Transcript

スウェーデンこれぞ

リッカルド・ラーゲルベリ&エンマ・ランデッケル

これぞスウェーデン

2 これぞスウェーデン

det här är sverige 3

変わり続ける社会

スウェーデンは機会均等やブロードバンドの速度、責任ある競争力など、あらゆる点で世界的に上位にある――私たちスウェーデン人はよく、そのようなことを耳にします。ある国とそこに暮らす人々について、おしなべて語るのは、当然ながら難しいことです。しかし本書では、今日の近代国家としてのスウェーデンを描くことに努めたいと考えています。オーロフ・パルメや ABBA、ビョーン・ボリィの他にも、紹介すべきものがたくさんある国、そんなイメージを読者の皆さんに持っていただこうと思うのです。貧しい農耕社会だったスウェーデンが、今日の先進的な福祉国家への道を歩み始めたのは、100年ほど前のことです。そしてある面では、私たちは今も農耕社会に生きています――この国の伝統も、そして現代的なライフスタイルも、どちらも同じくらい気に入っているのです。

スウェーデンの社会は絶えず変わり続けており、スウェーデン人は新たな流行や考え方を取り入れることにかなり秀でています。他の国々と比べると、スウェーデン人は創造性が豊かで好奇心が強く、積極的に発展を推し進める国民であることがわかります。ですから、海外では、スウェーデン人は金髪で口数が少なく、均質な民族だといった描写をされることが多いのですが、当然のことながら、私たちは必ずしもそうであるとは思っていません。

すべてのスウェーデン人が、金髪であるわけでも、ネット上で海賊行為をしているわけでもありません。この 50年の間にスウェーデンの人口は大きく変わり、ほぼ 5 分の1が外国出身者となりました。国境を越えて、ひっきりなしに人々が往来し続け、恋愛関係から政治的活動に至るまで、あらゆる場面で民族間の距離は縮まりつつあります。

スウェーデンが未来への道筋を歩み続けていけば、新しい影響と古くからの伝統が必ず出会います。しかし、持続可能な開発や機会均等、人権といったグローバルな分野で、私たちはこれからも理念を高く掲げ続けていくことでしょう。

目次

自然 4地理 6

天候と気候 7

動植物 7

森と大地の中で 8

持続可能な都市計画 10

社会 12アンデション一家との出会い 15

教育 15

医療と社会保険 16

労働市場 17

機会均等 18

民主主義 19

政府 20

君主制 21

世界の中のスウェーデン 22

イノベーション 24

文化&レジャー 28映画&舞台芸術 30

文学 30

アート 31

音楽 32

デザイン&手工芸 35

ファッション 35

スポーツ 36

伝統 39

言語 42

食文化 43

歴史 44

自然 私たちの文化遺産である自然

スウェーデン人の大半は、国の南部に位置する都市部や過密地域に暮らしています。ところが、彼らに母国の環境について話してほしいと頼めば、おそらく美しい風景や深い森林、あるいは穏やかな群島について語るでしょう。理由はごく簡単です。私たちは、たとえストックホルムのような大都市に暮らしていたとしても、そのすぐ間近で私たちを取り囲んでいる自然に対して、強い思い入れを抱きながら育つからです。スウェーデン人は、運動をしたり、新鮮な空気を吸ったり、あるいは田舎で散策に出かけたりして、屋外で過ごすことを好みます。

広大な景色やすばらしい自然に存分に触れられるのですから、スウェーデンが持続可能な開発を維持するのは不思議なことではありません。手つかずの自然や新鮮な空気、きれいな水を、未来の世代も同じように利用できること、それは私たちにとって当然のことなのです。

6 これぞスウェーデン

地理

スウェーデンにはヨーロッパ最後の広大な原野がいくつか存在しますが、とりわけこの国の自然の特徴は、限られた地域の中でさえ、自然の種類が非常に多様である点です。スウェーデンはユーラシア大陸の中でも地質学的に安定した部分に位置しています。ですから、この地盤だけは変わることがないと言えましょう。

国土の大半が針葉樹林に覆われ、多くの広葉樹も散在しているため、木々が色とりどりに紅葉する秋は美しい季節です。最も南に位置するスコーネ州には、国内で最も肥沃な農耕地帯が広がります。少し北上すると、森林に覆われたスモーランド州の高原が姿を現し、そのまわりには耕地や湖などのさまざまな風景が見られます。

バルト海沿岸から少し離れて浮かぶのは、国内で最も古くて魅惑的な古代遺跡がいくつも存在する、エーランド島とゴットランド島。石灰を豊富に含む岩盤と穏やかな気候のおかげで、ここにはランやその他の外来植物が生息しています。これらの島は特にスウェーデン人に人気の観光スポットです。また、さまざまな群島にも多くの観光客が訪れます。東海岸と西海岸に暮らす人々は、どちらの地域の群島が美しいかを競い合っています。しかし実際のと

ころ、どちらの海岸にもそれぞれの魅力があるのです。その少し北に位置するのが、鉄鉱石などの古い鉱脈を

抱えるベリスラーゲン地域です。かつて、この地でスウェーデンの最初の産業が生まれました。ベリスラーゲン地域は、メーラレン湖に浮かぶ 14 の島々から成るスウェーデンの美しい首都、ストックホルムからそれほど遠く離れていません。

北西部には、ノルウェーとの国境に沿って、恐竜の化石のような形のスカンジナビア山脈が南北に走っています。とは言っても、最も高い山頂でも標高は 1,000 ~ 2,000メートルほどです。

山脈を北へたどって行くと、ついにラップランド(Sápmi)に到達します。平穏でありながら感動的でもある、壮大な手つかずのこの原野には、ヨーロッパに残る少数先住民族のひとつ、サーミ人が暮らしています。

山 を々源とするスウェーデン最大級の河川は、北極の平原や牧草地、針葉樹林、カバ林、湿地帯に覆われた北極圏の雄大な景観を通り抜け、やがてバルト海沿岸へと流れ込むのです。

冬の太陽が輝くのは、ほんの少しの時間スウェーデン最高峰のケブネカイセ山

自然 7

サーミ人世界に存在する少数先住民族のうち、およそ 7 万人がサーミ

人です。彼らは Sápmi と呼ばれる、現在のスウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアまで及ぶ広大な地域に暮らしています。スウェーデンには約 2 万人のサーミ人が住んでおり、独自の文化遺産や言語、旗、そして sametinget(サーミ議会)と呼ばれる議会を守っています。

サーミ人はかつて、狩猟採集生活をしながら、野生のトナカイに合わせて移動を続ける遊牧民族でした。そして 17 世紀に入ると、飼い慣らしたトナカイの群れを追い立てて、牧草地をめぐるようになったのです。トナカイの飼育と食肉生産のほかに、サーミ人は今でも手工芸品の製作を行っていますが、大半の人々は伝統的なライフスタイルとは無関係の仕事に就いています。

スウェーデンのサーミ議会は 1993 年に開設されました。民選の議会であり、同時に政府機関でもあるサーミ議会には、生きたサーミの文化を推進するという任務があります。ところが、サーミ人には自治権がなく、スウェーデン議会(リークスダーグ)に代表も送っていません。

サ ーミの シャーマニ ズ ムで は、 サ ーミ 人の 母 で あ る太陽(Biejvve)と、彼らにトナカイの飼育を教え示した風の神

(Bieggaålmaj)を崇拝します。自然界のすべてのものに魂が宿っているのです。サーミ人は今もなお、自分たちは“太陽と風の民”であると考えています。

天候と気候

スウェーデン人は日 、々メキシコ湾流に感謝しなければなりません。私たちに暖かさをもたらしてくれる、この穏やかな大西洋の暖流がなかったら、スウェーデンではホッキョクグマが街路を闊歩しているという噂が、おそらく真実になっていたことでしょう。そして西部に連なる山 も々また、大西洋から吹いてくる冷たく湿った風から、私たちを守ってくれているのです。

そうは言っても、スウェーデンでははっきりと四季が分かれています。冬は極寒になることがあります。極北を訪れたり、向こう見ずなスウェーデン人と一緒にサウナから出て凍りついた湖に飛び込んだりすれば、なおさら寒さを感じられます。

四季の移り変わりは気候に大きな影響を与えますが、とりわけ太陽の光に変化をもたらします。スウェーデンでは春から夏至にかけて、全国的にどんどん日が長くなっていきます。それが一番はっきりとわかるのは北部です。夏になると非常に明るくなるため、夜は厚手のカーテンやアイマスクの利用がおすすめです。北極圏以北の地域では、夏至前後の 1 ~ 2 カ月間は太陽が沈むことはありません。南部では、残照のようにやや薄暗くなる時間帯がわずかに訪れます。

反対に冬になると、北部では太陽がまったく昇りません。それでも雪のおかげで暗闇は明るくなり、時折、空いっぱいにオーロラが輝きます。この幻想的な光の現象は、太陽風によって運ばれた荷電粒子が高速で地球の磁場と衝突することによって発生するもので、私たちが目にすることのできる最も美しい景色のひとつです。

動植物

絶滅危惧種や希少種の動物については、長年にわたり規制のないまま狩猟が行われていましたが、目標を定めた数々の保護対策が講じられた結果、種の生存に向けた新たなチャンスが生まれました。国立公園や自然保護区を担当する環境保護庁が、絶滅の危機に瀕しているすべての動植物を保護すべき種として登録できるのです。

国内各地の森林に生息している堂々たる風貌のヘラジカは、土産物のモチーフや道路の警戒標識でおなじみです。また、人気メニューの食材でもあります。そして、ヒグマ、クズリ、オオカミ、オオヤマネコといった、私たちのよく知る肉食動物の餌食となることも多い動物です。この 4 つの動物にヘラジカを加えた、スウェーデン版 “ビッグファイブ”と称される動物の中で、ヘラジカはおそらく人間に対して最も攻撃的、もしくはどんな場合でも最も人間を恐れない

8 これぞスウェーデン

平均気温と平均日照時間

1 月 7 月 12 月 21日 6 月 21日                                   冬至           夏至マルメ –0.2 °C +16.8 °C 7 時間 17 時間ストックホルム –2.8 °C +17.2 °C 6 時間 18 時間キールナ –16.0 °C +12.8 °C 0 時間 24 時間

動物といえるでしょう。また、オオカミは人々に恐れられていながら、愛されてもいて、禁猟区の設定をめぐって最も意見の分かれる動物です。2010 年には、激しい議論の結果、許可制によるオオカミの狩猟が 44 年ぶりに行われました。

鳥類については、冬の間は種類が少ないのですが、春から夏にかけては南方からやって来る渡り鳥の数が増えます。スウェーデンの長い海岸線沿いや多くの湖には、たくさんの動物やさまざまな魚類が生息しているのです。

植物についても、タンポポから外来種のランまで多種多様な種が、とりわけ山脈地帯や、バルト海のゴットランド島、エーランド島に生息しています。おそらく、これら

の植物よりもさらに有名なのは、18 世紀に活躍した、スウェーデン出身の医師であり植物学者であるカール・フォン・リンネでしょう。リンネは、ダーウィンを導いた重要な先駆者であると考えられており、生物学の最初の分類体系である『自然の体系(Systema Naturae)』をまとめました。

森と大地の中で

雄大な自然と開放的な景観を十分に享受できるのですから、与えられた機会を大切にしないわけにはいきません。

スウェーデン

デンマーク

フィンランドノルウェー

ストックホルム

ノルショーピング

ウップサーラ

マルメ

ヨテボリ

ヴェステロース

リンショーピング

ヨンショーピングヴェクシェー

エーレブロ

ヘルシングボリエーランド島

ゴットランド島

ルーレオ

キールナ

ピーテオ

ウーメオ

フーディクスヴァル

北極圏

ここがスウェーデン

自然 9

広大な国土にわずかな人口

人口:970 万人国外で出生した居住者:200 万人(国籍はおよそ 200 カ国)人口密度:1km2 あたり平均 21 人(ただし約 90%が国土

  の南半分に居住)首都:ストックホルム(人口 200 万人以上)総面積:451,000km2

南北最大距離:1,600km東西最大距離:500km森林:53%山地:12%河川・湖沼:9%耕地:8%最高峰:ケブネカイセ山(標高 2,100m)

雨が降ろうと、雪が降ろうと、風が吹こうと、太陽が照り輝こうと、そんなことは関係ありません。スウェーデンには昔から、こんな言葉があります――「悪天候なんてない、あるのは役に立たない服だけ」。キノコのアンズ茸を摘むことから、ピッケルを使って凍った滝を登ることまで、すべてを含め、ただ自然の中に出かけていく、それが一番なのです。

私たちは、美しい自然に恵まれた人口の少ない国に、ただ暮らしているわけではありません。1892 年には、野外生活のための全国的な組織、野外生活推進協会(Fri-luftsfrämjandet)も設立されました。また、自分たちの健康に気を配るだけでなく、環境に対してはおそらくさらに高い関心を持っています。自然が身近にあることと、その自然がいかに傷つきやすいものであるかを理解することを、切り離して考えることはできません。

さらに、スウェーデンには「自然享受権」という珍しい権利があります。これは中世にまでさかのぼる権利で、自

スウェーデンに生息する野生のオオカミはおよそ350頭と推定される(2013年)

10 これぞスウェーデン

然の中のどこで過ごしてもよいというもの。つまり、たとえ個人の所有地であっても、誰でも自由に森林や野原を通り、ベリー類やキノコやほとんどの植物を摘むことができるのです。ただし、それには大きな責任を伴います。自然や野生の動植物を守ること、そして土地の所有者や他の人々への配慮を忘れないことなどです。原則として、他の人の邪魔をしたり、自然を傷つけたりしない限り、私たちはどこでも散策することができます。

スウェーデンはウインタースポーツを楽しむには最高の国です。凍った湖やスケートリンク、森はたちまち、スケートやクロスカントリースキーを楽しむ場となります。山のロッジはアルペンスキーの愛好家たちの予約で埋まり、カイトウイングスケートやアイスヨット、氷河クライミングのエキサイティングな楽しさに気づく人がどんどん増えています。実は、冬以外にもウインタースポーツをすることは可能で、北極圏以北の地域での真夏のスキーなども人気です。この季節はスキーコースでも太陽が決して沈みませんから、間違いなく他にはない体験でしょう。

ただし、通常、夏にスキーをすることはありません。人々は森に出かけてベリー類やキノコを摘んだり、トレッキングをしたり、群島でヨットやカヤックに乗ったりします。あるいは、国内の一級河川で行われる急流レースに参加する人もいます。

大都市観光が産業として急成長してはいるものの、スウェーデンはエコツーリズムの最前線にいることに、きっとすでにお気づきでしょう。スウェーデンのすばらしい自然こそ、世界の人口密集地域からこの国を訪れた人々が何より称賛するものなのです。

持続可能な都市計画

スウェーデンは世界でも有数の環境意識の高い国として知られています。持続可能な開発は私たちが真剣に取り組む大切な分野ですが、一方で一人あたりの電力消費量が世界で最も多い国でもあるのです。言い訳をさせてもらうなら、私たちは意識の高い消費者であり、環境への影響を抑える努力もしています。スウェーデンは先進国ではごく珍しく、この数年間で二酸化炭素排出量の削減に成功した国のひとつで、2030 年には国内の車両に使用する化石燃料を全面的に廃止することを目標として掲げています。

持続可能な都市計画がきっかけとなり、スウェーデンの環境への取り組みに国際社会の注目が集まりました。ハンマルビー・シェースタードは、電力や水、下水設備、廃棄物の持続可能な管理を都市計画に取り入れた地区です。首都ストックホルム近郊にあるこの地区には、緑地やエコショップもあります。

さらに現在、ストックホルム北東部にエコ住宅地区が造成されています。ノッラ・ユールゴーズスターデンに自宅や職場がある人は、世界初の “スマート” な電力網に接続することになるでしょう。省エネや、地元で発電したクリーンな電力、電力網への負荷の軽減(家電製品は電力消費の少ない時間帯に使用するようプログラミングされる)によって、環境にやさしい電力供給が支えられているのです。

このような形の環境にやさしい対策は、他の地域にも見られます。たとえばヴェクシェーでは、従来の暖房システムを使わない、木造の骨組みで建築された住宅、いわゆるパッシブハウスに未来を見ることができます。すぐれた断熱性と、人間の体や家電製品から発せられる熱、必要なものはたったそれだけなのです。

nature 11

ストックホルム郊外のハンマルビー・シェースタードは、世界各地の持続可能な都市計画にインスピレーションを与えている

社会民主主義と機会均等、寛容に支えられて

現代のスウェーデンは堅固な民主主義に支えられた国です。民主主義の原則は、国の統治方針に反映されているだけでなく、就学前保育所から職場に至るまで、社会のあらゆるレベルに浸透しています。これは機会均等と透明性についても言えることです。すべての人に自由に発言する権利と機会が与えられており、私たちは誰でも、この国の政治家や当局がどのように権力を行使しているかをチェックできるのです。

スウェーデンの経済と社会のシステムは、しばしば「スウェーデン・モデル」と称されます。このシステムがあるおかげで、私たちの国は世界最高の生活水準を有する国の仲間入りを果たしました。市場経済と強力な公共部門が結びつくことによって、この国に暮らす一人ひとりの平等と経済の安定を支える基盤が作られます。公共部門の経済状況はこの10年で厳しくなり、システムの構造に関する議論が起こっています。それでも、いくらか弱体化したとはいえ、セーフティネットはまだ残っているのです。税金を財源とする教育・医療制度を有するスウェーデンは、多くの国の手本となっています。

社会

ヨテボリで行われた外国人排斥反対デモ

14 これぞスウェーデン

家族全員で家事を分担する

アンデション一家との出会い スウェーデン・モデルを説明するために、スウェーデン

のごく一般的な家庭であるアンデション一家をご紹介しましょう。アンデション一家は、アンナ=マリーア(42 歳)、ラーシュ=エーリック(39 歳)、エンマ(15 歳)、シーモン(12 歳)の 4 人家族。家族構成や名前、彼らの暮らしは、架空のものですが、スウェーデン統計庁が発表している平均値をもとに作成されています。たとえば、「アンデション」を名乗るスウェーデン人は 251,621 人もいて、最も一般的な姓なのです。

アンデション一家が暮らすのは、ストックホルムの南西 450 キロに位置するヴェクシェーという小さな都市。家屋の課税評価額は 147 万クローナで、市場価格のおよそ75%です。彼らがヴェクシェーに暮らすことを決めた理由は 2 つあります。ひとつは市が持続可能性計画を発表していたこと、もうひとつは自然が身近にあることです。スウェーデン人の 80%以上は都市部に住んでおり、その 3 分の 2が小さな一戸建て、3 分の 1 が集合住宅で暮らしています。35 ~ 44 歳の半数が別荘を所有していますが、アンデション一家も同様です。シルバーのボルボを所有しているのは、とりわけ田舎にある別荘に出かけるためなのです。

スウェーデンの女性一人あたりの出生数は 1.9 人ですから、子供 2 人というのは実に平均的です。ラーシュとアンナは結婚して 14 年になります。その点では、ラーシュは多くの未婚でいる 39 歳のスウェーデン人とは異なります。スウェーデンの未婚者の多くは、結婚せずにパートナーと同居する “サンボ” の状態にあります。それに、スウェーデンの家庭のほぼ半数は単身世帯なのです。ご存じでしたか? 私たちがアンナをラーシュよりも年上に設定したのは、スウェーデンでは男性よりも女性の平均寿命が高いためです。実際には、男性が女性よりも1~2歳年上というカップルが一般的です。

介護の仕事に就いているアンナの月収は 24,800 クローナ、製造業で働くラーシュの月収は 29,900 クローナで、税引後の 1 カ月の平均所得は合計 41,200 クローナになります。さらに、国から非課税の児童手当が 16 歳以下の子供一人につき月額 1,050 クローナ支給されます。そして両親は毎月、エンマに 600 クローナ、シーモンに 220 クローナのお小遣いを渡しています。

エンマとシーモンが赤ん坊の頃、アンナもラーシュも育児休暇を活用しました。両親は、両親保険制度により給付金の支給を受けながら、子供一人につき 480 日間の休暇を取ることができます。この 16 カ月間の休暇は、両親が最適と考える形で分け合うことが可能です。ただし、父親も母親も 60 日間は必ず取得することになっています。これは、両親は二人とも家庭と仕事を両立できるべきだという、明確なメッセージなのです。そして、これを可能にしているのが、両親保険と保育施設に関する寛大な規定と

給付金制度です。男性従業員が育児休暇の取得を希望しても、もうほとんど注目を集めることはありません。しかし、彼が両親休暇の権利を活用しないことを選択すれば、驚く人がいるでしょう。2013 年に男性が取得した両親休暇は、全体のおよそ 25%でした。

教育 6 歳から無償で教育を受けられるという平等の権利は、

スウェーデンの福祉制度の根幹をなすものです。私たちは就学したその日から、自分の頭で批判的な目を持って考えることを奨励されています。

エンマとシーモンは 1 歳半から保育施設に通い始めましたが、アンナとラーシュが支払った費用はごく一部でした。なぜなら、両親は 1 カ月に収入の 3%(もしくは最高 1,260クローナ)以上を保育施設に支払う必要がないのです。同様の上限額の設定は、地方自治体と民間の就学前保育所にも適用されています。就学前保育所において子供の発達や学習が促進される一方で、両親がお金を稼いだり勉学に励んだりすることができるように、という考え方なのです。

ほとんどの子供が 6 歳で学校に通い始めますが、これは義務教育ではない就学前のクラスです。エンマとシーモンは 7 歳でヴェクシェーの公立の基礎学校に入学し、9 年間の無償の義務教育を受け始めました。基礎学校と高等学校のいずれにも、フリースクールと呼ばれる、税金で運営される独立した学校もあります。フリースクールは原則として、公立学校と同じ基礎教育を行います。ただし多くの場合、語学や宗教、特定の教育法に特に重点を置いています。

エンマとシーモンは 6 歳で就学してから、放課後は毎日、学童保育に通っています。これはフルタイムで働く両親にかかる負担を軽減するため、12 歳以下の子供を対象に行われている活動です。両親は、最高でも収入の 2%という、わずかな費用を支払います。

9 年生のエンマは、今年の秋には高等学校の社会科学過程への入学を申請する予定です。基礎学校を卒業した生徒の約 98%は高等学校に進学します。高等学校は義務教育ではありませんが、授業料は無料です。高等学校の生徒に対しては、児童手当ではなく、16 歳から学習手当が毎月支払われます。

高等学校を卒業したら何をしたいのか、エンマにはまだわかりません。おそらく、何十万人という同い年の仲間たちと同様に、大学に進学する前に 1年間のギャップイヤーを取ることになります。そうしない手はありません。なぜなら、大学や専門学校の教育でさえも、完全に税金で賄われているからです。エンマは大学進学を決めれば、奨学金の申請もできます。この奨学金は、一部は貸付金、一部は手当の形で給付されます。

社会 15

16 これぞスウェーデン

医療と社会保険 スウェーデンの医療制度は社会保険制度と密接に結び

ついています。すなわち、スウェーデンでは誰もが、手厚い助成により医療を受けることができるのです。

アンナかラーシュが病気になったら、もちろん大変なことでしょう。しかし、経済面で大きな問題を抱えることはありません。通常は、給与の 80%にあたる金額が雇用主から疾病手当として支払われます。ただし、この手当は、最初の一日の休暇については支払われません。14 日間以上の休暇を要する場合は、社会保険庁から疾病手当が支給されます。また、長期休暇が必要な場合、定期的に支給額の算定が行われます。

アンナとラーシュが医師の診察を受けた時にかかる医療費は、住んでいる地域によって差はありますが、わずか150 ~ 200 クローナですみます。専門医を受診した時も、350 クローナ以上はかかりません。入院費は一日80 クローナです。高額医療費上限額が設けられているため、一年間の自己負担額は、医師の診察については最高 1,100 クローナ、処方薬については 2,200 クローナを超えることがありません。

医療はおもに、医師や看護師、その他のスタッフが共に働く医療センターで提供されており、アンデション一家は全員、ヴェクシェー市内の自宅に近い医療センターに登録しています。医療については地方分権制がとられているため、ランスティング(県議会)もしくはコミューン(地方自治体)がそれぞれ責任を負っています。これらの公共部門が提供する保健医療サービスに対し、これと競い合う民間業者が増え始めています。これらの民間業者によるサービスについても、国民社会保険制度の対象範囲とすれば、患者の負担する費用は変わらないのです。

歯科医療については、他の医療サービスほど高額の助成制度はなく、歯科医師が独自に治療費を設定しています。ただし、エンマとシーモンの検診や治療については、二人が 20 歳になるまでは社会保険制度によって費用が賄われます。その後はいわゆる歯科治療手当が支給され、高額医療費上限額で保護されるのです。

アンナもラーシュも失業保険基金に加入しているため、

スウェーデンの 25~ 64 歳の教育水準(2011年)

性別   人数       教育水準(割合)              基礎学校(義務教育)  高等学校     大学         大学              (7 ~16 歳)              (3 年未満)      (3 年以上)   

女性   2,401,309   12%         43%      15%         27%

男性   2,469,370   16%         48%      14%         29%

合計   4,870,679   14%         45%      15%         23%

スウェーデンの学問の伝統は長く、1477 年のウップサーラ大学の設立までさかのぼります。今日では、スウェーデンの大学はのびのびとした雰囲気が特徴的で、学生と教員はオープンで打ち解けた関係を築いています。ただし、誤解しないでくださいね! スウェーデンの教育水準は高いのですから。教員たちは学生に対し、すべきことを教えるのではなく、自分から率先して行動することを奨励しています。私たちはおそらく、あの権威あるノーベル賞により、研究と技術革新が未来への道を開くのだと確信するようになったのです。

社会 17

失業した場合には、失業前の給与に応じて失業補償を受給できます。失業保険料を支払わない場合でも、社会保険庁から低額の給付を受ける資格はあります。

失業補償や活動支援金、または疾病手当を受給する資格のない人は、生活費補助制度によって守られます。この制度は、労働生活への復帰を助ける短期的な解決策の役割を果たすと考えられています。低所得者は住宅手当の申請も可能です。

ラーシュとアンナは、年金を受給するまでにまだ十分な時間がありますが、老後の生活をいかにして安泰に過ごすかについて、すでに話し合い始めています。幸い、スウェーデンは他の国々に比べて、GDP に占める高齢者支援の費用の割合が大きい国です。スウェーデンでは誰にでも、一般的な定年退職年齢の 65 歳になると国の最低保証年金を受給する資格があります。ラーシュとアンナも働いている

ため、定年退職すれば自動的に、二人の就労期間中にずっと雇用主が支払っている所得年金と企業年金を受給することになります。ただし、比較的高い生活水準を確実に維持できるよう、彼らは民間の退職年金保険にも加入して補っています。

スウェーデンは世界有数の長寿国で、平均寿命は男性が 80 歳、女性が 84 歳です。アンデション一家では、そろそろ75 歳になろうとしているアンナの両親の介護について、少しずつ考え始めました。スウェーデン人は自立して生活することに慣れています。ですから、両親の介護について考えるということは、つまり彼らが活動的な暮らしを続けられるような解決策を見つけるということなのです。両親はおそらく、食事の宅配や掃除、送迎サービスといったさまざまな人道的支援のほか、必要であれば社会福祉や医療のサービスも利用しながら、このまま自宅での生活を続けることができるでしょう。彼らの健康状態が悪化した場合には、24 時間体制の介護サービスが整った高齢者住宅を利用することも可能です。ほとんどの高齢者介護サービスは地方自治体が提供するものですが、民間のサービス業者も増えています。

労働市場 スウェーデンでは概して、職場はオープンで打ち解け

た雰囲気です。上司に話しかける時はファーストネームで呼び、チームワークが奨励されています。また、フレックスタイム制を採用しており、服装はカジュアル。そして男女平等を目指しています。長年にわたる労働市場政策と影響力の大きい労働組合の存在が、労働者をしっかりと守り、多くのメリットをもたらしてきました。

早くも19 世紀末に初期の労働組合がいくつも結成されていたスウェーデンでは、労働者のほぼ 7 割が何らかの労働組合に加入しています。民間企業で働くラーシュも、公務員のアンナも、例外ではありません。労働組合の最も重要な役割のひとつは、団体協約締結のための中央交渉を進めることです。すなわち労働組合は、給与や休暇、ストライキ権など、職場のすべての雇用者に適用される権利について雇用主と交渉を行います。

クロノベリ県のランスティングの雇用者であるアンナは、40 歳を過ぎてから、年間 31日の有給休暇を付与されています。製造業で働くラーシュの休暇は、法定最低日数の25 日です。

アンナもラーシュも、年に 2 回以上、研修を受講する機会を与えられています。これは、すべての雇用者に対し、専門能力の向上と自己啓発の機会を与えるという、充実した制度の一環です。

労働環境法では、職場の安全性については、雇用主、労働者、および下請業者が共同で責任を負うとしています。

スウェーデンの職場は、安全性だけでなく、公平性、

定年退職後も活動的な生活を続ける

18 これぞスウェーデン

公正性、透明性という特徴も持っています。企業の社会的責任(CSR)はスウェーデン企業にとって重要なものです。それは、環境や人権、汚職防止に関する取り組みに表れています。

きっと、そろそろお気づきでしょう。アンデション一家の月収は、多くの先進国の中では比較的低いものです。ところが、彼らの生活は比較的高い水準にあります。それは、彼らが税金を財源とする多くのサービスを利用できるからなのです。

機会均等 世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表している『世

界男女格差報告』によれば、スウェーデンは世界で最も男女格差のない国のひとつです。男性にも女性にも両親休暇を取得する権利が認められており、女性の給与は男性のおよそ 93%で、多くの夫婦が家事を分担しています。さらに、20 ~ 64 歳の女性の就労率は 80%近く(男性は88%)、これは国際社会と比較すると非常に高い数字なのです。

有効活用できる保育施設などの積極的な家族政策により、アンデション一家のような家族は、より柔軟性のある生活を送ることができます。また、ヨーロッパの女性の出生率が平均 1.5 人であるのに対し、スウェーデンの女性は1.9人という結果も、このような政策がもたらしたものです。アンナは仕事か家族のどちらかを選ぶ必要がありません。彼女がどちらも得られるよう、公共部門が配慮しているのです。

それでは、このような男女平等の楽園では、すべてがうまくいっているのでしょうか? 必ずしもそうであるとは言えません。民間企業においては、女性の影響力が高まっているというのに、取締役会や経営陣に名を連ねる女性メンバーはいまだに少数です。企業は、男女平等の拡大に向けて十分な取り組みをしていないと批判を受けています。一方、地方自治体や県、行政機関の代表は大半が女

女性に一般的な職業トップ 5(2011年)

職業                  女性の  女性の割合(%)  男性の割合(%)                    人 数准看護師、看護助手          157,000       93         7

在宅ケア関連             122,000       82        18

保育士                 81,000       87        13

就学前保育教員             79,000       92         8

営業(専門店)              65,400       62        38

社会 19

男性に一般的な職業トップ5(2011年)

職業                    男性の  男性の割合(%) 女性の割合(%)                      人 数

技術営業、企業営業             63,000      71       29

システムの設計者、アナリスト、プログラマー 61,000      80       20

大型トラック・トレーラー運転手       54,000      96       4

建設労働者、大工              49,000      98       2

在庫・倉庫管理               46,000      79       21

性で、政府閣僚や国会議員における女性の割合も 50%近くに上ります。

機会均等とは当然ながら、男女格差だけの問題ではありません。性別や人種、宗教、障害、性的嗜好、年齢に関係なく、この国のすべての人に均等な機会が与えられることでもあるのです。私たちは長きにわたり、法律を制定したり、あらゆる形の差別に立ち向かう姿勢を明らかにしたりすることにより、平等な権利の実現に取り組んできました。

2009 年、さらなる平等な社会に向けて、スウェーデンは重要な一歩を踏み出しました。スウェーデン国教会の支持を受け、同性婚が合法化されたのです。すでに、1995年に同性愛者の登録パートナーシップ制が導入されていましたが、結婚に関する性差別のない考え方はつまり、同性間の夫婦にも異性間の夫婦と同等の法律上の地位を認めるものとなります。

子供の権利についても、社会と家庭における権利が法律で認められています。スウェーデンが 1979 年に、親による子供への体罰を禁止すると、多くの国々は度を超えた措置だと考えました。

民主主義 私たちスウェーデン人は、法律や規則にこだわりすぎ

ることがあるようです。公平で公正な社会を確保するために、法律や規則は欠かせないもの、という考えがあるからでしょう。そしてまた、個人の自由を守ることについても、私たちはとにかく熱心になるのです。

最近、新たに制定された 2 つの法律に、私たちは反応せざるを得ませんでした。その法律とは、ひとつは、スウェーデンと国外との間でやり取りされるデータ通信および電気通信を、国がすべて監視することを認める FRA 法です。そしてもうひとつは、ネット上の海賊行為を抑制するためのIPRED法です。これらの法律の制定については賛否両論、意見が分かれました。自由な社会で暮らすことが私たちに

機会均等に関する重要な出来事

1845年: 男女平等の相続権が認められる1921年: 女性が選挙権および被選挙権を獲得1938年: 避妊の合法化1965年: 夫婦間の強姦が刑罰の対象となる1974年: 父親と母親のいずれにも両親休暇の権利を認め      る両親保険制度の導入1975年: 妊娠18週までの自由な中絶を認める新たな妊      娠中絶法の成立1980年: 女性の(性別を問わない)王位継承権の導入1998年: 女性に対する暴力を禁止する法律の成立1999年: 新たな買春禁止法の成立2002年: 性的人身売買の禁止2009年: 同性婚を認める法律の施行

20 これぞスウェーデン

社会主義のまぼろし

今もなお、スウェーデンは冷戦下の東欧の共産主義体制に似た社会主義国だという定評があります。たしかに、20 世紀の大半の時期において社会民主党が政権を握っていたことは事実です。しかし、スウェーデンにはずっと前から市場経済が存在し、企業の圧倒的多数は民間企業です。公的機関と民間企業の協力も増えつつあり、相続税と富裕税は廃止されました。さらに、他の国々と比べると、固定資産課税の割合が低いのです。それでもやはり、私たちは十分な税金を納めています。それは、無料もしくは助成金を伴って提供される、多くの公共サービスや教育、保健医療、インフラなどを利用するためなのです。

とっていかに重要であるか、それは国民の反応を見れば明らかだったのです。

この国では、報道の自由、デモの自由、言論の自由が認められており、私たちには政治家や公務員を監視する権利があります。スウェーデンは 1766 年に世界で初めて、出版の自由に関する急進的な法律を採用しました。情報の自由と情報公開の原則については、今なお海外から多くの注目を集めています。

権力の乱用の危険性は、目を向けていることによって軽減することができます。スウェーデンは世界で最も汚職の少ない国のひとつです。つまり、情報公開の原則が効果を発揮するわけです。法律により、国民もマスメディアも、各政府機関内でやり取りされた電子メールを含む公文書を入手できることが定められています。すなわち、いかなる情報も、わかりやすく、また無料で提供されなければなりません。もちろん、国家の安全保障などに関する機密文書については例外ですが、原則として、誰もが公文書を入手することができるのです。そしてまた、情報公開の原則には、国家公務員が上司に尋ねることなく、自らの判断でマスメディアに情報を提供できるという意味合いもあります。

国民の保護をさらに充実させるため、1809 年から、個人やさまざまな利益団体を代表する機関であるオンブズマン制度があります。議会オンブズマンは、行政機関や公務員個人に対する苦情を扱う機関です。また機会均等オンブズマンは、平等の問題に取り組み、人種的背景や性別、性的嗜好、障害などによる、あらゆる差別と闘っています。広告・宣伝にだまされたと感じた場合にも、オンブズマンに頼ることができます。さらに、個別に子どもオンブズマンや報道オンブズマンまであるのです。

政府 すべての権力は国民に由来する――形式上は政府が統

治していますが、スウェーデンの議会制民主主義政治を支えているのは、この考え方です。スウェーデン議会(リークスダーグ)の 349 名の議員は国民の代表であり、政府は議会によって管理されています。議会には立法権が、そして政府には行政権が与えられています。

4 年に一度、普通選挙が行われ、私たちは議会、市議会、県議会の議員を選びます。投票率は世界各国に比べて高い数字を誇りますが、2014 年の選挙では 86%でした。18歳以上のすべての住民に選挙権があり、市議会と県議会の選挙については、EU 諸国、ノルウェー、アイスランドの国籍を持つ住民にも選挙権が認められています。また、その他のすべての外国籍の住民についても、スウェーデンで 3 年以上、住民登録をしていれば、選挙権が認められます。ただし、総選挙で投票するためには、スウェーデン国籍が必要です。国外に居住するスウェーデン国民の大半は、選挙権を持っています。

総選挙が行われると、新たに構成された議会で最大議席を獲得した政党から、議会議長が新首相を推薦します。その後、推薦された首相を議会が正式に承認すると、新首相が新たな内閣を組閣します。

社会民主党は、ほぼ 20 世紀を通じてスウェーデンを統治していました。ところが、この数十年間は、社会民主党と、他の 4 つの非社会主義政党――穏健党、自由党、中央党、キリスト教民主党――による野党連合との間で、政権交代が繰り返されてきました。

スウェーデンの政治は地方分権を基盤としています。地方・地域レベルにおいては、地方自治体と県が責任分野を明確に分け、独立して政治を行っています。地方自治体は都市計画や学校教育など、県は保健医療やインフラ整

高い投票率を誇るスウェーデン

スウェーデン議会と政府

 2014年の総選挙の結果、少数政党の社会民主党と環境党からなる連立政権が、8年続いた中道右派連立政権に取って代わりました。社会民主党の党首であるステファン・ロヴェーンは任期4年の首相に就任しました。外国人排斥を掲げる極右政党とされるスウェーデン民主党は躍進を遂げ、投票数のおよそ13%を獲得しましたが、いわゆる浮動層的な位置付けとされ、議会の立場を複雑にする可能性を持っています。

2014年9月総選挙:投票数の割合と議席数

穏健党 23.3%自由党 5.4%中央党 6.1%キリスト教民主党 4.6%

社会民主党 31%環境党 6.9%左党 5.7%

スウェーデン民主党 12.9%

社会 21

備などについて、責任を負っています。EU に加盟した 1995 年以降、スウェーデンで制定され

る多くの新しい法律は EU 指令に準拠しています。当初はEU に対して懐疑的だったスウェーデン人も、近年は EUへの支持を深めつつあります。それでも、いまだに通貨はスウェーデンクローナのままです。

君主制 スウェーデンのようなとても近代的な国が立憲君主制を

採用していることは、いささか矛盾しているように感じられるでしょう。ただし、正式な国家元首は国王カール・グスタフ 16 世ですが、長い間、スウェーデン王室には象徴的・儀礼的な役割しかありません。今でも君主制は幅広い支持を集めていて、王室を取り巻く魅惑的な感覚に好意的な国民が多いようです。君主制の廃止を望む政党もありますが、今のところ、この問題が議題となることはありません。

国王の家族は、シルビア王妃と 3 人の子供たち――ヴィクトリア皇太子、カール・フィリップ王子、マデレーン王女――です。シルビア王妃はドイツ生まれで、ドイツ人とブラジル人の血を引くゾンメルラット家の出身です。1972 年に当時スウェーデン皇太子だった国王と未来の王妃はミュンヘンで初めて出会った時、すぐにピンときたそうです。そして二人は 1976 年に結婚しました。

1544 年以来、スウェーデンは世襲君主制を続けており、現在の王位継承者はヴィクトリア皇太子です。皇太子の誕生から 3 年後の 1980 年、スウェーデンは初めて性別に関係なく王位を継承する制度を導入しました。これにより、男女の性別に関係なく、長子が王位を継承することになったのです。

ヴィクトリア皇太子は、スウェーデンの外交上で最も重要な人物になりました。とりわけ、一般人であるダニエル・ヴェストリング氏と 2010 年に結婚した際には、多くの注目を集めました。彼女の責務は、国王を支えることや、国王自身が公務や国賓訪問を遂行できない時に国王の代理を務めることなどです。また、国際的な援助活動や平和問題に熱心に携わるだけでなく、慈善団体のヴィクトリア皇太子基金を通じて、慢性疾患を患う青少年や障害のある青少年のためのレクリエーション活動にも取り組んでいます。

王室に生まれ育ったにもかかわらず、ヴィクトリア皇太子は堅実な人物であると考えられており、ゴルフやスキー、ジム通いといった一般的なレジャーを好みます。実際、ダニエル・ヴェストリング氏はかつて、皇太子のパーソナルトレーナーだったのです。

穏健党 84

自由党 19中央党 22

キリスト教民主党 16

左党 21

スウェーデン民主党 49

環境党 25

社会民主党 113

政府庁舎と議事堂(ストックホルム)

22 これぞスウェーデン

明確に物語っています。中立であることで知られるスウェーデンは、1814 年以降、

戦争に参加していません。冷戦中も、戦争が勃発した場合に中立の立場でいられるよう、非同盟政策をとりました。今もスウェーデンの安全保障政策には、軍事同盟への不参加が盛り込まれていますが、私たちは平和維持や治安維持のための活動には協力しています。スウェーデンの中立政策は公式的には揺るぎないものですが、だからと言って私たちは世界の変化に適応してこなかったわけではありません。EU 加盟国として、また国際社会の一員として、平和維持軍への貢献を長きにわたり続けてきました。

他にスウェーデンと接点がないという人でも、きっとIKEAや H&M、エリクソンといったスウェーデンのブランドに出会ったことはあるはずです。スウェーデン企業は、電気通信やバイオテクノロジーなどの分野で、その規模に不相応なほど大きなマーケットシェアを持っています。

国内の人口が限られていたことから、スウェーデンの企業やメーカーは、より多くの消費者とより大きな市場を求め、早いうちから海外に進出していました。そのため、グローバル化のプロセスにおいても有利なスタートを切ることができたのです。世界のビジネス界においては、合併や買収は当然よくあることで、企業が売買されています。ところがスウェーデンには、革新力が根付いていました。どれだけ多くのスウェーデンブランドが他の企業に吸収されようと、絶えず新たなブランドが登場するのです。最近、世界市場で成功を収めている若いブランドといえば、スカイプとスポティファイの 2 つが挙げられます。

スウェーデンブランドからよく連想されるのは、企業の社会的責任(CSR)と環境意識でしょう。多くのスウェーデン企業にとって、CSR は企業文化の一部です。スウェーデン人は、気候変動や男女平等、人権などの問題を考慮に入れながら、汚職のリスクを伴うことなく、ビジネスを成功させることができるのです。

音楽、映画、デザイン、ファッション、食文化といったスウェーデンの文化は、世界市場でますます大きな成功を収めています。しかし、スウェーデンを真に国際的にならしめた最大の事実は、スウェーデン人が仕事においてもプライベートにおいても、とにかくよく旅をするという点です。19 世紀から 20 世紀初めにかけての極貧の時代に、人口の約 3 分の 1 にあたる130 万人のスウェーデン人が北米に移住しました。アメリカ人とカナダ人のおよそ 500 万人は、スウェーデンにルーツを持つ人々です。

今日では、人口の 16%近くがスウェーデン国外で出生しています。また、期間の長さに関係なく、外国に移っていくスウェーデン人がいます。外国で生まれてスウェーデンに移ってきた人もいれば、スウェーデンで数年間暮らして母国に戻る人もいるのです。スウェーデンはたしかに世界に

世界の中のスウェーデン私たちの国はヨーロッパのはずれに位置しており、世界

で起きている出来事を傍から見ていることも選択できました。ところが、スウェーデンの企業はより大きな市場をつかもうと、長年にわたって国外に進出してきましたし、世界中どこへ行っても、スウェーデン人観光客に出くわします。さらにスウェーデンは、グローバルな問題に積極的に取り組むことによって、その名を知らしめてきました。

私たちは現実から目を背けることなく、貧困や戦争、環境災害、その他のグローバルな問題を無視することもありません。スウェーデンは開発貢献指数(CDI)で常に上位にランクされています。その理由のひとつとして、国民総所得の 1%を開発援助に充て、支援を受けた国に対して、スウェーデンの商品やサービスを購入するために、その援助金の一部を使うことを要求していないことが挙げられるでしょう。また、スウェーデンは和平交渉や国連平和維持軍にも積極的に参加しています。政府の環境政策は、世界の平和と安定に貢献することがいかに重要であるかを、

ヴィクトリア皇太子

society 23

マルメ南部のターニング・トルソ

24 これぞスウェーデン

馴染んでいます。そして私たちは、エレスンド橋によって物理的にもヨーロッパ大陸とつながっていることを、うれしく思っているのです。

イノベーション強力な技術革新の精神に支えられ、スウェーデンは技

術開発の分野で第一線を維持してきました。貧しい農耕社会から高度な工業国に生まれ変わるために要した時間は、わずか数十年。それが可能だったのは、豊富な天然資源に恵まれ、同時に蒸気タービンやボールベアリング、ガスを利用した灯台、モンキーレンチといった重要な発明を成し遂げたからでしょう。

おそらく、これまでのスウェーデンの卓越した研究開発を見れば、私たちには飽くなき知識欲があるように思われるでしょう。しかしこれは、スマートな手がかりさえ見つかればいいという問題ではなく、それらの手がかりをいかに商業的成功に結び付けていくかという点が重要なのです。多くのスウェーデン企業は、その良い例です。

電気通信大手エリクソン社の創業者であるラーシュ=マグヌス・エリクソンの出発点は、小さな修理工場でした。彼はこの工場で電信機を開発したのです。その貢献により、19 世紀末には、ストックホルムは世界で最も電話が普及している都市となりました。通信は人間の基本的ニーズであるという確固たる信念が、エリクソン社を今日のグローバルな大企業へと成長させたのです。

IKEA の歴史は 1931 年にさかのぼります。当時 5 歳のイングヴァル・カンプラードは、近所の人々にマッチを売って、お金を稼ぐことを始めました。わずか 12 年後、彼は会社を設立して IKEAと名付けます。社名の「IKEA」は、彼自身のイニシャル(I.K.)と、彼が生まれ育った農場(エルムタリード=E)と村(アグンナリード=A)の名前の頭文字を組み合わせたものでした。スモーランド地方の深い森の中で生まれたひとつのアイデアは、60 年を経て、世界40カ国に店舗を構える一大家具ブランドへと成長を遂げたのです。

ラスベガスの最も偉大な“スウェーデン人”はH&Mの店舗

GDPに占める研究開発費の割合(%)(2010 年)

イスラエル    4.40フィンランド   3.88スウェーデン   3.40日本       3.26 

 アメリカ     2.90 EU27カ国    1.91 中国       1.77 ロシア      1.16

社会 25

ノーベルの遺言 スウェーデン出身の発明家、アルフレッド・ノーベル(1833 ~1896)は、起業家であり、また実業家でもありました。355 件の特許を取得し、20 カ国に 90 件の工場を設立した彼は、遺言書の中で、これらの財産の大部分を財団に保管し、“前年に人類に多大な恩恵をもたらした”人々に毎年、ひとつの賞の形で分配するようにと明言したのです。このエピソードは、1860 年代に彼自身が発明したダイナマイトよりも、はるかに広く知られることになりました。 1901 年から毎年、物理学、化学、医学・生理学、文学、平和の分野で目覚ましい功績を残した人々にノーベル賞が授与されてきました。スウェーデン中央銀行による経済学賞は、ノーベルの遺言書には言

 

及されていませんが、彼を記念して 1968 年に発足されたものです。授賞式は毎年、アルフレッド・ノーベルの命日である12 月10 日にストックホルムで行われます。ただし平和賞だけは、ノーベル自身がノルウェーのノーベル賞委員会から授与することを決めていたため、オスロで授与されます。1814 年から1905 年までスウェーデンとノルウェーが同盟を結んでいたことを考えると、これも納得がいきます。 およそ 3,100 万クローナだったノーベルの財産は長年をかけて増え続け、2012 年には各賞の賞金は 800 万クローナになっています。これまでに、合計 30 人のスウェーデン人がノーベル賞を受賞しました。

毎年恒例のノーベル賞授賞式の後には、ストックホルムの市庁舎で厳粛さを感じさせる晩餐会が催される

26 これぞスウェーデン

“フラワーパワー” スウェーデンのスーパーカーメーカー、ケーニグセグ社が 2007 年に発表した CCXR モデル。エタノール燃料で走行するエンジンを搭載していることから、“フラワーパワー”の愛称が付けられました。世界初の環境にやさしいスーパーカーです。

ギデオン・スンドベックが1913年に発明した現在のジッパー(ファスナー)

“ヘヴディング”――エアバッグのように広がる自転車用ヘルメット

クルマの安全性 ヴァッテンファール社が考案し、ボルボ社のエンジニアであるニルス・ボーリンが開発した 3 点式シートベルトは、1959 年の発売以来、6 分に 1 人の命を救ってきました。この製品は、自動車の安全性を追求してきた歴史の中で、最も重要な発明のひとつであると考えられています。オートリブ社が開発した、次世代のアルコール・インターロックと、夜間に車の前方にいる歩行者を検知する技術は、ともに比較的新しい発明です。ボルボ社とサーブ社は長年にわたり、安全性の問題に対する多くの解決策に貢献してきました。

スカイプ スウェーデン出身の起業家、ニクラス・センストロムは 2003 年に画期的な電話ソリューションを発表しました。ヤヌス・フリスと共に、無料のインターネット電話サービスであるスカイプを立ち上げたのです。スカイプはグローバル IT コミュニケーション分野において、個人の利用者だけでなく企業にとっても優れた役割を果たしています。

ポータブル燃料電池充電器の“パワートレック”

太陽光エネルギーを利用した水浄化装置“ソールヴァッテン”

スポティファイ――穏やかな音楽革命

 音楽や映画の違法ダウンロードが後を絶たない時代に、あるアイデアを思いついたスウェーデン人たちがいました。彼らが考案したスポティファイは、“ストリーミング”された音楽を無料で合法的に聴くことができるインターネット上のサービス。おそらく、まったく新しい発想というわけではないでしょうが、その技術はまさにユニークです。提供されている楽曲の多さといったら、なかなか他に抜かれることはないでしょう。 小さな企業ですが、今や200名近い従業員を抱え、いくつもの国でサービスを提供しています。スポティファイは広まり続けており、多くの称賛を得ています。ロサンゼルスタイムズ紙は、アメリカでスポティファイがサービスを開始した際、こんなふうに伝えたのです――「市場に敵なしのスポティファイ。注目を集めようと奮闘している他の音楽配信サービス企業にとっては、とんでもない脅威だ」。

WeSCのヘッドホン

文化&レジャー 湧きあがるインスピレーション

スウェーデン文化が持つ創造性と革新性は、爆発性を増しつつあります。かつては、スウェーデン音楽といえばポップス、スウェーデンデザインの特徴といえば機能性、という時代がありましたが、もはやそれほど単純ではないのです。

スウェーデンのバンドは、ゴシックメタルからヒップホップまで、ありとあらゆるジャンルの音楽シーンに登場し、スウェーデン映画が扱うテーマは、もはや人間の実存条件だけにとどまりません。アートの分野には、社会批判的なものや個人的なものを受け入れる余地があります。ファッションとデザインは、今でも実用的なものを求める傾向がたしかにありますが、明らかに情緒的な要素も持ち合わせています。

単に、スウェーデンのアーティストたちがより大胆になっただけなのかもしれません。あるいは、外国からインスピレーションを受ける機会を一層求めるようになったのかもしれません。それとも、多文化なスウェーデン社会の特徴が、どんどん私たちの文化的な生活に反映されつつあるのかもしれません。何とも言えませんが、ベルイマンやABBAの時代から、たくさんの変化が起こっていることは間違いないのです。

自身のレーベルを立ち上げ大成功を収めたロビン

30 これぞスウェーデン

映画&舞台芸術 多くのスウェーデン国民の注目を集めるトロルヘッタンの映

画製作スタジオには、“トロリウッド” というニックネームがあります。だからと言って、スウェーデンがハリウッドと張り合えるわけがありませんし、また張り合おうとも思っていません。それでも、スウェーデン映画は国内外で人気があり、2013 年には 100を超える国際的な賞を受賞しました。

映画界は今、変わりつつあります。多くのスウェーデン出身の意欲的な新しい映画監督が、新しい技術を試し、長いこと手の届かなかった新たなジャンルや市場に挑戦したいと切望しています。スウェーデンの映画監督たちは、視点こそ変わったとはいえ、イングマル・ベルイマンや彼と同時代の監督たちがそうであったように、人間の感情的側面にも関心を持っています。

スウェーデン語を話す人口は 1,000 万人にも満たないため、そのことがスウェーデン映画の資金面での悩みの種です。にもかかわらず、スウェーデンの映画史上で初めて、2億クローナにも上る予算の映画が制作されたことは、スウェーデン映画に潜む商業的可能性に対して新たな確信が生まれていることの表れです。

さらに、ドキュメンタリーと短編のジャンルについては、スウェーデン映画には確固たる基盤があります。イェスペル・ガンスラント、ルベーン・エストルンド、あるいはオーサ・ブランクとヨハン・パルムグレーンのデュオなどは、いずれも短編やドキュメンタリーのジャンルから誕生した、注目すべき監督たちです。

現在、スウェーデンの作品がハリウッドスターの関心を集めているのと同様に、ノオミ・ラパスやアレクサンデル・スカーシュゴードといったスウェーデン出身の俳優もハリウッドに進出し、世界的スターになりつつあります。

映画に限らず、舞台芸術についても、スウェーデンには語るべきことがたくさんあります。たとえば、クルベリバレエ団は世界的に有名ですし、スウェーデン国民の間ではダンスの人気もどんどん高まっています。ストックホルムには、壮大なドラマーテン(王立劇場)から、特に若い観客を対象とする小規模の独立系劇場まで、たくさんの劇場が集まっています。

文学 スウェーデン人作家の作品を読んだことがないという人で

も、スウェーデンアカデミーが選出するノーベル文学賞ならばご存じでしょう。そのような名高い機関があるのですから、当然、偉大な作家もいるはずです。もちろん、過去にも現在にも存在しています。ただし、スウェーデンの文学界でもやはり、世界的ベストセラーや児童書、青少年向け書籍といった、立派な賞とは無関係な作品が取り上げられています。

つい最近までタブーとされてきたテーマを扱う児童書は、新たな傾向とは言えないのかもしれません。むしろ、アストリッ

ドキュメンタリー映画『シュガーマン 奇跡に愛された男』で2013年のオスカー賞を受賞したマリク・ベンジェルール監督(1977~2014)

文化&レジャー 31

ド・リンドグレーンが、親のいない 9 歳の反抗的な子供、“長くつ下のピッピ” を初めて著した 1940 年代に始まる文学的遺産の延長なのでしょう。

ビッテ・ハフスタッドの『不本意な兄弟(Ofrivilliga sys-kon)』もまた、重要な役割を果たしてきました。離婚する両親もいること、一緒に暮らしている子供がみんな家族とは限らないし、両親が揃っているとも限らない、もしくは両親が同性の場合だってあること――子供たちは、これらのことを知っています。スウェーデン社会が多様な家族のあり方を受け入れてきたのと同様に、ピッピの時代から、さまざまな形の家族が登場する作品に触れる機会を子供たちに与える必要性は増しつつあるのです。

道徳的ジレンマや集団の圧力、環境への敬意も、取り上げられることの多いテーマです。ピア・リンデンバウムと、オーロフ・ランドストローム&レーナ・ランドストロームの作品は、あふれるユーモアと感受性をもって、これらのテーマを掘り下げた絵本の例です。マッティン・ヴィードマルクの探偵物語も人気を博し、ビデオゲームやテレビ、インターネットと競い合ってきました。

とはいえ、当然のことながら、探偵小説の大半は大人向けの作品です。スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』3 部作は、彼の死後、世界に旋風を巻き起こしました。それはそれはすごい旋風だったのです! 作品はたちまち 40カ国語以上の言語に翻訳され、映画化されました。世界中の配給会社は、ラーソンと同じように旋風を起こす力のあるスウェーデン人作家を探し求めています。スティーグ・ラーソンは、受賞歴を持つ作家、ヘニング・マンケルの足跡をたどりました。彼らの作品は、ごくわずかな人間だけが経験せざるを得ない残酷な現実を、リアルに描いています。

しかし、すべての大人向けの作品に殺人事件が登場するわけではありません。ヨーナス・ハッセン・ケミーリの脚本や著作の多くは、アイデンティティーや人種、言語を取り上げています。古典の作家では、海外でよく知られているのは、おそらく現代演劇に多大な影響を与えたアウグスト・ストリンドベリだけでしょう。ただしスウェーデンは、純文学から大衆文学まで、あらゆるジャンルで偉大な作家を輩出しているのです。たとえば純文学では、2011 年にノーベル文学賞を受賞した詩人のトーマス・トランストロンメルがいます。児童書や青少年向けの作品、探偵小説に関しては、他に負けない実力があります。それに、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの成功を見るかぎり、人間味のあるホラー小説も得意分野なのでしょう。スウェーデン文学は “恐ろしい” ほど、うまくいっているようです。

アート スウェーデンのアートはすべてに対してオープンです。神聖

なものがなく、多種多様な新しい媒体に恵まれた風土の中で、社会批判が個人的・詩的なものと混ざり合って存在します。

ロングセラーを続けるピア・リンデンバウムの絵本

32 これぞスウェーデン

インディー・ポップのスター、リッキ・リー

パブリックアート?

 芸術機関の外で発揮されている創造力もあります。地下道に描かれた絵、編み込まれてしまった街灯、まったく思いもよらない場所に置かれた巣箱などなど――。挑発的で滑稽で詩的なストリートアートは、感情を刺激し、議論を巻き起こしています。これは一種の反乱なのでしょうか? それとも、公共の空間を飾って変身させているのでしょうか? ストックホルム市立美術館はガイドツアーを企画して、市内のストリートアートを紹介していますが、他の多くの関係機関はこれらの未許可のアートを疑問視しています。

音楽や舞踊、新旧の媒体と映像が出会い、まったく新しいものが誕生する――そんな作品を生み出すアーティストが増えつつあります。たとえば、ナタリー・ユールベリは、短編アニメーションに粘土で造った巨大な花と音楽を組み合わせて、『The Experiment(実験)』というインスタレーションを制作しました。一見、純真に見えながら、実はユーモアがあり、暴力的でエロティックなアニメーション映像を通して、ユールベリは社会の慣習に疑問を投げかけています。

映像アートはスウェーデンで人気のある媒体です。しかも、多くの映像アーティストが女性であることは注目すべき点でしょう。アン=ソフィー・シデーンは 1990 年代初めから、ジャーナリズムと長編映画と科学的研究を組み合わせて、人間の精神を解明しています。

ヘンリック・ホーカンソンが注目するのは自然です。自然への愛は、スウェーデンのアートにおける伝統的なテーマであり、とりわけ 19 世紀末のアンデシュ・ソーンやカール・ラーション、ブルーノ・リリエフォシュといったアーティストの作品に顕著に見られます。ホーカンソンは、新しい方法で見つめることによって、21 世紀のアートに自然を取り入れたのです。そして、テ

クノロジーと音楽を駆使して、文化と自然のコミュニケーションを中心テーマとする、ある種の “バイオ美学” を確立しました。

それでは、スウェーデンのアートシーンを象徴するようなアートはあるのかって? もちろん、ありますとも。グンネル・ヴォールストランドなどは注目すべきアーティストです。彼女は古い家族写真を、墨で描いた巨大な、そして驚くほど写実的な絵画で正確に再現します。非常に個人的な物語を語りつつ、時間がかかって骨の折れる几帳面な作業を通じて、職人技を新たなレベルに引き上げたのです。

音楽 ほとんどのスウェーデン人にとって、音楽は生活の一部

です。とにかく私たちは、歌うことが好き。スウェーデンは世界有数の音楽輸出国でもあります。人口一人あたりで言えば、間違いなくトップでしょう。ダンスの BGM だったり、ラジオやテレビCMで耳にしたり、あるいはインターネットでダウンロードしたりした音楽が実はスウェーデン生まれ

であることを、リスナーが必ずしも知っているとはかぎりません。スウェーデン人でさえ、皆が知っているわけではありません――情報が多すぎて、最新情報についていくのが難しいのです。

スウェーデンの音楽だけを取り上げてコメントする海外のブロガーもいます。それも、フルタイムの仕事としてです。また、世界ランキングで上位にいる楽曲のほかにも、世界的スターを陰で支えるスウェーデン人のプロデューサーやソングライター、彼らのミュージックビデオを製作するスウェーデン人監督たちがいます。

これらの成功の理由はいったい何なのかとお考えなら、スウェーデンは人口に対する合唱団の数が世界で最も多いことに目を向けてください。また、深く根付いたみんなで歌うシングアロングの伝統や、夏至祭やクリスマス、秋のザリガニパーティーには全員で歌うことにも、よく注目してみましょう。

ABBA が活躍した時代には、スウェーデンのポップスグループはたったひとつでした。少なくとも、海外の人々の目にはそう映っていたのです。金髪でかっこよくて、風

変わりな彼らは、スウェーデンを象徴していました。今は少し複雑になっていますが、ジャズからドゥームメタルまで、思いつくかぎりすべてのジャンルで成功を収めているスウェーデン出身のアーティストやバンドがいるため、さらにワクワクする状況でもあるのです。

スウェーデンのジャズは、アメリカのジャズとスウェーデンの民族音楽に深く根差したものです。2008 年にジャズトリオ E.S.T. のエスビョーン・スヴェンソンが悲劇的な死を遂げたことで、スウェーデンジャズが終焉を迎えたなどということは決してありません。スウェーデンには昔から、ヘビーメタルやそのサブジャンルを育む土壌があり、結成されたばかりの多くのハードメタルバンドが、この地でキャリアを築いているのです。

他のジャンルの音楽にも、サクセスストーリーがあります。クラシック、レゲエ、ヒップホップなどは、ほんの一部の例にすぎません。おそらく最も注目を集めているのはポップスとインディーズで、スウェーデンサウンドなるものについて語ろうとするなら、まさにこのジャンルで名を上げたと言えるでしょう。ロビン、リッキ・リー、ザ・レディオ・

クルベリバレエ団の公演『High heels too』(2013年)

34 これぞスウェーデン

デザイン集団、フロントの花瓶

フレドリック・フェリの家具、“サクセッションズ” シリーズ

建築家のイェット・ヴィンゴードが設計した“Kuggen(歯車の歯)”(ヨテボリ工科大学)

文化&レジャー 35

デプト、ピーター・ビヨーン・アンド・ジョン……他に忘れているバンドはないでしょうか? もちろん、いるはずです。音楽で食べていこうと思うなら、スウェーデン人に聴かせているだけではとても足りない――そう理解しているアーティストはどんどん増えています。一方で、訳のわからないうちに突然、脚光を浴びていたというアーティストもいるのです。

デザイン&手工芸 多様性と曖昧な境界線――これこそ、スウェーデンの

デザインシーンを見事に要約した言葉です。新しい世代のデザイナーたちは、単に実用的なものを作るのではなく、そこから物語を伝えたいと考えています。機能が感情と出会い、創造性の幅がかつてないほど広がります。そして、余計なものを削ぎ落とした IKEA のデザインに、新たなライバルが登場したのです。

多くのデザイナーは、カテゴリーにとらわれずに創作活動に取り組み、アートと手工芸とデザインを融合させています。モニカ・フォシュテルは、現代の都市生活から得るのと同じくらい、サーミ人の民族工芸からもインスピレーションを得ています。自身の作品であるミニマリズムの家具やオブジェに、思いもよらない素材や新しいテクニックを使い、なじみのある形状を生まれ変わらせているのです。さらに彼女は、消費文化とのバランスを取るには質の高いデザインが効果的であるとも考えています。

デザイン集団のフロントは調査の視点を持って活動しています。結束の固いデザインチームが、アイデアの考案から完成に至るまで協力して作品に取り組んでおり、外的な要因によってフォルムが決まることもよくあります。たとえば “Design by Animals” コレクションでは、壁紙をかじっている何匹ものネズミが壁紙の柄になっています。また “Flower Lamp” コレクションでは、家庭で消費するエネルギーの量によって、ランプのフォルムが変わるのです。

古くからの伝統を守り続けるガラス工房のコスタボダも、新たな分野を開拓しています。おそらく、周囲の創作意欲に刺激を受けたのでしょう。特大のゴブレットや巨大なガラス製のリップスティックなどを手がけたガラスアーティストのオーサ・ユングネリウスを獲得したことで、機能的というよりはユーモアにあふれ、高級というよりは表情豊かなデザインが加わりました。しかし、最も巧みにスタイルを融合させるのはサンドラ・アールでしょう。彼女は、ポップカルチャーと現代の消費社会の持つ表情をアートに取り入れます。すると、従来の美意識に挑んでいくキッチュなスタイルが生まれるのです。

サンドラ・アールの作品は、これまで優勢だった機能主義からは程遠いものです。1930 年のストックホルム博覧会で機能主義が大躍進を見せて以来、スウェーデンでは多かれ少なかれ、フォルムは機能によって決まってきました。

今も一般的には、“スウェーデンデザイン” とは、ピュアなラインと白木と使いやすさが特徴であると考えられています。思うに、IKEA はこうした考え方とつながっているのでしょう。しかし実際のところ、事の発端は 1919 年、スウェーデンの美術史家であるグレゴール・パウルソンが書いた『もっと素敵な日用品を(Vackrare vardagsvara)』というパンフレットだったのです。彼は、国民により広く美しい品物を普及することの必要性を指摘しました。そしてこのことが、20 世紀の大半の時期において、スウェーデンのデザインに非常に大きな影響を与えました。民主主義的、反エリート主義的なデザインをめぐるパウルソンの考え方は、今なお生き続けています。そして、優れたデザインはスウェーデンの日常生活において、極めて重要な役割を果たしているのです。

家具デザイナーで建築家でもあるブルーノ・マットソンのモダニズム的デザインは、1930 年代、40 年代においては画期的なもので、スウェーデンが世界のデザイン界に進出するきっかけとなりました。そしてそれは、今も変わっていません。しかし、彼が作り上げた “スウェディッシュ・モダン”は、より情緒的なスタイルの挑戦を受けてきました。デザインは人となりを語るものであり、私たちの美の極致は今まさに再び評価されようとしているのです。

ファッション スウェーデンのファッションは変わりつつあります。他の

分野のデザイナーと同様に、多くのファッションデザイナーたちが機能性を追求するデザインから離れるようになりました。H&M は今でも、誰もが手に入れられるファッションを世界各地に広め続けていますが、一部のトップデザイナーたちは、より個人的なものを表現する方向へと向かい始めています。

サンドラ・バックルンドは、従来の実用的なスウェーデンファッションとは異なるスタイルで、世界のファッション界にその名を知らしめました。毛糸で作られたぜいたくで表情豊かな彼女の作品には、本物の熟練の技を見て取れます。

リッカルド・リンクヴィストも、まったく違う形ではありながら、やはり手工芸の意味合いを取り入れています。彼は、伝統的な仕立ての技術を用いて、古典的な紳士服のちょっと粋なバージョンを作り上げるのです。

スウェーデンのファッションシーンには創造性があふれています。その一方で、多くのデザイナーが自分の才能を利益にかえようと悪戦苦闘しています。ソフィー、ペニッラ、イェニフェルのエルヴェステット3 姉妹は、“ミニマーケット

(Minimarket)” というブランドを立ち上げて成功を手にしました。彼女たちのコレクションは、女性らしいフォルムに男性的な要素を取り入れている点と、強烈な色づかいが多い点が特徴で、世界各地のショップで販売されています。

36 これぞスウェーデン

ファッション界でもエコデザインが好まれるようになりました。ヌーディー、カミラ・ノルバック、ジュリアンレッドなどのブランドは、いずれも環境意識の向上に貢献し、エコファッションでもシックになり得るのだということを証明しています。

実は、“スウェーデンファッションの奇跡” が始まったのはデニムの世界だったのです。アクネ、ヌーディー、WeSC などのブランドは皆、世界的な成功を収めました。これに続くブランドのひとつ、チープマンデーも同様に知名度を上げ、たちまち H&M に買収されました。

スウェーデン人のファッションへの関心は、この 10 年の間に急激に高まっています。H&M がそこに一役買っていることは間違いありませんが、国民の経済状況が向上したことにも関連しているのでしょう。しかし、消費社会に対するひとつの反応として、セカンドハンド市場の増加が挙げられます。昨年のオートクチュールが今年はストリートファッションになって登場する、なんてことがあるかもしれません。

スポーツ ゆりかごから墓場まで国民の世話をする国として知られ

るスウェーデンですが、そんな私たちもまた、自分の体を大切にし、健康に気を配っています。新たな研究によると、スウェーデン人は世界でも有数の健康な国民だそうです。また、最も長寿な国民でもあります。アマチュアアスリートや、屋外で過ごすことを好む人たちも大勢います。

自然が身近にある環境で暮らしているがゆえに、新鮮な空気の中に出かけていくことの多い私たちですが、それに加えて、ずっと昔からスポーツ活動も非常に盛んです。それはちょうど、労働運動や女性解放運動、禁酒運動のような、いわゆる大衆運動がそうであったのと同様です。これらの運動は長きにわたり、すべての国民が社会生活に参加する平等な権利と機会を求めて、活動してきました。

今でも、社会のあらゆる階層の、あらゆる年齢層の人々がスポーツ活動に参加しています。とはいえ、アドベンチャー・スポーツなどの簡単に組織されたアクティビティや、単にジムに通うといった形を選ぶ人が増えています。スポーツ活動の幅広さや、多くの人がスポーツを好むことが、人口の限られた国でありながら、スウェーデンが国際的なスポーツイベントにおいて大きな成功を収めてこられた理由のひとつかもしれません。

スウェーデン人は、特に競争心が強いわけではありませんが、なんとかここまでやってこられたのです。まさにスウェーデン人らしいことです。私たちは今、ズラタン・イブラヒモビッチ(サッカー)、ハロッテ・カッラ(クロスカントリースキー)、ヨナス・イェレブコ(バスケットボール)、サラ・ショーストロム(水泳)から目を離せません。

麻薬への反対意識が国民全体に大きく広がっているスウェーデンは、当然ながらドーピングにも反対です。スウェーデンのスポーツ界では大規模なドーピングスキャンダルは起こらない、とは必ずしも言えません。それでも、起こる可能性は限りなく低いでしょう。スウェーデンの研究者たちは、血液ドーピングやテストステロンの乱用の発見などにおいて、第一線に立ってきました。

“スウェーデンファッションの奇跡” を起こしたブランドのひとつ、アクネ

det här är sverige 37

サッカーのスウェーデンナショナルチームのキャプテンを務めるズラタン・イブラヒモビッチ

38 これぞスウェーデン

にぎやかな夏至祭のお祝い

文化&レジャー 39

伝統今日のスウェーデンは世俗的な社会です。しかし、私たち

の伝統の中には宗教を起源とするものも多く、今も宗教は重要な役割を果たしています。実のところ、私たちは祝うことが好きな国民です。ですから、起源を忘れてしまった慣習があっても問題はなく、祝ってしまうのです。

世界の他の地域から入ってきた宗教や伝統も、スウェーデンの文化を豊かにしています。たとえば、イスラム教の祝祭日であるラマダンがそうです。スウェーデンではイスラム教徒が増えているため、この断食月が見過ごされてしまうことはありません。古くからのスウェーデンの伝統が、さまざまな伝統と出会い、融合することによって、姿を消すことはありません。そこに私たちは、継続性や帰属性を感じるのです。

スウェーデンの伝統の多くは、四季の移り変わりと密接に関連しています。冬には信じられないほどたくさんのキャンドルを灯しますし、夏には何か屋外での活動をすることが欠かせません。私たちスウェーデン人が大切にしている伝統の中から、夏至祭、ザリガニパーティー、ルシア祭、クリスマスについて見ていきましょう。

Caption.

酢漬けのニシンとシュナップスはスウェーデンの定番

夏至祭6月:学校が休暇に入り、自然にはエネルギーがあふれています。太陽はまるで沈まないように思えます。実のところ、北部では太陽は沈まず、南部では一日のうち数時間だけ、わずかに暗くなります。さあ、お祝いの時です! 家族や友人を集め、最もスウェーデンらしい伝統――夏至祭のお祝いをしましょう。

 夏至祭のお祝いというのは、実は夏至点を祝うものです。スウェーデン人は、キリスト教が伝わるよりも前の時代から、6月 21 日頃にあたる一年で最も昼間が長い日を祝ってきました。ただし1950 年代以降は、実用的な理由から、6月19日から 25 日までの間の金曜日を夏至祭の前夜として祝っています。 夏至祭の前夜にひとりきりでいることを望むなら、都会に残るのがいいでしょう。その週末には、多くの人々が家族や友人と共に夏至祭を祝おうと、田舎に向かうからです。 お祝いが始まる前に、ほぼ義務として行われるいくつかの

儀式があります。まず、野の花を摘んで編み、頭にのせる冠と、メイポール(夏至柱)に吊り下げる花輪を作ります。次に、メイポールを木の葉や花で飾ります。それから、周りで輪になってダンスを踊るのに十分な広さがある場所にメイポールを立てます。 さあ、ランチの時間です!屋外にテーブルをセットして、花で飾ります。とは言っても、突然にわか雨が降り出して、家の中にテーブルを移動しなければならないことがほとんどですが。 料理はシンプルに、さまざまな種類の酢漬けのニシンと、ディルとサワークリームを添えた新ジャガです。定番のデザートはホイップクリームを添えたイチゴ。大人たちの多くは、シュナップスと呼ばれる蒸留酒でニシンを一気に流し込むのが大好きです。ただし飲む前には、ちょっとおかしな酒宴の歌を歌うことになっています。これらの歌は、世代から世代へと受け継がれてきました。ス

ウェーデンのシュナップスは穀類やジャガイモで作られていて、風味が加えられていることが多いのですが、決して甘くはありません。 食事が終わり、みんなの気分が盛り上がってくると、いよいよダンスが始まります。子供も大人もメイポールを囲んで輪になって、伝統的な歌に合わせて踊ります。ダンスそのものは難しくはありません。手をつ

ないで、ポールの周りを同じ方向に動くだけです。多くの小さな市町村では、民族音楽の演奏家を呼び、その演奏に合わせて踊ります。 夏至の日は決して暗くなりませんから、パーティーは何時間でも続きます。朝もやが野原に広がり始める頃、ようやく人々は家に戻り、ベッドに入るのです。

40 これぞスウェーデン

Caption.

ザリガニパーティー8月:最高なのは、暖かくて穏やかな夏の終わりの夜です。いくつものテーブルに茹でたザリガニがいっぱいに積み上げられます。その昔は高級なごちそうだったザリガニですが、今では一年中手に入ります。それでも、ほとんどのスウェーデン人は、伝統的な解禁の時期である 8 月がやって来るまで、食べずに待っているのです。

 夏至祭のお祝いと同じく、ザリガニパーティーも屋外で行うのが一般的です。これには実用的な理由があります。まず、

ザリガニを食べる作業は厄介で汚れてしまうこと。そして、家の中で食べると、なかなかニオイが取れないのです。テーブルクロスやお皿、ナプキン、ちょうちんは紙製のものを使います。ご希望なら、エプロンとおかしな帽子も身に着けましょう。片付けは簡単。食べ終わったら、全部まとめて大きなゴミ袋に捨てます。 ザリガニはたっぷりのディルと一緒に茹でます。お好みで、少量のビールを入れてもよいでしょう。お皿にザリガニが盛られると、人々は殻を剥き、汁を

すすり、おいしい身にかぶりつくのです。そして夏至祭の時と同じように、おきまりの酒宴の歌を歌って、シュナップスを流し込みます。 私たちは一般的に、パック詰めされた冷凍か生のザリガニを食料品店で購入します。さまざまな原産国のブランドを比較した検査結果が新聞紙上で発表されますが、「泥臭い」、

「100 点満点の塩加減、ディルの量も適量」などなど、評価はさまざまです。1 位に輝いたブランドのザリガニが店頭で完売するのに、そう時間はかかり

ません。けれども、そんなことはどうでもいいのです。私たちはザリガニが手に入れば、幸せなのですから。

ルシア祭とクリスマス12 月:太陽の沈む時間はどんどん早くなります。それでも運がよければ、雪が夜の闇を明るく照らし、クリスマスの独特な気分を醸し出します。ご多分に漏れず、スウェーデンでもクリスマスは商業化されているかもしれません。ですが、手作りのクリスマスの飾りを取り出して、キャンドルを灯し、家族代々受け継がれてきたレシピでジンジャークッキーやサフランパンを焼く――そんな時でもあるのです。

 12 月はパーティーが目白押しです。それはクリスマスの前の 4 回の日曜日、すなわちアドベント(待降節)の第 1 週から始まります。隣人や友人たちは互いを自宅に招き、グレッグ

(ホットワイン)をふるまいます。職場ではクリスマスパーティーが企画されます。スウェーデン人は世俗的な国民ですが、クリスマスとその伝統が神聖なものであることは認めざるを得ません。 12 月 13 日はルシア祭。全国の就学前保育所では、幼い子供たちが白くて長い衣装に身を包み、そろりそろりと歩きます。手にはキャンドルを持ち、

8月のザリガニ解禁にザリガニパーティーを楽しむ

文化&レジャー 41

誇らしげな両親の前で有名なクリスマスソングを歌うのです。 ほとんどの女の子はルシア役になりたいと思っています。時には男の子だって、そうです。そのため、就学前保育所では、ルシア役を希望するすべての子供が、電池式のキャンドルの付いた冠を頭にのせ、腰には赤いリボンを巻いています。その他の女の子たちはルシアの介添役で、手に 1 本のキャンドルを持ちます。男の子の大半は小さなサンタさんに変身します。他には、先端に星の付いた棒を手に持ち、紙で作っ

たとんがり帽子をかぶったスターボーイや、ジンジャーブレッドマンもいます。 子供たちが大きくなると、ルシア役は一人に限られるため、競争は熾烈になります。また年とともに、男の子たちは長い衣装を着ることを嫌がるようになるため、スターボーイ役を見つけることも困難になっていくのです。 ルシア祭から11 日が経つと、クリスマスイブを迎えます。12月 24 日にはサンタクロースが私たちの家を訪れ、クリスマスプレゼントを配ります。ほとん

どのスウェーデン人は家族と一緒にクリスマスを祝うのです。クリスマス当日とその翌日は祝日で、大半の人々はクリスマスから大晦日までの間を休暇にします。 12 月 24 日のお昼には、酢漬けのニシンやミートボール、クリスマスハムなど、とてもおいしい料理を集めた魅力的なクリスマスのスモーガスボード

(ビュッフェ)がふるまわれます。飾り付けをされたクリスマスツリーがキラキラ輝いています。午後 3 時になると、子供からお年寄りまでスウェーデン

人はみんな、テレビの前に陣取り、『ドナルド・ダック』を見ます。これは、1960 年代から続く、いろいろなディズニー映画を見せてくれる番組です。すると、誰かがドアをノックします。サンタクロースです! 待ちきれない子供たちはプレゼントの包みを破ります。するとようやく、もらったばかりの新しいおもちゃで遊び始めることができるのです。さてその時、イエスキリストに想いを馳せる人はいるのでしょうか?

伝統的なルシア祭――闇の中に光が広がる

42 これぞスウェーデン

言語 スウェーデン語は北ゲルマン語群のひとつで、スウェー

デン国内および国外、とりわけフィンランドで、およそ 1,000万人が話している言語です。その起源は、ヴァイキング時代にスカンジナビア地方で共通の言語として話されていた古ノルド語です。一般的に、ノルウェー人、デンマーク人、スウェーデン人は互いの言語を理解することができます。ところが東側の隣国フィンランドでは、フィン・ウゴル語派を起源とするまったく別の言語を話しています。

スウェーデン語のアルファベットは、ラテン式アルファベットの 26 文字に「Å」「Ä」「Ö」の 3 つの文字を加えた 29文字です。多くの言葉はドイツ語かフランス語、のちには英語に由来するものです。ただし多くの場合、スウェーデン語の綴りに変わっています。

2009 年 7 月1 日に新たな言語法が導入され、スウェーデン語はスウェーデンの公用語となりました。それ以前は、すべての行政機関や大半の教育機関で使用していたにもかかわらず、奇妙なことにスウェーデン語は法的には公用語とされていませんでした。新しい法律では、すべての安全の手引きと製品情報をスウェーデン語で記載することと、通常の学校教育においてはスウェーデン語を使用することが定められています。

この法律では、スウェーデンに存在する 5 つの少数民族の言語(フィンランド語、サーミ人のすべての方言、トーネ谷周辺で話されるフィンランド語(メアンキエリ=meänkieli)、ロマ語、イディッシュ語)についても保護しています。これらの語族のいずれかに属する両親を持つ子供たちは、たとえ母国語でないとしても、その言語を学習する権利を与えられています。スウェーデンの手話も少数民族の言語と同様の地位を与えられていて、耳がまったく聴こえない子供や聴覚障害のある子供とその家族は、手話を学ぶ機会を与えられます。

スウェーデン国内で話されているその他の 200 近い言語についても、言語法が適用されます。すべての人は母国語を使用する権利を有すると法律で明言されているため、たとえば職場において特定の言語の使用を禁じることなどはできません。移民の両親を持つ子供は、母国語教育を受ける権利を法律で認められています。ほとんどのスウェーデン人は、母国語を話すことが最も気楽であると感じていますが、英語が堪能で、積極的に話すスウェーデン人は多いのです。

文化&レジャー 43

Caption.Caption.

食文化スウェーデンの料理法はこの10年間で大きく変わりまし

た。かつてはテレビシリーズ『マペットショー』のキャラクターのひとつとして知られるだけのスウェーデン人シェフでしたが、今ではもはや笑いの的ではありません。トップクラスの調理法と、独創的な素材の使い方で、スウェーデン人シェフは世界中で高く評価されています。世界料理オリンピックで金メダルを獲得しただけでなく、非公式のボキューズ・ドール国際料理コンクールでも数々の賞に輝いたのです。世界各地でグルメレストランが開店し、スウェーデンは世界有数のグルメ国となりました。

けれども、シェフだけではありません。スウェーデンで取れる食材も、数々のサクセスストーリーの立役者です。新鮮な魚や、森や大地や山がもたらしてくれるすべてのものが、独創的で環境にやさしい絶品の料理にインスピレーションを与えてくれます。これは、レストランでも家庭でも同じです。スウェーデンでは、自然享受権という独特な権利があるおかげで、誰でも野イチゴやアンズ茸、その他の自然の産物を摘むことができます。家庭でそれらの食材を使ってグルメ料理を作ることはたやすいこと。しかも、まったくお金をかけずにできてしまうのです。

歴史的に見て、スウェーデンの食文化は、食料を蓄えておく必要性があって成り立ったものです。新鮮なベリーはジャムに、野菜は酢漬けにします。キノコは乾燥させ、肉や魚は燻製に。塩漬け、発酵、マリネなど、さまざまに加工しました。多くの若いシェフたちが、これらの伝統的な食料の保存方法を土台にして、ちょっと手を加えると、なんと新しいごちそうができあがるのです。

マーカス・サミュエルソン

1970 年、エチオピアのアディスアベバ生まれ。3 歳の時にスウェーデン人夫婦の養子となる。幼い頃からシェフになろうと心に決めていたサミュエルソンは、1990 年代半ばにニューヨークの有名レストラン“アクアヴィット”で飛躍を遂げた。現在は、ウーメオ大学レストラン学科の客員教授を務めるほか、インスピレーションを与えるような料理本を多数執筆。また、バラク・オバマ米大統領の就任後初の公式晩餐会のゲストシェフにも選出された。2010 年、ニューヨークに自身のレストラン“レッド・ルースター・ハーレム”をオープン。

44 これぞスウェーデン

歴史氷河期からIT時代まで

紀元前11万年頃のスウェーデンは全土を氷に覆われていました。石器時代の初め(紀元前 12000 ~1700 年)になると氷河が後退し、最初の移住者たちがスウェーデンに定住できるようになります。彼らは動物の毛皮を身にまとい、石で作った武器を使って、おもにトナカイの狩猟を行っていました。

青銅器時代(紀元前 1700 ~ 500 年)が始まった頃は、現在よりも暖かい気候でした。余裕のある人々がより優れた銅製の道具や武器を使うようになり、生活が楽になりました。

鉄器時代(紀元前 500 ~紀元 1050 年)になると、最初の書き言葉が登場します。ギリシャ文字とローマ文字をもとにして作られた、いわゆるルーン文字です。また、人々は銅よりも鉄で道具や武器を作るほうが、格段に性能が良く、安いことに気づきました。

そして、ヴァイキング時代の到来です! 紀元 700 年から1050 年までのこの時代の特徴は、ヨーロッパ全域、とくに東方へのヴァイキングの遠征や襲撃が行われたことです。地中海周辺で続いていた騒乱により、交易の場が北方に移り、スウェーデン人は造船技術を利用できるようになりました。農耕に従事する人々や奴隷たちとは異なり、ヴァイキングは自由に移動する人々だったため、おそらく“遠征”に人々を動員しやすかったのでしょう。遠征は、平和な場合もあれば、残忍な急襲となる場合もありました。

ここに、現在に至るまでの1,000 年の間に起きた重要な出来事を、いくつか見ていきましょう。

マルメとコペンハーゲンの間に架かるエレスンド橋2000年に落成し、スウェーデンとヨーロッパ大陸をつないでいる

歴史 45

1008 年ごろ:オーロフ・ショートコーヌングが、スウェーデン初のキリスト教徒の国王となり、初めてスウェーデン王国(スヴェア王国、のちのスウェーデン)全域を統治する。

1155 年:十字軍の遠征により、フィンランドがスウェーデン王国の一部になる。

1248~1266 年:ビリエル・ヤール(将軍)が、女性、家庭、教会、議会の自由・保護に関する、初の全国的な法律を導入。

14世紀

1349 年:黒死病(ペスト)によりスウェーデン=フィンランドの人口の 3 分の 1 が死亡し、長期的な経済衰退につながる。

1300 年代末:スウェーデン=フィンランドの人口が約 65 万人になる。

1500 年代半ば:スウェーデン=フィンランドの人口が 130万人になる。スウェーデンが鉄と銅を輸出。

1593 年:スウェーデン国教会が正式にプロテスタント・ルター派になる。

17世紀

1611年:国王グスタフ・アドルフ 2 世が、スウェーデンで大規模な行政改革を実施。宰相のアクセル・オクセンシェーナと共に国を統治し、スウェーデンの名をヨーロッパに知らしめる。

1617~1658 年:スウェーデンがバルト海周辺で勢力を拡大。1658 年のロスキレでの講和により、スウェーデンは地理的には最も広範な国になる。貧しく未開発な無名の国が、わずか 100 年のうちにヨーロッパの大国となった。

1628 年:軍艦ヴァーサ号が処女航海でストックホルム港を出港した直後に沈没。

1645 年:スウェーデン初の新聞『Ordinari Post Tijdender』紙、のちの『Post- och Inrikes Tidningar』紙が発行開始(世界最古の印刷版新聞、現在はウェブ版のみ)。

1600 年代半ば:全国の人口が 300 万人になる。

1668 年:現存する世界最古の国立銀行、現在のスウェーデン中央銀行(リクスバンケン)設立。

1600 年代末:国旗が国王だけではなく、国全体のシンボルになる。

1391年:聖ビルギッタ修道院の創設者、聖ビルギッタがローマで列聖される。ビルギッタは、当時の女性としては並外れた能力に恵まれ、国王や聖職者に対しても大きな影響力を持っていた。

16世紀

1520 年:ストックホルムの血浴:暴君クリスチャン 2 世が100 人を処刑。

1523 年:グスタフ・ヴァーサが国王に即位。中央集権化を継続する。スウェーデンは統一国家となり、人口が増加。

1527 年以降:スウェーデンはローマカトリック教会からの離脱に成功:宗教改革。

1544 年:王位継承権の世襲制を導入。

スウェーデン南部のアーレの岩巨大な岩のモニュメントなのか、それとも鉄器時代の船の遺跡なのだろうか?

18世紀

1709 年:1700 年に始まった大北方戦争で、カール 12 世がロシアのピョートル 1 世にポルタヴァの戦いで敗北し、スウェーデン大国時代が末期に入る。ルタヴァの戦いで敗北し、スウェーデン大国時代が末期に入る。

1710 ~1713 年:ペストにより、ストックホルム、ヨテボリ、マルメの住民の3分の1が死亡。

1719 年:王権を制限し、政府と国会の役割を明確にした新憲法の制定により、スウェーデンの政治形態は世界で最も民主的となる。

1721年:スウェーデン大国時代の終焉。ニースタード講和条約の締結により、バルト海沿岸の領有権がロシアに譲渡される。

1700 年代半ば:鉄生産と織物産業の好況により、工場や機械を管理するための専門技術が必要となり、ドイツ、デンマーク、オランダ、イギリス、

階級が分担。現代的な意味合いにおけるスウェーデン初のオンブズマンとして、議会オンブズマンが設立される。

1814 年:国 王 カール 13 世の統治下で、ノルウェーはスウェーデンとの同盟を余儀なくされる。1905 年に同盟は解消。

1842 年:義務教育(7 ~ 13歳)の導入。

1800 年代半ば:スウェーデン国民の平均寿命が男性 41歳、女性 44 歳に。男性の平均身長は 165cm。

1850 ~1930 年:130 万人のスウェーデン人がおもに北米に移住する。

1862 年:ストックホルム~ヨテボリ間に幹線鉄道のヴェストラ・スタンバーナン線(西の幹線)が開通。

1864 年:スウェーデンの市場経済の基盤となる通商の自由が導入される。

1876 年:ラーシュ=マグヌス・エリクソンが通信機の修理工場を設立。この工場が、のちに彼の名前を冠した電気通信企業の出発点となる。

20世紀

1900 年代初め:ストックホルム市民の平均寿命が男性 39歳、女性 47 歳(地方では男性53 歳、女性 54 歳)に。大規模な出移民にもかかわらず、スウェーデンの人口は 500 万人を超える。

1906 年:エリクソン社の主要工場が 1,500 人近くを雇用。

1918~1921年:普通選挙権の導入。初めは男性のみ、のちに女性にも認められた。

1932 年:ペール=アルビン・ハンソン首相により、40 年間にわたる社会民主党政権がスタート。“国民の家” の概念が、福祉国家とスウェーデン・モデルを生み出した。

フランスからの労働移民が発生する。

1766 年:スウェーデンが世界で初めて憲法に報道の自由を導入。

1786 年:「スウェーデン語の純粋性、安定性、高潔性を促進する」目的で、スウェーデンアカデミーが設立される。作家は評価の高い職業とされた。

1789 年:フランス革命の 6カ月前に、貴族、聖職者、ブルジョア、農民の平等化が行われ、平民階級に新たな特典が加えられる。農民の政治的・経済的な階級闘争のはじまり。

19世紀

1809 年:1808 年のロシア軍による侵攻を受け、フィンランドがスウェーデンから独立。

1809 年:スウェーデンが立憲君主制国家となり、国王、政府、議会の三者で権力が分配される。立法権は国王と四

46 これぞスウェーデン

ストックホルムのヴァーサ博物館に展示されている引き上げられた軍艦ヴァーサ号

1939 ~1945 年:第 二 次世界大戦中にスウェーデンは中立の立場を保持。しかし、スウェーデンの報道機関は検閲を受け、スウェーデンを通過して占領下のノルウェーまでドイツ軍の兵士と武器の輸送が許可される。食糧の配給制と代替品の利用が始まる。

1944 年:スウェーデン人外交官のラウル・ワレンバーグが、ハンガリーのブダペストでナチスから多数のユダヤ人を救出。戦争末期には、王室メンバーのフォルケ・ベルナドッテが、交渉によりドイツ軍の強制収容所から 21,700 人を解放することに成功する。

1946 年:スウェーデンが国際連合に加盟。ダーグ・ハンマルショルドが 1953 年から1961 年まで国連事務総長を務める。第二次世界大戦後、スウェーデンはヨーロッパの主要産業国のひとつに成長した。

1979 年:世 界で 初 めてスウェーデンが子供への体罰を禁止。

1980 年:女性による(性別を問わない)王位継承が開始される。

1986 年:社会民主党政権のオーロフ・パルメ首相がストックホルムの中心街で暗殺される。

1990 年代初め:不動産バブルが崩壊し、すでに始まっていた不景気と相まって、金融危機に発展。

1995 年:スウェーデンが欧州連合(EU)に加盟する。

1999 年:新しい買春禁止法が制定される。

歴史 47

1969年から1976年、および1982年から1986年に暗殺されるまで

首相を務めたオーロフ・パルメ

2009年、性的に中立な婚姻法が成立

21世紀

2001年(および 2009 年):スウェーデンが EU 議長国を務める。

2003 年:アンナ・リンド外相がストックホルム中心街で暗殺される。

2003 年:スウェーデンで国民投票の結果、ユーロ導入が否決される。

2008 年:議会は、テロ防止の目的で、スウェーデンと国外との間で交わされる電話とインターネットの通信を傍受する権利を国防軍に与える、FRA 法を承認する。

2008 年:新たな労働移民法により、EU および欧州経済領域(EES)圏外と北欧以外の国の住民による、スウェーデンへの移民とスウェーデン国内での労働が簡単になる。

2009年:16~74歳のスウェーデン人の 89%が家庭においてインターネットを利用しており、86%は最低週に一度はインターネットを利用している。

2020 年:政府のブロードバンド政策によると、スウェーデン国内の家庭と企業の 90%が、1 秒間に最低 100 MB の速度で通信可能になる。

※本冊子は、2013 年発行のスウェーデン語版を翻訳したものである。ただし、各データについては最新版の数値を反映している。

スウェーデン北部のオーロラ

スウェーデン文化交流協会(SI)は、海外におけるスウェーデンへの関心を高め、信頼を構築することを目的とした公的機関です。SI は、文化、教育、学術、ビジネスの分野での戦略的コミュニケーションと交流を通じて、外国との協力と長期的な関係を築くことを目指しています。SI の活動は、世界各地のスウェーデン大使館および領事館との緊密な協力により行われています。SI とスウェーデンに関する詳しい情報については、SI.se または Sweden.se をご覧ください。

本冊子の増刷の注文は Swedenbookshop.com まで。同サイトでは、SI が発行するさまざまなスウェーデン関連の資料も見つかります。

本冊子についてご意見がございましたら、ご遠慮なく [email protected] までご連絡ください。

©2011、2014(改訂)リッカルド・ラーゲルベリ、エンマ・ランデッケル、スウェーデン文化交流協会(SI)。本書において述べられている意見は、著者のみがその責任を負うものとします。

写真:表紙 シェスティン・ヨーンソン/アゾテ、p1 ロッテン・ポールソン/フォリオ、p2 ウルフ・ヒューエット・ニールソン、p4ー5 トーマス・ウッツィ、p6 ホーカン・ヨート/ヨネール、p7 ローラ・アキンマデ、p8 ドーリス・べーリング/フォリオ、p9 バーント=ヨエル・グンナション/ノルディックフォト、p11 ケネット・ヘルマン/ヨネール、p12-13 アダム・イーセ/スカンピクス、p14 ウルフ・ヒューエット・ニールソン、p16 レーナ・グラーネフェルト/ヨネール、p17 ヨワン・アルプ/フォリオ、p18 ミカエル・デュボワ/ヨネール、スサン・ヴァールストロム/ヨネール、p19 フェリックス・オデル/リンクイメージ、エステル・ソッリ/フォリオ、p20 レイフ・R・ヤンソン/スカンピクス、p21 マットン・コレクション、p22 SIPA USA/TT、p23 ヴェーネル・ニーストランド/フォリオ、p24 H&M、p25 イェシカ・ゴウ/スカンピクス、p26 Koenigsegg、MyFC、ソールヴァッテン、ハンネス・セーデルンド/Imagebank.sweden.se、マットン・コレクション、p27 ウルフ・ヒューエット・ニールソン、p28-29 イェスペル・フリスク/ロックフォト、p30 アンデシュ・ヴィークルンド/スカンピクス、p31 ピア・リンデンバウム、p32 エンマ・スヴェンソン/ロックフォト、マスカレード、p33 カール・トールボリ、p34 ソフィーア・サベール/Imagebank.sweden.se、フロントデザイン、アレクサンデル・ランデルグレーン、p36 アクネ、p37 セリエル・グリッツ/スカンピクス、p38 ヤン・リプカ/ノルディックフォト、p39 ミカエル・ヨンソン/フォリオ、p40 ヨーナス・インゲシュテット/ヨネール、リーセロット・ファン・デル・メイス/フォリオ、p41 ミカエル・エングマン/ノルディックフォト、p42 ヨーラン・アスネル/ヨネール、p43 サンタ・マリア、p44 ヴェーネル・ニーストランド/フォリオ、p45 ペーテル・イェルデハーグ/フォリオ、p46 ベンクト・ヤンソン/スカンピクス、p47 アンドレアス・ビールンド/フォリオ、アーネ・ヨンソン/スカンピクス、p48 アンデシュ・エークホルム/フォリオ、裏表紙 イルヴァ・スンドグレン

翻訳:山田真琴

グラフィックデザイン:ティピスク・フォルム・デザインビューロー

印刷:有限会社 欧印舎、東京、2015年

ISBN:978-91-86995-51-5 (Japanese)

著者紹介リッカルド・ラーゲルベリは作家・編集者で、成人してからはほとんどの時期を米国とアイルランドで活動してきました。帰国後、母国スウェーデンに対する新たな関心が生まれました。同じく作家で編集者でもあるエンマ・ランデッケルは、フランスと英国で大半の時期を過ごしてきました。彼女が帰国したのは、とりわけ季節の移り変わりが恋しくなったためです。

スウェーデン人は、自分たちの歴史的ルーツに、そしてまた新しいトレンドを世界でどこよりも早く取り入れる国民であることに、誇りを持っています。外国で起きていることに多くの関心を持ちつつも、自分たちが成し遂げたことを誇りに思っているのです。太陽の恵みを享受するために南の国々を訪れることもありますが、なんと言ってもスウェーデンの夏が最高だと誰もが感じています。私たちは外国からの影響を柔軟に受け入れます。けれども、機会均等や人権や持続可能性といった重要な問題については、他の国々に私たちの例を見習ってほしいと思っています。本書では、その考え方を説明し、今日あるがままのスウェーデンを描いています――驚くような部分も、そしてまったく期待どおりの部分も見つかるでしょう。

ここがスウェーデン


Top Related