d.w.winnicott...

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対象の使用 妙木浩之 *この資料(文字のみ)は「フロイト以後100年」ブログサイトに掲載。 http://winnicott.cocolog-nifty.com/psychoanalysis3/ D.W.Winnicott 1896-1971

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対象の使用妙木浩之

*この資料(文字のみ)は「フロイト以後100年」ブログサイトに掲載。http://winnicott.cocolog-nifty.com/psychoanalysis3/

D.W.Winnicott1896年-1971年

『抱えることと解釈』

1955年1月27日から同年7月13日までの間に行われたスキツォイドの男性の治療の記録。「引きこもりと退行」で登場する事例として報告されているものの事例記録。「石化された空間」(カーン)の表現にあるように、母親の完全な養育によって、スキツォイドの男性が、治療空間の中で自由に振舞えるようになっていく。

『子どもの治療相談』児童精神科のなかに開発された治療的なコンサルテーションの事例を、さまざまな形で描いた事例集。スクイグル法が描かれている。この事例の接触方法が、晩年のウィニコットの代表的な技法で、彼は訪ねてくる人たちに、この技法を実践して見せたので、彼の技法は広く子どもの専門家に有名になっていった。

『ピグル』ピグルというニックネームをもつガブリエルという少女の2歳半から5歳2カ月までの16回にわたる心理療法の記録。この記録は、ウィニコットの晩年の最後の児童分析の記録だろうと考えられている。オンディマンド法と呼ばれる技法と、子どもとのセッションを描くことで、ウィニコットは児童分析の新しい方法を提示している。

遊びの理論の周辺:精神分析u Freudはフォートーダ遊びを記述したが、それは対象と欲望の説明のためで、

遊びそのものを理論化しなかった。文化的な活動を精神の基本に据えたが現実的な発展のなかには空想や夢想はむしろ前文化的なものとみなした。

u その後M.KleinとA.Freudの論争が起きて、Klein学は空想や夢想が理論の中心と捕らえるようになった。ただそこでは遊びはそのなかで二次的な議論であった。

u Anna Freudは遊びを重要な道具と捕らえたが、それを理論の中心にはおかず、退行論と昇華の理論が中心だった。自我心理学が述べたのは「創造性」との関連で、「治療的退行regression」、「自我のための自我の退行A Regression in the service of ego」(Kris)あるいは「創造的退行」(Schafer)の理論であった。

u D.W.Winnicottが登場して、「遊ぶこと」をすることとして積極的に捕らえなおして、精神分析の中心にすえた。

児童分析の出発点u Freudの周辺にいたHug-Helmuthは、児童養施設で、

児童分析をはじめた。u 精神分析の祖、Freudの娘Anna Freudは保母だったが、

その仕事を延長として、児童の分析を始めた。u でもFreudが倒れる事件が1923年、Hug-Helmuth事件

が1924年に起きた。u M.Kleinは自分のうつ病を治している間に、精神分析

家になる決意をして、特に子どもの分析を始めた。⇒この二人の論争は、児童分析の大論争になり、そこから新しいWinnicottの視点が生み出された。

Hellmuth事件Freudは、娘が問題を持っていることを1918年代、つまり思春期に発見する。そして彼女を治療的な理由で分析した。Freudは、孤立しやすいAnnaを心配して、いろいろな女性の分析家を紹介したが、その後1923年にFreud自身が倒れ、死にかける。そしてAnnaは彼の秘書のような役割をし始めるが、その折、1924年9月にHug-Helmuth事件がおきる。Helmuthは甥のRudolfによって殺害されていることが発見される。Helmuthは養護施設を作り、子供たちの治療をそこで行っていたので、子供への精神分析への懐疑的な雰囲気がそこで出来上がった。Annaはイギリスに留学して、保母の資格を持っていたが、それに対して慎重な立場をとる。

Anna Freud(1895-1982)1914年にイギリス留学して保母の資格を取り、ウィーンで戻ってから教鞭を取り、1918年に思春期以降の問題が明らかになってきたので、父親から分析を受ける。23年以後、Freudのがんが発覚した後は、彼女が精神分析の秘書になっていく。父親から二度目の分析を受けることで、分析家になる。u 1925年ごろより分析の秘書:児童分析のセミナー25年に

出版u 1936年『自我と防衛』を出版u 1938年にロンドン亡命して、ハムステッドクリニックにお

ける研究 →発達ラインu ハムステッド孤児院における愛着研究⇒今日のAnna・

Freudセンターにつながる。

論争の始まり:1927年英国精神分析協会における児童分析セミナーu 1925年にAnna・Freudがその本でKleinを批判⇒児

童分析は特別な配慮(導入が必要)ベルリンから英国に招聘されていたKleinu 1927年英国協会のセミナーで、Kleinが児童分析につ

いて、Anna・Freudを批判→ロンドン学派対ウィーン学派の対立が生まれる。遊

びについては、双方とも詳しい議論をしていなかったが、実際にAnnaの技法には子供と一緒に遊ぶことが含まれていた。Kleinは、小さなおもちゃを用いて、それを分析に用いた。

発達ラインAnna Freudの研究の中でもっとも重要なのは児童の異常についての発達心理学的な精神分析であった。そのときに彼女が用いた概念として「発達ラインdevelopmental lines」がある。u依存から成熟へのリビドー発達のラインu絶対的依存状態から自立のラインu対象世界における自己中心性から仲間の獲得u移行対象を通じて、遊びや仕事に向かうライン

Melanie・Kleinの仕事

子どもの治療、児童分析のための基本的な技法を開発した。小さなおもちゃを通して展開する遊びを通して、それを解釈していくことで、子どもに無意識的な表現の場所とした。彼女の技法は、今日の児童分析の標準的な技法になっている。『Melanie Klein著作集』が刊行されている。

Melanie Klein 1882-1960

1882年ウィーンに四人兄弟の末っ子として生まれる。4歳時、二姉のシドニー(四歳上)が死去18歳時、父親モーリス肺炎で死去19歳時に婚約20歳時、兄のエマニュエル、心臓発作で死去22歳時、長女メリッサを出産24歳時、第二子(長男ハンス)妊娠時に抑うつ状態27歳時、抑うつでスイスのサナトリウムに二ヶ月静養

32歳時、次男エーリッヒを出産、母親リブッサ死去。ハンガリーで分析家フェレンチィを尋ねる、精神分析を受ける。

36歳、国際精神分析会議でFreudの発表を聞く。37歳「誕生における家族ロマンス」を提出。38歳、アブラハムに出会い、39歳、夫のスウェーデン移住を

契機にベルリンに移住。メリッタはベルリン大学に入学。41歳、ベルリン精神分析研究所の会員

⇒small toy technique42歳(1924) アブラハムとの教育分析開始。メリッタが

シュミドバーグと結婚。43歳、アブラハムの死。妻子あるジャーナリストとの交際、

児童分析のセミナーをロンドンで開く。これを契機にイギリス移住。クラインの仕事を紹介し続ける

ロンドンへの移住によるKleinの発展44歳(1926)、夫と正式に離婚。恋人との破局。ロンドン

に招聘移住。Anna・Freudによる早期分析批判に対してショックを受けるが、すぐさまその反論をイギリスで展開する。彼女の発想は基本的に精神分析を進歩させたという指摘をFreud自身が行っている。

おもちゃ=対象アブラハムの指摘した対象関係早期の不安を解釈すること⇒ロンドンのブルームズベリー・グループ

Small toys

Kleinの発展:抑うつポジション

46歳 「エディプス葛藤の早期段階」50歳(1932)『児童の精神分析』を発表51歳(1933)メリッタとグラウバーとの対立52歳(1934)長男ハンス、タトラ山登山中に転落死「躁鬱状態の心因論に関する寄与」

→抑うつポジションの発見早期のエディプス・コンプレックス

Kleinによる1934(1935)年の「躁鬱状態の心因論」論文

抑うつポジションー抑うつ不安:内的対象internal object

1938年にフロイト家の亡命:移住と対立の激化57歳(1939)戦争のためケンブリッジに転居、元夫アーサー、スイスで死去。58歳、姉エミリー、ロンドンで死去。スコットランドに疎開。59歳、症例リチャードを治療。1941年 Anna Freud-Klein論争がはじまる。⇒感情的な対立が激化していく。

症例リチャードイギリスにおけるクラインの仕事は、多くの人たちに注目されるようになった。なかでも「症例リチャード」は精神分析の有効性を世の中に示した。

4,5歳から興味と能力の抑制、心気症的、抑うつ傾向が強まる。他の子たちを怖がり、外出できなくなった。8歳以降不登校。 1941年4月28日から8月23日までの期間。週六回(時に七回)のペースで行われた、全93セッションの事例である。当初、きわめて前性器的な表現から、Kleinの原光景や早期不安の分析を通じて、次第に統合されていく姿が描かれている。

Freudたちが亡命してくる危機的な状況で戦火のなかで亡命先でKleinが行った精神分析⇒

⇒クライン学派の形成抑うつポジションといった独自の概念

投影と摂取、分裂と否認などの原始的な防衛u 症例リチャードによる良い対象の取り入れu 抑うつの痛みを耐えるためのメカニズム

悪いものを取り入れることの反対が治療であり、それは統合を意味している。

ここで分析の技法は飛躍的に進歩した。部分対象と象徴形成というモデル

⇒おもちゃ 原始的な取り入れその分析 原始的は排出

Klein派の技法的発想転移のプロセスを取り扱うときに、大人の分析手法が、おもちゃと遊びを通して子供にも応用可能であり、その技法を拡張するには、乳児水準でのプロセスに注目する。

1.解釈は食物=良い授乳で、治療者は良い乳房である2.治療者は投影を引き受ける悪い乳房でもある。

Freud-Klein論争の初期の論点1)児童分析における導入期の必要性A.Freud(以下A)=児童は自発的な決心で治療に訪れないし、

病気に対して洞察を持たず、治療への意志を持たない。患者の気分に適応して、分析者を興味ある人物と思わせて、患者にその有用性を伝え、現実的な利益を確認させる「導入期」の必要性

M.Klein(以下M)=その必要性はない。子どもの治療は原理的に大人と一緒である。

2)児童分析における家族の参加A=情報の収集や状態を把握するために、そして教育的な面で

も有用M=家族の葛藤を巻き込むためにマイナス

3)児童の感情転移A=児童分析では治療者は鏡というよりも、積極的に働きかけている

ことが多い。しかも子どもは起源的な対象関係の神経症的な関係を発展させている途上にあるのであって、まだそれは実際の両親との間で現在進行中で、古い版になっていない。そのため感情転移は起こりにくい。

M=3才までに対象関係の原型は作られているので、それ以後においてはすべて起源の神経症を大人の神経症と同様に形成している。感情転移、特に陰性の感情転移こそ治療において重要である。

4)エディプス・コンプレックスA=3-6才の間に形成される。超自我はエディプス葛藤の解決に

よって形成される(攻撃者との同一化)M=早期エディプスコンプレックスの形成。3才までに完成している。

これ以後の子どもは処罰不安を持っている理由はそのためである

5)児童分析での教育A=教育的要素の必要性。児童は現在も自分のモデルを取り入れ

中で、治療者が教育的な視点から「自我理想」であることが重要。

M=分析と教育は違う。早期から形成されている罪悪感や対象関係を深く扱うのが精神分析である。

6)死の本能A=死の本能よりも自我と精神装置を重視M=死の本能を理論の根幹に据える7)解釈A=自我から本能へ。防衛の解釈からイド解釈へM=超自我を緩めるための深層解釈。象徴解釈を多用する。

論争の果実:遊びの視点からu Kleinは独自の分析手法を開発する方向に行った。それはおもちゃを部分対象とし

て扱う可能性にある=遊びの中での象徴や対象の取り扱いを分析できるようになった。その結果空想とは異なる幻想phantasyの分析が可能になり、理論が進化して、「抑うつポジション」「妄想分裂ポジション」といった精神病理解が進歩した。

u Anna Freudは初期の導入は不要だと考えたので、遊びは少なくなっていった、ただ遊びを観察に使うようにはなり、より診断や査定を重視するようになり、一般心理学の発達に関する知見を増やしていった。その結果「発達ライン」概念が明確になり、精神分析が発達心理や乳幼児精神医学の中心を占めるようになった。

u この論争は家族をイギリスに場を移してからは、訓練の問題になり、さらにKleinの家族が周囲を巻き込む感情的な対立になっていったので、Anna Freudは英国協会を脱退して、スイス精神分析協会に所属した。イギリスではこうした対立を納める形で、間に立ち、中間学派が作られるようになった。こうして小児科医であり、精神分析を学んだWinnicottが登場してくる。

Winnicottの理論u彼は小児科医であったために、精神分析治療の利点を知ってい

たが、それがつねにどんな子供にも提供できるわけではないという現実的な視点をもった。

u第二次世界大戦の疎開計画の中で、子供の心をどう守るかということを独自に考えるようになった。

uもともと内的幻想中心のKlein学派から出発したが、そこから環境を含めた子供の全体的なあり方を考えるようになった。そのため晩年の技法はより短期の「精神療法的コンサルテーション」に特化しはじめた。

u遊べること、夢見れることができる可能性空間を重視するようになった。

ウィニコットの理論的発展1. ストレイチーの分析(1923-33)

古典的なFreud的解釈2. Klein派の時代(1935-46)

「躁的防衛」(35)「設定状況」(41)3. 母性的環境仮説の着想(41-46)

定型的な治療構造から疎開計画の体験4. 理論的な進歩(46-51)

環境としての母親、Kleinから離脱5. ウィニコットの臨床的な貢献(52-71)

治療的な技法の定式化→リトル(49-)、カーン(51-66)

精神分析のなかでの小児医学

u児童分析の先駆者たちはほとんどが教育者、あるいはクラインがそうであるように、小児科医ではなかった。例外ボウルビィ、マーラーらuもともと児童精神科の歴史が浅いこともあ

るが、小児科医は一般に忙しく、精神分析の訓練、児童分析の訓練を受けることが難しかった。⇒今も変わらない。

ウィニコットのトラウマu母親のうつ病は、ウィニコットの人生にいろい

ろなところで深刻な影を投げかけている。クラインとの関係でも、一度目の結婚の対象選択でも、そして子どもがいなかったことでも。

u1917年に駆逐艦の医学生として順軍して、第一次世界大戦で多くの友人を失った。

u⇒夢が見られなくなり、精神分析に。

1917年 バーソロミュ病院で医学を勉強していたときに、従軍。(トラウマ)

1920年 病院で働き始める。1923年 アリス・テイラーと結婚。子どもの病

院で働き始める。ストレイチーと分析を始める。トラウマ、夢が見られないこと、そし

1925年に母親が心臓病で亡くなる。生涯、ウィニコットが悩まされる病で。

ここで子どもの病棟をもたない選択をして、外来に特化する。

1927年に精神分析協会の候補生になる。1933年にストレイチーとの分析を終える。1935年 協会のインスティチュートを卒業して、

児童分析のためにクラインからスーパーヴィジョンを受けるために、クラインの息子エリックを治療していた。

1936年にジョアン・リビエールから分析を受ける。1941年に分析を終える。1941年 第二次世界大戦の疎開計画

個人的体験から傷つきやすさの活用という視点からuウィニコットの母親について、多くの証言がうつ病で

あったと語っている。姉たちは結婚していない。u第一世界大戦で仲間を失い、夢を見られないという症状

で精神分析と出会う。⇒分析u最初の結婚相手が、精神障害をもっており、青年期から

成人期をその介護に費やすその後u第二次世界大戦における疎開活動uそこでのクレア・ブリットンとの出会いと不倫

ウィニコットの臨床1:小児科医

1931年『小児科医の臨床ノート』「落ち着きのなさ」

舞踏病の時代に、子供たちの心理的な理由から落ち着かない子供の観察をした。

論争以前の英国、クラインの大きな影響を受けながら、分析を行う。唯一の男性児童分析家。

1935年「躁的防衛」→クライン派の仕事+小児科医としての仕事

1935年よりクラインの息子の分析をし、おおびクラインからのスーパーヴィジョンを受ける(40まで)。→独立への道

1941年「設定状況」⇒クライン学派からの離脱の時期にあたる

母親の謎仮説「母親は抑うつ的であった」

複数の母親たち- 忙しい父67歳の手紙(義理の兄へ)-リトルの証言

1948年「母親の抑うつに対して組織された防衛の観点から見た償い」

治療における環境の位置づけ

ウィニコットのクラインへの見解u乳幼児性の重要な貢献を認める

uメラニー・クラインの解剖語には賛同できない(もちろんポストクライン学派もこれには賛同していない)

u早期不安の解釈は、ある意味では正しいが解釈はそれ以外のものでもある→後述

u母子交流の言葉は母国語であり、専門用語ではありえない(フロイトを読まないウィニコット:精神分析家として)、まして病気ではない。

ウィニコットのメラニー・クラインとの関係uクラインが重症の鬱症状に悩んでいたことは多く

の同時代人が目撃している。ウィニコットは彼女の息子の治療者である。

u再び1948年「母親の抑うつに対して組織された防衛の観点から見た償い」

→彼女との関係が破綻した後に書かれた論文としての意義:独立宣言→51年「移行対象」

uにもかかわらず一定の距離を持ち続け、二番目の妻がクラインの分析を受けることを感受した。

大戦の傷第一次世界大戦で医大生として参戦し、多

くの同僚を失う→PTSD「夢がみられなくなる」という症状

1.精神分析との出会い2.外的環境の内界への影響3.環境欠損の子どもたちのケア(戦火の

なかの疎開計画)

ある反復:発病した妻1923年7月7日 結婚 →発病 「若い頃のウィニコッ

トの精力を使い果たした」(カーン)23-25年に起きた多くの出来事⇒

1. 子どもを作れなかったことと不倫2. 疎開計画への熱意3. 在宅でのケア(反社会的傾向):マネージメント

1955年「在宅で取り扱われた症例」4. Holdingと逆転移の意味の深さ

分析体験:ストレイチーとリヴィエールu1923年結婚後にジョーンズに相談して、「抑制的な若者」であった彼はストレイチィから分析を受け始める。同時にsvもしていた。ストレイチィはしばしばウィニコットがお金の問題を起こすことを憂慮していた。分析は1933年まで続く。1927年に候補生、1934年に精神分析家、1935年に児童分析家になる。ともに準会員。uその後1933年から1938年までリヴィエールに分析を受ける。1936年に英国精神分析協会正会員になる。分析はクラインとの確執のなかで比較的悲惨な終末を迎える。

フロイトをドイツ語で読まないことuストレイチィという分析家がしばしばウィニ

コットにフロイトを読むことを進めたらしい。だが彼はあまり読まなかった。

u後にクラインへの手紙(1952年)の中でクライン学派の組織に苦言を呈して、自分の言葉で表現することを求める。自分であることpersonalの意義を求め続ける。

u母子の原初的な交流は母国語か、普遍語かウィニコット:母国語が臨床語である。

言語臨界期:三歳から八歳

夢分析の歴史の中でu夢分析の研究の歴史の中で彼のオリジナ

リティは、1.夢をみるキャパシティがある2.夢は語る人がいる(怖い夢を語る子供の

親)3.治療者は、患者の侵襲に対して、反応し

て夢を見ることがある。それを理解することで情緒的に次の段階へ進める。

逆転移のなかの夢……たとえ想像上であっても,私が彼女の身体

とまったく何の関係も持たないことを要求していた。彼女には自分のものとして認識される身体がなく,仮に彼女が存在するとしても,自分自身が単に心だけだと感じられたであろう。…彼女が私に要求していたのは,彼女の心に話しかける心だけを持つべきだということだった。

「逆転移における憎しみ」(1947)

ウィニコット独自の仕事:発達の理論

1945年「原初の情緒発達」1) integration2) personalization3) realization

最初は病気ではない=無統合unintegration↓

陰性のものがすべてではない。無慈悲な段階(思いやり以前)→現実適応

攻撃性は天性のものではないu最初子供は無統合で、Motility(運動性)が中心

である。だから相手のことよりも、運動性が前面にあるので、環境からは、陰性の無慈悲な状態に見える。だがそこで母親は母性的な機能によって、それを抱えるので環境によって、攻撃性に見えるだけである。u陰性のものの裏側には、環境への期待があり、

環境側はそれを逆転移によって耐えることが必要になる。

ウィニコット独自の仕事:環境論へ1948年「母親の抑うつ」1950年代→ マネージメント

1952年「症状の容認」分析体験の完成

1947年「逆転移のなかの憎しみ」クラインからの離脱と自分のあり方

1951年「移行対象論」⇒環境と内的世界のパラドクス

赤ん坊というものはないu「赤ん坊」という存在はない。赤ん坊

と母親(養育者)は対であり、乳母車があれば、そこには母親がいる。u精神病は、無統合な時期の環境欠損病

である。u早期の失敗を補うには、母性的な機能

の必要な段階への退行が必要になることがある(精神病性の転移:リトル)

母親的な没頭 maternal preoccupation

母親的機能uHoldinguHandlinguObject-presenting

母親や養育者に備わっている本能の解除によって生み出される。→精神病的なものに対する治療技法

クラインとウィニコットとの亀裂フロイト-クライン論争後

u中間学派を選択した人たちの意思uウィニコットの臨床実践と理論がクラインの

それと異なっていた↓(46年~51年)

1951年「移行対象」論文攻撃性の直接解釈を二次的なものにした

ウィニコットとクラインとの相違u分裂妄想ポジションは存在しない。

病的な表現は原初の母子関係を正確に記述していない。無慈悲な時期は存在するが、それは環境がほど良ければ自然に統合される。

u死の本能はない。子ども時代にあるのは運動性であり、そ

れが対象を見出せないときに、攻撃的、破壊的なものとして表現される。

u乳幼児期は健康な環境のなかでは、不安に満ちていない。発狂や精神病は環境欠損病である。

小児医学から精神分析へ1941年「設定状況における幼児の観察」

舌圧子

医師

母親と子ども

第一段階驚きから「ためらい」の段階

第二段階欲望を受け入れて、口で噛む、空想する遊べる段階

第三段階捨てられる。放っておいても大丈夫な段階

生後5ヵ月から13ヵ月(13ヵ月過ぎると幅が広がる)に典型的なやりとり。

小児医学から精神分析へ「児童部門のコンサルテーション」(1942)「小児医学と精神医学」(1948)

小児医学に精神分析は必要だが、現実には全部の子どもに行うことができない。「小児医学における症状の容認:ある病歴」(1953)「在宅で取り扱われた症例」(1955)

別の方法を考える⇒マネージメント

移行対象1951年「移行対象と移行現象」

生後4、6、8、12ヶ月に発見される最初の所有物

1952年「精神病と子どものケア」中間領域と移行対象の理論、そして精神病↓

1. 枠組みと治療空間、間の体験2. スクウィッグルと相互作用3. 内と外、パラドックスの発見と理解

間の体験とパラドックスu錯覚の瞬間 illusionment

二つの線が出会うことで空想と創造が行われる中間領域が出来る。

u脱錯覚の領域 disillusionment徐々に失敗することで間が作られる。

交流することと交流しないことu一人でいられる能力 capacity to be

alone無慈悲から思いやりの段階への発達

u偽りの自己の形成環境からの侵襲に対して組織される自己

u交流する領域と一人の領域交流と内省

治療相談therapeutic consultation精神療法面接とは異なる技法

二三回あえば治る症例に対するもので転移と抵抗を扱うよりも間の体験のなかでクライアントのニードに合わせた体験を提供する。

uスクィグル技法uオンディマンド法u在宅などの環境の活用

症例ルース 8歳u父親が相談に来た。相談は二つ。ーっは,三人の子ども

のうち真ん中の娘が学校で盗みをするようになり.これに伴って彼女の性格が変わり隠しごとをしたり,こそこそするようになったことである。そして学業成績はさがり,学校は彼女の転校を求めてきた。もう一つは,仕事をやりながら家族の世話もしてきたこの人が,妻の病気の管理に混乱するようになったことである。彼の妻は三つの病気をもっていて,そのため彼は三つの病院状況にかかわっていたが,どういうわけかその3病院のソーシャルワーク部門聞のコミュニケーションが欠如していた。

1.主観的対象としての医師2.オンディマンドの対象として治療者3.枠組みとして面接室を使う

⇒ルースはすぐにくつろいだ。彼女は,姉のことや,学校に通っている妹のことを話してくれた。彼女は私のところに来るために学校を休んだことを,それほど気にしていないと言った。学校に出ていたとしたら国語の授業を受けているはずだった。彼女はゲームをやろうという私の提案を受け入れた。そこで,私はスクイグルを描いた。

遊びは交流の枠組みを作ることから場を作る⇒u子供は自分の問題(痛みや苦しみ)をもってくる。u治療者はそれを一緒に見る(共視論)という関係の中

で、子供の情報を聞き、アセスメントする(兄弟)u治療者との間に交流を生み出す。u彼女は自分の問題を象徴的に語る(乳母車=母子一

体)u場を作るためには、環境に配慮する(ゼラニウム)

交流にはズレと一致とが生まれるuコミュニケーションにおける一致とズレは最近の

関係的精神分析で発見されたことだが、ウィニコットははやくから、ここに交流する側面と交流しない側面があることを知っていた。⇒一人でいられる能力 capacity to be alone

無慈悲から思いやりの段階への発達偽りの自己の形成

環境からの侵襲に対して組織される自己交流する領域と一人の領域:交流と内省

関係の指標(交流の領域と言語化の領域)u ウィニコットは「信頼の確立」と解説している。u 治療関係での同調tuning inによって、主題が一致していく、それは同

時に内側で起きていることにアクセスするための機会u 信頼という枠組みと攻撃的な関係性という内容は一種のパラドクスだ

が、それが遊びのなかで可能になっていく。⇒この結果私は大胆になり,作為的にメチヤメチャのスクイグルを描いた。彼女はその周囲に桶を描き加えて.それが桶に入っている水となるようにした。ここにはパーソナルな空想がみられ,私はルースの夢の世界に近づくことができるようになった。彼女が夢を見る時これと似たものの夢を見たことがあるかどうか尋ねた。彼女はテレピでなら見たことがあると言ったが,その時見たのは穴の聞いた桶に入っている魚だった。私は夢というアイデイアを諦めないで「おかしな夢とか,恐ろしい夢はどうかなJと訊いた。ここで,彼女の話題は夢生活に切り替わった。「私の夢ほほとんど同じなの。毎晩夢をみるわ。Jこの夢を図にして説明するために,彼女は大きい紙を1枚取った。

混乱=カオスから夢の入り口15)大昔の船が水とともにやってくる。「妹が腕に抱かれている赤ちゃんだった時,私は走っていたの。それはお母さんが脚を悪くする前だったの。水が押し寄せて来ているの。私はいろいろな品物や,赤ちゃんのベビーフードを持っているの。赤ちゃんのために,ベビーフードを他の品物と一緒にしておいたのね。夢は良い終わり方をしたのよ。お父さんが自動車で帰って来て,車庫にバックで入れたの。お父さんが船に体当たりして,船を粉々に壊したの。すると,水が全部引いていったの。こんなふうに夢は良い終わり方をしたの。」父親が帰って来てその状況を救ってくれるまでの。この夢の中間の部分の叙述には,かなりの不安がみられた。⇒夢のなかで繰り返される「外傷」

夢の悪いヴァージョンこの夢は楽観的で,結末はすべてうまくいっていた。だから,同じ夢の悲観的な表現形がどこかにあるはずだった。私にはこれが必要だ、ったので,ルースに最悪の場合を描くように頼んだ。(16)

再びルースの描いた絵。この絵には,赤ん坊を抱いた母親が現われているが,ルースは描きながら自分で驚いていた。「あれ,すごく小さいチピだ。」彼女は,自分の後ろにある海には,赤ん坊を縮ませる毒が入っている,と言った。母親も縮んでしまうのだろう。「あっ見て.私,どんどんお母さんから離れていくわ。」この絵は,ルースの分離の最も深刻な領域と,絶望感の出現を直接的に見せてくれているとウィニコットは言う。

遊びの交流の場:スクィグルの特徴u 治療者のほうが子供たちよりもなぐりがきが上手で、子供のほうがたい

てい絵を描くのが上手である。u スクィグルには衝動的な動きが含まれている。u スクィグルは、正気の者が描いたのでない場合には狂気じみている。そ

のためスクィグルが怖いと思う子供もいる。u スクィグルは制約をつけることはできるが、それ自体は制約のないもの

である。だからそれがいたずら描きだと思う子供もいる。これは形式と内容という主題に関係している。用紙の大きさと形がひとつの決め手となる。

u それぞれのスクイグルにはある統合が見られるが、それは「私」の側にある統合から生じるものである。これはよくある強迫的統合ではない。よくある強迫的統合には混沌の否認が含まれていると思われるからである。

u ひとつのスクィグルのできばえは、それ自体が満足のいくものであることが多い。そういうのは例えば、彫刻家が石や古い木片をひとつ見つけて、手を加えずに一種の表現としてそれを置いたような「見出されたオブジェ」のようなものとなる。

治療相談の臨床u子どもは前もって、医師に合うことを期待してくる。

しばしば医師の夢を見ている。⇒主観的な対象としての医師

u治療の中で、お互いをすり合わせるtuning inのプロセスがある。

uカオスが示されて、そのなかに「何か」がある。u夢を語る場としてコンサルテーションu良い夢ではなく最悪のバージョン(悪夢は語ること

で悪夢ではなくなる)

遊びの理論Donald Winnicott(1896-1971)u 遊ぶことにひとつの場所を与えるために,私は赤ちゃんと母親のあいだ

の可能性空間を仮定した。この可能性空間は,母親あるいは母親的人物との関係における赤ちゃんの生活体験によつて実に大きく違ってくる。そして私は,この可能性空間を以下の二つと対比した。(a)内的世界(心―身のあいだのパートナーシップに関連している)と,(b)実際のあるいは外的な現実(それ自体の諸側面を持ち,客観的に研究することができ,どんなに観察する側の個人の状態によって変化するように見えても実際に恒常的に存在し続ける)である。

u 心理療法は二つの遊ぶことの領域、つまり、患者の領域と治療者の領域が重なりあうことで成立する。心理療法は一緒に遊んでいる二人に関係するものである。以上のことの当然の帰結として、遊ぶことがあり得ない場合に、治療者のなすべき作業は、患者を遊べない状態から遊べる状態へ導くように努力することである。(ウィニコット『遊ぶことと現実』)

ウィニコットの移行対象(1951)u4ヶ月、6ヶ月、8ヶ月、12ヶ月まで

にあらわれ始める、私でない所有物。u乳房、内的対象との関係がある。u現実検討の確立に先行する。u全能的、魔術的操作から巧みな操作統

制へuフェテシズムに発展することがある。

錯覚と脱錯覚u母親ははじめ100パーセント、母性的没頭に

よって、適応して、幻想を生み出す機会を幼児に与える

u一次的創造性と現実検討に基づく客観的知識の間に領域が存在し、程よい母親はそれをかかえる。自分の創造能力に対応する外的現実があるのだという錯覚を与える。ここで対象が内的か外的か問わない。共有体験。

u次第に外的現実が母親の徐々に失敗することを通して、体験される。

gradual failure of disillusionment

転移関係のなかでの治療者の失敗の意義(ウィニコットの知恵)

u抱える環境とその失敗によって生まれるズレの意識が生まれるということではなく、むしろ「徐々に」という点が重要であると思う。uこれをめんどくさいと感じたり、焦ったりしな

い態度を維持する治療者(母親)uDurable therapist(mother)

Winnicottの発達モデルIllusion →母性的没頭

absolute dependenceHolding -- integrationHandling -- personalizationObject-presenting -- object-relating

統合が達成される (realization)Disillusionment →ほど良い母親

gradual failure -- relative dependencetoward independence

心-その精神身体との関係(1949)u最初の「落ち着きのなさ」や小児医学の論文

の中に見られる精神身体と心の発想u心は精神身体に住み込むという発想が心と身

体との関係を示唆している。uMindがpsycho-somaとの関係を、出生から偽

りの自己の形成を含めて、その関係が取り扱われる。uMindには心配という意味がある。

『心その精神身体との関係』(1949)

Psycho-soma

MindDeweling-in

中間領域の臨床u中間領域を間に置けるようになることで、

一人でいられる能力を持つu外傷が乖離によって精神身体からはみ出し

てしまうときに、中間領域のなかで、心が場所をもてるようにすること。uズレと一致の間に、その人の心が場をもて

るようにすることで、交流する領域(偽りの自己)と交流しない領域(本当の自己)が生み出される。

ウィニコットの第二次世界大戦uClare Brittonとの出会い(1944)と

結婚(1951)u疎開計画のなかで発見された愛情剥奪

と「反社会的傾向」uクレアとの出会いによってソーシャル

ワーカーや多くの抱える環境を重視するようになる。BBCなどでの講演会ほか。

ウィニコットは1943年時点で、心理治療的な仕事においてチームワークは悪いと述べていたが、しだいにその意見を変えていくことになる。1946年10月 ウィニコットはクレアに次のような手紙を書いている。「私の仕事はまったくのところ貴方と関連しています。私に対する私の影響は私を鋭く、生産的にしますし、これは実に恐ろしいほどなのです。貴方と離れ離れになると、私はあらゆる行動、独創性が麻痺してしまう感じなのです」。

クレアとの出会い

1945年 遊べない子供という論文→『遊ぶことと現実』

1946年里子に出す子供にとって移行のために所有物が

重要であると発見した。→移行対象論1954年

子供ケアサーヴィスにおけるケースワーク技法という論文でholdingの重視

→ウィニコットに取り入れられるウィニコットはManegementという言葉とソーシャルワークをしばしば結びつけて語っている。

クレアがウィニコットに与えた影響

ウィニコットの概念:反社会的傾向

u盗みで始まって、反社会的傾向によって、行為障害などにいたる臨床群

:原因は愛情剥奪にあり、彼らの中核に愛情剥奪コンプレックスがある。

→施設をはじめとして、マネージメントの問題がもっとも深刻な事例である。

Clare Britton Winnicottの仕事

uウィニコットの概念を流布u子供たちの内的体験を理解するu子供とコミュニケーションする技術uクライエントの人生のなかでの「移行的参与者

transitional participant」としてのソーシャルワーカー

u治療プロセスで重要な他者を投入するu援助関係における逆転移反応

精神分析家として働くとき1.狂気恐怖が情景を支配しているとき2.偽りの自己が成功をおさめていて、分析をしていけばある時期にはこれまでにつくりあげられていた見せかけの成功や才気闊達さなどが壊れてしまいそうなとき、3.患者の中に反社会的性向、攻撃的なかたちをとるもの、いずれにしても母性愛剥奪の遺産であるとき、4.文化的生活が認められないとき、つまり内的な心的現実と外界の外的現実に対する関係、その二つの結びつきがうすいとき5.病んだ両親像が情景を支配しているとき

母親と家族の鏡としての役割(1968)u主観的対象の段階では、二人は融合しているので

赤ん坊は母親の顔に自分の顔を見ることになる。u移行対象の段階では、ほど良い母親によって養育

されていれば、母親の顔は自分の顔であると同時に母親の顔である。

uほど良くないと、早期の脱錯覚が起き、母親の顔は母親の顔にしか見えない。まなざしは自分の見てくれないので自分の姿を見いだせない。想像力でそれを補う。

u想像力による練り上げが自己愛として環境から閉じこもって、自分の世界に孤立する。ウィニコットにとっては、これが二次的な自己愛である。

u客観的対象の段階では、普通に発達した子ども赤ん坊にとっては、母親の顔は母親の顔であり、自分の顔は自分の顔として鏡に映ったものと見ることができる。⇒一次的自己愛は、万能感との関連で融合している状態のことである。

「遊び」と創造性u間にある遊びの空間

主体 対象

偽りの自己と本当の自己偽りの自己(患者によっては世話役の自己)

はうその患者の分析作業開始の最初の二三年は取り扱わなければならない。

uそれは健康から病理まであるが、本当の自己を防衛するために存在する構造である。

u偽りの自己が知性を利用すると、簡単に人を欺くことができる。迎合と妥協の場になる。

ウィニコットの夢の臨床理論

u患者に対して主観的対象であることが臨床家の仕事である:期待と希望

u夢は語ることで、無意識の外傷的体験の入り口になる:聞き手がそれを抱える

u夢で語ることの前に示されること、そしてそれを受け止めることが優先される:表現そのものの直接性

u早期の外傷へ到達することができる

遊ぶこととは何か彼はしばしば夢と遊びを同じこととして述べた。1. 遊ぶことは,本来創造的なものです。2. 遊ぶことは,いつも興奮を伴うものです。というの

は,主観的なものと客観的に知覚されるものとの聞の不安定な境界の存在を,取り扱うものだからです。

3. 遊ぶことは,赤ん坊と母親像(mother-figure) との聞の潜在的な空間で起こります。この潜在的空間は,母親と一体化している赤ん坊が,母親が分離していくと感じるときに,十分考慮されなければならない変化とかかわりがあるのです。

4. 赤ん坊が,実際に分離してしまうことなく分離を体験しなければならないときに応じて,この潜在的空間のなかで遊ぶことが展開します。このことが可能となるのは,母親と一体化している状態が,母親が赤ん坊の要求に応じることで置き換えられるためです。つまり遊ぶことの始まりは,母親像を信頼するようになった赤ん坊の生活体験と関連しているのです。

「なぜ子どもは遊ぶのか」(1968)遊べない大人がいるなら、遊べるようにする設定や

構造を提供することが精神分析になる。

「強迫症」を生み出すものu対象aと主体の世界

主体

対象a

強迫の穴

「あい間」を生み出すもの

主体 対象

「ヒステリー」を生み出すもの

対象ヒステリーの穴

対象a

「移行対象」を生み出すものu間にあるsmotherやattachmentの空間

主体 対象移行対象

可能性空間(対象a)

スクリーン・モデル(共視論)⇒見るなの禁止から一貫した交わりのモデル

Th Cl(x)

対象 主体

スクウィッグルの活用u舌圧子と同様に媒介物なので、治療者は

観察能力を維持できる。u相互に交流する領域で、治療者の解釈を

子どもに与えて、それに対する反応を(象徴的)対象としてみる。

uなぐり描きに示される欲動的な動きからu夢(本当の自己)への入り口として活用

される

依存への退行と解凍

u分析設定のなかでの転移関係として生じるのは依存への退行である(依存への退行と退行した患者とは違う)。

u環境としての母親はかつて融合(子供が母親を空気のように感じる)状態と呼んだものであり、対象としての母親とは出自が違う。抱えることのなかに自我組織がある。

u考えない記憶には、外傷が凍結されていて、そこには自我組織がある。

依存への退行退行には二つある。一つは早期の失敗状況に戻ることであり,もう一つは早期の成功した状況に戻ること…環境の失敗状況が問題となるような症例でわれわれが目にするのはその個人によって組織化された個人的な防衛の証しであり,これは分析を必要とする。より正常な,早期の成功した状況を有している症例でわれわれがよりはっきりと目にするのは依存の記憶であり,それゆえわれわれは個人的な防衛の組織よりはむしろ環境の状況に出会う。

分析家の失敗の意義この新しい環境にとって,分析家の失敗は重要な要素である。それは転移,すなわち早期の失敗状況の再演(re-enactment) のなかで生じなくてはならない。よって分析家の失敗は,上演(enactment)であり,適切なタイミングで生じる必要がある。しかしながら,患者にとっての癒しの効果を持たせるためには,分析的枠組みがいったん確立した後においてのみ生じる。

失敗による成功限定された文脈では誤解されていることに耐えなくてはならない…。今や患者は分析家を失敗,元は環境の要素から生じた失敗のゆえに憎むが,その失敗は幼児の万能的コントロール外のものだったものが,それは今は転移のなかで演じられる。それゆえ,最後には私たちは失敗する一患者のやり方に失敗する一ことによって成功するのである。これは修正体験による治癒という単純な理論とはかなりかけ離れている。

「対象の使用」論文(1968)u1968年11月にニューヨークで読まれた論文で、彼

の論考は、当時のニューヨークの分析家たちにはよく理解できず、彼が失意の元に、肺炎を発症して、帰国後に亡くなったという伝説がある。

「20年前の私の精神分析的体験からは出てこなかった」「転移の動きを可能にするような技法」「技法と設定への患者の信頼が増してくることから生じる自然な進展をあせらずに待つことや、解釈してこの自然な過程を断ち切ったりしない」

待つこと⇒解釈をひかえて、自分の限界を示すために解釈すること

対象と関係すること/使用u効果的であるためには、分析家を主観的現象の領域の

外側に位置づける患者の能力=分析家を使用する患者の能力に関与する

「対象は使用されるためには、必ず、投影の集まりではなく共有された現実の一部であるという意味においてリアルでなければならない」「関係することは個人の主体という観点から記述できるが、使用のほうは、対象が独立して存在していることの受容、つまりそれまでもずっとそこにあったという属性の受容と言った観点からでなければ記述できない」

主観的投影、空想対象を破壊して生き残るu「対象を使用するためには、主体が、対象を使用

する能力を発達させていなければならない」「主体が主体の万能的コントロールの領域の外に対象を位置づけることである」

u「主体は主観的対象(投影素材)を破壊しないが、他方対象が客観的に近くされて自律性をもち「共有された」現実に属している限りにおいて、破壊性が現れて中心的な特徴になる(難しい)」

u「生き残る」=「仕返しをしない」

対象の使用のプロセス1. 主体は対象に関係する2. 対象は主体によって世の中に位置づけ

られるのではなく、発見されるプロセスにある

3. 主体は対象を破壊する4. 対象は破壊を生き残る5. 主体は対象を使うことができる

精神分析の治療目標(1962)

u Keeping Aliveu Keeping Wellu Keeping Awake

精神分析することと精神分析家として働くことは異なる。

解釈とはu治療上重要なのは、私の才気ばしった解釈の瞬間ではなく、

子どもが自分自身を突然発見する瞬間なのです。『遊ぶこと』

u一方には…患者にされる素材は理解され解釈されるべきものとなる。他方には以上の内部で遂行される設定がある。「メタサイコロジカル」

u今話されている患者の材料の中にある流れが、言語化を必要としているのだと分析家は感じるのである。分析家が言葉をどう用いるかが重要であり、それゆえ解釈の背後にある分析家の態度が重要なのだ。。。。解釈の内容とともに言語化の裏に潜む態度も重要であって、こうした態度がニュアンス、タイミング、さらに詩の多様性に比しうるほどのさまざまな形で現れている..『赤ちゃん』

u私はいつも解釈の重要な機能とは、分析家の理解に限界があることが明示されることにあると感じている。「交流すること」

u創造的な広がりが生じてくるような休息状態にいたることができるようにすること

u患者の遊び能力、つまり分析作業において創造的である能力を許容してほしいという懇願である。患者の創造性は、知りすぎる治療者によっていとも簡単に奪われ得るのである。『遊ぶこと』

u舌圧子に似たものとして解釈u精神分析の設定全体が一つの大いなる保証である、特に分析家

の信頼にたる客観性と行動、そして瞬間の情熱を無駄に食い物にするのではなく、建設的に使用する転移解釈がそうだ。

精神分析的であるときuその個人固有の同一性を失わずに、患者に

同一化する能力をもっていることu患者の葛藤を受け入れるcontainする能力

を持っていること、言い換えると、患者の葛藤を受け容れ、治療法を必死に外に探し求めるかわりに、患者の中で、それらの葛藤が解決されるのを待ってあげられる能力をもっていること

u患者の挑発に乗って、仕返しをする傾向のないことなど