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Page 1: 写真家 浅井 愼平 - Fujifilmffgs.fujifilm.co.jp/fghiroba/pdf/ffgs_contents_fghiroba...1 FGひろば148号 クリエイターズ・アイ 浅井 愼平氏 写真家 1937年、愛知県瀬戸市生まれ。1966年に写真集『ビートルズ・東

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FGひろば148号クリエイターズ・アイ

浅井 愼平氏

写真家

1937年、愛知県瀬戸市生まれ。1966年に写真集『ビートルズ・東京』でメジャーデビュー。その後、東京アートディレクターズクラブ最高賞を始め、多数の賞を次 と々受賞。写真にとどまらず、映画制作・文芸・工芸・音楽プロデュースなど幅広い分野で活躍を続ける。91年には千葉県の千倉町に『海岸美術館』を設立。主な著書に『気分はビートルズ』『写文集・風の中の島々』『巴里の仏像』『反・鈍感力』『海辺の扉』など。

それは偶然のような必然。 写真家デビュー時に、ビートルズと出会う。

編集部(以下 編 ) 浅井愼平さんと言えば、日本を代表する写真家の一人として、印刷業界でも知らない人はいないのではないかと思いますが、最近の若い人たちには“テレビのコメンテーター”としての印象が強いかもしれません。思えば、カメラマンとしてクイズ番組に出演したりDJを務めたりしたのは、浅井さんが初めてだったのではないですか?浅井 そうかもしれませんね。最近では戦場カメラマンなんていう人も登場していますけど(笑)。当時は写真家がテレビに出るだけで批判された時代です。編 テレビ出演ぐらいで?いまでは考えられないですね。浅井さんは、俳人やエッセイスト、小説家、ミュージシャン、映画監督など、写真家以外にも実にさまざまな顔をお持ちで、まさにマルチクリエイターの元祖的な存在だと思うんですが、そうした多才ぶりに対しても、70年代、80年代当時はあまりよく言われなかったわけですか。浅井 風当たりは強かったですね。若いとき、ある大先輩から言われたことがあったんですよ。「お前みたいに、いろんなこと考えていたら、いい写真は撮れないよ」とね。だから僕も、「失礼だけどあなたは写真のことしか考えていないからいい写真が撮れないんじゃないですか」と。

編 そんなこと言ってしまったんですか?浅井 もちろん心の中で、ですけど(笑)。写真家は写真のことだけ考えればいいなんて、あり得ないですよ。写真を考えるということは、人を考えるということ。時代を考えるということ。いい写真を撮ろうと思ったら、さまざまな時代のさまざまなジャンルの表現に興味を持つのは当然でしょう。編 いろいろな分野の中で「音楽」というのも、時代を映す素晴らしい表現の一つだと思うんですが、浅井さんの本格的な写真家デビューは1966年、『ビートルズ・東京』という写真集でした。音楽にも造詣が深い浅井さんだからこその巡り合わせなのかもしれませんが、そもそもビートルズ初来日のとき、まだ無名の新人だった浅井さんが日本側のオフィシャルカメラマンに大抜擢されたのには、どんな経緯があったのですか?浅井 最終候補に挙がったカメラマンが4〜5人いたらしいんだけれど、たまたま僕に「やってみないか」と声をかけてくれた人がいた。選ばれたのは、まったくの偶然です。いま思えば必然と言うか宿命と言うか。時代が僕を選んでくれ、時代が僕をつくってくれたのかもしれない。でも僕の方だって、写真で新たな時代をつくってやる、という強い気概を持っていましたが。編 「宇宙というのは、自分を観察してほしくて人類を誕生させ進化させたのではないか」と説いている学者もいますが、

表現者として自己に忠実に生きること。その難しさ、大切さを、ビートルズが教えてくれた。

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FGひろば148号/CREATOR'S EYE 浅井愼平氏 ロング・インタビュー

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ひょっとすると「時代」も、さまざまな分野の中から、自分を変えてくれる表現者を選んでいるのかもしれませんね。浅井 ロックミュージシャンを撮り続けている、友人の写真家が言うんですよ。「ロックを追いかけているわけでもないお前が、いきなりビートルズに密着できるなんて、こんな運のいい奴はいない」と。本当にその通りなんでね。ビートルズに出会った、チャック・ベリーに出会った、ジャンセンの仕事をやった、『いいちこ』をやった、そういうことは、決して自分で仕組んだわけではないのだけれども、どれも僕の人生にとても大きな影響を与えてくれました。宿命としか言いようがない。表現者にとって、そういう運命的な出会いがあるかないかは、やはり大きいでしょう。

ホテルの単なる灰皿が、 写真の力で、歴史的な資料に。

編 運命的な出会いでビートルズの撮影が決まったとき、新人だった浅井さんは、彼らにどう迫ろうと考えたのですか?撮影のシナリオみたいなものをつくるうえで、誰か他のカメラマンの手法を参考になさったりしたんでしょうか。浅井 いや、それはまったくなかったですね。1960年代は、時代が、新しい写真家を求めていた。写真の天井が大きく開いていて、僕らが初めてやるっていうことが、たくさん残されていたんです。「ああいう写真家になりたい」などという目標はなく、あるのは、自分が撮りたい写真だけ。オリジナリティーだけ。ビートルズを追いかけるうえでまず考えたのは、とにかく、それまでとは違う新たな方法論でドキュメントしてやろうということでした。編 具体的には、どのような方法論だったのですか? 浅井 ビートルズだからビートルズだけを撮る、というのではなく、彼らが実際に使った物、あるいは目にした物、たとえば飲みさしのビール瓶とか灰皿とか、メンバーが歩いたホテルの廊下まで、何でも記録しようと。いまではそうしたアプローチも珍しくはありませんが、当時、灰皿だの廊下だのを撮って写真集に載せようなんていう奴はいなかった(笑)。編 ビートルズの写真集に、いきなりビール瓶の写真が交じっていたら、見る人はびっくりですよね。浅井 彼らが宿泊したのは、現在のキャピトル東急(当時ヒルトンホテル)で、僕も同じフロアに寝泊まりしたんですが、いまでもビートルズグッズがいくつか残されているんですね。その中に、うやうやしく桐の箱に入って保管されている灰皿がある。単なる灰皿なのに、写真として作品になったことで、歴史的な資料の一つになってしまった(笑)。編 そうして、物や空間ごと、新たな視点でビートルズのすべてを記録したことにより、写真集が絶賛されたわけですね。浅井 いや。酷評されましたよ(笑)。僕らの世界では、ね。面白いことに、写真以外のジャンルの人たちは、皆、はじめからそ

の新しさに驚いてくれたんですが。編 でも、60年代を代表する伝説の写真集として知られていますよね。浅井 「ビートルズの写真で衝撃的なデビュー」なんて言われているけれど、それは後からの評価です。いまの人には信じられないでしょうが、あのビートルズでさえ、来日当時、ジャーナリズム的にはまったく評価されていなかった。それを撮ったカメラマンだって、どってことはありませんでした。しかしビートルズはつねに“自己に忠実に”という姿勢を貫き、やがて時代を超え世界中で評価されるようになりました。成功だ失敗だにとらわれず自己に忠実であることが、表現者にとっていかに難しく大切なことであるかを、僕はビートルズに教わった気がします。

気分はビートルズラジオからビートルズが流れていた

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ロックの巨匠チェック・ベリーから、 一回性の怖さ、凄さを教わる。

編 『ビートルズ・東京』で強烈な存在感を示した後、浅井さんは70年代以降も、広告を中心に次 と々作品を発表されていくわけですが、私にとって忘れられないのは、81年のパルコのポスター。ロックンロールの創始者とも言われる伝説のミュージシャン『チェック・ベリー』が起用された広告です。ギターと一体化したチャックの姿が、とにかくカッコいいの一言で、スタジオ撮影とは思えないライブ感、リアル感が、とても印象的でした。浅井 あの撮影には面白い裏話があってね。チャックが現場に入ってきて、いきなり僕に「何枚撮るんだ」と聞いてきたんです。新聞広告用とか雑誌広告用、ポスター用など、8カット押さえなければならなかったので、かなりの枚数が欲しかったんですが、ちょっと遠慮して「スリーロール」と答えると、「1ロールは何枚だ?」と。僕が「35mmフィルムの36枚だ」と説明したら

「お前はクレージーか?8カット必要なら、8枚でいいだろう」なんて真顔で言うんですよ(笑)。「でもまあ8枚ではギリギリだから15枚でどうだ」とか言いながら、そのまま撮影に入りました。編 そんな無謀な申し出を受け入れたんですか?浅井 撮り始めてしまえば、いくら何でも15枚で終わりということはないだろう、まあ1ロールは撮り切れるだろうと内心は思ってね。ただし、フィルムをチェンジしたりカメラを替えたりしていると、気が変わって「終わりだ」と言われてしまうかもしれないから、とりあえず1ロールのつもりでいようと。それで最初のシャッターを切ったんですよ。そしたら、いきなりチャックが

「One!」と言う。編 外国人特有のジョークなのでは?浅井 目が全然笑っていないんだよね(笑)。次にパッと撮ったら「Two!」。大マジメな顔で。編 何だか聞いているだけでドキドキしてきます(笑)。浅井 こりゃ本気だ、本当に、たった15枚のつもりかもしれないと思い始めたら、ものすごい緊張感が走ったね。編 もう2枚もフィルムを使ってしまいました(笑)。浅井 バリエーションをつけるために「ジャンプしてくれ」と頼んだら「ジャンプは1回限りだ」と(笑)。では、ギターを構えたままダックウォークのポーズをやってほしいとお願いして撮影すると、どんどんカウントしていく。そして15枚撮ったら、「Finish!」と言って、バッとギターを置いちゃったんですよ。編 1ロールいけると思っていたら大変なことになりましたね。クライアントやスタッフはどんな様子だったのですか?浅井 動揺しちゃって「愼平さん、大丈夫?」と心配してました。僕は「平気、平気、まかせとけよ」とか答えながら、自信がなかったわけではないけれど、やはり現像するまでは不安でし

たね。編 それにしても、プロカメラマンに対して「15枚でおしまい」というのは、ちょっと強引ですね。浅井 でもね、「あっ、正しいことを言うな、この人」と思った。8枚必要なら8枚でいいだろう、という発想は、無茶だけれど間違ってはいない。おまけして15枚、それでいい写真を撮れ。撮れなかったらお前のせいだぞ、という話ですからね。編 撮影というより、真剣勝負ですね。チャック・ベリー本人も、たった15枚だからこそ最高に集中し、浅井さんの集中力も極限まで高まったのではないですか?浅井 それはあるでしょうね。僕はこのとき、チャックから一回性の大切さを、あらためて教わった気がします。クリエイティブが持っている一回性の怖さ、凄さを、これからの人生、心しておいたほうがいいぞと。このポスターは『東京アートディレクターズクラブ賞』の大賞をいただいたんですが、実際は薄氷を踏む思いの撮影現場だった。でもその緊張感があったからこそ、いい写真が撮れたのだとも言えます。シャッターを切る回数が少なくてもいい写真は撮れるということを、若いときに、いいタイミングで学ぶことができました。

あえて声高に叫ばない、 静かで深いコミュニケーションもある。

編 チャックベリーのポスターもそうなんですが、浅井さんが関わった広告の写真は、なぜか独立した作品のように見えるものがとても多い気がします。とくに風景写真、ですね。70年代を代表する、スポーツウェアメーカー『ジャンセン』のポスターを駅で目にしたとき、都会の喧騒の中にいて、思わず深呼吸したくなったのを、いまでもはっきりと覚えています。真っ青な海に白い波、そしてサーファー、あとは『Jantzen』のロゴマークだけ。広告写真と言うより、写真そのものと言いますか。こうした作品性の強さは、現在の『いいちこ』のポスターに受け継がれていると思うのですが。

ジャンセン・ポスター

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浅井 運がよかったのか、あるいは、どこかでこちらから仕掛けていたのか、僕の場合、提示された広告ラフに合わせて写真を撮るということがほとんどなかったんですね。『ジャンセン』もそうでしたし、『いいちこ』もそうです。僕の写真のテイストを広告が利用してくれるっていうカタチで。それは僕の業

ごう

なのか、時代が受け入れてくれたからなのか、まあいろいろ重なっているんだろうけど、そういう仕事の一つひとつが、僕の現在につながっているんでしょう。編 『いいちこ』のポスターは、間違いなく、長い広告の歴史に残る名作の一つだと思いますが、いつ頃スタートしたのかわからないぐらいに長く続いていますよね。浅井 気がついたら、25〜26年になっちゃいましたね。12月はクリスマスバージョンが入って2パターン、あとは月に1 枚ずつですから、年間で13枚。それを25年も、よくここまで続けてこられたなあという思いはあります。編 紙媒体に元気がないと言われている時代に、『いいちこ』のポスターは、印刷物の一つの可能性を示すものではないかという気がします。派手なCG合成もなく、タレントもなく、直接的な広告色がない。商品であるボトルがどこに写っているのか探してしまうような広告は、他にはほとんど見当たりませんよね。それなのに、ブランディングにはしっかり貢献し、売り上げにもちゃんとつながっています。浅井 これでもかこれでもかと、いろんなことを声高に叫ぶのではないコミュニケーションのやり方が、まだまだ残っていると思うんですよ。『いいちこ』がこれだけ長く通用していることに、ほっとしますね。編 「掲載期間が終了したらポスターを貰えないか」と駅に問い合わせてくる人もいると聞いたことがあります。静かな風景写真の何がそれほど、見る者の心を惹きつけるんでしょうか。一つには、揺らぎと言いますか、『いいちこ』の情景には、静けさの奥深くに、おおらかさ、豊かさみたいなものを感じるのですが。

「できるけれど、あえてやらない」 そんな選択があることを、忘れてはいけない。

浅井 実は『いいちこ』のポスターは、ずっと35㎜のリバーサルフィルムで撮っているんですよ。編 デジタルカメラではなく、フィルムですか?しかも、35㎜で?浅井 僕がB全のポスターを35㎜で撮っているのを、プロでも知らない人がいてね。中判か大判で撮っているんじゃないかと思っているわけですよ。ジャンセンのときも35㎜でした。B全のポスターを35㎜で撮ったのは、たぶん日本では僕が初めてじゃなかったかな。それを知っている人でも、最近のポスターの仕上がりを見て「とうとうデジタルカメラに変えたな」とか言っている(笑)。製版や刷版の印刷現場の方でデジタルのプロセスを経るようになっているから、まあ、間違いでもない

いいちこ ポスター/84年9月

いいちこ ポスター/94年クリスマス

いいちこ ポスター/04年8月

いいちこ ポスター/09年3月

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んですけどね。編 あえてフィルムにこだわる理由は何なのでしょうか。浅井 デジタルというのは、どうしても、バーチャルな感じがしてしまうんですね。フィルムにこだわるのは、アナログが持っているオリジナリティー、リアリティーっていうのかな、そういうものに惹かれるから。表現ということに限って言えば、僕はアナログでなければいけないんじゃないかと思っているんですよ。デジタルで、どんどん速く、便利に経済的になっていくことだけを追い求めていくと、表現としてはチープになっていくような気がしてならないんです。編 相当な倍率で引き伸ばさなければならないのに、画質的に有利な中判や大判フィルムを使用しないというのは? 浅井 35㎜を使っているのは、自分の目線の延長に近いということがあるから。自分が目撃したものをそのまま写真にしたいという気持ちからです。ときには8×10などを使う仕事もありますが、基本的にはほとんどの撮影が35㎜。それが僕の表現にはピタッとくるんですね。編 印刷物を見る側の“人間”がアナログですからね。非科学的かもしれませんが、やはりアナログ同士、フィルムの方が人の心に共鳴しやすいところがあるんでしょうか。プロセスはデジタルになっても、写真家の思いを写し込む入口の部分がデジタルかアナログかで、最終的な表現の何かが変わるのかもしれませんね。浅井 音楽で面白い話があってね。最近は“打ち込み”といって、リズムセクションをデジタルで入力することが多いんですが、知り合いのミュージシャンから「レコーディングのとき、わざと少しだけリズムをミスさせるんだ」という話を聞いたんですよ。人間が叩くパーカッションなら、気分によって微妙に速くなったり遅くなったりするじゃないですか。それを機械で再現

するとき、正確すぎると官能がなくなる。だから何パーセントぐらいズラそうかということを、最初にミュージシャン同士で話し合うんですね。それを聞いたとき僕は「ざまあ見ろ」と思ったわけよ(笑)。デジタルはいくらでも正確にリズムを刻めるだろうけれど、ほんの少しズレていないと人間は感動しない。人間の感覚ってそういうもんなんだよ。デジタルにもアナログにも、それぞれよさも悪さもあって、それを人間がどうコントロールできるかということが大事なんですね。表現者の視点から、その場合のベストの選択はどっちなのかということを、現場を含め、しっかり考えていかなければいけない時代なのではないですかね。編 浅井さんの著書『反・鈍感力』の中に書かれてあったと思うのですが、臓器移植とか代理出産なども、実はデジタル時代の発想なのではないかと。あの見識は、なるほどなあと思いましたね。浅井 できるからやる、ということからどうやって脱却するかが、次世代のテーマなのかもしれません。いまは技術が進んでいるから、できることはやっちゃう。どうしても「やってしまう」方にいきやすいんだけれど、してもいいのか、しない方がいいのかをしっかり議論して「できるけれど、あえてやらない」という選択も実はあるんだということを、忘れてはいけないのでしょうね。

印刷物は、使われていないときも つねに上質な存在であってほしい。

編 効率や合理性を超えたアナログ的なリアリティーと言うのでしょうか、『いいちこ』のポスターが凄いと思うのは、曇った日に撮影された写真が、ときおり採用されていますよね。印刷の仕上がりを考えたら、一般的には、やはり色の情報量が

反・鈍感力 いいちこ ポスター/10年8月

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多い晴天の方が有利です。しかし『いいちこ』では、広告でありながら、見かけの発色などにとらわれていません。それがかえってリアルなんでしょうね。浅井 自然をどうとらえるか、世界をどうとらえるかという問題であって、いつも晴れがいいわけじゃなく、曇りがいいということでもない。昔、旅番組で、富士山を撮りに行きましてね。ロケ当日は、残念ながら曇って見えなかった。ふと足元を見たら、面白い石ころが転がっていた。それを撮って帰ってきたら「ああ、いいね」と言われて、何だか僕も嬉しくなった。そういうことがあるわけです。悲しいことや切ないことですら表現になるということが面白いんです。編 「いいシーンが、必ずしもドラマチックだとは限らない」と、浅井さんが何かに書かれていたのを思い出しました。これを心しておかないと、身近にある、とてもいい情景を見過ごしてしまいますね。浅井 ドラマチックなことって、世の中、そんなに多くはない。だから日常が大切なんです。何でもないことに幸せがあったりする。きれいな空だな、いい雲だな、今日はいい風が吹いているな。それで充分なんですよ。編 『いいちこ』のポスターには、風がありますよね。熱くて乾いた風だったり、そよそよと涼しい風だったり。“風景を撮ったポスター”ではなく、ポスターそのものが風景であるような気がして、切り取られた窓から異次元の世界を眺めるように、つい立ち止まってしまう。浅井 僕らの業界とは関係ない一般の人が、ふと足を止めてポスターに見入っていたりするのを目にすると、「ああ、こういう媒体は大事なんだな、少しでもメッセージが伝わればいいな」と、あらためて思います。編 こうしたポスターを見ると、印刷物、紙媒体も、まだまだ大き

な力があるのだということを実感します。浅井 僕らの周りには、大別すると、パソコン、テレビ、そして写真や印刷という3つのバーチャルな世界があるんだけれども、写真や印刷表現には、できるだけリアリティーを追求していってほしいなと思いますね。編 もっともっと存在としての輝きを発揮しろと。浅井 情報を伝えるという、瞬時の問題としてとらえるだけではいけないということです。たとえば、本のことを英語で『coffee table book』と言ったりすることがあります。読んでいる瞬間は情報を伝える役割があるが、読まれていないときは一つのオブジェ、物なんですね。だから印刷物は、物としても『いいなあ』と思われる上質な存在であってほしい。僕なんかも、ささやかながら写真集やエッセイなどを出版するときは、必ずそういう“読まれていないときの存在感”も強く意識してつくるようにしています。編 電源を落としたら消えてしまう情報と違い、テーブルに載っているときでも、現実の空間にいい影響を与え続ける存在であってほしいということですね。浅井 そういうことを、僕たち写真家もデザイナーも印刷現場も人たちも共通に理解し意識していくことが、文化としての印刷につながっていくのでしょうね。編 まだまだ伺いたいことはたくさんあるのですが、時間に限りがありますので、このへんにしたいと思います。これからも“いい写真”で、あるいは鋭いコメントで、俳句や音楽で、人々の心に風を起こし続けていってください。本日は、どうもありがとうございました。浅井 こちらこそ、ありがとうございました。

[取材日]2011年3月1日


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