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Page 1: 鵜飼という漁法 鵜飼山遠妙寺と謡曲 『鵜飼』 鵜飼勘作 石和 …fuefuki-kanko.jp/fuefuki-kanko/Image/files/ukai_pamphlet...鵜飼山遠妙寺と謡曲 『鵜飼』

鵜飼山遠妙寺と謡曲 『鵜飼』

 『鵜飼山遠妙寺 (うかいざん おんみょうじ) 縁起』 は、 笛吹市石和

町市部にある遠妙寺の成り立ちを伝えています。要約すると次の

ようになります。「文永 11年(1274年)、日蓮上人は法華経を広め

るために甲斐国を巡り歩き、 その途中で石和に立ち寄りました。

ここで、鵜使い(うづかい)の亡霊に会ったため 、弟子に三日三夜

にわたって法華経八巻の一字を石に書写させ川底に沈める川施餓

鬼(かわせがき)供養を行ったところ、鵜使いの亡霊は安らかに成仏

することができました。 その時に造った墓が遠妙寺の起源となっ

ています。」

 『鵜飼山遠妙寺縁起』に記されている「鵜飼漁翁亡霊済度(うかい

りょうおうぼうれいさいど)」の話は、 すでに鎌倉時代末頃には関東

一円に広まっていました。この話をもとに、世阿弥が能の台本で

ある謡曲『鵜飼』に作り上げました。能『鵜飼』が完成したのは、

今から 600 年ほど前の室町時代になります。

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鵜飼という漁法

 鵜飼(うかい)と言って思い浮かべるのは、岐阜県長良川(ながら

がわ)鵜飼だと思います。かがり火につられて集まってくるアユ

を、 鵜舟に乗った鵜匠が何羽もの鵜をあやつり、 捕まえる様は見

事としか言いようがありません。

 長良川鵜飼は宮内庁の御料鵜飼であり、皇室の保護のもとで行

われています。鵜匠は宮内庁式部職鵜匠として国家公務員の身分

をもち、鵜飼という伝統文化を後世に伝えていく仕事をしています。

 長良川以外の地域でも鵜飼が行われています。おそらく鵜飼は、

漁の一つの方法として、鵜のことをよく知っている人々によって

全国に広まっていったと考えられます。例えば、現在、東京都と

神奈川県の間を流れる多摩川では鵜飼は行われていませんが、 以

前は行われていました。江戸時代の浮世絵師・安藤広重の錦絵に

は、 多摩川の鵜飼が描かれています。このように、鵜飼は記録に

あるだけでも全国 150 か所以上で行われていました。しかし、網

漁の発達により、漁としての鵜飼は衰退していきました。

 現在、鵜飼は全国 12 か所で行われていますが、漁としての鵜

飼は御料鵜飼だけで、あとはすべて観光のための鵜飼です。

 毎年、 夏に笛吹川で行われている石和鵜飼も観光鵜飼の一つで

す。 石和鵜飼は、鵜匠が舟に乗らずに歩きながら鵜を操る徒歩鵜

(かちう) という珍しい漁法を用いています 。

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★13・・・式部職は、宮内庁の内部部局の一つ。

★14・・・錦絵(にしきえ)は、浮世絵の多色刷りの木版画のこと。

鵜飼勘作

 能や謡曲の演目としてよく知られている『鵜飼』は、江戸時代

に入ると浄瑠璃や歌舞伎でも演じられようになります。能や謡曲

で「鵜飼漁翁 (うかいりょうおう)」や「鵜使い」と呼んでいた人物は、

浄瑠璃や歌舞伎では「鵜飼勘作(うかい かんさく)」という名前で

呼ばれています。勘作の名前が初めて浄瑠璃に登場するのは、近

松門左衛門の作品でした。こうしたことから、勘作の名付けの親

は近松門左衛門ではないかと思われます。

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★15・・・鵜飼山遠妙寺縁起は、遠妙寺の起こりを記したもの。

★16・・・川施餓鬼供養は、水死者の霊をしずめるために川岸等で行う供養。

★17・・・鵜飼漁翁亡霊済度は、日蓮上人が、石に経を書いて川底に沈める供養を行い、鵜使

      いの亡霊を救った話。

石和で行われていた鵜飼

 ところで、 なぜ石和で鵜飼が行われていたのでしょう。

 平安時代後期に、甲斐国で唯一の御厨(みくりや)が石和に置か

れていたことがわかっています。御厨は、神に奉納する魚を調達

するための施設とその領地のことを言います。石和御厨の詳細な

所在を示す資料は残っていませんが、現在の石和町窪中島の神明

神社の近くにあったという説が有力です。

 また、「鵜飼山遠妙寺縁起」には、鵜飼漁翁が殺生禁断の地であ

る「観音寺境内を流れる石和川」で鵜を使って漁を行ったため、

す巻きの刑を受けたと記されています。

 こうしたことから、 神明神社や観音寺の近くを流れる鵜飼川は、

アユ等の魚が獲れる格好の漁場であったと考えられます。そして、

おそらくその漁法は、当時一般的で確実に魚を獲ることができる

「鵜飼」であったと思われます。

★18・・・鵜飼勘作の話は、「親孝行の勘作が母の病気を治すために、殺生禁断の領内を

     流れる石和川(鵜飼川)で魚を獲ったため簀巻きの刑に処された。以来、亡霊

     となってさまよい村人を悩ませていた。日蓮上人が村に立ち寄った際に、弟

     子に経文を書かせた小石を川底に沈めて供養したところ安らかに成仏できた」

     という内容。

遠妙寺の経石

 遠妙寺に伝わる経石(きょういし) は、一字一石経(いちじいっせ

きょう)と言い、一つの小石に経文を一文字ずつ書いたものです。

一字一石経は、鎌倉時代に始まり江戸時代に盛んになった風習で、

病気を治したり、豊作を願ったり、霊魂を鎮めたりする目的で行

われました。

 遠妙寺の経石について記述する資料がいくつかあります。『和漢

三才図会』は、甲州の代表的な土産品を紹介していて、その一つ

に石和川経石が載っています。また、『甲州噺』、『甲斐国志』、 『並

山日記』 は、日蓮上人による「鵜飼漁翁亡霊済度」の話とともに

経石を紹介しています。

 明治 34 年(1901 年) に発行された『考古界』という雑誌に、

山中笑の「経石に就きて」という論文が発表されています。その

書き出しを要約すると、「全国各地で、小石に経文を一字ずつ書い

たものが発見されました。これを経石と言います。もっとも有名

な経石は、石和宿の遠妙寺に残っていて、日蓮上人が鵜使いの亡

霊を成仏させたものです」という内容になります。遠妙寺の経石

は、歴史上最も有名な経石と言えます。

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★19・・・和漢三才図会は、江戸時代の図解入り百科事典。(正徳 3年 =1713 年)

★20・・・甲州噺(こうしゅうばなし)は、山梨県の歴史資料。(享保 17 年 =1732 年)

★21・・・並山日記は、甲州道中や東海道の旅行記。(嘉永 3年 =1850 年)

遠妙寺に伝わる七字の経石

〈ガラス容器に入っている〉

▼鵜飼山遠妙寺(うかいさんおんみょうじ)の山門

「日蓮聖人石和河にて鵜飼之迷魂を済度志たまふ図」(写し絵)

〈原作は、月岡芳年 身延山久遠寺蔵〉

笛吹川右岸に建てられた

鵜飼勘作翁の像

遠妙寺境内に建つ漁翁堂

鵜飼山遠妙寺縁起〈幕末 遠妙寺蔵〉

笛吹川の石和鵜飼

徒歩鵜(かちう) ▼

石和鵜飼が行われている笛吹川

万年橋右岸にある

御硯水(おすすりみず)

 〈経石に文字を書くため

 に硯の水を汲んだ井戸〉

甲州道中石和宿と

笛吹川石和鵜飼保存会鵜飼山遠妙寺縁起〈幕末 遠妙寺蔵〉

「 蓮聖 和 鵜飼之迷魂を済度志たまふ図 (写 絵)

遠妙寺境内 建 漁翁堂

鵜飼山遠妙寺(寺 ) 山門

鵜飼参考謡本[重要無形文化財保持者]

長良川鵜飼

〈当時は石和川が流れていた〉

薪能(たきぎのう)「鵜飼」の一場面

 鵜飼発祥の地、鵜飼山遠妙寺にて

〈観世流能楽師 南條秀雄氏〉

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はじめに

 「甲州伊澤暁」は、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎の代表作

で、石和宿が活気に満ちていた当時の様相を知ることができる

資料です。

 富士山の背後がわずかに明らみ、旅籠のかやぶき屋根がうっ

すらと明るくなり始めた暁の刻、いち早く荷造りをすませ、甲

州道中を旅立つ人馬の姿が描かれています。旅人の行く手に見

える石和川の川面からもやが立ち込め、鎌倉街道へと続く鵜飼

橋が浮かび上がって見えます。石和川は現在の笛吹川、鵜飼川

とも呼ばれ鵜飼漁が営まれていました。

 本紙は、甲州道中石和宿と、800 年近い歴史を持つ石和鵜飼

の文化を学ぶための資料として作成しました。笛吹市の文化を

再認識し、語り継いでいただければ幸いです。

甲州道中と石和宿

 笛吹市石和町市部を横切る国道 411 号は、正徳 2年(1716 年)

に「甲州道中」と呼ばれるようになりました。甲州道中は、日本

橋と下諏訪宿を結び中山道に続く全長 219 キロメートルの幹線道

路で、慶長年間(1596 年~ 1615 年)に徳川幕府によって整備され

た五街道の一つです。甲州街道と呼ばれることもあります。

 「石和宿(いさわじゅく)」は、「甲斐国志」に、「八代郡市部村を

石和宿とした」とあり、現在の笛吹市石和町市部に置かれていま

した。甲州道中には 45 の宿が置かれ、石和宿は日本橋から数え

て 38 番目の宿になります。

 甲州道中石和宿は、江戸と直結したことで、人馬や物資が行き

交うようになり、宿場町として賑わいを増すこととなりました。

★1

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甲州道中分間延絵図に描かれた石和宿

 文化 3 年(1806 年)の「甲州道中分間延絵図(こうしゅうどうち

ゅうぶんけんのべえず)」に、当時の石和宿の様子が描かれています。

石和宿は、長さ 5 町(545 メートル)、家屋 85 軒が建ち並ぶ甲州

道中の宿場町で、鎌倉街道との分岐点にもなっていました。

 また、石和宿は、笛吹川を通じて富士川水運へ連絡する船着場も

置かれ、甲府盆地東部の水陸の交通の要所となっていました。

 絵図を東(右側)から西(左側)へ進むと、はじめに①石和宿入

口、続いて②字仲町の境界、③高札場、その北に④御朱印地遠妙寺

(ごしゅいんちおんみょうじ)、西に⑤問屋場があり、その前から南東

に⑥鎌倉街道が延びています。

 さらに甲州道中を西進すると⑦字西町となり、北に⑧本陣と脇

本陣、西に⑨高札場、その隣に⑩(石和)八幡宮の鳥居が描かれて

います。本陣前を南下すると⑪(石和)陣屋、⑫御朱印地観音寺、さ

らに南に⑬石和川が流れています。

 絵図の左端には⑭笛吹川が流れ、石和河岸(いさわかし=船着場)

と西側の(甲府市)川田村との間には、渡し舟が運行していました。

川田村へは、冬場の渇水期は橋を渡って行き来しますが、増水す

る夏場は徒歩渡しや渡し舟を利用します。

 石和河岸からは、笛吹川を下って年貢米や物資を富士川の船着

場に送る舟便も運行していました。

 また、甲州道中は江戸からの身延参詣の人たちが通う道として

も利用されました。十返舎一九らの「甲州道中記」に、石和から

富士川まで舟で下り、身延山に参詣する様子が記されています。

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石和陣屋(石和代官所)

 ⑪石和陣屋は、寛文元年(1661 年)に開設された石和代官所の建

物です。代官は支配下の村から年貢を集め、犯罪を取り締まるのが

主な任務でした。現在、石和代官所の跡地には石和南小学校が建っ

ていて、陣屋は残っていません。校門の左手に石和陣屋跡の石碑が

建っているだけです。正門は、明治 7年(1874 年)に八田家御朱印

屋敷に移築されています。

旅籠と石和本陣

 石和宿が置かれた当時は、旅籠(はたご)は一軒もなく、一般の旅

人は民家に泊まっていました。幕末の天保 14 年(1843 年)ころにな

ると、大中小 18 軒の旅籠屋が営業するようになり、宿場町としての

街並みが整ってきました。

 一方、公家や大名、幕府の役人は、旅籠ではなく本陣に休泊しま

した。当時、本陣を営んでいた後藤家の資料に、宝暦11年(1671年)

から天保 5年(1834 年)の 164 年間に、延べ 174 人が⑧石和本陣に

休泊したことが記されています。信州高遠・高島・飯田の藩主が参

勤交代の旅の途中に利用したほか、公家や役人が休泊しました。

 なお、本陣の隣には、休泊しきれない場合に備えて脇本陣も置か

れています。本陣及び脇本陣の建物は、明治 13 年(1880年)の火災

で焼失し、現在は土蔵を残すのみとなっています。

石和宿を襲った水害

 石和宿は、笛吹川と石和川にはさまれた低地にあったため、古く

から水害に悩まされてきました。

 江戸時代以降の記録によると、享保 13 年(1723年)の大洪水で 150

人の死者を出したほか、延享 4年(1747 年)の大洪水で石和村と日

川村で人家 150 戸が流失しました。

そして笛吹川は、明治 40 年(1907 年)の大水害で流れが一変し、

現在の位置に移っています。このように石和宿は幾度となく水害に

見舞われ、土砂に覆われた歴史を持っています。

★1・・・宿(しゅく)は、街道に置かれた駅のこと。宿場。

★2・・・甲斐国志は、1814 年に松平定能により編まれた甲斐国に関する総合的な地誌。

冨岳三十六景「甲州伊澤暁(いさわあかつき)」

★3・・・甲州道中分間延絵図は、江戸幕府が街道の管理のために道中奉行に作らせた地図。

★4・・・笛吹川は明治 40 年の大水害で約 1キロメートル東を流れるようになった。当時、

     笛吹川があった位置には平等川が流れている。

★5・・・富士川水運は、甲府盆地と駿河湾を結ぶ水上交通。富士川舟運とも言う。

★6・・・高札場は、幕府からの注意書きや宿賃などを書いた札を掲げる所。

★7・・・問屋場は、馬やかごを旅人に用意した所。現在の駅やバス停。★8・・・本陣、脇本陣は、公家や大名、幕府の役人が休泊した宿。

★9・・・石和陣屋は、石和代官所の建物。

★10・・・石和川は、現在の笛吹川の位置を流れていた小河川。鵜飼川とも呼ばれた。

★11・・・徒歩(かち)渡しは、人足に肩車をしてもらったりして川を渡る方法。

★12・・・甲州道中記は、浮世絵師・十返舎一九により書かれた旅行記。

石和)八幡宮の鳥居が描かれて

)陣屋、⑫御朱印地観音寺、さ

石和河岸(いさわかし=船着場)

渡し舟が運行していました。

って行き来しますが、増水す

ます。

年貢米や物資を富士川の船着

参詣の人たちが通う道として

「甲州道中記」に、石和から

する様子が記されています。

★9

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物です。代官は支配下の村から年貢を集め、犯罪を取り

主な任務でした。現在、石和代官所の跡地には石和南小

ていて、陣屋は残っていません。校門の左手に石和陣屋

建っているだけです。正門は、明治 7年(1874 年)に八

屋敷に移築されています。

役人が休泊した宿。

れていた小河川。鵜飼川とも呼ばれた。

てもらったりして川を渡る方法。

九により書かれた旅行記。石和陣屋跡の石碑 八田家屋敷に移築された石和代官所の正門

石和本陣跡の石碑と土蔵

明治 40 年の大水害で浸水した石和宿

『笛吹市風水害誌』より

見舞 、 砂に覆われた歴史を持っ覆

①②③

⑤⑦

⑨⑩

徳川幕府により整備された五街道

石和温泉駅

市部通り(旧甲州道中)甲運橋

至甲府

石和八幡宮

石和本陣跡

鵜飼山遠妙寺

観音寺

平等川

平等川

平等川

石和陣屋跡

石和陣屋跡

石和陣屋跡

鵜飼橋

鵜飼勘作翁之像

笛吹市役所

笛吹市役所

笛吹市役所

石和南小学校

小林公園小林公園小林公園

笛吹川

足湯

足湯

至新宿

④⑩

●●●

411

現在の市部通り周辺(略図) 甲州道中分間延絵図の石和宿周辺(山梨県立博物館蔵)

京都三条大橋

下諏訪

石和 江戸日本橋

白河

日光鉢石

奥州道中

日光道中日光道中

甲州道中

中山道中山道

東海道東海道

日光道中中山道

東海道

資料提供:山梨県立博物館 鵜飼山遠妙寺

[お問合わせ ]

笛吹川石和鵜飼保存会・笛吹市観光商工課

山梨県笛吹市石和町市部 777(観光商工課内) TEL.055-262-4111㈹


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