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2001年3月

上垣 彰

ロシア連邦の対外経済関係

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- 目 次 -

1.ソ連体制下の対外経済関係…………………………………… 1

2.貿易の自由化…………………………………………………… 2

3.貨幣と資本の自由化…………………………………………… 7

4.国際収支の構造………………………………………………… 15

5.1998 年通貨危機 ……………………………………………… 22

6.危機からの回復と今後………………………………………… 25

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1.ソ連体制下の対外経済関係

ソ連体制下では、すべての外国貿易活動は国家機関の統制下におかれていた。これを「外

国貿易の国家独占」と呼ぶ。このシステム下では、ソ連企業の輸出入活動は、ソ連外国貿

易省傘下の外国貿易会社(英語名は Foreign Trade Organization [FTO])を通じてしか実施で

きず、個々の企業は外国の取引先と直接契約を結ぶことはできなかった。貿易支払に関わ

る外貨の取り扱いに関しては、外国貿易銀行がすべてを統括した。国内価格と外国価格と

を結びつける為替相場に関しては、ソ連政府は、商品ごとに独自の係数をかける実質的な

複数為替相場制を採用していた。このため、ソ連の国内経済は世界市場から切断されてお

り、ソ連の企業は、国際的な価格変動の影響を受けないかわりに、国際的な競争の中で自

己の生産を効率化させていこうとするインセンティヴを持たなかった。

また、社会主義諸国との貿易関係は、主にコメコンを通じて行なわれていた。コメコン

では参加各国間で貿易協定が締結され、その協定に基づいて、輸出入される商品の種類、

量、金額が前もって決定されていた。コメコンにおける貿易支払は、振替ルーブルという

通貨で決済されたが、これはモスクワに設置されたコメコン銀行における計算上の口座残

高に過ぎず、ハードカレンシーに対する交換性がなかったのはもちろんのこと、コメコン

参加国どうしで、ある国に対する債権と他の国に対する債務とを相殺することも事実上で

きなかった1。

他方、国際金融の分野では、そもそも国家機関以外の自然人や法人が外貨を自由に取り

扱うことが許されていなかったうえ、銀行はすべて国家機関であったから、国際金融活動

は、完全に国家の管轄下にあった。また、ロシアは、世界有数の産金国として世界の金市

場に多大な影響を与えていたとはいえ、金輸出は、貿易代金支払の必要のために断続的に

実施されたに過ぎず、これもまた、国内経済を補完するものだった。1980 年代に登場した

国際金融上の新しい動き、すなわち証券化、デリバティブ化、オフショアー化*(以下、ア

スタリスクを付した語句は章末で説明を行なう)にロシアが積極的に参加したようには見

えない。

このようにして、ソ連体制下では対外経済関係は、国家経済の積極的構成要素となるこ

とはついになく、また、世界的な競争の場において主導的な力でもなかった。ソ連の崩壊、

1 以上 Gregory & Stuart, 1986, pp.291-317 を参考にした。

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ロシア連邦の独立国家としての登場は、この状況に大きな変化をもたらした。それは、対

外経済活動における国家的規制の排除、すなわち自由化によって推進された。この自由化

の過程を貿易の自由化と通貨・資本の自由化とに分けて説明しよう。

2.貿易の自由化

[ロシアの独立と貿易の自由化]

ロシアにおける貿易の自由化は、1991 年 10 月 28 日のロシア人民代議員大会におけるエ

リツィン演説と、同年 11 月 15 日のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の大統領令2に

よって開始された。貿易の自由化は、ロシア市場経済化の自由主義的設計者たち*にとって、

クリティカルな位置を占めるものである。というのも、これまで存在した種々の国家的規

制を撤廃して自由な市場を作り出し、価格競争を通じて企業生産の効率化を進め、結果的

に国民全体の経済厚生を高めるという彼らのシナリオにおいて、独占的企業が多いとされ

るロシアでは、外国品の流入がぜひとも必要なものとなるからである。生産性向上の努力

をせず、価格を高く維持しようとする独占企業の基盤は、外国品の流入によって掘り崩さ

れるであろうと考えられたのである。

問題は、このような政策がソ連崩壊以前にすでに開始されていたことである。これは、

既成事実を作ってしまうことによって、ゴルバチョフのソ連を内部から掘り崩してしまお

うとするエリツィンの経済的独立宣言と見做すことができる。対外経済関係の自由化は、

過渡期諸国すべてが、その体制転換の初期に直面した課題だが、ロシアに関しては、従来

当該地域を覆っていた広域経済圏の崩壊と新たな国民経済の形成という別の課題が付随し

ていた点に注意すべきである。

1991 年 11 月の大統領令は、所有形態の如何を問わず、すべての企業が特別の登録なし

に、仲介を含む対外経済活動を行なうことを認めた。また、ライセンスに基づいて外貨に

関連した取引も行なわれることとなった。すなわち、同大統領令は、「外国貿易の国家独占」

を無効にしたのである。

2 ロシア連邦の主要な法令は、Rossiiskaia gazeta 紙に掲載される。また、重要な経済関連法令に関しては、Ekonomika i zhizn’紙も利用できる。しかし、網羅的に法令条文を調査するためには、Sobranie aktov prezidenta i pravitel’stva Rossiiskoi Federatsii や Sobranie zakonodatel’ctva Rossiiskoi Federatsii を参照する必要がある。

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この大統領令は自由主義的シナリオを背景に、従来の規制をできる限り廃止しようとし

たところにその本質がある。具体的な規定については中央銀行や政府に委ねたうえで、「対

外経済活動の自由化」の方向性を示したという意味で、この大統領令はロシアの民衆と半

独立的地位を得ていた企業経営者に強力なメッセージ効果を持った。すなわち「従来禁止

されていたどんな貿易活動も、われわれはもはや自由になしうるのだ」という。このメッ

セージ効果はソ連崩壊後にさらに強力に作用した。規制を強制する権力が崩壊したからで

ある。このことを裏付ける最も重要な動きが「担ぎ屋貿易」である。

[担ぎ屋貿易]

「担ぎ屋貿易(シャトル貿易)」は 1992 年の市場経済化開始後すぐに登場した3。それは

最初、価格自由化後の地域間の価格ギャップを背景として、旧ソ連共和国間およびロシア

国内での商人活動として始まり、ほどなくしてそれが外国貿易にも波及した。外国貿易と

しての「担ぎ屋貿易」が急速・大量 に成長したことの背景には、関税システムの不備があ

る。初期の段階では、市民が「手荷物」として運び込む商品はほとんど無制限に許された

からである。また、ロシアの金融システム未発達も「担ぎ屋貿易」を繁栄させた原因であ

る。ロシア人が旅行者として外国へ赴き、現金で決済する「担ぎ屋貿易」は、金融システ

ムの問題を簡単に克服できた。

ロシア連邦統計国家委員会および中央銀行は「担ぎ屋貿易」額を簡単な方法によって推

計している。この推計によれば、1993 年においてすでに、対 CIS 以外諸国の「担ぎ屋輸入」

額4は、全ての対 CIS 以外諸国輸入の 18.3%を占めており、その比率は 1996 年には 33.2%

にまで達した。この推計は、消費財しか勘案していないこと、「担ぎ屋輸出」については対

CIS 諸国輸出しか計算していないことなど、問題は少なくない。しかし、少なくとも消費

財の輸入に関しては、「担ぎ屋輸入」が国内市場へ多大な影響を与えるほどの額に上ってい

たことは、疑いない。これらの事実の背後には、一般市民による外貨現金の保持があった。

ロシアの国際収支表に関連するデータは、外貨現金が「担ぎ屋貿易」によって国外に流出

していることを示している。

ロシア政府は、脱税行為につながるこのような「担ぎ屋貿易」を抑制する施策を 1993

年と 1996 年の2回にわたって実施したが、効果がなかった。いったん開放されたアナーキ

3 以下「担ぎ屋貿易」については、Tikhomirov, 2000, pp138-139、久保庭・田畑, 1999b, pp.368-377 による。 4 実際には「担ぎ屋輸入」以外の若干の項目も加えた「未登録輸入」額として推計。

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ーな動きをロシア政府はおしとどめる力を持たなかったのである。

しかし、1992 年以降、貿易分野にアナーキーな力だけが支配していたわけではない。政

府は貿易分野にしばしば政治的介入を行なった。

[政府による注文輸入]

1992 年1月2日にロシアでいわゆる「市場経済化」が開始された時に、国際社会を覆っ

ていた見解は、ロシアでは食料品を中心とする基本的物資が不足しており、国際社会はこ

れを援助によって供給する必要がある、というものだった。他方で、ロシア連邦政府は、

資源が国内の必要を無視して国外に流出することを恐れた。このような、内外の認識の構

図は、ロシア政府をして奇妙な貿易管理政策を実行させることとなった。それは、輸入に

関してはほとんど保護策を講じない、それどころかこれを奨励するかのような政策をとる

一方で、輸出に関しては種々の制限措置を設けるというものだった。

まず、輸入に関しては、政府の注文によって直接重要商品を輸入しようとする「集権輸

入注文」という制度が存在した。支払は、外国の援助・信用、国家の補助金、さらに「集

権輸出」(後述)によってまかなわれた。この制度によって輸入されたのは、穀物、薬剤、

いくつかの工業原材料であったが、国内では割引価格で販売されたので、国産品を駆逐す

る効果をもった。OECD 等の推計によれば、1992 年にこのシステムを通じて輸入された物

資は 200 億ドル近くにも上った。この額は 1992 年の交換性通貨による CIS 以外諸国から

の輸入(人道援助による輸入を含む)の約7%にあたる。国内経済に十分な影響力をもつ

大きさであるといえよう。「集権輸入注文」は 1995 年まで存続した。

なぜこのような事が生じたのか。もちろん、ロシアは飢えるかもしれないという不確か

な不安が、ロシア政府の行動の背後にあったといえよう。しかし、この政策によって不利

益を被る人々がその利害を実現する政治的回路を持たなかったことも、政策実行の大きな

要因として、指摘できる。もちろんロシアには議会が存在し、エリツィンは議会集団との

政治的折衝に多大の労力を払わねばならなかった。しかし、ロシアではいくつかの重要政

策が、議会とは無関係に大統領側近と外国人アドヴァイザー達によって執行されていた。

そこでは、農業、商品工業関係者、軽工業関係者の利害は考慮されなかった。他方で、一

部の政府関係者はこの政策から多大の利益を引き出した。彼らは、政府が輸入した外国製

品の特権的販売独占を行なうことができたからである。「集権輸入注文」は腐敗の温床とな

った。

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[輸入関税]

輸入側で重要な政策となるのが輸入関税であるのは、どの資本主義国でも同じである。

ロシア連邦で新しい関税システムが導入されたのは 1992 年7月であった。このシステムは、

ロシアが最恵国待遇を与えている国家(とその連合)からの輸入品に対しては、通常5%、

ビール、ワイン、乗用車などと特に指定された商品に関しては、それぞれ 10%から 25%の

輸入関税を課すというものであった(非最恵国待遇国に対してはその倍)。また、自然人の

持ち込み荷物(別送荷物を含む)に関しては、10,000 ドル相当分まで免税とされた。さら

に、政府が定めた食料品、医薬品は免税とされた。当時ロシアで生産可能だった商品の質

を考慮するなら、5%という税率には外国品の流入を阻止する効果はほとんどなかったと

みていい。むしろ、ロシア人旅行者の持ち込み荷物、およびその他の輸入品によって国内

市場が席巻されるという結果は容易に想像できた。1993 年3月の大統領令および国家関税

委員会訓令は、この関税率体系をさらに引き下げた 1992 年から 1993 年にかけて、ロシア

連邦は、輸入品の流入という面では 、非常に開放された経済を持っていた。

しかし、1994 になると関税引き上げの動きが登場した。この動きは、紆余曲折を経たの

ち、1995 年2月の新方針に結びついた。これは通常の「後進国」として合理的な輸入関税

体系を示したものである。この新方針に従って、1995 年5月、食料を中心とする大半の商

品の関税率が引き上げられた。

ところが、この「合理的な」輸入関税体系も、国内産業保護という観点からいうと 1995

年夏以降無意味化してしまった。というのも、この年の7月に導入されたルーブルの対米

ドル為替相場の目標相場圏システム(コリドール:後述)が、ルーブルの実質高をつくりだ

し、輸入品をロシア国内市場で割安にしたからである。

「集権輸入注文」とは異なって、輸入関税の部面では、初期段階の政府の不介入主義が

国内産業の停滞をもたらし、その不介入主義に若干の修正が加えられるようになると、今

度は、政府の為替政策が、国内産業の発展を阻害する方向で作用したのである。

[輸出に対する国家的規制]

以上のように、ロシアにおける輸入関税政策の動向は興味深いものであるが、ロシア連

邦で貿易政策が内外の論争の的になる際、話題の中心となったのは、実は輸入関税ではな

く輸出に対する種々の国家的規制であった。このような規制の主要な手段は、輸出許可、

輸出量割当および輸出関税である。

輸出許可と輸出割当に関しては、1991 年 12 月 31 日の政府決定が、すでにその詳細を規

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定した。この決定によれば、輸出割当の対象は、石油、天然ガス、化学品、鉄鋼製品等で

あり、ロシア経済にとって重要な意義を有するものばかりである。さらに輸出許可の対象

にも、「燃料エネルギー原料や鉱物原料の埋蔵位置に関する情報」のような経済的に意義の

ある品目が加えられていた。この決定のために、ロシアの企業は、政府からこれらの商品

輸出に関する割当枠あるいは輸出許可を得なければ、当該品目を輸出できなくなった。こ

のような制度は、上述の「対外経済関係の自由化」に関する 1991 年 11 月の大統領令の精

神に明らかに違反している。

ロシア政府には、ロシア経済にとって戦略的に重要な商品が、無政府的に国外に流出す

ることに対する恐れがあったものと見られる。実際、戦略的商品の輸出を行なう企業・組

織の登録制を導入した 1992 年6月の政府指令は、その目的として、「ロシアの経済利害を

守り、外貨利益が外国に不法に投下されることを許さず、外国市場においてロシア企業が

不正な競争にさらされないようにするため」と明記している。「戦略的商品」として指定さ

れたのは、石油・液化天然ガス、石油製品、天然ガス、電力、石炭・コークス、木材・セ

ルロース、非鉄金属、銑鉄・鉄鋼、化学肥料、無機酸、毛皮、穀物、植物油粕などであっ

た。このようなシステムは、一方で、国家的必要のための輸出品(商品・サーヴィスを含

む)の納入制度と結びついていた。これは、政府が、国家的必要(対外債務返済を含む)

を考慮して輸出用の品目と輸出額を算定し、それを国家機関(対外経済関係省、ガスプロ

ム)が各生産者に注文を出して、一括して輸出するものであった。これは、「集権輸出」と

呼ばれた。

しかし、これらの輸出規制が、ロシアの「戦略的商品」をロシア経済復興のためにまさ

に「戦略的に」利用することを可能にしたかどうかとなると、大きな疑問が残る。規制の

存在にもかかわらず、実際には、ロシアの資源は大量に輸出され、その輸出代金は膨大な

額に上った。他方、割当、企業登録制、集権輸出の組み合わせは、一部機関 の利権の源泉

となった。

国際機関は、輸出割当・集権輸出等を旧制度の遺制としての国家機関の輸出取引に対す

る行政的・官僚的介入と位置付け、その撤廃を訴えた。その結果、1995 年3月、石油・同

製品を含めて、輸出割当、許可制および企業登録制が廃止されることとなった。

輸出関税も、輸出割当、輸出許可制と同じように、1991 年 12 月 31 日の政府決定によっ

て導入された。この決定によれば、輸出関税導入の目的は、「(ロシア)共和国の主権の経

済的基礎を保障し、国内市場を保護し、輸出構造を改善する」ことであった。とくに、第1

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の目的、すなわち財政収入の確保という目的が大きな意味を持った。国際機関は、このよ

うな輸出関税に対して、国家の経済活動への過度の介入であるとして、批判を浴びせてい

た。早くも IMF の意向をうけて 1992 年7月に発表された「経済改革の深化プログラム」

は、1992 年中は、現行輸出関税 20-35%の水準を維持するが、その後は、四半期ごとに減

税していき、1994 年末までには天然ガスに対する輸出関税を除いて全廃すると述べていた。

しかし、実際には輸出関税廃止の動きは緩慢であった。確かに、輸出関税は引き下げられ

ているが、石油、天然ガス等の輸出関税は依然存続した。石油(液化天然ガスを含む)以

外の輸出関税が全廃されたのは 1996 年4月1日以降、石油の輸出関税も廃止されたのは

1996 年7月1日以降であった。戦略的商品の流出に対する恐れと安易な税収増の方法とし

ての魅力は相当期間持続したといえよう。

[小括]

以上のようにロシア連邦における貿易の自由化は、輸入の分野では、自由主義的シナリ

オに則った過度に開放的な性格を持つものであった。特に重要なことは、ロシア連邦独立

の初期の段階においては、政府が、消費財の輸入を率先して行なったことである。他方輸

出の分野では、むしろこれを規制する政策をあえて行なった。ただし、ロシア連邦 の貿易

政策が輸入促進、輸出規制で一貫していたわけではない。輸入関税を引き上げようとする

動きは常に存在したし、輸出関税については国際機関がこれを早急に廃止するようと圧力

を加え、実際廃止させた。この結果、ロシアの貿易政策は、外見上複雑で紆余曲折したよ

うに見える。しかし、この点を捉えて、ロシアの貿易政策に自由主義が足りなかったかの

ように描くのはミスリーディングである。法律がどうあろうと、現場の役人がその統制権

をどの程度行使できたかという観点からいうならば、1992 年以降ロシアの国境には自由主

義が支配していたと評価せざるをえない。資源輸出の膨大な額、「担ぎ屋貿易」の興隆がこ

のことを裏付けている。

3.貨幣と資本の自由化

[1991 年 11 月 15 日の大統領令と通貨法]

貿易の自由化と同様に、通貨と資本の自由化に関するロシアの最初の方針を打ち出した

のも、1991 年 11 月 15 日付大統領令である。その条項を詳しくみると、貿易の自由化以上

に、通貨・資本の自由化がラジカルに開始されたことがわかる。この大統領令の本質的意

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義は、ロシアの法人・自然人が、外貨を現金の形でか、口座預金の形で保持できること、

ライセンス取得の必要性など何らかの制限はあるものの、外貨に関連した経済取引(「通貨

取引」)を実施しうること、有価証券の購入等対外投資さえ不可能でないこと、1992 年7

月1日までは小売取引やサーヴィス提供にさえ外貨支払が可能であることなど、旧ソ連体

制下ではほとんど犯罪であった行為が、基本的に許されるようになった点である。1992 年

以降、ロシア市民は、資産の蓄蔵手段としてばかりではなく、場合によっては経常の取引

にさえドルを使用するようになり(これはロシア経済のドル化[dollarization]と表現でき

る)、それが当局の統制が利かない対外経済活動の隆盛を招いた。

この大統領令の規定を基礎に、通貨と資本の自由化に関する包括的な制度的枠組みを規

定したのは、1992 年 10 月9日付連邦法「通貨規制と通貨統制」である(以下「通貨法」

と呼ぶ)。この法律の最も重要な意義は、それが、大統領令も言及していた「通貨取引」の

基本的な原則を提供している点である。「通貨法」によれば、「通貨取引」とは次のような

取引をさす。

イ) 外貨価値物(valiutnye tsennosti)[外貨・外貨建の有価証券、貴金属、宝石]の所有権

の移動に関連した業務

ロ) 支払手段として外貨を利用するか、対外経済活動の実行においてルーブルを利用する

ことに関連した業務

ハ) 外貨価値物をロシアへ(ロシアから)輸出・送付することに関連した業務

ニ) 国際通貨送金(為替)の実行に関連した業務

「通貨法」はこれらの取引を、二つのカテゴリーに分けた。すなわち、輸出入の支払、

短期(180 日以下)信用の受取と提供、利子・配当等に関連した送金である「経常取引」*

と、直接投資、ポートフォリオ投資、他の長期信用および土地取引に関連した送金である

「資本移動に関連した通貨取引」の二つである。「通貨法」によれば、この双方の取引は、

「認可銀行」を通して実行されることになっていた。認可銀行とは、中央銀行からライセ

ンスを得て「通貨取引」を実行する商業銀行であり、外資が参加する銀行や 100%外資で

ある銀行を含む5。

5 白鳥, 1996, 100-101 頁。

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「通貨法」はまた、「通貨取引」に関して、居住者[residents](法人を含む)と非居住者

[non-residents](法人を含む)とに分けてその権利と義務を定める。まず、居住者は、「経

常通貨取引」を何の制限もなしに実行できる。「資本移動に関連した通貨取引」については、

居住者はこれをロシア中央銀行が定めた手続きに則って実行できる。自然人の居住者は以

前ロシアに持ち込まれた(送金された)外貨・有価証券等を、関税規則に従いつつ、再び

ロシアから持ち出すことができる。したがって、居住者は、中央銀行が定めた規定や税関

の規則に従うことを条件としながらも、基本的には自由に外貨や有価証券の売買を非居住

者との間で実行できる権利を得たのである。なお、居住者の資本輸出すなわち、ロシア人

が外国の証券を購入したり、外国に直接投資を行ったりすることは、一般にどのように規

定されていたかを調べると驚くべきことがわかる。それはロシア連邦成立の最初から事実

上認められていたからだ。この問題に関しては、1989 年5月のソ連閣僚会議決定がロシア

連邦成立後も効力をもったが、その決定は、居住者の資本輸出に関して特に制限的な条項

をもっていなかったからである。しかも 1994 年2月3日付対外経済関係省第一次官の文書

は 1989 年の決定の基本的な方向性を承認している6。「通貨法」の規定は、このようなロ

シア人の「自由な資本輸出」を、通貨面で支えているのである。このことは、いわゆる「資

本逃避」(「非生産的資本流出」として後に検討する)との関連で注目しておくべき事実

である。

他方、非居住者の「通貨取引」に関しては、「通貨法」は次のように規定している。非居

住者は、ロシアの代理銀行に外貨口座およびルーブル口座を持つことができ、ロシアに外

貨・有価証券等を何の制限もなく持ち込むことができる。また、ルーブルと交換に外貨を

売買することも可能である。さらに、外貨・有価証券等をロシアから持ち出すこともでき

る。もちろんこれらの権利にも、「ロシア政府、中央銀行、税関の定める諸規定に則って」

という条件が付されるが、基本的に自由化の方向で法令が定められたという事実のほうが

重要な意味を持つといえる。非居住者は金融資産を持って、自由にロシア国境を行き来で

きるようになったのである。

結局、「通貨法」は、1991 年 11 月の大統領令が一旦開いたドアを、基本的には開きつづ

けると宣言したものであると評価できる。

6 Bulatov, 1995, pp.495-500.

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[居住者の外貨口座]

居住者の外貨口座に関しては、1991 年 11 月の大統領令と「通貨法」の規定だけでは、

その内実は十全には理解できない。この点について説明しよう。1992 年に出された二つの

法令によって、ロシアの企業・組織は、銀行に一連の書類を提出することによって、認可

銀行に外貨口座を開くことができるようになった。銀行は企業・組織のために同時に 2 種

類の口座を開く。ひとつは「移転口座」と命名され、もうひとつは「当座口座」と名づけ

られるものである。前者は外貨でのすべての所得が登録される外貨口座である。ここで外

貨強制販売が実施される。強制販売後の残金が「当座口座」に移される。輸出入取引にお

ける国外への(からの)送金、負債、銀行手数料、郵送料、出張旅費のための支払等は、

この「当座口座」を通じて実施されるのである。

このようにしてロシアでは居住者が外貨口座とルーブル口座との双方を保持できるシス

テムが出来上がった。これは、一方では、通貨の自由な交換システムを保証する処置と解

釈することができる。それはルーブル為替レートを市場メカニズムに従って変動させ、全

体としての金融システムの自由化を速めると期待できる。これは今日の国際金融における

自由主義的思考に沿うものである。他方、外貨口座の保持は、インフレーションという条

件下では、資産の減価に対する保険であるという事実も看過できない。ロシアにおける通

貨問題は、自由化とインフレーションという二つの要因が複雑に絡み合って進行している

のである。

このような仕組みの中で重要な位置を占めるのが、外貨の強制売却制度である。輸出等

で取得した外貨の一部を強制的にルーブルに売却する制度は、1991 年 11 月 15 日の大統領

令にすでに規定されていたが、1992 年6月 14 日の大統領令によってこの外貨強制販売制

に変更が加えられた。すなわち、従来の特別為替レートによる外貨の連邦外貨準備へ強制

販売制(40%)は廃止され、すべての企業(外国の資本参加がある企業を含む)が、認可

銀行との交渉で決められたレートで(外貨準備にではなく)国内の外貨市場において、収

得された外貨の 50%を売ることとなった。1998 年 12 月にこの比率は 75%となった。外貨

強制売却は、上記のような自由主義的システムに若干の歯止めをかけようとするものであ

り、その比率の変遷は、政府の政策スタンスのあらわれとして注目に値する。

[非居住者のルーブル口座]

この居住者の外貨口座と対をなすのが、非居住者のルーブル口座である。1993 年に交付

された諸法令・文書に拠れば、非居住者は、認可銀行に、<T>タイプ口座、<I>タイプ

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口座、および非居住者自然人のための口座、という3種のルーブル口座を開く権利があった。

まず、非居住者は、彼らの輸出入取引のため、ならびに、ロシアで彼らの代理店や支店

を維持するために<T>タイプ口座を開くことができる。ここで重要なことは、非居住者

が、輸入や生活費支払のような経常的経済活動ばかりでなく、預金や債券購入のような一

種の資本取引のためにも、<T>タイプ口座を通じてか、間接的にそれに基づいて、ルー

ブル取引を実施できることであった。

第2に、非居住者は、投資活動のために <I> タイプ・ルーブル口座を開くことができ

る。彼らは、<I>タイプ口座を通して、ロシアへのすべての投資・再投資*が可能であり、

ロシアでの投資活動によって得られた収入の本国送金のために、この口座のルーブルで外

貨を購入することができる。すべての取引は非現金ベースで行なわれる。<I>タイプ口座

の概要を定めた法令の条項をみると、<I>タイプ口座は、ロシアの領土に海外投資、特に

海外直接投資(FDI)、を引き付けるために 工夫されたことがわかる。一般に、海外投資

を引き付けるための最も重要な条件は、投資によって得られる収入を本国へ送金する権利

を保証することである。そのために S.M. ボリソフは <I> タイプ口座を通して外貨を購

入する権利が、この文書における主要な「魅力」であると指摘している7。

第3に、非居住者自然人は、毎日の出費のために認可銀行にルーブル口座を開くことが

できる。この口座にあるルーブルは高いレベルの対外交換性を持っているといえる。とい

うのも、そのルーブルは、その所有者が、何の障害もなく非現金ベースで外貨に交換した

り、口座から引き出して、交換所を通じて外国の銀行券を買ったりするために使うことが

できるからである8。

非居住者のルーブル口座に関する一つの前進が 1996 年7月のロシア中央銀行指令によ

ってなされた。それは新たに<S>タイプという名前の特別のルーブル口座を作り出した

のである。<S>タイプ口座は、外国の資本を、政府の債券(GKO と OFZ)市場に、引

き入れることのためだけに作られた特別の口座である。<S> タイプは、非居住者が複数

の認可銀行にいくつかの口座を開設できるという意味で、<T>タイプ口座および<I>タ

イプ口座と異なっている。それは非居住者が、大量の GKO および OFZ を買うことを可

能にした。1996 年以降のロシア国債市場の活況は、この口座の存在抜きには考えられない。

また、非居住者のロシア証券市場への参入は、最新の金融技術のロシアへの浸透も意味し

7 Borisov, 1999a, p.56. 8 Platonova, 1996, p.47; Borisov, 1999a, p.56.

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12

た。

[通貨の交換性]

さて、以上のようなロシアにおける通貨と資本の自由化の過程を、「通貨の交換性」とい

う概念で整理してみよう。それによってロシアの当該問題に関する特殊性が浮かび上がっ

てくるはずである。

ジョン・ウィリアムソンは、「通貨の交換性」の概念を明確に分類した。彼の言うところ

を聞いてみよう9。まず、彼は西欧の伝統的な骨組みに従って「無制限の交換性(資本勘定

交換性)」を「経常勘定交換性」から区別する。通貨は、「資本輸出に関する交換制限が廃

止されたとき、すなわち、居住者が量的制限なしに、公的為替相場で、資本輸出する権利

を得たとき」初めて、「無制限の交換性」を得ることになる、とする。他方、「経常勘定交

換性」とは、「IMF 協定8条2項に体現された交換性の概念である。」したがって 、「経常

勘定交換性」のもとでは、国内の輸入者であろうと、外国の輸出者・投資家であろうと、

財・サーヴィスの外国から購入、利子支払、利益の本国送金等を含むあらゆる取引を行な

うために、公的レートで国内通貨を外貨と交換する権利をもてる。ここでは、「経常勘定交

換性」が、経常取引のために国内通貨を外貨と交換する居住者および非居住者の双方の権

利であると定義されている一方で、「無制限の交換性」は居住者が資本輸出する権利と定義

されている。したがって、この伝統的な無制限交換性と経常交換性とのこの伝統的な区別

にあっては、非居住者が国内に資本投下する権利に関しては、明示的に語られていないの

である。

ところが、東ヨーロッパでは、「国内交換性」と「対外交換性」の概念が使われてきた。

ウィリアムソンは指摘する、「その特徴は“誰が”国内通貨の外貨への交換を許されるべき

かという点にあるのであって、そのような交換が許されるべき“目的”ではない。」したが

って、「国内交換性は国内居住者がそのような交換を行なう権利に関連したものであるのに

対して、対外交換性は非居住者(外国投資家を含むと考えてよかろう)の同様の権利と関

連している」。

交換性の伝統的な定義と東ヨーロッパの定義とを比較すると、東ヨーロッパ専門家達が

対外的交換性にだけ興味を持っていて、(自由な資本輸出の権利を主要内容とする)無制限

の交換性には対しては何の考えももっていなかったことがわかる。というのも、彼らは、

9 以下 Williamson, 1991, pp.377-379 による。

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13

外国資本を引き付けることには熱心であったが、自国から資本が輸出されることなど思い

もよらぬことだったからである。

問題を明確にするために、ボリソフの枠組みを参考にしつつ、筆者は単純な表を作って

みた(表1参照)。数字は当該の交換性がロシアで法律によって承認された年を指している。

これをみると、ロシアにおける通貨と資本の自由化は、ルーブルの国内交換性の承認から

始まって対外交換性の承認(経常勘定交換性と資本勘定交換性の双方において)へと進ん

だことがわかる。

ボリソフは、東ヨーロッパでは、交換性の導入は、対外交換性から始まったと指摘して

いる。しかし、ロシアでは、外貨に対する自由で事実上無制限なアクセス権が、最初から

居住者に与えられていたのである(すなわち国内交換性)。ボリソフによれば、それは重大

な国際収支上の損失をロシアにもたらしたのである。その実際上の目に見える結果はロシ

ア経済いわゆる「ドル化」である10。

無制限の交換性に関して、ウィリアムソンは 1990 年になってやっとフランスとイタリア

が、彼らの資本コントロールを廃止した(したがって無制限の交換性を導入した - 上垣)

という事実に言及する。彼がいうには、「無制限の交換性は、現時点においても近い将来に

おいても、東ヨーロッパ諸国には勧められない」のである。彼は資本コントロールの廃止

を「ぜいたく」とまで呼んでいる。

10 Borisov, 1999b, pp.53-64 がロシアの「ドル化」について詳説している。

何のために 経常取引 資本取引 誰が

居住者 国内経常勘定交換 性

国内資本勘定交換性=無制 限の交換性

1992 1989, 1992, 1994

非居住者 対外経常勘定交換 性

対外資本勘定交換性

1993 1993-1996

注 ) ボリソフ の表を加工( Borisov, 1997, p.28).

表 1 )通貨交換性の考え方

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[小括]

通貨・資本の自由化は、貿易の自由化以上にラジカルに開始された。もちろん個々の条

文には、種々の制限的文言が記載されており、それを自由主義の不足の証拠とみることも

できようが、実際に生じた二つのこと、すなわちロシア経済のドル化と非生産的資本流出

(後者については後述)は、事実上、人々がこの分野で自由を謳歌していたことを示して

いる。ロシアでは、イ)居住者(自然人・法人)が外貨、とくにドルを,現金か預金の形

で保持し、それを経常の貿易取引のみならず、外国の銀行に預金し、外国の証券を購入す

るなどの取引にも利用できるという体制、および、ロ)非居住者がルーブル建口座をロシ

ア国内に持ち、それを通じてロシアの証券市場へ参加し、また、そこで獲得された利子・

配当を、外貨に交換して再び外国に持ち去ることができる体制、これが、体制転換のごく

初期の段階で成立した。このことは、一方では、大量のドルがロシア人によって投資先の

あてもなく保持され、その相当部分が国外に流出するという事態を、他方では、最新の金

融技術がロシアに入り込み国際金融市場の変動にロシアが過敏に反応するという事態を招

いた。ここで重要なことは、通貨の交換性という視角からこの事態を評価することである。

ボリソフとウィリアムソンによれば、ロシアは、最初から国内経常勘定交換性を導入し、

居住者の資本輸出の権利(国内資本勘定交換性)を認めたという意味で、非常にユニーク

な国である。

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4.国際収支の構造

[経常収支の大幅黒字]

表2はロシア連邦の国際収支表*を簡略化して記載したものである11。この表を見て第1

に印象づけられるのは、1993 年以降の膨大な経常収支黒字である。とくに 1997 年、1998

年と経常収支黒字が減少傾向を示したのに、金融危機を経た 1999 年になると再び膨大な黒

字が計上されているのをみると、ロシアには経常収支黒字が構造的にビルトインされてい

ることがわかる。この構造を、初歩的なマクロ経済学によって、検討してみよう12。

Y=C+I+G+CA ------------- (1)

Y=C+S+T ------------------ (2)

11 ロシア連邦の国際収支表は、ロシア銀行(中央銀行)のホームページに発表される(http://www.cbr.ru/dp/statistics.html)。より詳しい項目データが必要な場合は、Vestnik Banka Rossii に掲載のものを利用する必要がある。 12 たとえば、Krugman & Obstfeld, 1991, pp. 299-303 をみよ。

1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999経常勘定[1] 12,792 8,870 7,778 12,011 4,049 2,446 24,990 商品貿易収支[2] 15,590 17,675 20,476 22,933 17,440 17,306 35,302    商品輸出[3] 59,724 67,826 82,663 90,563 89,038 74,751 74,663    商品輸入[4] -44,133 -50,152 -62,188 -67,629 -71,599 -57,445 -39,361 サーヴィス貿易収支[5] -1,375 -6,716 -9,402 -5,722 -4,688 -3,150 -3,342 投資所得・労働支払収支[6] -2,302 -1,782 -3,368 -5,339 -8,411 -11,359 -7,504 経常移転収支[7] 879 -307 72 138 -291 -351 534資本・財務勘定[8] -6,540 -8,538 1 -3,380 3,766 5,469 -18,009 資本取引勘定[9] -284 2,410 -347 -463 -797 -382 -333 資本移転[10] -284 2,410 -347 -463 -797 -382 -333 財務勘定[11] -6,257 -10,948 348 -2,917 4,562 5,851 -17,676  直接投資(ネット)[12] 1,069 538 1,658 1,708 3,640 1,156 746  証券投資(ネット)[13] -374 36 -2,408 8,757 45,433 7,779 -562 その他投資(ネット)[14] -4,131 -11,574 10,408 -14,739 -42,556 -8,339 -15,907 準備資産増減[15] -4,354 1,896 -10,386 2,841 -1,936 5,305 -1,778誤差脱漏[16] -6,252 -333 -7,780 -8,631 -7,815 -7,914 -6,981

注)本表はIMF国際収支マニュアル第5版に則って記載されている。ロシアでは1995年分から第5版に準拠する  国際収支表が発表されるようになったが、その後1993年分まで第5版の形式に遡及改定されて発表されて  いる。出所)Bank Rossii, Plachezhnyi balans Rossiiskoi Federatsii.

表2)ロシア連邦の国際収支表(対全世界)(100万ドル)

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Y=C+S+T ------------------ (2)

したがって

C+I+G+CA=C+ S +T --------(3)

すなわち

CA=(S -I)+(T-G) ------------ (4)

ここで、 Y=GNP、C=消費、I=投資、 G=政府支出、CA=経常収支、 S =民間貯蓄、 T=租

税。

式 (4) は、一国の経常収支が、貯蓄余剰(投資に対する) [S-I] と財政余剰 [T-G] との

和であることを示している。表3はこの経常収支、貯蓄余剰、財政余剰の3者の関係を、

アメリカ、日本、ロシアについて比較したものである。

よく知られているように、日本とロシアとは 1990 年代末まで多額の財政赤字を記録して

きた。他方アメリカは、かつては大きな財政赤字を抱えていたが、近年財政バランスを急

速に改善している。経常収支についてみると、日本とロシアとが大きな経常収支黒字を記

録してきたのに対して、アメリカの経常収支は一貫して赤字であり、その赤字額は 1990

年代末には莫大な額に上った。

(4)式および表3は次のことを意味している。まず、日本とロシアでは、財政赤字を補っ

て余りある貯蓄余剰が存在するために、それが経常収支黒字につながっている。将来に不

安を抱えた消費者が消費を手控えている一方で、投資家も将来に明るい展望が描けずに投

資意欲を減退させているという意味で、日本とロシアとは、マクロ経済的に同じ問題を抱

えているのである。他方、1980 年代のアメリカでは、貯蓄不足と財政赤字が同時に発生し、

それが経常収支赤字につながった。1990 年代後半になると財政バランスは改善されたにも

かかわらず、貯蓄不足がさらに大きくなったためにアメリカの経常収支赤字はむしろ悪化

CA=経常収支 S-I=貯蓄余剰 T-G=財政余剰

1980年代 大幅赤字 大幅マイナス 大幅マイナス

1990年代後半 さらに大幅赤字 さらに大幅マイナス ゼロに接近

ロシア 1990年代後半 大幅黒字 大幅プラス 大幅マイナス

日本 1990年代後半 大幅黒字 大幅プラス 大幅マイナス

表3) 3カ国のマクロバランス

アメリカ

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アの貯蓄余剰を吸収して来たのである13。

もちろん、ロシアと日本とにおける消費不足(貯蓄過多)の原因は異なる。ロシアでは

国民の消費水準はいまだ低位のままであり、彼らにとって買いたいものはいくらでもある。

問題はそれが適切な価格で供給されていないことである。日本は、歴史的な消費構造の転

換期にあるとみるべきであろう。しかし、貯蓄を国内投資に結びつける金融システムの不

備という点も含めて、ロシアと日本とのマクロ経済構造が非常に似ているのは興味深い事

実である。

[貿易黒字]

さて、経常収支黒字を作り出している要因は明らかに商品貿易における黒字である。表

2をみると、商品貿易収支の黒字は常に経常収支黒字全体の額を上回っている。他の経常

収支構成項目に赤字が計上されても、それを補って余りある商品貿易収支黒字が形成され

るために、経常収支が黒字になっているのである。これがロシアの経常収支勘定の基本構

造である。ロシアの商品貿易収支黒字の特徴は、輸出と比較して輸入が非常に少ない点で

ある。いま(輸出-輸入)/(輸出+輸入)を貿易収支率と呼ぶとすると、この貿易収支

率が、ロシアでは 1993 年以降 15%前後にもなっている。旧ソ連体制下の商品貿易はこの

ような構造ではなかった(ペレストロイカ初期には5%前後であり、その後赤字に転落し

ていた)。体制転換とともに、貿易構造に大きな変化が生じたのである。

この変化を商品貿易の品目構造からあとづけてみよう。表4~7は、ロシア連邦(1991

年までは、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国)の対「遠い外国」(CIS 加盟諸国以外

の国々)貿易品目構造を示している。まず、輸出をみると、「機械・設備・輸送手段」が絶

対額も比重も、1991 年以降急激に低下したことが目を引く。これは、コメコンの崩壊によ

ってロシア(ソ連)の重工業製品が市場を失ったことを意味する。それに代わって絶対額、

比重とも増やしているのは「金属・宝石・同製品」である。石油・天然ガス以外にも数多

くの地下資源をもつロシアの特質がここに現れている。石油・天然ガスを中心とする「鉱物

性生産物」は、もちろんロシアの輸出の主軸であるが、その輸出額は必ずしも安定していな

い。国内生産の停滞、国際市況の変動等の要因がここに作用しているとみられる。それでも

なお、輸出総額の 40%以上が常に「鉱物性生産物」であるのは、国内需要が低迷している

13 これは、ネット・バランスの観点から描かれた構図である。もしグロスの資本移動を考慮するなら、アメリカと EU との間の巨大な資本移動額に注意する必要がある。

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なお、輸出総額の 40%以上が常に「鉱物性生産物」であるのは、国内需要が低迷している

からである。輸出額全体をみると、一時急激に落ち込んだが、1996-97 年にはソ連崩壊前の

水準に復帰している点が注目される。これが貿易黒字を作り出す一つの要因であった。

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999機械・設備・輸送手段 12.5 5.2 3.8 2.9 3.2 5.3 5.6 5.7 5.8 5.8

鉱物性生産物 32.3 26.3 22.0 20.7 22.8 26.4 32.7 32.5 23.6 26.6金属・宝石・同製品 9.2 7.3 7.0 10.3 16.5 19.6 19.0 19.4 18.7 17.8

その他 17.1 12.1 9.6 10.4 10.5 14.3 13.7 12.4 11.0 12.2全体 71.1 50.9 42.4 44.3 53.0 65.6 71.0 70.0 59.1 62.4

注)国家税関委員会のデータ(パイプラン輸送等のため税関を通過しなかったもののデータを含む)による。出所)1993年までは、RSE , 1995, p.432、1994年以降は Rossiia v tsifrakh , 2000, p.364.

表4)ロシアの対CIS以外諸国輸出品構成(時価、10億米ドル)

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999機械・設備・輸送手段 17.6 10.2 9.0 6.5 6.0 8.1 7.9 8.1 9.8 9.3

鉱物性生産物 45.4 51.7 51.9 46.7 43.0 40.2 46.1 46.4 39.9 42.6金属・宝石・同製品 12.9 14.3 16.5 23.3 31.1 29.9 26.8 27.7 31.6 28.5

その他 24.1 23.8 22.6 23.5 19.8 21.8 19.3 17.7 18.6 19.6全体 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

出所)表3より計算。

表5)ロシアの対CIS以外諸国輸出品構成(パーセント)

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999機械・設備・輸送手段 36.3 15.8 13.9 9.1 10.7 12.9 12.3 15.4 13.1 8.2

繊維・同製品 7.6 4.4 4.5 3.7 2.2 1.6 1.4 1.3 0.9 0.7食料・農業原料(繊維を除く) 16.6 12.4 9.6 5.9 8.6 9.7 8.2 10.2 9.1 6.3

その他 21.3 11.9 9.0 8.1 6.9 8.9 10.9 12.4 10.2 7.5全体 81.8 44.5 37.0 26.8 28.4 33.1 32.8 39.3 33.3 22.7

出所)1993年までは、RSE , 1995, p.432、1994年以降はRossiia v tsifrakh, 2000, p.366.

表6)ロシアの対CIS以外諸国輸入品構成(時価、10億米ドル)

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輸入に関しては、どの商品グループも絶対額を低下させているが、その中で「食料・農

業原料」が相対的に比重を高めているのが興味深い。これは体制転換後のロシア民衆の嗜

好変化、西欧的生活スタイルへの憧れ、そしてもちろん国内農業生産の低迷の反映といえ

る。また、「機械・設備・輸送手段」の全体額の落ち込みはすさまじい。ロシアでは、先進

工業国から投資財を輸入して産業基盤の強化に当てるような政策は、体制転換後急速に減

退し、それが回復していないのである。なお、「繊維・同製品」輸入の絶対額も比重も下落

しているという点に関しては、慎重な接近が必要である。というのも、この統計は国家関

税委員会による「通関統計」であり、いわゆる「担ぎ屋貿易」を含んでいないからである。

ロシア中央銀行は、この担ぎ屋貿易を含む国家関税委員会が掌握していない貿易について

独自の推計を行ない、国際収支統計に加算している。表8はその中央銀行推計のうち、「担

ぎ屋輸入」にあたると考えられる項目を書き出したものである。中央銀行推計は、消費財

のみを対象としているので、ここに示された額は、繊維製品や加工食料品や雑貨等の担ぎ

屋輸入額である。表6~7では掌握できない輸入構造の実態がここに明らかになっている

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999機械・設備・輸送手段 44.4 35.5 37.6 34.0 37.7 39.0 37.5 39.2 39.3 36.1

繊維・同製品 9.3 9.9 12.2 13.8 7.7 4.8 4.3 3.3 2.7 3.1食料・農業原料(繊維を除く) 20.3 27.9 25.9 22.0 30.3 29.3 25.0 26.0 27.3 27.8

その他 26.0 26.7 24.3 30.2 24.3 26.9 33.2 31.6 30.6 33.0全体 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

出所)表5より計算。

表7)ロシアの対CIS以外諸国輸入品構成(パーセント)

1,995 1,996 1,997 1,998

対CIS以外 -10,052 -15,446 -15,558 -12,091

対CIS -3,220 -5,128 -3,906 -2,230

全世界 -13,272 -20,574 -19,464 -14,321注)国際収支表の国家関税委員会のデータに対する修正のうち、  「担ぎ屋貿易を含む、捕捉に関するその他の修正」を書き  出した。出所)Vestnik Banka Rossii, No.23, 1996, p.14; No.29, 1999, p.21    およびロシア中央銀行提供国際収支データ.

表8)担ぎ屋輸入の推計(100万ドル、符号は国際収支表に従う)

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(なお、表4~7は対 CIS 貿易を考慮していない)。年平均 170 億ドルにも上る表8の数

字は、担ぎ屋が持ち込んだ商品がロシアの消費市場を席巻していることを示している。

経常勘定を構成する他の要素、すなわち運輸・旅行・建設・金融・その他サーヴィスか

らなる「サーヴィス貿易」と利子・配当・賃金からなる「投資所得・労働支払」について

は、ここでは考察を省略する。

[非生産的資本流出]

経常収支の黒字は、常にその裏面として金融資産の流出を付随している。これは普通「資

本逃避」の問題として議論される。この流出をすべて国民経済の健全な発展を阻害する要

因と見なしてしまうわけにはいかない。将来果実を伴って本国に帰ってくるのであれば、

現在無理に流出を押しとどめておく必要もない。国内に無理に投資すれば資源の効率的配

分を損なう場合もあろう。しかし、ロシアに関していえば、いくつかのルートを通じて、

ロシア国民の貴重な資産が、将来彼らの請求権を公には主張できないような形で、流出し

ていると判断できる。

筆者はこのようなルートとして、「国内流通外貨現金増」「貿易代金の未収・未払」「誤差

脱漏」の三つを重要視し、その合計額(年単位でみれば常にマイナス、すなわち純流出)

を「非生産的資本流出」と呼んでいる。なぜ、「資本逃避」と呼ばないかというと、これら

三つものが、国際収支表に痕跡をまったく留めないような純然たる犯罪行為を含んでいな

いからである。本来ならそのような犯罪行為による資本移動も考慮して「資本逃避」につ

いて語るべきだが、ここでは確実なデータは得られないという状況を考慮して、それを断

念している。なお、ここで「国内流通外貨現金増」を「流出」資本に加えることには異論

があろう。実際それは国内に存在するのであるから異論が出るのも当然である。しかし、

筆者はこの国内に存在する外貨現金が、国内投資へと向かわずに、タンス預金などとして

滞留しており、さらに、非合法な国外流出資金の予備軍となっていることに注目し、「流出

資本」と同様な機能を果たしていると判断している。

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表9をみると、「非生産的資本流出」は、1992 年以降急速に増加し、1997 年にピークに

達し、その後減少していることがわかる。1998 年以降の減少は、「国内流通外貨現金増」

がプラス値になったことによる。国際収支表の記載ルールによれば、このプラス値は、国

内に流通している外貨の量が減少したことを示している。経常収支の動向と国内における

外貨保持に関する種々の規制のあり方がこのような結果を導いたのである。

図1は「非生産的資本流出」の合計額と経常収支との関連を四半期ごとに表している。

これをみると、経常収支の動きと「非生産的資本流出」の動きとは、強い相関関係がある

ことがわかる。すなわち、経常収支黒字が大きければ大きいほど流出も多額に上るのであ

る。筆者はこのことの背景に、ロシアの居住者が、現金や銀行預金の形で外貨を保持する

ことを可能にした自由主義的な制度改革があると考えている。外貨で資産を保持するとい

うことは、国際的に認められた価値物を保持するということを意味する。この場合その価

値物は容易に場所を移動させることが可能なのである。図1は、輸出等の儲けがロシア人

に外貨の形で保持され、それがすぐに非生産的なルートで外国に流出しているという状況

を暗示している。

1,993 1,994 1,995 1,996 1,997 1,998 1,999国内流通外貨現金 -3,619 -5,740 134 -8,669 -13,444 945 848

貿易代金の未収・未払 0 -3,860 -4,928 -9,773 -11,458 -8,625 -5,384誤差脱漏 -6,252 -333 -7,780 -8,631 -7,815 -7,914 -6,981

合計 -9,871 -9,933 -12,574 -27,073 -32,717 -15,594 -11,517

出所)Bank Rossii, Plachezhnyi balans Rossiiskoi Federatsii

表9)非生産的資本流出(100万ドル、符号は国際収支表に従う)

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5.1998 年通貨危機

[アジア通貨危機のロシアへの波及]

1997 年7月に生じたタイ・バーツの危機は、マレーシア、インドネシア、フィリピンに

波及し、さらに香港、韓国もその影響を免れなかった。これら通貨・金融危機に陥った東

アジアの諸国を概観すると、その経済システムと構造に共通の特質があったことがわかる。

まず、これら諸国の通貨はいずれも(韓国ウォンを除く)、ドルあるいはドルを主要通貨

とするバスケットに固定(ペッグ)されていた。また資本取引は自由化されており、証券

投資の流入が膨大な額に上っていた(資本の出し手である香港、韓国はやや事情が異なる、

以下同じ)。他方、各国の経済基盤を強化するような直接投資の流入は必ずしも活発でなく、

経常収支は赤字を続けていた。経常収支の問題を除いて、これらがロシアの抱えていた状

況にあまりにも類似していたのに驚かざるを得ない。とくに、ルーブルが一種のターゲッ

トゾーン制を採用して、ドルに結びつけられていたという要因は重要である。「次の生け贄

はどの国か」と虎視眈々と地球儀を眺めていた投機家が、対ドル変動幅を固定しており、

かつ経済基盤の脆弱な国として、ロシアに注目したのは理の当然であった。

図1)経常収支と非生産的資本流出

-15,000

-10,000

-5,000

0

5,000

10,000

15,000

1994.I

1994.II

1994.III

1994.IV

1995.I

1995.II

1995.III

1995.IV

1996.I

1996.II

1996.III

1996.IV

1997.I

1997.II

1997.III

1997.IV

1998.I

1998.II

1998.III

1998.IV

1999.I

1999.II

1999.III

1999.IV

年/四半期出所)Bank Rossii, Plachezhnyi balans Rossiiskoi Federatsii

(100ドル) 経常収支 非生産的資本流出

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アジア通貨・金融危機のロシアへの波及とその後のロシアにおける危機の深化の経過に

関して、過渡期経済問題研究所(以下過渡期研究所)のレポートを参考にしながら、あと

づけてみよう14。1997 年夏に東アジアで通貨危機が勃発した時、その影響はロシアに及ば

ないようにみえた。しかし、ロシアは財政、国際収支、通貨に基本的問題を抱えており、

世界の投資家はロシアに対する自らの評価を悪化させていた。1997 年 10 月 23 日、香港の

株式が急落、史上最大の下げ幅を記録すると、それはすぐニューヨーク、東京に飛び火し、

それがさらに 28 日の香港市場の株価を下げた。これがロシアに到達した。ロシアではアジ

ア通貨・金融危機の影響はまず株式市場であらわれたのである。

影響は国債市場にもあらわれた。危機の第1週に早くも国債の加重平均利回りは 22%か

ら 28%に上昇した。国債の売買額も増加し、1週間の売買額は約2倍以上に増えた。同時

に、ロシアのユーロボンド相場は急落した。

1997 年終わりから 1998 年初めにかけて東アジアの危機が深刻化すると、それがロシア

金融市場の状況をさらに悪化させる原因となった。ロシアのリスクが高まり、世界各国に

投資する巨大投資ファンドによる投資限度銘柄の再調整が始まると、株式市場の価格が順

次下がっていき、GKO/OFZ 市場の利回りも上昇した。ロシアから証券投資が逃避し、ル

ーブルに対する売り圧力が強まると、年初には、対ドル公定相場が急速に引き上げられ、

先物相場も上昇した。大幅に対米ドル変動幅(コリドール:後述)が拡大され、その中で

ロシア中央銀行が通貨市場における安定化策を行なわなかった結果、相場変動の偏差が実

質的に拡大した。

2月以降一旦、安定が到来するかのような情勢になったが、5月中旬からロシアのマク

ロ経済情勢は再び著しく悪化し始めた。国債の相場は猛烈に低下し、RTS-1 の株式指数も

約 40%低下した。ルーブル相場への圧力は強まり、外貨準備は5月だけで 14 億ドル(10%)

減少した。さらに銀行危機の兆候が現れだしていた。

6月に国際的格付け会社が、ロシア、ロシアの銀行、会社に対する格付けを著しく低下

させたあと、金融市場から投資家の資金が大量に流出し、月の後半には GKO の利率がさ

らに上昇して 50%となった。6月の株式指数の低下は 20%であった。これはルーブル相場

への圧力を強化し、通貨市場におけるロシア中央銀行の大幅な介入を必要とさせた。

7月 13 日に IMF、世界銀行、日本政府が総額 226 億ドルの金融支援を供与することが

14 以下 IEPPP, 1998, pp.42-58 を換骨奪胎しながら経過の説明を行なう。

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明らかされると、市場はこれを好感し、金融諸指標は若干持ち直した。しかし、これも一

時しのぎに過ぎなかった。7月 15 日の GKO 引き受けオークションは成立せず、国債の利

払いは連邦財政からなされた。6月中、ロシア政府は積極的に危機打開プログラムを作成

したが、その多くは法令化に際して国会に否決されていた。最後の段階ではロシア中央銀

行と財務省との間に抗争もあった。8月2日前後を境に事態は制御不可能な性格を帯びた

ものになっていた。

8月 17 日、遂にロシア政府は、主に次のような三つの経済措置を実施することを発表し

た。それは、第1にルーブルの対米ドル変動幅(コリドール)を1ドル=6ルーブル~9.5

ルーブルへと拡大すること、第2に対外債務の支払を 90 日間停止すること、第3に国債の

期間構成再構築のため国債の販売・払い戻しを一時停止することであった。アジア通貨危

機はロシアに波及して、それまで西側諸国アドヴァイザー達の意向によって実施されてき

たマクロ経済安定のための基本政策を破壊したのである。

[コリドール]

ロシアが通貨投機の攻撃を受けて危機に陥った最大の原因は、ロシアの為替制度が、危

機前のアジア諸国と同様に、ドルに対する一種の固定制(正確にはターゲットゾーン制)

を採用していたことにある。そこで、このコリドールと呼ばれる制度について説明しよう。

コリドールとは文字通り「廊下」という意味だが、このような一種の固定為替相場制は、

IMF が多くの発展途上国で、マクロ経済安定化(インフレーション収束策)の有効な手段

として推奨してきたものである。ロシアでも 95 年7月からこれが採用されたのである。

まず7月6日より 10 月1日まで1ドル=4,300~4,900 ルーブルと決められたが、その後

このコリドールは 12 月末まで延長されることとなった。95 年 11 月 30 日には、96 年1月

1日より6月 30日までを期限としてコリドールが 4,550~5,150ルーブルに変更されること

が決定された。ところが、96 年5月 16 日に新しい方式の採用が決定された。すなわち、

96 年7月1日に1ドル=5,000~5,600 ルーブル、12 月 31 日に1ドル=5,500~6,100 ルーブ

ルという期間両端のコリドールを定めておき、6ヵ月の間に徐々に変更していくという一

種のクローリング・ペッグ方式が採られることとなったのである。97 年に関しても1月1

日の1ドル=5,500~6,100 ルーブル、12 月 31 日の1ドル=6,350 ルーブルを両端時点のコ

リドールとし、期間中それを徐々に変更する方式が採用された。しかし、97 年 11 月 11 日

付の決定によって、システムは元の固定方式に戻り、中心値1ドル=6.2 ルーブル(98 年

1月1日以降のデノミネーション後の表記、古い表記では 6,200 ルーブル)、変動幅上下

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15%のコリドールが 98 年1月1日から向こう3年間継続することとなった。この最後の決

定は 98 年8月 17 日に反故となった。

確かにコリドールは物価の安定に貢献したようにみえる。95 年前半期まで5%以上あっ

た月間消費者物価上昇率は、96 年以降1~2%に下がり、時には前月比で物価が下落する

までになった。しかし、物価と為替相場との総合的関係を示す数値である実質為替相場*

は、94 年末を基準点にとるなら、コリドール採用とともに上昇し、高い位置にとどまって

いたという点がより重要である。すなわち、コリドールはルーブルの実質為替相場を上昇

させ、輸出を不利に輸入を有利にさせたのである。このため、国際的に高い競争力を持つ

資源産業以外のロシアの産業は輸出力を失っていく。他方、消費財市場には安価で高品質

の外国製品が、主に担ぎ屋輸入を通じて流入し、国内の消費財産業を破壊した。

コリドールが物価安定化とともに果たすことを期待されていたもうひとつの役割は、相

場の不安定性を除去することによって、外国人投資家が安心してロシアに投資できる環境

を作り出すことであった。すでに述べたように、ロシア政府は 1996 年から外国人をロシア

証券市場へ引き寄せる政策を実施したが、その核をなしたのが、GKO および OFZ という

短期ルーブル建国債であった。ルーブル建であるから外国人投資家にとってルーブルの為

替相場は重要な関心事である。

しかし、ここに落とし穴があった。ロシアにはすでに相当程度自由化された通貨と資本

移動のシステムがあったから、為替相場を一定の変動幅に保つためには、通貨当局が適切

な介入を適時に実施する必要があった。しかし、そのためには通貨当局に十分な量の外貨

準備が存在しなければならない。もし外貨準備が枯渇して固定相場幅を維持できないかも

しれないという予想が生じれば、そこに通貨投機の危険性が発生する。ロシアではまさに

このことが起こった。通貨投機は、デリバティブのような最新の金融技術の利用も含めて、

ロシアの自由化されたシステムの下では簡単に行なうことができた。

コリドールによるマクロ安定化も通貨・資本の自由化も、IMF がロシア政府に慫慂して

きたことである。1998 年8月の通貨危機は、この IMF 路線に根本的矛盾があったことを

内外に示した。

6.危機からの回復と今後

1998 年8月の通貨危機はロシア経済に多大な影響を与えた。95 年の水準を 100 として

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98 年8月に 107.4 にまで上昇していた財・サーヴィスの実質消費は9月以降 95.6、83.6、

と縮小していき、99 年2月には 75.5 にまで達した15。失業率(ILO 基準)は、98 年8月ま

で(月末水準)11.3%から 11.7%の間を推移していたのが、98 年 10 月以降 12%を越え、99

年2月には 14.1%まで上昇した。しかし、この苦境は長くは続かなかった。実質消費は、

99 年後半には徐々に回復し始め 99 年 12 月には 1995 年の水準に戻った(ただし、2000 年

にはいるとまた低下している)。失業率も 99 年2月以降上昇する気配はみえず、11%から

12%前半という水準を維持し、2000 年8月には 10%を切った。結局、1999 年の実質 GDP

は、1998 年と比較して、むしろ 3.2%増加したのである。

このような事態の展開を促した要因の一つは、通貨危機そのものであった。というのも、

通貨危機の結果、コリドールが維持できなくなり、それがルーブル安を招いたからである。

ルーブル安は、輸入の減少につながった。ロシア連邦の商品輸入額は、97 年には 737 億ド

ル(国家統計局による未登録貿易の推計を含む)に上ったのに、98 年にはそれは 591 億ド

ルに、99 年には 402 億ドルとなった。このことは、従来輸入品に席巻されていた消費財市

場の構造を一変させ、国内の消費財産業の興隆を導いた。

もう一つの偶然的な要因がロシア経済の回復を後押しした。それは世界的な石油価格の

上昇である。ロシアの石油・石油製品輸出の額は、99 年2月に底を打って以来徐々に上昇

を続け、2000 年5月には月額 34 億ドルとなった。このまま事態が推移したとすれば、2000

年全体で石油・石油製品輸出額は 300 億ドルを超えたはずである。これがいかに大きな額

であるかは、表2から了解できよう。

このような、消費財産業および石油関連産業の活況は、国内投資も押し上げている。新

建築・設備への実質支出額(季節調整済み数値)は、1997 年の水準を 100 として、98 年

12 月には 82 にまで低下していたが、その後徐々に上昇し、99 年9月に 100 をこえ、2000

年8月には 114.7 にまでなっている。このような好調な経済は、ロシア経済の癒しがたい

病とさえ思われた財政赤字問題にも好影響を与えている。税収の継続的増大が財政赤字額

を押し下げ、99 年度の連邦財政赤字(IMF の定義による)の対 GDP 比は 1.7%と、かつて

ない水準に低下し、2000 年度にはついに財政は黒字に転化した。

問題は、このようなロシア経済の好調が持続可能なものであるか否かである。無責任な

予想は差し控えねばならないが、予想を正確にするために考慮する必要があるいくつかの

15 以下統計データは RET, 11 Oct. 2000。

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論点を、対外経済に関連したものに限定して列挙し、本章の締めくくりとしたい。

第1に考慮する必要のある問題は、対外債務問題である。ロシア連邦政府と通貨当局の

計算によれば、ロシアは 2001 年以降 2010 年までの 10 年間毎年平均 100 億ドル以上の対外

債務元本利子を払いつづけていかねばならない。たとえロシアが、現在の経常収支黒字を

維持しえたとしても、この支払はたやすいことではない。もし経常収支黒字が減少して、

あるいは、非生産的資本流出のために政府の自由になる外貨が不足して、返済が途絶える

ようなことがあれば、国際金融市場におけるロシアの評価は再び凋落し、諸外国の対ロシ

ア投資は減少するであろう。もちろんマクロ経済の量的基準からいえば、ロシアの経常収

支は大幅黒字なのだから、ロシアに外国投資は必要ないといえよう。しかし、経済各単位

の合理化・近代化といったミクロの視点からいえば、外国投資はロシアに是非とも必要で

ある。

第2に為替相場の動向には、今後とも注意しておく必要がある。上述のように、1999 年

以降の経済回復においては、ルーブル安が決定的な意味を持った。為替相場がルーブル高

に向かうようであれば、この経済回復の基盤が掘り崩されかねない。

第3に、石油価格の動向もロシアの輸出額を左右する問題として見逃せない。石油価格

の下落はロシアの経常収支縮小を導くはずである。

第4に経常収支大幅黒字が中央銀行の外貨準備を増加させるという関連に注目せねばな

らない。というのも、金融危機時に国債償還のモラトリアムを実施して市場の信用を失っ

たロシア政府にとって、不胎化は容易にとり得ない政策であり、外貨準備の増加は直接国

内流通ルーブル通貨の増加をもたらし、それがインフレーションにつながるからからであ

る16。インフレーションが限界を越えれば、ロシア経済は 1995 年以前の状態に戻ることに

なる。

もちろんこれらのことは、同時に生じるわけではない。たとえば、第2の問題、すなわ

ち、経常収支黒字の減少が生じるなら、第4の問題は生じないわけである。また、第3の

問題、すなわち、石油価格の下落が生じるなら、それはルーブル相場を押し下げる効果を

持ち、第2の問題は生じないことになる。しかし、この複雑な相互関係の存在は、ロシア

経済が、いびつな形ではあれ、すでに深く世界市場に組み込まれていることを示している。

我々はこの複雑な相互関係を解きほぐしてロシア経済の未来をみる必要がある。

16 この点は Stoneman et al. 2000, p.4 が指摘している。

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語句説明

証券化、デリバティブ化、オフショアー化=証券化とは、外国投資が銀行ローンではなく、

証券の発行と受入によって行なわれる傾向を指す。1980 年代の途上国債務危機の後、多く

の投資家が安全性・短期の収益性を求めて、証券投資を志向するようになった。デリバテ

ィブ化とは、フューチャーズ、フォワーズ、スワップ、オプションのような新しく開発さ

れた金融技術が、国際金融市場で大きな役割を持つようになっている傾向を指す。重要な

のは、デリバティブが、小額の元手で巨大な資本を動かすことができる技術であるという

点である。オフショアー化とは、脱税やその他の情報隠匿を目的として、金融機関がその

本店を、実際の本拠地とは別の場所、たとえば、カリブ海の小島、に置く傾向を指す。こ

れら三つの傾向はすべて 1992 年以降急速にロシアに流入した。

ロシア市場経済化の自由主義的設計者たち=ロシア市場経済化の設計者として重要な役

割を果たしたのは、外国人アドヴァイザーたちである。アンデルス・オスルンド、ジェフ

リー・サックス、アンドレイ・シュライファー、リチャード・レイヤード、スタンレー・

フィッシャーらが有名である。

経常取引=これらは IMF 協定第8条第2項に記された取引である。これら取引に対して、

通常は、何の制限も課さないことを義務付けられているのがいわゆる IMF8 条国である。

再投資=ここで再投資とは、ロシアへの投資で獲得された収益を、本国に送金せず、再び

ロシアに投資することをいう。

国際収支表=現在、世界各国の最新の国際収支表記載基準は、IMF 国際収支表マニュアル

第 5 版(1993 年発表)である。国際収支表は厳密な複式記帳(double entry system)の原則

に則って記載されるものであり、単純な現金出納簿(cash book)ではない。

実質為替相場=実質(real)為替相場とは、2国間の名目為替相場を、両国の物価水準を

勘案して、実質化したものである。たとえば、時点1において1米ドル=120 円であり、

時点2においては、1米ドル=115 円であったとしよう。ドルの円に対する名目為替相場

は、約 4.2%下落したことになる。しかし、時点1から時点2の間に、アメリカでは物価が

30%、日本では 10%上昇したとすると、ドルの円に対する実質為替相場は、

(1-0.042)/(1.1/1.3)=1.132 となり、逆に約 13%上昇したことになる。なお、実質為替相場は、

「ある通貨の、他の各国通貨に対する為替相場を、貿易額などを基準に、加重平均した値」

である「実効(effective)為替相場」とは異なるので注意する必要がある。

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討論テーマ(自分で調べ、発表し、討論する)

1.自国の輸入関税システムの変遷を調べ、他国と比較しよう。可能なら、平均関税率を

計算しよう。WTO との交渉はどのような経過をたどっているか調べよう。

2.自国への外国資本の流入がどのような過程をたどって自由化されてきたか、調べよう。

また、自国資本が外国へ流出することに関してどのような規制があるか調べてみよう。

3.自国の対外債務の実態を調べ、その国内経済への影響を予想しよう。

4.自国の国際収支表を、表2と同形式で作成してみよう。その場合、自国のオリジナル

表が IMF 国際収支マニュアル第5版に則っているかどうかを確認しておこう。

5.過渡期国にとってどのような為替制度が適切であるか討議しよう。

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