建築コスト 遊学[13]life costing)には建設プロジェクトの幅広い経済...

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54 建築コスト研究 No.73 2011.4 建築のライフサイクル・コスト(LCC)には長 期の時間的概念が入るため単純でないことは明ら かだろう。これには広範な問題領域が含まれると ともに、関係者の努力にもかかわらず、算定すべ きコストの範囲の定義や計測方法などに混乱がみ られるという。前者の「広範な問題領域」とは、 建物の寿命、ストック、効用・性能評価、省エネ ルギー、地球環境等を指しており、単なるイニ シャルコストの算定に比べるとそれぞれが複雑に 絡み合う難しい問題である。そこで全体を単なる コスト算出や維持管理ではないライフサイクル・ マネジメント(LCM)という概念で括って考え る場合もある。また、後者の「混乱」についての 指摘は、若干古いが当研究所と関係の深い古川 修、遠藤和義両博士によるもの がある。 日本ではこの分野の直接的な研究は1970年代後 半からだが、1990年代半ばに3ヵ年(1995. 4~ 1998. 3)にわたり総合的に取り組まれた日本建 築学会の特別研究委員会(委員長:白山和久・筑 波大学名誉教授)が広範な知見を取りまとめてい る。また、例えば「ライフサイクル×建築」で学 術論文の検索をすると600件を超える論文が抽出 される。それらをみると、とくに地球環境問題が 注目されるようになった近年は論文数が激増して いることを確認できる。 *  *  * このことは海外でも似た事情があると考えら れる。ところで、建築のイニシャルコストが氷山 の一角だという英国人のR.フラナガン博士らが 描いた絵は建築系の学生にはなじみ深く、後述の 国土交通省監修の本にも引用されているほどであ る。英国はあらゆる科学技術分野で世界標準の設 定に主体的に関わることに相当熱心であり、その 例にもれず、ISOにはLife Cycle Costingがある 英国規格協会(BSi)の関係資料には「英国建設 業はLCCが大切で重要なものと見なしているが、 経済または環境面でのコスト評価の実現において どの方法が最も優れているのかについては混乱が ある」と書かれている。 このISO文書には公式の定義があり、一見同じ 意味と思われるような単語Life cycle cost(LCC) , Life cycle costing, Whole life costing(WLC)は 区別されている。図1(次ページ)をみるとLCC とWLCの差が理解できるが、LCCはWLCの一部 という関係にある。そして定義をよく読むと、末 尾の単語が単なるcostの場合はコストそのもの に関心が高いのに対して、costingのようにingが つけば、決められた範囲(agreed scope)での 体系的な経済性評価の方法論(methodology for the systematic economic evaluation) と い う よ うに意味が広がる。またさらに、単なるlife cycle ではなく頭にwholeがつくと、コストのほか利得 (benefit)の評価も加わる。すると、WLC(Whole Life Costing)には建設プロジェクトの幅広い経済 評価として、ベスト・バリュー(best value)や、 欧州の公共入札での落札基準のキー概念である EMAT(経済的に最も有利な入札:economically most advantageous tender)、さらには、環境や持 1 古川 修「LCC 計算は役に立つか?」Re, No.114, 1998.7, pp.14-16、 また、遠藤和義「ライフサイクル・コストの構成要素の定義に 関する考察」日本建築学会大会(関東)学術講演梗概集(8125) , 1997.9, pp.1159-1160. 2  正 確 に は「BS ISO 15686-5 Buildings and constructed assets - service life planning, Part 5:life cycle costing」という名称の規格。 ISO/TC 59, Building construction - Subcommittee SC 14, Design life. において 2006 ~ 2008 年に順次制定された 11 パートの一つ。

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Page 1: 建築コスト 遊学[13]Life Costing)には建設プロジェクトの幅広い経済 評価として、ベスト・バリュー(best value)や、 欧州の公共入札での落札基準のキー概念である

54  建築コスト研究 No.73 2011.4

建築のライフサイクル・コスト(LCC)には長期の時間的概念が入るため単純でないことは明らかだろう。これには広範な問題領域が含まれるとともに、関係者の努力にもかかわらず、算定すべきコストの範囲の定義や計測方法などに混乱がみられるという。前者の「広範な問題領域」とは、建物の寿命、ストック、効用・性能評価、省エネルギー、地球環境等を指しており、単なるイニシャルコストの算定に比べるとそれぞれが複雑に絡み合う難しい問題である。そこで全体を単なるコスト算出や維持管理ではないライフサイクル・マネジメント(LCM)という概念で括って考える場合もある。また、後者の「混乱」についての指摘は、若干古いが当研究所と関係の深い古川修、遠藤和義両博士によるもの1がある。

日本ではこの分野の直接的な研究は1970年代後半からだが、1990年代半ばに3ヵ年(1995. 4~1998. 3)にわたり総合的に取り組まれた日本建築学会の特別研究委員会(委員長:白山和久・筑波大学名誉教授)が広範な知見を取りまとめている。また、例えば「ライフサイクル×建築」で学術論文の検索をすると600件を超える論文が抽出される。それらをみると、とくに地球環境問題が注目されるようになった近年は論文数が激増していることを確認できる。

*  *  *このことは海外でも似た事情があると考えら

れる。ところで、建築のイニシャルコストが氷山の一角だという英国人のR.フラナガン博士らが

描いた絵は建築系の学生にはなじみ深く、後述の国土交通省監修の本にも引用されているほどである。英国はあらゆる科学技術分野で世界標準の設定に主体的に関わることに相当熱心であり、その例にもれず、ISOにはLife Cycle Costingがある2。英国規格協会(BSi)の関係資料には「英国建設業はLCCが大切で重要なものと見なしているが、経済または環境面でのコスト評価の実現においてどの方法が最も優れているのかについては混乱がある」と書かれている。

このISO文書には公式の定義があり、一見同じ意味と思われるような単語Life cycle cost(LCC), Life cycle costing, Whole life costing(WLC)は区別されている。図1(次ページ)をみるとLCCとWLCの差が理解できるが、LCCはWLCの一部という関係にある。そして定義をよく読むと、末尾の単語が単なるcostの場合はコストそのものに関心が高いのに対して、costingのようにingがつけば、決められた範囲(agreed scope)での体系的な経済性評価の方法論(methodology for the systematic economic evaluation)というように意味が広がる。またさらに、単なるlife cycleではなく頭にwholeがつくと、コストのほか利得

(benefit)の評価も加わる。すると、WLC(Whole Life Costing)には建設プロジェクトの幅広い経済評価として、ベスト・バリュー(best value)や、欧州の公共入札での落札基準のキー概念であるEMAT(経済的に最も有利な入札:economically most advantageous tender)、さらには、環境や持

1 古川 修「LCC 計算は役に立つか?」Re, No.114, 1998.7, pp.14-16、また、遠藤和義「ライフサイクル・コストの構成要素の定義に関する考察」日本建築学会大会(関東)学術講演梗概集(8125), 1997.9, pp.1159-1160.

2  正 確 に は「BS ISO 15686-5 Buildings and constructed assets - service life planning, Part 5:life cycle costing」という名称の規格。ISO/TC 59, Building construction - Subcommittee SC 14, Design life. において 2006 ~ 2008 年に順次制定された 11 パートの一つ。

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続可能性評価(environmental or sustainability assessment)にもなじむ概念に拡張される。

つまり、このISO規格では、単なる建設プロジェクトのLCC計算を拡張することによって、さまざまな経済評価に応用できるなど、果実の多い使い方が可能になると想定されているのである。

*  *  *図2にLCCに関する代表的な日英の著作を示

した。日本のものは国土交通省監修本の第二版で

LCCを本格的に取り上げた書籍はこの他にはそれほど多くはない。一方、英国の書籍は図1が含まれるISOの付属文書(supplement)という位置づけのものである。ただこれ以外にもLCCやWLCを扱う専門書は新刊カタログに載るだけでも数多く存在する。

このISOの付属文書はSMLCCと略称3されるもので、90ページほどの薄い冊子だが、ライフサイクル・コストの細かな取りきめと解説をしている。これはイニシャル・コスト算定のための歴史ある建築積算数量基準SMM 4やプロジェクト初期のコスト概算のための書式SFCA 5とその基を一にするものである。すなわち、LCC算出やWLCの検討のために専門家がこの本に従って実務をこなすためのものといえる。このようなルールブックの存在によって専門家(主にRICSメンバーのQS)が作るデータは標準化され、信頼できるものに近づく。なお、この本の表紙にあるBCISとはRICS傘下の情報提供会社である。RICSメンバーのQSから年間数件の提供情報をとりまとめ、ギブ・アンド・テイクで全情報をオンラインで渡す仕組みを構築している。イニシャル・コストの情報は長い蓄積を持つ一方、LCCについても同様な取り組みがある。メンバー QS以外の外部会員にはオンラインや書籍の形で有償による情報提供を行っている6。

*  *  *

5 SFCA は Standard Form of Cost Analysis の略で、RICS 傘下の情報提供会社 BCIS が新築工事のコスト概算データを蓄積するための内訳書分類書式。エレメンタル・コスト・プランニングが流行した 1969 年以後の蓄積がある。現在は 2008 年の第3版が最新。

[図1 WLC、LCC等の関係(概念図)]

[図2 建築のLCCに関する日英の代表的刊行物]

(注) BS ISO 15686-5 figure 4を引用

(注)日本の本は素人向けの啓蒙書という色彩が強いが、英国の方は専門家のための実務書(手引き書)といった内容である。

4 SMM は Standard Method of Measurement の略で、精積算のための建築数量積算基準。現在は 1998 年に改訂された第7版

(SMM7)が最新。なお、初版は 1922 年。ただし、これと後述のSFCA 等を包摂する形で 2009 年5月以後は NRM(New Rules of Measurement)に移行中である。詳細は本誌次回号特集で取り上げる予定。

3 Standard Method of Life Cycle Costing for Construction Procurement

6 その仕組みや内容についても本誌次回号特集で取り上げる予定。

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ところで、図2の英国文献を読んで気がつくのは、イニシャル・コストに概算と精算の区別があるように、LCCについても意思決定の場面に応じた精度やレベルがあることだ。この点も日本語の文献ではあまり目にしない。

英国ではRIBA(英国建築家協会)が定めるプロジェクト進捗段階(RIBA Plan of Work)があり、A. Appraisal, B. Design Brief, C. Concept Design/ Scheme Design, D. Design Development, ・・・, K. Construction to Practical Completion, L. Operation & Maintain, M. Replacement、最終的に廃棄(End of Life)に至る13区分になっている。そしてほぼこれに対応するように9つのLCCのプロセス・ステージが設定されている7。このプロセス別にLCC計算の意味と精度を変えるのである。

たとえば、プロジェクトのごく初期においては、ステージ1として「LCC予算の設定」が行われるが、これは床面積当たりの数値やイニシャル・コストの総額に対する比率として計算されるレベルのものである。ステージ2「エレメントのLCC計画」では部分別のLCCの計算をキーになる部分のベンチマーク値やコストモデリングや概算手法等をいろいろと駆使して計算する。それ以後のステージ3やステージ4では、サブエレメントやコンポーネントのLCC計算を取り扱う。これらの計算結果は着工まではLCC予算、ターゲットLCC計画等となり、完成後のプロジェクトではLCC分析、建物運営計画等がLCCに関するマネジメントの対象となる。

*  *  *不確かな未来を捉えて経済性を判断する場合

に現在価値化して代替案と比較するのが分かりやすく、通常のLCC検討ではこのような比較を原則とする。その際、事業開始からi年目に発生する価値viを一定率rで割り引くことで現在価値

(NPV)を計算する。このrを割引率(discount

rate)という。すなわち、

で、n年目のVnは1/(1+r)n倍に割り引いて計算する。

当然だが、割引率rの大きさが評価結果を左右する。たとえば、図3に示す単純な支出系列による比較考察で、A案はB案に比べてイニシャル・コストは安いが毎年のメンテナンスにより多くのコスト(一定額で不変と仮定)がかかるというケースで示してみよう。このようなA、B両案のどちらを選択すべきかは、建築計画上よく突き当たる問題といえよう。(ⅰ)は割引率を一切考慮しない場合で累積コストは20年目くらいで逆転することになる。20年以上その施設を持つ場合にはイニシャルが高いB案を選択する方が得になるということだが、実際には割引率を仮定するから(ⅱ)のように逆転する年は20年よりも大きくなる。ところが、割引率の値をある程度大きく仮定すると

(iii)のようにいつまでも逆転せず、A案の選択が得だという逆の結果になる。このように割引率rの大きさの設定はLCC評価の結果を左右する重要な事項であることが理解されるであろう。

*  *  *この割引率について日本では内閣府の「VFM

に関するガイドライン」(平成13年7月(平成20年7月改定))に曖昧な記述があるのみ8ではっきりした数値は示されていない。一方、英国では財務省の「THE GREEN BOOK : Appraisal and Evaluation in Central Government」に3.5%とい

7 SMLCC, p.23のFigure 4.1はこれらの関係を一枚の図にしている。

8 「割引率については、リスクフリーレートを用いることが適当である。例えば、長期国債利回りの過去の平均や長期的見通し等を用いる方法がある。」(p.11)としているのみ。また、内閣府の「PFI導入の手引き」には「はっきりと数値は決まっていません」「類似施設の事例、同じ事業期間の事例、同じ地方公共団体内における先行事例、最近の傾向等から、各地方公共団体は、アドバイザーと相談して決めていることが多いようです。割引率の数値は、国債の利回りの過去の平均や物価上昇率等を考慮して決めていきます。」という記述がある。http://www8.cao.go.jp/pfi/tebiki/kiso/kiso13_01.html

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う数値がある。さらにこれにはLong Term Discount Rate(長期の割引率)がついていて、300年先までは徐々に低減する設定になっている(下)。300年というのはまったく現実的だとは思えないが、さすが歴史ある建物を使い続ける国だという気がする。

このように割引率を公的機関が明示することは基本的に米国も同じであり、大統領府予算局(OMB)が毎年度の割引率を示す。「2011 Discount Rates for OMB Circular No. A-94」

(2010年12月改訂版)という文書9には下記のような記述があり、30年間では2.3%という数値が示されている(下)。

この数値は毎年示されることと、その数値が近年の経済デフレ傾向を反映するためか、非常に小さいと感じられることである。一方の英国は3.5%とやや高いが、それでもこれは2004年頃まで使っていた6%から引き下げられた数値のようだ。

このような設定数値の公表は、ある意味でLCC評価手続きの透明性と客観性を生み出すものといえるだろう。良否の判断は別として、プロジェクトの経済性評価計算に使う「割引率」に関して、日本は公定数値が皆無、英国は存在するが毎年変動しない、米国は公表数値が毎年変動するという違いがある。

*  *  *以上の記述では、単なるLCCではないWLCと

いう概念の説明とその経済計算をめぐり、主に日英の違いに焦点を当てたつもりである。しかし筆者の狭い経験とごく少数の内外文献によるものだけに、間違いや誤解が含まれるかもしれない。また、LCC計算の根拠となるデータベースの違いに関する記述ほか、いくつか大切な問題点を落としていると思う。ご意見とご批判を期待している。

(主席研究員 岩松 準)

9 OMB Circular No. A-94 は連邦政府関係の費用便益分析のためのガイドラインであり、1992 年 10 月に定められたもの。

[図3 割引率の大きさによるライフサイクル・コストの評価結果の違い]

1.日本建築学会「時間・建築・環境:ライフサイクルマネジメント基本問題特別研究委員会報告書」1998.10

2.OGC, Whole-life costing and cost management, Achieving Excellence in Construction Procurement Guide 07, 2007

3.Watts, Watts Pocket Handbook 2011, 27th edition, 2011.4.I. Ellingham and W. Fawcett, New Generation Whole-life

Costing: Property and construction decision-making under uncertainty, Taylor & Francis, 2006

〈主要参考文献〉