毛沢東による戦略転換としての 新民主主義段階構想の放棄 ·...

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22 アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008 毛沢東による戦略転換としての 新民主主義段階構想の放棄 山口信治 Ⅰ 問題の所在 中国共産党は内戦勝利後、目標とする社会主義化を即座に開始しようとしていたのでは なかった。社会主義化開始までの 10 年程度の期間、資本家階級の存続と発展を許容する 「新民主主義段階」を実行することを構想していた。しかし、実際には建国 4 年後の 1953 年には「過渡期の総路線」の下で社会主義化が開始されたのである。 本稿が問題とするのは、新民主主義段階構想の放棄と過渡期の総路線の提起という社会 主義化戦略の転換が何故なされたのか、という点である。それに対する本稿の仮説は、こ の転換は朝鮮戦争によって具現化した米国による封じ込めの脅威に対して国内戦略を転換 させた結果であった、ということである。 この議論は以下の 2 つの主張からなる。第 1 に、社会主義化の早期開始は工業化戦略の 変化と密接に関わっていた。周知のように過渡期の総路線が提起された 1953 年には第 1 5 カ年計画も開始されているが、この 5 カ年計画策定作業と新民主主義段階構想が放棄 される過程は平行して進んだ。それは社会主義化戦略と工業化戦略が切り離せない関係に あったためである。よってこの時期の社会主義化戦略の変化は、大きな国家戦略の転換の 一部分として捉える必要がある。第 2 に、そのような戦略的変化は、対外情勢変化に対す る指導者の反応によって引き起こされたと考えられる。朝鮮戦争によって具現化した米国 による封じ込めは、中国にとって極めて大きな脅威であり、国家戦略の転換を迫るもので あった。社会主義化戦略を転換した背景にはこのような対外情勢があった。 先行研究を整理しつつ論点をまとめていくと、次の点を指摘できる。まず中国の政治的 変化に関する考え方として、「二つの路線」という党内の路線対立に注目する見方がある (小林、1997; 小嶋、1996。すなわち毛沢東時代の中国政治の動態を、生産関係の改変が生 産力の増大をもたらすと考える毛沢東ら急進派と、生産力の発展を生産関係よりも重視す る穏健派の相克と見る捉え方である。しかしこの見方では何故この時期に毛らが新民主主 義段階構想放棄へと向かったのか、という認識変化の背景に答えることができない。本稿 は政策決定過程に焦点を当て、この転換の背景を探る。 2 にその背景については、以下の見方が考えられる。まず、建国初期の国内状況の変 化を重視するものがある。すなわち、三反五反運動などの大衆運動による資本家に対する

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Page 1: 毛沢東による戦略転換としての 新民主主義段階構想の放棄 · 主義化戦略の転換が何故なされたのか、という点である。それに対する本稿の仮説は、こ

22 アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008

毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄

山口信治

Ⅰ 問題の所在

中国共産党は内戦勝利後、目標とする社会主義化を即座に開始しようとしていたのでは

なかった。社会主義化開始までの 10年程度の期間、資本家階級の存続と発展を許容する

「新民主主義段階」を実行することを構想していた。しかし、実際には建国 4年後の 1953

年には「過渡期の総路線」の下で社会主義化が開始されたのである。

本稿が問題とするのは、新民主主義段階構想の放棄と過渡期の総路線の提起という社会

主義化戦略の転換が何故なされたのか、という点である。それに対する本稿の仮説は、こ

の転換は朝鮮戦争によって具現化した米国による封じ込めの脅威に対して国内戦略を転換

させた結果であった、ということである。

この議論は以下の 2つの主張からなる。第 1に、社会主義化の早期開始は工業化戦略の

変化と密接に関わっていた。周知のように過渡期の総路線が提起された 1953年には第 1

次 5カ年計画も開始されているが、この 5カ年計画策定作業と新民主主義段階構想が放棄

される過程は平行して進んだ。それは社会主義化戦略と工業化戦略が切り離せない関係に

あったためである。よってこの時期の社会主義化戦略の変化は、大きな国家戦略の転換の

一部分として捉える必要がある。第 2に、そのような戦略的変化は、対外情勢変化に対す

る指導者の反応によって引き起こされたと考えられる。朝鮮戦争によって具現化した米国

による封じ込めは、中国にとって極めて大きな脅威であり、国家戦略の転換を迫るもので

あった。社会主義化戦略を転換した背景にはこのような対外情勢があった。

先行研究を整理しつつ論点をまとめていくと、次の点を指摘できる。まず中国の政治的

変化に関する考え方として、「二つの路線」という党内の路線対立に注目する見方がある

(小林、1997; 小嶋、1996)。すなわち毛沢東時代の中国政治の動態を、生産関係の改変が生

産力の増大をもたらすと考える毛沢東ら急進派と、生産力の発展を生産関係よりも重視す

る穏健派の相克と見る捉え方である。しかしこの見方では何故この時期に毛らが新民主主

義段階構想放棄へと向かったのか、という認識変化の背景に答えることができない。本稿

は政策決定過程に焦点を当て、この転換の背景を探る。

第 2にその背景については、以下の見方が考えられる。まず、建国初期の国内状況の変

化を重視するものがある。すなわち、三反五反運動などの大衆運動による資本家に対する

Page 2: 毛沢東による戦略転換としての 新民主主義段階構想の放棄 · 主義化戦略の転換が何故なされたのか、という点である。それに対する本稿の仮説は、こ

毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 23

統制力の増大の結果、社会主義への移行が可能になったとする見方である(中央文献研究室

編、2003; 金・劉、1992; 泉谷、2001)。しかし、本稿はそうした変化は社会主義化の開始への

過程の中で起きたのであり、国内の変化は必要条件であったとしても、決定の要因とみな

すことはできないことを示す。次にソ連の影響力を重視する考え方がある(Westad, 2003; Li,

2006)。本稿はソ連との関係が極めて重要であったことを承認しつつも、転換の決定そのも

のにソ連が直接的影響力を及ぼしたとは考えにくく、転換はあくまでも中国側、特に毛沢

東の主導によってなされたことを示す。最後に米国との対立状況を重視する考え方がある

(奥村、1999; 泉谷、2001)。特に朝鮮戦争と社会主義化との関係はこれまでにも取り上げら

れてきたが、多くが戦争による社会の実態的変化に関心を集中させすぎており、政策決定

の論理が検討されてこなかった1)。以上のように先行研究は新民主主義段階構想の放棄の

過程と原因を十分に説明したとは言い難く、その全体像が明らかになっていない。とくに

社会主義化戦略と工業化戦略との関係に着目した研究はほとんどない2)。本稿は米国との

対立状況を重視する立場に立ち、政策決定の論理の全体像を解明することを目的とする。

以上のような本稿の議論は次の意義を持つ。第 1に、1950年代の中国社会主義の急進化

をとらえなおす試みの一環としての意味である。これまでの中国社会主義の変遷に対する

説明は、急進化の問題を十分に解明したとは言い難く、それは毛沢東思想の独自の発展と

してあつかわれてきた。それに対して本稿の議論はイデオロギーを相対化し、中国社会主

義をとらえなおす作業の一環となりうると考える。第 2に、それに関連して、毛沢東時代

の政策決定に関する理解を深めることができる。国内政策の変化は、必ずしも国内の客観

的状況の必要性に指導者が対応して起きるのではなく、異なる考慮から導き出されるかも

しれない。本稿は中国政治の研究でこれまで弱かった対外関係と国内政策との関わりを探

ることで、建国初期の中国の政策決定に対する理解を深めるものである。

最後に論証手続きと本論の構成についてふれておきたい。本稿が述べる社会主義化、工

業化、対外意識の関係を明示的かつ体系的に述べた文書は存在しない。ゆえに本稿は、近

年出版された中国共産党指導者の文集、年譜、回顧録と当時発表された新聞・雑誌を使用

し、毛沢東らの議論を可能な限り再構成しつつ、先に述べた国内状況などの考えうる他説

の限界を指摘していくことで、論証を強化している。そのためには、新民主主義段階構想

放棄の過程の検討が重要となる。本稿の議論は以下のように進められる。第Ⅱ節は新民主

主義段階構想がいかなるものであり、なぜこのような構想が必要であったか、という点を

概観する。第Ⅲ節では変化の過程を扱う。ここで検討されるのは、新民主主義段階構想が

どのように放棄されていったか、という過程である。第Ⅳ節は第Ⅲ節で検討した過程を整

理し、さらにその変化の原因を探る。

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Ⅱ 新民主主義段階構想

中国共産党は、中華人民共和国成立後直ちに彼らの目標である社会主義化を実行に移し

たのではなく、その前に「新民主主義段階」を置くことを構想していた。新民主主義段階

構想は、そもそもいわゆる抗日戦争期の広範な統一戦線の形成を理論化したものであり、

マルクス・レーニン主義の革命段階の一部である。中国革命は社会主義革命ではなく、帝

国主義に反対する諸階級による新民主主義革命であるとされていた。この新民主主義革命

によって成立する政権は、労働者階級の独裁ではなく、「労働者階級が指導し、労農同盟

を基礎とし、民主的階級と国内の各民族を結集した人民民主独裁」を実行するとされた。

社会主義化の開始は遠い先のこととされ、それまでの期間、都市の民族資本家および農村

における自作農の存在を許容することが主張されていた。そしてこの期間を社会主義段階

とは異なる新民主主義段階としたのである。

この「新民主主義段階」構想は、具体性を欠く極めてあいまいなものであり、指導部内

で明確な意思統一がなされていたとは言いがたかった。しかし、長期にわたって新民主主

義段階を置くこと自体については党内において意思統一がなされていたように思われる3)。

建国初期に新民主主義段階を強調していたのは劉少奇であり、毛沢東の発言は多くない

が、それは軍事作戦など他の問題に関心を集中させていたからであると考えられ、そこに

明らかな方針対立があったわけではなかった。社会主義化開始までには 10年以上かかる

という認識は変更されることがなかったし、1949年から 50年にかけて資本家階級との協

力の必要性がより強調されていく趨勢にあった。毛沢東も 1948年 9月、建国後の新民主

主義経済についての劉少奇報告原稿に対し、「いつになったら(筆者注:社会主義への)全面

進攻を開始するのか ?全国勝利後まだ 15年を要するかもしれない」とのコメントを書きこ

んでいる(中央文献研究室編、1993: 7)。1949年 7月にソ連を訪問した劉少奇は、スターリン

に対する報告の中で、資本家階級と労働者階級の矛盾が革命後ただちに主要矛盾となると

いう認識を否定した。劉はその理由を「政権がもし主要な火力でもって資本家階級に反対

すれば、それはすでに労働者階級独裁に変化し始めていることになる」と説明し(中央文

献研究室編、1998b: 7)、中国が現段階では社会主義化を開始しないことを表した。スターリ

ンへの報告で劉少奇が彼独自の見解を述べるとは考えにくく、この見解は党中央の承認を

得て表明されていたと考えられる。

こうした認識は 1950年 6月に開かれた中国共産党第 7回全国代表大会第 3回総会(七期

三中全会)にいたっても維持されていた。資本家階級との協力に関してそれほど積極的な

発言を残していなかった毛沢東もこの時期には多くの発言を行った。毛は七期三中全会に

おける書面報告において「一部には、資本主義を早めに消滅し、社会主義を実行してもよ

い、と考えているものもいるが、このような考えはまちがっており、わが国の実情にあわ

ない」として、資本家階級との協調関係を強調していたのである(毛、1977: 24)。

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それではなぜ中国共産党は新民主主義段階を実行したのであろうか。まず、経済復興と

政治的安定、さらには経済発展のために資本家を無視することはできなかった。中国の現

実的必要性が資本家に対する穏健路線をとらせたと言えよう。長期に渡って農村で活動し

てきた中国共産党は、都市を運営していく経験を明らかに欠いていた。都市経済の復興が

喫緊の課題である中で、資本家階級の協力を得ることが必要であり、そのため資本家階級

に対する穏健政策の実行は現実的選択であるとも言えたのである。これらの観点は劉少奇

の天津講話の中にあらわれている。1949年の都市占領の過程で起きた左傾是正を目的とし

たこの一連の講話において、劉は資本家との協力の必要性を繰り返し強調し、「今日の資

本主義の搾取は罪悪でないだけでなくむしろ功績がある。封建的搾取が除かれた後におい

ては資本主義の搾取は進歩的である」などと述べた(中央文献研究室編、1993: 107, 1998c:

624–641; 中国人民大学党史系資料室編、1980: 62–66)。

こうした方針は経済発展戦略と密接に結びついていた。劉少奇らの工業化構想は、まず

農業・軽工業を重視するというものであった。劉は 1950年前半に、まず農業と軽工業を

発展させたのちに重工業に移る、という工業化の構想を明らかにした。すなわち「経済発

展計画の第一歩は農業と軽工業を中心とすべきである。なぜなら農業が発展してのみ工業

に十分な原料と食糧を供給でき工業のための市場を拡大発展させることができる。軽工業

が発展してはじめて農民の必要とする大量の工業品を供給でき、農民の生産原料と食糧を

交換でき、また工業の継続的発展のための資金を蓄積できる」、「この一歩が成功してはじ

めて我々は最大資金と力量を集中して重工業の一切の基礎建設ができ、また重工業を発展

させることができる」(中央文献研究室・中央档案館編、2005a: 1–9)。こうした工業化の道は

人民からの搾取に依拠していた資本主義的工業化とは異なる、搾取に拠らない社会主義の

工業化への道であるとされた(石、1950: 9)。

第 2にソ連との関係である。本稿で対ソ関係を詳細に扱うことはできないが、ソ連はこ

の時期の中国に対して大きな影響力を持っていた。それは国内政策を全て押し付けられる

ようなものではなかったが、特にイデオロギーに関わる問題でソ連を無視することはでき

なかった。ソ連は当時中国の即時社会主義化を要求していたのではなく、むしろ中国の新

民主主義段階実行に肯定的であった。ソ連側の評価として、中国の資本家階級は反ファシ

ズム統一戦線で協力してきた存在であり、そのために即座に消滅させるべきでない存在で

あった(Li, 2006: 63–68)。このようなソ連の姿勢は中国の選択に一定の影響をおよぼしたと

思われる(Ledovsky, 1995, 2000)。

もう 1点述べておく必要があるのは、米国の脅威に対する認識である。新民主主義段階

構想のもう 1つの条件となっていたのは、米国に対する認識であったと思われる。

まず内戦末期の米国と中国共産党の関係を整理すると、米国の「失われたチャンス(Lost

Chance)」はありえたのか、すなわち中国が冷戦対立の中で中立化したり米国と友好的とな

る可能性があったのか否かをめぐってこれまで多くの議論がなされてきた(Cohen et al.,

1997)。冷戦終結後の資料公開の中で明らかになってきたのは、中国の中立化や友好化と

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いった意味での「失われたチャンス」はほとんど存在しなかったということである(岡部、

2003; Chen, 1994; Westad, 2003)。疑いなく米国は中国にとって最大の脅威として認識されてい

た。内戦を通じて米国は国民党を支持し続けたし、次第に形成されつつあった米ソ冷戦は

確実に中国の対米認識にも影響を与えていたと思われる。

しかし、中国が冷戦の論理にすでに組み込まれていたとしても、その度合いは必ずしも

高くなかったと考えられる(高橋、1996)。クリステンセン(Christensen, 1996)は、当時の米

中間に中立化や友好化という意味でのチャンスは存在しなかったが、それがただちに戦争

状態や厳しい対峙状態を意味していたわけではなかったと論じている。すなわち、米国は

「敵」であるが、一方でそれが直接対決にまで到るか否かについては必ずしもはっきりと

した認識を持っていなかったというのである。確かに中国は米国の内戦への介入を警戒し

続けていたが、実際には直接衝突を起こしていなかった。また中国指導部は米国が東アジ

アで戦争を実行する能力を持たず、さらに米国は戦略上、欧州を東アジアよりも優先させ

ると考えていた。さらに中ソ友好同盟相互援助条約の締結により、一応の安全保障上の保

証を得ることができたことで、米国との直接対決は回避できると考えられたであろう。

こうした一連の流れは、仮に蒋介石が逃げ込んだ台湾を人民解放軍が攻略しても、米国

が直接的に介入してくることはない、との観測を生んでいた。また 1950年 1月 5日のト

ルーマン演説および 1月 12日のアチソン声明は、米国の東アジアへのコミットメントが

弱いものとなることを示唆していた。中国共産党は公式にはこれらに対し大きく反発し、

米国を警戒する姿勢を見せていたが、一方で同時期に台湾攻略作戦の責任者である粟裕

は、米国は蒋介石に対して軍事援助を続けることはありえても、直接介入の可能性は低い

との認識を示したのである。チェン・ジエン(Chen, 1995: 101–102)によれば粟裕は同年 1

月 5日および同月 27日の台湾作戦報告の中で、米国は内戦不干渉を謳っていること、米

国が東アジアで戦争を起こすにはあと 5年はかかること、英日などのコンセンサスが得ら

れないという 3つの理由により、中国が台湾を攻撃しても米国は介入しないとの見通しを

示したという4)。以上のように、1950年前半まで中国共産党は、米国を最大の脅威と認識

していたものの、それが直ちに直接的衝突に到るとは考えていなかった、と判断できるの

である。

そしてこのような対外認識は、漸進的国内政策の 1つの基礎となるものであったと思わ

れる。米国が介入しなければ、中国共産党は内戦を終結させることができ、比較的安定し

た環境下で漸進的発展を遂げることができるが、もし米国が国民党を支援して中国に直接

介入してくれば、それは政権の安定にとって大きな脅威となる。敵味方の区別があいまい

な資本家階級は敵になりうる。劉少奇は 1948年末に、新民主主義段階について、中国が

突然武力干渉を受けたり、資本家階級の暴動がおきたりしない限り、10年から 15年こう

した段階が続くと述べ、さらに「もし国際干渉や武装暴動があれば、我々はすぐに(筆者

注:社会主義へ)過渡せねばならず、革命の性質は転化する」(中央文献研究室編、1993: 47–

48)と述べた。これだけでもって対外情勢と新民主主義段階構想の関係を証明したことに

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はならないが、極めて示唆的な言及である。

Ⅲ 新民主主義段階構想放棄の過程

1. 「三年準備、十年建設」

本節が明らかにするのは、工業化戦略の変更がイデオロギーの変化と党内論争を呼び起

こし、新民主主義段階構想が揺らぎ、その中から新たな戦略が登場していく過程である。

そしてこの過程を主導したのは毛沢東であった。

変化の起点となったのは、毛沢東による「三年準備、十年計画経済建設」構想の登場で

あった。この構想は 1949年から 52年までを準備期間とし、1953年から大規模な計画的経

済建設をはじめるという構想であり、この構想から第 1次 5カ年計画の策定がはじまった。

これが決定されたのは 1951年 2月の政治局拡大会議においてであり、これを受けて 5年計

画編制領導 6人小組5)が成立し、第 1次 5カ年計画の策定準備作業を開始した(毛、1977:

47–53; 中央文献研究室編、1997: 130)。これと前後して計画的経済建設開始に向けた都市政策

の転換が指示された(中央文献研究室編、1992b: 10)。

国内政策の再検討は 2つの変化を起こした。第 1にイデオロギーの変化、第 2に党内論

争である。この時期中国共産党のイデオロギーは大きく変化していった。朝鮮戦争参戦に

対応した国内での反革命鎮圧強化を通知した 1950年 10月指示は、それまでの反革命鎮圧

が「寛大無辺」という右傾の誤りを犯してきたと批判し、その原因を「腐った自由主義思

想の影響を党員や幹部が受けた」ことに求めた(中央文献研究室編、1992a: 420–421)。また毛

沢東は、党員の「思想麻痺」により反革命鎮圧運動がうまく進んでいないという報告を重

視し、中層(留用人員と知識分子の中にひそむ反革命分子)と内層(党内部の反革命分子)に対

する反革命鎮圧を指示した(中央文献研究室編、1992b: 274–278)。さらに1951年5月以降、「政

治不問の傾向」批判と映画『武訓伝』批判が行われたが、これらもこの資本家階級思想へ

批判強化の文脈から理解することができる。「政治不問」批判とは共産党員が政治問題・

思想問題を重視していないことへの批判であり、そうした現象が起きた原因は「資本家階

級と小資本家階級の凡庸な自由主義の影響を受けた」ことに求められた(曹、1951)。また

毛は映画「武訓伝」を封建反動として批判したが、その中で強調されていたのは「資本家

階級の反動思想が戦闘的な共産党にはいりこんでいる」がゆえに共産党員が「武訓伝」に

対する批判能力を失っているということであった(毛、1977: 67)。このように、政権外部

の敵への警戒から次第に政権内部や党内部の敵への警戒、という方向にイデオロギー的純

血性への要求が強まり、資本家階級への評価は次第に否定的となっていったのである。

一方、中国共産党内では政策方針をめぐって論争が起きた。それが国営企業体制をめぐ

る論争と農業互助合作化をめぐる論争であり、どちらも社会主義化の問題につながる論点

を持っていた。双方ともすでに先行研究の蓄積があり、本稿で詳細に扱う必要はないが、

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ここでは論争の本質がどの点にあったのかということを明らかにしたい。

国営企業体制をめぐる論争で問題となったのは、国営企業内における党、経営(行政)、

労働組合の関係をいかに規定するかという問題であり、これは政権の性質をどのように規

定するかということにつながっていた(小嶋、1996)。鄧子恢や劉少奇は政府の連合政権的

性質を強調し、党、行政、労働組合のそれぞれの性質と役割の違いを主張したのに対し、

高崗らは国営企業の社会主義的性質を強調し、党、行政、労働組合の立場の一致を主張し

た。後者の立場には計画経済化との関係が見出せる。同年 7月に東北局は工場長責任制の

導入を提案しており、その提案の中で工場長責任制導入の条件として李富春が挙げている

のが党、行政、労働組合の一致であった(中央文献研究室編、1992b: 429)。

もう 1つ問題になったのが、土地改革後の農村に対する方針、農業互助合作化の問題で

ある(小林、1997)。これは土地改革後の農村で集団化をすぐに推進するのか、それとも暫

く個人経営を許容して将来集団化するのか、という点をめぐる論争であった。山西省党委

員会や高崗は、互助合作化を推進することで農民の個人経営を抑えていくことを主張し

た。しかし劉少奇にとって新民主主義段階は私有制を基礎とすべきものであり、この段階

で社会主義段階完成において達成されるべき集団化につながりうる政策をとることは、す

でに社会主義への移行が始まっていることを意味した。1951年 7月、劉は山西省党委員会

からの報告を批判し、現段階で農業生産合作社を作るのは時期尚早との認識を示した。

これらの政策論争は、経済建設の方針転換にかかわるものであっただけでなく、同時に

新民主主義段階を維持するのか、社会主義への移行を開始するのか、という問題と大きく

かかわっていた。劉少奇は「新民主主義段階」を続けることを繰り返し強調し、社会主義

化開始と工業建設を急ぐ流れに反対した。劉は、まず経済回復を優先し、次に農業・軽工

業の発展を促し、その後で重工業に着手する、という構想を再び強調し(中央文献研究室編、

1992b: 366–376)、「現在あるひとは社会主義に進むことについて語っているが、私からいえ

ば、これは早く語りすぎであり、すくなくとも 10年以上は早い。…… 10年の後、建設が

うまくいき、我々が状況をみて、そのときになってこの問題を提起することができる」と

述べている(中央文献研究室編、1996: 277)。

以上のように、「三年準備、十年建設」構想の登場は、単に経済政策の転換を示してい

たというだけにとどまらず、新民主主義段階構想そのものを揺るがしたと考えられる。そ

れは第 1にイデオロギーの領域において、新民主主義段階構想の中で重要な地位を占めて

いた資本家階級に対する評価が否定的なものとなっていったこと、第 2に党内論争が発生

し、その中で劉少奇らが再三にわたって新民主主義段階構想維持を訴えなければならな

かったことにあらわれていると言えよう。

2. 重工業・国防工業重視の方針の確立と資本家階級思想批判

1951年秋になると、進みつつあった変化が明確な動きとなってあらわれた。それは重工

業・国防工業重視の方針の決定、党内論争への毛沢東の介入、資本家階級思想批判および

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毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 29

三反五反運動の 3つに代表される。そしてこれら一連の動きが、新民主主義段階構想放棄

への流れを決定付けたといえる。

第 1に工業化構想が転換され、重工業重視路線が確定した。1951月 10月の政治局拡大

会議とそれに続く政治協商会議第 1期第 3回会議は、計画的経済建設の中心を重工業およ

び国防工業の建設とすることを決定した。この政治局拡大会議については詳細が不明であ

るが、この会議で「1953年から大規模経済建設を進め、20年の時間で中国の工業化を完

成させる。……まず重要でありかつ軽工業や農業の発展を促すことができるのは、重工業

と国防工業の建設である」と決議されたとされる(中央文献研究室編、1992b: 475)。これは

明らかに工業化モデルの転換であった。すなわちここにおいて農業と軽工業をまず発展さ

せるという漸進的工業化モデルは否定されたと考えてよいであろう。

第 2に、これと前後して毛沢東は党内論争に介入し、新民主主義段階構想維持を主張す

る劉少奇らの観点を批判した。農業互助合作化問題では、毛は劉少奇らの山西省委報告に

対する観点への不支持を表明し、互助合作化推進を決定した。毛の指示で 9月に開かれた

第1次互助合作会議では、「農業生産の互助合作化についての決議(草案)」が採択され、「重

大な事業としてとりくむように」党内に配布された(中央文献研究室編、1996: 283; 毛、1977:

87–88)。同決議は互助合作化運動に対する消極的な態度を右傾の誤まりとして批判してい

る(中央文献研究室編、1992b: 510–522)。また毛沢東は国営企業における労働組合の位置付け

をめぐる問題においても劉少奇らの観点を批判した。劉らと見解を同じくしていた労働部

長の李立三に対し毛は、労働組合工作には重大な錯誤があり、行政、党支部、労働組合は

三位一体であり、それぞれを顧みて 3方面の工作を分裂させるというやり方は完全に誤り

である」という発言をしたとされる。同年 11月に李立三は中華全国総工会主席・党組書

記の職を解任され、12月の中華全国総工会党組第 1次拡大会議で李富春主導のもと労働組

合工作の誤りが検討され、党、行政、労働組合の団結を訴える決議が採択された(中華全

国総工会弁公庁編、1989: 113, 91–94)。また 12月末には鄧子恢も自己批判の報告を毛に送って

いる(中央文献研究室編、1998c: 737)。毛は党内論争への介入によって新民主主義維持の観

点を封殺し、1951年を通じて起きた転換を確定的なものとしたのである。

第 3に、この時期には資本家階級思想批判が顕著なものとなった。11月の文芸工作者会

議において、文芸工作指導が「思想を無視し、政治を離脱し、……資本家階級と小資本家

階級に譲歩」しているために政治不問の傾向が生まれ、武訓伝批判が十分になされなかっ

た、という批判がなされ、周揚がこの責任を負って自己批判を行った(中央文献研究室編、

1992b: 462)。

三反五反運動6)は、毛沢東主導の工業建設方針の具体化、党内論争決着、イデオロギー

転換といった一連の動きの中であらわれ、次第に重要な転回点となっていった。それを如

実に示しているのが三反運動の展開を指示した中共中央による 12月 1日の決議である。

同決議は重工業・国防工業重視の決定について述べた上で、当面の問題として「資本家階

級の腐化影響が猛烈に我々を侵食してきている」ことを指摘した。さらに同決議は、1953

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年からはじまる大規模国家経済建設の準備工作として幹部への資本家階級思想の侵食によ

り発生した汚職・浪費・官僚主義現象を制裁すること、幹部の政治不問、階級闘争放棄の

右傾錯誤思想に批判を加えることといった点を挙げていた(中央文献研究室編、1992b: 471–

485)。

三反運動が標的とした贈収賄・汚職といった問題自体はもちろん存在したであろう。し

かしながら、この運動を単なる「問題に対する対策」としてのみとらえるのは不十分であ

る。この運動には政治的変化が著しく反映されていた。この運動の論理は 1951年を通じ

て示されてきたイデオロギー転換の延長線上にある。幹部に三害が広がった原因は「資本

家階級思想の党内への侵入」にあるとされ、資本家階級思想との闘争が強調された。よっ

て、「この機に資本家階級が 3年来この問題に関して我々に対して与えてきた狂った侵攻

に対して、断固とした反攻をもって重大な打撃を与える」(中央文献研究室編、1989: 21)と

して資本家階級の五毒に対する五反運動に発展したことはある意味必然ともいえるのであ

る。

また三反運動の中で示された論理は、新民主主義段階構想維持の観点を批判する論理と

つながっている。運動中の 1952年 1月、東北局の高崗は「資本家階級思想の党内への反

映」、「右傾錯誤思想」として三害と農業互助合作化に対する慎重な姿勢(すなわち新民主主

義維持の観点)とを並置して批判した(高、1952: 14–16)。さらに過渡期の総路線提起の際、

毛沢東は「党内の路線問題に反映された資産階級思想」として新民主主義段階構想維持の

観点を批判した(毛、1977: 135–141)。三害と新民主主義段階構想維持の見解は、資本家階

級思想という同一の原因より起きた問題であるととらえられており、この時期に政策方針

においても社会の実態においても、新民主主義段階構想構想の根幹をなす資本家階級との

協力関係維持という前提が大きく揺さぶられていたことがうかがえるのである。なお三反

五反運動以降、劉少奇らはもはや新民主主義段階構想維持の観点を主張しておらず、1954

年の七期四中全会にいたるまで、幾度かに渡って 1951年以前の新民主主義段階構想維持

の観点について自己批判している。

運動が一段落した 1952年 6月 6日、毛沢東は「地主階級と官僚資本家階級を打ち倒した

のち、中国国内の主要な矛盾は、労働者階級と民族資本家階級との矛盾である」ことを建

国後はじめて明らかにした(毛、1977: 97–98)。第Ⅱ節の劉少奇発言に見られるように、労

働者階級と資本家階級との矛盾が主要矛盾であるとするならば、それは社会主義への移行

がすでに始まっているとの解釈も可能であった。

3. 過渡期の総路線の提起

重工業・国防工業重視の計画的経済建設にとって、ソ連からの援助と協力が極めて重要

であった。ソ連との交渉が計画的経済建設開始の 1つの条件となっていたのである。「5年

計画編制輪郭方針について」と題する報告は計画実現の条件としてソ連からの援助を挙

げ、「ソ連からわが国に供給される設備、器材、技術、専門家の多寡と提供速度は、計画

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毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 31

実現の中心環節である」と述べている(中国社会科学院・中央档案館編、2000: 390–395)。また

物質的援助のみならず、ソ連は中国が目指すべき計画的経済建設の唯一のモデルであっ

た。どのように 5カ年計画を編制し実行するかという点に関して中国の指導者は知識も経

験もほとんど持っていなかった。朝鮮戦争への中国の参戦により、中ソの協力関係はより

緊密となり、中国はソ連から多くの軍事援助を得ることができるようになっており、来る

べき経済建設に対しても、多くの援助・協力を期待できるようになっていた(沈、2003:

262–267)。1952年春に計画編制が急がれたのは夏からのソ連との協議のためであった。陳

雲・李富春が中心となって計画案をまとめあげ、同年 7月に「1953年から 1957年の計画

輪郭(草案)」として提出された。同草案は「5年計画の基本任務は国家工業化の基礎を打

ち固めるために、国防を強固にし、人民の物質文化生活を豊かにし、わが国の経済の社会

主義に向かっての前進を保証することである。計画方針は、重点を工業に置き、工業建設

は重工業を主とし、軽工業を補とする。5年計画の分布は、国防と長期建設に有利でなけ

れば」ならないと述べていた(中央文献研究室編、1998a: 1066–1077; 房・金編、2001: 421–423)。

1952年 8月には周恩来を団長とし、陳雲、李富春、粟裕らを含む大規模な中国代表団が

ソ連を訪問した。代表団はスターリンと 3度の会談を行い、朝鮮戦争の情勢、軍事援助に

ついて議論したほか、「3年来の中国国内の主な状況および今後 5年の建設方針に関する報

告提綱」、「中国経済の状況と 5カ年建設の任務」、「中国軍事建設 5カ年計画」の 3文書を

ソ連側に提出し、5カ年計画への援助およびその作成への協力を求めた(中央文献研究室編、

1997: 257; 房・金編、2001: 423–426)。代表団との会談でスターリンはさまざまな問題点を指

摘しつつも、中国の 5カ年計画および軍事建設にソ連が援助することを約束した(CWIHP,

2005: 10–20)。

帰国した周恩来は 1952年 9月 24日の書記処拡大会議で 5カ年計画に対するソ連の評価

および援助交渉の結果を報告した。毛沢東が社会主義化についてはじめて述べたのはこの

ときであるとされている。毛は「我々は今後 10年から 15年の時間をかけて社会主義への

過渡を完成させる。10年あるいはそれ以後過渡を開始するのではない」と述べた(薄、

1997: 220)7)。以後、毛は繰返しこの構想について述べるようになったとされる。毛は三反

五反運動によって従来の方針からの転換を決定的なものとし、さらにソ連からの援助が確

定して建設開始が現実のものとなったことで、社会主義化の問題について語り始めた8)。

ソ連に残留した李富春らはソ連側との間で計画編制および援助問題について協議を継続

し、1953年 5月 15日にはソ連政府の援助に関する政府間協定に署名した。ソ連からの援

助が確定したことにより、大規模な経済建設の開始が可能になった。かつて劉少奇は、搾

取の上に成り立つのが資本主義的工業化であり、搾取によらず全体的発展を可能にするの

が社会主義的工業化であると対比していたが、この新しい工業発展戦略においては、資本

主義的工業化は軽工業からはじまり、社会主義的工業化は重工業からはじまるとされた。

社会主義的工業化は、重工業から発展させることで、より早い工業化を達成することがで

きるとされた。

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そして 5カ年計画開始に合わせるように、1953年 6月 14日から 8月 13日にかけて開か

れた全国財経工作会議において毛沢東は過渡期の総路線を提起した。同会議では新税制問

題、第 1次 5カ年計画などが話し合われたが、その席で毛沢東は「過渡期における党の総

路線と総任務は、10年から 15年またはもう少し長い期間内に、国の工業化と、農業、手

工業、資本主義工商業に対する社会主義的改造を基本的になしとげること」であると述べ、

工業化と社会主義化を今後の政策の総路線とすることを定めた。しかも、過渡期の開始は

1953年からではなく中華人民共和国が成立してから、とされた。このレトリックにより、

新民主主義段階の存在自体が消し去られたのである(毛、1977: 119–122, 133–134)。

Ⅳ 変化の背景

1. 工業化と社会主義化 その特徴の検討

前節で検討した社会主義化開始への過程を整理すれば、3つの特徴を見出すことができ

る。第 1の、そして最も重要な特徴は、工業化問題にうながされるかたちで社会主義への

移行の問題が提起されていったということである。1951年初めの第 1次 5カ年計画策定作

業の開始は、イデオロギーを含む様々な領域における方針転換をうながした。同年秋の重

工業・国防工業を中心とするという工業化戦略に関する決定はイデオロギー領域の転換と

三反五反運動を伴った。また、5カ年計画に対するソ連援助が決定したことを受けて公に

社会主義化の問題が検討されるようになった。そして 1953年という第 1次 5カ年計画開始

の年に社会主義化が開始された。

第 2に、その転換の過程は 1951年初めまで遡ることができる。1951年にはじまった工

業化戦略の転換とイデオロギー領域における転換の過程が、過渡期の総路線の起源となっ

たと言える。社会主義への移行が取り沙汰されたのは 1952年以降であったが、社会主義

化と重工業中心の工業化を目標とする新戦略が提起されたという意味で、その起源は 1951

年に遡ることができる9)。

第 3の特徴は、毛沢東がこの転換を完全に主導したことである。この転換は毛沢東によ

る戦略転換であった。それに対する抵抗がなかったわけではない。劉少奇をはじめとして

新民主主義段階の重要性を強調する指導者は存在していた。しかし、結局彼らも毛主導の

イデオロギー領域での転換と社会主義化に向けた社会的動員の強化という流れに抗するこ

とはできず、毛の戦略転換に追従し、沈黙していったのである。

工業化問題と社会主義への移行の問題の関連は単なる時期の偶然の一致として考えるべ

きではない。両者は緊密な関係にあり、工業化戦略の変更にともなって社会主義化への戦

略も変更したと考えることができ、よって社会主義への移行の問題は、経済発展戦略を含

む大きな戦略全体の転換の一部としてみることが可能なのである。

それでは工業化戦略と社会主義化の問題にはいかなる関連があったのであろうか。もと

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毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 33

もと想定されていた漸進的発展戦略は、市場を通じて経済全体を活性化させ、国民の生活

レベルを向上させつつ徐々に全体を発展させていく、というものだった。一方これに対し

て重工業中心の工業化戦略は、市場の存在を不要なものとし、そのために資本家階級の存

在は障害でしかなくなり、農村では個人経営よりも集団経営の方が望ましいとされた。工

業化の要となるのは国家の経済計画であり、計画化実行の条件は「重要な資源・企業を国

有化すること」であり、「新中国工業化の道は、私営経済ではなくて国営経済が決定する」

べきものであった(季、1952: 6–10; 曽、1953: 12–16)。

しかしそれ以上に重要なのは、生産関係の改変が生産力を増大させるという毛沢東の思

考であろう。すなわち、社会主義化を急ぐことが工業化の進展につながるとの発想があっ

たのである。この点は農業の社会主義化推進において繰返し表明された「個人所有制は集

団所有制に移行し、社会主義に移行しなければならない」、「こうしてこそ、生産力が高め

られ、国の工業化がなしとげられる」という論理に明確に表れている(毛、1977: 186–187)。

以上のことから、毛沢東が工業化建設を急ぐ必要性を認識したことが、社会主義化を急ぐ

決断につながったと言えよう。毛にとって重工業建設をすすめることは朝鮮戦争と同じく

人民の長期的利益のための「大きな仁政」であり、農民などに配慮した漸進主義は人民の

当面の利益のための「小さな仁政」でしかなかった(毛、1977: 161–163)。

それではこの工業化を急ぐ必要性はいかなる原因によって生まれたのだろうか。ここで

は従来の代表的な 2つの説について検討する。まずソ連の影響という説についてであるが、

こうした社会主義工業化の発想は、リー(Li, 2006)が示したように、まさにスターリン的

な強国化戦略であり、ここにソ連モデルの影響を見出すことができよう。しかしこれはソ

連が直接的に社会主義化を開始するように中国に圧力をかけたということではない。同じ

くリーが指摘したように、ソ連は中国の朝鮮戦争参戦以降、中国の国内問題に対して意見

を表明する頻度を減らしており、よって社会主義化開始の決定そのものはむしろ中国側に

よってなされたと考えられる。次に国内状況の変化を重視する説についてであるが、本稿

第Ⅲ節において示されたように、国内状況の変化はすでに始まっていた転換への動きの中

で起きたのであって、国内の状況変化を指導者が認識して社会主義への移行を開始したの

ではない。無論それが不可欠な条件であったと思われるものの、あくまで条件であって変

化の要因とみなすことはできない。また何よりも従来の説では重工業建設を急ぐ必要性を

説明できない。よってソ連からの援助や国内の安定などは、社会主義への移行開始のため

には欠かすことが出来なかったとはいえ、移行開始を早めた主要な動機とみなすことはで

きない。むしろ、1951年から 1953年までに展開されたのは、社会主義への移行を開始す

るための条件を整えていく過程、いわば「転換のための政治」であったと見ることができ

るかもしれない。それでは工業化を急ぐ必要性は何によって生じたのであろうか。

2. 対米認識と過渡期の総路線

本稿が特に注目したいのは対米認識である。過渡期の総路線において定式化された重工

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業中心の工業化と社会主義化という新戦略は、対外的脅威を強烈に意識していた。ソ連の

社会主義工業化を紹介した論文の中で強調されていたのは、ソ連の社会主義工業化は資本

主義諸国による包囲の中で行われたということであった。すなわち資本主義諸国による包

囲の中で独立を保つためには発達した工業を基礎とした強大な国防力が必要となる、とい

うのである。さらにそこから導き出される教訓として、中国の経済建設は「重工業発展に

力量を集中し、国家の工業化と国防近代化の基礎をうちたてる」べきであると論じられた

(陳、1953: 15–20)。

では当時の中国にとっての対外脅威とはより具体的には何であろうか。端的にいえばそ

れは米国の脅威であった。前述のように、内戦末期から中国共産党は米国を敵であると認

識していたが、一方で朝鮮戦争勃発直前までは米国は直接介入してこないであろうと認識

していた。さらに米国の直接介入を受けずに内戦を終結できるであろうという認識は、新

民主主義段階を長期に渡って実行するための基盤となっていたと思われる。

朝鮮戦争の勃発は中国共産党にとって重要な意味を持つものであった。朝鮮戦争に米国

が即座に介入したことによって、米国が東アジアにおいても戦争を遂行する能力を持って

いることは証明された。これは中国側の想定を完全に覆すものであった。さらに台湾海峡

への米第 7艦隊派遣により台湾攻略が不可能となった。これによってそれまで恐れていな

がらも回避できる可能性があると考えられていた、「米国の内戦介入」というシナリオが

現実のものとなったのである。また台湾解放作戦が不可能になったことによって事実上中

国の国防線は台湾海峡に引かれることとなった。このことは台湾を解放できていた場合と

比べて安全保障上大きく異なる意味を持ったであろう。

最も重要な点は、中国はこうした一連の動きを一貫した米国の戦略の一部とみなしてい

たことである。朝鮮半島での戦争、台湾への介入といった米国の一連の行動を、中国に対

する封じ込め戦略である、と中国指導部は考えたのである(Chen, 1994: 92–121; 朱、2005: 93–

96)。米第 7艦隊派遣に対する周恩来声明は、米国の朝鮮戦争の目的は「台湾、朝鮮、ベト

ナムとフィリピンを侵略する口実を作ること」(中華人民共和国外交部・中央文献研究室編、

2000: 18–19)としていた。同様の認識は中国義勇軍参戦後も繰り返し表明された。たとえ

ば同年 11月の人民日報社論は「米国の台湾武装占領の不法行為は、明らかに臨時の孤立

行動ではなく、米国がさらに中国大陸侵略をすすめ、……極東で侵略戦争を拡大する 1つ

の組成部分」であり、米国は「計画的に我が中華人民共和国に対する軍事包囲を作り、中

華人民共和国を侵犯」しようとしていると論じた(『人民日報』1950年 11月 30日)。さらに

朝鮮戦争は米国の日本政策を転換させ、対日単独講和と日本再武装の方向に向かわせた。

この動きも中国指導部から見れば、米国による包囲強化の一環と映ったであろう。

朝鮮戦争は、米国による包囲とそれに対抗する中国、という図式で東アジアにおける冷

戦を固定化したといえる。無論それ以前から米ソ冷戦は始まっており、その影響は東アジ

アにも及んでいた。しかしそれが米中の厳しい対立、とくに米国による包囲というかたち

をとったのは、朝鮮戦争をそのきっかけとしていたのである。しかもそれは一時的なもの

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毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 35

ではなく、長期化する様相を見せていた。そしてこのことが持つ中国にとっての含意は極

めて大きなものであった。1951年 6月の『人民日報』社論が、米国による台湾占領、朝鮮

での戦争、日本の再武装など「これら一切が我々の偉大な祖国の安全を厳重に脅かしてい

る。我々は倍の努力で迅速に国防力量を強化し」なければならない(『人民日報』、1951年 6

月 25日)と述べたように、米国の包囲は中国にとって巨大な脅威であり、それに対処する

ことが必要となった。

第 1次 5カ年計画にはこうした新たな情勢に対する反応としての側面が見出せる。繰返

し述べてきたように、この計画的経済建設は重工業と国防工業を中心としており、それは

新民主主義的な工業化戦略からの転換であった。新たな工業化戦略では重工業と国防工業

を常に強調されてきたが、それだけでなく第 1次 5カ年計画はもともと国防建設計画と対

になっていた。前節で明らかにしたように、経済建設の策定作業が開始されたのは 1951

年 2月の政治局拡大会議であるが、このときに作られた 5年計画編制領導 6人小組には聶

栄臻が含まれており、聶と粟裕が軍事建設計画策定にあたった。実質的計画策定がすすん

だのは経済建設計画と同様に 1952年前半であり、「軍事建設 5カ年計画」という文書が作

成された(中央文献研究室編、1989: 497)。同年 8月の中国の訪ソ代表団には粟裕らが含まれ

ており、代表団は経済建設計画の草案とともにこの軍事建設計画もソ連側に提出してお

り、スターリンとこの問題について協議をしているのである。この軍事建設計画について

内容を詳細に知ることはできないが、重工業建設は国防工業建設の基礎であるとも言え、

両者は密接に関わっていたと思われる。

米国の脅威は朝鮮戦争が終結してもおさまるものではなかった。戦争長期化の見通しは

1951年 2月の政治局拡大会議の時点で示されており(中央文献研究室編、1997: 131)、戦争が

継続しても建設を開始するという「辺打、辺穏、辺建」(戦いながら安定を維持し、建設する)

の方針は遅くとも 1952年 5月には正式に決定されていた(中央文献研究室編、1997: 238; 曹、

2000)。また 1952年末の長期計画編成に関する指示は、「わが国の大規模建設は抗美援朝の

環境下で進めるもので、このため必ず中央の『辺打辺穏辺建』の方針にそって国家建設に

従事しなければ」ならないことを指摘しており、よって朝鮮戦争の終結そのものが経済建

設の開始に必要な条件だったとはいえない(中国人民解放軍国防大学党史党建政工教研室編、

1986a: 602–604)。

むしろ毛沢東が持っていた認識は、朝鮮戦争の結果米国はしばらくの間中国を直接侵略

することはできず、その間に次の戦争の脅威に備えて建設を急がねばならない、というも

のであり、この期間はやがて来る次の侵略までの準備期間に過ぎない、というものであっ

たと考えられる。例えば 1952年 8月の周恩来・スターリン会談の際、周は毛沢東の見解

として朝鮮戦争により米国の戦争準備は狂わされており、「中国はこの戦争で前衛の役割

を果たすことで、新たな戦争を 10年から 20年先延ばしするのを助けている」との認識を

伝えた(CWIHP, 12)。そして次の戦争の脅威までの「10年の時間をかちとって、工業を建

設し、強固な基礎を築かなければならない」と認識していた(毛、1977: 102)。また周も

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36 アジア研究 Vol. 54, No. 1, January 2008

1953年 9月に社会主義化について述べた際、朝鮮戦争は米国の新たな戦争発動の時間表を

遅らせたが、「我々は油断してはならず、準備をしていなければ帝国主義に間隙をつかれ

る。我々は必ず重工業建設の基礎の上に国防工業を建設せねばならない」(中国人民解放軍

国防大学党史党建政工研室、1986b: 145–150)と述べており、指導者たちの認識は朝鮮戦争そ

のものよりも、それが作り出した新たな情勢に向けられていたことが窺えるのである。

以上のことから、重工業と国防工業中心の経済建設と社会主義への移行開始前倒しとい

う新戦略は、長期に渡って続くであろう米国の中国包囲網に対する対抗戦略として形成さ

れていったと考えられる。すなわち端的に言えば、過渡期の総路線は朝鮮戦争によって現

実のものとなった米国の長期的脅威に対抗するための、さらに言えばそれを利用した毛沢

東の強国化戦略としてとらえることが可能であると考えられるのである。

Ⅴ 結  論

本稿は中国において新民主主義段階構想が放棄され社会主義化が開始される過程を、工

業化戦略の問題とのかかわりから考察し、さらにそれを促した原因として対米認識が重要

であったことを明らかにした。本稿の内容をもう一度整理すれば以下のようになる。

第 1に新民主主義段階構想の放棄と社会主義化の開始は、工業化戦略の転換と密接な関

係にあった。新民主主義段階構想が放棄されていく過程は、工業化戦略が転換されていく

過程と軌を一にしていた。これは主に社会主義化を進めることが工業化を促進するとの毛

沢東の生産関係重視の思考によるものであった。換言すれば、工業化を急がねばならない

との認識が社会主義化を促進したと言える。その意味で過渡期の総路線の提起は、発展戦

略と関わる国家戦略の重大な転換であった。

第 2にこの戦略転換には、米国による封じ込めの脅威の具現化という事態に対する対応

という側面があったと考えられる。建国前後の時期すでに中国の最大の脅威は米国であっ

たが、朝鮮戦争と米中直接対決は、中国の指導者をして米国からの封じ込めの脅威が切迫

したものであることを確信させた。これはより急速な工業化達成の方向に国内戦略の転換

を迫るものであった。こうして重工業重視の工業化戦略とともに、社会主義化の前倒しが

決定されたのである。その意味でこの転換は東アジアで本格化した冷戦に対する対応で

あったとも言いうるであろう。さらに言えば、対外情勢認識が当時、社会主義化への戦略

転換の大きな要因になっていたとすれば、その後行われた社会主義建設の急進化を考察す

る際にも、対外情勢認識がどのような影響を与えたのか、という点が興味深い問題として

浮かび上がってくるのである。

第 3に、新民主主義段階構想の放棄と社会主義化の開始は、毛沢東の主導による、1951

年からはじまる過程の結果であった。この時期に起きた大衆運動や党内論争はこの過程の

一部として見ることができる。逆に言えば社会主義への移行を早める動機づけは 1951年

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毛沢東による戦略転換としての新民主主義段階構想の放棄 37

初めの時点ですでにあったとしても、まだ移行を開始する条件は整っていなかった。よっ

て 1951年から 1953年の間に見られたのは、その条件を整えていく過程、いわば転換のた

めの政治であった。毛沢東は大衆運動によって社会への党の権力浸透を強化するととも

に、党内の新民主主義段階構想維持を主張する指導者たちを批判することで社会主義への

移行の障害を取り除いていった。さらに経済復興が軌道に乗り、ソ連との交渉がまとまっ

たことで過渡期の総路線の開始が可能となった。それではなぜ毛沢東はさまざまな障害や

抵抗を取り除くことができたのだろうか。その理由の 1つには党内における毛の圧倒的な

影響力が考えられるが、それ以外に米国との戦争という状況が挙げられるかもしれない。

本稿において論じられてきたように、毛はイデオロギー転換と大衆運動を起こす過程で次

第に新民主主義段階構想維持派の主張を封殺していったが、このイデオロギー転換と大衆

運動は戦時中という状況が可能にしたと考えられる。すなわち、毛沢東は戦時中という状

況を利用してこの転換を実現していったように思われるのである。その意味で、この新民

主主義段階構想放棄という転換は、米国による封じ込めの脅威という状況に対する対応で

あったのと同時に、その状況を利用して新戦略への転換を実現させたものであったと言え

るかもしれない。後者の点に関してはより詳細な検討を要するため、今後の課題としたい。

(注)1) 奥村(1999)、朱(1994)、毛里(1994)は指導者層にも注目しており、それぞれ優れた洞察を含むものの、資料的限界もあり、詳細な検討に到っていない。

2) 朱(2004)は例外であるが、工業化問題と社会主義化の関連性の指摘にとどまっている。3) 毛沢東は資本家に対する「制限」の側面を強調する傾向があり、劉少奇などとは微妙な違いを見せていたとされる(張、2000)。しかしこの時期にそのような違いが対立として表面化することはなかった。

4) Chenは中央档案館資料を使用している。また確認しうる範囲でも、台湾作戦計画における米国介入の可能性は低く評価されていたように思われる(粟裕文選編輯組編、2004: 40–43, 44–51)。

5) 周恩来、陳雲、李富春、薄一波、聶栄臻、宋劭文の 6名である。6) 三反運動とは幹部の三害(汚職・浪費・官僚主義)に対する闘争、五反運動とは私営企業家の五毒(贈賄・脱税・国家資産の窃盗・材料のごまかし・経済情報の窃盗)に対する闘争をさす。

7) この毛沢東発言はこの時点で公式決定ではなかった。しかし羅瑞卿は誤ってこれをかなりの広範囲に伝達し問題となった(中央文献研究室編、1989: 609)。このことからも毛沢東の発言に関する薄一波の回想の信憑性は高いといえよう。

8) 毛沢東はソ連共産党 19回大会に劉少奇を派遣し、極めて曖昧ながらも社会主義への移行の開始についてスターリンに報告させた(中央文献研究室・中央档案館編、2005b: 533–535)。

9) 一般に 1949年から 1952年は「国民経済復興期」という時期区分がなされており、本稿との関連においてこの時期区分に対する筆者の認識を述べておく必要があろう。第 1に、1949年から 1952年を 1つの区切りとしてとらえることに異論はない。実際に第 1次 5カ年計画と社会主義化が開始される 1953年を次の時期の始まりとするのは極めて説得的であると考える。第 2に、しかし本稿が示したように新民主主義段階放棄への過程はすでにこの時期のうちに始まっており、この時期を固定的な方針に基づいて政策がとられた一様なものとしてとらえるとすれば、それは誤りである。

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