第2章.品川区の特性と市街地整備の方向性 -...

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第2章. 第2章. 第2章. 第2章. 第2章.品川区の特性と市街地整備の方向性 品川区の特性と市街地整備の方向性 品川区の特性と市街地整備の方向性 品川区の特性と市街地整備の方向性 品川区の特性と市街地整備の方向性

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第2章.第2章.第2章.第2章.第2章.品川区の特性と市街地整備の方向性品川区の特性と市街地整備の方向性品川区の特性と市街地整備の方向性品川区の特性と市街地整備の方向性品川区の特性と市街地整備の方向性

2-1.2-1.2-1.2-1.2-1.品川区の特性品川区の特性品川区の特性品川区の特性品川区の特性

 品川区の地形は、目黒川・立会川沿いと東部の海岸平野にある低地部と、高輪台、目黒台、荏原台の三つの台地部により構成されている。 品川区の土地利用の変遷をみると、この低地部と台地部によって構成される特色ある地形が大きく影響しているといえる。明治初期には低地部に水田が広がり、台地部では畑作が行われていた。その後の都市化の進行の中では、低地部に工場が立地するとともに台地部においては主として住宅地として市街化が進み、その特徴は現在においてもなお色濃く残っている。

2-1-1.2-1-1.2-1-1.2-1-1.2-1-1.品川区の成り立ち品川区の成り立ち品川区の成り立ち品川区の成り立ち品川区の成り立ち

図:品川区の市街化の変遷と時代区分

① 明治前期の品川 -宿場と農業の品川に工業の蠢動- 品川は、江戸時代より東海道第一の宿としてにぎわうとともに、全国津々浦々までその名は知れ渡っていた。しかし、明治維新後の伝馬の廃止、郵便の実施、鉄道の敷設等のできごとは、宿の存在意義と経済に多大な影響を与えた。 やがて、工業立国の主旨から、官営工場が品川に進出しはじめた。明治6年に品川宿東海寺裏の目黒川べりでガラスの製造がはじめられ、明治16年には、御殿山にセメント製造工場が設立するなどをはじめ、品川は新しい発展の方向を見出していった時期であった。

② 明治後期の品川 -工業化の第一歩- 明治10年代からはじまる「企業勃興期」を経て20年代に入ると、目黒川沿いの地域で工場が集積していった。さらに、日清戦争や日露戦争を契機に、目黒川の水力源、運輸利便性などを活用して明電舎に代表されるような機械工業が立地するとともに、京橋、芝方面などにあった小規模工場が移転して集まってきた。 これらの工場立地の動きが、後々京浜工業地帯の形成の第一歩となった。 一方、三田用水、品川用水が貫流し、農村部の農業用水としての役割を果たしつつ、さらに農業から工業へと転用されていった。 これらの工業化の動きが始動するなかで、旧来の宿場町は明治22年の東海道線の全線開通によって衰退を余儀なくされていった。

③ 大正期の品川 -品川の工業化- 日清・日露の両戦争を経て日本の近代化は急速に進展し、都市への人口集中も急速に進んだ。この傾向は、大正3年~7年の第一次世界大戦中の空前の経済的繁栄のなかで強まっていった。 因みに、大正7年の品川町、大崎町、大井町、平塚町の人口をみると、工業の発展を主要因として10年前の明治44年に比べて総体として2倍強に増加している。特に、大井町と大崎町には重工業や精密機械工場が立地するとともに、新橋から鉄道院大井工場が移転してきたのもこの頃である。前後して、東海道線大井町駅が開設された。 工場の進出にともない、住宅地や商店街が形成される一方で、農家戸数は激減していった。

④ 昭和初期の品川 -都市化の時代- 大正12年の関東大地震による東京の中心部など旧市街の壊滅的被害は、品川など外縁部の急激な市街化と人口増をもたらした。大正12年の目蒲線、昭和初年の池上線、大井町線の開通など、この時期の私鉄路線網の整備が品川の急激な都市化に拍車をかける結果となった。 この時期の人口増加は、大正9年の約12万人から昭和10年には約36.6万人と、15年間で3倍以上になった。特に荏原地区は、実に15倍以上の増加で全国一の増加率であった。 この急激な市街化によって、道路の狭あいな木造の密集市街地が形成されるなど、現

在の品川区の市街地の特徴は、ほとんどこの時期につくられたといえる。品川区における今後の市街地整備の課題ともなっている。 人口増により、商店街も形成されていった。現在の武蔵小山や戸越銀座などの商店街のはじまりである。

⑤ 非常戦下の品川 -都市問題の顕在化- 昭和初期の急激な都市化は、小学校の不足、道路整備の必要性、清掃問題、防犯、火災予防等による財政需要を増大させる一方で、歳入がほとんど伸びないなど、町村財政に大きな影響を与えた。このことが要因のひとつとなって、昭和7年に品川町、大井町、大崎町と荏原町は、東京市と合併し、新たに品川区、荏原区となった。地域の人口は引き続き増大し、街のにぎわいも増したが、合併後も道路の未整備など都市問題の多くは未解決のまま、第二次世界大戦に入っていった。

⑥ 戦後の品川 -復興、高度経済成長と都市環境の悪化- 昭和20年の終戦時、現在品川区が存する地域は多大な戦災を被った。特に、荏原区は罹災率96%と当時の35区のなかで最もひどく、区のほとんどが焦土と化した。人口は、昭和20年6月の時点で、品川区が127,000人と戦前の54%に、荏原区が115,000人と58%に減少した。 昭和23年には、品川区と荏原区が合併して現在の品川区となり、その後高度経済成長期を迎えることとなる。引揚げ、復員、転入等により昭和21年から30年までに、品川区の人口は2.6倍に増加した。 日本の経済復興とともに、戦前から京浜工業地帯の中核をなしていた区内の工業地域は、戦災と戦後の停滞から復興し、戦前をしのぐ量的な発展をとげた。 一方で、経済成長は品川区に人口の減少をもたらしはじめた。交通事情の悪化、求人難、公害苦情等により、工場の移転が目立ちはじめたことや、住環境の悪化、核家族化等により、昭和39年に約416,000人とピ-クに達した人口は以降減少傾向を見せはじめた。

⑦ 現在の品川区 -都市構造の再構築と都市環境の整備に向けて- 現在の土地利用状況を見ると、地域ごとに建物用途構成の専用度合いが低く、土地利用が用途地域毎に明確に別れているわけではない。従って、住商・住工・住商工といったように建物用途の混在している地域が多い。 地域ごとに土地利用の特性をみると、臨海部は工場・倉庫が主体、副都心の位置づけの五反田駅前については事務所が主体となっており、対照的に西大井3・4丁目、大井7丁目や旗の台などは戸建て住宅が主体の地区である。それ以外の区域は住宅と他用途との混在型の市街地が多く、品川区の土地利用の特徴的な部分が確認できる。 また、もともと工場系の土地利用が多かった地域のうち、内陸部にある西大井6丁目や平塚・荏原の一部では、戸建て住宅と耐火造集合住宅・木造賃貸アパートが混在する住居系の用途が主体の地域に移行しており、工場は移転・廃業が進みもはや地区の主要用途ではなくなっている。

図:品川区の建物用途現況(平成8年土地利用現況調査より作成)

建物用途官公庁・その他事務所建物専用商業施設住商併用建物宿泊・遊興・スポーツ施設等専用独立住宅集合住宅専用工場・作業所住宅併用工場作業所倉庫等