添付資料1-1内閣総理大臣・文部大臣・文部科学大臣(副大臣)...

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- 13 - 添付資料1-1内閣総理大臣・文部大臣・文部科学大臣(副大臣)の 「ゆとり教育」に関する答弁抜粋 海部俊樹文部大臣(1985.12.28-1986.7.22) 104 - - 文教委員会 -5 昭和 61(1986)年 04 09 135 ○海部国務大臣 ゆとり教育という言葉もお出し願いましたが、確かにこの前は、現場にもう少 しゆとりを差し上げよう、現場の先生の創意工夫でもうちょっと人間教育もしていただいたらいいん じゃないか、三十三時間の標準時間も二十九時間にして、教えなきゃならぬ内容も少なくして、ゆと りとしてどうぞと言って差し上げたつもりでございましたが、どうもそうはいかなくなっちゃって、 上の方の天井が片づかなければ、もらったゆとりだけではどうにもならぬではないか。上のレベルを 変えろ、例えば入学試験とか、その上にある有名校とか学歴社会とか、天井には雲がいっぱいあるん だというような状況ですと、そこを突破していかなければなかなかゆとりある教育、心の教育といっ てもできにくいのではないだろうかという反省等もいたします。 大島理森文部大臣(2000.7.4-2000.12.5) 150 - - 文教・科学委員会 -2 平成 12(2000)年 11 02 11 ○国務大臣(大島理森君) ゆとり教育という、そのゆとりという言葉にやはりこれはちょっと 誤解を与えている部分もある。 150 - - 文教委員会 -2 平成 12(2000)年 11 10 51 ○大島国務大臣 ゆとり教育に対する御心配を、国語問題を中心にして今聞かれましたが、やは り国民の皆さんからも御心配の声があります。(中略)そのゆとり教育というのは、いわゆる学力の 実質化をねらっている。 遠山敦子文部科学大臣(2001.4.26-2003.9.22) 154 - - 文部科学委員会 -3 平成 14(2002)年 02 27 42 ○遠山国務大臣 ゆとり教育といいますか、昭和五十年代から、教育課程のあり方について、少 し時間的なゆとりを持たせながら、子供たちにみずから考える力なりあるいは自由な発想を伸ばすな りというような姿勢で来たということは、私は、それは一つの教育の理念として尊重されるべきもの だと思いますし、今日もそれを継承しているわけでございます。 154 - - 文部科学委員会 -9 平成 14 年(2002)04 24 7 ○岸田副大臣 ゆとりという言葉が登場してからこの二十五年間のゆとり教育についての問題点これにつきましては真剣に受けとめなければいけないというふうに思います。 ただ、一つちょっと整理しておかなければいけないと思いますのは、ゆとり教育というもの、その スタートがどこからと考えるかによってちょっと年数は違うかと思いますが、約二十五年間、こうし てゆとり教育というものが言われてきました。 (中略)ゆとり教育におけるいろいろな問題点を踏ま えた上で、ことし四月から、そういった新しい体制、一律に行われる教育から個々に応じた教育に切 りかえたというのが今日の姿であります。 155 - - 文教科学委員会 -2 平成 14(2002)年 11 07 32 ○副大臣(河村建夫君) 大臣が今年早々に「学びのすすめ」ということもうたいまして、決し てゆとり教育というのは教育を緩みを求めている教育じゃありませんよということを強調しながら 「学びのすすめ」を出して、それに基づいて各学校ではそのお取組をされた結果、そうした発展的な 学習もやろうということでお取組をいただいているということは、私はこれは大変結構なことだとい うふうに思っております。 156 - - 予算委員会第四分科会 -1 平成 15 02 27 337 ○河村副大臣 ゆとりというのが何か緩みのようにとられた、ゆとりだからそんなに勉強しなく ていいんだというふうにとられたんではないかという懸念があったものですから、これは大臣の方か ら、そういうことではないので、やはり基礎、基本をまずしっかり学ぶことが第一ですよと。

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Page 1: 添付資料1-1内閣総理大臣・文部大臣・文部科学大臣(副大臣) …tsatou/leftsidemenu/yutori/... · 「ゆとり教育」に関する答弁抜粋 海部俊樹文部大臣(1985.12.28-1986.7.22)

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添付資料1-1内閣総理大臣・文部大臣・文部科学大臣(副大臣)の「ゆとり教育」に関する答弁抜粋

海部俊樹文部大臣(1985.12.28-1986.7.22)104 - 衆 - 文教委員会 - 5 号 昭和 61(1986)年 04 月 09 日135 ○海部国務大臣 ゆとり教育という言葉もお出し願いましたが、確かにこの前は、現場にもう少しゆとりを差し上げよう、現場の先生の創意工夫でもうちょっと人間教育もしていただいたらいいんじゃないか、三十三時間の標準時間も二十九時間にして、教えなきゃならぬ内容も少なくして、ゆとりとしてどうぞと言って差し上げたつもりでございましたが、どうもそうはいかなくなっちゃって、上の方の天井が片づかなければ、もらったゆとりだけではどうにもならぬではないか。上のレベルを変えろ、例えば入学試験とか、その上にある有名校とか学歴社会とか、天井には雲がいっぱいあるんだというような状況ですと、そこを突破していかなければなかなかゆとりある教育、心の教育といってもできにくいのではないだろうかという反省等もいたします。

大島理森文部大臣(2000.7.4-2000.12.5)150 - 参 - 文教・科学委員会 - 2 号 平成 12(2000)年 11 月 02 日11 ○国務大臣(大島理森君) ゆとり教育という、そのゆとりという言葉にやはりこれはちょっと誤解を与えている部分もある。

150 - 衆 - 文教委員会 - 2 号 平成 12(2000)年 11 月 10 日51 ○大島国務大臣 ゆとり教育に対する御心配を、国語問題を中心にして今聞かれましたが、やはり国民の皆さんからも御心配の声があります。(中略)そのゆとり教育というのは、いわゆる学力の実質化をねらっている。

遠山敦子文部科学大臣(2001.4.26-2003.9.22)154 - 衆 - 文部科学委員会 - 3 号 平成 14(2002)年 02 月 27 日42 ○遠山国務大臣 ゆとり教育といいますか、昭和五十年代から、教育課程のあり方について、少し時間的なゆとりを持たせながら、子供たちにみずから考える力なりあるいは自由な発想を伸ばすなりというような姿勢で来たということは、私は、それは一つの教育の理念として尊重されるべきものだと思いますし、今日もそれを継承しているわけでございます。

154 - 衆 - 文部科学委員会 - 9 号 平成 14 年(2002)04 月 24 日7 ○岸田副大臣 ゆとりという言葉が登場してからこの二十五年間のゆとり教育についての問題点、これにつきましては真剣に受けとめなければいけないというふうに思います。

ただ、一つちょっと整理しておかなければいけないと思いますのは、ゆとり教育というもの、そのスタートがどこからと考えるかによってちょっと年数は違うかと思いますが、約二十五年間、こうしてゆとり教育というものが言われてきました。(中略)ゆとり教育におけるいろいろな問題点を踏まえた上で、ことし四月から、そういった新しい体制、一律に行われる教育から個々に応じた教育に切りかえたというのが今日の姿であります。

155 - 参 - 文教科学委員会 - 2 号 平成 14(2002)年 11 月 07 日32 ○副大臣(河村建夫君) 大臣が今年早々に「学びのすすめ」ということもうたいまして、決してゆとり教育というのは教育を緩みを求めている教育じゃありませんよということを強調しながら「学びのすすめ」を出して、それに基づいて各学校ではそのお取組をされた結果、そうした発展的な学習もやろうということでお取組をいただいているということは、私はこれは大変結構なことだというふうに思っております。

156 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 1 号平成 15 年 02 月 27 日337 ○河村副大臣 ゆとりというのが何か緩みのようにとられた、ゆとりだからそんなに勉強しなくていいんだというふうにとられたんではないかという懸念があったものですから、これは大臣の方から、そういうことではないので、やはり基礎、基本をまずしっかり学ぶことが第一ですよと。

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156 - 参 - 行政監視委員会 - 4 号 平成 15(2003)年 05 月 12 日41 ○副大臣(河村建夫君) 何かこうゆとり教育が何か教育の緩みというふうに誤解された面もあるやに感じがいたしておりまして、その点残念に思っておるわけでございますが、これからの非常に変化の厳しい時代を生き抜く子供たちが自ら物を考え、自ら行動し、自立していく、そういうことが非常に必要でございます。

156 - 参 - 文教科学委員会 - 23 号 平成 15(2003)年 07 月 24 日10 ○副大臣(河村建夫君) 日本の今目指しておるゆとり教育と言われるそういうものは、大臣からも御答弁あって、お話があったとおりでございまして、決して緩みがあってはなりませんし、かといって、かつてのような過剰なといいますか、上から押し付け、画一的であり、かつ偏差値で輪切りをするような教育、これに対する反省から、もっと時間的なゆとりとか心のゆとりとか、そういうものが必要ではないかと。

河村建夫文部科学大臣(2003.9.22-2004.9.27)159 - 参 - 予算委員会 - 11 号 平成 16(2004)年 03 月 16 日174 ○国務大臣(河村建夫君) ゆとり教育が学力低下を来したんではないかと、こういう話、私の耳にも入っているわけでございます。(中略)ゆとり教育と言われますけれども、その時間を、土曜日を休みにしていったその時間をどういうふうに使うかということ、これはやっぱりもっと基礎、基本に力を入れていくべきだというところで、今すぐ学ばなくていいものは削減をしたという嫌いがございます。

しかし、それがややもするとゆとりが緩みというふうに取られて、もう勉強しなくていいんだというふうに取られては困る。

159 - 衆 - 文部科学委員会 - 5 号 平成 16(2004)年 03 月 17 日101 ○河村国務大臣 ゆとり教育即学力低下、こういう話に今なってきておるわけでありますが、(中略)学ぶ意欲はどうかとか、ゆとり教育が何か緩み教育にとられて、学びを少し緩めていいんじゃないかというふうにとられたということは、これは非常に心配なことですから、このことは、やはり学校現場において学力低下を来してはならない。

159 - 参 - 文教科学委員会 - 5 号 平成 16(2004)年 03 月 25 日83 ○国務大臣(河村建夫君)しかし、先ほど来お話しのように、ゆとり、文部科学省はゆとり教育という名前を付けたわけではないんでしょうが、ゆとりということがややもすると緩みといいますか、何かそういう方向に取られた嫌いがあって、まあ正直言ってちょっと慌てたわけですね、こんなはずじゃなかったかと。

159 - 衆 - 文部科学委員会 - 8 号 平成 16(2004)年 03 月 31 日11 ○河村国務大臣 ゆとり教育、ゆとり教育、こう言われます。ゆとり教育という言葉をきちっと文部科学省が定義づけたことは一度もないのでありますが、今まさにとろうとしている、土曜日を休みにしながら、そして学ぶ上において心にゆとりを持って、意欲をもっと増すような教育をしようという、かつての詰め込み教育と言われたものの一つの反省からこういう言葉が生まれ、またこういう仕組みといいますか、そういうふうな方向になってきたと思います。(中略)人間力、考える力、あるいは対人関係とか、そういうものをつけようとすれば、やはりゆとりを持って、机上、単なる机の上での読み書きだけじゃなくて、社会現象に応じた、いわゆる総合学習というんですが、外に出ながら、また現実の事象を見て、そしてみずからそれを体験する、そういう学習もやはりどうしても必要になってきますから、そういう意味での体験的な、問題解決的な学習もその中に入れている。そういうものを総じて言うならば、それがゆとり教育と言われるものであろうかなと思います。

だからといって、そのゆとりが緩みになって、学ばなくていいんだということにとられたらこれは大変ですから、途中で遠山大臣の当時に「学びのすすめ」というようなアピールをされた。(中略)私は、今のゆとり教育という言葉が、ややもするとすぐそれが緩み教育にとられるような感じがするので、余りゆとり教育、ゆとり教育と言うと、何かもう学ばなくていいんじゃないかというようなイメージがありますから、こういうふうにとられると困るわけでありますが、総合的に考えたときに、やはり心に余裕を持って、学ぶ余裕を持って、意欲を持たせるような教育が今は求められているんだ、そういう方向で今やっているんだということですね。

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中山成彬文部科学大臣(2004.9.27-2005.10.31)161 - 衆 - 文部科学委員会 - 5 号 平成 16(2004)年 12 月 01 日11 ○中山国務大臣 まず、我が国の子供たちの学力はどうか、新学習要領によりまして上がったのか下がったのかという御質問でございますが、これにつきましては、まだそれこそいわゆるゆとり教育というのが始まって間もないわけでございまして、その結果がどうなったかということを検証するにはまだ早いかと思うわけでございますけれども、

162 - 衆 - 予算委員会 - 2 号 平成 17(2005)年 01 月 27 日33 ○中山国務大臣 何のために勉強しなきゃいかぬのかという動機づけといいますか、学習意欲が落ちてきているのじゃないかということが心配でございまして、これまで、いわゆるゆとり教育という名前で呼ばれてきました。知識を詰め込むだけではなくて、その基本的な知識を生かして自分の頭で考えて判断して行動する、そういう人間力といいますか、たくましい子供たちを育てようということだったんですけれども、どうもその本来の趣旨に合わないような結果が出ているということについてどう考えたらいいのか。

162 - 参 - 予算委員会 - 3 号 平成 17(2005)年 02 月 01 日29 ○国務大臣(中山成彬君) 今御指摘ありましたゆとり教育というのも、元々は基礎的な知識をしっかり付けて、それを基にして自ら考え判断し行動する、そういう意味で人間力といいますか、たくましい力を持った子供たちを育てようということだったんですけれども、どうもこの本来の目的に外れているんではないかということを私たちはしっかり認識しなきゃいけないと。

162 - 衆 - 予算委員会 - 7 号 平成 17(2005)年 02 月 07 日238 ○中山国務大臣 ゆとり教育の中で、ある意味じゃ子供たちを信頼していたということもあるんでしょうけれども、どうも、ゆとり教育という言葉はなかったんですけれども、要するに、勉強はしなきゃいけないときにすればいいんだ、基礎的、基本的なことをきちっとやっておけばいいんだ、あとは自分たちで考え、判断するんだ、そういうふうな、まあ何といいますか、勉強はしなくてもいいんだ、そういうメッセージを子供たちに送ることになったり、先生方も若干そうしたことを考えておられたとしたら、それはちょっと間違ったんだろうな、こう思うわけでございます。

162 - 衆 - 文部科学委員会 - 2 号 平成 17(2005)年 02 月 23 日29 ○中山国務大臣 要するに、基礎、基本をしっかり身につけて、みずから考え、判断し、行動できる、そういうたくましい子供たちを育てるんだということだったんです、いわゆるゆとり教育というのは。65 ○中山国務大臣 確かに、学力調査というのは、今回だけじゃなくて何回かにわたって過去からずっとやられてきたわけでございますが、子細に点検いたしますと、やはりその調査ごとに下がってきているということは、これはもう否めない事実じゃないか。低下傾向といいますか、低下傾向にあることは否めない事実ではないか、これは私のみならず、文部科学省の事務方も認識していたと思うんですけれども。

これがゆとり教育の結果ではないかということについては、まだ論証といいますか検証は済んでいないわけで、今回そういったことも含めて、全般について見直そう、こう思っているわけでございまして、67 ○中山国務大臣(中略)そういった中で、私たちは、今までやってきた指導要領、現行学習指導要領、これは誤解を与えましたが、いわゆるゆとり教育といったものが一体どのように実際に現場で行われているか。もう三年たちますので、やはり検証する必要があるんじゃないかということもありまして、私ども、今、全国三百校ぐらいの学校を回ろうじゃないか。69 ○中山国務大臣 私が申し上げたいのは、どういう時代になっても、やはりたくましく生き抜いていく、そういう子供たちを育てておかないと、せっかくこの世に生まれてきた子供たち、幸せな人生を送れないんじゃないか。何とか、これからを生きる子供たち、せっかく生まれてきたんですから、その人生が幸せなものであってほしい、有意義なものであってほしい、そのために子供たちを育てるという意味で、ゆとり教育もその線に沿ったものだろうと私は思っています。130 ○中山国務大臣 どうもマスコミの方々はつい極端にいろいろ表現したがるものですから、このねらいがゆとり教育ということで、子供たちに、勉強しなくてもいいんだ、あるいは先生方も、これはもう最低限で、これ以上教える必要はないんだ、そういう間違ったメッセージを送ることになるよ

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うな、そういう風潮が多分ですから、軌道修正ではないんですけれども、そうじゃないんだよということをいろいろと私は遠山大臣以下ずっとやってこられたんじゃないか、こう思うわけでございます。今回も、決してゆとり路線を変えようとかそういう話では全くないということは御理解をいただきたいと思っています。

162 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 1 号 平成 17(2005)年 02 月 25 日126 ○中山国務大臣 日本の子供たちの学力が低下してきているんじゃないか、このことはいろいろなところから言われてきたところでございますが、特に、昨年末に公表されました国際的な学力調査の結果を見ますと、日本の子供たちの学力は低下している、低下傾向にあるということは認めなきゃいけませんし、やはりこれは深刻に受けとめるべきじゃないかな、こう思っております。

なぜそうなったのか、なぜ学力が低下してきたのか。これについては、ゆとり教育のせいじゃないかというようなことも言われますが、私は、必ずしもそういうことだけではなくて、

160 ○中山国務大臣 私は就任以来、今やってきているいわゆるゆとり教育と言われるもので本当にいいのかと。

162 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 2 号 平成 17(2005)年 02 月 28 日55 ○中山国務大臣 今、原田議員から、今まさに私ども文部科学省が正面から取り組んでおりますいわゆるゆとり教育の見直しといいますか、検証についての御質問があったわけでございます。

162 - 衆 - 文部科学委員会 - 4 号 平成 17(2005)年 03 月 09 日45 ○中山国務大臣 いわゆるゆとり教育とか言われていますが、現行の学習指導要領がねらいとしております基礎、基本をしっかり身につけさせて、その上で、みずから考え、判断し、行動する、そういう主体性のあるといいますか生きる力を持った子供たちを育てたい、この理念といいますか、これは間違っていないと思うんですが、果たしてそれがそのようになっているんだろうかということを検証しなければいけない。

162 - 衆 - 文部科学委員会 - 5 号 平成 17(2005)年 03 月 11 日180 ○中山国務大臣 私は、このゆとり教育が本来目的としていたもの、基礎、基本をしっかり身につけさせて、その上で子供たちがみずから考え、みずから判断して行動する、こういう主体性のあるといいますか、私はよく思うんですが、指示待ち人間じゃなくて自分で課題を見つけて解決していくような、そういう子供たちがこれからの時代には絶対必要なんだ。特に、これから日本はトップランナーになって走っていかなければいかぬわけですから、これまでとは違うんだというそういう思いでいたわけでございます。

162 - 参 - 文教科学委員会 - 2 号 平成 17(2005)年 03 月 15 日50 ○国務大臣(中山成彬君) このゆとり教育が叫ばれたころのことを思い出してみますと、受験戦争とか受験地獄とか、あるいは偏差値偏重だとかいろんなことを言われまして、やっぱりそれじゃいけないんじゃないかという反省もあって、やっぱりゆとり教育といいますか、できるだけ教科内容は削減しながら、やっぱり基本的なものをしっかり覚え込ませて、そしてもっと自ら主体的に行動できる、そういう子供たちを育てていこうと。このことは私はその当時としては間違ってなかったと思うんですが、正に御指摘のように時代が変わってまいりまして、日本の取り巻く環境も変わってきたということじゃないかと思います。

162 - 参 - 文教科学委員会 - 3 号 平成 17(2005)年 03 月 18 日○国務大臣(中山成彬君) いわゆるゆとり教育というのがずっと進められているけれども、どうもゆとり教育というのは子供たちに間違ったメッセージを与えていると、勉強はしなくてもいいんだと。また、先生方にも、これだけ教えればいいんだという間違ったメッセージを与えているんじゃないか

162 - 参 - 文教科学委員会 - 4 号 平成 17(2005)年 03 月 22 日98 ○国務大臣(中山成彬君) このPISAの調査のような試験に強くなるようにということでこのゆとり教育といいますかね、これを進めてきたわけですね。

ところが、現実問題としてはそうじゃないということが分かったわけで、これは自分たちが今までゆとり教育と言うよりも、現行の総合学習で指導いろいろやってきたことが、どうもうまくいっていないなということが分かったということについては、これ自ら反省するという面で、私はこれは厳粛に受け止めるべきだと。

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162 - 参 - 文教科学委員会 - 5 号 平成 17(2005)年 03 月 29 日157 ○国務大臣(中山成彬君) いわゆるゆとり教育というのは、昭和四十年代に学校教育が画一的で知識詰め込み型であるという指摘がなされたこと等を踏まえまして、昭和五十二年の改訂でゆとりある充実した学校生活の実現を図るために導入されたものでございます。159 ○国務大臣(中山成彬君) 生きる力というもの、自分の頭で考えて判断して行動できる、そういうたくましい子供たちを育てようじゃないかということからこのゆとり教育がずっと言われてきたわけでございます。私は、そういう意味でのゆとり教育というものは、これは間違ってなかったと思うんです。

162 - 衆 - 文部科学委員会 - 13 号 平成 17(2005)年 06 月 10 日○中山国務大臣 いわゆるゆとり教育と言われておりますけれども、私は、基礎、基本的な知識をしっかりと身につけさせて、それをもとにして子供たちが自分の頭で考え、判断して行動する、そういう生きる力といいますか、主体性のある子供に育てるということは絶対に必要なことであると思いますし、このゆとり教育がそういったことを目標としているということについては大賛成なのでございますが、

小坂憲次文部科学大臣(2005.10.31-2006.9.26)164 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 2 号 平成 18(2006)年 03 月 01 日202 ○小坂国務大臣 時間数の削減とか、そういったものは決してゆとり教育の中身、目的ではないわけでありまして、(中略)ゆとり教育として目指そうとしたものは、教科では単純に割り切れない、教科にまたがる、福祉とかあるいは環境とか今日的課題について、そういうものを学ぶ時間を設けて、そして、そういった教科にとらわれない教育を推進していこうというのが基本的な考え方であり、(中略)私は、このゆとり教育の基本的な考え方、その趣旨は間違いではない、間違ってはいないと思っております。

164 - 参 - 文教科学委員会 - 2 号 平成 18(2006)年 03 月 16 日14 ○国務大臣(小坂憲次君) 総合的な学習の時間含めたこのゆとり教育全体に対しての国民の皆さんの理解というものをやはり再度求めなきゃいかぬと思っております。

すなわち、ゆとり教育が学力低下をもたらしたんではなくて、むしろそのゆとり教育の目指したところが何であったかを皆さんにはっきり理解していただくことが必要だったということだと思っております。

168 ○小坂国務大臣 ゆとり教育の本来の目的としたところはそれなりに理解をいただいていたはずなんでございますが、実際の取り組みの中で、具体的な手段が確立していなかったためにいろいろな迷いが現場にあったと思います。

したがって、期待したような成果があらわれなかった部分がありまして、私どもとしては、ゆとりの教育の時間を使って、例えば総合学習の時間を使って、いろいろな取り組みの中ですばらしい体験学習をしている事例はたくさんございます。そういったものが読解力の向上に役立つだとか、あるいは理数系の今弱いと言われているような部分に資するというような活動だってそんな中に取り込めるわけでございますので、今申し上げたような環境教育やあるいは福祉の教育といった、教科にまたがる教育を実施する場所としても、また、体験学習を進める場所としても、ゆとり教育の実際の活用例の中からすばらしい事例を各学校に、現場の先生方に参考にしていただいて取り組んでいただくことで、ゆとり教育が目指した本当の目標をしっかりととらえて進めるようにしていきたい、このように考えております。

伊吹文明文部科学大臣(2006.9.26-2007.9.26)165 - 衆 - 教育基本法に関する特別委員会 - 5 号 平成 18(2006)年 11 月 01 日101 ○伊吹国務大臣 ゆとり教育の評価は、人によっていろいろあると思います。これを導入した基本的な考え方は、最低限の学力、規範その他を身につけた生徒、学生が、現実の事象に対してその知識をどのように活用し、応用していくか。ですから、知識だけの詰め込みじゃなくて、応用のやり方をぜひ学んでもらいたいという意図があったと思うんです。

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165 - 衆 - 教育基本法に関する特別委員会 - 11 号 平成 18(2006)年 11 月 14 日95 ○伊吹国務大臣 週五日制を含めてゆとり教育というのは、やはり、発足したときの考えからすると、現実は、非常に不完全に、そして不幸に使われていると私は思いますね。知識を応用していくためにはどういう勉強をするのかという目的のために実はゆとり教育という発想が出てきたと思うんですが、その間、実際のゆとり教育の現場で何が行われているかということを考えますと、どうも最初のアイデアと少し違うんじゃないかという気が私はしております。ですから、ゆとり教育が悪いというんじゃなくて、ゆとり教育という言葉のもとで現場で行われている運用について私たちは少し考えて、そして文部科学省としての考え方を教育委員会にお伝えしなくちゃいけないなと、これは一つそういうことです。

165 - 参 - 教育基本法に関する特別委員会 - 1 号 平成 18(2006)年 11 月 22 日31 ○国務大臣(伊吹文明君) ゆとり教育というのは、本来、基礎をマスターした中で、それを実社会にうまく適用できるということを目指して実は学習指導要領を作ったものなんですが、現実は残念ながら少し運用に私は誤りというか行き過ぎがあると思います。しかし、そのことでゆとり、今、当初考えたゆとり教育を否定するということは、少し私は慎重でありたいと思います。

165 - 参 - 教育基本法に関する特別委員会 - 4 号 平成 18(2006)年 11 月 28 日253 ○国務大臣(伊吹文明君) 今おっしゃったような勧告を受けて、例えば学習指導要領を見直してゆとり教育を導入したわけですよ。その結果、今大変な非難に国内的にはさらされています。学力は低下してきているということ。私は、ゆとり教育というのはむしろ運用の面で非常に不幸な運用をされちゃっているんじゃないかという評価をしているんですが。287 ○国務大臣(伊吹文明君) そこへゆとり教育ということをやりました。私は、ゆとり教育という考えは私自身は間違ってないと理解しているんですが、実際の運用はかなり不幸にゆとり教育の時間が使われているというようなこともございます。

165 - 参 - 決算委員会 - 3 号 平成 18(2006)年 12 月 04 日25 ○国務大臣(伊吹文明君) ゆとり教育につきましては、まあ率直なところ、これについてはいろんな御意見があると思いますが、本来ゆとり教育を導入したゆえんのものは、基礎学力を十分マスターして、それを現実の社会に適応していく能力を養う総合学習というものを設けたと、これがゆとり教育と言われている部分なんですが、これが実は現場の運用において大変私は不幸に運用されていると思います。これが先生の御指摘がある程度私は当たっているんじゃないかと思いますのは、基礎学力を十分身に付けずに基礎学力の応用をしろなんということはどだい間違っているんですよね。

ただ、ゆとり教育の本来の考え方が私は間違っていたとは思いませんので、今の御指摘も踏まえて、ゆとり教育の現場の運用については少しやっぱり見直さないといけないんじゃないかと。

165 - 参 - 教育基本法に関する特別委員会 - 8 号 平成 18(2006)年 12 月 05 日267 ○国務大臣(伊吹文明君) ゆとり教育というのは、私はこのこと自体が悪いんではなくて、基礎学力を持った人たちが基礎学力を応用するために総合学習というこまをつくっているわけで、実は基礎学力を十分教えずに応用をやろうとしたって、これは無理なんですね。それで、現実に起こっていることは、このいわゆるゆとり教育と言われるものが大変不幸に私は運用されていると思います。いや、ゆとり教育そのものが悪いとは私は思いません。だから、運用のやり方その他はかなり直していかなければならないと思いますし、学習時間の問題については、やはりこれは納税者、父兄その他が現在の学校教育の在り方についてどう考えているかということを、やはり慎重に意見を伺いながら対処していくべき課題だと思っております。

166 - 衆 - 本会議 - 2 号 平成 19(2007)年 01 月 26 日3 ○内閣総理大臣(安倍晋三君) 教育改革を実効あるものとするため、六十年ぶりに改正された教育基本法を踏まえ、関係法律の改正案を今国会に提出するとともに、新たに教育振興基本計画を早期に策定します。すべての子供に必要な学力を身につける機会を保障するため、ゆとり教育を見直し、必要な授業時間を確保するとともに、学習指導要領を改訂し、国語力の育成、理数教育、道徳教育の充実など、公教育の再生に取り組みます。

166 - 参 - 本会議 - 2 号 平成 19(2007)年 01 月 26 日2 ○内閣総理大臣(安倍晋三君) 教育改革を実効あるものとするため、六十年ぶりに改正された教育基本法を踏まえ、関係法律の改正案を今国会に提出するとともに、新たに教育振興基本計画を早期に策定します。すべての子供に必要な学力を身に付ける機会を保障するため、ゆとり教育を見直し、

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必要な授業時間を確保するとともに学習指導要領を改訂し、国語力の育成、理数教育、道徳教育の充実など、公教育の再生に取り組みます。

166 - 衆 - 本会議 - 3 号 平成 19(2007)年 01 月 29 日11 ○内閣総理大臣(安倍晋三君) 新しい教育基本法を踏まえた関係法律の改正や教育振興基本計画の策定を行うとともに、すべての子供に必要な学力を身につける機会を保障するため、ゆとり教育を見直し、公教育の再生に取り組みます。また、教育現場がいじめ問題に正面から立ち向かうことを徹底いたします。さらに、教員免許更新制の導入などの教員の質の確保や信頼される教育行政体制の構築などに全力を挙げて取り組んでまいります。

166 - 衆 - 本会議 - 4 号 平成 19(2007)年 01 月 30 日4 ○内閣総理大臣(安倍晋三君) いわゆるゆとり教育と土曜日の活用についてお尋ねがありました。

知識を身につけ、それを活用する力をはぐくむゆとり教育の理念は重要でありますが、それを実現し、すべての子供に必要な学力を身につけさせるための具体的な方法が必要であります。

このため、必要な授業時間の確保や国語力の育成、理数教育の充実などに取り組んでまいります。また、土曜日に、地域の協力のもと、さまざまな学習や体験の場を提供することは重要であり、既

に地域により特色のある取り組みも行われております。来年度予算案に盛り込んだ放課後子どもプランなどを通じ、その振興に努めてまいります。

166 - 衆 - 予算委員会 - 6 号 平成 19(2007)年 02 月 09 日52 ○安倍内閣総理大臣 ただいま委員が御指摘をされました詰め込み、そしてゆとり。ゆとりというのは、これはだれもが、ゆとりを持った方がいい、こう思うのは当然のことだろうと思いますね。一方、詰め込みという言葉になると、詰め込みはまずいだろう、しかし他方、基礎的な学力を学んでいくのだといえば、それは当然だな、こう思う。では、どこまでが詰め込みでどこまでが基礎的なものかという判断も当然これは大切になるんだろう、このように思います。

そもそものゆとり教育についての理念、考え方は私は間違っていなかった、これは再三私も申し上げているわけであります。それは、基礎的な、基本的な知識を身につけた上で、それを活用して考える力をはぐくんでいこう、そのためにはいわゆるゆとり教育が必要であろうという理念であったわけであって、この考え方は間違っていなかったわけでありますが、しかし、理念が正しくても、結果として、なかなかうまく現実の問題としてその方向に行かないということは、これはたまに起こり得るわけであります。ですから、我々が目指すべき方向、そのための政策と結果がどうなっているかということは絶えず検証していく必要があるのだろう、このように思うわけであります。

166 - 衆 - 文部科学委員会 - 2 号 平成 19(2007)年 02 月 21 日63 ○伊吹国務大臣 ゆとり教育という言葉そのものは私たち文部科学省にはございません。むしろ、先生の先ほどの御質問のお言葉をかりて言えば、詰め込み的な知識ではなくて、基礎的、基本的な知識を身につけさせた上で、それを現実にどういうふうに応用していくかという、いわゆる総合学習という時間をとったということです。

166 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 1 号 平成 19(2007)年 02 月 28 日155 ○池坊副大臣 マスコミやその他の方々が、それぞれの思いや視点の中でゆとり教育という言葉をお使いになりますが、今、丹羽議員がおっしゃいましたように、いわゆるゆとり教育というのは、現行の学習指導要領のことで、それは単なる詰め込みではなくて、基礎、基本をもとにして、みずからが問題提起し、問題解決できる能力を身につける、いわゆる活用力だと思います。

丹羽議員が先ほどおっしゃいましたように、教育の深さこそが教育力であり、その教育力を培うのが私はゆとり教育ではないかと思っております。ですから、そういう意味で、このゆとり教育の理念は私は正しいと思っておりますけれども、それぞれの運用のところでちょっと課題があるかなという気はいたしております。

166 - 衆 - 予算委員会第四分科会 - 2 号 平成 19(2007)年 03 月 01 日82 ○伊吹国務大臣 文部科学行政上は、ゆとり教育という言葉は使っていないんですよね。この言葉は、マスコミ等がいろいろな意味でお使いになっていると思いますが、一つは、基礎学力を身につけさせた上で、それを現実に応用させる時間として総合学習という時間を、カリキュラム上、学習指導要領上とった。

この総合学習というのは、実は評点がないわけですね。そのためにこの時間が、今まさに御指摘になったように、本当に教育目的のために使われているのか、基礎学力を十分つけないまま何か無駄な

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時間になっているんじゃないか、これがゆとり教育に対する一つの批判です。それからもう一つは、授業時間がそのために足りなくなったんじゃないか。土曜日も週休二日制にしちゃったじゃないかという時間数の問題と、何かみんなごっちゃになっていろいろな人が話しているように思います。84 ○銭谷政府参考人 先ほど大臣からもお話がありましたけれども、文科省はゆとり教育という言葉は使っていないわけでありまして、基本的には基礎、基本をしっかり教えた上で、それを活用していく力を育てようということで教育課程は編成されていくべきだと私ども思っております。

166 - 参 - 文教科学委員会 - 2 号 平成 19(2007)年 03 月 15 日7 ○国務大臣(伊吹文明君) 従来、文部科学行政上、我々はゆとり教育という言葉を使ったことはありませんけれども、いわゆるマスコミ用語としてのゆとり教育は、時間数の短縮ということと総合学習ということがごちゃ混ぜに私は論じられているのではないかと思います。

166 - 衆 - 文部科学委員会 - 5 号 平成 19(2007)年 03 月 27 日7 ○伊吹国務大臣 その当時、ゆとり教育という言葉で考えられていたことと、今総合学習の中で行われている実態というのが、私はかなり理想と現実は違ってきているんじゃないかと思います。

166 - 衆 - 本会議 - 23 号 平成 19(2007)年 04 月 17 日45 ○国務大臣(伊吹文明君)最後に、いわゆるゆとり教育についてのお尋ねがありました。

基礎的、基本的な知識を身につけた上で、これを活用し、実地に適用し、考える力をはぐくんでいくといういわゆるゆとり教育の理念自体は、私は間違っていなかったと考えております。一方で、その運用について多くの問題があったということは、これまた事実でございます。

166 - 衆 - 教育再生に関する特別委員会 - 2 号 平成 19(2007)年 04 月 20 日15 ○安倍内閣総理大臣 そもそものゆとり教育の理念、考え方は、私は間違っていなかったと思います。やはり人間というのは基本的にはある意味ゆとりが必要ですから、物事を深く考える力、あるいはまた、幅広い知識を求め、そしてそれを学んでいくこと、好奇心を持って、いろいろなものになぜだろうと思いながら挑戦をしていったり、そういう知識を取り入れていこうという気持ち、そうしたことをむしろ慫慂するにはやはりゆとりというものも大切なんだろうと思いますが、それはまさに基礎的な知識、学力が身についての上のことであろう。また、そうでなければ、より深く学んだり、あるいはさらに幅を広げていくということもできないんだろうと思います。そのバランスであろうと思うわけでありますが、その理念自体は、私は決して間違っていなかったと思うわけであります。

166 - 参 - 文教科学委員会 - 16 号 平成 19(2007)年 05 月 31 日59 ○国務大臣(伊吹文明君) これは、ゆとり教育とそれから授業時間数の増というのは、ちょっと私は直接は結び付かないと思うんですね。

文部科学省はゆとり教育という言葉は一度も使ったことはございません。基礎学力を十分教え込んだ上で、それを現実に応用する力、実社会で生きていく力を養うためにという建前で総合学習という時間を実は取ったわけです。総合学習を皆さん、ゆとり教育と、こうおっしゃっているわけですが、この考えは私は間違ってはいないと思うんですね。

ただ、現実の運用で残念ながら、ゆとり教育と言われる学習指導要領は、点数も付けませんし、比較的自由な時間なんですね。ですから、基礎的な知識を十分身に付けないまま、やや子供の主体性や興味本位あるいは関心本位に先生がその時間を流されたという、流されたというか使い流されたという指摘が一部にあることは確かです。

ですから、そのことに問題があるんであれば、ゆとり教育と言われる総合学習の在り方を学習指導要領の中で少し変えていくとか、あるいは総合学習の時間を少し少なくして、そして基礎の学力の時間を増やしていくと。これは全体の時間数は増えないんですよ、このやり方をやっても。

渡海紀三朗文部科学大臣(2007.9.26-2008.8.2)

168 - 衆 - 文部科学委員会 - 2 号 平成 19(2007)年 10 月 24 日7 ○渡海国務大臣 このゆとり教育という言葉、この言葉をどうとらえるかということもあろうかと思います。文部科学省としてはそういう言葉は余り使っていないということもよく言われるわけでありますが、しかし、社会でこれが一般的になっていることも事実だというふうに思っております。そういう前提に立って、この理念というのは、先生もおっしゃいましたように、基礎的、基本的な知識

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技能を身につけ、それらを活用する思考力や判断力を育成する、こういうことであろうと思います。そして、このことは、今回の中教審の議論においても基本的には変わらないというふうに認識をい

たしておりますし、私も、この基本的な考え方は正しいというふうに考えておるところでございます。ただ、御指摘をいただきましたように、ではどうして学力が低下したのか、こういったことを考え

てみますと、この理念のもとで行ってきたいろいろなことにやはり反省すべき点があるのではないかな。これは率直に認めなければいけない。

168 - 参 - 文教科学委員会 - 3 号 平成 19(2007)年 11 月 15 日89 ○国務大臣(渡海紀三朗君) 生きる力というのは、そういうとらえ方もありますし、ただ、よく言われておりますのは、知識だけあっても、具体的に社会へ出てそれを応用して活用していく力がなければ、実は現実に人間社会で大人として生きていくことは難しいじゃないかと。そのために、詰め込みじゃなくて、考える、そういった時間を教育の現場でもっとつくろうというふうに言われたほどでございます。

文部科学省は、聞いてみたら、そうだったってみんな言っているじゃないかと言うんですが、私はいつも。だけど、一度も使ったことは、生きる力というか、ゆとり教育かな、は使ったことがないということを言っていますが、そういう意味で、生きる力、応用力というものを大事にしたいと。これは今も変わっておりません、理念として。

168 - 参 - 文教科学委員会 - 4 号 平成 19(2007)年 12 月 25 日17 ○国務大臣(渡海紀三朗君) ゆとり教育というのは実は、簡単に言いますと、できるだけ自分で考える力、それを活用する力というものを生み出すために言われた言葉だというふうに理解をいたしております。

169 - 衆 - 文部科学委員会 - 2 号 平成 20(2008)年 03 月 18 日55 ○渡海国務大臣 前回の改訂でのゆとり教育という考え方、生きる力という考え方が、現場になかなかしっかりとおりていなかったという反省があります。(中略)

ただ、ゆとり教育という言葉そのものがどうも何か誤解をされて、何となくゆったりやればいいんだと。そういうことではなくて、やはり生きる力というのは、単に知識を詰め込むのではなくて、それをちゃんと応用をして、活用をして、表現をして使える力を養うということであったというふうに、十年前でございますから、聞いております。

169 - 参 - 文教科学委員会 - 2 号 平成 20(2007)年 03 月 25 日251 ○国務大臣(渡海紀三朗君) ゆとり教育というのは、私が理解している限り、十年前の改訂でこの生きる力で授業の時間を減らしたり、それから内容も少し減らしたりした。そのことを一般的にゆとり教育と自然に呼ぶようになったというふうに、どういいますか、理解をいたしております。メディアが作った言葉だとも言われておるわけでございますが。

169 - 衆 - 決算行政監視委員会第二分科会 - 2 号 平成 20(2008)年 04 月 22 日112 ○渡海国務大臣 ゆとり教育というのは、十年前の指導要領の改訂で、できるだけ詰め込みではなくて、もっと自分で考える力をつくろう、理念は当時も生きる力とおっしゃっていたと思いますが、そういう議論がされまして、そのことで授業数を少し減らして、自分で考えられるような、総合学習のような、こういう授業を取り入れた。そのことから、主にメディアが使ったと言われておりますが、これはゆとりなんだ、もっと余裕を持って考えられるようにしようといったようなことから、ゆとり教育ということが言われたというふうに承知をいたしております。

しかし、その趣旨は、今も私が申し上げましたように、自分の力で考える、いわゆる生きる力ですね、単に知識を詰め込むのではなくて、考える力、そういったものをはぐくむ、総合力を身につける、そういったことがゆとり教育の趣旨であったというふうに考えておるところでございます。

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添付資料1-2(添付資料1-1のうち)文部大臣・文部科学大臣の「ゆとり教育」の語義に関係する答弁抜粋

大島理森文部大臣①「ゆとり教育というのは、いわゆる学力の実質化をねらっている。」(2000.11.2)

遠山敦子文部科学大臣②「ゆとり教育といいますか、昭和五十年代から、教育課程のあり方について、少し時間的なゆとりを持たせながら、子供たちにみずから考える力なりあるいは自由な発想を伸ばすなりというような姿勢で来た」(2002.2.27)

河村建夫文部科学大臣③「ゆとり教育と言われますけれども、その時間を、土曜日を休みにしていったその時間をどういうふうに使うかということ、これはやっぱりもっと基礎、基本に力を入れていくべきだというところで、今すぐ学ばなくていいものは削減をした」(2004.3.16)④「ゆとり教育が何か緩み教育にとられて、学びを少し緩めていいんじゃないかというふうにとられたということは、これは非常に心配なことです」(2004.3.17)⑤「文部科学省はゆとり教育という名前を付けたわけではないんでしょうが」(2004.3.25)⑥「ゆとり教育という言葉をきちっと文部科学省が定義づけたことは一度もないのでありますが、今まさにとろうとしている、土曜日を休みにしながら、そして学ぶ上において心にゆとりを持って、意欲をもっと増すような教育をしようという、かつての詰め込み教育と言われたものの一つの反省からこういう言葉が生まれ、またこういう仕組みといいますか、そういうふうな方向になってきたと思います。(中略)

だからといって、そのゆとりが緩みになって、学ばなくていいんだということにとられたらこれは大変ですから、途中で遠山大臣の当時に『学びのすすめ』というようなアピールをされた。(中略)私は、今のゆとり教育という言葉が、ややもするとすぐそれが緩み教育にとられるような感じがするので、余りゆとり教育、ゆとり教育と言うと、何かもう学ばなくていいんじゃないかというようなイメージがありますから、こういうふうにとられると困るわけであります」(2004.3.31)

中山成彬文部科学大臣⑦「ゆとり教育というのも、元々は基礎的な知識をしっかり付けて、それを基にして自ら考え判断し行動する、そういう意味で人間力といいますか、たくましい力を持った子供たちを育てようということだったんですけれども、どうもこの本来の目的に外れているんではないかということを私たちはしっかり認識しなきゃいけないと。」(2005.2.1)⑧「ゆとり教育という言葉はなかったんですけれども、要するに、勉強はしなきゃいけないときにすればいいんだ、基礎的、基本的なことをきちっとやっておけばいいんだ、あとは自分たちで考え、判断するんだ、そういうふうな、まあ何といいますか、勉強はしなくてもいいんだ、そういうメッセージを子供たちに送ることになったり、先生方も若干そうしたことを考えておられたとしたら、それはちょっと間違ったんだろうな、こう思うわけでございます。」(2005.2.7)⑨「要するに、基礎、基本をしっかり身につけて、みずから考え、判断し、行動できる、そういうたくましい子供たちを育てるんだということだったんです、いわゆるゆとり教育というのは。」(2005.2.23)⑩「どうもマスコミの方々はつい極端にいろいろ表現したがるものですから、このねらいがゆとり教育ということで、子供たちに、勉強しなくてもいいんだ、あるいは先生方も、これはもう最低限で、これ以上教える必要はないんだ、そういう間違ったメッセージを送ることになるような、そういう風潮が多分ですから、軌道修正ではないんですけれども、そうじゃないんだよということをいろいろと私は遠山大臣以下ずっとやってこられたんじゃないか、こう思うわけでございます。今回も、決してゆとり路線を変えようとかそういう話では全くないということは御理解をいただきたいと思っています。」(同上)⑪「今まさに私ども文部科学省が正面から取り組んでおりますいわゆるゆとり教育の見直しといいますか、検証」(2005.2.28)⑫「このゆとり教育が本来目的としていたもの、基礎、基本をしっかり身につけさせて、その上で子供たちがみずから考え、みずから判断して行動する、こういう主体性のあるといいますか」(2005.3.11)⑬「ゆとり教育といいますか、できるだけ教科内容は削減しながら、やっぱり基本的なものをしっかり覚え込ませて、そしてもっと自ら主体的に行動できる、そういう子供たちを育てていこうと。このことは私はその当時としては間違ってなかったと思うんですが、正に御指摘のように時代が変わってまいりまして、日本の取り巻く環境も変わってきたということじゃないかと思います。」(2005.3.15)⑭「いわゆるゆとり教育というのは、昭和四十年代に学校教育が画一的で知識詰め込み型であるという指摘

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がなされたこと等を踏まえまして、昭和五十二年の改訂でゆとりある充実した学校生活の実現を図るために導入されたものでございます。」(2005.3.29)⑮「生きる力というもの、自分の頭で考えて判断して行動できる、そういうたくましい子供たちを育てようじゃないかということからこのゆとり教育がずっと言われてきたわけでございます。私は、そういう意味でのゆとり教育というものは、これは間違ってなかったと思うんです。」(同)⑯「いわゆるゆとり教育と言われておりますけれども、私は、基礎、基本的な知識をしっかりと身につけさせて、それをもとにして子供たちが自分の頭で考え、判断して行動する、そういう生きる力といいますか、主体性のある子供に育てるということは絶対に必要なことであると思いますし、このゆとり教育がそういったことを目標としているということについては大賛成なのでございますが」(2005.6.10)

小坂憲次文部科学大臣⑰「時間数の削減とか、そういったものは決してゆとり教育の中身、目的ではないわけでありまして、(中略)ゆとり教育として目指そうとしたものは、教科では単純に割り切れない、教科にまたがる、福祉とかあるいは環境とか今日的課題について、そういうものを学ぶ時間を設けて、そして、そういった教科にとらわれない教育を推進していこうというのが基本的な考え方であり、(中略)私は、このゆとり教育の基本的な考え方、その趣旨は間違いではない、間違ってはいないと思っております。」(2006.3.31)⑱「ゆとりの教育の時間を使って、例えば総合学習の時間を使って、いろいろな取り組みの中ですばらしい体験学習をしている事例はたくさんございます。」(2006.3.16)

伊吹文明文部科学大臣⑲「ゆとり教育の評価は、人によっていろいろあると思います。これを導入した基本的な考え方は、最低限の学力、規範その他を身につけた生徒、学生が、現実の事象に対してその知識をどのように活用し、応用していくか。ですから、知識だけの詰め込みじゃなくて、応用のやり方をぜひ学んでもらいたいという意図があったと思うんです。」(2006.11.1)⑳「週五日制を含めてゆとり教育というのは、やはり、発足したときの考えからすると、現実は、非常に不完全に、そして不幸に使われていると私は思いますね。知識を応用していくためにはどういう勉強をするのかという目的のために実はゆとり教育という発想が出てきたと思うんですが、その間、実際のゆとり教育の現場で何が行われているかということを考えますと、どうも最初のアイデアと少し違うんじゃないかという気が私はしております。ですから、ゆとり教育が悪いというんじゃなくて、ゆとり教育という言葉のもとで現場で行われている運用について私たちは少し考えて、そして文部科学省としての考え方を教育委員会にお伝えしなくちゃいけないなと、これは一つそういうことです。」(2006.11.14)㉑「ゆとり教育というのは、本来、基礎をマスターした中で、それを実社会にうまく適用できるということを目指して実は学習指導要領を作ったものなんですが、現実は残念ながら少し運用に私は誤りというか行き過ぎがあると思います。しかし、そのことでゆとり、今、当初考えたゆとり教育を否定するということは、少し私は慎重でありたいと思います。」(2006.11.22)㉒「今おっしゃったような勧告を受けて、例えば学習指導要領を見直してゆとり教育を導入したわけですよ。その結果、今大変な非難に国内的にはさらされています。学力は低下してきているということ。私は、ゆとり教育というのはむしろ運用の面で非常に不幸な運用をされちゃっているんじゃないかという評価をしているんですが。」(2006.11.28)㉓「ゆとり教育につきましては、まあ率直なところ、これについてはいろんな御意見があると思いますが、本来ゆとり教育を導入したゆえんのものは、基礎学力を十分マスターして、それを現実の社会に適応していく能力を養う総合学習というものを設けたと、これがゆとり教育と言われている部分なんですが、これが実は現場の運用において大変私は不幸に運用されていると思います。(中略)

ただ、ゆとり教育の本来の考え方が私は間違っていたとは思いませんので、今の御指摘も踏まえて、ゆとり教育の現場の運用については少しやっぱり見直さないといけないんじゃないかと。」(2006.12.4)㉔「ゆとり教育というのは、私はこのこと自体が悪いんではなくて、基礎学力を持った人たちが基礎学力を応用するために総合学習というこまをつくっているわけで、実は基礎学力を十分教えずに応用をやろうとしたって、これは無理なんですね。それで、現実に起こっていることは、このいわゆるゆとり教育と言われるものが大変不幸に私は運用されていると思います。いや、ゆとり教育そのものが悪いとは私は思いません。だから、運用のやり方その他はかなり直していかなければならないと思いますし」(2006.12.5)㉕「ゆとり教育という言葉そのものは私たち文部科学省にはございません。むしろ、先生の先ほどの御質問のお言葉をかりて言えば、詰め込み的な知識ではなくて、基礎的、基本的な知識を身につけさせた上で、それを現実にどういうふうに応用していくかという、いわゆる総合学習という時間をとったということです。」(2007.2.21)㉖「文部科学行政上は、ゆとり教育という言葉は使っていないんですよね。この言葉は、マスコミ等がいろいろな意味でお使いになっていると思いますが、一つは、基礎学力を身につけさせた上で、それを現実に応用

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させる時間として総合学習という時間を、カリキュラム上、学習指導要領上とった。この総合学習というのは、実は評点がないわけですね。そのためにこの時間が、今まさに御指摘になった

ように、本当に教育目的のために使われているのか、基礎学力を十分つけないまま何か無駄な時間になっているんじゃないか、これがゆとり教育に対する一つの批判です。それからもう一つは、授業時間がそのために足りなくなったんじゃないか。土曜日も週休二日制にしちゃったじゃないかという時間数の問題と、何かみんなごっちゃになっていろいろな人が話しているように思います。」(2007.3.1)㉗「従来、文部科学行政上、我々はゆとり教育という言葉を使ったことはありませんけれども、いわゆるマスコミ用語としてのゆとり教育は、時間数の短縮ということと総合学習ということがごちゃ混ぜに私は論じられているのではないかと思います。」(2007.3.15)㉘「その当時、ゆとり教育という言葉で考えられていたことと、今総合学習の中で行われている実態というのが、私はかなり理想と現実は違ってきているんじゃないかと思います。」(2007.3.27)㉙「基礎的、基本的な知識を身につけた上で、これを活用し、実地に適用し、考える力をはぐくんでいくといういわゆるゆとり教育の理念自体は、私は間違っていなかったと考えております。一方で、その運用について多くの問題があったということは、これまた事実でございます。」(2007.4.17)㉚「これは、ゆとり教育とそれから授業時間数の増というのは、ちょっと私は直接は結び付かないと思うんですね。文部科学省はゆとり教育という言葉は一度も使ったことはございません。基礎学力を十分教え込んだ上で、それを現実に応用する力、実社会で生きていく力を養うためにという建前で総合学習という時間を実は取ったわけです。総合学習を皆さん、ゆとり教育と、こうおっしゃっているわけですが、この考えは私は間違ってはいないと思うんですね。

ただ、現実の運用で残念ながら、ゆとり教育と言われる学習指導要領は、点数も付けませんし、比較的自由な時間なんですね。ですから、基礎的な知識を十分身に付けないまま、やや子供の主体性や興味本位あるいは関心本位に先生がその時間を流されたという、流されたというか使い流されたという指摘が一部にあることは確かです。

ですから、そのことに問題があるんであれば、ゆとり教育と言われる総合学習の在り方を学習指導要領の中で少し変えていくとか、あるいは総合学習の時間を少し少なくして、そして基礎の学力の時間を増やしていくと。これは全体の時間数は増えないんですよ、このやり方をやっても」(2007.5.31)

渡海紀三朗文部科学大臣㉛「このゆとり教育という言葉、この言葉をどうとらえるかということもあろうかと思います。文部科学省としてはそういう言葉は余り使っていないということもよく言われるわけでありますが、しかし、社会でこれが一般的になっていることも事実だというふうに思っております。そういう前提に立って、この理念というのは、先生もおっしゃいましたように、基礎的、基本的な知識技能を身につけ、それらを活用する思考力や判断力を育成する、こういうことであろうと思います。」(2007.10.24)㉜「だけど、一度も使ったことは、生きる力というか、ゆとり教育かな、は使ったことがないということを言っていますが、そういう意味で、生きる力、応用力というものを大事にしたいと。これは今も変わっておりません、理念として。」(2007.11.15)㉝「ゆとり教育というのは実は、簡単に言いますと、できるだけ自分で考える力、それを活用する力というものを生み出すために言われた言葉だというふうに理解をいたしております。」(2007.12.25)㉞「前回の改訂でのゆとり教育という考え方、生きる力という考え方が、現場になかなかしっかりとおりていなかったという反省があります。(中略)

ただ、ゆとり教育という言葉そのものがどうも何か誤解をされて、何となくゆったりやればいいんだと。そういうことではなくて、やはり生きる力というのは、単に知識を詰め込むのではなくて、それをちゃんと応用をして、活用をして、表現をして使える力を養うということであったというふうに、十年前でございますから、聞いております。」(2008.3.18)㉟「ゆとり教育というのは、私が理解している限り、十年前の改訂でこの生きる力で授業の時間を減らしたり、それから内容も少し減らしたりした。そのことを一般的にゆとり教育と自然に呼ぶようになったというふうに、どういいますか、理解をいたしております。メディアが作った言葉だとも言われておるわけでございますが。」(2008.3.25)㊱「ゆとり教育というのは、十年前の指導要領の改訂で、できるだけ詰め込みではなくて、もっと自分で考える力をつくろう、理念は当時も生きる力とおっしゃっていたと思いますが、そういう議論がされまして、そのことで授業数を少し減らして、自分で考えられるような、総合学習のような、こういう授業を取り入れた。そのことから、主にメディアが使ったと言われておりますが、これはゆとりなんだ、もっと余裕を持って考えられるようにしようといったようなことから、ゆとり教育ということが言われたというふうに承知をいたしております。

しかし、その趣旨は、今も私が申し上げましたように、自分の力で考える、いわゆる生きる力ですね、単に知識を詰め込むのではなくて、考える力、そういったものをはぐくむ、総合力を身につける、そういったことがゆとり教育の趣旨であったというふうに考えておるところでございます。」(2008.4.22)

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添付資料2「ゆとり教育」の語義に関係する寺脇研の叙述・発言

①『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(2007.9.30 扶桑社)

01「私は『ゆとり教育』という言葉が嫌いです。このネーミング自体マスコミが作り上げたもの#01で、行政が正式に名づけたものではありません。

中には、ゆとり教育の推進役としてメディアに頻繁に登場していた私がネーミングしたものと思われている方もいらっしゃいますが、それはとんでもない誤解です。

#01'96 年に中央教育審議会が出した答申「21 世紀を展望した我が国の教育のあり方について」の中で、子ども、

学校、社会全体に「ゆとりが重要だ」という言葉が使われ、この頃を境に台上メディアによって広まったと

される。

そもそも、私はそうしたネーミングをすること自体に危険性を感じます。ネーミングをすれば、それはスローガンになるわけです。行政がスローガンを作る社会というのはいい社会だとは思わない。(中略)

行政以外で作るのもよくないと思います。確かに、これまでにはなかった新しい学力観を伝える上で、そうした耳触りのいい言葉はマスコミにとって便利だったのでしょう。しかし、ネーミングしてスローガンになると定義や説明をする必要が薄れてしまいます。」(P.14-15)

02「メディアと反対派がレッテル張りをし、『ゆとり教育はけしからん』というキャンペーンが成功したに過ぎません。なぜ、ゆとり教育がけしからんのか、その説明は十分に行なわれていません。『子どもの学力向上には、ゆとり教育の転換が必要』

2007 年1月、政府の教育再生会議がゆとり教育の見直しを提唱しました。授業時間の 10 %増や教科書を厚くすることを打ち出し、6月の報告では土曜授業の復活や、夏休み短縮などが提案されています。

しかし、見直しが必要とされる『ゆとり教育』とは、いったいどんな教育のことを指しているのでしょうか?

まずはここを明確に定義しなければ、建設的な議論にはならないのです。」(P.16)

03「現在行なわれているところのゆとり教育の源流は、戦後教育の改革議論が本格化した 1980 年代にあります。 」(P.17)

04「時代の変化に対応した教育を求めた'87 年の臨時教育審議会の答申から始まって、ゆとり教育はこうした段階を踏んで実行されたものなのです。

ただ、ゆとり教育という言葉がまずいと思うのは、こうやって積み重ねられた周到な改革と、それまで 1970 年代の後半から叫ばれていた『子どもたちにゆとりを』とのスローガンが混同されるおそれがあるからです。事実、次の項で述べるような学力低下批判には、'70 年代末から'01 年まで続いた、画一的にゆとりを作る教育との混同が見られます。」(P.22)

05「70 年代に『落ちこぼれ』が流行語になるほどの問題となり、マスコミをはじめとして詰め込み教育批判の声が激しく起こりました。国民世論もそうでした。そこで当時の文部省は、そうした声に応えて学習内容、授業時間数を削減し、詰め込みからゆとりへ、という流れを作ります。

しかし、それは画一主義を改めないまま、すべての子どもに一律にゆとりを与えるものでした。確かに『落ちこぼれ」になりそうな場合には、詰め込みを抑制する形でのゆとりが必要でしょう。でも、そうでない場合には必要ありません。もっと深く学んだりさまざまな学習方法に挑戦したりするための、カリキュラム上のゆとりこそが必要になります。にもかかわらず、カリキュラムは硬直した画一主義のままでした。これでは、もっと学びたい子どもに『勉強するな』と言っているようなことになりかねません。

現在のゆとり教育は、その問題を解決するために画一主義一辺倒を改め、個別教育を導入するのが最大の目的なのです。」(P.22)

②『さらばゆとり教育 学力崩壊の「戦犯」と呼ばれて』(2008.1.30 光文社)

07「それぞれがそれぞれでいいという時代がやってきたのである。あなたも幸せ、私も幸せという時

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代がやってきたのである。そういう時代において自己実現 self-actualization するための教育が『ゆとり教育』なのである。共

通に学ぶ知識を最低限に抑え、好きなものが見つかった時点で、学ぶことを選択し、『好き』を伸ばしていくことができる。これこそまさに文化的な教育である。少なくとも、私はそう信じてきたし、いまでもこの考えに誤りはなかったと思っている。なぜなら、『ゆとり教育』こそが、いまの時代にふさわしい一種の理想教育 ideal education であるからだ。」(P.8)

08「『ゆとり教育』の内容そのものは、早くは 1980 年代から論議 discuss されてきている。言葉としては『21 世紀を展望した我が国の教育の在り方について』と題した 1996 年7月の第 15 期中央教育審議会の第1次答申において、『子供に[生きる力]と[ゆとり]を」との副題がつけられたことから、完全に定着した。」(P.8-9)

09「私は『ゆとり教育』の推進者 promotor の1人として、マスコミに何度も出ては、その効用 benefitを説いてきた。」(P.10)

10「私が、いわゆる『ゆとり教育』education free from pressure の導入 introduction に力を注いだのは、1992年から約 10 年間のことである。1992 年に『偏差値をなくそう』と言い始め、2002 年に『ゆとり教育』がスタートするまでの約 10 年間、『ミスター偏差値』、『ミスター文部省』などと世間から呼ばれていた。」(P.17)

11「ゆとり教育は、当初は文部省が考えたことかもしれないが、それは PTA、つまり子供を持つ親たちの賛同 agreement で支えられたということだ。」(P.29)

12「小泉政権の登場によって、ゆとり教育路線は修正された。ゆとり教育は、森政権、小渕政権の寛容さ tolerance のなかで育まれてきた。ゆとり教育というのは、基本的に寛容路線である。多様性diversity を認めている。いろいろな人がいていいじゃないかと、誰しもが寛容になることを前提にしている。

しかし、小泉純一郎から安倍晋三へと時代は移り、寛容さは失われ、何もかもが競争 competitionで、敗北者は退場しなければならない社会になった。」(P.46)

13「ゆとりある教育をすれば、ある程度学力が低下 decline することは予想できたはずである。ゆとり教育の理念 principle には、いわゆる『読み・書き・計算』という基礎学力の取り組みを多少緩めてでも、『生きる力』zest for living『考える力』ability to think を伸ばしていこうという考え方がある。基礎学力 basic ability をおろそかにしていいというわけではないが、基礎学力の低下だけを問題にするのであれば、ゆとり教育など誰も始めようとはしなかっただろう。(P.53-54)

14「そもそも、ゆとり教育の必要性 necessity が叫ばれ始めたのは 1970 年代の半ばである。当時問題となっていたのは、いうまでもなく「詰め込み教育」cram education だ。とにかく知識 knowledge をたくさん蓄えて、受験 entrance exam に備えるという勉強が当たり前の時代だった。」(P.54)

15「ところが、意外にも 1980 年代の学習指導要領は『ゆとりカリキュラム』と呼ばれてスタートしたものだ。1971 年の学習指導要領があまりに過密だったことを反省したカリキュラムのためにそう呼ばれたわけだが、フタを開けてみると『まだまだゆとりを生んでいない』というのが実態だったのである。」(P.58)

16「1998 年に発表された新学習指導要領は、これまでのゆとり路線をさらに大きく進めるものとなっていた。つまり、1970 年代から続いてきた詰め込み教育から脱却 break out しようとする意図は明確だった。」(P.60)

17「『ゆとり教育』という言葉自体は広く浸透 widespread した。しかし、ゆとり教育が何のために始められたのか、本当のところは、いまでも意外と知られていな

い。ゆとり教育というネーミングによってずいぶん誤解 misunderstand されもしたが、子供たちに『ゆとり』free time を与えるためにゆとり教育がスタートしたわけではない。(中略)子供たちの救済措置 bailout として、教育路線 educaton policy が変更されたわけではないのである。ゆとり教育が始められるきっかけとなったものは、むしろその当時の大人たちの姿にあった。

そもそも、ゆとり教育の根本ともいうべき理念 basic principle は 1987 年の臨時教育審議会(臨教審)

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の答申にある。そこで示されたのは4つのキーワードだった。『少子高齢化』the declining birthrate and the aging population『国際化』internationalization『科学技術の進歩』advancement of science and technology『情報化』informatizationこの4つのキーワードから未来を予測し、それぞれに対応した教育体制を作っていくというのが大

前提だった。つまり、少子高齢化、国際化、情報化社会を迎え、科学技術が著しく進歩していくなかで、どのような教育が必要か、ひいてはどのような大人を育てていかなければならないかというのが、教育路線変更の軸だった。

今日のわれわれの社会 today's society はすでに 30 年以上前から予測 predict され、それに適した教育を考えることがゆとり教育の出発点だったのである。」(P.81-82)

18「『ゆとり路線』の基本的な考え方 basic idea は、小・中学校では『嫌い』dislike を作らないということだった。1970 年代の詰め込み教育 cram education をしていれば、小・中学校の時点で嫌いな教科subject が出てくるのは当然である。しかし、小・中学校で教えている内容によっては、もっとゆっくり教えてあげれば理解もでき、その科目のおもしろさに気づいてもらうこともできたかもしれない。すべてを理解できなくても、『ちょっとおもしろいな』と感じさせることは可能かもしれない。いったんその教科を嫌いになってしまえば、その先、主体的に学ぶ可能性 possible to study it independentlyはほとんどなくなる。そうならないためにも、『嫌いを作らない』ことを優先課題 priority とした。必要な知識はここからここまでと量的に教えるのではなく、子供たちがその後に学んでいく可能性を広げていくことが小・中学校の役割だと考えたのだ。

そして、高校・大学では『好き』favorite を伸ばしていく。これは価値観が多様化している時代にもフィットした考え方だ。小・中学校で学んだ内容のなかで、自分が好きだと思うこと、関心を持った分野をより専門的 expertly に学んでいくのが高校であり、大学である。」(P.98-99)

19「このように、ゆとり教育とは、土曜日が休みになったり、『総合的な学習の時間』が始まったりしたことだけを指すのではない。もっと奥底に、ゆとり教育を推し進めるだけの理由 reason、理念philosophy がある。そして、それは、まずは大人たちの姿を見て始まり、日本社会の将来 futurecommunity を見据えて考案されたものだった。

その基本 basic principle となっているのが、ここで紹介してきたように、少子高齢化、国際化、科学技術の進歩、情報化という時代に対応できる柔軟な人間を育成することにある。さらに、余裕の生まれた時間によって、子供たちに生活体験、社会体験、自然体験をさせ、生きる力を育んで欲しい fosterzest for living という願いがある。それは、文科省、教育委員会、学校側が与える教育とはまったく違う。学校はもちろんだが、家庭を含めた、地域の団結、協力が不可欠 necessity である。それがゆとり教育の本当の姿(what the education should be)なのだ。」(P.114)

20「これもメディアの特質の1つとして、スローガンを作るのが得意 cup of tea ということがある。これも、ゆとり教育を追い込んでしまった。というのは、そもそも『ゆとり教育』などという言葉はなかったからだ(英訳されて"relaxed education"と表現されたが、これも本来の英語ではない)。」(P.165)

21「役人は言葉を正確 accurate に使わなければならない商売だ。法律の文章 sentence が普通の人にわかりにくいのは、誰が読んでもほかの解釈 interpretation ができないように作るからである。

一方、『ゆとり教育』とか『美しい国』などのスローガンは、定義 definition がはっきりしない。『美しい国』の名のもとに何が行われるか、『ゆとり教育』の名のもとに何か行われるか、具体的にはよくわからない。

ゆとり教育の正式名称は『新学習指導要領』new teaching guideline である。最初はマスコミも『新学習指導要領(ゆとりの教育)』などと書いていたが、いつの間にか頭が消えて『ゆとり』だけになった。スローガンというのはそういう性質のものだろう。こうなると、『ゆとり』だけが一人歩きを始める。『ゆっくりした』『ゆるい』『自由な』などと、印象だけでいくらでも解釈されてしまう。

よく、『おまえがちゃんとネーミングしなかったから、『ゆとり教育』になっちゃっただろう。と言われた。

たしかにいい知恵は出なかったが、文部省がスローガンを作って、『美しい教育』とか、『美しい国を作る教育』とかいうのを言ったら、そっちのほうがよほど危ない。それは戦前の『八紘一宇』とか

はつこういちう

『鬼畜米英』と同じだからだ。きちくべいえい

政治家 politician がスローガンを言うのはいいが、政府 government がスローガンを言ったら危ない。だから、役人としての私はスローガンを掲げてはいけないと思ってきた。

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誰が日本人を愚かにしてしまったか?その答えの1つが、スローガンだ。『ゆとり教育』もスローガンだし、『エリート教育』もそう。少

し前なら、『教え子を戦場に行かせるな』『15 の春を泣かせるな』などもそうだ。そうしたスローガンにみんな踊らされた。これは、スローガンを言う人が悪いのではなく、メディアリテラシー medialiteracy の低さということだろう。」(P.166-167)

22「ゆとり教育 relaxed education は成績が真ん中から下の子供と、その子の親には評判がいい。『嫌いを作らず、好きを伸ばす』というゆとり教育がうまく機能している working well のだ。

ゆとり教育反対を唱えるのは、高学歴 high-educated の人が圧倒的に多い。いわゆるエリート主義者 elitist の一面を持つ彼らは、学生時代を通して勉強が好きで得意だったろう。しかし、世の中には勉強があまり好きではなく、得意でない人もいる。ゆとり教育反対論者はそうした子供たちのことは考えていない。」(P.177)

③「特別講演 ゆとり教育のぜひを問い直す」(『こころの健康 日本精神衛生学会誌』Vol.23 No.1 2008.6.30)

23「そもそも、2002 年から始まった現行の指導要領が『ゆとり教育』と呼ばれるようになったのは、これについて提案した 1996 年の中央教育審議会答申の冒頭に、『ゆとり』という言葉が出てきたからです。」(P.2)

24「ゆとり教育が始まった 1997 年というのは、神戸の連続児童殺傷事件が起こり、6月にはそれが中学生の犯行だとわかったという時代です。『これではいけない』ということでゆとり教育にしようとしたのに、学力、学力と言うからまた振り出しへ戻ってしまった。」(P.6)

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添付資料3「ゆとり教育」の語義に関係する大森不二雄の叙述・発言

①『現職文部官僚が直言 「ゆとり教育」亡国論 学力向上の教育改革を!』(PHP研究所 2000.8.17)

01「本書では、トレンディーな教育論を指すものとして、いわゆる『ゆとり教育』という言葉を使用することにしました。一般の方々にわかりやすい言葉をあえて使うことにより、誤解を恐れず明快な問題提起を行いたいを考えたからです。いわゆる『ゆとり教育』は、勉強否定論的なイメージを伴うものとなり、教育に関する支配的な論調として流布してきたのです。」(P.10)

②西村和雄編『教育が危ない2 ゆとりを奪った「ゆとり教育」』(日本経済新聞社 2001.6.25)

第4章 なぜ「ゆとり教育」を批判するか

02「この四半世紀の間、支配的であり続けた教育論を要約すれば、学歴社会のもとで、子供たちは、受験競争に駆り立てられ、知識を効率的に詰め込む画一的な教育を受け、偏差値で輪切りにされ、個性や創造性の芽を摘まれ、精神的に追いつめられて暴力・いじめや不登校などの問題行動を起こしている、といったストーリーになる。日本の子供たちは、勉強に追いつめられているので、もっと『ゆとり』が必要というわけである。

このような言説がトレンディーな教育論として流布し、教育に関する『世論』のように機能してきた。そして、文部省を中心に進められた教育改革は、その『世論』に応えるかのように、『知育偏重』の風潮や『知識詰め込み型の教育』を改め、『ゆとりある教育』や『ゆとりある学校生活』を目指すことをうたってきた。また、そのことが『世論』をさらに強化してきたとも考えられる。文部省が公式見解として勉強の価値を否定することはあり得ないが、今や世間では『勉強否定論』的なトレンディな教育論が文部省の『ゆとり』重視の路線と同一視されてもおかしくない状況となっている。

こうした状況の中で、トレンディーな教育論を指すものとして、いわゆる『ゆとり教育』という言葉を使用することとする。一般の方々にわかりやすい言葉を使うことにより、明快な問題提起を行いたいと考えるからである。いわゆる『ゆとり教育』は、勉強否定論なメッセージをともなうものとな

(ママ)

り、教育に関する支配的な論調として流布してきたのである。」(P.72-73)

03「筆者は、筆者が問題視している勉強否定論的な『ゆとり教育』が文部省の公式見解とイコールだとは考えていない。文部省のしかるべき人々にはむしろ、『こんなことを文部省は推奨していない』とはっきり否定してほしいと思っている。文部省が勉強の価値そのものを否定することはあり得ないことである。

しかし、勉強否定論的な論調が日本の教育論を支配するに至ったことについて、『すべてマスコミや教育評論家のつくり上げたものであり、文部省に責任はない』などと否定することは、フェアではないと思う。学歴社会と受験競争が諸悪の根源視されるなかで、文部省自身が勉強否定論と親和的なメッセージを流してきたことは否めないと考える。世間では、勉強否定論的な教育論と文部省の『ゆとり』重視の路線が一体となって、いわゆる『ゆとり教育』として受け止められているのではないか。それが誤解であるのならば、誤解を解く努力が必要である。そのためには、メッセージの明快な転換が求められよう。」(P.77)

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添付資料4教育学における「ゆとり教育」に関する先行研究の中での「ゆとり教育」語義説明抜粋

藤原幸男「『ゆとり教育』改革と学力」 琉球大学教育学部紀要 第 61 集 2002「『ゆとり教育』ということばが誰によって使われたのかはわからないが、その意味するところはストレスのないリラックスした教育であり、カリキュラム上は、子どもに学習困難をもたらしている知的教科(主要教科)の時間を減らして、子どもの自由にできる時間を設定することである。

『ゆとり教育』では、学習指導要領改訂における方針をそのまま受け入れると、77 年学習指導要領で教育内容2割削減・授業時数1割削減、98 年学習指導要領でさらに教育内容3割・授業時数1割削減され、77 年以前の学習指導要領と比べると教育内容は約半減・授業時数は8割になっている。」(P.80)「『ゆとり教育』を検討するときに、ます教育内容の削減のありよう、教育内容と授業時数の関係が問われる。次に、どのような教材(教科書、副教材、資料など)を使って、どのような学習過程と学習形態・組織をとおして学習したか、さらに学習と生活がどのように関連・往還づけられたか、子どもの学習意識が変化したかが問われる。」(同)「ところで、『ゆとり教育』政策は教育内容・方法レベルにとどまらず、大きな政治的問題を含みこみ、社会的な問題に発展する。今回の 98 年学習指導要領をめぐる学力論争もこのレベルでの議論を含みこんでいる。このレベルでの議論を深めるには、次のようなことの検討が必要になる。

・『ゆとり教育』における『ゆとり』とは何か。『ゆとり教育』を支えていた現実認識は何か。里寝年と現実のあいだにずれはないか。

・『ゆとり教育』をめぐる政治力学はどのようになっていたか。『ゆとり教育』政策は公立学校と私立学校のあいだで市場主義的競争を激化させ、公立学校の地盤沈下と学力の公共性を見失わせていないか。」(同)「76 年 12 月 18 日に、教育課程審議会は『小学校、中学校および高等学校の教育課程の基準の改善について』を答申した。(中略)

この記述のなかに、『ゆとり教育』の基本的枠組みができあがっている。現実の子どもが心身不安定でゆとりなく学習しているという把握のもとで、『学習負担の適正化』がうたわれ、『各教科等の内容の精選や授業時数等の改善』、つまり『教科内容の2割削減、授業時数の1割削減』が打ち出される。これは知育の縮小にほかならない。知育の縮小によって、教科学習におけるゆとりと充実を生み出すとともに、各教科の授業時数削減により生じた時間を『創意を生かした教育活動』にあてるという。『ゆとり教育』における『ゆとり』とは、当初は、教科の学習におけるゆとりと、各教科の授業時数の削減により生じた時間でのゆとりの両方が意味されていたが、しだいに後者に限定して使われるようになった。」(P.81)「『ゆとり教育』は結局、知育からの逃避システムを政策的につくりだし、知育に対する学校の役割を低めてしまった。」(P.90)「『ゆとり教育』改革は、教育内容を半減し、授業にゆとりをもたらしたか、という『はじめに』での問いに答えると、学習指導要領の 77 年改訂から 98 年改訂まで通算すると、主要教科(小学校高学年~中学校)は内容を3~4割削減し、授業時数を 2.5 ~3割削減したと推定されるので、差し引きすると過密状態は少し解消されたが、あまり『ゆとり』はないと回答できる。」(同)

酒井博世「ゆとり教育の現状と課題」 名城大学教職センター紀要 第2巻 2005.3.31「文科省が推進してきたこのいわゆる『ゆとり』教育は、周知のとおり、落ちこぼれ、非行の増大、登校拒否児童・生徒の増加、いじめ問題など、学校教育の『荒廃』が深刻な問題となり、その原因として指摘された高度な内容の詰め込み、画一的な教育のあり方、経済の論理を優先してきた教育のあり方への反省のもとに、教育内容を精選しつつ、基礎・基本の指導を徹底し、すべての子どもに基礎的な『学力』を保証するというねらいを持っていた。すなわち、学年進行とともに『授業についていけない子』が増加していくいわゆる『七、五、三教育』を是正し、勉強のできない子をなくし、そうすることによって、子どもたちの学習への意欲を向上させようとするものであった。」(P.1)「ゆとり政策は、授業内容を精選し、基礎・基本の定着を図ることによって、すべての子どもの学習理解を保障し、そうすることによって子どもたちの学習への関心・意欲の向上が期待できる、と言う前提に展開されてきた。ゆとり教育の推進役の一人寺脇研氏は、『小中学校で教育内容は三割削減されるけれど、分からないで授業に出る、そういう子は一人もいないようにする。つまり中学校卒業時点で、全員が百点というか、きちんと内容を理解できるようにしなければならない』『わからないか

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ら、勉強嫌いになる。勉強が全部わかれば「この科目はもっとやりたい」という意欲が出てくると思う』と述べていた(前掲、苅谷・寺脇対談)。ところが実際には、授業内容を削減することによって、全員の理解が進むどころか、『教科書の内容が難しすぎてついていけない』子どもが増えていると言う指摘すらある。その要因は、『授業内容が削減されたことによって、各教科の相互の関連性がなくなり、それによって理解度が落ち、教科書の内容が分からなくなってしまった』ところにある、という指摘もある。学校教育における各教科は、それぞれが独立しつつ同時に相互に関連しあっているはずなのに、内容の削減によって各教科が孤立してしまい、相互のつながりが分からなくなってしまった結果、『授業が難しい』と言う感覚に陥ると言うのである(山内乾史、原清治『学力論争とはなんだったのか』、ミネルヴァ書房 2005.1. pp.107-108)。(中略)

いずれにしても、文科省自身の調査が、ゆとり教育が、必ずしも子どもたちの基礎的な学力の定着に成功していないこと、学習意欲の回復が容易でないことを明らかにしており、前掲書において苅谷氏が寺脇氏に対して、『百パーセントわからせるというのは大変なことですよ』『できないと、新しい学習指導要領はとまりますよ』と警告していた事態が現実のものになりつつある。」(P.5-6)「今日、国際的な『競争力』についての危機意識のみが先行して、現行学習指導要領を軸とするこれまでのゆとり政策の何が問題だったのか、ゆとり教育のもとでどのよう力がつき、またどのような力がついていないのか、子どもの『学び』への意識をどう高めようとするのか、などと言った基本的な問題は十分には深められないままに、競争力アップに向けての『見直し』が始まっている。それだからこそ今われわれは、改めて、近年採用されてきたゆとり政策の意味とその下で育てられてきた子どもたちの学力の中身、さらにはその問題点などを総合的に検討する作業をすすめなければならない。」(P.15)

丸山義王「『ゆとり教育』に見る日本の教育改革」明治学院大学社会学・社会福祉学研究 131 2009.3.2「ゆとり教育は学校を否応なく『縮小』と『拡大』のジレンマにたたせるのであった。本来、ゆとりとは、1977 年の学習指導要領に言う子どもたちが『ゆとりのあるしかも充実した学校生活』が送れるようにするいうのがその理念であったことを確認しておきたい。何時の時代においても子どもたち

( マ マ )

が生活時間の中核部分を学校で過ごすということ、しかもその学校時間の主要部分が教科学習の時間であることに変わりはないのであり、その時間を豊かにすることこそ教育の最重要課題とされるべきであろう。」(P.180)「『ゆとり教育』とは、従来の詰め込み型の教育から脱して子どもが自ら学ぶ意欲や主体的に学ぶ力を身につけることであり」(P.181)「『ゆとり教育』については、とにかく子どもが、学校生活をのびのびと送ることができ、内面的で、精神的な『ゆとり』をもつように努力することが今後の教師の務めであるに違いないし、教育そのものが目指すところの一つであると考える。このことは、当初からゆとり設計の課題であった。ゆとりの教育は、1997(昭和 52)年改訂の学習指導要領に始まり『基本的には児童生徒の学校生活に時間

(ママ)

的にも精神的にもゆとりをもたせることを目的とし、生活時程並びに学校の創意を生かした教育活動に十分工夫を加えること』と定義された。以来、平成元年、平成 10 年の改訂でも受け継がれてきた教育課程の基本理念であった。『ゆとり教育』は本来、過度の知識詰め込み型教育を批判し、落ちこぼれなどの弊害をなくし、すべての子どもが『生きる力』を身につける教育への方向転換を意図したものであった。

しかし、1992 年代以降の学校週5日制の実施により、授業時数や教科内容の削減を伴うことになった。学校6日制の場合、授業時数の削減は学校に実質的なゆとりをもたらしたが、学校週5日制が実施されると授業時数の削減と学力低下の問題が前面に出て、ゆとりのもつ本来的な意義は薄れたのであった。」(P.190)「1977(昭和 52)年以来の 30 年にわたる改革は『ゆとり教育』をスローガンに掲げて進められてきたが、ゆとりと学校週5日制改革は矛盾して、『ゆとり教育』が『学力低下』の元凶と目されることになってしまった。平成8年の中教審答申は、『ゆとりの中で生きる力をはぐくむ』ことを提言し、いわば『ゆとり教育』は、実施された完全学校週5日制を理念的に正当化するという役割を負わされたのであった。そのために『ゆとり教育』は、ゆとりと授業時間の削減という二律背反の立場に立たされ、全般的に批判を浴びたのであった。」(P.192)

保田 卓 「教育課程と教育システム-『ゆとり教育』の社会的含意-」たかし

大阪府立大学紀要 人文・社会科学 第 58 巻 2010.3.31「1970 年代後半からわが国の教育政策の柱の一つとされた『ゆとり教育』」(P.1)「教育現場に『ゆとり』を、という主張は、1970 年代初めから日教組によってなされていたが、教

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育政策(およびそれに直結する提言)上の初出は 1976 年の教課審答申である。答申全体の三つの大きな柱の一つとして『ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること』が掲げられており、翌年告示の改訂学習指導要領(施行は小学校 1980 年、中学校 1981 年)において授業時数の計 282時間削減および教育内容の削減として具体化される。

1987 年の教課審答申では、1976 年答申とは異なり、『ゆとり』が明示的に主要項目に位置づけられているわけではない。しかし、76 年答申にも同様の項目があった『国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視し、個性を活かす教育の充実を図ること』の中で『各教科の内容の一層の精選を図らなければならない』とされており、『ゆとり教育』路線が継続していることを窺わせる。

1996 年の中教審答申の主張をスローガン的に一言で表現すれば-答申の概要をまとめたパンフレットでも繰り返し述べられているように-『ゆとり』の中で『生きる力』を育む、である。(中略)ともあれ、この答申の提言によって教育内容および授業時間数はさらに大幅に削減されることになった。

2008 年の中教審答申では、学習指導要領の前回改訂以降に行われた諸々の学力テストの結果が概観され、読解力・応用力・思考力・表現力といった総合的学力や学習態度に課題があることが指摘された上で、授業時数・学習内容ともに増加すべきことが提言されている。『ゆとり教育』を明示的に否定する文言こそ無いものの、事実上の方針転換といえる。」(P.1-2)