青山学院における女子高等教育の 歴史と証言から学ぶこと ·...

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青山学院における女子高等教育の 歴史と証言から学ぶこと 河見 キーワード:青山学院、青山女学院、女子高等教育、女子専門学校、女専 KeyWords:Aoyama Gakuin,Aoyama Jo-Gakuin,Women’ s Higher Education, Women’ s College in the old structure,Jo-Sen, はじめに 「女子高等教育の歴史・現在・未来」プロジェクトでは、二十一世紀に当たって女子高 等教育を様々な角度から捉え直し、未来を展望することを目的としてきた。そして、その 重要な柱の一つとして、自らの足元を見つめ直すこと、すなわち青山学院における女子高 等教育の歴史の振り返りも行ってきた。この領域に関しては、特に、女専の卒業生のお 話を伺い、女専時代の証言として記録することに力点を置いて、作業を進めてきた。学 んだ側の視点から見てみるとき、青山学院における女子高等教育の歴史が、さらに立体的 に、リアルに見えてくるであろう、という期待を込めてのことである。 行ったインタビューは以下の通りである。 1.女専卒業生・想い出を語る座談会(2003年10月10日、15名参加) 2.田中登喜氏(昭和12年卒、青山学院高等女学部・高等部家庭科教員として昭和47年 まで勤務)インタビュー(2003年12月11日) 3.後藤中子氏(昭和14年卒)に対する昭和10年代前半の女専の様子についてのインタ 99

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Page 1: 青山学院における女子高等教育の 歴史と証言から学ぶこと · んだ側の視点から見てみるとき、青山学院における女子高等教育の歴史が、さらに立体的

青山学院における女子高等教育の

歴史と証言から学ぶこと

河見 誠

キーワード:青山学院、青山女学院、女子高等教育、女子専門学校、女専

Key Words:Aoyama Gakuin,Aoyama Jo-Gakuin,Women’s Higher Education,

Women’s College in the old structure,Jo-Sen,

一 はじめに

「女子高等教育の歴史・現在・未来」プロジェクトでは、二十一世紀に当たって女子高

等教育を様々な角度から捉え直し、未来を展望することを目的としてきた。そして、その

重要な柱の一つとして、自らの足元を見つめ直すこと、すなわち青山学院における女子高

等教育の歴史の振り返りも行ってきた。この領域に関しては、特に、女専 の卒業生のお

話を伺い、女専時代の証言として記録することに力点を置いて、作業を進めてきた 。学

んだ側の視点から見てみるとき、青山学院における女子高等教育の歴史が、さらに立体的

に、リアルに見えてくるであろう、という期待を込めてのことである。

行ったインタビューは以下の通りである。

1.女専卒業生・想い出を語る座談会(2003年10月10日、15名参加)

2.田中登喜氏(昭和12年卒、青山学院高等女学部・高等部家庭科教員として昭和47年

まで勤務)インタビュー(2003年12月11日)

3.後藤中子氏(昭和14年卒)に対する昭和10年代前半の女専の様子についてのインタ

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ビュー(2004年5月13日)

4.駒井美子氏(昭和18年9月卒)、浜田順子氏、冨本美代子氏(昭和19年9月卒)に

対する昭和10年代後半の女専の様子についてのインタビュー(2004年5月13日)

本稿の中心課題は、女専時代の証言を記録にとどめることである。その際、ナマの体験

談は貴重であり、手を入れて要約するよりも、できるだけ数多くの方のお話を、そのまま

掲載することが、資料としても役立つと考えた。ただし今回は、紙数の都合上、1)「女

専卒業生・想い出を語る座談会」(2003年10月10日青学会館校友会室にて。司会:阿部幸

子前学長)についてのみ、そして15名の卒業生の学生時代についてのお話(女専に入学し

た経緯、女専時代の想い出等)の部分のみを取り上げ、さらに抜粋の形で掲載せざるを得

なかったことをお断りしておく。

もっとも、本プロジェクト(「歴史・現在・未来」)の目的からすると、ここで述べなけ

ればならないことには、単に女専時代の証言記録だけでなく、その歴史的位置づけと、そ

こから得ることができる未来に向けての「教訓」も含まれよう。従って本稿のあるべき構

成は、① インタビューをした対象である昭和時代の女専に至るまでの青山学院における

女子高等教育の歩みがどのようなものであり、何を基盤としてきたか、そして ② その足

跡が昭和時代の女専にどのように受け継がれているか、さらに ③ その歴史から私たちが

どのような教訓を得られるか、といったものになろう。それ故、本稿の中心となる②イン

タビュー記録の前に、まず①について、筆者なりに簡単にまとめておくこととしたい。し

かし③に関しては、極めて重大なテーマではあるが、単純に答えを出せるものでもないこ

とは言うまでもない。しかも筆者は歴史も教育も専門にしてはいないので、この点に関す

る議論を展開する力量も十分にない。従って本稿は、③については独立の章を立てて論じ

ることはせず、むしろ①②においてそのための検討材料を提供することに重点を置いた。

ただし、①のまとめ方において、②のコメントにおいて、また最終章において、筆者なり

に「学んだこと」を適宜付言した。恐れつつもそのような私見を差し入れたのは、女専の

歴史から確固たる「教訓」を得るためのきっかけになればと願ってのことである。

二 女専の歴史から学ぶこと

1.青山女学院英文専門科

青山学院の女子「高等」教育は、明治37年(1904年)、「青山女学院英文専門科」の専門

学校令に基づく認可に、その出発点を見出すことができる 。

明治32年(1899年)の私立学校令による宗教と教育の分離命令に対し、あえて「各種学

校の名目に甘んずる」途を選んで建学の精神を貫いた後 、青山女学院は、次なるステッ

プとして、女子に高等教育の場を提供する準備を始める。明治33年(1900年)に校長と

なったウィルソンは、「本校の目的は、生徒により高い知識を習得させて知的水準の高い

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女性に教育することにある」と主張し、その後、女子専門学校設立計画が具体化してい

く。そして明治36年(1903年)の専門学校令公布を待って、明治37年1月15日に認可願を

東京市に提出し、3月25日付で英文専門科は専門学校として認可されるに至る。よく指摘

されるように、当時、私立で女子専門学校として認可を得たのは、日本女子大学校(現・

日本女子大学)、女子英学塾(現・津田塾大学)と青山女学院英文専門科だけであった。

この時期の女子高等教育における青山女学院の存在の大きさを窺い知ることができる 。

さて、この青山学院の女子高等教育の出発点を支える基盤となっていた考えは、女子へ

の最高度の教育の必要性、そして一貫教育の必要性の二つであったと思われる。『青山女

学院史』には、岡田哲蔵による明治36年の青山女学院第一回校友会総会報告が引用されて

いる。「……今日は決して従前の如き私塾的の位置に停滞すべきに非ず、また決して国家

教育に全く無関係なる孤独の位置を保守すべきに非ざるを覚えり、故に従来の制度を改

め、五年の高等女学校の課程に準拠したる高等女学科を置き、之を中心として、それより

下に高等小学科に類せる三学年の予備科を設け、それより以上には又三学年の英文専門科

を設けたり」(167頁)。ここに、時代の趨勢の中でキリスト教教育は女子にも確固とした

高等教育を展開すべきであるという強い使命意識と共に、女子教育は中等教育を核にしつ

つ上下に展開されるべきという一貫教育の重要性の認識を見ることができよう。

2.英文専門科廃止

その後、英文専門科は大きな伸展を遂げていくが、大正9年(1920年)、キリスト教主

義の女子高等教育機関の統合のため、廃止されることになる。明治43年(1910年)、エジ

ンバラ世界宣教会議において、日本では「女子高等教育のためのキリスト教主義学校を二

つ設け、その一つは当然東京に置くこと、そして他のキリスト教女学校は、この二つの学

校より程度を高くしてはならぬ」という内容の決議が出された。この決議に基づき設置さ

れた協議会は、超教派総合女子大学として東京女子大学設置を決定し、その維持のために

東京周辺のキリスト教主義女学校の専門科をすべて発展解消することとしたのである 。

キリスト教主義女子高等教育の統一的発展という理念それ自体の正しさにもかかわら

ず、それが教育の実態と歴史、関係する人々の思いを無視した形で実現されていったこと

が生んだ軋轢は、決して小さなものではなかった。特に、「新女子大学設立協議会委員の

構成員をみれば、二十五名中日本人委員僅かに九名、その中青山女学院選出委員は唯一名

にすぎない。このような会議では、わが英専の実績も歴史も認められず、希望も反映し得

るものではない。外国人を主とする人々の当座の状況判断で、学校・学科の設置・廃止

が、手の届かないところで決定されたのである」 とされるように、手続的に、十分に現

場の人々の思いを反映する形がとられていなかったことが、大きな不満を生み出すことに

なったと考えられる。しかしそうだとしても、それは、主観的な愛校の思い入れや、単な

る現場無視への不満として片付けることはできないように思われる。むしろ、キリスト教

教育が教員と学生の深く長い人格的交流の中で培われ育まれていく、一貫性を持ったもの

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Page 4: 青山学院における女子高等教育の 歴史と証言から学ぶこと · んだ側の視点から見てみるとき、青山学院における女子高等教育の歴史が、さらに立体的

でなければならないという、教育的確信に基づくものであったのではないだろうか。そう

でなければ、その後も、独自の高等教育実現の試みが、消えることなく継続されていくこ

とはなかったであろう。

3.女子高等教育復活への布石 青山女学院手芸部から青山学院女子専門部へ

大正3年(1914年)、青山女子手芸学校が女学院に合併され、青山女学院手芸部となる。

そこには普通科、専修科、家庭科とともに研究科(裁縫・刺繡)二年課程があり、また大

正9年には家庭科が第一部(高等女学校、実科高等女学校卒業者及び同等の学力を有する

者)と第二部(高等小学校卒業者及び同等の学力を有する者)に分けられた。そして大正

11年(1922年)に手芸部が高等女学部に移行することに伴い、この手芸部裁縫研究科、家

庭科第一部はそれぞれ高等女学部専攻科の裁縫研究科、家政科となり、新たに設置された

実務科とあわせて、二年課程の専攻科がスタートすることになった 。

この時期の女学院の動きは、大正9年の英文専門科廃止決定を見越した上で、その後に

女子高等教育を復活させるための布石でもあった、と推測できよう。そして昭和3年

(1928年) この前年に青山女学院は青山学院と合同した 、女学院校友会は青山学院

財団理事会に、英文専門科復興嘆願書を提出するに至る。それは、もはや東京女子大学の

基礎は確実となったが故に、同大学に迷惑をかけることなく専門科を設置しうる時期であ

るので、専攻科実務科を基として英文専門科を復活させたい、という趣旨のものであっ

た。これに対し理事会は、英文専門科復活は時期尚早と判断したが、その代わりに、専攻

科家政科を基として女子専門部を創設することを決定した。その決定を受けて、裁縫研究

科と実務科廃止、家政科の三年課程への変更、基本金10万円の積み立ての努力等がなされ

ていく。そして、昭和5年(1930年)の無試験検定認可(家事科中等教員)、昭和7年

(1932年)の女子専門学校昇格のための国家試験を経て、昭和8年(1933年)に認可を受

け、その4月、青山学院の女子高等教育が、青山学院女子専門部家政科として復活するこ

とになる 。

英文専門科の復活という本来目指していた方向性とは異なる形で、女子高等教育は復活

を遂げた。それだけに、この復活を生み出したものとして注目すべきなのは、英文専門科

廃止という大きな壁に直面したとき、決して諦めることなく、しかし柔軟に、既存の枠組

みの中で誠実に可能な限りの高等教育の実現に向けて取り組んできた、大正期の布石で

あったと言えるであろう。

4.戦争と女専の歩み

青山学院の女子高等教育の復活の時期は、日本が戦争に突き進んでいく時期と重なって

いた。そのことは、女子専門部の歩みにも大きな影響を与えることとなった。まず、アメ

リカから女子部への援助金に依存できなくなる事態に備え、経営的自立のため、文科(英

文専攻)(三年課程)と家事専修科(一年課程)の二科が新設された。ここにおいて、英

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文の高等教育復活が実現するのであるが、その設置の原因が米英への戦争である以上、こ

の学科の運命も時代に翻弄されるものであった。昭和16年(1941年)に設置された文科

(英文専攻)は、昭和17年(1942年)には学科内容を英語・英文学中心(文科第二類)か

ら国語・国文学中心(文科第一類)に変更することを余儀なくされ、昭和18年(1943年)

4月には、文科第二類の募集停止、文科第一類(国語科)の開設に至る 。

敗戦後、青山学院の女子高等教育は、女子専門学校と名称変更して継続される。外国語

科(英語科)が再復活し、文科(国語科)、家政科(以上、三年課程)そして家事専修科

(一年課程)の四学科の教育が始まった。多くの入学志願者があり、そして劣悪な教育環

境にもかかわらず、意欲に満ちた学生たちが熱心に勉学に励んだ、ということである 。

しかし学制改革に伴い、女子専門学校の歩み、従って「女専」の歩みは、昭和26年3月卒

業生をもって閉じられることとなるのである。

このように、二次大戦前後までの青山学院の女子高等教育は、挫折の連続の中、紆余曲

折しながら展開してきたと言えよう。その中にはしかし、変わることなく受け継がれてき

た女子高等教育へのパッション(情熱)、それを支えるミッション(使命感)があったの

ではないだろうか。そのような、いわばミッションに基づいたパッションがあればこそ、

試練から逃げることなく、女子高等教育のバトンタッチが行われ得たのだと思われる。そ

して、特に家政科による女専復活の経緯等を見るとき、与えられたものの中でそれを十分

に生かしつつ何とか進んでいこうとする柔軟な姿勢も、女専の歩みの大きな特徴であった

と言えよう。ミッション、パッション、柔軟性が、時代の荒波を乗り切っていく基盤とな

る。一言で言うならば、これが、女専の歴史から学ぶことのできる重要な教訓であるよう

に思われる。

さて、ミッション、パッション、柔軟性に貫かれた女子高等教育が、具体的に教育の現

場でどのように展開され、またどのように伝わっていったのか。次に、この点を、女専卒

業生のインタビューから垣間見ることにしたい 。

三 女専卒業生の証言から学ぶこと 「女専卒業生・想い出を語る座談会」より

1.太平洋戦争前の女専

1)後藤中子氏(昭和14年家政科卒)

年齢を申し上げなくてはいけないとすれば、1919年生まれでございますから、84歳でご

ざいます。きょう伺いましたら、一番年上で、一番遠くから出てまいりました。どれだけ

お役に立ちますかわかりませんがお話しさせていただきます。

私は、昭和11年に女学部を卒業して、そのまま専門部に入ったのですが、私といたしま

しては、理科方面に進みたかったので家政科には行きたくなかったんでございます。実を

申しますと、父親が子供の欠点をよく知っておりますので、いずれは家庭を持たなくては

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ならないときに、娘の欠点を補う意味で家政科に入れられてしまい、私は不満で仕方がな

かったんでございます。ただし、家政科ですと、文科と違いまして、化学とか、物理と

か、そういうものがございますので、それでまずまず満足いたしましたのと、青山の専門

部に入ってみますと、音楽もあるし、図画もありましたし、そういう意味で、大変楽しゅ

うございました。

初めはもう反発いたしまして、家政科になぜ入れられたんだろうと思っておりましたけ

れども、とにかく入った以上はあまりみっともないことはしたくないと思いまして、たま

たま14年の卒業生のクラスは、みんなそういう人が集まっていて、東京女子大の数専(数

学専門)に入ろうと思ったら、親にやっぱり反対されたとか、英文科に行こうと思った

ら、女はそんなことをするなと言われたとか、みんな、そういう集まりでしたから、私の

クラスは、ほかと比較はあまりできませんけれども、みんな、変わり者が多うございまし

た。

私は、卒業いたしまして、結婚して子供ができたあと、どうしても新しい家政学の勉強

をしてみたいと思いまして、一年間だけ(お茶の水女子大学で)、地方からいらっしゃる

教員にまざって、稲垣長典先生のところについて、モルモットを使ってビタミンCの実験

をするなどの学びをいたしました。私はそれで満足いたしました。家政科に行ってよかっ

たなと思ったんでございます。

いろいろございますけれども、私は一番よき時代の最後だったと思うんです。例えば別

所梅之助先生の講義を伺う一番最後になりましたし、脇屋義人先生や、石井勇義先生、山

崎務先生の新しい西洋料理とか、今思い出しますと、非常に勉強になりました。それで、

全部教えていただいておしまいというのではなくて、後々、どういうふうに勉強したらい

いかということ、そのときは何でもないと思っていたことを教えられたことは、大変感謝

だと思っております。今でもそれにつながる仕事を細々とやっております。

<コメント>

後藤氏は、ここで紹介することは残念ながらできないが、後に行った個別のインタ

ビューで、さらに詳しく、入学した経緯や女専で学んだことを語ってくださった。現在、

製菓教室を開かれているということである。

後藤氏のお話からは、当時、大変幅広くかつ極めて専門性の高い教養に溢れた授業が展

開されていた雰囲気とともに、厳しい先生方も多かったにもかかわらず、教員と学生との

距離のとても近かった様子が伺われる。

2)生方美子氏(昭和16年家政科卒)

私は、専門部だけじゃなくて、女学校から青山です。小学校を卒業して女学校を決める

とき、実践と青山のうち、青山は難しいから実践の方をと先生に言われたんですけれど、

どういうわけか青山の方に入れさせていただきました。それで、私は小学校の4年のとき

―104―

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に父親を亡くしましたが、母は割に向学心がありましたので、できるだけ長く学校に行っ

たほうがいいということで、専門部へ入れていただきました。

ですから、専門部では、いろんなことをやらせていただきましたけれども、これといっ

て、何か皆さんのようにしっかりした意思もなく、三年間、楽しく過ごさせていただいた

という感じです。ちょうど卒業する年が大東亜戦争が始まるときだったものですから、す

ごく緊張して卒業しましたけれども、その後は、もう戦争、戦争で、皆さんもそうだと思

いますが、学校のことも忘れるみたいな状態になりました。でも、戦後、やはり母校にい

ろんな関わりがあり、青山を卒業していてよかったなと今でも思っております。

<コメント>

生方氏のお話からは、ガツガツ勉強して入ったというよりも、自然な感じで入学し、青

山学院の教育を自然な雰囲気の中で体得し、自由に楽しく過ごした、という印象を与えら

れる。同様の印象は、戦前の女専の同窓生に多く感じるところである。なお、生方氏は家

政科卒であったが、その後高島屋に就職されたときに、「英語の青山」卒業ということで、

英語を用いる仕事を担当し、アメリカ人からの注文を受けて届けたりされたという。当時

の英語教育の程度の高さを窺い知ることができよう。

2.太平洋戦争時の女専

1)駒井美子氏(昭和18年9月文科英文専攻卒業)

私は、大正12年生まれで、今、80歳でございます。私は東京の市立の女学校五年卒です

が、当時女学校四年から専門部に来た人もいました。その前に銀座教会で、屋根裏部屋

だったんですけれども、バイブルクラスを毎日曜日にイギリス人の先生に習っておりまし

た。2年ぐらいでやめたんですが、それが英語を知るきっかけになりまして、英語をもっ

とやりたいということと、それからキリスト教ということをそのときに知りまして、キリ

スト教の英文へ進みたいと思い、ちょうど第一回にできた青山学院専門部の英文科に推薦

で入りました。その年の12月8日に大東亜戦争が始まりまして、入った方の中にはいろん

な方がいらっしゃいましたけれども、だんだんにおやめになって人数は減っていきまし

た。学徒出陣のとき、18年の9月までここでお世話になりました。そういうわけでござい

ます。

<コメント>

このように、当時、キリスト教に基づいた学校であることを理由として青山を選んだ学

生は、かなりいらっしゃったようである。そしてやはり、キリスト教と英語のつながりを

強く感じさせられるお話である。なお、駒井氏は、戦前戦中の女専においては実質上二回

生までしか存在しなかった英文を内容とする文科の、第一回の卒業生である。

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2)豊田百合子氏(昭和19年9月家政科卒業)

私は、幼稚園のときからずっとカトリックの聖心で育ってまいりました。卒業いたしま

したときに、結局、何ができるかなと思ったときに、うちではご飯も炊けないし、お魚も

焼けないような状態でしたので、専門学校に行く時は、青山学院の、正門から見える間島

記念館にあこがれまして、どうしてもあそこに行きたいと言いました。ところが、それを

言いましたら、卒業したときに、聖心の校長様が、宗教も違います カトリックと、こ

ちらはプロテスタントでございますね 、なぜそちらに行きたいのですか、英文科に残

りなさい、と。もうどうしても英文科に残れとおっしゃるんです。私は、そのとき、もし

も聖心に家政科ができたら残ります、とまあ偉そうなことを言いまして(笑)、それでと

うとうこちらの家政科に入るようになりました。

でも、青山学院ではただ家政ばかりで、お米を炊くというだけじゃなくて、いろいろな

科目を、例えば物理とか、それから国文のほうでは、馬越宮先生の熱烈な源氏物語、萬葉

集に触れましたり、桜田フサ先生の論理学そして心理学でしたかしら、そういうとてもよ

い、素晴らしい先生に教えていただきましたので、私は自分では間違っていなかったと

思ってずっと過ごしてまいりました。

ところが、ちょうど戦争も激しくなりまして、何だかちっともお勉強できないうちに卒

業になってしまいまして、9月に学校を出るはめになりました。それで、私の専門学校の

生活は終わったんでございます。また、生間かつ先生に指導していただいたドレスメーキ

ングが私の一生の仕事となり、先生が亡くなりますまでご指導いただきました。

<コメント>

青山の建物や雰囲気も魅力だったという話である。そして、家政を学びたいので志望し

たのであるが、そこで出会った先生を通して、家政以外の教養も深く学ぶという経験をさ

れたことを語ってくださっている。女専の教育スタンスが伺われる。なお、戦時中で実習

の材料なども手に入れにくくなりつつある時代のお話でもある。

3)吉岡智子氏(昭和19年9月文科第二類[英文]卒)

私は、駒井さんよりもう1つ年は上でございます。小学校へ入るのも、病気をいたしま

して1年遅く、大正11年生まれなんでございますけれども、12年生まれの方たちと一緒に

小学校へ入りました。女学校は、十歳上の姉が非常に熱心なクリスチャンで東京女子大を

出ていたのですが、そのお友達に女子学院のお友達が多くて、姉の勧めで女子学院に参り

ました。女学校を卒業いたしますときに、やはり受持ちの先生は東京女子大をぜひ受けろ

とおっしゃったんですけれども、怠け者でして、当時は数学の試験が東京女子大にはござ

いました。それと体もやはり丈夫ではございませんでしたから、何もしないで、受験勉強

も一切いたしませんで、一年間、お茶のお𥡴古をしたり、うちでぶらぶらしたりしており

ました。そうしているうちに、12月8日に開戦になりまして、こんな生活をしていたらい

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けないというような気がいたしまして、何でもいいから、とにかく何か一生懸命やらなく

ちゃいけないんだと思いました。そして、青山の専門部でしたら内申書で入れるものです

から、女子学院に内申書をいただきにまいりまして、そうしたら、当時の校長先生が「親

戚だからね」とおっしゃって、内申書を出してくだすって。何が何でも英語をやりたいと

いうわけじゃなかったんですけど、とにかくじっとしていられない、何か勉強しなきゃい

けないという気持ちだけはあったものですから、英文科に入りました。

先生方は学院専門部の、当時は男子部と言っておりましたけれども、男の先生で、名前

でも呼びつけで皆さんをお呼びになって、そういうことが非常に新鮮でした。それから、

大木金次郎先生の法制なんていうのも、何かとってもおもしろくて、一時間目を一生懸命

宮益坂を急いで、教室の前のほうの席を取ろうとするような感じで、まあ、それほど勉強

したわけではないんですけれども、毎日大変充実した学生生活をしておりました。

そして、戦争が始まってしばらくしますと、今度は通年動員というので、卒業前には、

A型六尺旋盤というこんな大きな旋盤を一日中立って使うような工場の仕事を毎日繰り返

しました。もうそれはそれなりに当時はやはり思い込んでおりましたから、男の学生はみ

んなああやって戦地へ行ったのに、私たちはこれで一生懸命働いているんだというような

気持ちでやっておりました。そして、卒業いたしました。ですから、英語の勉強そのもの

は大変短かったような気がいたしますけれども、ただ、学生の時は、やはりとても充実し

た生活を送っていたと思います。その後、もうだんだん空襲がひどくなりまして、卒業し

てからは、朝日新聞社にずっとおりましたが、そこでもやっぱり青山を出てよかったとい

うようなことが幾つもございました。

<コメント>

女専に入られた方々は皆優秀である(吉岡氏にしても、内申書がよくなければ入ること

ができなかったであろう)ことは前提の上ではあるが、この時期、入学に関してはそれほ

ど苦労をされなかったようである。しかしそのことが、自然体で余裕のあるスタンスでの

学び、素直で吸収力豊かな取り組みにつながっているように思われる。なお、男子部の先

生から学び、男子と同等レベルの教育を受けていたということも注目すべきであろう。

4)浜田順子氏(昭和19年9月文科第二類[英文]卒)

吉岡さんと同じ学年で、同じクラスでしたけれども、私がこの青山に参りましたのは、

実は私は京都の女学校からでありまして、府立ですから、ものすごくカチカチのやかまし

い学校だったんですね。それで、家庭にいろんな事情がありまして、卒業してすぐに東京

に引っ越してまいりました。そのときに、母がミッションスクールを出ておりましたし、

そして、近くに同志社という京都の有名なミッションスクールがございましたので、そん

なのを見ていまして、ミッションスクールはよさそうだなと思って、それでこちらへ入れ

させていただいたんです。

―107―

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今から思えば、戦争中の本当にすさまじい変化の時代を青山で過ごしまして、本当に、

正味を勘定すれば二年と三カ月ですね、もう三年のときは6月までしか勉強できなくて、

7月から動員されましたので。二年三カ月で、いろんな不自由なことがありましたけれど

も、みんな、今から思えば、先生方に、そして学校に守られて 試験のときを除けばで

すね(笑) 、とっても楽しく送らさせていただいたと思っております。駒井さんは一

年上でいらしたんですけれども、たまたまお教室が、一年間、牧師館があったところに文

科のお教室が上下になっておりまして、仲よく交流がありまして、しょっちゅう一緒に会

をしたり、演奏したり、おしるこパーティなんていうのをやったりしましたね。物のない

ときでしたけれども、お砂糖とか、あずきとかを調達してくださる方があって、それで交

流を深めたりして、もう今思えばすごく懐かしい、楽しい学生生活でした。

先生方もとってもお偉い先生がいらして、男子部の先生が大勢いらっしゃいましたけれ

ども、舟橋雄先生というのは何かすごく有名な方なんですが、難しくて難しくて、本当に

何回復習してでもやっとというほどどうしようもないぐらい難しいのを教えていただいた

りとか、それから、金田一京助先生ですね。あの先生の言語学の授業をじかに、ほんの短

い時間でしたけれども習いました。そのとき、石川啄木の話をお願いしてお伺いしたりし

て。それから、英文学で山田巌先生という、学習院の英語の主任をしていらした先生が定

年におなりになって、青山に来ていらっしゃいまして、その先生には随分親切に、皆さん

方はご婦人でいらっしゃいますからというので、婦人心得などというのを教えていただい

たのを、今でも忘れられません。その方のご子息が山田一雄さんという有名な指揮者にお

なりになっていらっしゃいます。何を思い出しても、懐かしいことばかりでございます。

私は青山へ来させていただいてよかったと、本当に思っております。

<コメント>

お母様がミッションスクール出身のクリスチャンでいらっしゃることで、青山につな

がっていったというお話である。当時のミッションスクールの在り方が窺われよう。ま

た、一流の教授陣により、高度な授業がなされていた様子が分かる。

5)肥田道子氏(昭和22年家政科卒、昭和19年実務科入学後、転科)

私は、女学校はあの当時第一志望に府立を受けさせられ、第二志望が青山の女学部でし

た。本当は母がクリスチャンだったので、女学部の入学を切望していたのですが、府立に

受かってしまい、母の希望は叶えられず非常に落胆し、どうして府立を落ちてくれなかっ

たのと言われ、自分もミッションを卒業していたので余程青山に入学させたかったのだろ

うと思いました。女子専門部に入れていただき卒業できたのですから、その点で親孝行は

できたと思っております。

そもそも母がピアノの教師をやっていたものですから、私もピアノをやりたくてやって

いたのですが、当時は何時間もピアノを練習できるような社会情勢でなく、その頃は音を

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消すピアノなんていうのはなかったものですから、近所の方にも何か心苦しく迷惑が掛か

るような感じがあって、結局ピアノは諦めることになりました。

女学校卒業後は、どこかの学校に籍を置かなければ挺身隊にとられるという世の中でし

たので、丁度その頃それまで家事専修科と言っていた科が実務科と名称を変え、生徒募集

をしていましたため、どうしようかと悩んでいた私はとりあえず入学させていただきまし

た。飛び込ませていただいたという感じでした。

一年の課程でしたので、二学期までは実務的な簿記、珠算等を教えていただきました。

ただし三学期になるととうとう学校工場が置かれ、コイルの一部のような小さなものを造

る細かい仕事をしました。

一応一年で実務科を卒業したのですが、家政科の方達が疎開その他の理由でやめられて

人数が減ったので、転科をしたい人は転科を認める、という願ってもない許可をいただ

き、家政科に転科いたしました。ただし、学校での勉強はできず、私たちは当時の東横線

の工業都市、今の武蔵小杉にあった日新工業という工場で、飛行機の脚部の部品を作ると

いう動員生活を、8月15日の終戦の日まで、もんぺをはき、救急用品とお弁当の入った袋

を肩にかけ、防空頭巾をもって通い続けました。そのうちどんどん戦況が悪化し、終戦の

日を工場で迎えました。

9月からオーバーコートを着て、暖房もない焼け残った学院本部の教室で、今までの遅

れを取り戻すため、新鮮な気持ちでいろいろな科目のノートをとりました。昭和20年のク

リスマスは、平和が戻ってきたのが嬉しくて、全学あげて祝い、よろこびに溢れたみんな

の顔は、今でも脳裏に残っております。昭和21年の残された一年を、学生生活最後の年と

して、楽しく真剣に学びました。

卒業しましてからは、あまり調理の実習をやっていないので、研究科を設けてくださっ

て、一週に一度でしたが教えていただき、それと同時に初等部に前年から始まった給食の

主任と家庭科の授業を二年間いたし、一年下の後輩に後を託して退職いたしました。

5月の空襲でひどく焼かれ枯れてしまうだろうと思っていた銀杏並木も、春と共に芽を

吹き、その生命力の強さに驚かされたことと、あの悲惨な戦争のことなどを思いますと、

今の平和の尊さを、しみじみかみしめるこの頃でございます。

6)矢野啓子氏(昭和22年家政科卒、昭和19年実務科入学後、転科)

私は戦争の一番激しくなるときに女学校四年を終了し、実務科に入学しました。当時は

四年終了でも進学ができました。勉強はほとんどできず、学徒動員で日新工業(軍需工

場)に行き、飛行機の脚を作っていました。一年で卒業しましたが、卒業式が終わって礼

拝堂から出てきたとき、硫黄島玉砕のニュースが入ってきました。

それから今度は、家政科に進学しましたが、やはり空襲のためにあまり勉強はできませ

んでした。やがて終戦になり、授業が再開しましたが、大半の校舎が焼失したため、本部

が校舎になり、勉強ができるようになりました。ガラスは戦災のため割れており、オー

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バーを着て授業していましたが、授業が受けられて学生生活ができることは感謝でした。

戦後のため、先生方も授業に苦労されているように見えるときもありました。例えば、お

料理の時間はノートだけでしたが、少しでも実習をさせようとの先生のお気持ちで、和菓

子の茶巾絞りをさつまいもで作った記憶もあります。

三年生ぐらいになると、だんだんと落ち着いてきて、学生らしい生活もできるように

なってきました。思い出に残っていることの一つは、男子部と女子部の何人かのコーラス

のグループができて、毎日曜日六本木の米軍の第八師団に、聖歌隊として、小林千代先生

の監督のもとに、軍隊のトラックみたいな車に乗っていきました。一週間に一度練習をし

てそこに行くということが、戦後の私どもの楽しみの一つでした。その当時は、図書館の

前の銅像を境にして、男女の学生は往来が禁じられていました。今では考えられないこと

ですが。K.A.Y.合唱団の初公演もこの頃だったと思います。

激動の時代のいろいろな体験でしたが、今では懐かしい思い出になっております。

<コメント>

最も戦争が激しかった時期の戦前女専時代と、戦後混乱期の女専時代の両方を経験され

た肥田氏、矢野氏のお話は、敗戦を挟んだ激動時代の女専の様子を具体的に窺い知ること

ができる貴重な体験談として特筆すべきである。

7)鈴木登代氏(昭和22年国文科卒)

私、昭和2年生まれでございますから、もう来年は77歳になります。ちょっと自分の年

にびっくりするんですけれども。ですから、当時、専門部というものに入ったのは、全国

の女の子の中で、たった1%だけだったということをさっき伺って、本当にびっくりいた

しました。

私は、女学校は青山じゃございませんで、自分の意図しない女学校に行くことになっ

て、非常に不満な女学校生活だったものですから、何とかして勉強したいと思っていたん

です。けれども、時局がそういう時代ではなくなりましたし、親がそんな必要ないと言う

のを、ちょうど、先ほどもどなたかおっしゃったように、青山の国文でしたらば書類審査

でいいということを伺いまして、親に黙って書類を出して、そして、事後承諾でここで入

れてくださるというからここへ行きますというようなことで、女専に入りました。

私が入ったのは昭和19年でございまして、比較的状況はまだよかったんじゃないかと思

いますが、とにかく入ってびっくりしましたのは、やはり今思うと、とにかく、青山女専

の国文科の先生方というのは、キラ星のように有名な先生ばっかりだったんです。能勢朝

次、諸橋轍次、今泉忠義、それから土屋文明とか、とにかくそのころの国文では有名な先

生方がもうずらっとそろっているというようなことで、私はもうすごく感激したんです。

ただ、感激して、ああ、この方がこの先生かと顔を見るぐらいなところで、そのうちに動

員が始まってしまい、工場に行くということになってしまったものですから、勉強自体は

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何もしていないんです。けれども一応、私は諸橋先生の授業を受けたのよなんて言うこと

は言えるというような、そんなような状況で、学問というところまではとてもとてもいっ

ていない状況でございました。

ただ、私は三年間、馬越宮先生が担任でいらっしゃいましたのと、それからあと、親が

19年に疎開をしてしまいまして、伊豆山というところでしたので通えば通えるところだっ

たんですが、私はそのときに、寮に入ってここに残りますからなんて言って、寮にお世話

になりました。それでなければ、もう青山との関係というものは、本当に短時間なもの

だったと思います。あの頃は何人かの生徒と、それから舎監の先生とで生活をしておりま

して、得山寮、北寮、南寮など、学内に幾つかの寮がございました。そして、私は親はク

リスチャンでもなく、青山へ入って初めてクリスチャン、そして聖書や讃美歌に触れたと

いうようなものなんですが、寮に入りましたらば、毎日、お食事の前には礼拝、讃美歌を

歌う、そういう生活だったものですから、そこですごく、ああ、こういうものなのかと、

何か身をもってわかったというような感じがいたしました。

それから、私は徳永馨先生にもお世話になりましたが、一番長くお世話になったのは川

尻知恵先生なんです。川尻先生という方は、クリスチャンの権化みたいな方で、非常にも

うまじめな方でした。ですから、黙々とやることはやるということで、いつも夕食になっ

て何も食べるものがないときでも、テーブルかけだけは白いテーブルかけをかけて、お皿

もちゃんと並べる。お皿の上に並ぶのは、ふかしたおいもが一つずつというような夕食の

ときもありましたけれども、それをもう何とも思いませんでした。そういう食事というも

のが、貧しいというような感じもしませんでしたし、寮生活というものに非常に満足いた

しておりました。それが青山に対する認識というものをとても強くしたと思います。

<コメント>

さらに、土屋文明先生との出会いによるアララギ派のこと、青山学院新聞部の思い出な

ど、貴重なお話を語ってくださったが、紙面数の都合上、残念ながら割愛した。教員、特

にクリスチャンの教員との出会いや、寮の生活が人生に大きく影響したこと、また、厳し

い時代にもかかわらず、礼拝がきちんと守られ、讃美歌が歌われていた様子が分かる。

3.戦後の女専

1)川北禮子氏(昭和23年家政科卒)

ちょうど私は女学校四年卒で、昭和20年に卒業したものですから、それで、青山を受け

たんですけれど、たしかちょうど試験の間に空襲があった覚えがあるんです。そのときは

まだ空襲警報だけだったんですけれども、こんなところで爆弾が落ちてきたら、私はこの

青山で死んじゃうんだな、なんて思いながら隠れたことを思い出すんです。

私の母は、多分明治の終わりから大正3年ぐらいに、英文科におりました。小林千代先

生とご一緒だったと思うんですけれども、千代先生がいらっしゃったものですから青山に

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入れたいと申しまして、それで青山へと思ったんです。ところがそのころ、ちょうど英文

科がなくなっていまして、父や母は英文科に入れたかったらしいんですけれども、私は勉

強しないで済むからしめしめなんて思いまして家政科を受けたんです。

ちょうど昭和20年の3月に、女学校を卒業しまして、それから、学校は青山を受かった

のに、授業がないものですから、疎開先の長野の女子専門学校というのに転校届を出して

いただいて、届けたんですけれども、とうとう一日も学校に行かないうちに終戦になりま

した。9月に一人で東京へ戻ってまいりまして、9月の中ごろから、たしか青山のほうに

出てきたと思うんです。先ほどのお話にもありましたように、学校の校舎が焼けて、女学

部のところに、男子のほうに入れないようなトタン塀ができておりました。随分不自由な

生活をしたんですけれども、大変楽しゅうございました。

左近孝枝先生、それから向坊長英先生と、懐かしいお名前を思い出します。やはり終戦

後ですから、家政科でもやはり調理もできませんし、先ほどのお話にあるような不自由な

生活をしましたけれども、卒業のころにはだいぶ充実したご講義を受けて、楽しかったこ

とを思い出します。A組とB組があって、二つに分かれる教室がないものですから、一緒

の七十人くらいの合同クラスで、私どもはクラス会というと、一組、今でも六十人ぐらい

の方にご通知するんですけれども、非常に大勢のクラスでございました。

私は昭和23年に卒業しましたんですけれども、聖心を出た友達がアメリカへ渡るという

ので、そのころはまだ渡航が十分ではなかったものですから、たった十二人しかお客を乗

せない貨物船にその人が乗っていくので、横浜へ送りに行ったんです。そうしましたら、

スプロールズ先生がアメリカへ帰られるのにちょうどご一緒だったんですね。私はその

時、母が長野の人だったのでスプロールズ先生を長野へお呼びして、自分のうちにお泊め

して、スキーをご一緒にやったことがあるというようなお話を、先生に申し上げたことが

あって、それがとても記憶に残っております。

あと、学校生活は、男子のほうとは堅く閉ざされていましたが、演劇好きの友達がいま

して、どうしても男子と一緒に演劇をしたいというので、トタン塀のすき間を潜って、男

子のほうへ行って、演劇をいたしました。でも、あまり叱られなかったのは、やはり幾ら

か緩くなっていたんでしょうか。写真がわずかに残っておりますけれど、スリルがあって

楽しかったことを、思い出します。

2)小川和子氏(昭和23年家政科卒)

昭和23年に家政科を出ました。女学校は、母が大正時代に青山を出ていましたので、何

の躊躇もなく青山へ入学いたしました。今考えると、部長は倉長久先生で、スプロールズ

先生はその前にちょっとお目にかかったことを覚えております。

女学部の三年ぐらいまでは、先生方はお着物やはかまを履いていらっしゃいました。四

年生になったときに勤労動員で、日本精工へ行きまして、最後のころは遅番、早番で、遅

番は七時ごろから九時ぐらいまで仕事。そこで頑張りました。そして、初めのころは工場

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の食堂の上をお借りして、一時間ぐらいお授業がありましたが、戦争が激しくなりました

ら、それもなくなりました。九時から家に帰れない人は工場の寮へ泊まらせられました。

制服も、あこがれの青山の制服は着られずに、かやのような生地の国民服、みんな一律の

制服を、油でベトベトした感じで着ていました。

女学部の四年の3月に、四年と五年と一緒に卒業を迎えました。3月の卒業式後も、自

分の家は焼かれて、疎開しておりましたし、専門部ももちろんまだ開かれていなくて、と

りあえず田舎へ帰りまして、小さな町工場にちょっと勤めました。そして、青山へ参りま

したら、古坂嵓城先生とか向坊長英先生が会ってくださり、一週間に一度でも、一カ月に

一度でも、学校が始まるまで顔を出してらっしゃいとおっしゃってくださったので、時々

埼玉のほうから三時間ぐらいかかって通いました。そして、9月に新学期になりまして、

やっと専門部に入学いたしました。

それで、今、先生方のことを思いますと、心理学の安倍北夫先生が、大学を出られて初

めて教えにいらして、私たちも、今皆さんおっしゃるように、男子禁制のようなところで

したから、先生もただただ何か真っ赤になっていらっしゃいました(笑)。今考えたら、

ずいぶんお偉くなって、テレビなんかで時々拝見いたします。心理学で何をお習いしたか

ちょっと思い出せないのですが、そもそも本がなかったんですね、教科書も。ですから、

みんな、広告とか、こういうプリントの後ろに全部ノートに書きまして、家へ帰ってノー

ト整理をします。怠けている人、私なんかもそうですけれども、よくやった方のをお借り

しました。結局、本がないから、自分たちそれぞれで全部手書きなんです。今、お手紙な

んかいただくと、皆さん、本当に字がお上手だと感心します。そういう意味では物がな

かった時代の賜物かも知れません。

バザーも初めて在学中にやりまして、物資がないとき、みんな、それこそ一生懸命やっ

て、何人かは泥棒に入られるといけないとか言って、今の本部に泊まり込みました。その

当時はバザーは結構珍しいもので、結果もよかったです。

その後、研究科で、大西セチ先生にお世話になりました。物資のないころで、本部で理

事会をなさるとき、大西先生の下で、研究科に行った私たちも仲間に入れていただき、全

部手料理でお料理を出したり、結構、そういうのを無我夢中でやったという感じがしまし

た。本当に楽しく過ごさせていただきました。

<コメント>

川北氏、小川氏のお話から、戦争時代の女専、女学部とともに、戦後再スタート時の授

業、学院の様子がよく分かる。川北氏の話に出てくるスプロールズ先生は、昭和15年に定

年で帰米されたが、戦後来日されたことがあり、このお話はその折の出来事だと思われ

る。なお小川氏のお話に出てくる理事会の料理のエピソードは、学院全体が経済的に厳し

いときではあったが、何とか女専の家政科の器具を買っていただくために皆で奉仕をした

という背景があり、その結果、本部からお金をもらって調理器具や食器を整えることがで

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きた、ということである。

3)柳江智子氏(昭和24年家政科卒)

私は、高等女学部からの進学ですが、小川さんとご一緒の学年でございまして、四年で

卒業させられた学年でございますけれども、東京女子医専に進学いたしまして、一年、そ

ちらのほうに在籍いたしておりました。一度外へ出ておりますので、皆様と一緒に外から

受験して専門学校に入れていただきました。私は昭和21年の四月に専門学校に入れていた

だきましたので、青山学院女子専門学校の一期生ということになります。

今考えますと、在学していた三年間は、私にとって、とても華の時代だったのではない

かと思うのです。というのは、当時、戦後はほかに大して娯楽もございませんでしたし、

本を読もうと思いましても、本が簡単に買えるわけではないんですね。ろくな本もなく、

大体本屋さんがそんなにあったかどうかというくらいの時代でございましたので、焼け

残っていた方が貸してくださるご本を読む。それから、学生生活、学校生活を十分に楽し

むということでいっぱいだったと思います。今思いますと、クラスの皆さん、よく授業に

出席していました。勤勉に授業を聞いて、シーンとして聞いていて、それこそ本当に、そ

れまで勉強できなかった時代が多少あったものですから、もう一生懸命だったと思いま

す。全部、何でも吸収する、どんなことでも教えていただくという態度がいっぱいだった

と思うのです。

先ほど矢野さんが、調理の授業での茶巾絞りのことをおっしゃいましたけど、私ども大

西セチ先生に洋調理を教えていただき、例えばデコレーションケーキをつくるのに、ク

リームとお砂糖がないので、さつまいもを裏ごしして、それを牛乳で伸ばして、絞り袋に

入れてギューッとやってデコレーションケーキをつくったという経験がありました。今思

えば、本当に豊かな学生生活をさせていただいたと思って感謝しております。

もう一つ、私がこの学生生活で感謝したいことは、左近孝枝先生とおっしゃいます聖書

の先生がいらっしゃって、あのときはまだキリスト教学概論などという名前じゃなかった

ような気がするのですけれど、いい聖書の講義をしていただきました。

それと、私どもの学年はちょっと地味な学年だったんですけど、一年上の小川さんの学

年の方々は非常に前向きの派手な、ごめんなさい(笑)、派手と言っちゃ失礼ですけれど、

前向きな積極的な学年だったのですね。それで、その学年にいらして、今、銀座教会にい

らっしゃいます鵜飼栄子さんがYWCAをつくって、その会長となり、それで、YWCA

の活動が盛んになりました。一年下でしたけれども、その活動に寄せていただき、修養会

などもいたしました。そういう意味で、勉強以外のプラス面がとても大きかったと思いま

す。また、系統的にキリスト教学を教えていただいたのは、この専門学校の三年間だった

と今も思っています。

今、現状を申し上げてしまいますけれども、教会の役員になって今年で九年目、神奈川

教区の東湘南地区の地区委員もお引き受けしております。そういう活動が現在、この年に

なってもまだできることの根幹というものを、この三年間でいただいたということは、私

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の一生にとって、もう本当に一番のいただきものだったのではないかなと思います。キリ

スト教主義の学校ということで、青山学院がこれからも本当に一人ひとりに、そのときに

は芽が出なくても、将来的に、そういう芽を持って卒業される方が一人でも多くいらっ

しゃるといいなと思います。

私は、その後、卒業と同時に、助手といいますか、副手といいましょうか、学校へ残し

ていただきまして、ちょうど、専門学校から短期大学へ移行する準備の一年間を学校で過

ごしました。大西先生が、本当に肩を怒らせて、怖い顔をして、準備のために奔走してい

らしたご様子を思い出します。先ほどの話のように、設備を整えるためにお金がない、そ

のために、理事会の食事を作るというような努力も先生がしていらした、そのお姿を間近

に拝見しております。本当に短期大学になれるのかな、なれないのかなと、先生方が大変

心配していらしたご様子、許可がおりたときのそのお喜びの大きかったときのご様子も拝

見しております。現在の短期大学の発展した姿を見るとき、そのころの様子を思い出します。

<コメント>

女子専門学校は再スタート当初から、非常に競争率が高く、またよく勉強したというこ

とが記録されている(英語科14.5倍、国語科2.5倍、家政科7.9倍、家事専修科5.1倍。一

年生の成績も、「点差の開きが極めて小さく、全員が高い水準にあった。」) 。

また柳江氏のお話からは、戦前の様々なレベルでの抑圧的状態から解放されて、キリス

ト教の諸活動が生き生きと展開された様子が窺われる。そして短大設置の状況も垣間見ら

れる。

4)大友鈴子氏(昭和26年家政科卒)

昭和26年、今の専門学校の最終、どんじりでございまして、私どもが卒業した年で、女

子専門学校が廃止になった年です。大友と申します。

私は青森県の弘前で生まれ育ちまして、津軽藩士の末裔です。でも、弘前というところ

は、大変キリスト教が古いところでして、本多庸一先生、阿部義宗先生、それから古田十

郎先生のお父さんの山鹿元次郎先生とか、キリスト教は大変古いんですね。それで、その

山鹿先生がやっていらした保育園で育ちまして、日曜学校はよく参りました。女学校は、

青森県立弘前高等女学校を出ました。私の姉がちょうど弘前女学校、ミッションスクール

の卒業生です。私どもも3年生で終戦になりましたけれど、勤労奉仕で半分も授業をして

いませんし、空襲は一切なかったんですが、弘前でもやっぱりご飯においもやかぼちゃを

混ぜて過ごしました。終戦後、何も勉強していないので、やっぱり勉強したいから、父に

どうしても、上の学校へ行きたいと言いましたら「うん」と言ってくれました。そのころ

の受験は、青森から、急行でも二十時間かかりまして、手すりをわたってトイレに行くよ

うな列車で、厳しい受験でした。

初めて東京へ来ましたら全部焼け野原でして、宮益坂を上がると、青学がそのまま見え

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ていたんです。ポチポチとうちが建っているようなところでした。入学してからは、三年

間、神宮通りにありました救世軍の寮からとことこ都電病院の横を歩きまして、徒歩で学

校に通いました。まだ焼け野原で、寮長の秋元春馨先生が食糧を集めるのに苦労されまし

た。夜になると街灯がなくて、真っ暗で、闇夜のときは鼻をつままれてもわからない。そ

れから、銭湯に行かなくちゃならない。銭湯というのは初めてだったんですけど、みん

な、洗面器を抱えて、長いこと並んだのを思い出します。そういう経験もしましたし、朝

はさつまいも、昼間に学校へ持っていく弁当はご飯が入っているんですけど、おかずはカ

キスルメ、学校へ行くと、偏っちゃって片方にご飯が寄っていました。寮へ帰れば、夜は

すいとんや、トウモロコシの粉を練ったご飯とかでした。寮長先生とまかないをしてくだ

さった方々には感謝です。秋元先生は、救世軍のホームで106歳でご健在です。

授業はAB一緒のクラスで、女学部の三階を借りて行われていました。調理室は下を借

りて、トイレは外にまだバラックで建ててあったトイレしか使えませんでした。お裁縫の

ときは道具を抱えて本部の三階に移動する。一年生のときはそういうふうにして過ごしま

した。大西セチ先生はAB一緒に三年間担任してくだすって、三年間担任したのはあなた

たちだけよと言われるぐらいで、毎年クラス会にもよくお出いただいたんですけど、今年

の元旦にご召天なさいました。本当に大西先生にはお世話になりました。

校舎はできたけど、中のものがないからということで、バザーのために、一生懸命マク

ラメ編みで買物袋をつくったり、ガーゼのハンカチのふちに飾りをつけたり、それから、

調理室で焼きリンゴだ何だとつくって、それでバザーをしました。三年生のとき修学旅行

がありました。まだお米も持たないと行かれない時代に、初めて関西旅行もしましたし、

結構何もない時代でしたけど、楽しかったです。学校はまだ校庭に畑がありまして、山崎

義一先生に畑づくりを教わったりもしました。受験のときは、今のガウチャー・ホールの

ところの格納庫みたいな建物でしたが、天井に穴があいていまして、下に水がたまってい

たんですね。卒業するときにはきちんとした礼拝堂になりまして、そこで卒業いたしまし

た。農大を買収した後でしたので、農大の講堂を使って謝恩会をしたことも思い出です。

5)森山レイ子氏(昭和26年英文科卒)

私も、やはり最後の女子専門学校の英文科を卒業いたしました。今おっしゃられました

ように、渋谷駅近くから青山学院全体がよく見えました。私は、今水道橋にあります新制

桜陰高等学校から、お友達と二人でこの学校へ入学いたしました。そして、このプリント

を見て思ったのですけど、そのときの試験は、試験問題がもうぎっしりと活版刷りして

あって、とても程度が高い試験だった印象でした。その前に日本女子大も受けたものです

から、だいぶ違うなと思いました。私も近くの小石川白山教会、今でも、もう60年間通っ

ておりますけれど、やはり福音同胞教会の米国人の先生がいらして、その先生たちのご様

子を見て、絶対にキリスト教精神の学校に入りたいと思っておりました。

朝八時半に授業が始まります。十時までですが、それがみんな選択科目でした。そのと

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きから五日制になりました。月曜日から金曜日。そして、それから三十分間、もう今はあ

りませんけれど、正門から入ると、本部のちょっと手前の右側に、大きい講堂がありまし

て、そこでみんな一緒に毎日礼拝をいたしました。院長は豊田實先生でした。豊田先生

は、皆さんの中から、ほとんど全部をクリスチャンにしたいということをいつもおっ

しゃっていて、私もそうなったらいいなと思いました。けれど、同級生でも、教会にい

らっしゃったり、クリスチャンになる方は少のうございました。

それから、私が一番印象に残っているのは、学校に入学した日に、校舎に入りました

ら、もう本当に木の香がプンプン香っている新しい校舎で、それがちょうど今の、本部の

左側にあったような気がします。そこでストーブもそろそろ出始めたころですけど、本当

に食料難のころでした。でも、どんぐりというお店があって、そこでさつまいものお汁粉

をいただくのが、とても楽しみでした。皆さんもおっしゃるように、学校はすごく楽しい

日々で、英文科でしたから、少しでも英語を勉強したいと思って、映画が三本立てで四十

円だった渋谷の名画座に、学校の帰りにお友達とよく行きました。

それから、専門学校の場合は、勉強はかなりしました。短大の人は、もう二時ごろにな

ると、バイバイと帰ってしまうんです。私はいつも窓のところから見て、私も帰りたいと

思ったんですけど、教職の免許が取れるというので、私は専門学校に残る決心をしたので

す。私どもは、授業が終わるのが毎日四時半ぐらいでした。それで、二年間でペーパー

バック十冊位は勉強いたしました。かなり高度の、例えばサイラス・マーナとか、ウィ

ル・オブ・ザ・ミルとか、チャールズ・ラムのシェークスピア物語とか、かなり勉強しま

した。でも卒業した後もちゃんと勉強していたら、今ごろよっぽどできたんじゃないかと

思って、今、本当に後悔しております。

それから、源氏物語は中野博雄先生という方でした。それから、音声学が春木猛先生

で、言語学が柴田武先生でした。やはりかなり印象に残るお話を伺いました。そして、気

賀重躬先生に、宗教の時間で聖書を週に1回教えていただきました。それから、私は歌が

大好きで、もともと音楽学校に入りたいなと思っていたくらいですから、K.A.Y.の合唱

団に入りましたが、何しろ奥田耕天先生がすごくおっかなくて、それがすごく印象に残っ

ております。

物もない、洋服や何かもあまりない。それでも、関西に修学旅行に行ったりもしまし

た。学生時代は、本当に希望に満ちた夢多い日々でした。それが私の青山学院時代の印象

でございます。

6)山縣徳子氏(昭和26年国文科卒)

私は、東京生まれの東京育ちなのですけれども、戦争中の空襲や疎開のために、阪神間

と京都を移動しました。京都で女学校を卒業して、昭和22年の12月に東京に帰りましたの

で、三学期は休学して、23年の受験で青山に入れていただきました。

青山に入学した動機といいますと、この前、5月のさゆり会の総会のときに、阿部幸子

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先生が教養教育ということをおっしゃってくださって、とてもうれしくお聞きしたのです

けれども、若いころ、よく周りで、私もそうですけれども、教養がないとか足りないとい

うようなしかられ方をいたしました。そのこともありましたし、また姉妹のうちのだれの

ときでしたか覚えていないんですが、女学校入学のときに、東京都の補導協会の講演会が

青山学院のPS講堂であって、それに行った母が、交通の便もなかなかいいし、環境もと

てもいい学校だから、娘たちは、女学校はみんな公立だったのですが、卒業したら青山の

女専に入れようと決めていたようです。そういうわけで、たまたま関西におりましたの

で、姉たちは神戸女学院に参りましたが、私は東京に戻ったので、青山に入学することが

できました。

それで、入ってみますと、九州から、山陰、四国、甲信、関東一円、東北、北海道ま

で、遠地からのお友達が集まっておられました。先ほど鈴木さんがおっしゃいましたよう

に、諸橋轍次先生、武田祐吉先生、樋口清之先生、能勢朝次先生、柴田武先生など、本当

にご立派な先生方から、三年間、授業を受けることができましたことは、とても幸せなこ

とだったと思っています。お友達の中で、子育てを終えられてから、立命館の大学、大学

院と進まれた方があるのですけれども、面接のときに、これらの先生方のお名前をおっ

しゃっただけで、大変優遇されたというお話をされていましたし、司書の資格を取ろうと

思って勉強された方は、書誌学の川瀬一馬先生に授業を受けたと言っただけで、レポート

を免除されたというようなお話も聞いております(笑)。

私が国文科に進学した理由は、本当は親は家政科に行かせたかったのですけれども、京

都の学校で文学史跡をめぐるグループがありまして、それに入れていただいて、あちこち

とめぐり歩いたのと、それから、その学校にも高等科というのがあって、そこで京都大学

から古典を教えにいらしていた先生の授業の聴講が許されまして、何人かの方と一緒に聞

いた授業がとてもおもしろかったこと。それで、お料理はお手伝いをたくさんして覚える

からという条件と、今は死語になっていると思いますが、職業婦人になってはいけないと

いう条件をつけられまして、国文科に進学いたしました。

クラスの中でも、社会勉強という形で何年かお勤めになられた方もありますけれども、

大抵の方は、家庭に入られた方が多かったと思います。これは、その時代の一般的な状況

ではないかと思います。でも、地方からいらした方というのは、本当に皆さんご優秀で、

本当にエリートでいらして、どこのどなたがどこの学校に進学するというようなことは、

新聞に出たというようなお話も伺っていますが、その方たちの中には、学校の先生として

定年までお勤めになった方や、地方の公務員としてお勤めになった方などいらっしゃいま

す。やっと仕事が終わったからと、最近は遠くからもクラス会に出ていらっしゃるように

なって、いいお友達が与えられ、本当に恵まれて感謝しております。

<コメント>

大友氏、森山氏、山縣氏のお話から、戦後の女子専門学校は、大変な人気があり、試験

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も難しく、また学生の熱意に溢れていたことがよく分かる。戦後の女専時代においては特

に、戦後復興の進展と相まって、一、二年の違いが、大きく雰囲気に影響しているように

思われる。

四 むすびに代えて

第二章において、女専の歴史の基盤にあるのは、ミッション、パッション、柔軟性では

ないか、と述べた。そのようにまとめることが許されるとすれば、これらの思いや姿勢は

学生にどのように受け継がれていると言えるであろうか。卒業生のインタビューから直ち

に受ける印象として、ミッションに基づいたパッション、すなわちキリスト教精神に基づ

いた熱意溢れる教育が、学生に深く浸透し、影響を与えていたことは、明らかである。そ

れでは、柔軟性に関してはどうであろうか。

思うに、本当に展開したいことが妨げられる中で、なお柔軟に新たな方向に向けて道を

切り開いていく、という女専の歴史は、卒業生の人生にもイメージが重なるところがあ

る。特に当時極めて大きかった、女性であることの故に存在した社会的制約を背負いつ

つ、女専に入学してきた卒業生が、インタビューの中でも何人もいらっしゃった。ここで

紹介できなかった田中登喜氏(昭和12年卒)の歩みもそうであった。青山学院の女学部時

代、英語に強い関心を持ち、英文科に進みたかったが、女が勤め人になることに強く反対

していた両親の元では、家政科進学が精一杯であった、ということがインタビューの中で

語られている。しかし女専での学びの中での、教員や学問そのものとの出会いを通して、

柔軟に新たな方向に向けて人生を展開されている姿が、実に印象的であった。

卒業生は女専において、どんな方向に向けても柔軟に人生を展開していくことのできる

力を身に付けていった。それは、単なる技術や知識に留まらない高度なレベルの学問を学

ぶことによって、しかも当該学科の専門科目はもちろんであるが、様々な幅広い領域にわ

たって学ぶことによって、三年間で体得していった力である。女専の先生方は、このよう

な意味での生きる力、柔軟に力強く生きる力を与える教育を通して、学生に対して女専の

エートスを伝授していった。私には、そのように思えるのである。

このように考えていくと、女専の基盤として挙げたパッション、ミッション、柔軟性

は、バラバラに並立するものではなくて、柔軟性を中心に有機的に結び付くものとなる。

パッションは単に熱意に溢れた教育という意味ではない。ミッションは、単にキリスト教

を教えるという意味ではない。柔軟に力強く生きていく力を与えるという教育に向けての

パッション(情熱)でありミッション(女子高等教育への使命感)であった、と理解する

とき、女専が当時の日本社会において、自ら苦闘しながら何を証しようとし、何を学生に

伝えようとしていたのか、その姿が見えてくるのではないだろうか。

最後に、後藤中子氏へのインタビューの中で、興味深かった事柄を一つ挙げておきた

い。それは、女専家政科卒業生は、全員が教員の資格をとるけれども、他の専門学校と比

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較して、教員になった方は恐らく一番少ないだろう、ということである。

青山の女専も、無試験検定許可を受け、昭和8年に家政科をスタートさせたが、実は、

この許可は、以前の英文専門科ではミッションスクールということが大きなネックとなっ

て、受けられなかったものである 。それが、昭和になって得られたのは、国の政策によ

るものであったと言える。銃後を守るためには女子の教育、特に家庭家事に関する教育が

大事である、しかし家庭科教員は女性でなければいけないという考えから、家事(後に家

庭科)教員免許を出す専門学校が、次々とできていった。そういう流れの中で、女専も許

可を得ることができたのである。許可のための試験に向けた教員学生の努力、そしてその

資格をチェックするための四年後の文部省による試験(これを田中登喜氏は受けておられ

る)における努力は、女専にとって貴重なものであった。しかし女専の教育は、国策に盲

目的に追従して銃後を守る女性を育成するというのとは異なるコンセプトに基づいて行わ

れていたことは確かであろう。その一つの現れが、先生になった人数の少なさであるよう

に思われる 。

教員になる人が少なかったのは、学生の多くが比較的裕福な層だったために、資格を生

かす職につく必要はなかった、という読み方も可能ではある。しかし、少なくとも、カリ

キュラムを組む女専側は、資格を与えるためより以上の授業を展開しようという意図を

もっていたと思われる。それ故、実際に教職に就いた卒業生もまた、そのような高い志を

もった授業を通して、例えば田中登喜氏のように、広く深い視野をもち生徒との豊かな人

格的交流をもつことのできる教員となっていく種を植えられていったのではないだろう

か。

以上、女専の卒業生の証言を中心にしつつ、筆者自身が学んだことを付記する形で論述

を進めてきたが、今回掲載できなかったインタビューの残りの部分にも、大変貴重な証言

が含まれている。ごく一部しか文章化できなかったことを残念に思う。しかし、女専の歴

史から「教訓」を得ようと試みる作業は、今後もさらに続いていくものであり、そして今

回のインタビューは、我々が女子高等教育の未来を模索していく上で、非常に重要なヒン

トを与えてくれた。最後になったが、協力してくださった女専卒業生の皆様に心から感謝

申し上げたい。

1)旧教育制度における専門学校として展開された、青山女学院専門科、青山学院女子専門部、

青山学院女子専門学校を総称して、本稿では「女専」と言うこととする。ただし、当然の

ことながら、インタビューをしたのは後二者の卒業生に限られる。

2)この作業においては、加藤悦子元短期大学事務部長に甚大な助力をいただいた。様々な資

料の収集、そして今回行ったインタビューのための女専卒業生との連絡も、一手に引き受

けてくださった。なお本稿に関しても、目を通してご意見をくださるとともに、卒業生の

お話に出てくる人名等の固有名詞の修正、お話の背景の解説などをしてくださった。深く

御礼申し上げたい。

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3)ただし、明治23年(1890年)東京英和女学校職業部、明治26年(1893年)同専門科、明治

32年(1899年)青山女子手芸学校という流れを、青山学院における女子高等教育の源流と

みる見方もありうることを付言しておく。

4)このことに関しては、前之園幸一郎「日本の女子高等教育の歴史における青山学院女子短

期大学の伝統と独自性について」(青山学院女子短期大学総合文化研究所年報2号、1994

年)3頁以下参照。

5)『青山女学院史』(青山さゆり会、1973年)163-178頁。

6)『青山学院女子短期大学の歩み』(青山学院女子短期大学、1975年)16頁。

7)『青山女学院史』183頁。

8)前掲書302-4頁。

9)前掲書380-86頁、406-410頁。

10)前掲書446-48頁。

11)『青山学院女子短期大学の歩み』23-26頁。

12)次の第三章の部分は、草稿段階で、インタビューさせていただいた卒業生あるいはそのご

子息にチェックしていただいた。原稿締切の関係で時間が少ないところ、皆様、入念に修

正を加えてくださり、また原稿に書かれている以外の情報もいろいろとお教えくださった。

手紙のやりとりを通してではあるが、青山学院そして女専への思いがひしひしと伝わって

きた。このようなすばらしい交わりが、インタビュー後も与えられたことは、本当に嬉し

く、ありがたいことであった。

また、後藤中子氏、この座談会に参加できなかった岡秋子氏(昭和16年3月家政科卒)

からは、当時の教科書を拝見する機会を得た。それらに加えて、岡氏には、昭和16年3月

卒と昭和18年9月の家政科卒業アルバム(手作り)も見せていただいた。当時の先生方、

学生、学院の建物や風景の写真が、説明とともに数多く掲載されている貴重な資料である。

いずれも、本稿を作成する上で、大いに参考にさせていただいた。感謝申し上げたい。

13)『青山学院女子短期大学の歩み』24-26頁。

14)『青山女学院史』182頁。

15)この部分は、後藤中子氏インタビューで司会をしてくださった阿部幸子前学長のご発言に

よるところが大きい。

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