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統計家としての柳澤保恵 総務省統計研修所 小林良行 2016/09/13 (鹿児島大学) 経済統計学会第60回全国研究大会 企画セッション「日本の統計史を考える」 1

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  • 統計家としての柳澤保恵

    総務省統計研修所 小林良行

    2016/09/13 (於 鹿児島大学)

    経済統計学会第60回全国研究大会 企画セッション「日本の統計史を考える」

    1

  • 1 はじめに 2 統計家としての背景 3 統計家としての活動 4 おわりに

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  • 問題意識 柳澤保恵(やすとし)伯爵(以下、「保恵」)は、学習院大学在学中及び欧州留学中に統計学を学び、明治・大正・昭和初期を通じて、わが国の統計実務の発達に影響を与えただけでなく、国際的にも国際統計協会などの場で活躍している。

    しかし、杉亨二に始まるわが国の統計発達史の中では、国内外における保恵の業績は従来あまり注目されてこなかった(先行研究として三潴及び森岡(1997)があるのみ)。

    保恵の業績で特に保恵独自の発意による活動の中には、今日的視点で見ると未発達・未成熟ながらも先進的な発想による活動と考えられるものがある。保恵と彼が設立した柳沢統計研究所の活動がわが国の官庁統計の発達に及ぼした影響を評価してみることには十分意味があると言えるだろう。 3

  • 保恵の略歴 明治3(1870)年 柳澤光昭(旧越後黒川藩主)の次男として生まれる。

    明治19(1886)年 柳澤保申(やすのぶ。旧大和郡山藩主)の養子となる。

    明治24(1891)~27(1894)年 学習院大学科で呉文聡に師事。在学中の明治26(1893)年に家督相続。

    明治27(1894) 年 欧州留学に出発。 明治28(1895)年 英国欽定統計学会正会員。 明治32(1899)年 内閣統計局事務の嘱託を受け、第7回国際統計協会会議に政府委員として出席。

    明治33(1900)年 留学から帰国し、東京専門学校(早稲田大学)で統計学講師。

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  • 明治36(1903)年 東京市統計事務嘱託。 明治37(1904)年 貴族院議員初当選(当選は計4回。途中東京市議会議員)。

    明治39(1906)年 東京市統計顧問。国際統計協会正会員。 明治41(1908)年 神戸市臨時市勢調査顧問。東京市臨時市勢調査協議員会議長。

    明治42(1909)年 国勢調査準備委員会委員。 大正2(1913)年 柳澤統計研究所設立。 大正5(1916)年 高野岩三郎とともに内閣統計局顧問。 大正7(1918)年 臨時国勢調査局参与。国勢調査評議会評議員。

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  • 大正8(1919)~15(1926)年 統計学社社長。 大正9(1920)年 国勢院参与。国勢調査員。中央統計委員会委員。

    大正15(1926)年 家計調査員。 昭和4(1929)年 第19回国際統計協会会議準備委員会会長。

    昭和8(1933)年 (財)人口問題研究会会長。 昭和11(1936)年 没。墓所は歴代の大和郡山藩主と同じ東京都新宿区河田町二丁目の月桂寺にある。

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  • 保恵と統計学との出会い-欧州留学以前(1891-1894)

    明治24(1891)年 学習院大学科入学。呉の統計学講義と出会う。統計学専攻のきっかけとなる。

    欧州留学-出発からベルリン大学入学(1895-1897)

    明治27(1894)年7月 学習院を卒業。同年12月に宮内省の命を受けた欧州留学に出発

    明治28(1895)10月 ベルリン大学哲学科に入学。統計学、社会学、国家学を学ぶ。

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  • ストラスブルク大学からウィーン大学へ(1897) 明治30(1897)年5月 ベルリン大学→ストラスブルク大学国家学科で国家学を専攻。しかし、同年10月にはオーストリアのウィーン大学政治学科に入学。 →保恵の留学当時の欧州における大学の統計学教育の中心はドイツからオーストリアに移っていたようである。 ※独墺の大学では「統計学理の講義をすると同時に実地演習をも加へ、一面学校に於いて理論を教へ、他面実際の材料に付いて役所で練習させると云う様な両面の教授法」を行っていた。

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  • ウィーン大学でのステルネッグとの出会い(1897-1899)

    明治30(1897)年から同31(1898)年の3学期にわたり在籍し、ステルネッグ初め様々な教授陣から人口統計、経済統計、統計史などを学ぶ。

    ステルネッグから「殊に懇篤なる待遇を与えられ」て。 →「中央統計委員会に随時出入し学習以外種々の便益を」得る経験、中央統計院で演習の経験。 帰国まで(1899-1900) 明治32(1899)年4月にウィーンからブリュッセルに移り、明治33(1900)年6月にはパリに移っているが、この間統計学に関して学んだかは不明。

    同年9月初に帰朝。

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  • 国際会議への出席 明治31(1898)年4月 万国衛生及び民勢会議(マドリッド)

    明治32(1899)年9月 第7回国際統計協会会議(ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ))

    特に国際統計協会会議への日本からの出席は保恵が初めて。同会議には内閣の命により政府委員として出席している。 ※柳澤(1921)によると、保恵自身が宮内大臣田中子爵に頼み込み政府に交渉してもらい、花房統計局長の同意を得て内閣統計局事務嘱託の発令があり、内閣からの政府委員として出張を命じられたものである。

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  • 保恵の統計観と彼の活動分野 保恵が呉とステルネッグに学んだ統計学は、独墺流の社会統計学であった。

    • 「統計学は自分の見解によれば所謂社会科学の範囲に属するものと考えて居ります」。

    • 「統計とは、集団事実の大数的表現よりその特徴を発見することにあり、という事」 →彼の研究関心は、統計調査によって集めた大量データを多角的な視点で分類、集計し、その結果から集団に関する何らかの特徴を帰納的に見出そうとするところにあったと思われる。 →ビッグデータのデータマイニング、データ中心アプローチの考え方に通ずると見てもよいのではないか。

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  • 柳澤(1936a)では保恵の数理統計学に対する批判的な考えが伺える。

    • 「私が統計に対して持っている所の主義は統計の取扱と云うものは数理的の研究に属さないということである」

    • 「数理学者にして亦統計家たる先輩諸氏の内では統計は高等数理の応用を待って始めて其本質を示す事が出来」「数学を十分に知らなければ統計を扱うことは出来ないということ」だが「私は之を極端の考と思う」

    • 「統計の研究に数理思想と云う者は決して不必要の者ではないが何も常に数学の高尚な理論がなくては統計の研究の出来ぬと云う事はない」

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  • 帰国後の保恵の業績から見ると、明治33(1900)年11月に早稲田大学で統計学の講師に就いているものの、その後は貴族院議員として帝国議会において官庁統計の整備の議論に関与するなど、統計学の理論的研究より統計制度や統計調査といった実務面に関心があったようである。

    保恵の発意により柳澤統計研究所で行った調査、集計がいくつかあるが、管見の限りでは集計表を刊行することはあっても結果の分析的考察まで言及しているものは見当たらない(『柳沢統計研究所 報告』中に華族静態調査などの「記述編」を作成したとの記載が散見されるが刊行されていない)。

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  • 保恵の活動その1-官庁統計の整備と統計思想の普及

    帝国議会及び中央統計委員会において、国勢調査、人口動態調査、労働統計実地調査、家計調査、失業統計調査、国富及び国民所得調査等の計画策定に参画している。特に第1回国勢調査の実現に向けては熱心に活動している (たとえば柳澤(1936c))。

    東京市及び神戸市の統計顧問として市勢調査(東京は明治41(1908)年10月、神戸は同年11月に実施)の企画、実施に関与している(柳澤(1936d)) 。

    第1回国勢調査実施の折には、「調査実施の完全を期する目的をもって公設機関活動の補助として」「国勢調査趣旨宣伝をなすため」(柳澤(1920))各地を精力的に訪問して講演を行っている(柳澤(1936g))。また、自らも調査員として活動している 。

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  • 保恵の活動その2-国内と国外をつなぐ情報提供 第7回及び第10回から第21回までの間の計11回に及ぶ国際統計協会会議への政府委員として出席し、日本の統計事情の報告などを行っている(たとえば「日本ニ於ケル統計ノ進歩」(第7回会議。英文)、「日本二於ケル国勢調査ノ問題」(第10回。仏文)など)。

    万国衛生及び民勢会議、国際労働統計会議などの国際会議へ政府代表として出席している。

    国際統計協会会議の議題への対応として、内地運輸統計の作成、大学及高等専門学校統計教育有無調、戦争の優勢的若しくは非優勢的影響に関する調査などの報告を提出。

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  • 『柳澤統計研究所季報』を通じた国際統計協会会議の議事内容の紹介やわが国の統計の発展に資すると考えた海外論文等の翻訳を紹介。

    ※第16回国際統計協会会議以降、保恵は自身が出席した会議の議事内容等を紹介。また、「官府統計の統一的整備の問題に就いて」が『柳澤統計研究所月報』16,17号に、「アドルフ ヤンセン氏の「実施せられたる代表調査法」」が同34,35号に掲載されている。保恵自身も数編翻訳をしているが、印刷はしているものの一般に配布することはなかったようである。

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  • 保恵の活動その3-独自の発意による活動 東京市市勢調査の職業小票を利用した職業名索引の編纂 - 「統計事業不振の現状に鑑み、有益なる統計事業にして特にその効果の埋没せるを公表せん事を企て」、東京市から個票の貸付を受けて作成。職業名索引は現在の職業分類内容例示に相当するものであろう。

    神戸市市勢調査の個票を利用した追加集計 - 「既に製表せられたるものの外更に有益と認めたるもの数表を作成」するため、神戸市から個票の貸付を受けて実施。

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  • 明治38(1905)年から同44(1911)年において民政調査を実施した6地方の比較統計(実数及び比例)の作成 - 各地方の「生活状況及び社会組織の現状並びに相互の象徴如何」を比較研究するため実施

    ※神戸市市勢調査、臨時台湾戸口調査、熊本市職業調査、東京市市勢調査、札幌区区勢調査及び京都市人口調査 華族静態調査の企画、実施、製表 - 家別票、家単位票、人別票による個票式調査。調査項目の一部は、記入者負担の軽減を図るため、戸籍謄本から収集。郵送調査を採用(おそらく日本初ではないか)。

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  • 華族動態調査の企画、実施、製表 - 宮内省宗秩寮が保有する華族に関する台帳(出生、死亡、婚姻など)から転記したものを利用して実施。

    奈良県ほか5県の人口動態統計の製表 - 地方統計事業が不振で改善の兆しも見えないため、「範を地方機関に示すと同時に小区域に於ける人口動態の状態を研究せんとする」目的で内閣統計局から個票の貸付を受けて実施。奈良県は柳沢家の本籍地で歴史上関係深い土地として最初に選定したもの。その後、山梨、鳥取、青森、佐賀、和歌山の5県を追加。

    細民調査の製表 - 東京市大平警察署実施の細民調査について「統計学的研究相試み度希望罷在」として個票の謄写を警視総監に願い出て許可され、転記した項目を利用して実施。製表したが公表はせずに終わっている。

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  • 全国市町村電話有無調 - 大正15(1926)年3月、政府は交通の発達、経費節減、事務の簡捷を理由に第51回帝国議会で全国の郡役所を廃止することを決議した。保恵は交通網、電信電話網に関し統計上の調査を行ない貴族院での予算案審議に際し報告して「交通不便の土地に道府県支庁又は出張所を新設せざる限り原案反対」の意見を述べている(「郡役所全廃と電話網」『柳沢統計研究所月報』16号、「市町村電話有無調」同『月報』17号)。

    ※郡役所廃止の統計事務への影響を懸念し、地方に統計協会を設立する動きが相次いで起こっている。

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  • まとめ 呉との出会いは保恵に統計学を学ぶきっかけを与え、ステルネッグとの出会いは保恵の統計思想形成に多大な影響を与えたと考えられる。とりわけウィーン大学在学中の経験が、帰国後の保恵の統計家としての思想と活動の基層をなすものになったと思われる。

    明治期に欧米に留学し統計学を学んだ者は多くはなかったと思われるが、その中でも学理、実務、制度にわたる知識と経験を学んだのは保恵のみではなかったか。

    保恵は国際的な統計事情を知っていたが故に、わが国の統計予算、統計制度、統計調査、統計職員の人財育成の貧弱さに深い焦燥感を抱いていたのではないか。保恵の講演録等の中に彼の心情の一端を垣間見ることができる文章が散見される。

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  • 保恵の活動の評価 独自の発意による活動の今日的視点からの整理 • 調査票の二次的利用 - 東京市、神戸市、内閣統計局に調査票の貸与を依頼、許可を得て調査票を謄写、利用して集計等を行っている。官側でやりきれていない集計等を調査票を借受けて行おうという保恵の発想は、今日的な視点で言うと、調査票情報の二次的利用に通ずるものと言えよう。

    • 秘密の保護と匿名化データ - 細民調査では個票から転記する際に①統計学的研究のため調査事項の転記、②転記の際には個人の名誉に関する事項の漏えいを防ぐため氏名又は住所における番地等は転記しない旨申出て許可されている。今日的な視点で言うと、これは秘密の保護と匿名化データ作成と考えてよいのではないか。 22

  • • 行政記録の利用 - 記入負担の軽減を意図した華族静態調査における戸籍謄本記載事項の利用、華族動態調査における宮内省宗秩寮が保有する華族に関する台帳記載事項の利用は、統計調査への行政記録の利用と考えてよいのでないか。

    評価 • 法制度が未成熟・未発達であった中で、調査票の二次的利用、秘密の保護、匿名化、記入負担の軽減、行政記録の利用といった戦後の統計法の下で明示的に導入された概念の発想に至った点は評価に値すると言えよう。

    • しかし、個票貸与申請にしても行政記録の利用にしても、保恵個人から個票や行政記録の保有組織の長などへの個人的な依頼の形をとっている。このようなことが可能であったのは、保恵の身分や社会的地位があればこそのことと言えるだろう。

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  • 今後の課題 柳澤統計研究所の活動の整理

    統計制度史・統計調査史・統計教育史における保恵と柳澤統計研究所の果たした役割の位置付け

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  • [1]三潴信邦及び森岡清美(1997),「柳澤保恵と柳澤統計研究所」『統計学』第72号,34-42 [2]柳澤保恵(1920).「国勢調査宣伝講演」『第5回及び第6回報告(自大正8年1月至同9年12月) 柳澤統計研究所』,5-9,財団法人 柳澤統計研究所 [3]柳澤保恵(1921).「追悼文」『統計集誌』第487号,272-273,東京統計協会 [4]柳澤保恵(1932).「統計要談」『柳澤統計研究所季報』第32号,41-63,財団法人 柳澤統計研究所 [5]柳澤保恵(1936a).「統計雑感」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,66-84,財団法人 柳澤統計研究所 [6]柳澤保恵(1936b).「欧州に於ける統計学の現状」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,85-109,財団法人 柳澤統計研究所

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  • [7]柳澤保恵(1936c).「国勢調査と帝国議会」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,128-198,財団法人 柳澤統計研究所 [8]柳澤保恵(1936d).「東京市勢調査の沿革」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,199-220,財団法人 柳澤統計研究所 [9]柳澤保恵(1936e).「恩師カール テオドア フォン イナマ ステルネッグ先生」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,221-230,財団法人 柳澤統計研究所 [10]柳澤保恵(1936f).「恩師文聰呉先生に就いて」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,267-275,財団法人 柳澤統計研究所 [11]柳澤保恵(1936g).「国勢調査談」『柳澤統計研究所季報(統計選集)』第40号,276-295,財団法人 柳澤統計研究所

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