Download - 秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ! u ô É v Î { … · 95)で、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏のモデ ルとしても有名です。源融は六条河原院(現・渉成園)
ココで一杯!
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⑭尼崎戎神社
秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ!秀吉の中国大返し秘話!日本の歴史を変えた雉ガ坂へ!~尼崎一低い山(?)の菜切山と、阪神間モダニズムの大庄公民館と~
尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なって優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田球場などを巡ります!
尼崎でも「武庫郡」に位置する大庄界隈を歩きます。かつては琴浦と呼ばれ、この辺りは海岸の景色が他と異なって優れているという意味で「異浦」と呼ばれたといいます。光源氏のモデルという源融伝説の神社や、日本三大怨霊としても知られる崇徳院ゆかりのまち、奇跡の日本一優勝からその後の暗黒時代を支えた阪神タイガース浜田球場などを巡ります!
かつては「尼蚊崎」といわれるほど、蚊の大量発生
する大湿地帯でしたが、戦後復興資金の確保に奔
走していた当時の尼崎市長・阪本勝の招致によっ
て尼崎競艇場となりました。競艇場名物として「多
幸焼(たこやき)」(100円6個)があります。見た目
はタコ焼きだが、タコの代わりにコンニャクが入って
いて美味です。
⑭尼崎競艇場
⑬道意神社・道意新田跡(尼いも)
承応2年(1653)、道意新田の開拓に成功した西
成区海老江(現・大阪市福島区)の中野道意(西
村九郎右衛門)が勧請したのが始まりといいます。
道意は尼崎藩主青山幸利(1616~1684)のお気
に入りの針医でした。また道意新田は尼芋の名産
地でもありました。京阪神の料亭などにも出されて
いましたが、戦前、戦後の都市化、工業化によって
幻の尼崎名物となりました。しかし近年、「尼崎市
南部再生プラン」の一環で復興プロジェクトがスタ
ートして、尼いもを利用した焼酎「尼の雫」やスイ
ーツなどが市販されるようになっています。
⑫楠霊神社・親子楠
樹齢は200年以上といわれています。武庫川が洪
水したさいに、この楠に登って難をのがれたとか、こ
の地が追剥が出没して人々から恐れられたので、
結界として楠が祀られたといった伝承があります。
⑪武庫川駅
非常に珍しく、鉄橋の上に駅舎があります。「近畿
の駅百選」に選定されています。
⑩西新田の渡し・旗振り通信(武庫川堤)
かつては武庫川を超えるのに西新田の渡しがあり
ました。明治4年(1871)の渡賃は旅人1人13文、
船渡は24文、増水時に船頭が2人乗れば48文と
いう記録が残っています。また武庫川堤は「旗振り
通信」のポイントでもありました。旗振り通信は、江戸
時代中期に大坂堂島米会所の相場をいち早く他
地域に伝達するため、また地方の相場を大坂に伝
えるために考案されたといいます。昭和56年(19
81)の実験では25の中継点を設定し、大阪市堂島
~岡山市京橋間(約167キロメートル)を2時間17
分で通信することに成功しています。電話や電信
がない時代でも、中央・地方の情報が想像以上の
スピードでやり取りされていた事実が判ります。
⑨雉ガ坂伝説
天正10年(1582)、本能寺の変を知った秀吉一行
が備中から「中国大返し」していたさいに、ひとりの
農夫が川向うの雉が慌ただしく飛び立つのを見て
異変に気づき、明智軍が待ち伏せしていると秀吉
に伝え、道を変えて難を逃れたという伝承がありま
す。のちに天下人となった秀吉は農夫の功績を讃
えるために捜索しましたが再会できなかったので、
この付近の雉の捕獲を禁じて、尼崎の民にお礼と
して田池(礼田池=イヤデン)を与えたといいます。
歴史に「if」はありませんが、もしこのとき、尼崎の農
夫の一言がなかったら、日本の歴史が変わってい
たかも知れません。
⑧契沖歌碑(口ノ開公園内)
「武庫の浦の わだの岬に 寄る浪の ここにも掛くる
天の橋立」の契沖の歌碑があります。契沖(1640
~1701)は尼崎生まれの真言宗僧侶であり、古典
学者(国学者)です。
⑦大庄公民館
昭和12年(1937)竣工。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建ての建
築物で、設計者は戦後日本を代表する建築家・村野藤吾です。茶褐色
の美しいタイルと、格調高い動植物のレリーフが飾られているのが特徴的
です。国の登録有形文化財。
⑥元阪神浜田球場
元は阪神電鉄の路面電車路線「阪神国
道線」の車庫でしたが、国道線が廃線とな
ったために跡地利用として、阪神タイガー
スの二軍専用グラウンドとして昭和54年(
1979)に竣工しました。真弓、掛布、岡田、
バースといった往年の大選手も練習場とし
て使用していましたが、平成6年(1994)に
阪神鳴尾浜球場に二軍専用グラウンドが
完成し、現在は草野球の球場となってい
ます。
⑤菜切山(伝・武内宿禰塚)
浜田にある浄専寺は山号を宿禰山といい、長禄元年
(1457)に蓮如に帰依した武内貞之(法名紹郡)が建
立したもので、歴代住職の武内家は、武内宿禰の末
裔といいます。その武内家の古文書によれば菜切山
は竹内宿禰の墳墓といいます。戦前の調査では前方
後円墳であったという記録もありますが、昭和10年代
の土地区画整理のために幹線道路となり、従来の半
分足らずの規模になりました。現在は市の管理で菜切
山緑地として保存しています。また、かつては旧暦5月
の節句には牛が丈夫になる様に牛に化粧回しをつけ
て塩鯖や粽をぶら下げて3度回らせて帰る「牛回し」の
祭事場でもあったといいます。
④崇徳院(町名)
旧浜田村で、近世以前から小字名「崇徳院」がありま
した。保元の乱(1156年)で後白河院に敗れた崇徳
上皇が讃岐に流される途中に当地の浜田荘園で休息
したといい、上皇の死後に村人たちが上皇を憐れんで
霊を祀ったことが由来といいます。これだけ聞くと美談
ですが、じつは浜田荘園は後白河院の粟田宮に寄進
された荘園で、それだけに怨霊神となった上皇に祟ら
れないように、手厚く祀ったのかも知れません。真相は
謎ですが。
③阪神電車71形74号(蓬川公園内)
昭和12年(1937)に汽車製造(東京)にて製造され、
昭和50年(1975)に廃車されました。同時期に登場し
た大阪市電901形、神戸市電700形、京都市電600
形と並んで、戦前の関西を代表する路面電車としてマ
ニアに知られています。ちなみに近くの水明公園(尼崎
市水明町)にも「71形71号」が静態保存されています。
②中国街道
江戸時代の主要街道で、大名行列もここを利用しま
した。享保13年(1728)に広南(ベトナム)から中国の
貿易商・鄭大成が象を連れてきて、それが将軍・徳川
吉宗に献上されることとなり、長崎から江戸まで象が歩
きましたが、そのさいも中国街道を利用しています。
①琴浦神社
神社の御祭神は嵯峨源氏の祖である源融(822~8
95)で、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏のモデ
ルとしても有名です。源融は六条河原院(現・渉成園)
を造営したといい、陸奥国塩釜の風景に似せるため、
毎日、琴浦で汲ませた30石(約5.4トン)の海水を院に
運んで塩を焼かせたといいます。ちなみに尼崎市潮
江の素戔嗚神社にも同様の伝承が残っています。
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主催:あますい!プロジェクト実行委員会(尼崎小売酒販組合、尼崎商工会議所、まちらぼ)
マップ制作:まちらぼ(監修:むつさとし、イラスト:フジワラトモコ、みやけまさよ)
このまち歩きマップは尼崎をまち歩きと立ち飲みで盛り上げる「あますい!」用資料です。■お問合せ:06-6411-2252(尼崎商工会議所)