看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き...

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新体系 看護学全書 3 看護の統合と実践 国際看護学

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Page 1: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

新体系 看護学全書

3看護の統合と実践国際看護学

Page 2: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

◎編 集

田 村 や よ ひ  国立看護大学校長

◎執 筆(執筆順)

田 村 や よ ひ  国立看護大学校長

樋 口 ま ち 子  国立看護大学校教授

李     節 子  長崎県立大学大学院教授

當 山   紀 子  沖縄県立看護大学講師

遠 藤   弘 良  東京女子医科大学医学部国際環境・熱帯医学講座教授

上 杉   妙 子  専修大学兼任講師

望 月   経 子  �国際協力機構カンボジア保健人材育成システム強化プロジェクト看護教

育・看護行政専門家

束 田   吉 子  公益財団法人国際看護交流協会シニアプログラムオフィサー

山 﨑   達 枝  特定非営利活動法人災害看護支援機構副理事長

八 田 早 惠 子  特定非営利活動法人HANDSプロジェクトオフィサー

小 川   正 子  �聖マリア学院大学看護学部准教授,国際協力機構プライマリヘルスケア

体制強化プロジェクトチーフアドバイザー

堀 井   聡 子  国立保健医療科学院国際協力研究部主任研究官

小 山 内 泰 代  国立国際医療研究センター国際医療協力局派遣協力課

宇 野 い づ み  国際協力機構アフガニスタン事務所付広域健康管理員

野 中   千 春  国立国際医療研究センター病院看護部看護師長

工 藤   恵 子  帝京平成大学ヒューマンケア学部看護学科教授

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ま え が き

 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年 1 月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に先立って厚生労働省で開催された「看護基礎教育の充実に関する検討会」の報告書によれば,看護師教育に新設された統合分野の「看護の統合と実践」に関する説明のなかで,「国際社会において,広い視野に基づき,看護師として諸外国との協力を考えることができること」というこれからの看護師に期待される力が表現されている。このたった 1 行余りの文章から,本書が誕生したのである。 第 1 版が出版された2008年では,まだ書名を「国際看護」とするか「国際看護学」にするかを悩み,学的体系を意識的に目指そうと考えて「国際看護学」とした経緯がある。 4 年後の現在,「国際看護学」という表現は看護教育界で定着してきたであろうか。 また,第 1 版の企画段階では,国際看護学の学習では何を学生が学んでほしいかを,ずいぶんと検討した。外国に出向いて看護活動に従事することだけでなく,日本に在住する200万人を超える外国人に対する看護も意識しなければならない。その際には,人々の健康と生活に深く根ざした多様な文化の理解が,看護師にとっては極めて重要であることを学習してほしい。国際協力という言葉で表される活動や機関の態様はさまざまであり,これらにも幅広く眼を向けてほしい。学生たちには,今日の日本は発展途上国に対して援助する側であるが,約60年前は援助される側であったこと,そして戦争放棄を憲法で掲げているからこそ,諸外国からの厚い信頼のもとで協力活動が展開できることを理解してほしい。さらに,国際看護学の学習を通じて,人間の健康に与える政治,経済,文化などの社会的環境に対する理解を深め,関心を広げてほしい。さまざまな考えが頭の中を行き来した。 このような考え,思いを基盤にして,著者らが経験し蓄えてきた国際看護,国際協力,外国人への看護などの知識を全 8 章に体系化することにした。著者らにとって,これらを看護学生に伝えるテキストとして作るということは,極めて挑戦的な課題であった。第 1 版は企画から出版までが 6 か月という極めて短期間であったため,記述は必ずしも十分ではないかもしれないし,多少難しいところもあるだろうと心配もしたが,この 4 年間,多くの学生たちに使っていただいた。このことは上述の考え,思いの実現に向けた試みが成功していることの証しであると編集者として喜んでいる。第 2 版では記述のポイントを示すとともに多色刷りにして,これまで以上に学生たちが理解しやすいテキストになるよう工夫をした。第 2 版についても学生や先生方から,忌憚のない意見,評価をいただければ幸甚である。 周知のように,2008(平成20)年 8 月から 2 国間の経済連携協定によって,インドネシアの看護師たちが来日した。その翌年にはフィリピン人看護師も来日し,すでに両国の看護師の中には,わが国の看護師免許を取得し,日本人看護師とともに

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看護に従事している人も増えつつある。まもなく,ベトナムからも看護師が来日することが決定されている。 看護,介護の現場では,彼らとともにケアを提供する状況が,わが国のあちらこちらで展開されることになろう。経済のグローバル化の進展は,政治も文化も,そして医療,看護・介護のグローバル化をも急速に推し進めている。日本に住んでいる私たちの日常的な世界は,このグローバル化によって急速に,しかも大きく変わりつつある。日本の,そして世界の看護の将来を担う学生たちには,これらのことも視野におき,身近に国際看護学を感じつつ学習を進めてほしいと願っている。 最後に,第 2 版の出版にあたってはメヂカルフレンド社編集部の強力なサポートがあったことを記して,感謝の意を表したい。

2012年11月田 村 やよひ

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序章 今なぜ,国際看護学を学ぶのか� 田村やよひ 1

第2章 国際看護活動の支援を必要とする対象� 35

第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題� 樋口まち子 9

Ⅰ�国際看護活動が扱う範囲�� �樋口まち子 A 国際協力と看護の普遍性 B 国際化と海外における看護活動 C 在日外国人の増加と国内の看護活動

Ⅱ�海外における看護活動�� �樋口まち子 A 看護活動とは B 看護活動を海外で行う意義 C 第2次世界大戦以降の国際看護活動 D 海外における看護活動の枠組み 1 「箱もの,機器や器具の援助」から

「技術,技能,人材育成」へ 2 「施設(病院,福祉施設)中心」から

「地域保健医療レベル」へ 3 「国レベルの援助」から 「市町村レ

ベルの援助」へ 4 「トップダウン・縦割り型」から

「パートナー型」へ 5 「技術移転完結型」から 「政策への

反映」へ

Ⅲ�在日外国人への看護活動�� �李 節子 A「国際看護」と「在日外国人」 B 日本の「ヒューマン・グローバリゼー

ション」 C 在日外国人の人口動態,生活の推移と

健康課題 1 在日外国人とは 2 在日外国人の歴史 3 在日外国人の生活基盤の推移

Ⅰ�第2次世界大戦後の国際社会�� A 日本が海外から受けた援助 B 国際開発援助の変遷 1 1960~1970年代 2 1980~1990年代 3 21世紀の世界情勢

Ⅱ�共存に向けた国際協力�� A ミレニアム開発目標 B 人間の安全保障

C プライマリ・ヘルスケアとヘルスプロモーション

1 プライマリ・ヘルスケアの理念と活動

2 看護職とプライマリ・ヘルスケア 3 看護職の役割の再確認 4 ヘルスプロモーションの理念と看護

活動 5 看護職に必要とされる視点

Ⅰ�国際的な視野をもつことの意味�� A 看護・医療の質の向上は人類の普遍的な

課題 B 地球上の2つの異なる世界 C 世界人権宣言と看護の課題

Ⅱ��国際看護学の概念,目的は何か��

Ⅲ��国際看護学が今なぜ必要とされているのか��

A 国家・地域間の健康格差 B 人間の国際間移動の活発化 C 人類にとっての新たな脅威

Ⅳ 国際社会における日本の役割と看護��

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目 次

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iv 目  次

4 在日外国人の年齢構成 5 急増する在日外国人女性と母子保健

へのニーズ 6 在日外国人の健康指標—死亡動向に

ついて 7 在日外国人の健康課題とハイリスク

グループ D 多文化共生時代における保健医療の

あり方 E 在日外国人の保健医療問題の解決に

向けて

1 柔軟な保健医療制度,サポート体制の見直し

2 異文化コミュニケーション能力の養成

3 専門的医療通訳制度の確立 4 多機関とのサポートネットワークの

構築 F 在日外国人への看護 1 看護の基本姿勢 2 出身国の文化の尊重 3 人権保護

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第3章 国際看護活動を推進する人と機関� 65

第4章 国際看護活動の展開プロセス� 樋口まち子 99

Ⅰ�保�健医療分野における国際機関��� �當山紀子

A 国際機関とは B WHOの成り立ちと活動 1 設立の目的と加盟国 2 組織と予算 3 主要事業活動 4 WHO総会 5 看護と助産の強化における取り組み

Ⅱ�国としての国際協力活動�� �遠藤弘良 A 日本の国際協力活動の全体像 1 政府開発援助(ODA) 2 ODAの政策的枠組み 3 ODAの形態 4 ODAの担い手 5 ODAの実績 B 日本政府の保健医療分野での国際協力

活動

1 政策的枠組み 2 2 国間援助 3 国際機関を通じた援助(多国間援助)

4 今後のあり方

Ⅲ��国際看護活動を推進する人々��� 樋口まち子

A 海外青年協力隊 B 国際協力機構(JICA)の専門家

Ⅳ��国内外のNGOによる国際協力活動��� �當山紀子

A NGOとは B NGOの活動 C NGOの資金源 D 政府とNGOの関係 1 NGOの能力強化への外務省などの協

Ⅰ�地域を把握する方法�� A 地域アセスメント B 参与観察とインタビュー

Ⅱ�大規模プロジェクトにおける手法�� A プロジェクト・サイクル・マネジメント

(PCM)手法の概要 1 PCM手法の特徴

2 PCM手法の歴史 B PCM手法の分類 1 参加型計画手法 2 評価型手法

Ⅲ��プライマリ・ヘルスケア実施のための�調査方法��

1 迅速地域評価

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v目  次

2 迅速評価法 3 参加型農村評価

4 参加型学習 5 Wify(ウィフィ)

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第5章 異文化理解と国際看護活動� 117

第6章 国際看護活動の実際� 159

Ⅰ��文化的存在としての人間の理解��� �上杉妙子

A 文化とは何か 1 文化を考える契機としての「味の素

事件」 2 文化と人間 3 記号・象徴 B 人と人とのつながりと文化 1 親子関係 2 婚姻 3 家族 C 人と超自然的存在とのつながりと文化 1 宗教とは何か 2 宗教の働き 3 宗教と社会的差別,対立 D 文化の動態 1 文化の客体化 2 人の移動と文化の動態 3 グローバル化と文化の動態 4 人の移動と社会の統合 5 人の移動と日本社会の多文化化

Ⅱ�文化を考慮した看護�� �樋口まち子 A 国際看護活動と文化 B 看護師と文化

C 看護の文化的側面 1 西洋型看護学と看護活動 2 看護職とジェンダー D 異文化理解と自文化理解 E 文化を超えた看護 1 文化的ケア 2 異なる文化背景の支援対象を理解す

るためのモデル F 看護と人類学的視点 1 国際看護活動と伝統的保健行動 2 看護学と人類学の融合

Ⅲ�国際看護活動に必要な能力 � �樋口まち子 A コミュニケーション能力 1 コミュニケーションとは 2 異文化コミュニケーション 3 言語の能力 B 異文化適応能力 1 異文化適応のメカニズム 2 異文化に適応するための素養 C マネジメント能力 D 専門的知識と技術 E 教育・指導能力 F 研究・記述する能力

Ⅰ�国際看護活動の3側面�� �樋口まち子 A 海外および国内における国際看護活動 1 海外における人材育成活動 2 日本における途上国の人材育成活動

3 海外の大規模災害と看護活動 B 文化を踏まえた看護活動の実際

Ⅱ�国際協力活動の実際�� A 海外における人材育成プロジェクト:

ラオス 望月経子

1 ラオス人民民主共和国について

2 ラオスの保健水準 3 医療施設と医療関係職員 4 ラオスにおける看護技術協力の意義

5 プロジェクト活動の実際 6 専門家の役割 7 活動の成果と今後の課題 B 国内で行う途上国の人材育成活動

束田吉子

1 「看護,助産,地域保健研修コース」の種類と参加国

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vi 目  次

2 出身国の看護の理解 3 保健センターにおける看護師,保健

師の業務 4 看護活動についてのアドバイス 5 研修で使用される言語 6 災害看護を学ぶ必要性の拡大 7 研修成果のフォローアップ 8 参加国の宗教への理解 9 まとめ C 海外での大規模災害への看護援助の例

山㟢達枝

1 災害の定義 2 海外での看護活動における留意点

Ⅲ�海外における看護活動の実際�� A アジア地域:インドネシア 八田早恵子

1 インドネシアの文化的・地理的特性

2 インドネシアの保健医療,看護システムの特性

3 インドネシアでの看護活動の内容 B アジア地域:スリランカ 樋口まち子

1 スリランカの文化的・地理的特性 2 保健医療システム 3 援助活動の実際 C 中米:カリブ地域 小川正子

1 カリブ地域の文化的・地理的特性 2 カリブ地域の保健医療および看護の

現状 3 「カリブ地域/看護基礎教育・継続教

育強化プロジェクト」 D アフリカ地域:ニジェール 堀井聡子

1 異文化との接触からの学び 2 異文化看護に求められること E アフリカ地域:マダガスカル

小山内泰代

1 マダガスカルの文化的・地理的特性

2 ミレニアム開発目標とマダガスカルの目標

3 マダガスカルの母子保健の現状 4 スキルをもった保健人材の育成と

マダカスカルのスタッフたち 5 プロジェクトが目指した「根拠に基

づいたサービス」 F 太平洋諸島地域:ソロモン諸島

宇野いづみ

1 ソロモン諸島の文化的・地理的特性

2 保健医療・看護システムの特色 3 保健医療活動の具体的な状況

Ⅳ�在日外国人に対する看護活動�� A 病院での看護活動 野中千春

1 自文化の認識 2 コミュニケーション 3 宗教への配慮 4 苦痛の表現 B 地域での看護活動 工藤恵子

1 地域保健における看護職の役割 2 個別の対象者への支援 3 対象者が外国人であることによる

課題 4 地域看護における課題

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終章 国際看護学の発展に向けて� 田村やよひ 217

付 録� 221

Ⅰ�国際看護学への期待�� Ⅱ�国際看護学の方向と課題��

国名・地域名正式名称一覧(国際組織加盟国)��

索  引��

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序 章今なぜ,国際看護学を

学ぶのか

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2 序章 今なぜ,国際看護学を学ぶのか

A 看護・医療の質の向上は人類の普遍的な課題

日本の歴史をひもとけばだれもが理解できるように,遣隋使や遣唐使などを初め

として,島国の日本は古来より,文明の発達した大陸から多くの知識,技術,宗教,

文物などを取り入れて発展してきた。看護史のなかでも,奈良時代に唐から招かれ

て唐招提寺を建立した鑑がん

真じん

が僧医としても活躍したことなどはよく知られている。

また,日本の近代看護の夜明けともいえる明治時代には,英国や米国の看護指導者

が招かれ,看護の教育にあたった。第2次世界大戦後は,わが国の国家システムの

全般的な再建にあたって,連合国最高司令官総司令部(GHQ)の強力な指示・指

導のもとに看護・医療システムの改革が行われた。保健師助産師看護師法,看護教

育制度,看護職能団体など,今日の看護システムの基本的骨格はこのとき形成され

たといってよい。

このような歴史的事実をとおして,私たちは,日本の医療や看護が今日の水準に

到達するまでに,海外との多くの交流があり,支援があったことを認識できる。生

存という人間の基本的欲求を満たし,さらには生活の質を高めるために,看護およ

び医療の知識・技術,システムは常に向上を目指しているが,普遍のニーズに対す

る人間の活動は,政治的・地理的・文化的境界を越えて拡大していくものである。

看護の知識・技術が必要とされる国や地域には,すでにそれらをもつところから伝

え広められていく。これは,人間のもつ基本的な志向性というべきであろう。

B 地球上の2つの異なる世界

私たちは日本に生まれ,日本で暮らしている。毎日,当たり前のように3度の食

事をし,様々な種類の安全な水を摂取している。水洗トイレを使い,シャワーや浴

槽を使って身体を清潔にしている。日本の子どもの98%は高校教育を受け,50%は

大学教育も受けている。身体が不調であれば,健康保険を使って容易に医療機関を

受診することが可能である。健康に問題がない場合にも,定期健康診断を受け,健

康状態をチェックすることができる。このように日本人は,生活環境,教育,医療・

看護などのあらゆる生活面で発展した国としてそれなりに豊かさの恩恵を受けてい

る。2010年の平均寿命は,男性79.55歳,女性は86.30歳であり,世界的にもトップ

レベルであり続けている。

一方,この地球上には,上に述べたような生活・医療環境とはまったく異なる暮

らしを余儀なくされ,短い一生で終わる人たちがいる。アフリカのいくつかの国で

は,その平均寿命が日本人の半分にも満たない。それらの国には,劣悪な生活環境

により安全な水を得ることができず,感染症に苦しみ,予防接種も必要な医療も受

けることができない多くの人々がいる。また,十分な教育を受けられないため,科

学的知識がなく,習慣や伝統に支配されて暮らしている人も多い。戦争・内戦など

で,日々,生命の安全を脅かされている人たちもいる。彼らの生活状況は不安定で

あり,健康的という言葉からは対極の世界にある。

このような2つのまったく異なる世界の存在を,私たちはただ見過ごしていてよ

いものだろうか。

20世紀前半の不幸な 2 度の世界大戦の経験から,平和な国際社会を構築するため,

1948年の国連総会において,「世界人権宣言」が採択された。前述の 2 つの異なる

世界を認識したうえでこれを読むと,次の条文に引き寄せられる。

第 1 条[自由平等] すべての人間は,生まれながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第 2 条[権利と自由の享有に関する無差別待遇] 1  すべて人は,人種,皮膚の色,性,言語,宗教,政治上その他の意見,国民的若

しくは社会的出身,財産,門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく,この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

2 (略)第 3 条[生命,自由,身体の安全] すべて人は,生命,自由及び身体の安全

に対する権利を有する。

平均寿命で 2 倍もの差が存在する日本とアフリカの国々,今なお戦争,内戦など

を繰り返す政治状況のもと,命を危険にさらされて暮らすイラクやアフガニスタン

の人たちの現実を,私たちはどのように受け止めればよいのだろうか。このような

過酷な状況におかれている人々に対して,日本人である私たちはどのように考え,

どのように行動することが求められているのか,そのために必要な準備は何だろう

か。かつての日本が,多くの豊かな先進工業国から知識・技術はもとより物資・金

銭の支援を受けて復興した歴史を踏まえ,先進工業国となったわが国の使命は何で

あるかを真剣に考える必要があるだろう。

一人の人間として,また人間の生命と尊厳を重視する看護学生の一人として,日

本の中だけでなく海外にも目を向け,看護を必要とする人々の存在をしっかりと認

Ⅰ 国際的な視野をもつことの意味

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3Ⅰ 国際的な視野をもつことの意味

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

一方,この地球上には,上に述べたような生活・医療環境とはまったく異なる暮

らしを余儀なくされ,短い一生で終わる人たちがいる。アフリカのいくつかの国で

は,その平均寿命が日本人の半分にも満たない。それらの国には,劣悪な生活環境

により安全な水を得ることができず,感染症に苦しみ,予防接種も必要な医療も受

けることができない多くの人々がいる。また,十分な教育を受けられないため,科

学的知識がなく,習慣や伝統に支配されて暮らしている人も多い。戦争・内戦など

で,日々,生命の安全を脅かされている人たちもいる。彼らの生活状況は不安定で

あり,健康的という言葉からは対極の世界にある。

このような2つのまったく異なる世界の存在を,私たちはただ見過ごしていてよ

いものだろうか。

C 世界人権宣言と看護の課題

20世紀前半の不幸な 2 度の世界大戦の経験から,平和な国際社会を構築するため,

1948年の国連総会において,「世界人権宣言」が採択された。前述の 2 つの異なる

世界を認識したうえでこれを読むと,次の条文に引き寄せられる。

第 1 条[自由平等] すべての人間は,生まれながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第 2 条[権利と自由の享有に関する無差別待遇] 1  すべて人は,人種,皮膚の色,性,言語,宗教,政治上その他の意見,国民的若

しくは社会的出身,財産,門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく,この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

2 (略)第 3 条[生命,自由,身体の安全] すべて人は,生命,自由及び身体の安全

に対する権利を有する。

平均寿命で 2 倍もの差が存在する日本とアフリカの国々,今なお戦争,内戦など

を繰り返す政治状況のもと,命を危険にさらされて暮らすイラクやアフガニスタン

の人たちの現実を,私たちはどのように受け止めればよいのだろうか。このような

過酷な状況におかれている人々に対して,日本人である私たちはどのように考え,

どのように行動することが求められているのか,そのために必要な準備は何だろう

か。かつての日本が,多くの豊かな先進工業国から知識・技術はもとより物資・金

銭の支援を受けて復興した歴史を踏まえ,先進工業国となったわが国の使命は何で

あるかを真剣に考える必要があるだろう。

一人の人間として,また人間の生命と尊厳を重視する看護学生の一人として,日

本の中だけでなく海外にも目を向け,看護を必要とする人々の存在をしっかりと認

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4 序章 今なぜ,国際看護学を学ぶのか

識すること,そして将来,専門職として看護を実践するようになったときに向け,

今何を学ぶべきかを明確にすることが求められているのではないだろうか。

さて,本書のタイトルである「国際看護学」もしくは「国際看護」とは何であろ

うか。

看護学事典,看護学辞典の類を探しても,国際看護に類する用語は「国際看護師

協会」「国際看護交流協会」の見出しはあるものの,「国際看護・学」は収載されて

いない。また,いくつかの文献にあたってみたが,必ずしも明確に国際看護学や国

際看護に関する概念を述べているものばかりではない。こうした現状は,国際看護

学自体が学問体系としてまだ確立途上にあること,また国際看護活動についても,

客観的で一般的な説明を行ってきた歴史が浅いことを表している。

以下に,いくつかの成書から,国際看護学および国際看護の概念や目的などを説

明した部分を,出版された順に列挙する。これらをとおして,国際看護学の定義づ

けや鍵概念を把握することができよう。

「国際看護とは自分のものとは異なる国(独立国として認定されていない地域も含む)でその国の社会,政治,経済,教育,文化,保健医療システム,疾病構造など看護に影響を与えるあらゆるものを考慮して適用する看護のこと」

「国際看護学が看護分野における国際協力活動を支える理論である」(国際看護研究会編:国際看護学入門,医学書院,1999,p.1.)

「国際看護はグローバリゼーションの過程によって看護の普遍性の原理を広めながらも特殊性の原理を認め,各国家の看護,つまりローカルな看護を向上させ,ひいては世界の看護を豊かにすることを前提としている」「国際看護にとって大切なことは,看護に関係の深い社会,経済,政治,教育,文化的な側面にも働きかけてよい看護を実践することである」「異文化看護と国際看護の違いは,前者はミクロなレベルの看護であるが,後者はマクロな視点が必要である。(中略)マクロな国際看護では,国家政策の歴史的・文化的背景などを理解しなければ看護の効果を得ることはむずかしいだろう。(中略)国際看護は異文化看護を基盤にするが,効果を上げるためには政治や経済機構の改革が絶対的な必要条件となる」(久間圭子:序説 国際看護学,日本看護協会出版会,2001,p.14-18.)

「国際看護学は,疫学・公衆衛生学を基盤とした国際保健学と文化人類学に端を発する異文化看護学の 2 つの学問の流れを統合した学問領域である」「国際看護学は,世界的健康課題や複数の国が共同で取り組まなければ解決しない

保健指標やサービスの格差の問題を取り扱う」「国際看護学は,個々の民族やグループが持つ世界観,健康観,保健行動などの違いを探求し,それぞれの文化に適した看護を提供すること,すなわち看護者の文化的実践能力の向上を目指す」(川野雅資監,柳澤理子編:国際看護学,日本放射線技師会出版会,2007,p.15.)

以上のように,国際看護学の概念やそれを構成する鍵概念は多岐にわたっている

ため,一言で表すことが難しい。本書では,国際看護学を次のように定義づけて,

学習を進めることにしたい。

「国際看護学とは,対象となる国・地域・民族の歴史,文化,政治,経済,社会システムなどを総合的に理解したうえで,人々の健康と看護の質の向上を目指す看護学の一領域であり,看護の国際協力および外国人に対する保健医療・看護活動を推進するための知識の体系である」

健康格差の代表的な指標は,平均寿命である。世界保健機関(World Health

Organization;WHO)が発表した「世界保健報告(The World Health Report)

2006」によれば,平均寿命が40歳以下の国はジンバブエ,スワジランド,シエラレ

オネ,アンゴラ,ボツワナ,ザンビアの 6 か国である。いずれもアフリカ,特にサ

ブ・サハラとよばれるサハラ砂漠以南の国である。

2004年の世界保健総会で,当時のWHOの李イ

鐘ジョン

郁ウク

事務局長は,次のようなインパ

クトのある数字を用いて世界の健康問題を報告した1)。

・28億人が 1 日 2 ドル以下の貧しい暮らしをしている。

・ 4 億8000万人が紛争地域で命を脅かされながら暮らしている。

・12億人は安全な水を得ることができない。

・4000万人の男女,子どもたちがHIV/エイズに感染している。

・毎年50万人以上の女性が妊娠・出産により死亡している。

・13億人は喫煙によって病気や死の危険にさらされている。

・毎年120万人が交通事故で亡くなっている。

ここであげられた数字は,国連ミレニアム開発目標によって改善への取り組みが

進んでいる現在では多少変化しているだろうが,開発途上国と経済的に発展した

国々との健康格差は簡単には解消しないだろう。

Ⅱ 国際看護学の概念,目的は何か

Page 13: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

5Ⅲ 国際看護学が今なぜ必要とされているのか

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

保健指標やサービスの格差の問題を取り扱う」「国際看護学は,個々の民族やグループが持つ世界観,健康観,保健行動などの違いを探求し,それぞれの文化に適した看護を提供すること,すなわち看護者の文化的実践能力の向上を目指す」(川野雅資監,柳澤理子編:国際看護学,日本放射線技師会出版会,2007,p.15.)

以上のように,国際看護学の概念やそれを構成する鍵概念は多岐にわたっている

ため,一言で表すことが難しい。本書では,国際看護学を次のように定義づけて,

学習を進めることにしたい。

「国際看護学とは,対象となる国・地域・民族の歴史,文化,政治,経済,社会システムなどを総合的に理解したうえで,人々の健康と看護の質の向上を目指す看護学の一領域であり,看護の国際協力および外国人に対する保健医療・看護活動を推進するための知識の体系である」

A 国家・地域間の健康格差健康格差の代表的な指標は,平均寿命である。世界保健機関(World Health

Organization;WHO)が発表した「世界保健報告(The World Health Report)

2006」によれば,平均寿命が40歳以下の国はジンバブエ,スワジランド,シエラレ

オネ,アンゴラ,ボツワナ,ザンビアの 6 か国である。いずれもアフリカ,特にサ

ブ・サハラとよばれるサハラ砂漠以南の国である。

2004年の世界保健総会で,当時のWHOの李イ

鐘ジョン

郁ウク

事務局長は,次のようなインパ

クトのある数字を用いて世界の健康問題を報告した1)。

・28億人が 1 日 2 ドル以下の貧しい暮らしをしている。

・ 4 億8000万人が紛争地域で命を脅かされながら暮らしている。

・12億人は安全な水を得ることができない。

・4000万人の男女,子どもたちがHIV/エイズに感染している。

・毎年50万人以上の女性が妊娠・出産により死亡している。

・13億人は喫煙によって病気や死の危険にさらされている。

・毎年120万人が交通事故で亡くなっている。

ここであげられた数字は,国連ミレニアム開発目標によって改善への取り組みが

進んでいる現在では多少変化しているだろうが,開発途上国と経済的に発展した

国々との健康格差は簡単には解消しないだろう。

Ⅲ 国際看護学が今なぜ必要とされているのか

Page 14: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

6 序章 今なぜ,国際看護学を学ぶのか

また,難民問題も健康格差には大きく影響している。難民や国内避難民の生まれ

る背景には,戦争,内戦,迫害などがあり,アフガニスタン,イラク,ソマリア,

コンゴ民主共和国,ミャンマーなどの国に多い。

国連難民高等弁務官事務所(Office of the United Nations High Commissioner

for Refugees;UNHCR),国連パレスチナ難民救済事業機関(the United Nations

Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East;UNRWA)が

把握している世界の難民・国内避難民は,2010年末で4380万人とされている。

大規模な自然災害も世界の人々の生命と暮らしを直撃してきた。2004年のスマト

ラ沖大地震・インド洋大津波では200万人以上の人々が被災した。2008年の四川大

地震では,中国政府の発表によれば4550万人が被災したといわれている。

●医療職の不足 また冒頭の「世界保健報告2006」では,WHO加盟の192か国中,ア

フリカの36か国を含む57か国では医師,看護師,助産師の不足が深刻な状態である

としている。アフリカではサハラ以南の中部・南部地域,そしてインド,インドネ

シア,バングラデシュ,ミャンマーなどの南西アジア地域での不足が特に深刻であ

るとしている。医師,看護師,助産師だけでも世界全体で236万人が不足しており,

すべてのヘルスワーカーでみると,430万人が不足していると推計されている。

2008年 7 月に行われた「G8北海道洞爺湖サミット」の首脳宣言では,アフリカ

諸国に対する支援の具体的な指標として,医師,看護師,助産師がWHOの基準値

である人口1000人当たり2.3人まで増加させるよう取り組むことを明確にした。

このように国際的な保健医療協力の必要性はきわめて高く,国際看護学の分野と

しても看護・助産の人材育成や看護管理・看護政策面での支援が重要となっている。

B 人間の国際間移動の活発化

経済のグローバル化,国際間の移動手段の発達に伴い,人間の活動は国境を越え

て拡大している。また,高度情報化によって,私たちは瞬時に海外との情報交換が

できるようになり,海外は身近な環境の一つになっている。このため,かつて海外

渡航者といえば,外交官や留学生,特定企業の幹部などの限られた人々を想像した

ものだが,現在はだれもが気軽に出かけられるようになった。また,観光や仕事で

来日する外国人の数も増加し,出身国も多様になっている。

外務省のデータによれば,2005年以降,毎年1700万人前後の日本人が海外渡航し,

外国人入国者数は1000万人に近い。外国人登録者数は法務省が把握しているが,そ

の数は,2011年末現在207万人に達している。このなかには在日韓国・朝鮮人で戦

前から日本に暮らす特別永住者が約39万人含まれる。出身国別では中国,韓国,ブ

ラジル,フィリピン,ペルーの順に多い。外国に永住もしくは長期滞在する日本人

も100万人を超えている。このように自国民と外国人とが入り混じって暮らす状態

は,日本だけでなく世界のどの国においても起こっている現象である。

出身国以外の国・地域で暮らすことは刺激的であり,学ぶことも多いが,自然環

境が異なることによって曝されるウイルスや細菌等の病原体も異なり,思わぬ疾病

に罹患することがある。また,健康問題が起こった場合には,言語面はもとより,

健康観が異なることによっても様々な問題が生じることがある。異なる保健医療シ

ステムのなかでの受診行動は,適切な時期を逸することもありうる。海外に出かけ

る日本人に対しては,その国での生活・健康面で配慮すべきことや,医療・看護の

システムを伝え適切に助言すること,そして日本に滞在している外国人に対しては,

適切な看護支援を行うことが求められる。これらは国際看護学において必要とされ

る重要な要素である。

●看護師の国際間移動 看護師の国際間移動も増加している。すでに世界全体では,

アフリカからヨーロッパへ,フィリピンから米国,英国,サウジアラビアなどへと,

看護師の就労目的での移動が起こっている。日本では近年, 2 国間の経済連携協定

に基づき,インドネシア,フィリピンおよびベトナムから看護師を受け入れること

が決定しており,すでにインドネシアとフィリピンから来日した看護師は病院など

のケアの現場で就労している。私たちは,異なる宗教,文化,習慣をもつ外国人の

看護師を同僚として迎え,一緒に看護を提供することが日常化していくのである。

●インフルエンザの世界的流行 人類の生存に対する新たな脅威として,現在最も緊

急性が高いのは,鳥インフルエンザウイルスの変異による新型インフルエンザの世

界的大流行である。人間の移動が激しく,かつ短時間で他国に行くことができるの

で,新型インフルエンザは瞬く間に世界に広がると予測されている。2003年に流行

が起こったSARS(急性呼吸器症候群)のときと同様,世界の医療関係者が緊密な

連携をとる必要がある。特に,患者の最も近くにいる看護師の役割は大きく,国際

的な視野をもって看護にあたらなければならない。

●地球温暖化の影響 さらに今日,地球温暖化が環境問題のなかでも重要な国際的課

題となっている。看護にとって環境は重要な要素であるが,看護師はこの地球全体

の課題にも目を向ける必要がある。2007年のバングラデシュのサイクロンでは890

万人が被災し,2008年のミャンマーのサイクロンでは240万人が被災,13万人以上

が死亡・行方不明であると報道されている。これらのサイクロンの巨大化も,温暖

化の影響を否定できないといわれている。

環境省の「地球温暖化影響・適応研究委員会報告書」(2008)には,食糧,水,

自然生態系,防災・沿岸大都市,健康など 8 項目にわたってその研究成果が述べら

れている。そのなかで,温暖化は水不足を引き起こすと同時に,暴風雨や洪水など

による被害を増加させること,デング熱を媒介する蚊か

が日本にも広範に生息するこ

と,マラリアも再流行する可能性があること,熱ストレスによる死亡リスクの上昇,

Page 15: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

7Ⅲ 国際看護学が今なぜ必要とされているのか

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

出身国以外の国・地域で暮らすことは刺激的であり,学ぶことも多いが,自然環

境が異なることによって曝されるウイルスや細菌等の病原体も異なり,思わぬ疾病

に罹患することがある。また,健康問題が起こった場合には,言語面はもとより,

健康観が異なることによっても様々な問題が生じることがある。異なる保健医療シ

ステムのなかでの受診行動は,適切な時期を逸することもありうる。海外に出かけ

る日本人に対しては,その国での生活・健康面で配慮すべきことや,医療・看護の

システムを伝え適切に助言すること,そして日本に滞在している外国人に対しては,

適切な看護支援を行うことが求められる。これらは国際看護学において必要とされ

る重要な要素である。

●看護師の国際間移動 看護師の国際間移動も増加している。すでに世界全体では,

アフリカからヨーロッパへ,フィリピンから米国,英国,サウジアラビアなどへと,

看護師の就労目的での移動が起こっている。日本では近年, 2 国間の経済連携協定

に基づき,インドネシア,フィリピンおよびベトナムから看護師を受け入れること

が決定しており,すでにインドネシアとフィリピンから来日した看護師は病院など

のケアの現場で就労している。私たちは,異なる宗教,文化,習慣をもつ外国人の

看護師を同僚として迎え,一緒に看護を提供することが日常化していくのである。

C 人類にとっての新たな脅威

●インフルエンザの世界的流行 人類の生存に対する新たな脅威として,現在最も緊

急性が高いのは,鳥インフルエンザウイルスの変異による新型インフルエンザの世

界的大流行である。人間の移動が激しく,かつ短時間で他国に行くことができるの

で,新型インフルエンザは瞬く間に世界に広がると予測されている。2003年に流行

が起こったSARS(急性呼吸器症候群)のときと同様,世界の医療関係者が緊密な

連携をとる必要がある。特に,患者の最も近くにいる看護師の役割は大きく,国際

的な視野をもって看護にあたらなければならない。

●地球温暖化の影響 さらに今日,地球温暖化が環境問題のなかでも重要な国際的課

題となっている。看護にとって環境は重要な要素であるが,看護師はこの地球全体

の課題にも目を向ける必要がある。2007年のバングラデシュのサイクロンでは890

万人が被災し,2008年のミャンマーのサイクロンでは240万人が被災,13万人以上

が死亡・行方不明であると報道されている。これらのサイクロンの巨大化も,温暖

化の影響を否定できないといわれている。

環境省の「地球温暖化影響・適応研究委員会報告書」(2008)には,食糧,水,

自然生態系,防災・沿岸大都市,健康など 8 項目にわたってその研究成果が述べら

れている。そのなかで,温暖化は水不足を引き起こすと同時に,暴風雨や洪水など

による被害を増加させること,デング熱を媒介する蚊か

が日本にも広範に生息するこ

と,マラリアも再流行する可能性があること,熱ストレスによる死亡リスクの上昇,

Page 16: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

8 序章 今なぜ,国際看護学を学ぶのか

熱中症患者の増加など,様々な健康への影響が予測されている。

この報告書から私たちが読み取るべきことは,国際的な災害支援の体制を整え,

熱帯医学に関する知識をもち,熱帯・亜熱帯の人々の暮らし方を学ぶ必要があるこ

とである。ここにも国際協力の必要性が示唆されている。

21世紀の国際社会のなかで日本はどのような位置を占めているのであろうか。日

本の特徴を考えてみると,まず,少子高齢化が顕著に進み,人口に占める高齢者の

割合は世界のトップレベルである。乳児死亡率の低さなどの健康指標も世界のトッ

プレベルである。また,国民皆保険制度を有し,医療への国民のアクセスが容易で

あることに対して,世界的に評価が高い。世界銀行によれば2010年の日本の国民総

所得(GNI)は米国,中国に次いで世界 3 位であり,一人当たりの名目国民総所得

は 4 万3950ドルであり,世界16位である。15位までの国をみると,モナコ,リヒテ

ンシュタイン,ノルウェイが第 3 位までであり,以下15位までの国をみると,オー

ストラリア,クウェート,マカオ以外は欧米諸国で占められている。このような状

況を鑑みれば,日本は先進工業国として途上国に対して支援を行うことが求められ

るのは当然のことである。日本に限らず世界の先進工業国は,途上国への支援を積

極的に行っている。

●国際協力活動における日本の強み この支援のあり方について考えてみると,日本

だからこそできる支援,その視点というものがあると思われる。日本は東洋のなか

の一国,多神教,農耕民族の国である。特に,南西アジアの国々への援助において

は,西欧で開発された看護システムや知識・技術などを移転する際にも,私たちが

東洋人として咀そ

嚼しゃく

した内容を伝えることが可能である。このように東西文化の橋渡

しを行うことができるのは,日本の国際協力活動の強みといえる。

もう一つ忘れてはならない重要なことは,日本が平和憲法をもっている国だとい

うことである。日本国憲法第 9 条の戦争放棄の条文だけでなく,前文を思い出して

みよう。この前文のなかで,私たちは恒久の平和を念願し,全世界の国民が等しく

恐怖と欠乏から免れ,平和のうちに生存する権利をもっていることを確認している。

そのため私たちは国際看護学を学び,平和の使者として国際協力活動に携わり,日

本に滞在する外国人と友好的な関係を築き,必要な支援を提供するなど,様々な活

動・機会をとおして全世界の人々の健康と生活の質の向上に貢献することが求めら

れているのである。

Ⅳ 国際社会における日本の役割と看護

文献1 ) WHO:Adress by the Director-General Fifty-seventh World Health Assembly〈http://www.who.int/dg/lee/speeches/2004/wha57/en/print.html〉

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第1章

国際社会の現状と国際看護活動の課題

● 第2次世界大戦後の日本と国際社会の動きを理解する。

● 戦後の国際開発援助の変遷から今後の課題を理解する。

● ミレニアム開発目標の意義と現状を理解する。

● 「人間の安全保障」の指標と取り組みを理解する。

● プライマリ・ヘルスケアとヘルスプロモーションの理念と活動を理解する。

● 国際協力活動における看護職の役割を理解する。

この章では

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10 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

A 日本が海外から受けた援助20世紀に世界規模の大きな 2 つの戦争を経験した世界各国は,平和的共存に向け

て努力することを誓い合い,戦後復興の支援を開始した。

日本は第 2 次世界大戦で多くのものを失ったが,同時に負の体験を教訓として国

際社会における復権を手に入れた。日本は1945年 8 月10日,ポツダム宣言を受理し

て連合国に無条件降伏し,戦後復興へ向けて一歩を踏み出した。しかし,都市部を

中心に戦災による被害が激しく,生活全般に及ぶ物資の不足ははなはだしかった。

一方,第 2 次世界大戦終結時に国土が戦禍に見舞われなかった米国は,世界で最も

支援能力のある国であった。日本は,1945年 9 月から1952年 4 月までの 6 年 9 か月

間は連合国の占領下にあったが,その間に多くの援助を受けた。

米国が支援に用いた,ガリオア基金(占領地域救済政府基金,Govern ment

Appropriate for Relief in Occupied Area Fund)とエロア基金(占領地域経済復興

基金,Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund)はいずれも軍事予算から

支出され,ともに占領地の救済に充当された。

ガリオア基金では,疾病や飢餓による社会不安を防止し,占領行政を円滑に進め

ることを目的として,食糧,肥料,石油,医薬品などの生活必要物資を緊急輸入と

いう形で供与された。政府がそれを国内で転売して資金にできるようにしたもので

ある。他方,エロア基金は,敗戦国の経済復興を目的とし,日本では綿花や羊毛な

どの原料の購入に充当された。政府がそれを国内業者に売却し,その代金は見返り

資金として蓄積された。エロア基金とガリオア基金を合わせて,支援は1951年まで

に総額約18億ドルに及んだ。

そのほかに民間団体による物的支援も受けており,その代表的なものとしてララ

(Licensed Agencies for Relief in Asia;LARA,アジア救援公認団体)物資とケア

(The Cooperative for American Remittance to Europe;CARE)による支援がある。

ララ物資は日系米国人の慈善団体が米国政府の許可を得て日本に対して物的支援を

行ったものであり,長期の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類が主であった。1946年11

月に第 1 便が横浜港に到着している。

また,日本は1948年から1955年までの 8 年間にわたり,当時の金額で290万ドル(当

時の換算レートで10億4400万円)の支援を1000万人がケアから受けた。ケア・パッ

ケージは,物資を必要としている人々に郵便局から直接届けられるように考えられ

た方策であった(図1-1)。また,1948年からは日本全国の小学校を対象に,食糧支

援の一環として,学校給食用の脱脂粉乳の供給活動を展開した。

Ⅰ 第2次世界大戦後の国際社会

こうした基金や支援は,被災者に対する物資の援助にとどまらず,資材や道具な

どの生産手段の供与にまで及んでいたため,自力による経済的自立を促すことにつ

ながった。当時,海外から受けたこうした援助の手法を,後年になって日本は自ら

が行う国際援助協力に生かし,その指針の一つとして「自助努力への支援と持続的

発展」を掲げたのである。

日本は様々な物資の支援を受けたものの,復興のために必要な資金が不足してい

た。そのため1953年から1966年までに世界銀行から 8 億6290万ドルの借款を得て,

道路・電力などのいわゆるインフラ整備あるいは鉄鋼などの基幹産業の整備が進め

られた。借款は1990年 7 月に返済が終了したが,支援を受けた経験は,日本の国際

支援の柱の一つである円借款という方策に引き継がれている。

日本は,第 2 次世界大戦においては日独伊三国同盟を結んだ枢軸国の一つであり,

敗戦後に主権を剝奪された。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して主権が

回復したため,同年に国際連合(国連)への加盟を申請したが,東西冷戦のさなか

であったため,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)など社会主義諸国の反対によ

ってなかなか実現しなかった。しかし,1956年の日ソ共同宣言への署名の後,ソ連

との国交回復によって障害がなくなったため,同年12月18日に国連の80番目の加盟

国となった。これによって日本は,ようやく国際社会の一員として認知されたので

ある。

このように日本は,海外から有形無形の復興支援を受け,しかも国連に加盟が認

められる以前の1954年にすでに他国への援助を開始していることは特筆に値する。

世界的に戦後復興が進む過程で,経済復興を主流に据えた方策をとったことによ

って先進国間での経済交流が活発となったが,一方では先進工業国と途上国との格

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11Ⅰ 第2次世界大戦後の国際社会

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

こうした基金や支援は,被災者に対する物資の援助にとどまらず,資材や道具な

どの生産手段の供与にまで及んでいたため,自力による経済的自立を促すことにつ

ながった。当時,海外から受けたこうした援助の手法を,後年になって日本は自ら

が行う国際援助協力に生かし,その指針の一つとして「自助努力への支援と持続的

発展」を掲げたのである。

日本は様々な物資の支援を受けたものの,復興のために必要な資金が不足してい

た。そのため1953年から1966年までに世界銀行から 8 億6290万ドルの借款を得て,

道路・電力などのいわゆるインフラ整備あるいは鉄鋼などの基幹産業の整備が進め

られた。借款は1990年 7 月に返済が終了したが,支援を受けた経験は,日本の国際

支援の柱の一つである円借款という方策に引き継がれている。

日本は,第 2 次世界大戦においては日独伊三国同盟を結んだ枢軸国の一つであり,

敗戦後に主権を剝奪された。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して主権が

回復したため,同年に国際連合(国連)への加盟を申請したが,東西冷戦のさなか

であったため,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)など社会主義諸国の反対によ

ってなかなか実現しなかった。しかし,1956年の日ソ共同宣言への署名の後,ソ連

との国交回復によって障害がなくなったため,同年12月18日に国連の80番目の加盟

国となった。これによって日本は,ようやく国際社会の一員として認知されたので

ある。

このように日本は,海外から有形無形の復興支援を受け,しかも国連に加盟が認

められる以前の1954年にすでに他国への援助を開始していることは特筆に値する。

世界的に戦後復興が進む過程で,経済復興を主流に据えた方策をとったことによ

って先進国間での経済交流が活発となったが,一方では先進工業国と途上国との格

図1-1●ケア・パッケージ

ケア・パッケージを開いて

写真提供/(財)ケア・インターナショナル ジャパン

ケア・パッケージを持って家路を急ぐ

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12 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

差が生じ,国民総所得(Gross National Income;GNI)にも大きな差がみられる結

果となった。これは,貧困地域が赤道より南に位置し,先進工業国が北に位置する

ことから南北問題といわれた。貧困問題を解決し,世界のすべての人々が人として

最低限のニーズを保障されることを目指して,先進工業国から途上国に対する援助

活動が開始されたのである。

一方,経済格差による南北問題と東西諸国の政治的な対立が入り交じり,経済的

支援が政治的駆け引きにたびたび利用されてきた。保健医療分野の国際支援も世界

の政治経済と密接に結びついている。専門性をもったこれらの支援活動は善意によ

るものであるだけに,中長期的にみて活動が支援対象国の社会的弱者の状況の悪化

につながる可能性があるとしても,なかなか見えにくい。そのように考えると,専

門職には意識的に政治経済の視点をもつこと,自分の日々の活動が目の前の援助対

象者だけでなく世界的規模で様々な方面に影響を与えることを認識し,状況を的確

に分析できる力をもつことが求められる。

B 国際開発援助の変遷

国際開発援助が国際看護と関係があるのは,人間の生活の質を向上させるために

は,自然環境や社会がどのような状態にあるのが望ましいのかが問われるからであ

る。これまで様々な専門分野の人が,地域的な視点から世界規模の課題に対して試

行錯誤を繰り返してきているが,その考え方の歴史的変遷をみていきたい(表

1-1)。

1.1960〜1970年代

●開発援助と貧富の格差の拡大 1960年代から1970年代は,途上国の経済的貧困がク

ローズアップされ,貧困から脱却するには先進工業国の産業技術を導入して経済的

基盤整備を図ることが必要であり,それによって先進国同様の発展が望めるという

考え方が主流であった。1961年には国連総会で「国連開発の10年」の決議案が採択

され,1960年代の途上国の経済成長率目標を 5 %とし,そのため途上国への資本移

転の必要量を先進国の国民所得の 1 %と定めた。この時期,援助関係の様々な組織

が設立され,現在に続く国際援助体制の基礎がつくられていった。資金援助,技術

援助,食糧援助が行われ,その一例として米国の平和部隊(Peace Corps)や日本

の青年海外協力隊(Japan Overseas Cooperation Volunteers;JOCV)が途上国に

派遣され始めた。

しかし,これらの援助は必ずしも南北問題を解決するものではなく,一部の途上

国では逆に貧富の差を拡大する結果につながった。このことから,外部からの援助

の内容に関する疑問が生じ,先進工業国側の一方的な価値基準で行われる開発の見

直しが行われるようになってきた。そして,人の成長の仕方がそれぞれの個性によ

り異なるように,国や地域の発展の仕方も多様であること,国や地域が独自の発展

をするためには,国際的な協調を保ちながらも,政治,経済,文化,環境をマネジ

メントする自律的な力がつくことが必要であるという考え方が顕在化してきた。

●シュマッハーの提言 特に,経済発展に欠かせない石油が無尽蔵に存在するもので

はないことを世界中に知らしめた1973年のオイルショック以降,従来の物質主義や

拡大主義による開発に疑問を投げかけたのが,イギリスの経済学者シュマッハー

(Schumacher, E.F.)である。

彼は,「開発とは,財から出発するのではなく,人間とその教育,組織,そして

訓練から出発する。貧困の第一の原因はこれら 3 つの欠陥にある」と述べている。

さらに,援助と開発について,「人間こそ,あらゆる富の第一義的かつ究極的資源

Page 21: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

13Ⅰ 第2次世界大戦後の国際社会

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

り異なるように,国や地域の発展の仕方も多様であること,国や地域が独自の発展

をするためには,国際的な協調を保ちながらも,政治,経済,文化,環境をマネジ

メントする自律的な力がつくことが必要であるという考え方が顕在化してきた。

●シュマッハーの提言 特に,経済発展に欠かせない石油が無尽蔵に存在するもので

はないことを世界中に知らしめた1973年のオイルショック以降,従来の物質主義や

拡大主義による開発に疑問を投げかけたのが,イギリスの経済学者シュマッハー

(Schumacher, E.F.)である。

彼は,「開発とは,財から出発するのではなく,人間とその教育,組織,そして

訓練から出発する。貧困の第一の原因はこれら 3 つの欠陥にある」と述べている。

さらに,援助と開発について,「人間こそ,あらゆる富の第一義的かつ究極的資源

表1-1●世界情勢の歴史的変遷と保健政策

1960〜

1970年代

第1期(前駆期)

社会インフラ時代植民地諸国の独立後第三世界の経済開発開始港湾・道路・電力・上下水道・かんがい設備などの社会的インフラの欠如(社会開発は経済開発の補完物)1978年 アルマアタ宣言(プライマリ・ヘルスケアに関する国際会議)1979年 健康な国民(Healthy People)(米国)

冷戦

内戦地域の増加

国家間の貧富の差拡大

ベルリンの壁崩壊ソ連の崩壊

内戦の激化難民の増加各国内の貧富の差拡大

米国を中心とした新たな軍事的世界戦略宗教的対立,中東を取り巻く情勢極東の情勢,世界規模での脅威(地球温暖化,自然災害,紛争など)

1980年代

第2期(開花期)

人間としての基本的ニーズ(BHN):ハード路線からソフト路線への転換 “経済開発が必ずしも貧困をなくすとはかぎらない”社会問題拡大(貧富の差拡大,大都市の成長と地域間格差拡大,社会的弱者の増大,環境や生態系の破壊など)1984年 ヘルスプロモーション計画(WHOヨーロッパ事務局)1986年 オタワ憲章(第1回ヘルスプロモーション会議)     健康都市づくり(英国)

1990年代

第3期(爛熟期)

人間開発時代 経済発展の指標(GNP)に代わる指標の開発1990年 UNDP「人間開発報告書」    −人間中心型発展(Human Centered Development)    保健,教育,実質購買力による所得水準    BHNが公共政策としての福祉供与に重点をおく    社会開発:個々の人間の社会参加の側面を重視     「裾野の広い開発」(Broad Based Growth)       経済発展が民衆に及ぶ

     「持続可能な発展」(Sustainable Development)      住民主体の発展(People Centered Development)    住民参加型発展(Participatory Development)    人間開発指標(HDI):選択の自由度    女性開発指標(GDI),ジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)

2000年代

第4期(混迷期)

人間の安全保障と開発 2000年 ミレニアム開発目標(MDGs)

2008年 WHO「The World Health Report 2008」     プライマリ・ヘルスケアの再評価

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14 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

である。人間が放置され,自己流の専門家や高飛車な計画当局によって小突きまわ

されるならば,真の果実はならない」と断言した。しかし,当時,近代経済学のラ

ジカルな批判者とされたシュマッハーの人間中心の開発論が,その意味を認識され,

人類存続への危機感をもって世界的規模で取り組まれる開発援助理論の柱になるま

で,およそ20年を待たなければならなかった。

●もう一つの発展 スウェーデンのダグ・ハマーショルド財団は,1975年に第 7 回国

連経済特別総会に際して作成した報告書「何をなすべきか」のなかで「もう一つの

発展」という考え方を提起した。そこでは発展を,「人間集団が,自分たちのもつ

もの─自然環境,文化遺産,男女のメンバーの創造性─に依拠し,他の集団と

の交流をとおして,自分たちの集団をより豊かにすることである。そうすることに

よってそれぞれの生活の様式と発展の様式を自律的に創り出すことができる」とし

ている。発展の要件として,第 1 に食物,健康,教育など人間が生きるための基本

的要求を充足させること,第 2 にそれぞれの社会の,それぞれの地域の人々の協同

によって発展させること(内発的,自力更生的),第 3 にそれぞれの地域の自然環

境と調和を保つような発展を図ること,第 4 に社会内部の構造的変革が必要である

とし,個々人のレベルよりも地域集団のレベルを重視している。

2.1980〜1990年代

●基本的ニーズの確保 急激な経済開発を続けてきた結果,貧富の差の拡大,大都市

の成長と開発から取り残された地方との地域間格差,社会的弱者の増加などの社会

問題が生じた。また,環境や生態系の破壊などが進行し,経済開発が必ずしも貧困

をなくす手段とはいえないことが明らかとなり,開発のありようを世界的規模で見

直すことが必要になった。世界銀行はこの時期,貧困の克服を課題として,人間と

しての基本的ニーズ(Basic Human Needs;BHN)の確保を強調している。

●グローバリゼーションのゆがみ さらに,1989年のベルリンの壁の崩壊,およびそ

れに続いて東ヨーロッパ諸国に次々に起こった政変が共産主義体制の崩壊をもたら

し,1991年のソ連崩壊へとつながった。第 2 次世界大戦後の冷戦時代が名実ともに

終結すると,東欧諸国を中心にソ連の衛星国に民族自決の機運が高まり,分離・独

立が相次いだ。この頃からグローバリゼーション(地球規模化)の進展が指摘され

始めたが,これは世界の自由経済化を意味した。急速な自由経済化は,インフラが

未整備で社会資本や経済基盤が脆弱な国にとっては重荷となり,様々なゆがみをも

たらした。なかでも国民の消費生活や健康・医療といった暮らし,あるいは社会福

祉領域に大きな影響を与え,その結果,貧困層の拡大と社会的弱者の増加を招いた。

日常生活における不平等感や不公平感は人々に孤立感と絶望感をもたらし,外に向

けては反政府的な集団行動や無差別犯罪,内に向けては自殺や健康障害につながっ

ていった。経済における格差の拡大は健康格差を生み出している。経済格差を表す

ジニ係数*によっても,1990年以降は格差が急激に拡大し続けており,しかもそれ

が一国内の社会階層間で広がっていることが示されている。

途上国を含め世界的規模で経済発展を中心とした西洋型近代化が進められ,一元

的発展が促進されるなかで,性役割分業が徹底され,女性は社会的弱者として社会

開発から取り残された存在となりがちであった。しかしその後,世界の人口の半数

を占める女性の社会参加なくしては発展は滞る一方であるとの認識が世界的に波及

し,ジェンダー*・エンパワーメントの視点が国際的なコンセンサスを得るように

なった。

●女性の基本的人権の保障 1995年に北京で開催された第 4 回世界女性会議では,女

性の基本的人権の保障に関する「北京宣言」が採択された。国連加盟国は率先して

この宣言を批准し,地域レベルおよび国際レベルで性差による差別を撤廃し,公正,

公平,機会均等を妨げない努力をすることが確認された。人間開発指標(Human

Development Index;HDI)に比較して女性開発指標(Gender-related Develop-

ment Index;GDI)が低い国は,女性の基本的人権が男性より劣っていると分析さ

れた。その後,GDIの指標では客観的に把握しきれない政治,経済,社会生活にか

かわる意思決定過程への女性の参画の度合いをジェンダー・エンパワーメント指数

(Gender Empowerment Measure;GEM)を用いて定量化するようになった。

母子保健分野の開発プログラムにおいては,女性の健康への支援を行うとき,目

的はあくまでも乳幼児の健康であり,女性はそのための媒体と位置づけられていた。

たとえば,妊産婦の栄養対策は子どもの健全な発育を目指したものであった。

●ジェンダー主流化 社会開発において女性が重要な開発の担い手であることが認識

され,1970年代から「女性と開発(Women in Development;WID)」という視点

が世界的に取り入れられてきた。さらに,1995年以降,すべての開発課題において

女性と男性の両方が意思決定過程に参加できるようにすることが「ジェンダーと開

発(Gender And Development;GAD)」の重点課題である。この「ジェンダー主

流化(Gender Mainstreaming)」という考え方に貫かれた援助を目指すことが国際

的な共通理解となっている。さらに,援助事業の計画策定のための開発ニーズを把

握するために,「社会・ジェンダー分析(social/gender analysisまたはsocio-gender

analysis)手法」が使われるようになっている。これは,男女の役割分業だけでなく,

年齢,民族などの属性と文化,政治,経済との関係性も含めて分析するものである。

男女間の不平等は個々人の問題でもあるが,女性の抑圧は,制度的にも,それぞ

れの民族,階級・階層のなかで,また植民地化の歴史や現在の国際社会のなかで形

づくられている。女性に関することは女性が自分で決定できる社会体制づくりだけ

でなく,それを支援する対策も必要である。国際看護における援助活動が女性のパ

ワーを高めジェンダー・エンパワーメント指数の向上につながるものかどうか,常

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15Ⅰ 第2次世界大戦後の国際社会

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

1 社会開発とジェンダーの視点途上国を含め世界的規模で経済発展を中心とした西洋型近代化が進められ,一元

的発展が促進されるなかで,性役割分業が徹底され,女性は社会的弱者として社会

開発から取り残された存在となりがちであった。しかしその後,世界の人口の半数

を占める女性の社会参加なくしては発展は滞る一方であるとの認識が世界的に波及

し,ジェンダー*・エンパワーメントの視点が国際的なコンセンサスを得るように

なった。

●女性の基本的人権の保障 1995年に北京で開催された第 4 回世界女性会議では,女

性の基本的人権の保障に関する「北京宣言」が採択された。国連加盟国は率先して

この宣言を批准し,地域レベルおよび国際レベルで性差による差別を撤廃し,公正,

公平,機会均等を妨げない努力をすることが確認された。人間開発指標(Human

Development Index;HDI)に比較して女性開発指標(Gender-related Develop-

ment Index;GDI)が低い国は,女性の基本的人権が男性より劣っていると分析さ

れた。その後,GDIの指標では客観的に把握しきれない政治,経済,社会生活にか

かわる意思決定過程への女性の参画の度合いをジェンダー・エンパワーメント指数

(Gender Empowerment Measure;GEM)を用いて定量化するようになった。

母子保健分野の開発プログラムにおいては,女性の健康への支援を行うとき,目

的はあくまでも乳幼児の健康であり,女性はそのための媒体と位置づけられていた。

たとえば,妊産婦の栄養対策は子どもの健全な発育を目指したものであった。

●ジェンダー主流化 社会開発において女性が重要な開発の担い手であることが認識

され,1970年代から「女性と開発(Women in Development;WID)」という視点

が世界的に取り入れられてきた。さらに,1995年以降,すべての開発課題において

女性と男性の両方が意思決定過程に参加できるようにすることが「ジェンダーと開

発(Gender And Development;GAD)」の重点課題である。この「ジェンダー主

流化(Gender Mainstreaming)」という考え方に貫かれた援助を目指すことが国際

的な共通理解となっている。さらに,援助事業の計画策定のための開発ニーズを把

握するために,「社会・ジェンダー分析(social/gender analysisまたはsocio-gender

analysis)手法」が使われるようになっている。これは,男女の役割分業だけでなく,

年齢,民族などの属性と文化,政治,経済との関係性も含めて分析するものである。

男女間の不平等は個々人の問題でもあるが,女性の抑圧は,制度的にも,それぞ

れの民族,階級・階層のなかで,また植民地化の歴史や現在の国際社会のなかで形

づくられている。女性に関することは女性が自分で決定できる社会体制づくりだけ

でなく,それを支援する対策も必要である。国際看護における援助活動が女性のパ

ワーを高めジェンダー・エンパワーメント指数の向上につながるものかどうか,常

* ジニ係数:所得や資産の不平等度を表す指標の一つ。イタリアの統計学者ジニ(Gini, C.)が考案した。係数は 0 〜 1 の数値で示され,不平等度が大きいほど 1 に近くなる。

* ジェンダー:社会的・文化的に形成される男女の差異。生物の雌雄を示すセックスと区別される。「女性」の意味で使われる場合もある。

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16 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

に検証していかなければならない。2 内発的発展と自力更生

鶴見は,「発展とは定義によって内発的である。とすれば,内発的発展というの

は重複である。にもかかわらず,わたしたちが内発的発展に固執するのは,これま

での近代化論の,先進国=内発的発展,後進国=外発的発展という考え方から脱皮

したいからである」「内発的発展を,目標において人類共通であり,目標達成への

経路と創出すべき社会のモデルについては,多様性に富む社会変化の過程である。

共通目標とは,地球上すべての人々および集団が,衣食住の基本的欲求を充足し,

人間としての可能性を十分発現できる条件をつくり出すことである。それは現存の

国内および国際間の格差を生み出す構造を変革することを意味すると定義づけられ

ている」としている1)。この自力更生と内発的発展の考え方は,すでに19世紀に英

国が産業革命を終えて近代化に向かう過程で,それに対抗するようにドイツ,米国,

フランスが独自の発展を模索するときに強調されていたものである。

●自力更生による発展 自力更生に根ざした発展をするためには,地域の特性にも目

を向けなければならない。1970年代には発展の方向性の見直しが提言されるように

なった。途上国を中心に,農業をとおして食糧生産や環境保全などの重要な社会的

役割を担いながらも,市場経済のなかで周辺に追いやられている農民が自力更生で

きるような方策が打ち出された。また,人間としての基本的なニーズが満たされる

ために低所得者の自立支援の提案がなされた。また,先進工業国に対しては,エネ

ルギーの多くを消費する生活スタイルの見直しが急務であると警鐘が鳴らされた。

すなわち,天然資源の輸出国が,やがて工業化すれば,資源を外国に輸出すること

を拒否するだろうと予測したのである。それは,地球上の資源の公正で公平な分配

への言及につながっていった。

鶴見が「内発的発展論は,後発高度工業化社会,非同盟諸国,および発展途上国

の経験にもとづいて構築されつつある。近代化論が一般理論であるのに対して,内

発的発展論は異なる地域におこりつつある,方向性をもった社会変化の事例にもと

づいて,抽象度の低い理論化から出発しようとするこころみである」2)としてい

るように,歴史的変遷,宗教,独立以前の宗主国の特性,植民地支配の状況,地理

的条件によって,各地域に暮らす人々が人間的に暮らしたいと思う内容は異なるこ

とを認識し,多様で小規模の社会変化の事例をていねいに分析し,市井の民の知恵

に育まれてきたものを世界規模でひもとくことが重要である。それによってたとえ

ば,ある途上国が日本の50年前と同じであるような印象を受けたとしても,それは

現時点での国際社会の各国との関係性のなかでできあがっているものであることを

踏まえ,日本が発展の過程で築き上げてきた技術やシステムをそのまま途上国に接

ぎ木をするといった誤りを犯すようなことがなくなるだろう。

3.21世紀の世界情勢

●難民の増加 21世紀は試練の幕開けとなった。2001年の米国における大規模な爆破

テロ事件の後,米国を中心とする新たな軍事的世界戦略が開始され,中東などにお

ける宗教的対立を悪化させた。それによって最も影響を受けたのが市井の人々であ

った。土地を追われ避難民となって,人間の基本的ニーズを満たすことのできない

人々が増加している。

民族自決を求めて内戦に発展した地域や国家間の戦闘が起こった地域でも,家を

追われた難民(refugees)や国内避難民(internal displaced persons)が増加の一

途をたどっている。そのなかでも子どもの割合が増加していることは,地域や国づ

くりに多大な支障をもたらすことが予測され,事態は深刻である。

●地球規模の災害 また,2000年以降,豪雨,地震や津波が頻発し,規模も大きくな

っている。地球の温暖化による気候の変動は,農業や漁業など自然を対象として生

産活動を行っている多くの途上国では直接,人々の経済生活に影響を及ぼすことに

なる。また,自然の破壊や気象変動によって生態系に変化が起こり,新たな感染症

のまん延の原因になることも予測されており,それはさらなる欠乏や恐怖につなが

るものである。1997年には京都議定書(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都

議定書 Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate

Change)が採択され,各国が温室効果ガス削減の具体的な目標値を確認したが,

米国は批准しておらず,目標達成までには多くの問題を抱えている。

●偏重した地球資源の消費 他方,地球の20%の人口(先進工業諸国)がエネルギー

資源の80%を消費し,残りの80%に当たる途上国の人々がわずか20%の資源を享受

している事実があることも看過できない。2008年10月,世界保健機関(WHO)は「世

界保健報告」で,アルマアタ宣言から30年ぶりにプライマリ・ヘルスケアの理念を

再評価し,それを受けて,国際看護師協会(International Council of Nurses;

ICN)も活動指針の柱に位置づけた。先進工業国は途上国への支援のあり方を再考

することとともに,地球の資源の膨大な消費を前提にした生活のあり方を早急に見

直すことが求められている。

1963年に米国の思想家フラー(Fuller, R.B.)が,「宇宙船としての地球」の概念

を提唱し,地球を 1 隻の宇宙船にたとえて,地球も一種の閉鎖された生態系をなし

ており,ひとたびそのバランスがくずれると,乗組員である人類は死に至ると警告

した。続けて,経済学者ボールディング(Baulding, K.E.)は1966年に「宇宙船地

球号」という言葉をエッセイのタイトルに用いるとともに,この概念を経済学に導

入した。それから40年余りが経過したが,世界の貧富の差と健康の格差はますます

拡大している。さらに,エイズ,重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respirato-

ry Syndrome;SARS),鳥インフルエンザ,新型インフルエンザなどの新興感染症

Page 25: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

17Ⅱ 共存に向けた国際協力

テロ事件の後,米国を中心とする新たな軍事的世界戦略が開始され,中東などにお

ける宗教的対立を悪化させた。それによって最も影響を受けたのが市井の人々であ

った。土地を追われ避難民となって,人間の基本的ニーズを満たすことのできない

人々が増加している。

民族自決を求めて内戦に発展した地域や国家間の戦闘が起こった地域でも,家を

追われた難民(refugees)や国内避難民(internal displaced persons)が増加の一

途をたどっている。そのなかでも子どもの割合が増加していることは,地域や国づ

くりに多大な支障をもたらすことが予測され,事態は深刻である。

●地球規模の災害 また,2000年以降,豪雨,地震や津波が頻発し,規模も大きくな

っている。地球の温暖化による気候の変動は,農業や漁業など自然を対象として生

産活動を行っている多くの途上国では直接,人々の経済生活に影響を及ぼすことに

なる。また,自然の破壊や気象変動によって生態系に変化が起こり,新たな感染症

のまん延の原因になることも予測されており,それはさらなる欠乏や恐怖につなが

るものである。1997年には京都議定書(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都

議定書 Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate

Change)が採択され,各国が温室効果ガス削減の具体的な目標値を確認したが,

米国は批准しておらず,目標達成までには多くの問題を抱えている。

●偏重した地球資源の消費 他方,地球の20%の人口(先進工業諸国)がエネルギー

資源の80%を消費し,残りの80%に当たる途上国の人々がわずか20%の資源を享受

している事実があることも看過できない。2008年10月,世界保健機関(WHO)は「世

界保健報告」で,アルマアタ宣言から30年ぶりにプライマリ・ヘルスケアの理念を

再評価し,それを受けて,国際看護師協会(International Council of Nurses;

ICN)も活動指針の柱に位置づけた。先進工業国は途上国への支援のあり方を再考

することとともに,地球の資源の膨大な消費を前提にした生活のあり方を早急に見

直すことが求められている。

1963年に米国の思想家フラー(Fuller, R.B.)が,「宇宙船としての地球」の概念

を提唱し,地球を 1 隻の宇宙船にたとえて,地球も一種の閉鎖された生態系をなし

ており,ひとたびそのバランスがくずれると,乗組員である人類は死に至ると警告

した。続けて,経済学者ボールディング(Baulding, K.E.)は1966年に「宇宙船地

球号」という言葉をエッセイのタイトルに用いるとともに,この概念を経済学に導

入した。それから40年余りが経過したが,世界の貧富の差と健康の格差はますます

拡大している。さらに,エイズ,重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respirato-

ry Syndrome;SARS),鳥インフルエンザ,新型インフルエンザなどの新興感染症

Ⅱ 共存に向けた国際協力

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18 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

の脅威も加わり,地震による津波は多くの国に被害をもたらしている。水の惑星で

ある青い「地球号」の乗組員として,看護の専門性を生かしながら何ができるのか

を真剣に考えることが迫られている(図1-2)。

A ミレニアム開発目標

人間としての基本的ニーズを基盤とした人間開発という理念は,2000年 9 月に開

かれた国連総会(ミレニアムサミット)において採択されたミレニアム開発目標

(Millennium Development Goals;MDGs)へと受け継がれた。そこでは,1990年

を基準値として,2015年までに達成することを目指す 8 つの目標が提示されている

(表1-2)。これらの目標は,1996年に経済協力開発機構(Organization for Econom-

ic Cooperation and Development;OECD)閣僚会議で承認された「21世紀に向けて:

開発協力を通じた貢献」(「DAC*新開発戦略」)を発展的に継承したものである。

さらに,2005年 3 月には,国連は「より大きな自由を求めて:すべての人のための

開発,安全保障および人権」と題した報告書を発表し,「安全保障がなければ開発

も不可能である。開発なしに人類の安全保障はない。また,人権が尊重されなけれ

ば開発も安全保障もありえない」とし,ミレニアム開発目標の達成の重要性とその

ために世界のすべての国々および主要な開発機関の協力の必要性を改めて確認し* DAC:OECDの主要委員会である開発援助委員会(Development Assistance Committee)の略。

地球公共財地球共生社会

既存の国際社会の回復

グローバルガバナンス

生命科学老齢化

保健衛生教育

犯罪,薬物

環境 食料,エネルギー世界経済

国際金融

テロリズム

軍縮一層の繁栄

心の安寧

世界の安定

貿易

開発 情報・通信技術

紛争と復興 武器輸出

地球問題

文化の多様性 紛争予防

deeper peace of mind

greaterprosperity

greater world stability

Human Security

21世紀の国際協力

人間らしさを求める自由

欠乏からの自由

人間の安全保障

恐怖からの自由

出典/後藤一美:21世紀の国際協力;地球共生社会の創成をめざして,開発金融研究所報,9(12):135-147,2002.を参考に作成.

図1-2●21世紀の国際協力

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国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

19Ⅱ 共存に向けた国際協力

開発,安全保障および人権」と題した報告書を発表し,「安全保障がなければ開発

も不可能である。開発なしに人類の安全保障はない。また,人権が尊重されなけれ

ば開発も安全保障もありえない」とし,ミレニアム開発目標の達成の重要性とその

ために世界のすべての国々および主要な開発機関の協力の必要性を改めて確認し

表1-2●ミレニアム開発目標Goal(ゴール) ターゲット

Goal 1:極度の貧困と飢餓の撲滅( Eradicate extreme poverty

and hunger)

ターゲット1-A: 2015年までに1日1ドル未満で生活する人口の割合を1990年の水準の半数に減少させる

ターゲット1-B: 女性,若者を含むすべての人々の,完全かつ生産的な雇用,ディーセント・ワーク(適切な雇用)を達成する

ターゲット1-C: 2015年までに飢餓に苦しむ人口の割合を1990年の水準の半数に減少させる

Goal 2:普遍的な初等教育の達成( Achieve universal primary

education)

ターゲット2-A: 2015年までにすべての子どもが男女の区別なく初等教育の全課程を修了できるようにする

Goal 3: ジェンダー平等の推進と女性の地位向上

( Promote gender equality and empower women)

ターゲット3-A: 2005年までに可能な限り,初等・中等教育で男女格差を解消し,2015年までにすべての教育レベルで男女格差を解消する

Goal 4: 乳幼児死亡率の削減( Reduce child mortality)

ターゲット4-A: 2015年までに5歳未満児の死亡率を1990年の水準の3分の1にまで引き下げる

Goal 5: 妊産婦の健康状態の改善( Improve maternal health)

ターゲット5-A: 2015年までに妊産婦の死亡率を1990年の水準の4分の1に引き下げる

ターゲット5-B: 2015年までにリプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)の完全普及を達成する

Goal 6: HIV/エイズ,マラリア,その他の疾病のまん延防止

( Combat HIV/AIDS, malaria and other diseases)

ターゲット6-A: 2015年までにHIV/エイズのまん延を阻止し,その後,減少させる

ターゲット6-B: 2010年までに必要とするすべての人がHIV/エイズの治療を受けられるようにする

ターゲット6-C: 2015年までにマラリアやその他の主要な疾病の発生を阻止し,その後,発生率を下げる

Goal 7: 環境の持続可能性を確保( E n s u r e e n v i r o n m e n t a l

sustainability)

ターゲット7-A: 持続可能な開発の原則を国家政策やプログラムに反映させ,環境資源の損失を阻止し,回復を図る

ターゲット7-B: 2010年までに生物多様性の損失を確実に減少させ,その後も継続的に減少させる

ターゲット7-C: 2015年までに,安全な飲料水と衛生施設を継続的に利用できない人々の割合を半減させる

ターゲット7-D: 2020年までに少なくとも1億人のスラム居住者の生活を大きく改善する

Goal 8: 開発のためのグローバルなパートナーシップの推進

( Develop a global partnership for development)

ターゲット8-A: 開放的で,ルールに基づく,予測可能でかつ差別的でない貿易と金融システムを構築する

ターゲット8-B: 後発開発途上国(LDCs)の特別なニーズに取り組むターゲット8-C: 内陸開発途上国と小島嶼開発途上国(太平洋・西インド諸島・

インド洋などにある,領土が狭く,低地の島国)の特別なニーズに取り組む

ターゲット8-D: 国内および国際的措置を通じて途上国の債務問題に包括的に取り組み,債務を長期的に持続可能なものとする

ターゲット8-E: 製薬会社と協力して,途上国で人々が安価で必要不可欠な医薬品を入手できるようにする

ターゲット8-F: 民間セクターと協力して,特に情報・通信での新技術による利益が得られるようにする

出典/http://www.undp.or.jp/aboutundp/mdg/mdgs.shtml 国連開発計画(UNDP)駐日代表事務所.

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20 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

た。

●健康に関連する3つの目標 ミレニアム開発目標は表1-2ならびに以下に示すよう

な 8 つの目標と21の具体的目標値をあげている。そのなかには,直接健康に関係す

るものが 3 つあり,健康問題を重視していることがわかる。人間の安全保障を土台

としてミレニアム開発目標と21世紀におけるHFA政策(HFA21:Health for All in

the 21 century,21世紀におけるすべての人に健康を)が融合し,保健医療分野では,

ジェンダーの視点を盛り込みつつ,プライマリ・ヘルスケア(Primary Health

Care;PHC)やヘルスプロモーション(health promotion)の手法が用いられると

いう構図になっている(図1-3)。

目標の到達状況は,逐次更新されている。アジア諸国の目標達成度はよい状態に

あるが,アフリカの状況が改善されていないことが課題になっている。

1) 貧困と飢餓

① 1 日 1 ドル未満で生活する人の比率は1990年の45.9%から2005年には27%に減

少したが,目標値を達成するためには,速度を 2 倍に増す必要がある。先進工業国

20か国の平均所得は最貧国20か国の平均の37倍である。この格差は40年間に 2 倍に

拡大している。②低栄養状態にある人口の割合が1990年の20%から2007年には16%

に減少しているが,人口は 8 億2800万人から8億3700万人に増加している。③ 5 歳

未満の低体重児の割合は,1990年から2009年の間に30%から23%に減少したにすぎ

ず,ほとんど状況は改善されていない。

2) 教  育

途上国における初等教育の就学率は1999年に84%だったのが2008年には90%に達

した。しかし,まだ世界の子どもの 1 割以上が初等教育さえ受けられないでいる。

これは,子どもの難民の増加が影響している。特に世界の未就学児約6900万人の半

数にあたる約3100万人がサブ・サハラアフリカ地域(アフリカのサハラ砂漠以南の

地域の48か国を指す)の子どもたちである。

3) 女性の地位

就学率の男女間格差は是正されつつあるが,サブ・サハラアフリカ地域や西アジ

ア地域における女性の就学機会が 8 割台にとどまっている。2011年現在,国会議員

に占める女性の割合は19%で,2000年(14%)からわずかな増加にとどまっている。

4) 子どもの死亡率

5 歳未満の子どもの死亡率は1990年に99(1000人当たり)であったが,2009年に

は66に減少した。死亡数の2/3は途上国が占めている。成果が上がっているものも

あり,積極的なはしかの予防接種の推進によって,はしかによる死亡に関して,

2000年から2008年までに世界で78%の減少を達成させた。この結果,予防接種に対

する基金が減少し,日常および緊急時の予防接種の実施に支障をきたしている。

5) 母子保健

途上国の周産期死亡率は1990年の440人(人口10万人当たり)から2008年には290

人に減少したが,サブ・サハラアフリカ地域では870人(1990年)から640人(2008

年)にとどまり,世界の周産期死亡数の87%を占めている。

また,途上国において出産時に専門的な訓練を受けた人によって助産を受けるこ

とができる割合は1990年の55%から2009年には65%と微増である。

女性の避妊率は10年間(1990年から2009年)で世界のすべての地域においてわず

かな増加であり,未成年者の妊娠の増加は先進工業国でも深刻な問題となっている。

6) エイズ,マラリア,その他の疾病

●エイズ 2009年末現在,HIVの感染者は3330万人(2001年では3290万人)で,エイ

ズ(AIDS)による死者は180万人(2001年では220万人)に達している。また,過

去 2 年間にカンボジア,中国,インド,パキスタン,ネパール,タイおよびベトナ

ムで同性愛者による感染が激増している。さらに,男性との力関係の不平等のため

に,婚外の性行為によってHIVに感染した夫から妻が感染する状況が,増加に歯止

めをかけるのを困難にしている。世界のHIV感染者の51%が女性である。

●マラリア 世界的にマラリアによる死亡数は2000年から2009年の間に20%減少し

た。サブ・サハラアフリカ地域で 5 歳以下の子どもに対する蚊か

帳や

の使用が徹底され

たことや予防薬の使用が高まったことによると考えられている。他方,2010年現在,

マラリア感染の危険性が高い 7 億6500万人のうち,24%にあたる 1 億8360万人には

蚊帳が支給されていない。

●結核 2009年現在,結核の新患者数は9400万人で,2008年と同数である。新患者の

ほとんどがアジア地域(55%)とアフリカ地域(30%)で占められている。また,

新患者の12%はHIV陽性者であり,うち80%がサブ・サハラアフリカ地域で発生し

ている。

7) 環境の持続可能性の確保

環境を持続可能にしていくためには,人類が天然資源を賢明に利用しなければな

ミレニアム開発目標

プライマリ・ヘルスケア女性と開発/ジェンダーと開発

ヘルスプロモーション

人間の安全保障人間としての基本的なニーズ

平和的共存(人間と人間,人間と自然)

図1-3●ミレニアム開発目標と国際看護の視点

Page 29: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

国際看護活動の支援を

必要とする対象

2

今なぜ,

国際看護学を学ぶのか

国際看護活動を

推進する人と機関

3

国際看護活動の

展開プロセス

4

異文化理解と

国際看護活動

5

国際看護活動の実際

6

国際社会の現状と

国際看護活動の課題

1

国際看護学の発展に

向けて

国名・地域名

正式名称一覧

21Ⅱ 共存に向けた国際協力

数にあたる約3100万人がサブ・サハラアフリカ地域(アフリカのサハラ砂漠以南の

地域の48か国を指す)の子どもたちである。

3) 女性の地位

就学率の男女間格差は是正されつつあるが,サブ・サハラアフリカ地域や西アジ

ア地域における女性の就学機会が 8 割台にとどまっている。2011年現在,国会議員

に占める女性の割合は19%で,2000年(14%)からわずかな増加にとどまっている。

4) 子どもの死亡率

5 歳未満の子どもの死亡率は1990年に99(1000人当たり)であったが,2009年に

は66に減少した。死亡数の2/3は途上国が占めている。成果が上がっているものも

あり,積極的なはしかの予防接種の推進によって,はしかによる死亡に関して,

2000年から2008年までに世界で78%の減少を達成させた。この結果,予防接種に対

する基金が減少し,日常および緊急時の予防接種の実施に支障をきたしている。

5) 母子保健

途上国の周産期死亡率は1990年の440人(人口10万人当たり)から2008年には290

人に減少したが,サブ・サハラアフリカ地域では870人(1990年)から640人(2008

年)にとどまり,世界の周産期死亡数の87%を占めている。

また,途上国において出産時に専門的な訓練を受けた人によって助産を受けるこ

とができる割合は1990年の55%から2009年には65%と微増である。

女性の避妊率は10年間(1990年から2009年)で世界のすべての地域においてわず

かな増加であり,未成年者の妊娠の増加は先進工業国でも深刻な問題となっている。

6) エイズ,マラリア,その他の疾病

●エイズ 2009年末現在,HIVの感染者は3330万人(2001年では3290万人)で,エイ

ズ(AIDS)による死者は180万人(2001年では220万人)に達している。また,過

去 2 年間にカンボジア,中国,インド,パキスタン,ネパール,タイおよびベトナ

ムで同性愛者による感染が激増している。さらに,男性との力関係の不平等のため

に,婚外の性行為によってHIVに感染した夫から妻が感染する状況が,増加に歯止

めをかけるのを困難にしている。世界のHIV感染者の51%が女性である。

●マラリア 世界的にマラリアによる死亡数は2000年から2009年の間に20%減少し

た。サブ・サハラアフリカ地域で 5 歳以下の子どもに対する蚊か

帳や

の使用が徹底され

たことや予防薬の使用が高まったことによると考えられている。他方,2010年現在,

マラリア感染の危険性が高い 7 億6500万人のうち,24%にあたる 1 億8360万人には

蚊帳が支給されていない。

●結核 2009年現在,結核の新患者数は9400万人で,2008年と同数である。新患者の

ほとんどがアジア地域(55%)とアフリカ地域(30%)で占められている。また,

新患者の12%はHIV陽性者であり,うち80%がサブ・サハラアフリカ地域で発生し

ている。

7) 環境の持続可能性の確保

環境を持続可能にしていくためには,人類が天然資源を賢明に利用しなければな

Page 30: 看護の統合と実践 3 国際看護学ま え が き 本書「国際看護学」が看護学生のテキストとして世に出ることになった契機は,平成20年1月の保健師助産師看護師学校養成所指定規則の改正である。この改正に

22 第1章 国際社会の現状と国際看護活動の課題

らないが,劇的な速さで地球上の自然が破壊されているのが現状である。森林伐採,

温室効果ガスの排出,人口増加と都市部への人口集中により,衛生状況の悪化が深

刻度を増している。

●衛生設備 2008年には世界人口の60%が衛生設備(トイレ)を利用できるようにな

り,1990年の35%に比較して改善しているが,サブ・サハラアフリカ地域では依然

として30%の改善にとどまっている。また,世界の 5 歳未満の子どもの死因の88%

が,安全な飲み水を得ることができないことに起因する下痢によるものである。

●気象変動の影響 地球規模での気象変動のために,ミレニアム開発目標の達成はま

すます困難になりつつあり,IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change,

気候変動に関する政府間パネル)は,2020年までにアフリカ地域の7500万から 2 億

5000万人の人々が水の確保が困難になると予測している。本格的な対応策を整えて

おかないと,地方経済や貧困層の生活が破滅的な状況になると警告している。

8) 開発のためのグローバル・パートナーシップの構築

ミレニアム開発目標の根底にあるのは,貧困対策は国際社会の課題であり,その

成果はすべての国に利害を与えるということである。貧困問題を抱える当事国が中

心的に課題に取り組まなければならないが,先進工業国との経済関係が貧困の要因

であることも否定できないことから,先進工業国のあり方の見直しと途上国に対す

る支援は国際社会の責任である。

●ODAの実績 政府開発援助(Official Development Assistance;ODA)の実績は

2000年代に徐々に増加してきたが,2004年から頭打ちである。また,途上国が抱え

る債務も開発の妨げとなっており,2015年までにミレニアム開発目標を達成するた

めにさらなる国際社会の協力が求められている(表1-3)。2011年以降も1から2%増

加しているに過ぎない。その中で特記すべきは2008年から2009年にアフリカに対す

るODA支援のうちジェンダー平等と女性のエンパワーメントの分野に対するもの

が13%から28%に増加していることである。

国連開発計画(United Nations Development Programme;UNDP)が1994年に「人

間開発報告書」で初めて打ち出したのが「人間の安全保障(Human Security)」と

いう概念である。これまでの国家の安全保障から,人間という視点による安全保障

へとパラダイムシフト*したことは画期的なことである。人はだれでも性別,宗教,

国籍,人種などを問わず,個々人がもつ可能性を最大限に発揮できる機会を保障さ

れるべきであり,それが人類の発展を支えてきたのである。したがって,「恐怖か

らの自由」と「貧困からの自由」を柱とし,経済,食糧,健康,環境,個人,地域

社会,政治の 7 つの側面からの安全保障が人間開発にとって重要であることを示唆

している。

その一つである健康に関しては,途上国では伝染病と寄生虫に関係する病気が主

要な死亡原因であること,貧困国と富裕国の医療サービスにおける格差が拡大して

いること,さらに,貧困国でHIV/エイズの感染が拡大していることが取り上げら

れている。これらの健康問題には,安定した収入が得られないという経済問題,食

糧の需給のアンバランスが引き起こす栄養不足,災害や公害などの環境問題など,

他の 6 つの側面がすべて影響しているのである。

●人間開発指標 人間の安全保障を確保する指標の一つとして人間開発指標(Human

Develop Index;HDI)が初めて紹介された。HDIはこれまでの国民総生産(Gross

National Product;GNP)よりも包括的な指標で,寿命,知識,生活水準の 3 つの

基本的要素を組み合わせたものである。そして,人間開発の最低水準を保障するた

めに必要な費用の捻出について,援助供与国が人間優先の目標に向ける配分率を20

%まで引き上げ,各国も人間開発に関する予算を国家予算の20%まで引き上げる

「20:20協定」が提案され,2005年までの10年間の最重要目標があげられた。

人間を中心に据えた発展を左右する課題は,保健医療および看護がかかわる分野

がきわめて多い。これらを達成するためには,経済的発展の場合と同様に,その国

の人々の主体的参加が求められ,子孫の世代まで末長く意思決定権を獲得し,安心

と安全が持続することを目指すものであった。日本政府は,2003年 8 月に定めた「政

府開発援助大綱(新ODA大綱)」で,「人間の安全保障」の概念を取り入れたODA

の実施をうたい,2005年 2 月には新ODA中期政策を策定して,「人間の安全保障」

を「ひとりひとりの人間を中心に据えて,脅威にさらされ得る,あるいは現に脅威

の下にある個人及び地域社会の保護と能力の強化を通じ,各人が尊厳ある生命を全

表1-3●人間開発の最重要目標の項目別必要額(1995〜2005年)部 門 部門別目標項目 追加コスト年額(概算)

教育● すべての人に基礎教育を与え,成人の無識字率を半

減し,女性の識字率を男性と同じにする50〜60億ドル

保健

● すべての人が基本的な保健・医療を受けられるようにする

● すべての子どもに予防接種を完全実施する● 5歳未満の死亡率を,現在の1/2,あるいは新生児

1000人に対して70のいずれか低いほうへ引き下げる

● 重度の栄養失調を根絶し,軽度の栄養失調を半減させる

50〜70億ドル

人口● 利用する意思をもつすべてのカップルに,基礎的で

包括的な家族計画を提供する100〜120億ドル

水の供給と衛生設備

● すべての人に安全な飲料水を供給する 100〜150億ドル

人間開発の優先課題全体 300〜400億ドル