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ー聞き

語りー

わたしの満州物語

ー生誕から引揚げまでの思い出ー

小林

麻須男

ーはじめにー

私は、昭和16年、満州で生まれ、昭和21年10月、5才の時、日本に帰国した。

この頃のことは、私の幼少時代のことなので、微かな記憶しかないが、後で、母に聞いた

話などを織りまぜて、生誕から引揚げまでの思い出を整理しておきたいと思う。

父(寛司、26才)が満州に渡ったのは、昭和12年、富士見村満州開拓団の先発部隊と

して、渡ったとのことである。どうして富士見村に、満州開拓団が組織されるようになっ

たのかというと、当時凶作が続き、富士見村の耕地面積では、村民が生活を続けるには耕

地不足だ、とのことで白羽の矢が立てられたようである。昭和14年、母(ますみ、27

才)、姉(桂、5才)、兄(寛人、2才)、おじ(鶴太、16才)も満州に渡った。そし

て、昭和16年6月、私は、満州開拓団で生まれた。

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ー終戦前の思い出ー

私の生まれた所は、戸籍謄本に書かれている住所には、満州国木蘭県王家屯と記されて

いる。地図で見ると、ハルビンから更に北に行った、ジャムスに近い北満の地である。

お米やコーリャンなどを作っていたようだが、これらのことについては、全く記憶がない。

家は、役場や学校、病院などがある本部という所から2~3キロ離れた長福という丘陵地

帯に建てられていた。近くに朝鮮人一家も住んでいた。あたりには、湿地や沼があり、釣

りにいった記憶がある。建物は、母屋に納屋、馬小屋などがあり、母屋には床の下にオン

ドルが通っていて、床が冬でも暖かかった。飼っていた馬の名は、「流山」と言い、また、

満州人で、「ローチャン」という人が、苦力として寝泊まりしていた。

満州のことは、とにかく、4~5才までの記憶なので、断片的であり、又実際にそれが自

分の記憶なのか、後で誰かに聞いたことなのか解らないが、夢現のような思い出は、今と

なっては、自分というものの存在の始まりをそこに見るようで、甘美な気分さえ生ずるか

ら不思議である。

春の思い出は、雪の割れ目から顔を出した福寿草。日当たりの良い土手に黄色に咲いて

いる姿は、いまでも思い出すことが出来る。

夏はカミナリ、大きな音に耳を塞ぎながら家の中でちじこまっていた。ただ、母たちが、

雷がそこらに落ちたなどと話しているのを聞いたとき、どんなものが落ちたのか、石臼の

柔らかいようなものが落ちてきて、そこらへんで湯気でも出しているのではないかと想像

した自分を思い出すことができる。

秋は取り入れ、2頭立ての荷馬車のに乗せられて山の畑から帰ってきたことを思い出す。

冬は、狼と馬橇。馬橇に乗せられて、マントに包まれ、首だけだして本部まで連れられ

ていったことを思い出す。夜道で狼に襲われないようにするためには、タバコを吸いなが

ら歩いてこなければならないという話や、夜中の狼の遠吠えなども記憶に残っている。

ー終戦のことー

昭和20年8月、終戦を迎えてわけたが、当時、4才だった私は、日本が戦争をやって

いることなど全然知らず、また、周囲にもそれらしい出来事は何にも感じられなかった。

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ただ、今でも思い出すのは、近所に住んでいた朝鮮人の男の子が、ある日、目尻を指で釣

り上げて、「朝鮮勝った、朝鮮勝った、日本負けた」と言っていたことである。

それ以来、私たちの生活は急変した。家を退き払って、本部にある学校にみんなが寝泊ま

りするようになったのである。

ー父がシベリヤ抑留列車から逃げ帰ってきたことー

これは、後で母に聞いたことだが、父は終戦の年4月に召集されていて、家にはいなか

ったが、逃げ帰ってきたとのことである。父の話によると、父の所属していた軍隊が終戦

となって、ソ連軍に武装解除され、日本に帰すから汽車に乗れと言われたが、どうも方角

がおかしいので、列車から飛び降り、軍服を脱ぎ、満人姿に変え、逃げて帰ってきたとの

ことである。父は、中国語ができたので、中国人になりすまし、怪しまれなかったとのこ

とである。私の開拓団では他にも数十人が、シベリヤ抑留列車から逃れて、帰ってきた。。

母の話だと、そんなに簡単に軍隊から逃げ出すことが出来るのかと思ったということであ

る。父は、昭和47年に亡くなり今はもういないが、私が満州から帰ってこられたのも、

父が、シベリヤ抑留列車から逃れ、開拓団に逃げ帰ってくれたことが、大きく幸いしてい

たように思えててならない。あのまま抑留されていたら、母は、この私を、女手一つで無

事に日本まで連れ帰ってくれることができただろうか。今、日本人孤児のことが問題とな

っているが、あの人達の多くは、父を現地召集で軍隊にとられ、母の手一つでは到底日本

に連れ帰ることが出来ず、やむなく死ぬよりはましと、現地の人に預けられた人たちなの

である。

終戦当時、満州にいた関東軍の主力は、昭和20年春、本土防衛と称して、日本に戻って

しまった。その穴埋めに開拓団の壮年男子が現地召集された。私の開拓団でも、父を始め

大半の壮年男子が現地召集されたとの事である。そのため終戦の時、大半の開拓団は年寄

りと婦人、子供だけが残され、そこにソ連軍が攻め込み、また現地人の匪賊に攻め込まれ

ちりぢりになってしまったのである。関東軍が引き上げず、終戦の直前に開拓農民の召集

が行われていなければ、もっと多くの子供たちが死なずに、又残留孤児とならずに日本に

帰ってこられたのではないかと思うと、残念でならない。

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ー開拓団村に、ソ連兵がやって来たー

戦争が終わった後、ソ連兵が進駐してきた。

ソ連兵が1軒1軒回ってくるというので、母と一緒に他所の家に集まっていたら、ソ連兵

がやってきて、若い女性はいないかと尋ねた。母たちは誰もいないと言って追い返した。

実は、ソ連兵が来る前に若い娘たちを屋根裏部屋に隠していたのを子供ながら見ていたの

で、どうなるかとハラハラしていたが、うまく追い返すことが出来て良かった思ったこと

を記憶している。

本部の建物にもソ連兵がやってきて、若い女性を接待に出すようにと言われたそうだが、

樋口団長が「ここには接待女性は一人もいない、いるのはみんな一生懸命働いている農婦

ばかりだ。どうしても農婦を出せというなら、私を殺ろしてからにしてくれ」と言ったと

ころ、毛布を調達して帰えっていったとのことである。団長の剣幕に、相手もそれ以上の

の要求はできなかったのではないかと、開拓団誌には書かれていた。

ソ連兵は1回やって来ただけで、それっきり来なかったとのことである。

ー開拓団が誹賊に襲われ、八路軍に助けられたことー

終戦になって、日本人に代わって旧満州国の現地人の統治が始まったが、治安は混乱し、

誹賊が攻めてきて略奪が始まった。みんなが別れていたのでは危ないと言うことで、学校

に全員終結することになった。私たち小さい子供は2階の教室に寝かされ布団をかぶって

小さくなっていたことを思い出す。窓は板で閉め切られていたので、外がどうなっている

か、子どもには皆目解らなかった。

母の話だと、カマやナタで武装したが、これではとても対抗出来ず、食料や医薬品など

が匪賊に略奪されたということである。開拓団誌を見ると、大規模な略奪は、①終戦直後、

ソ連軍が進駐してくるまでと

②終戦の翌年1月、八路軍が満州北部の実権をにぎる直前

に起こったとのことであった。2回目の襲撃の時は、匪賊は鉄砲まで使った大規模なもの

で、宿舎が包囲されもうこれで終わりかと覚悟を決めた時、誰が言い出したかは知らない

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が、八路軍は、農民の味方だから日本人であっても助けてくれるだろうということになり、

冬の夜道を馬橇に乗り、助けを求めに行ったところ、OKとなり、八路軍が助けに来てく

れて救われたとのことである。馬橇に乗っていった団員が100騎ほどの八路軍の兵隊を

連れて帰って来たときには、ああこれで助かったか、とみんな涙を流して喜んだとのこと

であった。救援に駆けつけた八路軍は、威嚇射撃をし、たちまちにして匪賊を追い散らし、

開拓団を救済してくれたとのことであった。逃げ遅れ捕まった誹賊からは、「お前達は中

国人なのに侵略者の味方をするのか」と言われたそうだが、八路軍は、「我々は働く労働

者、農民の味方であり、略奪は自国民であっても許されない」といって、誹賊を追い払っ

てくれたそうである。そのころの八路軍は、木蘭と言うところに本部を置き、林彪将軍が

総司令をしており、匪賊撃退の翌日、開拓団員がお礼に出向いた所、快く面会してくれ、

これからも安全を保証するから心配するなと言われ、また、匪賊のからの防衛用にと銃も

何丁か支給してくれたとのことであった。日本人にこれだけの厚遇してくれるのかと、み

んな涙をながして喜んだとのことである。満州事変で、中国各地に攻め込んだ日本軍があ

ちこちで住民を虐殺し、南京事件など起こしたのと比べれば、同じ軍隊でありながら、こ

うも違うのかと思わざるを得ない。日本軍が侵略軍とよばれ八路軍が人民解放軍と呼ばれ

るのもむべなるかな、である。

開拓団誌には、八路軍への救援要請の経過について、地元のポンスー単広財氏という実

力者に仲介を頼んで八路軍幹部に会ってもらったといういきさつが書いてある。それによ

ると、「開拓団の総意として、自分たちは、国家の要請で満州開拓に来たが、今、戦争に

敗れて、近く、全員が日本に帰ることになっている。その時は、自分たちが開拓した田ん

ぼも、畑も、家の建物も、農機具も、本部や学校、病院の建物、施設も、一切ここに残し

て帰るつもりだ。略奪しなくても全部残して帰る。どうか、自分たちを傷つけて略奪する

ようなことはやめてほしい。帰るまでの食料を奪うようなことはやめてほしい」

と頼んだところ、それを聞いたポンスー単広財氏は「よく分かった、今まであった日本人

の中で、一番立派で、いさぎよい。自分が八路軍にかけあって救助してもらうようにして

あげよう。」ということで、八路軍に面会でき、救助してもらうことが出来たということ

である。母は、富士見の開拓団は、日ごろから現地の人と仲良くしていたことも、終戦に

なって、恨みをかわず、助けられたと言っていた。

また、母は、富士見の人たちは、日頃から現地の人と仲良くしていたことも、終戦にな

って恨みをかわず、助けられたとも言っていた。学校に集結していたときに、武器を別に

隠し持っているのではないかとの疑いがかかり、父他何人かの人の幹部が監禁され、尋問

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を受けたが、現地の日本語が解る日頃からつき合っていた朝鮮人が通訳となったが、絶対

にそんなことは無いと口添えしてもらって助かったとのことである。もし、日頃から恨み

を買うようなことをしていたら銃をを持っているといって、処刑されたかもしれないと、

父は話していたということである。

ー引き揚げに際し、開拓団員の分散生活を受け入れてくれた

中国の人々がいたことー

終戦後、日本政府からの現地開拓団に対する通達は、連絡があるまで現地に留まれと言

うことであった。こうした通達のもとに富士見開拓団は現地に留まったが、匪賊の襲撃も

受け、終戦の翌年・21年冬には食料も底をつき、どうにもならなくなった時、八路軍の

援助で帰国命令が出るまで、開拓団周辺の中国人部落に分散して暮らすことになった。団

の中には家族が、男女に別けられ、別々にさせられるのではないかと心配したが、家族単

位で分散する事になりほっとしたとのことであった。私たちの家族が入った所は柳樹河子

という村だった。集落は城壁に囲まれ入口に大きな門があった。預けられた中国人民家の

中には冷たい所もあったが、大方は好意的に待遇してくれたとの事であった。食料は自分

たちで調達しなければならず、働きに出てアワやヒエなどを貰って食べたとのことである。

他の民家に寄留した人の中には食べ物にはこまらなかった人もいたと言う。

分散とはいえ、600人もの日本人開拓団員を受け入れてくれたと言うことは、中国人

の度量の広さに感心させられるものがある。日本人残留孤児を引き受けてくれた人達もこ

ういう気持ちで預かってくれたのではないだろうか。八路軍の救済といい、一時的とはい

え分散生活を受け入れたくれた中国人民家といい、中国の人々の好意には、本当に頭が下

がる。こうした中国の人々の好意に引き比べ、一部の日本人の中に、あの戦争は侵略では

無かった、虐殺もなかったなどというのを聞くと、日本人として恥ずかしいかぎりである。

ー分散生活の思い出ー

分散生活の思い出として、後段にも書くが「貰われそうになった」話の他、幼いながら、

初めて開拓団を出て中国人の集落を見たときの記憶が今でも残っている。集落は城壁に囲

まれていて、入り口には大きな門があった。真ん中には大きな通りがあり、左右に家が立

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ち並んでいた。食べ物は、マントウというトオモロコシの粉を練ったものをコッペパンく

らいのおおきさに形を作り、大釜のそこの並べて焼いていたのを覚えている。豚をつぶし

た時は、血を全部抜き取り、内蔵を取り出して、大釜でゆでたあと、血も皮も爪も頭もす

べて、捨てるところなく料理していたのを思い出す。後で、母に聴いた話だと、中国では

豚を潰しても、捨てるところなく、全部食べてしまうのだと聞いて、本当だと思った次第

である。豚を料理したあと、山のように作った餃子を、水餃子にして食べさせて貰った時

は、本当に美味しかったのをおぼえている。皮がキョトキョトしてなめらかで、口に入れ

てかむと、肉汁がにじみ出てくる味は今でも忘れられない。また、中国式のお葬式を見た

のもこの時が初めてで、張り子の馬や動物の人形を持って葬式行列が、泣きながら行くの

を見た。そして、葬式行列の担いでいた漆塗りの棺桶が、林の中に置かれているのを見た

のもこの時が初めてだった。

ー引き揚げ命令が届き、帰国の途に、

日本にたどり着くまでの母の話ー

引き揚げについての、母の話は、次のとおりである。

①、開拓団村からハルビンへ

富士見開拓団は、終戦の年の冬(昭和20~21年)は集団生活で過ごし、翌年(昭和2

1年)春先から夏まで分散生活で過ごした後、21年8月に帰国命令が届き、帰国の途に

つくことになった。

わが家の一行は、当初、みんなで12人。

私の家族~5人

他の婦人~1人

女子~2人(途中で死亡)

母親を亡くし父が兵隊にとられ両親のいない秀一兄弟~こども4人

分散生活地から、それぞれハルビン向かい、ハルビンの日本人収容所に集結し、そこで待

機することになったと言うことだが、ハルビンの収容所の生活はひどいものだったとのこ

とである。食べ物もろくになく、病気もはやり、ここで何人か亡くなったとのことである。

ハルビンまで来れば、後は列車で大連まで行き、そこから船で日本まで帰れる事になって

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いたのに、お金を出さなければ列車に乗れず、ハルビンでいつまでも待たされる事になっ

てしまった。団長以下開拓団の幹部は、あちこちに伝手をたどってお金を借りに走り回っ

たとの事である。しかし、簡単にはお金は貸してくれず、長野県債と言うことにして、日

本に帰ったら帰国費用と言うことで長野県に払って貰うから、ということでやっと借りら

れたとの事である。

しかし、お金は調達出来たが、今度は、ハルビンから新京(今の長春)までの列車が動か

なくなってしまった。というのは、ハルビンと新京の間が、八路軍と蒋介石軍との戦闘地

域になってしまった為だとの事であった。

②、

ハルビンから徒歩で越えた老爺嶺

やむなく私たちの開拓団は、新京まで迂回コースを取ることになった。ハルビンから五常

線の列車で法拉という所まで行き、そこから老爺嶺という峠を歩いて越え、吉林まで行き、

そして列車で新京まで行くことになった。

ところが、これが口には言えないほど難コースで、道中、大勢の人が亡くなってしまう事

になった。第一、列車と言っても貨物列車で、無蓋車、雨の中を走ったり、いつ迄も動か

なかったり、列車の中でも何人も亡くなったとのことである。更に、老爺嶺という峠越え

は難所で、何日も野宿をしなければならず、ここでも大勢の子供や年寄りが亡くなり、道

ばたに埋めたとのことである。私も、野宿で、焼け石を抱いて寝た記憶がある。道中、姉

や兄は、リックを背負わされたが、私は小さいので背負れて峠を越えた。途中、麻疹が流

行り、小さい子どもはたくさん死に、帰ってきたのは、私と鮎沢病院の純史君、細川光貞

さんの家の貞弘君くらのもの。

③、吉林から無蓋列車でコロ島へ

歩いて老爺嶺を越えたあと、吉林にたどり着き、そこから列車で新京に行き、新京の日

本人収容所に入り、しばらく待たされた後、列車で、帰国船の待つコロ島と言うところま

で列車で行った。ここも無蓋車であった。無ガイ車に乗った時は、雨が降れば濡れるし、

便所もないので、鉄兜を便器にしたりした。列車が停まると、ものすごい数の物売りが列

車の廻りにやってきて、声を掛けられた事なども記憶に残っている。

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④、コロ島で麻疹の私が乗船拒否にあう

これも後で母から聞いた話だが、私は、コロ島で引き上げ船に乗る頃、麻疹にかかってお

り、乗船が拒否され、病院船に乗るようにと言われたとの事だった。しかし、母は、その

病院船がいつ出るとも分からず、途中死んでもいいからと言うことで、みんなと一緒の引

き揚げ船に乗ったとの事であった。幸い、船に乗ったら、私が、やたら元気になり、無事

みんなと一緒に帰国出来たとのことであった。もし、あの時、寒い収容所で病院船を待っ

ていたら、麻疹にかかっていた私は、生きながらえて帰って来ることが出来たかと思うと

ぞっとする。強引に連れて帰ってくれた母に感謝するばかりである。

⑤、コロ島から引き揚げ船で日本に帰る

コロ島から、米軍の上陸用舟艇に乗り、東支那海を下り、最初は、佐世保に上陸する予定

だったようだが、佐世保は引き揚げ船で一杯上陸がダメになり、九州の鹿児島を廻り、広

島県の大竹という所に上陸した。

そこから汽車に乗り、昭和21年10月19日の朝、長野県富士見駅に下り立った。富士

見駅からは、親戚の直人さんが、牛の運送車を引いて来ており、私はそれに乗せてもらい、

実家のある神戸の家にたどりついた。

以上が、母が語った、引き揚げの経過である。

ー引き揚げ道中の記憶ー

①、亡くなった大勢の子供たちのこと

母の話だと、引き揚げに際し、乳幼児は、到底、生きて帰れないだろうということで、

病院に薬も残っていたので、安楽死させ、井戸に葬ったとのことである。こういう事を聞

くと、何とむごい事をしたものだと思われる向きもあろうかと思うが、引き上げの途中、

寒さや飢え、病気などで7才以下子供が80人近く亡くなった事を思えば、やむを得なか

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ったのでは無いかと思う。開拓団のみんなは、地蔵を建て、地蔵念仏を作って唱和し、こ

れらの幼児の死を弔ったとの事である。

また、私の幼い記憶の中にも、友達のお母さんが亡くなり、薪を積み上げた上に寝かせ、

荼毘に賦している光景や、引き揚げ船の中で亡くなった人を、毛布に包んで、デッキから

海中に下ろして、葬っている光景が今でもまぶたに焼き付いて離れない。更に、大竹に上

陸したところで亡くなった昌平君のお母さんが、「せっかく日本までたどり着いたのに、

ここで死ぬなんて」、と言って嘆き悲しんで泣いた姿などを思い起こすことができる。

引き揚げの途中、麻疹などが流行、多くの子どもが亡くなったと、母は言っていたが、

引き揚げと人の死は、切り放すことが出来ない悲しい思い出である。引き揚げ道中、「内

地へ帰って死にたい、内地へ帰って死にたい」と言っていた病人のうわごとなども、今

も耳に残って消えない言葉である。

②、置いて行かれることの怖さ、中国人に貰われそうになった話

引き揚げ途中、今でも私が「怖い」と思うことは、「置いて行かれるのではないか」、

という恐怖である。引き揚げ道中の鉄則は、一行について行かねばならない、落後したら

終りである、ということである。引き揚げ道中、何かの拍子で、私の廻りに、両親も、兄

弟も知っている人も誰もいず、知らない中国の人ばかりにされた時などは、本当に、私は

このまま、置いて行かれるのではないかと、恐ろしかったものである。

ある所に滞在していた時に、どういう訳か、中国の地主らしい人の家に連れて行かれ、

おいしい物をご馳走になったことがあった。その時、私を「この子をくれ、この子をく

れ」と言われたのを覚えている。私は、「嫌だ」と断ったが、その後からも、何度かその

家の人が来て、私を笊に入れて、持って行かれそうになったことがあった。相手は、本気

だったのか、冗談だったのかは知らないが、このままご馳走に釣られてここにいたら大変

なことになると、「嫌だ、嫌だ」と必死に抵抗したことを覚えている。

後で母に聞いたことだが、中国人の中には、日本人の「ショーハイ=小輩」は賢いから貰

いたがる人が多かったと言うことである。あの時、貰われなくてよかったと、今でも胸を

撫で下ろす時がある。

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③、残留孤児について

中国残留孤児というのは、このように、途中ではぐれたり、親が亡くなったり、到底生

きて帰れそうもなくて、中国人貰われたり、預けられたりした子どもたちのことである。

あそこで置いてゆかれた子ども達が、どんなに悲しく、怖く、声を限りに、「お母さー

ん」と叫んだか、私には、その切ない気持ちが、良くわかる。しかし、その悲しい叫びも、

中国の大地の中に吸い込まれ、今日まで、50数年という歳月が流れてしまったのである。

そしてまた、子供を現地の人に預けなければならなかった母たちの心中を思うとき、私は

胸が痛む。一部には子供を捨てて自分だけ生きて帰ってきたのではないかと言う人がいる

が、決してそんなことはない。道中、どれだけ多くの子供たちが食べ物がなく、栄養失調

で死んだか、私は幼少ながらこの目でハッキリ見てきた。死んだ子供は、道ばたに小さな

穴を掘り、埋められた。着の身着のまま、開拓部落を出てきた人たちに、食料も薬も調達

するお金もない、これでは弱い子供や年寄りが次々と無くなって行くだけ。せめて、死な

せてしまうより、現地の人に預けてこの子を生かして上げたいと思うのが母心ではなかっ

たか。戦争の悲劇は、このように、多くの人が死に、家族が引き裂かれ、そして、たくさ

んの孤児が残されるものである。たくさんの悲劇を生む戦争は、絶対に、再び繰り返して

はならないことである。

残留孤児の問題を思うとき、あの混乱した引き揚げのさなか、親にはぐれたり、孤児と

なったりして、死ぬよりはましと預けられたりした子ども達を、苦しい生活の中で育てて

くれた中国の人たちの暖かい心に感謝しなければならないと思う。この問題については、

もっと政府が責任を持って解決するよう要求してゆかなければならないと思う。政府が、

教科書問題などで、侵略を侵略と認めないようでは、こうした人々の善意に応えることも、

真の友好の確立も出来ないのではないかと思うものである。

④、多くの開拓団員が亡くなった松花江

松花江という河は、満州の中心部を流れ、ロシアのアムール河と合流しオホーツク海に

に注ぎ込む大河である。ハルビンの街も松花江の両岸につくられた。私の生まれた木欄と

言う街も松花江の下流の街である。昭和21年、現地の分散生活をしていた木欄から帰国

命令が出てハルビンに集結することになった時、船で松花江をさかのぼることになった。

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船着き場で乗船するために川岸で列を作って船を待ちながら見た松花江は、とても広く、

向こう岸が見えない位大きかったことを覚えている。結局船には乗れず、陸路でハルビン

に行くことのなった。私たち開拓団は、分散していた集落の人々に牛車で送られてハルビ

ンに行くことができたが、北満州の地から南に下ってきた開拓団の中には、松花江をわた

れず川岸で亡くなった方も多かったということである。松花江には今でも橋がハルビンと

ジャムスにしかなく、ソ連の侵攻を受け松花江まで逃れて来た人々が、河をわたれず、ま

た河をわたっても行き場がなく倒れ、この地で亡くなった開拓団員は何千人もいたという

ことである。現在、松花江のほとりの方正という街には、こうして亡くなった方々を慰霊

する日本人公墓が建てられており、私も3年前の日中友好訪問でこの地を訪れた時、参拝

してきた。引き揚げの途中で亡くなった人々のことを思うと心が張り裂ける思いである。

日本人公墓の建設に当たって現地の人々からの反対もあったということだが、当時の周恩

来首相の、侵略国の日本人であっても亡くなった開拓団員には罪はない、ということで、

建設が許可されたとのことである。私が引き揚げの途中初めて見た大河、松花江は、多く

の日本人開拓団民の悲しみを秘め、今も、ゆったりと南に流れていた。

ー終戦の前日、戦死したおじのことー

私のおじ、鶴太は、父の一番下の弟で、私の家族と一緒に16才の時満州に渡った。そ

して、ジャムス医科大学に入学し、医者を目指した。しかし、昭和20年、学徒動員で軍

医として招集され、終戦の前日、8月14日、ソ連との国境、満州国興安総省西口という

所で戦死した。戦死を目撃した衛生兵の話だと、負傷した兵隊の治療をしていたが、目の

前で倒れた兵隊がおり、危ないから止めるようにと言ったが、負傷兵を助けようと塹壕か

ら出て行ったとき、敵の一斉射撃が起こり戦死したとのことであった。もう一日生きてい

れば終戦だったのに、、終戦の前日、あたら、若い命を落としたのである。享年23才。

生きていれば、医師として、立派な人生を送る事が出来ただろうと思うと、残念でならな

い。戦死したおじ達や開拓農民は、終戦の直前、関東軍の主力が、内地防衛といって引き

上げてしまい、その穴埋めに招集され、又、現地の大学から学徒動員が行われたものであ

る。そして大勢の人々が、ソ満国境の戦闘で戦死したのである。これらの人々は、関東軍

引き上げの盾にされたと言っても過言ではない。

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こうした軍部の非道さに憤りを覚えると同時に、戦死した人達の無念さを思うとき、靖

国神社に祭って、立派に闘ったとほめあげるより、憲法9条を守り再び戦争を起こさない

日本になることのほうが、彼らの願いに応えることなのではないだろうか。

ー私が生きて日本に帰ってこられた要因ー

引き揚げの途中で、大勢の人たちが死んだが、それでも、私たちの富士見開拓団では、

大半の人たちが、生きて日本に帰ることが出来た。この要因について、母に聞いたり、或

いは後でまとめられた富士見開拓団誌などを読んで思うことは、団の統率がよくとれてお

り、全員無事に日本に帰るのだという団の方針が明確であり、その方針に従って必要な行

動が展開されたことにあると思う。私たちの団には、団長、副団長がおり、医者や看護婦、

学校の先生、坊さんまでいて、一つの共同体が形成されていた。団長の樋口隆次さんとい

う人は、後に富士見町の町長さんにまでなった人である。私の父も、団の副団長として団

の指導部を形成していたが、こうした統率の下に、終戦になって、誹賊が攻めて来たとき、

全員が学校に集結し、無駄な争いは避け、日本軍が戦っていた相手の八路軍にまで救助を

求めたなどということは、他の開拓団からは、聞いたこともない話である。このような日

本農民の援助要請に対し、自国の暴徒を抑えてまで救助してくれた八路軍は、本当に偉い

と思うし、日本軍には、真似の出来ないことである。どうして、私たちの開拓団の指導部

が、このような柔軟な対応ができたのか解らないが、私が生きて日本に帰ってこられたの

も、混乱した、引き揚げの中にあっても、統率のとれた団の行動あったからだ思う。

ー生きて帰ってきた者のつとめー

私たちの開拓団は、日本から満州に渡った人、現地で生まれた人合わせて総勢900名

近くいたという事であるが、引き上げ船で日本に帰って来られた人は、

約900名いた開拓団員の内

道中死者

約220名(内、7才以下死亡約80名)

現地召集者

約130名

帰還者、516名だったとのことである。

母の話だと、5才以下の乳幼児で、満州から生きて帰ってこられたのは、3人位しかいな

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いということである。栄養失調で死んだり、麻疹が流行って死んだり、途中で大勢の子ど

もが死んだとのことである。今思うと、私は、生きて帰ることが出来なければ、あの夢う

つつの幼い人生を、大陸の土と消えたかもしれない。しかし、こうして生きて帰り、現在

まで50数年の人生を送ってきた。拾いものの人生と言えば、拾いものの人生だが、これ

も私の運命だったのだろうと思う。大勢の屍を乗り越えて生きて帰ることが出来たのだか

ら、幼くして亡くなったあの人たちの分まで生きて、平和な世の中を作る為に、自分の人

生を全うしなければならないと思うのである。

今回、私の書いたこの物語の大半は自分が見聞きしたしたこと、父や母に聞いたことや、

満州開拓団誌に書かれていたことをまとめたものであるが、幼いながら引き揚げの全過程

を身を以て体験した者として、これらの話が真実であると断言できる。しかし、戦後が6

0年経ち、引き揚げ団員の多くも次々と亡くなり、満州のことも、引き揚げのことも、、

戦争の悲惨さも、次第に忘却の彼方に消え去ろうとしているとき、万死に一生を得て、引

き揚げてきた私が、こうした引き揚げの悲惨さを後生の人々に伝えてゆくことも、死者に

報いるつとめではないかと思う。私は、今後も、語り部として満州で亡くなった人々のこ

と、そして私たち開拓団員に、引き揚げに際して、数多くの好意を寄せてくれた中国の人

々がいたことを、後生の人々に伝えて行きたい。。

ーおわりにー

戦後の富士見開拓団の日中友好

わたしの一家は、信州甲州街道の御射山神戸という部落の農家でしたが、満州に開拓に

行くとき、屋敷や田畑を手放さないで行ったため、引き上げ後は、もとの家に戻ることが

できました。富士見開拓団では、このように家や田畑を残していった家が多かったようで

す。私も帰国後、彼の地で、小学校、中学校、高校と青春時代を平穏無事過ごすことがで

きました。

戦後、日中国交回復までは、富士見開拓団と中国(満州)との交流はほとんどありませ

んでしたが、日中国交回復後、富士見開拓団の人々の中に、帰国時いろいろとお世話にな

った満州の人々の善意に答えようと友好交流の機運が高まり、旧満州開拓地を訪れようと

昭和40年、第一次友好訪中団が組織されました。私の父もその時訪中団に加わりました。

しかし、第1次訪中団は、当時、中国は文化大革命の最中だったので、現地を訪れる事は

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出来なかったようですが、その代わり当時、中国ナンバー2に地位にあった林彪将軍に面

会出来、帰国時の支援のお礼を言うことができたという事です。

その後、富士見町では、第5次友好訪中団まで組織され、私の一家は、父に次いで、母

も、兄も、姉も、私も、それぞれの訪中団加わり、全員、旧満州の地を踏むことが出来ま

した。父は、もう亡くなっておりませんが、常々中国の人々のことを尊敬していました。

私たち一家は、全員、中国の人々の善意を忘れることはありません。私としても、日本が

中国に対し、ひどいことをした過去を忘れず、今後、一層、日中友好を深める努力をして

行かなければならないと考えています。

最後に、今回の私の拙い文章が、日中の平和と友好、戦争を知らない人たちに戦争の悲

惨さを伝える一助になればと願い、筆を置きます。

(2005年12月)

ー終戦から引き揚げまでの経過ー

(富士見村満州開拓団誌をまとめたもの)

昭和20年

8月15日

終戦

満州富士見分村

住民約900名

16日

学校閉鎖

対満州人、対朝鮮人に対する債務一括返済

21日

匪賊来襲

約200人

23日

住民学校集結、共同生活開始(バラバラに住んでいては危ないというので)

23日

武器引き渡し、木蘭県公安組織よりの命令、2台の馬車に乗せて持って行く

9月~10月

ソ連軍来る

婦女子を慰安婦に出せとの要求あり

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団長、身体を張って断ると、毛布の提出だけで済んだとのこと

昭和21年

1月

八路軍、木蘭入城

開拓団地域一帯が八路軍の支配下に入る

21日

~23日

匪賊来襲、八路軍に追われた旧軍属などが匪賊の中心となって開拓団を襲っ

たもの。戦闘に入るも武器は提出済みで無いので、手製の武器で闘うも劣勢に

なり、死傷者も続出。

24日

八路軍に救援を求める(現地有力者、ポンスー単広財氏を通じて)

八路軍救援を承諾

25日

八路軍100騎馬兵を救援によこし

匪賊撃退

26日

開拓団、使者を八路軍木蘭司令部にお礼に派遣、林彪将軍に面会

1月~5月

以降、開拓団、八路軍の支配下に入る

5月31日

八路軍の命令で、集団生活から分散生活に入る

理由

集団生活をしていると狙われ易い。八路軍としても共同生活をして

いる開拓団の食料確保が厳しくなって来た。幹部8名監禁、武器製造の疑

いを掛けられたが、すぐに釈放される

5月~8月

分散生活

柳樹河子(神戸部落)

石頭河子

利東関内

タークイ

ターバン村

8月

3日

開拓団にハルピン集結命令出る

分散先からそれぞれハルピンに送られる

9日

全員ハルピンに集結(ハルピンも八路軍の支配地)

日本人収容所に入る

29日

ハルピン出発

五常、吉林廻り

(普通ならばハルピンから長春までは列車で移動出来る所だが、ハルピン

~長春間が八路軍と蒋介石国民軍の戦闘最前線となっていたため、五常~

拉法~老爺嶺~吉林~長春廻りとなったもの)

拉法まで列車移動

老爺嶺を徒歩で越える

(老爺嶺まで八路、老爺嶺から国民軍の支配地

道中、野宿

大勢の死

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者出る)

9月

2日

吉林到着

吉林で9日間野営

ここでも伝染病の流行や麻疹や栄養失調で大量の死者が出た。

ー吉林から無蓋列車移動

長春到着

しばし滞在

長春から錦州まで無蓋列車移動

19日

錦州到着

北大営収容所に入る

10月1日

コロ島より引き揚げ船に乗る

5日

佐世保到着、佐世保は引き揚げで一杯だったため上陸出来ず

九州廻りで大竹まで移動、

15日

大竹到着、上陸

17日

大竹出発

19日

富士見到着

当日の帰還者は、開拓団員約900名中516名

ー追記ー

私は、61才の夏、富士見町の日中友好親善訪問で、私の生まれた旧満州の木蘭という所

に行ってきました。

旅の3日目に、私の生まれた旧富士見村の開拓団跡に立つことが出来ました。

現地の丘に立って広大な周囲を見渡すと、私が微かに覚えている幼少の頃の風景に接し、

とても懐かしさを感じました。特に、どこまでも続くトウモロコシや大豆の畑、青い空、

白い雲、爽やかな風、そして土壁の家々、家の廻りに咲きほこるい赤いコスモスや百日草、

飛び出してくる子豚、道を横切る牛や鶏、確かにこうした丘陵の大地が私の生まれた原風

景であることを実感する事が出来ました。

そんな風景を見ている内に、私はここで生まれたんだ、ここが自分の人生の出発点なんだ、

これからも生き抜くぞという新たな勇気が湧いて来ました。

私の深層心理の奥深く微かに秘められていた遠い昔の思い出の中に、これからも生き抜く

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決意を込めて、一編の詩をまとめてみました。

生誕の丘に立ちて

ー遠い夏の日の思い出ー

小林

麻須男

母よ、私はどうして、今、一人乳母車に座っているのか

眼前には、コーリャン畑が広がり

キラキラと、夏の日差しを受け

かすかに葉影が揺れている

母よ、辺りには誰もいない

ただ、私だけがこの大きな木の下で

一人、乳母車に座っている

母よ、一体、私はどこから来たのか

この果てしない北満の地で、

今、なぜ乳母車の中に座っているか

私は、どこから来たのか

なんの記憶もなければ思い出もない

ただ、明るい日差しだけが眼前に広がっている

確かなことは、今、私がここに座っていることだけだ

・・・・・・

そうか、今、私はこの明るい世界に

一人、飛び出してきたばかりなのだ

何億年もの生命の営みの最先端に

今、私は押し出されて来たばかりなのだ

怖がることは何もない

私の生命は、私の意志で始まったわけではない

私の背後の大きな力

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私を生みだした大きな宇宙の営みによって

この世に送り出されて来たばかりなのだ

この偉大な生命の命ずるまま

自らの足で、歩き始めよう

怖がることは何もない

・・・・・・

コーリャン畑の続く光の中で

今、始めて、私は目を醒ました

母よ、私を乳母車から下ろして下さい

生命を得た私が、自らの足で歩き出すために

それが、どんなに遠い人生の道のりであっても

この広いコーリャン畑の向こうにたどり着くために

母よ、私を、この乳母車から下ろして下さい

<2002年訪中時の旧満州開拓地の情景>

ー大豆畑の広がる旧富士見村満州開拓耕地ー

ー現地死亡者の追悼供養ー

-現地少女との記念撮影-

ー現在の旧開拓団付近の集落ー

-今も使われている旧開拓団家屋-

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木欄〜ハルビン〜法拉〜老爺嶺〜吉林〜長春〜コロ島〜大竹

<引き揚げ経路>

-ハルビンの街で姉と-

<満州の中心部を流れる大河、松花江>

ー中国政府が建立した方正日本人公墓ー

-現在の木欄の町並み-

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印刷 2017年-2月(三版)

著者 小林 麻須男

神奈川県藤沢市在住