田原本周辺の遺跡 - kashikoken-yushikai.org · 勢神宮へのお陰参...

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田原本周辺の遺跡 友史会遺跡地図 シート 18 筋違道(太子道)と周辺の遺跡 筋違道(太子道) 奈良盆地の中央部、斑鳩町高安から南南東に向かって、条 里方位と異なる斜め方位の道痕が畦畔や道路として残ってい る。特に川西町梅戸の周辺から三宅町屏風、伴堂、田原本町 宮古、保津にかけて、現在道路として使用されている。 田原本町宮古から以南は新木、多を通り、橿原市新口の東 方で下ツ道に接続する。これ以南は痕跡も見られないが、橿 原市小房から明日香村豊浦にかけての飛鳥川の川岸が斜行道 路の名残ではないかと言われている。斑鳩町高安から飛鳥ま での斜行道路であるため、太子道の名で親しまれている。こ の道がいつ作られたのか明らかでないが、斑鳩と飛鳥を結ぶ 道であること、この道沿いに聖徳太子の伝説があること、し かも田原本町から川西町にかけての微高地にのみ残っている ことから、平坦地にもあった道路が水田開発と条里施行に よって消滅したと考えられ、上宮王家滅亡による斑鳩宮の焼 亡・廃絶が遠因ではなかったかといわれている。★④ (参考資料) 斑 鳩 宮 推古天皇 9 年(601)2 月、聖徳太子が宮室を 斑鳩に建て、同 13 年に遷宮。皇極天皇 2 年 山背大兄王が蘇我人鹿の襲撃を受け焼亡。 豊 浦 宮 推古天皇元年から推古天皇 11 年、小墾田宮に 移るまでの宮室。 小墾田宮 推古天皇 11 年、皇極天皇 2 年、斉明天皇元年 (655)などにみられる。 1.保津・宮古遺跡 保津・宮古遺跡は奈良盆地の低地遺跡として著名であるが、 実体は明らかでなかった。古くは弥生土器とともに勾玉や管 玉が出土して、現在の保津、宮古集落を中心に広範囲にわたっ ていることが推定されていた。1988 年の田原本町教育委員 会の調査を初めとして、同年の病院建設、物流センターの建 設、また国道 24 号バイパス工事に伴う発掘調査で、遺跡の 南北範囲が明らかになってきた。また縄文時代草創期の有茎 尖頭器を最古として、江戸時代の遺構まで継続していること が判明した。中でも注目されたのは飛鳥時代の遺構群である。 建物 10 棟以上と倉庫 4 棟からなる主軸をやや西に振るもの と、南北の方位に一致するものがある。 特に方位を西に振った建物は 7 世紀前半に比定され、筋 違道との関係で注目された。また北地域でも 7 ~ 8 世紀代 の堀立柱建物が数棟検出されている。 この遺跡の一画 に孝霊神社・孝霊 天皇廬戸宮伝承地 などがある。★④ 2.黒田遺跡 この遺跡は黒田 大塚古墳の東南部 で公民館建設時に 確認された。その 後の継続調査で遺 跡の範囲も明らか になってきた。古 墳を中心とした南 北方向の微高地に 弥生時代中期の集 落が営まれ、これ を核に西方向に発 展したと考えられ ている。 遺跡の西側を占める法楽寺は長禄 3 年(1459)の法楽寺 伽藍坊院図によって盛時をうかがえるが、天正元年(1573) 6 月の松永・筒井合戦によって兵火にかかり焼亡した。現在 は本堂他わずかの堂舎が残っているにすぎない。★④ 3.黒田大塚古墳 盆地平坦部の大 型古墳として、墳 丘がよく保存され ている代表的な古 墳 で あ る。1983 年からの 3 度の発 掘調査で周濠を含 む全長 86 m、墳 丘長 70 m、後円 部径 40 m、後円部高さ 8.2 m、前方部幅 45 m、前方部高さ 7.7 mの規模を持つことが判明した。 墳丘は 2 段築成で、幅広い 1 段目と馬蹄形周濠を持ち、 円筒埴輪や木製立物を持つことが判明した。主体部は不明で あるが、滑石製双孔円板、管玉が出土している。 埴輪は円筒、朝顔形、蓋形などがあり、木製品には笠形、 鳥形のものがある。これらから 6 世紀前半の築造と推定さ れている。県指定史跡。★④ 筋違道(太子道)の遺構 黒田大塚から北 に行くと近鉄田原 本線の踏切横に孝 霊天皇黒田廬戸宮 趾の石碑が建つ。 大正4年の建立 である。 黒田駅前に戻 り、県道を北に進 む。300 m余りは 古道が消えている。住宅地の中を西に曲がると筋違道に出 る。このあたりは古道が現在の生活道路として使用されてい て、よく残っている。 このあたり一帯は三宅の原、 「倭屯倉」 の置かれた地域である。 うちひさつ  三宅の原ゆ   ひた土に足踏み貫き 夏草を    腰になづみ   いかなるや 人の児故そ 通はす我子  うべなうべな  母は知らじ うべなうべな 父は知らじ   蜷 みな の腸 わた か黒き髪に 真木綿もち  あざさ結ひ垂れ 大和の黄 楊の小櫛を 抑へ刺す   うらぐはし児  それそ我が妻 (巻 13・3295) JR 近鉄 奈良 天理 平端 郡山 王寺 西大寺 橿原神宮前 吉野口 吉野 五条 桜井 榛原 八木 御所 生駒 シート 18 の位置(赤枠) 大和高田 尺土 田原本 21 22 27 20 18 15 16 17 14 13 12 三宅の原歌碑 太子道 保津・阪手道 下ツ道 面塚 忍性菩薩御誕生の地石碑 佐々木塚古墳 孝霊神社 宮古北遺跡 10 11 29 27 23 唐古・鍵 考古学 ミュージアム 24 25 19 26 A E B F H D 国土地理院 25,000 分の 1 地図に加筆。Copy Right 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 奈良県立橿原考古学研究所友史会 禁無断複製 18-1 宝筐印塔 八幡神社の樟 法楽寺 黒田大塚古墳 孝霊天皇を祀る孝霊神社 犬養孝 三宅の原 歌碑 400m 0 川西町役場 古代の掘立建物(瓦、送風管 出土 古代の掘立建物(帯金具 出土 薬師堂 28 太子道の側溝(土馬、斎串 出土 室町時代の居館(瓦質井戸出土) 保津 ・ 阪手の側溝 (土馬、斎串出土) 室町時代の居館(和鏡 出土 G C

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Page 1: 田原本周辺の遺跡 - kashikoken-yushikai.org · 勢神宮へのお陰参 り絵馬と、聖徳太 子が休憩しておら れ、村人が昼食の 接待をしている様

田原本周辺の遺跡           友史会遺跡地図 シート 18

筋違道(太子道)と周辺の遺跡

筋違道(太子道) 奈良盆地の中央部、斑鳩町高安から南南東に向かって、条里方位と異なる斜め方位の道痕が畦畔や道路として残っている。特に川西町梅戸の周辺から三宅町屏風、伴堂、田原本町宮古、保津にかけて、現在道路として使用されている。 田原本町宮古から以南は新木、多を通り、橿原市新口の東方で下ツ道に接続する。これ以南は痕跡も見られないが、橿原市小房から明日香村豊浦にかけての飛鳥川の川岸が斜行道路の名残ではないかと言われている。斑鳩町高安から飛鳥までの斜行道路であるため、太子道の名で親しまれている。この道がいつ作られたのか明らかでないが、斑鳩と飛鳥を結ぶ道であること、この道沿いに聖徳太子の伝説があること、しかも田原本町から川西町にかけての微高地にのみ残っていることから、平坦地にもあった道路が水田開発と条里施行によって消滅したと考えられ、上宮王家滅亡による斑鳩宮の焼亡・廃絶が遠因ではなかったかといわれている。★④

(参考資料)斑 鳩 宮 推古天皇 9 年(601)2 月、聖徳太子が宮室を      斑鳩に建て、同 13 年に遷宮。皇極天皇 2 年      山背大兄王が蘇我人鹿の襲撃を受け焼亡。豊 浦 宮 推古天皇元年から推古天皇 11 年、小墾田宮に      移るまでの宮室。小 墾 田 宮 推古天皇 11 年、皇極天皇 2 年、斉明天皇元年      (655)などにみられる。

1.保津・宮古遺跡 保津・宮古遺跡は奈良盆地の低地遺跡として著名であるが、実体は明らかでなかった。古くは弥生土器とともに勾玉や管玉が出土して、現在の保津、宮古集落を中心に広範囲にわたっていることが推定されていた。1988 年の田原本町教育委員会の調査を初めとして、同年の病院建設、物流センターの建設、また国道 24 号バイパス工事に伴う発掘調査で、遺跡の南北範囲が明らかになってきた。また縄文時代草創期の有茎尖頭器を最古として、江戸時代の遺構まで継続していることが判明した。中でも注目されたのは飛鳥時代の遺構群である。建物 10 棟以上と倉庫 4 棟からなる主軸をやや西に振るものと、南北の方位に一致するものがある。 特に方位を西に振った建物は 7 世紀前半に比定され、筋違道との関係で注目された。また北地域でも 7 ~ 8 世紀代の堀立柱建物が数棟検出されている。 この遺跡の一画に孝霊神社・孝霊天皇廬戸宮伝承地などがある。★④

2.黒田遺跡 この遺跡は黒田大塚古墳の東南部で公民館建設時に確認された。その

後の継続調査で遺跡の範囲も明らかになってきた。古墳を中心とした南北方向の微高地に弥生時代中期の集落が営まれ、これを核に西方向に発展したと考えられている。 遺跡の西側を占める法楽寺は長禄 3 年(1459)の法楽寺伽藍坊院図によって盛時をうかがえるが、天正元年(1573)6 月の松永・筒井合戦によって兵火にかかり焼亡した。現在は本堂他わずかの堂舎が残っているにすぎない。★④

3.黒田大塚古墳 盆地平坦部の大型古墳として、墳丘がよく保存されている代表的な古墳 で あ る。1983年からの 3 度の発掘調査で周濠を含む全長 86 m、墳丘長 70 m、後円部径 40 m、後円部高さ 8.2 m、前方部幅 45 m、前方部高さ 7.7mの規模を持つことが判明した。 墳丘は 2 段築成で、幅広い 1 段目と馬蹄形周濠を持ち、円筒埴輪や木製立物を持つことが判明した。主体部は不明であるが、滑石製双孔円板、管玉が出土している。 埴輪は円筒、朝顔形、蓋形などがあり、木製品には笠形、鳥形のものがある。これらから 6 世紀前半の築造と推定されている。県指定史跡。★④

筋違道(太子道)の遺構 黒田大塚から北に行くと近鉄田原本線の踏切横に孝霊天皇黒田廬戸宮趾の石碑が建つ。大 正 4 年 の 建 立である。  黒 田 駅 前 に 戻り、県道を北に進む。300 m余りは古道が消えている。住宅地の中を西に曲がると筋違道に出る。このあたりは古道が現在の生活道路として使用されていて、よく残っている。 このあたり一帯は三宅の原、「倭屯倉」の置かれた地域である。 うちひさつ  三宅の原ゆ   ひた土に足踏み貫き 夏草を    腰になづみ   いかなるや 人の児故そ 通はす我子  うべなうべな  母は知らじ うべなうべな 父は知らじ   蜷

みな

の腸わた

 か黒き髪に 真木綿もち  あざさ結ひ垂れ 大和の黄

つ げ

楊の小櫛を 抑へ刺す   うらぐはし児  それそ我が妻                   (巻 13・3295)

JR

近鉄

奈良

天理 平端

郡山

王寺

西大寺

橿原神宮前

吉野口

吉野

五条

桜井榛原

八木

御所

生駒

シート 18 の位置(赤枠)

大和高田尺土

田原本

21 22

27

20

181516

17

1413

12

2 3

三宅の原歌碑

太子道

保津・阪手道

下ツ道

面塚

忍性菩薩御誕生の地石碑

佐々木塚古墳

孝霊神社

宮古北遺跡

10

11

8 6

29 27 23

唐古・鍵 考古学ミュージアム

24

25

19

26

AEB

FH

D

国土地理院 25,000 分の 1 地図に加筆。Copy Right 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 奈良県立橿原考古学研究所友史会 禁無断複製

18-1

① ②③ ④⑤

宝筐印塔

八幡神社の樟

法楽寺

黒田大塚古墳

孝霊天皇を祀る孝霊神社

犬養孝 三宅の原 歌碑

400m0

川西町役場

古代の掘立建物(瓦、送風管出土)

古代の掘立建物(帯金具出土)

薬師堂

28

太子道の側溝(土馬、斎串出土)

室町時代の居館(瓦質井戸出土)

保津 ・ 阪手の側溝(土馬、斎串出土)

室町時代の居館(和鏡出土)

GC

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(反歌) 父母に 知らせ児故 三宅道の 夏野の草を なずみ来るかも     (巻 13・3296)の歌碑(大養 孝書)をみて北へ進む。太神宮や郷神さんの説明板を見ながらまた北へ。★④

4.伴堂杵築神社  道 の 東 側 に 伴堂 杵 築 神 社 が ある。祭神は須佐男命。拝殿にある絵馬(現在は別の場所に保存されている ) は 慶 応 4 年

(1868)奉納の「おかげ踊り」を描いた も の と し て 有名。数十人の踊り子が赤い着物に裁着袴で 2 列になって踊っている。明治 19 年の竜池掘りの絵馬は伴堂池を掘ったときの池踊りの様子を示したもの。総勢 100 余名の人物が描かれている。★④

5.屏風杵築神社 伴堂から屏風はすぐである。屏風杵築神社は屏風と三河の鎮守で、祭神は須佐男命である。この神社も古い絵馬を持つことで有名である。伊勢神宮へのお陰参り絵馬と、聖徳太子が休憩しておられ、村人が昼食の接待をしている様子を描いた絵馬がある。太子の背後に屏風を巡らしているので、この地が屏風と呼ばれるようになったという。★④

6.白山神社 杵築神社の前は白山神社で、太子腰 掛 け 石 の 話 が残っている。この付 近 に 屏 風 寺 があったというが遺跡 は 明 ら か で ない。★④

関連している。この地の伝説には、室町時代のある頃、一天にわかにかき曇り空中から異様な怪音とともに寺川のほとりに落下物があった。この落下物は一個の翁の能面と一束の葱であった。能面はその場にねんごろに葬り葱はその地に植えたところみごとに成育して、結崎地方名産の「結崎ねぶか」になったという。能楽伝承とこの地の特産物の発祥がミックスされた村おこし物語となっている。★④

10.佐々木塚古墳・出屋敷遺跡 結崎駅の西側、公 園 の 中 に 一 辺30 mの四角い墳丘 状 の 高 ま り があ っ て 佐 々 木 塚と呼ばれている。1987 年住宅建設に際し事前調査を実施したところ、現在の墳丘から 5m離れて周濠の一部とみられる弧状の溝が検出され、多数の埴輪類とともに須恵器、滑石製紡錘車、有孔円板が出土した。これらから 5 世紀後半の築造と推定されたが墳形は確定することが出来なかった。この調査で弥生時代から古墳時代前期の溝、土壙、井戸が検出され、多数の土器や木製品が出土した。特に井戸からI様中段階の広口壷、短頸壷などが出土している。結崎駅を中心とした広範囲の集落が存在することが確認された。★④

結崎・石見周辺の遺跡

11.三河遺跡(地図中○内数字は三河古墳群の号数) 弥生時代から近世にわたる複合遺跡である。周辺は条里制地割りの水田地帯であるが、その下には群集墳

(三河古墳群)が埋没していた。古墳以前の遺跡も重複しており、弥生中期には方形周溝墓が継続して営まれ、後期末から庄内式の頃には集落となり、続く古墳前期(布留式)には再び方形周溝墓が作られている。古墳は現在、5 基が確認されている。 いずれも発掘調査で新たに発見されたもので、5 号墳の墳丘が屏風池の堤防となっていた以外はすべて墳丘を削平され

7.糸井神社 宮前橋を渡ると川 西 町 の 糸 井 神社である。「延喜式」神名帳の糸井神社に比定されている。祭神は豊鍬入姫命。他に綾羽明 神、 呉 羽 明 神を祀る。社伝によると、機

はた

織技術集団の神という。中世には結崎郷の鎮守として栄え、近世には春日社とも言った。春日大社の古殿を移建したとも伝え、室町期の春日曼荼羅や天保 13 年銘の「なもで踊」絵馬がある。雨乞いを見物する武士や、西瓜を屋台で切り売りする姿は、当時の風俗・習慣を知る重要資料となっている。★④ 川西町役場に絵馬の複製が展示されている。

8.宝院遺跡 川西町結崎から三宅町屏風にまたがる、弥生時代中期から古墳時代後期にかけての集落跡。式下中学校の増設時に弥生土器が出土して、遺跡の存在が確認された。 1986 年 4 月、体育館建設と運動場の拡張時に発掘調査が実施された。この調査で北西に走る河道跡が検出され、遺跡の西辺が確認された。土器の散布地域や出土地点からこの遺跡の範囲を推定すると、屏風集落の北側から式下中学にかけての 200 m程の範囲と考えられる。★④

9.面塚遺跡 面塚遺跡は川西町結崎の宮前橋の東側、蛇行する寺川の河川改修工事中に弥生土器が出土 し て、 標 高 43m奈良盆地最低部の弥生集落の 1 つとして注目された。出土している土器は弥生時代中期前半の甕、鉢、高坏が中心で、弥生時代後期の壷、高坏、古墳時代前期の土器類がある。先に紹介した宝院遺跡と併行する時期があり、同一遺跡とみるか母村と分村との関係とみるか意見のわかれるところである。 この面塚遺跡に隣接して「面塚」がある。「観世流発祥地」の碑も建っている。川西町結崎の地は、能楽の祖・観世清次が伊賀から移り住んで川西町結崎で結崎座を起こしたことに

ていた。古墳は 5 世紀後半から 6 世紀にかけて造営されている。特に注目されるのは 3 号墳で、2 重の周濠を巡らせた円墳である。墳丘は径約 20 mだが、周濠を含めた大きさは約 52 mで、円墳としては大型である。周濠からは土器・埴輪片が出土している。 その後、古墳がどのように埋没・削平されたのかがわかるのもこの遺跡の特徴である。奈良時代には古墳周濠の埋め立てが開始される。奈良時代の遺構ははっきりしないが、硯や瓦、墨書土器などの遺物が出土して、役所的な施設が近隣に存在したのかもしれない。鎌倉時代には一帯が耕作地となるが、この頃には古墳の墳丘や周濠はその痕跡を残していたらしく、周濠の形の田畑が見つかっている。完全に墳丘が削平され、平坦な土地に変えられるのは戦国時代から江戸時代にかけてで、その地割りが踏襲されて現在に至る。★②

12.伴堂東遺跡 弥生前期から古墳中期の方形周溝墓や土坑、古墳後期から飛鳥・奈良時代、平安時代の集落などが検出されている。特に遺物量の多い古墳前期(庄内・布留式)には、東海系土器が多く出土しており、北に隣接する三河地名とあわせて注目される。また、古墳後期の集落は方形に巡る溝に区画された中に掘立柱建物が並ぶもので、この地割りが飛鳥時代にも受け継がれており、太子道の方向にもほぼ一致しているという。地割りの方向は川や微高地などの自然地形に対応しているものではあるが、太子道の成立にも関わって興味深い。★②

13.笹鉾山 1 号墳 鏡作坐天照御魂神社の北西約 800mに稲荷神社がある 小 高 い 丘 が ある。笹鉾山と呼ばれていたこの丘は平 成 6 年(1994)に西隣りでおこなわれた発掘調査の結果、古墳であることが判明した。ほぼ東西方向に軸をもつ前方後円墳で、墳丘の全長は 50.4 m、2 重の周濠をもっており、あわせた全長は 96.2 mになる。周濠からは土師器や須恵器のほかに円筒埴輪や家形埴輪などが出土している。★①⑧

友史会遺跡地図 シート 18 田原本周辺の遺跡 18-2

伴堂杵築神社

明治 19 年の竜池掘りの絵馬

屏風杵築神社

聖徳太子接待の絵馬

太子腰掛け石

糸井神社

県指定文化財「なもで踊(太鼓踊り)」絵馬

式下中学校

面塚

佐々木塚古墳

三河 5 号墳が確認された屏風池北東堤1 ~ 4 号墳は、京奈和自動車道路の下

三河古墳群 2,3,4号墳

京奈和自動車道路周辺が伴堂東遺跡

笹鉾山1号墳と手前畑が 2 号墳跡

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査でも、円筒埴輪以外に人物・蓋形・石見型・馬形・鹿形などの形象埴輪、笠形・鳥形などの木製品が出土している。当初は水辺のまつりに埴輪や木製品が用いられた祭祀遺跡と考えられていたが、近年の研究で、遺跡は削平された 5 世紀後半から 6 世紀初頭の帆立貝式古墳とその周濠であったと考えられている。★③

19.唐古・鍵遺跡(本文内の A ~Iは地図内の位置を示す。) 弥生時代前期(約 2,300 年前)に成立し、古墳時代前期までの約 600 年間続いた、弥生時代の代表的な集落で、直径約 400 mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡っていた。★⑦ 1901 年 高橋健自氏、鍵出土の土器・石器を学会に紹介。 1917 年 鳥居龍蔵氏・岩井武俊氏らが唐古池堤南畔を発掘 1924 年 森本六爾氏による発掘、遺跡と遺物に対する検討  1936 年 国道建設のための唐古池の土取り工事に伴い、末永雅

雄 氏 が 発 掘 調 査 。出土した木製農耕具などから、弥生時代が農耕社会であることが明らかになり、 出土した多量の土器から、土器の変遷から時代をはかる「土器編年」が確立。

      弥生研究の基礎となる。  1977 年 北幼稚園建設に伴う調査でムラの南側を囲む大溝(A)      を検出し、土製(B)や石製の銅鐸鋳型(C)など鋳造      関連遺物が出土。銅鐸をつくるムラとして大遺跡の認 識がさらに深まる。遺跡が大字鍵にも拡がることから 遺跡名が「唐古遺跡」から「唐古・鍵遺跡」へ  1981年 弥生時代前期のドングリ貯蔵穴や鶏頭形土製品が出土。  1982 年 ムラの西端を囲む環濠を5条検出。 鞘入石剣が出土。 1983 年 製作工程を示す耳成山産流紋岩製石包丁未成品出土。 1985、86 年 前期の木棺墓(D)から大陸系成人男性人骨が出土。 1987、88 年 ムラの南端の確認。細形銅矛片、木戈などが出土。  1991 年 ムラの南側出入り口か?ムラの南側を囲む環濠4条と      橋脚状の杭、楼閣を描いた絵画土器(E)が出土。  1992 年 銅戈を描いた絵画土器、天竜川流域の土器が出土 。 1993 年 ヒスイ製勾玉(F)、碧玉製管玉の出土。  1997、98 年 青銅器鋳造炉跡(G)と鋳造関連遺物の出土。  1998、99 年 南地区の中枢部を囲むとみられる区画溝の検出。  1999 年 国史跡に指定。弥生中期初頭の大型建物跡(H)検出。

14.笹鉾山 2 号墳

 1 号墳の北西側では墳丘が削平された 2 号墳が検出されている。2 号墳は直径約 22 mの円墳と推定され、周濠が北側で収束していたことから、北側に陸橋があったと考えられている。2 号墳は非常に小さな古墳だったが、周濠からは円筒埴輪のほかに、人物埴輪や馬形埴輪、蓋形埴輪、笠形木製品、儀仗形木製品などが出土した。とりわけ人物埴輪 2 体と馬形埴輪 2 体は非常に残りが良く、馬と馬子のセット関係がわかる好資料。周辺では他に埋没古墳 1 基と墳丘が残る古墳が 2 基の合計 5 基が確認されており、1 号墳を盟主として古墳群が形成されていたことが明らかとなっている。★①

15.笹鉾山 3 号墳跡付近    (遠方に1号墳) 周濠を持つ径 20 mの後期の円墳。土師器、須恵器が出土 ★⑨

16.笹鉾山 4 号墳 径 10 m円墳。 土師器が出土。★⑨

17.笹鉾山 5 号墳 径 5 m円墳★⑨

18.石見遺跡 1930 年に寺川の水害による堤防復旧工事の土取りに よ っ て 発 見 され、円筒埴輪、人物・家形・石見型などの形象埴輪、笠形などの木製品が列をなして出土した。その後 1967 年の発掘調査で不整円形の縁辺に沿って埴輪がたて並べてあったことが判明している。このときの調

 古くからこの遺跡内で馬形や鶏形の形象埴輪や円筒埴輪が出土することから古墳の存在が 推 定 さ れ て いた。そして最近の調査で削平された複数の古墳が確認されている。このうち唐古 4 号墳 ( I ) は、前方後円墳と推定されているもので、その周濠から円筒埴輪、人物・馬形・蓋形の形象埴輪、笠形・鳥形・建築部材などの木製品がそれぞれ出土している。出土した遺物から、6 世紀前半の築造と考えられる。★③(現在 10 号墳まで確認されている。)

20.鏡作神社(石見) 田原本町の北、三宅町大字石見にも 鏡 作 神 社 が ある。祭神は石凝姥命だ。石見は鏡作郷ではなく、黒田郷に属しており、また『延喜式』の式内社にも比定されていない。それにも関わらず、この地にも鏡作神社が存在するということは注目される。★①

田原本駅周辺の遺跡

下ツ道(中街道) 下ツ道は奈良盆地を南北にはしる古代の直線道路、三道のひとつで、最も西側に位置している。田原本町内では下ツ道の調査はおこなわれたことがないが、下ツ道の東西に広がる条里地割りから復原できるいわゆる条里余剰帯の幅から、およそ 42 ~ 45 m幅の道路であったと想定される。さて、この下ツ道は古代のみならず、近世にいたるまで主要街道として存続しており、近世には中街道と呼ばれていた。中街道は田原本村の中心を南北に通っており、北隣りの新町を含めると 5 基(原位置への遺存は 4 基)の道標が街道に面して立っている。北方向では京、奈良、郡山の地名が、南方向では大峰山、吉野、高野の地名が記されている。また、街道筋には道標のほかに常夜灯として用いられた太神宮灯籠も多く残っている。★①

田原本寺内町、平野氏陣屋跡 田原本の名の由来は、低地を意味する「タワラ」と場所を示す「モト」からなる地名とされているのが一般的だが、ほかに鏡作りと関連して「踏

た た ら

鞴」の転訛とする説もある。このほかにも田原本周辺には鏡作坐天照御魂神社をはじめとして鏡作の名の付いた神社や鏡作りに関連する可能性のある地名が点在しているが、これまで鏡作りに関する遺跡や遺物は発見されていない。 近鉄田原本駅を下車してすぐ、駅の東側に田原本の町屋が広がっている。田原本は中世に成立した楽田寺の門前町と田原本氏の城館、近世に成立した教行寺を中心とした寺内町と

田原本領主として入部した平野氏の陣屋、そして中世以来存在した農村などから構成される複合的な町である。★①

21.津島神社 明治 2 年 (1869)に田原本領主の平野 氏 の 本 貫 地 であった尾張国津島の津島社に因んで津島神社と改称したが、もとは祇園社といい、今は現存しないが、明治時代の書き写された棟札に天治 2 年(1125)の年号があることから創建年代は平安時代までさかのぼると推定される。もともとは平安時代以降、中世の田原本村の産土神であったと考えられる。★①

22.楽田寺 津島神社の東には楽田寺という寺院がある。創建は天 平 元 年(729)とする伝と元享 2年(1322) と する伝があるが、よく わ か っ て い ない。今は非常に小さな寺院だが、最も栄えた室町時代の中期には坊が 20 を数えた大寺院だったと伝えられている。田原本村はこの楽田寺と当時は祇園社と称された津島神社の門前町として形成されたと考えられる。ここには桧物を作る田原本座があったようで、東に隣接する大字阪手にあった桧物を売るサカテ座とともに栄えたようだ。★①

23.平野陣屋跡 楽田寺があったとされる堺町、三輪町、味間町、材木町の北には奥垣内、奥城ヤシキという所があるが、ここに中世、田原本氏か田原本南氏が居館を構えていたと考えられている。田原本氏は『和州十五郡衆徒国民郷士記』や『大乗院寺社雑事記』などに、田原本南氏も『大乗院寺社雑事記』などに名前がみえる。 文禄 4 年(1595)、賤ケ岳七本槍で知られる平野権兵衛長泰が田原本村を含む十市郡 7 カ村に五千石の知行地を宛行われた。しかし、長泰は田原本には入部せず、かわりに摂津国富田の教行寺を誘致して寺内町を整備し、その経営を委ねた。寺地は方 1 町、寺内町は方 3 町で造営された。今の市町、祇園町、本町、茶町、魚町がそれで、今も背割り排水の町並みが一部に残っている。2 代の長勝は寛永 6 年(1629)に初めて領地である田原本村に入部するが、その際に教行寺と対立などがあり、教行寺は現在の広陵町の箸尾へ移転し、旧寺地へは本誓寺と浄照寺が置かれた。また、長勝は中世に

竹薮付近が石見遺跡

石見遺跡出土埴輪★⑥飾り馬        椅子に座る男性

友史会遺跡地図 シート 18 田原本周辺の遺跡 18-3

楽田寺

笹鉾山 2 号墳出土 馬子と馬の埴輪★⑥⑦

復元された絵画土器の楼閣

津島神社

平野陣屋跡南西 太神宮灯篭から奥城ヤシキを望む

鏡作神社(石見)

唐古 4 号墳後円部跡(左林が唐古池)

Page 4: 田原本周辺の遺跡 - kashikoken-yushikai.org · 勢神宮へのお陰参 り絵馬と、聖徳太 子が休憩しておら れ、村人が昼食の 接待をしている様

出典 文中の★は最新の出典を示す。(敬称略 ) ① 2007 年 6 月 17 日「田原本・鏡作神社周辺を歩く」  第 528 回例会 第 493 号会報 山田隆文 ② 2001 年 5 月 20 日「ミヤケを歩く」  第 466 回例会 第 438 号会報 小池香津江 ③ 2000 年 11 月 19 日「奈良盆地低地部の古墳」  第 461 回例会 第 434 号会報 鈴木裕明 ④ 1998 年 5 月 17 日「筋違道と周辺の遺跡」  第 436 回例会 第 411 号会報 ⑤1981 年 10 月 18 日「十六面・薬王寺遺跡の発掘参加」  第 273 回例会 第 257 号会報 勝部明生 ⑥「はにわ人と動物たち」 2008 年春季特別展図録 ⑦田原本町教育委員会   ⑧「大和前方後円墳集成」 ⑨「奈良県遺跡地図」 奈良県教育委員会

モデルコース1.筋違道(太子道)と周辺の遺跡               徒歩約 6km 所要時間約 5 時間 近鉄田原本駅→1. 保津宮古遺跡→2. 法楽寺→3. 黒田遺跡・黒田大塚古墳<トイレ>→三宅原歌碑→4. 伴堂杵築神社→5. 屏風杵築神社→6. 白山神社→8. 宝院遺跡→9. 面塚遺跡・面塚→ 7. 糸井神社<トイレ>→川西町役場(糸井神社の絵馬複製)→ 10 佐々木塚古墳・出屋敷遺跡→近鉄結崎駅2.結崎・石見の遺跡   徒歩約 6km 所要時間約 5 時間 近鉄結崎駅→ 11. 三河遺跡→ 12. 伴堂東遺跡→ 13 ~ 17. 笹鉾山古墳群→ 18. 石見遺跡→ 19. 唐古鍵遺跡<トイレ>(→唐古鍵考古学ミュージアム<トイレ>)→ 20. 石見鏡作神社→近鉄石見駅3.田原本駅周辺の遺跡  徒歩約 5km 主要時間約 4 時間 近鉄田原本駅→ 21. 津島神社→ 22.楽田寺→ 23.田原本陣屋跡→ 24. 鏡作坐天照御魂神社→ 25. 鏡作麻気神社(→ 19. 唐古鍵遺跡<トイレ>)→唐古鍵考古学ミュージアム<トイレ>→ 26. 羽子田古墳群→ 27. 宮古鏡作伊多神社・保津鏡作伊多神社→ 28. 常楽寺跡・薬師堂・宝筐印塔→ 29. 十六面・薬王寺遺跡(八幡神社の大樟)→近鉄田原本駅

 鏡作坐天照御魂神社の西南西約 1㎞の所にふたつの鏡作伊多神社がある。大字宮古と大字保津にある。保津は鏡作郷に属しているが、宮古は隣りの黒田郷に属している。宮古のものはもともと補屋大明神、保津のものはもともと牛頭天王社と呼ばれていたようだが、明治時代なってともに『延喜式』神名帳にある鏡作伊多神社に比定された。祭神はともに石凝姥命である。なぜ、式内社の鏡作伊多神社が 2 ヵ所に比定されたかは定かではない。★①

28.常楽寺跡 宮古の鏡作伊多神 社 の 北 側 に は

「寺垣内」や「寺東」、「大門」などの小字が残っている。ここに『三箇院家抄』や『招提千歳伝記』などにみえる常楽寺があったと考えられている。寺跡の推定地内には宝筐印塔が一基残っており、この周囲から泥塔が多数出土したことがよく知られている。ただ、これまでの発掘調査では伽藍の構造を知ることのできる成果はえられていない。なお、寺跡内の薬師堂には平安時代初期の一木造の薬師如来坐像が残されている。★①

29.十六面・薬王寺遺跡 この遺跡は近鉄田原本駅から西へ徒歩約 15 分、県道田原本広陵線と三輪王寺線にはさまれた南北約 500mの範囲にわたって包含層が確認されており、古墳時代(若干の弥生時代後期の溝もある)から中世(室町時代頃)までの複合遺跡である。 時代的に新しいものは鎌倉~室町時代とみられる村落の一部が調査地域の北辺で検出されている。現在、残っている小字名にも集落をうかがわせる名称がある。主な遺構は溝と井戸である。溝は幅lm程度のものから3mに近いものまであり、単なる排水用の溝とは考えがたく、一種の「環濠」ではないかと思っている。稗田環濠集落の例にみるような集落全体をとり囲むような「濠」とは大分異なっているが、数軒の家を囲む小さい「環濠」がいくつもあり、それがお互いに連絡しあって一つの村を形成しているのではないだろうか。今までのところ、家屋の痕跡(柱材や柱穴・礎石等)が検出されていないので推測の域を出ない。また、井戸は数多くあり、

①①

④④

③③ ⑥ ⑦ ⑧⑧ ⑨⑨

淨淨照照寺寺

2233 平平野野陣陣屋屋跡跡

寺寺内内町町

2222 楽楽田田寺寺

奥奥城城ヤヤシシキキ

奥奥垣垣内内

田原本詳細図

田田原原本本駅駅 西西田田原原本本駅駅

下下ツツ道道

本本誓誓寺寺

田田原原本本小小

田田原原本本幼幼

○内数字:26 羽子田古墳群号数 :道標 :太神宮灯篭

250m

2211 津津島島神神社社

居館が構えられていた奥垣内と奥城ヤシキに家臣たちの屋敷地を含めた陣屋を造営する。その後、田原本村の発展とともに町並みが拡大し、現在見られる田原本村になった。 田原本の寺内町と陣屋跡はこれまでにそれぞれ 8 次、12次の発掘調査がおこなわれている。寺内町遺跡第 1 次調査では中世にさかのぼる大溝と、近世寺内町の大溝が確認されている。★①

24. 鏡かがみつくり

作 坐にいます

天あまてる

照御み た ま

魂神社 通称「鏡作神社」と呼ばれる鏡作坐天照御魂神社は田原本村の北、大字八尾に鎮座している。その名のとおり、古代氏族のひとつ鏡作氏の氏神であり、周辺に展開した鏡作郷の郷社である。『延喜式』神名帳にもみえる式内社で祭神は天あまてるくにてる

照国照日ひ こ

子火ほあかり

明命、石

いしごりどめ

凝姥命、天あめの

児こ や ね

屋根命。天照国照日子火明命とは社名ともなっている天照御魂神のことと考えられている神のひとつで、天照御魂とは天照大神の象徴である鏡のこと、すなわち天照大神の魂、天照大神そのものを指すとも考えられている。石凝姥命は鏡作氏の祖とされる神で、神話にある三種の神器のひとつである八咫鏡を作った神とされている。この神社には御神宝として伝えられている三神二獣鏡がある。この鏡の特徴はいわゆる三角縁神獣鏡の外区が欠けているという形状だが、作製当初から外区が無かったのか、それとも作製後に外区を打ち欠いたのかは定かではない。三角縁神獣鏡には舶載鏡と仿製鏡の議論がまだあるが、この鏡は鏡背面の文様の型式から仿製鏡であると考えられる。今

は神宝となっているが、詳細な観察によると鈕ちゅう

の部分に土がこびりついていることから、付近の古墳から出土したものとする説もある。★①

25.鏡作麻ま け

気神社 小阪里中古墳群 鏡作坐天照御魂神社から寺川を挟んで東側、大字小阪に鏡作麻気神社がある。江戸時代までは子安大明神と呼ばれていたようだが、明治時代になって『延喜式』神名帳にある鏡作麻気神社に比定された。祭神は天

あめのあらと

糠戸命とも麻

ま ひ と つ ね

比止都禰命ともいわれている。天糠戸命は石凝姥命の子とされる神だが、麻比止都禰命の場合は別神で、別名は天

あめの

目ま

一ひ と つ

箇神ともいい鍛冶に関わる神とされている。また、この神社の東 500 mほどの所に「多々羅部」さらにその東隣りには「ワラダ」という小字が残っている。多

た た ら

々羅は鋳物の道具である踏

た た ら

鞴を、ワラはその燃料である藁の集積を想起させる興味深い地名である。 なお、神社の南隣りの発掘調査で埋没古墳、小阪里中古墳

(1 号墳)が確認されている。直径約 21.5 mの円墳で、幅約4 mの周濠から人物、動物、器財などの形象埴輪が多数出土している。近年の周辺調査の結果、古墳は複数あり、古墳群を形成していたことが明らかとなった。★①

26.羽子田古墳群 鏡作坐天照御魂神社の南西には羽子 田 古 墳 群 が ある。とはいっても、墳丘が遺存しているものはなく、ほとんどが発掘調査の結果発見された埋 没 古 墳 で あ る。これまでの 30 次にわたる調査で 22 基が確認されている。中でも著名なのは 1 号墳から出土したとされる牛形埴輪。この牛形埴輪の出土遺構については長らく正確な状況が不明だったが、第 11 次調査の結果、1 号墳の墳形は前方後円墳で、牛形埴輪はその周濠から出土した可能性が高く な っ た。11 次調査では他に盾持ち人などの形象埴輪も多数出土している。★①

27.鏡作伊多神社 (宮古、保津)

次々と場所を変えて掘られたようである。現在でも湧水の水質に鉄分を多く含み、「良い水」を得るには、苦労したのではないだろか。 平安時代の水田遺構は中世村落の下層にあり、ここに足跡がみられる。昭和 55 年、バイパス路線のすぐ西側で工場建設の時に発掘調査をおこない、県下で最初に足跡を検出したのであったが、以降県内では各地に足跡がみつかり始めた。人や動物(牛とみられる)の足が耕土にめり込み、しばらくして川の氾濫で砂が足跡に落ち込んでその輪画が残ったものとみられる。群馬県の遺跡では歩いていた人の行動までわかったそうであるが、十六面遺跡調査範囲の中央付近では、氾濫の原因になったと思われる旧河川がみつかっている。かなり川幅があるが(約 100 m)一度にそれほど水が流れていたとは考えられず、流れを右に左に移しながら最終的にこの幅が形成されたものであろう。川中は未調査であるが、現在の「寺川」の前身ではないかと推定されている。 南端の調査地域では、さらに古く古墳時代の遺構が検出されている。須恵器や土師器に混じって「製塩土器」片が多量に出土しており、特殊な集落の可能性がある。溝および柱穴・井戸がみられ、建物はすべて高床式のものである。内陸国であるが県内では製塩土器出土の報告が増えており、調査の進展がまたれる。(昭和 56 年 10 月 3 日現在)★⑤ 15 世紀には屋敷を囲む環濠が成立するが、遺跡周辺には

「保津北浦」・「ホツノマエ」といった小字が残り、保津領になっている。『大乗院寺社雑事記』には「箸尾一族無残所打死丁、保津新、中、高田、金剛寺、寺松、ホツ、興西、富本、大門」とあり、「保津新」・「ホツ」の 2 名の存在がうかがえる。十六面・薬王寺遺跡の中世 ( 室町時代)居館は、在地武士「保津氏」との関連が深そうである。★⑦

薬王寺 八幡神社境内にある樹齢 500 年の樟の巨木

18-4友史会遺跡地図 シート 18 田原本周辺の遺跡

発行日 2010 年 8 月   編集 藤原三津子   踏査・撮影協力  川村和正 坂部征彦 鷹田震朗 西山修 松浦章二   企画・構成 下尾茂敏   橿原考古学研究所友史会会員に限定配布

鏡作坐天照御魂神社本殿

鏡作伊多神社(保津)

羽子田 1 号墳跡 田原本幼稚園

1 号墳出土 牛の埴輪★⑦

鏡作麻気神社

寺域推定地内の宝筐印塔

鏡作伊多神社(宮古)