近代社会と宗教改革 ―ルターの宗教改革とヨーロピ...

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2007.12.1 近代社会と宗教改革 ―ルターの宗教改革とヨーロピアン・グローバリゼーション― 倉松 功 目次 はじめに .................................................................................................................................................... 1 一 プロテスタンティズムの原理としての信仰義認の教理とその射程 ................................................... 4 二 ルターにおける人権 ......................................................................................................................... 14 1. 創造の賜物、自然権としての人権 .................................................................................................. 14 2. キリストの福音と人権 .................................................................................................................... 17 三 万人祭司、その根底にあるキリストの賜物としての自由と平等 ..................................................... 21 1. 自由と平等の宗教改革的理解 ......................................................................................................... 21 2. 自由と平等の教会的構造................................................................................................................. 23 四 ルターの人権と近代の人権 .............................................................................................................. 26 1. その類似性 ...................................................................................................................................... 26 2. 両者の相違 ...................................................................................................................................... 27 結び ......................................................................................................................................................... 29 はじめに 近代社会と宗教改革との関係が 20 世紀初頭、近代世界の成立や資本主義の勃興に対する キリスト教特にプロテスタンティズムの意義といった角度で論じられた。このテーマはわが 国では第二次世界大戦前後、特に近代資本主義の勃興に対する関係の角度から、いわゆる大 塚史学を中心に盛んに論じられ、今日においても衰えを知らない。E. トレルチに見られる 「近代世界の形成とプロテスタンティズム」のようにその関係の消極性は今日もそれ程変わ っているように思われない。 しかし、トレルチの場合その消極性はむしろ福音の超越性を意味していたとも解しうる。 1

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2007.12.1

近代社会と宗教改革

―ルターの宗教改革とヨーロピアン・グローバリゼーション―

倉松 功

目次

はじめに .................................................................................................................................................... 1 一 プロテスタンティズムの原理としての信仰義認の教理とその射程 ................................................... 4 二 ルターにおける人権 ......................................................................................................................... 14

1. 創造の賜物、自然権としての人権 .................................................................................................. 14 2. キリストの福音と人権 .................................................................................................................... 17

三 万人祭司、その根底にあるキリストの賜物としての自由と平等 ..................................................... 21 1. 自由と平等の宗教改革的理解 ......................................................................................................... 21 2. 自由と平等の教会的構造 ................................................................................................................. 23

四 ルターの人権と近代の人権 .............................................................................................................. 26 1. その類似性 ...................................................................................................................................... 26 2. 両者の相違 ...................................................................................................................................... 27

結び ......................................................................................................................................................... 29

はじめに

近代社会と宗教改革との関係が 20 世紀初頭、近代世界の成立や資本主義の勃興に対する

キリスト教特にプロテスタンティズムの意義といった角度で論じられた。このテーマはわが

国では第二次世界大戦前後、特に近代資本主義の勃興に対する関係の角度から、いわゆる大

塚史学を中心に盛んに論じられ、今日においても衰えを知らない。E. トレルチに見られる

「近代世界の形成とプロテスタンティズム」のようにその関係の消極性は今日もそれ程変わ

っているように思われない。

しかし、トレルチの場合その消極性はむしろ福音の超越性を意味していたとも解しうる。

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われわれはこの問題を副題が示すように、「ルターの宗教改革とヨーロピアン・グローバリ

ゼーション」という視点で考察してみたい。それによって「近代社会と宗教改革」のみなら

ず、さらに「宗教改革と現代」との関わりを広く考察することができるのではないかと思う

のである。それはまたキリスト教をヨーロピアン・グローバリゼーションの構成要素として

新しく見直すことにもなるであろう。

考察の方法としては、第一に、ルターの宗教改革の原理、それは同時にプロテスタンティ

ズムの原理ともいわれている信仰義認の教理とその射程を分析し、それが政教分離と価値多

元のデモクラシー社会のキリスト教的根拠となっていることを明らかにしてみたい。それは、

かつてルターの信仰義認に基づく保守的倫理が注目されたことに対して、ルターの義認論の

時代を超えた宗教的意義を認することにもなるであろう。

考察の第二は、前記の検討によって、宗教と政治、教会と国家との区別と分離ならびに両

者の役割、機能の相互関連について論じる。そこから宗教改革時代の Th. ミュンツァーの

みならず、宗教改革時代の終わりのクロムウェルのアイルランド殲滅作戦から現代に至るま

での宗教一元論ないし宗教原理主義と政治の疑似宗教化、全体主義に注目したい。

考察の第三はヨーロピアン・グローバリゼーションの重要な価値としての基本的人権に対

するルターの貢献ないしは関係である。ここでは特にルターのモーセの十戒の後半の解釈も

とりあげてみたい。

考察の第四は、ルターの万人祭司(全信徒祭司)論である。ルターの万人祭司論とイング

ランドのピューリタン革命やそれによるイギリス・デモクラシーとの関係が、M. ウェーバ

ーや E. トレルチとは全く異なり、A. D. リンゼイによって主張されている。その他 P. テ

ィリヒや Th. マンなどによっても注目されている。

これらの考察よって、ルターの神学が、単純に現実化されたり、制度化され尽くすことの

できない宗教的(超越的)価値を示していたことを―それこそ聖書の宗教の本来の超越性で

あるが―明らかにしたいのである。しかし、それはアングロサクソンのプラグマティズムの

文化からはマイナスに評価される内面性、精神性であった。それゆえ、一層、今日のヨーロ

ピアン・グローバリゼーションである(効能、効率、便利を求める)目的合理性、市場原理、

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業績主義(世俗的行為義認)に対する警告ともなっている、と思われる。他方その宗教性は

ヨーロピアン・グローバリゼーションの最も基本的二つの価値について宗教的支柱を提供し

ている。その一つは基本的人権の根底ないしは前提としての人間の尊厳であり、いま一つは

デモクラシー社会の前提、根底としての価値多元社会の構造を支える宗教性である。

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一 プロテスタンティズムの原理としての信仰義認の教理とその射程

ルターにおける信仰義認の教理は、その発端から歴史観や社会教説を包摂するものであっ

た。例えば、いわゆるかれの宗教改革的体験といわれる神学が明らかになる数年前 1509 年

に、「どこにおいてもキリストの人性とかれが肉をとっておられることを信じる信仰によっ

てキリスト自身が治める国(…regnum Christi, ubi ipse regnat in fide humanitatis suae

et in velamento carnis suae.)」と述べている。これはルターにおける信仰義認の教理へと

発展する経過ないしは系列の中で見られるものであるが、そういう文脈で既にこのような表

現を見るのである。

前者以上に重要なルターの義認論ないし救済論に基づく歴史観(救済史)、社会教説への

展開の前提がある。それはいうまでもなく、聖書そのものの構造としての、神による世界の

創造、人間の堕罪とキリストによる神の救いそして終末に至るまでの神の世界保持ないし救

いの歴史(救済史)というキリスト教信仰の基本構造である。それを受容したのがルターの

「神の世界支配の二つの方法=二世界統治説」である。そしてルターはこの点において特別

な貢献をしているというのが論者が本稿で明らかにしたいものに他ならない。

周知のように、旧約聖書創世記は、神の世界創造の中で、人間の創造と人間に対して人間

以外のものを支配せよという神の委託について記している(創世記 1 章)。しかし神の世界

支配の委託を受けた人間は堕罪によって神が治めるような仕方で神に代わってこの世界を

治めるということができなくなった。そこで、人間の救いのために神の子イエス・キリスト

がこの世界に遣わされることになった。このキリストの救いと人間との関係が信仰によって

罪が赦され義と認められるということである。

このような創造と創造した世界の維持と救いについて、ルターはエラスムスとの論争にお

いて次のように言っている。

まず、世界の創造と創造した世界の維持(救済史)についてであるが、「神は私たち抜き

で創造し維持する。しかし、私たちなしに私たちのうちで働かない。被造物全体が神の道具・

仮面として尊重される。」といっている。神は世界を創造し、この世界の維持のために人間

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と共働する、というのである。それだけでなく、「救いとそれを維持する業においても私た

ちと共働し、私たち抜きでは働かない」のである。この二様の所論は、人間の社会的政治的

活動あるいは政治制度や社会組織の活動を積極的に認めると共に、神とその宗教的救いを超

越的基準として人間とその制度の限界を明確に示したものである。ルターの言葉によれば、

宗教が政治を支配したり、政治と一体化したり、政治と宗教とが混合するのは暴君・悪魔の

支配ということになる。国家・政治の悪魔化とは国家・政治が家庭や教会の自立性を奪い、

国家が教会化し宗教の機能を奪ったり、教会が国家や家庭を支配し、その役割を奪う状況で、

それらの混乱は、キリストの信仰義認による支配を喪失させ、それぞれが神となろうとする

ことであった。ところで、宗教一元化を批判するルターの主張は、かれが反対する相手

(Front)を想定していた。その相手とは、教皇がこの世界の家庭や政治の事柄を直接支配

(potestas directa)するとしていたカトリック教会と宗教もこの世のこともすべて聖書の

教え(実際には教団の指導者の意図)が決定し、その教えをいつでもどこでも直接実践する

という宗教改革の左派による宗教一元論ないし宗教原理主義、ルターのいう熱狂主義者

(Schwärmer)の立場であった。

このような全体的な構想の下で、ルターはかれのいう信仰義認によってキリストが治める

―キリストの統治・支配(regnum Christi)―に人間が協力するとは、聖書によって神の

言葉を説くこと(み言葉の宣教)、サクラメントの執行、信仰告白、祈りなどを介して行う

ということであった。それはまた人間と理性の支配(regnum humanum seu rationum)を

無効にするものではなかった。ただ人間とその理性はキリストによる罪からの救いを必要と

しているということであった。ともあれ人間の支配(国家)は神の法としてモーセの戒(第

二の板)に従って営なまれなければならない。それはルターによれば自然法に則するという

ことである。その限りにおいて市民社会を構成するすべての政党の存在を許容する。キリス

ト教徒であれ、それ以外の公権力であれ、公権力は神の道具、面(マスク)として神の世界

支配に仕えることになるのである。したがってまたどのような公権力でも神の人間相互に関

する規定である第二の板に反することを強制するとか国民の身体的安全に配慮せず、それを

否定する場合は反抗権を認めたのである。このようにルターは公権力の職務の範囲を十戒に

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よって区分した。それに対して改革派がキリスト教の俗権に十戒の両方の板に対する権限を

与えていたのと対照的であるといえる。このことをルターはどのように具体的に、領邦教会

の形成過程の中で実践したかを瞥見したい。

ルターは 1525 年には、ザクセン領邦内の福音主義教会化のための巡察の仕事を、選帝侯

ヨハン堅忍公(在位、1525-32 年)に委ねた。それによって、領邦君主の教会統治に対し

て自律した教会政治を行うことはできなくなった。教会の管理・指導は会衆自身や牧師の手

を離れ、牧師は司教(監督)と呼ばれることになったのである。しかし、ルター自身は、こ

の推移をそのまま肯定したのではない。彼は司教(監督)のすべての権利を領主に委ねるこ

とは決して考えていなかった。1523 年の『ミサと聖餐の原則』においては各個教会の牧師

を終始司教(監督)と呼び、1539 年にいたっても依然としてすべての牧師を司教(監督)

と名づけ、それに対して選帝侯を「緊急監督」(Notbischof)と称している。ともあれルタ

ーは、実際の教会政治において、また現実の教会と国家との関係において、領邦君主の教会

統治に対抗する教会独自の教会政治を設立することはできなかった。そして、ザクセンでは、

1539 年に、緊急監督としての選帝侯の下に、教会局(Konsistorum)が設けられた。教会

政治の模範となったのは、ザクセン選帝侯領の状況とルターの所見である。そこでは、1527

年に上席牧師(Superintendent)、のちに監督が置かれた。1533 年以来、ヴィッテンベル

クの上席牧師はブーゲンハーゲンであった。彼は 1528 年以来、北ドイツ、デンマーク、ノ

ルウェーなどの諸都市、ドイツ諸領邦の教会規定を作成し、福音主義教会制度を確立してい

った。その時彼は、ルターの教会制度の三つの中心―宣教・礼拝、教育、救貧・社会福祉―

を堅持していった。それは治安(軍事、警察)、行政、司法、外交を担当する俗権とともに、

都市や領邦全体を包含する教会共同体を建設しようというものであり、その限りにおいて、

宗教改革の教会は、熱狂主義のように教会自身が行政・軍事・司法の諸権をも所有しようと

する一元化を目指したものではなかったし、またそれらの諸俗権を軽蔑してそれを忌避しよ

うとする再洗礼派の道を歩むものででもなかったのである。特に注目すべきは教会戒規であ

る。陪餐禁止、破門といった教会の懲戒処分は、教職者の権限であった。その他の罰金刑と

か都市からの追放といったことは、俗権のものであった。なお、ブーゲンハーゲンの『ハン

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ブルク教会規定』によれば、牧師、長老、執事の三職が教会の職能として全市の各個教会で

任命された。そして、全市の長老たちによって長老会(ゼニオラート)が結成された。長老

会の結成自体は、改革派のスイス・バーゼルやストラスブールのそれに先立つものである。

いずれにしても宗教改革者たちは、聖書が記す上席牧師としての監督を含む牧師、学校の教

師、長老、財産管理・福祉に携わる執事という四職を、教会の職能と考えていたのである。

またルターは、教会巡察には賛成したが、婚姻と戒規を司る教会裁判所のごときものを俗権

の一つの機関コンジストリューム(教会局)として設けることには最後まで賛成せず、抗議

さえしている(1543 年の手紙、『卓上語録』参照)。このようにルターは、現実の教会政治

において、制度・機構的に信仰上の統合と政治的統合とを区別するものを設立しえなかった。

しかし、そのことは、ルターは神学的にその区別を考えなかったとか、あるいはルターは教

会と国家とをまったく切り離して考えていたので、結局、教会(宗教的統合)は国家(政治

的統合)のいうなりになった、とかいったことはできないであろう。

ルターはかれの二世界統治説によって、前述のカトリックに対すると同じ批判をトルコ人

にも行っている。第一に注目させられるのは、その批判をしばしばカトリック、熱狂主義と

平行的に行っていることである。すなわち、ルターが、トルコ人(モスレム)の誤りとする

ものは、同時にミュンツァー、再洗礼派、教皇徒たちの誤りと同じものであった。トルコ人

は俗権の独自性、世俗の国家を認めず、結婚を破壊すると見ていた。次いで、トルコ人に対

する戦争は、キリスト者の戦いであってはならない。その戦いは、「地上に平和を保ち、身

体的生命の安全を保証し、福祉をはかることを責務としている世俗の公権力のものでなけれ

ばならない」といっている。第三に前述のように家庭、結婚を破壊し、婦人を蔑視するのは

神の秩序に反するとしている。特に第三の批判に関して、後述するように、ルターはかれの

信仰義認の教理に基づき婦人と子供も司祭、教皇と同じ平等の品位・尊厳を有していると語

っていることに注目しておきたい。

晩年のルターによって今一度、国家・政治の課題について述べておきたい。第一は消極的

課題であり、それはこの世が混乱(カオス)に陥らないためということであった。第二は積

極的な課題で、人々とこの世のよき賜物とが平和で安全であること、そして、それによって

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この世が真の祝福、天国の一つの型となることであった。すなわち、この世の支配は、キリ

ストの支配の模像、影、比喩なのである。(Welltliche herrschafft ist ein bilde, schatten, und

figur der herrschafft Christi : WA 30Ⅱ 554, 11)。具体的には、悪人を罰し、正しい者を助

け、かれらを暴力と不正から守り、外面的平和を保持し、各人に各人のものを与えることで

あり、すべての法の目的を愛と平和に置き、良識の法である自然法に従って実定法を運用す

ることであった。「国民も国王も法なしには存在しえない。かれらは戦争を行い、臣下を守

り、罪人を罰しなければならないという任務を課せられている。これらすべてのことは、(聖

書において)正当で合法的だと認められている。……教会の中におり、われわれと共に信仰

を告白する政治家だけでなく、異教徒の政治も(神によって)認められている」(Populi et

Reges non possunt esse sine legibus. ……Non solum autem Magistratus, qui in Ecclesia

sunt, et fidem nobiscum profitentur, approbantur : sed etiam gentilium imperia : WA 42,

629,18-27 = Gensisvorlesung)。

政治が法なしには存在しないとすれば、その法はいかなる法であるか。その法は、「理性

もしくはすべての書物の上にある自由な理性から出てきたものである」。ここでルターは、

明らかに法は、理性の法としての自然法に由来すると述べている。それゆえ、「善き理性が

ある場合は、その統治は常によく、隣人を正しく審く」ともルターは主張するのである。な

ぜなら、「すべての理性は愛と自然法を充分に具えている」からである。そして、「自然(法)

は愛がいかにふるまうかを教える」。そのような自然法は、「モーセの律法におけるほど、精

妙に、秩序立ってはどこにも記されていない」。それゆえ、「十戒はモーセの律法ではなく、

むしろ全世界のもの、すべての人間の心に記され、刻みこまれており(sed decalogus est

totius mundi, inscriptus et insculptus mentibus omnium hominium)、モーセの律法と自

然法は一つのものである」と結論されているのである。

このような観点から O. クロムウェルやピューリタン革命の担い手たちが、自らが聖化さ

れた完全な者たちであり、しかも他に対して聖別された人間であるという確証を与える者の

みが見集う教会に属すると主張したことは興味深い。M. ウェーバーによれば、「カルヴィ

ニズムがその信徒に求めたものは、個々の『善き業』ではなくて、組織まで高められた行為

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(業績)主義だった」。私見によれば、これはカルヴァン本来の考えではない。カルヴァン

本来の教会観は「教会は義人と不義なる者(罪人)の集り」であったからである。しかし、

改革派はモーセの十戒の前半後半共に、公権力の課題であった。そこからは安易な神政政治

や政治の宗教的モラリゼーションが起こりかねなかった。いずれにしても独立派・会衆派ピ

ューリタンにあっては、その集団の聖性をもって政治的分野においても積極的政策を実施し

た。その一つが例えば、「クロムウェルの軍隊が良心の自由のために、それのみか『聖徒の

議会』が国家と教会の分離のためにつくした」のである。しかし、一度聖なる集団が政権を

握った時、不可避的に政治の宗教的モラリゼーションが生じる。その例が英国内のカトリッ

ク文化の破壊のみでなく、アイルランド・クロンマクノイズや、ボイン川流域のアイルラン

ド殲滅作戦といってよいであろう。

これらはルターの宗教と政治の区別・分離とは決定的に異なる。既述のようにルターの場

合、「キリストを信じることによってのみ、罪が赦され義とされ、救われる」というキリス

トの統治は、それを宣教する教会を通して現実化されていくことであったからである。従っ

て教会(教権)が戦争を遂行することは、ルターにとって承認することができない悪魔的な

状態であった。

いずれにしても、宗教と政治、教会と国家の区別と関係はコンスタンティーヌス大帝によ

ってキリスト教がローマ帝国の国教となって以来ヨーロッパ・グローバリゼーションの問題

となった。また宗教的観点からすると、聖書における「神の国とこの世」というテーマは、

アウグスティヌスによって、「神の国と地上の国」という形で継承された。ルターにおいて

は、一層神学的にキリスト中心的に捉えられたことは既述のとおりである。しかし、ルター

の二世界統治説は、第二次世界大戦前後厳しい批判の的となった。その問題について論者は

どう考えるか、それを少しく述べておきたい。それによって、ルターの説く宗教改革のキリ

スト教理解とりわけ彼の二世界統治説の時代を超えた宗教的意味を明らかにすることにな

ると思うからである。

第二次世界大戦後ルターの二世界統治説がドイツでさかんに論議され、ドイツ以外から批

判されたが、それにはいくつかの理由があると思われる。ここでは二つだけあげておきたい。

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一つはヒトラーの支配下のドイツの教会はもとより、それ以前から、ドイツでは、公権力あ

るいは国家の政治力が聖化され、特にヒトラーの悪魔的支配をも教会は肯定したということ

への反省と関連している。ただ興味あるのは、ヒトラーに迎合した人々は、この教説そのも

のというより、律法―民族の法―と福音、政治と宗教、国家と教会といった角度からルター

の教えに接し、二世界統治説を正面から問題にしていないことである。それに対して、ヒト

ラー体制を批判し、告白教会の指導者だった人たちは、この教説に本格的に取り組んだ

(1938 年)。それ以後、この教説ははじめてルター神学の中で一つのまとまった思想として

の取り扱いを受けるようになった。これに刺激されてスウェーデン、デンマークなどで秀れ

た研究書が出された。このようにルターの二世界統治説は、第二次世界大戦前から本格的な

研究がはじまっていたのである。そしてそれらは大戦後に受け継がれ、戦争中のルター受容

の反省を踏まえて一層盛んになったのである。ただこのようなヨーロッパの研究は、すぐに

は日本には紹介されず、今日においてもこの教説の内容もその重要さもわが国では一般には

理解されていない。

この教説が第二次大戦後、新しく注目された今一つの原因は、日本にも戦後割に早く紹介

された「キリストの王権」と関係がある。王権という言葉は、ラテン語やドイツ語ではルタ

ーが頻りに用いたキリストの王的統治・国(レーグヌム)と同じである。そこでルター学者

たちは、この王権という言葉はルターにおいて教会観、義認論、歴史観等、神学の中心問題

である所から、この言葉を手掛りに研究を進め、キリストの統治・国に対するこの世的統治・

国を必然的に問い明らかにすることによって、新しいルター研究の大きな流れとなるに至っ

た。例えば G. エーベリンク、E. ヴォルフ、B. A. ゲリッシュ、P. ブルンナーなど近年の

研究書によれば、二世界統治説はルター神学を明らかにする鍵とか、広く神学そのものの基

本問題と言っているが、これに似た言葉が盛んに使われるようになった。

二世界統治説が教説として捉えられるようになったのは、1930 年代後半からである。そ

れ以前は、教説の一部を構成しているに過ぎない律法と福音、政治と宗教、国家と教会とい

う言葉を手掛りにこの教説を手さぐっていた。この教説が教説として捉えられるようになっ

てからの解釈は大きく言って三つばかりそのタイプがあるように思う。第一は、律法と福音

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の一つの変形として考えるものである。第二は、キリストに属する世界とサタンに属する世

界というふうに捉えるものである。第三は、神の世界保持あるいは世の終わりに至るまでの

神のこの世支配の二つの様式という考え方である。この第三の立場は、一見国家と教会とい

う理解に似ているが、神の救いの計画あるいは救済史を背景にしているので、ルターの歴史

観、救済史観の枠の中で教会と国家をも捉えるタイプといわねばならない。さらに、これら

三つのタイプはいずれも福音・信仰義認の救済を根底にしている。

バルトの立場に立つ人はこの説にどんな態度をとっているのであろうか。

バルト自身は、ルターの律法と福音、世俗的秩序と教会的秩序、世俗的権力と教会的権力の

関係についての理解は誤っていたといっている。ただし、バルトは、ルターの二世界統治説

を知らなかったかどうかは別にして、バルトはこの教説について何も論じていないように思

う。バルトの立場に立つ人たちのことであるが、二人の代表的人物の考えを紹介しておこう。

一人は、E. ヴォルフである。かれは本来ルター研究者でもあるが、そのヴォルフによると、

ルターの二世界統治説の出発点はキリストの統治・国ないしは王権であり、それは正しい神

学のありかたを示している、という。キリストのみ業を第一の関心事とする神学は必然的に

キリストのみ業でないところのものを明らかにするというのである。なおこのヴォルフの考

えは、G. エーベリンクに負っている。またヴォルフは、第二次大戦後の代表的な二世界統

治説の研究家 J. ヘッケルの研究を評して、ヘッケルの理解する二世界統治説は、バルトの

「義認と法」という形の教会と国家の問題設定と同じ、といっている。

バルトの立場に立つ今一人の神学者として、日本にも割に知られている H. ゴルヴィッツ

ァーをあげたいと思う。かれは、ルターとバルトとの共通点と相違点を列挙している。ゴル

ヴィッツァーは、ルターのこの教説は三位一体の神の異なった統治の仕方を意味していると

解している。すなわち、神が世界の創造者、保持者として人間を治める場合と和解者、救済

者としての場合と異なるというのである。この解釈に基いてゴルヴィッツァーは、二世界統

治説を、神の世界支配の二つの様式と考えている。そして、かれはルターとバルトとの共通

点として、八つの点をあげているのは興味深い。その中で福音のイデオロギー化の拒否、熱

狂主義への反対をあげている。相違点として、ルターはキリスト者個人とこの世との関係を

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問うのに対して、バルトはキリスト者共同体と市民共同体との関係を問題にしたこと、ルタ

ーは贖罪、救いからこの世の保持の領域を区別していること、しかしバルトは神の国で起こ

ることの対応を政治的領域に求め、その間に方向と線という不変な連続性があるとした、と

いっている。ゴルヴィッツァーのルター理解は、かつてバルトがルターを批判したものとは

ちがって、ルターを積極的に評価をしているのが注目に価する。かれのルター批判は、それ

がバルトとの相違点を示すという点では当たっているかもしれない。ただルターはまずキリ

スト者個人とこの世との関係を扱っているというのは、正しいとは思えない。なぜなら、ル

ターの二世界統治説は、ルターの社会教説であり歴史観でもあるからである。

この教説についての論者の解釈と評価はどういうものか、最後に再びそれについて纏めて

記してみたい。第一は、この教説をルターは、キリストとその救いというキリスト教の根本

真理からわれわれの生の一切、家庭、学校、職業、国家の意味を明らかにした所に、この教

説の意義があると思う。

特に現代的意義といえば、二つのことをあげることができよう。一つは、消極的意義であ

る。今日の教界では、宗教的真理をあらゆる場所に、特に社会的政治的局面で、この世との

連帯とか他のための存在という理由で、直接現実化しようとする宗教的一元論の熱狂主義な

いし原理主義がある。ルターの二世界統治説はこれに対して否、という。キリストの統治・

国は地上においては説教と礼典に与かる礼拝共同体であり、それ以上のものではない。神の

国がそれ以上に何か政治的な線や方向となって現われるという考えをルターは持っていな

いからである。この点の極端な誤解を与えかねない例がルターの『山上の説教講解』である。

「君侯はキリスト者たりうるが、彼はキリスト者として治めてはならない。彼の君侯として

の職務はキリスト教と関係がない。なぜなら、キリスト者はすべてを赦し、不正に耐えよと

命じるが、君侯としての職務は、そのような命令を彼に課することはできず、むしろ、罰し、

復讐(弁償)を命じなければならないからである」。キリスト者の君侯は、キリスト者とし

て山上の説教の完全実施を義務としているが、君侯としては、外面的な平和と正義の実現を

目指さねばならず、その君侯としての決定は神の前での正義に代わるものではないというこ

とである。第二はこれと反対に、政治的な力を背景に宗教的真理にまで介入して正邪を決定

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する政治的一元論に対する否、である。これは神のみ前にはキリストへの信仰のみによって

立つというあのルターの信仰義認論ともかかわる二世界統治説の重要な側面である。これは

特に、全体主義的レヴァイアサンの管理国家に対する否、となる。この点についてバルメン

宣言は、W. ニーゼルが言っているように、またルター神学者 P. ブルンナーが主張したよ

うに、きわめてルター的である。というのは、バルメン宣言はまず聖句そのものによって教

会の目標、キリスト教信仰の根本を宣言し、それに基づいてなすべきでない最小限のもの(拒

否条項)を示しているからである。すなわち、団体聖化や集団的強制となる具体的行動の指

針(それ間の中間項)については語っていない。具体的な行動の決定については神の前での

個人の信仰の決断とその責任を負う個人や自由な結社に委ねている。それがナチス時代の告

白教会なのである。

積極的意義として一つのことをあげておきたい。ルターはこの教説によって「個人の宗教

的確信と奉仕からする自由な自発的な社会との関係」を打ち立てた。すなわち、家庭と教会

と国家という終末まで暫定的にこの世に存在する機関の相対的価値と独自性と独立性を明

らかにした。神の救いの歴史の中に占めているこれらの三つの社会機構を、キリストの救い

というキリスト教の中心から意味づけたのである。そして歴史に生きるわれわれに、救済論

としてのキリストの支配と神の救済史との関連を明らかにした歴史観をわれわれに与えた。

そこにルターの二世界統治説の現代における積極的意義を認めるものである。家庭や職業や

国家の意味に対する根本的な疑いに対して、無政府主義的な思考に動かされた宗教的なまた

政治的な熱狂主義に対して、ルターのこの教説は真に対決しうると思われるのである。

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二 ルターにおける人権

ヨーロピアン・グローバリゼーションの中で、今日最も一般的なものは基本的人権であろう。

しかし、アメリカの独立宣言、フランス革命の人権宣言以前の 16 世紀のルターが人権を積

極的に主張しているとは一般的には想像し難いかも知れない。実際、著名なキリスト教倫理

学者も、ルターの宗教改革的基本概念から人権論はかれに馴じまないと評している(T. レ

ントロフ)。しかし、ルターが、ius hominis とか das menschliche Recht という用語で人

権に言及した論議は少なくない。そこで、われわれは、ルターの人権論に関わる用語、概念

を取りあげ、かれの所論を確認し、検討し、神学的コンテキストの分析を通して、かれの人

権論を明らかにしてみたい。それによって、ルターと近代社会との関係を知るうえで必要な

資料を提供することとなろう。次に注目すべきことは、ルターは人権に言及するにあたって、

創造論と救済論すなわち、神の創造の賜物としての人権という視点とキリストの救いの賜物

(すなわち、すべての者に対する救いの約束としての)自由と平等という観点からそれを論

じていることである。

本章において、われわれはまず、ルターが人権ないし基本的人権として何を理解していたか、

そしてかれの人権論がどのような神学的コンテキスト(ロキ)において語られているかを明

らかにする。それは同時にルターの人権論における福音と文化の神学的構造を明らかにする

ことになるであろう。その結果、17 世紀以降現代にいたるキリスト教文化を背景にした人

権の思想とルターとの関係、ないしはルターの人権思想に対する神学的寄与、とりわけ神学

的人権論に対するルターの寄与を示唆することになるであろう。

1. 創造の賜物、自然権としての人権

ルターがキリスト者やキリスト教界に限定せず、すべての人間一般の人権を主題として論

じた文書はない。しかし、単なる言及ではなく、少しくまとまった形で、あるいは、それに

ついて一貫した論理を展開している初期の文章として知られているのは『マグニフィカート、

その独訳と講解』(1521 年、以下『マリアの讃歌』と略す)である。本書でルターは、「一

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般的な人権に関する一般に明らかな例」(von dē groben menschlichen rechte in grob

greifflich exempel)として、以下のようなものを列挙している。金銭、財産、身体、名誉、

女性、子供、友人などについての権利である。それは神自身によって創造され、与えられた

善いもの、神の賜物(gutte dinck, gottis gaben)である。そのような権利は、理性や知恵

といった神の賜物と同様に神の賜物であり、正しく、善であった。

しかし、ルターのいう権利(recht)は、権利の他に法、(正)義、裁きの意味もある。ま

た、たしかに『マリアの讃歌』のすべてのレヒトを、権利と訳することが適切であるとは思

わない。しかし、「高慢で尊大な(異教徒)モアブが有した神の善と賜物」としてのレヒト

とか「われわれ被造物が持とうとする権利、知恵、名誉」といった文脈、すなわち、人類全

体に関わる創造の秩序において、捉えられているレヒトは正義よりも人権であり、権利と訳

する方が適正である。さらに、人権の例として、ルターがあげたものが、既述のように金銭、

身体、名誉などであればいうまでもないであろう。

このように『マリアの讃歌』のレヒトを権利と訳するほうが適正であるとする理由の他に、

ルターの他の著作における人権理解との共通性も検討しなければならない。『マリアの讃歌』

の所説と同じようなことをルターは生涯にわたって述べていることに注目したい。

例えば、ルターは、世俗的統治の秩序、賜物、仕事と名誉(des welltlichen regiments

werck und ehre)という文脈の中で次のように主張している。すべての者が各人の身体、

妻、子供、家、畑、家畜、各種の財産、各人に属するものを保有し(erhellt……ein aeker/vihe

und allerley gueter/das die selbigen)、それらが誘拐されたり、奪い取られたり、盗まれた

り、侵害されたり、損害をうけたりする(entfuren/entwenden/angreiffen/beschedigen)

ことのないようにすることが、神の被造物であり、秩序である(ein Goettliche creature und

ordnung)。それらは知恵と法によって保持されねばならない(muessen durch weisheit und

recht erhalten werden)という次第である。

上述のような自己の生命および身体に対する権利また私有財産権に並んで、ルターが繰り

返し主張した自然権が結婚である。すなわち、ルターによれば、結婚は神が命じ、定め、設

けた、神の業であり、創造の秩序である(geordnet/gestifftet/eyngesetzt……yen werck ūn

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geschepffe)。キリストも結婚を確認している。結婚は、両親の強制によらず、神の賜物と

して与えられている結婚への自由な意思によるべきである。結婚の権利について、さらに注

目すべきことは、第一に、結婚の社会的職分は(stand=recht)皇帝、諸侯、司教に優先し、

それを越え、最も普遍的・気高い職分(vor und uber sie alle geht……der gemeineste

/edleste stand)であった。第二に、結婚はキリスト者も非キリスト者も、信仰者も無信仰

者も、だれもができる。飲食、起居就床、商売、会話と同様、異教徒、トルコ人、異端者そ

の他誰もが行うことができるように、結婚し、その状態でありうる、ということである。特

にルターが結婚に関連して、両親の子供に対する教育の義務は勿論、教育の優先的権利につ

いて繰り返し主張していることに注目してよい。なぜなら近代国家は被教育権は是認するが、

教育権は国家すなわち政治当局のものと主張しがちだからである。(この点は社会主義国に

共通であり、日本においても親の教育優先権は法制化されていない。)それに対して、例え

ば戦後ドイツのボン基本法は、憲法に両親の子供に対する教育の選択優先権を銘記している。

因みにボン基本法は人間の尊厳を第一章で宣言し、続いて基本的人権それから政治形態へと

その条文を展開させている点で憲法の構造としても神学的に評価しうるように思われる。

このように結婚は、神の法と普遍的自然法に従って、身体とこの世の生活を愛し、養い、

管理するという秩序に属している。したがって、結婚は、私有権と共にモーセの十戒の後半、

第二の板の中に位置づけられる。またそのように公権力(magistratus)は、第二の板を守

らねばならず、もしこれに反することを命じる場合には、人々はそれに反抗しなければなら

ない。このように、ルターによれば、この世の公権力は、世俗的であれ、不信仰であれ、(あ

るいは信仰に敵しようが)、われわれに反するものでなく、第二の板に、よってわれわれと

ともにあり、われわれのためのものである(Quare magistratus sive prophani sive impii

non sunt contra nos, sed nobiscum et pro nobis in secunda tabula=Derhalben die

Oberkeiten, sie seiend gleich ongleubig, oder des Glaubens feind, seind sie doch inn der

andern Tafel nit wider uns und für uns. )。

要するにルターによれば、婚姻は、生命と身体が害されない権利や私有財産権と共に、キ

リスト教徒であれ、他の宗教に属する者であれ、神が被造物としての人間に賜物として与え

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ているものである。それらは保持されねばならないものとして神が定め、設定した神の秩序

で、モーセの十戒の後半によって、公権力によって保護され、自然法として守られねばなら

ないものであった。また、その点において人々に奉仕し、人々の福祉を計る公権力の役割が

あり、人間の社会秩序が考えられていたのである。

2. キリストの福音と人権

われわれは前項で、創造においてすべての人間に対して、神の賜物として与えられてい

る権利、いわば自然的人権について語った。それは、ルターによれば、生命、身体、結婚、

私有財産等の権利であった。さらに、それらの権利はキリストによって確認されている、と

いうルターの見解にも言及した。本項では、そのキリストとこの自然的人権についての関係

を、さらに検討してみたい。

その関係を単純明快に語ったものが、ルターの『山上の説教講解』にみられる。「主は、

あなたが秩序正しく(あなたに委ねられている)権利を要求し、それを獲得することが生じ

ることを許しておられる」(er lessets wol geschehen das du ordentlicher weise das recht

(das dir befolen ist) forderst und nemest……)。ここでルターがいう委ねられている権利は、

創造の賜物として人間に与えられているものであるが、それらについて、更に次のようにも

語っている。「われわれは第二の板に従わなければならない、それゆえ、われわれは神の法

と自然法に従って、この世の生を愛し(保持し)、養い、配慮し、管理し(整え)なければ

ならない」(Quia tenemur tabulae secundae obedire, idest, iure divino et naturali corpus

et hanc vitam fovere (erhalten), alere, tueri, administrare(ver-richten))。

神の法と自然法との関係で先に紹介した「十戒の第二の板はわれわれと共にあり、われわ

れのためのものである」というルターの言葉は、かれの人権論理解にとって重要な意味をも

っている。それは、人間が神に似せて造られたという神との関係における人間の尊厳ないし

は人間に対する神の愛の保障が人権であり、そのように、人間の尊厳を保護し、侵害したり、

されることのないようにと定められたものが十戒の後半であると解しうるからである。

次に、十戒と人権との関係から付言しなければならないのは、人間の尊厳の保障として人

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権は単に人権の保障に留まらず、同時にそれはキリスト教倫理の積極的方向、福音の勧めを

意味するものであったことである。これはルターのキリスト教倫理の現実的方向を示すもの

としても注目しなければならない。なぜなら、われわれはそこにルターにおける文化・形成

の神学を確認することができるからである。その点に関するルターの文書として『大教理問

答の十戒の(詳細な)講解』は極めて重要であり、説得的である。ルターは、そこにおいて、

例えば、「殺すなかれ」に関連して次のように記している。「要約すると、神は、この戒めに

よって、各人を人々の悪事や暴力から守り、解放し、各人に平和を与えることを欲し、この

戒めが、人々が隣人に危害を加えず、身体に損傷を与えないように、隣人を囲む城壁、砦、

自由(freyheit)となることを欲しているのである」。「ここでわれわれは再び神の言葉を持

つ、その神の言葉とは、神がそれによってわれわれを刺激し動かして、柔和と忍耐、要する

に、われわれの敵に対する愛と親切な行為といった正しく・尊く・気高い行為をさせる神の

言葉である。神は、われわれに常に第一戒を顧みて、……われわれが復讐したい欲望を抑制

するように、われわれを助け、支援し、保護する方であることを想い起させようとしておら

れる。われわれは、そのことを駆り立て反復して描かなければならない。そうすれば、われ

われは両手一杯のなすべき善きわざを持つことになろう(Da haben wir nu abermal Gottes

wort /damit er uns reitzen und treiben wil /zu rechten /edlen /hoh-enwercken……solchs

solt man nu treiben und blewen /so wurden wir gute werckealle hend volzuthun

haben/)」。

要するに、十戒の第四戒殺すなかれ、についてのルターの講解は、十戒と人権との関係に

ついてかれの基本的理解を示していて興味深い。その第一は、十戒の後半の戒めは、世俗の

生活において「隣人を助けてその権利が妨げられたり、曲げさせられたりせず、それを要求

したり、正しく保持するように、設けられている」ということである(dies gepot

gestellet/das ein yglicher seinem nehisten helffe zu seinem rechte/un nichit hindern

noch beuge lasse /sondern fodere und stracks druder halte)。すなわち、これまで言及し

たように、神の似像としての人間の尊厳を守るための人権の保護という戒めの役割が考えら

れているのである。

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第二に上記の引用が教示しているように十戒の後半の戒めが明らかにする人権は、同様に、

自然法としてすべての人に適合さるべき正義(Recht)を示しているということである。

第三は、ルターの律法の理解においてしばしば論議の的となる律法の第三用法、具体的倫

理の指示、善きわざへの勧めが、十戒の講解において語られていることである。自然的人権

としてすべての人々の地上の生に適合すべき正しさであると同時に、第一戒や神への愛、さ

らに、キリストを媒介とするキリスト者の福音の倫理として善きわざが主張されているので

ある。しかも、そのことが十戒の後半や第一戒、父なる神との関係でひろく地上の人間の自

然権や普遍的正義というコンテキストの中で論議されていることに注目すべきであろう。そ

して、そのようなルターの文化と福音の一見直接的ともいえる関係の中に、ルターの文化形

成の神学、普遍的人権やその倫理への一般的関心を見ることができるであろう。それはまた

特殊エリートの社会形成でなく一般の人々の社会の形成とそのための一般的市民倫理の主

張であったともいうことができよう。これらのことの背景として、ルターが十戒の後半はす

べての人間の心に記されている律法と同じものと見ていたことが考えられる。さらにルター

によれば、自然法は愛はどう行為すべきかを教えるものであったこともそれを裏付ける。し

たがって愛と自然法を無視したり、それに反して他の人間の「正当な権利を奪うことはでき

ない……」というのである(ich kan niemant alzso entploset/wie guett recht)。なぜなら、

自然法による財産に対する正当な権利があっても、その権利を主張して他人の財産を奪わず、

愛によって判断するようにキリストが勧めているからである。それは他人の財産を尊重する

と共に権利を理性と愛によって用いることであった。この正当な権利の使用に当っての愛の

適用は、愛と自然法を豊かに具備している法の源泉としての理性によってなされるべきで、

非キリスト者にも妥当する勧めであった。しかし、キリスト者に対しては、自然法としての

律法を完全に成就した唯一人のキリストの中にその戒めの実行の模範を認め、それに従うこ

とが求められる。そこに福音と自然権としての人権との究極的関係をみることができる。そ

れが福音による自然法、あるいは自然権の理解であり、そこに自然法を超え、自然法の究極

の目標を示すキリストの法としてのルターにおける律法の第三の用法ともいうべき、福音の

勧めを見るのである。また、自然法を超えるキリストの模範と教えと自然法との緊張関係が、

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キリスト教リアリズムということになる。

要するに、ルターにおける人権は、創造の次元での自然的権利としての人権やその権利の

自然法的愛あるいはキリストの模範としての愛による使用のみにとどまらなかった。ルター

はキリスト者の自由と平等を主張した。それによって人権思想にキリストのみが充足し、打

ち建てる救いという終末論的次元と無限の目標とエネルギーとを与えることになったので

ある。それらの点について、次項で検討を加えたい。

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三 万人祭司、その根底にあるキリストの賜物としての自由と平等

前項で見たように、創造者なる父なる神の前での人間(人権)の平等性は、ルターにおいて

常に明確であった(Ita sumus, fuimus, manemus omnes coram deo aequales semper.:

AWA 2, 308, 10.11)。しかし、ルターの自由と平等論はそれに尽きるものでなかった。むし

ろ、かれの自由と平等についての論議が、宗教改革者の中でも例外的なものであり、今日に

いたるまで特別な歴史的意義を有してきた。それが、かれの『キリスト者の自由』他におい

て展開された自由と平等である。しかし、キリスト者の自由と平等は近代の普遍的価値とし

ての政治的自由と平等と異質なものであることはいうまでもない。まさにその異質性を明ら

かにするのが、ルターの福音の神学であり、宗教改革的神学である。他方、恰度、神の前の

平等という神学が、創造の秩序において、自然権としての人権という文化形成的価値を有し

たように、救済の秩序における福音の神学からするキリスト者の自由と平等も、文化の次元

において、政治的・社会的人権論に終末論的性格と文化を超える次元と超越的価値を提供し

たと前項で結んだ。そこでそれらの諸点を論じるのが本項の課題である。

1. 自由と平等の宗教改革的理解

ルターにおけるキリスト者の自由と平等に関して、最も纏った重要な資料が、かれの『キ

リスト者の自由』である。この文書は、周知のように、その冒頭のテーゼによって、キリス

ト者の自由はすべてのものの上に立つ自由な君主と、謳っている。そのような自由は、本文

において、「義とされ、救われるために、わざも律法も善きわざも必要としない自由」(WA,

7, 53, 28f; 64, 24 etc)、「罪と律法と戒めからの自由」(AaO, 69f.)、「死、生命、罪などすべ

てを支配する」自由である(AaO, 57, 36f.)。その自由はまた、「霊的な真の自由」(AaO, 69,

19; 67, 31: libertas spiritualis vera)と呼ばれる。重要なことはこの自由が、キリストを信

じる義しい・自由な真のキリスト者、霊的な、新しい・内なる人(iustus, liber, vereque

Christianus, hoc est spiritualis, novus, interior homo: AaO, 50, 14. 15)に与えられるとい

うことである。ただそれは、われわれが信じるならばであり(si crediderimus : AaO, 54, 30)、

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しかも、その信仰とは、比類なき恩寵によって、魂をキリストにしっかりと結びつけ、サク

ラメントによって、キリストと魂とが一体にされるものである(animam copulat cum

Christo……sacramento Christus et anima efficiuntur una caro: AaO, 54, 31f.)、そのよう

な信仰こそルターが後年においても一貫して主張したものである。すなわち、キリストの持

っている信仰とか、聖霊によって与えられる信仰、と後年でもルターが述べたように全く恵

みの賜物として与えられる信仰であった。さらにこの信仰は『キリスト者の自由』によれば

キリストの持っているものすべてを共有する(omnia eorum communia=alle ding gemeyn

……froelich Wechsel op. cit, 25, 30f.; 55, 35, 36.)。

このような自由と信仰を根底として、はじめてキリスト者の平等が語られるのである。そ

の平等とは、キリストを信じるいかなる者に対して、その信仰によって、キリストと一体と

なって与えられる平等である。そのようにして平等に与えられるものの内容について、まず

ルターは、総括的に、前記のように、キリストの有するすべてのもの、といい、それを特に

人間の罪、死、地獄との対比において恵み、生命、救い、義などと名付ける。次に、真のキ

リスト者、すなわち、内なる人がキリストにおいて所有する恵みについて説き、それをみ子

キリストの二つの身分・尊厳(dignitas)である王職と祭司職に対応するキリスト者の身分・

尊厳としての王・祭司職と呼んで、次のように説いている。「キリスト者は、自らの王権に

よって(per regalem potentiam)、死と生、罪などすべてを支配し、祭司の栄光によって(per

sacerdotalem gloriam)、神のみもとにおいてすべてのことをなしうる」。その理由を、ルタ

ーは次のように説明した、「キリストは、それらのもの(王職と祭司職)をかれのキリスト

者すべてと共有する(teyllet’ er sie mit allenn’ seynen Christen)」からである。「その結果、

キリスト者もすべてが信仰によって、キリストと共に王であり祭司であらねばならない」。

これがルターのいわゆる全信徒祭司性とか万人祭司といわれているものである。ルターは、

『キリスト者の自由』の前後においても、しばしば「キリスト者はすべて平等に聖別された

祭司」、「キリスト者はすべて平等に祭司である(Omnes Christianos ex aequo esse

sacerdotes)」と語った。それと共に、キリストによって与えられる平等として王的祭司職

を繰り返し「キリスト者一般の権利、同一の権利、権利の共同(万人)性(ius communi

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Christianorum, simile ius=eynerley recht, communio iuris)」、とルターが呼んでいること

に注意したい。それが「義とされ、救われるためにわざも律法も善きわざも必要としない自

由、霊的な真の自由」から始まったルターにおける「自由と平等」の帰結なのである。ただ

この帰結(平等)とキリスト者の自由の発端・基礎との間には、看過することのできない相

違がある。次にその点について論じ、ルターの自由・平等論の特徴を明らかにしたい。

2. 自由と平等の教会的構造

内なる霊的・真のキリスト者がキリストと共有する自由と平等は、目に見えない内的世界

だけのことではなかった。具体的に、以下のような要求となって具体化した。すなわち、ま

ず『キリスト者の自由』においては、キリストの王職と祭司職とを共有する。「キリスト教

にあっては、すべての者が祭司(サチェルドス)であるゆえに、聖書は司祭(サチェルドス)

と一般教徒との間に何の区別も有していない、教会の職(ecclesiasticus=geistlicher Stand)

をただ教役者(ministrus=diener)、使僕(servus=knecht)、執事(oeconomus=schaffner)

と名付けているだけである」。この場合ルターは、あくまで万人祭司性を主張し、すべての

キリスト教徒が司祭職に就くことを求める万人司祭制度を要求しなかった。すなわち、「す

べての者が同じように祭司であっても、われわれはすべての者が公に(publice)教役者の

務めをしたり、執事の務めをしたり、説教したりすることはできないし、すべきでもないか

らである」と、ルターは付言するのである。このようなルターの現実的発言は、既に『キリ

スト者の自由』の数ヶ月前に、キリスト教界の改善について提案した際にも具体的になされ

ていた。

その時、ルターは、キリスト者を霊的職分と世俗的職分(der geystlich und welthich

Stand)と分けるのは不当と訴え、すべてのキリスト者は霊的職分に属するとし、かれらを

分けるのは、ただ職務のためだけ(denn des ampts odder wercks halben allein)とした。

しかもその職務というのは、教皇、司教、司祭、修道士といった霊的職分と諸侯、君主、手

工業者(靴屋、鍛冶屋、裁縫人、石工、大工)、農耕者(ackerleut)、コック、給仕などの

世俗的職分のすべての職務・仕事(ampt und werck)を意味していた。そのうえで、すべ

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てのキリスト者は、何の区別もなしにすべての者が祭司であった。すなわち、世俗的な職分

にある者も同じ洗礼、信仰、福音を有するなら、かれらの職務もキリスト教界(Christenliche

gemeyne)に属し、すでにかれらも司祭や司教、教皇になるように聖別されていたのである。

この現実的提言はさらに次のような抗議となっていった。「教会法において(ym

geystliche recht)、聖職者の自由、身体、生命、財産、名誉が高く位置づけられ、自由であ

るのに、一般信徒は霊的によきキリスト者でなく、教会に属せず、かれらの身体、生命、財

産などは自由でないかのような取扱いである。そのような大きな差別はどこから来るのか、

それはただ人間の法や捏造に由来するだけである。」と。このようなルターの抗議は、単に

教会法や教会政治に関わるだけのものではなく、さらに二つのことを背景にしている。一つ

はいうまでもなく、キリスト者の自由と平等の普遍性であり、平等性である。ただその普遍

性と平等性は、『キリスト者の自由』で展開されている真のキリスト者・霊的内なる人の次

元でなく、キリスト教世界(corpus christianum)に向って主張され、要求されたものであ

った。したがって、その主張・要求は政治的であり、文化形成的なものであった。第二の背

景は、ルターが不平等の具体的例として批判した、身体、生命、財産、名誉などは、既述の

ように、ルターにとっては、自然的人権に属するものであった。それゆえ、ルターの万人祭

司の神学は、単にキリスト教界のみでなく、同時に、広く一般の文化・政治の次元の提言・

要求・抗議へと必然的に波及しうる構造をもっていたといわねばならない。さらに、今一つ

ルターの全信徒の万人祭司性について述べなければならないことがある。それはこの万人祭

司性で全信徒という信徒はルターによれば本来罪人であり、不信仰者である。そういう人達

に向って福音を宣言しているのである。そうしたキリストの使信をルターは説いているので

ある。それ故にこのメッセージを通してキリストに信頼し、そこに希望を託すというのがキ

リスト者であり、教会である。

ルターにおけるキリスト者の自由が、キリストの賜物に与るということから、キリスト者

のキリストの王職と祭司職との平等な分有を意味し、万人祭司を主張するにいたったとすれ

ば、キリスト者の自由それ自体は、どのような自由を招来するのであろうか。それは、周知

のように、キリスト者の自由を奉仕への自由、あるいは恰度キリストが王職と祭司職とを共

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有するに似て、キリストを模範とした他のためへの自由と捉えられた。その頂点にあるとも

いうべきものが、「私をいわばキリストとしてわたしの隣人に与える(Dabo itaque me

quondam Christum proximo meo)である。それは、具体的には他の者の意志と改善に自

由に奉仕することであった(frey dienste, zu willen und besserung der anderen)」。そし

て、キリスト者の自由と平等の目的は、「キリストに関しては信仰によって、隣人に関して

は愛によって生きる、すなわち、信仰によって神へ連れ去られ愛によって隣人の下に降りて

くる(Christianum hominem vivere in Christo per fidem, in proximo per charitatem : per

fidem sursum rapitur supra se in deum, rursum per charitatem labitur nifra se in

proximum)」ということであった。この引用のように、ルターが「自分たちを越えて上の

方へ」と「下の方へ自分たちの下に」とを区別していることに、われわれは注意しなければ

ならない。この区別こそ、『キリスト者の自由』の冒頭の二つのテーゼの区別と関係に対応

するだけでなく、ルターにおける二世界統治説、福音と律法、信仰と愛(わざ)の関係を鮮

明にしているのである。しかし、これらの点については、既に何度か論じたので、ただ今は、

「ルターにおける語り方(modus loquendi)は律法と福音、律法から福音へであっても、

そこで営まれている神学の内実は、キリスト(福音)から律法へであることをこの二つのテ

ーゼはよく示している」ということにとどめておきたい。

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四 ルターの人権と近代の人権

1. その類似性

われわれはルターにおける人権論を創造における神の賜物とキリストの救済による自由

と平等を中心に検討してきた。かれの人権論が近代の人権論や人権運動とどのような関りが

あるかについて、ルターの所論を基点として、時代的に近接した英国のピューリタン革命に

おける自由と平等との関連においてとりあげてみたい。ピューリタン革命の担い手の一つレ

ヴェラーズの文書に次のような一文がある。「イングランドに住む人々は、たとえどんなに

貧しくとも、もっとも富裕なひとと同じく、生きるべき生命をもっている、と思う」。これ

に対する次の A. D. リンゼイの解釈がわれわれに考察の手懸りを与える。「自分の生命を生

きることは、そのひとに関わる事柄ですべてそのひと自身の責務なのである。このことは、

すべての真の民主主義者にとってと同様、かれらピューリタンにとっても人間平等の偽らざ

る意味があった。生命にたいする責任が万人同じであるということは、なにものにもまして

重要な事柄なのである。このことは科学的な理論でも、常識からの教えでもなく、じつに、

宗教的かつ道徳的な原理なのである。これは、すべての信仰者は精神的(霊的)には祭司で

あるということを、神学的でない言葉でいい換えたにすぎない」。問題点を簡潔に示すと、

リンゼイの主張は、ピューリタンのレヴェラーズが主張する、生命、自由、財産についての

権利は、真の民主主義の根本にある人間の平等の内実をなすものである、ということである。

さらに、かれは、それを霊的平等の世俗的表現と解している。またリンゼイによれば、ピュ

ーリタン独立派や再洗礼派は、他の諸教派にもまさって、宗教改革に由来する万人祭司の教

義を全面的に受け入れた。しかもそれを「代議政体の基本原理とすることによって、民主政

治を支える自由な共同社会の形成が可能となった」というリンゼイによれば、万人祭司を共

同体の基本原理とする大集団の形成に成功したのは代議制をとったクロムウェルの独立派

で、直接民主制のレヴェラーズでなかったということである。

われわれは、先のルターの人権の分析から、ピューリタンが、人間の平等の内実として生

命、自由、財産を主張したことに先ず注目してよいであろう。さらに、ピューリタンの自由

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が自己の生命や財産についての自己責任を意味し、それを万人が有すべきものというのであ

れば、それはわれわれが検討したルターの平等理解に共通するものがあるといえるであろう。

さらに注目すべきことは、既述のリンゼイのいう万人祭司と代議制を基礎とする民主政治

という所見である。ルターの宗教改革は政治体制の改革を論じたのでも、ましてや民主政治

を求めたものでもないが、かれの最初に主張した教会制度は長老制であった。もし会衆制、

長老制、監督制が一般に直接民主制、代議制、君主制に比せられるとすれば、ルターの長老

制とリンゼイのいう代議制との関連を考えると、ルターの自由、平等、人権論とピューリタ

ニズムとの更なる関係を指摘せざるをえない。それは、ルターがライスニクの教会形成にあ

たって、長老 10 人を選出し、貴族 2 名、市参事会員 2 名、一般市民 3 名、市外の農民から

3 名という割合で構成されるべき長老制の規定を作って提示したように、かれのそもそもの

教会観は長老制であったからである。

2. 両者の相違

近代の人権、すなわち、基本的人権は、既に、ミルトンにとって切実な問題であった、良

心・言論・出版・集会の自由や、今日国際連合の世界人権宣言が 30 条にわたって謳ってい

るものと比較すると一見甚だ顕著のように見える。

しかし、M. ホーネカーも指摘するように、自由ヨーロッパの個々の人格的自由というのは、

何よりも国家権力に対する防護権、すなわち、正当な理由なしに市民の生命と身体に対する

侵害から防御することであったし、私的領域を侵すことへの反対として表明されてきたもの

である。さらにまたその個人的自由も法の前の平等も法的制度化され、法的保護を受けるも

のとなっている。

それに対して、ルターの人権論は、創造の秩序の人権よりも救済の秩序の自由と平等とに

関わる防護権(反抗権)に特色がある。すなわち、ルターは、かれが理解したキリスト者の

自由と平等を前述のように教会制度だけでなく、政治・社会的制度と同一視することには慎

重であり、宗教的一元論には強く反対した。それは超越的なものの法的制度化における相対

性を承認する神学であった。まさにそれが価値多元社会の神学的根拠なのである。その例が、

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ルターの農民の一二箇条と農民戦争への態度である。それをルターの「非世俗性、反政治的

敬虔」を純粋培養されたドイツ性、ドイツ風の自由の英雄、「行動において貧しく、思想に

おいて豊かな」ドイツと、Th. マンのように評することもできるであろう。しかし、本論に

おいてわれわれが再三再四検討したように、例えば K. バルトの如くルターとナチズムとを

結びつけることはできないであろう。むしろ、ルターにおけるキリスト教と政治、キリスト

教と人権との関係は、神学あるいはキリスト教倫理の本来の課題がそうであるように、政治

の基本人権の根底を明らかにしたことにある。具体的には、政治の最低の課題、人権がそこ

から生じる神が与えた賜物としての人間の尊厳(Menschenwürde)を説いたところに求め

られるであろう。それゆえ、ルターの『キリスト者の自由』をはじめ、繰り返し説いた創造

者・世界の保持者・救い主によって与えられ、約束された政治の課題、正義と平和、人間の

尊厳、自由と平等は、広く一般的な政治目標や人権概念を肯定する。と共に、他方、創造者

と救い主によってしか充足されない側面を指摘する。その限りにおいて、ルターの人権、自

由と平等は、近代のみならず今後の自由と平等、政治的人権論に対して、宗教的に終末論的

な問いを投げ続けるであろう。

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結び

宗教改革は、ヨーロッパ内のプロテスタント諸国の事柄といえるものである。しかし、ヨ

ーロッパのみならず、わが国をふくめて、宗教改革は、中等教育の教科書の数頁を占め、そ

の中で信仰義認の教えは欠くべからざるコンセプトとなっている。その教えは簡単に、例え

ば「聖書のみが唯一の源泉で、各信者は聖書について自由に自分自身で解釈することができ

る」と訳されている(ヨーロッパ共通教科書『ヨーロッパの歴史』、233 頁)。それと共にル

ターの『キリスト者の自由』は広く知られているのではないであろうか。そしてそこでは、

万人祭司が説かれ、キリストによって与えられる個人の尊厳と神の前での個人の自由と義認

が説かれている。万人祭司は今日宗教的民主主義といわれている。しかし、われわれが注目

したいのは、万人祭司がかつてピュリタン革命の担い手によって注目された以上に多数のプ

ロテスタントに注目されていることである。

そうであるとすれば、聖書がキリスト教の唯一の信仰の権威として尊重され、信仰義認が

聖書とキリスト教信仰のプロテスタントとカトリック共通の重要な教えと認められている

今日、その教理は人間の尊厳や人権の問題だけでなく、ヨーロッパ文化を形成したユダヤ・

キリスト教の伝統を更に継承してゆくことであろう。それはわれわれが検討したように、人

間の営みによって新しく注目される聖書の価値を活き活きとしたものとするであろうと思

うものである。