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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 3: 149-161 Issue Date 2007-10-31 Type Journal Article Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/16600 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title 史料紹介『盍徹論』 : 版本になった『盍徹問答』

Author(s) 綱川, 歩美

Citation 書物・出版と社会変容, 3: 149-161

Issue Date 2007-10-31

Type Journal Article

Text Version publisher

URL http://hdl.handle.net/10086/16600

Right

史料紹介『蓋徹論』

     版本になった『蓋徹問答』

綱川 歩美

【史料解説】

 ここに紹介するのは『蓋徹論』という史料で、畑銀鶏(寛

政二等七九〇〉~明治三念八七〇〉年)によって天保

八(一八三七)年に出版された、『蓋徹問答』のことであ

る。以下、原史料の『蓋徹問答』(以下『問答』)を中心に

述べてみたい。

  天下之本口承レ国、国之本在レ家、露橋思慮レ身ト、ヒ

  ツシト云ツケテ、本ト云ヲ身ニオツツメテ心ト云ニナ

  リテ、身ノ主ハ至ハ富国一

 右は、山崎闇斎の語録の.一部で、「治国」の要諦につい、

ての記述である。国を治めるという政治的課題の根本が、

「身ノ主」である心に置かれていることが分かる。これは

たとえば、太宰春台の『経済録』、「凡天下国家を治ルヲ経

済ト云。世ヲ経シテ民ヲ済フト云義也」というような「経

世済民」を定義するものとは異質であろう。

 心身の修養、なかでも心のあり様を鍛えることで、道

徳的な道を体現できるという、いわゆる道学的性格を前提

にしている。そして、この道をめぐって、「敬」の重視や

君臣道徳の絶対化が説かれた点に崎門儒学の特徴がある。

崎門儒学の力点は朱子学の修身へ注がれていたといえる。

 しかしながら『問答』は、平門儒学を標榜しながらも、

道徳的側面は後景に退いている。『問答』は、専ら経済を

論じた書物、藩財政の建て直しに関する税制改革論なので

餅14

ある。先の道学的性格からすると、少々イメージが異なる

のではないだろうか。

 崎門儒学を“標榜した”といったのだが、実はこの史

料には決定的な事実との齪酷が見られる。『問答』は、「元

禄中ノ事ナリシガ、四国ノ大家二仕ヘシ門人何某ナル人」

が山崎闇斎に財政難を訴えるところがら始まる。周知の通

り、闇斎は天和二(一六八二)年に没しているから、この

設定は本来存在し得ないのである。

 かつて『問答』を紹介したのは瀧本誠一氏である一。氏

はこの決定的な矛盾を、後日の成稿であるために生じた誤

記であろう推察した。しかし管見の限り、伝来する諸本が

一様に元禄年中という記載をとることは、単なる誤謬では

なく、成立の当初から何らかの意図を含んでいた可能性を

捨て去ることはできない一。

 さて、成立の段階での意図を可能性として提示する場

合、史料としての真贋の問題が関わってくる。すなわち、

偽書の可能性である。真実性を追究する立場からすれば、

それは大きな欠陥である。しかし近年の由緒論の盛況が示

すように、かならずしも真贋が最優先ではなくなってきて

いる。歴史学においては、偽文書の機能が論点になりうる

               の

ことが指摘されているからである一。これは古文書だけに

限らず、「明君録」などの顕彰書物にも波及する論点であ

る。 

これらは考察の一線からは外されてきた古文書や書物

が、歴史的・思想史的考察の対象としての意義を多分に持

つことを意味していよう。そこで要求されるのは、書物の

成立と流布の両面から、歴史史料としての有効性を吟味し

ていく作業である。『問答』もこうした作業を改めて必要

とする史料であると考える。

 「蓋徹」の名前は、『論語』倉淵十二、哀公へ有若が答

えた「孟んぞ徹せざるや」に由来する(。「徹」とは、周代

の租税のことで、収穫の十分の一を貢租とするものである。

この租税を適応した税法が井田法と呼ばれる。

 哀公は、凶作による財政逼迫の打開方法を有若に尋ね

た。有若は、いっそ税を十分の一にしてはどうかと述べた

のである。当時の魯国では、十分の二を貢租としていたの

で哀公は驚いた。しかし有若の意図は万民の飢えをまず救

傷15

 

うことが、領主としての急務であるというものであった。

『問答』の中の闇斎もまた四国の大藩につかえる門人に問

われて、有若と同じ返答をしている。そこから、具体的な

財政改革の方法を示していくというのが本論の流れであ

る。 

内容は、一〇年計画で藩の借財を返済し、同時に一〇

万俵の備蓄米を備えるというものである。詳細は本文に譲

るとして、改革法の特徴を要約すると次のようなものであ

る。①農本主義②倹約型の再建策③経世済民と仁政イデオ

ロギーである。①に関しては、幕藩体制の領主経済の成り

立ちから必然的に想定されるものであろう。『問答』も限

られた年貢米で、藩財政を賄うところに焦点がある。第一

義的に領内の百姓への借金返済が優先されるべきと説く。

その上で藩主をはじめ家臣の倹約と、商人への返済が示さ

れる。これは②にも関わるが、支出の緊縮である。近世中

後期に一般に盛んになる、藩の専売制といった新規事業の

開拓などは述べられず、倹約型の再建策が特徴として上げ

られる。

 そして『問答』の全般を貫いているのは、③の経世済

民と仁政イデオロギーである。『問答』では藩財政の再建

は、領主が飢謹時に民を救済するのに不可欠な課題として

いる。領主が貧しくては民を救えないというのである。先

の有若は、民が貧しくては領主が豊にはなれないとして、

済民を謳っていた。しかし、ここでは民を救うという建前

に領主の充足が説かれていく。有若の済民論を換骨奪胎し

た、仁政イデオロギーがその改革論を支えているのである。

 『問答』の概略は以上のようなものである。こうした

内容を歴史的文脈に位置づけるために、何時、だれによっ

て作られたものなのかを追求する必要がある。しかし、今

回はその十分置結論が出せないので、『問答』の成立時期

を写本の奥書から遡ってみたい。現在、確認できるのは、

写本が四一点、版本が一五点である(表)。まず写本のほ

うを考察してみる。

 一部表題を欠くものもあるが、ほぼ『盃徹問答』とい

う名前で流布している。筆写された時期は概ね一八世紀後

半から一九世紀にかけてである。古いものは、天明期に集

中している。国立国会図書館所蔵の大田南畝(寛延二企

レー5

七四九〉~文政六〈一八二三〉年)の『三十輻』に収録さ

れたものが、天明八(一七八八)年と確認できる。また、

岡山大学池田家本は、筆写年代は寛政四(一七九二)年で

あるが、もとは天明八年まで奥書から遡ることができる。

このことから、確実に天明期後半には成立していたといえ

る。 

目先をかえてみると、高知県立図書館に、谷垣守が元

文五(一七四〇)年に筆写した岡田盤鎮の蔵書目録『盤面

書目』に次のような記載を見つけることができる(。

  井田徹法之大略

  朱子社倉法俗解

  論語筆記哀公問目抜

 これらの書物を現在確認できないが、いずれも『問答』

の内容に関わりそうな書名である。特に、『論語』の逸話

と朱子の社倉法(備蓄制度)に関する書物が、「井田徹法

之大略」と併記されているところに関連が窺える。残念な

がらこれ以上のことは不明であるので、天明期より以前の

可能性として提示しておきたい。

 次に、『問答』の筆写主体について述べておきたい。

 無窮会図書館所蔵本と、京都大学附属図書館谷村文庫本

は、ともに細野雲斎(文化八〈]八一一〉~明治一一念

八七八〉年)によるものである。要斎は崎門儒学を学び、

尾張藩に仕えた藩儒である。要論が写した原本は、同じ尾

張藩儒・深田香実(安永二〈一七七三〉~嘉永三〈一八五

〇〉年)が、友人・平岩元珍(?~文政一〈一八一八〉年)

の蔵書から借受けたものであるという。二つの写本はとも

に香実と要斎の識語が添えられている。競馬の識語には次

のようにある。

  余常服.先生之理富合微一、卓識洞徹、至レ読一卜書・、

  益信.二三深二干経術一、大非三世俗ロ耳玉学者所レ能二企一

  及焉、鳴呼先生之才徳可レ謂二大且明一契、

 ‘『問答』を読んで闇斎の「経術」の造詣の深さに心服

したとある。文化三(一八〇六)年の香煎は、『問答』が

闇斎による説話であることを疑っていないのである。これ

をさらに写した要斎は、「忠陳按元禄先生残量也、主文蓋

有誤」と、すでに事実との齪齪を指摘している。しかし内

容については闇斎のものとして認識しているようである。

このように、崎門の継承者たちは、闇斎の「経術」の要諦

として『問答』を受容していたことが分かる。

 一方、池田家本についてみてみよう。池田家本の筆写

野!5

者のうち、天明八年の冬に筆写した人物に多賀久博がいる。

多賀蓮華(元文二〈一七三七〉~文化一一〈一八一四〉年)、

↓六〇石取の岡山藩士で、蔵奉行から「伏見御用」(京都

留守居)を勤めた人物である。筆写の直前の天明七(一七

八七)年は、病身の父の馬飼を務める時期であった。蔵奉

行への就任は寛政元(一七八九)年であるが、代々、藩政

の実務方を担当する家柄で、『問答』の筆写もこうした役

職を意識してのことだったのかもしれない。実務役人であ

る久博にとって、.『問答』が闇斎の「経術」であることよ

りも、実際の藩政において参照する意味のほうが大きかっ

たのであろう。

 また京都町奉行所与力だった、神沢杜ロ(宝永七念

七一〇〉~寛政七〈一七九五〉年)場合も興味深い。膨大

な随筆『翁草』の二〇巻に『問答』は収録されている。

その前巻の一〇九巻の最後には「田沼家衰微」が、直前に

は「田氏罪案」が収められている。二つは、田沼樹霜の失

脚の顛末を描いた流説である。注目したいのは、鳶口が『問

答』に付けた但し書きである。「田氏罪案と山崎闇斎の蓋

徹問答、よき見くらべもの故、此次に記す」というのであ

る。京都の市井に暮した者の認識として、田沼二次の執政

と『問答』の政策が比較され、世相の判断材料になってい

たことが分かるのである。これもまた『問答』の受容のさ

れ方のひとつであろう。

 以上、筆写主体の意図を垣間見たが、これはほんの一

端にすぎない。それぞれについてさらに考察を深めていく

ことが必要であろうし、そこから『問答』受容の諸相が豊

になるものと思われる。

 ここまで写本として伝来する諸本について述べてきた

が、もう一つの流布形態について一言しておきたい。『問

答』は、版本としても出版されているのである。

 その一つが、後に載せた『蓋徹論』である。天保八(一

八三七)年、上野七日市藩の藩医で戯作者でもある畑銀鶏

によって出版された。銀鶏は今井政美なる旧知の人物から

写本を手にいれ、版にしている。現存数はほとんどなく、

刊記もないので私家版として細々と刷られたものと思われ

る。銀鶏の父は金鶏で、同じく藩医であり狂歌作者として

も知られている。金鶏は大田豊里との交流あったし、銀鶏

自身も幅広い「文人」層との交わりがあった。おそらくは、

こうしたネットワークのなかで『問答』が流通していたの

であろう。『蓋徹論』には次のような序文がある。

翫15

  量不・当今之急務.乎、世半人動輯以・富レ国強一レ兵、為

  ・・管商之術・者、未レ知四投レ機応レ変宰・理天下之功一也、

  夫制レ節謹レ度、経済之根本治・国家・三里繁也、

 天保三(一八三二)年から天保八年にかけての飢鐘は、

幕藩制経済に重大な影響を与えたことはいうまでもない。

銀鶏が『墨壷論』を出版したのはまさにこの時期である。一

『問答』の内容を「当今之急務」であるとするのは、当時

の社会状況とは無縁ではないであろう。銀鶏は、ほかにも

通俗的な救壁書を同時期に出版している(。戯作文芸を得

意とし、毎月のように絵画の品評を行い文雅の世界を愛し

た「文人」も、危機的状況を認識した反映ととることがで

きそうである。

 もうひとつの版本は、藤森弘庵(寛政一一〈一七九九〉

~文久二〈一八六二〉年)が編纂した『如不観世叢書』第

一集に収録されたものである。「如不及斎」とは言置の号

で、嘉永四(一八五一)年の出版である。忠庵は、柴野碧

海や長野豊山・古賀桐庵らに学び、土浦藩郁文館の教授を

務め、晩年は江戸で講釈を行った儒者である。彼が寄せた

識語には「聖人盗徹之訓、実測当今之要務・、督責厳急、

動生事端、而財卒不レ可・得也」とある。弘仁もまた『問答』

に記された財政政策が、幕末の時期において不可欠な「要

務」であると認識している。

 銀鶏は闇斎の「実地」として疑っていないが、弘庵に

おいては、闇斎の「経術」というのは後景に退いている。

いずれにしても、事実関係の正確さが考慮されることなく、

出版されていったのである。裏をかえせば、作者云々の問

題ではなく、飢饅や幕末の動静下においてなお、実効性を

持つものとして容れられていたということになる。闇斎の

名を冠した財政再建策が、近世の末期まで継承された足跡

をここに見ることができるのである。同時に「闇斎学」の

命脈の強さを窺い知るものである。

【註】

ω『大学垂加先生講義』(『日本思想大系三一山崎闇斎学派』

 岩波書店、一九八○年所収)。

②『日本経済大典』史誌出版社、一九二八年。

⑧一つの完結的なテキストとして書物を捉える場合、内容を第

 一に考えるため、一点を取上げれば済むことであった。ゆえ

 に、内容に重大な欠陥がなければ誤写と確定することが可能

 である。しかしもはや書物はテキストの内容だけではなく、

↑15

 その周辺までも歴史学や思想史研究の対象となっている。単

 品ではなく、各地に伝本する諸本を総体的に考えるという視

 角に立つことは、必然の観を呈してきている。

④久野俊彦・時枝務編『偽文書学入門』(柏書房、二〇〇四年)

 において改めてその意義が提示された。

⑤「顔淵十二」の意訳に関しては、金谷治『論語』(岩波書店、

 一九六三年)を参照。

⑥谷垣守は秦山の息子で、岡田盤斎(垂加神道家)へ師事した。

 盤鎮はその盤斎の息子である。

⑦『諸人倹約重宝記』(東京都立中央図書館所蔵)

【史料翻刻】

 『蓋徹問答』は瀧本誠一氏の翻刻に譲り、『蓋言論』を

掲示する。本文とともに、序文と銀鶏の「徹の説」も同時

に載せる。定本として用いたのは、酒田市立図書館光丘文

庫収蔵のものである。『盃徹論』は現在この一点しか確認

できない。その意味では貴重であり、今後、他に見つかる

可能性も期待して紙幅を借りたい。

【凡例】

転「序文」に付された訓点であるが一部、欠落と誤謬と思

われ、文意が通じないところがる。銀鶏の訓点を生かして、

翻刻者が訂正を加えている。その際、もとの訓点を残し、

()で訂正した訓点を付している。

・『蓋徹問答』に比較して、明らかに誤脱と思われる点を

註によって示した。

蓋徹論序

今井政美與レ余薫レ奮、嘗耳翼其居一視二一本於几上一、麗日二

盃徹論「、採而閲レ之、闇斎山崎翁所レ著、専言二経済之要一

焉、翁在二干元宝之間一、師二範王侯}遊二事大国一、野望脚著

二実地二)之人、素非二架レ空構レ虚之人三、故能読一.回書〔;、

了二会其旨趣所一レ在、研二味配意一、則上足下以匡二塁王侯之

罷画一、詩嚢心理財力無ジ彦絵、下足下身済二収士民之困頓三、

添接中盤窮窓売上レ足、可「以償二負債一、可工率省二畜舎一、宣

不魯田今之急務(じ乎、世之駆動輯以二富レ国連ワ兵、為二管商

墨筆一着、未レ(下)知投レ調薬レ変遷9理天下・之今上也、夫制

レ節謹レ度、経済之根本治「国家一之旨桑也、政美最長二干経

済之学}、素非二ざレ利釣レ名之人一、其所・抱負一可レ知已莫、

卜15

即自二閲}レ之不レ堪三吟一項者刻乏家塾・弘二直流傳㎜ 云、

時天保八年丁酉陽月王難道人畑時筒

徹字説

豪勢文作囲徹又作”山斗韻量見掛官二云.直列琵音言説文二通

也廣韻二又達也溜出見ギ論語顔上篇.~鄭玄.注二周法什一審メ

税ス謂ワ之徹二徹二通也為沸天下ノ通法一孟子縢文盲ノ篇二周人百

畝而徹.朱烹ノ注二周ノ時夫授けシ、田ヲ百畝郷遂ニハ用コ貢法づ十

夫二有囲溝都鄙二月コ助法ヲ八家同け井ヲ耕則通レカヲ桐畑ル収量則

計け,ア畝ヲ寺分故二謂コ之徹略按二皆言づ(三)彼我通達メ而均コルコ其

功労ワ也若陪所ル謂ハ射け之ヲ徹⊃七札.~乗”チ猫ヲ端坐メ徹四ル且シ之

類自費二言レ達通。ルヲ干此.~徹與レ之同シ 

銀鶏道人畑時椅識 印

蓋立論

元禄年中ノ事ナリシガ、公国ノ大家二任ヘシ何某ト云ル二

割山崎闇斎翁ノ社中ナ咳、昼時先生ノ家二三リテ言ル\

ニハ、下国ノ大守国用足ラザルコ、年久ク上下困窮甚ケレ

ハ年々歳々役人トモウチヨリテ役所々々へ倹約イヒツケ、

其上家中ノ食禄モ半知ニシテ仕法ヲ付見ルニ、詰レハツメ

ルポト益々借金殖テ、行末ハイカニ成ユカント思.ヒナガラ、

詮方ナク民二用金ヲ申ツクレハ、城下モ亦次第二困窮シテ

遂二其国ヲ離散スルニ至ルベシ、サレハ居ナカラ見ルニ忍

ビス、如何シテ此弊ヲ救ヒ申ンヤト問ハレケレハ、先生シ

バラク眉ヲヒソメテアリケルが答ヘテイハル、ニハ、論語

ヨミノ論語シラズトハ足下ノコト也ト申スベシトイハレケ

レハ、何某コタヘテ、只今マデ仁義ノ事コソ承ツレ、論語

ノ中二大名ノ勝手直シノコトハ未承ハラズト申ケレハ、先

生横手ヲ拍ツテ大二笑ヒ、人小ナレ武道小胆トハ此コト也、

才智ノ働カヌホド是非ナキ着物ナシ抑不学無智ノ人ノ国用

二不足コヲナゲキシハ漢土ニモ日本馬モ古モ今モ一々同コ

ト\コソ申スベケレ、夫故二論語二哀公ト云大名が有若ト

云フ賢者へ年飢テ国用不足イカンセハ用足ラント問ヒ玉ヒ

シカハ、有若ノ答二唯一言ニテ、何ソ徹セザルヤト申サレ

シカバ、哀公謄ヲツブシ是造十分ニノ年貢ヲ取テサへ不足

二今十分一ノ徹ノ法ヲ用ヒテ何トテ用ノ足ルコヤアラント

                         カ

アリケレハ、有若凶年テ日百姓足ラバ君誰ト共二足ラン

申サレケレ共、哀公達ニシテ発問玉ハス是切ニテ止シカド

モ、此一章ニテ大名ノ勝手直シバ足レリト申ベシト言レケ

レハ、何某モ拍掌シテ只今始テ此義ヲ承ル願ハ馬出ノ下意

卜15

ヲ精ク示シ玉ヘト臨マレケルユエ、先生ノ田夫徹ハ通也ト

テ三代共二名バカバレ共皆十分一ノ税法也、然レドモ肇国

ハ土地豊饒ニシテ大抵四分六分ノ税法ニテ、殊二国初ヨリ

深キ神慮マシマシテ定拳玉ヒシ法ナレハ、今更此日本ニテ

十分一ノ徹ノ法ヲ用フルニハ及ハス、此章ノ趣意ハ只下ヲ

ユルムレハ上ガクツログト云処が第一ノ肝要也、君里民ノ

父母也トイへ里子富テ親貧ト云理ヤアルベキ、然レハ是聖

賢ノ大智ヨリ出シ事ニテ、不学無術ノ人士云ヒキ指骨テモ

更二合点ノ行カヌコナレ托、幸二某ノ大守仁君ニマシマセ

ハ能其説ヲ用ヒ玉フベシ、足下帰国ノ上鎌術ヲ用ヒテ一国

皆安堵ノ思ヒヲ成時月余モ亦大慶斜ナラス、今具二語ルベ

シ。凡

日本ノ大名百年来土ヲ領シ玉ヒ、七分質素室町殿ノ悪弊

行レ入ルヲ許リテ出スコヲ成ノ政ナク、況や三年耕セハ一

年ノ食アリト云フ仕置絶テナクナリテ、イツトナク用不足

ト成来テ吉凶ニツケ民二課役ヲイヒツケ金銀ヲ虐タケ取ル

バカリニテ返スト云コナケレハ、後々ハ民トテモスコシモ

出サネハ、詮方ナク京大坂ノ町人二来秋ノ米ヲ引當二金銀

ヲ借り出シテ用ヲ足スコトナリヌ、始ハヨキヤウナレ圧、

利二利ヲ添テ引ル》ユエ皐月ハ家中ヲ半知ニシテモ歩歩伸

足ネハ、後ハ御領分ノ米ヲ残ラス銀主ヘトラレ、大守ヲ始

一家中七八銀扇ノ扶持人ノヤウニナリテ、漸衣食ヲ足シテ

年月ヲ歴ルウチニ吉凶災アリテ又々銀予土カリテ用ヲ足ヌ

コヲ求レ圧、フジノ入用造引出サネバ年々困窮二至ラデハ

今上ヌ筈、兎二角二銀主ノ仕送リト云フコヲサツパリ離レ

ネハ再国用ノ足ルト云フコハ至ラスト知り玉フベシ、凡銀

蘭ヲ離ル、ニハ、先御領分ノ御用金ヲ返シ百姓ヲユルメル

コ第一也ト知り玉へ、今試二半ハ大抵十万俵納ル大家ナレ

ハ、家中半知ニシテ四万俵ニテ事足リヌベシ、残ル六万皇

国、年々銀主へ送ル其内ニテ元利引オトサレ、漸々ト暮ス

程ツン送ラレテアルナラハ、今年ヨリトリ直サント思フ春

ノ末二、御領分ノ大庄屋ヲ招テイヒワタサンニハ、皆々存

ル通り御勝手向ヒシト御困窮ナレハ、此分ニチハ万一二飢

饅ノ時無モ皆々へ救ヒ玉フベキ全手當モナシ、今川ナラサ

ルニヨリ御上ニチモ何トゾ御勝手御取直シ遊バサレタキ思

召ニツキ、今秋ノ十万俵ノ内御家中ノ入用四万俵オンヒキ

上ニテ、残六万俵ハコレマデ年々差出シタル御用金ノ方二

百姓町人へ賜ルベキ間、讐へ何万両是アル茅葺ラス受取リ

タル分二仕リ、皆済致シクレヨト在ラハ、村町会二思ヒカ

ケナキコナレハ皆有ガタク畏リ奉ルハ必定也、外ノ借用ハ

71

15

差オキ先御領分ノ借用ヨリ片付タク思フ也ト申サバ、何ア

リガタク心服スルコ理ニオイテ疑ヒナシ、其時カサネテイ

ハンニハ此上今一ツ申談スルコアリ、此分ニチハ来秋迫ノ

上ノ御魂シ方ナケレハ、大儀ナガラ来秋造二万魔王納仕イ

タシクレヨトアラハ、此者共己が懐ヨリ出サズ、今吾ハリ

シ米ノ内ヨリ出スコナレハ是根比ルコ必定也、百姓町人此

ニケ條ヲサへ畏レハ、最早御勝手ハ直ル者ト知り玉フベシ、

二上ノ一年ノ入用ハ右図納ノニ三寸ニテ如何様ニモ省略シ

テ暮サルベキコナリ、此一件スミキリテ京大坂ノ楼主方へ

領分ノ借用多ク必死ト手廻ラヌ故、三ケ年勘定待チクレヨ

ト標置玉フベシ、是マテ年々何千貫目ト為銀取シ上ナレハ、

斯有シトテ格別二難儀モセヌ事也

二年目ノ秋二至テ、又二万俵ハ去秋ノ年老二返シ玉バリ上

ノ暮二二万俵、残ルニ万俵ハ籾ニテ上ノ庫二不持ノ入用ノ

備二貯フヘシ、三年目ノ秋ハ六万俵上上ノ物成トナル、夫

ヲ矢張二万俵ノ暮シヲユルメス、残ル四万俵ノ内二万俵ハ

御家中ノ諸士二手ヒトシテ分チ玉ハルベシ、残二万輔養不

時ノ入用籾ニテ貯フヘシ、四年目秋銀留湯ノ元銀何ホド、

年々出セシ利銀何程ト云コヲ勘定サセハ、大方ハ墨銀ニテ

元銀ハ済テ有モノ也、去レ共夫切ニテオケハ不義ナレハ、

今年ヨリ四万俵ツy残ルナレハ、是ヲ以テ元銀ノ十分一塁

ハニ十分一睡パリ、残り銀ヲハ高次第二十年目歌三十年目

教年賦二申談シテ、元銀ノ高二五分程過銀アルト思フ年、

イツ造モ限りナキコナレハ今年限リニテ皆済二致シクレ

ヨ、サナクバ井田ノ年賦銀モ玉具ルマシトアラハ、元モ済

シ上二利アレハ皆殺ルコニ必定也、五年目ニハ月回俵ノ暮

二引テ、今年ヨリ年々一万俵ツ\貯フヘシ、十年目ニハ都

合十万俵ノ貯ト成、残ル三万俵ノ内一万五千俵程年譜銀二

出シ、残ル一万五千俵出御家中へ頒チテ千年ユリ一二分差

\ユル曲玉ハルベシ、古穀ト新穀ト年々眼力へ凡三十万俵

ツ\不絶貯ルヲ法トスルナリ、是迫ハ御家中米ノ外ハ皆京

大坂へ出シケルニ、四年此方皆御城下ニテピサケハ、具眼

巨利ヲ得テイツトナク潤ヒ賑テ、後ニ一五麗質万ノ自注御

城下ニチモ出来ルコト知り玉フベシ、震楽弓有若ノ云ハレ

シ、百姓足ラハ馬下ト共ニカ足ラザラントノ所ニテ、小智

ノ人ノ亡国ザル所ナリ、籾亦後々サカシキ役人呈出テ城下

ニテ彿フハ損ニテ京大坂へ出番畳築アリナド申托、決シテ

取上玉ハヌコ也、民ハ利目カシコクメ皆々貯ル者ナレハ、

何時ニチモ上ノ御用二立ツコ故、上ノ府庫中期アルト同ヤ

ウナルコト知り玉フベシ、右ノ政ニテ民百姓心服シテ、後

翫15

 

御家中ノ知行モ少ツ\ユルメ其上ニテ民二信ヲ示シ玉フベ

シ、サアル時ハ町人百姓ヲ呼ビ出シ、拠ナキコニテ御用金

ヲ仰ツケラル\共襟違背ナク出ベシ、先試ミニ金高五六百

力千両モイヒツケ返済野馬収納ノ節ト定、其金ヲハ上ノ庫

へ入オキ秋二至リ約速ノ通り返シ玉フベシ、是原入用ノ金

ニテナケレハ何時二返シ玉フトモ少シモ指ツカヒハナシ、

此返済ノトキ速二御用金ヲ出セシコヲ称美シテ民二曲ヲツ

ケオキ玉フベシ、此↓件申サバ革命ニテ国法ヲ新ニスルナ

レバ、兎ヤアラント疑ヒテハナラス、何卒シテ民百姓臣下

ヲ安楽二養ヒ玉ハント云仁心サへ立ハ、天心祐ケ玉フト云

コヲ直実二決断シテカ、リ玉フベシ、凡勘定方ニハ不才ニ

チモ廉直ナル人ヲ撰ムヘシ、近キ頃ノ風トシテ利ニカシコ

キ人ヲ用フル、故二多クハ銀主ノ賄ヲトリ小利二拘メ大義

ヲ忘ル\人ハ上ノ為ニマコトノ忠ハセデ己が身バカリ利ス

ル人多シ、.サリトテ又臣下ヲ皆々盗人アツカビニセハ因ヨ

リヒガコナルベシ、撰三明ナルト明ナラザルトハ三三ル者

ノ心ニヨルベシ、初回一件評義ノ時二銀主ノ手ヲ離テハ大

金ヲ出ス人ナケレハ宜カラズナド云フ人ハ、大量ナキ人ニ

アラザレハ町人ト合躰シテ利ヲムサボル人ナルベシ、左ア

ル人ハ速二表テ役回シ玉フベシ、凡望遠ノ役所窪々ハーケ

移心何程宛ニテ仕上ルヤウニト申渡シ、財アマレハ役徳ト

愛甲テ夫ヲハ其役所ヘアタへ、不足ナレハ越度ト定メテ夫

ヲハ其役所ヨリ立替サスベシ、町人ノ脚部分厘ヲ改メ帳面

印形ヲ取ルハ、士ノ風俗ヲ傷リ尤詮ナキコナレハ左ハセヌ

カタヨシ、此身二語ルベキコアレドモ先其大概ヲイフベケ

レハ、精キコハ又侯重ネテハナシ申サントテ其日ノ議論歯

止ニケリ、

其後彼何某国ニカヘリテ、早速二先生ノ説ヲ主君へ言上シ

ケレ、大守甚感シ玉ヒ役人中へ其旨精ク御内談アリテ、其

仕法ヲ用ヒ玉ピケルニ、僅三年ニシテ小功ヲナシ、七年ニ

シテ弥人氣和シ、十年目鳩山全大功ヲ立テ御勝手向何一ツ

御指墨ナク、後々ハ御家中御領分ニモ莫太金持出来セシト

ゾ。

【註】

ω『三口問答』では門人を四国の藩士と限定している。

ω『論語』の引用が部分的に欠落している。他本では「百姓足

 なば君誰と共に足ざらん、百姓足ずんば君誰と共にかたらん」

 (無窮会図書館蔵 蓋徹問答』)である。

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