要理教育におけるキリスト教倫理...69 『南山神学』27 号(2004 年2 月)pp....

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69 『南山神学』27 号(2004 2 月)pp. 69-112. 要理教育におけるキリスト教倫理 ―新要理書『カトリック教会の教え』の出版に寄せて― 浜口 吉隆 はじめに すべていのちあるものはそれを次世代に伝達する力を自らの内に秘めている。 誰でも親を通して自分のいのちをいただいたものであるが,それは特定の歴史 の中にあるいのちである。したがって,その伝来の人間のいのちの中に豊かな 人類文化の遺産が受け継がれていると思われる。このような生物学的な生命と は別に精神的・霊的いのちもある。つまり,イエス・キリストを通して人類に 啓示された神の愛のいのちは,信仰という天来の賜物によって人間のいのちの 中に注がれたのである。このいのちを「信仰のいのち」と呼ぶことにする。そ れは次の聖書の言葉によって証されている新しいいのちである。「神は,その独 り子をお与えになったほどに,世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅び ないで,永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)または,「これらのことが書 かれたのは,あなたがたが,イエスは神の子であると信じるためであり,また, 信じてイエスの名により命を受けるためである。」(同 20:31このような「信仰のいのち」を伝達するために,イエスの弟子たちは全世界 に派遣され,その礎の上に建てられた教会もまた世に派遣されている。「父がわ たしをお遣わしになったように,わたしもあなたがたを遣わす。」(同 20:21)と いうイエスの派遣の言葉は,第二バチカン公会議の教えによれば,教会の本質 的な使命を表わすものであり,すべてのキリスト者に適用されるものでもある。

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Page 1: 要理教育におけるキリスト教倫理...69 『南山神学』27 号(2004 年2 月)pp. 69-112. 要理教育におけるキリスト教倫理 ―新要理書『カトリック教会の教え』の出版に寄せて―

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『南山神学』27 号(2004 年 2 月)pp. 69-112.

要理教育におけるキリスト教倫理

―新要理書『カトリック教会の教え』の出版に寄せて―

浜口 吉隆

はじめに

すべていのちあるものはそれを次世代に伝達する力を自らの内に秘めている。

誰でも親を通して自分のいのちをいただいたものであるが,それは特定の歴史

の中にあるいのちである。したがって,その伝来の人間のいのちの中に豊かな

人類文化の遺産が受け継がれていると思われる。このような生物学的な生命と

は別に精神的・霊的いのちもある。つまり,イエス・キリストを通して人類に

啓示された神の愛のいのちは,信仰という天来の賜物によって人間のいのちの

中に注がれたのである。このいのちを「信仰のいのち」と呼ぶことにする。そ

れは次の聖書の言葉によって証されている新しいいのちである。「神は,その独

り子をお与えになったほどに,世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅び

ないで,永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)または,「これらのことが書

かれたのは,あなたがたが,イエスは神の子であると信じるためであり,また,

信じてイエスの名により命を受けるためである。」(同 20:31)

このような「信仰のいのち」を伝達するために,イエスの弟子たちは全世界

に派遣され,その礎の上に建てられた教会もまた世に派遣されている。「父がわ

たしをお遣わしになったように,わたしもあなたがたを遣わす。」(同 20:21)と

いうイエスの派遣の言葉は,第二バチカン公会議の教えによれば,教会の本質

的な使命を表わすものであり,すべてのキリスト者に適用されるものでもある。

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このように,「信仰のいのち」を伝達する教会の使命はいろいろな手段によって

実現されるが,本稿においては要理教育に焦点を当てることにする。しかも,

教会が伝統的に受け継いできた要理教育の使命を第二バチカン公会議はどのよ

うに理解し,それを実践しようとしたのかを考えてみたい。日本のカトリック

教会もその使命を自らの重要な課題として認識し,公会議とその後の方針に基

づいて日本の教会のための新しい要理書『カトリック教会の教え』を出版する

ことができた1。本稿においては,その出版を機会に,この要理書の出版の意義

を確認することにする。

そのために,先ず改めて要理教育とは何かを再確認し,次に第二バチカン公

会議はその教育についてどのように教えているかを公文書を通して検討する。

続いて公会議後にはどのような要理教育の刷新に関する方向性が示されたのか

を考察する。そして,そのような刷新の動向の中で日本の教会では要理教育は

どのように実践されてきたのかを手許にある出版物を通して通覧しておきたい。

そして,最後に公会議の精神に基づいて全カトリック教会のために編纂された

『カトリック教会のカテキズム』と日本の教会のために編纂された『カトリック

教会の教え』との関連とその意義を検証することにする。その際,この新しい

要理書の第三部「キリスト者の倫理」を執筆担当した者として,これらの一連

の要理教育の中でキリスト教倫理についてはどのように考えられ,どのような

内容が盛り込まれているかを概観する。しかし,それらの個別内容の細部には

言及せず,公会議とその後の要理教育の歴史的展開の中で「信仰と道徳」とが

より緊密な関係にあるべきことを一瞥するとともに,キリスト教倫理のどのよ

うな内容が重視されているかあるいは軽視されてきたかを確認することになろ

う。

1 新要理書編纂特別委員会編,日本カトリック司教協議会監修,『カトリック教会の教え』,カトリッ

ク中央協議会 2003 年。

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I.要理教育とは何か2

1)「要理」の用語とその起源

一般に「要理」と翻訳されるギリシャ語の名詞「カテケージス」(kath,chsij,

catechesis)は,その動詞 ʺkathce,wʺ に由来し,その基本的な意味は「上から響

くこと」である。通俗の用語としては,次の二つの意味で展開される。第一に,

その語は「何事かを誰かに話し聞かせること」とか「通知・報告すること」を

意味する。第二に,その語は「何かを教授すること」,また物事の基本やスキル

を「教えること」を意味する3。その起源をキリスト教との関連で探るならば,

それは洗礼を授ける前に子供や大人に対して伝授された基本的なキリスト教の

真理を口頭で教授することであった。

したがって,新約聖書におけるその用語の意味は,「何かについて告げるこ

と」また「何かのニュースを受けること」である。たとえば,『使徒言行録』に

よれば,パウロがエルサレムに集まっている「兄弟たち」や「長老たち」の集

会で挨拶したとき,彼らから次のようなことを言われる。彼らはパウロが離散

しているユダヤ人,つまり「異邦人の間にいるユダヤ人」に対して,伝統的な

2 要理教育の意味内容および要理書の歴史的概要については,次の辞書の記事を参照されたい。「カテ

ケーシス」(Catechesis),A. リチャードソン/J. ボウデン編,古屋安雄監修,佐柳文雄訳,『キリ

スト教神学事典』,教文館 1995 年,92-93 頁。「公教要理」「公教要理説明」,『カトリック大辞典』,

冨山房 1942 年,210-213 頁;ʺCatechesisʺ, ʺCathechismʺ, (Eds.) Michael Glazierard, Monika K.

Hellwig, The Modern Catholic Encyclopedia, Gill & Macmillan, Dublin 1994, 136-137; ʺCathechesis,ʺ

ʺCathechetics,ʺ (Eds.) Josef A. Komonchak, Mary Collins, Dermot A. Lane, The New Dictionary of

Theology, Gill and Macmillan, Dublin, 1987, 161-166; ʺKatechetikʺ, Theologische Realenzyklopädia,

Band XIII, 1988, pp.686-710; ʺKatechismus: Römisch-Katholische Kirche, ibid., 729-736; ʺkatechis-

musʺ, LThK 6 (1961), 45-50; LThK 5 (1996), 1311-1317; ʺCatechisme,ʺ DThC 2/2 (1932), 1912-1968. な

お,日本語訳の用語として,「信仰教育」や「教理教育」などもあるが,本稿ではそれらの用語と

内容の相違については議論せず,文献の翻訳者の引用以外は「要理教育」を使用する。 3 “kathcew”,(Ed.,) Gerhard Kittel, (Tr.and Ed.,) Geoffrey W. Bromiley, Theological Dictionary of The

New Testament, Vol. III, WM. B. Eerdmans Publishing Company, Grand Rapids, Michican 1966, 1981

(8.printing), 638-640.

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割礼やモーセの慣習に従わなくてもよいと教えていることについて,「この人た

ちがあなたについて聞かされているところによると」(21:21)と表現されてい

る。また,そのユダヤ人たちを躓かせないことを配慮するように勧告されてい

る。「そうすれば,あなたについて聞かされていることが根も葉もなく,あなた

は律法を守って正しく生活している,ということがみんなに分かります。」(21:24)

これらの話題はパウロについての風評による「聞かされていること」

(kathch,qhsan)である。

ところが,パウロ自身はその用語を「信仰内容に関する教え」を伝授するこ

とに限定しているが,それはキリスト教に先立つユダヤ教とも関連して語られ

ている。「あなたはユダヤ人と名乗り,律法に頼り,神を誇りとし,その御心を

知り,律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」(ロ

マ 2:17-18)このようなユダヤ教の「律法によって教えられていること」から,

パウロはキリスト教の信仰を「教える」(kathce,in)ことに専念するようになる。

そして,その教えを伝授する人とそれを受ける人をも区別している。「御言葉を

教えてもらう人は,教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」(ガ

ラ 6:6)この「教えてくれる人」(kathcou/ntej)は別の文脈における「教師」

(dida,skaloi)と同一であろうか。いずれにせよ,これらの「教えてくれる人」

や「教師」などがキリスト教の教義内容を伝授することは,今日まで継続され

てきた「要理教育」(catechismus)と呼ばれるようになる。また,洗礼前には

「教えを授け,また受けること」が大切な習慣となり,その秘跡の準備をさせて

いる人は「教える人」(catechumen)と呼ばれるようになる。

こうして,初期のキリスト教会において「要理教育」は宣教活動の重要なも

のになった。たとえば,雄弁家アポロは「主の道を受け入れており,イエスの

ことについて熱心に語り,正確に教えていたが,ヨハネの洗礼しか知らなかっ

た。」(使 18:25)また,ルカはその福音書のはじめに,テオフィロに次のように

言っている。「お受けになった教えが確実なものであることを,よく分かってい

ただきたいのです。」(1:4)

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2)要理教育の目的

キリスト教における要理教育の目的は,ルカによる救済史神学によれば,「主

の新しい道4」を伝達することであり,パウロの宣教使命からすれば,キリスト

において,またキリストを通して啓示された福音と信仰を口伝することである。

また,ヨハネ神学からすれば,「ヨハネによる福音書」が書かれた目的と同じく,

「あなたがたが,イエスは神の子であると信じるためであり,信じてイエスの名

により命を受けるためである。」(20:31)すなわち,ヨハネが告げるように,「御

父と御子イエス・キリストとの交わり」である永遠のいのちを証しし,伝える

ためである(1ヨハ 1:1-3 参照)。

それらの意味を総合するならば,神の啓示を広く人々に知らせ,信仰の覚醒

と強化を目的とするすべての活動が要理教育であるから,次のようにまとめら

れる。「人々の信仰を覚醒し,養うことを目的とし,また人々が自分の信仰に真

実に生きることを目指すようにさせることを目的として,ことばによってキリ

ストの秘義を証しし,神の救いの業としての人間存在の全体に光をあてること」,

また「民をキリストとの交わりに導くこと,信徒の共同体をきずくこと,そし

て教会の宗教の業を強化すること,キリストに従う者にするために信仰教義を

教えること,そして心を回心に向かって開かせることである。5」したがって,

このような教育は生涯にわたって続けられるべきものであり,子供も大人も,

それぞれの信仰の成長段階に応じてその機会が与えられることが理想的である。

すなわち,このような信仰教育は人間の異なる年齢や信仰生活の経験などに合

わせてなされるべきものであろうし,その意味では信仰の生涯教育でもあると

考えられる。

4 ルカによる「使徒言行録」にはイエスの教えを「道」(9:2; 19:9.23; 22:4; 24:14.22)として説いており,

また使徒パウロは「歩く」(1 テサ 2:11-12; 4:1-3.11-12; コロ 1:10; 4:5; エフェ 4:1; 5:1-2 など)という

動詞を 34 回も使用している。これについては,S.Lyonnet, Il cristianesimo secondo i primi cristiani, ʺLa

via del Signoreʺ (Estratto da ʺRinascereʺ, giugno-agosto 1979), 13-25 を参照。 5 A. リチャードソン/ J. ボウデン編『キリスト教神学事典』,上掲書,92-93 頁。

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II.第二バチカン公会議による要理教育の提唱

1)公会議の公文書における要理教育の重視

a)洗礼準備期間における要理教育の刷新の必要性

まず,第二バチカン公会議で最初に公布された『典礼憲章』(1963 年 12 月 4

日)によれば,成人の洗礼の準備制度を復興させることによって,「適確な教育

を目的とする洗礼準備期間」を大切にすることが要請されている。またそれに

伴う洗礼の儀式の改定の必要性も説かれている(第 64-66 項)。また,『教会に

おける司教の司牧任務に関する教令』(1965 年 10 月 28 日,以下「司教司牧教

令」)では,同じく成人の洗礼志願期の制度の復興と適切な改正を提唱するとと

もに,「教理教育」(cathechetica institutio)が教説(doctrina)の説明によって

信仰を活性化し,実践的なものにするように,幼児,児童,青少年,また成人

にその教育がなされるように注意を喚起している。しかも,その教育内容は聖

書,伝承,典礼,教導権,そして教会の生活に基づいたものであるように留意

することが勧められている(第 14 項)。

なお,公会議の最後に公布された『教会の宣教活動に関する教令』(1965 年

12 月 7 日,以下「宣教教令」)でも,先の『典礼憲章』の教えを踏まえて,洗

礼志願期(catechumenatus)について言及されている。それによると,洗礼志

願者は教会を通して神からキリストへの信仰を受け入れた者として,この期間

に師であるキリストと結ばれるために,「ただ教義(dogma)や戒律の説明だ

けでなく,キリスト教生活全体の教育」が必要であるとして,次のように述べ

ている。「洗礼志願者は救いの秘義と福音に則した生活とを十分に伝授され,時

間をおいて継続的に行われる聖なる儀式によって,神の民の信仰と典礼と愛の

生活に導き入れられなければならない。」(第 14 項)この『教令』では洗礼志願

者の入信の典礼刷新のみならず6,入信の準備のための教育内容に関して「救い

6 公会議の決定(「典礼憲章」第 64,66 条)に基づいて改定された洗礼前の段階的な典礼については,

典礼司教委員会編『カトリック儀式書 成人のキリスト教入信式』,カトリック中央協議会 1976

年,7-38 頁の「緒言」参照。洗礼志願者(Cathechumenus)は洗礼を志願している成人であり,キ

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の秘義」(mysterium salutis)と「福音に則した生活」(exertitio morum

evangelicorum)を伝授すること,および「神の民の信仰と典礼と愛の生活」(vita

fidei, liturgiae et caritatis populi Dei)への導入について明記されている。これ

らの内容こそ,後述するように,カトリック教会の「要理の内容」になるので

ある。

b)教会の宣教使命と要理教育の必要性

公会議は『教会憲章』(1964 年 11 月 21 日)において,教会が諸国民の光で

あるキリストの福音を告げ知らせる使命を自覚しつつ,「神との親密な交わりと

全人類一致のしるしであり道具である秘跡」(第 1 項)として,その普遍的使命

を果たすことを確認した。この『憲章』によれば,宣教使命について次のよう

に述べられている。「教会は福音を宣教することによって,聞く人々を信仰と信

仰宣言へさそい,洗礼へ導き,誤謬の束縛から解放し,キリストに合体させ,

こうしてかれらが愛を通してキリストの中に完成に至るまで成長してゆくよう

にする。教会はその働きをもって,人々の心や考えの中,あるいは各国民固有

の儀式や文化(ritus et cultura)の中に見出される,よいものすべてが滅びな

いように心を配るだけでなく,神の栄光,悪魔のろうばい,人間の至福(beatitudo

hominis)のためにそれを清め,高め,完成させるようにする。」(第 17 項)こ

の条文によれば,「福音を告げ知らせること」(praedicatio evangelium)は,キ

リストへの信仰への導きであるが,それは各国民の固有の文化や慣習の中にあ

る良いものを尊重しながら,さらにそれらを「人間の至福」に向けて完成させ

ることを要請している。これは教会の新しい宣教姿勢でもあり,より具体的に

は『宣教教令』でその活動のあり方が提示されることになる。

リスト教の教えの内容について初歩の手ほどきを受けて洗礼を受ける準備をしている者である。カ

テケーシスは,初歩の入門教育であり,洗礼志願者のための要理講話(口頭で教える)教育であっ

た。たとえば,邦訳されているものとして,聖ヨハネ・クリュソストモス著,家入敏光訳,『洗礼

志願者のためのカテケシス』,サンパウロ 2000 年を参照。

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また,公会議は『キリスト教的教育に関する宣言』(1965 年 10 月 28 日)に

おいて,教育の任務を自らに属するものであることを再認識するとともに,キ

リストの精神で貫く教育を実践する二つの理由を述べている。①「教会はすべ

ての人に救いの道を告げ,信者にキリストの生命を授け,かれらがこの生命の

充満に達することができるよう,絶え間ない配慮によって彼らを助ける任務を

持っているからである。」また,②「教会は,円満な人間の完成を促すため,ま

た地上の社会の福祉のため,さらにいっそう人間にふさわしい世界を形成する

ために,すべての国民に助力を惜しまないからである。」(第 3 項)このような

教育の任務を果たす手段について述べるとき,この『宣言』は『司教司牧教令』

(第 13-14 項)を前提しながら,次のように明言している。「その(教育の)固

有の手段の第一は教理教育である。これは,信仰を照らし,固め,キリストの

精神による生命を養い,典礼の秘義への意識的で行動的な参加へ導き(典礼憲

章 14 項参照),使徒的活動へと励ますものである。」(4 項)

ところで,公会議は『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度について

の宣言』(1965 年 10 月 28 日)において,ユダヤ教との相互理解と尊重を深め

ることを望みつつ,教会が「神の新しい民」であることを自覚しながらも,こ

れまでの歴史を踏まえてユダヤ人が神から排斥された者,またはのろわれた者

であるなどと言うべきでないことを明言して,教理教育について次のように述

べている。「すべての人は,教理の説明や神のことばの宣教にあたって,福音の

真理とキリストの精神に合わないことを,何も教えないように注意しなければ

ならない。」(第 4 項)

さらに,『司教司牧教令』では,先述の洗礼志願者への教理教育とは別に,司

教の固有で主要な「教える任務」が人々に永遠の至福を得させるためにキリス

トの福音を告げ知らせることにあることを確認し(第 12 項),司教はキリスト

教の教説(doctrina christiana)を時代の要求に適合した方法で伝えたり,それ

を擁護することを力説している。その際に,教会はその生きている人間社会と

話し合い(colloquium)を勧めるべきであるが,それはまず司教の任務であり,

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「救いのための話し合いには愛をもって真理を,しかも愛をもって理解を」進め

ることが必要である。また,そのためには謙虚と柔和,賢慮と信頼の姿勢が求

められるが,こうして友情による魂の結合に至ることができる。このように,

『教令』は司教の福音告知の任務と社会に対する精神的心構えや話し合いの姿勢

を述べているが,キリスト教の教説について詳しい内容には触れず,むしろそ

の伝達の機会と種々の手段を利用すべきであるとし,その第一の手段として「説

教と教理教育」(praedicatio atque catechetica institutio)を挙げている(第 13

項)。

最後に,『神の啓示に関する教義憲章』(1965 年 11 月 18 日,以下「啓示憲章」)

によれば,神のことばである聖書の重要性について力説するとともに,次のよ

うな具体的な指針を与えている。「聖書研究はあたかも神学の魂のようなもので

なければならない。ことばの奉仕も,すなわち,司牧的説教,教理教育(catechesis),

各種のキリスト教教育,この中で特別の地位を占める典礼中の説教は,聖書の

ことばから,健全な栄養と聖なる活力を与えられる。」(第24項)この条文には,

教理教育は神のことばである聖書に基づく「ことばの奉仕」(ministerium verbi)

の一つに数えられている。

2)要理教育の起源と本質

公会議は,以上のような基本的な方針に基づいて,「ことばの奉仕」や宣教活

動との緊密な関係の中に要理教育の必要性を教示しているが,その教育の源泉

はどこにあるのかを公文書のテキストを頼りにしてもう少し探求してみよう7。

キリスト教会の起源が「父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣」とにあ

るように,要理教育も「父なる神の無限の慈愛」のうちにその起源をもってい

る(「宣教教令」第 2 項)。ところが,「教会はこの世に存在し,この世とともに

7 ʺcatechesiʺ, (Direttore,Salvatore Garofalo), Dizionario Del Concilio Ecumenico Vativano Secondo,

Unedi-Unione Editoriale, Roma 1969, pp.680-690.

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生き,そして働いているもの」であるから,教会と世界とは相互に対話する可

能性をもっているだけではなく,「教会は救いを固有の目的として追求し,神の

生命を人間に与えるだけではなく,ある意味でこの生命が反射させる光を全世

界に投げかけるのである。」(「現代世界憲章」第 40 項)このような教会の使命

である「救い」は,人間の尊厳の崇高な現れである「神との交わりへの人間の

召命」(vocatio hominis ad communionem cum Deo)によるものであり,また神

の愛によって創造された人間がその存在の初めから「神との語らい」(colloquium

cum Deo)に招かれているということに由来する(「同憲章」第 19 項,「啓示憲

章」第 1 項参照)。まさに,この「神との交わり」と「神との語らい」への招き

を実現するために来られた方がイエス・キリストであり,「神のみことばの受肉」

こそが「神と人との最高の啓示」である8。

このような「啓示することば」であるキリストによる救いはすべての人のた

めのものであり,またすべての人に伝達されるべきものである9。教会は福音の

メッセージをまだ知らない人々に最初に告げ知らせるだけでなく,それを説明

し深めることによって少しずつ人々とその社会を「福音化」(evangelizatio)す

ることを自らの使命とするものである。このような一連のプロセスこそが要理

教育の本質である。その教育には,救いの出来事を記念して祝う典礼への参加

や説教による救いのメッセージの解説なども含まれる10。しかし,神の招きに

応えて自発的に決断する信仰(「啓示憲章」第 5 項)は,「神との交わりとして

の救い」だけではなく,人間とは何か,その召命とは何かを真剣に問いかけさ

せるのである(「現代世界憲章」第 10 項参照)。すなわち,「信仰は新しい光を

もってすべてを照らし,人間の十全な召命についての神の意向を現わし,した

がって本当に人間的な解決に精神を向けさせる。」(「同憲章」第 11 項)

8 「教会憲章」第 3,5 項,「啓示憲章」第 2-4 項,「現代世界憲章」第 18,22,41,45 項参照。 9 「教会憲章」第 8 項,「啓示憲章」第 7-8 項,「宣教教令」第 3,13,16,24 項参照。 10 「典礼憲章」第 9-10,24,35,52 項参照。

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したがって,このような人間の召命に関する公会議の考え方を敷衍すれば,

要理教育の特別の目的も明らかになる。それはただ信仰を芽生えさせ,福音化

を推進するとともに,信仰を成長させ,成熟させることである。実際に,キリ

スト教生活は「成長する信仰のいのち」であるから,「キリストのいのちの充満」

とか「キリストの似姿になる」という絶えざる進歩を期待されているのである11。

しかし,要理教育がこのような信仰生活における成長を目指すものであるなら

ば,それはキリスト者としての人間の生き方とも関わっていることは言うまで

もない。その生き方は信仰に根ざしたこの地上での生活の意味や社会生活の在

り方に関するものであり,キリスト教倫理の本質をも問うものである。

3)キリスト教倫理の内容と課題

要理教育の必要性とその内容を考えるとき,それは信仰の教義のみでなく,

信仰に生かされた人間の在り方と生き方としての倫理の内容も含まれることを

忘れてはならない。すでに公会議以前から倫理神学の刷新に向けての根本的な

転換の兆しが見られた12。この刷新の基本はキリストの人格とその福音を中心

としたキリスト教生活の積極的な側面を強調するものであり,公会議もキリス

ト者としての倫理がどのようなものであるべきかを真剣に討議し,具体的には

公会議の最後の重要な教説として『現代世界憲章』にまとめられることになっ

た13。言うまでもなく,倫理に関するテーマや課題はその他の公文書でも言及

11 「典礼憲章」第 1 項,「教会憲章」第 7,30 項,「啓示憲章」第 10 項,「信教自由宣言」第 14 項,「エ

キュメニズム教令」第 22 項参照。 12 J. G. Ziegler, ʺMoraltheologie und christliche Gesellschaftslehre im 20. Jahrhundert,ʺ in: Bilanz der

Theologoe im 20. Jahrhundert, Band III, Freiburg/ Basel/ Wien, 1970, 316-360. 特に,ドイツ語圏におい

てはカトリック教会における神学の刷新と聖書学の進歩及びエキュメニカルな運動とに刺激されて,

倫理神学もキリストとその福音のメッセージを中心として刷新されるようになる。 13 この憲章の成立過程と倫理神学の刷新については,拙論「すべての人に開かれた愛の道―『現代世

界憲章』の成立過程におけるキリスト教的な愛の考察(1)(2)(3)(4)」,『南山神学』第六号

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されているが,ここではそれらの公文書の教えをも前提しまたは関連して展開

される『現代世界憲章』の第一部を中心に,基本的な考え方を紹介するにとど

めたい14。キリスト教倫理の具体的な個別の課題は,この憲章の第二部の諸問

題―結婚や家族,文化の意義,社会・経済生活,平和の促進と国際共同体の促

進―で取り上げられており,それらの諸問題に対するキリスト者の行動規範が

提示されている。しかし,それらの具体的な諸問題にどのように対処するかと

いう根本的な姿勢こそが,聖書の教えと信仰に支えられたキリスト者の倫理と

して重視すべき内容であった。その幾つかを簡潔に列挙してみよう15。

a)人間人格の救いと良心の尊厳性

公会議は,『啓示憲章』と『教会憲章』によって,神の啓示に基づく人間の救

いとその歴史を明らかにし,救済史における神の民および秘跡としての教会の

秘義を提示するとともに,『現代世界憲章』において現代の世界における教会の

存在意義を問いつつ,どのように人間の救いが実現されるかという人間の倫理

を明らかにしている。キリスト教倫理は人間の救いを主眼とする倫理であり,

人間の世界に対する責任の倫理である16。救いは神による召命であり,人間人

格の内的変容であるが,それは人間の自由な人格的決断によるものである。「神

のみことばの受肉」こそが地上世界における人間の本来の姿と世界の歴史の意

(1983 年),105-169 頁;第七号(1984 年),67-110 頁;第九号(1986 年),139-170 頁;第十号(1987

年),105-140 頁参照。 14 第一部の注釈については,Y. M.-J. Congar, M. Peuchmaurd (eds.), L’Eglise dans le monde de ce temps,

Tome II , Les Editions Du Cerf/ Paris 1967; H. Vorgrimler (ed.), Commentary on the Documents of Vati-

can II, Vol.5,Burns & Oates, Herder and Herder/ New York 1969; Luigi M.Rulla S.J., Franco Imoda

S.J., and Sister Joyce Ridick S.S.C, ʺAnthropology of the Christian Vocation. Conciliar and Postcon-

ciliar Aspects,ʺ in: R.Latourelle (ed.), Vatican II. Assessment and Perspectives, Twenty-five Years After

(1962-1987), Vol.2, Paulist/ New York, 1988, 402-459. 15 J. Fuchs, ʺA Harmonization of the Conciliar Statements on Christian Moral Theology,ʺ in:

R.Latourelle (ed.), Vatican II. Assessment and Perspectives, ibid., pp. 479-500. 16 「現代世界憲章」第 1,34,37-39,57 項参照。

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義を明らかにするものであり,「新しい愛の掟が人間完成と世界改革の根本法則

である。」(「現代世界憲章」第 38 項)17

また,公会議は人間の尊厳を前提として人間の諸権利を擁護するとき,「自己

の正しい良心に従って行動する権利」(「現代世界憲章」第 26 項)にも言及す

るが,人間の良心の尊厳はキリスト教倫理の主要な課題の一つである18。神の

意志は良心によって知られるものであり,良心への忠実は人間の最も基本的な

倫理的行為である。教会は人間の良心とそれに基づく自由な決断を尊重し,国

家が良心に基づく信教の自由を尊重するように要請する19。

b)世界における人間の活動

公会議が説く人間の倫理と救いはいつも時間と空間において存在する人間の

世界と関連している。いわば人間の活動とこの人間世界の実現とは切り離すこ

とができないものであり,それは創造のわざとして人間が継続的に果たすべき

責任でもある。この任務については,次のような公会議の教えに要約されてい

る。「神の像として造られた人間は,大地とそこに含まれる万物を支配し,世界

を正義と聖性のうちに統治し,また万物の創造主である神を認めて,人間自身

とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。」(「現代世界憲章」

第 34 項)そこで,公会議は「世界」(mundus)を「人間の世界,つまり人類

家族とこの家族がその中で生活している諸現実の総体」,「人類の歴史が演じら

れている舞台,人間の努力と失敗と勝利が刻まれている世界」として理解し,

17 愛の掟については,この他に「教会憲章」第 32,39,42 項,「現代世界憲章」第 22,24 項などに

言及されているが,愛の教えは種々の文書で言及されている。 18 公会議の教えに基づく人間理解や良心の尊厳性については,拙論「『現代世界憲章』の人間論にお

ける『良心』の位置づけ」,『伝統と刷新―キリスト教倫理の根底を探る』,南窓社 1996 年,83-98

頁参照。 19 「教会憲章」第 16 項,「信教自由宣言」第 2-3 項,「現代世界憲章」第 14,16,19,41 項参照。な

お,詳しくは拙論『伝統と刷新』,上掲書,81-173 頁を参照されたい。

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それはキリストの救済の働きによってやがて「完成に達する世界」であるとい

う展望を示している(「同憲章」第 2 項)。

このような世界における人間の活動の意義は様々な側面から提示されている。

人間の基本的な社会性,科学的な諸発見や技術の革新,創造的な人間の文化的

活動などは,人間人格とその相互の人格的な関係で語られている。つまり,公

会議が世界における人間の活動について語るとき,「人間の活動は人間から出る

ように,それは人間に秩序づけられている。」(「現代世界憲章」第 35 項)20 と

いう二つの意味を含んでいる。したがって,公会議はただキリスト者だけでな

く,すべての人々に対して「より人間的」世界の建設に向けて語りかけるとと

もに,共にその責任を果たす人格的な倫理を提唱している21。キリスト者もこ

の世の秩序を刷新する働きが人間の救いとも関わっていることを忘れてはなら

ない。「教会の使命は,ただキリストの福音を告げ,その恩恵を人々にもたらす

だけでなく,この世の秩序を福音の精神で満たし完成することである。」(「信

徒使徒職教令」第 5 項)22

c)客観的な倫理秩序と教導職と個人の良心

公会議が良心について語るとき,その良心における「神法」と「客観的な倫

理秩序」また教導職との関係も無視することはできない。また,それらはキリ

ストやその福音,また信仰などとの関連でも語られている。その基本的な考え

は次の通りである。①「神が英知と愛をもって,全世界と人間社会に秩序を立

て,これを指導し,統治するために設けた神的な,永遠の,客観的,普遍的な

法が,人間生活の最高の規範である。」②「神は,人間が神の摂理のやさしい計

画によって,不変の真理をよりよく認めることができるように,自分の法に人

20 ラテン語原文は次の通りである。”humana vero navitas, sicut ex homine procedit, ita ad hominem

ordinatur.” 21 「より人間的」とか「真の人間性」などに関する言及は多い。「現代世界憲章」第 35,38,53,56,

57,74 項など。 22 また,「信徒使徒職教令」第 7,16,31 項,「キリスト教教育宣言」第 2 項参照。

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間を与らせている。」③「しかし,人間は自分の良心を通して神法の命令を知り,

そして認める。それで,自分の目的である神に到達するには,すべての行為に

おいて,忠実に自分の良心に従わなければならない。したがって,自分の良心

に反して行動するように強制されてはならない。」(「信教自由宣言」第 3 項)

また,公会議は神法に従って良心を形成するとも言われるが,ここには何が倫

理的に正しいかを認める良心と神法との関係,また福音の光や聖霊の助けによっ

て神法を解釈する教導職との関係がどのようであるのかという問題が残されて

いる23。

また,公会議は,学問的研究も政治上の権威も国家も「倫理法」や「自然法」

に反することのないように,勧告している24。 そのような判断の背景には,次

のような考え方がある。「世俗の現実と信仰の現実とは,ともに同じ神に起源を

もつものである。」また,「どのような宗教に属するにせよ,信仰者はすべて,

被造物の語ることばのうちに神の現れと声とを常に聞いているのである。」(「現

代世界憲章」第 36 項)いずれにせよ,人は何をなすべきかを良心に従って判断

するが,それは神が人の心に書き記した法だからである(「同憲章」第 16 項)。

すべての人に共通する良心の教えだけでなく,次のような教会の任務も忘れて

はならない。「キリストの意志によって真理の教師であるカトリック教会は,真

理であるキリストを告げ,正しく教え,同時に,人間性に基づく道徳の原理を

自らの権威をもって宣言し,確証することがその任務である。」(「信教自由宣

言」第 14 項)

このような公会議の教えを見ると,客観的な倫理法を前提しつつ,いつの時

代も直面する具体的な倫理問題に対して責任ある解答を見出す積極的な姿勢を

うかがうことができる。どのように行為すべきかは,既成の解答が与えられて

いるというよりも,常にキリストの福音と倫理法とに従って基本的な行動原理

を探求し続ける必要がある。なぜならば,「福音は救いに関するあらゆる真理と

23 「教会憲章」第 25 項,「現代世界憲章」第 50,51 項参照。 24 「現代世界憲章」第 36,74,87 項。

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倫理の教え(disciplina)の源泉である」(「啓示憲章」第 7 項)からである。

また,教会の宣教使命を果たす場合にも,どのようにキリスト教の啓示と信仰

を伝達するかを考える必要があり,次のことが注目に値する。「どのような方法

で風習や生活感情や社会秩序などが,神の啓示による道徳(mos)と合致しう

るかということが,より明確に把握されるであろうし,キリスト教生活のすべ

ての領域において,より深い適応の道が開かれるであろう。」(「宣教活動教令」

第 22 項)このように,教会は信仰の真理を教えるだけでなく,地域教会の置か

れた状況に合った信仰に基づく生活規律を定めることも必要である(「司教司牧

教令」第 36 項)。

III.公会議後の要理教育の刷新の動向

このような公会議の教えとその精神に基づいて,どのように要理教育を実施

すべきか,どのような信仰の教義内容をそれに含むべきか,どのような手段を

用いて,誰がそれを行うべきか,そのために要理書をどのように改定すべきか

などは,公会議後の教会に課せられた緊急で,しかも重要な課題であった。こ

こでは先ず,公会議後の最初の公文書である聖職者聖省の『カテケーシス一般

指針』(1971 年 4 月 11 日認可)における要理教育の内容を検討し25,次に,教

会の宣教使命について重要な文書である教皇パウロ六世の使徒的勧告『エヴァ

ンジェリイ・ヌンチアンディ』(1975 年 12 月 8 日公布)における福音宣教と要

理教育の関係を概観する26。さらに教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告『要

25 Sacra Congregatio pro Clericis, ʺDirectorum Cathechisticum Generale,ʺ AAS 64 (1972), 97-176;邦訳

は,聖職者聖省・第五回司教シノドス著,J. P. ラベル編『信仰教育の指針』,中央出版社 昭和 53

年,「カテケーシス一般指針」,15-187 頁。 26 Adhortatio Apostolica, ʺEvangelii Nuntiandi,ʺ AAS 68 (1976), 5-76; 日本カトリック宣教研究所

訳,「エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ―現代世界の福音化について」,日本カトリック宣教研究

所『解説 エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ 福音をのべ伝える』,カトリック中央協議会 1990

年,117-213 頁。

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理教育』(1979 年 10 月 16 日公布)の趣旨とその内容を考察する27。最後に,『新

教会法典』(1983 年 1 月 25 日公布)における要理教育の内容に関する規定を確

認する。これらの公文書には公会議後の要理教育に関する基本的な方針と内容

が示されており,具体的な要理書の作成への動向も見ることができる。そこで

はキリスト教倫理については,どのような考え方が示されているであろうか。

1)『カテケーシス 一般指針』における要理教育の内容

a)『指針』の目的と方針

この『指針』は,公会議の「司教司牧教令」(第 44 項)の要望に応えて教会

の要理教育の基本的な方針を提示するものであるが,その内容は公会議の諸憲

章の教えに基づいていることが明らかである。その序文によれば,この『指針』

の目的は「カテケジスの指針と要理書を準備するのを助けることである。」要理

教育は教会の司牧活動の重要な部分であり,それはキリスト教信仰の本質的要

素の全体的展望を示すものである。その司牧活動の方法がどうであれ,「めざす

目的は,すべてキリスト者が信仰と道徳において進歩し(ad progressum fidei et

morum),かれらが神と隣人との結びつきを強めていくものでなければならな

い。たとえば,成人が成熟した信仰に達すること,キリスト教の教えが科学や

技術の世界にまで浸透すること,家庭がキリスト教的役割を果たしうること,

キリスト信者の存在が社会変革の事実に影響を及ぼすようになること,などを

ねらいとすべきである。」(104 項)このような目標を掲げている要理教育の『指

針』は,第一部「問題の現代性について」(1-9 項),第二部「ことばの役務」(10-35

項),第三部「キリスト教のメッセージ」(36-69 項),第四部「方法論上の諸概

念」(70-76 項),第五部「年齢に沿ったカテケジス」(77-97 項),第六部「こと

ばの役務における司牧活動」(98-134項)と言う豊富な内容を含む文書である。

27 Adhortatio Apostolica, ʺCatechesi Tradendae,ʺ AAS 71 (1979 ), 1277-1340;里脇浅次郎訳,『要理教

育』(再版),カトリック中央協議会 2002 年。

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特に,教会の現代的状況や宗教的な無関心を真摯に受け止め,人類社会の建

設のためにキリスト教信仰を伝達するのみでなく,人々に「再福音宣教」

(re-evangelizatio)「再回心」 (re-conversio)「より深い成熟した信仰教育」

(profundiore ac maturiore in fide educatione)の必要性を訴えている(6 項参

照)。そのために,福音宣教とカテケジスを「宣教活動教令」(第 13-14,21-22

項)の方針に沿って刷新することが必要である。この要理教育の刷新は,こと

ばの役務の刷新全体の中に位置づけられている。

b)ことばの役務と要理教育

ところで,『指針』によれば,ことばの役務とは救いの福音を伝えることであ

り,イエス・キリストを通して啓示された神の愛の秘義を信じ,世界と人間の

生活の真の意義を明らかにすることである(15-16 項)。ことばの役務には,最

初の信仰を目覚めさせて回心をめざす福音宣教があり,続いて要理教育,そし

て典礼と学問的研究としての神学などが含まれている。要理教育は,全般的な

宗教教育の種々の形態や福音宣教に始まる洗礼志願者の信仰への導きなどがあ

るが,児童や青少年,また成人を対象とした信仰教育である。つまり,要理教

育は「成熟した信仰に達するように」導く信仰教育である(17-24 項,38 項参

照)。「全司牧活動の中で,カテケジスは,教会がキリスト教共同体,あるいは

キリスト信者を成熟した信仰へ導く行為である。」(21 項)「カテケジスの役割

は,人間がこの神との交わりを真に実現することを助けること,また人間がキ

リスト教のメッセージに含まれている人間生活の最高の価値を保証する教えを

理解することができるように,そのメッセージを伝えることである。」(23 項)

このような成熟した信仰を持つ人は,聖書や伝承を理解し,典礼や個人的な

祈りの生活を送り,生活の種々の状況においても救いの計画を実現する神の招

きを認め,キリスト教的感覚をもっていろいろな出来事を評価し解釈すること

ができるようになる(25-26 項参照)。また,信仰において成熟すれば,エキュ

メニカルな対話や一致への運動への参加,信教の自由を前提として非キリスト

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者や諸文化との対話の推進,さらに人間社会の改善のためにすべての人との協

力などを積極的に進めることができる(27-30 項参照)。

c)キリストを中心とした要理教育とキリスト者の倫理

この『指針』は,要理教育が救いの歴史における三位一体の神およびキリス

トを中心としたものであるべきこと,またその秘義が人間の存在とその最終目

的と密接なつながりがあることを力説する(39-42 項,50-54 項参照)。さらに,

要理教育は「信経」と信仰の諸真理を要約するものであるが,キリストを中心

とした救いの秘義の歴史的性格をも重視する必要がある(43-44項,47項参照)。

教会の諸秘跡,神の呼びかけに応える人間の自由とキリスト者の自由,人間の

罪なども救いの計画の中に位置づけている(55-62 項参照)。

要理教育はこれらの「信ずべきこと」だけでなく「なすべきこと」も含むべ

きであり,キリスト者の倫理生活が「キリストによる新しい生命と聖霊の導き

の下に生きて成長するもの」であることを確認する。そのキリスト教倫理の独

自性が新しい「愛の掟」と「愛によって働く信仰」と「応答としての責任」に

あることを強調している(63-64 項)。これらの内容は公会議の諸公文書の教え

に基づいていることが明らかである。なお,『指針』は,要理書の出版について

も言及しており,要理書の目的について次のように述べている。

「(要理書は)啓示とキリスト教伝承の教えと同時に,カテケジスの果たさな

ければならない役割,すなわち個人の信仰教育に役立つ基本要素を簡略化さ

れた実際的な方法で紹介することである。したがって伝承の教えに対しては,

当然これを尊重し,個人的な意見やある神学学派の解釈にすぎないものを,

信仰の教義として提示しないように注意深く配慮しなければならない。そし

て,教会の教えを忠実にのべ伝えなければならない。」(119 項)

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また,教皇パウロ六世は 1971 年 9 月 25 日の第一回要理教育国際大会の参加

者に対する演説において,公会議後の教会の働きの中で信仰を深めることまた

福音化のための活動こそが有意義なものであることを確認し,この国際大会の

役割が現代にふさわしい仕方で神の民に福音を伝えるためにも大切であること

を参加者に訴えている28。また,そのなかでは教会共同体の側からの信仰生活

の証しだけでなく,世俗化される現代社会にあっては「信仰の伝達」というこ

とばの役務の重要さも確認している。こうして,教皇は「信仰の伝達」の使命

を果たすことこそが教会の課題であると確信して,その方向性を示されること

になる。

2)『エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ』における福音宣教と要理教育

a)福音宣教と福音化の意味

教皇パウロ六世は聖年の終わりと公会議閉会十周年を記念して,使徒的勧告

『エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ』を公布し,福音を告げ知らせることの意

義を表明された。この『勧告』は,1974 年開催の第三回シノドス(世界代表司

教会議)で討議された福音宣教による現代社会や文化などを「福音化する」

(evanzelizatio)ための任務について提言するものである。その構成は,「序論」

(1-5 項)に続いて,(1)「福音宣教者なるキリストから福音をのべ伝える教会

へ」(6-16 項),(2)「福音化とは何か」(17-24 項),(3)「福音化の内容」

(25-39項),(4)「福音化の方法」(40-48項),(5)「福音化の対象」(49-58項),

(6)「福音化の働き手」(59-73 項),(7)「福音化の精神」(74-80 項),そして

「結論」(81-82 項)から成っている29。この『勧告』では,改めて福音宣教とく

に「福音化」の用語を繰り返しながら,その意味を確認し,また再解釈してい

る。

28 ʺIl primo Congresso Catechistico Internazionale,ʺ AAS 63(1971),758-764. 29 構成については,原文には各章のテーマ名称は付されていないが,本稿では日本カトリック宣教研

究所の『解説』(註 22)に従う。なお,各章の解説は同書(10-116 頁)参照。

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第二バチカン公会議の精神の息吹を受けて活性化した教会は,自らの存在意

義が本来的に宣教活動にあることを再認識したが,教皇パウロ六世は改めて「福

音宣教」すなわち「福音を宣べ伝えること」(nuntiare evangelium)の意義を

イエス自身が神の国の福音を告げ知らせたという原点まで遡って力説している。

教会は福音を伝える任務を引き継ぐものであり,世界に派遣された教会も福音

化されるとともに,福音の奉仕者となるのである(15-16 項参照)。そこで,「福

音化とは,キリストを知らない人々に教え,説教し,信仰教育(catechesis)を

し,洗礼その他の秘跡を授けること」と定義されていたが,公会議の『教会憲

章』と『現代世界憲章』また『宣教活動教令』の基本的な考え方によれば,そ

の定義は不十分である(17 項)。その考えによれば,福音化は確かに洗礼を受

け,福音に従った生き方による内的に変化した「新しい人間性」(nova hu-

manitas)を生み出すことである。したがって,福音化の目的は福音を伝達し

て回心を呼び起こすだけでなく,福音の力によって各自の良心または集団的な

良心,それぞれが従事している活動,社会生活,そして具体的な環境までをも

変えようと努めることにある。そのために,福音化は自分自身の在り方から,

人間同士の関係,そして神との関係にまで至る多様性に富んだものであり,人

類の諸文化を福音化することまでをも含むものである(18,20 項参照)。そこ

で,イエスの福音を「宣言すること」(nuntiatio)は,「ケリグマ」(kerygma)

と説教(praedicatio)また「カテケージス」(catechesis)を含むものであるが,

それらは福音化の一部にしかすぎない。

b)福音化の使命における要理教育

福音化はまずイエス・キリストによって啓示された神を証し,イエスにおけ

る救いを宣言し,教会を建設し,秘跡的な生活を送ることである(26-28 項参

照)。しかし,福音化は福音と具体的な人間の個人的・社会的な生活との相互関

係が考慮されなければ,不完全なままであるとして,次の重要な確認をしてい

る。「それがために,福音化は,人間各自の人格の権利と義務,それなしには個々

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の人の成長がほとんどありえぬ家庭生活,社会における共同生活,国際関係を

生きること,平和,正義および開発についての生活のさまざまの状況にあては

められ絶えず現実的なものとされている明らかなメッセージを含むのです。」(29

項)それに続いて,人間の発展と解放(30-38 項参照),基本的な諸権利や宗教

の自由(39 項)にも言及しているが,これらの福音化の内容こそキリスト教倫

理の課題である。このような福音化を進めるために,その方法として生活によ

る証し,説教と典礼,そして「要理教育」(catechetica institutio)の重要性を

説いている。この教育のために,「司教の権限のもとで,聡明かつ学識をもって

作成された適当な書物」も有益である。要理教育は子供の教育だけでなく,と

くに多くの青年や大人の求道者の教育にも求められるのである(44 項)。

3)『要理教育』における要理教育の刷新

a)要理教育の重要性

1977 年開催の第四回シノドス(世界代表司教会議)において,要理教育は教

会全体の責任であるとの自覚から,とくに青少年の教育を課題としながらも,

現代人への宣教使命のために要理書の改定の必要性が確認された。こうして,

1979 年に教皇ヨハネ・パウロ二世による使徒的指針『要理教育』(Catechesi

Tradendae)が公布された。この『指針』は,先述のような公会議後の一連の

動向を踏まえて,要理教育の刷新を目指すものである。その構成は,「序文」(1-4

項),(1)「唯一の教師イエス・キリスト」(5-9 項),(2)「教会同様に古い経

験」(10-17 項),(3)「教会の司牧的かつ宣教活動における要理教育」(18-25

項),(4)「源泉からくみ取られた全福音」(26-34項),(5)「要理教育の必要」

(35-45項),(6)「要理教育の幾つかの方法と手段」(46-50項),(7)「要理教

育の方法」(51-55 項),(8)「困難な世界における信仰の喜び」(56-61 項),

(9)「すべての信者の任務」(62-71 項),「結び」(72-73 項)から成っている。

この『指針』によれば,要理教育は司教の特別の任務ではあるが,教会のすべ

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ての構成員の任務であることを力説し,初代教会から継続されてきたこの教育

の重要性を次のように要約している。

① 要理教育はつねに教会の神聖な義務であり,放棄できない権利である。

それは主の命令による務めであり,またすべての受洗者は真のキリスト

教的生活を学ぶ権利があり,宗教の自由の権利でもある(14 項)。

② 教会の司牧活動においても要理教育は優先されるべきである。「要理教

育は,信者の共同体としての自分の内的生活と宣教の共同体としての外

的活動とを強化する手段である。」(15 項)

③ 要理教育はつねに全教会が責任をもって行うべき任務である。教会の成

員は,それぞれにその任務を果たすが,今やその共同責任をより強く意

識することである(16 項)。

④ 要理教育は,その概念,方法,適切な用語,伝達手段などに関して不断

の刷新が必要である。今や要理教育の新しい道と方法を研究し,実施す

ることである(17 項)。

このような要理教育は福音宣教と分離されてはならないことを『カテケーシ

スの一般指針』や『エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ』に沿って確認してい

る(18-20 項参照)。

b)要理教育の内容

この『指針』は,要理教育の体系的な教育(21-22 項),秘跡と関連しての洗

礼志願者の教育(23 項),また信仰共同体には自分の成員を教育する責任と学

んだことに従って生活できる環境に受け入れる責任を自覚させている(24項)。

その要理教育は初歩的なケリグマと切り離すことはできないものであり,「キリ

スト信者の信仰の成熟のためにも,また世界における彼らのあかしのためにも

必要である。」(25 項)。

先述のように,要理教育は福音宣教の一つの側面ではなるが,救いの福音を

反省的にまた体系的に学び,生活に反映させるものであり,教会と世界におけ

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るキリスト教生活によって深められるものである。その内容は聖書と伝承に基

づく,「信条」の伝達,「主の祈り」の伝達,キリストの諸秘跡,キリストにお

ける新しい生命とこの世界における生活との関係などを含む。さらに,要理教

育において重要なものとして,「福音に合った個人的な道徳の要請と,生活と世

界におけるキリスト教的態度」を挙げて,「キリスト教的徳あるいは福音的徳」,

また教会の社会教説に含まれている「社会問題関係の豊富な遺産を信者の教育

に適当に使用するように」要望している(29 項)。なお,『指針』は要理書の作

成について全世界の司教協議会に要請して,次のように述べている。「それ(優

れた要理書)は,啓示の主要なことがらを含み,現代の必要に沿った方法を取り

入れ,新しい世代のキリスト信者の強固な信仰を教育することができるように

準備されなければなりません。」(50 項)また,要理教育は真のキリスト教的倫

理の教えも含むものであり(52 項),諸文化との接触と対話による「インカル

チュレーション」の課題にも直面するのである(53 項)。

4)『新教会法典』における教理教育の規定

第二バチカン公会議の開催と共に,1959 年に教皇ヨハネ二十三世はすでに旧

教会法典を改正する意向を表明していた。新しい教会法典はその公会議の新し

い精神とその教えを受け入れて,長い間の改正作業を経て編纂され,教会の行

動規範が示された。こうして,1983 年 1 月 25 日付けで公布された『新教会法

典』によれば30,司教の固有の重要な任務は,キリスト教の人々を「教理教育」

(catechesis)によってその魂の世話をすることであるとし,その「教説の教育

とキリスト教的な生活体験によって」(per doctrinae institutionem et vitae

30 Codex Iuris Canonici,日本カトリック司教協議会教会行政法制委員会訳,『カトリック新教会法典』

(羅和対訳),有斐閣 1992 年。なお,この法典においても ʺcatechesisʺ を「信仰教育」,̋ catechetica

institutioʺ と ʺdoctrinae institutioʺ とを「信仰教育」と「教理教育」,また ʺcatechetica efformatioʺ

を「信仰の育成」などと訳しているので,その意味合いとその区別はあいまいである(第 773-776

条参照)。

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christianae experientiam)信者の信仰を生かして,それを表明し,実践できる

ようにすることである(第 773 条)。この条文では,「キリスト教の人々の魂」

(anima populi christiani)と「信者の信仰」(fides fidelium)とは区別されてお

り,前者の「魂の世話」(cura animarum)のためには「教理教育」を,後者の

信仰育成と実践のためには「教説の教育」を示しているように思われる。すな

わちそこには信仰への入門教育という初期教育と信仰の実践に向けての生涯教

育とが含まれている。したがって,次の条文によれば,「教理教育の配慮」

(sollicitudo catechesis)については,教会権威者の指導の下になされる教会の

全構成員の任務である(第 774 条の 1)。なお,自分の子供の信仰育成は両親の

義務であり,彼らはことばと模範によってキリスト教信仰と生活を育成するの

である(第 774 条の 2)。

また,使徒座の規定を順守しながら,教区司教は「教理教育のことに関する

規定」(norma de re catechetica)や教理教育書の作成,その教育のための手段

の利用,その企画や調整を図るという任務を負っている(第 775 条の 1;また

第 386 条参照)。さらに,使徒座の許可を得て,自分の司牧地域のために教理書

を発行することは司教協議会の責務である(第 775 条の 2)。主任司祭は「成人,

青年及び児童の「教理教育による育成」(catechetica efformatio)のために配慮

すること,また家庭における両親による教理教育を推進し,それを養うことを

任務とする(第 776-777条;また第 528条参照)。このような「教理教育」(istitutio

catechetica)は,カトリックの教えをよりよく理解し,それを適切に実践でき

るように,信者の性質,能力,年齢や生活状況に応じて効果的な手段を考案し

なければならない(第 779 条;また第 761 条,第 851 条参照)。

IV.日本における要理教育の実践

ここまで,第二バチカン公会議とその後の要理教育の刷新の動向を概観して

きたが,公会議後には日本のカトリック教会では要理教育はどのように実践さ

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れてきたのであろうか。公会議の教えがどのように信徒に伝達されたのかも一

つの問題点ではあるが,先述のように公会議とその後も要理教育の大切さが提

唱されているから,信徒数の少ない日本ではその実践がどうであったかを振り

返っておくのも意義があると思われる。たとえ要理書がなくとも,それぞれの

司祭や教育者が信仰を伝達するさまざまな努力をしていることは言うまでもな

い。ただ本稿では,日本で出版された信仰入門や教理または要理に関する書籍

を通して,その足跡を確認しておきたい。先ず,外国語からの翻訳書に触れて,

次に,個人による日本語の書籍のいくつかを概観し,最後に委員会などの共同

作業によるものを検討することにしよう。

1)翻訳による信仰入門書および要理書

公会議後にはどこの国の教会においても,もう一度自分たちのキリスト教信

仰をどのように考え,それを伝達するかは共通の課題であったようにも思われ

る。それまでのトリエント公会議後の問答式の『カトリック要理』によって信

仰を学び,あまり聖書を読むことの少なかったカトリック教会の事情を考える

と,公会議による典礼改革を初めとする種々の刷新の動向は,信徒のみならず

司祭職にある者にとっても神学者にとってもある種の戸惑いを禁じえなかった

であろう。このような事情を勘案すると,新しい信仰入門書が試みられたのも

頷ける。

J. ラッチンガー(現教理省長官・枢機卿)の『キリスト教入門』は 1967 年

にチュービンゲン大学で行った講義によるものであるが,「使徒信経」の内容を

神,イエス・キリスト,聖霊と教会の順序で解説したものである31。それはキ

リスト教信仰の神学的理解を深めるためには有益であるが,その素地の薄い日

本の教会では難解なように思われる。また,W. カスパーの『現代のカトリッ

31 Joseph Ratzinger, Einführung in das Christentum, Kösel-Verlag GmbH & Co., 1970; 小林珍雄訳,

『キリスト教入門』,エンデルレ書店 1973 年。

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ク信仰』は 1970 年にミュンスター大学神学部および 1971 年のチュービンゲン

大学神学部での組織神学講義を基礎にしている32。その内容は信仰行為そのも

のを根本的に問い直すものであり,著者自身の言葉によれば,キリスト教信仰

が現代の思考の前に責任をもって答え,今日の神学が信仰の未来を開きうるも

のであることを示そうとする試みである。それは神学的な思考を学ぶ者には優

れた入門書であり,難解ではあるが信仰理解を深めたいと思う者は多くの示唆

を得るであろう。

また,要理書としては,トリエント公会議の『ローマ公教要理・秘跡の部』

も出版されている33。そのような問答形式で教理を暗記するものではなく,公

会議で刷新された教えを伝えるために最初に出版されたのは,オランダ司教団

による『新カトリック教理―成人への信仰のメッセージ』であった34。それは

不変の信仰を現代にふさわしい方法で成人に伝達するための試みであり,現代

的な問題をキリストの教えである福音の光で照らして解決の道が見出せるよう

にという意向をもっている。この教理書は,日本語版で当時の白柳大司教の認

可声明にもあるように,教皇パウロ六世による枢機卿特別委員会でも検討され,

幾つかの訂正箇所を含んだものである。その構成は,(1)存在の神秘,(2)

キリストへの道,(3)人の子,(4)キリストの道,(5)終わりに至るまでの

道,の五部から成っており,最後に「付録」として訂正箇所が編集されている。

この大部の要理書は信徒のために書かれたものであり,使用方法までも記して

いる。これは公会議の教えを盛り込んだ書物であり,オランダの教会の信徒だ

けでなく,種族や文化の異なるカトリック教会全体に向けての呼びかけでもあ

り,多くの国の教会に一つの刺激を与えるものであった。 32 Walter Kasper, Einführung in den Glauben, Mainz 1972;犬飼政一訳,『現代のカトリック信仰』,南

窓社 1974 年。 33 Catechismus, ex decreto ss. concilii Tridentini ad parochos, Pii V pont. max. jussu editus (Catechismus

Romanus), 1566;岩村清太訳,『ローマ公教要理・秘跡の部』,財団法人・精道教育促進協会,1973

年。

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次に,公会議の教えと先述の聖職者聖省による「カテケーシスの一般指針」

に基づいて編纂されたのが,北アメリカの神学者たちによる『キリストの教え

―成人のためのカトリック要理』である35。これはカトリック教会の教義の包

括的な要約であるが,多くの神学者が度重なる会議で検討しながら編纂された

ものであり,成人向けの要理書として「序文」では要理の意味についても解説

している。たとえば,「要理はもともと,すでにキリストに対する信仰を見出し,

教会におけるキリストの現存を認めた人々に話しかけられる。けれどもまた,

信仰の弱い人,あるいはまったく無信仰の人にも話しかけられる。そのような

人々に対しては,要理は信仰へ導く道について話さなければならない。」36 こ

の要理書の構成は,(1)信仰への招き,(2)キリストを通して,(3)キリス

トと共に,(4)キリストにおいて,の四部から成っている。それはキリストと

教会の教えを中心とする短い信仰への招きに続いて,第二部の「キリストを通

して」の教義と第三部の「キリストと共に」のキリスト教倫理,典礼と秘跡,

そして祈りとが大部を占めており,第四部では死と終末の出来事について述べ

ている。この要理書では信仰と倫理および典礼などの一体化が顕著である。キ

リスト教倫理については第三部で多くのテーマが取り上げられており(第二部

にも散見される),その内容も公会議の諸文書からの多くの引用を含んでいる。

34 De Nieuwe Katechismus, Utrecht 1966;J. ヴァン・ブラッセル,山崎寿賀共訳,『新カトリック教理

―成人への信仰のメッセージ』,エンデルレ書店 1971 年。 35 Ronald Lawler, Donald W. Wuerl, Thomas Comerford Lawler (eds.), The Teaching of Christ – a

catholic cathechism for adults, Huntington, Indiana 1977;ロナルド・ローラー,ドナルド・W・ウァー

ル,トーマス・C・ローラー他著,後藤平,清水百合枝,鈴木実,高橋勝訳,『キリストの教え―成

人のためのカトリック要理』,中央出版社 1980 年。

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2)日本語による信仰入門書及び解説書

上述のような翻訳書のみならず,公会議後にはキリスト教信仰を日本人に伝

達するために多くの著作が出版されてきた。ここでは信仰入門に関するもの,

また信仰内容を解説するものに限定して身近にあるものから幾つか紹介してお

こう。

先ず,キリスト教入門講座を通して信仰を求めている一般の日本人に向けて

書かれたものとして,H.エルリンハーゲンの『キリスト教入門講座』を挙げて

おきたい37。この書は社会状況の変化や科学の進歩を踏まえて,またプロテス

タントとカトリックとの合同運動をも視野に入れたものであり,キリスト教の

信仰説明に努めている。その構成は,(1)神の理解,(2)イエス・キリスト,

(3)教会の意義,(4)人間の本質と神との出会い,から成っており,哲学的

な思考や現代科学の考え方をも含んでいる。それはキリスト者以外の人々に向

けてのキリスト教信仰と思想に関する優れた解説書であり,倫理に関する基本

的な見方を根底に据えている。次に,公会議後のカトリック思想を総合的に紹

介し,カトリック自らの理解に努めるとともにそれを現代社会に提示するもの

として,稲垣良典の『現代カトリシズムの思想』が出版された38。この著作は,

(1)現代思想としてのカトリシズム,(2)カトリシズムと現代世界,(3)ニ

ヒリズムと希望,(4)人格共同体と社会正義,(5)カトリシズムと現代科学,

から成っている。この書は信仰入門または要理書ではないが,キリスト教の哲

学及び神学の基本的思想を提示するとともに他の現代社会の思想との対話の姿

勢を示している。その内容には公会議の『現代世界憲章』で説かれている人間

人格とその共同体,社会正義などのキリスト教倫理のテーマも解説されている。

また,石本正昭はキリスト教神学の内容をどのように各地域の文化の中で理解

36 邦訳同書,9 頁。 37 H. エルリンハーゲン,『キリスト教信仰入門』,ソフィア・ユニバーシティ・プレス 1970 年。 38 稲垣良典,『現代のカトリシズムの思想』,岩波新書 1971 年。

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すべきかを問う自らの研究成果をまとめて,『信仰の理解を求めて』を世に出し

た39。この著作は,その書名のように,三位一体,キリスト,信仰の教会,創

造,罪・救い・十字架についての信仰内容の理解を探るものであるが,一般向

けではないように思われる。

これらの著作はキリスト教の信仰や思想を日本社会に向けて紹介しまた問い

かけるものであるが,次に求道者や信徒に向けてキリスト教やカトリック信仰

を伝えるものを見てみよう。先ず,著名な神学者である P. ネメシェギはキリス

ト教の根本思想を解説する『神より神へ』を初めとして,『キリスト教とは何か』

に続いて,長崎要理研究所編の『要理教師の友』誌に七年間連載したものをま

とめて『キリスト教入門―神の恵みの福音』を出版した40。また,東京イグナ

チオ教会でのキリスト教案内講座を『愛といのち』,『愛と恵み』,『愛と平和』,

『神の言葉と秘跡』,『愛とゆるし』,『愛と永遠』と題して継続的に出版している

41。これらの一連の著作は,キリスト教入門の案内講座という性格からしても,

繰り返しキリスト教の信仰教義をやさしく解き明かすものであり,同じような

内容を展開している。その一部には倫理の内容も含まれているが,それほど多

くはない。次に,森一弘(現補佐司教)は中学・高校生向けに『教えの手帳』

誌に連載したものを『愛とゆるしと祈りと―新しいキリスト教入門』として出

版し,さらにそれを前提として『続・愛とゆるしと祈りと―新しいカトリック

入門』を出版している42。最初の著作はキリスト教の内容を一般の人々にでき

るだけわかりやすく解説するものであり,第二の著作はカトリック教会の教え

と秘跡についての案内書である。

39 石本正昭,『信仰の理解を求めて』,光明社 1972 年。 40 ペトロ・ネメシェギ,『神より神へ』,女子パウロ会 1968 年;『キリスト教とは何か』,女子パウ

ロ会 1977 年;『キリスト教入門』,南窓社 1980 年。 41 ペトロ・ネメシェギ,キリスト教信仰案内講座(1)『愛といのち』,聖母の騎士社 1987 年;(2)

『愛と恵み』,1988 年;(3)『愛と平和』,1990 年;(4)『神の言葉と秘跡』,1991 年;(5)『愛と

ゆるし』,1992 年;(6)『愛と永遠』,1993 年。 42 森一弘,『愛とゆるしと祈り―新しいキリスト教入門』,中央出版社 1980 年;『続・愛とゆるしと

祈りと―新しいカトリック入門』,中央出版社 1983 年。

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さらに,井上博嗣は司牧経験を生かしながら,はじめてキリスト教の信仰に

触れる人々を対象とした『新しいキリスト教入門』を出版し,人間として生き

る道案内を示している43。彼によれば,カトリック信仰とは,キリストを通し

て私たちに語りかけてくださった神に向かって心を開き,自由に神の言葉を受

け入れて,自分のすべてを神に委ねて生きることである。そこでは人間の信仰

が神に応答する責任行為として示されている。また,犬飼政一は現代の宣教を

考えるとき,一人一人の信者が自らの信仰を捉え直す必要があるという自覚を

もって『現代のキリスト教信仰―カトリック教会の信仰と実践』を出版した44。

この小著にも実践の面からキリスト教倫理に関する内容もあるが,まだ不十分

である。最後に,百瀬文晃も東京イグナチオ教会でのカトリック要理解説講座

をテープ起しして,『キリストを知るために―カトリック要理解説』と『キリス

トとその教会―カトリック要理解説』を出版している45。最初の書物はキリス

トを中心とした福音とカトリック教会の教えを解説するものであり,第二の書

物はそれを基礎として世界に派遣された教会とキリスト者の生活を取り扱って

いる。これらの要理解説は,著者の意図でも示されているように,イエス・キ

リストの福音を中心としてキリスト教信仰の本質的な事柄,核心となる内容を

示し,キリストとの出会いによる新しい生き方をできるように案内するもので

ある。教会の教義も慣習も,教会の歴史の中で時代の考え方や生活の仕方に影

響を及ぼすとはいえ,時代と民族などによって変わるものでもあるから,福音

の原点に立ち戻って考える必要があると指摘している。

43 井上博嗣,『新しいキリスト教入門』,中央出版社 1983 年。 44 犬飼政一,『現代のキリスト教信仰―カトリック教会の信仰と実践』,あかし書房 1983 年。 45 百瀬文晃,『キリストを知るために―カトリック要理解説』,中央出版社 1985 年;『キリストとそ

の教会―カトリック要理解説』,中央出版社 1988 年。

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3)委員会等による要理書

以上のような哲学者,神学者,また司牧者などの個人による信仰入門書や要

理解説書とは別に,日本の教会でも公会議後には委員会等による要理書も出版

された。

先ず,トリエント公会議後の問答形式の「カトリック要理」に第二バチカン

公会議の公文書の教えを関連箇所に付け加えて,その改訂版が発行された46。

これはまさに時代の推移を示す転換期の産物である。しかし,東京教区では信

仰への新しい手引書を作成するために委員会を設置し,『キリストの教え・入門』

を出版した47。これはイエスの福音を中心として新約聖書の言葉を引用したも

のであり,あまりにも簡略なものであるが,これが最初の試作品である。

次に,教理司教委員会は要理編纂専門委員会を設置し,キリストの救いの歴

史と教えを簡潔にまとめた『カトリック入門』を出版した48。この入門書は新

約聖書の多くの参照箇所を指示しつつ主要なカトリックの教義を提示している

が,参照すべき公会議の教えを見出すことは困難である。また,キリスト教倫

理に関しては,「17 現代に生きるキリスト者」にわずかな内容があるだけであ

る。また,鹿児島教区では司祭評議会によってカトリック信仰を要約した『カ

トリックの信仰』を出版した49。この書は,イエズス・キリスト,イエズスの

教えとわざ,イエズスの復活,教会―キリスト者の共同体,秘跡,完成の日に

向かって,から成る小著である。

46 カトリック中央協議会,『カトリック要理・改訂版』,中央出版社 1972 年。なお,トリエント公

会議の『公教要理』の解説書として,第一部の「信ずべき事柄」については岩下壮一,『カトリッ

クの信仰』,講談社学術文庫 1994 年,また第二部「守るべき事柄」については野田時助,『カトリッ

クの信仰―倫理編』,中央出版社 1956 年を参照。 47 カトリック東京教区・「キリストの教え」編集委員会,『キリストの教え・入門』,カトリック東京

教区出版部 1968 年。 48 要理編纂専門委員会編,教理司教委員会監修,『カトリック入門』,中央出版社 1971 年。 49 鹿児島教区司祭評議会編,『カトリックの信仰』,あかし書房 1981 年。

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これらの委員会等からの要理書はいずれも簡略なものであり,信仰の教義や

秘跡を中心に紹介しているが,現代世界に現存する教会としての社会生活や倫

理に関する教えは非常に乏しいと言わざるを得ない。先に紹介した個人による

信仰入門や要理解説書なども教義を中心とするものであり,信仰に基づくキリ

スト教倫理についてはあまり言及されていない。

なお,日本の司教団は第二バチカン公会議の精神と教会刷新についてまだ日

本の教会では十分に理解されていないことを自覚するとともに,また教皇パウ

ロ六世の福音宣教の推進の意向や教皇ヨハネ・パウロ二世の来日メッセージな

どにも啓蒙されて,1984 年に『日本の教会の基本方針と優先課題』を発表した。

それは教会の構成員が一丸となって宣教者としての使命を喜んで果たし,社会

の福音化に努めることを呼びかけたものであった。さらに,その実現のために

1987年11月20日~23日に京都において第一回福音宣教推進全国会議(National

Incentive Convention for Evangelization = NICE)を開催した。これは「開かれ

た教会をめざして」を課題とする日本のカトリック教会全体の運動であった。

それに続いて,1993 年 10 月 21 日~24 日に長崎において第二回福音宣教推進

全国会議が開催されたが,それは「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る―

神のみ旨に基づく家庭を育てるために―」を課題とした。さまざまな問題や苦

しみを抱えている家庭に対してキリストが与える力と希望を探り,日本の教会

がキリストの期待に応える信仰共同体として変革する道を見出そうとする試み

であった。これらの二回にわたる全国会議がどのような成果をもたらしたかを

ここで検証することはできないが,公会議後の日本の教会における新しい福音

宣教への目覚めとして特筆しておくべきであろう50。また,西暦 2000 年の聖年

50 これらの会議の詳細については,第1回福音宣教推進全国会議事務局編,『開かれた教会をめざし

て―第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1 ʹ87)公式記録―』,カトリック中央協議会 1988 年お

よび第 2 回福音宣教推進全国会議事務局編,『家庭の現実から福音宣教のあり方を探る―第 2 回福

音宣教推進全国会議(NICE-2)公式記録集』,カトリック中央協議会 1994 年。

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を迎えるにあたって,司教団は信者のみならず日本のすべての人に向けていの

ちと人生についてのメッセージを発表したことも銘記しておこう51。

V.『カトリック教会のカテキズム』と『カトリック教会の教え』

これまで述べてきたように,公会議後にはその精神を汲んで全世界の教会に

おいても,また日本の教会においても,現代の人々に新たな仕方でキリスト教

の信仰を伝えるための絶えざる努力がなされてきた。そのような努力の成果が

どのようなものであったか,またそれをどのように評価するかは容易ではない

であろう。しかし,個々人の努力や地方教会の試みだけではなく,教会全体と

しても公会議の精神を汲み込んだ共通の要理書の必要性も叫ばれるようになっ

た。こうして,公会議開催 30 周年を記念して『カトリック教会のカテキズム』

が作成された。これは全世界の教会にとって規範版であり,日本の司教団もそ

の翻訳版を出版するとともに,日本の教会のための独自の要理書である『カト

リック教会の教え』を連続出版した。ここでは,この二つの要理書の内容とそ

の関係について紹介しておきたい。

1)『カトリック教会のカテキズム』

この『カテキズム』は,教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒憲章「ゆだねられた

信仰の遺産」からも明らかなように52,1985 年 1 月 15 日に公会議閉会 20 周年

を記念して開催された臨時シノドスにおいて,司教たちによって要望されてい

たものである。それは,「それぞれの国で作成されるカテキズムまたは概説書の

51 日本カトリック司教団,『いのちへのまなざし―二十一世紀への司教団メッセージ』,カトリック中

央協議会 2001 年。 52 Catechismus Catholica Ecclesiae, Libreria Editrice Vaticana, Citta del Vaticano, 1997, 1-6;邦訳は,『カ

トリック教会のカテキズム』,1~6 頁。

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参考書として,信仰および道徳に関するカトリック教理を網羅するカテキズム

または概説書」であり,公会議によって着手された各種の刷新事業の一つの重

要な実りである。その作成作業は,1986 年からヨセフ・ラッツィンガー枢機卿

を座長とする12名の枢機卿と司教からなる委員会とその下に設置された編纂委

員会を中心に進められた。七年間の編纂作業を経て,公会議開催 30 周年を記念

して 1992 年 6 月 25 日に認可されたフランス語版の『カテキズム』が公布され

た53。しかし,その後,ラテン語の規範版を完成させる作業が開始され,各国

の種々のグループから寄せられた修正案を検討して,1997 年 8 月 15 日付の教

皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「大きな喜びをもって」によりラテン語規

範版が認証され公布された。

この『カテキズム』の内容は,トリエント公会議の要理書に倣って,「信条」

(Credo),「聖なる典礼」( sacra Liturgia),「キリスト教の行動原理」

(christiana agendi ratio),そして「キリスト教の祈り」(christiana oratio)の 四

編から成っている。これはカトリック教会の信仰と教理の解説書であるが,信

仰の泉,キリスト者の行動の規範,祈りの師であるイエス・キリストを中心と

する内容と構成に成っている。「序論」では,福音を告げ知らせ,信仰を伝達す

る「要理教育」(catechesis)が児童,青年,大人の「信仰教育」(educatio in fide)

であることを主にヨハネ・パウロ二世の使徒的指針『要理教育』に基づいて解

説している。先述した四編の題名は,「信仰宣言」(Professio Fidei),「キリス

ト教の神秘を祝う」(Mysterii Christiani Celebratio),「キリストと一致して生

きる」(Vita in Christo),「キリスト教の祈り」(Oratio Christiana)と成ってい

53 同時にイタリア語版も出版された。Catechismo Della Chiesa Cattolica, Libreria Editrice Vaticana,

1992 ;なお,ドミニコ会の研究所からはこの『カテキズム』の教えを要約した問答形式の書物が

出版された。Sintesi Del Nuovo Catechismo. Domande e Risposte, PDUL Edizioni Studio Domenicano/

Bologna 1993;ドミニコ会研究所編,本田善一郎訳,『カトリックの教え―新カテキズムのまとめ』,

ドン・ボスコ社 1994 年。また,英語版は,Catechism of The Catholic Church, Geoffrey Chapman/

London 1994 とその参照箇所と引用テキストをまとめて編集したものとして,The Companion to the

Catechism of the Catholic Church. A Compendium of Texts refered to in the Catechism of the Catholic Church,

Ignatius Press/ San Francisco, 1994.

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る。しかし,「序論」の構造解説では,「洗礼のときの信仰宣言(信条)」

(baptismalis scilicet Professio fidei ʺSymbolumʺ),「信仰の諸秘跡」(fidei

sacramenta),「信仰に基づく生活(おきて)」(vita secundum fidem ʺMan-

dataʺ),「信じる者の祈り(credentis oratio ʺPater nosterʺ)を四つの基本的支柱

とすることが示されており,「信仰」の用語で統一されている。すなわち,「信

仰の告白」(professio fidei),「信仰の秘跡」(fidei sacramenta),「信仰に基づ

く生活」(vita ex fide),「信仰生活における祈り」(oratio in vita ex fide)であ

る。

キリスト教倫理に関して考えると,「信仰に基づく生活」ということと,第三

編の題名の直訳「キリストにおける生活」および「信仰による生活,すなわち

おきて」とされている。その内容に関しては,「神の姿にかたどって造られた人

間の究極目的である至福を示し,また,それに至る道,神のおきてと恵みに助

けられた,正しく,自由な行動(第1部),すなわち神の十戒によって展開され

た二重の愛のおきての実践(第2部)を説明する。」(16 項)と述べられている。

その第一部「人間の召命,霊における生活」は,(1)人間の尊厳(神の似姿で

ある人間,至福への召命,人間の自由,人間行為の倫理性,情熱の倫理性,倫

理的良心,徳,罪),(2)人間共同体(個人と社会,社会生活への参加,社会

正義),(3)神の救い=法と恵み(道徳法,恵みと義化,母であり養育者であ

る教会)という内容を含んでいる。そして,第二部「神の十戒」は,(1)「心

を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい」

(第一~第三のおきて),(2)「隣人を自分のように愛しなさい」(第四~第十の

おきて)としてキリスト者の生活と倫理の内容が分類されている。しかし,そ

れらの内容は,第一部の内容とも重複するものもあり,また十戒によって現代

の倫理の諸問題を分類し整理することには無理があるばかりか,十戒に合わせ

た各項目の内容にもアンバランスが生じてくる。このような分類の手法は伝統

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的な倫理神学の教科書の一つの分類法に従ったものではあるが,第二バチカン

公会議前後から始まった倫理神学の刷新の動向を考慮してもよかったのではな

いかと惜しまれるところである。しかし,キリスト教倫理の内容は主に公会議

の『現代世界憲章』や伝統的な教父たちの教えを踏まえており,信仰の教義と

倫理との関係もずいぶん緊密になっている。すべてのキリスト者が聖性への招

きを受けていることや人間の尊厳性なども力説されている54。

2)『カトリック教会の教え』

a)新要理書編纂特別委員会と編集方針

教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒憲章によれば,『カトリック教会のカテキズム』

は,「多様な状況と文化を考慮しながら,信仰の一性とカトリック教理への忠実

さを入念に守る新しい地域カテキズムの作成を奨励し,助けるためのものであ

る。」55 このような意向を汲んで,日本人執筆者による日本の教会のための新

しい要理書『カトリック教会の教え』は,日本司教団公認のものとしては,1936

年発行の『公教要理』以来,67 年ぶりの出版物であるという56。この新しい要

理書の編纂までの経緯を簡略に記しておこう。1996 年 4 月の宣教司牧司教委員

会は,『カトリック教会のカテキズム』に基づく日本の教会のための新しい要理

書の作業開始の必要性を確認し,検討の結果,その任務は教理委員会の担当で

はないかという結論に達した。同年 6 月の定例司教総会でこの案件を審議し,

新たに「新要理編纂特別委員会」の設置と編集方針案を基本的に承認した57。

委員会での検討結果,第一部を岩島忠彦,第二部を岡田武夫司教(現東京大司

教),第三部を浜口吉隆,第四部を池長潤大司教が担当することになった。1996

54 Livio Melina, (tr. by Wiliam E. May), Sharing in Christ’s Virtues. For a Renewal of Moral Theology in

Light of Veritatis Splendor, The Catholic University of America Press/ Washington, 2001, pp. 165-177. 55 邦訳『カトリック教会のカテキズム』,5-6 頁。 56 「カトリック新聞」第 3710 号(2003 年 4 月 5 日)。 57 「新要理書編纂特別委員会」の構成は,糸永真一教理委員会委員長,深堀敏司教,岡田武夫司教で

ある。

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年 9 月 26 日の第二回新要理書編纂特別委員会で提示された『カトリック教会の

教え』(仮称)の編集方針案は,次の通りである。

① 『カトリック教会のカテキズム』に準拠しつつ,日本人の伝統的(専門的

用語は用いず,分かりやすい表現を用いる)かつ現代的特性を考慮して編

集する。

② 対象は成人信者一般,文体は中学校卒業者にも理解できるレベルとする。

③ 問答式ではないが,定義調のすっきりした文体のものとする。

④ 『カトリック教会のカテキズム』の内容を五分の一程度にまとめる。でき

れば,従来の『カトリック要理』くらいの大きさ,頁数をめざす。

⑤ 大聖年を準備する日本の教会の事業の一つと考え,可能であれば,1997 年

度中の発行をめざす。

⑥ 神学的なコンペディウムではなく,教会の教えを明確・簡潔に提示し,日

常生活を活性化させる源泉となるようなものにする。

⑦ 『カトリック教会のカテキズム』の「要約」の部分は,そのままの形では

入れない。

⑧ 本文の他に,教会公文書,教父のことば,司教団をはじめとする日本カト

リック司教協議会の諸委員会等が発表した文書,日本の聖人や宣教師たち

のことばの引用などの補足文を細字で入れる。

⑨ 聖書の引用は本文の中で行う。

これらの方針案について意見交換するとともに,各部の執筆については各担

当者が責任者となるが,執筆責任者がその責任のもとに他の人に執筆協力を仰

ぐことは自由であることが確認された。その後,各編の執筆進捗状況に従って

16 回にわたる編纂特別委員会を開催したが,第 4 回同委員会(1997 年 5 月 20

日)においてもう一度「編集方針見直し案」を検討した58。その「見直し案」

58 その後の委員会では分量が多くなるにつれて,分冊にするか,要約版を作成するかなども議論され

るが,倫理に関しては日本の要理書関係の書物には希薄であったためにあまり削減するような指示

はなかった。

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では,新要理書の対象と目的,性格,メインテーマ,構成などについて再考さ

れた。対象と目的については,「受洗後のカトリック信者を主たる対象とするが,

現代日本人にカトリック教会の教えを伝える者,成人洗礼を受けた者,幼児洗

礼を受けた者が第二バチカン公会議の教えによって自分たちの信仰を学び直す

と同時に,未信者にもそれを伝達するための手ごろなテキスト。幼児洗礼者の

堅信の秘跡の準備テキストとして使用可能なもの」であることが確認された。

また,性格については,「現代教会の教えを有機的かつ総合的に示す。『カテキ

ズム』であるが,現代の信者または未信者に魅力ある『救いのメッセージ』ま

たは『救いへの招き』という性格をもつもの。単なる教理の羅列ではなく,現

代人への福音となるようなもの」であることが要望された。そこで,この要理

書全体を貫くテーマとして,第二バチカン公会議の主要テーマでもあった「愛」

と「共同体」が挙げられ,人間の罪によって破壊された愛をキリストの救いに

よって贖い,また完成させる「ゆるしといやし」また「共生と連帯」などの多

様な表現で説明することが期待された。これらの「見直し案」を念頭において

執筆するようになったが,完成までには約 7 年間もの年月を要することになっ

た。

その間に,「新要理書『カトリック教会の教え』」(仮称)の第一次草案が各司

教に配布され,2001 年 6 月 18 日~22 日開催の定例司教総会で審議された。そ

の後に,各司教から全体的な意見や感想が寄せられた。それを受けて第15回

新要理特別編纂委員会(2001 年 7 月 2 日)において全司教の意見を検討し,第

二次草案を同年 12 月末までに完成させ,次の臨時司教総会までに全司教に送付

することとなった。この第二次草案が 2002 年 2 月 17 日~21 日開催の臨時司教

総会で審議・承認されて,日本司教団公認として「日本の教会のための要理書

『カトリック教会の教え』が 2003 年 4 月 8 日にカトリック中央協議会から出版

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された59。委員長の糸永真一司教はこの新要理書の意義について,次のように

述べている。

「わが国のこの要理書は,現代のカトリック信仰を導く第二バチカン公会議の

教えを,総括するもので,この教えが日本文化の中で四十年かけて受容され,

表現されたという意味で画期的な出版だといえるでしょう。実際,日本人の

思考に合わせたていねいな語り口で,私たちに対する神の招きのメッセージ

を伝える要理書となっており,必ずや日本の皆さんに喜んでいただけるもの

と確信しています。」60

b)キリスト者の倫理

司教総会で新要理書の原案が審議される機会に,私が提出した「執筆基本方

針」のメモは次のようなものである。第三部の「キリスト者の倫理」を執筆す

る際には,当初の編纂方針を念頭に置きつつ,先ず『カトリック教会のカテキ

ズム』の内容を分析し,第三部全体の構成原案を作成した。神の十戒を枠組み

とした要理書の構成ではなく,キリストの福音を中心とすることを心がけ,十

戒は関連する事項の内容に盛り込んだ。次に,聖書の教え(特に,新約聖書)

を中心として,教会の教えのみならず,神の言葉を味わえるように聖書本文を

引用した。また,倫理生活を「義務を守る」というよりも「神の招きに応答す

る責任」を果たす生活であることに力点を置いた。さらに,第二バチカン公会

議を中心とした現代教会の公文書を盛り込んだ。現代社会に現存する教会の宣

教使命の視点から,種々の倫理問題への解答のみならず,信徒自らも解答を探

れるように基本的な考え方を提示した。そして,最後に,「要理」という性格を

考えて,それぞれの内容全体が一定の均等な分量になるように要約した。

59 出版に先立って 2002 年 11 月 19 日に行われた執筆者座談会の記事,「『カトリック教会の教え』の

読み方」を参照されたい。「カトリック新聞」第 3701 号(2003 年 2 月 2 日)。また,岩島忠彦「教

理の現在」,「カトリック新聞」第 3704 号(2003 年 2 月 23 日)。 60 「カトリック新聞」上掲誌。また,『カトリック教会の教え』の「序」も参照。

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今もう一度,第三部全体を貫いている基本的な視点を確認しておきたい。先

ず留意すべきは,「倫理」といえば何らかの禁令か義務づけとして理解され,そ

れは人間の自由を束縛するものであるかのように受け止められることがある。

もともと倫理とは,一人一人の人間が他の人や神との関わりの中でどのように

あるべきかを探るものである。一言で言えば,それは「人間として歩むべき道」

である。新要理書の「キリスト者の倫理」の基本的考えは,その「道」を「救

いへの神の招きに応答する道」として理解し,人間を探し求める神の呼びかけ

に自由に「応答する責任」を重視している。その考えを次の三つの視点から展

開したつもりである61。

第一に,聖書全体を貫いている人間の救いのメッセージを深く味わうことに

よって,神の創造の愛に包まれている人間のいのちの重さを実感できるように

することである。どのような罪人も神の慈愛の恵みを素直に受け入れることに

よって,人間としての生きる意味といのちの救いを体験することができるので

ある。第二に,教会の伝統的な教えや第二バチカン公会議によって刷新された

教えを学ぶことによって,現代社会の種々の問題と取り組むキリスト者として

の自らの責任を積極的に果たす使命に目覚めることである。信徒は社会におけ

る福音宣教の使命を自覚して,福音に根ざした人類社会を建設するという任務

に参与するように努める必要がある。第三に,日本の現代社会に生きるキリス

ト者として信仰生活を送る場合にも,常に国際社会との連携を保ちながらキリ

スト者としての福音や教会の教えの普遍性と地域性または特異性との調和やバ

ランスを失わないことである。現代の倫理の諸問題はただ単に一つの地域や民

族だけに限定されるものではなく,すべての人に共通するものであり,その解

決の方策を探求することを課するからである。

このような基本的な視点から,新要理書の「キリスト者の倫理」について次

の八つの領域から展開している。すなわち,(1)人間の尊厳と救いへの招き,

61 拙稿「いのちの重さ―『カトリック教会の教え』(第三編)からみて」,『カトリック生活』2 月号

(2003 年),8-10 頁。

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(2)人間の倫理と救いへの道,(3)人間の徳と救いの恵み,(4)信教の自由

と礼拝,(5)人間の生命尊重と責任,(6)人間の性と結婚および家庭生活,

(7)人間の社会・経済生活の意義,(8)政治への参加と平和の促進と環境の

保護,である。

最後に,新要理書を出版するにあたって,日本カトリック司教団は 2003 年 2

月 18 日付で「新要理書『カトリック教会の教え』発行に際して」と言う声明を

発表された。そこでは,先の『カトリック教会のカテキズム』との関連にも触

れて次のように語っている。

「日本の教会の皆さん,

昨年七月の『カトリック教会のカテキズム』日本語版の出版に引き続き,

近く『カトリック教会の教え』と題する,日本の教会のための新しい要理書

(カテキズム)が出版されることになりました。そこで,私たちは,この二つ

のカテキズムの違いと関係について述べることにしました。

『カトリック教会のカテキズム』は,『信仰と道徳に関するカトリックの本

質的かつ基本的な教えを,第二バチカン公会議と教会の伝承全体に照らして,

有機的かつ体系的に説明するもの』(序論 11)であり,『単一かつ唯一のカト

リック教会』(『カトリック教会法典』368 条)が唯一の信仰を分かち合って

いることのあかしとしての意味があります。従って,『カトリック教会のカテ

キズム』は,各国教会におけるカテキズム編纂の基準となり,教理を教える

司教・司祭・カテキスタの参考書,そして,カトリック信仰を研究する人々

の研究書になることを目的としています。その意味で,これは必ずしもすべ

ての信徒のためのカテキズムではありません。

一方,このたび出版される『カトリック教会の教え』は,日本の教会のた

めのカテキズムとして日本文化の中でカトリック信仰を生きる信徒と,カト

リック信仰を求める人々のために,日本人執筆者により,最初から日本語で

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書かれました。従って,『カトリック教会の教え』はすべての日本の信者およ

び求道者のための要理書です。

カテキズムの教授と学習によって信仰をはぐくみ,成熟させていくカテケー

ジス(要理教育)は,教会共同体を建て,発展させていくためのいわば基礎

工事です。基礎がなければ,あるいは基礎がぐらついていては,何をやって

も長続きせず,また実りもありません。従って,使徒たちの信仰という基礎

の上に建てられている教会は,カテキズムとカテケージスを常に重視し,教

会司牧の最優先課題としてきました(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『要

理教育』15 参照)。

わが国の教会も,日本宣教の端緒を開いた聖フランシスコ・ザビエル以来,

カテキズムの編纂と出版に力を入れてきました。今回の『カトリック教会の

教え』はこの伝統に倣うもので,1591 年の『どちりなきりしたん』,1868 年

の『聖教初学要理』,1936 年の『公教要理』に匹敵する出版事業であり,まっ

たく新しいスタイルをもって日本の皆さんにささげる二十一世紀のカテキズ

ムです。

日本がグローバル化時代を迎え,諸宗教と異文化との新たな出会いが始ま

りました。また,産業技術や経済の発展に伴い,さまざまな情報,価値観が

はんらんしています。この多様化した社会の中で,私たち日本のカトリック

教会は,信仰においても,福音宣教の上でも,大きなチャレンジを受けてい

ます。司教団はこの要理書『カトリック教会の教え』が,読者の皆さんと教

会共同体にとって,信仰を学び直す機会となり,新たな時代に神から託され

た福音宣教の使命を果たしていくためのテキストとなるよう心から願ってい

ます。

皆さんの上に,主なる神の豊かな祝福と助けがありますように。」62

62 「カトリック新聞」第 3705 号(2003 年 3 月 2 日)。

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おわりに

どのような教育に関するテキストも決して完全なものはない。司教団公認の

新要理書もその例外ではない。それは日本の現代社会の中に現存する教会とし

て公会議後に刊行できた一つの大切な成果であることは,既述の歴史的展望か

らも理解することができる。しかし,取り扱われている内容についても説明不

足や補足すべき観点などもまだ多く残されているであろう。ただ,日本の教会

の宣教活動における『カトリック教会の教え』がどのようなものとして評価さ

れるかは,それを活用する方々の声を待たざるをえない。しかも,この要理書

は教会内だけでなく,日本社会の多くの人々にキリストの福音を告げ知らせる

ための適切な手段となりうるかどうかが問われることになる。

また,『カトリック教会のカテキズム』にしても『カトリック教会の教え』に

しても重厚な書物であるがゆえに,それを手にするには敬遠される恐れも否め

ない。そのために,それを編纂する過程においても提案されたように,より手

頃な要約版の発行が望まれるかも知れない。いずれにせよ,それを手にする人

がひとりのキリスト者として自分の信仰内容を確認し,信仰生活の在り方を見

直し,その信仰の恵みを成熟させるための一つの有益な参考手段となればと願

いたい。また,それによって信仰を育成し,その「信仰のいのち」を同時代ま

たは次世代の人々に伝達するための有効な書物になることができればと思う。

キリスト教信仰とそれに基づくキリスト教倫理がより緊密なものとなり,神か

らの救いの招きに応える人の指針として信仰生活の道しるべになるような要理

書であるかどうか,今後の読者と日本の教会の歴史の判定に委ねざるを得ない。