八重山の民俗と国家体制 : ウムトゥ山の神の神話と聖地 の変...

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Title 八重山の民俗と国家体制 : ウムトゥ山の神の神話と聖地 の変遷に焦点を当てて( Text_全文 ) Author(s) Radulescu, Alina Alexandra Citation Issue Date 2017-03-24 URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/36685 Rights

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  • Title 八重山の民俗と国家体制 : ウムトゥ山の神の神話と聖地の変遷に焦点を当てて( Text_全文 )

    Author(s) Radulescu, Alina Alexandra

    Citation

    Issue Date 2017-03-24

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/36685

    Rights

  • 八重山の民俗と国家体制

    ―ウムトゥ山の神の神話と聖地の変遷に焦点を当てて―

    平成28年

    琉球大学大学院 人文社会科学研究科 比較地域文化専攻

    Rădulescuラドゥレスク

    Alinaアリーナ

    -・

    Alexandraアレクサンドラ

  • - 1 -

    目次

    目次 ............................................................................................................... - 1 -

    序章 課題設定 ............................................................................. - 3 -

    1.民俗と国家体制をめぐる問題 ................................................................ - 3 -

    2.首里王府体制下における八重山の祭祀 ................................................. - 8 -

    2.1.「オヤケアカハチの乱」 ............................................................................... - 8 -

    2.2.神女組織の成立....................................................................................... - 9 -

    2.3.祭祀の規制 ........................................................................................... - 15 -

    2.4.火の神 ................................................................................................. - 17 -

    3.ウムトゥ山の祭祀を取り上げることの意義 ............................................... - 22 -

    第1章 『琉球国由来記』のウムトゥ山の神と八重山の口頭伝承 .............. - 27 -

    1.1.『琉球国由来記』とその編纂過程 ...................................................... - 27 -

    1.2.名蔵村の三御嶽の由来譚 ............................................................... - 31 -

    1.2.1.『由来記』の由来譚とその変遷 ................................................................ - 31 -

    1.2.2.三姉妹神話のギリシャ神話的要素 ........................................................... - 37 -

    1.2.3.ウムトゥ山の神が拝まれる聖地 ................................................................ - 40 -

    1.3.宮良村と白保村の御嶽の由来譚と村での口頭伝承 ............................. - 42 -

    1.4.『由来記』に見られるウムトゥ山の神と関わる記述の特徴 ........................ - 46 -

    第2章 『球陽』にみるウムトゥ山の神と八重山併合 ............................... - 50 -

    2.1.首里王府の史料編纂事業と『球陽』 ................................................... - 50 -

    2.2.「オヤケアカハチの乱」とかかわる記述 ............................................... - 51 -

    2.2.1.君南風とウムトゥ山の神の「オヤケアカハチの乱」との関わり .......................... - 51 -

    2.2.2.『球陽』と『おもろさうし』にみられる八重山併合の正当化の論理 ..................... - 54 -

    2.3.宮古と八重山の関係をめぐる記述 ..................................................... - 59 -

    2.4.『球陽』に見られるウムトゥ山の神と関わる記述の特徴 ........................... - 62 -

    第3章 離島の御嶽の伝承にみられる島の富裕層とウムトゥ山信仰との関わり ... - 64 -

    3.1.八重山の身分制と文化 ................................................................... - 64 -

    3.2.竹富島の島建て神話 ...................................................................... - 68 -

    3.2.1.島立て神話の性格とその類話 ................................................................ - 68 -

    3.2.2.島建て神話とかかわる御嶽 .................................................................... - 70 -

    3.2.3.「村御嶽」としての清明御嶽 .................................................................... - 72 -

    3.3.黒島のウムトゥ山の神の来臨と関わる伝承 .......................................... - 76 -

    3.3.1.黒島の御嶽とウムトゥ山の神の来臨 ......................................................... - 76 -

    3.3.2北神山御嶽とウムトゥ山の神の信仰の伝播 ................................................. - 78 -

  • - 2 -

    3.4.離島の富裕層の祭祀との関わり ................................................... - 82 -

    第4章 民衆側でみられる「水元」としてのウムトゥ山とその祭祀 ................. - 86 -

    4.1.八重山の雨乞い祭祀の特徴........................................................ - 86 -

    4.2.水元としてのウムトゥ山 ................................................................ - 91 -

    4.2.1.八重山の雨乞いと「水元」・「シキ元」 ..................................................... - 91 -

    4.2.2.四箇村の「大シキ拝み」とウムトゥ山 ...................................................... - 93 -

    4.3.雨乞い祭祀にみられる八重山の島々の関係 .................................. - 96 -

    4.3.1.離島のウムトゥ山とかかわる雨乞いとナルンガーラ ................................... - 96 -

    4.3.2.雨乞い祭祀と創世神話 ...................................................................... - 99 -

    4.4.首里王府と雨乞い祭祀 ............................................................. - 101 -

    4.4.1.国家的祭祀と民間祭祀としての雨乞い ............................................... - 101 -

    4.4.2.大阿母と雨乞い祭祀 ....................................................................... - 105 -

    第5章 ウムトゥ山に対する意識の複合的な性格 .................................. - 108 -

    5.1.実生活におけるウムトゥ山の神との関わり ..................................... - 108 -

    5.1.1.産育儀礼 ...................................................................................... - 108 -

    5.1.2.家畜願い ...................................................................................... - 111 -

    5.2.民衆側の神観念と首里王府の神観念の並存がみられる聖地 .......... - 115 -

    5.2.1.平得の地城御嶽 ............................................................................ - 115 -

    5.2.2.宮良の山崎御嶽 ............................................................................ - 116 -

    5.2.3.崎枝の崎枝御嶽 ............................................................................ - 119 -

    結論と展望 ................................................................................... - 125 -

    参考文献 ..................................................................................... - 134 -

    付記 ............................................................................................ - 142 -

    写真資料 ..................................................................................... - 143 -

    謝辞 ............................................................................................ - 165 -

    注釈 ............................................................................................ - 166 -

  • - 3 -

    序章 課題設定

    1.民俗と国家体制をめぐる問題

    本論文は、八重山の民俗宗教の最も重要な要素のひとつとして位置づけられてきたウムト

    ゥ山の神と関わる神話と聖地の変遷を明らかにすることが目的とする。首里王府の史料で記さ

    れているウムトゥ山の神と関わる神話は、首里王府による八重山併合を正当化する装置として

    の性格があり、ウムトゥ山の神と関わる祭祀の変遷過程を理解する上で、国家体制と民俗との

    関係は考慮すべき問題である。そのため、本論文の課題に入る前に、民俗と国家体制という

    問題を研究史の中に位置付ける必要がある。

    民俗と国家体制という問題に関しては、最新の研究として赤嶺政信の久高島に関する研究

    (赤嶺, 2014) があるが、長きに亘って沖縄の民俗学において充分に取り上げられなかった問

    題であるといえる。歴史学の分野では、この問題について比較的に早い時期から議論が始ま

    っていたので、歴史学での動向をみていきたい。

    まず、この問題を取り上げる際に、安良城盛昭の研究が注目に値する。安良城は、民俗学

    や文化人類学の分野での社会的現象の歴史性に対する無関心を厳しく批判した。以下の主

    張はその姿勢の代表的なものであるといえる。

    前近代の琉球社会は、一つの連続した質的には転換のない社会とみなすべきなのか、それ

    とも質的に転換があったのか、という問題であります。私は歴史学にとっての隣接科学の諸研

    究に精進しているなどと、口はばったいことを申しませんが、隣接科学の沖縄研究に接して

    いる歴史家として疑問を感ずることがしばしばあるのです。というのは、民俗学・民族学の沖

    縄研究を拝見していますと、前近代の琉球社会を質的に連続性のあるひとつのある社会で

    あるとみなした論議が多々みうけられるように思えるからであります。つまり、前近代に起因す

    ると思われる現象にぶつかると、固有信仰でも何でもいいですが、廃藩置県以降に新しく起

    こったのではない、前近代の、しかも起源の時期がはっきりはわかっていない現象を見つけ

    ると、当然それはずっと昔から琉球社会に存続し続けて現在に至っている、という理解を前

    提して研究が進められている場合によくぶつかるからであります。ところが、この理解が間違

    っているのではないか、と私は思うのです。前近代の琉球社会は確かに停滞的な社会では

    ありますが、その中でもやはり大きな質的な転換点はあったのであります。

    (安良城, 1980: 13)

  • - 4 -

    安良城のコメントは民俗と国家体制という問題に直接に触れていないが、民俗学の歴史に対

    する無関心を批判している。安良城の研究では、民俗学が扱うテーマに関心を示すものとして、

    首里王府による祭祀の禁止と再編の問題や、御嶽信仰に対する規制のようなテーマ(安良城,

    1980) があり、民俗学と歴史学の連携の必要性を主張する研究であるといえる。

    管見の限りでは、国家体制と民俗の問題に積極的に注意を呼びかけたのは、1996年の歴史

    家の高良倉吉の研究ノートである(高良, 1996) 。高良は、琉球・沖縄の祭祀に関するこれまでの

    研究では、地方祭祀が王府祭祀に与えた影響について検討を行っているが、(地方の)「祭祀体

    系や儀礼などの主要な側面が王府によって組織化されており、王府業務の一環として運営され

    ていたことを歴史学は明らかにしてきた」(高良, 1996: 463) にも関わらず、民俗学者によって触れ

    られていない問題となっていると指摘している。また、民俗学者の関心が農村に集中したせいで、

    「町方」と呼ばれる都市地区とそこに住むエリート層のライフスタイルや「海の民俗」に関する記述

    が少なかったことが目立っているという。そして、これらのテーマに関する無関心は王国制度に対

    する関心の薄さに繋がると主張している。

    柳田・折口もそうだが、伊波においてもまた、沖縄・琉球の「常民」文化の状況を強く規定したは

    ずの王国制度の問題には関心が薄く、あたかも政治行政機能の存在抜きに沖縄・琉球民俗の

    問題が検討できるかのような思い込みがあったといわざるをえない。つまり、近代の研究者たち

    のイデオロギーが、沖縄・琉球が帯びたはずの歴史的文化的特性(琉球王国とその制度)を捨

    象したのである。そのような傾向は、以後の沖縄・琉球を対象とする民俗学・人類学においても

    解決されることがないままに推移してきたのではないか、との疑念を私は抱いている。

    (高良, 1996: 464)

    高良の研究は、「地方祭祀を強く規定する発信装置として機能」(高良, 1996: 464) する王府

    制度の存在に注目し、民俗学への呼びかけにとどまらず、民俗学と関わる多くのテーマに取り組

    んでいる。その成果として首里王府が発給した辞令書とノロ制度(高良, 1989: 63-141)や首里王

    府のユタ問題(高良, 1989: 209-255)、墓と位牌(高良, 1989: 255-289)などに関する研究がある。

    沖縄の民俗学に対するこの批判は、歴史学の立場からだけではなく、民俗学の専門家によっ

    てもなされてきた。谷正人は、柳田国男の影響によって、沖縄の研究においては沖縄文化の「ア

    ルカイックなイメージ」が定着されてしまい、そのイメージに疑いを示すような研究が困難となり、

  • - 5 -

    「沖縄の文化を具体的な歴史過程から切り離し、一種の標本として取り扱ってしまいかねない

    危険性に通じている」(谷, 1998: 588) という。

    谷のこの主張を含めた柳田の民俗学と沖縄の歴史性の問題に対する評価に注目する赤

    嶺政信は、民俗学における民俗と政治権力の問題を取り上げた先行研究をまとめ、民俗学の

    方法論という視点から検討を行っている(赤嶺, 2010, 2014)。赤嶺は、柳田国男の研究の中で

    沖縄の歴史性が無視されていたというこれまでの評価を問題視している。また、柳田のテキスト

    を読み直すことによって柳田のこの問題に対する関心に変化が見られ、昭和に入ってからの

    柳田の論文では沖縄の歴史性に対する関心を示す表現があることに注目している(赤嶺,

    2008, 2014) 。赤嶺は、柳田の沖縄研究において、昭和時代に大きなパラダイムの変更がある

    とみている。

    たしかに初期の柳田の文章からは従来の柳田理解に見合う言説を見いだすことができるが、筆

    者の確認できた限りで言えば、昭和に入って以降の柳田のテキストに関してはそれは該当せず、

    柳田は沖縄文化の独自の変化についても十分に注意を向けていたことが指摘できる。

    (赤嶺, 2014: 31)

    しかし、赤嶺は、「民俗と国家制度の問題が柳田自身によって研究の主要な問題として明

    確なかたちで前面に押し出されることはなく、そのせいもあって、柳田の後継者たちには柳田

    のその視覚を後継した発展させた人がいなかったということは言えそうである」(赤嶺, 2014: 34)

    と述べ、民俗と国家制度というテーマは柳田国男の研究においても、後の研究者においても

    主要な課題とならなかったと結論付けている。

    赤嶺は、この研究史をふまえ、自身の研究でも沖縄の民俗と国家体制という問題を取り上

    げている。長きに亘る久高島のフィールドワークを通して、久高島の祭祀について琉球王権の

    島への関与という視点を抜きにしては論じ得ないところがあるとし、イザイホウを含めたいくつか

    の村落祭祀にみられる首里王府と関わる側面について論じている(赤嶺 1998、赤嶺 2004)。

    また、赤嶺は、沖縄の「伝統的な祭祀」として位置づけられる祖先祭祀を考える時も国家制

    度を考慮に入れないと理解できないと示している。その理由は、民間レベルで行う祖先祭祀が

    王府の宗教政策によって成立したからである(赤嶺, 1997) 。このことは、八重山に関してとくに

  • - 6 -

    わかりやすく、『八重山島諸記帳』をみれば、18世紀の八重山の家に位牌がなく、それを対象とし

    た祖先祭祀が行われていなかったので、八重山の地方役人が、王府の意向を受け、祖先祭祀の

    普及において重要な役割を果たしたことが明らかとなってくる(赤嶺, 2012) 。

    久高島と国家体制という問題に関して、赤嶺の詳しい研究以外に、伊從勉の包括的な研究も

    注目に値するものである。伊從は、民俗学ではなく、建築学の専門でありながら、沖縄の祭祀空

    間とその役割をはじめ、沖縄の民俗文化と国家体制の問題を視野に入れた研究を行った(伊從,

    2005) 。伊從の研究は、琉球王国において特異な位置付けがなされてきた伊是名島(第二尚王

    家の出身地)、久米島(琉球から一番中国に近い島で、特別な神女組織が見られる島)と久高島

    (王府が直接祭祀を管轄した島)に注目し、地方の祭祀にみられる国家体制の影響に焦点をあて

    た研究となっている。

    八重山の研究においては、喜舎場永珣や牧野清のような郷土研究者は、八重山の民俗に関

    する細かい調査と史料の検討を行い、これらにおいて国家体制とかかわる要素がよく取り上げら

    れている。喜舎場は、人頭税の問題や大阿母の成立の問題に関心を示す研究を数多く出してい

    る。そして、牧野清も、神女組織に関する分析や御嶽信仰の変遷に関して多くの報告をしている。

    しかし、琉球王国の構造とかかわるテーマが取り上げられながら、これらの研究において八重山と

    いう地域と国家体制のあり様というのは問題視されない傾向が見られる。

    牧野清の『八重山の明和大津波』の序文で、喜舎場永珣は人頭税という悪制度、強制移住政

    策と廃村、台風とマラリアの惨害、明和の大津波という4つの悲劇が「八重山の文化を破壊せしめ、

    その発展向上を阻害した」(喜舎場, 1968: 11-12) 要因だと述べている。第43回伊波普猷賞(主

    催・沖縄タイムス社)の贈呈式と記念講演1の受賞スピーチの際に、新城敏男は、八重山の人々が

    喜舎場永珣の描いた「四大悲劇」を通して自分たちの歴史を認識してきた。そして、この4つの中

    の半分(人頭税と強制移住政策)が自然環境のような内的な要因ではなく、首里王府という外的

    な権力者の作用であることは、八重山の歴史の認識に大きなバイアスを与え、首里王府の体制の

    全体像を持たないままに王府に対する複雑な拒否感を生み出したと述べた。

    新城は、このようなバイアスを歴史の再検討によって挑戦できると考え、首里王府と八重山の

    関係に焦点を当てた研究をまとめた。2014年の『首里王府と八重山』という新城の著書では、首

  • - 7 -

    里王府の体制下における八重山の民俗の問題が新城の関心のテーマとして明確に現れてい

    る。新城の研究は八重山の家譜の史料としての有効性が主張される研究であるため、士族層

    の世界に関して示唆的なところが多いのは当然である。新城の記述によって描かれるのは八

    重山統治が中心である。しかし、そこから八重山の民俗と関連するものも少なくない。新城は、

    八重山の仏教の伝播、大阿母職の継承の問題だけではなく、八重山の古謡にみられる星見

    のような習俗にも注目している。

    文献史学においては、後田多敦の解体される国家に焦点を当てた研究があるが、後田多

    は、八重山における国家祭祀の変遷課程、および川平という八重山の一つの村にみられる首

    里王府による影響に関しても綿密な報告を行っている。石垣島と国家体制に注目する後田多

    は、「石垣島が、一五〇〇年以降、首里王府による八重山祭祀の再編という事態に遭遇した

    ばかりではなく、近代にいたって、明治政府による祭祀というかたちで新しい国家祭祀との相

    克を強いられたという事実がある」(後田多, 2009: 19)と述べ、「二度にわたる変遷過程」(後田

    多, 2009: 169-211)に注目している。

    本稿では、これらの研究成果を踏まえた上で、1500年以降に琉球王国という国家体制に取

    り込まれる八重山の民俗文化に注目をしたい。ウムトゥ山の神に対する信仰を検討することに

    よって、八重山の政治的な支配が宗教的な政策によって支えられ、この宗教的な支配が八重

    山の民俗宗教にどのような影響を与えたことを検証したい。そして、八重山の固有信仰の一つ

    であるウムトゥ山に対する信仰と祭祀に焦点を当てることによって、地方の祭祀が国家体制に

    組み込まれることをめぐるいくつかの問題について考察を行いたい。

    本稿は、一つの村や島ではなく、八重山群島2全域を研究対象としている理由が2つある。

    一つ目は、本論文の目的と関わるもので、ウムトゥ山の神の祭祀とその変遷を検討する上でウ

    ムトゥ山の神の祭祀の広がりを把握し、できるだけ広い範囲での事例を見る必要があると思わ

    れるからである。もう一つは、八重山の民俗と国家体制というテーマと関わるもので、各島レベ

    ルの研究の前提として首里王府の支配のひとつの単位として考える八重山における体制を検

    討する必要があると思われるからである。上述したように、近年に、八重山と首里王府の関係

    ついては歴史学の視点から新城敏男によって取り上げられるようになったが、まだ首里王府の

  • - 8 -

    支配体制について不明な点が多くある。各島や各村レベルでの研究を行う前に支配体制の全体

    像を抑える必要があると思われる。

    以上、これまでの琉球・沖縄の民俗と国家体制の問題に関するする先行研究と本稿の課題を

    簡単に紹介した。次節では、本稿の課題であるウムトゥ山の神と関わる祭祀の変遷という問題を取

    り上げる前に、首里王府体制下の八重山の祭祀の状況についてみていきたい。そのため、まず、

    八重山併合の契機となった「オヤケアカハチの乱」を紹介し、それ以降の神女組織の成立に注目

    したい。また、首里王府の宗教的な支配が八重山の宗教生活に与えた影響として、首里王府に

    よる祭祀の規制と八重山の火の神の政治的な役割という二つの問題に注目したい。

    2.首里王府体制下における八重山の祭祀

    2.1.「オヤケアカハチの乱」

    1500年の「オヤケアカハチの乱」という事件に関して、首里王府側の史料における記述の仕方

    や評価が必ずしも首尾一貫したものではなく、事件に関わった地方(両先島と久米島)の各島々

    における伝承があり、一致しない部分が見られる3。そのため、研究者によってその捕らえ方が異

    なり、諸説があるが、宮古、八重山の両先島に最も強いインパクトがあった歴史的な出来事である

    ことに関しては異論がない。

    砂川哲雄によれば、15世紀は八重山で大浜村のオヤケアアカハチ、石垣村の長田大主、川

    平村の仲間満慶山などの群雄が割拠していた時代であるという。事件の発端となったのは、八重

    山の一部を支配していた宮古島の仲宗根豊見親と当時勢力を増していたアカハチとの関係であ

    り、この両者の対立によって発生した状況が中央集権化を求めていた首里王府に軍事介入を与

    えるきっかけをつくり、八重山の征服に至ったと考えられているという(砂川, 2004: 36-42) 。

    西里喜行は、「琉球列島が首里王府によって政治的に統一されつつあった15世紀の末葉から

    16世紀の前半にかけて、独自の政治社会を形成し、小国家的独立を保持していた八重山は、歴

    史的な転換の激流に巻き込まれた」(西里, 1988: 105)という評価をしているが、牧野は、「オヤケ

    アカハチの乱」は八重山にとって間接的な支配から直接的な支配(「御手内」)になることを意味し

  • - 9 -

    ている事件であり、八重山が1390年以降に中山に入貢していたことに注目している(牧野,

    1980: 77)。

    2.2.神女組織の成立

    「オヤケアカハチの乱」のあった1500年は国家的基盤を整備し、強化した尚真王の時代で

    あるが、この時代は琉球王国の神女組織が制度化された時期に当たる。宮城栄昌によれば、

    「按司時代に政治的組織の方向を辿った神女組織が確立したのは、中央集権制を完成した

    尚真王 (1477年既位) 時代であった」 (宮城, 1966: 16) という。尚真王の政策によって、各地

    方の神女が、国王のおなり神である聞得大君を頂点とするピラミド型の神女組織に組み込ま

    れ、国家の安定を保証する国家的祭祀の司祭者として位置づけられた。

    「オヤケアカハチの乱」後に、八重山は当時確立しつつあった琉球王国の神女組織に組み

    込まれるようになり、首里王府によって大阿母職が設置されるようになる。『球陽』や『八重山島

    大阿母由来記』の「八重山島大阿母由来記並美崎嶽立始之事」の記述は、八重山における

    神女組織の成立に関して重要な資料として位置づけられるが、八重山では「ホルザー(マイ)」

    と呼ばれる大阿母職に関して特に貴重な情報が得られる。

    これらの史料でみる初代の大阿母職の設置の経緯は以下の通りである。「オヤケアカハチ

    の乱」の翌年に首里王府は、美崎山で籠って断食しながら首里軍の無事を祈った真乙姥マ イ ツ バー

    に神

    衣裳を送り、首里に呼び出している。1503年、真乙姥は断食中に倒れた際に助けられた平得

    村の田多屋遠那理た だ や お な り

    と共に沖縄島に赴いた。首里王府は、大阿母職を真乙姥に授けようとする

    が、真乙姥は大阿母職を命の恩人であった田多屋遠那理に譲り、自らは「永良比金イ ラ ビ ン ガ ニ

    の神人」

    に就任した。永良比金というのは、真乙姥が美崎御嶽で祈願した神で、官軍の航海安全を託

    けた神である。田多屋遠那理と真乙姥の任命式において、二人に黄金の簪が授けられ、大阿

    母職には「オエカ田」五カヤと俸禄米一石斗、永良比金職に俸禄米一石をを賜った。そして、

    大阿母の祭祀場として真乙姥が首里軍の航海安全を拝んでいた美崎山で美崎御嶽が建てら

    れるという(石垣市教育委員会史編集課, 2013: 13-15; 野田, 1976b: 24-27) 。

  • - 10 -

    知名定寛は、尚真王時代の神女組織の成立を取り上げている際に、神女組織の形成と中央

    集権化を目的とする尚真王の政策の関係を次のようにまとめている。

    民族宗教政策の根幹である神女組織の確立は、按司のヲナリ神であり、精神的支柱であったノ

    ロを按司から決定的に切り離すと同時に、村落構成員を直接支配することにその目的があった

    と言えよう。尚真王は諸按司を首里に居住せしめ、これによって諸按司の存立基盤である支配

    地域からの隔絶を村落構成員の直接支配を計ったが、これを宗教面からも実施したのである。

    すなわち、按司とノロの宗教的絆を断ち切ってその呪力を按司から国家へ転じさせる一方、ノロ

    の呪力に依存する没自然的・呪術的共同体宇宙を再生産することによって、村落構成員を政

    治とはまったく無縁な状態に置くことができたのである。これは要するに、諸按司の勢力を抑圧

    して自己の支配権力を固めようとする尚真王の政治的関心が反映され、中央集権化政策の方

    向に対応する政策であったと言えよう。こうして古代国家の宗教的支配イデオロギーも整備され

    たのである。

    (知名, 1994: 90-91)

    上述の大阿母職の成立の契機を見れば、地方の神女組織の成立も、琉球王国の政治的支配

    と密接に関わっていることがわかる。「オヤケアカハチの乱」の後に、首里王府は、宮古の大阿母

    として首里王府の味方である仲宗根豊見親の妻、於津美嘉お つ み が

    を任命し、八重山の方では、同様に、

    「オヤケアカハチの乱」の際に王府側に就いたである石垣村の長田大主のオナリ神である真乙姥

    が任命されるはずであったが、真乙姥の依頼により田多屋遠那理が八重山の最初の大阿母とな

    る。

    また、琉球王国の神女組織においては、八重山の大阿母がどういう位置づけがなされてきた

    かという問題がある。中央の神女組織の最高位である聞得大君の下に三平等の大あむしられと

    呼ばれる首里大あむしられ、真壁大あむしられ、儀保大あむしられの3人の祭司官が置かれ、地

    方や町方の神女がその管轄下にある。大城涼子は、士族の中から認定される「祭司官」の三平等

    の大あむしられの役割の変遷と首里王府の宗教政策に注目しているが、三平等の大あむしられ

    の役割を示す上で大城の指摘を見ていきたい。

    三平等の大あむしられの祭祀や管轄は、首里王府の行政的な論理を反映したものであり、

    王府組織機構の中に位置付けられている。

  • - 11 -

    では、行政的な位置付けとはなにか。まず国家的祭祀であり、地方祭祀への模範となる王城

    祭祀を率先して行うと同時に、地方神女と王府をつなぐパイプ役であった点である。近世に

    至って、祭祀が持つ本来の宗教的役割の他に、王国を統治する為のシステムの一環として

    祭祀儀礼が利用されるようになった。三平等の大あむしられは王府組織の一員であり、近世

    においては、宗教的意味合いを持つ神女の役割の他に、行政組織の一官人である位置を

    持つようになったのである。

    (大城, 1999: 61-62)

    『女官御双紙』によると、宮古と八重山の両先島の2人の大阿母が真壁大あむしられの管轄

    下にあり、首里王府と直接の関係を持っていた。つまり、大阿母は、神女組織のヒエラルキー

    の中で、三平等の大あむしられの下であり、各地方のノロクモイ・クラスの神女たちより上の立

    場である。この位置づけを裏付けるのは、1667年に下級クラスの神女の辞令書発給が廃止さ

    れるが、大阿母がその以降も首里王府によって辞令書が発給され続けたという事実である(後

    田多, 2009: 172) 。

    また、高梨一美が指摘しているように、「祭司たちを王権に結びつけ組織化したのは、文書

    や令達ではなく、様々な機会を捉えて行われる人と人の交流であった。王や聞得大君の就任

    時や死亡時、国家の慶事、祭司自身の就任時に地方に住む祭司たちは首里に上り、ランクに

    よって多少の違いがあるが、王や聞得大君を拝み、持参の酒を献上し神酒を頂戴して、直に

    関係を結んだことが確認できた。三平等の大あむらしられの役割は、王権や地方祭司の間を

    つなぐ媒介者であり、儀礼次第を指導する監督者であった」(高梨, 1999: 200) といえる。王国

    の信仰の統一感が維持されていたのは、中央と地方の祭司が交流によってであり、大阿母も、

    定期的に頭職と同様に首里王府に赴き、国王との交流を行っていた。

    しかし、『八重山島大阿母由来記』の「八重山島大阿母役目之事」では、「大阿母役目之儀

    中古迄は三年に壹度悪鬼納加那志え登御目見仕且又頭同前に諸村え罷通女百姓善悪為

    聞届候處崇禎年中召止候悪鬼納嘉那志えも其時分より御呼次第罷登御目見仕候事」(野田,

    1976b: 21) という部分があり、従来、大阿母が3年に一度の上国していたが、『八重山島大阿

    母由来記』の編集の時点でそれが廃止され、「御呼次第」上国するようになっていることがわか

    る。この史料に注目する新城敏男、「かつて崇禎年中(一六二八―四四)以前には、頭がそれ

    ぞれの管轄間切を巡見し、諸村の実情を視察・監督したように、大阿母も諸村へでかけ、女百

  • - 12 -

    姓の種々の善し悪しの報告を受ける役割をになっていた。その意味では大阿母は八重山のツカ

    サの統轄者としてのみならず、政治的な一面を持つ存在であった。しかし崇禎五年(一六三二)

    の初代在番設置に始まる八重山統治の強化にともない、その役割は止められた。」 (新城,

    1984: 9-10) と述べる。つまり、八重山の統治が強化するとともに、大阿母の政治的な側面よりそ

    の宗教的な面が重視されるようになり、国家的祭祀の司祭者としての側面が強調されるようになる

    という。

    八重山では、王府によって任命されたのは大阿母だけであり、各御嶽の神司は、その共同体

    内で選択され、大阿母に同意を経て、就任の手続きを行うというような過程があったとされている。

    後田多は、「大阿母は創設以来、琉球国滅亡時の十七代目の大阿母国吉伊武市津思(咸豊元

    年、一八五一年)まで首里王府から任命された。十八代大阿母大浜宇那利にも辞令書(御印判)

    が出されているが、その就任が一八八二(明治十五)年なので、県からの発給だったものと推量

    できる。一八八〇年『神職緑高役俸調』によると、その役俸高は一石五斗(起高)で、一五〇二年

    に制度が始まって以来、約四百年間、まったく変わっていなかったことがわかる」 (後田多,

    2009: 174-175)と述べ、大阿母のあり様には変化がないことを示しているが、大阿母の上国やそ

    の役割に注目する新城は、向象賢時代の「政教分離政策」が大阿母の位置づけにも影響が見ら

    れると述べている(新城, 1984: 9-10, 2014)。また、首里王府による八重山の神女組織に対する

    規定の変化は、上述した大阿母職の位置づけの変化だけに見られるわけではない。大阿母と同

    時に設置される永良比金職の場合は、この変化が特に著しいもので、王府が布達する規模帳の

    中でに複数の禁令が見られる。しかし、これらの禁令があったにも関わらず、八重山では、永良比

    金職の祭祀が行われ続け、その職が近年までに維持され続けたという(新城, 2014: 50)。

    八重山の大阿母の役割に関しては、『八重山大阿母由来記』、『八重山島嶽々由来記』、『女

    官御双紙』といった様々な史料の中に記述が見られるので、以下に『八重山島大阿母由来記』の

    「八重山島大阿母役目之事」の部分を引用し、八重山の大阿母の役割についてみていきたい。

    なお、牧野清はこの記述と『八重山島大阿母由来記』の奥書を根拠として『八重山島大阿母由来

    記』の編集が、新川と大川の両村の成立以前の1721年に行われたと推測している (牧野 ,

    1990: 498) が、明確な編集年が不明である。

  • - 13 -

    一、諸村御嶽八拾六所に

    首里天嘉那志美御前御為御願拝並嶋中作物乃為願不懈怠様に十八箇村之つかさ

    下知被仕又つかさ替合之時立替被申付年年々祭禮之首尾被聞届候事

    一、定納船両艘上下両度七嶽御願之時大阿母被出御願仕又出船入船濱御拝之時

    美崎御嶽え被出御願被仕候

    一、毎月酉日寅日美崎御嶽え被出

    首里天嘉那志美御前御為定納船両艘嶋中作物之為御願拝申候又御厄年在番頭同

    前御願拝み申候

    一、正月元日十五日冬至御蔵元え被出火神之御拝被仕候意趣者

    首里天嘉那志美御前御始おならちやら御前思子部御役人衆十百年之御かほう次島

    中作り物かふうのあるやうに御守りめしようりちおたほいめしよりて拝み申候

    一、悪鬼納嘉那志より御使者並御在番衆出船入船美崎御嶽へ濱御拝並地城御嶽被

    成候付大阿母被出無何事御歸朝被成候様御願被仕候

    一、二月に作物之為御たかへ五月稻被祭十月にかた廻りたかへ之時美崎御嶽被出

    祭相勤候

    一、三月より六月まで穀不熟時又定納船大和船浮候時分大風催有之候得は大阿母

    より石垣登野城貮ヶ村之女家内より壹人つ々相揃させ美崎宮鳥長崎三ヶ所之御嶽え為

    可風止御願仕又早之時分同前被出雨乞被仕候

    一、大阿母義御呼次第悪魂納嘉那志え登り濱之大阿母取次にて眞壁之大阿母しら

    れえ御引合仕被御方より御案内申上置御様子次第濱之大阿母同心仕眞壁之大阿母し

    られ御取次にて登城仕御内原御座に着花御これん玉貫一對土産物奉献上 御后御揃

    え玉貫一對土産物奉献上大せと部御三人大庫理安むしられ以下段々錫一對つゝ土産

    物進上仕候大勢頭部より百浦添二階北之御座え可着由御様子有之候得は赤苧衣裳着

    御座着御茶御振舞被下相濟候得は御引出物拜領仕又南之御座にて首里天嘉那志美

    御揃奉拜美御酌頂戴仕候又御美こちやにて御后御揃酌頂戴仕候御規式相濟後之御庭

    に莛敷酒臺菓子盆御酒飾大勢頭部より御庭可着由御様子有之候得は召列之女供五人

    皆御座に着大せと部伺公被成候て御酒被下あやご仕後にこいにやにて躍候事

    (野田, 1976b: 21-23)

    上述の史料をみると、大阿母が司祭する祭祀は多数あり、これらの中では、国王(「首里天

    嘉那志」)、王妃(「おならちやら」)、王の子供、国の役人の健康祈願、定納船の航海安全の

    祈願や農作物の生長の祈願などのような国家の繁栄とかかわる祭祀が多いことがわかる。つ

  • - 14 -

    まり、大阿母は、八重山と首里王府をつなぐような国家的祭祀の担い手としての役割を持ってい

    たといえる。

    また、大阿母が祈願を行う御嶽は、王府によって定められていたこともわかる。その中では、首

    里王府によって創設される美崎御嶽は、大阿母による国家的祭祀において最も重要な役割を果

    たした聖地で、俗に「公儀御嶽ク ギ オ ン

    」とも呼ばれた。また、上国役人の航海安全の祈願などを行う「七

    嶽」という7つの御嶽が指定され、国家的祭祀において重視されている。「八重山島大阿母役目

    之事」では、「七嶽」という総称しか記されていないが、『八重山諸記帳』の「嶽々舊式」では「美崎

    宮鳥長崎天川糸数名蔵崎枝此七嶽毎年上國役人立願結願仕候是は定納船貮艘上下海上安

    穏之爲」(野田, 1976c: 29) とあり、美崎・宮鳥・長崎・天川・糸数・名蔵・崎枝という「七嶽」の名前

    を含む記述となっている。

    中央の神女組織の形成について歴史学でも、民俗学でも様々な視点からの研究が蓄積され

    てきた。また、八重山の神女組織や国家的祭祀に関する研究としては、大阿母職について詳しい

    研究(喜舎場, 1977b: 285-290; 新城, 1984, 2014: 453-491) がある。しかし、大阿母を支えてい

    た神女組織やこれらの神女が関わっていた国家的祭祀に関する研究が殆ど見られない。

    牧野によれば、大阿母の「公儀の御嶽」である美崎御嶽が八重山の蔵元に管理され、一般の

    御嶽と異なり「七役」と呼ばれる神役組織が祭祀の担い手となっていたという。「七役」の各神職の

    具体的な役割について不明な点が多く、それぞれの職名も不明となっているが、牧野は職名に

    関して(1)大阿母・永良比金・キライ・シドゥ・世ヌ主・神ヌ主・水ヌ主、(2)大阿母・永良比金・アン

    シィサリ・世ヌ主・シドウ・フンナイ・キライ、(3)大阿母・永良比金・キライ・フンナー役・シドー役・ミ

    ナ―役・神司、(4)大阿母・永良比金・キライ・シドゥ・フンナイ・世ヌ主・山当りという4つの説を紹

    介している。また、牧野は、戦後に世ヌ主役を務めていた方への聞き取り調査によって(4)の説が

    正確であるとを確認できたという(牧野 1990:155-157)。

    宮城栄昌の調査成果によれば、八重山の大阿母の「支配組織」としては士族出身の中から任

    じられるものとしては大阿母、永良比金、キライ、シダウ、ブンナという四人の神職で、その下部組

    織としては平民出身のアンスサリ(案内役)、ザスノアン(男神の使者)、ウキディヌアン(女神の使

    者)がいるという。また、「サズノアンとウキディヌアンが沖縄の〔掟うつち

    〕阿母あ み

    に相当するものであろうか。

  • - 15 -

    旧藩時代にはこれ等の下部の司を同伴して祭事を行い、八重山における政治の最高権者た

    る頭を同道したそうであるが、現在は「アンスサリ」がお伴をしているということである」(中山・富

    村・宮城, 1990: 163) という。

    以上、大阿母の役割と八重山における首里王府による神役組織の成立とその有り様につ

    いて紹介したが、大阿母が地元の神司をまとめる役だけではなく、国家的祭祀の担い手として

    位置づけられていたことは八重山の祭祀の在り様に大きな影響を与えた重要な点だと思われ

    る。また、「七嶽」のような国家的祭祀が行われる御嶽が指定されることによって、八重山の御

    嶽の在り様および御嶽祭祀のあり様にも影響を及ぼす可能性が想定できるだろう。

    2.3.祭祀の規制

    琉球史の分野では、八重山の祭祀にみられる首里王府の影響に関して首里王府が八重

    山の祭祀に対して行った規制とその動機が、首里王府の宗教的な支配を明らかにする上で極

    めて重要な問題として取り上げられてきた。本稿のテーマである首里王府の祭祀への影響と

    いう部分に関わるので、以下に八重山に対する祭祀禁制に関する先行研究を簡単にまとめて

    おきたい。

    奥野彦六郎の研究によれば、首里王府による祭祀の規制は次の4つの段階があり、その各

    段階での祭祀の禁止にはその時代背景や経済状況に応じた動機があったという。第1段階は

    『球陽』に記述されている尚真王時代の神遊びの禁止である。そして、第2段階は政治家羽地

    朝秀の国政の改策に伴う禁止令で、第3段階は蔡温の御教条の頒布(1732年)に先立つ歌舞

    の制限であり、第4段階は御教条が発布されても、宮古・八重山の各規模帳で老若男女が以

    前と同様に祭祀を行っていることが確認されたため、前段階の禁止令が強化された段階であ

    るという(奥野, 1955: 14-17) 。

    しかし、奥野の第1段階については次のような問題がある。この段階は、イリキヤアマリの祭

    祀の禁止の段階で、『球陽』の尚真10年の記述の中で毛国瑞(恩納親方安治)が首里王府の

    令を受けて、イリキヤアマリの祭祀を禁止したという内容の記事(石垣市教育委員会史編集課,

    2013:12)と関わる段階である。しかし、イリキヤアマリの禁止はこの尚真10(1486)年のことでは

    なく、尚貞10(1678)年の恩納親方按司が派遣された際の禁止令である。八重山の歴史研究

  • - 16 -

    においては、イリキヤアマリの祭祀の禁止が「オヤケアカハチの乱」の原因となったという解釈が存

    在したが、史料の誤読に基づいている(石垣市教育委員会史編集課, 2013: IV-VI) 。奥野の区

    分においても、尚真王時代という段階が設定されていることには疑問を持つべき点であるといえる。

    安良城盛昭は、首里王府による祭祀の禁止が風紀上の理由で行われたという伊波普猷の研

    究(伊波, 1926:363-378) を出発点とし、歴史資料を基に首里王府による祭祀規制の背景にあっ

    たのは風紀上の理由だけではないことに着目している。安良城によれば、風紀上での理由以外

    に祭祀が禁止された理由は次の3点に整理できるという。1点目は祭祀に伴うタブーが農耕の妨

    げとなること、2点目は一年に祭祀のある日数が多すぎて農耕の妨げになること、3点目は祭祀の

    経費がかかりすぎることである(安良城, 1980: 82-85)。また、『琉球国由来記』に記載されている

    祭祀が王府公認のものであるとしつつ、「王府公認の背後には、実は首里王府が認めないような

    様々なお祭りがあり、さまざまな民俗慣行が、いろいろな地域に、いろいろな形で存在していた」

    (安良城, 1980: 82) ことも指摘している。安良城の視点は、首里王府による祭祀に対する規制が

    国家をつくる上で必要な政策として、首里への貢納を支える農業を合理的にしようとする試みで

    あるということを主張しており、興味深い指摘である。

    玉木順彦は、安良城の結論とは対照的に、首里王府によって禁止された祭祀の具体的な内

    容を分析することの必要性を述べ、祭祀禁止の原因とその内容が深く結びついていると指摘して

    いる。玉木は、近世初期から禁止されたイリキヤアマリ、アカマタ・クロマタ、マユンガナシの祭祀

    は始祖神を祀る祭祀であり、「多分に南方的な色彩の強い内容の祭祀であったために、王府役

    人の目にはかなり異様(異質)なものとして写ったことであろう」(玉木, 1996: 153) と論じている。し

    かし、玉木のいう祭祀の内容に関しては異質な要素があると認めたとしても、首里王府が意図的

    に異文化的な要素を禁止したということは史料だけで読み取れないところがあるといえる。このこと

    に関しては、後にウムトゥ山と関わる神話や説話を紹介した上で考察したい。

    西表の農耕儀礼の事例に注目する豊見山和行は、八重山の祭祀が繰り返しで禁止される

    という過程の中で、民衆側の論理と王府側の論理の隔たりがあることに注意を向けている。豊見

    山はそれぞれの論理を比較検討し、首里王府の政策によって一旦禁圧の対象とされた祭祀が再

    公認されるようになる要因の一つとして、島役人の動向があると指摘している。豊見山によれば、

  • - 17 -

    「祭祀再公認へと踏みきらせた要因は、百姓の神遊び=農耕儀礼の世界が容易に変容しが

    たい強靱さを保持していたこと、また、そのような世界を共有する島役人に対しても王府の論

    理が完全には貫徹しえなかった点に認めることができるのである」(豊見山, 1987: 37) という。

    首里王府の祭祀規制が百姓の日常生活まで影響を及ぼしていること、また、祭祀の規制を考

    える上で八重山における村役人の活動に焦点を当てる必要があることは、豊見山の研究の重

    要な視点だといえる。

    2.4.火の神

    首里王府の宗教的な支配を考える際に、祭祀の規制というような政策による影響だけでは

    なく、異なる文化の導入による間接的な影響も視野に言える必要がある。八重山において、こ

    のような影響は火の神のあり様に見られる。

    火の神は、沖縄の神観念において特別な位置を占める神である。上江洲敏夫は、「他の

    神々が非日常的接触の仕方でしか人間と接しないのにくらべ、火の神が守護神としての機能

    の故もあってか、きわめて日常的に、しかも人間界に近い超自然的存在、その意味では世俗

    化した神としてその地位を保っている」(上江洲, 1976: 42-43) と述べている。沖縄の人々は

    日常的に接する神として屋敷神なども多々あるのは当然だが、火の神が家庭レベルで日常的

    に接される守護神でありながら、非日常世界の神であるニライ・カナイなどの神々との媒介者

    であるという点にその特徴を窺える。

    一方では、家庭レベルで祈願される火の神とは別に、沖縄では、根所火神、ノロ火神、地

    頭火神と呼ばれる火の神も存在し、村レベルの祭祀の際に拝まれている。また、首里城内に

    「御火鉢」と呼ばれる火の神や聞得大君、三平等大阿母志良礼のそれぞれの火の神も存在し、

    これらが国家的祭祀とのかかわりが見られる。

    仲松弥秀は、これらを「職火神」と呼んでおり、「古代から存在したものではなく、近代に発

    生したものであり、なお首里王府との関係がこれに加わっていることがうかがわれる」(仲松,

    1990: 164) と述べている。また、宮城栄昌は、「根神における火の神の殿は、後のノロ殿内と ん ち

    にも、

    三山のノロを統轄する首里の三平等(首里・儀保ぎ ぼ

    ・真和志ま わ し

    )の大あむしられ殿内にも、全神女を

  • - 18 -

    支配する聞得大君殿内にもあった。ノロ・大あむしられ・聞得大君は、按司や国王の政治支配を

    宗教的面から擁護するもので、その火の神の殿は政治的支配の意味を持つものであった。」(宮

    城, 1966: 13) と述べている。

    安達義弘は、家庭レベルで祈願される火の神と首里王府によって政治的な理由で設けられ

    る火の神を区別するために、前者を「民俗火神」、後者を「政治火神」と呼び、首里王府が成立す

    る神女組織と「政治火神」の成立のかかわりを見ている。安達によれば、「自己の火神が公儀祭祀

    の対象のなっている神女、つまり、政治火神を持っている神女はノロに近い高い地位が与えられ

    ていた」(安達, 1988: 71) という。

    首里王府の支配の象徴のひとつとしての「政治火神」の導入は、八重山においても検討する

    必要がある課題である。上述した「八重山島大阿母役目之事」の記述の中で、「正月元日十五日

    冬至御蔵元え被出火神之御拝被仕候意趣者」という部分があり、火の神の祈願が大阿母の任務

    のひとつとなっていたことがわかる。この際に対象とされる「火神」は蔵元火の神のことで、現在、

    美崎御嶽の敷地内に拝まれている火の神である。この蔵元火の神の由来に関して、『八重山島

    大阿母由来』では、次のように記述されている。

    上古神代之時悪鬼納嘉那志諸神御集当島守護之御配りにて今帰仁よりおたいかねと申御神

    被飛降御蔵元火神と奉崇候由伝承候依之正月元日十五日冬至に大阿母被出御拝被仕候

    (野田, 1976b: 23)

    この記述によれば、沖縄に集まった神々の中から今帰仁の「おたいかね」という神が八重山を

    守護するのために八重山に飛び降り、蔵元の火の神として崇められ、正月元日、十五日、冬至に

    大阿母によって祈願されているという。

    石垣繁の研究でわかるように、この火の神の由来譚が八重山でもそのまま伝承され、岩崎卓

    爾(伝統と現代社編集部, 1974: 18)や宮良當壮(宮良, 1966)の火の神に関する記述においても

    触れられている。また、大阿母もその伝承に基づいて「白紙十二枚及び御菓子(白粉付の餅)磨

    き花、お茶湯、活花、五水、御花米、海山野珍物、砂糖ダングなどを供へ七口の燈明を点じて」

    (石垣, 2011: 92) 4祈願を行う。しかし、今帰仁から勧請される「おたいかね」という神は、『琉球国

    由来』で今帰仁の神としての記述がなく、唯一の類似する神名が見られるのは西表島の慶田城

  • - 19 -

    村の「ヲハタケ根所」という御嶽である。ヲハタケ根所5の記述によれば、この拝所は「神名 ナ

    シ、トノ神名6 ヲタイガネマセド神」(外間, 波照間, 1997: 497) であり、その由来は次のような内

    容である。

    上代、当島西表村、祖納堂ト云フ人アリ。其高六尺余高ニシテ、勇力人勝タル人ニテ、ヲハタケ

    ト云所ニ家ヲ作リ居ケル。或時晴天ニ、森ニ登リ四方ノ景気ヲ見渡スニ、西ノ方ニ島陰幽ニ相見

    得ケレバ、兵船用意ニテ、勇力ノ者、数十人相語ヒ、順風ニ帆ヲ揚ゲ、与那国島ニ渡リ、相戦ヒ

    討勝、島ノ酋長ノ者二三生捕リ、降参サセ、後ニ悪鬼納ガナシ御手ニ入ケル時、其由奉奏タル

    由、申伝也。依之与那国船当島往還ノ時ハ、西表島に潮掛リイタシ、彼ノヲハタケ家ノ火神拝ミ

    申事、今迄有来ル也。

    (外間, 波照間, 1997: 497)

    この由来譚によれば、昔、西表島のヲハタケというところの祖納堂という者は、勇力のある数

    十人の者と話し合った上で、与那国島に渡り、与那国を討伐し、ニ、三名を生け捕った。その

    後、八重山が首里王府の支配下となった時に、その出来事を国王に伝え、それにより、西表

    島と与那国島を往復する船が西表島に入港した際に、ヲハタケ家の火の神を拝むことになっ

    たという。つまり、首里に併合されてから、ヲハタケ家の火の神を拝み始めたという伝承である。

    西表島では、このヲハタケ家の祖納堂が大竹祖納堂儀佐と呼ばれ、盛んに語られている人

    物である。その伝説について様々な資料を検討している牧野清は、この由来譚で伝えられる

    大竹祖納堂儀佐による中山への入貢が1390年頃の宮古と八重山が中山に来貢する察度国

    王時代のことであるという説があるが、「十五世紀の中期、すなわち一四五〇年代の頃のこと

    であったと推定することがもっとも妥当であると考えられる」(牧野, 1980: 77) と述べている。大

    竹祖納堂儀佐の活動およびその家の火の神の成立について不明な点が多いが、政治的な意

    味を持つ火の神の祠が導入されることから考えても、宗教的な支配が始まる尚真王の時代、あ

    るいはそれ以降の話であることが推測できるであろう。

    尚、『琉球国由来記』の八重山の聖地で「根所」として記述されているのは、上述した西表

    島のヲハタケ根所と竹富島の国仲根所の二箇所しかない。国仲根所は、八重山の最初の蔵

    元を成立した西塘が、首里から竹富島に帰郷したとき、首里の園比屋武御嶽の神を拝むため

  • - 20 -

    に作られた御嶽である (外間, 波照間, 1997: 494-495) 。八重山の為政者に正当性を与えるた

    めに作られた拝所で、政治色の強い拝所である。

    西表島の「ヲハタケ根所」のヲタイガネマセド神という火の神と今帰仁から勧請された「おたい

    かね」という蔵元の火の神の名前が一致し、両方の拝所が首里王府と関わりがみらることは興味

    深いが、その関係の詳細について不明な点が残る。

    以上、八重山の蔵元の火の神とそこの拝まれるとされている「おたいかね」という神の名につい

    て述べてきた。上述した安達の研究では、仲松弥秀の報告(仲松, 1990: 164) を引用し、「政治的

    な火の神はその分布が沖縄本島とその周辺離島に限られていることがわかる。沖縄本島地域以

    外では、石垣島登野城の美崎御嶽の火神や沖永良部のナヲシスクの火神のような特例を除けば、

    いまのところ見出すことができない」(安達, 1988: 63) と述べている7。

    安達や仲松のこの主張に関して次の2点が注意すべきだと思われる。まず、「美崎御嶽の火神」

    という表現に留意する必要がある。安達と仲松の記述では、「美崎火神」と「蔵元の火神」を区別

    せず、「美崎火神」という言葉で蔵元の火の神のことを指している。しかし、ここまで取り上げてきた

    蔵元の火の神(クラヌビィナカン)は、美崎御嶽の土地区画内に移されたのは戦後の1953年のこと

    で、本来の美崎御嶽の火の神と別である。八重山の伝承によれば、クラヌビィナカンは1524年に

    西塘が八重山の最初の蔵元を設置した際に祀り始め、その後蔵元とともに石垣島に移設された。

    一方では、美崎御嶽では「ユーヌピィナカン」あるいは「ミサキピィナカン」と呼ばれる異なる火

    の神が存在することは注意すべき問題である。この火の神が美崎御嶽の北西隅に祭られ、大阿

    母の管轄にあった蔵元の火の神と異なり、その神司が存在していた。牧野清によれば、「ユーヌ

    火の神御嶽の祭祀は、豊年、豊作の祈願する一般のお嶽と同様であるが、とくに旧十二月二十

    四日には、各村の神司が、それぞれ年間の神事の報告するために参集する」(牧野, 1990: 171)

    という。牧野の記述では、この神司の報告の詳細は窺えないが、民間側では「火の神の送り」の祈

    願が行われるこの日に、美崎御嶽で各村の神司の報告が行われていたのは、八重山の神司の

    統括させる美崎御嶽の重要な役割を示しているといえる。

    『与世山親方八重山島規模帳』(1768年)では、美崎御嶽のユーヌ火の神に関する記述が見

    られ、これでこの火の神の祠がある時期まで蔵元によって管理されており、その由来やその正当

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    な管理者がわからなくていたという理由で村の管理下に置かれるということがわかる。次のよう

    な内容の記述である。

    美崎北之方ニ有之候火神、瓦葺堂作置、右譜請修甫等三度夫を以相調来由候得共、

    右火神之儀、旧記等ニ茂由来不相見候処、三度夫ニ而相調候儀不宜候間、向後村所之構

    ニ可申渡事

    [訳]

    美崎御嶽の北にある火の神は瓦ぶきの堂を作って、その譜請や修補などは三度夫でや

    ってきたという。しかしこの火の神は、旧記などに由来が見当たらず、三度夫でやるのは良く

    ないので、今後は村の所管ですること。

    (石垣市総務部市史編集室, 1992: 54)

    上述の資料から、蔵元の火の神とは別に美崎御嶽の「ユーの火の神」という火の神が存在

    し、近世までに、この両方の火の神が蔵元に管理されていたことがわかる。しかし、美崎御嶽

    の「ユーの火の神」という火の神がいつから存在していたことは、残念ながら、不明な点である。

    また、蔵元の火の神との関係に関しても明らかではない。そのため、首里王府の体制下の八

    重山の民俗の変化という限られた目的をもっているこの序章では、この二つの神の政治性を

    示すことにとどめておきたいが、今後八重山の火の神の問題ヲ検討する上で、この二つの火

    の神の存在を視野に入れる必要があると思われる。

    また、八重山では蔵元の火の神以外に政治的な火の神が存在しないという安達の主張に

    問題がある。すなわち、以下で述べるように、八重山の各村に存在していた村番所に火の神

    があり、この火の神が政治的な意図で設けられている神である。

    八重山では、蔵元の火の神以外に、琉球王国時代に各番所(オーセー)内に祀られてい

    た火の神がある。1908(明治4)年の番所廃止後にこの火の神が御嶽内に祀られるようになる

    場合が多い。例えば、竹富島では、最初は火の神が清明御嶽内に移されるが、島造りの2柱

    の神が祀られているところであったため、1914(大正2)年に世持御嶽に移されるようになる(同

    年に村役場も世持御嶽の敷地内に置かれる)。名蔵では、水瀬御嶽の一隅に祠を設け、村の

    火の神として拝まれている。また、登野城、平得、大浜、宮良、白保などでは、村番所があった

  • - 22 -

    ところに火の神御嶽ピ イ ナ カ ン オ ン

    を建立し、火の神が村の守護神として崇敬されている。このように村番所の変

    わりに建立された火の神の御嶽が「オーセー」と呼ばれることもある。

    つまり、本来は、各村に村の守護神としての火の神が村番所で祈願され、村番所の廃止後に

    村の火の神が別の拝所で拝まれるようになったのは、八重山の各村に確認できる。安達の「民俗

    火神」と「政治火神」の区別に関して、「民俗火神の管轄圏が家内に留まっていたのとは対照的に

    政治火神の場合はその管轄圏が家を越えて種々のレベルへと拡大している」(安達, 1988: 77) と

    言っているので、安達の基準で判断しても、このような各村レベルで存在する火の神は「民俗火

    神」ではなく、「政治火神」として考えるべきである。

    3.ウムトゥ山の祭祀を取り上げることの意義

    以上、首里王府体制下の八重山の祭祀の状況について、民俗と国家体制という視点から神

    女組織の成立、祭祀の規制、火の神という三つの問題に着目して述べてきた。これらの先行研究

    を踏まえた上で、ウムトゥ山の神とその祭祀の問題を民俗と国家体制との関わりで研究することの

    意義についてみていきたい。

    本稿でいうウムトゥ山は、沖縄県で一番高い山である於茂登岳(標高526m)である。石垣島の

    中央部より北側に聳えており、麓から山頂部に向かってイタジイ林、イスノキ林等の亜熱帯照葉樹

    が密生し、山頂部はかつて建築資材(主として屋根材)によく利用されていたリュウキュウチク(「オ

    モト竹」)が分布している。現在のほとんどの地図に「於茂登岳」と記されるが、他の文献資料では

    「おもと」に「大本」、「宇本」、「宇武登」、「思度」、「於茂登」などの漢字が当てられる事がある。八

    重山の人々は昔から「ウムトゥダキ」あるいは「ウムトゥヤマ」と呼んでいる。信仰の対象となる神の

    山を意味する場合は「ウムトゥ山」と呼ばれることが多いため、本稿では「ウムトゥ山」と呼ぶこととす

    る。但し、場合によって山自体のことを指すときに「於茂登嶽」と記述する場合もある。また、ウムト

    ゥ山とかかわる祭祀で拝まれる神のことを八重山側の呼び方、首里王府の呼び方がそれぞれある

    が、とくにこだわる必要がないときに「ウムトゥ山の神」と呼ぶことにする。八重山側でのウムトゥ山の

    神の呼び方は「うむとう照らす」とその系統のバリエーションが一般的だったと思われる。しかし、こ

  • - 23 -

    の神名を指している神の具体像や分布の範囲とその背景に関して調査が不可能なところがあ

    るため、学術用語としては「ウムトゥ山の神」の方が適当だと思われる。

    八重山におけるウムトゥ山信仰の重要性に触れる先行研究は少なくない。「八重山学の父」

    と呼ばれる喜舎場永珣は、ウムトゥ山のことを「大本山」と書くべきで、八重山の人々の大なる

    本で、八重山の宗教の重要な要素のひとつであるということをウムトゥ山のことを触れる度に主

    張している。たとえば、於茂登岳の地質的な特徴に関して、恒藤規隆という地質学者の論文を

    参考にし、「(石垣島は)沖縄本島よりも先に構成されたように考えられる。ここにおいて八重山

    だけの大本だけではなく、沖縄全体の大本たることがわかる」(喜舎場, 1970: 388) という。しか

    し、ウムトゥ山の神と関わる信仰の重要性が主張されているにもかかわらず、その信仰の実態

    について詳しく取り上げられたことがない。

    喜舎場のこの視点の影響が強く受けている牧野清も、ウムトゥ山に関する記述を行う際に、

    「旧い時代の八重山の信仰」としてのウムト山信仰に焦点を当てている。牧野は、八重山の民

    間信仰におけるウムトゥ山の重要性について以下のように述べている。

    於茂登拝ましの旧習

    於茂登岳は本来「大本岳」であり、島の大本をなす神岳として崇敬され、古来八重山群

    島民信仰の中心をなしてきた。多くのお嶽には、殆んど「ウムトゥティラス」への通しの香爐が

    あって、於茂登の神が神々の中でも最も中心をなした最高神であったことを物語っている。

    また竹富の各離島では、古く「於茂登拝まし」という習俗があり、生児を於茂登岳の見えると

    ころまで抱いてきて、於茂登の神にあいさつさせたということである。この習俗もやはり、旧い

    時代の八重山民信仰の中心が、於茂登の神であったことを物語るのであろう。

    (牧野, 1990: 111)

    本田安次は、沖縄に「神は山にも居お

    られるという信仰が早くからあったこと」(本田, 1991: 6)

    との関連でウムトゥ山のことも取り上げている。本田は、1958年の早稲田大学の八重山学術調

    査の際にウムトゥ山に関する聞き取り調査8を行うが、その信仰に関しては以下の概略的な記

    述に留まっている。

  • - 24 -

    沖縄諸島の一番高い山は、石垣島の於茂登嶽であって、標高は五二五メートル、これは神の

    山として一般の人は登らなかった。年に一、二度、事あるとき、司が登るだけである。この山から

    麓の名蔵御嶽、水瀬御嶽、白石御嶽に神を迎えて御祈禱をしてきた。

    (本田, 1991: 7)

    多くの研究者は似たような記述をしている。例えば、崎原恒新の『八重山ジャンルごと小事典』

    で次の記述がある。

    [於茂登山]

    おもと岳。石垣島にあって、高さ526mの沖縄県で最も高い山。登山距離2643.50m。地層は

    花崗岩。1997年4月国指定自然名勝に国の文化財保護審議会が答申され、九月公示された。

    山中に於茂登村によって「大御岳ぬ清水」の水に対する感謝碑がある。自生するオモト竹はか

    って建築資材(主として屋根材)に利用された。沖縄戦当時は日本軍が立て籠もり、また住民の

    避難所でもあった。この山については名蔵御嶽の起源伝説があり、また久米島の三姉妹が長

    女は首里弁嶽、次女はおもと岳、三女は久米島にそれぞれ神として住み着いたという政治的か

    らみの意味合いのある伝説もある。

    (崎原, 1999: 65)

    崎原の辞典の記述がウムトゥ山の政治性や水源としての側面、沖縄戦とのかかわり等の様々

    な要素に触れているが、これらのそれぞれの側面に関する研究は、実は、皆無に近い状態である。

    そのようななか、管見の限りでは、石垣博孝の2本の論文(石垣, 1981, 1982) は、歴史資料や

    古謡、民間伝承などを基にウムトゥ山に関わる神観念を描く最初の試みである。於茂登嶽は、

    1997年に「川平湾および於茂登岳」として国の名勝にも指定され、2007年にその東西に連なる亜

    熱帯原生林の山々とともに「西表国立公園」に編入され、その際に「西表国立公園」は「西表石垣

    国立公園」と改称されるが、石垣の調査はこれらの指定に先立つ調査である。

    石垣は、ウムトゥ山9の神に関する資料を「[1]『球陽』(巻一、巻三)、[2]『おもろさうし』(第二十

    一)、[3]『琉球国由来記』(巻二十一)、[4]『琉球国旧記』(巻之九)、[5]古謡、伝承、神詞」(石

    垣, 1982: 118) という5つに分類し、それぞれの紹介と若干の検討を行っている。

    石垣は、首里王府側のウムトゥ山信仰に関する『球陽』巻一と巻三および『琉球国由来記』の

    記録やオモロ等の分析を行い、「輸入された神」(首里王府がもたらした文化と絡み合う神観念か

    ら発生したウムトゥ山の神)と「民衆の中から出てきた神観念」を区別し、前者は1500年の「オヤケ

  • - 25 -

    アカハチの乱」以降に八重山が首里王府の支配下に入った際に「政治的な意図の上に設けら

    れた神」(石垣, 1981: 172)だとし、後者に関しては「神観念は妙に定まらず、漠然と畏怖し崇敬

    しているというものである」(石垣, 1981: 172)と述べている。

    首里王府側の様々な記録の間に認められる相違が当時の政治的状況と関係するというこ

    とが石垣論文の重要な指摘であり、本論文も同様の前提にたっている。しかし、石垣が主張し

    た首里王府側と民衆側の認識の差異に関して、2つの重要な疑問点が残る。

    一つ目は、それぞれの神観念が具体的にどのようなものであったのかという問題である。石

    垣は、首里王府の史料で見られるウムトゥ山の神に関して、「オヤケアカハチの乱」とのかかわ

    りを述べ、ウムトゥ山の神が政治的に利用されていた可能性を主張しているが、この問題に関

    しては、歴史的な背景と合わせた更なる検討が必要である。また、民衆側の信仰に関しては、

    石垣は詳しく触れていない。

    ウムトゥ山に関する資料の収集という作業は、石垣論文に評価できるところで、本論文も石

    垣論文に示唆を受けたところが多い。しかし、本論文は、石垣論文で取り上げられている史料

    や習俗を見直すと同時に、それぞれの歴史的な背景に注意を向けることとしたい。また、史料

    に関しては、それぞれの編集作業の特徴について検討を加え、記載されている神話を民間側

    で伝承される神話と比較検討を行う。

    2つ目は、この2つの異なった神観念はどういう風にかかわり、変遷し、現在に至っているの

    かという問題である。現在の八重山の人々の認識は、統一性がみられるとは言いがたく、世代

    間の差異や地域性があるだろう。しかし、ウムトゥ山の神が格別な存在として認識され、とくに

    首里王府によって奨励されたと思われる(三姉妹神の)イメージが強いことを窺える。一方では、

    本来は実生活に根ざしていたウムトゥ山とかかる祭祀の消滅も起こっている。

    本論文は、首里王府の国家体制と八重山の民俗との関係という問題に注目しているため、

    特に一つ目の問題について言及しているが、2つ目の問題についても聞き取り調査で得たデ

    ータの分析に基づいて記述したい。

    石垣博孝も、ウムトゥ山の信仰を把握する上で徹底的な調査の必要性を述べている。本論

    文をまとめるに当たって、筆者は2012年の8月末に八重山の調査に入り、4年間フィールドワー

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    クを重なってきた(滞在数延べおよそ200日)。ウムトゥ山の神と関わる伝承の広がりの詳細につい

    て把握しがたいところがあるが、本論文でわかるように石垣島とその周辺離島にウムトゥ山と関わる

    話が多く、小浜島、鳩間島、波照間島では断片敵ながらウムトゥ山の神とかかわる伝承が残る。一

    方では、西表島や与那国島でそのような事例が見当たらない。そのため、フィールド調査では、定

    期船で通える各離島で聞き取り調査を行い、特にウムトゥ山の神に関する聞き取りが可能な石垣

    島、竹富島と黒島という3つの島で綿密な調査を行った。調査の内容は、ウムトゥ山の神とそれに

    関わる聖地だけではなく、各島々の祭祀の見学とそれに関する聞き取り調査を含め、それぞれの

    島の年中行事や首里王府にそれらに与えた影響を理解するための調査を行った。

  • - 27 -

    第1章 『琉球国由来記』のウムトゥ山の神と八重山の口頭伝承

    1.1.『琉球国由来記』とその編纂過程

    ウムトゥ山の神が取り上げられる際に最もよく引用されるのは、『琉球国由来記』の名蔵村の

    御嶽の由来譚として記載されている神話である。この記述において、ウムトゥ山の神が久米島

    の神と首里の弁ヶ嶽の神の姉妹であるとする神話が紹介されており、八重山と首里王府を結

    ぶ神話の世界が作り上げられているといえる。

    本章では、この神話を「三姉妹神話」と呼んでいるが、この神話に登場する「オモト大アルジ」

    という神がもう一つの記述で登場している。その記述は、宮良・白保の両村の御嶽の由来譚で

    ある。ここで、これらの2つの記述と八重山において口頭で伝えられている神話との比較を行い、

    そこで現れる相違点の意味について考察したい。また、『由来記』にみられる神話がどのような

    意図で記述されているかについて考えたい。この議論において『琉球国由来記』の記述法の

    特徴が重要であると思われるため、それぞれの記述を紹介する前に、『琉球国由来記』につい

    て簡単にみていきたい。

    『琉球国由来記』(以下に『由来記』とする)は1713年に編纂される琉球王国の地誌で、全21

    巻から成る。1623年に『おもろさうし』の編集によって始まった首里王府の編纂事業の一環で

    作られる史料であり、1731年に漢文で編集される『琉球国旧記』の基になる史料となる。

    外間守善によれば、その規模を考えれば、『由来記』は「『おもろさうし』に次ぐ国家的大事

    業であっただろう」(外間, 1997: 593) という。また、後田多敦は、『由来記』が、『女官大双紙』と

    共に、「羽地の改革後で、蔡温の改革以前の記録」(後田多, 2009: 28) として、蔡温の改革以

    前の国家祭祀を考える上でとくに重要な史料であることに注目している。

    『由来記』と『琉球国旧記』の編集の目的を比較している、島村幸一は、『由来記』の序文

    にそれを求め、その序文に次のように解説を付けている。

    『由来記』の序文「諸事由来記序」によれば「至 尚円王。而礼法大備矣。奈何文契未ロ盛。

    典記不備。是故本国。凡 禁城諸公事。及毎年毎月。所 有儀式。其所 由来 者。至 今

    無 従考稽焉」(尚円王の時代になって礼法は大方備わったが、それを記すのは充分ではな

  • - 28 -

    く典記は備わってはいなかった。それ故、当国には王城における公事や毎月ある儀式の由

    来は今に至るまで知ることができない)とあり、時の王が「旧規由来寄奉行 向維屏仲里按司

    朝英」、「同中取 穎徳安糸数親雲上恵秀 向維藩源河親雲上朝忠 向弘業宇久田親雲上

    朝遇」に「典記」の「大修」を命じ、命を受けた「臣等」は「竭 心励 力。恭攷 御双紙。更尋イ

    遺老隠士ア。悉細問答。闕 疑存信。新修典記乙冊」(精一杯力を尽くして、この双紙を作成

    するために遺老隠士に尋ね、細かく聞き出して疑わしいところは削り信ずるに足るものは残し

    て、新たに典記を編集して)、「上覧」した書であると記している。

    (島村, 2015: 29)

    その内容から考えると、『由来記』は、王城内での祭祀と地方で行われる祭祀に関する記述

    を行い、官と民の両方をカバーしようとするものとなっている。『由来記』の構造を解説する波照間

    永吉は、『由来記』の記述に見られるこの官・民の分類にも注目している。また、構造から考えれ

    ば、首里・那覇の都市部を扱う巻1から11までと、「イナカ」(田舎)と呼ばれる島尻、中頭、国頭、及

    び沖縄本島と周辺離島(ハナレ)と宮古・八重山の両先島を扱う巻12から21までという2つにも分け

    ることができることに注目している(波照間, 1997: 568-569) 。波照間によれば、「この両者のあり

    かたを総合的にみると、首里の王城を核点として、中心から周辺へという配置構造になっているこ

    とがわかる。これは『おもろさうし』の全体構造ともある部分で重なりをみせるものであり、王府の修

    史事業の根本を考える上で興味深い」(波照間, 1997: 569) という。

    本来の『由来記』の編集過程に関する研究では、編集のプロセスが重視されてきた。そのよう

    ななか、『由来記』の記述の形式が記述される地方・巻ごとに異なる理由について議論されてきた

    (中山・富村・宮城, 1990; 宮城, 1979; 小川, 1987等) 。『由来記』の編集を行うにあたって王府か

    らの一定の調査様式を定まったとする伊波普猷によって出されて本来の通説に対して、津波高

    志が年中祭祀の記述の形式の分析を通して反論している。津波によれば、『由来記』の記載形式

    において沖縄本島と離島・先島という2種類の形式が存在し、「沖縄本島に関しては間切の枠内

    で各村落の祭祀場ごとに分けて記載する形式になっており、離島・先島に関しては間切あるいは

    それ以下のレベルまたは上のレベルを枠にして一括して暦順で記載する形式となっている」(津波,

    1988: 5)という。また、巻ごとの記述法に関する議論をまとめる伊從は、「各所祭祀の記述にの不

    統一は、もともと、首里城と首里城下の聖地と祭祀の編集方針が二つ以上あったために必然的に

    生じたもの」(伊從, 2005: 56) だと論じている。

  • - 29 -

    一方では、近年の研究では、具体的な編集の過程よりは、編集に使われた「報告書」と『由

    来記』の内容の比較研究が盛んに行われるようになっている(島村, 2015; 波照間, 1997; 玉城,

    2002) 。伊從勉は、この問題に関する先行研究をまとめ、ぞれぞれの地方でまとめられる報告

    書と『由来記』の関係について、「地方に寄せられた報告書を、形式をある程度巻ごとに統一し

    たものの、地方単位の報告の特性を崩さずに集成したものが、『由来記』であった」 (伊從,

    2005: 63) と結論付けている。

    波照間は、『由来記』に使われた報告書を「基礎資料」と呼び、『由来記』をまとめられるた

    めの取捨選択の作業のありかたについて次の6点を指摘できるという。

    ① 基礎資料を集め、それを中央(中心)と地方(周縁)の二つに分類し、後者を「各処祭祀」と

    位置づけ、首里・那覇に近い地域から遠い地域へと配列する巻構成をとっていること。

    ② 中央部分の巻々は、性格を異にする事物についての記録を「琉球国由来記」という名の

    もとに編集しようとしたためであろうか、「諸事」の「由来」を寄せ集めた感を抱かせるものと

    なっていること。つまりそれは、各巻独自の記述および編集方針に従っており、いわば

    「各巻独自編集」とでもいうようなものとなっていること。

    ③ 項目の配列については、基礎資料の配列に拘わらず、編集方針に従った改変をなして

    いること。また、基礎資料のうちのあるものについて�