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なみはやの難波―補遺 http://ringodo.web.fc2.com/namihaya.htm
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『なみはやの難波』―
補遺
安井邦彦
一寸法師と難波の浦
一寸法師が広く世に知られるようになったのは、享保年間(1716
~1735
)に、大坂心斎橋順慶町の書
林、渋川清兵衛が『御伽文庫』『御伽草子』と題して、一寸法師やものぐさ太郎、鉢かつぎなどの古
今のお伽噺を集めた読み物を刊行したことによる*1。これが大いに流行して版を重ねたことにより、
続編や後追いの類似本が続出した。一寸法師については、いずれの版本もほぼ同じストーリーで、そ
の原形となった物語は、鎌倉から室町時代のころにできていたと考えられている。ここでは『お伽草
子』*2の記述から、一寸法師の舞台となった難波の浦の所在地について考えてみることにする。
中ごろのことなるに、津の国難波の里に、おほぢ(翁)とうば(媼)と侍り。うば四十に及ぶま
で、子のなきことを悲しみ、住吉に參り、なき子を祈り申すに、大明神あはれとおぼしめして、
四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、おほぢ、喜び限りなし。やがて十月と申すに、いつく
しき男子(おのこ)をまうけけり。
物語は「中ごろのこと」という書き出しではじまる。後ほど見るように、京に上った一寸法師がた
どり着いたのが鳥羽の津であった。鳥羽の津は、京都盆地の南にあった鳥羽離宮(今の城南宮のあたり)
に隣接し、鴨川と桂川が合流する舟運の要衝にあった。鳥羽上皇が院政を行っていたころ(1129
~1156
)
一寸法師と難波の浦
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には平安京の外港として大いに栄えたが、南北朝時代(1336
~1392
)の戦乱によって、鳥羽離宮の壮麗な
建物の多くが焼失すると急速に衰退し、これにとって代わって舟運の中心になったのが淀だった。謡
曲「芦刈」では、淀が京の外港として描かれていることから、一寸法師は世阿弥よりも前の時代の物
語ということになる。京に着いた一寸法師が、縁あって身を寄せることになったのが三条の宰相殿の
邸としていることから、ざっくりと言って平安時代の末、大宮人の世であったころの少しむかしのお
話という時代設定になる。場所は津の国難波の里、すなわち摂津国の難波の里という舞台設定になっ
ている。ここに翁(おうち)媼(うば)の夫婦が住んでいたが、久しく子に恵まれずにいた。そこで住吉に
参り、子を授かるように願をかけたところ、住吉の大明神がこれを憐れみ、媼は四十一歳ではじめて
の男の子を授かった。夫婦は神の恵みに大いに喜んだが、その子は十二三歳になっても、背丈が一寸
ほどにしかならなかったので一寸法師と呼ばれた。
「ただ者にてはあらざれ、ただ化物風情にてこそ候へ、われら、いかなる罪の報いにて、かやう
の者をば、住吉より給はりたるぞや、あさましさよ」と、見る目も不便(ふびん)なり。夫婦思ひけ
るやうは、「あの一寸法師めを、いづかたへもやらばや」と思ひける……。
夫婦はわが身の不運を嘆き、異形の子を授けた住吉の大明神を恨むようになり、やがて一寸法師を
疎ましく思うようになった。そのことを知った一寸法師は、家を出て京に上る決心をする。
やがて、一寸法師、このよし承り、親にもかやうに思はるるも、「口惜しき次第かな、いづかた
へも行かばや」と思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに請ひ給へば、取り出したびに
ける。すなはち、麥藁(むぎわら)にて柄鞘(つかさや)をこしらへ、都へ上らばやと思ひしが、自然舟
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なくてはいかがあるべきとて、またうばに「御器と箸とたべ」と申しうけ、名殘惜しくとむれど
も、立ち出でにけり。住吉の浦より、御器を舟としてうち乘りて、都へぞ上りける。
住みなれし難波の浦を立ち出でて都へ急ぐわが心かな
かくて鳥羽の津にも著きしかば、そこもとに乘り捨てて、都に上り、ここやかしこと見るほど
に、四條五條の有樣、心も言葉にも及ばれず。さて、三條の宰相殿と申す人のもとに立寄りて、
……。
翁・媼の夫婦が住んでいたのが津の国難波の里、一寸法師が御器の舟に乗り込んだのが住吉の浦、
出発にあたって一寸法師は、「住みなれし難波の浦をたちいでて」と歌に詠んでいる。だとすると、
「津の国難波の里」=「住吉の浦」=「難波の浦」だということになる。媼が日々願掛けをしていた
住吉大明神は、津の国難波の里にあった神社であったと考えるのが順当だろう。だとすると難波の里
の難波の浦は、住吉大明神のご縁を以って、俗に住吉の浦と呼ばれていたと考えるのがいちばん合理
的である。
難波の浦については、JR難波駅付近の難波村や、三津寺のあたりだとするのが今日の通説になっ
ている。ところがこの付近には、三津八幡宮や難波八坂神社などがあるが、住吉三神を祀る住吉大社
系列の神社は見当たらない。そのため、媼が願掛けをした住吉大明神は、今の住吉大社に想定されて
いる。今でこそ南海電車に乗れば、難波から住吉大社まで一〇分足らずで着くことができるが、媼の
足で日々願掛けに通うことのできる距離ではない。大きな願い事だったので、吉日を選んで住吉大社
に参詣して、子授けを祈願したのだと解釈できなくもないが、だとすると一寸法師たちが住んでいた
一寸法師と難波の浦
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難波の里が、住吉の浦と呼ばれていたことの説明がつかない。しからば難波の浦と住吉の浦は別の場
所だと考えて、一寸法師は住吉大社のそばの住吉の浦から御器の舟に乗って出発し、途中住みなれた
難波の浦を経由して京に上ったのだと解釈できなくもないが、この御器は一寸法師が媼に頼んで餞別
に貰ったもので、難波の里の一寸法師の生家にあった食器のはずである。媼が京に上る一寸法師を見
送るのに、一寸法師と御器をいったん京とは逆方向の住吉大社まで運び、一寸法師は住吉大社前の浜
から御器の舟を浮かべて出発したとは考え難い。今の住吉大社の鎮座地は海岸線から遠く離れている
が、平安時代には白砂青松の海浜を臨む場所に位置していた。住吉大社の南には細江川が流れている
が、その水は我孫子丘陵の依網(よさみ)池を水源としていて、これを溯っても京の鳥羽の津にたどり着
くことはできない。したがって、一寸法師が住吉大社から出発したとすると、住吉の浦は外海に通じ
る船着場だったことになる。
紀貫之の『土佐日記』では、二月五日に「住吉のわたりを漕ぎ行く」とある。このとき海が大いに
荒れたので、楫取りの船頭に言われて幣(ぬさ)を奉じたが、波はいっこうに鎮まらなかった。「幣に
は御心のいかねば、御船も行(
ゆか)
ぬなり。猶うれしと思ひたぶべき物たいまつりたべ。」と船頭に脅
されて、大切にしていた鏡を海中に投じたところ、海は鏡の面のように鎮まったと記されている。続
いて六日には「澪標(みおつくし)*3のもとより出でて、難波*4につきて河尻(
かはじり)
に入る。」とあ
るように、細江川からいったん外海に出て大阪湾岸を北上し、伝法にある澪標住吉神社の澪標を目印
に、難波潟の澪筋を通り抜けて難波のわたりに着き、そこから毛馬(河尻)を経て淀川筋を溯ったと考
えることも不可能ではないが、一寸法師を乗せた御器の舟が、このように波の高い外海を漕ぎ渡って
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京に上ったと想像するのは難しい。「百川
は海に帰す」で、すべての川は海を通じて
つながっているのだとしても、細江川と淀
川を結びつけるのには無理がある。
それでは三津寺あたりからだとしたら、
どのようにして京へ上ったのだろうか。
「難波往古図」*5では、難波江の南側に
三津寺があり、その南に御津浜と見えるの
で、一寸法師の難波の浦もこのあたりに想
定されたのだろう。難波江の川筋を東に入
ると、絵図には「ウナギ谷」という文字が
見えることから、この川筋は今の長堀のあ
たりを指すと考えられる。したがってその南の御津浜は、道頓堀川に面した難波村のあたりという位
置関係になる。俗に、一寸法師は道頓堀川から東横堀川を通り抜けて、渡辺津を経由して大川筋に出
て、毛馬から淀川を溯って京に上ったとする説があるが、このルートは江戸時代の御伽草子の読者
が、京の伏見と大坂の天満八軒家を往来する三十石船から連想したもので、今の東横堀のあたりは、
古墳時代末から奈良時代にかけてラグーンであったことが発掘調査で明らかになっていて*6、平安時
代のこのあたりは、難波潟の干潟の一部であったと考えられる。日下雅義は、このラグーンのあたり
宝暦六年「難波往古図」より
一寸法師と難波の浦
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に難波津を想定した*7。ラグーンには北からは大川の支流が流れ込み、東からは上町台地西斜面に降
った雨水が谷筋に集められて流れ込み、しだいに土砂が堆積してラグーンの水位が上がり、オーバー
フローした水が干潟に澪筋を形成したと考えられる。のちにこれらの澪筋を利用して道頓堀川や長堀
川が開鑿されたことが想定される。だとすると一寸法師は、この澪筋からラグーンを経由して渡辺津
に出て、大川筋から淀川を溯って鳥羽の津に着いたと考えることができる。
ところが先ほど触れたように、物語の舞台である難波の浦・住吉の浦を、三津寺あたりに想定した
場合には、住吉大明神との接点が見つからず、また、住吉大社のあたりに想定した場合には、住吉の
浦から京の鳥羽の津に上るルートを想定するのが困難になる。やはり難波の里は、住吉の浦と呼ばれ
ていたと考えなければ話の辻褄が合わないが、これに符合する場所が見当たらない。したがってこれ
までは、これらの矛盾に対して合理的な説明ができなかったために、津の国難波の里はじっさいには
存在しない、御伽草子の中だけの架空の場所だとしてかたづけられてきた。
しかしながら、一寸法師の難波の浦と謡曲「芦刈」の難波の浦が同じ場所だとすれば、これらの矛
盾はすべて解消することになる。「芦刈」の舞台となった難波の浦は、八十島と呼ばれた淀川河口デ
ルタのあたりに想定されることは、「謡曲「芦刈」と難波の浦」ですでに述べたとおりである。難波の
浦は、広義では八十島の淀川河口デルタのあたりを指し、狭義では仁徳紀の難波済(なにわのわたり)、葉
済(かしわのわたり)、仁徳段の難波之大渡(なにわのおおわたり)、近世の槲(かしわ)の渡しや野里の渡しがあっ
た御幣島のあたりだと考えられる。御幣島は中津川と神崎川に囲まれた淀川デルタの島で、神功皇后
がいわゆる三韓征伐から凱旋したときに、この島に上陸して住吉大神を祀り、御幣(みてぐら)を献じた
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御幣浜の伝承地でもある。御幣浜は今の西淀川区の御
幣島小学校の西にあった住吉神社のあたりだったとさ
れている。物語でいうところの住吉大明神は、この御
幣島の住吉神社を指すと考えられる。
①
御幣島村
②
野里村
③
佃村
④
加嶋村
⑤
毛馬村
⑥
大物浜
⑦
伝法村
⑧
野田村
この住吉神社は、明治四十二(1909
)年に神社の統廃
合が行われて、加嶋村④(今の淀川区加島)の香具波志神
社に合祀されている。現在、神社趾地は御幣島公園に
なっていて、「住吉神社趾」の大きな石碑が建ってい
る。この住吉神社は神崎川側の御幣島村①にあり、槲
の渡しや野里の渡しは中津川側の野里村②、今の西淀
川区野里にある野里住吉神社のあたりにあった。野里
のあたりから満ち潮に乗じて中津川を遡ると、毛馬⑤
で淀川につながり、江口、鳥飼、三島、鵜殿、水無
瀬、山崎から巨椋池を経由して鳥羽の津まで直行でき
ることから、御幣島のあたりは一寸法師の難波の浦の
最有力の候補地だといえる。
明治十八年の地図で見る淀川河口付近
一寸法師と難波の浦
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物語では、三条の宰相殿の姫君に懸想した一寸法師は、計略をめぐらして姫君にあらぬ罪を着せ、
邸から放逐されるように仕向けた。計略は見事に成功し、姫君は継母にも疎まれて邸から追い出され
てしまう。途方にくれている姫君を、一寸法師は言葉巧みに三条の宰相に話をつけて引きとることに
なり、ふたりは鳥羽の津から舟に乗って、難波の浦に下ることになった。
難波の浦へ行かばやとて、鳥羽の津より舟に乗り給ふ。折節、風荒くして、興がる島へぞ著けに
ける。舟よりあがり見れば、人住むとも見えざりけり。かやうに風わろく吹きて、かの島へぞ吹
き上げける……。
ところが折悪しく大風が吹いて、二人を乗せた舟は鬼が住む恐ろしい島に流れ着いてしまった。す
るとそこへ、二匹の鬼が出てきて一寸法師をひと呑みに食べてしまうが、一寸法師は鬼の目から飛び
出して、ここぞとばかりに媼からもらった針の刀で鬼を切りつけたので、鬼は持っていた打ち出の小
槌を放り出して、恐れをなして退散した。一寸法師は打ち出の小槌を振って自らの身体を大きくし、
さらに小槌を振って金銀財宝を打ち出し、姫君を連れて京に帰るというのが話の大筋になっている。
ここから読み取れることは、やはり鳥羽の津と難波の浦は、淀川の上流と下流でつながっていたとい
うことだ。淀川河口の八十島にはいくつもの島が点在していて、二人を乗せた船は運悪く大風に吹き
流され、鬼の住む恐ろしい島に流れ着いたのだった。ここでいう鬼とは、八十島を根城とする野盗の
匪賊を指しているのではないだろうか。諸本では、「興がる」を「きょうがる」と訓み、すなわち風
変わりな島だと解釈しているが、文中には「かの島」とあり、その名前を口にするのもはばかれるほ
ど恐ろしい島、禍々(まがまが)しい島という意味で使われていることから考えて、「きょうがる」は
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「恐がる」の意で使われていると考えられる。本文の「きょうがる」は、山陰や岡山地方の方言でい
う「きょうとい」と同義の、中世の京ことばだと思われる。「きょうとい」は、古い京ことばが地方
に伝わりそのまま地方だけに残った例だが、「きょうがる」の場合は地方にも定着することなく、時
代の流れとともに自然消滅してしまったことばだと考えられる。文中では「不便」を「ふびん」と訓
ませていて、「便」は「憫(びん)」の音を仮借して使われているように、「興」は「恐(きょう)」の仮
借字だと考えるべきである。『御伽草子』が刊行された江戸時代には、「きょうがる」はすでに死語
になっていて、本来の「恐」の語意が通じなくなっていたのだろう。そもそも鬼は、泣く子も黙る世
にも恐ろしいものであって、風変わりな格好をしたちょっといかれた変わり者の鬼では、子供も泣き
止まないだろう。
御幣島の野里住吉神社には、そのむかしに行われていた人身犠牲の神事が、一夜官女祭という奇祭
に形を変えて今日に伝わっている。社伝によれば、一夜官女は次のような故事による。
そのむかし、中津川に面した野里の住人は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって、悲惨な生
活を強いられていた。そのため近隣の村人は、野里のことを泣き村と呼んでいた。あるとき、こ
の村の窮状を救うためには、毎年定まった日に一人の乙女を神に捧げよとの託宣があり、村を救
いたい一念から、村人の総意でこれを慣例の神事とすることにした。人身御供の乙女は、毎年一
月二十日の丑三つ時に、唐櫃(からびつ)に入れられて神社に運ばれて、神酒や神饌とともに供え置
かれた。翌朝村人たちが神社に行ってみると、これらの供え物は神隠しのように消えていたのだ
った。このようにして七年目の神事を準備していたとき、たまたま村に立ち寄った一人の武士
一寸法師と難波の浦
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が、ことの仔細を村人から聞くと、「神は人を救うもので、人間を犠牲にすることは神の思召し
ではない。」と言い放ち、乙女の身代わりに自らを唐櫃に入れて、神社に供え置くように命じ
た。翌朝村人たちが神社に行ってみると、そこには件の武士の姿はなく、大きな狒々が深手を負
って絶命していた。この武士こそ、武者修行で諸国遍歴中の伝説の武芸者、岩見重太郎であった
と言い伝えられている。
ここでは狒々(ひひ)になっているが、この正体は一寸法師に登場する鬼と同じように、近くの島を
根城にする野盗の匪賊だったのではないだろうか。映画「七人の侍」に登場する野伏(のぶせり)のよう
に、彼らは暴力と恐怖によって近隣の島々を支配し、過酷な搾取と無慈悲な収奪を行う、鬼畜のよう
な武装集団であった。淀川河口デルタに点在する島々は、まわりを水に囲まれた天然の環濠集落であ
った。平時においては島ごとに自主的に結束して、半ば独立した住民自治が行われていたが、中央政
権の力が衰えて世の中が乱れると、このあたりは武装集団が跋扈する無法地帯になったのだった。淀
川河口を根拠地として、武力をもって時の政権に反抗する姿は、景行天皇二十八年春二月条に、「皆
れも害心有り、毒気を放ちて、路人を苦しめ、禍害之薮となる」といわれた、柏済(かしわのわたり)之悪
神を髣髴とさせる。
淀川河口の八十島にあった難波のわたりは、つねに洪水のリスクと背中合わせではあったが、一寸
法師の生れたころには、東西の交通と海陸の舟運をつなぐ中継地として、地政学的に重要な場所であ
った。ところが、江戸時代の御伽草子の読者にとって難波(なにわ)は、大坂城を中心とした城下町周辺
を指すことばとして用いられるようになっていた。江戸時代になると、難波のわたりがあった淀川河
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口付近は、土砂の堆積により大型船の中継港としての機能をすでに失っていて、もはや蘆荻の生い茂
る水辺の寒村となったこの場所を、難波と呼ぶものはいなくなっていた。そのため御伽草子の読者
は、難波の浦は八十島ではなく、難波村や三津寺のあたりを指すと考えるようになり、その結果つい
には、住吉の浦の所在もわからなくなってしまったのだった。このことは、「きょうがる」の本来の
語意が失われて、風変わりな島になってしまった経緯とよく似ている。『御伽草子』一寸法師の中に
は、かつて淀川河口の八十島にもうひとつの難波があった痕跡が、住吉の浦ということばで残されて
いたのだった。
(初稿・2015年10月20日)
(改訂・2017年11月5日)
無断転載を禁じます。
本稿は、「なみはやの難波」(http://ringodo.web.fc2.com/namihaya.htm
)の一部分です。
Copyright © 2017
Ringo-do ,Yasui Kunihiko
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一寸法師と難波の浦
12
*1
『一寸法師のメッセージ』
藤掛和美
笠間書院
1996年
*2
『お伽草子』日本古典文学全集36
校注・訳者大島建彦
小学館
昭和四十九年
*3
ここでいう「澪標」は、今の此花区伝法の澪標住吉神社のあたり。「大伴御津と住吉宅」(232
頁)参照。
*4 ここでいう「難波」は、難波の渡り、難波の浦を指す。この場所は川船の渡船場であると同時に、満ち潮を利用し
て難波潟の澪筋を通過するための、また上げ潮を利用して中津川から淀川に溯るための、潮待ちの中継港、待機港でもあ
った。また「河尻」とあるのは、淀川本流の河尻、すなわち淀川が中津川と大川に分岐する毛馬のあたりを指す。このこ
とから、当時の海岸線はかなり内陸部まで入り込んでいたことが想定できる。
*5
「難波往古図」宝暦六(1756
)年
大阪府立中之島図書館蔵
*6
『大阪城下町跡Ⅱ
』 大阪市文化財協会
2004年
*7
『古代景観の復元』
日下雅義
中央公論社
1991年