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I-4-65 戦災関連 45.千鳥ヶ淵戦没者墓苑 震災・災害・戦災名称 太平洋戦争(1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日終戦) 所在地 東京都千代田区三番町2 施設の種類 墓苑 開設年月日 1959 年(昭和 34 年)3 月 28 日に創建 事業主体 厚生省(環境省) 面積 1.6ha 管理者 (財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会事務所 事業費 施設概要 (設置の意図・経緯) ・終戦と共に海外からの復員する者が持ち帰った遺骨等により仮安置遺骨が逐次増加しつつあった ことや、昭和 27年 4月対日平和条約が発効したことに伴い、厚生省による遺骨収集が開始される こととなり、その遺骨収集・故国送還に伴い、それらを納めるお墓を建設することが喫緊の問題 であった。 ・「戦没者の墓」建設に関する世論の高まりに伴い、昭和 28 年 12 月 11 日、第3次吉田内閣は閣議 において、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡しできぬものを、 国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持管理する」との方針 を決定。 ・その後、複数の候補地について議論がなされ、昭和 31 年 12 月 4 日、閣議において、千鳥ケ淵の 現在地に決定された。 ・昭和 34 年 3 月 13 日の閣議において「千鳥ケ淵戦没者墓苑」と命名することに決定し、昭和 34 年 3 月 28 日に創建された。 ・平成 23 年 10 月現在 355,404 柱が、六角堂内に安置されている。 (主要施設) ・[追 悼]:六角堂(納骨室・陶棺)、昭和天皇御製碑、今上天皇御製碑 ・[伝 承]:- ・[減 災]:- ・[象 徴]:- ・[活性化]:- (セレモニー) ・毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式を開催している。 ・年間を通じて各種団体主催の慰霊行事が随時行われている。 参考資料・URL 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 HP (環境省):http://www.env.go.jp/garden/chidorigafuchi/ 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 HP ((公財)千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会):http://www.boen.or.jp/

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I-4-65

戦災関連

45.千鳥ヶ淵戦没者墓苑 震災・災害・戦災名称

太平洋戦争(1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日終戦)

所在地

東京都千代田区三番町2

施設の種類

墓苑

開設年月日

1959 年(昭和 34 年)3月 28 日に創建

事業主体

厚生省(環境省)

面積

1.6ha

管理者

(財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会事務所

事業費

施設概要

(設置の意図・経緯)

・終戦と共に海外からの復員する者が持ち帰った遺骨等により仮安置遺骨が逐次増加しつつあった

ことや、昭和 27 年 4 月対日平和条約が発効したことに伴い、厚生省による遺骨収集が開始される

こととなり、その遺骨収集・故国送還に伴い、それらを納めるお墓を建設することが喫緊の問題

であった。

・「戦没者の墓」建設に関する世論の高まりに伴い、昭和 28 年 12 月 11 日、第3次吉田内閣は閣議

において、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡しできぬものを、

国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持管理する」との方針

を決定。

・その後、複数の候補地について議論がなされ、昭和 31 年 12 月 4 日、閣議において、千鳥ケ淵の

現在地に決定された。

・昭和 34 年 3 月 13 日の閣議において「千鳥ケ淵戦没者墓苑」と命名することに決定し、昭和 34

年 3 月 28 日に創建された。

・平成 23 年 10 月現在 355,404 柱が、六角堂内に安置されている。

(主要施設)

・[追 悼]:六角堂(納骨室・陶棺)、昭和天皇御製碑、今上天皇御製碑

・[伝 承]:-

・[減 災]:-

・[象 徴]:-

・[活性化]:-

(セレモニー)

・毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式を開催している。

・年間を通じて各種団体主催の慰霊行事が随時行われている。

参考資料・URL

・千鳥ヶ淵戦没者墓苑 HP (環境省):http://www.env.go.jp/garden/chidorigafuchi/

・千鳥ヶ淵戦没者墓苑 HP ((公財)千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会):http://www.boen.or.jp/

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施設平面図・写真等

図・写真等:http://www.env.go.jp/garden/chidorigafuchi/、http://www.boen.or.jp/

写真4-81 六角堂

六角形の納骨堂。中央に陶棺をおき、その下に

主な戦域別の六部屋に分けた地下室を設け、鋳鉄

製納骨壺にご遺骨が安置されている。

写真4-80 全景

写真4-83 昭和天皇御製の碑

墓苑創建の年の秋、昭和天皇陛下から下賜され

た御製を秩父宮妃殿下が謹書され、昭和 35 年

(1960 年)3 月 28 日に竣工。

写真4-82 納骨室・陶棺(六角堂内)

六角堂の中央に置かれた陶棺の下の地

下 納骨室及び平成 3 年 3 月及び平成 12

年 3 月に増設された六角堂奥正面の地下納

骨室に遺骨が安置されている。

陶棺の中に、昭和天皇御下賜の金銅製

茶壷形の納骨壷があり、戦没者を代表する

御遺骨が納められている。

写真4-84 今上陛下御製の碑

終戦 60 周年を迎えるにあたり、新春「歌会始の

儀」で詠まれた今上陛下の御製を、常陸宮妃殿下

が謹書され、平成 17 年(2005 年)9 月 27 日竣工。

図4-24 平面図

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戦災関連

46.広島平和記念公園 震災・災害・戦災名称

太平洋戦争広島原爆投下(1945 年(昭和 20)8 月 6 日)

所在地

広島県広島市中区中島町 1-2

施設の種類

都市公園(総合公園)

開設年月日

1954 年(昭和 29 年)4月1日

事業主体

広島市

面積

12.2ha

管理者

広島市

事業費

・S25-30 で 7 億円余り。

・広島平和記念都市を建設する特別都市計画事業(平和記念施設事業)にて実施。

施設概要

(設置の意図・経緯)

・世界に向けて人類の平和を願い訴える目的と過去の過ちを繰り返さないために、原子力爆弾の爆

心地に近い地に公園の建設が計画され、1954 年 4 月 1日に完成した。

・本公園は、戦後の広島平和記念都市建設法において「恒久の平和を記念すべき施設」として整備

が行われ、整備にあたっては国際コンペティションにより進められた。国際コンペティションは、

一等を丹下健三ほか3名の共同作品が選出された。また、平和大橋・西平和大橋は、彫刻家のイ

サムノグチによってデザインされている。

・本公園の代表的な遺構として原爆ドームが残されているが、保存決定するまで 20 年を要してお

り、多くの議論の末に保存が決まったことは注目される。(詳細は参考1)

(主要施設)

[追 悼]:原爆死没者慰霊碑、原爆供養塔、平和の鐘、祈りの泉、平和の灯、平和の池、

原爆の子の像、各種慰霊碑

[伝 承]:広島平和記念資料館、原爆ドーム、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、

被爆したアオギリ、レストハウス(元大正屋呉服店)等多数

※平和記念資料館では、原爆の被害について、写真展示、個人の遺品、ジオラマ、映像、パンフレット配布、被

爆者による語り部等、多くの手法によって原爆被害について伝えている。また、原爆ドームをはじめ、いくつ

かの被爆施設をそのまま保存することで、災害の記録と伝承を行っている。

[減 災]:-

[象 徴]:平和大橋・西平和大橋

[活性化]:広島国際会議場

(遺構物)

・原爆ドーム、レストハウス(元大正屋呉服店)、本川橋、相生橋、慈仙寺跡の墓石

(設計者)

・公園:丹下健三(競技設計)、平和大橋・西平和大橋:イサムノグチ

(セレモニー)

・毎年 8月 6日に「平和記念式典」を開催。平成 23 年度は、約 50,000 人。

参考資料・URL

・広島市 HP: http://www.pcf.city.hiroshima.jp/frame/Virtual_j/tour_j/guide1.html

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施設平面図・写真等

図:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/tour_mai.html#

図4-25 公園平面図

写真4-87 原爆ドーム

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破

し、天井から火を吹いて全焼、中にいた 30 人余

りの人々は全員死亡したと伝えられている。

ドームの保存については、「原爆による惨禍の

証人として保存する」という意見と、「危険物であ

り、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊

す」という意見が対立したが、1966(昭和 41)年

に永久保存を決定、広く募金を呼びかけ、これ

まで 3 度の保存工事が行われた。

人類史上 初の原子爆弾による被爆の惨禍

を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と

恒久平和を求める誓いのシンボルとして 1996

(平成 8)年 12 月「世界遺産条約」に基づきユネ

スコの世界遺産一覧表に登録された。

写真4-85 平和の灯(ともしび)

この火は、1964(昭和 39)年 8 月 1 日点火さ

れて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地

球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という

反核悲願の象徴となっている。

写真4-86

原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)

中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾

に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆

死没者名簿が納められている。

写真4-88

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

国として、原爆死没者に対する追悼の意を表

し、永遠の平和を祈念するとともに、原爆の惨禍

に関する世界中の人々の理解を深め、被爆体

験を後代に継承するために建設。

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写真4-89 平和記念資料館

ピロティー式の本館下の空間は、廃墟の中から立ち

上がる人間の力強さを表わしたいという考えが込めら

れている。

写真4-90 平和の池

池は原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)を

囲み、碑が浮かび上がるように設計されている。(幅 17

m、長さ 70m)。

写真4-91 旧本川国民学校

被爆校舎の一部と地下室は、「平和資料館」として整

備・保存され、1988(昭和 63)年5月開館。地下室を中心

に当時の焼け跡が残る等、原爆の被害を受けた状態を

そのまま残し、被爆の「証」として保存。

写真4-92 被爆したアオギリ

幹は爆心側の半分が焼けたが、翌年の春になって

芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で虚脱状態にあった

人々に生きる勇気を与えた。中国郵政局の建替えに伴

い、1973(昭和 48)年 5 月、現在の場所へ移植。種子

は国内外へ贈られ、多くの 2 世が元気に育っている。

写真4-93 平和大橋・西平和大橋

設計者のイサム・ノグチが、1984(昭和

59)年に広島市を訪れた際に、「平和大橋

は生を象徴する太陽の形を、西平和大橋は

犠牲者が黄泉の国へ船出する死の象徴とし

て船の竜骨をかたどった」と述べている。

写真4-945 爆心地・島病院前の

原爆被災説明板

T字型の相生橋を投下目標にした

とされる原爆は、島病院の上空約

600mで炸裂したと推測されている。

写真4-95 原爆供養塔

氏名不詳や一家全滅などで引き取り手

のない遺骨を供養するために建設。内部

に納骨堂があり、一家全滅で身内の見つ

からない遺骨や氏名の判明しない遺骨約

7 万柱が納められている。

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○広島平和記念公園にみられるあらゆる主体のかかわり方

広島平和記念公園では、行政により設置された施設のほか、あらゆる主体により設置された慰霊碑

等が存在しており、追悼・鎮魂が多様な主体により行われていることが分かる。

表4-1 広島平和記念公園内における施設およびモニュメントの主体

(参考資料:広島平和祈念公園 HP 及びヒアリング〔1月〕結果)

施設の名称(施設内の設置物名称) 事業主体 管理者

広島平和記念公園 広島市 広島市

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 厚生労働省 国旧本川小学校(本川小学校平和資料館)(近接) 広島市 広島市本川橋 広島市 広島市相生橋 広島市 広島市原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) 広島市 広島市平和記念公園 広島市 広島市広島平和記念資料館 広島市 広島市平和大橋・西平和大橋 広島市 広島市原爆ドーム 広島県 広島市元安橋 広島市 広島市儀勇隊の碑 安佐郡佐東町川内村温井遺族一同 その他広島二中原爆慰霊碑 広島県立広島第二中学校戦災死者遺族委員会 その他広島市商・造船工業学校慰霊碑 広島市商同窓会, 造船工業学校遺族 その他平和の時計塔 広島鯉城ライオンズクラブ その他平和の鐘 原爆被災者広島悲願結晶の会 その他原爆供養塔 広島戦災供養会 その他平和の石燈 茶道裏千家淡交会広島支部 その他韓国人原爆犠牲者慰霊碑 韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会 その他被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石) - その他平和の観音像【平和乃観音像】(中島本町町民慰霊碑) 中島本町会 その他中島地区[原爆被災説明板] - その他平和の泉 広島青年会議所 その他原爆の子の像 広島平和をきずく児童・生徒の会 その他レストハウス(元大正屋呉服店) - その他平和の灯 平和の灯建設委員会 その他平和の池 日本青年会議所 その他旧天神町北組慰霊碑 旧天神町北組町民 その他材木町跡碑 旧材木町生存者有志 その他

峠三吉詩碑平和のための広島県文化会議峠三吉詩碑建設委員会

その他

アオギリ - その他

全損保の碑全日本損害保険労働組合広島地方協議会

その他

朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計 広島在留朝鮮人帰国者 その他マルセル・ジュノー博士記念碑 ジュノー博士記念碑建立会 その他祈りの泉 広島銀行 その他嵐の中の母子像 広島市婦人会連合会 その他平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑) 広島南ロータリークラブ その他原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 原爆犠牲国民学校教師と子供の碑 その他友愛碑 日本損害保険協会広島地方委員会 その他広島市立高女原爆慰霊碑 広島市女原爆遺族会 その他旧天神町南組慰霊碑 慰霊碑建設世話人会 その他中国・四国土木出張所職員殉職碑 建設省中国四国地方建設局職員一同 その他広島県地方木材統制株式会社慰霊碑 広島県地方木材株式会社旧役職員有志 その他原民喜詩碑 原民喜委員会(日本ペンクラブ,広島文学協会) その他動員学徒慰霊塔 広島県動員学徒犠牲者の会 その他爆心地・島病院(原爆被災説明板)(近接) その他広島郵便局職員殉職碑 広島郵便局有縁の有志 その他

原爆犠牲建設労働者・職人之碑全国建設労働組合総連合会広島県建設労働組合

その他

原爆犠牲ヒロシマの碑 原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会 その他広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑【広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑】

広島ガス株式会社 その他

石炭関係原爆殉職難者慰霊碑(近接) 全国石炭関係業者 その他

広島県農業会原爆物故者慰霊碑

広島農業協同組合中央会広島県信用農業協同組合連合会広島県経済農業協同組合連合会広島県同栄社共済農業協同組合連合会広島県厚生農業協同組合連合会

その他

被爆動員学徒慰霊慈母観音像 当時の市内21校旧制中学校・女学校生徒遺族有志 その他

平和の門クララ・アルテールジャン=ミシェル・ヴェルモット

その他

ノーマン・カズンズ氏記念碑 ノーマン・カズンズ氏記念碑 その他ローマ法王平和アピール碑 ローマ法王平和アピール碑建立委員会 その他地球平和監視時計 NPO法人広島からの「地球平和監視」を考える会 その他

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■参考1:原爆ドーム保存の経緯

災害等による被害の甚大さを物語る構造物として、広島平和記念公園の「原爆ドーム」がその代表事

例として挙げられるが、原爆ドームの保存が最終的に決定するまで実に 20 年を要しており、災害等に

よる被害の甚大さを物語る構造物を保存する際には、被害者の意向を十分に汲んだ上で慎重な対応が求

められることが伺える。

【広島平和記念公園の原爆ドーム保存の経緯】

・原爆ドームは、戦後、記念物等として残すという考え方と、危険建造物であり、被爆の悲惨な

思い出につながる等の理由で取り壊すという二つの考え方があった。

・市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中で、保存を求める声が高まり、多くの署

名運動や要望書などが提出され、昭和 41 年 7 月に、広島市議会が原爆ドームの保存を決議した。

・これをふまえ、昭和 42 年に第 1回目の保存工事が実施され、その後数回の保存工事を経て現代

に至っている。

○原爆ドーム保存意向に係る過去の議論等の経緯

時期 根拠 内容 意向

昭和21年 5 月 第 11 回復興審議会 モントゴメリー中尉より、原爆ドーム保

存の意向あり

保存

昭和22年 6 月 タム・デーリング・レクリェー

ション公園計画相談所「絶好

の機会と重責を課せられた

広島の将来に対する概観報

告書」

「原子時代記念館および平和記念碑

として原爆投下点近く中央に位置する

建物を保存すること」の記載あり

保存

時期

不明

浜井市長の回顧 原爆ドームを中心として永久に世界平

和の拠点とする構想をたてた

保存

時期

不明

広島県都市計画課長

寄稿文

原爆の惨状を後世に伝えるものを考

えていたが、広島県産業省外観の壊

れたドームがほとんど爆心地にあたる

ことや、その概観から 適と思われた

ので、中島公園と一体として記念公園

を考えることとした

保存

昭和23年 7 月 中国新聞記事 広島市復興顧問ジャビー少尉が被爆

遺物の保存運動を提唱

保存

7 月 夕刊ひろしま 広島市観光協会が元産業奨励館を含

む 13 箇所の原爆名所の保存を決定

保存

8 月 広島市観光協会アンケート 604 通のうち、存置 436 通・否存置 168

保存意向

72%

昭和24年 8 月 平和記念公園

設計懸賞募集

原爆ドームを視覚の重要な焦点として

計画した丹下グループの設計案が 1

等案となる

保存

昭和25年 2 月 広島市調査課による旧産業

奨励館保存の是非について

のアンケート調査結果公表

428 人の回答のうち、保存を望む

62%、取り払いたい 35%

保存意向

62%

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時期 根拠 内容 意向

昭和26年 時期

不明

浜井市長の回顧 市の復興計画を審議する際、….取り

除くべきだ」….当時そんな予算はとれ

ないし、しばらくそのままにしておくこと

とした。そのドームの周辺を、対岸の

中島につくった平和記念公園と旧西

連兵場の中央公園を結ぶ緑地とし

て、公園用地に指定しておいた。

結論保留

昭和28年 2 月 浜井市長の広島青年会議

所の 2 月例会での発言

私個人の意見は、あの程度の建物は

例えば普通の火災でもああなるから原

爆の威力を示す参考にはならない。

ただ現在は広島をシンボライズする絵

として役立てているので、しばらくはこ

のままにするのがよいと思う。

結論保留

昭和29年 5 月 中国新聞記事 広島県観光連盟が広島市観光協会

や交通業者などに呼びかけ、原爆ド

ーム保存期成同盟結成

保存

昭和31年 3 月 広島市議会 原爆ドーム存廃が議論 結論保留

昭和33年 6 月 総理府・厚生省・運輸省・建

設省の各観光係官へ観光

診断依頼した際の報告書

悲劇を刻むこのドームは絶対に取り除

いたりすべきではなく、平和公園もこ

のドームを中軸として設計されたもの

であるので、大乗的見地から永久に

保存すべきだと結論

保存

昭和35年 8 月 浜井市長の発言 ドームの存廃は世論にしたがって決め

結論保留

8 月 中国新聞記事 広島折鶴の会による原爆ドーム保存

署名運動を開始

保存

12 月 中国新聞記事 日本原水協、広島市に原爆ドームの

永久保存を要望

保存

昭和39年 12 月 中国新聞記事 原水禁広島協議会、核禁広島県民会

議など 11 平和団体が原爆ドームの永

久保存を市長に要請

保存

昭和40年 2 月 中国新聞記事 折鶴の会によるドーム保存資金の寄

付と署名を提出

保存

3 月 原爆ドーム保存要望書 近藤泰夫、湯川秀樹、丹下健三の連

盟でドーム保存要望

保存

11 月 原爆ドーム耐久度調査 佐藤重夫教授の調査により、原爆ドー

ムは補強すれば保存できると中間報

昭和41年 7 月 広島市議会 原爆ドーム永久保存を決議 保存決定

(出典:平和記念施設保存・整備方針 資料編Ⅳより作成

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1144650095908/index.html)

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■参考:2広島平和記念公園の空間的特徴

広島平和記念公園は、設計コンペティションが行われて設計された公園である。一等は、丹下健三

ほか 3名の共同作品で、原爆ドーム・アーチの塔・陳列館(現在は平和記念資料館)を一直線上に配

置し、100m 道路(平和大通り)に立てば、陳列館のピロティとアーチの塔を透かして原爆ドームを望

めるよう工夫されており、設計通りに実現している。

●平和記念公園の整備の経緯

平和記念公園については、被爆後のごく早い時期から、“原爆死没者を慰霊”し、“世界恒

久平和を祈念”する公園と記念施設を整備しようとする構想が数多く提案されている。

当初、平和記念公園は、昭和 21 年(1946 年)に策定された広島市の復興計画原案において、

中島公園としてその整備が計画されたが、昭和 24 年(1949 年)に平和記念都市建設法が制定

され、同法に基づく平和記念施設事業としてその整備がなされた。昭和 25 年(1950 年)に着

工、昭和 27 年(1952 年)に原爆死没者慰霊碑が整備され、被爆 10 周年に当たる昭和 30 年(1955

年)までに平和記念資料館、平和記念館(現在は平和記念資料館東館)などが完成し、これと

並行して現在の平和記念公園の礎となる付属施設、植樹も整備された。

(出典:広島市 HP

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1300236729890/index.html#4)

●100m 道路と直交して原爆ドームを望む景観軸に対する発言

(1)岸田日出刀氏(広島平和記念公園及び記念館競技設計の審査員)

「(略)- そしてこの軸の正しいとり方は、周囲の都市計画的諸要素との関連において

決定されるべきものであり、この点本案は巧みな解決案を提示している。-(略)- 川

越しに遠く元産業奨励館の絵画的な残骸を望むヴィスタの効果をねらった本案の計画は、

なかなか非凡である。」

(出典:吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集 1945-1960」メイセイ出版)

(2)鈴木博之氏

「(略)- 原爆ドームから HP シェル型の慰霊碑を経て、平和記念資料館のピロティの間

を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線と

まったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島

全体を負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い、そのドームはさらに広島の

町全体を負っているのである。」

(出典:鈴木博之(1999)「日本の<地霊>」講談社)

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(3)丹下健三へのインタビュー記録

藤森・松葉:先生の計画案のすごいところは、100m 道路と直交して原爆ドームを望む軸を

通したところですが、それを思いつかれた時の記憶はありますか。

丹 下: はっきりしていません。都市計画的に見て、100m 道路がやはりベースになる。

それからこの敷地の北東から 45 度の角度でここを横断する道は広島の銀座

だった道で、交通路として残したい。100m 道路の両端の橋は別として、橋が

三つもあって重要な交通路となっている。それらをどう連結するか難しいわ

けです。それから原爆ドームをどう扱うかはなかなか出てきませんでした。

しかし最終的に、100m 道路と垂直な軸を基本にして展開しようと…。でも

だいぶ後になって気がついたんです。最初から気がついたわけではない。

藤森・松葉:何案かつくられたのですか。

丹 下:何案か並行でつくるというのではなくて、ゴシャゴシャやっているうちにパ

ッと出た。私はこの形が好きでしてね。

藤森・松葉:この[広場を中心とする]つづみ形[の道路パターン]ですね。

丹 下:戦争中のコンペでも使っているんです。このつづみ形を使うと、敷地の中の

ネットワークができて、さらにセンターができるということが、だんだん分

かってきましてね。そしたら、このセンターとドームを結ぶと 100m 道路と直

角になるんじゃないか、ということで決まったと思います。このつづみ形を

探し出したとき、何か解けるような感じがしたんです。

そうするとメインのアプローチはここだ。広場にはゲートから入るように

したい。じゃあ陳列館をそのままゲートにしようということで、ピロティで

上げたんです。

藤森・松葉:最初は道をどう付けるかという都市デザイン的なところから入っていかれ、

それから個々の建物に進まれたわけですね。

丹 下:はい。

(出典:丹下健三+藤森照信著「丹下健三」新建築社 pp139)

図4-26 広島平和記念公園の構成

(出典:丹下健三+藤森照信著「丹下健三」新建築社 pp139)

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戦災関連

47.平和公園 震災・災害・戦災名称

太平洋戦争長崎原爆投下(1945 年(昭和 20 年)8 月 9 日)

所在地

長崎県長崎市松山町 9

施設の種類

都市公園(総合公園)

開設年月日

1951 年(昭和 26 年)

事業主体

長崎市

面積

約 18.6ha

管理者

長崎市

事業費

施設概要

(設置の意図・経緯)

・昭和 24 年に施行された長崎国際文化都市建設法に基づき、原爆の実相を訴えるとともに、世界

平和と文化交流のための記念施設として整備されている。

・長崎市では、平成 7年の被爆 50 周年を迎えるにあたりこの平和公園の再整備を計画し、平成 6

年度から 9年度にかけて整備を実施している。

・現在は、次代を担う子供たちの貴重な平和学習の拠点として、また祈りと願いにあふれたやすら

ぎの場として多くの人々に利用されている。

(主なゾーニング)

・「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」「スポーツのゾーン」「広場のゾーン」の

5つに分かれている。

(主要施設)

[追 悼]:平和祈念像、長崎の鐘、平和の泉、折鶴の塔、被爆 50 周年記念事業碑、国立長崎原

爆死没者追悼平和祈念館、長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂、各種慰霊碑

[伝 承]:長崎刑務所浦上刑務支所跡、原爆落下中心碑、浦上天主堂遺壁、被爆当時の地層、

長崎原爆資料館

※長崎原爆資料館では、写真展示や被爆された建物の一部や日用品等の実物展示、ジオラマ、映像、被爆体験講和等、多く

の手法によって原爆被害について伝えている。

また、広く一般の方々に被爆の実相を知ってもらうため、パネルや被災資料、絵本のスライド・CD の貸出しを行っている。

[減 災]: -

[象 徴]: -

[活性化]:長崎市営ラグビー・サッカー場、長崎市民総合プール、長崎県営野球場、陸上競技場、

庭球場、ソフトボール場、弓道場

(セレモニー)

・毎年 8月 9日の長崎原爆の日(長崎原爆忌)に、平和祈念像前の式典広場にて原爆犠牲者慰霊平和

祈念式典を開催。(H23年度 5,600 人、H22 年度 5,600 人、H21 年度 5,800 人。H20 年度、5,400 人。H19 年度 5500 人。H18 年度 4,600

人。H17 年度 6,000 人。H16 年度 5,400 人。H15 年度 6,000 人。H14 年度 5,500 人。H13 年度 4,500 人。)

参考資料・URL

・長崎市 HP:http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.html

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施設平面図・写真等

図4-27 平面図

図:http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.html

写真4-97 長崎の鐘

当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産

する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性

挺身隊と呼ばれた中学生や女学生をはじめ、

多くの人々が働いていました。長崎の鐘は、

33 回忌にあたる 1977 年にここで亡くなった

方々の冥福を祈るためにつくられたもの。

写真4-96 平和祈念像

郷土出身の彫刻家・北村西望氏の作。「右

手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠

牲者の冥福を祈る」と作者の言葉が台座の裏

に刻まれている。像の高さ約 9.7m、台座の高

さ約 3.9m(昭和 30 年設置)。

写真4-99 折鶴の塔

原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、

二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くこと

がないよう、世界恒久平和を祈って寄せら

れた折鶴を塔に掲げ、その意を伝えるた

めに建設。

写真4-98 平和の泉

水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の

冥福を祈り、昭和 44 年(1969 年)につくられ

たもの。平和祈念式典の前日 8 月 8 日の夜

には数多くのローソクを灯し、犠牲者を悼む

市民の催しも行われる。

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写真4-102 浦上天主堂遺壁

大正 3 年(1914 年)に天主堂、大正 14 年

(1925 年)にその双塔を完成させ、東洋一の壮

大さを誇った浦上天主堂は、原爆によりわずか

な堂壁を残し崩れ落ちた。この遺壁は、聖堂の

南側の一部を移築したもので、原爆による石柱

のずれが注目される。

写真4-101 原爆落下中心碑

塔の前に置かれた原爆殉難者名奉安箱には原爆に

より爆死された方、被爆者でその後亡くなられた方々の

氏名(複製)を奉安している。

写真4-100 長崎刑務所浦上刑務支所跡

原爆炸裂時にあった長崎刑務所浦上刑務支

所の周囲の壁の一部が今も残されている。

写真4-104 長崎原爆資料館

(原子野と化した長崎の街)

原爆投下直後の長崎の街を、実際に被爆した建造

物や映像、レプリカ等により再現し、原爆の破壊力や

惨状を訴えるコーナー。

写真4-103 長崎原爆資料館(外観)

原爆投下直後の街の惨状を再現し、被爆の状況

を写した写真や被爆した品々が展示されている。被

爆体験講話などを行う平和学習室、原爆記録映画

を上映しているビデオルームなどがあり、核兵器の

脅威と非人道性、戦争の悲惨さを訴えている。

写真4-106 長崎原爆資料館(展示風景2)写真4-105 長崎原爆資料館(展示風景1)

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戦災関連

48.沖縄県営平和祈念公園 震災・災害・戦災名称

太平洋戦争(1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日終戦)

所在地

沖縄県糸満市字摩文仁 577 番地

施設の種類

都市公園(広域公園)

開設年月日

1978 年(昭和 53 年)

事業主体

沖縄県

面積

47.0ha

管理者

沖縄県指定管理者:(財)沖縄県平和祈念財団

事業費

・約 108 億円(整備開始から平成 25 年度までの整備費)

施設概要

(設置の意図・経緯)

・公園整備は琉球政府時代に着手され、復帰後昭和 47 年から都市公園として整備が始まっている。

・世界の恒久平和を祈念し、平和の情報発信の機能を併せ持つ公園として整備している。

・公園内には、沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなった全ての人々

の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁

の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が 50 基建立している。

(ゾーニング)

・霊域ゾーン、園路広場ゾーン、平和ゾーン、レクリエーションゾーン

(主要施設)

[追 悼]:平和の礎(平和の火)、沖縄平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑、慰霊塔、霊域参道、

[伝 承]:沖縄県平和祈念資料館

[減 災]:-

[象 徴]:園路広場、多目的広場

[活性化]:-

(セレモニー)

・毎年 6月 23 日に「沖縄全戦没者追悼式」を開催

・「沖縄全戦没者追悼式」の参加者は、H23 年度 5000 人。H22 年度 5500 人。H21 年度 5300 人。H20

年度 5700 人。H19 年度 4500 人。H18 年度 4500 人。

参考資料・URL

・沖縄県営平和祈念公園 HP:http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/index.html

・沖縄県 HP:http://doboku.pref.okinawa.jp/equip/pdf/oki_kouen_keikaku.pdf

・沖縄県平和祈念資料館パンフレット

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施設平面図・写真等

図4-28 平面図

図:http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/index.html

写真4-108 平和の礎

沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」

を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国

籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなら

れたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。

写真4-107 平和の火

沖縄戦 初の上陸地である座間味村阿嘉島において

採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の

「誓いの火」を合火し、1991 年から灯しつづけた火を、1995

年 6 月 23 日の「慰霊の日」にここに移し、灯したもの。

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写真4-110 霊域

参道沿いには 32 府県の慰霊碑があり、毎年

慰霊団が訪れている。また沖縄守備隊司令官

牛島中将の自決壕もある。

写真4-113 沖縄戦没者墓苑

沖縄戦で亡くなられた住民や軍人などの御遺

骨を納めた国立の墓苑。

写真4-112 平和の丘 写真4-111 式典広場

写真4-109 沖縄平和祈念堂

沖縄県民はじめ全国民の平和願望、戦没者追

悼の象徴として建設。施設内に、沖縄平和祈念

像、美術館(堂内前室・美術展示室)、清(ちゅ)ら

蝶園がある。

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【沖縄県平和祈念資料館】

図4-29 沖縄県平和祈念資料館平面図

写真4-114 沖縄県平和祈念資料館 写真4-115 平和祈念ホール

沖縄県平和祈念資料館は戦争の犠牲になった多くの霊を

弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人

びとに沖縄のこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与する

ために設立されている。

階段状の固定席(231席)で講演、映写会、演劇等

多目的に利用されている。

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写真4-116 子ども・プロセス展示

(左:わらびなー、右:わたしたちの人権)

写真4-117 情報ライブラリー

写真4-118 常時展示

「わらびなー」は、小学校中学年生以下(4,3年)の子

どもたちを対象に、多様性と共通性をテーマに遊びなが

らそのことに気づくように作られた広場。

「わたしたちの人権」は、3台の検索装置を設け、

「子どもの人権問題」、「世界の人権問題」、「身

近な人権問題」にわけて情報を展開している。

情報ライブラリーは、平和に関する各種の情報の閲覧

ができる。数多くの図書・雑誌、戦争体験者の証言や平

和に関するビデオ等の閲覧ができる。

第1展示施設 第2展示施設 第3展示施設

第4展示施設 第5展示施設

常時展示は、沖縄戦までの経緯から、沖縄戦の内容、住民の沖縄戦の証言、沖縄戦後の住民の生活や

復帰への活動等を展示している。

◇各展示部屋のテーマ:第1室(沖縄戦への道)、第2室(住民の見た沖縄戦『鉄の暴風』)、第3室

(住民の見た沖縄戦『地獄の戦場』)、第4室(住民の見た沖縄戦『証言』)、第5室(太平洋の要

石(かなめいし))

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戦災関連

49.フィリピン戦没日本人霊園 Memorial Garden of the Japanese

War Dead in the Philippines

震災・災害・戦災名称

太平洋戦争(昭和 20 年 8 月 15 日終戦)

所在地

フィリピン ラグナ州ガラリヤ

施設の種類

開設年月日

1976 年(昭和 51 年)

事業主体

社団法人フィリピン戦没日本人慰霊園建設委員会

面積

12.0ha

管理者

フィリピン戦没日本人霊園

事業費

・日本財団の補助金を受けている。

施設概要

(設置の意図・経緯)

・第二次世界大戦においてフィリピンでは約 50 万人の日本軍関係者が戦死されたといわれ、戦争

後30年を機会に日本政府がフィリピン政府の協力を得て戦没者の慰霊碑を建立したものである。

・本霊園は、日本・フィリピン両国の友好親善の広場となっている。

(設計者)池原謙一郎

(主要施設)

[追 悼]:日本人慰霊碑

[伝 承]:-

[減 災]:-

[象 徴]:日本庭園

[活性化]:-

(セレモニー)毎年 8月 15 日に日本大使館主催の慰霊祭を開催

参考資料・URL

・日本造園学会発行(2008):Japanese Gardens Outside of Japan,pp161.

施設平面図・写真等

写真4-119 庭園風景

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戦災関連

50.オーストラリア カウラ日本庭園

Cowra Japanese Garden

震災・災害・戦災名称

太平洋戦争(昭和 20 年 8 月 15 日終戦)

所在地

オーストラリア

ニューサウスウェールズ州カウラ市

施設の種類

開設年月日

1977 年(昭和 52 年)

事業主体

カウラ市

面積

4.7ha

管理者

カウラ日本庭園

事業費

・東京都及び万博基金の援助を受けている。

施設概要

(設置の意図・経緯)

・カウラ市は第二次世界大戦中の捕虜収容所があり、231 名の日本人兵士が収容されていた。終戦

数日前に将校他兵士たちが集団脱走を試みたが、多くの日本兵が死に至った。これらの日本人兵

士と、その時犠牲になったオーストラリア兵達のメモリアル事業として、本日本庭園が設置され

ている。

・当初はわずかな資金を基に開始されたが、のちに東京都と万博基金の援助を受け、本日本庭園が

完成している。

・本日本庭園は国際的な平和、友好、理解のシンボルとなっている。

(設計者)

中島健

(主要施設)

[追 悼]:梵鐘

[伝 承]:-

[減 災]:-

[象 徴]:日本庭園

[活性化]:-

(住民参加・地域連携)

・市民ボランティアにより維持管理されており、4年に一度市民ボランティアに対して管理指導が

実施され、極めて美しい状態で日本庭園が管理されている

参考資料・URL

・日本造園学会発行(2008):Japanese Gardens Outside of Japan,pp131.

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施設平面図・写真等

図4-30 平面図

写真4-120 庭園風景

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戦災関連

51.ベルリン ホロコースト記念館

Holocaust-Denkmal Berlin

震災・災害・戦災名称

第二次世界大戦ドイツ終戦

(1945 年(昭和 20 年)5 月 8 日)

所在地

ドイツ ベルリン フランデンブルク門南

施設の種類

公園

開設年月日

2005 年(平成 17 年)5月 12 日

事業主体

ドイツ連邦政府

面積

1.9ha

管理者

ドイツ連邦政府

事業費

施設概要

(設置の意図・経緯)

・ナチスによって大量虐殺されたヨーロッパのユダヤ人犠牲者を慰霊する施設である。

・1988 年(東西ドイツ統一前)に歴史家のエバーハート・イェッケルとジャーナリストのレア・ロ

ッシュが「見過ごされることなき警告の記念碑」の建設を呼びかけたことがきっかけとなり、計

画が進められた。

・1999 年に連邦議会で、対象をヨーロッパのユダヤ人に限定することが可決され、2003 年から建設

に着工している。

・第二次世界大戦終結 60 周年、強制収容所解放 60 周年という節目に完成に至っている。

(設計者)

ピータ・アイゼンマン

(主要施設)

[追 悼]:石碑

[伝 承]:情報センター

[減 災]: -

[象 徴]: -

[活性化]:-

参考資料・URL

・JDN レポート:http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/berlin_view/01/

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施設平面図・写真等

図・写真等: http://www.holocaust-denkmal-berlin.de/

写真4-13 地下にある情報センター(博物館)2 写真4-14 地下にある情報センター(博物館)3

写真4-121

石碑:2,711 基がグリッド上に並ぶ

巨大モニュメント

図4-31 情報センター平面図

迫害され追われる中で書き残した個人の記録や、ユダヤ人家族の運命を追った例、虐殺が全ヨーロッパに及んだその地理的広がりなどが紹介され、他にも様々な情報をデータベースから得る事ができる。 また、虐殺または行方不明となった全ヨーロッ

パのユダヤ人の名前と生涯が読み上げられている部屋があり、犠牲者全員の名前と略歴を全て聞き終えるのに、およそ 6年 7カ月と 27 日を要することを伝えており。資料館はこのように、ただホロコーストの残虐さを訴えるものではなく、後世に伝えていく義務と追悼の意を強く意識したものとなっている。

写真4-122 モニュメント内風景

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戦災関連

52.ベトナム戦争戦没者慰霊碑

Vietnam Veterans Memorial

震災・災害・戦災名称

ベトナム戦争(1960 年(昭和 35 年)12 月~1975 年

(昭和 50 年)4 月)

所在地

アメリカ合衆国ワシントン

ナショナル・モール内

施設の種類

国立公園

開設年月日

主要部分は 1982 年に完成。

(メモリアル・ウォールは 1982 年完成)

事業主体

アメリカ合衆国

面積

約 0.8ha

管理者

アメリカ合衆国内務省・国立公園局

事業費

施設概要

(設置の意図・経緯)

・ベトナム戦争の戦没者を慰霊するために設置された。

・年間約 300 万人が訪れ、花束をささげたり、名前の文字を紙に写し取る遺族や親族の姿が絶えな

い場となっている。

(設計者)

建築家・芸術家マヤ・リン(Maya Lin)(1981 年コンペにより選出)

(主要施設)

[追 悼]: メモリアル・ウォール、3軍人の像

[伝 承]: -

[減 災]: -

[象 徴]: -

[活性化]: -

参考資料・URL

・ベトナム戦争戦没者慰霊碑 HP:http://www.nps.gov/vive/index.htm

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施設平面図・写真等

図4-32 平面図

写真4-125 メモリアルウォール

全長 75 メートル・高さ 3 メートルの黒い花崗岩。一面に戦没兵士の名前が刻まれている。

写真4-126 3軍人の像

http://www.nps.gov/vive/index.htm

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戦災関連

53.アーリントン国営墓地 Arlington National Cemeteryl

震災・災害・戦災名称

南北戦争(1864 年)ほか

所在地

バージニア州アーリントン

施設の種類

国立墓地

開設年月日

1864 年 6 月 15 日

事業主体

アメリカ合衆国

面積

約 300ha

管理者

米国退役軍人局

事業費

施設概要

(設置の意図・経緯)

・1864 年に、南北戦争の戦没者のための墓地として設置された。

・本墓地には、南北戦争だけでなく、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争

等の戦没者も祀られている。

(主要施設)

[追 悼]:墓苑、無名戦士の墓

[伝 承]: -

[減 災]: -

[象 徴]:合衆国海兵隊記念碑、屋外音楽堂

[活性化]: -

(セレモニー)

・戦没将兵記念日(5月最終月曜日)、復員軍人の日(11 月 11 日)など、各種セレモニーを開催

参考資料・URL

・アーリントン国営墓地 HP: http://www.arlingtoncemetery.mil/

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施設平面図・写真等

図4-33 平面図

写真4-127 無名戦士の墓 写真4-128 墓 写真4-139 記念野外音楽堂

図・写真等:http://www.arlingtoncemetery.mil/