arus guleyな どと称される道化が繰り出す - jst

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オ リ エ ン ト31-1(1988):116-131 ノレ * ABSTRACT Yuko HAMAHATA, Nouruz : Nouruz, the new year festival, is one of the most important and famous festival in Iran. It is said that Nouruz originated with Jamshid. According to Nouruz Nameh attributed to 'Omar Khaiyam, at that day he found the sun entered into the Aries, which is the sign of the equinox, then he held the festival and called the day "Nouruz". After the model of Jamshid, Iranian kings had continued to celebrate this festival on the first day of Farvardin; it flourished specially in the Sasanian period. In those days they adopted a 365-day calendar and used to ignore the intercalation. As a result a quarter of the day had been lost annually and the whole year had slipped steadily backward. It had distressed people, as they were obliged to pay tax at Nouruz. In the eleventh century, in order to help them, Malekshah enacted a new calender and Nouruz was fixed on 21th of March, the first of Farvardin in this calendar. Since then Iranian people has celebrated Nouruz on the vernal equinox. In this paper I try to prove that Nouruz, held on the vernal equinox, shows three characters : spring festival, agricultural festival and ancestor festival. 現 在 イ ラ ソの 正 月 はNouruzと呼 ば れ 春 分 の 日に始 ま る。 人 々は ノ ウル ーズ の2週 間位前から準備に取 りか か り,そ れ に つ れ て市 場 も活 気 づ き,町 中が華 や い で く る。 ノ ウ ル ー ズ と は,『 新 しい 日』の意であ り,文 字 通 り新年祭 をさ す。しかし同時に春祭 りで もあ り,祖 霊 祭,農 耕 祭 と して の側 面 も持 つ,イ ン最 大 の 祝 祭 で あ る 。 そ の 起 源 は 定 か で は な い が,有 史 以前 の祖,ジ ャムシー ド(Jamshid)に 遡 るほ ど古 い とされ,(1)以 後 各 王 朝 に 受 け 継 が れ て,サ サ ン朝 に *早 稲田大学語学教育研究所講師

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Page 1: ArUs Guleyな どと称される道化が繰り出す - JST

論 文 オ リエ ン ト31-1(1988):116-131

ノ ウ ノレ ー ズ

*浜 畑 祐 子

ABSTRACT Yuko HAMAHATA, Nouruz : Nouruz, the new year

festival, is one of the most important and famous festival in Iran. It is

said that Nouruz originated with Jamshid. According to Nouruz Nameh

attributed to 'Omar Khaiyam, at that day he found the sun entered

into the Aries, which is the sign of the equinox, then he held the festival

and called the day "Nouruz". After the model of Jamshid, Iranian

kings had continued to celebrate this festival on the first day of

Farvardin; it flourished specially in the Sasanian period.

In those days they adopted a 365-day calendar and used to ignore

the intercalation. As a result a quarter of the day had been lost

annually and the whole year had slipped steadily backward. It had

distressed people, as they were obliged to pay tax at Nouruz. In the

eleventh century, in order to help them, Malekshah enacted a new

calender and Nouruz was fixed on 21 th of March, the first of Farvardin

in this calendar. Since then Iranian people has celebrated Nouruz

on the vernal equinox.

In this paper I try to prove that Nouruz, held on the vernal equinox,

shows three characters : spring festival, agricultural festival and ancestor

festival.

現 在 イ ラ ソの 正 月 はNouruzと 呼 ば れ 春 分 の 日に始 ま る。 人 々は ノ ウル ーズ

の2週 間 位 前 か ら準備 に取 りかか り,そ れ に つ れ て市 場 も活 気 づ き,町 中 が華

や い で くる。 ノ ウル ー ズ とは,『 新 しい 日』 の 意 で あ り,文 字 通 り新 年 祭 を さ

す 。 しか し同 時 に春 祭 りで もあ り,祖 霊 祭,農 耕 祭 と して の側 面 も持 つ,イ ラ

ン最 大 の祝 祭 で あ る。 そ の起 源 は 定 か では な い が,有 史 以前 の祖,ジ ャム シ ー

ド(Jamshid)に 遡 るほ ど古 い とされ,(1)以後 各 王 朝 に受 け 継が れ て,サ サ ン朝 に

*早 稲田大学語学教育研究所講師

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そ の 隆 盛 を 極 め た 。 そ の後7世 紀 の イ ス ラ ム襲 来 の 余 波,ま た 近 年 の イ ス ラ ム

革 命 や 戦 争 とい った 厳 しい条 件 下 で も,往 時 の勢 い は 失 わ れ た とは い},確 実

に 伝 承 され てい る。 イ ラ ソ民 族 固 有 の祭 りで あ る。 以 前 は 夏 至 な どに 重 な っ た

時 期 もあ り,暦 上 を 彷 復 う祭 りで もあ っ た。 以 下 この ノ ウル ー ズに つ い て,著

者 の 観 察 を 交 えな が ら考 察 して い く。

1ノ ウル ー ズ の 性 格

(1)春 祭 り と して の ノ ウル ー ズ

春 分 正 月 を採 用 す る イ ラ ンで は,イ ラ ン暦10月1日 が 冬 至 に あ た り,冬 の初

め とされ て い る。 冬 至 か らイ ラ ソ暦11月10日 ま で の40日 をChelleh-ye bozorg

(大 チ ェ ッ レ),11月10日 か ら30日 ま で の20日 をChelleh-yekuchek(小 チ ェ ッ

レ)と い う。 チ ェ ッ レ とは40日 を 周 期 とす る物 忌 み の こ とで,出 産 の 汚 れ か ら

身 体 の 清 ま る ま で の 期 間,あ るい は 托 鉢 僧 の 修 行 期 間 な どが これ に あ た る。 そ

して両 チ ェ ヅ レに 挟 まれ た11月10日 に は 火 祭 りが,11月30日 に は 水 か け 祭 が 行

わ れ た。(2)水か け 祭 の 後1ヵ 月 が 過 ぎ る と春 分,つ ま りノ ウル ー ズ とな る。

冬 至 の 日はYalda,Shab-e Chelleh(チ ェ ッ レの夜)と 呼 ば れ る。(3)Yaldaと

はシリア語起源の誕生を意味する語であ り,神 の子の誕生する日とされている。(4)

物忌みの前夜でもある。人々は身を清めて一晩中昔話を語った りしてすごす。

夏の間か ら保存 しておいた,そ の年最後の収穫物である西瓜やメロソ,ざ くろ

な どを 食 べ る。(5)中央 州 のKhomcinで は この 日に 用 意 す る果 実 を,特 に 生 賛 を

意 味 す るMayazdと 呼 ん で い る。(6)Hamedan州 のMalayerで は 花 嫁 衣 装 を 身

につけた処女を屋上に横たえる。(7)神の日であるこの日に,以 前は生贅が捧げら

れた ことの名残である。また最後の収穫物には神,即 ち穀霊が宿ることから,

最後の果実を食べることで,神 を食べる,つ まり一種の神人共食が行われるこ

とになる。 この日を境に人々は物忌みに入いる。そして40日 が明けると火祭 り,

Sadeh祭 とな る。(8)

Sadehは100日(あ る いは100日 目)を 意 味 す る語 で,1年 を7カ 月 の 夏 と

5ヵ 月 の 冬 に二 分 して い た古 代 イ ラ ン人 に とって,こ の 日が冬 の 始 ま りで あ っ

たAban月1日 か ら100日 目に あた った とか,あ るい は ノ ウル ーズ ま で 数 え て

50夜 と50昼,合 わ せ て100日 とな る とか,い ろ い ろ 問 い た だ さ れ て い るが定 説

は な い。(9)しか し通 例,Sadeh祭 は フ ー シ ャ ン グ(Fushang)に 起 源 が 求 め られ,

彼 が 火 の 発 見 を 祝 って 盛 大 に祭 りを催 した こ とに 端 を 発 す る とさ れ て い る。 左

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義 長 宜 し く うず 高 く積 まれ た 薪 の 山 が,一 気 に 燃 え上 が る さ ま は圧 巻 で あ った

こ とだ ろ う。 しか し今 で は,一 般 イ ラ ソ人 か らは 忘 れ られ,僅 か ゾ ロ ア ス タ ー

教 徒 の 問 で の み,細 々 と伝 えられ てい る。 そ れ も昨 年(1987年)は,激 化 す る

イ ラ ソ ・イ ラ ク戦 争 の た め 自主 的 に 自粛 が 申 し渡 され,ケ ル マ ー ン,ヤ ズ ドで

は 中 止,テ ヘ ラ ソで も場 所 を 変 えて,規 模 も大 幅 に 縮 小 され た 。 この 火 祭 りに

よっ て物 忌 み も一 時 的 に解 斎 を迎 える。

冬 至 以 降 寒 さは 日-・日 と厳 し くな り,火 祭 りの頃 ピー クを 迎 え る。 この 日を

挟 む 前 後8日 間 をCfar Charと 呼 ぶ 。 極 寒 の 時 で あ り,雪 深 い 地 方 で はKuseh,

'ArUs Guleyな どと称される道化が繰 り出す。(10)彼らは模擬闘争儀礼を行っては,

冬の死 と春の再生を演じ,人 々の春を待ち望む心に呼応する。(11)火祭 りの後,20

日の物忌みの時を過ぎ越す と水掛け祭が訪れる。人々は互いに水を掛け合って,

心を清めると同時に汚れを拭い去 り,冬 を追い払 う。一時的な解放な時である。

その後再び潔斎の時が一ヵ月続 くが,そ れに終止符を打つのが ノウルーズであ

る。冬至か ら三ヵ月,何 度も潔斎 と解斎を繰 り返 しなが ら,人 々は万物の成長

する春を待ち望み,模 擬闘争や予祝を通してその到来を確かなものに してい く。

この頃になると,平 地部では雪も溶け始め,一 転して初夏を思わせるような強

い 日差 しに変わるため,誰 しも冬の終わ りと,新 たな年の始ま りを感 じざるを

得ない。 こうして冬至以降,日 常の世俗性か ら非 日常の世界へと転換された時

間は,ノ ウルーズをもって再びもとの日常の世界に戻される。冬至祭に始まり,

ノウルーズに終わるこれ らの祭 りのおかげで,人 々は時の周期を知 り,日 常生

活にメリハ リを付けることが出来る。一年 とは祭 りか ら祭 りまでの一周期にほ

かならず,再 びノウルーズが巡ってくるとい うことは,一 年が過ぎ去ったとい

うこと以外の何ものでもない。そ してノウルーズが後述するように春分点に固

定されてからとい うもの,ノ ウルーズには,冬 を終焉に到らしめる春祭 り的性

格がより鮮明に打ち出されるようになった。

(2)祖 霊祭 としてのノウルーズ

まず古代イラソ暦に少し触れてみる。古代暦が祭 りの集合体であった例にも

れ ず,古 代 イ ラ ソ暦,つ ま りOld Avesta暦 もま た,(12)Gahambarと 称 さ れ る祭

りか ら成 り立 っ てい た。 旧約 聖 書 に は,神 は6日 で 世 界 を創 造 した とあ る が,

イ ラ ンで は6度 で 創 造 が 完 了 した と考 える。Taqizadehに よる と 当 時 一 年=

360日 の 暦 が 採 用 され,閏 は存 在 しな か った 。 しか し,後 にそ の不 合 理 性 が 明

らか に な って か ら,(13)閏と して5日 付 け 加 え られ,6番 目のGahambarと され

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た 。 した が っ てOld Avesta暦 は,元 来 の5Galzambarと 年 末祭 との6祭 か

らな る。Gahambarと は連 続 した5日 か らな る祭 りで,最 初 の5祭 は季 節祭 で

あ るが,6番 目の それ は年 末 の 闘 争 祭 で あ る。 各 祭 りの 実 施 日は表(1)に 見 る 通

りで あ る。6番 目の年 末祭 が 付 け 加 えられ た 時,理 由 は 定 か で は な い が,5・ 番

目のGahambarが5日 ず らさ れ て い る。(14)つま り,表 で は286日 目か らに な っ て

い る 祭 りは,元 来 は新 年 か ら数 え て281日 目か ら5日 間 に 渡 っ て祝 わ れ てい た

こ とに な る。 これ らGaharrzloa,rは 季 節 祭 とい うそ の性 格 か ら,節 目に 位 置 し て

い る。 古 代 人 は 祭 りに よ り時 の流 れ に 秩 序 を持 た せ,暦 上 の要 点 を 押 える こ と

で,不 備 の 目立 つ 古 代 暦 を補 っ て い たわ け だ が,ち な みに これ らGahambarは,

中 国 の二 十 四 節 気 の立 夏,小 暑,秋 分,霜 降,小 寒,春 分 に 該 当 す る。 注 の表

(2)を参 照 の こ と。(15)

Gahambar表(1)

さ て6番 目に 付 け 加 えられ たGahambarで あ るが,こ れ は年 末 最後 の5日 間

に 祝 わ れ,過 ぎ越 せば 新 年 とな る重 要 な時 であ った 。そ して この 期 間 に:Fravashi

が 来 訪 した 。AvestaのFravardin Yashtに よる と,Fravashiと は,人 間 の

五 大 要 素 の一 つ で 不 滅 の 存 在 で あ る。 個 人 の誕 生 以前 か ら存 在 し,死 後 も朽 ち

る こ とは な い 。 誰 もがFravashiを 有 し,個 人 の守 護 神 で もあ る。:Fravashiは

年 末 のHamaspathmaedaya祭,つ ま り6番 目のGahambarに 大 挙 して 地 上

に 押 し寄 せ,10日 地上 に あ る。 勝 利 のた めに 悪 と戦 い,豊 穰 を 願 って 水 を 求 め

る。 新 生 児 の 誕生,再 生,そ して蘇 りに貢 献 す る。 彼 を 有 した 者 は 勝 利 を 手 中

におさめるが,そ のためには食物や衣服などの供献,礼 拝が義務付けられる。(16)

Fravashiは 祭 られ る対 象 で あ り,祖 霊 の よ うな もの と推 測 され る。(17)

Yashtで は,:Fravashiは 年 末 の10日 間地 上 に あ った と され るが,01dAvcsta

暦 で は 年 末祭 は5日 に な っ て い る。 こ の年 末 祭,即 ち6番 目のGahambarは 人

類 が 創 造 され た 時 で あ り,復 活 再 生 の時 で あ る。 この期 間 は通 常 の1年 の月 日

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計算には組み入れられなかったので,納 税の対象にもならず,人 々はこの5日

の 前 に仕 事 納 め を 済 ませ て い た 。(18)ゾロア ス タ ー教 徒 達 は,年 末 の10日 を5日 ず

つ に 二 分 し,12月26日 か らの5日 を:Panjeh-yekuchek(小 パ ソ ジ ェ),閏 の5日 を

Panjeh-yebozorg(大 パ ン ジ ェ)と 呼 ぶ 。(19)この 大 パ ソ ジ ェ は6番 目 のGahambar

に 相 当 す る 。

一 方Biruniの 記 録 す る と こ ろ で は,新 年 の1日 か ら5日 ま で は 一 般 民 衆 の

ノ ウ ル ー ズ で あ り,王 侯 貴 族 の ノ ウ ル ー ズ は,1ョTョuruz-ebozorg(大 ノ ウ ル ー

ズ)と 呼ばれた6日 に始まった という。(20)6日は人類の創造が行われた時であ り,

ゾ ロア ス タ ー生 誕 の 日で も あ る。(21)'1'agizadehは年 末最 後 に 加 え られ る5閏 日も

一 般 民 衆 に は考 慮 され なか った た め,ノ ウル ー ズ の 開始 日がず れ た ので は な い

か と述 べ て い る。(22)元来 年 末 に訪 れ て い たFravashiも,こ の頃 に な る と年 始 に

ず れ こん で い る。 そ して ての期 間 はFravashiに ち な ん でFarvardeganと 称 さ

れ,現 イ ラ ン暦1月:Farvardinに そ の名 を残 して い る。(23)

先 にYashtに お い て,:Fravashiは10日 間地 上 に あ る と述 べ た が,こ の10日 と

い う数 は 太 陽年 と太 陰 年 の 差 か ら生'じた もの と推i測され る。 そ れ は1年=360

日の不 合 理 性 を 正す た め5日 の 閏 日を挿 入 した暦 で は な く,も っ と古 い 形 の 暦

か ら きて い る の で は な い か と考え られ る。 そ の後 も暦 のず れ か ら,年 末祭 自体

が 動 きだ し,や が て は 新年 祭 に 吸収 され て しま っ た も の で あ ろ う。 現 在 で も ゾ

ロア ス タ ー教 徒 は,祖 霊 は年 末 に 来 訪 し,10夜 後,即 ち大 晦 日の 夜,再 び 帰 っ

て 行 くと考 えて い る。 そ して 祖 霊 を 迎 える た め,家 の 内外 を清 掃 し,屋 上 や 庭

で 火 を 灯 して は 香 を 焚 く。 食 物,あ るい は そ の 器 だ け を屋 上 に 準 備 す る。 ヤ ズ

ドで は 今 で も,大 晦 日の 夜,屋 上 で 蝋 燭 に 火 を 灯 し,聖 な る木 の 枝 を置 く。 こ

の枝 は 翌 年 の大 晦 日ま で 捨 て られ る こ とは な い。 ヤ ズ ドの ゾ ロア ス タ ー教 徒 の

居住区を歩 くと,屋 上からはみ出ているこれらの枝をよく目にする。(24)これが祖

霊祭 としてのノウルーズであ り,一 般イラソ人は,新 年に祖霊が来訪すると信

じている。

(3)農 耕祭としての ノウルーズ

現在 ノウルーズが,万 物の成長し,穀 霊の再生する春に固定されていること

か らも,こ のことは明らかである。ササン朝下の諸王は納税時をノウルーズに

固定 し,ま た宮中では,年 末より日乾し煉瓦の柱を7本 ない し12本建て,そ の

上に7種,あ るいは12種 の種子を撒いた。それらは王候貴族の新年である6日

に刈 り取 られ,広 間に撒かれた。(25)種子の成長具合からその年の収穫が占われ,

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そ の 中 で も特 に大 麦 が重 要 視 され た 。 真 っ直 ぐ,滑 らか に 伸 び れ ば 豊 作 で あ る。(26)

ゾ ロァ ス タ ー教 の大 司祭(Moubed Moubedan)は 新 年 に 王 との 謁 見 が 許 され た

時,大 麦の若芽を献上 した。(27)現在でもノウルーズには,必 ず大麦の発芽 した若

芽を用意する。正月13日 には,人々 は連れ立って郊外へ行き,野 や畑の様子を

見なが ら楽 しく過ごす習慣がある。 このように農耕に関連する面は枚挙に暇が

ないが,こ れで充分であろ う。

以上のこ とか ら,ノ ウルーズは単に新年祭であるだけでな く,春 祭 り,祖 霊

祭,農 耕祭の側面をも持っていることが明らかになった。 ノウルーズを考察す

る時,こ れ らのいずれも見落としてはならない。

Ⅱノウルーズの変遷

前述 した ように,ノ ウルーズはジャムシー ドに起源を求め るのが 通例 で,

Nouruz Namehに よると,彼 は当時の暦が,太 陽の年周運動日である,365.25

日に一致せず,新 年がずれていくのに気がついていた。そしてある年の新年に,

太陽が白羊宮1分 に入ったのを見届けて,こ の日をノウルーズと名付け,祭 り

を催 した。(28)ジャム シ ー ドの後 も諸 王 は この祭 りを 伝 承 し,フ ェ リ ー ド ゥ ー ソ

(Feridun)(29)の御 代 に,再 び ノ ウル ー一ズ が春 分 点 に一 致 した 。(30)ゴシ ュ タ ー ス プ

(Goshtasp)の 時 は 夏至 正 月 で あ っ た が,(31)これ 以降120年 に 一 度 閏 月 が設 置 され

る こ とに な った 。(32)詳しい資 料 は な いが,ア ケ メネ ス朝 時 代,秋 分 正 月が 催 され,

王 は 民 衆 を謁 見,各 領 主 よ り貢 ぎ物 を 受 け取 った 。(33)パル テ ィア 朝 で はAzar月

(西暦 の11-12月)が 新 年 とな り,Azar月1日 にKusehが 出 現 した との記 録

が あ る。(34)

サ サ ン朝 以前,ノ ウル ー ズ は1日 と6日 の2度 祝 わ れ,1日 はNouruz-e

'ammeh(民 衆 の ノ ウル ー ズ) ,6日 は大 ノ ウル ー ズ,Nouruz-ekhaseh(特 別 な

ノ ウル ーズ)と 呼 ば れ た。1日 は 民衆 の ノ ウル ー ズで あ り,王 が 民 衆 を5日 ま

で 謁 見 した。 宮 中 の ノ ウル ー ズ は6日 か ら始 ま り,貢 ぎ物 が 届 け られ,王 は 囚

人 を 解 放 し,恩 赦 を 与 えた。 元 来 別個 に祝 わ れ た 二 つ の ノ ウル ー ズが,連 続 し

た 一 つ の祭 りの姿 を 得 る の は ササ ン朝 の シ ャ ー プ ール の 息 子 の ホ ル モ ズ ド(273

-274)以 降 の こ とで あ る。(35)

イ ス ラ ム以前 に イ ラ ン文 化 が 最 も花 開 い た サ サ ン朝 下 で,ノ ウル ーズ も隆 盛

を 極 め た 。Biruniに よる と,ジ ャ ム シ ー ドの没 後,諸 王 は新 年 を一 箇 月祝 う よ

うに な り,こ の 一 箇 月 も5日 ず つに6分 され,最 初 の5日 は諸 王 に,次 は貴 族,

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3番 目-召 使 い,4番 目一 近 侍,5番 目一 民衆,6番 目一 牧 童 に 振 り当 て られ

た とい う。(36)しか しノ ウル ー ズ を30日 祝 っ た の は 宮 中 だ け で あ り,民 間 で は最 初

の5日 だ け で あ った 。(37)これ とは 別 に,前 述 した よ うに,ノ ウル ー ズ は サ サ ン朝

以 降1日 か ら6日 ま で連 続 した祭 とな っ た が,こ の6日 間 も,1日 目-王 が ノ

ウル ー ズを 宣 言,民 衆 を 謁 見,2日 目一 地 主,3日 目一 兵士,聖 職 者,4日 目

-親 戚,5日 目-子 供 達 を 謁 見,6日 目一 王 自身 の 正 月 とい うよ うに 区 分 され

ていた。(38)

当時ノウルーズを盛大に祝 うことは諸王の義務 とされ,特 に食卓には細心の

注意が払われた。(39)元旦の早朝,盛 装した王は一人で謁見の間へ行き,Khojasteh

(吉祥なる)と い う名の幸いを呼ぶと信 じられている,美 しい少年 と関係を持

つ 。(44)その後 ゾ ロア ス タ ー教 の大 司祭,要 人 の順 に 謁 見 を行 う。 ゾ ロア ス タ ー教

の大 司祭 は ノ ウル ー ズ に ふ さわ しい 品 々,つ ま り酒 の 杯,金 ・銀 貨,指 輪,刀,

弓矢,筆 入れ と筆,大 麦の若芽,馬,鷹,美 しい召使を献上 し祝福する。(41)民間

では1日 と6日 に水かけ祭が行われ,1日 には火が焚かれた。(42)

ササン朝の滅亡 とイスラム勢力の台頭により,一 時 ノウルーズなどイラン固

有の文化は衰退 したが,民 族高揚の道具に使われた ことも手伝い,ア ッバース

朝下で再び,往 時の勢いを盛 り返 した。貢物や挨拶状がカ リフ達に送 られ,水

かけや左義長の風習も復活 した。(43)ターヘル朝には衣替えの習慣が見 られ,ホ ラ

一 サ ー ン地 方 の王 は 夏服 と春 服 を 同時 に 賞 衣 した とい う。(44)夏至 正 月,も し くは

夏至 正 月 で あ った 時 代 に 夏服 が 与 えられ た こ とへ の名 残 か も しれ な い。

ア ッバ ース 朝 以 降再 び ノ ウル ー ズ に税 の徴 収 が 実 施 され る よ うに な った が,

ノ ウル ー ズ そ の ものが 不 動 で は なか った だ け に,年 に2回 納 税 期 の訪 れ る こ と

もあ っ た。 そ こで 度重 な る税 の徴 収 に苦 しむ 民 衆 を 救 済 す るた め,453年(1074

-75年),時 の王,セ ル ジ ュ ー ク朝 のMalekshahが 新 暦 を 制 定 した 。 ジ ャ ラ ー

ル暦 とい う,現 グ レ ゴ リー暦 よ り誤 差 の少 な い この 暦 に よ り,初 め て ノ ウル ー

ズ は春 分 点 に 固定 され た 。 イ ラ ソ固有 の新 年 祭 で あ った ノ ウル ーズ に,イ ス ラ

ム色 が 鮮 明 に見}出 した のは,サ フ ァ ビ ー朝 以 降 の こ とで あ る。

Ⅲ ノ ウル ー ズの 儀 式

(1)ノ ウル ー ズ の2週 間 前 か ら,人 々は 準 備 に取 り掛 か り,家 屋 を徹 底 的 に

清 掃 した り,絨 毯 を洗 った りす る。 街 路 樹 に も極 彩 色 の電 球 が 付 け られ,交 差

点 は イ ル ミネ ー シ ョ ソで飾 られ 夜 空 に 輝 く。 以 前 は 大道 芸 人 が 町 に 温 れ,猿 回

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しや道 化 師 が 出 現 した 。 正 月 料 理,特 に 菓 子 の類 が 何 日 も掛 け て準 備 され る。

部 屋 の 片 隅,あ るい は 小 テ ー ブル の上 にSofreh(食 布)を 広 げ,正 月 用 品 を 飾

る。 一 般 的 な イ ス ラ ム教 徒 の家 庭 では,大 同小 異 あ る もの の,鏡,蝋 燭,薔 薇

水,後 述 す るHaft Sin(7つ の ス ィー ソ),金 魚 鉢,大 麦 の 若 芽,着 色 卵,コ

ー ラ ソ,詩 集,ミ ヅクス ナ ヅツ,貨 幣,菓 子 類 を こ の ソ フ レの 上 に 並 べ る。 そ

して これ らは正 月13日 ま で飾 られ る。

Haft Sinと は7つ のdinと い う,ペ ル シ ア語15番 目の文 字 で 始 ま る植 物 の

こ とで,Senjed(ホ ソバ グ ミ),SamanO(麦 芽 の粉 で作 られ た ペ ース ト状 の 食

べ 物),ti7YY'(に ん に く),Sabzeh(大 麦 の若 芽),Somaq(ス マ ッ ク),Serkeh

(酢),Sib(り ん ご),Siyahdaneh(ク ロタ ネ ソ ウの種 子)な ど,任 意 に7種 が

選 ば れ る。 これ らを小 さ な器 や 瓶 に 入 れ,上 述 の ソ フ レに 置 く。 い つ か らHaft

131が 準 備 され る よ うに な った か は定 か では ない 。 諸 説 を あげ る と次 の よ うで

あ る。

サ サ ソ朝 時 代,中 国か ら美 しい 陶 器 類 が 輸 入 され,珍 重 され た 。 そ の 中 で も

素 晴 ら しい 出 来 を 示 した の が 白陶土(高 陵 土)の 壺 で あ り,中 国王 朝 名"T'sin"

か ら,'Chin"も し くは"Sin"と 呼 ば れ た。 後 に 白 陶 土 製 の もの を"Chini",

金 属 製 の もの を``Sini"と 呼 ぶ よ うに な った 。 ノ ウル ー ズに これ ら美 しい器 に

乾 燥 菓 子 や 砂 糖 菓 子 を 入 れ,食 卓 を 飾 るの が 諸 王 の 習 慣 に な り,そ れ を7Am-

eshaspand(神 格)に ち な ん で7つ 並 べ た 。 これ 以 降,ノ ウル ー ズ の ソフ レを ハ

フ ト ・ス ィー ニ ー(Daft Sini),あ る い は ハ フ ト ・ガ ー ブ(Haft Qab,皿)と よ

ぶ よ うに な り,そ れ が ハ フ ト ・ス ィー ンに 転 化 した 。 今 で もハ フ ト ・ス ィー ニ

ー と呼 ぶ地 域 もあ る。

ま た ノ ウル ーズ に新 し く も ぎ取 った7種 の果 実 を 用 意 した こ とか らこの 名 が

あ る と も言 わ れ る。7種(ハ フ ト)の 果 実 を もぎ取 る(chidan)こ とが,後 に

ハ フ ト ・ス ィー ンの 名 に変 化 した 。(45)

しか し これ とは 別 に ゾロ ァス タ ー教 徒達 は ハ フ ト ・ス ィー ンで は な く,Haft

Shin,つ ま り7つ のShinと い う文 字 で始 ま る物 を 準 備 す る。Shin(ミ ル ク),

Sharab(ワ イ ン),Sham'a(ろ うそ く),Shekar(砂 糖),Shayeh(果 実),Shahd

(46)

(蜂蜜),Shirini(菓 子),Sharnshad(柘 植)な どで あ る。

"7"は イ ラ ソ人 に とっ て聖 な る数 で あ り,ゾ ロアス タ ー教 で は ア フ ラマ ズ ダ

とそ れ に 従 う神 格 の7柱 が,共 同 して世 界 を 構 成 す る7つ の被 造 物 を創 造 して

い る。 ゾ ロ ア ス ター 徒 に は,毎 年,ア フ ラマ ズ ダ とAmcshaspand,7被 造 物

123

Page 9: ArUs Guleyな どと称される道化が繰り出す - JST

のため,7祭 を行 う義務がある(47)。前述したように,サ サソ朝の諸王はノウルー

ズの25日 前に,宮 廷に7本 の柱を建て,7種 の種子を撒いた。この種子は正月

の6日 に広間に撒かれたが,春 の万物成長の時期に,予 祝をして,豊 穣を願っ

たのである。我が国でも新年の7日 に草粥を食べるし,中 国でもやは り,新 年

7日 の人 日に7菜 の菱 が 用 意 さ れ た。(48)HaftSinの 原形 も この 辺 りに あ った の だ

ろ う と推 測 す る。 豊 穰 祈 願 の た め,7種 の穀 物 の種 を 撒 い て い た も のが,時 代

を 経 る と ともに,本 来 の 目的 か ら逸 脱 し,た だ7つ のSinで 始 ま る も のを 集 め

る とい う行 為 だ けが 残 った もの で あ ろ う。 現 在 で は 植 物 だ け で な く,Sekkch

(貨幣)の よ うに,dinで 始 まれ ば よ しと も され てい る。

一方 ゾ ロア ス タ ー教 徒 のwaft Shinは,7神 格 に 由 来 す る と言 わ れ るが,そ

れ で も大 麦 の発 芽 した芽 だ け は 必ず 用 意 さ れ て い る。皿 な どに 種 子 を 撒 い て発

芽 さ せ,15-16cmに 成 長 した もの を 使 う。 正 月13日 ま で 飾 られ た 後,後 述 す る

が,郊 外 の 小川 な どに投 げ 入 れ られ る。 大 麦 は 古 来 非 常 に 重 要 視 され た 植 物 で,

収 穫 占 い に も使 わ れ た こ とは既 に 述べ た。

着 色 卵 は,ヨ ー ロ ッパ の イ ース タ ーな どで もお 馴 染 み で あ るが,卵 が 種 の 起

源 で あ る こ とか ら,創 造 の 象 徴 に 用 い られ る。 子 供 た ち は 競 っ て 卵 を 割 り合 う

が,こ れ も闘 争 儀 礼 の 名 残 で あ ろ う。 金 魚 は 水 の 神 で あ り,豊 穰 祭 で もあ る ア

ナ ー ヒ ー タ ーの 象徴 と も考 えられ る。 以上 の よ うな もの に加 えて,パ ンや チ ー

ズ,各 種 料 理 が ソ フ レを 彩 る。

イ ス ラ ム教 徒 に とっ て は,現 在 の ノ ウル ー ズ は単 な る祭 りに過 ぎ ず,ソ フ レ

の コ ー ラ ソを 除 くと宗 教 色 もな け れ ば,厳 格 さ も見 られ な い。 ソ フ レの 準備 に

も遊 び 心 が 顔 を 出 し,美 し く彩 られ た ソ フ レは 客 間 な どに飾 られ,年 始 に訪 れ

る人 々に 自慢 げ に 見 せ られ る。 しか し ゾ ロア ス タ ー教 徒 に とっ て は,ノ ウル ー

ズは 依 然 と して 聖 な る宗 教 行 事 で あ り,ソ フ レも不 浄 の人 間を 近 づ け な い よ う

に,別 の 部 屋 に 置 か れ る。

(2)年 末 最 大 の 行 事 は な ん とい っ て もChahar Shanbeh SUriと い う火 祭 り

で あ る。Chahar Shanbehは 水 曜 日の意 で あ るが,イ ラ ン では 日没 を も っ て1

日の 始 め とす るた め,実 質 は 火 曜 日に 行わ れ る。Sur'は 祭 りとか 結 婚,祝 宴 な

どの 意 で,(49)Chahar Shanbeh Suriと は年 末 最 後 の火 曜 日の 夜 に 行 わ れ る火 祭 り

の こ とで あ る。 日没 後,3,な い し7つ の灌 木(Bouteh,Botch)の 山 を 中庭 や

路 地 に 一 列 に 並 べ,火 を 付 け る。 人 々 は これ を 順 に 飛 び 越 え,そ の 時,『 私 の

黄色はお前に,お 前の赤は私に』(50)『アールは出ていけ,不 幸は出ていけ,泥 棒

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Page 10: ArUs Guleyな どと称される道化が繰り出す - JST

は村から出ていけ』などと歌 う。(51)火は最後まで燃や され,灰 は十字路や壁際に,

処 女 の 手 で撒 か れ る。(52)彼女 た ち は 家 に 帰 る と,戸 を 叩 き,家 人 と『誰?』,『 私 』,

『何 処 か ら来 た の』,『結 婚 式 か ら』,『 何 を 持 っ て きた の』,『 健 康 を 』 と問 答 す

る。 灰 と一 緒 に 人 形 を 家 か ら外 へ 持 ち 出す 地 方 もあ る。(53)

Chahar Shanbeh SOriの 起 源 も明 らか で は な い。 前 述 した よ うにChahar

Shanbehと は 水 曜 日の こ とで,こ れ は 月 を 週 単 位 に 分 割 した 結 果 付 け られ た 名

称 で あ る。 と ころ が イ ス ラ ム以 前 の イ ラ ンに は 週 の概 念 が なか った た め,イ ス

ラ ム以 降 の 儀 式 とみ る のが 定 説 とな っ てい る。 しか し古 代 暦 を よ く調 べ る と,

必 ず し もそ うで は な い こ とが 窺 え る。 古 代 人 が 月 の位 相 を基 準 に 月 日を 判 断 し

て い た こ とは 周 知 の通 りで あ る。Mah Yashtか ら も 一箇 月が15日 毎 に 分 け ら

れ て い た こ とが 分 か る。(54)そして満 月 か ら朔 月,あ る い は朔 月か ら満 月 ま で の15

日 も,さ らに 上 弦 ・下 弦 の 日を も っ て7日,8日 に 区 分 され る。Young Avesta

暦 で は,(55)月は4分 され,各 々7日,も し くは8日 に 分 け られ,ア フ ラマ ズ ダ の

日が含まれていた。(56)この聖なる日は休 日に当てられていた と推測される。 こう

して見てくると,古 代イラソにも週にあたる概念があった と充分推測 し}る し,

"7"そ のものも聖数であったことは前述した通 りである。Chahar Shanbeh Suri

もイスラム以前の古い,イ ラソ固有の儀式であった と考 えられる。

以前はこの日に家中の壷や皿が割 られた り,捨 てられた りした。水掛けも行

われた。火や灰,さ らには水の浄化作用を通 して,汚 れを除去し,厄 払いを済

ませて,新 年を迎えようとしたのである。 まさに大晦日行事である。元来の大

晦 日行事が何 らかの事情で,年 末最後の火曜 日に固定されたのではないか。 ゾ

ロアスター教徒の学者,Sorushiyan(57)氏はこの行事はゾロアスター教に由来する

ものではな く,イ スラム教徒の風習であると述べている。

この日に女性の開運行事が集中しているのも興味深いことである。結婚を願

う女たちは閉 じた錠を首に掛けて四つ辻に立ち,最 初に通った乞食に開けさせ

た りする。(58)また不妊の女たちはなめ し工場へ行って汚水をかぶった り,(59)またテ

ヘ ラ ソ では 真 珠 の大 砲 の下 を く ぐ り抜 け た りも して い た。(60)この種 の行 事 は イ ラ

ソ全 土 で 見 られ る。 共 通 してい るの は,閉 じた もの を,最 初 に 訪 れ た 者,ま れ

人 の 力を 借 りて開 い た り,あ るい は 何 か の 下 を く ぐっ た り,汚 水 を か ぶ った り

す る こ とで,新 生 児 誕 生 の瞬 間 を 演 じて い る こ とで あ る。

Qashogh-zani(ス プ ー ンで 叩 くこ と)と い う厄 除 け行 事 も また,女 性 の手 で

行 わ れ る。 病 人 を 抱 え る家 の 女 た ち は,互 い に チ ャー ドルを 交 換 した りし て素

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性を隠し,ス プーソと食器,も しくはふるいを手にして,7軒 の家や商店を回

る。無言で手にしたスプーンで戸を叩き,家 主に来訪を知 らせ る。家主もやは

り女に無言で何かを施す。食べ物なら病人に食べさせ,金 子ならそれでスープ

の材料を購入する。

(3)大 晦 日になると,人 々は掃き納めをして,年 湯を使って新しい服を着る。

前述のソフレを飾 りつけ,最 後の食事 としてSabzi Polou(青 野菜入 り炊 き込

み御飯で,魚 が添えられる)やKuku Sabzi(野 菜入 りオムレツ)な どを準備

し,翌 年にも少し持ち越 される。大晦日にモスクなど聖なる場所に行き,そ こ

で新年を迎yる 人 もあれば,(61)新年に家を空けることを不吉として,家 に籠 もる

人もある。 しかし一般には新年への移行の瞬間,家 族全員がソフレの回 りにい

な け れ ぽ な らな い と され て い る。(62)Bakhtar加 州 のGUranの よ うに 大 晦 日に 火

の上 を 飛 ぶ地 方 もあ り,(63)壼割 や,(Qashogh-zaniな どChahar Shanbeh Suriの

行 事 が 往 々に して 重 複 して み られ る。 こ の こ とか ら も,Chahar Shanbeh Suri

は 実 は 大 晦 日行 事 で あ った が,そ れ が 暦 の ず れ な どか ら,独 立 した 年 末 の一 行

事 とな った もの と考 えられ うる。

(4)1月1日 零 時 を も っ て新 年 とす る 日本 とは 異 な り,イ ラ ン では 新 年 へ の

移 行 の瞬 間 が 正 確 に 計 算 され,テ レ ビや ラ ジ オを 通 して 知 らさ れ る。 以 前 は 移

行 の瞬 間 を 大 砲 の音 が 告 げ るや,大 砲 や トラ ソペ ヅ ト,爆 竹 が 一斎 に 鳴 らされ

た も の で あ る。(64)俗信 では,こ の瞬 間に 金 魚 が 頭 を メ ッカに 向 け る とか,水 に 浮

かべた葉が動 くとか,(65)あるいは鏡の上の卵が回 り出すとか言われている。移行

の少し前に,門 や家の前に打ち水をする。家族全員が ソフレの回 りや,あ るい

はソフレのある部屋に集ま り,そ の瞬間を待つ。その時,貨 幣や米,わ らじ虫

を握 り締めたとの報告もある。(66)貨幣は富を,米 は豊穰を表す。わらじ虫は 自生

することから多産の象徴に用いられた。

(5)新 年を迎 えると,互 いに新年の挨拶を交わ しなが ら,キ スをする。その

後年長者から年下の者にお年玉が配られる。お年玉は小さい子供の特権ではな

く,誰 もが自分より年下の者に何かをプレゼソトする。以前は金貨がほとんど

だったが,最 近では紙幣や品物に取 って代わ られている。それか ら食事が始ま

り,こ の時必ずAsh(ス ープ)が 出される。Ashは 日本の粥同様解斎時の食べ

物であり,前 述の冬至祭やSadeh祭,Chahar Shanbeh Sureの 日にも用意さ

れる。

その後で年始回 りが始まる。一族の長の家から順に回る。最初に訪ねて来た

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人,ま れ 人 が 男 な ら吉 とす る。 ま れ 人 は 幸 い を もた らす と考 え られ る。 この 年

始 回 りは12日 間 続 き,お 茶 や菓 子,乾 燥 果 実 な どで も てな され る。 喪 に 服 す る

家 や,喪 の 明け た ばか りの 家 で は ソフ レは 準 備 せ ず,現 在 は コ ー ヒ ーで 訪 れ た

人 を もて な して い る。 葬 式 や そ の 後 の行 事 に も紅 茶 の変 わ りに コー ヒ ーが 出 さ

れ る。 年 始 回 りの後 で モ ス クな ど礼 拝 所 へ 行 く。 新 年 へ の移 行 の瞬 間 を墓 地 で

迎 えた り,あ るい は元 日に墓 参 りに 行 く家 庭 もあ る。

(6)正 月13日 をSizdahbe-darと い い,人 々は 三 々五 々連 れ 立 っ て 郊外 の川

の辺 りや 野 に 繰 り出 し,終 日楽 し く過 ごす。 ま た この 日を 最 後 に 正 月 行 事 はす

べ て終 了す る。Sizdahbe-darと は,Sizdah(13)に 外 へ 行 くとい う意 で,"13"

の持 つ 不 吉 性 か ら逃 れ るた め,家 を 空 け,町 か ら郊外 へ 行 くと一 般 に 信 じられ

て い る。 しか し元 々イ ラ ソに は,"13"を 忌 み嫌 う思 想 は な い 。BirUniは そ の

吉 凶表 の 中 で,Farvardin月Tir日(即 ち13日)を 大 吉 と して い る。(67)イラ ソで

は 各 月 の各 日に そ れ ぞ れ 固有 の名 が 付 け られ,各 月 の13日 は雨 の 神 テ ィール に

あ て られ て い る。Tishtrya Yashtに は テ ィー ルに 対 し,充 分 な 礼拝 と供 儀 が 行

わ れ れ ば テ ィール は 早 魅 を もた らす 悪 魔 と闘 い,打 ち 破 る。 そ して水 の生 命 は

全ての物質世界に流れ出る,と ある。(68)乾燥地帯に住むイラン人が如何にティー

ルを畏敬 したかは語るまでもない。彼を乞いこそすれ,忌 み嫌 う理由は何もな

い。春の農耕開始時のティールの日に,豊 穰を願ってティールに祈 り,生 賛を

供えたのは当然のことである。人々が家を空け,郊 外へ繰 り出すのも,不 吉さ

か らの逃避ではな く,実 は豊穰祈願のため,郊 外の川辺に行き,テ ィールに祈

りを捧げるとともに,同 時に田畑の下見をしていたのではないか。

水は古来厄払いの源であ り,生 命の源でもあった。わが国でも旧暦3月3日

に,人 々は野や川に出て,中 食を取った り,人 形を水に流して除厄をした。中

国や韓国でも3月 上巳 日(現 在は3月3日)に 祓襖祭 とい う,や は り豊穰祈願

の祭 りを行っている。(69)人々が水と関係の深い日に,郊 外で供儀の名残である会

飲をするのは,人 類の普遍的な行為と言えよう。ちなみに旧暦3月3日 は新暦

の4月3日 前後にあた り,春 分正月を採用するイランの1月13日 にほぼ一致す

る。また前述 した ように,こ の日をもってイランの正月は終わ るが,こ の日の

行事には大晦 日のそれ と重複する点も少な くはない。大晦 日が暦のずれなどで,

13日 にずれ込んだかもしれない。元来一つであった祭 りも,暦 上を変遷するう

ちに,独 立した別個の祭 りと化することは,わ が国の正月と小正月の関係など

の例からも明らかである。

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実際の行事を述べると,人 々は早朝から家族連れ立って郊外へ出掛ける。小

川な ど水辺に絨毯を敷き,サ モワールを沸かして,菓 子などを食べながら遊び

に興 じる。昼食に必ずAshが 作られる。以前は賭事や猿回し,人 形芝居など

も観られた。結婚を願 う処女達は2本 の枝,も しくは新 しく芽をだした草で結

び 目を作 り"13日 は過 ぎ,来 年は,夫 の家に,(70)子供は腕の中"な どと歌 う。

ノウルーズに用意された大麦の若芽も,こ の日に郊外の小川などに捨てられ

る。新年のために特別に準備された若芽はいわば初物であ り,こ れを水に流す

のは,わ が国の秋祭 りで初穂が神に捧げられるのと同様,テ ィール,ひ いては

豊穰の神アナヒーターへの献供にほかならない。川辺で楽しく遊び,賭 事に熱

中するのも,テ ィールと悪魔との闘争の模擬に端を発している。 日没後,家 路

に着 く時,早 朝 とは違 う市 門 を 潜 って 戻 らな け れ ば な らな い と され て いた 。(71)

そ して この 日を境 に 人 々は ま た 日常 の世 界 へ 戻 っ て い く。 冬 至 祭 に 始 ま った

長 い物 忌 み の期 間 も,潔 祭 と解祭 を い く度 か 繰 り返 す こ とで 無 事 過 ぎ越 され た 。

イ ラ ソ固有 の新 年 祭 で あ っ た ノ ウル ーズ も,時 代 を経 る と と もに 様 々な 様 相 を

呈 す る よ うに な っ た こ とが,以 上 か ら立 証 さ れ た で あ ろ う。

(1)イ ランの英雄叙事詩Shah Nameh(王 書)に 登場す る伝説上 の王 で,ア ラブ伝承

の ソロモ ンに相当す る。Shah Ndmeh-ye Ferdousi,vo1.1,Tehran,1345/1966,PP.25-

34.

(2)岡 崎正孝 「カナー トの結婚 と水 かけ祭」『気候 の地理』31-2,1986,PP.66-71.参

照。

(3)A.Dehkhoda,Loghat Nameh,no・199,'T'ehran,1352/1973,P.262.に よる。

(4)ヘ ロ ドトスのr歴 史』に も神殿 で見知 らぬ男 と交 わって 出来 た子 は,神 の子 と し

て崇め られた とい う記述があ る(へpド トス 『歴史』上,松 平千秋訳,岩 派文庫,19

74年,pp.148-149)。 春 の万物成長 の時期 に,予 祝 と して行われ る聖婚か らは,冬

至の頃に子が授か る。 キ リス トや,ア レキサ ンダー の誕生が冬至に結 び付 け られ る所

以であ る。

(5) A. Enjavi, Jashnhd va Adab rya Mo 'tageddt-e Zemestdn, vol. 1, Tehran, 1352/ 1973, pp. 18-28; vol. 2, 1354/19755 pp. 152-165.

(6) A. Enjavi, op. cit., vol. 1, pp. 20-21.

(7) A. Enjavi, op. cit., vol. 2, p. 158.

(8)拙 稿 「祝火 考-サ ダ祭 の変 遷 」 『西 南 ア ジア 研 究』no.24,1985,PP.79-83.;M.

Royce, "Iranian Festivals", the Cambridge History of Iran, vol. 3, Cambrige, 1983,

pp. 800-801.

(9)Chah Nameh(王 書)に 登場す る伝説上 の王で火を発見 した とされてい る。 Shah

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Page 14: ArUs Guleyな どと称される道化が繰り出す - JST

Nameh-ye Ferdousa,pp.25-34.

(10)地 方 に よ り呼 称 もま ち ま ちだ が,Enjavi氏 の表 記 に 従 った 。

(11)拙 稿 「春 祭 り考-旧 秩序 か ら新 秩 序 へ の 移 行 を 助 け る道 化 の役 割 」 『オ リエ ン ト』

第26巻 第1号,1983年,PP.57-68.

(12)B.C.7C頃 使 用 され て い た暦 で,暦 とい うよ り は祭 の集 合 体 で あ っ た。S.H.

Tagizadeh,Gah-shomari dar Iran-e Qadim,vol.10 of Magalat-e Tagizadeh,ed.by

I.Afshar,Tehran,1358/1979,参 照 。

(13)S.H.Taqizadeh,op.cit.,P.106.

(14)ibid.

(15)

表(2)二 十 四節気(『 歴史 はいつ始 ま ったか』藪内清著 より)

表 中の下線 は筆者 によ るもの。

(16) Avesta, die heiligen Biicher der Parsen, iibersetzt von Fritz Wolff, Strassburg, 1910,

pp.229-258.;岡 田明 憲rゾ ロア ス タ ー教 』 平 河 出版 社,1982年 参 照 。

(17) M. Boyce, op. cit., p. 796.

(18) S. Ourang, Jashnha ye Iran-e Bastdn, Tehran, 1335/1956, p. 180. 尚出典は明記

されて いない。

(19) S. H. Tagizadeh, op. cit., p. 73.

(20) al-Biruni, Asdr al-Bdgiyeh, ed. by A. Danaseresht, Tehran, 1974, p. 282.

(21) ibid

(22) S. H. Taqizadeh, op. cit., p. 73.

(23) ibid.

(24)筆 者の見 聞による。

(25) Borhan-e gate`, ed. by M. Mo'in, vol. 4, Tehran, 1362/1983-1984, p. 2192.

(26) 'O.Khaiyam, Nouruz Nameh, ed. by A. Hasuri, Tehran, 1342/1978, p. 41.

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(27)'O. Khaiyam, op. cit., p. 27.

(28)'O. Khaiyam, op. cit., p. 11.

(29)ShahNameh(王 書)に 登 場 す る伝 説 上 の 王Shah Nameh-ye Ferdousi,PP.58-106.

(30)'O.Khaiyam,orb.cit.,p.19.

(31)ShanNameh(王 書)に 登 場 す る伝 説 上 の 王Shah Nameh-ye Ferdousi,PP.221-

232.

(32) 'O. Khaiyam, op. cit., p. 26.

(33) S. H. Tagizadeh, op. cit., p. 58.

(34) al-Biruni, al-Tafhim, 1318/1957-1958, p. 256.

(35) al-Biruni, Astir. p. 284.

(36)ibid.典 拠 不 明 だ が, Safaは,最 初 の5日 を貴 族,2番 目一 賞 衣 や 年 玉 を 与 え,

貢 物 を 受 け る 日,3番 目一 召使 い,4番 目一 近 侍,5番 目,兵 士,6番 目一 農 民 と し

て い る。Z. Safag Gah-shomdri rya Jashnhaye IVIelliye Iraniyan, Tehran, n. d., P.82.

(37) Borhan-e gate`, p. 2190.

(38) al-Biruni, op. cit., p. 285.

(39)'O. Khaiyam, orb. cit., p. 22.

(40)B.Faravashiは そ の 著 書 で, JahezのKetabol-Mahasenか ら の 引 用 と し て あ げ

て い る(Jashn-e Farvari, Tehran,1356/1979, P.54.)。

(41) `0. Khaiyam, op. cit., p. 27.

(42) Borhan-e gate`, p. 2193.; al-Biruni, op. cit., p. 284.

(43) S. H. Tagizadeh, op. cit., p. 155.; Borhan-e gate'. ibid.

(44) al-Biruni, op. cit., p. 282.

(45) B. Faravashi, op. cit., pp. 57-58.

(46) E. Shokurzadeh, `Agayed va Rosum-e `Ammeh ye Mardom-e Khorasan, Tehran, 1346/1967, p. 81.

(47) M. Boyce, Zoroastrians, Their Religious Beliefs and Practices, London, 1979, p. 21, p. 33.

(48)宗 慎 著r荊 楚歳 時記』守屋美都雄訳 東洋文庫,平 凡社,1977年,43頁 。

(49) A. Dehkhoda op. cit., no. 149, 1348/1971, p. 708.; W. Eilers, Der Name des

Persischen Neujahrsestes, Akademie der Wissenschaften and der Literatur, Wiesbaden,

1953, p. 11., p Borhan-e gate`, vol. 2, p. 1185 ‚É‚Í•h•Ô‚¢•h‚Æ‚¢‚çˆÓ–¡‚à‹L‚³‚ê

‚Ä‚¢‚é•B (50) "Zardi-ye man as to,sorkhi-ye to az man"

(51) "Ala be-dar, bela be-dar, dozd hiz az deha be-dar" E. Shokurzadeh, op. cit.,

P.65.Khorasan地 方 の方 言 で あ るが,そ の ま ま 記 述 した 。 Alと は背 の 高 い,痩 せ

た 女 の こ とで,新 生 児 の 肝臓 を盗 む と され る。

(52) E. Shokurzadeh, ibid.

(53) E. Shokurzadeh, ibid.

(54) Avesta, die heiligen Bucher der Parson. p. 184.

(55)古 代 イ ラ ン暦 で,ゾpア ス ター 教 暦 の 基 礎 を な す もの で あ る。S.H.Taqizadeh,

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Page 16: ArUs Guleyな どと称される道化が繰り出す - JST

op.Cit.,参 照 。

(56)S.H.Taqizadeh,op.cit.,p.119.

(57)ケ ル マ ー ン在 住 の 学 者 で,.Fα 吻 η9-eBehdinan,Tehran,2536/1978,の 著 者 。

(58) S. Hedayat, Nirangestan, Tehran, 1342/1963, p. 151.

(59) E. Shokurzadeh, op. cit., p. 70.

(60) H. Masseh, Mo'tagedat ua Addb-e Irdni, trans. by M. Roushanzamir, vol. 1, Tabriz, 1356/1977, p. 258.

(61) H. Masseh, op. cit., p. 273.

(62) H. Masseh, op. cit., pp. 275-276.

(63) M. Sadiq, "Eid-e Nouruz dar Guran", Honar ua Mardom, no. 115, 1351/1972

p. 28.

(64) H. Masseh, op. cit., p. 272.

(65) H. Masseh, op. cit., p. 276.

(66) ibid.

(67) al-Biruni, op. cit., p. 306.

(68) Avesta, die heiligen Pucher der Parsen, pp. 189-190, pp. 193-194.

(69)宗 慷著r荊 楚歳時記』守屋美都雄訳,東 洋文庫,平 凡社,1977年,113頁 一116頁 。

(70) "Sizdah be-dar, sal-e degar, khaneh-ye shouhar, baccheh be baqal", S. Hedayat, op. cit., p. 154.

(71) H. Masseh, op. cit., p. 280.

尚,本 稿執 筆 に 際 し,東 京 外 国語 大 学 の上 岡 教 授 に,W. Eilers, Der Name des Persischen

Neujahrsfestes, Akademie der Wissenschaften and der Literatur, Wiesbaden, 1953, A.

Christensen, Les types du premier homme et du premier roi, Stockholm, 1917,‚È‚Ç‹M•d‚È

資料を提供 して頂いた。て こに感 謝の念 を表 して おきたい。

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