食品トレーサビリティの再構築に向けて
矢坂雅充
東京大学大学院経済学研究科
1.はじめに
日本で食品トレーサビリティが普及・定着
していくための基本的な課題
*導入過程と普及過程のずれ
・消費者の意識
・食品事業者のニーズと評価
・政策当局の認識
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*食品トレーサビリティ・システムを支える
社会基盤整備の偏り
・効率的な識別・照合・記録のための
IT技術の開発・普及・食品トレーサビリティについての
コミュニケーション
(食品の信頼性を担保する仕組みに対する
行政・食品事業者・消費者の認識)
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2.日本の食品トレーサビリティ・システム導入過程の特徴
(1)消費者重視
(2)緊急性
(3)IT活用(後発メリットの追求)(4)政策支援
・EUの食品トレーサビリティ・システムをモデルとして、先進的なトレーサビリティ導入を図り、
農政の消費者重視の姿勢をアピールする
ことが政策課題
・緊急対策としての妥当性と限界 3
(1)消費者重視
消費者重視のトレーサビリティ導入の
成功と失敗
・混乱期における消費者の情報ニーズへの対応
・情報開示、とりわけ生産履歴情報開示のための
IT活用への期待・フードチェーンという視点からの
トレーサビリティ・システムの認識の希薄化
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(2)緊急性
・牛・牛肉トレーサビリティ・システムの緊急導入
牛450万頭への耳標装着牛トレーサビリティ法の成立(2003年6月)
・農林水産省内部および厚生労働省との
トレーサビリティ施策の分裂
牛トレーサビリティ法
食品トレーサビリティシステム・ガイドライン
生産情報公表JAS規格食品衛生法のトレーサビリティ規定
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・食品トレーサビリティ普及の政策目標設定
「生鮮食品及び加工度の低い加工品における
トレーサビリティ・システム導入品目が50%」
食料・農業・農村基本計画(2005年)
補助事業によるトレーサビリティ普及支援
(後述)
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(3) IT活用
①消費者への情報開示技術の開発・後発メリットの実現として期待されたIT活用・牛1頭ごとの生産履歴情報を店頭端末、インター
ネットで消費者自らが検索できるシステム
(平成13年度 安全・安心情報提供高度化事業)
・「顔の見える関係」と「トレーサビリティ・システム」
の「融合」
トレーサビリティ・システムの活用による消費者と
生産者のコミュニケーション、信頼関係の構築
(「顔の見える関係づくり懇談会報告書」2004年)
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②システム開発手順の転倒ⅰ) 情報技術機器・システム開発
(生産情報開示システムの開発)
ⅱ) 情報システム間の連携・融合
ⅲ) トレーサビリティ導入事業者の連携
(チェーントレーサビリティ構築)
・効率的・付加的システムの先行開発
・補助事業に参画する事業者の広がりの制約
・トレーサビリティ導入に取り組む目的意識の
希薄化8
顔の見える関係(参考)
・ 農業生産と食料消費の急速な距離の拡大に対応した「顔の見える関係づくりへの再出発」
(前掲「顔の見える関係づくり懇談会報告書」)
「トレーサビリティシステムのような新しい仕組みを活用することによって、消費者が生産者に直接問い合わせることもできる双方向のコミュニケーション手段」が「生産者や事業者と消費者の一層の信頼関係を深める上で有効」
・「顔の見える」農産物・食品の開発
・産直におけるトレーサビリティの導入
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(4)政策支援・トレーサビリティ導入のための備品・施設補助
-牛の耳標無償配布、装着費補助- ラベラー、計量機器導入補助(中小企業向け)
・品目別トレーサビリティ導入ガイドライン策定
-青果物、貝類(カキ・ホタテ)、海苔、養殖魚、鶏卵、鶏肉、豚肉
・トレーサビリティ・システム開発支援-基本計画のもとでの2005年度以降の大幅な補助事業額の拡大
-補助事業の期間限定性 10
トレーサビリティシステムの開発に関する補助事業の実施状況
年度 事業名 補助金額(千円)
13年度 安全・安心情報提供高度化事業 168,417
14年度 安全・安心情報提供高度化事業 149,336
15年度 トレーサビリティシステム開発事業 360,812
16年度 トレーサビリティシステム開発事業 357,903
17年度 ユビキタス食の安全・安心システム開発事業 1,197,662
18年度 ユビキタス食の安全・安心システム開発事業 1,200,000
19年度 ユビキタス食の安全・安心システム開発事業 1,069,000
注:18年度、19年度は予算額
資料:農林水産省 消費・安全局
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• トレーサビリティ・システム開発支援の重点(1)情報処理技術
情報開示:店頭モニターとのリンク
情報伝達:標準・汎用コード
情報システム間のインターフェイス
(ラベリング、照合など)
情報入力:音声、辞書検索、画像入力など
(2)安全性確保システムとの連携
HACCP、ISOとの融合(ISO22000シリーズとの対応)
(3)既存のトレーサビリティ・システム間の連携12
(参考)
・EUのトレーサビリティ・システムへの政策支援①直接支援
・牛の個体識別中央データベースの設置・運営
などに限定
②間接支援
・地方行政機関のデータとりまとめ・照合(フランス)
・トレーサビリティ表示規格の認定
・第三者検査機関の認定 など
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トレーサビリティ・システム構築の
自己目的化①情報システムの構築への偏り
新しい食品ビジネスモデルへの関心との乖離
②システム開発補助事業の評価視点
リスクアナリシスにおける費用便益分析の困難
・トレーサビリティ・システムの費用便益の
量的把握、比較考量
・チェーントレーサビリティにおける評価
システムの信頼性への関心の低さ
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食品トレーサビリティ導入過程がもたらした「歪み」
• トレーサビリティへの過度の期待と誤解-食品の安全性確保-生産情報開示機能(農薬、動物医薬品など)-高度で付加的なトレーサビリティ・システム- ITへの関心の偏り-精度の高さを追求した完璧なシステム志向
・ 「切り札」としてのトレーサビリティの評価-牛肉市場のパニック沈静化-相次ぐ牛肉をはじめとする表示偽装事件などへの対応
-新たなマーケティング手法への関心 15
3.日本の食品トレーサビリティ・システムの弱点と限界
(1)コスト節減への「圧力」
信頼性確保を優先することの困難
(2)取り締まり・排除による信頼性担保
システム検査導入への消極性
(3)フードチェーンの統合度の緩やかさ
小売業・農業生産者を含めた
チェーントレーサビリティ構築の困難
(4)食品認証制度の普及低迷16
(1)コスト節減への「圧力」原票確認の簡略化事例①:牛の個体識別番号登録携帯電話、FAX、インターネットなどからの送信
エラー送信 1日3万件の約7%(出生の二重登録、譲り渡し・死亡報告のエラー)
先行入力データの優位性
近江牛偽装事件(2005年)譲り受け事業者の虚偽報告(譲り渡し事業者の報告遅延、
登録書の修正液での修正)
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*「コピー」にもとづくトレーサビリティ・
システムのリスクに対する認識
・原票主義の確認識別番号偽造への誘因を封じるシンプルな手法
cf. 信頼性を担保する原票保管事例・小売店バックヤードでの部分肉ラベルの
保管
・EUの牛へのパスポート発行
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事例②:営業冷蔵庫の
牛肉トレーサビリティ確保下記の条件のもとで特段の対応不要
(農林水産省)
・購入事業者が個体識別番号を把握
・販売事業者が一定の事業者の範囲内
で仕向先を把握(個体識別番号一覧表の販売先への送付が望ましい)
*実際には、大手食肉卸売業者は営業倉庫での
照合、自社冷蔵庫転送による照合などで対応
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*中抜きトレーサビリティのリスクに
対する認識
・食品に印刷された識別番号・記号にもとづく
遡及可能性
消費者・小売店→( ? )→生産者・処理施設
・結果的に「統合されたロット」による追跡
倉庫内の特定の食品群=1ロット
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事例③:小売業者の照合・記録保管省略
・卸売業者(食肉パッカー)が出荷時に
個体識別番号一覧表を送付
(事業者別のシステムに合わせた送付)
・一部の小売業者は一覧表を保管
・行政検査の際に改めて卸売業者が一覧表を
送付
ダブルチェックの欠如
検品時の照合省略、個体識別番号記録保管
の簡便化23
(参考)
トレーサビリティの基本概念
「食品トレーサビリティシステム導入の手引き」の策定による基本的理解の提示
骨子:ロットとしてのモノをユニークな識別番号とひも付けして、流通の各段階で両者を照合し、その記録を保管する。
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完璧なトレーサビリティ・システム構築の難しさ
・トレーサビリティ・システムの信頼性と費用
不完全なトレーサビリティ・システムであることの認識・改善の試み
・トレーサビリティの「精度」と「信頼性」の相違点
・「トレーサビリティを確保している」と表明すること
の難しさ
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(2)取り締まり・排除による信頼性担保
行政検査によるトレーサビリティ・システムの
信頼性確保
・農政事務所による帳簿検査
・DNA検査
全枝肉からサンプル採取保管
小売店舗などから2万検体購入
内部検査あるいは第三者(第二者)による
トレーサビリティ・システム検査にたいする
消極性26
個体識別番号の不適正表示(平成17年4月~19年1月)
資料:農林水産省
№ 勧告日 住所 業態 発端 偽装の内容
1 平成17年4月26日 佐賀県神埼郡神埼町 小売 情報提供原産地偽装のため
(鹿児島県産)
2 平成17年8月10日 三重県桑名市 小売 情報提供品種偽装のため
(交雑→黒毛和牛)
3 平成17年9月7日 大阪府大阪市 卸 情報提供品種偽装のため
(交雑→黒毛和牛)
4 平成18年2月24日 埼玉県さいたま市 卸 情報提供品種偽装のため
(交雑等→和牛)
5 平成18年3月24日 東京都江東区 卸 DNA鑑定品種偽装のため
(交雑→黒毛和牛)
6 平成18年3月30日 兵庫県神戸市 卸 情報提供品種偽装のため
(交雑→黒毛和牛)
7 平成18年5月2日 大阪府松原市 卸 DNA鑑定品種偽装のため
(ホル→交雑種)
8 平成18年6月22日 東京都港区 卸 DNA鑑定原産地偽装のため
(新潟県産)
9 平成18年6月30日 栃木県宇都宮市 卸 DNA鑑定品種偽装のため
(和牛以外→和牛)
10 平成19年1月26日 愛知県江南市 小売 情報提供原産地偽装のため
(飛騨牛)
11 平成19年1月29日 神奈川県小田原市 卸 DNA鑑定品種偽装のため
(交雑→和牛) 27
食品の信頼性を担保する「システムの信頼性」
・行政の規制による信頼性担保への過度の期待食品行政 :食品事業者の自主的活動醸成よりも規制
「即効性」=行政検査・取り締まり強化
食品事業者:施策要求を目的としてきた業界組織の弱さフードチェーンを貫く組織の未整備
・検査・規制強化の落とし穴
食品スキャンダルの発生の責任は?
失われた食品の信頼の回復を図る誰なのか?
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検査・取り締まり規制の強化は、信頼性の高いシステムを普及・定着させるか?
・「法律違反をしなければよい」食品の信頼性を向上させるための効率的な仕組みを
導入するインセンティブが働かない
・システム検査の優位性
食品の信頼性を担保するシステムが有効に効率的に
機能していることの自己検証
→検証コスト節減のためのシステムの改良
補完的な製品サンプルによる検査
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食品偽装事件への対応
・食品表示偽装(原材料、原産地など)
・消費・賞味期限表示偽装
cf. 牛乳の再利用
食品安全行政と食品の信頼性確保政策の相違
食品トレーサビリティ確保の重要性
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(3)フードチェーンの統合度の緩やかさ
・量販店の販売責任意識とトレーサビリティ認識
①消費者ニーズの代弁
・消費者の小売業者への信頼性、
ローヤリティの弱さ
・小売店バックヤード(流通センター)までの
トレーサビリティ確保
・産直販売志向
②食品製造業・加工業への対抗力強化として
のトレーサビリティ導入要請
・量販店プライベートブランドの破綻と
再編への契機 31
・農業生産者・農協のトレーサビリティ認識
①直売でのトレーサビリティ導入
生産履歴情報開示システム
②農協販売事業のサービス部門化傾向
トレーサビリティ導入のための負担回避
③農協の受託販売におけるリスク管理
価格変動等の販売リスク=生産者負担
共販(ロットの形成・統合)における
リスク管理意識の低さ
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チェーントレーサビリティ構築の困難
・強力なトレーサビリティ導入主体の欠如
食品製造業に集中しやすいトレーサビリティ
導入の牽引役
・フードチェーンを構成する事業者の
食品リスク負担連鎖の弱さ
食品事業者の社会的役割、食品産業のインフ
ラとしてのトレーサビリティ導入意識の脆弱さ
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(4)食品認証制度の普及低迷
・JAS制度のもとでのトレーサビリティシステム生産情報公表JAS規格の新設・ インターネットなどで、消費者が識別番号から生産履歴情報を検索できる食品認証・ トレーサビリティを「前提」とするのではなく、「目的」とする食品認証制度
*特定JAS規格特定の生産・製造手法に焦点を当てた
食品認証規格「小分け」概念による商品伝達の確保
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・トレーサビリティ確保を前提とする
食品認証制度の立ち後れ
①地域食品ブランド認証「本場の本物」
②地方自治体の食品認証制度
- 自県産農産物・食品の振興(地産地消)-食品衛生管理、食味、生産履歴情報開示
・長野県原産地呼称管理制度
・道産食品独自認証制度
★認証表示の信頼性は事業者の自主管理、同業者
の相互監視に依存
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4.食品トレーサビリティ再構築への課題(1)平常時のシステムへの転換
“自動車のスピードメーターとトレーサビリティ”
・食品産業のインフラとしての取り組み・事業者の目的意識にもとづいた導入・政策支援から脱却
- トレーサビリティ・システム導入および運営経費の捻出-副産物としてトレーサビリティ構築されるビジネスモデル開発
◎食品事業者(関連事業者を含む)のビジネス・コーディネーターの重要性
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(2)トレーサビリティ・システムの信頼性担保
①内部検査手法の開発
②外部システム検査の導入
・行政検査、取り締まり規制の縮小
・第三者機関によるシステム検査制度の
整備
③製品回収プロトコル(規定)の策定
[新たな課題]
信頼性向上のインセンティブ手法開発
・検査頻度の削減
・検査結果の開示、消費者からの評価 37
(3)フードチェーン組織の醸成
Inter-professional Institute などのフードチェーン連携組織の育成
cf. 量販店によるフードチェーンの統合
参考:AIB(American Institute of Baking )製パン業を中心としたフードチェーン
での導入
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(4)食品認証制度の開発①トレーサビリティ認証制度
(トレーサビリティ・システムのモニタリング制度)・事業者間のトレーサビリティの連携
②トレーサビリティを確保した食品認証制度
・農業生産者・食品事業者の情報発信欲求
・生産履歴、味覚鑑定、資源循環などの付加
情報を盛り込んだ食品認証制度の可能性
cf. 消費者の「投票」による評価
③農産物・食品輸出促進のための
トレーサビリティ認証39
◎まとめにかえて
・食品トレーサビリティを基盤とする食と農の
持続的な相互依存・信頼関係の構築
未知の食品危害リスクへの対応
商品特性、表示の信頼性確保
流通履歴・経路の透明性確保
といった基本的な機能から、農業・食品産業事業
者の創意工夫、こだわり・熱意が消費者に伝わり、
消費者が農業・食品産業を支えている(支えていく
ことができる)という意識・実感の醸成
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