ゲンロン3.5

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『ゲンロン3.5』は、ゲンロン友の会第6期から第7期へ更新された方限定でお届けする、非売品雑誌。ゲンロンが発行する月刊の電子雑誌『ゲンロン観光通信』『ゲンロンβ』から過去の人気記事を厳選したアンソロジーです。

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017 016人文的、あまりに人文的 山本貴光+吉川浩満 ゲンロン3.5

人文的、あまりに人文的 第1回

Hum

anistic, All T

oo Hum

anists

─1

『啓蒙思想2・0│政治・経済・生活を正気に戻すために』

『心は遺伝子の論理で決まるのか│二重過程モデルでみるヒトの合理性』

Enlightened T

hinking 2.0: Restoring San

ity to Our Politics, O

ur Econom

y, and Our L

ives (Joseph Heath)

The R

obot’s Rebellion: Finding M

eaning in the A

ge of Darw

in (Keith E

. Stanovich)

山本貴光+吉川浩満 Ta

kam

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am

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shika

wa

吉川

今月から『ゲンロンβ』で書評を担

当することになりました。編集部からのオ

ファーは、毎回二冊ずつ人文書を紹介せよ

というものです。たしかに二冊紹介すると

いうのはいいアイデアかもしれない。異な

る本を組み合わせることで相乗効果も期待

できそうだし。そして、毎回その二冊を山

本くんと吉川の二人がかりで紹介していき

ます。二×二=四でさらなる相乗効果があ

るかも?

なんて皮算用しているのですが、

はたしてうまくいくかどうか。よろしくお

願いします。

山本

よろしくお願いします。

吉川

今回は、カナダの哲学者ヒースの本

と、アメリカの認知心理学者スタノヴィッ

チの本。

山本

どちらも人間観を更新させてくれる

本だね。まずは比較的大きな状況を扱って

いるヒースの本からいこうか。

クレイジーな時代?

吉川

この数年間、ポピュリズムとか反知

性主義とかヘイトスピーチとか、社会学者

の宮台真司さん言うところの「感情の劣化」

が問題になっているよね。ヒースも同じ問

題意識をもっていて、これを直感や感情の

偏重傾向として捉えています。もっと言っ

ちゃえば、正気を失っている。こうした流

れのなかで、いかにして知性と合理性を働

かせるか、つまり正気を取り戻すか。これ

が『啓蒙思想2・0』のモチーフになって

いる。非常に今日的なテーマです。

山本

宮台さんの言う「感情の劣化」とは、

何が本当のことかといった事実や真実の探

究よりも、自分の感情を発露してすっきり

するのを優先する態度のこと。感情制御の

劣化と言ってもいいかもしれない。

 それにしてもアメリカの大統領選ではト

ランプ旋風もすごいね。この対談をしてい

る四月下旬には、ニューヨーク州の共和党

予備選でも圧勝とか。

吉川

うん。ヒースの本はもちろんトラン

プ旋風の前に出ているわけだけど、この本

で描かれているアメリカ政治の惨状はすご

いね。当然、日本も例外ではないし、ヒー

スの母国であるカナダですら、けっこうひ

どいわけだけど。ヒースの指摘でおもしろ

かったのが、アメリカ政治の対立軸はもは

や共和党vs.民主党とか、小さな政府vs.大き

な政府とか、ましてや右vs.左でもなく、も

はやクレイジーvs.非クレイジーという領域

に突入しつつあるというもの。しかもクレ

イジーのほうが優勢だと(笑)。これは今

回のトランプ旋風で決定的になってしまっ

たね。

山本

「クレイジー(crazy

)」は、人を夢中

にさせる、熱狂させ無分別にさせるという

わけだけれど、厄介なことに得てしてクレ

イジーなほうは主張が単純で分かりやす

いんだよね。熱狂させられる側からいえば、

「そうだ、そうだ!」とか「自分もそう思っ

てたぞ!」とノリやすい。

 ところで、こうした「感情の劣化」状況は、

いつ頃から顕著になってきたんだろう。「劣

化」という言葉を素直に受け取ると、これ

は劣化していなかった状態から変化したと

いう含意もあるよね。装置さえあれば誰も

が発信できる環境になって、互いの耳目に

入りやすくなっただけとか。それとも、あ

るときを境に「劣化」が生じたのか。

吉川

この本では細かい時代診断がなされ

ているわけではないけれど、ヒース自身は、

たとえばアメリカ政治が見るからにおかし

くなってきたのは今世紀に入ってからだと

言っているね。でも、もう少しタイムスケー

ルを広く取ることもできると思う。本書に

は、資本主義経済が強いるスピードがわれ

われの直情的傾向を後押ししているという

指摘もある。そう考えると、資本主義の高

度消費社会化と軌を一にしていると言って

もいいかもね。

山本

企業は資本の増大を至上目的として、

次から次へとめまぐるしい速さで新しい商

品やサーヴィスを生み出し、人びとの有限

の時間と注意を惹くために広告を打つ。要

するにその気にさせる、欲しいと感じさせ

るために感情に訴えて欲望を喚起しようと

する。こうした環境は、人びとの感情のあ

り方にどんな影響をもたらしているのか。

これはこれでとても興味のある問題だから、

また別の回で検討してみたいね。

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想 2.0 ─政治・経済・生活を正気に戻すために』(栗原百代訳、NTT 出版、2014 年)

Page 3: ゲンロン3.5

017 016アンビバレント・ヒップホップ 第一回 吉田雅史 ゲンロン3.5

アンビバレント・ヒップホップ 第1回

反復するビートに人は何を見るか

Am

bivalent Hip

-hop

─1

─ What D

o People See in the Repetition of B

eats?

吉田雅史 M

asa

shi Yo

shid

a

1─はじめに

 筆者とヒップホップの出会いは、一九八〇

年代末に遡る。当時、X、BU

CK-TICK

筋肉少女帯、Van H

alen

やMetallica

など

国内外のロックに魅了されていた耳にも、

Run-D.M.C.

やPublic Enemy

のギターや

ノイズをサンプリングしたサウンドはア

ピールするものだった。以来、単に音楽と

してのそれを享受するだけでなく、様々な

場面で、ヒップホップ的な価値観を参照し

てきた。そしていつしかリスナーの立場だ

けでなく作り手の立場でもコミットする

ようになると、レコード屋に週七日は通

い、ビート制作のため、それらのレコード

やサンプラーと夜を明かし、ペンとノート

を携え深夜の街を徘徊しながら言葉を捻り

出し、同志を見つけて桃園の誓いを交わし、

自腹を切ってレコードをプレスし、ライブ

で色々な土地を回り、多くの人々と出会い、

音と出会いながら、少なからず情熱を傾け

てきた。

 二〇一五年にゲンロン

佐々木敦

批評再

生塾第一期の開講が発表され、三月二〇日

に特設サイトが立ち上げられた。筆者は自

身でも何をしようとしているのか分からな

いままに、同時に何も迷うことなく、サイ

ト上で申し込みのボタンをクリックしてい

た。この時点では、ヒップホップについて

の文章を書く気はなく、寧ろ避けて通ろう

としていた。最初から自身の得意分野で臨

むことには一種の抵抗を感じていたからだ。

しかし約一年後、最終課題で日本語ラップ

についての論考を提出することとなった。

一九九八年に東浩紀の『存在論的、郵便的』

に魅了されていたとき、同じように心奪わ

れたのがTH

A BLUE HERB

の「知恵の輪」

﹇★1﹈であったことを思い起こせば、それ

は必然だったのかもしれない。

 

その批評再生塾における最終課題では、

KOHHと志しびっと人

という二人のアーティスト

を中心に据えた論考を提出した。日本語

ラップが、これまで批評という営みの対象

として切り出されることはあまりなかった。

しかし一方で、既に三〇年分の蓄積がある

ことから、語られるべき無数の事象を有し

ていることも確かだ。批評という枠組みを

抜きにしても、日本語ラップには未だ言語

化されていない領域が多く存在する。

 同時に、この三〇年というのは長いよう

に見えるが、日本語ラップの歴史が過不足

なく客観視され記述されるには十分な期間

ではなかった。そしてある種の共通見解が

共有されていないからこそ、日本語ラップ

には様々な文脈へ接続して語ることのでき

る可能性が潜在している。この三〇年とい

う期間が熟成させてきた芳醇さと、潜在的

な可能性を言語化すること。それが今、日

本語ラップを取り上げる一つの理由だ。

 そして日本語ラップは、この三〇年の歴

史にもかかわらず、未だアメリカで誕生し

たオリジナルの輸入品としての痕跡を強く

残している。私たちは、一九七〇年前後の

「日本語ロック」論争から随分遠くに来て

いる。だから「ロック」の前に「日本語」

を付けることは稀だ。しかし「日本語ラッ

プ」の「日本語」が取り払われる日はまだ

遠いのではないだろうか。

 本連載においては、以上のような日本語

ラップを取り巻く状況を踏まえつつも、対

象を「日本語」という枕詞の付くラップに

限定せず、本国アメリカで繰り広げられて

きた/いる、日々更新される言葉たちの

群像劇をも注視して行きたい。この過程に

おいては、佐々木敦が『ニッポンの音楽』

(二〇一四年)を通して考察することとなっ

た、「輸入品」としての音楽を日本がどの

ように受容し、ローカライズしてきたかと

いう論点が改めて浮き彫りになるだろう。

ローカライズの際、翻訳が上手く行くとは

限らず、そこにある種の訛りが入り込むこ

ともある。その訛りがやがて独自の文法を

獲得し、別様の文化に進化することもある

だろう。何れにしても、このように日本語

ラップの内部と外部、アメリカ産のオリジ

ナルからの正しい継承と誤解されたそれに

ついて考えることは、日本語ラップを批評

的に捉える上で重要な視点となろう。

 

さらにはヒップホップという音楽ジャ

ンルが広くクラブミュージックやダンス

ミュージックの系譜に属するものである

ことを踏まえ、ラップを支えるトラック=

ビートを中心に、種々の音楽的な面にも光

を当てたい。そしてその音楽的な傾向の変

遷や、変遷の要因となる歴史的背景を参照

することで、ラップに並走するビートの正

体をも明らかにして行く。その上で、ラッ

プが様々な外部と接続する契機を、批評の

言葉で照射してみたい。

 そして、視点をヒップホップからダンス

ミュージックへ、さらに音楽全体にまで拡

げるならば、そこに横臥しているのは、次

のような問いである。私たちは、なぜ音楽

を求めるのか。この問いはあまりに巨大す

ぎる上に、美学、音響学、認知心理学など

様々な分野からのアプローチが可能である。

本連載が射程とするのは、ダンスミュー

ジックおよびその一ジャンルとしてのヒッ

プホップだが、それらの学問領域の言説も

参照しながら、この巨大な問いから決して

視線を逸らすことなく対峙してみたい。

 かつて宮台真司らは『サブカルチャー神

話解体』(一九九三年)の中で、音楽ジャン

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017 016ポスト・シネマ・クリティーク 渡邉大輔 ゲンロン3.5

ポスト・シネマ・クリティーク 第3回

イメージの過剰流動化と公共性のはざまで│想田和弘監督『牡蠣工場』

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xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

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渡邉大輔 D

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「港の映画史」につらなって

 想田和弘監督の『牡蠣工場』(二〇一五年)

は、瀬戸内海沿岸に位置する港町・岡山

県牛窓で営まれている小さな牡蠣工場の

日常を記録した長編ドキュメンタリー映画

である。

 古くはその景観が『万葉集』にも詠まれ

た山陽の名勝・牛窓は、全国でも有数の牡

蠣の産地であり、また監督の妻で本作のプ

ロデュースも務める柏木規与子の母の故郷

でもある。プロダクション・ノートによれ

ば、以前からたびたび休暇で訪れていたこ

の地で、当初は漁師を取材したドキュメン

タリーを製作しようと計画していたものの、

偶然のなりゆきから陸の牡蠣工場の暮らし

を主題とすることになったという。

 映画の冒頭、はるかに霞む山並みを背に、

緑におおわれたいくつもの岬が入り組む牛

窓の静かな海がロングショットで写される。

波ひとつない白く光る秋の海には、細長い

板のようなものが点々と、いくつも広がっ

ている。牡蠣を養殖する筏である。シーン

が変わり、その牡蠣筏の横に漁船が停めら

れる。船の操縦室のなかからひとりの壮年

の漁師が現れ、そなえつけられた巨大なク

レーンをレバーでたくみに操りながら海

面下深くに吊るされている牡蠣のついた縄

(垂すい

下か

連れん

)を水揚げする。観客の眼の前には、

機械と、滴る海水の混じった大きな音と同

時に、数えきれないほどの牡蠣が張りつい

た垂下連が吊り下げられ、その下の金網の

箱に何度もクレーンで振り落とされる。し

ばらくすると、漁師は垂下連に残った牡蠣

を棒のようなもので箱に掻き落とす。かれ

はキャメラに向かって腕を払い、「飛びま

すよ」とぶっきらぼうに声をかける。

 

そうやって水揚げされた牡蠣は、その

後、陸の作業場へ運ばれる。作業場の内部

で、さきほどの漁師を含む男女が横一列に

座り、手にもったナイフを馴れた手つきで

動かして、黙々と牡蠣を剥いてゆく。周囲

には、複数のナイフと殻が立てる細かい音

だけが響いている。

 音楽もナレーションもいっさいない、こ

の冒頭の数分間だけで、観客は想田のキャ

メラが切り取る、濃密でふくよかな牡蠣工

場の時間にたちまちのうちに入りこんでゆ

く。『牡蠣工場』の二時間半は、まさにこ

のようなひとびとの生活が生みだす無数の

身振りと声、音だけでこのうえなくゆたか

に構成されている。

 ところで、以上の『牡蠣工場』の冒頭の

養殖牡蠣の水揚げや牡蠣剥きのシークエン

スは、監督の敬愛するドキュメンタリー映

画の世界的巨匠、フレデリック・ワイズ

マンの『メイン州ベルファスト』Belfast,

Maine

(九九年)冒頭のロブスター漁や、

作中の鰯の缶詰め工場のシークエンスをす

ぐに想起させる。やはりニューイングラン

ドの美しい港町を舞台にし、『牡蠣工場』

同様、町の高齢化や過疎化など同時代の社

会問題をも作中に織りこんだこのワイズマ

ンの代表作を想田が意識していたとしても、

別段不思議はないだろう。また、小さな港

町から同時代の普遍的な社会問題を照射す

るというモティーフでは、本作は土本典昭

の一連の「水俣シリーズ」(七一

〇四年)

にもつらなるといえる。

 もとより「ドキュメンタリー docum

entary

という用語を生んだジョン・グリアソンの

『流網船』Drifters

(二九年)から、近年のルー

シァン・キャステーヌ=

テイラー&ヴェ

レナ・パラヴェルの話題作『リヴァイアサ

ン』Leviathan

(一二年)にいたるまで、ドキュ

メンタリー映画は、つねに「港」を重要な

創造的拠点としてきた。その意味で、『牡

蠣工場』もまた、国内外のドキュメンタリー

映画史の重要な系譜の延長に位置づけられ

る作品であり、また今日におけるドキュメ

ンタリーの問題を考えるうえで示唆に富む。

「ポストシネマ」

=「ドキュメンタリーの時代」

「ポストシネマ」の時代とは、一面で「ド

キュメンタリー」の時代である。

 すでに『ハッピーアワー』を取りあげた

連載第一回でも記したように、今日の映像

メディア環境においては、わたしたちの日

常の巨細な断片を常時記録する「映像によ

るライフログ=ドキュメンタリー化」が

加速度的に進行しつつある。ツイッターと

スマートフォン片手に、ひとはだれでも

即席の「ドキュメンタリー作家」となれる

し、日常空間に張り巡らされたアーキテク

チャは、この世界そのものを一編のドキュ

メンタリー映画に仕立てあげるともいえる

(c) Laboratory X, Inc.

Page 5: ゲンロン3.5

017 016カオスラは瀬戸芸で鬼の夢を見たか 黒瀬陽平+東浩紀 ゲンロン3.5

カオスラは瀬戸芸で鬼の夢を見たか

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黒瀬陽平+東浩紀 Yo

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東浩紀から

2016/3/22 12:26

 

ツイッターで報告したとおり、瀬戸内

国際芸術祭(瀬戸芸)の初日に、カオス*

ラウンジの展示を見に行ってまいりました。

途中浅田彰さんにばったり会ったり、フェ

リー最終便に乗れず難民化したりといろい

ろハプニングもありましたが、それはとも

かくとして、カオスラの展示について、こ

のラウンジ限定で雑感を書き記します。こ

こには黒瀬さんもいますし、上級会員のみ

なさんのなかには、瀬戸芸に行く予定のあ

る方も多いと思いますので、なにかの参考

になればと思います。

(なお、これもまたツイッターで書いたことで

すが、瀬戸芸は交通の便に問題があります。そ

もそも離島に渡るフェリーがパンク状態だし、

島内も自転車は借りられないし、レンタカーは

ないし、バスも定員で乗れないことがしばしば

です。結果的に、やたらと時間と体力のロスが

多い。訪問予定のある方には入念な準備をお勧

めします│が、いくら準備してもレンタル自

転車の予約まではできないので、結局、家族を

連れて休日ゆったりと訪れるといったプランは

無理だと考えたほうがいいでしょう。そこは越

後妻有の「大地の芸術祭」とは大きくちがいま

す。すばらしい作品はたいてい恒久展示なので、

芸術祭の期間をあえて外して行ったほうがいい

かもしれません)

 さて、問題の展示ですが、ラウンジ限定

で感想を記していることから察せられると

おり、ぼくの感想はあまり肯定的なもので

はありませんでした。

 まず、率直な印象として、今回は準備不

足ではないかと思います。「怒りの日」で

は説得力をもっていた黒瀬さんのキュレー

ション=演出が、「鬼の家」では、さまざ

まな要素を詰め込みすぎて逆に崩壊してし

まっている。結果として、個々の作家はが

んばっているのだけど、全体として散漫な

印象しか与えない。会期はまだまだ長いの

で、これを読んだ黒瀬さんが│難しいだ

ろうけど│、少しでも展示を改良してく

れればと思います。

(ちなみに急いで付け加えると、同行した浅田

さんはけっこう褒めていたので、どこかで「鬼

の家」を肯定的に評価する可能性があります。

ただそれは、浅田さんが、そもそも黒瀬くんの

やりたいキュレーション=演出に価値を置いて

いないことが理由だと考えます。個々の作品で

輝くものはあった。それはそうです。けれど、

その輝きは今回、全体の展示のなかで位置が与

えられていない、個人プレーになっているとい

うのがぼくの考えです。浅田さんはそれでいい

という立場だけど、ぼくはちがっていて、それ

ではカオスラとしてわざわざ会場を三つも確保

し「鬼の家」と名付けて特設サイトまで作った

意味がないし、梅田さんなりパープルームなり

梅ラボなりが個人で参加すればそれでいいとい

うことになるんじゃないの、という意見です。

つまりは、浅田さんとぼくは、表面的には意見

が異なっているように見えても、じつは黒瀬さ

んのキュレーション=演出が弱い、機能してい

ないという点では評価は同じはずです)。

 ではどこが問題なのか。展示をいちいち

紹介していくと体力がなくなりそうなので、

概要はカオスラが解説している特設サイト

(編集部註

文末のリンク参照)で見ていただ

くとして、基本についてはみなさん知って

いる前提で書くとすると、まずは会場配置

に難ありでした。

 じつは今回の展示、全体の構成=物語が

「怒りの日」とそっくりです。山内祥太さ

んのビデオインスタレーションが全体の構

成=物語への導入になっていて、いろいろ

な会場を回ったあと、最後に梅田裕さんの

「庭」(今回は石棺ですが)でオチが付く。梅

田さんの「庭」において、身をかがめて暗

いところに入ると、そこが異界で、祠を覗

き込むと、象徴的なアイコンが見えるとい

う体験が用意されていることまで、完全に

同じ。

 けれども「怒りの日」と異なるのは、そ

の物語が、この「鬼の家」では会場配置と

大きな齟齬を起こしていることです。ぼく

の考えでは、そもそも第一会場(最初に観

客が訪れると想定されている会場)を山上の

洞窟にしたのがまちがっています。山内さ

んは映像のなかで、観客の代理として、言

わば「語り手」の役割を果たしています。

その彼が海難事故で鬼ヶ島に流れ着き、鬼

と接触するという映像が流れているのだか

ら、彼の展示は、海に面した場所(現在の

 

三年に一度の現代美術の祭典「瀬戸内国際芸術祭」が、この春より香川・岡山両県で開催されて

いる。東浩紀は、その芸術祭を開催初日の三月二〇日から二一日にかけて訪れ、カオス*ラウンジ

の同芸術祭初参加作品となる「鬼の家」を女木島会場で視察した。本原稿は、その作品の評価をめ

ぐり、ゲンロン友の会上級会員向けのフェイスブックコミュニティ「ゲンロンラウンジ」で東と黒

瀬陽平のあいだで交わされた応答を編集し、掲載するものである。各文章の投稿日時はオリジナル

のものだが、それぞれの応答には、この掲載にあたって各筆者により修正が加わっている。(編集部)

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Page 6: ゲンロン3.5

017 016フクシマ・ノート 二上英朗 ゲンロン3.5

フクシマ・ノート 第8回

浜通り開発の一世紀を追う│東北線と常磐線一〇〇年の軌跡

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─2

二上英朗 H

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 3・11の大津波で被災したJR常磐線の

相馬駅から浜吉田駅の区間を、二〇一六年

末までに再開通させる方針が正式に決定

し、一二月のダイヤ改正に合わせて運転が

再開される見通しとなった。この区間では

津波対策として新地・坂本・山下の三駅を

内陸に移し、相馬

浜吉田間の距離は、約

二二・六キロメートルから二三・二キロメー

トルに延びる。移設区間の約四割強は高架

式となる。

 これに先立ち、今春には原ノ町駅と小高

駅も再開する。現在、原発事故後に強制的

に退避命令が出された二〇キロメートル圏

内へ帰還希望者を戻す国策が、目に見えて

マスコミにあらわれ、これに付随する具体

的なトピックスが集中的に報道されている。

 こうした状況は、まさに一二〇年前に常

磐線が開通された明治の国家デザインの実

現期を追体験するものでもあり、東北建設

につくした先人の努力をしのぶ好機でも

ある。

 一国の近代化は、たいてい軽工業とエネ

ルギー産業が手をつなぐことから興る。日

本工業倶楽部会館の正面屋上には、小倉右

一郎作の鉱夫と織女の彫像が飾られている

が、これら一対の産業(石炭と紡績)こそ

が日本の近代化(工業化)をなぞる象徴な

のだ。

 すなわち石炭は近代化のエネルギーを提

供し、織布は軽工業がもたらす最初の国家

の富だからである。近代国家は、まさに鉱

夫と織女の肩に支えられて誕生する。産業

革命をなしとげた英国はじめ欧米諸国も、

インドなどのアジア諸国も、みな同じプロ

セスをたどって発展した。福島県の近代の

歩みもまた、織女と鉱夫によって支えられ

ていた。

 東北本線も常磐線も国の大動脈の鉄道は、

江戸から東京と名を変えた首都と、織女(養

蚕)・鉱夫(炭鉱)の働く地域、すなわち伊

達福島の絹布と常磐いわきの炭田を結ぶも

のとして出発している。

 NHKの朝の連続テレビ小説『あさが来

た』の主人公のモデルとなった人物は、広

岡浅子という日本初の女性起業家だが、朝

ドラで詳しく描かれたのは九州の炭鉱だ。

広岡浅子は石炭に目をつけた慧眼の女性と

してもてはやされている。安倍首相お気に

入りの籾井NHK会長の指揮下で、一億総

活躍社会が謳われ、女性が輝く時代が称揚

される。籾井会長の実家は籾井鉱業という

戦後の炭鉱業者であり、番組企画スタッフ

の深謀遠慮からのごますりだったとの説も

頷ける。

 そういえば低視聴率だった前年の大河ド

ラマ『花燃ゆ』では、安倍首相の選挙区で

ある山口県(旧長州藩)の思想家・吉田松

陰の妹が無理やりの主役だった。黒煙を吐

く蒸気機関で太平洋を渡ってきた西洋文明

への驚きが、日本の近代への覚醒を促した

というのが、司馬遼太郎信者の多い国会議

員の好みのテーマだ。

 だが、ちょっと待ってほしい。

 「白河以北一山百文」とさげすまれてき

たみちのく東北の片田舎、福島にも、黒船

カルチャーショックによって時代の変革に

目覚めた人材はいた。しかし、そうした人々

が確実に変革の歯車になったことは地元の

郷土史でも見逃されてきた。

 一人は伊達・信達地方の農民だった金原

田八郎。横浜沖の米艦隊の黒船を目撃、す

ぐに帰郷して農民を組織、一揆という形で

幕藩体制の理不尽な租税の苛斂誅求に対し

て生産者の当然の権利を訴えた。その結末、

八丈島に流刑になったものの、近代への目

覚めとしての鮮烈な精神的覚醒が、東北の

片田舎の青年にも生まれた時代だった。

 もう一人が常磐炭鉱の産みの親、白井遠

平という人物だ。この青年も品川沖の黒船

を実見してより、蒸気機関の燃料が石炭と

いう黒い石であると聞き、郷里の夏井川の

河原の黒い石を想起した。もしやと調べ

た結果、案の定、それまで打ち捨てられて

いたのが「石炭」という宝の山であること

を知り、採掘事業に取り掛かる。こうして、

九州の炭鉱に匹敵する東北有数の常磐炭鉱

の開発がスタートしたのである(大ヒット

した映画『フラガール』は、その常磐炭鉱廃業

後の常磐興産が、ビジネスのソフトランディン

グに成功したサクセス・ストーリーでもある)。

 明治も維新も、薩摩長州土佐肥前の西軍

系の論功行賞だけで論じるべき話ではない。

幕末から明治にかけては日本全体が目覚め

たのだ。

 ペリー提督が将軍に献上した三三の贈物

の中のひとつに、四分の一模型の蒸気機関

車があった。日本人が黒船も蒸気機関車模

型も石炭という黒い石を燃やして動くとい

う新しい原理に出会った最初である。まさ

に「あさが来た」時代だった。

東北鉄道開発時代を旅した幸田露伴

 明治二〇年に東北本線が塩竈まで開通し

た時も、一〇年後の明治三〇年に常磐線(当

時の磐城線)が福島県にやって来た時にも、

その活気ある時代の空気を活字で伝えたの

は幸田露伴という若き文士であった。

 露伴の名を聞くと、人はあの長いアゴヒ

ゲの老人の写真を想い出し、書斎の奥の文

豪像を連想するであろうが、彼の真骨頂は

そんなイメージとは無縁のところにある。

明治という年号に古臭いイメージを感ず

Page 7: ゲンロン3.5

017 016一〇〇〇年後の人類への物語 吉上亮 ゲンロン3.5

 

我々は時間の経過とともに、目にした

もの、触れたものを忘却していく。たとえ、

どれほど悲愴な記憶であったとしても。

 それは再び日常を取り戻すための防衛策

のようなものだ。人間は、生きていくうえ

で必要な多くのものを得るために、手放す

べき記憶│過去を意識的・無意識的に選

択することを繰り返していく。私たちも、

そこから逃れることはできない。

否応なく、忘れていく。捨てていく。遠ざ

かっていく。

 しかし、そこで「物語」はひとつの役割

を果たす。こうして刻一刻と過去に追いや

られ、忘却に沈んでいく誰かの記憶│「個

別の経験」を「普遍的な経験」というか

たちに置き換え、書き記し、保存すること。

つまり、後世に語り継ぐ記メ

憶媒体となるこ

とによって。

 私は作家業を生業としている。

 主な活動分野がSFであるので、取り組

むべき主題は必然、その想像力によって未

来を描くことになる。現在の人々が構成す

る社会、文化的な営み、発展を続ける技

術│その行き先がどうなるのかを想像し、

物語という形態で出力する。それは別の言

い方をすれば、未来という鏡に現在をかた

ちづくっている骨格、その仕組みを映し出

すようなものだ。

 ある意味で、SF的想像力で未来を描く

ことは、現在の世界を分析対象とし、どれ

ほどの時間経過を経ても変わらずそこに残

るであろう不変的な枠組みを見つけ出すこ

とだとも言える。いわば、現在の記憶を普

遍的な記憶=物語として記述し、未来へ語

り継ごうとする試みに他ならない。

なぜ、

チェルノブイリ原発を巡る旅についての文

章でこのようなことを書くのか。

予め結論を述べてしまうと、チェルノブイ

リ原発こそが、そこに携わった者すべてが、

一〇〇年後、一〇〇〇年後の未来を想像し、

そこに向けて、過去と過去になっていく現

在の記憶を保存することへの思考、その想

像力の行使を否応なく求められる場所で

あったからだ。

一〇〇〇年後の人類への物語│SF作家のチェルノブイリ巡礼

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

吉上亮 R

yo Yo

shig

am

i

 チェルノブイリ原子力発電所への訪問は、

七日間の旅行日程の四日目のことだった。

 本ツアーは、今から二九年前の一九八六

年四月二六日に発生したチェルノブイリ原

子力発電所事故について、実際に事故が起

きた現場をはじめ、これに連なる悲劇の地

を巡り、その記憶に触れていく旅である。

 

前日は、ウクライナの首都キエフ市を

早朝に出発し、チェルノブイリ原発の周囲

三〇キロメートルに設定された立ち入り禁

止区域│いわゆるゾーンの中に入った。

 

そこで事故直後に放棄された都市プリ

ピャチを訪れた。三〇年の時を経て廃墟と

化した旧ソ連時代の遺構を覆い尽くすよ

うに繁茂する高い背の樹木の群れ、夥しい

数の草花が印象的だった。ここだけでなく、

一般人の立ち入りは原則として禁じられて

いるゾーン内では自然が旺盛な繁殖を見せ

ており、放棄された廃屋を呑み込んでいる

光景を何度も目撃した。人の作り出した建

造物たちが、自然の手に委ねられ、朽ちて

いく。

 

しかし、そこに土壌を汚染した放射性

物質は極めて長い期間を経てもなお残り

続ける。プリピャチは原発から、三〇年前

の事故において多くの放射性物質が降り注

ぎ、草木がいっぺんに変色した「赤い森」と

呼ばれる森林地帯を挟んで北西の位置にあ

る。同市が放棄されたのも、こうした深刻

な汚染によるものだった。同じように放棄

された遺構として、原発訪問直前に見学し

た旧ソ連時代の秘密軍事施設、チェルノブ

イリ2﹇図1﹈がある。この真っ白な巨大な

柵ともいうべき一種、異様な外見の建造物

は、針葉樹に囲まれた森のなかに聳え立っ

ている。

 冷戦時代に建造された全高五〇メートル

を超す巨大なOTHレーダーを足許から見

上げると、何重にも積み上げられた鉄骨の

組み合わせが幾何学模様を描き、青い空を

一面に埋め尽くす光景に視界を奪われる。

 このチェルノブイリ2が他の秘密軍事都

市のレーダー施設と違って解体されないの

は、放射能汚染もあるが、その大きさゆえ

に解体しようとすれば大きな危険を伴うた

めだった。かといって爆破解体すれば大質

量ゆえに地震が発生し、チェルノブイリ原

発に二次被害を与えかねない。結局、自然

に朽ちていくままに任せるしかない。

ある意味、このチェルノブイリ2は明らか

に無理をして作られていた。

 地球の反対側にある仮想敵国たる米国か図 1 チェルノブイリ2

Page 8: ゲンロン3.5

017 016浜通り通信  小松理虔 ゲンロン3.5

 先日、二〇一五年一〇月一日、東京電力

福島第一原子力発電所の視察に参加してき

た。原発事故からもう四年半以上経過した

今、ようやく、といったところだろうか。

実はこれまで何度か取材や視察の誘いは

あったのだけれど、都合が悪く機会に恵ま

れなかった。今回は、元東電社員で、原発

構内の視察コーディネートなど、さまざま

な活動を行っている一般社団法人アプリシ

エイトフクシマワーカーズ﹇★1﹈を主宰す

る吉川彰浩さんに声をかけて頂いた。

 

わたしは、福島第一原発沖の海洋調査

を行う「うみラボ」というプロジェクトを

主催していて、これまで十数回ほど、原

発沖一・五キロメートルまで近づいている

﹇★2﹈。しかし、やはり一・五キロの壁は厚

い。遠目に原発を眺めることはできても、

それは旅行で訪れた土地の丘の上のお城の

天守閣からその町を見下ろすような、どこ

かのんびりとした、物見遊山的な感覚が

あった。もう十数回も行っているから慣れ

てしまったということもあるのだろう。一

方、吉川さんの視察では、バスに乗って原

子炉建屋の目の前まで近づくという。それ

で、とても興味が湧いたのだった。

 意外に聞こえるかもしれないが、東京電

力はこれまで国内外の一万六〇〇〇人以上

の視察を受け入れてきたという。東京電力

福島復興本社の中には「視察センター」と

いう部署があり、そこが受け入れ元になっ

て、国内外のさまざまな人たちを受け入

れている。おそらく東浩紀さんたちがイ

チエフを視察したときも、この視察セン

ターの方々が対応したはずだ。そしてこの

一万六〇〇〇人という数字、わたしには

意外にも多く思われる。もっと閉鎖的だと

思っていたのだ。事故当時のあの悲惨な状

況を考えると、一万六〇〇〇人という数字

はこの一、二年で劇的に増加しているに違

いない。それだけ現場の大混乱がおさまり、

除染によって線量が下がってきた、という

ことだ。

 午後一時。広野町のJヴィレッジに到着。

わたしの住んでいる小名浜から一時間ほ

ど、国道六号線をひた走るだけである。J

浜通り通信 第31回 

福島第一原発視察記

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

小松理虔 R

iken

Ko

ma

tsu

ヴィレッジ。そこがかつて日本サッカー協

会のナショナルトレーニングセンターだっ

たことをわかりやすく示すものは、国道

六号線沿いのゲートに置かれた二つのサッ

カーボールと、本館入り口のドアにプリン

トされたサッカー日本代表の選手の写真く

らいになってしまった。今は原発廃炉のた

めの最前線基地である。廃炉作業に携わ

る七〇〇〇人の作業員が毎日ここに集合し、

それぞれの「戦場」へ向かうバスのターミ

ナルになっている。

 わたしはまず、Jヴィレッジの中庭にあ

るテント式の事務所に通され、二〇名ほど

の視察団全員で、東電社員から視察につい

ての簡単なレクチャーを受けた。東電が、

廃炉に向けてどのような取り組みをしてい

るのか、汚染水対策はどのように施されて

いるのか。そのような説明である。説明の

理解を手助けしてくれる手元の資料は実に

詳細である。一〜四号機の現状と課題。廃

炉に向けたロードマップ。汚染水対策。作

業員確保と労働環境についてなどなど。こ

れでも前に比べればわかりやすくなったと

いうことだが、この説明の多さに原発廃炉

の難しさが伺い知れる。もちろん、広報体

制がまだまだ充実していないのかもしれな

いが。

 しかし一方で、東電復興本社が地元福島

で展開してきたCSRの実績を記した「福

島復興への責任を果たすために」という資

料のほうが、その廃炉関連資料よりも分厚

く、そしてわかりやすいのだった。事務

所を見渡すと、ポスターが貼ってある。大

きく「福島復興への責任」と書かれていて、

東電の制服を着た人たちが雪かきをしてい

る写真が何枚も使われていた。「福島のた

めにこんなこともしているんだ」というP

Rのために。

 復興本社の石崎芳行代表もあいさつをし

た。「浜通りの復興のために、必ず廃炉を

成し遂げる。時間はかかるが、わたしたち

東京電力も福島復興の仲間に入れて頂きた

い」。そんな中身だった。それは偽らざる

本音だろうし、いつまでも頭を下げろと言

うつもりはわたしにはない。それをわかっ

ていても、白けてしまう気持ちもある。そ

う簡単に「はいそうですか、一緒に手を取

り合って頑張りましょう!」とはいかない

ものである。

 一連の説明が終わると、ケータイなどの

荷物をそのテント小屋に置き、いよいよ福Jヴィレッジでの事前講習。復興本社の石崎代表がスピーチ。

Page 9: ゲンロン3.5

017 016浜通り通信  小松理虔 ゲンロン3.5

 先日、二〇一五年一〇月一日、東京電力

福島第一原子力発電所の視察に参加してき

た。原発事故からもう四年半以上経過した

今、ようやく、といったところだろうか。

実はこれまで何度か取材や視察の誘いは

あったのだけれど、都合が悪く機会に恵ま

れなかった。今回は、元東電社員で、原発

構内の視察コーディネートなど、さまざま

な活動を行っている一般社団法人アプリシ

エイトフクシマワーカーズ﹇★1﹈を主宰す

る吉川彰浩さんに声をかけて頂いた。

 

わたしは、福島第一原発沖の海洋調査

を行う「うみラボ」というプロジェクトを

主催していて、これまで十数回ほど、原

発沖一・五キロメートルまで近づいている

﹇★2﹈。しかし、やはり一・五キロの壁は厚

い。遠目に原発を眺めることはできても、

それは旅行で訪れた土地の丘の上のお城の

天守閣からその町を見下ろすような、どこ

かのんびりとした、物見遊山的な感覚が

あった。もう十数回も行っているから慣れ

てしまったということもあるのだろう。一

方、吉川さんの視察では、バスに乗って原

子炉建屋の目の前まで近づくという。それ

で、とても興味が湧いたのだった。

 意外に聞こえるかもしれないが、東京電

力はこれまで国内外の一万六〇〇〇人以上

の視察を受け入れてきたという。東京電力

福島復興本社の中には「視察センター」と

いう部署があり、そこが受け入れ元になっ

て、国内外のさまざまな人たちを受け入

れている。おそらく東浩紀さんたちがイ

チエフを視察したときも、この視察セン

ターの方々が対応したはずだ。そしてこの

一万六〇〇〇人という数字、わたしには

意外にも多く思われる。もっと閉鎖的だと

思っていたのだ。事故当時のあの悲惨な状

況を考えると、一万六〇〇〇人という数字

はこの一、二年で劇的に増加しているに違

いない。それだけ現場の大混乱がおさまり、

除染によって線量が下がってきた、という

ことだ。

 午後一時。広野町のJヴィレッジに到着。

わたしの住んでいる小名浜から一時間ほ

ど、国道六号線をひた走るだけである。J

浜通り通信 第31回 

福島第一原発視察記

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

小松理虔 R

iken

Ko

ma

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ヴィレッジ。そこがかつて日本サッカー協

会のナショナルトレーニングセンターだっ

たことをわかりやすく示すものは、国道

六号線沿いのゲートに置かれた二つのサッ

カーボールと、本館入り口のドアにプリン

トされたサッカー日本代表の選手の写真く

らいになってしまった。今は原発廃炉のた

めの最前線基地である。廃炉作業に携わ

る七〇〇〇人の作業員が毎日ここに集合し、

それぞれの「戦場」へ向かうバスのターミ

ナルになっている。

 わたしはまず、Jヴィレッジの中庭にあ

るテント式の事務所に通され、二〇名ほど

の視察団全員で、東電社員から視察につい

ての簡単なレクチャーを受けた。東電が、

廃炉に向けてどのような取り組みをしてい

るのか、汚染水対策はどのように施されて

いるのか。そのような説明である。説明の

理解を手助けしてくれる手元の資料は実に

詳細である。一〜四号機の現状と課題。廃

炉に向けたロードマップ。汚染水対策。作

業員確保と労働環境についてなどなど。こ

れでも前に比べればわかりやすくなったと

いうことだが、この説明の多さに原発廃炉

の難しさが伺い知れる。もちろん、広報体

制がまだまだ充実していないのかもしれな

いが。

 しかし一方で、東電復興本社が地元福島

で展開してきたCSRの実績を記した「福

島復興への責任を果たすために」という資

料のほうが、その廃炉関連資料よりも分厚

く、そしてわかりやすいのだった。事務

所を見渡すと、ポスターが貼ってある。大

きく「福島復興への責任」と書かれていて、

東電の制服を着た人たちが雪かきをしてい

る写真が何枚も使われていた。「福島のた

めにこんなこともしているんだ」というP

Rのために。

 復興本社の石崎芳行代表もあいさつをし

た。「浜通りの復興のために、必ず廃炉を

成し遂げる。時間はかかるが、わたしたち

東京電力も福島復興の仲間に入れて頂きた

い」。そんな中身だった。それは偽らざる

本音だろうし、いつまでも頭を下げろと言

うつもりはわたしにはない。それをわかっ

ていても、白けてしまう気持ちもある。そ

う簡単に「はいそうですか、一緒に手を取

り合って頑張りましょう!」とはいかない

ものである。

 一連の説明が終わると、ケータイなどの

荷物をそのテント小屋に置き、いよいよ福Jヴィレッジでの事前講習。復興本社の石崎代表がスピーチ。

Page 10: ゲンロン3.5

017 016英雄たちの戦歴と雑兵の夢 木ノ下裕一 ゲンロン3.5

 先月、八月一四日に、ゲンロンカフェに

てトークイベントをさせていただいた。三

時間にも及ぶ長丁場であり、私にとっては

大変有意義な時間であったが、お聞きにな

られたお客様はさぞクタクタになられたこ

とと思う。しかしながら、ともすれば、若

手演劇人の勝手気ままなおしゃべり、いわ

ゆる独りよがりな「寝床」になりかねない

この会が、終始、集中力の途絶えること

なく、その熱を持続させることができたの

は、ひとえにスピーカーとして児玉竜一先

生(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長)

が同席してくださっていたからだろう。あ

る時は聞き手に徹してくださり、ある時は

私のとりとめのない発言をまとめてくださ

り、またある時は補足してくださる……古

典芸能研究の第一人者であり、批評界を牽

引されている児玉先生にお付き合いいただ

くなど畏れ多い話だが、この分不相応な〈相

三味線〉あってこそ、私の下手な語りでも

なんとか持ち堪えたものと、今更ながら感

謝に堪えない。

 トークの前半は、まず私が、挨拶がわり

に「木ノ下歌舞伎とは何か?」というテー

マで簡単な団体説明と活動紹介をさせてい

ただいたあと、木ノ下と古典芸能との出逢

い、その馴れ初めについての話題が主で

あった。上方落語に血道をあげ、サンタク

ロースに『米朝落語全集』をねだった小学

校低学年時代、大阪の上方演芸資料館(ワッ

ハ上方)に入り浸り警察官に補導された小

学校高学年時代、夜行バスを駆使して和歌

東京間を往復しながら歌舞伎座の幕見

席に通った中学時代、受験勉強そっちのけ

で文楽にうつつをぬかしていた高校時代

……などなど、けっして人に誇れない武勇

伝(?)の数々を、嬉々として語ったわけ

だが、今考えると我ながら「いい気なもの

だ……」とあきれ返るしかない。

 休憩を挟んだ後半では、木ノ下歌舞伎の

近作を例に取りつつ、〈伝統〉と〈現代〉

の接続の仕方について、また、現代の歌舞

伎界への提言や、古典の現代性とは何か?

といった禅問答のような〈大きな問い〉に

英雄たちの戦歴と雑兵の夢

「新しい伝統をつくる

│木ノ下歌舞伎の演劇と革新」を終えて

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

木ノ下歌舞伎主宰

木ノ下裕一 Y

uic

hi K

ino

shita

まで話が及んだ。といっても、私も児玉先

生も関西人であるからして、隙あらば〈笑

い〉を差し込みたくなる……ゆえに、内容

の〈堅さ〉に反比例するように、その語り

口はいよいよ演芸色を強め、くしくも児玉

先生の予言通り「〈裕一・竜一〉の即興漫

才」の様を呈した。実に楽しい時間であっ

た。と同時に、要所要所で、笑いに紛れ込

ませながら、自分なりに「申しおくべきこ

と」ははっきり発言したつもりで、少なか

らず刺激的な内容になったのではないかと

自負している。最後に質疑応答があってめ

でたく打ち出し(多数の興味深い質問を投げ

かけてくださったお客様に感謝)。この会の様

子は、ゲンロンカフェの動画アーカイブと

して、また視聴していただける機会もある

やもしれず、もしご興味ありましたら、ぜ

ひ覘いていただきたい﹇★1﹈。

 さて、この会が終わって一ヶ月近く経と

うとしているが、あの日のゲンロンカフェ

での三時間は、自分にとって、得難い体験

であったと改めて思うようになっている。

例えるならば、度の合った眼鏡を与えられ

たように、ところどころぼやけていた周り

の景色の、物の輪郭がはっきりと見えるよ

うになり、今、自分が〈何処に居る〉のか

がおぼろげに把握できたような、そんな心

地がしている。それは、木ノ下歌舞伎とい

う団体が、また木ノ下裕一が何をしようと

しているのかを、児玉先生が批評的に隈

どってくださったからに他ならない。

 

以前、木ノ下歌舞伎の近作『三人吉三』

の批評を児玉先生が書いてくださったこと

があったが、その中に「現代演劇が歌舞伎

と刺し違えてきた、数々の戦歴」という言

葉が出てくる﹇★2﹈。私はこの言葉が非常

に好きだ。当然のことながら、木ノ下歌舞

伎以前にも、「歌舞伎と現代演劇の接合」

を考え、古典というものが有している〈現

代性〉を取り出そうとした演劇人や演劇運

動は数多あった。規模の大小、観客動員数、

そして社会への波及力は違えど、伝統を如

何に現代演劇の血肉としていくかという命

題が共通している以上、それらの〈戦歴〉

と、木ノ下歌舞伎の活動とを、一度、比較し、

繋げて考えてみる必要がある。いや、そう

しないことには、本当のことはわからない

と言っていいのかもしれない。

 例えば、鬼才・武智鉄二の、伝統と現代

との無謀な橋渡しを試みた演出活動。観世

三兄弟(寿夫・榮夫・静夫)らが中心となっ

て伝統の前衛性を見出そうとした冥の会。

戦後の新劇が行った歌舞伎戯曲の上演。演イベント中の様子。筆者(左)と児玉竜一教授(右) 撮影=編集部

Page 11: ゲンロン3.5

017 016英雄たちの戦歴と雑兵の夢 木ノ下裕一 ゲンロン3.5

 先月、八月一四日に、ゲンロンカフェに

てトークイベントをさせていただいた。三

時間にも及ぶ長丁場であり、私にとっては

大変有意義な時間であったが、お聞きにな

られたお客様はさぞクタクタになられたこ

とと思う。しかしながら、ともすれば、若

手演劇人の勝手気ままなおしゃべり、いわ

ゆる独りよがりな「寝床」になりかねない

この会が、終始、集中力の途絶えること

なく、その熱を持続させることができたの

は、ひとえにスピーカーとして児玉竜一先

生(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長)

が同席してくださっていたからだろう。あ

る時は聞き手に徹してくださり、ある時は

私のとりとめのない発言をまとめてくださ

り、またある時は補足してくださる……古

典芸能研究の第一人者であり、批評界を牽

引されている児玉先生にお付き合いいただ

くなど畏れ多い話だが、この分不相応な〈相

三味線〉あってこそ、私の下手な語りでも

なんとか持ち堪えたものと、今更ながら感

謝に堪えない。

 トークの前半は、まず私が、挨拶がわり

に「木ノ下歌舞伎とは何か?」というテー

マで簡単な団体説明と活動紹介をさせてい

ただいたあと、木ノ下と古典芸能との出逢

い、その馴れ初めについての話題が主で

あった。上方落語に血道をあげ、サンタク

ロースに『米朝落語全集』をねだった小学

校低学年時代、大阪の上方演芸資料館(ワッ

ハ上方)に入り浸り警察官に補導された小

学校高学年時代、夜行バスを駆使して和歌

東京間を往復しながら歌舞伎座の幕見

席に通った中学時代、受験勉強そっちのけ

で文楽にうつつをぬかしていた高校時代

……などなど、けっして人に誇れない武勇

伝(?)の数々を、嬉々として語ったわけ

だが、今考えると我ながら「いい気なもの

だ……」とあきれ返るしかない。

 休憩を挟んだ後半では、木ノ下歌舞伎の

近作を例に取りつつ、〈伝統〉と〈現代〉

の接続の仕方について、また、現代の歌舞

伎界への提言や、古典の現代性とは何か?

といった禅問答のような〈大きな問い〉に

英雄たちの戦歴と雑兵の夢

「新しい伝統をつくる

│木ノ下歌舞伎の演劇と革新」を終えて

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一 Y

uic

hi K

ino

shita

まで話が及んだ。といっても、私も児玉先

生も関西人であるからして、隙あらば〈笑

い〉を差し込みたくなる……ゆえに、内容

の〈堅さ〉に反比例するように、その語り

口はいよいよ演芸色を強め、くしくも児玉

先生の予言通り「〈裕一・竜一〉の即興漫

才」の様を呈した。実に楽しい時間であっ

た。と同時に、要所要所で、笑いに紛れ込

ませながら、自分なりに「申しおくべきこ

と」ははっきり発言したつもりで、少なか

らず刺激的な内容になったのではないかと

自負している。最後に質疑応答があってめ

でたく打ち出し(多数の興味深い質問を投げ

かけてくださったお客様に感謝)。この会の様

子は、ゲンロンカフェの動画アーカイブと

して、また視聴していただける機会もある

やもしれず、もしご興味ありましたら、ぜ

ひ覘いていただきたい﹇★1﹈。

 さて、この会が終わって一ヶ月近く経と

うとしているが、あの日のゲンロンカフェ

での三時間は、自分にとって、得難い体験

であったと改めて思うようになっている。

例えるならば、度の合った眼鏡を与えられ

たように、ところどころぼやけていた周り

の景色の、物の輪郭がはっきりと見えるよ

うになり、今、自分が〈何処に居る〉のか

がおぼろげに把握できたような、そんな心

地がしている。それは、木ノ下歌舞伎とい

う団体が、また木ノ下裕一が何をしようと

しているのかを、児玉先生が批評的に隈

どってくださったからに他ならない。

 

以前、木ノ下歌舞伎の近作『三人吉三』

の批評を児玉先生が書いてくださったこと

があったが、その中に「現代演劇が歌舞伎

と刺し違えてきた、数々の戦歴」という言

葉が出てくる﹇★2﹈。私はこの言葉が非常

に好きだ。当然のことながら、木ノ下歌舞

伎以前にも、「歌舞伎と現代演劇の接合」

を考え、古典というものが有している〈現

代性〉を取り出そうとした演劇人や演劇運

動は数多あった。規模の大小、観客動員数、

そして社会への波及力は違えど、伝統を如

何に現代演劇の血肉としていくかという命

題が共通している以上、それらの〈戦歴〉

と、木ノ下歌舞伎の活動とを、一度、比較し、

繋げて考えてみる必要がある。いや、そう

しないことには、本当のことはわからない

と言っていいのかもしれない。

 例えば、鬼才・武智鉄二の、伝統と現代

との無謀な橋渡しを試みた演出活動。観世

三兄弟(寿夫・榮夫・静夫)らが中心となっ

て伝統の前衛性を見出そうとした冥の会。

戦後の新劇が行った歌舞伎戯曲の上演。演イベント中の様子。筆者(左)と児玉竜一教授(右) 撮影=編集部

Page 12: ゲンロン3.5

017 016革命の後で、どのように他人と語らうべきか さやわか ゲンロン3.5

 去る二〇一五年六月一九日、五反田ゲン

ロンカフェにてトークイベント「オタク批

判はヘイトなのか

│艦これ、サブカル、

カウンター」﹇★1﹈が催された。登壇者は

フリー編集者で社会運動家の野間易通氏、

東浩紀氏、そして筆者の三人である。

 本稿はそのイベントの内容をまとめつつ、

筆者自身が他の登壇者に覚えた違和感を述

べよという依頼に応じたものである。たし

かに違和感はあった。それについては後述

しよう。

 このイベントの前段としては次のような

経緯があった。まず野間氏は以前から、い

わゆる「オタク」についてネット上で「キ

モオタ文化は全否定します」など、歯に衣

着せぬ物言いでの批判を繰り返していた。

そしてその中で、太平洋戦争の軍艦などが

少女の姿となって戦う人気のブラウザゲー

ム『艦隊これくしょん

艦これ│

』につい

ても「最強に気持ち悪い」と書いて、同作

のファンなどから大いに批判されたことが

あった。二〇一四年四月のことである。

 また筆者は二〇一五年の四月四日、朝日

新聞の「耕論」欄に掲載された「私たちは、

右傾化していますか?」という記事でイン

タビューを受け、そこで「『艦これ』は右

傾化だと言うのは簡単ですが、それはネト

ウヨがすぐ「売国」とレッテルを貼るのと

同じ。問題はレッテル貼りが事なかれ主義

を招いていることです」などと話した。要

するに『艦これ』がオタク文化の右傾化の

あらわれだとは言いがたいとしたのだ。野

間氏はこれにもツイッター上で筆者に向け

て「朝日記事内のさやわかさんのコメント、

ごい﹇原文ママ﹈糞論評だと思います。ノン・

イデオロギー

vs.

イデオロギーという、も

う使えない古臭いサブカル的二分法から脱

する努力をすべし。メタ視点で語っている

つもりなのにベタにすぎないというアレ」

と批判した﹇★2﹈。

 

かくしてこのイベントは、『艦これ』に

ついて評価を異にする野間氏と筆者が、直

接に対話する機会となったわけだ。しかも、

やはり野間氏がその姿勢を批判し続けてい

革命の後で、どのように他人と語らうべきか

「オタク批判はヘイトなのか

│艦これ、サブカル、カウンター」イベント後記

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

さやわか S

aya

wa

ka

るニコニコ動画の運営会社・ドワンゴ会長

の川上量生氏も飛び入りで登壇し、議論は

深夜まで、大いに白熱した。

 

さらに登壇者の発言がツイッターのま

とめサービスTogetter

でまとめられると、

同サービスのアクセスランキング一位だか

異例のアクセス数だかにもなるほどだった

らしい。まとめ自体の投稿数よりはるかに

大量のコメントが付けられて、これも大い

に盛り上がっていたようだ﹇★3﹈。

 

ただそのTogetter

を筆者が見た限りで

は、イベント当日の野間氏の発言内容につ

いての、浅はかであるとか、思慮が足りな

いとか、罵倒や揶揄に近い形の評価が多

かったように思われる。

 

野間氏の発言内容とは何か。まず彼

はトークイベントの冒頭で、「サブカル

チャー」と「サブカル」、さらには「オタク」

と「キモオタ」という分類に基づいて独自

にカルチャーを弁別し、それぞれ前者は評

価に値するが後者は唾棄すべきものである

という持論を展開してみせた。ひとつ例を

挙げてみると〝ボーカロイド〞は「オタク」

であり〝初音ミク〞は「キモオタ」である

とか、そういう具合で、図表の中央に一本

の線を引きながら文化を二分するようなも

のだった。

 

ただそれらの区別の分かれ目は、結局

のところあくまで野間氏の感覚によるもの

だったと言っていいだろう。たとえば野間

氏は、たとえジャズのように賞賛すべき「サ

ブカルチャー」に触れている者でも、『艦

これ』をプレイしている時点で否定される

べき「キモオタ」なのだと語った。また『艦

これ』についても同様に、プレイしたこと

はなく、公式ホームページのトップページ

を見た上での判断だと言う。

 こうした評価の曖昧さもあって、東氏と

筆者は何がその区別の根拠となっているか

(上) ネット上での応酬から、ついに壇上での直接討論へ。左から順に東浩紀氏、野間易通氏、筆者。

(下) 「サブカルチャー」と「サブカル」の境界について自らの見解を話す野間易通氏

Page 13: ゲンロン3.5

017 016紹介すること、感染すること 仲山ひふみ ゲンロン3.5

0─イントロダクション

 他のあらゆる文化的領域と同様に、哲学

にも「最新流行(La D

ernière Mode

)」(ステ

ファヌ・マラルメ)がある。それ自体は空

虚であったとしても、過去のモードとの差

異化によって意味を獲得する、そういう思

考のスタイルがあり得るし、実際あった。

二〇世紀に限ってみても、大きく分けて現

象学、構造主義、ポスト構造主義(ポスト

モダン思想)の三つのモードが出現してき

ており、またそれらは先行者の主張や世界

観を否定することによって自らの立場を築

き上げてきたという点で共通している。現

象学は一九世紀的な講壇哲学の末裔である

新カント学派の認識論的な諸前提を括弧に

入れる、ある種の切断の意識と共に開始さ

れた。構造主義は現象学の流れを汲んだ実

存主義に対して、主体の超越性を認めない

言語学や人類学の側からの知的な挑戦とし

て現れ、一躍脚光を浴びた。ポスト構造主

義(ポストモダン思想)は構造主義を含む近

代の思考における同一性の優位に対して、

ひたすら差異の概念を突きつけることで、

その影響を文化一般の領域に広く及ぼすこ

とになった。

 だいぶ粗っぽいが、このように整理して

みることで、最近の哲学の歴史に対するひ

とつの見通しが立てられるようになる。「哲

学は差異によって進む、なるほど。ではポ

スト構造主義の次にくるものがあるとすれ

ば、それは言うなれば、差異それ自体に対

する差異を宣告するようなものとなるので

はないか……」しかしこうした発想自体は

明らかに、そこにおいて否定されるはずの

直近のモード、すなわちポスト構造主義の

思想家たち(ジャック・デリダ、ジル・ドゥルー

ズ、ミシェル・フーコーなど)からの影響を

いまだ大きく引きずっている。トマス・クー

ンが科学史について述べたように、以前の

モデルにおける予想から逸脱する、説明で

きない結果が数多く現れてこない限り、理

論のパラダイム・シフトは自然には開始さ

れない。哲学における「次にくるもの」は、

紹介すること、感染すること│思弁的実在論について

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

仲山ひふみ H

ifum

i Na

kaya

ma

したがってまず第一に、ポスト構造主義

以降アカデミックな人文知全体に広まった、

差異による意味の(もしくは現前の、存在の、

歴史の……)生産というおなじみの図式に

ショックを与え、懐疑を引き起こさせるも

のでなければならない。なおかつ、それは

第二により古いモードへの単なる回バックラッシュ

帰で

はないことを示すような、各種の指標│

その中には九〇年代以降のグローバリズム

や情報化の急激な進展によって著しい変化

を被った私たちの生の様式そのものに対す

る指標もまた含まれているはずだ│を備

えていなければならない。ポスト構造主義

以後の哲学における「最新流行」の条件は、

大雑把に以上の二点にまとめられるだろう。

 

ところで、思弁的実在論(Speculative

Realism

、以下SR)は、まさにそのような

条件を満たすものとして現れた。つまりそ

れは、ゼロ年代後半の英語圏の(というこ

とはグローバルな)大陸哲学研究の現場に

│もちろん英語圏の主流はあくまで分析

哲学なのであり、その意味ではマイナーな、

ほとんどサブカルチャー的と言っていい現

場に│まぎれもない「最新流行」として

突如現れた、いくつかの言説の集合体、そ

のどよめき、蠢きに与えられたひとつの歴

史的固有名だったのである……。

1─全体的状況

 話を急ぎすぎているかもしれない。基本

的な情報から押さえていこう。

 

二〇〇七年、「思弁的実在論」と題さ

れたシンポジウムが、イギリスのロンド

ン大学ゴールドスミス・カレッジで開催

された。登壇者はカンタン・メイヤスー

(Quentin M

eillassoux

)、グレアム・ハーマ

ン(G

raham Harman

)、レイ・ブラシエ(Ray

Brassier

)、イアン・ハミルトン・グラント(Iain

Hamilton G

rant

)の四人、そこに司会者の

アルベルト・トスカーノ(Alberto Toscano

が加わった。主催は哲学系学術出版社アー

バノミック(U

rbanomic

)、シンポジウムの

記録は同社が発行し、登壇者ブラシエとロ

ビン・マッカイ(Robin M

ackay

)が共同編

集を務める雑誌『コラプス(Collapse

)』の

同年秋に刊行された第三号に収録された。

一般には│ウィキペディアにもそう書か

れているという意味で│このシンポジウ

ムがSRという運動の直接の「起源」とみ

なされている。ただし、同シンポジウムの

直前に発行された『コラプス』第二号では

既に「思弁的実在論」の特集が組まれて

おり、二〇〇六年初頭に仏語で出版された

メイヤスーの『有限性の後で(英題

:After

Finitude

)』についての英訳者ブラシエによ

る解説論文や、ハーマンの論文「代替因果

について」、さらにメイヤスーの「潜勢力

と潜在性」の英訳(後二者は既に邦訳済み)

などが掲載されていることからもわかる通

り、この「事変」が以前から(少なくともアー

バノミック側で)準備されたものだったら

しいということは、かなりの確度で言える

│同誌の第一号には人間原理(anthropic

principle

)についての研究で高名な哲学者

ニック・ボストロム(N

ick Bostrom

)への

インタビューが含まれており、また第二号

のダークマターの研究を行う宇宙物理学者

ロベルト・トロッタ(Roberto Torotta

)へ

Page 14: ゲンロン3.5

017 016 観(光)客公共論 東浩紀 ゲンロン3.5

観(光)客公共論 第2回

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

xxxxx xxxxxx xxxx xxxx

─2

東浩紀 H

iroki A

zum

a

 このところ「慰霊」という言葉について

考えている。去る六月二三日は沖縄県が定

める慰霊の日だった。八月六日になれば広

島では慰霊式が執り行われる。日本にはあ

ちこちに慰霊碑が建ち、あちこちで慰霊祭

が開催されている。慰霊という言葉は、ぼ

くたちの日常にすっかり溶け込んでいる。

 けれども、この言葉の歴史は意外と浅い。

一説によれば、それは戦後、「招魂」や「顕彰」

のような軍国主義と国家神道の匂いのする

言葉を避けるため、広く普及したものらし

い。実際、意味が広い「慰霊」はともかく、「慰

霊碑」や「慰霊祭」といった熟語での用法

はあまり歴史を遡ることができないようだ。

小学館の『日本国語大辞典』は、「慰霊祭」

の初出として一九三三年の尾

士郎の小説

を、「慰霊碑」の初出にいたってはなんと

一九七六年の曾野綾子の小説を挙げている。

 

なぜ「慰霊」が気にかかり始めたのか。

それは、この言葉が、ぼくたちの国がいま

陥っている、このどうしようもない停滞感

と不能感を象徴するもののように思われた

からである。

 慰霊は霊を慰めると書く。しかし、霊と

はなんだろうか。慰めるとはなんだろう

か。本来はこのような言葉には、なんらか

の宗教的世界観が結びついているはずであ

る。けれども、日本では慰霊は特定の宗教

と結びついていない。政教分離が原則の日

本では、公的機関は、特定の宗教の祭祀に

関わることができないからだ。結果として、

慰霊の行為はじつにぼんやりしている。事

実「慰霊碑」で画像検索をかけると、神道

とも仏教とも切り離された、つまりいかな

る歴史とも切り離された、勝手気ままなデ

ザインの構築物が大量に引っかかる。この

国では、みな、そんななんの根拠もない抽

象的な物体をまえにして、神に祈るでもな

く、仏典を読み上げるでもなく、ただ沈黙

し頭を下げることで、死者を追悼した「気

分」になっている。

 

けれども、それは「気分」であるだけ

で、本当の意味での追悼になっていないの

だ。だからこそ、敗戦から七〇年を経たい

まも、この国では毎年のように戦死者の追

悼が政治的課題になり続けている。

 慰霊という言葉にはひとつ顕著な特徴が

ある。それは天災にも戦争にも同じように

使うことができる。

 その多義性を体現しているのが、東京都

墨田区の横網町公園にある「東京都慰霊堂」

である。この霊堂は伊東忠太の設計で有名

で、一九三〇年に建てられた。もともとは

関東大震災の犠牲者の遺骨を納めるために

構想されたもので、名称も「震災記念堂」

といった。それが戦後、東京大空襲による

犠牲者の遺骨もあわせ収められ、「東京都

慰霊堂」と名前を変える。つまり、戦前に

は慰霊堂とは呼ばれていなかった。

 日本人は、しばしば戦争を天災のように

捉える。たとえば戦争の被害を「戦災」と

呼んだりする。実際、東京都慰霊堂のすぐ

近くにある江戸東京博物館では、まさに関

東大震災と東京大空襲が、都民を苦しめた

ふたつの「災害」として同じように展示さ

れている。その文脈で考えれば、関東大震

災と東京大空襲という、まったく性質の異

なる事件の犠牲者が同じ場所で同じように

追悼されるのも、いかにも日本人的だとい

うことで理解できないわけではない。

 

しかし、問題は、その「日本人らしさ」

がどこから来たかである。この点について

東京都慰霊堂の場合の経緯を調べると、な

かなか興味深いことがわかってくる。

 現在、東京都慰霊堂を管理し、毎年二回

(震災の日と空襲の日)の慰霊祭を主催して

いるのは、財団法人東京都慰霊協会という

組織である。公園と建物は都の所有物だが、

慰霊祭などはこの慰霊協会が主催している。

この組織は、歴史を辿ると、戦前に国家主

導で設置された「東京市忠魂塔建設事業

会」を前身としている。同会は「殉国軍人」

の追悼を目的とし、忠魂塔の建設予定地も

確保していたが、敗戦により解散となった。

しかし他方で、当時の東京では、軍人だけ

ではなく、空襲によって膨大な数の民間人

の死者が発生しており、その埋葬は社会的

課題となっていた。そこで、上記の建設事

業会の資産を継承しつつ、政教分離という

新たな原則に配慮し、民間有志が結成した

任意団体という抜け道を使って再結成した

のが、この慰霊協会なのだ。慰霊協会は当

初、空襲の犠牲者を、忠魂塔予定地に新た

に埋葬することを予定していた。けれども

それは、なぜかGHQの許可が出ず不可能

になる。かわりにGHQから示唆されたの

が、震災記念堂への共同納骨だったという

ことらしい﹇★1﹈。

 この経緯は、慰霊という言葉に与えられ

た政治性、というより「脱政治性」を端的

に示している。東京都民は別に、関東大震

災と東京大空襲の犠牲者を、同じ場所で、

同じようなものとしてあいまいに処理した

かったわけではない。実際、当時の人々か

らすれば、人知の及ばぬ大地の振動と、人

間の乗った敵機が落とす焼夷弾はとても同

じ「災害」とは感じられなかったのではな

いかと思う。共同納骨は本当は、占領下で

政治的な軋轢を避けるために編み出された

方便にすぎない。

 けれども、いまのぼくたちは、そのよう

な歴史をすっかり忘れて、震災も空襲も同

じように扱うのが「日本人的」だと思い込

Page 15: ゲンロン3.5

011 010 「ポスト」モダニズムのハード・コア 黒瀬陽平 ゲンロン3.5

 

古代中国美術は、「雲うん

気き

文もん

」に代表され

るような表現として気を視覚化し、独自の

ボキャブラリーを育んだのである。このよ

うな気の思想は、インドから伝わった仏像

に対しても適応され、インド風の肉感豊か

な造形はやがて、全身から気を発する痩身

の像に変わっていったのだ。

 救世観音像はまさに、最高度に達した気

の表現によって生み出された作例にほかな

らない。透彫金具の宝冠と光背に見られる

文様は、C字形と半C字形、S字形を複雑

に絡み合わせた雲気文であり、比類なき成

熟度を誇っている。外側へ向かって三度巻

き上がる両肩の垂髪。鋭く、重力に逆らう

ように左右へ張り出している天衣。そして、

それらのすべてが厳格な左右対称を成す構

成は、着衣や領巾を鋭くデフォルメするこ

とによって気の「発散」を暗示する表現技

法である。

 

一方、釈迦三尊像の造形はどうだろう

か。光背、垂髪、天衣、どれを取っても救

世観音像に比べると著しく単純化されてい

る。左右の脇侍菩薩立像の光背に見られる

文様は、救世観音像にも見られる火焔のパ

ターンや、S字形雲気を絡ませた連続文な

どが模倣されているが、その複雑さは及ぶ

べくもない。要するに、日本の止と

利り

仏師が

作ったことの明らかなこの釈迦三尊像には、

古代中国からの気の思想と、そのイコノロ

ジーに対する理解が欠落しており、形の模

倣にとどまっているのである。

 しかし、井上は、釈迦三尊像の真価を見

極めるためには、別の観点からの分析が必

要であると主張する。別の観点とは、「フ

レームのなかの造形」と名付けられるもの

である。井上による図解﹇図3﹈を見れば明

らかなように、まず、中尊本体をすっぽり

と納める二等辺三角形があり、その二辺を

延長させてゆくと、下座までを納める相似

形二等辺三角形が現れる。さらに、この中

央の二等辺三角形を軸として、その外側に

教示菩薩立像を含む、より大きな二等辺三

 古仏研究者の井上正は、飛鳥美術を代表

する法隆寺のふたつの仏像、夢殿の観音菩

薩立像(救世観音)﹇図1﹈と金堂の釈迦三

尊像﹇図2﹈を比較しながら、「両者の違い

は、そのまま、当時の大陸からの伝統様式

と、それを学びつつ出来上がったわが国の

様式との違いを物語るもの」であると書い

ている。

 よく知られているように、救世観音像は

聖徳太子の等身像と言われ、太子の怒りを

怖れるあまり長い間、何人たりともその姿

を見ることを許されない秘仏であったが、

明治一七年(一八八四年)にフェノロサと

岡倉天心によって開扉された。その造形は

確かに、太子の怨霊伝説を物語るかのよう

に、アルカイックでミステリアスな雰囲気

に満ちている。とはいえ、救世観音像の重

要性は、そのようなエピソードにのみ帰せ

られるわけではない。井上によれば、救世

観音像こそ、古代中国美術に流れる「気」

の思想を体現する最高のサンプルであると

いう。

 気の思想とは何か。紀元前二世紀、淮わい

南なん

王劉安が編纂した百科事典『淮え

南なん

子じ

』の

天文訓には、混沌から虚空が生まれ、虚空

から宇宙が生まれるという世界創成のヴィ

ジョンが記されているが、宇宙から生まれ

るものが気であり、気こそが万物創世にお

いて最も重要な因子であると考えられてい

た。井上は、淮南子の思想を受け継いで展

開した北宋時代の程てい

伊い

川せん

や、南宋の朱子の

理論を参照しながら、次のように要約して

いる。「

気」は万物創成の根源を成す眼に見

えない因子で、「気」の多く集積する

ところに聖なるものが生まれ、凡庸な

ものには「気」は薄かった。「気」は

ものの本質であり、眼に見える形は現

象であった。霊山、神仏、霊獣、瑞鳥

などは、いずれも「気」の密なる集積

によって成ったものであり、ひとたび

形を成したのちには、新たに「気」を

発し、次なる創造に大きく作用する存

在であった﹇★1﹈。

図 1(上) 観音菩薩立像(法隆寺夢殿)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG Public Domain

図 2(中) 釈迦三尊像(法隆寺夢殿)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Horyuji_Monastery_Sakya_Trinity_of_Kondo_(178).jpgPublic Domain

図 3(下) 図 2と井上正の図解をもとに作図Horyuji.JPG Public Domain

「ポスト」モダニズムのハード・コア│

「貧しい平面」のゆくえ 第1回

Xxxxxx xxxxx xxxxx xxxxx: X

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黒瀬陽平 Yo

he

i Ku

rose

Page 16: ゲンロン3.5

007 006批評するテキストデータ ゲンロン3.5東浩紀

『ゲンロン3・5』をお送りする。

 今号は、ゲンロン友の会第六期の会員で、第七期への更新を済ませたかたに、更新特典として

送付されている。増刊号であり、非売品である(ゲンロンカフェでのみ少部数を販売するかもしれない)。

目次は、『ゲンロン』の姉妹誌であり、友の会会報でもある月刊メールマガジンの『ゲンロン観

光通信』の一号より一〇号までから各号一編、そして後継誌『ゲンロンβ1』と『ゲンロンβ2』

から各号二編、編集部の印象に残った原稿を再録して構成したものになっている。

 第六期の会員には『ゲンロン観光通信』の二号以降すべてが送られているので、読者のみなさ

んは、じつはここに再録された原稿のほとんどをお持ちのはずである。しかしそれでも、このよ

うに一冊の書籍にまとめられると、かなり印象が異なるのではないかと思う。多くの読者は、意

外なほど水準の高い、本格的な評論原稿を掲載していることにあらためて驚かれるだろう。

『ゲンロンβ』の内容は、『ゲンロン』本誌と深く連動している。ぼくの巻頭言は『ゲンロン』

の編集方針を裏から解説するものになっているし、黒瀬陽平の連載は本誌での連載の予告編的な

批評するテキストデータ 

東浩紀

性格を備えている。ときおり本誌読解の補助線となる原稿が載ることもある。たとえば今号では

仲山ひふみの寄稿がそれである。加えて『ゲンロンβ』は、『ゲンロン』本誌には収まりきらない、

弊社の多様な活動を紹介し、その展開を側面から支えるプラットフォームにもなっている。定期

的にカフェやスクールの報告が載るほか、渡邉大輔の映画評や山本貴光と吉川浩満の人文書紹介

など、独自の連載も用意されている。そしてなによりも、『ゲンロンβ』の隠れた柱となってい

るのは、福島県在住の小松理虔と二上英朗による、マスコミではほとんどない視点からの原発事

故被災地報告である。福島第一原発観光地化計画の精神は、『ゲンロンβ』でひそかに生き続け

ている。『ゲンロンβ』は、じつはかなり力を入れている雑誌なのだ。

 けれども、以上のことはあまり知られていない。友の会のみなさんも、気づいていないひとが

多いのではないかと思う。『ゲンロンβ』は、なぜか反響が驚くほどない。内容がつまらないと

言われればそれまでだが、個人的にはそうは思えないので、不遇の原因の一端は、そもそもメル

マガとして発行されていることにあるのではないかと疑っている。メルマガは日本ではゼロ年代

の終わりにブームを迎えた。そしてあっというまに消費された。二〇一六年のいま、メルマガ(や

それに類する小額課金のプラットフォーム)は、ちょっとした有名人がファン向けに雑文を寄せたり日

記を載せたりする、品質無視の読み捨てメディアとしてしか生き残っていない。人々もまた、も

はやメルマガに「そのていど」しか期待していない。スマホの小さな画面でざっと空き時間に流

し読む、メルマガとはそのていどのものなのであり、人文書の読書体験の対極にある。そのよう

な媒体で批評誌を展開すること、おそらくそれそのものが愚かなのだろう。

 とはいえ、弊社にはほかに選択肢がない。紙の雑誌は作るのにも送るのにも金がかかる。毎月

Page 17: ゲンロン3.5

007 006批評するテキストデータ ゲンロン3.5東浩紀

『ゲンロン3・5』をお送りする。

 今号は、ゲンロン友の会第六期の会員で、第七期への更新を済ませたかたに、更新特典として

送付されている。増刊号であり、非売品である(ゲンロンカフェでのみ少部数を販売するかもしれない)。

目次は、『ゲンロン』の姉妹誌であり、友の会会報でもある月刊メールマガジンの『ゲンロン観

光通信』の一号より一〇号までから各号一編、そして後継誌『ゲンロンβ1』と『ゲンロンβ2』

から各号二編、編集部の印象に残った原稿を再録して構成したものになっている。

 第六期の会員には『ゲンロン観光通信』の二号以降すべてが送られているので、読者のみなさ

んは、じつはここに再録された原稿のほとんどをお持ちのはずである。しかしそれでも、このよ

うに一冊の書籍にまとめられると、かなり印象が異なるのではないかと思う。多くの読者は、意

外なほど水準の高い、本格的な評論原稿を掲載していることにあらためて驚かれるだろう。

『ゲンロンβ』の内容は、『ゲンロン』本誌と深く連動している。ぼくの巻頭言は『ゲンロン』

の編集方針を裏から解説するものになっているし、黒瀬陽平の連載は本誌での連載の予告編的な

批評するテキストデータ 

東浩紀

性格を備えている。ときおり本誌読解の補助線となる原稿が載ることもある。たとえば今号では

仲山ひふみの寄稿がそれである。加えて『ゲンロンβ』は、『ゲンロン』本誌には収まりきらない、

弊社の多様な活動を紹介し、その展開を側面から支えるプラットフォームにもなっている。定期

的にカフェやスクールの報告が載るほか、渡邉大輔の映画評や山本貴光と吉川浩満の人文書紹介

など、独自の連載も用意されている。そしてなによりも、『ゲンロンβ』の隠れた柱となってい

るのは、福島県在住の小松理虔と二上英朗による、マスコミではほとんどない視点からの原発事

故被災地報告である。福島第一原発観光地化計画の精神は、『ゲンロンβ』でひそかに生き続け

ている。『ゲンロンβ』は、じつはかなり力を入れている雑誌なのだ。

 けれども、以上のことはあまり知られていない。友の会のみなさんも、気づいていないひとが

多いのではないかと思う。『ゲンロンβ』は、なぜか反響が驚くほどない。内容がつまらないと

言われればそれまでだが、個人的にはそうは思えないので、不遇の原因の一端は、そもそもメル

マガとして発行されていることにあるのではないかと疑っている。メルマガは日本ではゼロ年代

の終わりにブームを迎えた。そしてあっというまに消費された。二〇一六年のいま、メルマガ(や

それに類する小額課金のプラットフォーム)は、ちょっとした有名人がファン向けに雑文を寄せたり日

記を載せたりする、品質無視の読み捨てメディアとしてしか生き残っていない。人々もまた、も

はやメルマガに「そのていど」しか期待していない。スマホの小さな画面でざっと空き時間に流

し読む、メルマガとはそのていどのものなのであり、人文書の読書体験の対極にある。そのよう

な媒体で批評誌を展開すること、おそらくそれそのものが愚かなのだろう。

 とはいえ、弊社にはほかに選択肢がない。紙の雑誌は作るのにも送るのにも金がかかる。毎月

Page 18: ゲンロン3.5
Page 19: ゲンロン3.5

XX

X

『ゲンロン観光通信

#5』(二〇一五年一〇月)

浜通り通信 第31回

福島第一原発視察記─小松理虔 R

iken

Ko

ma

tsu

New

s from H

amadori

─31

─ Observations on the Fukush

ima D

aiichi N

uclear Power Plant

XX

X

『ゲンロン観光通信

#6』(二〇一五年一〇月)

〇〇〇年後の人類への物語│SF作家のチェルノブイリ巡礼─吉上亮 R

yo Y

osh

iga

mi

A Story for M

ankind 1000 Years from Today: O

ne Science Fiction Writer’s Pilgrim

age to Chernobyl

XX

X

『ゲンロン観光通信

#7』(二〇一五年一二月)

紹介すること、感染すること│思弁的実在論について─仲山ひふみ H

ifum

i Na

kaya

ma

Introducing and Infecting: Thoughts on Speculative R

ealism

XX

X

『ゲンロン観光通信

#8』(二〇一六年一月一五日)

観(光)客公共論 第8回─東浩紀

Hiro

ki Azu

ma

Public (Sight) Seeing

─8

XX

X

『ゲンロン観光通信

#9』(二〇一六年二月一二日)

クシマ・ノート 第8回

浜通り開発の一世紀を追う

│東北線と常磐線一〇〇年の軌跡─二上英朗

Hid

ero

Fu

taka

mi

Fukushima N

otes

─8

─ Following a C

entury of Developm

ent in Ham

adori: 100 Years of the Tohoku and Joban Lines

XX

X

『ゲンロン観光通信

#10』(二〇一六年三月一八日)

ポスト・シネマ・クリティーク 第3回

イメージの過剰流動化と公共性のはざまで

│想田和弘監督『牡蠣工場』─渡邉大輔

Da

isuke

Wa

tan

ab

e

Post Cinem

a Critique

─3

Im

ages at the Intersection of Excessive Fluidization and Publicness: K

azuhiro Soda’s O

yster Factory

XX

X

『ゲンロン

β1』(二〇一六年四月)

アンビバレント・ヒップホップ 第1回 

反復するビートに人は何を見るか─吉田雅史

Ma

sash

i Yo

shid

a

Am

bivalent Hip

-hop

─1

─ What D

o People See in the Repetition of B

eats?

XX

X

『ゲンロン

β1』(二〇一六年四月)

カオスラは瀬戸芸で鬼の夢を見たか─黒瀬陽平+東浩紀 Y

oh

ei K

uro

se + H

iroki A

zum

a

Did C

haos*Lounge D

ream of D

emons at Setouchi T

riennale?

XX

X

『ゲンロン

β2』(二〇一六年五月)

浜通り通信 第38回 

絶望でもなく、希望でもなく─小松理虔 R

iken

Ko

ma

tsu

New

s from H

amadori

─38─ N

either Despair nor H

ope

XX

X

『ゲンロン

β2』(二〇一六年五月)

人文的、あまりに人文的 第1回

『啓蒙思想2.0

│政治・経済・生活を正気に戻すために』

『心は遺伝子の論理で決まるのか

│二重過程モデルでみるヒトの合理性』

Hum

anistic, All Too H

umanists

─1

Enlightened T

hinking 2.0: Restoring Sanity to O

ur Politics, Our Econom

y, and Our Lives (Joseph H

eath)

T

he Robot’s R

ebellion: Finding Meaning in the A

ge of Darw

in (Keith E

. Stanovich)

山本貴光+吉川浩満

Taka

mitsu

Ya

ma

mo

to +

Hiro

mitsu

Yo

shika

wa

XX

X 各号目次一覧  

XX

X 寄稿者一覧  

XX

X 編集後記・支援者一覧

アートディレクション&デザイン─加藤賢策(LABORATORIES

)  表紙・扉イメージ─梅沢和木

Page 20: ゲンロン3.5

XX

X

『ゲンロン観光通信

#5』(二〇一五年一〇月)

浜通り通信 第31回

福島第一原発視察記─小松理虔 R

iken

Ko

ma

tsu

New

s from H

amadori

─31

─ Observations on the Fukush

ima D

aiichi N

uclear Power Plant

XX

X

『ゲンロン観光通信

#6』(二〇一五年一〇月)

〇〇〇年後の人類への物語│SF作家のチェルノブイリ巡礼─吉上亮 R

yo Y

osh

iga

mi

A Story for M

ankind 1000 Years from Today: O

ne Science Fiction Writer’s Pilgrim

age to Chernobyl

XX

X

『ゲンロン観光通信

#7』(二〇一五年一二月)

紹介すること、感染すること│思弁的実在論について─仲山ひふみ H

ifum

i Na

kaya

ma

Introducing and Infecting: Thoughts on Speculative R

ealism

XX

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『ゲンロン観光通信

#8』(二〇一六年一月一五日)

観(光)客公共論 第8回─東浩紀

Hiro

ki Azu

ma

Public (Sight) Seeing

─8

XX

X

『ゲンロン観光通信

#9』(二〇一六年二月一二日)

クシマ・ノート 第8回

浜通り開発の一世紀を追う

│東北線と常磐線一〇〇年の軌跡─二上英朗

Hid

ero

Fu

taka

mi

Fukushima N

otes

─8

─ Following a C

entury of Developm

ent in Ham

adori: 100 Years of the Tohoku and Joban Lines

XX

X

『ゲンロン観光通信

#10』(二〇一六年三月一八日)

ポスト・シネマ・クリティーク 第3回

イメージの過剰流動化と公共性のはざまで

│想田和弘監督『牡蠣工場』─渡邉大輔

Da

isuke

Wa

tan

ab

e

Post Cinem

a Critique

─3

Im

ages at the Intersection of Excessive Fluidization and Publicness: K

azuhiro Soda’s O

yster Factory

XX

X

『ゲンロン

β1』(二〇一六年四月)

アンビバレント・ヒップホップ 第1回 

反復するビートに人は何を見るか─吉田雅史

Ma

sash

i Yo

shid

a

Am

bivalent Hip

-hop

─1

─ What D

o People See in the Repetition of B

eats?

XX

X

『ゲンロン

β1』(二〇一六年四月)

カオスラは瀬戸芸で鬼の夢を見たか─黒瀬陽平+東浩紀 Y

oh

ei K

uro

se + H

iroki A

zum

a

Did C

haos*Lounge D

ream of D

emons at Setouchi T

riennale?

XX

X

『ゲンロン

β2』(二〇一六年五月)

浜通り通信 第38回 

絶望でもなく、希望でもなく─小松理虔 R

iken

Ko

ma

tsu

New

s from H

amadori

─38

─ Neither D

espair nor Hope

XX

X

『ゲンロン

β2』(二〇一六年五月)

人文的、あまりに人文的 第1回

『啓蒙思想2.0

│政治・経済・生活を正気に戻すために』

『心は遺伝子の論理で決まるのか

│二重過程モデルでみるヒトの合理性』

Hum

anistic, All Too H

umanists

─1

Enlightened T

hinking 2.0: Restoring Sanity to O

ur Politics, Our Econom

y, and Our Lives (Joseph H

eath)

T

he Robot’s R

ebellion: Finding Meaning in the A

ge of Darw

in (Keith E

. Stanovich)

山本貴光+吉川浩満

Taka

mitsu

Ya

ma

mo

to +

Hiro

mitsu

Yo

shika

wa

XX

X 各号目次一覧  

XX

X 寄稿者一覧  

XX

X 編集後記・支援者一覧

アートディレクション&デザイン─加藤賢策(LABORATORIES

)  表紙・扉イメージ─梅沢和木

Page 21: ゲンロン3.5

XX

X

批評するテキストデータ─東浩紀 Hiro

ki Azu

ma

XX

X

『ゲンロン観光通信 #1』(二〇一五年六月)

「ポスト」モダニズムのハード・コア│「貧しい平面」のゆくえ 第1回─黒瀬陽平 Y

oh

ei K

uro

se

Hardcore [Post] M

odernism: W

here the Poor Surfaces Go

─1

XX

X

『ゲンロン観光通信

#2』(二〇一五年七月)

観(光)客公共論 第2回─東浩紀 H

iroki A

zum

a

Public (Sight) Seeing

─2

XX

X

『ゲンロン観光通信

#3』(二〇一五年八月一四日)

革命の後で、どのように他人と語らうべきか

「オタク批判はヘイトなのか

│艦これ、サブカル、カウンター」イベント後記─さやわか S

aya

wa

ka

A Postscript to “Is O

taku-bashing Hate Speech

? – Kantai C

ollection, Subculture, and Counter Protests”

XX

X

『ゲンロン観光通信

#4』(二〇一五年九月一一日)

英雄たちの戦歴と雑兵の夢

「新しい伝統をつくる

│木ノ下歌舞伎の演劇と革新」を終えて─木ノ下歌舞伎主宰

木ノ下裕一 Y

uic

hi K

ino

shita

Thoughts on “C

reating a new trad

ition: The Perform

ance and Innovation of Kinosh

ita-Kabuki”

目次

東浩紀

3.

5

Page 22: ゲンロン3.5