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75 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 【報告】 DG-Lab 公開実験「DG-Lac(an)」の様子 木元竜太 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 2016 12 3 日、クロスパル高槻(総合市民文化センター) にて、DG-Lab 公開実験「DG-Lac(an)」が開催された。当日は 大盛況であり、定員は 50 名であったが、ほぼ満席となるような 状況であった。第 1 部「言語・連鎖」では、ゲストの松本卓也氏 と当研究会の小倉拓也氏が登壇し、第 2 部「政治・分析」では、 ゲストの上尾真道氏と、同じく当研究会の山森裕毅氏が登壇した。 また、司会者は当研究会の福尾匠氏が務めた。2016 年は、ジャ ック・ラカンの主著『エクリ』(1966 年)が刊行されてからちょ うど 50 年であり、この公開実験は、そのことを踏まえ、ドゥル ーズ=ガタリ(グァタリ)の思想と、ラカンの精神分析の奇妙な 接点を探究していく、というものである。両者のあいだに大雑把 に共通項を見出す、あるいは対立軸(互いにアンチ .. . an である) を立てるという試みは、一見すると、両者の差異を明らかにする という点では有益であり、なおかつ穏当な解決法のように思える。 しかし、この実験の目的は、それだけに拘泥するものではなく、 ドゥルーズとガタリ、そしてラカンの関係そのものについて問い 直すことである。すなわち、ドゥルーズ=ガタリとラカンは、互 いに欠けている .... . Lac ものを埋め合う補完関係にあるのか、はたま た各個人の思想ひとつ .. . an として扱うべきなのか、と。 ドゥルーズ=ガタリとラカンの関係を象徴する出来事として、 『アンチ・オイディプス』刊行後のラカンの言動が挙げられる。 ラカンはこの著作に対して激怒し、フロイト派に対して著作への 一切の言及を禁ずる箝口令を敷いた。ラカンは、愛弟子ガタリと、 自分が評価していた哲学者ドゥルーズの裏切りに相当堪えたよ うで、 1972 年以降、《オイディプス》の相対化に重点をシフトさ せていく 1) 。すなわち、ドゥルーズ=ガタリが、フロイト以来の エディプス・コンプレックスや神経症中心主義を引きずる、旧態 依然としたフランス精神医学界に、『アンチ・オイディプス』の刊 行によって一石を投じた、というのが従来の見方であった。 しかし、 2015 年に松本卓也氏の『人はみな妄想する――ジャッ ク・ラカンと鑑別診断の思想』の刊行によって状況は一変する。 実は、ガタリが提示した神経症のスキゾフレニー化などのアイデ アに対して、むしろラカンは共鳴し、後期ラカンはドゥルーズ= ガタリにかなり近い位置にあった、というのである。つまり、『ア ンチ・オイディプス』が刊行された 1972 年あたりを境にして、 精神病と神経症の鑑別診断を何よりも重視していた 50 年代、 60 年代のラカンの理論からは大きく変遷したというのである 2) もしこの仮説が正しいのであれば、『アンチ・オイディプス』はま さにラカンが成し遂げようとしたことを先取りして代弁した書 物として新しい価値がそこに見出されるであろうし、後期ラカン にしてもまた革新的な精神分析家としての価値をそこに見出す ことができるであろう。さらに、上尾真道氏の『ラカン 真理の パトス』も 2017 3 月に刊行され、ラカン界隈はより一層の賑 わいを見せている。はたしてドゥルーズ=ガタリとラカンの関係 はどのようなものだったのか。 左から福尾氏、山森氏、上尾氏、松本氏、小倉氏 当日の発表の内容について触れていこう。松本氏の「「シニフ ィアンの論理」再考――ラカンにおける構造と歴史」は、構造主義 者の代表格である(と見なされることが多い)ラカンが、「構造」 が非歴史的であるというサルトルからの批判に対して、神経症者 の症状が家系における負債の歴史の伝承によって引き起こされる こと、すなわち、個人の主体としての位置が上の世代の語りの中で 決定されている、という反論を試みることから始められた。そこで は、通時的な歴史が共時的に(非歴史的に)現れる中で無意識の主 体が現れていくことを見出すのである。それは、「シニフィアンの 現行の使用」の中で主体の歴史を読み取ることであり、共時的な構 造へと変換されるものである。最後に、その「シニフィアンの論理」 とガタリが爆破しようとした「構造」の近似性を導き出す作業をお

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Page 1: DG-Lab(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ) | フランスの思 …...1. François Dosse, Gilles Deleuze et Félix Guattari, Biographie croisée, La Découverte, 2007(『ドゥルーズとガタ

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【報告】

DG-Lab 公開実験「DG-Lac(an)」の様子

木元竜太

―――――――――――――――――――――――――――――――――

2016年 12月 3日、クロスパル高槻(総合市民文化センター)

にて、DG-Lab 公開実験「DG-Lac(an)」が開催された。当日は

大盛況であり、定員は 50名であったが、ほぼ満席となるような

状況であった。第 1部「言語・連鎖」では、ゲストの松本卓也氏

と当研究会の小倉拓也氏が登壇し、第 2 部「政治・分析」では、

ゲストの上尾真道氏と、同じく当研究会の山森裕毅氏が登壇した。

また、司会者は当研究会の福尾匠氏が務めた。2016年は、ジャ

ック・ラカンの主著『エクリ』(1966年)が刊行されてからちょ

うど 50年であり、この公開実験は、そのことを踏まえ、ドゥル

ーズ=ガタリ(グァタリ)の思想と、ラカンの精神分析の奇妙な

接点を探究していく、というものである。両者のあいだに大雑把

に共通項を見出す、あるいは対立軸(互いにアンチ...

anである)

を立てるという試みは、一見すると、両者の差異を明らかにする

という点では有益であり、なおかつ穏当な解決法のように思える。

しかし、この実験の目的は、それだけに拘泥するものではなく、

ドゥルーズとガタリ、そしてラカンの関係そのものについて問い

直すことである。すなわち、ドゥルーズ=ガタリとラカンは、互

いに欠けている.....

Lacものを埋め合う補完関係にあるのか、はたま

た各個人の思想ひとつ...

anとして扱うべきなのか、と。

ドゥルーズ=ガタリとラカンの関係を象徴する出来事として、

『アンチ・オイディプス』刊行後のラカンの言動が挙げられる。

ラカンはこの著作に対して激怒し、フロイト派に対して著作への

一切の言及を禁ずる箝口令を敷いた。ラカンは、愛弟子ガタリと、

自分が評価していた哲学者ドゥルーズの裏切りに相当堪えたよ

うで、1972年以降、《オイディプス》の相対化に重点をシフトさ

せていく 1)。すなわち、ドゥルーズ=ガタリが、フロイト以来の

エディプス・コンプレックスや神経症中心主義を引きずる、旧態

依然としたフランス精神医学界に、『アンチ・オイディプス』の刊

行によって一石を投じた、というのが従来の見方であった。

しかし、2015年に松本卓也氏の『人はみな妄想する――ジャッ

ク・ラカンと鑑別診断の思想』の刊行によって状況は一変する。

実は、ガタリが提示した神経症のスキゾフレニー化などのアイデ

アに対して、むしろラカンは共鳴し、後期ラカンはドゥルーズ=

ガタリにかなり近い位置にあった、というのである。つまり、『ア

ンチ・オイディプス』が刊行された 1972 年あたりを境にして、

精神病と神経症の鑑別診断を何よりも重視していた 50年代、60

年代のラカンの理論からは大きく変遷したというのである 2)。

もしこの仮説が正しいのであれば、『アンチ・オイディプス』はま

さにラカンが成し遂げようとしたことを先取りして代弁した書

物として新しい価値がそこに見出されるであろうし、後期ラカン

にしてもまた革新的な精神分析家としての価値をそこに見出す

ことができるであろう。さらに、上尾真道氏の『ラカン 真理の

パトス』も 2017年 3月に刊行され、ラカン界隈はより一層の賑

わいを見せている。はたしてドゥルーズ=ガタリとラカンの関係

はどのようなものだったのか。

左から福尾氏、山森氏、上尾氏、松本氏、小倉氏

当日の発表の内容について触れていこう。松本氏の「「シニフ

ィアンの論理」再考――ラカンにおける構造と歴史」は、構造主義

者の代表格である(と見なされることが多い)ラカンが、「構造」

が非歴史的であるというサルトルからの批判に対して、神経症者

の症状が家系における負債の歴史の伝承によって引き起こされる

こと、すなわち、個人の主体としての位置が上の世代の語りの中で

決定されている、という反論を試みることから始められた。そこで

は、通時的な歴史が共時的に(非歴史的に)現れる中で無意識の主

体が現れていくことを見出すのである。それは、「シニフィアンの

現行の使用」の中で主体の歴史を読み取ることであり、共時的な構

造へと変換されるものである。最後に、その「シニフィアンの論理」

とガタリが爆破しようとした「構造」の近似性を導き出す作業をお

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こなった。

この松本氏の発表を聞いて私が感じたのは、構造主義者として

位置づけられることの多いラカンを、後期ラカンを精査すること

によって新たなラカン像を一貫して描き出そうとしているという

ことである。特に、冒頭のラカンのインタビューの引用によって、

この発表の全体像が極めて明快になっており、とても惹きつけら

れる内容だった。

松本卓也氏 小倉拓也氏

次に、小倉氏の「部分的依存と半-偶発――ドゥルーズにおける

「連鎖」概念の行方」についてである。ドゥルーズの著書では『ア

ンチ・オイディプス』、『シネマ 2』などで「マルコフ連鎖」が用い

られており、他に、『差異と反復』や『意味の論理学』においても

関連した議論が展開されている。ドゥルーズの文脈で用いられる

マルコフ連鎖は、レイモン・リュイエを経由し、決定か偶然か......

とい

う二者択一ではないような、両者が入り混じった状態での連鎖で

ある。ただ、この「マルコフ連鎖」は『アンチ・オイディプス』で

言及されているように、ラカンの功績であるというのだ。この発表

では、ドゥルーズの連鎖概念の行方について、「カオスに抗する闘

い」、「ラカンのシニフィアン連鎖」、「リュイエのジャルゴン」など

の観点から考察し、そこにラカンによる貢献が見られることを示

した。

この「マルコフ連鎖」は『アンチ・オイディプス』第 1章におけ

る欲望のコードの議論に大きく関わるものであり、個人的に大変

注目していた発表であったが、ドゥルーズに出てくる「マルコフ連

鎖」についてここまで詳細に扱った研究は他にないだろう。

続いて、第 2部の「政治・分析」の上尾氏の発表「忘却の政治:

あるいは「書かれないことをやめない」ものの周りで」に移る。

70 年代のラカンとドゥルーズ=ガタリの交錯の政治的意義を

「忘却」というキーワードから読み解いたものである。エクリチ

ュールを端緒とするラカンにおけるシニフィアンの問題を、S1と

S2のあいだに絶えず引かれることになる(「書かれないことをや

めない」)欲望の線と呼ばれるものの観点から考察されていた。

ラカンとマルクスの近似性から「享楽」といったものを政治的な

面から考察できること、さらに精神分析そのものとマルクスとの

共通点を抽出し、壮大な地理哲学が展開された。

この発表はシニフィアンやエクリチュールなど「ことば」がも

つ、ある種意外な政治的な側面を描き出しているように感じられ

た。単に政治哲学的な言説をなぞったものではなく、ラカンやド

ゥルーズの文献を丹念に読み込んだうえで議論が展開されたも

のであり、非常に興味深かった。

上尾真道氏 山森裕毅氏

最後の山森氏の「カフカ式スキゾ分析について」は、主にフェ

リックス・ガタリによって提示される「スキゾ分析」の実践にお

ける有効性を考察するものであった。「スキゾ分析」はスキゾフ

レニー化することを目指す精神分析の方法のことである。たとえ

ば、『アンチ・オイディプス』では精神病と神経症の区別よりもパ

ラノイア(モル的)とスキゾフレニー(分子的)の区別が重視さ

れ、その中でもとりわけ後者を重視する。オイディプス的な因縁

から逃れること、すなわち、パラノイア的父から神経症的息子を

逃走..

させることなのである。この発表で取り上げられている『カ

フカ――マイナー文学のために』は、カフカの作品を題材にして、

その逃走のプロセスを追ったものである。個人的な事件が政治的

なものに直接関わるという「ミクロ政治学」によって、この分析

のプロセスの中に革命が織り込まれていることを示した。

ガタリについて扱った研究は稀少であり、ドゥルーズではなく

ガタリに焦点を当てることで、ラカンとの関係がより深く見えて

きた。

各発表の論点はどれも明快であり、発表とセッションというか

たちの中で、より議論が活発となるような素材が豊富に提供され

ていた。各発表者への質問は途絶えることなく、いかに関心をも

たれるようなテーマであったかがうかがえる。今回の公開実験で

は、ラカンの側から見たドゥルーズ=ガタリ、ドゥルーズ=ガタ

リの側から見たラカンを照応することで、両者の新たな側面が見

えてきた。無論、公開実験という形態をとる以上は議論が混乱し

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て収拾がつかなくなるなどのリスクを抱えているものの、そうし

た混乱をある程度予想しつつ、それを楽しんでしまうような余裕

が必要なのかもしれない。

全体討議の様子

――――

Notes

1. François Dosse, Gilles Deleuze et Félix Guattari, Biographie croisée, La Découverte, 2007(『ドゥルーズとガタ

リ:交差評伝』、杉村昌昭訳、河出書房新社、2009年、227-228頁。)

2. 松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』、青土社、2015年、384-385頁。