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Meiji University
Title 大衆社会論における近代社会の問題
Author(s) 久保田,正雄
Citation 政經論叢, 38(4-5-6): 85-112
URL http://hdl.handle.net/10291/13219
Rights
Issue Date 1970-12-25
Text version publisher
Type Departmental Bulletin Paper
DOI
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/
大衆社会論における近代社会の問題
(・479)
大衆社会論における近代社会の問題
一、
蜿O社会と市民社会の対比
久 保 田
正
雄
大衆社会論と呼ばれる一群の学説は、今世紀を迎えてから欧米先進諸国で次第に顕著になって来た現代社会に特有な状
況を解明するために、かつて近代市民社会を解明した古典的な社会理論よりも新しい理論的立場を模索しているものだと
云えるであろう。
清水幾太郎氏が指摘したように(「社会学入門」昭和三七年、カッパブック、第七章)、ガ蜘棲会という言葉は現代社会の原理が未
だ積極的に把握されていない状態を表わす消極的な観念であると思われる。例えば、市民社会(へーゲル、 マルクスなど)、ゲゼル
シャフト(テンニース)、有機的連帯(デュルケーム)などの概念のようには、この用語は確定的に理論化されていないばかりでな
く言葉の表現も何となく無味乾燥である。ダニエル・ベルは、大衆社会の概念は大規模で抽象的であり、比較基準を欠いた殆ど無意
味のものである、と断じている。即ち、実際に起っていることは社会の変動であるが、この変動を社会の解体や衰退という暗黙の予
85
大衆社会論における近代社会の問題
断の下に把えようとする大衆社会論は変動の諸原因をつきとめるような社会各部分の相互関連性への展望を持っていない。大衆社会
(1)
論は、現代生活へのロマンチックな抗議のイデオロギーにすぎないというのである。
註(1) up三①一UUΦ拝↓詳肉ミミミ鳴§讐噂目冨閃おΦ勺話・。ω゜ドΦ①ρ℃戸ωα~ω①゜『イデオロギーの終焉』(岡田直之訳、創元新社、
昭和四四年)二三-二四ページ。
大衆社会的状況が顕在化したのは今世紀中葉のことであるといわれるが、こういう状況を現象せしめる社会変動が、日
特殊二〇世紀的な現代社会のものであるか、口それとも近代社会そのものに内在する構造的変動に由来するものである
か、ということは非常に難しい問題であろう。これを二者択一的に考えるべきでないことは勿論であるが、これまでの大
衆社会論を概観すれば、現代社会を把える視角の相異は相対的に認あられると思う。
第一の見方は、現代の大衆社会を近代の市民社会と対比させることに力点を置き、市民社会の構造的変化という社会構
造の大きな変動のなかに現代社会の危機の要因を見出そうとしている。したがってこの立場は、近代市民社会が人間の歴
史のなかで新しい時代の根底を形作る積極的な原理を持つ側面を強調する傾向をもつ。例えばコーンハウザーが分類し
た、民主主義的立場に立つ大衆社会論は大体この傾向を示しているようだ。
コーンハウザーは大衆社会論における二つの立場を次のように示している。
①貴族主義的立場。フランス革命につながるヨーロッパ社会の変革を批判するもので、エリートが大衆の圧力にさらされている状況
を大衆社会と規定し、この傾向に対して自由、地位、伝統、学殖などエリートの諸価値を防衛しようとする立場である。例えばル・
ボン(∩}口ω叶”〈Φ 目、Φ 切O鵠)やオルテガ・イ・ガゼット(○答oσq鋤団Oo。。。。9)など。
②民主主義的立場。ボルシェヴィズムやファシズムなど全体主義の勃興を批判するもので、前とは逆に大衆がエリートに操作されて
86(’・n)
大衆社会論における近代社会の問題
いる状況を大衆社会と規定し、独裁的傾向に対して民主的諸価値(最小の統制と干渉、
ある。例えばレーデラi(団冒日目 いΦ畠Φ「①「)やアレント(=国ロ昌拶げ》お巳け)など。
≦ρ内oヨゴ餌自ωΦひ『書、ミ帖識亀ミー§鈎⑦8龍童幻o暮一〇α伽q①卿区①αq薗昌勺薗巳噂6①ρ
創元社、昭和三六年) 一八-三〇ぺージ。
権利の平等など)を防衛しようとする立場で
唱゜卜。ド~ωρ『大衆社会の政治』(辻村明訳、
レーデラーは近代社会のモデルとして多種多様の社会集団が錯綜・共存しながら或る程度成層化されている状況を描
き、人々が利害関係によって社会集団に属しながら行動する場合には情緒が制限されて理性的な議論による均衡が保たれ
(2)
ることが可能である、と考えた。これに対し、それぞれ異った社会集団に属しながら彼ら自身何ら一つの集団を形成して
いない多数の諸個人が専ら情緒によって一体化され、感情的・非合理的な暗示に動かされて行動する可能性をもつ状態が
ヘ へ
群集または大衆と呼ばれる。大衆の状況のなかでは諸個人がそれぞれ所属する諸々の社会集団や社会成層の相違が不明確
となり、彼らはどちらかといえば合理的利害や理性的議論に関心を持たず、情緒的潜在力を解き放って、教育や社会的規
範や慣習による抑制をすべて抹殺することができる。つまり、群集や大衆は社会集団と異って原子化された諸個人の多数
アモルフ
者(日巳葺巳Φohp。8巳NΦq一昌巳く乙葛芭であり、無定形で全く情緒的であって、理性によって動かされることなく、い
(3)
つでも行動しようと身構えているものである。レーデラーによれば、近代の独裁制(ファシズム、ナチズム、ボルシェヴ
アモルフ
ィズム)はこのような無定形な大衆を基盤とする政治体制である。そこでは近代社会の秩序を支えていた多元的な社会諸
集団が去勢され、国民は大きな群集に変形されて情緒的緊張の状態に置かれている。このような大衆が運動の実質を形成
し、その運動の過程のなかで制度化されて行く。独裁者はこの制度化された大衆を基盤として権力を掌握し保持してい
(481)87
大衆社会論における近代社会の問題
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ロ
る。全体主義国家は、大衆の国家であって、それは常に異った利害関心や観念を持つ社会集団を基盤とし、これらの存在
ア’シエーシヨン ρ4)
を容認するような、結 社としての国家とは根本的に違ったものである。レーデラーは、近代社会を社会諸集団の多元
アモル フ
的成層構造として把え、この社会構造が破壊される所に原子化された無定形の大衆社会的状況が形成される、と考えてい
る。
註(2) 団゜日Φα臼Φひ憩ミ恥魚§跨恥孕Z⑦≦嘱o昏し漣P『大衆の国家』(青井和夫、岩城完之訳、創元社、昭和三六年)一九ー二二
ページ。
(3) 同上、二五-三ニペ!ジ。
(4) 同上、九i一一ページ。
アレントの見解もこれに類似している。大衆は極度に原子化された社会の腺絡のない諸部分から生じたものであり、こ
ういう社会にみられる競争的構造とこれに伴う個人の孤独感は、ただ彼が或る階級の一員であるという観念によって抑止
ヘ ヘ へ
されるのである。大衆人の主な特微は残忍性や退行性ではなくて、彼が孤立していること、正常な社会関係を持っていな
いことである。国民国家の実体が階級支配の社会であり、その裂け目が国民主義の感情で接合されていたのであるから、
新しい経験に直面して最初の無力感を味わった大衆が狂暴なナショナリズムに向ったのは当然であり、大衆の指導者は、
(5)
全く民衆煽動上の理由のためにみつからの本能や意図に逆って大衆の狂熱に屈したのである。
コーンハウザーも接近し易いエリート(潜OO①切ω鵠)一① Φ一一けOω)と操縦され易いノン・エリート(鋤く鋤貯巨Φ昌oロ色冨ω)とい
う視点から大衆社会の構造を把えようとしているが、これは、大衆社会の成員間の結合関係が中間的・仲介的な集団(地
域社会、自発的結社、職業集団など)の媒介を欠いていることに起因する。即ち、個人や家族が中間的社会関係なしに国
88(482)
大衆社会論における近代社会の問題
家や国民的規模の組織と直接的関係を結ぶのである。その意味で大衆社会はいわば原子化された裸の社会(暮oヨ蒔Φ傷轟,
(6)
冨臼。。。9①蔓)であり、中間集団曲(巨臼ヨΦ9簿①σq8唇ω)の弱さということが大衆社会の特微である。これに比べて近代
社会においては独立的でしかも限定的な諸集団が多元的に存在し、どの集団もその成員を生活領域のすべてにわたって干
渉することがないため、個人や家族はこれらの中間集団を媒介として国家につながっている。この多元的構造においては
ノン・エリートがエリートに直接に影響を与えるというよりも、ノン・エリートはエリートから一定の独立性を保ちなが
ら而もこれに影響を及ぼすことができる。このことは同時に個人が外からの圧迫に対して自分を守ることにもなるのであ
(7)
る。このようにコーンハウザーは、多元的社会(且=邑蜂ω。畠ξ)というモデルによって近代社会を特微づけている。
註(5)軍》器巳♂O識鷺蕊ミ↓§ミミ軌§跨葺2。毛団霞ぎド蹟ポ窓曾ω5~留H’
(6) 芝・漏o『夢窪ωoぴ『ミぎミ軌覇亀ミ駐吻象9鳴蛍巳①9℃℃°冠~刈9邦訳、八七ー九〇ページ。
(7) 8°9£やQ。b。°邦訳九六-九七ページ。
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
こういう見方をするもののなかでわが国で一層普及しているのは公衆社会と大衆社会の対比であろう。これはE・H・
マスコデモクランぱ
カーのすぐれた歴史的考察から出発している。カーによれば、新しい社会における政治組織の原理となった大衆民主主義
(8)
は十八、九世紀の民主主義を支えていた個人主義と合理主義に対する痛烈な批判に基づいている。制限選挙と共に栄えた
ヘ へ
近代民主主義は合理的で楽観的な個人主義を思想的背景としていたのであるが、この個人主義は公衆(薯び=。)の観念と
切り離せいものである、とミルズ(ρ類゜ζ巨ω)は論じている。即ち公衆とは、対等の立場で発言し理性的な討論を行
う入々のサークルから構成されるものである。
(483)89
大衆社会論における近代社会の問題
註(8) 「近代の民主主義は、西ヨーロッパに成育し過去三世紀の間この中心から四方に普及したもので、それは三つの重要な主張の
上に立っております。第一は、個人の良心が善悪を決定する究極の根源であること、第二は、多くの個人の間には利害の根本
的調和があって、この調和は平和な社会生活を営むに十分な強さを持っていること、第三は、社会の名において行動せねばな
らぬ場合、諸個人間の合理的討論こそ、その行動を決定する上の最良の方法であること。近代の民主主義は、その根源のため
に、個人主義的で楽観的で合理的なのであります。しかし、その根本にある三つの重要な主張は、どれもこれも現代世界のう
ちで痛烈な批判を受けているのであります。」興国゜O胃び『ミさミ⑦ミ爵§H緩ド『新しい社会」(清水幾太郎訳、岩波新書)
九一ページ。
ミルズは次のように公衆の姿を描く。無数の討論サークルは、一つのサークルから他のサークルへ意見を運ぶ政治活動
家たちによって結び合わされる。こうして公衆は結社や党派に組織され、これらの結社や党派はそれぞれ或る一組の見解
を代表して議会のなかで地位を獲得しようと試みる。そして議会では討論がさらに続けられ、こうして、互に話し合う人
々の小さなサークルの中から社会運動と政党という大規模な勢力が発展して行く。公衆の討論の結果として生れる意見が
まさに世論(日ぴぎ8巨8)であり、形成された世論は支配的な権力制度の内部で積極的に実現され、あらゆる権力機
関は支配的な世論によって形成され、また廃止される。このように考えられた公衆が古典的民主主義を織り出す織機であ
ひ (9)
り、自由で自主的な討論は討論サークルを一つ結び合わせる糸であり稜である。
所でミルズによれば、以上のような公衆の姿は、理性の支配という知識人たちの理想を社会一般に投射したイメージに
他ならない。このイメージを少しでも実現する途は、公衆を財産と教養のある人々に限定することであろう。だから近代
民主主義が制限選挙と共に栄えたように見られているのである。しかるに二〇世紀の現代社会は生産力のすさまじい発達
によっていくつかの大きな構造的変化(生産組織の巨大化と寡占化、高度の工業化と都市化、集団組織の巨大化と官僚
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大衆社会論における近代社会の問題
化、全体主義やマス・デモクラシー、マス・コミュニケーションの発達など)を経験し、近代社会とはかなり異った様相
を呈して来た。この現代社会では、公衆社会(8日ヨ琶芽o曲腰票8)という観念はもはや事実の描写でなくて或る理想
(10)
の主張であることが認められざるを得なくなっている。ミルズは、社会の構造的変化のなかで特にコミュニケーション様
式の変化という観点から、公衆から大衆への質的変化を次のように論じている。
公衆においては、ω意見の受け手と同じ位に多数の意見の送り手が存在し、②表明された意見に対して直ちに効果的な
反応を示すチャンスを保障する公的コミュニケーションが存在し、㈹こういう討論を通じて形成された意見が効果的な行
動として(場合によっては現存の権威秩序に対抗する行動として)実現される途が容易に見出され、圏制度化された権威
が公衆に滲透することなく公衆としての行動に自律性が保たれていなければならぬ。これらの条件が保たれる場合、公衆
社会のモデルが生きていると云える。所がこれらの条件は現代社会においては次のように変質している。
ω 多数の人々は単なる意見の受け手にすぎない。即ちこれらの人々はマス・メディアから印象を受けとる抽象的な諸
個人の集合でしかない。
② 組織化された支配的なコミュニケーションは個人が直ちに効果的な反応を示すことを極めて困難ならしめている。
個 意見を行動へ実現することは種々の権威によって統制され組織化されている。
困 制度化された権威機関は、人々が討論を通じて意見を形成する場合の自律性を全く奪ってしまっているつ
ヘ へ
このように変質した条件の下では、公衆はもはやマス・メディアの単なる受け手であり、大衆と呼ばれるのに相応しい
多数者の集合態となっている。これら四つの視点から検討するとき、現代社会は公的生活の多くの面で確かに公衆社会よ
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大衆社会論における近代社会の問題
、 ・ 、 、 (11)
りも大衆社会の特徴の方を多く持っている、とミルズは判断するのである。
註(9) ρ≦°ζ≡ρ『ぎ、§ミミ§’O惹oad巳く臼ω一ぞ℃器ωω”巳鵠゜『パワー・エリート』(鵜飼信成、綿貫譲治訳、東京大学
出版会、昭和三七年)四九八-四九九ページ。
(10) 同上、五〇〇ー五〇ニページ。
(11) 同上、五〇六-五〇七ページ。
カーからミルズにつなばる大衆社会論は、わが国における社会学的な大衆社会論に強い影響を及ぼしているものと思わ
れる。
例えば、河村十寸穂「大衆社会と現代の人間」(『現代社会学の理論』新評論、昭和四一年、の第二部)。とくに第四章はカーの考
察を土台としている。
一口向橋徹「大衆とは何か」(『現代思想』第五巻、岩波書店、昭和三七年)。これは政治学、社会心理学をはじめこれまでの多方面に
わたる主要理論を広く参照し統合しながら、公衆社会から大衆社会へという市民社会の構造的変化のなかで大衆を把えようとし、ミ
ルズの立場をマルクス主義的見方のなかに生かそうと試みている。
所でこれまでにとりあげた理論(レーデラー、アレント、コーンハウザi、ミルズなど)は、現代社会の特質を究明す
るためにいつれも近代社会との対比に力点を置く立場に立っている。ここで問題になると思われるのは、近代社会が封建
ヘ へ
的身分社会に対する市民社会の新しい積極的な原理として把えられていることである。即ち、前近代社会が伝統的権威や
身分的差別に縛られた封鎖的な共同体的社会であったのに対し、近代社会が開放的で合理的な自由な社会関係として規定
されている。こういう市民社会の理想像と対比することによって、現代社会を大衆社会として特徴づけようとしているの
92(486)
大衆社会論における近代社会の問題
である。ところで「近代社会の歴史的変貌」とか「市民社会の構造的変化」という場合、現代社会の比較対象として理想
ヘ ヘ
ヘ ヘ
へ
化された市民社会像を持ち出すのは果して妥当なものであろうか。合理的・開放的な市民社会というものは近代以前の共
同体的社会の衰退を待って成立しなければならない。こういう社会変動が現実の歴史過程として相当の程度に進行した国
民社会(今までは西欧社会がこういうモデルとして考えられている)においてはこの大衆社会論は一応妥当するかもしれ
ない。しかし、レーデラー、アレント、ミルズのようにソビエト型の全体主義をも大衆国家または大衆社会の図式から説
【12)
明することに対しては、強い疑問が投ぜられるのもやむを得ないことと思われる。西欧型の「近代化」に立ち遅れたとい
われる国々においても大衆社会の現象が顕著となりつつある現実に対しては、この立場による理論図式にはいくつかの留
保条件を付けざるを得なくなって来たようだ。
註(12)
例えばアレントのいう競争的構造と孤立した個人とに特徴づけられる「高度に原子化された社会三〇q三団簿o巳N①住ω099《」
という概念は、ヒトラーが権力を掌握した当時のドイツの社会状態に当てはまるが、一九一七年当時のロシアや一九四九年当
時の支那には全く適用できない。アレントは、スターリン体制が原子化された状態を事前に人為的に創り出したことを示そう
と努めている。ブラムソンはこのようにアレントを批判して、大衆社会が都市化・工業化過程の社会的文化的副産物であると
いう説明は非常に曖昧な観念であり、大衆社会と全体主義を結び付けることは地方性と国民性を抽象した単純化である、と述
べている。
い8昌じu鑓ヨωo二国ロδO$”↓ず8ユ①ωoh夢o竃器器ωロ昌匹】≦器ωω09①q嘘ぎ↓ミ国、ミQミOoミミ、ミ.曾亀ミo畦り勺ユま08昌
〇三くo吋ω一蔓℃話ωω℃巳曾゜ロ唱G。α~ω①.
綿貫譲治氏は集団構造のモデルという側面から大衆社会を市民社会に対比させようとしている。十九世紀的市民社会に
おける近代的集団の典型は自発的結社と自由企業である。これら近代的集団の併存と競争が合理的均衡を生み、国家はこ
(487)93
大衆社会論における近代社会の問題
の均衡の表現であり、 「社会」と「経済」の従属物である。これに対し、二〇世紀的大衆社会では「経済」、「政治」、「社
会」の三領域が相互に浸透して依存化を益々強める全体状況に変り、これは集団構造にも反映する。即ち、一方では高度
の形式合理的性格を有する巨大集団がそびえ立って自発的結社は拡大し、社会底辺の大衆の集団加入が増大している。ま
た他方では、これに対応して組織対個人の関係は機能的関係を中心とした部分的なものとなり、巨大組織の底辺では個人
(13)
の孤立化と原子化が進行する。綿貫氏はさらに、集団構造から見た大衆社会の姿を、ナチ体制的な危機における極限的状
況とアメリカ社会的な常態における大衆社会化状況という二つの事例を挙げて考察した後、特に日本の場合について論及
している。
これによれば日本の場合は、非典型的発展をとげた市民社会における、モデルからの逸脱である。日本では、天皇制権
力の崩壊と共に初めて共同体的関係に代って近代的集団が成立する地盤が与えられた。戦後の日本社会が、前近代社会↓
近代社会の契機と近代社会↓大衆社会の契機との二重写しとして現われるのに対応して、集団構造もまた、共同体↓結社
の契機と結社↓大規模組織の契機とが絡み合っている。例えば、組合における封建制の克服や経営の近代化は前者の問題
であり、大規模組織におけるヒューマン・リレーションズ・テクニックの導入や集団幹部対一般組合員の人間関係の稀薄
(14)
化の問題などは後者に関するものである。
註(13) 綿貫譲治「大衆社会における集団構造」(『講座・社会学』第七巻、東京大学出版会、昭和三二年、)九八-一〇三ページ。
(14) 同上、一〇四-一一一ぺ:ジ。私は今の所、こういうアプローチにいささか疑問を感じている。この見方に従えば、西欧型の
「近代化」に立ち遅れたといわれる国民社会に生きる人々は大変な二重の課題を背負わなければならないことになる。即ち、
一方では前近代的な共同体的関係(経営家族主義、温情主義など)を清算すると同時に、他方ではこれに伴う集団組織の巨大
94(488)
化・官僚制化と個人の孤立化・原子化を克服して行かねばならない。日本の家族問題を例にとるなら、われわれ親子関係や夫
婦関係を民主化・合理化すると共に、家族関係の稀薄化(老人の孤独化・親子の断絶など)克服せねばならないことになる。
二、社会の近代化から見た大衆社会
(489)
大衆社会論における近代社会の問題
ここで現代の大衆社会的状況を近代社会そのものに内在する構造的変動のなかで把えようとする立場を見直すことにし
よう。この立場はマンハイム (国鋤二ζ。。づ尋①巨)に代表されるが、これは、コント、スペンサー、テンニース、デュル
ケームなどが展開した社会変動論につながる考え方に基づいているようだ。これらの主要理論は、ふつう「前近代社会
(軍事型社会、共同体的社会)↓近代社会(産業社会、市民社会)」という進化図式によって説明されがちであるが、よく
検討すれば、スペンサーを除いて、こういう二段階的進化図式では割り切れないものを持っているのである。即ちこれら
の進歩論ないし発展論は、コントの三状態の法則という観念が暗示するように、三段階図式による時代把握であると思わ
れる。っまり、過去↓現在↓未来という時間的順序を追う単純な直線図式によってではなく、むしろ過去から未来を展望
してこの中間の克服すべき問題をはらんだ過渡期として、現代を位置づけようとする考え方である。そして近代の市民社
会は、必ずしも理想化されているのではなく、現在と未来の二つの契機が相剋しながらさまざまの問題を抱えた中間的で
過度的な段階であると考えられているのである。過去の旧い社会組織は解体して、これに代る将来の新しい社会組織は、
その展望は与えられているが、未だ建設されていない。現在は旧新二つの組織時代の谷間である。こういう時代観は、啓
蒙思想に流れていた人為的秩序から自然の新秩序へという直線的二段階図式に対する強い批判から出発したのであって、
95
大衆社会論における近代社会の問題
それは、旧組織を否定することから直ちに新組織が作られるものではなく、現代に本当に要請されていることは社会の再
ヘ へ
組織である、という認識である。もし大衆社会的状況が特定の経済構造や政治体制を超えて現象する事実があるならば、
二〇世紀的現代の大衆社会を近代社会の一側面として把えるアブロ!チの方がより現実的ではないか、と私は考える。
特に一九五〇年代以降のソビエト社会における大衆社会現象の事実を本格的に追求した辻村明氏は、 「社会の近代化」
という側面から大衆社会の構造を客観的に把握すべきである、と論じている。資本主義、社会主義の経済構造の違いや、
自由主義、全体主義の政治体制の違いによって、同じ大衆社会現象も違ってくるけれども、大衆社会という概念は、経済
構造や政治体制とは区別される社会形態の特徴によって構成さるべきである。辻村氏はこの特徴が結局近代化の進んだ社
会の特徴であると考え、大衆社会は社会の近代化に他ならないと説いて艶・大衆社会の嚢的条件を作り出すものが社
会の近代化であるとすれば、大衆社会的状況は市民社会の構造的変化に由るものであるよりも、むしろ市民社会の構造そ
(16)
のものに由来する、と見るのが妥当であろう。
註(15)
(16)
辻村明『大衆社会と社会主義社会」 (東京大学出版会、昭和四三年)四八ー四九ページ。
辻村氏は、さらに「近代化」の概念を検討して、ω歴史としての近代化、囲社会の近代化、㈹人間の近代化の問題領域を区
別し、 「社会の近代化」の原理を規定しようと試みている。即ち、政治、経済、社会、文化の諸領域における近代化の諸特性
から「量化」という共通原理を抽出して、これから㈲工業化、㈲官僚制化、㈲民主化、㈹富裕化という四つの中範囲の原理を
論理的に設定した。a、b、cが大衆社会の第一次的構造条件を形成し、dは第二次的構造条件として前の三つから派生する
ものである。 (前掲書、五九1六三ページ)。
例えば富永健一氏は膨大多様な大衆社会論について共通論点を集約整理しようと試みた。
日 諸個人の等質化と平準化。現代の社会ではエリートとノン・エリートの境界が消滅ないし弛緩しつつある。その意味で現
96(490)
大衆社会論における近代社会の問題
代社会は均質化しつつある構造を持つ、と主張される。 (例えば大量生産、教育・文化の大衆化、大衆の支持を必要とする
政治)。
口 社会現象の大量化。これは人口数が増大した結果であるのではなく、工業、政治、教育、文化などの諸領域に大衆が参加
するようになったためである
同 共同体的ないし第一次的結合関係の衰退。現代人は、土地、先祖、近隣、仲間などとの結び付きを殆ど持たないため、精
神的に常に不安であり、操縦され易く、衝動的・感情的行動に走り易い。原子化ないし孤立化した個人という表現がよく用
いられる。
四 さまざまの利害の集団的組織化。経営者や労働者ばかりでなく商店主や農民や主婦までが、それぞれ圧力集団を組織して
利害を表明しようとする。現代社会の政治と経済は、これら多数の圧力集団間の勢力均衡の上に乗って営まれている。
第三点と第四点は一見矛盾しているようだが、実は、共同体的・基礎的社会関係の縮小(第三点)と多くの機能集団の発達
と増大(第四点)という、現代社会の構造の両側面である。これら二つの側面は、コント、デュルケーム、ジンメル、特にテ
ンニース、クーリーなどが理論化したものであって、結局、近代の市民社会の構造的条件を指しているものといえよう。そし
て第一点と第二点は、この構造的条件に由来する大衆社会的状況を指すものとみてよいと思われる。
富永健一『社会変動の理論』 (岩波書店、昭和四五年)五七-五九ページ。
テオドール・ガイガーは、マンハイム流の綜合社会学的な立場には批判的であるが、
(17)
近代化」という視角から説明しようと試みている。
現代の大衆社会的状況を「社会の
大衆社会論の通説によれば、現代の大衆社会は有機的縦断構造を欠いた無定形の社会であって、無数の匿名の諸個人
(睾。ξ日o賃ω冨巳≦身巴ω)を抱えた巨大な諸構成部分が機械的に配置されている。現代社会は凝集性に富んだ第一次集団
に殆ど所属しない大量の孤立した諸個人から構成されている。いまや個人は自分だけで国民や社会階級のような大規模の
構造に直接所属しているのである。この意味で大衆社会は原子化された無数の諸個人の巨大な集積であるといわれる。こ
(491)97
大衆社会論における近代社会の問題
ういう大衆社会観は、現代社会の形態を忠実に認識したものではなくて一面的に誇張されたイメージである、とガイガー
は批判する。彼によれば、大衆社会の概念は、近代社会で起った社会構造上の変動のなかの一側面に注目したものであ
(18)
る。実際に起ったことをもっと正確に述べるなら、それは「生活における公的領域と私的領域の分離」である。これは、
第一次集団e二日ρ。Q鵯o巷ω)の縮小と純化ならびに第二次集団(ω88&受σq8巷゜。)の拡大と発達という構造的変化に
対応している。
ヘ ヘ へ
中世の社会ではわれわれが今日私生活と呼ぶような領域は殆ど見当らない。当時自己自身だけでありたいと欲する人
は、例えば修道士か隠者になる他はなかったであろう。活動領域における公私の境界は極めて曖昧であり、共同体的な第
一次集団は数多くの公的機能を受持つ一方、本来の公的機関たる大組織は個人の私生活にも深い干渉を行っていた。近代
に入って私的領域は互に分化してそれぞれ特有の生活環境を持つようになる。共同体的集団は次第に衰退し、家族や友人
などの第一次集団も、家父長的・団体的紐帯の分解に伴ってこれまで担当していた第二次的・公的な諸機能から殆ど解放
パーソナル (91)
され、ごく少数の人々が親密に個人的に接し合う私的なものに縮小している。これに対応して、主に公的領域で結成され
る第二次集団はますます大規模な組織を整えると共に、機能的にも一層特殊化しながら無数に増大して行く。ガイガー・
は、第一次的基礎集団と第二次的機能集団とにおける社会関係の特徴を次のように比較している。
家族や友人仲聞では成員は各々相互に直接の人格的接触を保っている。しかも集団全体の社会関係は、結局の所、要素
的な二人関係が複合したものである。そしてそれぞれの二人関係の間には微妙な人格的相違がある。例えば、同じグルー
プの中でもAlBの友情関係は、AlC、BlCなどとは違った色調を持つであろうし、同じ家族の中でも長男と二、三
98(492)
9
大衆社会論における近代社会の問題
男とでは父子関係の人格的内容は決して同一ではない。母子、兄弟、夫婦の各関係についても同様である。つまり、家族
や友人における社会関係では、各成員の個人的性質によって人格的関係の内容にさまざまの差異が認められる。各成員は
それぞれ個人的特性のすべてを持込んでこれらの集団に属しているから、どれか一つの二人関係において不和や緊張が生
(20)
じても集団全体の調和と温かさは直ちに脅かされるのである。
これに対比されるもう一方の極は、例えば勤労階級のような集合体における社会関係である。巨大な多数者から成るこ
の階級が一つの社会的単位として現われる理由は、これら無数の諸個人にとって外的環境が類似しているため類似した人
生観と共通の社会経済的利害関心が形成される、ということである。一つの階級の成員たちは個人としてお互に名前を出
すことをしない。各人は他の成員を、「自分と同じ状態に置かれている人々」、即ち一つの社会的類型を代表するものとし
て、認めるのである。そして他の眼から自れば、その人も同様に数え切れない同輩の中の無名の一員であるにすぎない。
彼らはただプロレタリアの資格において相互に有意味の人であるにすぎず、個性的なパーソナリティーを持った具体的人
(21)
格として関心を持ち合うことはないのである。社会階級のような集合体に限らず、或る特殊利益の追求か或る主義への奉
仕のために組織された結社や教団の場合でも、多数の成員は具体的人格を捨象した間接的関係で結ばれている。つまりこ
ヘ ヘ ヘ へ
れらの集囲は感情の絆でなく秩序の絆によって団結しているのである。勿論そのなかに感情や情緒は存在するが、それら
は同僚に直接向けられてはいないで、むしろ共通の理念と主義に向けられている。ここでは私にとって他の成員たちは、
バドソナル
われわれが共に抱く主義と理念に参与する者であるだけである。こういう集団の構造は成員間の個人的愛着を少しも必要
としないから、或る成員間に個人的嫌悪が生じても、彼らが主義に忠実である降り、集団全体の秩序が脅かされることは
(493)99
大衆社会論における近代社会の問題
少いのである。組織の構造が大きいため多数の成員間の社会関係は匿名であり、成員の誰もが何千、何万という仲間を具
体的な個人として理解することはできないであろう。或る成員にとって、他の成員たちはすべて巨大な組織体を担う多数
者のなかの些細な一分子としての人々である。自分では人格的接触を全く持たない「多数の他者」に囲まれていると誰も
パじソナル
が感ずるのは、その人が他の人々すべてを個人的に知ることは物理的に不可能であるという単純な理由からである。ガイ
ヘ ヘ ヘ ヘ
ガーはこれを社会関係の非人格化(畠ΦOΦ房oづ。。匿。。什δ昌)と呼んでいる。即ち、こういう組織体の一員が、他の人々と結合
しているのではなく、他の人々がそうであるように自分もこの組織体が目指す何かに携わっているのだ、と感じているこ
(22)
とを意味する。
さらに集団が機能的に専門化すればする程この傾向は一層強まって来る。集団の目指すものが計算可能な物質的利益に
関する目標である場合には、成員間の社会関係は特に一層非人格的・客観的になるであろう。例えば不動産所有者たちの
結社は信用政策や課税政策に関する事柄で成員の利益を代表する目的のめたに存在するが、こういう目的は個々多様の不
動産所有者たちの間に情緒的な人間関係を発生させることはできない。彼らの関係は冷く合理的で純粋に事務的性質のも
のであ臥嘲.理想を目標に掲げる集団は初めはこれと全く異・たものに見える。例えば世界平和やデモクラシあ慧のた
めの闘争は、不都合な関税に反対したり賃金引上げを要求する闘争とは異った精神によって指導される。だから経済的利
益集団の職業的組織者が彼らの目標を飾るような理想主義的スロ:ガンを見つけようと努めるのは、正にこの理由によ
る。闘争の利己的な目的が神聖化されれば、そのために行使される最も野蛮な手段も正当化されることが多いし、成員の
行動力は強化されるであろう。しかしながらこの場合でも、さまざまの成員たちの関係は、明白に実用的な目的を持つ集
100(494)
大衆社会論における近代社会の問題
団と同様に、非人格的で客観的なものであることを見落してはならない。即ち、結合の絆はどちらも「共通の主義・理
念」であって、人格的な親しさの感情なのではない。例えば、共産党員のAは自分と気の合ったBという同志と友情関係
を持つこともあるが、それはBが神聖な政治信条に忠実である限りにおいてである。もしBが転向すれば、これはAとの
友情関係の終りとなる。AとBとは共産主義のために共に闘う同志なのであって、二人が派生的な大雑把な愛着を持ち合
うのはただこの主義のためなのである。だから機能的に専門化した組織は、その究極の姿では、一群の人間たちであるよ
りもむしろ目的と手段と機能の非人格的な一体系(薗ロ冨娼o塗8巴ω審8日o臨①巳ρ日oきω9。ロqh琶。紳δづω)であり、
(24)
個人がこれに奉仕したりこれを自己自身の目的のために利用するところの客観的な一装置である。
要するに第一次集団が直接の生活欲求に応えるものであるのに対し、第二次集団は複合した社会的欲求を充たすもので
あり、それ故、合理的で非人格的な態度を必要とする集団である、とガイガーは論じている。合理的で非人格的な態度に
基づいて組織された第二次的機能集団は、突如として無から生じたのではなく、現代より遥か以前に歴史の舞台に姿を現
わし、文明の進歩と共に次第に優勢となったものである。第一次集団に基づく社会形態がまだ栄えていた時期でも第二次
集団は社会の上部構造として出現しはじめたのであって、逆に第二次集団によって特徴づけられる現代社会でも第一次集
(25)
団が消滅することはないのである。
以上のような考察に基づいてガイガーは、 「原子化された大衆社会」という観念が現代生活の一側面だけを誇張した誤
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
れるイメージにすぎない、と主張しているのである。いわゆる大衆化と原子化が生じているのは公的生活の領域であっ
て、それは、ますます巨大化・機械化する第二次集団のなかで個人が無名の一員となって行くことを意味する。しかし、
(495)101
大衆社会論における近代社会の問題
この傾向に対応して私的生活はますます個人化され親密となって行く。それは第一次集団が公的なものから一層遠ざかる
ためである。現代の生活を特徴づけるものは、大衆化そのものではなく、生活形態の両極化であり、社会生活範囲の二元
(26)
性(傷§=ω日ohω。。巨ω9興Φω)である。この二元性の一方が、即ち全体社会が大規模な組織を持つ多くの第二次的機能
集団(これらは常に社会的に移動する諸個人から構成される)の錯綜した体系となって行く側面が、大衆社会と称せられ
るのである。
つまりガイガーによれば、現代社会を全面的に大衆社会とみるのは誇張であり、いわんや中世の有機的ゲマインシャフ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
トをモデルとして現代社会を原子化された大衆社会と規定するのは粗雑で無思慮な比較である。こういら比較は、巨大な
社会構造が旧い入格的に親密な社会関係に簡単に取って代り、現代社会が第一次的な結合の絆を失った無力でバラバラの
多数の個人の集合であるかのような印象を与えるからである。しかしわれわれは依然として家族、近隣、友人、同僚など
の第一次集団を持っているし、これらの集団は規模を縮小する反面、かえって公的なものから解放されて人格的親密さを
強める傾向さえ示している。これと並んでわれわれは、各種の第二次機能集団に分属することによって各自の利益や社会
的欲求を充たそうとし、自分の役割行為を組織化している。その意味で現代社套における個人ほ必ずしも無力ではなく、
大衆組織を手段として自分の利益や欲求を強く主張する機会も持っている。またこれらの第二次集団は、われわれ個々人
の生活や人格の全領域を包摂するものでなく、むしろ整合、組織、機能的専門化の客観的な諸体系であるから、第一次的
な同情的親密さでなく合理的秩序によって支えられている。つまり公的な生活領域と活動領域においては、われわれは感
情や情緒を或る種の知性的態度に従属させねばならず、げo日oωΦ算冒δ口琶δを沈黙させてげoヨoぎけ亀Φ9§房に終始せ 102(496)
大衆社会論における近代社会の問題
ねばならないので艶・機能的に分化した多くの社会諸関係が錯綜し倉状況においては・同情に基づく結合紐帯を求め
るのは始めから無理なのであって、知性に基づく新しい連帯が育成されねばならないのである。ここではユートピア的な
兄弟愛を説く代りに、公的生活の領域に移る場合は自分の感情を家庭に置き去るように教える方が遥かによい。自分が仕
事を共にし、共通の目標を追求する人々に対して、比喩的にいうなら同じテーブルで食事する人々に対して、何か個人的
な好みを感じる必要はないのである。完全な感情的中立のなかでこれらの人間関係が保たれるときに、はじめて個人的好
みを抜きにして共通目標が達成されるであろう。さもなければ、自分が関心を持てない人々或は我慢できない人々と協力
ヘ ヘ ヘ へ
せねばならぬことに心を悩ませねばならなくなる。大規模な社会とその社会関係のなかでは愛情の代りに誠実が必要とな
(28)
る。
現代社会の錯綜した機構に本能的ないし情緒的態度で近づく人は、社会に対するみずからの依存関係を一つの耐え難い
外的強制と感ずるであろう。これが大衆社会論で好んで問題とされる所の個人の無力感や孤独感というものである。しか
し彼が知的態度を以てこれに近づくなら、社会への外的依存関係を抑圧的な力として表象するのではなく、むしろ一つの
社会的必要として認めるであろう。この知的な態度は決して消極的・受動的適応だけを意味するものではない。それは、
現存する相互依存機構が個人にとってもっと有利な境遇を用意すべきであるという認識を含むのであって、社会変化への
本当の意欲がここから生れて来る。つまり現存社会秩序に対する反対は、無責任な討論、怒号による妨害、ヒステリック
で破壊的な激怒によってではなく、利害に関する目的ある行為によって表明される。漠とした価値観で装飾され、社会の
現状に対して向けられた感情的反霰ほど、 一つの社会階級をして本当の物質的利益に盲目ならしめるものはないのであ
(497)ユ03
大衆社会論における近代社会の問題
る。慎重な利害闘争は、社会を脅かして解体に瀕せしめることはなく、その反対に、社会の管理運営に積極的に参加する
04
(29」 -
一つの形態となるであろう。
ガイガーの所説を要約しよう。現代の大衆社会は社会の近代化(公的生活と私的生活の分離、第一次的基礎集団と第二
次的機能集団の分化)の一側面であり、この構造的変動は人間の近代化(態度や動機の知性化)を要求する。いわゆる大
衆社会の危機的状況とは、社会の近代化に人間の近代化が追い付けない所に現われるものである。ガイガーにおいては、
現代社会は特殊二〇世紀的なものとして近代社会と対比されるものではなく、前近代社会から近代社会へという構造的変
動の延長線上に位置づけられている。そして彼は実証主義的な立場から社会の近代化に積極的な期待を寄せているのであ
る。初期のガイガーは形式社会学の立場からテンニースの理論を批判的に採用し、テンニースが社会関係、社会的集合、
組織的団体、世代と両性の性格構造などにわたって社会生活の殆どすべての形態に適用した所の、ゲマインシャフトとゲ
ゼルシャフトという範疇を社会集団だけに適用さるべきものと限定して、これを集団の形成原理として解釈したのであ
(30)
る。前述の所説のなかでづユ日国曙σq8自窃(σq8葛ωoh臼Φ窟巨o蔓oaΦH)とω①oo巳①蔓ひq8信O。。(器ωoo一§。鉱くΦ目三房oh
(31)
匪Φω①8巳賃《o巳臼)という用語が使われているのは、この立場を示しているものと思われる。
註(17) ↓ミミミO町晦ミ§⑦。職ミOミミ§織ミ駐物ω象時竜”ω巴①9巴勺昌臼。。矯①巳富αξ男窪讐①竃契p貫
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(498)
大衆社会論における近代社会の問題
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三、ゲゼルシャフト化の問題(テン一一ースについて)
(499)
テンニ:スはゲマインシャフトーゲゼルシャフトの範疇を、社会集団だけに限定することなく、社会的結合の原理や
全体社会の構造に関する歴史的類型を示すものとしても使用した。この二つの範疇は単なる分類法的分析ではない。彼は
社会的結合と社会組織の類型としてゲマインシャフトとゲゼルシャフトを区別し、この二範疇によって全体社会の構造を
歴史的に比較しようと試みたのである。これは、資本主義、近代国家、近代人の精神がどうして興起したのか、というこ
ヘ ヘ ヘ へ
とについての社会学的な説明である。これらを生ぜしめた原因はしばしば経済、技術、軍事などの領域に求められていた
05
が、テンニースはこの原因を社会の領域に見出した。即ちそれは、共同体に基づいた社会が非共同体的様式の組織、法 1
大衆社会論における近代社会の問題
律、行政機構によって漸次排除されたことである。資本主義と近代国民国家の興起は二つともさらに基礎的な社会変動か
06
1層
ら生じた結果であって、彼はこの社会変動の正体をゲマインシャフト対ゲゼルシャフトの観点から見究めよ・うとしたので
ある。
「例えばマルクスにおいては共同体の消失が資本主義によってもたらされたものと見られるが、テンニースにおいては資本主義が
共同体の消失(ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行)によってもたらされたものと見られる。」切oげo鳥〉°2冨σ①計国譜
⑦ミミ鵡苛ミ↓、ミミ§讐=oぎ①ヨo昌pいo巳oPH88、戸刈Q。°
テンニースによるゲマインシャフトーゲゼルシャフトの対置は未来にゲノツセンシャフトを予想する三段階図式による
時代把握でもあるのであって、こういう歴史哲学的背景を捨象したのでは「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」と
いう図式の真価を理解し損うであろう。
テンニースにおいて社会的存在の二つの根本形態を示す範疇は、「団結体く臼玄巳琶αq」(結合度の強い統一体)と「連
結体Ud言傷三のω」(結合度の弛い関係)である。ヨーロッパ社会の発展史は、ゲマインシャフト的団結体からゲマインシャ
フト的連結体を経てゲゼルシャフト的連結体へ、最後にゲゼルシャフト的団結体へと進んで行く。
「ゲマインシャフトでは団結体が先行現象であって、たとえ経験的な現象面ではまだ一と多が分離していないにしても、一が多に
ヘ へ
先んじている。連結体は、特殊な統一体が未発達のままで存続していると考えられる特殊な場合に見られる後続現象である。……ゲ
ゼルシャフトにおいては、簡単な場合には連結体が先行現象であって、団結体は二重またはそれ以上に重なった連結体である。ゲマ
インシャフトは団結体から連結体へ落ちて行く。ゲマインシャフトにおいては’連結体はただ客観的・普遍的な秩序の内部において
〈500)
大衆社会論における近代社会の問題
しか考えることができない。なぜなら、この連結体においては、意志は選択意志にもっとも似たものとなるから。ゲゼルシャフトは
連結体から団結体へ上昇して行く。ゲゼルシャフトも、その発展の究極においては、ゲマインシャフトに一層似たものとなりうる。
ゲゼルシャフトがその大きさや目的に関して普遍的になればなるほど、ゲゼルシャフトを設定した選択意志はますます本質意志に外
見上似たものとなる。なぜなら、ゲゼルシャフトの基礎に横たわる契約はますます跡をたどり難いものとなり、契約の内容もますま
す複雑なものとなるから。」男興ロ貯m巳目9三〇ρO笥ミ鳴§象ぎ逼§賊O禽ミ象詠ミ.ひ∪母ヨω富暮”ドO①ω゜(°。6>魯節oqρいΦぢNお巳G。α)°
ω゜巳9「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(杉之原寿一訳、岩波書店、昭和三二年)下巻一二四ページ。
ゲゼルシャフト的連結体までの段階は、人間関係がますます個人主義的になり、これに伴って非人格性、競争、利己主義
が次第に優勢となって行く段階である。最後の段階は、ゲゼルシャフト的団体の秩序のなかで旧い社会が持っていた共同
体的保障のいくつかを回復しようという努力がなされる段階である。
「最近数十年の間に、ゲノツセンシャフトという名を有する、多くは無産者たる人々からなる結社が、少なからぬ勢力を得て重き
をなすに至った。かかる結社を無産者が作った目的は、まつ第一には商品を共同に購入するためであり、第二には必需品したがって
働肘冊愉を「自力生産」するためであった。このような多くの小さな団体が相集って、大規模な購買組合となり、したがってまた大
規模な生産組合ともなるのである。かかる組合の法的形式は、有限責任の根本原理にもとついて、株式会社法に倣って作られてい
る。それにもかかわらず、それによってゲマインシャフト的な経済原理が、ゲゼルシャフト的生活条件に適合せる形態をとって、著
しい発展能力を有する新しい生命を獲得するということが認められる。……家族生活やその他のゲマインシャフトの諸形式が、その
本質ならびにその生活法則の深い認識と結びついて、とにかくここに復活してその根を拡げることができるであろう。」押騨曾○こω゜
卜。
W°前掲邦訳(下)、=二五ー一三六ぺ:ジ。
(501)107
大衆社会論における近代社会の問題
テンニースの図式は前近代↓近代というような直線的進歩論でなく、ゲゼルシャフトの時代を過渡的な段階と考える立場
を現わしている。
「このような解体的.革命的・水平化的な新らしい意味における普遍的・自然的法は、通商・取引に関する法としてもっとも純粋
な形で現われるゲゼルシャフト的秩序にほかならない。最初はそれはまったく無害なものであって、進歩・洗練・醇化・簡易を意味
するものにほかならず、公正.理性.開化を表わしているのである。形式的には、これと同一の事態は衰滅κ瀕せるローマ帝国にも
存在している。二つの発展、すなわちその一つは、法の形成・動化・普遍化i最後には体系化されて法典に編纂されるに至るー
であり、他の一つは、輝かしき国家が建設され非常に平和な行政が行われ迅速確実にして公正な裁判が確立されるにつれてもたらさ
れる生活や慣習の崩壊であるが、この二つの発展は、しばしば非常にくわしく述べられている。しかし、この二つの動きの必然的連
関、すなわち両者の統一と相互作用を認識する人は、ほとんどいないように思われる。」騨pO‘ω.曽H°前掲邦訳(下)、一四七-
一四八ページ。
ヘ ヘ ヘ
テンニースにおいては、ゲゼルシャフトは、ゲマインシャフトの実体的な対立物としてでなく、人間の結合関係、全体
ヘ ヘ ヘ へ
的社会構造、集団組織など社会生活の諸側面における変動過程として把握された概念であり、しかもゲゼルシャフト化の
(32)
究極は実在的社会生活とは両立できないと考えられている。だから「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という表
現は「社会のゲゼルシ・フ泥」という嚢的変動を指すのであ摯ここでは・今の言。葉で云えば・,「社会の迩代化」
を構造的に把握することが一つの中心課題となっているのである。
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
ヘ へ
註(32) テンニースは、実在的有機的生活として考えられる人間の結合体をゲマインシャフトの本質(≦①ω①⇒α興○Φ目oぎ。・o冨津)、
ミ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
ヘ へ
観念的機械的形成物として考えられる人間の結合体をゲゼルシャフトの概念(bd£「漆住臼Ooω①=°・o冨臣け)と言い現わしてい
108(502)
大衆社会論における近代社会の問題
(33)
ヘ ヘ ヘ へ
る。本質と概念という用語の相違に注意すべきであろう。野9°○‘ω゜ω゜前掲邦訳(上)、三四ページ。
「ゲゼルシャフトの理論は、ゲマインシャフトにおけると同様に平和に隣りあって生活し住んでいる人々の集まりをとりあっ
かうのである。しかし、ここでは人々は、本質的に結びついているのではなくて、本質的に分離している。…・:その結果ゲゼ
ルシャフトにおいては、先験的必然的に存在する統一体から導きだされうるような活動は行われない。したがってまた、活動
が個人によって為されるかぎり、その個人に内在する統一体の意志や精神を表現するような活動や、その個人自身よりも彼と
結合している人々のかめ偽なるような活動は行われない。それどころかここでは、人々はそれぞれ一人ぼっちであって、自分
以外のすべての人々に対しては緊張状態にある。かれらの活動範囲や勢力範囲は相互に厳格に区切られており、その結果、各
ヘ ヘ へ
人は他人が自己の領分に触れたり立ち入ったりするのを拒絶する。……このような否定的態度は、これらの勢力の主体相互間
のありふれた、つねに基礎的な関係であって、平穏の状態におけるゲゼルシャフトの特色である。」鉾pO二ω゜らρ前掲邦訳
(上)、九一ページ。
ゲゼルシャフトの典型は、近代の経済的企業とこれを支える法的・道徳的諸関係の体系である。ゲゼルシャフト的構造は目的
合理性と計算によって維持される。
「ゲゼルシャフト的団結体は次の点でゲマインシャフト的団結体と明確に区別される。即ち、この団結体がその成員の意志に
ヘ ヘ へ
合致した、したがって合法的なものであるためには、この団結体の一切の活動は、一定の目的ならびにその目的を達成するた
めの↓燭伽手毅に向って局限されなければならない、という点である。これに反して、生命と同様に普遍的であり、自己の外
部にではなく自己の内部に力を有しているということが、ゲマインシャフト的団結体の本質的性格である。」ロ゜9°○‘ψb。09
前掲邦訳(下)、一三〇ページ。
ゲゼルシャフトがそのまま剥出しに現われる生活形態は大都市(08ωωω3臼)である。ここでは社会的選択意志の基礎
形式である協約(国O口く①口け一〇】ρ)が本来的に支配している。
テンニースによる選択意志(一(口『≦一一一①)の概念は、殆どマックス・ウェーバーのいう目的合理的(Nミooξ讐凶8巴)
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
する。テンニースは協約の本来的主体をゲゼルシャフトそのもの(血りOωO一一〇〇〇ゴ四hけ ωOげ一①0げけげ一昌)と規定している。
な行為に該当
(503)109
炉
大衆社会論における近代社会の題問
男↓o目δρミ触§ミ§偽§ミ恥⑦爲ミ。鷺魯岡醇α一轟巳国昌評ρ<oユ弗りH㊤①α゜
1”9ミ職蕊暮ミ.、§概Oa鴨ミ忘ミ5ω゜卜⊃釦゜前掲邦訳(下)、二〇八ページ。
(ωε洋σqp3巳G。ド)ω゜①゜
協約は潜在的戦争状態(ホッブスのいう自然状態)を廃棄するために結ばれる社会契約のようなものである。それは一言
で云えば、「契約は守らるべし冨o訂Φωω①oびω臼く9。巳9。」という自然法を表わす所の社会意志なのである。この意志が社会
全般に存在する場合に、「協約と自然法によって結合された複合体(》ゆQσqおσq暮)としてのゲゼルシャフト」が成立する。
したがってこういうゲゼルシャフトでは、選択意志の主体としての自然的および入為的な多数個人が結合関係を保ってい
ても、これはどこまでも人為的な関係であって、本質的には依然として互いに独立しており、内的相互作用に基づく結合
関係は存在しない。この意味でこれは、一体性(国U一づ侍『鋤Oげけ)や慣習(ω葺Φ)に基づく自然的有機的結合関係の上に成立す
るゲマインシャフトとは本質的に異っている。こういうゲゼルシャフトを表わす典型的な社会は、市民社会または交易社
へ34)
会(げ霞oqΦ島oげΦOΦの①房。『ロ津oαo門↓碧ω昌σq㊦ω①目ωo冨3という歴史的現象となって現われる。
所で本質意志やゲマインシャフトによって示される共同生活の外的形態(家、村、町)は、現実的・歴史的生活一般の
永続的な類型である。町(ω鼠砕)は、人間の共同生活一般の最高の、最も複雑な形態であり、ここでは多くの家族的性格
ヘ ヘ へ
が依然として保たれている。しかし町が大都市に発展すると、ゲマインシャフト的性格は殆ど失われて、個々の人格や
家族が相互に対立し、彼らはただ偶然的に任意に選ばれた住所として共同の場所を持つにすぎないようになる。しかし
08ωωω雷象の名が示す通り大都市の内部には町が存在しているが、これと同様に一般にゲゼルシャフト的生活様式の内部
には、たとえ萎縮し、さらに死滅せんとしているにしても、ゲマインシャフト的生活様式が唯一の実在的なものとして存
110(504)
大衆社会論における近代社会の問題
続しているのである。それにもかかわらず、ゲゼルシャフト的状態が一般的となるにつれて、 「国」全体または「世界」
ヘ ヘ へ
全体がますます一つの大都市に類似したものとなる傾向がある。大都市は自由な人格から構成されているものであって、
これらの自由な人格は、ゲマインシャフトやゲマインシャフト的意志が分散的・残存的以外には存在しなくても、絶えず
交易において互に接触・交換し、協働する。このような無数の外面的・契約的関係によって多くの内面的な敵対関係や相
反する利害関係が覆われているにすぎないのである。特にこの状態は、富める支配階級と貧しい労働階級との対立、同様
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
に資本と労働とのあらゆる集団関係において見られる状態であり、これこそまさに都市をして大都市たらしめるものであ
る。(この両階級の対立は都市をして一にして二たらしめる。)大都市においては、本来の基礎的生産活動がただ単に目的
(35)
のための手段・道具として認識され使用されるにすぎない。大都市は「ゲゼルシャフトそのもの」の典型である。 「大都
市の富は資本の富であり、商業資本、金貸資本、産業資本として使用されることによって増大する貨幣であり、労働生産
物占有のための、或は労働力搾取のための手段である。最後に大都市は、商業や工業と手に手をとって進むところの学問
と教養の都市である。こてでは芸術はパンを求める。芸術それ自体が資本主義的に利用される。思想や意見は非常な速さ
(36)
で完成し変化する。講演や書物は、大衆的伝播によって驚くべき昂奮をまき起す動力となる。」
註(34) OΦ8Φぎωo冨津⊆昌ΩOΦω巴ωoび9。粘fω.認゜前掲邦訳(上)、 一一ニページ。
(35) 鋤゜”°○‘ω。卜。a~卜⊃&’同上(下)、一九九-二〇〇ぺージ。
(36) 降。°PO°℃ω゜b⇒ミ゜同上(下)、二〇一ページ。
テンニースは、社会の近代化とその典型の一つである市民社会の原理とを直線的進歩とは考えず、幾多の問題を孕んだ
(505)111
大衆社会論における近代社会の問題
一つの中間的過渡的状態として把えている。彼が社会生活形態のゲゼルシャフト化として論究した事柄は、例えばマンハ ー2
ー
イムやガイガーが現代の大衆社会的状況を生ぜしめる構造的諸条件として論じたものに多くの点で一致する、と私は考え
る。大衆社会を社会の近代化の一側面として把える立場をとるなら、 「社会の近代化」を理解するための理論的基礎を一
応確立することがまつ必要であり、そのためにテンニースまで湖ってゲゼルシャフト概念を再検討することもあながち無
駄ではない、と思われる。この論究は別の機会にゆずりたい。
(506)
第 58 回東海公衆衛生学会学術大会プログラム - UMINplaza.umin.ac.jp/~tpha/taikai58/58Program.pdf第58回東海公衆衛生学会学術大会プログラム 会 期
TABICA...ンキュベート、株式会社XStartup、株式会社notteco、株式会社Tadaku、アディッシュ株 式会社、アディッシュ仙台株式会社、アディッシュ福岡株式会社、アディッシュプラス株