に立つ大切な宝物たくさんの贈り物をくれた祖母が大好

きだ

 

今日も教わったことを胸に歩いていこう

「入 選」

失ってわかる宝物

蔭平 

莉奈(愛媛県 

高校生)

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

広 告

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広 告

「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
    • 03
    • 61
      • 表3
      • 表4
Page 51: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

50

 

「もうスポーツをするのは厳しいと思う」そう告げられ

た中学一年の秋私は当時バスケットボール部に所属し

ていた小学生の頃から続けておりガードというポジショ

ンでプレーしていたガードは試合中に指示を出し仲

間を動かすというとても大切で重要なポジションだしん

どかったがすごくやりがいを感じていたある大会の試

合中突然膝が痛くなり動けなくなったそして病院

で診てもらい医者から告げられた言葉は私を暗闇で包

みこんだ

 

それからは「プレーできないなら」とバスケを見るの

が嫌になり部活に行かない日が続いたそんなある日

顧問から

 

「マネージャーにならないか」

と言われた初めは断ったが次第に「やってみたい」と

思うようになった

 

久しぶりに部活に行くと仲間の一人から

 

「おかえり」

と声をかけられたすごく嬉しかったこの瞬間私はみ

んなを支えられる存在になりたいと思ったそれからテー

ピングの巻き方や怪我の対処法審判の仕方など様々な

ことを覚えた少しでも力になりたかった

 

中学三年の夏最後の大会でユニフォームをもらいベ

ンチに入ったスコアをつけながら誰よりも声を出した

とても楽しい時間だったプレーはできなくても自分に

できることをやりとげようと思っていた試合が終わった

あと顧問や仲間たちから

 

「ありがとうお疲れ様」

と言ってもらえた部活を続けていてよかったと感じられ

 

私は今放送部に所属しており高校野球のサポートを

しているケガでスポーツができなくなった私でもスポー

ツに携われていることを嬉しく思う高校三年最後の夏

悔いなく終わりたい

「入 選」

誰かの支えに

髙野 

未祐(愛媛県 

高校生)

51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

広 告

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
    • 02
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    • 61
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      • 表4
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51

 

私は家族が大好きですその中に私が世界で一番尊

敬していて人生の目標としている人がいますそれは父

ですどれだけきつい仕事がこようと真正面からぶつかっ

ていき自分にとって1番大切な家族を養っていくために

命をかけて取り組み必ずやりきって家に帰ってきます

そんな父の背中は誰よりも大きく誇らしく見えますつ

ねに元気で明るい父は家族の太陽のような存在です

 

しかしそんな父が去年の十二月にがんになり余命三

ケ月と宣告されました信じられませんでしたその日の

事はほとんど覚えていませんとにかくその事実を信じ

たくなくて狂ったように泣いて泣いて泣き続けた記憶し

かありませんその次の日私は学校でしたもちろん行

ける状態ではなかったので学校に休むと連絡しまた泣

いていましたその時学校から一本の電話がありました

いつも元気いっぱいの保健の先生からでしたなんでも聞

くから保健室においでと言ってくれましたその後保健

室に行きなんで俺の家族にこんなことがおきるんぞと

いう怒りやこれからの不安などとにかくすべてを吐き出

しました話をしている最中はいつも笑顔の保健の先生

も泣いていましたが最後にはいつもどおりの笑顔でな

ぐさめてくれましたその笑顔はいつもの笑顔と違って

とてもおちつく笑顔でした

 

その後一番信頼できる同級生に父さんの事を話しまし

たその人が最後に苦しくなったらいつでもうちを頼っ

てねと目に涙を浮かべながら見せた笑顔は今でも忘れませ

んその人は今でも私に元気をくれますこんな素敵な

人に出会えて本当によかったと心の底から思いますその

人のおかげで気付けば自分に今まで通りの笑顔が咲いて

いました

 

支えてくれたみんなのおかげで私は今元気にすごせてい

て父も余命宣告を乗り越えて今も家族の太陽ですみ

んなの笑顔が私を救ってくれた今も感謝でいっぱいです

「入 選」

どん底の私を救った笑顔

東 

竜希(愛媛県 

高校生)

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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
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「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
  • ハインター1
    • 01
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      • 表4
Page 54: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

「写真部門」

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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  • ハインター1
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    • 03
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      • 表4
Page 55: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

ピカピカの1年生

小野 早苗(神奈川県)

新しいランドセルを背負って

ぴっかぴかの愛顔

知事賞

無限の愛

山﨑 唯(熊本県)

妹を抱きしめて思わず笑顔がこぼれる兄

そこには言葉には出ない無限の愛が

溢れていました

白川義員特別賞

命の輪廻~笑顔の会話~

中森 理紗(愛媛県)

曽祖母とひ孫です年齢は80 歳以上

離れており娘はまだ言葉を話せませんが

笑顔で気持ちは通じています

河原学園賞

一般の部

54

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
  • 表2
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    • 61
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Page 56: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

鯉のぼりのように

中村 天津(京都府)

4人目の孫の初節句鯉のぼりを見に

行きました鯉のぼりのように元気に

伸び伸び育ってね

優秀賞

楽しく笑う

井田 金久(三重県)

祭りの日町内会長が一人でカキ氷を

食べていてそこにおばあちゃんが来て

色々と話をしているうちに大笑いに

優秀賞

握手

佐々木 順哉(埼玉県)

生後2ヶ月の娘が指を握って

笑いかけてくれました

優秀賞

一般の部

55

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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Page 57: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

入 選

一般の部

杣本 宜之(愛媛県)

大好き赤いブランコのある公園

娘の大好きな公園おでかけどこへ行くと聞くと真っ先にrdquo赤いブランコのある公園rdquoと答えてくれます

岩渕 友香(三重県)

この頬のぬくもりずっと忘れない

遠くに住んでいるひぃばあちゃんに一年ぶりに会い喜びの頬ずりをしにいきました

渡邉 久枝(愛媛県)

初めての雪

初めて雪を見た孫hellip

なんだかこっちまで楽しくなりました

56

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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Page 58: 平成30年度版 - Ehime Prefecture...3 知 事 あ い さ つ 愛 媛 県 知 事 中 村 時 広 本 事 業 は 、 愛 媛 県 が 提 唱 す る 「 愛え が 顔お 」 を

入 選

一般の部

宮谷 美由香(愛媛県)

わーいこいのぼりまでジャーンプ

家族で行ったれんげ祭りで例の如く「高い高い」を求める娘鯉のぼりのように大空に羽ばたけ

石﨑 美恵(愛媛県)

わーっはっは

『LOVEampPEACEampSMILE

57

おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

  • 表1
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おとうとと おいかけっこ

山本 言葉(愛媛県 小学生)

河川敷で弟とシャボン玉をしながらおいかけっこをした写真です

知事賞

ぼくの宝物

窪田 宜久(愛媛県 小学生)

弟の笑顔を画面いっぱいに撮りましたぼくはこの笑顔が大好きです(^^)

白川義員特別賞

仲良しファイブ

玉井 未留(愛媛県 高校生)

新しいユニフォームをもらってうれしそうな私たち

河原学園賞

小中高校生の部(小学生未満含む)

58

一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

広 告

愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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一般の部

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県商工会議所連合会賞

愛媛広告協会賞

愛媛県獣医師会賞

孫と折り紙法隆 直史(埼玉県)

お盆に帰省した孫と折り紙をして遊んだ

コミカルファミリー忽那 博史(埼玉県)

笑顔が絶えない仲良しファミリーです

best partner坪井 琉華(愛媛県 高校生)

この写真を撮ったときカメラ目線じゃないと思ったけど

撮影している私の顔を見ていると気づきました

愛媛県情報サービス産業協議会賞

夢の書道パフォーマンス甲子園山戸 祐璃(愛媛県 高校生)

墨のにじむような努力の集大成です

たくさんの人に感動を与えることができとても幸せでした

59

小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

メーション等を合わせた動画作品をインターネットで配信しています

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小中高校生の部

(小学生未満含む)

各  賞

愛媛県歯科医師会賞

愛媛県理容生活衛生同業組合賞

94 回目の秋の訪れ小笠 友理子(香川県 高校生)

久しぶりに曾祖母と公園で散歩をしたときの写真です

笑賀男(えがお)唐澤 賀伊(長野県 高校生)

滅多に笑わない祖父が笑った時の笑顔が好きです

その笑顔を讃えたいそんな思いで「笑賀男」としました

愛媛県経済同友会賞

ヨッシャーいくぞ村島 大晴(沖縄県 高校生)

「ヨッシャーいくぞ」という人物の表情が伝わるよう

シャッタースピードを早くして撮影しました

愛媛県IT推進協会賞

あぁ美味しアッぷっぷー中野 殊実(兵庫県 高校生)

子供でも飲めるお子ちゃまビール大人の真似して1杯

ぷはぁと飲みました気がついたら口の周り泡だらけ

60

61

審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

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審 査 委 員紹介

新井  満  

(審査委員長)

1946年新潟県生まれ作家作詞作曲家写真家など多方面で活躍

1988年『尋ね人の時間』で第99

回芥川賞受賞

2005年『この街で』(作詞新井満作曲新井満三宮麻由子)を制

2007年『千の風になって』で第49

回日本レコード大賞作曲賞を受賞

2014年正岡子規の俳句にメロディをつけ松山市民の愛唱歌「春や

昔」を制作子どもから大人まで松山市民に愛される曲となる

2018年新曲「石鎚山」を作詞作曲

神野 紗希  

 (審査委員)

1983年愛媛県松山市生まれ

2001年松山東高等学校時代に第四回俳句甲子園にて団体優勝「カン

バスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる

2004年第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞

2019年『日めくり子規漱石 

俳句でめぐる365日』(愛媛新聞社)

にて第34

回愛媛出版文化賞大賞を受賞

明治大学玉川大学聖心女子大学講師

白川 義員 (

特別審査委員)

1935年愛媛県四国中央市生まれ

ニッポン放送フジテレビを経て1962年フリー写真家

1993年に南極大陸一周に成功(史上初)

1996年から「世界百名山」撮影プロジェクトを開始作品集「世界百名山」を出版

2002年国連が「国際山岳年」を記念して作品集「世界百名山」の中

から12

作品を選んだ記念切手を発行

記念切手12

種類全点を1作家で制作したのはフェルメールダリピカソな

どに続いて世界で11

人目写真では初

2012年11

月作品集「永遠の日本」発表

1972年第13

回毎日芸術賞

1972年芸術選奨文部大臣賞

1988年第36

回菊池寛賞

1995年第27

回日本芸術大賞

上記日本を代表する芸術4賞総てを受賞したのは文学美術音楽等総

ての表現分野を通して白川義員ただ一人

 

このほかにも1981年全米写真家協会最高写真家賞(史上10

人目)

を受賞するなど世界を代表する写真家

中村 時広  

 (審査委員)

1960年愛媛県松山市生まれ1982年三菱商事株式会社入社

1987年愛媛県議会議員1993年衆議院議員

1999年愛媛県松山市長連続3期当選

2010年愛媛県知事2018年3選現在3期目

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愛顔感動ものがたり

「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

検 索

平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

 「エピソード」部門の知事賞特別賞(平成29年度からは一般の部高校生以下の部

知事賞)受賞作品については水樹奈々さんの朗読に田村祐子さんのサンドアートアニ

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愛顔感動ものがたり

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え 

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平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

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スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

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平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

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「感動のエピソード」

       「愛顔の写真」

え 

がお

平成三十一年二月発行

発 

愛 

媛 

印 

株式会社

美 

スポーツ文化部文化局

         

文化振興課

七九〇

八五七〇

愛媛県松山市一番町四丁目四 

TEL(〇八九)九四七 

五五八一

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平成29年度 一般の部 知事賞 「笑顔の魔法」 長友 奈奈

平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

愛顔感動ものがたり

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平成29年度 高校生以下の部 知事賞 「えがお」 上甲 真子

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