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1 それは日本の現代美術作家である笹山直規の Egocentric Story ( 自己中心のストーリー) 」から 始まる。開かれた裸体のイメージは我々を「 交通 事故 」というモチーフのトランスフォーメーション に、つまり自己とその表現の事故に、そしてディゼー ニョ全体の破壊に、さらにはクラッシュを表象する のではなく、それを再現するものとしての美術作品 に導く。フランス美術史家ジョルジュ・ディディ= ユベルマンの「 開かれたイメージ」という概念を分 析しながら、見る / 思考する主体としての我々が笹 山の絵画カタストロフィの参加者になるべく彼の作 品にアプローチする。 I will begin with Egocentric Story by the Japanese contemporary artist Naoki Sasayama. The image of an open naked body leads to a transformation of the traffic accident motif. That is to say, it leads to accident of self and its expression, to collapse of the design as a whole, and to a work of art that does not so much represent the crash as reproduce it. While analyzing the concept of “open image” of the French art historian Georges Didi-Huberman, I will approach Sasayama’s work in such a way that we become participants in his painting catastrophe as viewing/thinking subjects. ある絵画のアクシデント ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの視覚論における「開かれたイメージ」という概念を巡って ロディオン・トロフィムチェンコ (大学院造形研究科博士後期課程造形芸術専攻 美術理論研究領域 平成 22 年 3月単位取得退学) The Painting Accident On the concept of “Open Image” in the theory of Georges Didi-Huberman Rodion Trofimchenko

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Page 1: ある絵画のアクシデントFrench art historian Georges Didi-Huberman, I will approach Sasayama’s work in such a way that we become participants in his painting catastrophe

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 それは日本の現代美術作家である笹山直規の「Egocentric Story (自己中心のストーリー) 」から始まる。開かれた裸体のイメージは我々を「交通事故」というモチーフのトランスフォーメーションに、つまり自己とその表現の事故に、そしてディゼーニョ全体の破壊に、さらにはクラッシュを表象するのではなく、それを再現するものとしての美術作品に導く。フランス美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの「開かれたイメージ」という概念を分析しながら、見る / 思考する主体としての我々が笹山の絵画カタストロフィの参加者になるべく彼の作品にアプローチする。

I will begin with Egocentric Story by the Japanese contemporary artist Naoki Sasayama. The image of an open naked body leads to a transformation of the traffic accident motif. That is to say, it leads to accident of self and its expression, to collapse of the design as a whole, and to a work of art that does not so much represent the crash as reproduce it. While analyzing the concept of “open image” of the French art historian Georges Didi-Huberman, I will approach Sasayama’s work in such a way that we become participants in his painting catastrophe as viewing/thinking subjects.

ある絵画のアクシデントジョルジュ・ディディ=ユベルマンの視覚論における「開かれたイメージ」という概念を巡ってロディオン・トロフィムチェンコ

(大学院造形研究科博士後期課程造形芸術専攻 美術理論研究領域平成22年 3月単位取得退学)

The Painting AccidentOn the concept of “Open Image” in the theory of Georges Didi-Huberman

Rodion Trofimchenko

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開く身体 — 閉じる身体

 身体の「外部」へ出されたその「内部」。ボタンをはずしコートのように開かれた皮膚は究極の裸のイメージを見せる。細かく描かれた自動車の複雑な運転機械と運転席のデザインを背景として人間の無形なものが提示される。それはある事故または殺人事件の果ての身体で、どちらにしても、笹山直規の「Egocentric Story (自己中心のストーリー)」(図1)において、開かれた身体は単なる中が見える物体というより「開きのジェスチャー」として現れている。この場合、画面を / 描かれた空間を / 自動車の中を見るということは、身体の内に目を向かせるということと同じである。皮膚をさっと開けるモーションの雰囲気、内に隠れた輝く内臓の分散 / 広がり / 流れ、その豊かな色彩と生き生きしている質感は中身のアクティヴな性格を示し、

「外」に対し攻撃を行うような「内」を見せる。イ

メージの全体の構成を見ても、身体自体とその上部が画面の大半を占めるだけではなく、「開きのジェスチャー」は中心から盛り上がり広がって、絵画空間全体を覆おうとしているように見える。それは、何かの内側にある隠れた物を覗き見させるイメージではなく、出現する無形の中身は解放しながら、広がって侵略するという開きを描くイメージである。身体を開くだけではなく、裏返そうとしている想像的なジェスチャーはそのイメージ全体をその動きに巻き込もうとしている。肉体的な変化の起動によって絵自体の裏返しが起こりそうなものだと言えるだろう。結局、モチーフの物語の側面から見ても、あるロジックの違和感(たとえば「なぜこの女性は裸で車の前の席にいる(いた)のか?」というような疑問)は、「開き」の避けられないプレゼンスを、論理を無視する(非)存在を定める。そのように、笹山の身体の開きは「死体の写実」というものを超え、「開き」のダイナミクスを引

図1.笹山直規、「Egocentric Story」、水彩 / 紙、130.3×162cm、2009年

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き起こし、その動きに絵画空間を絡ませ、場面の前後のストーリーとロジック自体に開口部を示し、視覚と同時に思考において無形なものの侵略を試みるのである。描かれた死体だけではなく、絵画全体の開きがあり、それは見る者自体を開こうとしている。

 しかし、その描かれた中身は出現すると同時に覆われてもいる。その身体の開きの急進は実際に存在するかのようなフィルターを通して見え、閉じる行為をも行うと考えられる。まず、その内臓のイメージは、作品のシリーズにおいて、つまりは一つのテーマである「交通事故」を巡る絵画の連続の中に挟まれており、「シリーズの全体コンセプトとしての作品の背景」と「他の作品との総合リンクに沿う参考的な動き」の中に沈んでいる。第二に、作品は中身を見せながら、「象徴のからくり」を展開する。つまり、死体が手で持つリンゴは「身体」を「主人公」に変えながら、その死体を「白雪姫」という表象と総合し、中身を覆うことにおいて(皮肉として見られても、シンパシーを示す白雪姫であっても)象徴を生み出す。その象徴が生み出す二重性はイメージに導入される。しかし、それ以外に、笹山は死と深い眠りの間に橋渡しを構成する。作家は事故を起こして死んだ人は、まるで自分が死んだ事に気づかずに眠っているという死体写真家の釣崎清隆の死体イメージに対するアプローチの一つを想起させ、死体の「永遠的な睡眠」として表現しようとしている。その「白雪姫」のような昔話の導入は作品の鑑賞の経験をもう一つの次元に導き、象徴的なドレスそして「眠り」というイメージで人間の中身を「かぶせる」ことを行う。そのように、身体のイメージ、その裸性と開きは隠れ、閉じようとしている。開きのジェスチャーと同時に、その身体とイメージの閉じこみの意図が存在し、見る者はイメージが開かれると同時に距離を得、閉じることも行うのである。 上に示したような「裸性の再閉鎖」とそれに対する批評の試み、「裸体の極端」と「イメージの開き」の弁証法はジュルジュ・ディディ=ユベルマンによって論じられている。しかし、我々が取り上げ

た作品より、ディディ=ユベルマンのアプローチは一層極端で、出発点となるヌードの代表的な例はもっと無慈悲だと言えるだろう。ディディ=ユベルマンは(裸性の)美とその背景にある残酷性の不可避の関係性を示すためにサンドロ・ボティチェリの《ヴィーナスの誕生》(図2)に目を向けた。「ボッティチェッリのヴィーナスは裸であると同じく美しい」という当たり前に聞こえることから始めて、美術史の流れにおける「裸体の再閉鎖」、「裸性の洗練化」そして「開いたイメージの鎮静」を明らかにする。(註1)

 ディディ=ユベルマンによると、ボッティチェッリのヴィーナスというローマ神話の愛と美の女神の表象と「美の誕生」自体を表現する作品の裸体は、美術史のディスクールの中に、ボッティチェッリの美術の理想化に従いながら、イメージとヴィーナス自体の元にある(たとえばウーラノスの去勢などの)残酷性との関係性を忘れ、幾重かの「衣装」をまとってしまった。

 まず、ヴィーナスは非常に鋭く、しっかりした輪郭線で描かれ、背景から切り出されていて、レリーフのような構成に近い。輪郭だけではなく、ヴィーナスの絵画表現は(大き目の)スケールと(不透明で、古彩に満ちた、石のように濃い)色彩という特徴によっても「掘られていて」、古代彫刻との関係が強調されてきた。この特徴とこの特徴が引き起こす思考の方向はヴィーナスとその裸体を「性」から離れた、神性として示した上に、裸体は超越、昇

図2.サンドロ・ボッティチェリ、「ヴィーナスの誕生」、キャンバスにテンペラ、172.5cm ×278.5cm、1483年、ウフィッツィ美術館(フィレンツェ)

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華、理想との関係に基づいて理解されることになった。その過程で、ヴィーナスと美術における裸体自体には、二重性が誕生し、裸体は「美術という領域に入るために未だ教養がないもの」で、「性的にわずらわしいものとしての裸」または「理想的な美術の形としてのもの」で、古代ギリシャの美術のジャンルとしての「裸」に分かれていく。つまり、恥ずかしさを絡めている状 態の「裸 体(nudité/nakedness)」と美術の形としての自信を持つ、晴れやかな「ヌード(nu /nude)」という分割が起こってしまう(註2)。それは裸体の「発掘された古代大理石像という衣裳」と「ジャンル化の衣裳」をまとっているということである。 ディディ=ユベルマンは、「否定」の裸体のディスクールが発生する美術史の二つの理論的な領域を示す。それは、ヴァザーリの概念的なコンテクストである。つまり、イタリア語の「ディゼーニョ /disegno」の優先を確立させる考え方である。それは「構成」ならびに「デッサン」の優位を確立しようと する 動 きで ありな が ら、当 然「知 性intelletto」、「着想 concetto」、「イデア idea」、「判断 guidizio」という用語で挟まれた disegno である。それと並行的に、ヌードの理想化においてカントの概念的なコンテクストという文脈も働きかけを行う。つまり、イメージに関して、あらゆる「感情移入」を拒否し、むしろ美的「判断力」の優位を確立するという動きである。しかし、それはヌードを裸体から切り離そうとしているもので、「形」と「欲望」を分けようとする美学上の力でもある。それはどのような意味かといえば、我々は「ヌードを前にしながら、判断力を保持して欲望を忘れ、概念を保持して現象を忘れ、象徴を保持してイメージを忘れ、デッサンを保持して肉体を忘れることがありうるということなのだ。」(註3) しかし、ディディ=ユベルマンはそれに賛成できず、そうした美術史上の認識を批判しながら「デッサンと理想美という衣裳」と呼ぶことにする。 結局、「否定されたヴィーナス」は「神話的な物語や文献的記述」の衣裳を着させられる。つまり、裸より「典拠」を前に押し出され、言葉による表象の絵解き、二次的な現実に変身してしまう。神話 /

文学 / 物語、つまり文献的な原点の「イラストレーション」でありながら、存在しているボッティチェッリのヴィーナスは、存在していないアペレスのヴィーナスから始まった「ディスクールの連鎖の形象上の結果」として理解されてきたということである。「要するに、間にスクリーンを置かなくてはいけなかったのだ。「裸体の現象学」の前に、なんとしても

「ヌードのシンボリズム」が立ちはだかることが求められたのである。」(註4) という風に考えるしかないのである。 ディディ= ユベルマンは「理想化されたヌード」の理論を開くために、裸体と欲望の分断を壊し続け、アビ・ヴァールブルグによる「ヴィーナスの誕生」の分析と彼の「情念定型 Pathosformel」、ボッティチェッリの「ナスタージョ・デリ・オネスティの物語」と「夢と症状に取りつかれた美」、クレメンテ・スジーニの「腹を裂かれたヴィーナス」(図3)と

「優雅さの中の恐ろしさ / 形の中の無形」の分析を行い、「裸な身体 / 死を与えられた身体 / 開いた身体」を、より明確な理解に導く。しかし、我々はまだ歴史を持たないが、同様に開いたイメージに戻り、現代美術の作品に集中することにする。その日本のコンテンポラリーアートの作家の一人による裸体のラディカルな表現、彼の「イメージの開き」を明らかにしたいと思う。笹山直規の裸体を考えながら、ディディ= ユベルマンの「開いたイメージ」という概念のキーポイントをはっきりさせたいと思う。ディディ= ユベルマンの「弁証法のからくり」を使いながら、イメージの開きを解釈するディスクールを明確にし、ディディ=ユベルマンの美術作品と美術史に対する視点を理解しながら、自分による作品の解釈 / 認識論を発展させることを本論の目的とする。

図3.クレメンテ・スジーニ、「腹を裂かれたヴィーナス」、 蝋に色彩、1781〜 82年

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交通事故とその現場

 笹山の作品の解釈に戻って、そのイメージの開きの「構成」と「機能」、つまりその開きを現象として見てみたいと思う。しかし究極の裸体が生まれるためには「欲望」の作動に注目しなければならないのである。写実、ミメーシス、表象の構造を降り開口部を開く制作上の出来事を、作品の視覚次元に出現する様相に目を向け、ファンタズムの働きの結果としての「裸体」と「開き」を理解することが求められる。つまり「これは模倣の限界を探るファ

ンタスムなのだ。その限界というのは、動くイメージ、つまりは触覚的で欲望しているイメージ、そして見る者の体へとおのれの体を開くイメージというフィクションのもとで、乗り越えられてゆく限界」(註5) を探さなければならないのである。 上に取り上げた「Egocentric Story」という作品は、すでに示した通り2004年から作家の中で大きな位置を占め始めたテーマ、つまり最も濃縮された命の瞬間、最後の運命的で致命的な出会いである

「交通事故」というシリーズの一つの作である。

図4.笹山直規、「Sky is crying the tears, I cannot cry out」、水彩 / 紙、 130.3×130.3cm、2005年

 交通事故( traffic accident)とは何だろうか?まず、現代英語の「accident」は言葉の次元が示す通り偶然の流れの結果を指す。または、元々のラテン語の「accidēns」は、つまり「accidō」(=「行われる」)から、「ad」(へ)+「cadō」(落ちる)へと言う成

り立ちをもつ。事故 / アクシデントは、主体が(運転についてだけではなく)あらゆるコントロールを失う瞬間で、偶然性の侵略によって、現実と出来事の計算をできず、主体(性)自体の落下を示すものである。

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 事故 / アクシデントはどの側面から見ても、出会いだと認めるしかない。極端な出会いだ。つまり、予想されなかった、他の(人にしても機械にしても)意図的な力との遭遇で、時間を「出会いの前」と

「出会いの後」に(事故の場合「その前の生」と「その後の死」に)分ける出来事である。つまり、決定的な偶然性 / アクシデントということである。 事故に遭うということは、ある意味、極端に触覚感的な出来事である。スピードや衝撃力などは視覚 / 知覚の強化を導くだけではなく、接触のラディカルな絡みを発生させる。その交通事故の「タッチ」は人生のレイアウトを変えるだけではなく、事故に遭ったもの(人にしても機械にしても)のアウトラインをアクシデント的に、つまり企画なしで分解 / 総合を引き起こすものである。事故は、我々の見慣れた物の区別、(輪郭)線などを再構成するが、その偶然性によって、構造のない、または非構造的な「模様」を生み出す。事故のシーンは鮮やかなカーペットのように、はっきりとしない境界、明確なアウト(外)ライン(線)なしで、構造と構成が極小化した状態で表わされる。交通事故の視覚的な側面は、アラビア模様を連想させる表現と非形象上の抽象の独特のイメージを生み出す。 すでに示したそうした三つの特徴、「偶然による主体の落下」、「極端な出会い」と「視覚における触覚の関わり」ということによって、つまり事故現場の「モチーフ」における事故の性質の関わり自体によって、我々は「交通事故」をテーマにしたイメージを、「交通事故」というモチーフの役割に限ることができないのだと考えられる。事故のイメージは

「模倣」と「表象」の範囲に制限されずに、作家自体の意思 / 欲望と関係しながら、見る者の「快楽」を超えて、見る者の主体を刺激し緊張感を起こすものになるはずである。 「交通事故」という実際の出来事は、視覚自体、イメージの(再)構成自体にそのような強い絡み合いを持たせることにより、ディディ= ユベルマンもこの致命的な事柄を美術 / イメージの基本的な問題を巡る議論のために取り上げる。彼によって、交通事故はイメージの三つの運命を示す比喩の役割を演じることができる。「類似したものと同時のも

の」(”Simulaire et Simultané ”)という短いエッセイには、ディディ=ユベルマンは「類似したもの」が同時に偶然性により触れ合ったなら、そのありうる結果の大きな違いを示す。さいころを投げるというゲームとのリンクをヒントとし、ディディ= ユベルマンはその代わりに衝突 − 「盲目の衝突ですが、すべてをきめる衝突」( 註6) −に投げ出された車の中にいる(「類似したものとしての」)3人の命の可能な三つの結果を示す。それは「運命」、「負傷」、「死」、そしてそれに重なる「視線」、「嘆願」と

「無」である。煙を立てる自動車の瓦礫から掘り出された一人は無傷で生き残り、自分がいた場所をショックを受けながら見る。もう一人は、重傷を負い、ずたずたに引裂かれ、命が今にも尽きるということも意識せずに、歩きながら助けを懇願している。もう一人は車の中に残され、その金属の山の下に血が広がっていく。同じ場所(自動車と同時に、運命の手のひら)の中にいた同じ / 類似したものは、皆同時に投げられて、偶然(accedo =「へ」+「落ちる」)、事故(accident)に出会い、その後ではそれぞれ完全に異なる最終的な形をとってしまう。3人目は血のシミまでに縮小され「死」以外の何物でもない。二人目は意識を失い重傷を負い、一人目は生き残っている。このように、偶然性の及ぼす暴力のような事故というできごとはものの運命、その形と身体、その見る行為の性格を一つの結束から違う方向に進む紐のように広げる。こうした理由により「交通事故」のテーマは美術史家ディディ=ユベルマンの理論においても重要な位置づけとして捉えることができる。 本論の主題にかかわる文脈においても、上述のような展開をきっかけとし、笹山の制作における事故をモチーフに限った理論で捉えようとする視座を超えなければならない。笹山の絵画は事故の写しとしてではなく、事故を起こそうとしているものとして考える必要がある。

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 笹山の「Egocentric Story」における開いた身体とイメージにおけるジェスチャーは、上に示した交通事故の特徴の文脈において捉えなければならない。「事故的なジェスチャー /accident’s gesture」の結果としての開いたイメージである。突然で、偶然の出会いの呼び起こすタッチにより、裸体自体の偶然性、身体という形象の中の無形の肉の現れを行うイメージである。このような解釈はディディ= ユベルマンの「開く」ということの幾つかの定義的な指摘により導かれる。 まず、第一に、笹山の裸体はディディ= ユベルマンのディスクールにおける「始まる」という意味の

「開く」を示し、「開く」における「出産」を指す。身体を生むために開いた身体という具体的なイメージのことでもある。ディディ= ユベルマンは改めて「imago」という言葉の成り立ちを思い出し、

「イメージ」とは変身し、開いた繭から飛び出る蝶と

関係していることを示す。「Egocentric Story」の身体は、色彩が強く、生 し々い水彩のシミで表現された無形の内臓としての「蝶−イメージ」を飛翔させるために開くというふうに言えるだろう。作品全体も、その「出生」としての「開き」を働かせるため、「開いたイメージ」を表すということである。 さらに、「開く」とは「掘る」という言葉とも重なり、「土を開き」、「土を掘り」、その中に「壁や墓を掘り」死者の新しい世界、死後の世界へ入ることの準備としての「開き」ととらえることができる。ディディ= ユベルマンは美術が先史時代の洞窟やカタコンべの廊下で始まったと想起させ、古代エジプトに遡り、死の世界とのコンタクトを開く / 閉める墓の中のイメージの前の扉を参考とし、そのイメージの開き(とイメージを見せることとその図式の関係)を西洋美術史における長大な変遷に照らし合わせる。

図5.笹山直規、「Hansel and Gretel」、水彩 / 紙、91×72.7cm、2005年

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 この意味において、開きという所作ぬきではイメージは存在しない。なぜなら、開くということはそのとき覆いをとるということと等しいからである。それは、見ることを妨げていたもの−扉であれカーテンであれ−を払いのけることであり、それはまた、以降は「開かれて」あるそのものを、内部と外部を交通させるような空間的関係の中に配置し、提示することである。その場合の内部とは、囲まれたイメージを保管していた暗い空間のことであり、外部とは、視るということの共通性に属する明るい空間のことである。(註7)

 扉で閉めた古代の鏡(自分のイメージを開くための装置)、扉で閉められたアイコンまたはめったに行わない儀式の中で広がるヴェロニカのヴェール、教会の祭壇画の扉の儀式的な開き / 閉じ、ほどよいページを開かれた宗教的な本などすべては人間が「イメージの前で」の何かへ向けその開き自体の行為の与えるものを信じていたと伝えてくれる。ディディ=ユベルマンはそのイメージの前で行うことを、触覚感を強調しながら記述している。見る主体はイメージに近づきながら、ある儀式のような非日常的なプロセスと作品を見ることの心の準備と緊張感の瞬間にいながら、その「イメージは目のように、口のように、手のように、性器のように、内臓のように開く。」 (註8) 開いたイメージと見る者の間

には縫合面があり、その点においては「開き」は対象と同時に主体、作品と同時に見る者両方を絡め、その区別をある特別な一瞬に消滅させてしまう。宗教美術の文脈において、祭壇画の扉は十字架の上に手を開いたイエスを見る主体のために開き、信者を開けるためにイメージを開くという具体的なシーンに言い換えることもできる。 イメージは現実の奥 / 中にある真実を孕みながら、見る者はその中を見るようにしている。イメージの開きを見る行為の結果とは、自分を開くということで、その開きを「対象 - 主体」の区別を超えた瞬間にあり、イメージの開きから自分の開きへ視られることである。しかし、笹山の場合、イメージは見る主体の「自分」を開く前に、作家の「自分」とそのイメージを開いてしまった。先に進む前に、まずその作家自身の開きに触れたいと思う。

自己の事故

 笹山は2003年から多数の自画像を制作し始め、「交通事故」と並行して自分の内的な事故を直に怪我として表現する。心理的なトラウマは肉体的なトラウマと合体する。若い作家の内的な衝突、疑いと自滅への衝動が、傷、切断、腐敗という形で自画像の中の自分の身体上に現れることによって、

「開かれた」、「衰弱」、「分離」という心理的な問題を極端かつ率直に表現する。(図7)

図6.サンティッシマアヌンツィアータ教会の聖具室、ナポリ、1984年

図7.笹山直規、無題、水彩/紙、41×41cm、 2007年

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 ナルシシズムのメカニズムと想像的な自傷行為の結果としての自画像は、笹山の「開いたイメージ」の背景にある欲望との関係を示し、作品上に視覚化されたシンプトムとして現れる。コントロール /計算不可能な交通事故は、同様な偶然性の力を持つ瀬病のようなシミで表現される。他者と同時に人間の自己の表れ / 外見を無視している潰瘍は何の企画 / 目的 / 方向なしで、顔を、つまり自己のイメージを変形させ、非形象化させる。厳密な意味で自己イメージのアクシデント / 偶然化が行われる。この視点から見れば、「交通の事故」は「顔

(自己イメージ)の事故」または「体の輪郭とフォームに不可欠の皮膚の事故」と強い関係を持つ。主体性を失う場面。心理的な不安が害毒の(無)形

をとって、「自我」の「顔」をついばんでいく時に、偶然性による主体の落下が起きる。 笹山のイメージは我々のために開く。それは、極端に肉体的な意味で「内臓の出現」ということから心理的で、感情的な意味で「正直に自分の悩みと苦しさの現れ」の間の色々な意味を含む開きである。しかし、イメージの動きによって、知覚からいつも逃げてしまう眼差しと同じように、「我々のために開いたイメージ」は次の瞬間に「我々で閉めるイメージ」になってしまう。2007年の自画像の水彩画は改めて「開き」と「閉め」の永遠的な変形を見せる(図8)。自分の「率直に」開いた裸体は、性的でありながら、「死的」である。このイメージはエロスに触れていながら、タナトスにも触れると言え

図8.笹山直規、無題、水彩 / 紙、72.7×50cm、2007年

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るだろう。そして、この作家の自画像は我々の感情に触れると言うなら、その触れ方、そのタッチは感情的と同時に肉体的であり、視覚された「生」と

「死」の繰り返しのゲームを孕むと言えるだろう。 それは新しい自身が生まれ、改めての「開き」、改めての「閉め」、改めての「開き」、改めての「閉め」を引き起こし続ける行為 / 動き自体を表すイメージである。マトリョシカまたはチャイニーズ・ボックスの構造のように、自分の中身、主体の真実またはイメージの本質は、無限の再開を運命づけられ、見る主体からそのように逃げていく。開いたと同時に得がたく近づきにくい、乗り越えられない邪魔な存在としてのイメージになっている。 視覚的撞着になっているが、開いた身体は包みという性質が強調されている強大な腸を、中身を主張する中身を生む。呼吸している中身に満ちたその踏み込んだ腸は、体から出てきた肉的な結びとなり、再びの開き / 広がりの可能性を持ち続ける。結局、その下に、開かれた自我の中からまた開けられる自我が現れてきて、何かを隠そうとしているという性格を持つ赤ちゃんの姿のイメージで自分のイメージの開きが働かせる「開き」−「閉め」の変形において、主体は落下し続ける。

ディゼーニョの事故、傷の拡散

 笹山は上の自画像を描いた動機については詳細な記憶がないというが、彼は何回もその崩壊する自我イメージの場所を強調する。「絵では解り難いですが、スクラップ工場の中にいる、という設定です。壊れた自分は病院ではなくスクラップ工場にいる、という絵ですね。」 (註9) と言う。 スクラップ工場…。 それは自動車を分解し、ばらばらにする場所で、いわば「物体が切断され」あらゆる「暴力的な」行為が行われる空間である。笹山はその残酷な場所に自分の体を想像し、自動車のように分解させ(られ)る。自分の身体自体を断片に、また取り外されたものにし、自分のパーツをゴミになったスクラップとして想像してしまう。この様に、作家は自分の制作に、自分のファンタズ

ムの中にもう一度「自分の身体」と「自動車のボディ」の同一性を示し、その二つをつなぐ事故または分解ということにヒントを与える。しかし、この作品の文脈においては、「偶然に現実に落ちてしまう (ac)cedo 交通事故」から「作家の身体 / 自己の事故」に移行するだけではなく、その表象の連鎖の上に逆の移転を行うことができる。笹山は、「交通事故」という絵画のモチーフは運命 / 偶然性によって破壊される身体を想像するからくり、つまり自己障害の視覚的かつ想像的メカニズムとして構成する。「自動車」は「身体」で、「交通事故」は想像上の「自己損傷」の空間である。しかし我々がその表象上の縫合面を心理的な領域だけではなく、それ自体を美術イメージの次元で見とればどうなるのだろうか?笹山の「作家的なストーリー」は、「自己の境界を破壊する」ことを巡り、つまり狭義では(絵画で描かれた身体の表象の)輪郭線の砕け、広義では(心理的な自我の視覚的な纏まりとしての)境界(線)、自己表象の視覚的組立の分解を示す。それと同時に、この心的な過程はあらゆる擬人化のメカニズムを働かせながら、自動車のボディとその形象の破壊、車の形象とその形骸へのダメージの強迫的な再制作とファンタズムの「交通事故」という場面の再生が行われる。身体のデザイン…、自動車のデザイン…、その本格的な崩しである。 この場合、我々は笹山の作品の流れにおいてディゼーニョ disegno 自体に対する攻撃に、ディゼーニョの陥落に至るのではないだろうか?イメージに動いている欲望、「交通事故」と自画像のモチーフの選択とその間に起きる同一化などはディゼーニョの性質に流れ、統一感(いわば無意識的な意図を実現させる混在)を得ることとなるであろう。言い換えれば、笹山の作品においては「身体」をディゼーニョによって表象されたものとして、読み取る(分かりやすい、よい)形象としての身体を理解するのではなく、ディゼーニョの概念に限ることなく、構造とその構造を壊す力両方を考えなければならない。つまり、硬いミメーシスに挟まれず、ディゼーニョと異なったルートを選ぶ類似の操作に従う「身体性」を考えなければならない。

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 2004年の「Entrance」という作品に見られる開きはある具体的なジェスチャーを見せる(図9)。鋭いナイフで切られたように、または激しい衝突によって中身を維持できなくなり、破裂した自動車の外形には垂直の線三本と下の平面的な一本の切れ線がはいり、中身を世界に見せる。その開きはスピードと精緻さを感じさせる。 物体は肉体的な動きと重力を示す。ずんぐりした身体は薄くて、柔らかく見える虚弱な包皮を持ち、過失で重くなった中身を自由にさせ、イメージから中身をおろしてしまったという緊張感が読み取れる。長方形の形をとる幾何学的な外形は、中の無形の緊張に対抗できずに負け、「腸」を投下し、自分の形や線や縦の姿なども失ってしまったという「否姿」が表れる。 外と中の色彩は極端に異なり、自動車のボディは優美な皮膚の薄い白さで表現され、その中味は

暗いトーンで、「汚れ」の雰囲気を持つ不明確な色を示す。色彩自体は外の「形」と中の「無形」の対立 / 組合を強調する。 ジェスチャー、動きと色彩の働きによって行われる「開き」においては、それは身体であるか、自動車であるかという問いは二次的となり、その開きは

(人間の身体、自動車とほかのあらゆるものの同一性を与える行為の基本にある)ディゼーニョ自体に、形象自体に「開き」を与える。絵画空間の中心的な位置をとったモチーフは形を失い、偶然の無形の発生によって読み取れる / 認識できるモチーフ自体は形を持たなくなる。この形象の破壊、あらゆる差異の破壊においては、自動車と身体(と他の一体的全体)の間の区別が弱くなり、有形と無形、外と中、無機物と有機的なもの、空間と傷の間の境界線は消えていく。

図9.笹山直規、「Entrance」、水彩 / 紙、162×130cm、2004年

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 イメージにおいてトラウマの無形の圧力によってすでに対象自体のディゼーニョだけではなく、(たとえば遠近法または前景 / 後景を構成させる)空間などの構造は落下し、限界を持たない身体性が絵画のスペース全体を覆ってしまうことには驚きがない。作家的な行為はモチーフを形作ることができず、絵画自体はある意味で形象を持てなくなり、ミメーシスは傷を巡りながら(傷を巡ることなしにしか発展できず)またある程度の差異を持ち、またある程度に読み取れる形象を行使し続ける。その時に、イメージは「全体的な傷 total wound」として生まれていく。絵画は「身体空間 bodyspace」、

「空間−傷 space-wound」として登場する。開かれた自動車は開かれた自我とその身体とを統合し、開かれた傷空間へ展開する。 笹山の開いたイメージはヴァザーリのような美術史上のディスクールに抑えられることはない。つまり、「「欲望」という暗黙の枠組み、あるいは絵画における「肉体」の現象学にかかわるものすべてという、より明白な枠組みに反抗し、イタリア語の「ディ

ゼーニョ」disegno が意味する「構想」dessein ならびに「デッサン」dessin の優位を確立しようとする動き」(註10)で笹山の事故を捉えるのは不可能である。一番平面的で形式的な次元においても、もっとも内的な領域でも笹山の美術は「反ディゼーニョ」の動き(「ディゼーニョ」の反動き)を示す。形式においては、「デッサン」dessin と「構想」dessein と同じ「ディゼーニョ」disegno から成り立つ「デザイン」という言葉を加えて、自動車の「デザイン」(機能と「見た目の良さ」を支える構成)と同時にいわば身体のデザインは隠さないといけないもの(枠を付けないといけないもの)に形を与えることをせず、それによって自己デッサンdessinは優位を失うことになる。笹山が選んだ「ディゼーニョ」の失敗を引き起こす出来事である「交通事故」とは「構想」dessein 自体を偶然性の力で超えることであるだろう。定義からして、「事故」とは意図に従わない、計画をもたない、すべての可能性へ開かれている反構想である。「交通事故」という笹山のプロット(=構想 dessein)は、物語の構

図10.笹山直規、「Black Horse」、水彩 / 紙、116×91cm、2005年

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造にも、そこに関わる表象のイメージにも(「何か」としてではなく、「なんでも」または「なんだろう」としての)開口部を与え、反企画性を孕んだプロットを発展させる。そのデッサン dessin の中の崩れ、構想 dessein の中の意外性を通じ、作家自身の「自己の事故」と身体の崩れが現れてくる。そうした過程を経て、ディゼーニョの開きは我々を表象または美術の一つスタイルとしてのニューではなく、作品が孕んだ肉、傷、症状へと繋げる。欲望から離れた裸体性ではない、症状との関係を失っていない身体ということである。 この様に、笹山の「事故」を自動車の形(交通事故)、自分のイメージの身体(自己の事故)から形象自体、ディゼーニョの事故に発展させて考えることができる。形自体のカタストロフィの現れである。その瞬間に笹山のイメージにおいては「知性」から「形象」まであらゆる意味合いを持つ「ディゼーニョ」を超え、絵画空間全体を負っていく裸体、その無形の傷に直面するしかないということである。

事故としての絵、肉の出現

 モチーフ、自己のイメージ、デッサンの基礎を壊していく「肉」はどこまで発展しつづけるのだろう?2004年の「Entrance」の作品の構成における「包み / 平面」と「中身」の関係の複雑さに注目すれば、「破れやすい表面」と「外に出ようとしているはらわた」は作品の媒体自体の次元においても特別の働きをしている。水彩の基本技法に従う作家は白色部分を紙自体と紙の色で表現している。つまり、形象の成り立ちやミメーシスの操作は絵の具の不適用、媒体自体の扱いによって構成されるということである。言い換えると、その真っ白なボディは

「out-line 輪郭を描く」という方法で、ライン(line)を引きながら、色 / 絵の具の物質を外(out)に押し出し、形象の外部に維持するという対立によって描かれる。しかし、その対立自体は「肉の突破」やその緊張感をさらに極端に際立たせる。紙の色自体で表現された形象は輪郭線 / 見た目を守り、形象と

して存在し続けるために、絵の具に直面 / 反発しなければならないが、イメージの開きは象徴的な次元で行われるのではなく、表し方の基礎に矛盾を投資し、作品の物質的な次元自体を関わらせる。 このパラドクスは恐るべき事実を明らかにする。笹山の作品で開かれた白い表面とは、モチーフ / 自動車の外形だけではなく、同一化と擬人化によって身体の皮膚だけではなく、形象とその認識の基礎にあるディゼーニョの枠組みだけではなく、作品の

「被膜」自体である…。 物質は空白を開く。笹山の自作のどろどろした濃い絵の具は普通の水彩、つまり「水っぽい色彩」ではない。「水の彩」というより排泄物や排出物に近い性質を持ち、美術の昇華された「精神上」の次元と正反対の次元、作家の手、物質的な肉体の作業によって生み出されたイメージのマテリアルである。笹山は(モチーフにすでに限らない)致命的な出来事を表現するために、アラビアゴム水溶液、砂糖水、グリセリンなどを調合して作られたメディウムで顔料を練り、非常に濃密な水彩顔料を自ら作る。そこでは視覚的な効果と区別できないその物質自体の侵略が考えられている。自動車のボディ、自己の身体、形象の枠を考え続ければ、絵画自体の身体とその開きを語らなければならなくなる。我々は再び新たな意味での「生きている絵画tableau vivant 」に近づいてきた。  表象の次元の中の物質(ミメーシスのための見えなくなる支えとしてではなく、そのものとしての物質)の出現は表象メカニズムに危険性を与え、描く主体自体の写実的な行為の中に異質的な「未定」を導入する。「交通事故」をテーマにした絵画の媒体の次元の特徴は「偶然性」という事、絵画の

「事故」ということについて再び考えさせる。

 予見する−様相のもとで図式とか定義とかを−のではなくて、むしろ「投げる jeter」という言葉の物質的な意味において、「投げかけ、投射するprojeter」ということだ。定式をつくるのではなくて、賭けるのだ。こういってよければシミのために全体を賭けるのだ。(註11)

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 普段イメージにかかわりが少ない、ミメーシスの原則によって抑えられた絵画の「物質的な原因cause matérielle」は、笹山の作品において絵画の

「形式的な原因 cause formelle」から剥がれて、視覚の次元に自律的に機能し始める。表象と同時に描く主体の企画 / 意識 / 中心的な位置を攻撃し、絵画を意外性へ開き、作品自体をアクシデントへ投げかける。ボディのダメージとイメージの開きは自動車、身体、形象と結局作品自体に広がりながら、上の引用における「与える / 投影する(projeter) −投げる jeter」ということも笹山の場合にもう一つの意味を引き受ける。色彩の強烈な物質を作品に

「与える / 投げる」行為によって事故の瞬間に行われる行為の印象強い具体化を行う。交通事故の瞬間に運命に投げかけられた(projeter)者のイメージは絵画に物質を投げる projeter 行為によって−やはり表象されるのではなく、むしろ−体現されるという事である。作品自体は事故と偶然性を吸い込み、作品に直面する視覚的経験は事故に投げかけ projeter られる。 自作の絵の具、それによって示されたものを見てみよう。破壊された自動車の切り口の中に見える物ではなく、衝突によって開かれた外形からにじみ出るものとは、写されているものの部分、絵画の近くから見たディテール、つまり「理解の意味作用の一部」としてのディテールではない。見えてくるものは形象化または理解のアトムではなく、孤立化の可能なパーツでもない。絵画の表象上の網においては、色彩が濃くなる絵の具は記述不可能な断片である。交通事故の時に車の中に無形に投げ出された身体と同様、絵画の絵の具は投げかけられる。事故の後に崩された(自動車の)形からにじみ出る

「身体」は絵画の媒体、その白い紙から染み出る。表象と描写に限らないミメーシスは機能していて、絵画全体で事故の「シミ」と「スクラップ」を表す。事故の恐るべき結果は絵画自体の存在の次元へ発展し、アクシデントは作品自体と絡み合う。笹山の表現とそれに関わるシンプトムは改めてリミットの問題を取り上げ、境界を超えることを要求する。

 肉、あるいは肉体、それは、いずれにせよ、血ま

みれの絶対、無形、あるいは身体の白い表面の対極としての身体内部を、指示しているものではないだろうか。その一方で、なぜ肉体は、画家たちのテキストの中では、彼らの大文字の他者を、つまり皮膚を指示するために、いつも呼び出されているのであろうか?(註12)

 このパラドクス、この対立は笹山の作品の「血まみれ」によって明らかになる。本物の意味の肉はその他者である白い皮膚を裂き、絵の具の物質はその他者である白い紙の奥から浮かびあがる。濃い色の面は前面に出、色は想像的な空間または描かれた造形から紙自体の全面に広がってくる。「類似したものと同時のもの」というエッセイにおいて、交通事故の場面を文学的に描くディディ=ユベルマンは、非常に近いイメージを想像している。あらゆるリミットを超えながら、白い霧に沈んだ車のジャンクの下にコンクリートの上に自動車から流れる血が広がっていく。(註13) 何と交通事故の絵画的な瞬間である。 白い空間・平面で広がっていく赤さという絶対的な沈黙かつ静かな瞬間に、視覚があり得ないほど集中される交通事故という場面を描く作品は、

(現実の単なるコピーとして)実体のない状態から、改めて超物質的な状態、「肉」に移してしまう… 砂糖(20g)と水を混ぜる。アラビアガム(30g)と水(100g)を混ぜ、砂糖水に加える。グリセリンとオックスゴールリキッドを加え、水彩絵の具の伸びと、湿潤性をよくする。紙上でのウオッシュに適している。木の乳棒で大理石の板の上で顔料の粒をすり潰し、ピグメントと接着剤を混ぜる。上のような方法で制作された水彩は通常使用しない場合は、腐敗を避けるために低い温度で保存される。ピグメントは有機体であり、色は肉であるので腐敗するわけである。(図11)

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 コンタクトの優先。表象(re-presentation)のための色がついている何かではなく、事故の提示

(presentation)のための「ごちゃ混ぜ」から切り離せないイメージということである。偶然に引っかかった身体の表現は笹山の肉体自体の関わりから始まる。白い紙に広がる身体の表現は笹山のテーブルの上で混ぜる行為によって出発する。彼の場合、事故における最終的なコンタクトは絶対的な力を持ち、作家のシンプトムと同時に現実における非常に狭く、直截な意味のコンタクトにおいて成り立つ。アクシデントを受けた人間の身体の内側の現れと形象の混乱の表現は(ピグメントの)有機体をこねることから始まる。偶然の原因(cause accidental)との関わりによって、絵画的な行為

( l'act picturale)は絵画の物質的な原因(cause materiel)に潜り込んでしまう。 笹山の色は滲み出ると言った。しかし、具体的にどこへ出現するのだろうか?こちらだ!笹山の絵はすでに何か向こう側に、作品の「後ろ」にあると想像されるシニフィアンの連鎖に表象された何かを表すのではなく、事故のコンタクトを見る者がいる空間に持ち込むのである。彼の絵画はすでに想像的な空間へ開かれた窓として機能するのではなく、あらゆる肉体の意味における開きを絵画のすぐ前の次元へ押し出そうとしている。 前に述べたように事故は、交通、さらに自己の身体、形象自体を通り、アクシデントの総合的な力

(その「形象上の総合性」というのは事故において一番恐ろしい力)は交通事故の表象ではなく、その出現を引き起こし、作家自身が塗り込めた絵の具、いわば彼自身の血と汗の混ざった色は有機体のピグメントをある程度の偶然の下で絵画の媒体の白い皮膚に広がってきている。車の瓦礫、車の中に見える身体の残りは絵画の上に存在してくる。事故はこちら側にある。(事故 / 偶然を核心に持つ)出会いは仮説的なものではなく、目の前に存在している。かくして場面、時間、身体は開かれる。 このように笹山の「イメージ・コンタクト」は絵画の浄化の表象的な機能と工学上の距離を開き、私たちに近づいてくる。笹山の事故現場は絵画の前の空間に広がり、我 に々触れようとしている。身体は開かれ図11.水彩の制作方法

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我 に々向かい、我 を々巻き込もうとしている。(図12) 私に近づく身体。形象と背景は新たな関係を持つことになり、形象は背景にあると言えず、全体空間は傷を受けた身体、空間全体はトラウマになる。しかし、上に説明した絵画の物理的な原因との関わりを考え続ければ、笹山の作品における開いた身体は背景を占領するだけではなく、全面と総合し、絵画の平面を覆い、絵画の次元から出ようとしている。形象と背景、背景と前面の関係を崩すような肉の開きである。背景は存在しない。背景は肉体として出現しているゆえに出現しながら、現れてくる。しかし、具体的な形、読み取れる表象としてではなく、可能な何か、形を失ってまた形をとれるものとして近づいてきている。ここにおける身体 /イメージの開きは、偶然と無形への、形象の可能性へ開かれているものとして見えてくる。その未定、つまりいわば「未知の形象」、その可能性によって行われる「現れ」は出来事であると言える。事実というより、見る者の実存と交錯する行為である。ディディ= ユベルマンの開きの理論において、「開

図12.笹山直規、「Matin Feerique」、水彩 / 紙、60.6×41cm、2012年

き」と「表れ」は新たな意味で、「身体を切れば内情が見える」という平凡さを超える意味合いをとる。 モチーフである事故という出来事の時に起こる動揺は表現に関わったシンプトムの不安と一緒に、作品の上の物質の動きとして現れる。形は泡立つ。描かれた事故現場で混乱したあらゆる形はこちら側で作品の上に肉質的な「絵の具」の混ぜ込みとして出現する。衝突の瞬間に最強になった視覚と触覚の交差は、こちらで作家の体温が混ざった色彩に富んだ液体と泥のような物質の存在によるタッチ、イメージの誕生へ画家の身体の関わりを通って表れる。事故を受けた自動車の中と現場全体に散らばっている身体の小片は(絵画に近づけば見えてくる)イメージとしてばらまかれた溶けていないピグメントの有機体の小部分を出血させている。この瞬間に描かれたモチーフではなく、画自体が事故そのものになってしまう。光を浴びた

「はらわた」は写実のコピーとしてではなく、見る者に向かい、見る主体をむさぼり食おうとしている。何か身体の臓器としてではなく、一定の姿に抑えら

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れるはずの生き生きしながら発展している無形としてこちらへ行為を起こす。腸は作品の中にまとまっているのではなく、絵自体が腸なのである。目の前に呼吸している内奥(profonduer)、我々の最終的な中身、事故の時にしか現れてこない基幹として。恐るべきアクシデントは何時か前に起こって記録されたのではなく、衝突は今である。

見る主体の事故

 形は渦巻き、絵のマテリアルは荒れ狂う。偶然性により、事故現場のイメージは顔つき(aspect)を失い、見える物は表象の性質をとったり、一定の読み取れる形を失ったりしながら、絵自体が事故現場になる。この作品は形のミメーシスに限定さ

れずに、具 体 的な対 象の 描 写を抜 いた類 似(ressemblance)のプロセスを行う。模様のように表現されているのは具体的な身体ではなく、「肉体的な変換」の行為である。このような視覚と肉の関係においては、身体のイメージからイメージとしての身体まで論及せねばならない。描かれた出来事とその結果の非形は症状的な力を吸い込み、絵の実際の存在の次元に入り込み、こちら側の傷の場であり、それこそが開きの空間である。(図13) 色の面 pan は、何かを表象しないので、見る者の方へ前進し、見る者を目指す。未定の一部分、見る主体の方へ進んでくる切れ端、行為に関わった奥底は絵画の全面を覆いながら、作品の前に進み、見る者を触ろうとしている。それは、絵に対する外と関係のない姿(aspect)ではなく、外と中両者を関わらせる肉が出現する。トラウマは象徴的

図13.笹山直規、「Watcher」、水彩 / 紙、162×130cm、2009年

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なものとしてではなく、想像外のものとして、症状的なものとして、具現化されたものとして動き始める。傷を表現した絵画は、傷としての絵画になる。傷絵画とでも言えるであろうか。 開きは対象を拒絶し、全体的になる。裸体は極端な非形をとる。前面へと動き始めた傷は、絵画の前のスペースを占有しようとするだけではなく、絵画に直面している主体、イメージにぶつかる鑑賞者に絡み、導く。イメージは形の描写というより、形成と否形成の過程、つまり変形を示すものになる。このようなわけで、上に取り上げたすべての意味の「事故」の再現としてのイメージに直面する見る主体とその運命に目を向けてみなければならない。表徴的な傷ではなく、「生きている」傷、どこか天上界のものではなく、肉体化されたトラウマに向き合う見る主体の状態を考えるということである。だが、どのようにして笹山のイメージは展示空間でアクシデントを再生させ、見る主体のカタストロフを引き起こすのだろうか? 物質(cause materiel)の出現と同時に行うディゼーニョの破壊はすでに示した通り、単なる「見慣れた形の崩し」を意味するのではなく、その開かれたディゼーニョをヴァザーリのように「知 性intelletto」、「着想 concetto」、「イデア idea」、「判断 guidizio」まで広げ理解することが可能である。イメージにおける変形、症状の構成のような自動車=作家の身体=作品自体のボディの同一化、その開きと物質の避けられない働きは、いわゆる「見た目の綺麗さ」を侵略するのではなく、作品のストーリーを見る者の読み解ける能力、作品の単位としての形象の理解とそのメッセージの解釈の可能性に攻撃を与える。見る主体は、直面するイメージを把握できず、そのイメージの主としての存在を失い、落下する。 イメージのシンプトムは距離に働きかける。つまり、リミットが重要になる。交通事故を見るこの視覚経験においては崩壊の現場と見る者の位置の間に絶対的な境界線は存在しない。イメージは「笹山の事故」が絵の奥の想像的な次元で起き、現実からはっきり分かれるという絶対性を見る者に与えることはしない。肉体とそのアクシデントは動いて

いて、呼吸している。つまり、見る者に近づきかつ離れる行為を行うのであり、主体の視覚経験の中心は破壊される。見る者は肉体から解放され、昇華された存在として見るのではなく、自分の内奥に関わる経験をする。事故のイメージ / イメージの事故は作家の身体から絵の具の生成と作品が提示する物質を通し、作品の前に身体として存在している主体まで変動させている。ac-cedo. へ−落ちる。アクシデント。主体は落下する。見る者は裸になる。見る主体は開かれる。 開いた身体から開いた自我へ、その後開いた絵画へ、結局見る者の開きへの進展がある。交通上の支障である事故は表象の意味作用の消失により、ナレーションとしての絵画の経験の崩壊を行う。いわば事故はストーリーの故障であるだろう。絵の具のはねかけ、ピグメントの逆巻きは表象の平面、(シニフィアンとその)連鎖にアタックしながら、シミまたは色の面は行為を行う。過剰、症状、消失はディスクール自体まで広がる。イメージは形の破れを目的とするというより、知性自体、判断の可能性の崩壊に導く。「事故現場」のシリーズの作品は

「主体のカタストロフ」を引き起こす。 本論文の最初に取り上げた「Egocentric Story」に戻り、その開きを再度捉えるなら、裸体の本質的な意味とその「開き」との関わり方は明らかとなり、裸体は形象性の安定を侵略し、明確な象徴から逃げる存在である。

 その主な理由は、裸体が存在を揺動させ、欲望させ、「横滑り」させるからであり、この横滑りそのものを、存在の豊かさに満たされた力性に、開かれた力性にしてしまい、思い描こうとしても、ふつうは「見定め」がたいものとするからである。裸体は世界の最も不明確であるのは、その本質において、裸体がわれわれの世界を開くからにほかならない。(註14)

 この文脈においてディディ=ユベルマンは(「さらにもう二つの意味」というより)弁証的な対立におけるまとめのような役割を果たす「開き」の定義を提示する。いつものように選択するのではなく、(選

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択とは逆に限る、閉めるという事になってしまうので)両者の意味の働きに強調する。つまり場を開き、無数の可能性を開くように、「開く」ことである。そして、身体を傷つけ、器官の全体を供犠に付するように、「開くこと」もある。笹山のイメージはこのように皮膚を服のように脱ぎ、彼の裸体は「すべての可能性」へ開かれている。この瞬間にイメージはエロチシズムと死の衝動の不可分な現れを示し、エロチシズムの身体はその終りへ、その死へ開きを持つことが見えてくる。この「すべての可能性へ開かれた」イメージはその表象的なボディに無形の面を入れることにより、その断片はイメージの全体を奪う。死へのエロスの軽いタッチは結局主体の全体的な消失を導く。

 それは、魅惑として、部分から全体へと、侵入してくる戯れである。それは一つのパニックpanique 効果である。それは、絵画における絵画性の、全体に拡大してゆく効果である。それは「病 mal」の特異的な効果である。この「病」という言葉を、われわれは運命の、シミの、角膜の濁った眼の見る、限界の言葉であると知っている。つまり絵画的なものそれ自体の言葉であると知っている。(註15)

 フランス語の「mal」は「害」を意味するとともに、「悪」、「苦しみ」とも訳すことができる。最初から小さくて二次的と思われるイメージの部分、現れる瞬間を待っている覆い隠されている「悪」のような形象として読み取れる色の面は、見る主体の注目を奪い、絵画の表象的布に「害」を与え、自分を孕んだ「全体性」を破壊させる。このような絵画的な「病 mal」は角膜の濁った目で見るように見る主体の視覚、つまりものを意識に基づいて見る可能性を麻痺させる。笹山の場合は、境界を崩してディテールと全体の基礎対立につけこむものは絵画的な「病 mal」と最も狭義な関係を持つ。絵において角膜の濁った目の働きするのは身体の開きであり、傷とその「外化」された「内的無形」である。「精神的な苦しみ」を表す透明で実体のない記号に近いイメージではなく、「生きている傷」のボ

ディを持つ開きであり、見る主体自体と彼のイメージの受け取り方に開く経験を発生させる絵のことである。つまり、それは「病」と「絵画」の関係に対する正反対のパースペクティヴである。ヒステリーの患者を長い時期観察し、多数の写真を撮りながら「臨床の視点」から「病の模倣」を掴もうとしていたシャルコーと自分の立場を対比しているディディ= ユベルマンは「批評的な視点」から「模倣の病」について考る方法を探したいと主張している 。(註16)

 視覚経験に開口部を導入する傷の過剰はパニックの効果を導く。ディディ=ユベルマンの言う「パニックの効果 un effet panique」という表現はまた二つの意味を持つ。恐慌の状態と同時に、その原因の le pan、l ’effet de pan、つまり解読不可能な

「面」そしていわゆる「面的効果」である。つまり、グローバルなものに対するローカルなものの、全体に対して断片の反乱とも言えることとその結果の意味である。開きの働きの力により、絵画全体は面につきまとわれる。 こうした「面の恐慌の効果」によってこそ、つまり単なる「切られた身体に腸が見える」という「具象の悪」を指差す訳ではなく、主体性自体の危険性こそが、美術館のような一般の組織において笹山の作品の展示が制限される理由である。展示空間において彼の絵画は他の作家の作品から分けられ、スペースは壁で隔てられ、「衝撃的な作品ですので、お気を付けください」というような「警告」がスペースの入り口に表示される。 イメージが引き起こすパニック / 面的な効果と見る主体のカタストロフの性質は明らかである。展示空間と見る主体を事故に投げかけることは、「すべての可能性への開き」引き起こすアクシデント

(偶然性)であり、「形象化していく形象」は、それに正反対の「形象化された形象」、「完全に完成されて」読み解ける象徴としか考えず、イメージを

(見)取れなければならない主体(性)を事故のように分解させ、開く。このようなイメージの変形の力は作品の「症状的な価値」と関係していて、シンプトムから変形の可能性の能力を与えられる。

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 ここに表象が症状に規定されているというのは、表象の外観上の安定性−その使命は、形態をなんらかのかたちで認知し、特定の指示対象へ送り返すべく要求することにある−の「出現」surgissement にして、同時に、「隠蔽」dissimulation でもあるようなものによって規定されているということにほかならない。ここでの「出現」とは、表象の織物のうちに、思いもやらぬ、予期せぬ要素が現れることであるし、「隠蔽」とは、この要素を思考可能なものとしている世界が消失してしまうことである。(註17)

 この様に笹山の作品は絵画への基本的なチャレンジを乗り越える。つまり、「事故現場」のイメージは、絵画は単なる写実的模倣であり、単なる見た目であり、真実と関係を持たず、本質を持たないものという絵画に対する基本印象を開く。ここで取り上げた作品とディディ= ユベルマンの理論に沿って見た認識的な立場とイメージの解釈方法は、絵画を精神と同時に身体にも関わらせ、カタストロフィのように「交通事故」を引き起こす主体、イメージの空間、そしてさらに見る主体にまで広げられるという結論に至った。その瞬間、その方法でイメージの「事故」はあなたを開くことができる。

 この特徴は、内的経験のリズムを与える。その経験はまさに自分の自我を顧みたり、自我を閉じ込めたりすることにではなく、自我に傷を負わせ、現実界の他者性を自我に入り込ませるために自我を大きく開くということに存している。このときイメージは、われわれの非−慰めの対象になる。なぜならイメージは、自分の−われわれの−固有の構成の、無形のものを、開いてくるからである。(註18)

1 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く 裸体、夢、残酷』、宮下志郎 / 森元庸介訳、白水社、東京、2002 年 Didi-Huberman, Georges Ouvrir Vénus: Nudité, rêve, cruauté, Gallimard, Paris, 1999

2 ディディ=ユベルマンは Kenneth Clark The Nude: A Study of Ideal Art, Penguin Books, 1985に参考し、裸体の現象の「浄化」と「美術の形への整理」の思考プロセスを示す。

3 ディディ= ユ ベ ル マン、op. cit., p.15 “Cela siginifie que l'on pourrait, devant chaque nu, garder le jugement et oublier le desir, garder le concept et oublier le phenomene, garder le symbole et oublier l'image, garder le dessin et oublier le chair.” Didi-Huberman, op.cit., p.16

4 ディディ=ユベルマン、op. cit., p.18 “Il s’agissait, en somme, d’interposer unn écran: il s’agissait que le symbolism du nu pût s’imposer devant la phénoénology de sa nudité.” Didi-Huberman, op.cit., p.18

5 Didi-Huberman, Georges L’Image Ouverte Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition Gal l imard , 2007, p.31 “[…] un fant asme exploratoire quant aux limites de l'imitation:

limites franchies dans la fiction d'une image animée, tactile, désirante et qui ouvre son corps au corps du spectateur.”

6 Didi-Huberman, Georges Phasmes. Essais sur L’Apparition, Les Éditions De Minuit, 1998, p.21 “C’est l’image d’une collision, une collision aveugle mais qui décide de tout.”

7 Didi-Huberman 2007, op.cit., p.42 “En ce sens, il n’y a pas d’image sans le geste de son ouverture. Parce qu’ouvrir équivaut alors à dévoiler. C’est l’acte d’ecarter ce qui, jusque-là, empêchait de voir – porte ou rideu -, et c’est disposer, présenter la chose désormais “ouverte” dans une relation spatiale qui fait communiquer un intérieur et un extérieur, l’espace obtus qui tenait l’image enclose et l’espace obvie de la communauté spectratrice.”

8 Didi-Huberman 2007, op.cit., p.44 “Alors ells s’ouvrent comme des yeaux, comme des bouches, comme des bras, voire comme des sexes, voire

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comme des viscères.”9 個人インタヴューからの引用。10 ディディ=ユベルマン、op. cit., p.14 “consiste à

vouloir fonder la prééminence du dessein – ou du dessin, selon les deux significations conjuguées du mot diseigno – sur un encadrement implicite du désir et sur un encadrement, plus explicite, de tout ce qui, dans la peinture, toucherait à une phénoménologie du corps et de la chair.” Didi-Huberman 1999, op.cit., p.15

11 Didi-Huberman 2007, op.cit., p.92 “Non pas prévoir – un schéma, une définition aspectuelle - , mais lancer, projeter, au sens matériel du mot jeter. Non pas légitimer, mais risquer: risquer le tout pour la tache, si l’on peut dire.”

12 Didi-Huberman, Georges La Peinture Incarneé,

Les Édition de Minuit, 1985, p.22 “Et la carne, la chair, n’est-ce pas ce qui désigne en tout cas le sanglant absolu, l’informe, l’intérieur de corps, par opposition à sa blanche surface? Alors, pourquoi les chairs se trouvent-elles constamment invoquées, dans les textes des peintres, pour désigner leur Autre, c’est-à-dire le peau?”

13 Didi-Huberman 1998, op.cit., p.4414 ディディ=ユベルマン 2002 年 , op.cit., p.110

«...pour la raison principale qu'elle met l'être en mouvement, en désir, en «glissement», et parce qu'elle fait du glissement lui-même une dynamique d’exuberance ontologique, une dynamique d’ouverture que la représentation échouera généralement à “distinguer”. La nudité est la chose du monde la moins définie pour la raison essnetielle qu’elle ouvre notre monde.” Didi-Huberman 199, op.cit., p.95

15 Didi-Huberman 1985, op.cit., p.54 «C’est un jeu qui, en tant que fascination, vient donc envahir, du detail, le tout: c’est un effet panique. Effet «totalitaire» du pictural dans le tableau, effet spécifique du Mal, - mot que l’on sait être un mot du sort, de la tache, de la maille, de la limite, mot de pictural comme tel.”

16 Didi-Huberman, Georges L’Image Ouverte Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition Gallimard, 2007, p.30

17 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く 裸体、夢、残酷』、宮下志郎 / 森元庸

介訳、白水社、東京、32頁 翻訳は変更されている。 Didi-Huberman, Georges Ouvrir Vénus Nudité, rêve, cruauté, Gallimard, Paris, 1999, p.30 «Dire ici que la représentation est soumise au symptôme, c'est constater que se stabilité aspectuelle – sa vocation à susciter une certaine reconnaissance des formes, une cer taine référentialité – est soumise à quelque chose qui se donne à la fois comme surgissement, l'apparition d'un trait inattendu, impensable, d a n s le t i s s u du r e p ré se n t é , e t c om me dissimulation, la disparition du monde où ce trait lui-meme serait pensable.»

18 Didi-Huberman, Georges L’Image Ouverte Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition Gallimard, 2007, p.62 «Cet accent donne le ry thme d'une expérience intérieure qui ne consiste justement pas à réf léchir son moi, à le confiner, mais à le blesser, a l'ouvrir grand pour y lasser entrer l’altérité du réel. L’image devient alors notre objet de non-consolation. Parce qu’elle ouvre sur l’informe de sa – de notre – propre constitution.”