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たわいもない理由で選んだ中高一貫校だったが,生き方(人間として一番大切なこと)を学んだ―― 杢野さんのキャリアを理解する上で参考になると思いますので,幼い頃のエピソードや中高一貫校(進学校として有名な女子学院)を選ばれたいきさつ等をお聞かせください。杢野 私には小さい時からバンカラ風なところがあったようです。小学校6年生の時には運動会の応援団長をしました。女子の団長は珍しかったと思います。中学も近くの公立に行くつもりでいたのですが,いざ進学が近づくと,そこの制服が“カッコ悪くて”着るのは嫌だと思いだし,中学受験を決心しました。先生は「今から受験といっても…」と困惑気味でした。中学受験の場合は,当時でも小学校4年位から「四谷大塚」等に通って受験勉強するのが普通でしたから無理もありません。先生に無理といわれても,言い

出したら聞かない性格なので,「やるだけやってみます」ということで,四谷大塚の選抜試験をクリアーし,半年間ほど日曜日ごとに実力判定テストを受けに行きました。幸い受験した国立大付属と私立の両方に受かったのですが,私立の女子学院に行くことにしました。女子学院の場合は入学試験の合間に落研の人たちが落語をやってくれ,バンカラで,あまり女の子っぽくない雰囲気がとても気に入っていましたので良かったと思います。制服もありませんでしたし。―― 中高一貫の女子学院生活で印象に残っていることは?杢野 創設者Mary T. Trueの言葉「自分のつとめを怠ったり,自分に力があるのに他を助けなかったりした時,苦痛を感じるような女性になりなさい」が,不思議とバンカラな私の心に響きました。今は,“力があれば…助けなさい”という一節は,「力をつけて…助けなさい」というように,よりアクティブに受け止めるように心がけています。

一時はブルーインパルスに憧れたが,数学が好きだったので東工大へ―― 勉強一筋?杢野 いいえ。女子学院に入学してすぐの頃に,ブルーインパルスの華麗なアクロバット飛行を観て,その虜となり防衛大学校に行ってブルーインパルスの操縦士になりたいと思ったのですが,中学の途中からメガネをかけるようになったため,裸眼での良好な視力が必要なブルーインパルスは諦めざるを得なくなりました。そんなわけで,進学校に通いながら大学に行く気を無くしてしまい,テニスばかりやっていました。高校2年の時に,担任の先生に「あなた,大学はどうするの」と聞かれて,「大学はいかないです」,「親が反対しているの?」,「いえ,そんなことはないんですけど…」となって,母が呼び出され「本人の好きにさせています。本人が望むならもちろん行かせますよ」という趣旨の話をしました。そこで先生が私に大

学の魅力を語り,私の気持ちも大学進学に傾き始めたというのが実情です。高2の後半から,ようやく受験勉強を始めたわけです。理系科目,中でも数学が好きだったことと,教育環境は国立の方がいいだろうということで東工大一本に絞って受験しました。始まったばかりの共通一次試験(第2回目)も会場が東工大でしたから縁があったのでしょう。行きあたりばったりでしたから,運が良かったのだと思います。―― 運だけでは難しいのでは?杢野 しいて言えば,数学に加え物理と化学も好きだったことと,女子学院では中学から英語に親しむ機会が多く,英語が自然に身に付いていたのでしょう。小学校の時は算数が大好きで暗算が得意でした。そろばんは練習しなかったものですから,そろばんの授業では2桁ぐらいの足し算ならば,珠を動かさないで最後に答えをそろばんの珠で表現していました。東工大の入試では数学が全問解けたという手ごたえを感じたのを覚えています。

                              

活躍中の同窓生

●プロフィールもくの じゅんこ:1961年,東京都出身。1984年,横河ヒューレットパッカード入社。1989年~ 1991年,ワシントン大学MBA。1991年,アーサー・D・リトル・ジャパン。1998年,センダント・ジャパン。1999年,システムズ・ゴー。2000年,ベイン・アンド・カンパニー。2001年,コンサルタント(個人)。2002年,(株)ポケモン。2007年,GABAコーポレーション。2008年,ウォルト・ディズニー・ジャパン。2014年,シャープ(株)を経て,2015年から現職。2018年からは東工大未来社会DESIGN機構の外部メンバー。インタビュー,写真撮影 2019.3.7

株式会社 円谷プロダクション 本社にて

杢野さんはこれまで10社で新事業開発やマーケティングに携わってきた。異色に見えるが,「会社員として働くという意識よりはプロフェッショナルとして働くという意識の方が強い」と伺うと,社内で部署を変わりながら成果を上げていくのも,社外から引きがあり,そこでより力を発揮できそうならば引き受けるのも,プロフェッショナルとして働くという観点からは同じで,杢野さんの場合はたまたま後者の方が多かっただけのようだ。新事業開発やマーケティングで杢野さんが力を発揮できるのは,東工大で学んだお陰で,テクノロジーを理解できるからだそうだ。

杢野 純子氏 (S59情科)

株式会社 円谷プロダクション執行役員

「プロフェッショナルとして働く」

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尖がった同級生を見て,卒業後は社会に出ることに―― 特殊な才能に恵まれていたのですね。杢野 ところが,大学に入ってみると,周りにできる人がいっぱいいました。1類を志望した時は,漠然と宇宙か原子核物理をやりたいと思っていたのですが,物理学科志望の優秀な人たちを見て,自分には無理と思いました。いろいろ考え,ここならやっていけるかなというので情報科学科を選びました。決して,「これからは情報の時代になる!」と考えたわけではなく消去法に近いのですが,結果的にはよい選択だったと思います。卒業研究は本間龍雄研究室でトポロジーでした。比較的数学に近い領域です。そのとき助手だった根上生也先生(S54数56修情科)は,この4月から横浜国立大学の理事・副学長です。―― 部活等は?杢野 中学・高校の延長でテニスばかりしていました。テニス部には入れてもらえなかったのですが,テニス同好会“SOMINITY”で真っ黒になりながらテニス三昧の日々 を過ごすことができ,楽しかったです。学内コートは使わせてもらえませんでしたので,先輩の会社のコートを借りたり,近隣コートの抽選のために徹夜で並んだりして練習場を確保していたことなど懐かしく思い出します。その同好会も今年50周年で,記念イベントを計画しています。

専門を生かしてYHPでシステムエンジニアとして働くも,天性の仕事は別にあるのではという思いに駆られた―― 記念イベントの関連でお願いですが,東工大の資史料館では学生のクラブ活動の記録等も集めて後世に残したいと考えていますので,同好会誌・アルバム・年史等があれば是非ご寄贈ください。就職活動では苦労されたようですが?杢野 私が就職した1984年は,まだ男女雇用機会均等法(1986年)がなく,女子学生ゆえのハンディを感じました。最終的には男女を平等に扱ってくれる外資系の横河ヒューレット・パッカード(YHP)を選びました。ここでは,フィールドシステムエンジニアとして,UNIXを搭載したワークステーションや3Dグラフィックステーションを顧客に売り込む際の技術支援と代理店のエンジニア向けに計測器用プログラミング言語HP-Basicのトレーニングを担当しました。―― 専門を生かした仕事で,それなりに遣り甲斐もありそうですが,転職を考えられた理由は?杢野 表現が難しいのですが,何となくすっきりしないというか,私に向いた仕事はエンジニアではなく新規事業の開発やマーケティングなのではないかという思いが強くなったのです。私が通った女子学院はミッション系でしたので,“アイデンティティIdentity”(自分を知り,生き方を考えること)と“社会貢献”の大切さを教え込まれました。「自分は,いったい何で,何をしていくのか」と考えた時に,このままここでずっとこの仕事をしていても自分らしく貢献することって出来ないのでは?と考えるようになったのです。私は思いついたら即実行するタイプですので,転職活動をしてみたのですが,マーケティングと熱く語ってもなかなかまじめに取り合ってもらえませんでした。そこで,真剣に話を聞いてもらうためには何が必要かを考え,経営学修士号MBAを取ることにしたのです。

マーケティング分野で仕事をするにはMBAが必須と思いワシントン大学へ―― 確か,1989年秋に米国に渡り,西海岸シアトルにある名門ワシントン大学のビジネススクール(Foster School of Business)で2年間勉強し,MBAを取っておられますが,不安は無かったのでしょうか?現地では過酷な生活が待っていたのでは?杢野 英語に関しては何とかなるだろうという気がし

今、活躍中の同窓生

上: 卒論発表。当時はOHP(Overhead projector)を用いるのが主流だった。

下: 卒論の表紙。タイトルは“Uniqueness and Faithfulness of Embedding of 4-regular Toroidal Graphs”

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ていました。私が仕事をしていたYHPのコンピュータ部門では英語に接する機会が多かったからだと思います;UNIXマシーンのマニュアルは英語でしたし,講習会等では外国人講師から教わっていました。女子学院時代から自然な形で英語の基礎教育を受けていたのも大きかったと思います。もちろん現地に行ってみると,最初の頃は聞き取れずに困ることはありましたが…。若い人は基本ができてさえいれば,「怖いもの知らず」の精神でトライすればいいのではないでしょうか。 聞く方はほっておいても自然にできるようになるのですが,話す方は積極的に話の輪の中に割って入るようにしないとなかなか伸びませんね。私たちは文法重視の教育を受けているので「正しい英語」を意識し過ぎ,それが話すことのバリアになるのですが,向こうでは文法を知らないで英語をしゃべっている人が多いわけですから,とにかく会話に割って入って,あとはしゃべりながら考えればいいのではないでしょうか。私は「英会話はガッツ」派でしたが,定型文をコツコツと暗唱し成功している人もいました。―― 専門の勉強はどうでしたか?杢野 マネジメントやマーケティングの専門家を養成するMBAプログラムではハーバード大学のようにケーススタディばかりのものとワシントン大学のように講義とケーススタディを組み合わせたものがあります。前者ですと読み物や調べ物が多くネイティブでも睡眠不足になるようですが,後者ですと講義を聞いて宿題をこなせばいい部分もあるので,私には適していました。かなりの負荷がかかったことは確かですが,よく言われる「隣の店に買い物に行く暇もない」ということはなかったですね。「まあ何とかなるでしょう」的な気持ちがストレス耐性につながったのかもしれません。真面目に取り組まなければなりませんが,まじめに考え過ぎないで!ということでしょうか。

意外に手厚かった就活サポート

―― 向こうでの就活は?米国の大学は放任主義では?杢野 卒業生の活躍で大学や学科の評価が決まるので,日本の大学以上に真剣ですよ。大学のキャリアセンターはかなり充実しています。いろいろな企業を呼んで説明会もしますし,インターンシップも大学側が積極的に準備し機会を提供してくれます。そのため

にかなりのスタッフを配置していると思います。もちろん大学では学術研究と授業の内容が大事ですが,卒業生の経歴(社長やエグゼクティブの輩出)も大事ですのでキャリア支援に力を入れているのだと思います。大学のランキングにも影響します(ワシントン大学は最近順位を上げ,世界のトップ10入りを果たしています)。 ビジネススクールの卒業生を日本の企業に紹介する採用セミナーがニューヨークとボストンとロサンゼルスで開かれ,私はニューヨークとボストンに招待されて行きました。このマッチングの仕組みは,大学が卒業予定者のプロファイルを仲介業者に提供し,業者はいろいろな企業にこんな優秀な人がいますよと声掛けをし,興味を示す企業があればセミナーに招待し面談の機会を設定するというものでした。私はニューヨークのセミナーの時に世界最古の経営戦略コンサルティング会社(Arthur D. Little)の日本法人(ADLジャパン)で働くことに決めました。その時「ADLに来ないか」と声をかけてくださった古田健二さん(S46金48修,現東工大特任教授)とは,入社後しばらく一緒に仕事をしました。

「私はまだ駆け出しの経営コンサルタントなのだから,これから経験を積んで…」は通じない―― ADLジャパンで真のプロ意識に目覚められたそうですが。杢野 仕事に真摯に向き合うというのはどなたも同じだと思います。それよりも一段高い次元で「プロフェッ

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ショナルとして働く」ということを意識するようになったのは,ADLジャパンに入って,上司から「あなた方はプロなのだから,顧客の期待を上回る成果を出さなければなりません。あなた方を経営コンサルタントとして1ヶ月雇うのに,その会社の新入社員2年分ものお金を払ってくれているのです」と言われたのがきっかけでした。 いわゆる一流といわれる大手企業が,自社にも優秀な人材がいるにもかかわらず,大金を払ってコンサルティング会社を使うのは,自社の人たちはそれぞれの仕事を抱えており,新しい課題に割く時間が無いからです。30歳そこそこだった私の提案をもとに上司(と言っても40歳そこそこ)が有名企業の部長や課長に「こうした方がいいでしょう」と言うわけですから,MBAのケーススタディ以上に,持てる力と時間のすべてを投入し,かかりっきりで取り組まなければなりません。それだけに,お客様に感謝されたときの喜びはひとしおです。「プロフェッショナルとして働く」というと当たり前のように響くかもしれませんが,「大舞台に立つ役者の心構え」に近い気がします。―― 育児とプロフェッショナルとして働くことの折り合いはどうつけられたのですか。杢野 子供を授かった後に当時私が考えたのは,(1)メードさんを雇って,今までどおりのペースで仕

事を続けるか(コンサルティング会社の海外オフィスにはそうしている女性がたくさんいました),(2)もっと子供と時間のもてる仕事を探すのか,ということでした。私は子供との時間を持つことを優先したいと考えたので,自分がコミットする範囲を明確にして仕事をすることで時間をマネジメントできる仕事に転職しました。私は“柔軟に自分をデザインする”ことが大事だと思っていますので,迷いはありませんでした。むしろ,子育てを通して「この子に住みやすい社会を残したい」という強い気持ちが湧き上がってきて,働き甲斐になるとともにその後のキャリアを後押ししてくれたと感謝しています。 他にももっと選択肢はあっていいと思っています。その人の生き方や経験に基づいて,多様な働き方の中から自分あるいは自分たちの家庭にあった選択をすればいいのではないでしょうか。

転職のとらえ方

―― 履歴書を拝見しますと転職推奨派に見えますが?杢野 現在の円谷プロダクションは10社目ですが,私は転職をしようと思って転職しているわけでは決してありません。幸いといいますか,私の得意なことを

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思う存分にやらせて貰えるオファーを何度か頂き,「それならば」ということで移っています。一か所に自分のやりたいことや,やるべきことがあって,そこにしっかり貢献できるのであれば,転職する必要はどこにもないと思います。人それぞれでしょうが,私の場合は新しいことをやるのが好きで,変わっていくことが好きなのです。定常状態になったものを我慢しながら粛々とやることが苦手なだけです。

理系人材の強みはビジネスを支えているデジタルシステムを理解できること―― MBAを取られた直後に勤められたADLジャパン〔勤務期間:1991.7~1998.2〕では(1)大手企業の技術開発戦略の立案や(2)IT業界の構造変革に対する事業戦略・新規事業開発戦略の策定等に関するコンサルティングを担当されましたが,この場合の杢野さんの強みは,経営の視点と技術の本質の両方を理解できるという意味で分かり易いと思います。その後,出産育児を経て本格的に復帰された株式会社ポケモン〔勤務期間:2002.1~2007.6〕では,E-commerce責任者としてオンラインストアの売り上げを30倍に拡大したり,携帯コンテンツサービス責任者として月間10万人ユーザーを獲得し年間売り上げ3.5億円を達成したり,さらにはポケモン公式ファンクラブ責任者としてサイト開設2ヶ月で20万人もの会員を獲得しておられます。最近では,ウォルト・ディズニー・ジャパン〔勤務期間:2008.9~2014.9〕や円谷プロダクション〔勤務期間:2015.10~現在〕で顧客サービスやマーケティングやブランディングの統括をしておられますが,これらの業務においても『技術の分かる人』の方が有利ということでしょうか?杢野 そうです。今の私たちの生活にはディジタル(通信を含めて)の影響がとても強いです。新規事業を始めるにはICTを駆使したシステムが必要になります。サービスの提供もマーケティングも基本的にディジタル抜きには考えられない世界になっています。ビジネスを組み立てるためには,それに適したシステムを,コストパフォーマンスを考慮しながら,構築しなければなりません。また,新しい技術によって今までにない経験やサービスが提供されています。そのための要素技術が理解でき,システムの全体像が把握できるという技術者の視点は強烈な強みとなります。この意味で,私がいま好きな仕事をバリバリさせて貰えているのは東工大で学んだお陰です。

「これしかできない」のではなく,「これができる」と考えるようにしています―― チームで仕事をする際に心がけておられることは?杢野 自分の強いところ以外は,その道の専門家に率直に教えを乞うと意外とうまく事が運びます。私の場合は,得意なことは少なく「これしかできない」というのが実情ですが,ものは考えようで「これができる」と思うと自信になりますので,知らないことは,相手の役職・学歴・年齢などを気にすることなく,気楽に聞きまわっています。多分野のことが理解できるのが理想かも知れませんが,技術開発に長けた人は一心不乱にそこで自己表現するのも悪くないのではないでしょうか。それから,仕事の上では“オープン”であることと“フェア”であることを心がけています。

カメラマンが親子二代のウルトラマンファンとあって,撮影中にウルトラマンの話題で盛り上がった。ウルトラマンの歴史・ストーリー・グッズをはじめ,役者の素顔や特撮現場の隅々まで知り尽くしている杢野さんは“プロフェッショナル”そのものだった。

:広瀬 茂久(S45化50博):魚住 貴弘

インタビュアー・文写 真 撮 影


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