富士山の歴史噴火総覧 · 2015. 4. 1. · 富士山の歴史噴火総覧 小山真人*...

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  • 富士山の歴史噴火総覧

    小山真人*

    Database of eruptions and other activities of Fuji Volcano,Japan,based on historical records since AD781

    Masato KOYAMA*

    Fifty-six historical records,which describe abnormal phenomena relating(or possibly relating)to the activity ofFuji Volcano,Japan,were collected and re‐examined according to the reliability of each document.The historical re-cords can be classified into the following 9 groups:(1)reliable records of eruptions(10records),(2)possible re-cords of eruptions(6 records),(3)reliable records of volcanic activities except eruptions(4 records),(4)pos-sible records of volcanic activities except eruptions(3 records),(5)reliable records but not clearly related to vol-canic activities of Fuji Volcano(5 records),(6)reliable records related to other volcanoes(1 record),(7)reli-able records of non‐volcanic phenomena(12records),(8)possible records of non‐volcanic phenomena(3 records),and(9)fake records generated by mistakes or misunderstanding by historians or volcanologists(12records).Re-moving the records of the groups6‐9,the most reliable database of historical activity of Fuji Volcano was presented.Key words: Fuji Volcano,historical record,historical eruption,database,reliability check

    1. はじめに富士火山には,1707年12月16日から約16日間にわた

    った宝永噴火に代表される,歴史時代のいくつかの噴火記録が知られている.宝永噴火は,近世の江戸近郊で起きた大規模な噴火であったため,多数の同時代史料が残されている.しかし,宝永噴火以外のほとんどの歴史噴火については,ごく簡単な記述が残されているのみである.このような限られた数や分量の史料であるにもかかわら

    ず,火山学者の手による従来のほとんどの研究においては,史料の出自や性格などにもとづいて記述の信頼性を吟味するという,文献史学の上では当然とされる手法が適用されたことはなかった.これまでの多くの富士火山の歴史噴火研究は,日本の他の火山の場合と同様,史料記述を機械的に事実とみなしてなされてきたのである.それゆえ,信頼性の低い史料の記述内容を含んだ噴火史年表が作られ,それらにもとづいて噴火の規則性や南海トラフ地震との関連性の検討がなされたり,解説書や観光ガイドブックの形で不正確な知識が一般市民に説明されたりしていた.小山(1998a)は,このような状況に鑑み,富士山の歴

    史時代の個々の噴火記事についてできる限りの信頼性の吟味をおこない,その時点で得られる最良の噴火史年表を提供した.本論は,小山(1998a)の結果に,その後判明した知見にもとづく修正・加筆を加えたものである.記録の分類や信頼性の評価についても若干の見直しをおこなった.なお,富士山の噴火堆積物の層位と年代については,

    産業技術総合研究所による図幅調査が進行中であり,膨大なデータが得られつつある(たとえば,山元・他,2005).それらにもとづく歴史記録と噴火堆積物との対比については将来の課題としたい.また,明治以降の土石流や雪泥流の記録については,本論では収集の対象としなかった.

    2. 噴火各論以下に,筆者が知りえた歴史時代の富士火山に関係する

    天変地異記録のすべて(計56記事)を年代順にとりあげ,原史料の出自や性格からその信頼性を吟味した.史料を読むにあたっては,武者(1941,1943a,1943b)な

    どの非歴史学者によって編纂された史料集を読むことをできる限り避け,歴史学者の校訂を受けた原史料の翻刻本の閲覧に努めた.原史料が閲覧できなかったものについては引用元を明記した.史料の吟味結果にもとづいて天変地異記録を次の9グル

    ープに分け,本文中の小見出しの頭に記号で表した.(1)●:信頼性の高い噴火記事(10記事):天応元年(781),延暦十九~二十一年(800~802),貞観六~七年(864~866初頭),承平七年(937),長保元年(999),長元五年末(1033初頭),永保三年(1083),永享七年(1435または1436初頭),永正八年(1511),宝永四年(1707)(2)○:信頼性の低い噴火記事(6記事):天長三年(826または827初頭),貞観十二年(870),天暦六年(952),正暦四年(993),寛仁元年(1017),応永三十四年(1427)(3)★:信頼性の高い火山関連現象(噴火以外)の記事(4記事):寛仁四年(1020),元禄十六年末~十七年初頭(1704),宝永五年(1708),大正12年(1923)(4)☆:信頼性の低い火山関連現象(噴火以外)の記事(3記事):貞観十七年(875),明治28年(1895),大正

    *〒422‐8529静岡市駿河区大谷836静岡大学教育学部総合科学教室Faculty of Education,Shizuoka University,836Oya,Suruga‐ku,Shizuoka422‐8529,Japan

    富士火山(2007)荒牧重雄,藤井敏嗣,中田節也,宮地直道 編集,山梨県環境科学研究所,p.119-136

    119

  • 3年(1914)(5)▲:信頼性の高い史料中の記事であるが,噴火または他の火山関連現象の記録とは断定できないもの(5記事):宝永五~六年(1708~1709),文政八年(1825),嘉永七年(安政元年)(1854~1855),大正15年(1926),昭和62年(1987)(6)◆:富士山以外の火山の噴火記事(1記事):天永三年(1112)(7)■:信頼性の高い記事であるが,火山活動に関連しない現象の記述(12記事):天文十四年(1545),天文二十三年(1554),永禄二年(1559および1560初頭),明和七年(1770),寛政四年(1792),寛政六年(1794),享和元年(1801),天保五年(1834),天保八年(1837),天保九年(1838),安政七年(1860),明治24年(1891)(8)□:信頼性の低い記事であり,かつ火山活動に関連しない現象の記述(3記事):養和元年(1181または1182初頭),元弘元年(1331),文化六年(1809)(9)×:誤記・誤解等によって生じた誤りと考えられるもの(12記事):延暦十八年(799),承和年間(834~848),仁寿三年(853),天安二年(858),貞観元年(859),承平二年(932),長元五年(1032),永禄三年(1560)または四年(1561),寛永四年(1627),元禄十三年(1700),宝永五年(1708),昭和14年(1939)なお,小山(1998a)の内容を大幅に修正・加筆した項

    目,ならびに新たに付け加えた項目については,その小見出しの右端に*印を付した.史料の出自や性格,史料執筆者の略歴については,主と

    して国史大辞典(1979-1997吉川弘文館刊),補訂版国書総目録(1989-1991岩波書店刊)および国書人名辞典(1993-1999岩波書店刊)を参考にした.なお,歴史時代の富士山噴火記録を多数含む史料として

    「宮下文書」がある.「宮下文書」は山梨県富士吉田市の宮下家につたわる一連の古記録・古文書・絵図などの総称であり,歴史学者からはふつう偽書としてみなされている史料群である(つじ,1992;小山,1998b).ただし,「宮下文書」中の延暦噴火の記述を詳しく検討した小山(1998b)は,「宮下文書」が口碑伝承や消滅文書中で伝えられた真実の断片を拾っている可能性を指摘した(後述の「延暦十九~二十一年噴火」の項参照).よって,本論では「宮下文書」を完全な偽書として却下せず,信頼性の低い参考資料として取り上げた.なお,本論で用いた「宮下文書」の史料は「宮下文書」原文の影印版である「神伝富士古文献大成」(1986年八幡書店刊)から直接その記述を翻刻したものである(小山,1998a,b).なお,本論中の西暦年月日は早川・小山(1997)と早川・

    他(2005)の勧告にしたがって1582年のグレゴリオ改暦以前をユリウス暦で表記し,旧暦年月日から西暦年月日への換算は日本暦日原典第4版(内田,1992)にもとづいた.西暦換算を三正綜覧(内務省地理局,1880)にもとづいている研究論文が今日でも散見されるが,内田(1992)が述べている通り,それは適当でない.また,和暦年は西暦年

    と厳密には一致しないため,たとえば延暦十九年は800年1月30日~801年1月17日の期間に相当するが,月日まで問題にしない場合は便宜上「延暦十九年(800)」のようにカッコ内に西暦年を併記した.

    宝亀十一年(780)以前の記事についてし りん さい よう しょう い ず

    平林(1898)は,『富士大縁起』,『詞林菜葉抄』,『伊豆さん えん ぎ

    山縁起』の3つの史料を引用して,孝安天皇三年・四十四年・九十二年,孝霊天皇五年・清寧天皇三年・宜化天皇代の合計6回の噴火記事をリストアップしている.井野邊(1928)は,さらに多くの伝説を年代順にまとめている.しかしながら,これらの記事は具体的な記述に乏しく,かつ富士山が「湧出した」「出現した」等の神話的な内容がほ

    そう とう さん えん ぎ

    とんどである.唯一の「現実的」な記述は,『走湯山縁起』(『伊豆山縁起』)にある「清寧天皇三年壬戌三・四月,富士浅間山焼崩,黒煙聳天,熱灰頻降,三農営絶,五穀不熟,依之帝臣驚騒,人民愁歎」であるが,降灰の激しい噴火があったということ以外の具体的事実は不明である.なお,『日本書紀』中の6世紀前半以前の年月日のほと

    んどが創作されたものであり,実年より古い側にバイアスがかかっていること,その時代の大和朝廷や各天皇の実在の真偽自体に議論があることは,現代の日本史学者が広く認めるところなので,この期間については誤解を避けるために西暦年換算をあえて施さない.『詞林菜葉抄』は貞治五年(1366)成立の,万葉集の注釈書である.『走湯山縁起』は,熱海市伊豆山神社に伝わる史料であり,平安時代末~鎌倉時代頃の成立と考えられている.また,つじ(1992)によれば,『富士大縁起』は『詞林菜葉抄』中の一文である.よって,これらの史料はすべて後世に成立したものであ

    り,神話や伝説とみなしてよいものであろう.何らかの噴火伝承を反映した可能性もあろうが,ここであえて取り上げて検討する価値があると思えない.なお,7世紀後半から8世紀前半と推定される富士山の煙を題材にした和歌が『万葉集』や『柿本集』などにあるが(つじ,1992),そこから具体的な噴火記述を得ることは困難である.

    ●天応元年(781)噴火しょく に ほん ぎ

    朝廷によって8世紀後半に編纂された『続日本紀』に「(天応元年)秋七月(中略)癸亥,駿河國言,富士山下雨灰,灰之所及木葉彫萎」とある.富士山が噴火して降灰があったことが,天応元年七月六日(781年7月31日)に駿河国によって報告されている.しかし,それ以上の具体的記述はなく,噴火の規模・様相は不明である.

    ×延暦十八年(799)和田(1884)は延暦十八年の噴火の史料記述を紹介し(後

    述の「永禄三年または四年」の項参照),Wada(1884)とMilne(1886)もそれを踏襲している.しかし,その噴火開始・終了の日付(三月十四日と四月十六日)が延暦十九年噴火(三月十四日と四月十八日)とほぼ同じこと,溶岩

    小山真人

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  • 流が猿橋に達したという記述が「宮下文書」中の延暦十九年噴火についての記述と一致することから,和田のみた史料は延暦十九年噴火を誤って延暦十八年と記述したものであろう.

    ●延暦十九~二十一年(800~802)噴火*に ほん き りゃく

    『日本紀略』『富士山記』などの史料価値の広く認められた史料,および「宮下文書」に,延暦十九年(800)から二十一年(802)にかけての一連の富士山噴火(以下,延暦噴火)記事がある.正史またはそれに準じる史料価値の高い史料中の延暦噴

    火の記述として,以下に記すA~Cの3つが古来より知られている.(A)平安時代末に成立した史書『日本紀略』に,「延暦十九年六月(中略)癸酉,駿河国言,自去三月十四日,迄四月十八日,富士山嶺自焼,晝則烟気暗瞑,夜則火光照天,其聲若雷,灰下如雨,山下川水皆紅色也」とある.延暦十九年に噴火が三月十四日から四月十八日まで(800年4月11日~5月15日)ほぼひと月続いたこと,噴煙のために昼でも暗く,夜は噴火の光が天を照らし,雷のような鳴動が聞こえ,火山灰が雨のように降ってふもとの川が紅色に染まったことが記述されている.(B)同じく『日本紀略』に,「延暦廿一年正月(中略)乙丑(中略)駿河相模国言,駿河国富士山,晝夜 燎,砂礫如霰者,求之卜筮,占曰,于疫,宜令両国加鎮謝,及読経以攘 殃(中略)五月(中略)甲戊,廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」とある.富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことを,駿河国と相模国の国司が延暦二十一年正月八日(802年2月13日)に報告してきている.同年五月十九日(802年6月22日)には富士山の噴火による砕石によってふさがれた足柄路を捨てて,箱根路(筥荷途)を開いたことが記されている.なお,この箱根路は約1年後に廃され,足柄路が復旧された.『日本紀略』に「廿二年(中略)五月(中略)丁巳(803年5月31日),廃相模国筥荷路,復足柄舊路」とある.以上Aと Bの二つの記述からは,(1)延暦噴火の最初

    のステージが,延暦十九年の三月~四月にかけてほぼひと月つづいた降灰の激しい噴火であったこと,(2)さらに延暦二十年から二十一年初頭?にかけて降灰の激しい噴火があり,噴火堆積物によって旧道がふさがれてしまったこ

    と,の2点がわかる.なお,以上二つの記述の出典を『日ほん こう き

    本後紀』とする研究や解説文がしばしば見られるが,『日本後紀』の該当年の巻は現存しておらず,正しくは『日本紀略』である(この時代について『日本紀略』はおおむね『日本後紀』から抄出しているが,『日本後紀』の本文そのものではない点に注意が必要である).

    みやこのよし か

    (C)以上二つの記述のほか,平安朝廷に仕えた都良香が9世紀後半に著した『富士山記』(11世紀成立と言われる漢

    ほん ちょう もん ずい

    詩文集『本朝文粋』にふくまれる)には,「山東脚下有小山,土俗謂之新山,本平地也,延暦廿一年三月,雲霧晦冥,十日而後成山,蓋神造也」とある.延暦二十一年の三月に

    富士山の東斜面において噴火?が生じ10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたという記述である.つじ(1992)は,この史料にみられる「新山」を現在の

    富士山東斜面にある「小富士」と呼ばれる尾根状の凸部であると解釈し,延暦噴火時の側火山と考えた.現在の小富士の表面は不均質な岩質の緻密な火山岩からなる大小のブロックでおおわれており,スコリアはほとんどみられない.仮に側火山体の一部とするなら,スコリア丘ではなくタフリングの一部であろう.しかし,タフリングに通常ともなうべき火口地形がないため,歴史時代をふくむ新しい時期の噴火の産物ではなさそうである.津屋(1968)も,小富士を富士火山の旧期側火山と考えている.一方,「宮下文書」の延暦噴火にかんする記述は詳細か

    つ膨大である.それらの主要なものは小山(1998b)によって翻刻されている.小山(1998b)は,噴火堆積物と古記録両面からの検討

    をおこない,「宮下文書」の史料的価値の検討ならびに延暦噴火の規模や様相の解明を試みるとともに,延暦噴火による古代東海道の変遷問題について議論した.小山(1998b)によって得られた知見を以下に挙げる.1.北東斜面に西小富士噴火割れ目をみいだし,そこを起源とする Sb-a テフラの分布を明らかにした.富士山北東麓を広くおおう鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩は,西小富士噴火割れ目を流出源とするように見える.西小富士噴火割れ目は延暦二十一年(802)の噴火記録(上記C)に対応すると考えられる.また,北西斜面の天神山-伊賀殿山噴火割れ目も,延暦噴火の際の火口である可能性がつよい.2.「宮下文書」の延暦噴火記事には,明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるが,地質学的事実と矛盾しない部分もある.注意を要する史料ではあるが,少なくともその噴火・古地理記事にかんしては口碑伝承や消滅文書中にあった真実の断片を拾っている箇所があると考えられるため,今後もその内容を検討する価値がある.3.延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は,噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば,むしろ自然である.しかし,歴史地理学的側面から考えると,北麓通過説には不利な点が多い.おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって,延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を,被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう.

    ○天長三年(826または827初頭)噴火?「宮下文書」中の『相模国寒川神社日記録落穂集』(以下,

    『寒川神社日記録』)に「天長三午年,富士山焼ル也」とある.天長三年は826年2月10日から827年1月30日までの期間に相当する.朝廷編纂による史書『日本後紀』には欠落巻が多いため,天長三年部分は欠落している.よって,確かなことは言えないが,信頼性の低い「宮下文書」中の記述であることを考慮して,信頼性の低い噴火記事と考える.

    富士山の歴史噴火総覧

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  • ×承和年間(834~848)延暦噴火のところで述べた『富士山記』には,富士山に

    ついての伝聞記事がいくつか含まれる.その中に「承和年中,従山峯落来珠玉,玉有小孔,盖是仙簾之貫珠也」とある.つじ(1992)は,この記述中の「珠玉」を軽石とみなし,軽石噴出をともなう噴火が承和年間(834年2月12日~848年2月8日)中に生じたと考えた.しかしながら,過去1万年間の富士火山において軽石が

    噴出したのは宝永噴火と約2900年前の砂沢スコリア噴火の2回(それぞれの噴火の初期段階)が知られているだけである(荒井・小山,1996).「珠玉」をスコリアとみなす考えもあろうが,富士火山地域に大量に堆積しているスコリアを,わざわざ特定年間の降下物として珍重し伝承する

    しょく に ほん

    必然性は考えにくい.なお,朝廷編纂による史書『続日本こう き

    後紀』には承和年間のすべてが欠落なく含まれているが,この時期の富士山噴火の記述はみられない.『続日本後紀』には,承和五年(838)に伊豆七島の神津島火山が大規模な珪長質火砕噴火を起こしたことが記述されている.この神津島テフラの分布軸は北西に向いており,駿河国や甲斐国にも降下したことがわかっている(小山・早川,1996).おそらくこのテフラ降下を体験した人々の間で,上記の伝承が生まれたのだろう.

    ×仁寿三年(853),天安二年(858),貞観元年(859)武者(1941)は,以下の3つの史料記述を挙げて「富士

    山異状アリ(?)」としているが,いずれもその時期の火山活動と結びつくかどうかは疑わしい.(1)朝廷によって9世紀後半に編纂された史書『日本文徳天皇実録』に「(仁寿三年)秋七月甲午、以駿河國浅間神預於名神(中略)壬寅,特加駿河國浅間大神從三位」とあり,仁寿三年七月五日(853年8月13日)と七月十三日(8月21日)の2回,富士山の主神である駿河國浅間大神の格上げがなされたことがわかる.(2)朝廷によって9世紀末に編纂された史書『日本三代実録』に「貞觀元年春正月(中略)二十七日甲申,京畿七道諸神進階及新叙,惣二百六十七社(中略)駿河國從三位淺間神正三位」とある.(3)武者(1941)は,『國史記事本末』(水戸藩士青山延光が1861年に著した史書)からの引用として「天安二年自帝即位至是歳,天下群神列官社者,(中略)駿河則淺間神」を挙げている.このうちの(2)については,駿河國淺間神だけでなく

    全国267社の一斉格上げであるから,富士山の異状に結びつくとは思えない.また,(3)については,およそ1000年後の史料であり,かつ天安二年当時の正史である『日本文徳天皇実録』と『日本三代実録』には欠落巻がないにもかかわらずこのことが記されていないので,事実かどうか疑わしい.仮に事実としても「天下群神列官社者」とあるから(2)と同様の一斉格上げかもしれず,天変地異と結びつけるのは早計であろう.832年から886年までの期間は,伊豆地方の10神社に

    おいてのべ35回にもわたる神階の格上げがなされた時期であり,そのうちの28回が850年代にある(仁藤,1994).実際に9世紀に富士山や伊豆七島に噴火が多かったことは事実であり,850年代だけを見ても856年安房国降灰事件,857年に京都で南東から鳴響が聞こえた事件がある(小山・早川,1996).しかしながら,歴史時代に噴火が起きた証拠のない利島

    と御蔵島の神社の神階がそれぞれ3回ずつ格上げになっていること,当時の神階の格上げは気象災害もふくむ天変地異全般に対応していたこと,伊豆地方の神階の格上げには政治的意図も働いていたこと(菅原,1997)から考えて,850年代になされた駿河國浅間大神の格上げを特定の火山異常と結びつけることは,他の独立した証拠がない限り,むしろ不自然と思われる.

    ●貞観六~七年(864~866初頭)噴火貞観六~七年の噴火(貞観噴火)は,青木ヶ原溶岩が流

    出して富士五湖のうちの3湖(本栖湖・精進湖・西湖)がほぼ現在の形となった有名な噴火であり,歴史時代の富士火山の噴火中で,前述の延暦噴火,後述の宝永噴火と並んで,もっとも豊富な文字記録が残されている噴火でもある.前述の『日本三代実録』に「(貞観六年五月)廿五日庚戌

    (中略)駿河國言,富士郡正三位淺間大神大山火,其勢甚熾,焼山方一二許里,光炎高廿許丈,大有聲如雷,地震三度,歴十餘日,火猶不滅,焦岩崩嶺,沙石如雨,煙雲鬱蒸,人不得近,大山西北,有本栖水海,所焼岩石,流埋海中,遠卅許里,廣三四許里,高二三許丈,火焔遂属甲斐國堺」とある(1里=6町=2160尺≒650m,1丈=10尺≒3m).貞観六年五月二十五日(864年7月2日)に駿河国から

    富士山噴火の第1報が届いた.京都までの距離を考えると報告の内容はその数日前の状況を物語っていると言えよう.6月末時点においてすでに噴火が始まっており,流出した溶岩流が本栖湖に流入し始めていた.また,「歴十餘日」とあるから,噴火開始はその十数日前であったことがわかる.つまり,噴火開始は,おそらく京都に報告が届いた7月2日から20日ほど前の6月中旬であったろう.後述の「宮下文書」中の3史料は噴火開始日を五月五日(6月12日)としている.史料自体の信頼性に問題はあるが,一応矛盾はない.続いて噴火の第2報が,貞観六年七月十七日(864年8

    月22日)に甲斐国から京都にもたらされた.『日本三代実録』に「(貞観六年七月)十七日辛丑(中略)甲斐國言,駿河國富士大山,忽有暴火,焼碎崗巒、草木焦 ,土鑠石流,埋八代郡本栖并 兩水海,水熱如湯,魚鼈皆死,百姓居宅,與海共埋.或有宅無人,其數難記,兩海以東,亦有水海,名曰河口海,火焔赴向河口海,本栖 等海,未焼埋之前,地大震動,雷電暴雨,雲霧晦冥,山野難弁,然後有此災異焉」とある.報告の日付から考えて,噴火開始から2ヶ月余り過ぎた

    うみ

    時点での状況が語られている.溶岩流は本栖湖とせ

    ノ湖の2湖に流入し,多くの民家が溶岩流の下敷きとなった.ま

    小山真人

    122

  • た,溶岩流の別の流れは河口湖方面へと向かっている.さらに,湖への溶岩流入前に大きな地震があったことが語られている.同じく『日本三代実録』に「(貞観六年八月)五日己未,

    下知甲斐國司云,駿河國富士山火,彼國言上,決之蓍龜云,淺間名神祢 祝等不勤齋敬之所致也,仍應鎭謝之状告知國訖, 亦奉幤解謝焉」とあり,噴火開始から約3ヶ月後の貞観六年八月五日(864年9月9日)になって,朝廷は甲斐国に対して浅間名神を奉り鎮謝するよう命じている.これ以後,両国からの報告はしばらく途絶え,噴火開始

    から約1年半後にようやく次の記録があらわれる.『日本三代実録』に「(貞観七年十二月)九日丙辰,勅,甲斐國八代郡立淺間明神祠,列於官社,即置祝祢 ,隨時致祭,先是,彼國司言,往年八代郡暴風大雨,雷電地震,雲霧杳冥,難辨山野,駿河國富士大山西峯,急有熾火,焼碎巖谷,今年八代郡擬大領無位伴直眞貞託宣云,我淺間明神,欲得此國齋祭,頃年爲國吏成凶咎,爲百姓病死,然未曾覺悟,仍成此恠, 早定神社,兼任祝祢 ,々潔齋奉祭,眞貞之身,或伸可八尺,或屈可二尺,變體長短,吐件等詞,國司求之卜筮,所告同於託宣,於是依明神願,以眞貞爲祝,同郡人伴秋吉爲祢 ,郡家以南作建神宮,且令鎭謝,雖然異火之變,于今未止,遣使者檢察,埋 海千許町,仰而見之,正中 頂飾造社宮,垣有四隅,以丹青石立,其四面石高一丈八尺許,廣三尺,厚一尺餘,立石之門,相去一尺,中有一重高閣,以石搆營,彩色美麗,不可勝言,望請,齋祭兼預官社,從之」とある.貞観七年十二月九日(865年12月30日),甲斐国八代

    郡に浅間明神の祠を立てて官社に列し,祭祀をおこなわせるという勅が下った.そして,その理由として「往年」に「富士大山西峯」が噴火したことを述べている.「往年」は前述した貞観六年(864)のことを指すだろうから,貞観六年の噴火は「富士大山西峯,急有熾火」,つまり富士山の西側斜面で起きた側噴火であったことがわかる.そして,注目すべきはその後の記述に,甲斐国司は神宮

    を立て祭祀を置いて鎮謝させたにもかかわらず,「異火之變,于今未止」,すなわち異火の変は未だ止んでいないとされていることである.つまり,貞観七年末(865年末~866年初頭)にも噴火が引き続いていたようである.ただし,先に述べた貞観六年七月十七日の甲斐国からの報告にある「溶岩流は本栖湖と ノ湖の2湖に流入し,溶岩流の別の流れは河口湖方面へと向かっている」という情景描写は,現在の青木ヶ原溶岩流の分布状況をほぼ満たしているから,溶岩流出のクライマックスは貞観六年噴火の初期にあったとみられる.貞観七年に起きた噴火は小規模あるいは二次的なものであろう.その11日後の貞観七年十二月二十日(866年1月10

    日),『日本三代実録』に「廿日丁夘,令甲斐國於山梨郡致祭淺間明神,一同八代郡」とあり,甲斐国山梨郡にも八代郡と同じように浅間明神の祭礼をするよう指令が下っている.ここまでが,当時の正史に残る貞観噴火関係の記述である.

    なお,武者(1941)は,『越後年代記』からの引用として「富士山噴火,當國へ灰ふる」を挙げている.『越後年代記』は紀興之によって編まれ,慶応二年(1886)に成立した史書であり,中世以前の記載については見聞を集めただけで考証不十分という(萩原・他,1989).噴火から約1000年後の史料でもあり,越後降灰という内容は信頼するに足りないだろう.また,「宮下文書」中の5史料に貞観噴火にかんする詳

    しい記述がみられる.『富士山貞観大噴火注進事』(以下,『貞観噴火注進事』)によれば,貞観六年五月五日(864年6月12日)に「西之峯」から噴火が始まり,溶岩流が2流に分れ,西の流れは ノ湖に流入して湖が3湖に分れ,東の流れは「御舟湖」を埋めたとある.『富士山大噴火都留駿河富士三郡変化記』と『不二山高天原変革史』(以下,『高天原変革史』)によれば,貞観六年五月五日に「西ノ峯(あるいは西野峯)」より噴火が始まり,ノ湖に流入して湖が3湖に分れたという点は,『貞観噴

    火注進事』と同じである.それに引き続いて貞観六年六月九日から十三日(864年7月16~20日)の噴火によって別の溶岩流が生じて「御舟湖」を埋積し,七月下旬に至るまでの間に合計13ヶ所より噴火したという.『富士山中央高天原変化来暦』と『寒川神社日記録』に

    よれば,貞観六年に溶岩流が13ヶ所から流出して, ノ湖(あるいは西大海)が3湖(あるいは2湖)に分れた.また,御舟海(御舟湖)も溶岩流に埋め立てられて狭くなったという.以上5史料の間に細かな食い違いはあるが,共通してい

    るのは, ノ湖に流入した溶岩流(青木ヶ原溶岩流)の他に,もうひとつ東側に溶岩流の流れがあり,それが「御舟湖」という湖に流入して大部分を埋没させたという,『日本三代実録』にはみられない記述である.なお,『富士山噴火年代記』(以下,『噴火年代記』)にも貞観噴火の記述があるが,噴火後の溶岩流分布についての簡単な記事のみである.実は,「御舟湖」という湖には延暦噴火の際にも溶岩流

    が流入したという内容が「宮下文書」中のいくつかの史料に述べられている(小山,1998b).小山(1998b)は,「宮下文書」中の古絵図を検討し,(1)御舟湖が現在の河口湖と富士吉田の間に描かれていること,(2)その場所にあったとされる湖を埋没させることのできる歴史時代の溶岩流としては剣丸尾第1溶岩しか候補が見いだせないことを述べた.しかし,剣丸尾第1溶岩の直下からは9世紀なかば~10

    世紀頃の遺物が出土しているから,後述するように937年噴火時の溶岩流とみるのが妥当であろう(小山,1998a).つまり,864年の溶岩流が御舟湖を埋没させたという「宮下文書」の記述は,上の出土遺物の年代観が正しければ,誤りと思われる.

    ○貞観十二年(870)噴火?

    富士山の歴史噴火総覧

    123

  • 「宮下文書」中の3史料(『高天原変革史』,『寒川神社日記録』,『噴火年代記』)に「(貞観)十二庚寅年七月,富士山中央依り噴火す」(『高天原変革史』)などの類似した内容の噴火記事がある.貞観十二年当時の正史である『日本三代実録』には欠落巻がないにもかかわらず該当する記述がないので,信頼性の低い噴火記事と考える.

    ☆貞観十七年(875)噴気?前述の『富士山記』に「貞観十七年,十一月五日(875

    年12月6日),吏民仍舊致祭,日加午天甚美晴,仰観山峯,有白衣美女二人,雙舞山嶺上,去嶺一尺餘,土人共見」とある.「白衣美女」は雲のたとえだろうか.富士山上空にはしばしば雲がかかるが,わざわざ伝承されるからには異常な現象があったと思われる.白い噴気?が2ヶ所に望見されたのかもしれない.なお,類似した記事が「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『噴火年代記』)にもある.

    ×承平二年(932)「宮下文書」中の『噴火年代記』に「承平二年(932)十月十三日,富士山峯より八方に噴火至し,熱湯岩石大電にて如雨降る」とあり,これにもとづいた「富士史」(三輪,1906)の記述が武者(1941)に引用されている.しかし,次項で述べるように「宮下文書」の『高天原変

    革史』にほとんど同じ記述があり,承平七年(937)十一月十三日の事件とされている.同じ「宮下文書」の『寒川神社日記録』にも承平七年の簡単な噴火記事があるが,承平二年噴火記事はない.一方,史料価値の高い『日本紀略』には次項で述べるように承平七年十一月の噴火記事がある.『噴火年代記』中には元仁元年十月三日(1224年11月15日)に原本から筆写されたとの記載があるから,筆写の際に「承平七年十一月」を「承平二年十月」と誤記したと思われる.

    ●承平七年(937)噴火平安時代末に成立した史書であり,史料価値の広く認め

    られている『日本紀略』に「(承平七年)十一月某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」とある.神火が水海を埋めたというのは,おそらく溶岩流が湖(または海)に流入したのであろう.奈良興福寺に伝えられた可能性の高い『興福寺年代記』(早川・小山,1998)にも「(承平)七 十一月富士山大埋海」とあり,ほぼ同じ内容である.武者(1941)は,『日本通記』から「(承平七年)十一月

    某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」という記述を引用している.『日本通記』は長井定宗によって元禄十一年(1699)に書かれた通史である.噴火記述の内容が『日本紀略』と同じことから判断して,『日本紀略』から抜書きされたものであろう.なお,「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『寒川

    神社日記録』)にも承平七年噴火の記述があり,「承平七丁酉年十一月十三日(937年12月18日),富士山峯依り八

    方に噴火し,熱湯岩石雨嵐之如く雨等須響百電之轟くに似たる」(『高天原変革史』),「承平七酉年,富士山峯ヨリ熱湯八方ニ焼出成.澤米山尻ニて当ヒラハ止成」(『寒川神社日記録』)となっている.承平七年噴火については,溶岩流が湖(または海)に流

    入したという注目すべき記述がある.富士火山の歴史時代をつうじて外海(駿河湾・相模湾)に達した溶岩流は知られていない.富士五湖のいずれかに達した溶岩流としては,これまで本栖湖と ノ湖を埋めた青木ヶ原溶岩流と,山中湖に達した鷹丸尾溶岩流が知られていた.前者は貞観噴火に対比されるので,後者を937年噴火の産物と考える見解もあった.しかしながら,後者は延暦噴火の際に流出した可能性がつよい(小山,1998b).「宮下文書」中の複数史料には,延暦噴火や貞観噴火の際に流出した溶岩流が「御舟湖」という湖を埋めたという記述があり,「御舟湖」が描かれた「宮下文書」中の古絵図の検討の結果,その湖を埋積させた歴史時代の溶岩流として剣丸尾第1溶岩しか候補が見あたらないことを述べた(本論の貞観噴火の項,および小山,1998b).剣丸尾第1溶岩の直下から9世紀なかば~10世紀頃の陶器などが出土しているから,剣丸尾第1溶岩を937年噴火の産物とみなすことができる(小山,1998a).なお,富士吉田市付近では,実際に剣丸尾第1溶岩の分布の北縁に沿って湖沼堆積物が分布することが知られている(上杉,1998の付図).

    ○天暦六年(952)噴火?「宮下文書」中の3史料(『高天原変革史』,『寒川神社日記録』,『噴火年代記』)に「村上天皇天暦六壬子年二月,富士山峯依り北東に噴火ス」などの類似した内容の記述がある.「宮下文書」以外の史料に該当する記事がないことから,信頼性の低い噴火記事と考える.

    ○正暦四年(993)噴火?「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『噴火年代記』)に「正暦四癸巳年八月,富士山三昼夜北東鳴動し噴火有り」などの類似した内容の記述がある.「宮下文書」以外の史料に該当する記事がないことから,信頼性の低い噴火記事と考える.

    ●長保元年(999)噴火ほん ちょう せい き

    藤原通憲が平安時代末に編纂した史書『本朝世紀』に「(長保元年三月)七日庚申(中略)駿河國言上解文云,日者不字御山焼由,何祟者,即卜申云,若恠所有兵革疾疫事歟者」とある.不字御山(富士山)が噴火したとの知らせが,長保元年三月七日(999年3月26日)に京都にもたらされたが,規模や様相などの具体的記述はみられない.兵乱や疾病の前兆と恐れられて占いがなされたようだが,一般に古代~中世社会の天変地異への反応の程度は時代背景や流行した思想の影響を多分に受けるので,噴火規模には単純に結びつかないだろう.噴火の場所・規模・様相は不明である.

    小山真人

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  • ○寛仁元年(1017)噴火?「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『噴火年代記』)に「寛仁元丁巳年九月,富士山北方三箇所噴火ス」などの類似した内容の記述がある.「宮下文書」以外の史料に該当する記事がないことから,信頼性の低い噴火記事と考える.

    ★寛仁四年(1020)火映*さら しな すが わらの たか すえの むすめ

    『更級日記』は,菅原孝標女が1060年頃に自分の半生を回顧して著した自伝であり,その冒頭付近には13歳の頃にみた富士山の情景が書かれている.彼女は,家族とともに父の仕官地の上総国を寛仁四年九

    月三日(1020年9月22日)に発って京都へと東海道を旅する途上で,足柄峠を越えて富士山の東麓から南麓を通過している.富士山の姿については,「さまことなる山のすがたの,紺青をぬりたるやうなるに,雪の消ゆる世もなくつもりたれば,色こき衣に,白き袙着たらむやうに見えて,山の頂のすこし平ぎたるより,煙は立ちのぼる.夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と記述している.菅原孝標女は富士山麓での降灰や鳴動の体験を記述して

    いない.『更級日記』は彼女の感受性の豊かさがみごとに表われた作品だから,もし彼女が噴火にともなう降灰や鳴動を体験していれば間違いなくそのことを書いたと思われる.よって,彼女が見た富士山は,噴気を漂わせていたとはいえ噴火中のものではなく,「夕暮は火の燃え立つも見ゆ」という記載は火映現象を記述したものと考えられる.つまり,1020年の秋,富士山の山頂火口には赤熱した溶

    岩湖または(夜間に赤熱光を出すほどの)高温の火山ガス放出現象があった.このことから,当時の富士山の火山活動は(噴火中でないとはいえ)高いレベルの状態にあったことがわかる.

    ×長元五年(1032)富士山が1032年に噴火したという記述が,とくに明治

    時代の研究論文にしばしば見られるが,次の長元五年噴火の西暦表記を誤ったためと思われる.長元五年の大部分は1032年であるが,噴火のあった十二月十六日は年が明けて1033年1月19日である.

    ●長元五年末(1033初頭)噴火『日本紀略』に「(長元六年二月)十日丙午(中略)駿河國言上,去年十二月十六日富士山火,起自峯至山脚」とある.長元五年十二月十六日(1033年1月19日)に富士山が噴火したという駿河国の報告が,長元六年二月十日(1033年3月13日)になって京都にもたらされた.「起自峯至山脚」とあるのは,山体の上部から流出した溶岩流が山麓にまで到達したという意味だろう.実際に山麓に分布する溶岩流との確実な対比は,まだなされていない.

    ●永保三年(1083)噴火ふ そう りゃっ き

    延暦寺の僧皇円が著した史書『扶桑略記』(11世紀末~

    12世紀初め成立)に「(永保三年)三月廿八日,有富士山焼燃恠焉」とあり,1083年4月17日に富士山が噴火したらしいことがわかる.残念ながら,この時期の貴族の日記の数や現存状況は限られており,次項の1112年京都鳴響事件のような生々しい同時進行の記録は見つかっていない.しかしながら,1112年京都鳴響事件の際には,京都の貴

    族たちの間で富士山噴火のことが言及されている.鳴響の原因として,富士山と浅間山の噴火可能性が噂されるので

    ちゅう ゆう き

    ある.権中納言藤原宗忠の日記『中右記』の天永三年(1112)十月条に「廿四日(中略)下人説云,駿河國富士山并信濃國朝間峯焼落之時,其聲振動,遠聞天下,若是如此事歟云々,仍被尋之處,從尾張國上道下人云,從彼國猶當東方有此聲者,彌有其疑」とある.すなわち,富士山噴火の時も浅間山噴火の時も,このような音がしたと説く者がいた.このうちの浅間山の噴火は,嘉承三年/天仁元年(1108)

    の噴火(早川・中島,1998)を指すことは間違いない.富士山の噴火がいつのものを指すのかは明らかでないが,当時の人々の記憶に新しいものであるとすれば,『扶桑略記』が記述する1083年噴火に相当する可能性がつよく,1083年の富士山噴火による鳴響が京都で聞こえたことになる.1083年以後,2~3年間にわたって日色・月色異常記事が目立つ.「(応徳二年)四月廿七日(1085年5月23日),申時,薄蝕,日色如血,天光入山」,「(同年)八月十五日丙子(1085年9月6日),亥時,月蝕皆既,月色似紅,无光天暗」,「応徳三年丙寅正月十九日戊申(1086年2月5日),々刻,日色赤如朱,全以无光気矣」(いずれも『扶桑略記』)である.この大気異常が1083年の富士山噴火と関係するかどうかは不明である.この時期の日本の他の火山噴火として知られているのは三宅島の応徳二年(1085)噴火(月日不明)のみである.この噴火の堆積物としては106m3程度の溶岩流しか知られておらず(津久井・鈴木,1998),大気異常を起こすとは思えない.世界的にもこの時期にVEI が3を越える噴火は知られていない(Simkinand Siebert,1994).なお,「宮下文書」中の2史料(『高天原変革史』,『噴火

    年代記』)が1083年の富士山噴火について言及している.『高天原変革史』に「永保三丙辰年七月,又七箇所依り噴火し,熱湯氾濫たり.此之時終に熄み,其余脉伊豆国大嶋に伝延し,鳥羽天皇天永三壬辰年(1112)依り同嶋に噴火始る也」とあり,『噴火年代記』の記述もほぼ同じである.これらの記事が真実だとすれば,1083年噴火の後,富士山にはしばらく噴火が生じなかったことになる.富士山噴火にともなう鳴響が京都に達したのなら,強い

    爆発をともなったことが間違いないから,テフラの分布が地層として確認できる噴火の中から候補が選ばれるべきだろう.

    ◆天永三年(1112)伊豆七島の噴火前出の『中右記』の天永三年十月条に「廿二日(1112

    年11月13日)(中略)從一昨日,東方有鳴動聲,其響如

    富士山の歴史噴火総覧

    125

  • 打大鼓,衆人驚奇,不知何所,廿三日丁未 天晴,巳時許大鳴動,世間驚恐極,是何徴哉(中略)廿四日 早旦從院有召,則参入,雖御物忌參殿上,攝政令參給,大藏卿参入,以長實朝臣被仰云,從去廿日有鳴動音,于今不止,甚所懼思食也,何様可被沙汰事哉」とあって,天永三年十月二十日(1112年11月11日)に京都で東方から鳴響が聞こえ,人々が怯えたことがわかる.その後,十一月二日(11月22日)にも鳴動があったことが,『中右記』に「二日 天晴,巳時許大有鳴動,聲如我頭響,大略天之所為歟,非東國山聲歟,甚不得心事也」と記されている.また,同じく『中右記』天永三年十月条に「(同月)廿九

    日(1112年11月20日)(中略)又或人來談云,此日者當東方夜晝有鳴動聲,不知何所之間,從坂東國上洛下人云,駿河國富士山□動也,又火炎高昇,近隣國々騒動云々,但未進國解之間,不知實説也」とあり,東国から来た者が富士山噴火の発生を伝えたとある.しかし,『中右記』の筆者は,当該国からの報告が未着として判断を保留した.静岡県(1989)および原(1996)は,上の記事の存在か

    ら富士山が噴火したと判断している.もしそれが事実なら,以下の史料記述が示すように,伊豆七島の火山も富士山と同時噴火していたことになり,重要である.

    でん りゃく

    しかしながら,摂政藤原忠実の日記『殿暦』の同年十一月条に「廿四日(1112年12月14日),丁丑(中略)頭弁来云,伊豆国解持来,東方鳴事也,解状云,海大鳴両三日」とあり,伊豆国からの報告によって鳴響は海上から聞こえたことが判明した.さらにその3日後の十一月二十七日(12月17日),『中右記』に「廿七日(中略)予不能参逢,但不出御南殿,是去月天下鳴動御祈者,入夜予参内,是依可行軒廊御卜也」とあって,東方鳴響事件の軒廊御卜(事件の吉凶を占う祭事)がとりおこなわれているが,そこには「伊豆國司申海上神火事,吉凶可占申者」「伊豆國解云,去十月中下旬之比,海上火出來,鳴動如雷者,是去月天下鳴動聲,大略此響歟,希有奇恠第一之事也」とあるのみで,富士山のことが一言も言及されていない.以上のことから判断して,結局朝廷は東方からの鳴響の

    原因を富士山ではなく,伊豆国の海上に見えた噴火(おそらく伊豆七島火山列のどこか)と判断したように見える.先の東国から来た者からの伝聞は,誤った情報を伝えていたのだろう.

    □養和元年(1181または1182初頭)崩壊?著者不明だが15世紀後半に成立したと考えられている

    りゅう せん じ ねん だい き

    『立川寺年代記』に「養和元年(中略)此年富士山峰崩」という簡単な記述がある.国史大辞典によれば,同史料は富山県の立川寺において当時の僧が編纂したらしいが,記事に誤りが多く十分な史料批判が必要であるとされている.史料の文面を信頼すれば,養和元年(1181年1月17日~1182年2月4日の間)に富士山に規模の大きな崩壊が起きたことになる.この時期に富士山地域での地震をふくむ他の天変地異記録は知られていないが,史料の欠落が十分

    ぎょく よう

    あり得る時期ではある.京都で書かれた日記では,『玉葉』

    きっ き

    に養和元年一月八日(1181年1月24日),『吉記』に養和元年三月七日(1181年4月22日)の有感地震の記録がある(いずれも被害の記載はなし).今後の検討事項であろう.

    □元弘元年(1331)地震と崩壊?14世紀後半に成立したとされる軍記物語『太平記』に

    「(元弘元年)七月三日,大地震アリテ,紀伊國千里之遠潟,俄ニ陸地ニ成事二十餘町也,又同七日酉刻ニ,地震アリテ,富士之禪定崩ルゝ事数百町也ト」(巻二,西源院本)とある(萩原・他,1995).元禄四年(1691)にまとめられた『太平記』の注釈書『参

    考太平記』では,「富士之禪定」は「富士ノ絶頂」となっている(武者,1941).また,『参考太平記』では史料による上記地震の日付の食い違いが議論されており,『太平記』今川家本の元弘元年十月,金勝院本の元弘二年七月,北条家本と『神明鏡』(15世紀中頃に成立した史書)の元徳二年七月は正しくないとされている(萩原・他,1995).このように中世史料中ですでに日付の食い違いがあるため,武者(1941)に引用された『桜雲記』と『本朝年代記』(ともに江戸時代以降に成立)に記された日付もまちまちである.上記2つの地震のうち,七月三日の紀伊半島の地震記述

    について文献史学的および地理学的調査をおこなった萩原・他(1995)は,地震隆起や地震の存在そのものに否定的見解を述べている.しかし,1331年頃は京都で記述された日記がほとんど現存しない期間にあたるから,紀伊半島の地震隆起は誇張であるとしても,地震の存在そのものを否定するのは行き過ぎと思われる(小山,1999).つじ(1992)によれば,静岡市駒形にある日蓮宗感応寺

    の第三代住職日寿の伝記に「元弘元年七月七日の大地震のため富士市にあった感応山滝泉寺が崩壊し,その後駿府に移転されて改名されたのが今の感応寺である」との内容が記されているという.また,この震災と寺の移転については日蓮宗関係の文書集成である『日蓮宗宗学全書』中の記載とも一致するという.このことから,つじ(1992)は,元弘元年七月七日の富士地域の地震を事実と考えている.よって,元弘元年七月七日(1331年8月11日)に起き

    た地震の際に富士山が大規模な崩壊を起こした可能性は,今後十分な検討に値すると考えられる.

    ○応永三十四年(1427)噴火?武者(1941)は,『信濃國淺間嶽記』の一節「応永三十

    四年六月四日(1427年6月28日),富士と淺間虹□吹き」を八木(1936)から引用し,富士山および浅間山の噴火記事とみなしている.八木(1936)を入手していないが,『信濃國淺間嶽記』は国書総目録にある『浅間嶽之記』(別名『信濃国浅間嶽之記』)と思われる.この史料は萩原(1993)が校訂し,天明三年(1783)噴

    火部分だけを『信濃国浅間ヶ嶽の記(抄)』として示しているが,天明噴火より前の噴火年表が書かれていたという前

    小山真人

    126

  • 文は省略されているため確かなことは不明である.萩原(1993)によれば,同史料は,主として浅間火山の

    天明三年噴火を記録するために天明六年(1786)に長野県北佐久郡において書かれたものである.1427年から360年ほど経た時代の記録であり,他の浅間山噴火関係史料にも同種の記述は見られないため,当該記事の信頼性は低いと考える.

    ●永享七年(1435または1436初頭)噴火『王代記』に「永享十一年己未(中略)同五年癸丑九月十六日夜大震動シテ六地蔵コロフ.同七年乙卯ニ富士ノ火炎見ヘタリ」とある.清水・服部(1967)によれば,『王代記』は現山梨市にある窪八幡宮の別当上之坊普賢寺に伝わる年代記であり,同寺の僧が甲州内外の治乱について見聞したところを書き伝えたものらしい.次項で述べる『妙法寺記』とともに,信頼性の高い良質史料と考えられている.永享七年(1435年1月30日~1436年1月18日の間)に

    富士山に火炎が見えたという.山梨市付近(富士山の北35km)から富士山を見ると,六合目(海抜2,400m付近)以上の植生のない部分しか見えないから山火事とは考えにくい.次の1511年記事と同様,噴火したと考えたほうがよいだろう.なお,火炎望見記事の直前にある「同五年癸丑九月十六

    日夜大震動シテ六地蔵コロフ」という1433年10月28日かん もん ぎょ き

    の地震記事は,当時京都で書かれていた日記『看聞御記』などの複数史料に京都で有感であったこと,鎌倉に大被害があったことが記載されており,信頼性が高い.この地震については震源や規模があまり明らかにされて

    いないが,鎌倉と甲府盆地に被害があったことと京都で有感だったことを考えれば,マグニチュード(以下,M)7クラスかそれ以上の規模と考えてよいだろう.石橋(1994)は,この地震が相模トラフ地震であった可能性を指摘している.富士山の永享七年噴火が事実とすれば,この地震の約2年後ということになる.この噴火は,「炎」が見えたとあって「煙」の記述がな

    いことから,溶岩流を流出する穏やかな噴火であった可能性がつよい.甲府盆地から見える,六合目より高い場所に給源をもつ溶岩流,たとえば標高2,700~2,900m付近に給源火口のある大流溶岩に対比できるかもしれない.

    ●永正八年(1511)噴火『妙法寺記』に「永正八辛未(中略)此八月大原ヘ天狗共寄テ三ヒ時ノ声ヲ作ル也 村ノ人々皆舌スクミテ物云事アタハス又富士山ノカマ岩燃ル也」とある.『妙法寺記』は室町~戦国時代の甲斐国都留郡を舞台とする年代記であり,現在の山梨県南都留郡河口湖町にある日蓮宗妙法寺の僧が書き伝えたものと推定され,多数の異本の存在(名称

    かつ やま き

    も『勝山記』などさまざま)が知られている.『妙法寺記』と系統の異なる写本とされる『勝山記』(都留市史資料編に収録)の記述も上とほぼ同じである.なお,武者(1941)

    は『妙法寺記』のほかに,『妙法寺旧記』からの引用としてほぼ同じ文「永正八年,富士山鎌岩焚」を引用している.『妙法寺記』の異本のひとつとして『妙法寺旧記』の名前が知られているので,それを参照したのだろう.永正八年(1511)八月に「富士山ノカマ岩」が燃えたと

    いう.この記述だけでは山火事も疑われるが,カマ岩の場所と言われる富士吉田口登山道六(~七?)合目付近(後述)には植生がほとんどないので考えにくい.前項(永享七年)の例と同じく,噴火と考えるのが妥当であろう.また,その直前の文「大原ヘ天狗共寄テ三ヒ時ノ声ヲ作

    ル也 村ノ人々皆舌スクミテ物云事アタハス」に注意すべきである.「大原」は,河口湖南岸一帯を占めた都留郡大原庄のことである.この記事は,大原庄において異常な鳴動が聞こえたことを伝えていると思われ,火山活動に起因するものかもしれない.松平定能が編纂し文化十一年(1814)に完成した『甲斐

    国志』(巻之三十五)に「六合目此邊凡テカマ岩ト云遠ク望メハ岩ノ形カンマンノ梵文ニ似タリ故ニカク稱スルモ既ニ久シキ事ニヤ大原舊記(勝山記カ)ニ永正八辛未年八月富士山鎌岩モユルトアリ此巌間ヨリ今モ時々煙立ツ事アリ火気伏シタルニヤ」とある.同じ頃成立した江湖浪人月所

    かく そう ろく

    による『隔掻録』にもほぼ同じ内容が書かれており,都留郡から富士山頂への登山道の道順にしたがって各場所の地誌が述べられている箇所にある.つまり,カマ岩というのは都留郡から富士山頂に登る道(おそらく富士吉田口登山道)の六合目付近らしい.なお,「鎌岩」という地名は,1491年頃に記された『日

    国覚書』にも記されているから(堀内,1995),「鎌岩」自体が1511年の噴火産物というわけではなさそうである.一方,江戸末期(1840年から1846年の間)に成立した

    絵画帳『富士山明細図』(小澤隼人・筆)には,富士吉田登山道の七合目と七合五勺目の間に「カマイハ(神満岩)」が描かれている(富士吉田市歴史民族博物館,1997).前述の「鎌岩」が「神満岩」と同じであるとすれば場所が若干異なることになるが,不一致の原因についてはわからない.なお,現在の富士吉田口登山道の七合目に「鎌岩館」という山小屋があるが,由来は調べていない.

    ■天文十四年(1545)土石流前出の『妙法寺記』に「天文十四乙巳(中略)二月十一

    日富士山ヨリ雪シロ水オシテ吉田ヘオシカケ,人馬共押流シ申候.殊ニ其水ニテ下吉田冬水麦ヲ悉押流申候.相残候大麦小麦吉」とある.天文十四年二月十一日(1545年3

    ゆき しろ

    月23日)に雪代(雪泥流)が発生し,富士吉田にまで流下して大きな被害を与えたことがわかる.

    ■天文二十三年(1554)土石流『妙法寺記』に「天文廿三甲寅 此年正月,雪水富山ヨリ出申候事正二三月迄十一度出申候.余リ不思議サニ書付申候」とある.天文二十三年(1554)の正月から三月にかけて雪代が11回発生し,異常な現象として記録されてい

    富士山の歴史噴火総覧

    127

  • る.

    ■永禄二年(1559および1560初頭)土石流『妙法寺記』に「永禄二己未 正月小二月大.正月申日雪水出候而,悉田地家村ヲ流シ候(中略)此年十二月七日ニ大雨降,俄ニ雪シロ水出テ,法ケ堂皆悉流レ申候.又在家ノ事ハ中村マルク流候事無限」とある.正月申日は十一日(1559年2月18日)または二十三日(同年3月2日)である.永禄二年の正月に1度,十二月七日(1560年1月4日)に1度,雪代が発生し,山麓の村や田畑に大きな被害があった.「中村」は現在の富士吉田市下吉田の一部にあたるから,十二月の雪代は富士吉田にまで達した.

    ×永禄三年(1560)または四年(1561)小鹿島(1894)に「永禄三年是歳駿河富士山噴火(地震

    学協会報告)」という記述があり,これが後の時代の研究者にしばしば引用されて1560年に富士山が噴火したとされてきた.しかし,注意すべきは,引用元として「地震学協会報告」が挙げられていることである.時代関係から言って「地震学協会報告」がMilne(1886)をさすことは間違いない.Milne(1886)の富士山の項をみると,1560年の噴火はWada(1884)からの引用となっている.Wada(1884)は「1878年に山梨県に行った際,下吉田

    において富士山の歴史噴火の年代を得た(一部は渡辺氏所有の史料から採録した)」として,次の8つの噴火を挙げている:(1)延暦十八年(799)三月十四日~四月十六日,(2)延暦十九年(800)三月,(3)延暦二十一年(802)三月,(4)貞観六年(864)五月一日~五月二十五日,(5)承平七年(937),(6)元弘元年(1331)七月七日,(7)永禄三年(1560),(8)宝永四年(1707)十一月三日.下吉田というのは現在の富士吉田市下吉田であろうが,

    渡辺氏が誰かは不明である.なお,和田(1884)は,Wada(1884)とほぼ同じ記述をのせるが,(2)は延暦十九年三月十四日~四月十八日,(7)は永禄四年(1561)としている.さらに注意すべきは,Wada(1884)は,上述の噴火(1)

    について「溶岩が桂川を下って猿橋に達した」,(4)について「溶岩流が富士吉田に達した」等の簡単な噴火記述を述べた後に,(4)と(8)に関する詳細な記述を「Klaprothの記述」から引用している.この「Klaproth の記述」は,Tit-singh and Klaproth(1834)の年代記(すなわち,『日本王代一覧』の翻訳本)をさすと思われる(小山,1998a).また,(5)~(7)についてはKlaproth の記述にないとして噴火の内容を何も記述していない.つまり,Wada(1884)は,(1)と(4)以外の噴火の

    具体的な記述を下吉田の史料から得ていないようである.また,1560~1561年は『妙法寺記』や『王代記』などの信頼性の高い年代記に記述された時代にあたるが,両史料にはこの時期の富士山の異常について何も書かれていない.よって,現状では1560(1561?)年噴火の存在は疑わ

    しいと判断せざるを得ない.なお,Wada(1884)が記述

    する(1)の内容「溶岩が猿橋まで達した」,および(4)の内容「溶岩が富士吉田まで達した」は地質学的には誤りであり,それと同様の記述は「宮下文書」中の史料にしばしば見られる(小山,1998b).Wada(1884)が得た下吉田の史料は,おそらく「宮下文書」またはその派生文書か,その他の信頼性の低い地方史料だろう.

    ×寛永四年(1627)武者(1941)は,天保十二年(1841)に大野広城が完成

    させた年代記『泰平年表』から「富士山噴火,江戸雨灰四日,其色黒」を引用しているが,該当する記述は『泰平年表』(続群書類従完成会刊)には見あたらない.武者(1941)は,同じ記述が『校正王代一覧』にもあるとし,さらに『結録』から「寛永四年十一月二十三日富士山焚ケ,江戸黒

    灰降ルコト四日」という記述を引用している.しかし,『校正王代一覧』『結 録』という名の史料はともに国書総目録に見あたらず,素性不明である.いずれにしろ,十一月二十三日という日付は後述の宝永

    噴火の開始日と同じだから,「寳永(宝永)四年」のところを「寛永四年」と誤って記したものである可能性が高い.

    ×元禄十三年(1700)や し さん りゃく

    内務省地理局(1884)は,『野史纂略』からの引用として「富士山火起」という記事をあげ,元禄十三年に富士山が噴火したとしている.この見解は,その後Milne(1886)や小鹿島(1894)を初めとする多くの研究者にそのまま無批判に踏襲されている.しかし,『野史纂略』は水戸藩士青山延光によって幕末

    に書かれた通史であり,元禄十三年から100年以上経過した頃の記録である.そのうえ数多くある同時代記録の中に,これまで元禄十三年の富士山噴火記録は知られていない.さらに,実際に『野史纂略』の元禄十三年条を見ても該当記事が見つからないという(石橋克彦,私信,1994).現状では記事自体の存在すらも定かでない,きわめて疑わしい噴火記事と判断せざるを得ない.

    ★元禄十六年末~十七年初頭(1704)鳴動くまん どう

    沼津市東熊堂にある大泉寺にいた僧侶教悦が残した覚書『元禄十六癸未十一月□一日夜丑之刻大地震事』に「扨又極月晦日ニハ富士山ナリ,正月二日,三日両日ニハ大分ニナリ,ソレヨリ地震少ヅヽニナリ,自然トユリヤミ候」とある(若林,1996a).相模トラフで生じたプレート境界地震である元禄関東地

    震は,元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)の丑刻に発生したことが知られているので,上記史料題名の「十一月□一日」は十一月廿三日の誤りであろう.その35日後(若林は39日後としているが誤植であろう)の十二月二十九日(1704年2月4日)に富士山が鳴動し,翌年正月二日と三日(1704年2月6日と7日)にさらに大きく鳴動したという.同史料中の他の記述には,元禄関東地震の余震が沼津で

    小山真人

    128

  • も日々感じられ,仮設した小屋で年を越したとある.一般に,地震には鳴動が伴うものがあることが知られているが,ここであえて「富士山ナリ」と書かれていることから,それまでの余震にはなかった鳴動が富士山方向から聞こえてきたのであろう.富士山にはしばしば雪代が発生し,鳴動をともなうこともあるが,厳冬期であるこの季節には考えにくい.その後,周知のごとく宝永四年十月四日(1707年10月

    28日)に駿河・南海トラフでプレート境界地震(宝永地震)が発生し,その49日後に富士山が次項で述べる大規模な噴火(宝永噴火)を起こした.後述するように,宝永噴火の前にも富士山の鳴動が生じたことが知られている.以上のことから類推して,若林(1996a)の推測通り,1704

    年2月4~7日の富士山鳴動は,元禄関東地震が引き金となって富士火山のマグマ活動が活発化した(が噴火には至らなかった)事件とみるのが自然であろう.

    ●宝永四年(1707)噴火*宝永四年十一月二十三日(1707年12月16日)に富士

    山の南東斜面にあらたな火口(宝永火口)が開き,大規模かつ爆発的な噴火(宝永噴火)が発生した.この噴火については,江戸の近郊での事件ということもあって,数多くの記録・文書・絵図が残されている.それらの一部は武者(1943a)に採録されているが,その後も歴史学者による史料収集が続けられ,主として地元の県市町村史の中に採録され続けている.これらの史料にもとづいて,小山(2006)は宝永噴火の

    推移や特徴を以下のようにまとめている.1)宝永噴火は,宝永東海・南海地震(宝永四年十月四

    日,1707年10月28日)の49日後の宝永四年十一月二十三日(1707年12月16日)正午前頃に発生し,宝永四年十二月九日(1708年1月1日)未明の噴火停止まで16日間に及んだ.2)噴火の10数日前(1707年12月3日頃)から,富

    士山東麓では毎日のように鳴動が感じられた.なお,宝永地震より前(宝永四年九月時分)から,富士山の山中では毎日幾度も小地震があったが山麓では感じなかったとの裾野市須山の記録もある.3)噴火前日の午後から裾野市須山と富士市吉原で頻繁

    に地震が感じられるようになった.夜になって群発地震の規模が拡大し,東麓一帯と小田原・沼津・元箱根・長野県下伊那郡・名古屋・江戸でも地震を感じた.噴火当日の早朝と噴火直前に,山麓ではとくに強い地震があった(ただし,地震による死者はなかった).なお,林・小山(2002)は,これらの前兆地震の規模と深さの推定を試み,マグマの上昇過程を検討している.4)噴火開始は1707年12月16日(宝永四年十一月二

    十三日)10~12時頃である.富士山の植生限界付近に最初の火口が開いたと記述する史料が複数ある.5)噴火開始から2~3日間,江戸から長野県下伊那郡

    までの広い範囲にわたって,爆発的噴火に伴う空振とみら

    れる戸・障子などの断続的な振動が発生し,原因を知り得ぬ人々に著しい不安を与えた.6)12月16日の日没頃,噴煙から降下する火山礫・火

    山灰の色は,それまでの白色または灰色から,黒色へと変化した.7)空振・雷鳴・噴煙目撃・降灰の激しさなどの記述か

    ら判断して,12月16日午後から17日朝までが噴火のクライマックスである.このことは,現存する堆積物最下部(ユニットHo‐I と Ho‐II:宮地,1984)に粗粒礫が多いことと調和的である.8)噴煙の目撃記録,空振・降砂の記述などから考えて,

    噴火がはっきりと小康状態になったと判断できる期間が,いくつかある.噴煙や空振がないという証言は朝から午前中に多く,降砂があったという記録は夕方から未明に多い.9)12月17日の夜明け前に,火口の南南東(沼津市原)

    にも一度だけ降灰した.10)17日の日没後まもなく,噴火期間中で最大と思われる地震があった.この地震は,伊勢・名古屋・長野県下伊那郡・江戸でも強震として記録されており,富士山付近ではそれよりやや強い揺れであったが,被害の報告はない.沖合でおきた宝永地震の余震のひとつか,富士山下のマグマ移動に伴ったとしても震源が深い地震と思われる.11)噴煙柱は,江戸,長野県下伊那郡,名古屋でもたびたび目撃された.江戸では,噴煙が火口から東方へたなびいていく様子が,噴火の全期間を通じて詳しく観察されている.12)夜間は,山麓一帯と元箱根・静岡市清水区付近から,火口上に立ち上る火柱や赤熱火山弾放出が目撃された.13)12月16日から19日にかけて降礫が細かくまばらになっていったと解釈できる記述(小山町生土)がある.現存する堆積物下部(ユニットHo‐I から Ho‐III 基底部にかけて)の粒径変化(概して上方細粒化)と調和的である.14)江戸においては,12月23日を最後に空振や雷鳴の記述が途絶えたが,降砂の記録は28日未明まで,噴煙の目撃記録は31日昼まである.15)12月25日夕方頃から27日昼(あるいはそれ以降)まで,噴火活動の高まりがあった.28日までに噴火割れ目が上方に拡大したと解釈できる記述もあり,25~27日の噴火活動の高まりに対応するかもしれない.山麓の堆積物最上部(ユニットHo‐IV)の粒径が中部(Ho‐III)より粗いことも併せて考えると,25日夕方以降,噴火の勢いがやや盛り返したと考えるのが自然である.16)12月31日夜に多少の爆発的噴火と火山弾放出があった.17)1708年1月1日未明の爆発を最後に噴火停止した.

    ×宝永五年(1708)噴火ぶ こう ねん ぴょう

    嘉永元年(1848)に成立した江戸の年代記『武江年表』の宝永五年条に「閏正月三日,武蔵,相模,三河国々砂降る」とある.また,武者(1943a)は,文化元年(1804)の例言がある史書『続日本王代一覧』の同月同日条から「武

    富士山の歴史噴火総覧

    129

  • 州・相州・駿州の内砂降の郡村所務難渋の私領村替仰出さる」を引用している.これら2史料をもとに,武者(1943a)は宝永五年閏正月三日(1708年2月24日)に富士山が再び噴火したと推定している.しかし,この日は江戸幕府が,宝永四年噴火による被害

    の著しい大名・旗本領を一時公領とする令を発した日であり(上記『続日本王代一覧』の記述はまさにそのことを述べている),『武江年表』の著者が降砂による領地換えの記事を降砂そのものと誤解したとみるべきである(石橋克彦,1998,私信).よって,宝永五年噴火記事は誤りと考える.

    ★宝永五年(1708)鳴動*小山町史(第二巻近世資料編 I)は『富士山鳴動につき

    須走村届書控』として,須走村の名主および組頭4名の署名が入った届出文書を載せており,その中に以下の記述がある.「当十月廿八日夜九ッ半過時分震動之様成音仕候,方角之儀は富士山去冬出来仕候宝永山之方ニ而ひゞき申候,所之者共も余程音と聞覚申候,砂灰抔ハ曾而降リ不申候,冬ニ成申候得ハ富士山忽而雪深ク積リ申候得共,宝永山近所ニハ雪積リ不申候,此外可申上儀無御座候」宝永五年十月二十八日の夜九ッ半過時分(1708年12月

    10日の午前2時頃)に,宝永山の方角からかなり大きな音が鳴り響いたとのことである.砂や灰は降らなかったというから,噴火ではなさそうである.この地域での12月という季節を考えると,雷鳴とは考えにくい.宝永噴火直後の宝永火口を描いた絵図(沼津市原の土屋博氏所蔵)には,今は存在しない円弧状の亀裂が第1火口壁の上縁に描かれている(小山,2002,2006).このような不安定な火口壁の一部が崩落した時の音かもしれない.なお,宝永火口付近に雪が積もっていないとも書かれて

    いるが,このことは宝永噴火から1年に満たない時期のことであり,まだ宝永火口付近の地表温度が高かったことで説明がつくだろう.

    ▲宝永五~六年(1708~1709)鳴動・降灰?おう む ろう ちゅう き

    名古屋藩士朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』の宝永五年十月二十八日(1708年12月9日)条に,「江戸今日暮より少々灰降,鳴動も少々あり富士も少々煙立」とある.さらに,鳥取藩士岡島正義が安政年間(1854-1859)に

    著した『因府年表』の宝永五年十一月二十七日(1709年1月7日)条に「富士山復々焼く(不詳可考)」とある(武者(1943a)では宝永五年十二月十六日の記事とされているが誤記と思われる).1708年末から1709年初頭にかけての富士山の状態については,富士山麓の地方史料などについてのさらなる検討が必要である.

    ■明和七年(1770)赤気*東海道原宿(現在の沼津市原)の問屋場で代々書役をつ

    とめていた土屋氏は,明和七年七月二十七日(1770年9月16日)に富士山に異常を認め,その様子を2枚の絵に描き,それぞれの絵に以下のような説明文を加えている(若林,1996b).「明和七年庚寅七月廿七日 夜九ツ時 富士阿し高之間 赤ク成事如斯 中ニ白キすじ十四,五本づつ出候 右之赤ミ東西へ啓ク」「其夜ハ八ツ過か段々と赤ミうすくなり 見ゆること如斯」すなわち,この日の夜半頃に富士山の南東側にある沼津

    市原から,富士山と愛鷹山の間に赤い光が見え,赤くなった付近から白い筋が14,5本出たという.そして,その赤い光芒は東西に開いていき,2時間ほどして段々と薄れたという.沼津市原から見ると,富士山と愛鷹山の間は宝永火口の

    南東側にあたる山体斜面であり,側火山の密集域となっている場所である.白い筋(噴気?)が多数見えたことや赤い光芒が東西に開いたという記述は,割れ目噴火が生じ,割れ目が北西-南東方向に伝播していったことを想像させる.しかし,宝永噴火より新しい時期に富士山南東山腹で噴火が生じたという確かな地質学的証拠は知られていない.翌日の七月二十八日夜に,日本の各地で赤気を見たとい

    う記録が多数ある(大崎,1994).これらの中には体験者自身の記述や体験者からの伝聞と思われる同時代史料が複数含まれているので,信頼できる.また,記述内容も,原宿の絵図に描かれていることとよく似ている.絵図の中の記述は,赤気の出現日を一日誤って記述したものではないだろうか.なお,大崎(1994)は,「明和七年七月二十八日の極光

    は日本で見えた極光の記録のうち最も著しいもの」と欄外にコメントし,赤気をオーロラと解釈している.

    ■寛政四年(1792)地震と崩壊や し

    嘉永四年(1851)に成立した史書『野史』に「(寛政四年六月)二十九日丙申,江戸地震,是夜,震富士山,巌石飛死者二十餘人」とある(武者,1943b).また,つじ(1992)によれば,甲府の『坂田家日記』他に寛政四年六月二十九日(1792年8月16日)午前九時頃に甲府から江戸にかけて強い地震があり,富士山に落石が生じて登山客に20名ほどの死者が生じたとある.『坂田家日記』は全文のコピーが山梨県立図書館にあり,同時代記録と思われるので信頼すべきである.

    ■寛政六年(1794)土石流*『雪代出水下吉田村田畑居屋敷流失につき急破普請請書』

    (富士吉田市史史料編第三巻)は,「去月廿九日南大風雨ニ而,富士山雪代出水宮河通御普請所及大破」などとして,寛政六年二月二十九日(1794年3月30日)に下吉田村(現在の山梨県富士吉田市下吉田)で雪代災害があったことを報告している.

    小山真人

    130

  • ■享和元年(1801)土石流*『雪代出水大明見村・小明見村田畑流失につき起返金借用願書写』(富士吉田市史史料編第三巻)は,「当二月六日大雨ニ而,富士山雪代満水仕,桂川通御普請所皆流失仕,田畑夥敷荒地ニ罷成候間,其節御訴奉申上」などとして,享和元年二月六日(1801年3月20日)に大明見村・小明見村(現在の山梨県富士吉田市大明見・小明見)で雪代災害があったことを報告している.

    □文化六年(1809)崩壊?小鹿島(1894)は,小野高潔が著した年代記『続皇年代

    略記』から「(文化六年八月二十四日)富士山崩」という記述を引用している.小野高潔は延享五年(1747)から文政十二年(1829)を生きた人物であるから,同時代史料と言えるだろう.なんらかの崩壊事件が文化六年八月二十四日(1809年10月3日)に富士山で起きたらしいが,それを裏づける他の史料は見つかっていない.

    ▲文政八年(1825)ときおり噴気と鳴動肥前国平戸藩主松浦清が文政四年(1821)から天保十二

    かっ し や わ

    年(1841)にかけて執筆した随筆『甲子夜話』(巻六十七「行智富士紀行」)に次の記述がある.「乙酉(文政八年)の夏,行智が富嶽に登しとき(中略)

    富士の鳴音六月十日(1825年7月25日),甲州吉田御師,小沢信

    濃の家に宿る.暁がたに至りて,富士の頂上の方にて,譬へば海近く波の打寄る如き音して轟き鳴る�

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